Top > 第二巻 > 第四編 第十六章

第四編 早稲田大学開校

ページ画像

第十六章 明治末の擬国会・擬裁判・科外講義

ページ画像

一 擬国会

ページ画像

 東京専門学校時代の学苑の一名物としての擬国会については、第一巻第三編第九章に既述したところであるが、早稲田大学と改称後においても、擬国会は引続き毎年開催され、「帝都の各大学の王国議会の元祖」として、「都下各大学の議会の間にあつて、嶄然一頭地を抜いて居」た(南北社編『早稲田生活』二八頁)。

 擬国会が、政治科の学科課程中に見られる「国会演習」に相当するものであることは前巻で明らかにされているが、明治三十五―三十六年度から三十八―三十九年度までは、大学部政治経済学科には国会演習は配当されていず、専門部政治経済科の二、三年に配当されているのみである。しかし、擬国会で活躍したのは、専門部学生ばかりでなく、大学部学生も発見されるから、正規の学科課程に包含されていたかいないかは、実施の面では関係なかったのではないかと推察される。そして、明治四十―四十一年度からは、大学部政治経済学科の二、三年にも国会演習が配当されるようになり、専門学校令下の大学時代の最後まで変ることがなかった。

 今、大学昇格後、明治年間に実施された擬国会について、『早稲田学報』に記録されているのは、三十六年四月十七日、三十七年四月二十四日、三十八年三月二十六日、三十九年四月十八日、四十年三月三十一日、四十一年三月十五日、同年三月十六日、四十二年三月十三日、同年三月十四日、四十三年三月十一日、同年三月十二日、四十四年三月十八日、同年三月十九日の合計十三回である。右の中で、三十六年より四十年までは、第十一期から第十五期までとそれぞれ数えられているが、四十一年以降二日間に亘って開催されるようになると、四十一年には第十六期、第十七期と数えられたにも拘らず、四十二年には、二日を合せて第十八期と数えられ、四十三年はまた第十九期、第二十期と別々に数えられたかと思うと、四十四年四月発行の『早稲田学報』(第一九四号)には、「第二十二及二十三議会」(一〇頁)と記録されているにも拘らず、学苑の公式報告「早稲田大学第廿八回報告自四十三年九月至四十四年八月」には、これが第二十および二十一期と記されている(同誌明治四十四年十月発行第二〇〇号二五頁)など、混乱している。なお、大正二年三月三日に開催された擬国会は、第二十五期と記載されている(同誌大正二年三月発行第二一七号一五頁)けれども、明治四十五年には、第二十四期に相当する擬国会の開催について、何らの記事も『早稲田学報』には発見せられない。

 さて、右に掲げた十三回の擬国会に関して、『早稲田学報』の記事は、年によって繁簡区々であり、またそのすべてを紹介する必要もないと思われるが、それらの中で、最も詳細に記録されているのが第十三期議会であり、しかもその時期が日露戦争中という点でも興味を惹くから、左に全文を引用して明治末の擬国会の概況を窺うよすがとしよう。

第十三期早稲田議会

早稲田憲法第七条ニ依リ三月二十六日ヲ以テ早稲田議会ヲ召集ス

明治三十八年二月十日

内閣総理大臣鳩山和夫

外務大臣 加藤政之助 大蔵大臣 天野為之

内務大臣 浮田和民 陸軍大臣 黒川九馬

海軍大臣 円城寺清 農商務大臣 江藤新作

文部大臣 鎌田栄吉 逓信大臣 塩沢昌貞

司法大臣 坂本三郎

斯くの如く第十三期早稲田議会は、去る三月二十六日を以て召集せられたり。先づ議事日程、及び建議案より掲ぐべし。

議事日程(明治三十八年三月二十六日)

正午開議

第一 日本興業銀行法中改正法律案(政府提出) 第一読会

第二 右議案ノ審査ヲ付託スヘキ委員ノ選挙

第三 居留民団法案(政府提出) 第一読会

第四 右議案ノ審査ヲ付託スヘキ委員ノ選挙

第五 鉱業法案(政府提出) 第一読会

第六 右議案ノ審査ヲ付託スヘキ委員ノ選挙

第七 鉄道抵当法案(政府提出) 第一読会

第八 右議案ノ審査ヲ付託スヘキ委員ノ選挙

第九 満州経営ニ関スル建議案(三隅忠雄提出)

第十 普通選挙ニ関スル建議案(菊地茂提出)

第十一 日英同盟継続ニ関スル建議案(佐野敏三郎提出)

