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第四編 早稲田大学開校

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第十九章 大学開校以後の体育部

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一 大学開校時の運動会

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 教育の目的は、徳育・知育・体育の総合的な完成にある。我が学苑でも初めからこのために種々の企画がなされてきた。このうち徳育・知育は学校教育の根幹をなすものであるから、専門の分野でそれぞれ行われてきたが、第一巻一〇一五頁以降に記述した如く、体育は運動会の形式で親睦を兼ねて催されたのである。年一回の飛鳥山、向島などで挙行された運動会では、日頃練磨した体力を競争という形で競い合ったのは言うまでもないが、更に仮装行列や演劇を披露し、また酒食を共にして歓を尽した。それは、特定の技を競う以外に、学苑全体が歓を共にする集りであった。それが明治二十八年四月二十日、体育を盛んにして徳義の実践励行を重視するという主旨で、寄宿舎生を中心として早稲田倶楽部が創設されると、撃剣・相撲・庭球・野球の各種目に分れて、各自がその好むところに従って運動を試みることが始められた。こうした傾向は、二十九年十二月二十日(?)の七徳館(七徳堂という説もある)落成を契機として、学苑全体の活動にまで発展し、三十年二月「体育部規則」の制定となり、運動の内容も拡大され、前掲四部門以外に、郊外運動(陸上競技)・器械体操・柔術・弓術が加えられた。しかし、その総合的な成果発表には、依然として運動会が利用されていたものであるらしく、『早稲田大学沿革略』第一によると、明治三十五年四月十三日の条に、

第二十五回春季運動会ヲ八幡下ニ行フ。大隈伯臨場始テ選手競走ヲナシ報知新聞社優勝旗ヲ贈ル。我大学ノ運動競技此ヨリ勃興ス。

と記されており、『早稲田学報』第六七号(明治三十五年四月発行)の「早稲田記事」は、この時の模様を更に詳細に伝えているから、今その要領を摘記しておこう。

 第二十五回春期運動会は四月十三日午前八時から穴八幡神社前の広場で挙行された。この日は天気晴朗で、空には一点の雲もなく、運動場入口には大緑門を作って国旗を交叉し、場内には各国の国旗を装飾して盛観を添え、町内の各戸も一せいに国旗・提燈等を軒頭に掲げて祝意を表した。学生達は早朝から会場に集まり、一般の観客も柵外に蝟集し、その数は数千人に及んだという。戸山学校の音楽隊を招聘したのも、報知新聞社から寄贈された優勝旗が選手の士気を鼓舞したのも、ともにこれが初めてのことであった。午前九時、大優勝旗を捧げた報知新聞社員の入場に始まり、この日のために特に作られた運動会の歌は、音楽隊の伴奏につれて高らかに唱和され、続いて各種競技が相次いで行われた。競技種目は全部で四十二、この中に撃剣仕合や相撲等が含まれていたが、当日の白眉は何と言っても各部対抗のレースで、時事新報社寄贈の銀牌ならびに報知新聞社寄贈の銀盃を賭けた第二分科選手競走と、優勝旗および万朝報社寄贈の金牌を賭けた第一分科選手競走であった。この外、前例に従い、高等予科生の演出になる滑稽劇数番の披露や、寄宿舎生の花見行列、滑稽競走と称する大会委員の仮装行列等が観衆の腹を捩じらせた。当日の盛況について『早稲田学報』記者は次の如く述べ、この記事を結んでいる。

本年の運動会は未曾有の盛会にして、本校設立以来絶てなき大運動会にて、学生の意気込みは敢て言はず。観客の多数なりしことも、市街鉄道の牛込駅に於ける本校参観人の多数なりし為め普通列車に乗りきれずして、貨物列車を使用したるを以ても知るべきなり。尚ほ聞く所によれば、当日は端艇設備の挙もありしとかや。陸上に於て吾人は既に盛んなる運動会を行ひたり。軈て水上に於ても覇を争ふに足る運動会を行ふを得んか。明年の運動会を予想するまた難きにあらざるなり。(三八七頁)

 これまで学苑付近に適当な広場がなかったため、自然と遠足・親睦を兼ねた運動会であったのが、この時を以て漸く隣接する穴八幡前の広場を得て挙行できるようになった。尤もこの広場とて、未だ学苑専属の運動場ではなかった。この陸上大運動会は、以後毎年四月に開催されて学生の最も興味ある行事の一つとなっていき、世間からも「春期陸上運動会中、最も大袈裟なのは早稲田のそれ」(『冒険世界』明治四十一年四月発行第一巻第四号一一五頁)と喧伝されるようになった。他方、早稲田倶楽部が発展的解消を遂げて体育部の設置を見るに及んでも、後に体育部長となった安部磯雄が「其当時に於ける学校の運動部なるものは柔道、剣道、弓道の三つであつて、柔・剣道の道場の如きはトタン葺の小建築に過ぎなかつた」(『青年と理想』二一五頁)と回想していることから察せられる如く、構内の広場はその需要を満たすにはあまりにも狭すぎた。従って各部が練習したり運動会を催したりするためにはぜひとも専用の運動場を設ける必要があった。三十五年七月十二日、早稲田大学開校に際して大隈邸で開かれた社員会および評議員会では、体育部費徴収と運動場新設が協議せられた。それに従って、学苑西北の台地におよそ五千余坪の地を設け、三千余坪を野球場(今日の安部球場)、二千余坪をテニス場等に充てた。これとともに体育部規則も次のように改正された。

早稲田大学体育部規則

第一条 本部の目的は学生に健全なる身体と活潑なる精神を養はしめ、併せて修徳の実行を為さしむるに在り。

第二条 当分本部を分ちて、柔術・撃剣・弓術・野球・庭球・短艇の六部となす。

第三条 学生は随意に其好む所の部を選択することを得。又二つ以上の部を併せ選ぶも妨なし。

第四条 体育部員たらんとするものは、其姓名及び其属すべき部名を記して、各部の委員或は本校の事務所に申出づべし。

第五条 選手の選定に関する規則及び其他詳細の規則は、各部自ら之を定むるものとす。

第六条 各部の連合会を開く場合には、一部毎に二人の代表者を出すべきものとす。

第七条 本部は春期に水上大運動会、秋期に陸上大運動会を開く。

第八条 春秋二期に於ける大運動会にては、政治経済、法律、文学の分科競争を行ふものとす。

第九条 本部の経常費として、本校学生は何人たるに拘はらず、会費として毎年金一円二十銭を納むべし。

但し、其納期は九月より六月迄毎月金十銭宛、七月金二十銭、学費と同時に本校会計課に分納すべし。

第十条 各部にして臨時の費用を要する時は本部の経費中より支出すべしと雖も、平時の出費は各部員更に醵金して之を弁ずべきものとす。 (『早稲田学報』明治三十五年九月発行第七四号 「早稲田記事」四六七―四六八頁)

 これによると、新たに短艇部が加えられて、水上運動会が行われることになった。また、学生は必ずしも何れかの部に所属せねばならぬわけではなかった。しかし、できるだけ全学生がこれに参加することを要求されていたのは、第一条の目的からでも想像がつくであろう。この早稲田大学開校に伴う一連の議決・改正によって、体育部が本格的に活動を開始した。これには、大隈が「大隈伯の体育説」において説いている如く、

智育、徳育、体育の三者は相並行して進まざるべからざるは、今更の問題にあらず。然るに東洋にありては、従来子弟教養の根本を徳育にのみ置き、……近来にありては、泰西の学術を輸入するに当りては、更に一転して、我が国の教育は智育に偏すること著るしきが如し、平衡を得ざるも甚だしと云ふべきなり。先づ体育を根本として、人の人たるの形体を完全にし、而して後道徳訓ふべく、知識導くべきのみ。 (『中学世界』明治四十一年十二月発行第一一巻第一六号 二二三頁)

という、体育を基本として知・情・意を円滑に発達せしむる体育理念が、大きく左右していたものと思われる。

 部長には、市島謙吉の後任者松平康国の後を承けて、三十四年十月安部磯雄が嘱託された後、『早稲田大学沿革略』第一によれば、三十五年大学昇格の際にも安部が高等予科長と兼務した。なお、第一回水上大運動会が開催された三十七年には、第七条・第八条を次の如く改正した。

第七条 本部ハ春期ニ陸上大運動会、秋期ニ水上大運動会ヲ開ク。

第八条春秋二期ニ於ケル大運動会ニテハ、政治経済、法律、文学、商科ノ各分科競争ヲ行フ。

(『早稲田学報』明治三十七年十一月発行第一〇八号 三三頁)

すなわち春と秋を逆にし、各科対抗競争に新設の商科を追加した。

 このように一応規則ができたが、これまでその運営に関して一貫した方針がなかったため、これを協議する機関として体育部に評議員会を設けることとし、三十七年十二月十三日、安部部長の招集により、早稲田学生倶楽部楼上に各部代表二名ずつが集まって第一回の会合を持った。安部は評議員十二名を次の如く任命し、更に左の如く決議した。

柔道部 加藤九三郎 三輪吉太郎 撃剣部 市川博 坂口鎮雄

端艇部 榎本三郎 鈴木治三郎 野球部 橋戸信 押川清

庭球部 河村五美 水谷武雄 弓術部 田島義 北村璋

一 今後各部ヨリ二名ノ委員ヲ出シテ体育部評議員トシ、体育部全体ニ関スル事件ヲ同議員会ニ於テ決議スルコトトス。而テ評議員会ハ毎年二回之ヲ開ク。但シ、場合ニ由リ臨時開会スルコトアルベシ。

一 各部ノ選手ニシテ続ケテ二度落第スルトキハ、其資格ヲ失フ。

一 明年度ニ於ケル各部ノ経費ハ、体育部評議員会ニ於テ之ヲ決議スルモノトス。

一 体育部ニ関スル事務ハ、高等予科事務所ニ於テ之ヲ取扱フ。 (同誌明治三十八年一月発行第一一二号 四九頁)

このうち第二の落第条項が、スポーツによる人格形成を信念とする安部部長の発議に基づいたものであることは、特筆すべきであろう。四十年六月に各部選手の学業成績を調査した結果を安部は『早稲田学報』第一五五号(明治四十一年一月発行)に発表し、大学当局も『第二十六回自明治四十年九月至明治四十一年八月早稲田大学報告』にそれを掲げている(六四―六五頁)。それによると、学生全体の平均点六八・五六に対して、各部選手百二十四人の平均点は六七・四四であり、大学全体の落第者八・一一パーセントに対し、選手の落第者八・〇七パーセントであった。これは運動が学業の妨げになっていないことを立証している。安部は「運動選手の学業成績」において、この数字を根拠として「運動家の学績が或人々の想像せるが如く不良のものでない」ことと、「我国に於ける運動家の学績がこれを泰西の其に比して著しく劣つて居る」こととを指摘しているのである(『中学世界』明治四十一年二月発行第一一巻第二号二八―二九頁)。

 次いで四十三年十二月、一層の発展を期して体育部の制度に改正が行われた。その主な点は、学長が各部の部長を統督して、その整頓および発達を図ることであった。なお、水泳部が当局より承認されて、承認部数は七部となった。この改正体育部規則により、野球部長に安部磯雄が、庭球部長兼野球副部長に高杉滝蔵が、端艇部長に塩沢昌貞が、弓術部長に平沼淑郎が、柔道部長に田原栄が、剣道部長に副島義一が、水泳部長に中村進午が、それぞれ嘱任された。また、各部の経費は学長が配分し、各配分額の枠内でその使途を各部に決めさせるよう定められたが、前記の体育部評議員会が改正規則実施に伴って廃止されたか否かについては、明らかでない。

 このように本学苑が大学開校以来運動に力を入れた結果、「運動の盛な学校である。武骨な人もあると見へる。運動と来たら天下一品だ」(太田英隆『男女学校評判記』二二七頁)と世間に言わしめるほどに名を轟かせた。

 大学自称後の学苑は、陸上運動会については、三十六年四月十九日の「第二十六回春期大運動会」より四十五年四月四日の「第三十五回春期陸上運動会」まで、毎春四月挙行され、呼びものの「分科競走」(各科の選手二名ずつ出走)では、三十六年政、三十七年政・商(同着)、三十八年商、三十九年商、四十年商、四十一年政、四十二年政、四十三年理工(新参加)、四十四年理工、四十五年政が、報知新聞社寄贈の「赤地に錦糸の刺繡を施せし、爛燦たる優勝旗」(『廿五年紀念早稲田大学創業録』一〇三頁)を授与されている。また、水上運動会については、三十七年十月十六日の「第一回秋季水上運動会」より四十四年十月二十二日の「第八回水上運動会」まで、毎秋十月実施され、「分科競漕」においては、三十七年法、三十八年無勝負、四十三年政のほかは、何れも商科の優勝に帰した。なお明治三十九年までは、陸上および水上の両運動会に関しては、それぞれの「収支決算報告」が『早稲田学報』に毎年掲載されている。今、三十九年についてそれを見れば、支出総額は陸上運動会一千二百四十七円五銭五厘、水上運動会六百七十九円四十銭で、体育部が前者に七百五十一円五十五銭五厘を、後者に三百円を支出し、余は大隈家をはじめとする教職員・学生その他よりの寄附金で賄われている。すなわち、学生より徴収する体育部費中の大きな割合が、両運動会に対して毎年投ぜられていたのであった。

 また従来借地であった本学苑の運動場は、四十四年十一月その大部分が福田芳之助ほか二名から購入された。以下、体育各部(その名称は体育部加入当時のものによる)につき、主としてその初期の記録を概観してみよう。なお、体育部規則には記載されていないが、一度は公認された相撲部と、四十三年に公認された競走部にも触れることにする。

二 柔術部

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 明治三十年二月、柔道は東京専門学校の科外訓練として志願者に課せられ、年を閲すに従い剣道とともに盛んになって行った。記録によると、明治三十五年五月四日京都平安神宮で挙行された第七回大日本武徳会に、柔道・剣道合せて三名の選手を派遣したが、この時の柔道部選手は山田敏行、天谷八郎の二名であった(『早稲田学報』明治三十五年五月発行第六八号「早稲田記事」三九八頁)。

 またこの年十一月三十日、柔道大会を丙講堂で開いているが、この記録を載せた「早稲田記事」には、冒頭に「微微として奮はざりし本校柔道部も、先学年来六、七の講道館有段者の入校を迎へてより気運頓に昻揚し、隠然覇を東都の柔道界に唱ふるに至り」とあり、創設以来低迷していたこの部の状況を示唆している。それが東都の柔道界に覇を唱うるようになり、「演武者百余名、観客無慮数百名に上り、流石に広廓なる会場も立錐の地だになかりき」(同誌明治三十五年十二月発行第七八号「早稲田記事」五二四頁)までの盛況を示したという。本会は先ず安部体育部長の開会挨拶に始まり、三本勝負数本があって、講道館師範大野秋太郎、同三段佐竹信四郎の投げの形があり、引続き対外三本勝負で招待各校選手の試合二十番を行った。更に幼年組の乱捕、講道館古式の形、有段者勝負、五人掛勝負などがあり、次の如くそれぞれ賞品を勝者に授与して五時閉会した。

犬養氏寄贈大刀一振 前田栄世 報知社寄贈賞品 筑波行信

高田博士寄贈品 三輪吉太郎 中村博士寄贈品 杉村陽太郎

志賀講師寄贈品 緒方義雄 坪内博士寄贈品 浜田助二

田中幹事寄贈品 真船民中 島田三郎氏寄贈品 篠原恵作

山沢俊夫氏寄贈品 坂本初彦

 なお外部からの参会者は、講道館、東京帝国大学、東京高等師範学校、第一高等学校、東京高等商業学校、東京外国語学校、東京美術学校、慶応義塾、仏教大学、独逸学協会中学、東京高等師範付属中学校、東京府立第一中学校、京北中学校、大成中学校、早稲田中学校の各校であった。以後毎年秋に同規模の大会が開催されたが、本学苑はこの強さを保持して、明治四十年代においても「帝大・慶応と相並らんで三国鼎立の形勢を保つて居るものは早稲田である」(『冒険世界』第一巻第四号一一五頁)と称されるほどであった。

 当部は撃剣部と同様に、設立当初より寒稽古は行われていたようであるが、資料の上では、三十九年からの記録が残っている。四十年を例として挙げると、早実の生徒をも交えて出席者は百五十名に達し、皆勤者も九十余名に及んだ。二月三日の納会には紅白試合を行い、勝者に賞品を授与し、参会者一同に汁粉を振舞って、歓を共にしている。この期の部員数は四百余名で、そのうち有段者は三十余名であった。なお、この部も名称が一定せず、先の三十五年十一月の記事では柔道部となっているが、学校当局は、四十年頃まで柔術部と呼んでいた。

三 撃剣部

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 既述の如く、明治二十八年創設の早稲田倶楽部の遊技種目中には撃剣の一項が含まれていて、これまで寄宿舎生を中心として有志がそれぞれ独自に行って来たものが、この時点で一応組織として認められたことになり、それが三十年二月、東京専門学校の学科外訓練として体育部の規則が設けられると、柔術・弓術とともにその中に包含されて、身体の鍛錬に重要な役割を占める種目となった。

 柔術部の項に明治三十五年大日本武徳会への体育部派遣について記したが、この時の撃剣部選手は藪重郎で、勝利を収めた。また十二月十三日には本年の納会として道場で紅白試合と五本抜・三本抜仕合が行われた。

 なお、年間を通じて他流試合も行われており、例えば、三十六年五月六日京都における大日本武徳会総会では、横溝董一、石本岩三郎両選手が銀賞を獲得し、更に五月二十三日、皇居内静寧館で挙行された皇宮警察署撃剣大会には、藪三郎、横溝董一の二人を選手として派遣し、それぞれ勝利を得て、皇太子殿下御下賜の賞品を受けた。また十一月十五日には、第七回秋期撃剣大会と銘打って、府内有名校九校、道場六の精鋭を集め、本大学の大講堂で雌雄を決せしめている。試合回数六十三番。この予選を経た者は一本勝負の勝抜選を行った結果、横溝董一が徴神堂代表の下坂香苗を破って優勝した。以後、毎秋、学校・道場の剣士を招待して剣道大会が開催された。更に三十八年から高師との対抗試合を開始し、同年春は本学苑の勝利、秋は敗北となった。