満州経営ニ関スル建議案

右成規ニ拠リ提出候也

明治三十八年三月二十六日

提出者 三隅忠雄

賛成者 平野英一郎

外四十六名

満州経営ニ関スル建議案

交戦歳余、幸ニ 陛下ノ御稜威ト軍隊ノ勇敢ト国民ノ熱誠トニ因リテ暴露ヲ膺懲シ、以テ光栄アル平和条約ヲ締結スルヲ得テ、満州ハ宣戦ノ趣旨ニ基キ、之ヲ清国主権ノ下ニ還附シタリ。然レトモ露国ノ暴横ナル、一時ノ蹉躓ノ為ニ数百年来ノ極東侵略主義ヲ放擲スルモノニアラス、必ラスヤ機会ノ乗スヘキアラハ、則亦来リテ豺狼ノ慾ヲ逞フセン、而シテ列国ノ圧迫ニ罷弊セル清国到底之ヲ防禦スルノ力ナクシテ、遂ニ満州ノ野ハ再竜奮虎闘ノ修羅場タルニ至ルヘシ、是豈ニ交戦ノ目的ヲ達スル所以ノ途ナランヤ、是ニ於テ政府ハ左ノ条項ニ従ヒ、大体ノ方針トシテ国庫ノ負担ヲ以テ満州ノ経営ヲ施コシ、死灰再燃ノ憂ヲ根絶スルノ挙ニ出テサルヘカラス。

一、特種ノ政庁ヲ設置シ軍政及民政ヲ施クノ任ニ当ラシムル事。

一、満韓銀行ヲ設立シ貿易及金融ノ機関トナシ、且諸種ノ営利的事業ヲ経営セシムル事。

一、移民及商工業者ノ渡航ヲ奨励シ且之ニ充分ノ保護ヲ与フル事。

一、満州ニ於ケル事業ハ可成本邦人ヲシテ経営セシムル方針ヲ採ル事。

一、沿岸及河川ノ航路経営者ニ補助ヲ与フル事。

一、営義鉄道ノ布設工事ヲ迅速ニ着手スル事。

一、旅順口ニ軍港的設備ヲ施コシ、且大連港ノ貿易的設備ヲ完成スル事。

一、若干ノ軍隊ヲ重要地点ニ駐屯セシメ、鉄道守備及治安ノ保障タラシムル事。

一、清国政府ヲシテ日本ノ士官ヲ傭聘セシメ、満州ニ於ケル清国軍備ヲ訓練シテ北疆ノ防備ニ当ラシムル事。

以上列記スル所ハ、帝国ノ利権ヲ伸暢シ国力ヲ発展スルノ最上手段ニシテ、亦清韓ノ独立ヲ保全シ、東洋ノ平和ヲ永遠ニ擁護スル所以ナリ、仍テ政府ハ速ニ之カ採用アラン事ヲ望ム。

明治三十八年三月廿六日

右建議候也

普通選挙ニ関スル建議案

右成規ニ拠リ提出候也

明治三十八年三月二十六日

提出者 菊地茂

賛成者 民部熙光

外四十五名

普通選挙ニ関スル建議案

制限選挙ノ弊ヤ下層国民ノ利権ヲ伸暢スルコト能ハス、直接税ノ軽ク間接税ノ重キモノ其例ヲ実ニ軍国議会ニ見タリ、吾等憤慨ノ至リニ堪ヘス、況ンヤ戦後経営トシテ社会問題ヲ解決スルニ急ナルヲヤ、即チ次ノ条項ヲ以テ普通選挙ノ実施ヲ建議ス。一、丁年以上ノ男子タルコト。

一、一定ノ職業ヲ有スルコト。

一、一定ノ住所ヲ有スルコト。

一、公民権ヲ剝奪セラレタル者ニ非ルコト。

右ノ三条件ヲ具備スル者ハ衆議院議員選挙権ヲ有スルコト。

是レ実ニ下層国民ノ利権ヲ伸暢スルヲ得ルノ良策タルト同時ニ選挙ニ関スル弊風ヲ一掃スルモノナリト信ス、右条項ヲ陳述シ此カ採用アランコトヲ望ム。

右建議候也

日英同盟継続ニ関スル建議案

右成規ニ拠リ提出候也

明治三十八年三月二十六日

提出者 佐野敏三郎

賛成者 岸田完五

外五十一名

日英同盟継続ニ関スル建議案

極東ノ平和ヲ維持シ清韓両国ノ独立ニ保障ヲ与フルハ帝国当然ノ責務ニシテマタ権利也、彼ノ横暴ナル露西亜帝国カ、其貪婪飽クナキノ欲望ヲ東洋ニ満タサントシ敢テ我国ノ利権ヲ侵ス、乃チ旗鼓ノ間ニ曲直ヲ争ヒ遂ニ空前ノ大捷ヲ博シ露国ヲシテ再ヒ手ヲ東洋ニ染ムルノ不可能ヲ自覚セシメ、辞ヲ厚フシテ以テ和ヲ我ニ請フノ止ムヲ得サルニ至ラシム、コレ素ヨリ陛下ノ稜威ト我軍ノ忠勇ト国民ノ熱誠ト列国ノ同情トニヨルト雖其我国カ意ヲ安ンシテ此大活劇ヲ演スルヲ得タル所以ノモノ誠ニ日英同盟ノ賜ニ非スシテ何ソヤ。