 なお当初撃剣部と言われたこの部は、三十八年頃から剣道部と改称されたらしい。因に記録上の初見は、明治三十八年六月発行の『早稲田学報』(第一一八号)である。当時部員の数は三百五十余名であった。

 武道の鍛錬には寒稽古が不可欠であるが、その寒稽古については三十八年を例に挙げておく。一月十八日から二月六日まで毎朝午前五時より七時までこれを行い、参会者一日平均四十八名、うち二十七名が皆勤賞を授与せられたという。この記録には若干の現況報告があり、それによると現在部員四百名であるが、近頃続々入部する者多く、これらのため竹刀数十本を備え付けて稽古の便を計り、また毎日午前八時から午後四時に至る稽古時間中は、師範が出席して教授に当り、会費は一切不要という。

 なお、撃剣部のみならず柔術部の寒稽古を、河岡潮風は「早稲田大学評判記」で、本学苑における「蛮骨団体」の特色が「遺憾なく発揚せられてゐる」(『冒険世界』明治四十一年三月発行第一巻第三号八三頁)と紹介している。

四 弓術部

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 弓術部の歴史は明治三十二年に遡ると言われ、既に体育部が創設された時に、その中の一部として列挙されていたことは、既述の如くである。三十七年四月には運動場の一隅、目白台が見える丘に射的場が新設され、二十一日には「創立以来の盛会」と記録されている大会が開催された。この日は来賓・学生二百余名の参加を得て、午前九時に試射が始められ、普通部員十二射、来賓および名誉部員十二射があり、それより紅白試合を行い、二点差で白軍の勝利に終った。

 三十八年五月二十日の大会は、弓術部卒業生予餞会大競射会と称し、参会三十余名によって競射が行われた。先ず卒業生の尺二的十二射に始まり、一般部員の尺二的十二射に続き、当日の白眉、政・文対商・法の紅白合戦が催された。この時の記録には次の如く記されている。

本校は弓道研究に於て古き歴史を有するにも拘はらず、其弓術部として独立せる一部を見るに至りしは昨春以来のことにして、創立日尚浅きに相違なきも、部員は目下既に二百余名ありて、各学校弓術界に重要視せらるるは、誠に喜ぶべきこと也。此日の成績は技術の一層進歩発達せるを証して余りありき。 (『早稲田学報』第一一八号 六〇頁)

 三十八年九月十六日、弓術部の総会を丸房露に開き、左の諸項を決定した。それによると、

一、部員の部費を全廃し、新入部員は入部の際入部金として金二十銭を納むべき事。但し、前学年度に於て部費二十銭以上の滞納者は此際二十銭を納め、二十銭以下の滞納者は其滞納金額を納むべきものとす。

一、早稲田中学校及同実業学校の生徒に限り、準部員として入部を許可する事。

一、準部員は一ケ年の部費として金三十銭を納付する事。大会其他の会合競射の場合には臨時会費を納むる事。

一、本校学生の体面を保たしむる為め、着袴せずして道場に入り、又は下駄の儘道場内に入るを禁ずる事。

(同誌明治三十八年十月発行第一二四号 七〇頁)

となっている。

 以後、卒業生予餞会の弓術大会と秋期弓術大会が毎年行われた。なお三十九年には、日露戦勝の余勢を駆って武道の興隆が著しかったが、弓道も例外ではなく、八月には新たに運動場の一隅を拡張して、二十七坪の弓術場を建築し、弓術奨励会なるものが十一月一・二・三日と連日開催された。その主旨は、

体を養ひ胆を練り、反求・自省・克己の道を誨ゆるもの、弓術に若くものはなし。惟ふに、戦後の吾帝国は強健・豪胆・温直・正直の士を待つや切なり。玆に於て、我弓術部は天下に率先して、弘く全国に弓士を糾合し、目白台の紅葉翕然として眉宇に鍾り風清く気鮮かなる本道場に於て、弓術奨励会を開催し、戦勝の余威をして弥其の光を輝かしめんことを期す。

(同誌明治三十九年十二月発行第一四二号 六五頁)

ことにあった。奨励会三日間を通じ、各一日尺二十二圏的二十射を以て勝負を争い、その結果第一日目は得点数五十八点で高野健介が一等者となり、時事新報金牌を得、第二日目も同じく六十三点の好成績で高野が万朝報賞牌を、第三日目は大森源吉が六十九点を獲得して朝日新聞社メダルを与えられた。なおこの年には、対校競技の気運が醸成し、十一月十一日には帝大軍とその弓術道場で戦っている。この時は不幸我が軍に利あらず完敗し、十一月十七日には早慶戦が行われることになっていたが、野球決勝戦が中止された余波を受けて、慶応の申入れで延期している。

 この部も寒稽古を行っていることが、『早稲田学報』第一七〇号(明治四十二年四月発行)の記事から分る(一六頁)。なお、部員は四十五年時点で二百余名であった。

五 野球部

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 野球は我が国におけるスポーツの華であり、且つ一時期の早稲田大学の興隆に貢献したところが少くない。大学の歴史と運命とがこれに係わっていたと言う者さえあるほどである。また野球の今日の盛況を招いたのは、我が大学の貢献最も多きにあると言っても必ずしも過言ではなかろう。尤も、あらゆる可能性を想定してルールができており、最上に合理的・科学的・数学的でありながら、いわゆるツキに支配せられて予想外の展開を見、強き者必ずしも勝者たらず、弱き者また敗者と決まっていないところが、まさにスリルと興味満点の競技であるが、初期の蛮風早稲田とは肌の合わぬハイカラさがあるので、これを始めたのは他の学校よりいささか遅い。

 日清戦争頃の校内文献に、時々「ベース、ボール」の文字が見えるが、携わった者のメンバーも、試合の様子も、況んやイニングの記録などに至っては全く残っていないので、どのくらいな程度に行われたのか想像のつけようがない。当時は皮革の白球が珍しく、それの投受(今のキャッチボール)をしただけでもベースボールをしたと称した例があるので、その程度のものではなかったかとも思われる。

 しかし、三十年代に入ると「東京専門学校体育部規則」の中には野球が包含されていて、押川方存(春浪)の主唱の下にできた野球部は一応態を備えていた。しかし未だ幼稚で、対戦する相手は大抵早稲田中学でありながら、整備した練習に鍛えられてくる彼らにいつもひねられたことが、右の押川の回想に見える。明治三十四年、高等予科が大学部高等予科として出発するとともに、早稲田キャンパスの景観は一変し、往日の弊衣破袴の書生型が減少し、金ボタンの中学出身者に圧倒されるかの観を呈するに至った。これを喜んだのは安部体育部長で、中学生は野球の経験者が多いから、その中から選抜して整備したチームを作る希望を抱き、ここに正式の部として発足した。

 当時の市内中等野球界では、郁文館中学と青山学院が二強豪で、郁文館は大橋武太郎・押川清(春浪の弟)のバッテリー、青山学院は橋戸信投手に新たに入学した神戸一中の名捕手泉谷祐勝を加えたバッテリーで、共に二度一高を破って、球界注目の焦点であった。この四強が前後して早稲田に入って来たのは、野球部の全く聞えておらぬ早稲田だから、それが目当てでなく、やはり高等予科というのが魅力だったのに違いない。そもそも早稲田の野球史は、三十四年正式に次の八人から発足する。すなわち、麻布中学から入って来た丸山二郎が投手で、大橋が捕手でキャプテン、一塁は青山学院出の西尾牧太郎という混血児、遊撃は水戸中学出の鈴木豊、残るポジションは同じく水戸中学出の鈴木浩之、明治学院出の河端広益、同じく清水春雄、盛岡中学出の弓館芳夫が代りあって務めた。これでは一人足りないが、それは臨時に仲間に加わって来る者で補った。予科第一回生が夏休みを終って再び集まると、十一月三日彼らは正式にチームの結成を行った。そして今まで早稲田中学とばかり試合をしているのに対し、強豪の中では一番「おッかな味」の少い学習院に試合を申し込んでみたところ、「石馬風に嘶く、笑って応ぜん」と言って、快く相手になってくれ、十日に試合を行うことが決まった。

 他校と試合するにはユニフォームを揃えなければ礼を失するので、六十銭ずつ出しあって初めて調製した。弓館が「白の葛城、平打紐、編上げ」と書き残しているが、地下足袋などを履いた、今日の眼からは奇妙な格好であった。出陣の報告に、その新調のユニフォームの揃いで安部部長のところへ報告に行くと、「もし勝ったら私が褒美を出しましょう。西洋料理を御馳走します」と約束した。

 結果ははなはだ意外にも十三対十で逆転勝ちしたので、翌日さっそく学生控所にそれを貼り出した。「我が野球団は学習院に挑戦し、華冑の貴公子を鎧袖一触、紛砕し終んぬ。スコア左の如し。」スコアと言って何を意味するのか知らぬ学生も多くあり、また野球を心得ている者も、「この早稲田にもチームができていたんか。ちっとも知らなかったなあ」というほど、まだ野球部は認められざる存在だった。さっそく安部部長は西洋料理の約を果してくれることになったが、早稲田界隈にはまだそんな洒落たものはなく、神楽坂まで歩いて、そこに一軒あった明進軒に入って、田舎者の多いこの勝利者達は初物に七十五日生き延びる思いをした。

 明治三十五年の四月から、後年学生野球史に不朽の名を残す橋戸・押川・泉谷が新チームの三本柱となり、実にこの時から早稲田野球部の基礎が固まったのである。折から駒場の農科大学の挑戦を受けた。実は駒場は、日本最初の社会人チームなる新橋の駅員で組織している新橋倶楽部のコーチを受け、一高のまだ台頭せぬ明治十年代の終りには、天下の覇者であった。そこから挑戦状を受けるだけになったのは、もう早稲田チームもまんざら「無」ではない。必勝を期して乗り込んだのに、この斜陽チームに軽くひねられた。それと言うのも定まった球場がなく、平常は穴八幡前の空地その他を転々している始末なので、落ち着いて練習できない。そこで安部はある日、大隈を訪ねて、野球グラウンドを一つ心配してほしいと申し込んだが、大隈には野球がどんな遊びだかよく分っておらず、気の乗らない返事をするので、安部は取り付く島がなく、すごすご引き取った。しかし、何とかして説得したいと考えている中に、素晴らしいインスピレーションが閃いた。それは国際試合である。

 世界平和と言い、国際親善と言い、話がユートピア的で、俗な言葉で言えば大きな法螺の性質を帯びてくるほど、大隈は釣られて乗り出すアキレス腱を持っている。地味で誠実な安部の話も、大隈の頭に入ると蜃気楼化して、彼は遂にその説得に応じ、数千坪のグラウンド敷地の入手を承引してくれた。候補地は三つあり、第一は埋め立て中の田圃だったが、別に使用の考えがあるとて持主から断られ、第二の穴八幡下の空地は、これまでも無断で使用していた経験から狭すぎる。球がすぐ川に飛び込んで紛失するのも感心できない。そこで第三の学校わきの麦畠――ここは三人の地主の所有であったが、今までも学生が麦を踏みつけて閉口したのに、そこを運動場に貸せば、手ぶらで遊んでいても地代が入るといううまい話に、三人は一も二もなく承諾してくれた。

 この相談がまとまると、安部は選手一同を現場に連れて行き、麦秋の実りを刈り取ったらすぐ整地にかかり、秋からは使用できるようにするから大いに頑張ってもらわねばならないと言って、更に一段と声を強めた。「実はこの運動場の話以外に、も一つ諸君を喜ばす朗報がある。今の三強チーム(一高・慶応・学習院)をみんな負かして日本一の強チームになったら、アメリカ遠征をさせてあげます。あちらの大学と国際試合をやるんです。」

 このグラウンドが完成した翌年の三十六年十月十日、横浜外人の組織するアマチュア倶楽部と対戦し、九対七で勝った。橋戸の傍らに副将として重きをなした押川清の思い出「吾れ等の歩み」に言う。

当時の横浜外人団と云ふのは一高の唯一なる好敵手であつたもので、とても勝てないだらう、どこまで喰ひ下がれるかがむしろ吾等の興味であつたに係はらず、予想外にも大勝を博したので、そのうれしさと云ふものは譬へるにものなく、自分たちの技倆も万更捨てたものではないぞと自信がつき、「今度はひとつ慶応と試合をしてみようではないか」と云ふ様なことになつ〔た。〕 (広津和郎・押川清・桜井弥一郎『早慶野球年史』 九八頁)

満天下の血を躍らせた早慶戦の、そもそもの発端はこうして開ける。もとより慶応は、大学歴としても、野球部創設史としても、早稲田の大先輩だから、ひとつ礼を尽して申し込んでみることになった。幸い橋戸は中学時代、慶応のグラウンドで一緒に練習させてもらったことがあり、その主将宮原清は一高の中野武二(老鉄山、中野武営の子)と並ぶ球界の名二塁手で、重厚の人格と人を統御する才を以て慶応野球部を天下の強豪たらしめた主力である。

 橋戸は泉谷を連れて慶応に宮原を訪ねると、練習中だからちょっと待ってくれと言う。泥まみれになって来ることを期待した目の前に、シャワーを浴びて汚れを一洗し、さっぱりとした身なりで、出身校上田中学の後輩桜非弥一郎を連れて出て来た。慶応の学生ホールに迎えられ、ミルク入りの紅茶とケーキが出されたのには、二人とも目を見張った。早稲田には勿論シャワーの設備もないし学生ホールもないのだから、紅茶も出せない。野球ばかりでなく、万事に亘り数日の長があるなと、そぞろに敬意を表さざるを得なかった。

 まだ要件も聞き出さないのに、橋戸と桜井も、やあ君でしたかと、お互いに認識しあった。というのは、当時は娘義太夫の全盛時代で、そのファンを「堂摺連」と言ったが、桜井も橋戸もその一人で、お互いに顔だけはよく見知っていたのだ。そんなことから話は四角ばらず談笑のうちに決まったものの、慶応はさすがに格式ができていて、評議会を通さねばならぬから、暫く待ってくれとのことだった。しかしその評議会では議論沸騰し、先ず早稲田の野球団は学校の公認したものだろうかとの疑問があり、「安部磯雄が部長で、横浜外人も破っている実績があるから、モグリではない」と宮原が答え、結局早稲田から申し込んで来れば応じてもいいということに落ち着いた。

 そこで高浜徳一から同じ神戸出身の泉谷への書簡の形で次のような返事が送られた。

拝啓。秋期相催し候所、益大に御練習之御事と推察いたし候。

依而貴校と当校とは是非共マツチを致す可き者と、啻に門外漢之風評のみならず、当方の弥次連も非常に希望致し居り候様子に御座候へ共、兎角申込云々の角立ちたること有之候為め、幹事の内にも之に決しかね居る向も有之候様子とすれば、此際御校にて御申込相成候はば直に成立可致候。此頃は丁度よき時節に候へば、此期をはずしては正に互方に此後益々都合悪しく相成申可く候と存ぜられ候。小生などは貴兄の対手となるなとの変んな者と存し居り候へ共、然し仕合は是非いたし度心掛居り候。御校之御様子は如何にや。双方議熟して戦ふと云ふ風至極おもしろしと存候。御校さへよろしく候へば、当方は小生より申出で、幹事連へも勧告致し見る覚悟に候間、御一報煩し度候。先は右迄、如斯に御座候。 敬具

十一月八日夜八時半 高浜徳一

泉谷祐勝様 机下へ (財団法人野球体育博物館所蔵)

 実はこの書簡に先立って、本学苑から左の対抗試合を申し入れる書簡が慶応義塾へ出されていた。

拝啓仕候。陳ば貴部益々御隆盛之段、斯道の為め奉賀候。弊部依然として不振、従ふて選手皆幼稚を免れず候に就ては、近日の中御教示にあづかり、以て大に学ぶ所あらば素志此上も無之候。

貴部の御都合は如何に候ふべき哉。勝手ながら大至急御返翰被下度、御承知の上は委員を指し向け、グラウンド、審判官の事など万々打合せ仕るべく、此段得貴意候也。

十一月五日 早稲田大学野球部委員拝

慶応義塾野球部委員御中 (『慶応義塾百年史』中巻(前)四二六―四二七頁)

これら二通の書簡の間には少々食い合わないところがあるが、実質的には公的挑戦状だから、このように紋切り型なのである。

 いよいよ試合の日は十一月二十一日(明治三十六年)、グラウンドは三田綱町の慶応球場と決まった。早稲田ではせっかく新球場を作ったのだから、その初試合をグラウンド開きにしたい気持があったが、初冬の霜柱がひどく、まだスパイク・シューズがなくて、地下足袋を履いている足の裏から寒冷の気がしみ込むので、そんな場所へこの先輩校を招くのは失礼と、招待を遠慮したのである。新聞が試合を予告・予想したので、かなりの観客が集まった。

実に満都野球界の注目して私立学校の模範試合となす所なりし。左ればにや各学校より見物人約数千と註せられ、非常なる盛会なりし。 (『時事新報』明治三十六年十一月二十二日号)

その日の景況を報じた新聞記事である。

 一高の黒田昌恵投手が晴れの審判を務め、午後一時半開始。戦況は、慶応が幸先良く二回に二点を入れたが、その裏早稲田は五点を返し、慶応ナインを「これは手強い」と、また観衆には「早稲田はなかなかやるわい」と思わせた。その後、両軍着実に点を重ねつつ八回の表を迎え慶応は反撃に出て、一挙に四点をもぎ取り逆転した。しかしそこは早稲田、最終回渾身の力を振り絞って疲れの出て来た桜井に立ち向ったが、遂に力及ばず、一点を入れるに止まり、

早慶第一回戦スコア)

記念すべき早慶第一回戦は惜敗した。因にこの時のスコアを『野球年報』(明治三十七年版第三号四七頁)と広津和郎・押川清・桜井弥一郎『早慶野球年史』(五頁)より転載して、右に掲げておく。

 二月八日(明治三十七年)、久しく東亜に垂れた密雲は崩れて日露戦争勃発。野球など慎しまねばならぬところだが、里の女達が戸塚グラウンド(これが旧名称)の堤に出かけて、土筆や嫁菜をつんでいるのを見ると、選手達は言った。「先生、僕たちも野球をやっちゃいけませんか」「そうですなあ。ま、あんまり目立たぬようにやる分には差支えないでしょう」との返事。