戦時ニ於ケル軍事、財政、外交其他百般ノ事項ニツキ直接マタ間接ニ同盟ノ効果ヲ収メ得タルハ既ニ識者ノ熟知スルトコロ、今ヤ日露ノ戦端漸ク平和ニ帰スト雖所謂世界ニ於ケル極東問題ハ未タ根本的ニ解決シ終リタルニアラス、豺狼尚存スルアリテ隙ヲ窺ハントス、又我国力ノ充実ハ将来尚進ンテ一層ノ発展ヲ期セサル可ラス、朔北ノ野ニスラブ百万ノ大軍ヲ破リシ帝国ハ平時ニ於ケル産業的戦闘ニ於テモ亦必勝ヲ図ラサル可ラス、此時ニ際シテ日英同盟ノ期限将ニ満了ニ近カントス、吾人宇内ノ大勢ニ鑑ミ帝国ノ将来ヲ慮リ切ニ其継続ヲ希望スルモノナリ、抑世界ニ於ケル政治問題ノ中心ハ今ヤ漸ク欧州ヲ去テ東亜ニ遷ラントスルニアラスヤ、然シテ是カ解決ノ中堅タルヘキハ我国断シテコレニ当ラサル可ラス、夫レ然リ列国環視ノ間ニ立チ是カ解決ノ中堅タル決シテ容易ノ業ニアラス、宜シク親厚ナル友邦ト提携シテ以テ是カ最後ノ断案ヲ下スヘシ、幸ニシテ日英同盟ノ存スルアリ、コレニヨツテ初メテ極東問題ニ満足ナル解釈ヲ与フルヲ得可ク帝国ノ発展ニ偉大ナル利便ヲ得可シ。

然リ而シテ其継続タルヤ、一派ノ論者ノ称フルカ如ク同盟ノ範囲ヲ拡張シテ中央亜細亜ニ及ホサントシ或ハ更ニ同盟中ニ米国ヲ加ヘントスルカ如キハコレ短見者流ノ議論ノミ、夫レ中央亜細亜ノ問題タル英国利権ノ関スルトコロニシテ日英両国共同ノ利害ニアラサル也、帝国ニアツテ毫末モ休戚相関知セサルノ問題ヲ以テ自ラ累ヲ求メントスルカ如キハ元ヨリ策ノ得タルモノニアラス、又米国ヲ同盟中ニ加フルハ徒ラニ問題解決ノ伍伴ヲ多クスルノミニシテ何等ノ効果ナキハ蓋シ瞭々乎トシテ夫レ明ナリ、於是乎吾人ハ断シテ日英同盟ヲ現状ノママ維持センコトヲ主張ス、政府当路ノ諸氏ハ元ヨリ成算アルヘシト雖而モ尚不安ニ堪ヘサルモノアリ、乃チ右意見ヲ陳述シコレカ採用アラン事ヲ望ム。

右建議候也

次に各党の宣言書を掲ぐれば、左の如し。

宣言書

吾党ハ第十三議会ノ開会ニ際シ吾党ノ旗幟ヲ鮮明ナラシムルカ為ニ玆ニ天下ニ向ツテ左ノ宣言ヲ為ス。

謹ンテ按スルニ征露ノ 詔勅ハ宏遠ニシテ正大ナリ、森厳ニシテ公明ナリ、蓋世ノ雄図百年ノ長計寔ニ之ニ外ナラス、幸ニ我帝国ハ 陛下ノ御稜威ニ依リ、勇悍精鋭ノ軍隊ト赤心忠誠ノ国民トハ能ク 聖旨ヲ遵奉シ全局ノ大捷ヲ奏シテ東洋ノ平和ヲ恢復シ、以テ国光ヲ宇内ニ宣揚スルヲ得タリ、是レ吾党カ曩ニ天下ニ率先シテ暴露膺懲ヲ呼号シ、以テ当局者ヲ鞭〓シ国民ヲ提醒シタル結果ニシテ、吾党ノ私ニ光栄トスル所也、然リト雖我帝国カ戦勝ニヨリテ獲得シタル利権ニ対シ戦後ノ経営施設其宜シキヲ得スンハ、曠古ノ大勝ハ虚栄ニ終リ、帝国ノ威信ト利益ハ地ニ墜チテ、千秋ノ悔恨ヲ貽スナキヲ保セス、是豈深遠ナル 聖旨ニ奨順シ戦争終局ノ大目的ヲ遂行スル所以ノ途ナランヤ、即チ吾党カ帝国臣民ト共ニ敢テ輔弼ノ重責アル閣臣ヲ督励シ積極進取ノ主義ヲ標榜トシ以テ空前ノ大勝ヲシテ有終ノ美果ヲ収メント欲スル所以也。

吾党ハ玆ニ帝国飛雄ノ大好機ニ際会シテ、国家千載ノ鴻図ニ鑑ミ、国民全般ノ輿望ニ従ヒ、丹誠ヲ表シ赤心ヲ披キ、邦家ノ大計ヲ画策シ以テ報国ノ誠ヲ効サント欲ス、即チ対外政策トシテハ、光栄アル平和ニヨリ満州ニ於テ獲得シタル利権ヲ伸暢センカ為ニ、上下和協官民一途積極的経営ニ帝国ノ全力ヲ傾注シ、且列国ノ覬覦ヲ退ケテ東洋永遠ノ禍源ヲ根絶シ、更ニ友邦ノ交誼ヲ篤フスルカ為ニ日英同盟ヲ継続シテ其効力範囲ヲ亜細亜全大陸ニ及ホシ、尚進ンテハ締盟ヲ米国ニ求メ、宇内ノ三大強国東西ニ呼応シテ列強国際間ノ大勢ヲ左右セント欲ス、若シ夫レ区々タル内地問題ニ至リテハ、必スシモ当今ノ急務トナスニ足ラスト信ス、吾党ハ帝国ノ将来ヲ熟慮シ、多年唱道シ来レル帝国主義ヲ以テ益々今日ニ施スノ急務ナルヲ認メ、此主義ニ基ク積極的政策ヲ樹立シテ来ルヘキ議会ニ対スル吾党ノ方針トナシ、以テ之カ遂行ヲ図ランコトヲ期ス。

明治三十八年二月十七日 急進党本部

天下ニ宣ス

知彼知己百戦不殆、不知彼而知己一勝一負、不知彼不知己毎戦必敗ト、宜哉言。

猛獅徒ニ狂奔シテ頭ヲ巌頭ニ摧キ、激流空シク怒号シテ泡沫ニ帰ス。暴虎馮河ノ勇、断シテ吾党ノ採ラサル所。見ヨ暴戻ナル露国ハ敵ヲ知ラス己ヲ知ラス、猪進シテ以テ醜辱ヲ天下ニ晒シ、再ヒ起ツ能ハサル悲境ニ陥リタルニ非スヤ、噫、極端ナル侵略主義ヲ持シテ我カ国是ヲ定メントスル鼠輩ノ如キハ、我国ヲシテ第二ノ露国タラシムルモノニ非スシテ何ソ、又彼ノ偏狭ナル倫理観念ニ立脚シ自己ノ空想ニ駆ラレテ之ヲ顕世ニ実現セントスルカ如キハ、猶ホ木ニ縁リテ魚ヲ求ムルカ如ク然リ、否更ニ甚タシキモノアリ、何ソヤ木ニ縁リテ魚ヲ求ムレハ、之ヲ得スト雖モ後ノ笑ナシ、然ルニ彼ノ社会主義一派ノ如キハ、何等国家ニ貢献スル所ナキ而已ナラス、却テ国家万年ノ大計ヲ誤ルモノト云ハサルヲ得ス、見スヤ彼ノ日英同盟ヲ拡張シテ亜細亜全部ニ及ホシ、尚ホ米国ト提携セントスルカ如キハ、徒ニ英米ノ利権ヲ発達セシムル而已ニシテ、一モ我国ニ利スル所ナキヲ、日英同盟ヲ継続スルハ素ヨリ吾党ノ主張スル所ナリト雖モ、敢テ叨リニ之カ拡張ヲ叫フカ如キハ、コレ彼ヲ知ラス己ヲ知ラサルノ甚タシキ者ト云ハサルヲ得ス。

維新以降僅カニ三十有余年、一躍シテ天下列強ニ覇ヲ唱フルニ至リタル所以ノ者ハ蓋シ正義公道ニ基ク穏健着実ナル漸進ノ賜ニ非スヤ、於玆乎吾党ハ戦勝ノ光栄ニ酔フコトナク、沈着ニシテ軽浮ナラサルノ概ヲ以テ之カ国是ヲ定メ、倍々強固ナル基礎ノ上ニ立チ、国光ヲ八紘ニ宣揚セントス、敢テ天下ニ宣ス。

明治三十八年三月 保守党本部

宣言書

戦後経営ノ政策多シ、然レトモ其主要トスル所ノ者ハ社会問題ニ在リ、財政ノ紊乱累年其度ヲ高メ、重税嵩ミ徴求繁ク多数ナル、下層国民ノ窮困日一日ヨリ甚シ、我国目下ノ急務ハ豈ニ社会問題ニアラスヤ。

然ルニ国力発展ト唱へ、国威宣揚ト称シ、以テ妄リニ国土ノ膨脹ヲ計リ、徒ラニ事ヲ満韓紛擾ノ地ニ挙ケントスル者有リ、噫是レ再ヒ平和ヲ破リ、以テ戦擾ノ禍根ヲ醸スモノニ非ル無キカ、急進党ノ主張ハ実ニ之レニ類ス。

彼ノ露国ノ大敗ヤ其原因多シトスルモ、下層大多数ノ国民ノ意思ヲ無視シタル者其主眼也、露国多クノ都市ニ於ケル労働者農夫ノ暴動之ヲ証ス、一将ノ功成ルハ万骨ノ枯ルカ為メ、我国ノ大勝亦下層国民ノ功トスル所多シ。

然ルニ外交政策ヲ以テ戦後経営ノ主眼トナスモノ有リ、外交政策ノ良好ナル或ハ戦端ヲ啓クヲ防クアリトスルモ、内憂ハ外患ヨリモ重シ、争闘豈ニ外ヨリノミ起ランヤ、露国ノ現状誠ニ之レカ殷鑑タリ。