 その頃、安部の耳に一つの吉報が入った。早稲田中学で学んでいる一生徒が日曜日に聖書学院の日曜学校に通っているが、そこで教える西洋人の若い先生から午後になるとノックを受けているという噂を、その母親から聞いたのである。安部も牧師だから職業がら手を回してさぐってみると、それはメリーフィールドという名で、シカゴ大学の野球選手だったことが分った。シカゴ大学ならスポールディングの『野球案内』にも載っているその道の有名校である。そこの選手だったとすれば相当の腕を持っているに違いないと考えて、安部はコーチ就任を懇請し、遂に説得に成功した。

彼は野球選手として優秀なる技倆を有して居るのみでなく、端麗なる容姿と温厚なる人格の持主であつた。然し彼が一たびコーチとして運動場に立つや、恰も万軍を叱咜する勇将の趣きがあつた。烈風砂塵を捲くが如き時にも、彼は平然として高くボールを打上げ、選手に息つく暇も与へなかつた。私は幾度ヒヤヒヤ思つたかも知れない。 (『青年と理想』 二八九頁)

とは安部の思い出話であるが、厳正で学生の躾をいやしくもせぬ安部が舌を巻いているのだから、その激しさが思いやられる。選手達は内心では音をあげていても、アメリカ人如きのノックにへばったとあっては「校辱」だと考えて、歯を食いしばるようにしてよく耐えた。

 彼の教えることには、従来の日本野球技術にない点が多かったが、これが奇蹟を産んだのである。早稲田野球には今までにない神経が通じた。いや、日本野球全体が新段階に入る端をなしたと言ってもいい。さすがにメリーフィールドは投手出だから、すぐに河野安通志(のち学苑講師)の特性を認め、彼をして日本一の大投手たらしめたのも、大きな功である。その年の野球幕開きの一高の紅白試合に、各校の代表選手が二人ずつ参加した中に、早稲田選手の活躍が目覚しかったので、門戸を高くして容易に本式試合の相手にはならぬ一高が、向うから相手になってやろうと申し出てくれた。そして早稲田は六月一日向陵に乗り込んで、点を取りつ取られつの激しい打撃戦で、遂に九対六で王者を屈伏せしめたのである。

 早稲田が一高を破った翌日、慶応も好ゲームを演じて、最終回桜井弥一郎の歴史的本塁打によって十一対十で勝ち、また一高に土がついた。かくして明治二十年代初頭以来、久しく天下一を誇った一高も覇者交代の時期が来て、実に明治三十七年、時も時、日露戦争の始まった年を以て早慶に王者の地位を譲ることになったのである。

 さればその後に行われる早慶戦こそは新しく日本一を決める大ゲームとして、満都好球家の血を湧かせた。すなわち、六月四日、三田綱町グラウンドで戦い、十三対七で今度は早稲田が快勝した。戦ってみて確かに慶応よりも自分らの力が強いという実感が皆の胸に湧いた。

 七月二十日には学習院と戦った。この日貴公子軍は善戦・巧闘し、九回を終って二対二、延長十二回に早稲田が一点を入れて辛勝した。これで早稲田は一高、慶応、学習院の三強豪を破り、更に横浜外人チームにも勝っていたから、まさに日本一となった。いよいよ安部部長宿願のアメリカ遠征、国際試合の実現だ。全国都鄙の小学校で、師範学校出の若きスポーツ好きの先生のいる所では、黒板に図を描いて野球を説明し、「日本では早稲田大学が一番強く、いよいよアメリカ行きが決定した」と教えて、早稲田大学の名が末端の小学生にまで伝わって「たいした学校だなあ」という認識を持たれたのは、この時からである。

 いよいよ外征の途につく直前の翌年三月、慶応の申入れで送別試合を行ったが、今度は一敗を喫して、彼らは溜飲を下げ、こちらは器量を下げた。アメリカ遠征のことは、既に第八章で取り扱ったので、ここに繰り返さない。

 夏アメリカから帰還し、秋風都門に入る十月、慶応野球部の方から通牒があった。曰く秋の定期戦は第一戦を十月二十八日と決める。球場の交代の申合せにより、今度は戸塚グラウンドを用いること。グラウンドは漸く整備して客軍を迎えられるだけになったので、その第一番客は実に慶応ということになる。都下の新聞は書き立て煽り立てた。今まで野球記事を載せるのは学生新聞の『万朝報』、慶応の御用紙の『時事新報』、早稲田の御用紙の『報知新聞』の三紙に止まったが、ここに至ると天下のニュースになって、どの大新聞も練習を見に記者を派遣し、それから予想を立てている。これは、早稲田遠征の留守中に慶応も猛練習を怠らず、秋期運動会の前後数日グラウンドが使用できない時も、横浜外人のグラウンドを借りて練習を積んだ意気込みの盛んなのに、勝敗の予想のつけ難かったことを語るものである。

 早稲田帰国の第一回早慶戦は、慶応が洋行帰りの鼻を明かしてくれようと夏中合宿して猛練習をしたのに反し、早稲田は外遊の疲れを医するため、各自田舎に四散して練習をしなかったために、早稲田はまことに無様な敗北を喫した。世は早稲田の腑甲斐なさを冷笑した。しかし具眼の士は、早稲田のもたらし帰った洋行土産によって、日本野球に新世紀の来たことを知った。しかしどんなに新知識・新技術をもたらしても、勝負に負けとあっては意味がない。第二回は十一月八日で、間が十一日ある。早稲田はその間に捨て身になって練習を積んだ。第二回戦も見物山の如き中に両軍対戦し、善戦好防八回を終って零対零、九回に至って早は一点をあげ慶は零――一対零で勝ったのである。

 いよいよ最後の決戦! 世はこれを「関ヶ原なり、ウォターローなり」と形容した。寄宿舎生橘静二(のち高田学長秘書)と他の一人は学生間にカンパを起し、金十三円余を得て、鶏卵と林檎と平野水を買って陣中見舞とした。また安部部長は「応援は整然とやりたまえ、幸い良い物がある」と言って、WUと白く染め出した三角の海老茶の小旗百五十旒を与えた。実はシアトルで試合した時、在留邦人がわざわざこの小旗を作って応援してくれ、後で記念に寄贈したのである。「これを手に手に打ち振って、カレッジ・エールを唱えて、敵の胆を奪うのです」と安部教授は教えてくれた。カレッジ・エールはアメリカで見てきたから大体は分っている。「フレー、フレー、ワセダ。フレー、フレー、ワセダ」と繰り返して唱えるのだが、誰か音頭取りがなくてはいけない。「いや、それなら、僕と早稲田中学で同級だった奴に持ってこいの適格者がいる」と山脇捕手が連れてきたのは吉岡信敬。明治から大正に亘る学生界に吉岡将軍の名で聞えた崎人である。「吉岡将軍の一喝!」と言えば、全都泣く子も黙るほどの威厳があったものだ。そこで山田美妙の軍歌「敵は幾万ありとても」の歌詞で応援歌を歌って、それから「ワセダー、ワセダー」と連呼することにした。相馬御風作の校歌に坪内逍遙が加朱してワセダ、ワセダのリフレインをつけたのは、恐らくこれから思いついたのであろう。

 十二日に挙行された決勝戦は九回にして一対一、「勝負のつくまでやろうじゃないか」と話し合って、遂に十一回に至り早稲田二、慶応一。この後、早稲田では恒例によって茶菓を用意したが、慶応選手は更衣室からなかなか出てこない。どうしているのかと見にやったら、片隅に固まって、男泣きにしゃくり上げているのであった。この報告に安部部長は、「え、泣いているんですか」と、背筋に寒いようなものを感じた。勝つも負くるもプレイ(遊戯)である。恨みが後に残るようなことがあってはならぬと考えていた安部部長は、漠然と不吉なものを感じ、何とかしなくてはならぬと思った。時任主将が「この次は、きっと勝とう」と励まし合って、漸く茶菓の席に着いたが、いつもと違い、何となく座が白けてしまった。

 この年前後から、新聞は用語を簡略にするため、「早大」とか「早軍」とかの語を用い始め、それから早大の略称が生れる基になる。

 明治三十九年の新春は、日露戦争戦勝の第一春として諸事更新の色を帯び、特に野球界には、前年の歴史を顧み、早稲田のアメリカからもたらし帰った新知識、新技術により、一新時期を画するとして意義づける者があった。『中学世界』の新春特大号の載せた「野球術の一大発展」なる論文は、好球家の注目を惹いた。

早稲田の選手、一度海を渡りて、野球の廻向院に入り、連戦連敗、二十六回のゲーム中、勝を制する事僅かに七回に過ぎざりしと雖、都下幾千の野球児は、鶴首して彼等の帰朝を待ち焦れ、一日も早く其活動を見て、所謂米国流の試合なるものを含味せんと望みたりき。 (『中学世界』明治三十九年一月発行第九巻第一号 二一二頁)

そして、従来の「荒唐の野球術」は一変して科学的な、頭脳のゲームとなり、一大革新が行われたと、種々例を挙げて論じている。

 秋の到来とともに十月二十八日、今年の第一回戦は早稲田球場に施行、一対二の接戦で慶応が例により先勝した。国木田独歩編集の『新古文林』は文学雑誌のくせに運動界記事を載せること詳しいが、夏木青々の「早慶野球大競技」にはその場の実状がこう報ぜられている。

早稲田の応援長、橘は、何と思つたか、お目出度う!をやりに行く。続いて吉岡も行く。吉岡は胴上げにされる。……和気洋洋、何れが勝ち、何れが敗けか分らなく成つた。 (『新古文林』明治三十九年十二月発行第二巻第一四号 一四六頁)