羅馬カ外征ニ大勝ヲ博シテヨリ国民頓ニ驕恣ノ念ヲ生シ、遂ニ其覆滅ヲ見ルニ至レリ、戦勝国民ノ態度大ニ慎ム所無カルヘカラス、然ルニ無謀ナル帝国主義ヲ唱ヘテ、欧米先進国ノ使嗾スル所トナルカ如キハ、誠ニ国民ノ仇敵也。

民力ヲ休養セサルヘカラス、下層国民ノ利権ヲ伸ヘサルヘカラス、戦後経営ノ最要政策ハ誠ニ社会問題ニ在リ、我党ハ此大主義ヲ立テテ愈々我党ノ本領ヲ発揮センコトヲ勉ム可キ也、以テ本議会ニ対スル我党ノ宣言トナス。

明治三十八年三月十九日 中立党本部

次に政府委員、書記官長、書記官、議長、副議長、各党総理、副総理、議員部属別を掲ぐべし。

政府委員

三明諒夫 西田常三郎 田中亀之助 鈴木治三郎

書記官長

馬場達郎

書記官

安部暁生 安蒜政治郎

議場取締

阪巻景一 村山欣治 川勝藤太

議長

神鞭知常

副議長

田中唯一郎

急進党

総理 大石正巳 副総理 田中穂積

保守党

総理 蔵原惟郭 副総理 増田義一

中立党

総理 高野猛矩 副総理 木下尚江

議員部属別

第一部

部長 大山郁夫 理事 森盛一郎

大山郁夫(一番) 難波理一郎(二番) 林行彦(三番) 松尾清之助(四番) 関好義(五番)

菊地茂(六番) 永井柳太郎(七番) 佐藤光尾(八番) 小松隆蔵(九番) 岡礼三(十番)

岡崎鴻吉(十一番) 筑紫富夫(十二番) 梶川半三郎(十三番) 名取夏司(十四番) 森盛一郎(十五番)

覚張半四郎(十六番) 池島誠三(十七番) 小柳覚(十八番) 河原林君(十九番) 武田田臣(二十番)

佐藤勝郎(二十一番) 松浦信吉(二十二番) 石沢愛三(二十三番) 横山確(二十四番) 重信雄三郎(二十五番)

第二部

部長 千葉豊治 理事 長倉一雄

常見弁次郎(二十六番) 千葉豊治(二十七番) 中島節平(二十八番) 志賀定一(二十九番) 長倉一雄(三十番)

和田吉松(三十一番) 滝本為三(三十二番) 小竹文治郎(三十三番) 長野虎太郎(三十四番) 富永太郎(三十五番)

堀安覚(三十六番) 馬屋原仙一(三十七番) 田村逸郎(三十八番) 森市太郎(三十九番) 舟木鞆之助(四十番)

鴛淵忠雄(四十一番) 民部熙光(四十二番) 富本茂(四十三番) 山口誠象(四十四番) 佐藤近(四十五番)

柏井一郎(四十六番) 星井寿助(四十七番) 古島安二(四十八番) 佐伯峻夫(四十九番) 山崎定太郎(五十番)

第三部

部長 志茂成保 理事 穴沢春

志茂成保(五十一番) 三隅忠雄(五十二番) 穴沢春(五十三番) 唯根伊与(五十四番) 前原藤一郎(五十五番)

稲垣泰之助(五十六番) 木田孫一(五十七番) 小池娘四郎(五十八番) 朝倉慶友(五十九番) 佐野敏三郎(六十番)

北村佐一(六十一番) 田川信次(六十二番) 吉沢武保(六十三番) 平沢兵之助(六十四番) 渡辺五郎(六十五番)

田辺郁太郎(六十六番) 牧山耕蔵(六十七番) 山道襄一(六十八番) 平野英一郎(六十九番) 照林良雄(七十番)

第四部

部長 西村徳太郎 理事 枝吉英樹

古川二郎(七十一番) 小山省三(七十二番) 大輪薫郎(七十三番) 二島菊次郎(七十四番) 岸田完五(七十五番)

村上万七(七十六番) 近藤精郎(七十七番) 横前正輔(七十八番) 亀岡正中(七十九番) 西脇安治(八十番)

枝吉英樹(八十一番) 浜島利重(八十二番) 李盛銜(八十三番) 西村徳太郎(八十四番) 手塚安彦(八十五番)

多賀富蔵(八十六番) 黒木清助(八十七番) 中野為吉(八十八番) 飯田三郎(八十九番) 中山善助(九十番)

第五部

部長 筑紫昌門 理事 田沼富三郎

筑紫昌門(九十一番) 山田金一郎(九十二番) 渡辺捨次(九十三番) 小林保三郎(九十四番) 石橋政雄(九十五番)

武田尾吉(九十六番) 太田稔(九十七番) 三塩熊太(九十八番) 神崎要(九十九番) 比佐昌平(百番)

山田末一郎(百一番) 李培元(百二番) 服部鋌蔵(百三番) 二見仙平(百四番) 堀部久太郎(百五番)

野村徳助(百六番) 植田市之助(百七番) 桜井義雄(百八番) 沢登嘉幸(百九番) 船越作一郎(百十番)

石田馨(百十一番) 島崎靖規(百十二番) 木下保三郎(百十三番) 蔵野鶴松(百十四番) 神谷祐一郎(百十五番)

田沼富三郎(百十六番) 釜田進一(百十七番) 斎藤智介(百十八番) 隅山襄一郎(百十九番) 古瀬義治(百二十番)

二月十日早稲田議会召集を発表されてより、在野各党代議士は各々其本部に集合し討議決する処あり、早稲田政界の風雲は黯澹たる光景を呈し来り、一方にては政治学会一派の士或は大臣に交渉する処あり、或は各本部に打合せする処あり、政府側亦運動に其手段を尽し、議場取締は数日前より議場整理、議場装飾に忙はしかりき。日は経ちぬ、二十六日開会当日となりぬ。

開会定規の時間に先つこと二、三時早や傍聴人は広き大講堂に溢れ、無慮数千人と註せらるるに至り、開会時に至りては入場口〆切の札さへ張られたり。斯くて正午十二時を報じて警鐘一打と共に、議長は馬場書記官長、安部、安蒜両書記官以下を従へて入場し、拍手と喝采との中に大臣、議員の席定るや、玆に愈々開会は宣せられぬ。

議長(神鞭議長差支ありて副議長田中唯一郎氏着席)が開会の宣告に火蓋を切り、百雷の如くに轟く拍手の中に馬場書記官長より議事日程の報告あり。西田政府委員は立て日程中第一政府提出に係る日本興業銀行法中改正法律案に就き一応の説明を与へ、堀安覚氏等外二、三議員との質問応答あり。終に西田政府委員は「政府として憚る点あるを以て委員会に於て説明せん」と切り抜けて復席するや、長倉一雄氏の発議によりて議事日程を変更し、直ちに日程第九満州経営に関する建議案の討議にうつる。書記官長建議案を朗読するや、提出者三隅忠雄氏登壇、本案提出の理由を述べて曰く、「我国は我国の生命を賭して満韓の為に尽瘁す。其目的は日露戦争に於て達する事を得たり。然れ共もし満州経営の事其処置を誤らんか、第二第三の日露戦争の来るや火を見るよりも明なり。然るに現政府の是れに冷淡なるは何ぞや。本員が此案を提出する所以のものまた不得止なり」と云ひ、其処分案を説明して、反対的拍手、賛成的喝采のうちに降壇す。堀安覚氏は「余は本案には反対するものなり」と叫んで其後をうけ、「本案は実に帝国主義の濫用なり。其やり方や露国政策と何の異なる処かある。斯くの如き案は直ちに其撤回を望む」と論破し、「要するに本員は君子国の本領を発揮せんが為に列国会議を要求せん事を主張す」と保守党的の駁論を試みて降壇す。「議長!」と一声堂々壇に登り来りしものはこれ急進党の副総理田中穂積氏なり。冒頭一句「諸君は本案に反対するまでに耄碌せしや。日本が多大の軍資と多大の生霊とを以て占領せし処の満州を其日本の配下に属せしむる、人道としてまた普通の事に属せずや」と喝破し、「社会改善を称道する中立党は双手を挙げ賛成すべき筈なり。如何となれば本案は社会改善の要素たる産業の膨張を計らんとするものなればなり」と中立党をだき込まんとし、「露国国情の内容より再挙せん事期してまつべきなり」と云ひ、「是れを予め防がんには、本案の示す如く満州に向つて其処置をなすべきのみ」と論断し、また例を台湾に引いて、其財源の豊かなるを説き「斯く堅固なる論拠より割り出したる本案に賛成せざる者の愚や実に笑ふ可きのみ」と、急進党の為に気を吐いて降壇す。于時悠然大臣席より出でたるは浮田内務大臣なり。「現内閣は強ち保守内閣に非ず超然内閣なり」とのふれ出しにて、超然内閣の本領を吐露し「内閣にも又二大主義を有す、満州の還付並に開港なり」と発表して、これを内治上より説明し来り反対態度をとりて席に復す。是に於て加藤外務大臣は「内務大臣は内治上より論じたるを以て、本大臣は是れを外交上より論ぜん」とて論鋒を弄し笑声の裡に引き込み、入り替りて保守党副総理増田義一氏拍手の間に登壇し、「政界の雲行は実に奇観を呈せり、内務は反対し、外務は稍々賛成せり。此内閣は超然内閣に非ずして、十徳内閣なり」と内閣を槍玉に挙げたる手際に、拍手と哄笑とは議場を破らん計りなりき。氏其論歩を進めて曰く、「提出者の云ふ処、矛盾や驚くべきものあり。還付して而して侵略す。かかる事のよくあり得べきや、否や。又台湾と満州とを同日の論に比較するなど、寧ろ愚中の愚なるものなり」と。それより第六十九番平野英一郎氏登壇、「日露戦争の原因は満州及び韓国に出づ。戦争の目的を達せん為には、これが経営なかる可からず」といふを論拠に賛成演説をなし、政府の姑息、無能を嘲けりて降壇するや、保守党より長野虎太郎氏出づ。「恐惶的列国視線が日本に集注しつつある今日、日清の反間策を露国が講じつつある今日、清国初じめ列国の感情を害せぬ為に、余は本案に反対するものなり」と云ひて修正説を主張し、其修正案を朗読し説明して復席す。其修正案に曰く、