両軍の親睦はかくの如き状態だったのである。ここまでは双方上出来で、さすがは二大校の名を辱しめぬ。しかしその次がいけなかった。狂喜した慶応応援団の心なき一部が大隈邸前で立ち止まって慶応の万歳を三唱し、更に早稲田大学正門前でこれを繰り返した。しかも第二回戦十一月三日の天長節の三田綱町グラウンドで行われた時には、両軍の柔道部・剣道部が稽古着のままひしひしと詰めかけ、戦わざるに殺気、満場を圧した。結果は三対零で早稲田の復讐は成った。応援団は安部部長の日頃の教えも守るに由なく、第一回の仕返しに福沢邸と校門前で万歳を三唱して溜飲を下げた。第三回戦は十一月十一日と決まり、「早稲田に新武器バントあり。これを心得ざる慶応は到底勝算なかるべし」と慶応に悲観的記事を掲げたほど、早稲田のバント戦法は有効であった。勝利の意気に燃える早稲田は引き上ぐるに際し、勝利投手河野の首には花輪をかけて先頭に立ち、選手がそれにつき添い、応援団は四列縦隊を組んで濶歩し、戸塚では街々が初めて各戸国旗と提燈を軒に掲げて戦勝を慶祝して迎えた。

 一勝一敗の後を承けて、満都の好球家は、来たるべき決勝戦の予想で持ち切っている。恐らくこれほど前景気の盛んだった試合は我がスポーツ史上空前絶後であろう。ある日、慶応の青木徹二教授が、早稲田の高田学監と安部部長を訪ねて、「学生の熱狂、度を超え、不祥の事態を起すのが心配だから、お互いに取締りを厳重にしよう」と申し入れ、こちらも大賛成であった。

 続いて試合の前日の十一月十日、慶応の鎌田栄吉塾長は大隈邸と安部部長を訪ね、「明日の雲行きが心配だから、今度だけは見合せた方がよかろうと思う」との相談を持ちかけて、なかなか後へ引かないので、やむなく安部部長も同意し、突如として中止を全都に発表した。その積りでは、中止しても数日のことで、すぐ機を見て継続されるものと解していたが、それが結んで解けざること二十年に及ぼうとは、夢にも思いがけなかった。この中止事件が永びくにつれて、社会では「啻に両大学間の問題のみではない。日本学生界全部の栄辱問題である」(『冒険世界』明治四十二年十月発行第二巻第一二号一二七頁)と、広い視野の下に早慶戦復活を望んだ。

 かくして最高頂に沸騰したところで中絶した早慶戦は、壮大なオーケストラを半ばで立ち切った如く、大気の響動はいつまでもやまなかった。橋戸のあと押川が主将たるに及び、慶応の桜井主将に申し入れて懇談しても打開の道なく、世は早慶以外の第三チームとの対戦で「早慶の力量」を比較した。

 四十年、河野・押川・森本の主力が卒業後研究科に留まって約半年間試合に出場し、四十一年に水戸に名だたる豪球投手大非斉を迎えたが、一高と戦って、接戦十一回のすえ二対三で惜敗。三十七年以来実に四年ぶりの敗戦である。慶応が戦わぬ今となっては、この対一高戦が天下の興味を湧き立たせた。この秋ワシントン大学を招聘。一戦は二対四。二戦は六対三で雪辱。三戦は一対四で敗。四戦は延長十五回の大接戦の後三対五で惜敗。しかるに慶応は一回戦二対一、二回戦十四対三、三回戦は三対二で全勝。いよいよ慶応優勢の評が立った。しかしこれは、招聘チームの早稲田には礼儀として全力を尽して好ゲームを演じたが、慶応に対しては、連日の疲労もあり、幾らか手を抜いた嫌いはなかったか。なお四十年三月より四十三年一月まで、安部は体育部長専任、野球部長には高杉滝蔵が嘱任されている。

 明治四十二年、早稲田は昨年に続いて一高に再敗。この四月新装羽田球場の開幕は東京クラブと慶応現役の対戦であった。東京クラブというのは、早・慶・一高・学習院の旧選手によって組織されたが、この日、東京クラブは、大井・山脇のバッテリー、一塁押川、三塁獅子内、遊撃伊勢田剛、左翼田部信秀と何れも早稲田の球史に盛名を留めている第一流のOBと現役の強豪で主力を固め、慶応は現役軍で戦うのだから、さながら早慶戦というのが人気を呼び、観衆一万。接戦のすえ東京クラブが三対一で勝ち、やっぱり早稲田強しの声があがった。

 四十三年、既述の如く、安部が野球部長に復帰し、高杉は同副部長に就いた。この年、早慶ともに一高を破る。六月、早稲田はハワイ遠征を行い二十五戦、十二勝十二敗一引分。帰国後シカゴ大学を招いて三戦全敗。この外客を伴うて関西に行ってまた敗北。帰途三高と戦うて敗れ、愛知一中はその頃から東海の強チームとして聞えてはいたものの、これと一対一の引分試合をして帰京する醜態に、大学学内および先輩から改革問題が叫ばれ、十一月、飛田忠順(穂州)・小川重吉・松田捨吉・伊勢田剛の四豪選手が責を負うて退部するという、野球部設置以来の大変動が起った。

 この十一月明治大学が野球部新設。早稲田では、どこか第三チームが起って強くなれば早慶戦を恋しがることが無意味になるだろうと言って、それを待望していた矢先だから、明治のこの挙を心から歓迎した。早稲田の沈滞時代だったので、明治は当然全盛の慶応からコーチを受けた。しかしその後次第に早稲田に接近し、チーム・カラーも早稲田に近い素剛さを帯びて、慶応の都会的で垢抜けのしたのには似なかった。

 四十四年三月、早稲田はシカゴ大学の招待で渡米、八月に帰国したが十七勝三十六敗。他方、野球部先輩の友交機関である稲門倶楽部は四十二年に誕生していたが、慶応野球部先輩の間にもこの年三田倶楽部が結成され、もつれた縒りを戻す緒として、OBに現役を交えた稲門・三田戦を挙行したいとの議がまとまり、十月から十一月にかけて戸塚球場で試合が行われた。これは早慶戦復活の兆として満都の人気を呼び、三戦して二敗一引分け。――かく慶応が優勢の絶頂にある時こそ、早慶戦の復活を申し入れる好チャンスとして交渉に入ったが、慶応の鎖した扉は依然として固く、頑として動く様子がない。早稲田としてはこれで早慶戦は永久廃絶として、十二月十九日天下に決議書を公表して、慶応と絶縁した。これで、早慶戦中止が公然と表沙汰になったので、もう復旧の望みは全くなくなった。

 明治最終年の四十五年一月はマニラ遠征、二勝三敗の記録を残した。この頃は今と違ってマニラの水準は日本よりやや高かった。かくしてさまざまな話柄を残しながら明治時代は終る。

 文部省の嫌悪、干渉或いは弾圧とは裏腹に、野球熱はいよいよ一般社会に向っても広く波及し、いろいろなチームが誕生して、早稲田にコーチを頼んできた。陸軍戸山学校にチームが作られて、大村隆行主将がコーチとなった。また麻布第三連隊にもチームができて早稲田の学生と戦い、一、二点の些細な点はどうでもいいと言って意に介しない大雑把さには観衆みんな驚かされた。大相撲チームも非公式に教えを乞いに来た。そのくらいだから、中学がコーチを依頼して来ることは前々からで、次第に全国の野球部は早慶に色分けされてくる状態にあり、大学では、同志社、関西学院、関西大学などが親類筋であった。

六 庭球部

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 庭球部の歴史も相当に古い。既に寄宿舎生を中心として結成された早稲田倶楽部では、撃剣・相撲・野球とともに庭球(軟式)が実施されていたが、三十六年十月になると、二面のコートを与えられて、安部磯雄の指導の下に本格的な部として発足し、先ず、高師コートにおいて高師と手合せを行い、敗退を見ている(福田雅之助・八十川武雄・井上昶編『早稲田大学庭球部五十周年誌』三―四頁)。

 三十七年四月四日に、慶応・学習院・東京高等工業学校・高師・台湾協会専門学校・美術学校を招いて連合試合を運動場に開催し、雌雄を決したが、我が軍利あらず勝を敵に譲り、また五月には高商に赴いて敗北したが、同月高師コートにて高師に初勝利を獲得した。なお試合には野球部の橋戸が出場している。しかし、秋期の十月二日の高商、九日の高師に何れも敗退し、更に同月二十九日の三田コートでの第一回早慶戦にも敗れ去った。このうち、最初の高商戦での敗北について報告者は、

敗れたり、噫、十月二日。想ひ起す今春五月、新進の軽騎挙げて一橋に押寄せ、……力足らざりけん。運や拙かりけん。掉尾の一振かなしくも敗退の恨をのみぬ。爾来半星霜、朝にコートの塵に浴し、夕に早稲田の露に低吟するも一意報復の念止まざりき。図らざりき再敗の辱を受けんとは。 (『早稲田学報』明治三十七年十一月発行第一〇八号 四四頁)