急進党提出満州経営策修正案草稿

一、列国会議ヲ開催シ(英仏独露米伊日清)左ノ件ヲ議決及承認セシムルコト

A 満州ノ主権ハ清国皇帝ニ在ルコト

B 満州ヲ列国共同保護ノ下ニ永久中立地トナスベシ

C 満州ニ於ケル諸般ノ行政改革ハ日本其誘導ノ任ニ当ルベシ

D 満州ノ秩序ヲ紊乱シ或ハ破壊セントスル乱匪勃興スルコトアルトキハ日本其鎮圧ノ任ニ当ルベシ

E 本会議ニ於テ議決シ或ハ承認シタル各項ハ列国誓テ永遠ニ遵守スベキハ勿論若シ一国或ハ数国ノ違反セントスルコトアルトキハ他ノ列国ハ共同提携シテ遵守セシムル任ニ当ルベシ

二、清国政府ハ我政府ガ推薦スル顧問数名ヲ傭聘シ満州ニ於ケル左ノ数項ヲ改革スベシ

(イ) 教育 (ロ) 郵便 (ハ) 貨幣及度量衡 (ニ) 警察 (ホ) 徴税法 (へ) 其他一般ノ行政

三、日本興業銀行ヲシテ速ニ満州ニ於ケル金融機関タル実ヲ挙ゲシムルニ勉ムベシ但シ機ヲ見テ之ニ代ルベキ一銀行ヲ設立スベシ

四、移民及商工業者ノ渡航ヲ奨励スルコト

五、旅順ニ軍港的設備ヲ完成シ以テ満州ニ於ケル大連ノ貿易的設備ヲ完全ニシ速ニ開港場トナスベシ

氏の降壇をまつて鳩山総理大臣は大臣席より出でて、例によりて沈着なる態度を以て「本大臣はこんな時代後れの案には反対なり。平和条約は締結され、満州は是れを還付せる今時、これを議するの要なし」と論破し、それより急進党総理大石正巳氏登壇「現内閣は外交手腕にかけては実に拙劣なり。条約締結後六ケ月を経たる今日、尚満州還付に附せる条件の遂行を勉めず、何等の経営もなさず、我党の本案を提出するは、敢て時代後れに非ず、此案を提出されたる内閣は実に腰ぬけ内閣なり」と総理大臣の言を駁し、「内務、外務は其論ずる処反対なきに似たり、総理大臣は条約の精神を知らず、要するに現内閣は日和見的なり、かぢりつき主義なり」と罵り、次に列国会議の不利益を説くに、英国の失敗を挙げ、「満州経営に付ては戦後経営中は尚戦争の後半期に属す」と云ひて本案を敷衍し、「要するに政府に責任を負はしむべし」と結論して、急進党員拍手の中に降壇するや、進行博士なる長倉氏の発議にて議長は採決の結果少数にて廃案となれる旨宣告せり。

議事は進行して日程第十普通選挙に関する建議案にうつる。馬場書記官長建議案を朗読して復席するや、提出者菊地茂氏登壇、本案提出の理由を述べ、建議案に説明を与へ、氏が得意の一将功成つて万骨枯る的の雄弁は賛成派、反対派を通じて歓迎せられぬ。氏に代りて出でたるは比佐昌平氏なり。「国家は総てのものに平等に権利を附与するの義務無し」といふ論を排斥して、「こはデマゴーグの云ふ処なり」と論破して降壇するや、陸軍大臣黒川九馬氏登壇、「本大臣は普通選挙に賛成す」とて、一つの修正を加ふ。曰く「丁年以上の男子は普通教育を受けたるものに限る」と。黒川陸相の降壇するや、民部熙光氏は中立党席よりやをら立つて「陸軍大臣すら其地位を賭して本案に賛成せられたり。急進党といへば進歩主義なりと思ひきや、大石一派より反対者の出づるは奇怪千万なり」と一本参り、「代議政の布かるる、輿論の貴ばるる今日、普通選挙は更に当然の要求なり」と原案維持を主張して降壇するや、中立党の総理高野猛矩氏登壇、「輿論制は万機公論に決する趣旨より出づるもの、斯くして普通選挙の正当なる論を俟たず。かかる単簡なる問題に討議する必要なき位なり。これを主張するは中立党の本領なれば、中立党と社会主義者の寄合とを混同する勿れ」と弁解して席に復す。それより保守党総理蔵原惟郭氏壇に登り、「日露戦争は日本大多数の人によりて解決せられたり。此大多数の者に権利を与ふるは実に公論なり。余は社会主義に賛成するものに非ず。而も中立党提出の一案に賛するものなり」と論じて降壇せんとする時、議員席より採決を求むの声起る。因て議長は可否を起立に問ひしに、其結果陸軍大臣の修正案は大多数にて通過し、中立党万歳の声は一時早稲田の天地を震動せしめたり。