と慨嘆し再起を願ったが、直ちに成果は上がらなかった。ところが三十八年になると一転して、本学苑は実力を向上して、春の第二回早慶戦に勝利を収めるほどになった。秋には高師、高商、慶応と対抗試合を催し、そのうち対高商、慶応の二戦は、中止試合になるほど伯仲した試合展開を演じた。この二つの中止試合を、一高対慶応の野球中止、学習院のボート・レース中止と並べて、世間では三十八年度運動界の「四大中止事件」に数えている。早慶戦の場合は伊藤・飯田(早)と小久保・岡(慶)の最終戦で、伊藤の打った球を正審はセーフと宣告し、副審はアウトと断定し、両者相譲らず、両応援団の怒号と野次に騒然として収拾がつかず、試合は中止された(運動術士『運動界之裏面』一〇八―一三九頁)。これは、早慶運動競技の中止試合の最も早いものの一つと思われる。なお、この年に高師、高商、慶応、それに本学苑の委員が協議して、庭球規則を制定した。この規則は、日本の庭球史上、一画期をなしたものである。

 三十九年になると本学苑チームは一層強力なものとなった。上京した神戸高等商業学校を迎え打ったのを皮切りに、四月と五月に早慶戦を勝利に終らせ、勝運に乗じて高師に大勝した。春の好調は秋にも持続し、慶応、高師、学習院と連破して、全勝という前人未到の金字塔を打ち立てた。この向うところ敵なしのチームを、夏木青々は「庭球界の壮観」で「今日は正しく黄金時代である。此の黄金時代を代表してゐるのは、早稲田と慶応である」(『新古文林』明治三十九年十一月発行第二巻第一三号二六八頁)と評している。この時の全勝祝いについて、針重敬喜(明四〇大文)は次のように回想している。

どんなことをしたかというと、今から見れば全く児戯に類する笑止千万なことである。浅草六区の玉乗りを総見するという。そのころはまだ映画というものも無かつた。今の浅草の池の側の角の所に、江川の娘玉乗りがあつた。それの桟敷を買つてもらつて喜んで見ている。今なら田舎のお祭りにしかない代物である。……総見を終ると今度は宴会だ。その宴会も天ぷら屋の二階、二合びんが一本ついて飯を食う。飲まぬものは天どんを幾杯食つてもいいという。確かに大食漢は三杯食つたと思うが、それで大満足。ああ今日は愉快だつたという訳。 (『早稲田大学庭球部五十周年誌』 一六〇頁)

こうして軟式時代の全盛期を迎えたチームは、十二月に関西へ遠征した。御影師範学校、神戸高商、大阪師範学校、大阪高等商業学校、オールドボーイズ等を連破し、年が明けて四日には、大阪毎日新聞社後援により中之島公園で行われた大阪連合庭球大会に出席し、全大阪と対戦して全勝した。このような本学苑を中心とした庭球界の隆盛は、「今や運動界の中心はボールを去つてテニスに移らんとしてゐる」(『運動界之裏面』一六四頁)と、野球時代から庭球時代への移行を予測させるほどであった。また四十三年には第二次関西遠征ならびに早慶連合による関西遠征を行い、次いで四十四年には関西で催された東西対抗試合に参加した。なお、本学苑庭球部選手達が初心者向けに編集した『ローンテニス』が明治四十年に発刊され、テニス普及に一役買ったことを付け加えておく。

七 短艇部

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 体育部の一つとして発足した短艇部は、それ以前に同好会的なものとして存在していたようである。明治三十九年に大学部政治経済学科を卒業した深沢政介は、

私が入学した年に、中学で一緒に漕いだ者なんかがおりまして、又やろうではないかというわけで始めたんですよ。そんなわけで一応ボート部というのが出来たんですが、あんな田舎の手合じや何をするやらと随分侮辱されましたよ。借ボートでしたがね。その後、勿論旧式のしろものなんですが、日銀がいいボートを持つてる、というんで無理算段して、五十円の大金を捻出して買受け、これでやつと、どうやら自分の舟に乗れる、というので喜んだものです。ところがそれを入れる場所がない。慶応に交渉して預かつて貰つたんですが、土曜日に早稲田から慶応艇庫のある芝浦まで、てくてく歩いて、当時はまだ交通が不便でしたからね、舟を向島まで漕いでゆく。翌朝は早くから部員を集めて練習をやる。済むと、又芝浦まで漕いでいつて慶応の艇庫に預け、歩いて帰つて来る。全く当時の連中はなにをするにも容易なことではなかつたですよ。

(『早稲田学報』昭和二十七年十月発行第六二四号 一〇〇―一〇一頁)

と回想している。「借ボート」時代は彼の予科時代と推定される。三十五年秋に体育部規則が改正されて、短艇部として公認されると同時に、時雨・青葉・常盤の三隻が新造された。

 『早稲田学報』第一〇〇号(明治三十七年四月発行)に掲げられた端艇部に関する記事には、三十七年三月二十日隅田川上流で端艇部艇庫開祝賀競漕会が開かれ、「是れ本校端艇競漕の嚆矢とす」(「早稲田記事」八三二頁)と、記されている。この日午前十時に発漕し、競漕プログラム十二番、中でも野球部・庭球部・道場部(武道諸部の混成チームであろう)の対部レースは技量伯仲したと伝えている。この他高商の招待レース、各科の選抜レースに隅田河畔を沸かしめたともいう。なお、この『早稲田学報』の記事以降、短艇部は端艇部と改められた。

 この年八月には再び三隻のボートを新造し、逍遙はこれらを稲妻・韋駄天・エロスと命名した。かくして新艇を加えて六隻の専用艇を得たので、第一回水上大運動会を開催することになり、明治三十七年十月十六日午前九時を期して、その歴史的な幕を切って落とした。競艇の番組はすべて十一。第一レースから第五レースまでは第二選手団の予選で、第六・七レースは運動部各部の対抗、第八レースは第二選手の準決勝、第九レースはその決勝戦であった。第十レースは早稲田中学校対早稲田実業学校の対抗で、一艇身差で早中の勝利に帰した。当日白眉の第一選手競漕は午後四時半に始まり、慣例を破って距離千二百十メートルに延ばし、青・白・赤の三組で覇を競ったが、最後は青組エロス艇が六分五秒で優勝した。この水上大運動会は、以後毎年十月の創立記念日前後に開催されたが、特に第四回は創立二十五周年記念行事を兼ねて、十月二十三日および二十四日の両日に亘り、日本大学、外国語学校等を招いて挙行された。

 早慶両私立大学のボート対抗レースが初めて行われたのは、明治三十八年五月七日のことであった。これまで高商対一高の対抗レースが、隅田の華と謳われて満都の人気をさらっていたが、二十八年に中止されてから既に十年の歳月を経過し、一再ならずこれの再興が叫ばれていた。そこで両大学の競艇が発表されると俄然江東の人気が沸騰し、当日は、既にその前奏曲である慶応の対部レースが始まる頃から、墨堤を埋めた幾千のボート・ファンのうちに啻ならぬ気配が胎まれていた。『早稲田学報』第一一八号(明治三十八年六月発行)は、この時の模様を次のように書き出し、詳細を極めた記録を残している。

四時十分に於て慶応の対部競漕も終りしかば、両校の応援隊は是れよりぞ色めき、白方(慶応)にては、今迄は赤青旗にて飾りたる船も、何時しか皆白旗を翻へし、二艘の通運丸を初めとし、四、五艘の蒸汽は或は上に或は下に応援に遑まなく、赤方(早稲田)にても、一艘の快速船を走らせ、或は陸に或はテンマに連絡を取り、艇庫楼上には白旗勢力を得しも、堤上にはすでに赤旗の垣をつくり、其燃えんとする様は、恰かも数ケ月練習の効を今あらはさんとする選手の心にも似たりき。無頓着なる時針儀は容赦なく進転し、時は至りぬ。腕を試めすべき時はいたりぬ。早稲田の稲虫と嘲られたる我等は同じく稲虫として罵られ了はらんか、或は飛躍一番河上に雄を称するに至る可きか、運命を決すべき刹那は刻一刻迫りぬ。愈よ時は至りぬ、赤艇先づ河に浮び、白艇次で綱を解き腕ならしをなす。勝は果して孰れに帰すべく、両艇の優劣未だ断じ易すからず。而して微雨粛々として下り、竜闘虎争の大活劇将さに開かれんとして先づ静かなるにも似たりき。 (四九頁)

この結果は一艇身の差で赤艇早稲田大学の優勝するところとなり、鎌田慶応義塾塾長から各選手に賞品を、榎本舵手に優勝旗を授与され、本大学を代表して山田三良博士の挨拶があった。当日名誉ある勝利を得た選手は、舵手榎本三郎、整調木村利雄、五番岩田豊之助、四番永井清志、三番山川弘宝、二番村雲敬介、舳手深沢政介であった。即日選手慰労会を向島の植半楼で開き、浮田和民の開会辞に続いて山田博士、内ヶ崎・高杉講師、田中幹事の演説があり、折から駆けつけた審判長武田千代三郎の概評等の後、歓を尽して散会した。越えて十一日には学苑の大講堂で祝勝会が行われ、田原栄体育部長(代行)の練習経過報告、吉田講師、山田博士、大隈講師の祝賀演説等があり、本大学ならびに端艇部の万歳を三唱して盛大なる会の幕を閉じた。この試合はボート・ファンの脳裏に強く焼きついていたと見えて、「思ひ起すは、早稲田対慶応の明治三十八年の対校大競漕である。結果は早稲田の勝であつたが、其の場所の由々しさは回想するだに腕が鳴る」(『冒険世界』明治四十一年四月発行第一巻第四号一〇五頁)と追懐されている。

 遠漕については四十年を例に挙げておこう。その第一回は銚子遠漕で、一月四日参加部員十四名、使用艇はエロスと稲妻の二隻、所要日数は九日間であった。漕行経路は向島発、小梅川、中川、江戸川経由松戸一泊。流山、利根運河を経て布佐一泊。翌日津の宮一泊。矢田鼻、松岸を過ぎて銚子着。八日は休息して帰路は往路と同じコースをとった。第二回は柴又遠漕で二月十日挙行。参加選手十七名、エロス・韋駄天の二隻に分乗し、向島発中川を経て江戸川に入り柴又着川甚に投宿。帰りは翌十一日同じ水路を帰航した。第三回は神奈川県金沢遠漕で、エロス・稲妻・韋駄天の三隻のボートに部員二十五名が分乗して、五月九日に向島出発。隅田川を下り東京湾に出て横浜に一泊。翌日金沢着、旅館千代本に投宿。十一日は金沢を立ち羽田へ直行し、泉館に宿泊。翌十二日羽田発隅田川を遡航して向島艇庫に帰着した三泊四日の旅であった。

 かかる中にも従来使用していたエロス・韋駄天・稲妻の三隻は長さ四十フィートで、やや旧式となったから、新たに長さ四十二フィートの最新式三隻を岡本造船所に注文し、四十年九月竣工したので、晩香菊池三九郎に艇名の選を依頼し、これを神羽・羊角・奔星と命名した。回航メンバーにはそれぞれ商科、政治経済学科、法・文学科の選手を当てて三隻に分乗せしめ、九月二十三日これを艇庫に回航することになった。何しろ最新の技術を以て建造された艇は、河川の競漕用であったから吃水が浅く舟足が速かったが、それに比例して水かぶりも大きく、東京湾を突き切るには非常に難航し、午後七時半に漸く艇庫に到着したというくらいであった。

 この当時の部員は六百余名、選手は五十名と伝えられている。なお、旧端艇部選手を中心とする各運動部の校友有志等からなる親睦団体であり、且つ端艇部の後援・相談役である稲門艇友会が四十四年に設立され、春秋二回の会合が行われている。

八 相撲部

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 猫額の土地でも、地面に円を画き、着衣を脱いで力を競えば、直ちに相撲となる。創業間もなく、講師・学生の親睦のため、飛鳥山や墨陀園に遠出をし、懇親会=運動会を開いた時にも、陸上競技とともに、これとはやや異種であった相撲競技が余興として必ず催された。そして明治二十八年に早稲田倶楽部が結成された際には、撃剣や野球等とともに、ますます盛んに行われた。尤も三十五年の改正体育部規則では学校当局より公認されなかったが、当時「梅・常陸時代、相撲全盛の影響を受け、学生の相撲熱も、中々盛んであつた」(泉谷祐勝「五十年間の想い出」『半世紀の早稲田体育』一二頁)ためか、翌年には学校より承認され、五月三十日に土俵開きが行われた。当日、大隈臨場の下に、常陸山の弟子の序二段の藤見野、碇潟ら十数名を招き、学生もこれに加わって、東西対抗試合が開催された(『早稲田学報』明治三十六年六月発行第八六号「早稲田記事」六三二―六三三頁)。以後、記録は残っていないが、泉谷は、四十年に学生相撲の皮切りとして国技館にてオール早慶戦が開催されたことを回想している。なお、「早稲田大学報告」では角力部となっており、それも三十九―四十年度よりは姿を消している。

九 遊泳部

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 記録に見えるところでは、体育部の一部として遊泳部が新設されたのは、明治三十八年七月五日のことで、神奈川県逗子海岸で遠泳・競泳を行ったことに始まる(「早稲田大学規則一覧」『早稲田学報』明治三十八年七月発行臨時増刊第一二〇号雑録一頁)。この時定めた仮規則が『早稲田学報』第一一九号(明治三十八年七月発行)に載っているから、左に転載しておく。

遊泳部仮規則

一 本部ハ早稲田大学遊泳部ト称ス。

一 本部ハ毎年七月五日ヨリ七月三十一日マデ相州逗子ニ遊泳場ヲ設ク。(但シ期限ハ変更スル事アルベシ。)

一 本部ニ左ノ委員ヲ置ク。

部長一名 幹事三名 委員若干名

一 本部ハ毎遊泳期ニ一回宛遠泳、競泳ヲ催ス。(詳細ノ事項ハ其都度掲示ス。)

一 部員ハ左ノ費用ヲ納附スベシ。

滞在中食料費金五円五十銭 雑費金一円五十銭

一 入部セントスル者ハ姓名及学科年級ヲ書シ、高等予科運動事務所へ届出ベシ。 (四九頁)

 この時の詳細な記事がないからその状況は不明であるが、二回目と推定される翌年の記録が『早稲田学報』第一四〇号(明治三十九年十月発行)に載っている。それによると七月五日から一ヵ月間、神奈川県金田湾内南下浦で行われ、教目は次のようなものであった。

六級、扇足。五級、一重伸・両輪伸。四級、片抜手・平伸。三級、二重伸・抜手・平泳。二級、小抜手・立体。一級、諸芸。外ニ潜行法及飛降法。 (五四頁)

 練習はこの教目に従い、午前・午後二時間ずつ二回行い、三十日間これを続行したという。最後の仕上げは、七月三十一日に沖の島(水泳場南方一海里の孤島)回泳、八月一日に久里浜遠泳を行い、後者はその名の通り、遊泳距離六海里強、所要時間五時間半に及ぶものであった。完泳した者は七名で、うち五名は四・五級から三級に進級した。越えて八月二日に南下浦で水泳部小会を催し、百ヤード・二百ヤード・四百ヤード競泳、二重伸、潜水、潜行、雁行、水書等を行い、仲野・宇田川両師範の模範遊泳を披露してこの会を閉じている。以後、この種の水泳訓練は毎夏行われたが、一日の滞在費は四十銭、船賃は東京より南下浦まで二十銭であった。水泳地は四十三年の訓練より、房州北条に移転された。この部も最初は遊泳部と称したが、先に紹介した三十九年の記録には「水泳部記事」となっているのを見れば、遊泳部という名称は定着しなかったとも思われる。従って、学校当局も明治四十年頃までそれを併用していて、それ以後水泳部と呼称している。明治末期の部員数は百余人であった。

十 競走部

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 陸上競技の淵源は、明治時代の運動会に求められよう。この運動会には二種類あると思われ、一つは遊戯的な運動会であり、一つは東京大学がストレンジの指導の下に行ったような体育的な運動会である。この二様式が種々の形をとりながら全国の学校に拡まって、やがてその学校の最大の催物のみならず、その地区の楽しい年中行事の一つに数えられるようになった。既述の如く我が学苑において、創立いくばくもなくして飛鳥山や向島の墨陀園等で行われた運動会は、師弟相交じって競技を行うといった遊戯的なものであった。その種目は、ヤード競争と言われた徒歩競争、高飛、幅飛、二人三脚、戴囊競争、擬馬競争、相撲等で、互いに技を競い、酒肴を共にし、一日を清遊した。更に、各学校の運動会が相互に他校の学生を招待し始めるに及んで、運動会は、一種の対校試合の趣を呈するに至った。勿論、学苑からも血の気の多い学生がこぞってこれに参加した。例えば、野球部の項で紹介した泉谷がそうであった。

陸上競技部の前身である競走部は、当時、部としての存在はなかつたが、都下各大学・高等学校で催される、恒例の運動会には代表選手として法科の平田君と共に、招待競技に出場していた。 (『半世紀の早稲田体育』 一〇―一一頁)

他方、学校の運動場での競技とは別に、長距離競走も行われるようになった。すなわち三十二年二月、山口高等学校の十一マイル競走を導火線として、全国津々浦々で長距離レースが行われ始め、四十一年には学習院が「クロスカンツリーレース」を開催している。こうした風潮の中で、四十二年秋、我が学苑で足に自信のある有志が集まって競走部が結成されたのである。

 しかも、翌四十三年十一月六日、本学苑の誇る韋駄天、矢野秀男選手は農科大学の「特待諸学校競走」に参加し、十三校からの自選他選の強者二十六選手を破り優勝した。この大会は、当時において「日本のオリムピア、競走界の檜舞台と云ふ価値」があったので、栄えある覇者矢野は翌日銅像前で学生の熱烈な歓迎を受け、塩沢、田中、安部らの講師からも、「Winning spiritは競技のみか学問にも必要である」という激励の讃辞を浴びせられた(『早稲田学報』明治四十三年十二月発行第一九〇号一五―一六頁)。この勝利は競走部の存在を学苑内外に鮮明にしたものであったから、十二月十三日この部だけの戦捷祝賀会を牛込吉熊で開き、次年度からの運営方針等を話し合った。部結成以来僅かに一年で部活動がかように開花したのは、矢野個人の才にもよるが、泉谷のような学生多数の活躍がそれを支えていたのも見逃せないであろう。ただこれ以後の記録は発見できないが、部の活動が決して停止したものではないと推定しても誤りではなかろう。