議事は日程第十一日英同盟継続に関する建議案にうつり、提出者佐野敏三郎氏壇に登り提出の理由を陳べ、「極東問題に満足なる解決を与へ、帝国の発展を偉大ならしむるは、一に日英同盟に依らざる可からず」といふを論拠として、軍事上より、経済上より、綿密なる調査によりて其論拠を堅からしめ、丁寧反覆論じ来り論じ去り、其熱心と其達弁とは大に反対党を刺激したる感ありき。氏は退きぬ。大石急進党総理は「ヨック了解せり」と叫んで出で、「余は日英に尚米を加へて日英米同盟を主張する者なり」とて、米国は精神的同盟国なり、これを入れずして日英と結ぶは米の感情上面白からずと云ふより、米国の主張は門戸開放、清国の保全にあり、此点に於ても米国は我と同盟すべしといふ事より、米国の東洋に於ける位置より、大に三国同盟を主張し、これが日本の得策なり、亜細亜の幸福なりと反覆論述し、堂々本陣に引き取らる。其滔々数千万言流石に此人なりと満場拍手湧くが如くなりき。入り代りて岸田完五氏登壇、「米国を仲間に入るるの必要なし」と絶叫し、同盟拡張、三国同盟を否認して、現状維持の原案賛成の理由を述べて降壇。次に急進党より佐伯峻夫氏出でて三国同盟を主張し、大に同党の為に気焰を吐き、続いて野村徳助氏は「急進党の輩米国の国是を知らず」と嘲罵し、原案賛成の演説を試み降壇するや、浜島利重氏は血眼になりて出演、「吾人は時代の要求に随ひ積極的に日英同盟を拡張せんとするものなり」と陳べ、「東洋平和の為め、人道の為め、世界民衆の為めに否な立国の基礎を堅くせんが為めに、余輩の論に降伏せよ」と結論して壇を降るや、大臣席より上島大蔵大臣(天野為之氏欠席、上島長久氏臨時蔵相)出でて政府の態度を示して曰く、「米国も来てくれればよいが、申込んで臂を喰ふては面目ないと思ふ」と陳べ、蔵原惟郭氏は「急進党の熱心は嘉みすべきも、総理が惚れて居ても、米国がイヤと振つた時は如何にするや。元来同盟は戦争を目的とするものなり。米国は商業を以て立つ国なり。同盟の要米国になくて応ぜざること勿論なり」と論ずるや、議場漸く騒ぐ、ノーノーヒヤヒヤの声各処に反響す。然るに此時田中政府委員は立つて、「諸君暫く」と制し置き「只今加藤外務大臣宛、駐英林公使よりの電報に接せり。故に満場の議員諸君に報告す」とて、

英京倫敦発 明治三十八年三月十五日

東京着 同 同二十六日

加藤外務大臣宛 林全権公使

本日英国下院に於て自由党議員エドワード・グレー氏の提出に係る日英同盟継続に関する建議案は満場一致を以て可決せり

右の報告を聞くや、満場沸くが如く、本案は継続原案を可決する事となれり。玆に於て乎議長は散会を宣告し、早稲田大学万歳、早稲田議会万歳を三呼して散会を終れり。于時午後五時を過ぐる事実に三十分。

(『早稲田学報』明治三十八年五月発行第一一七号 五四―六二頁)

 この時期の擬国会は、その計画についても、実施についても、専ら学生の自治に委ねてあった。そこで、

明治時代には、その人が果して如何なる主義政見に立つかに就いては深い注意も払はず、いきなり急進党なり保守党の領袖に招聘した為めに、登壇の後やつと気が付いて、議長に自己の所属を尋ねる位は未だしものこと、田中正造翁のやうに滔々として、自党を攻撃して、反対党の為めに弁護の雄弁を振つたといふやうな滑稽を屢々繰り返したのであつた。又曾つては予算の中ヘフィリッピン群島買収の費用を組入れるといふ飛んでもない建議案を提出しようとしたことがあつた。当時は我国の対米関係が頗る錯綜して何となく円満を欠いて居た際であつたので、神経質な学校当局者が驚いて其の提出を見合せるやうに注意したので、その建議案はお流れになつてしまつた。又近くは朝鮮合併の以前に「韓国皇帝を華族に列する」といふ畏い建議案を提出した為めに、在学中の韓国留学生の激昻を買つて、数日に亘つて都下の大新聞の政治記者をして東奔西走せしむるやうな大問題を惹起したことがあつた。こんな風で理論の上から又態度の点からは頗る真面目であつたのであるが、聊か誇大妄想的若くは非学術的の嫌ひがあつた。 (『早稲田生活』 二八―三〇頁)

というような批判も出てくるのである。

 この中で、韓国留学生の激しい抗議を受けた事件のことは、一九八頁以降に既に触れたところであるが、四十年三月の第十五期早稲田議会に提出すべき建議案として学内に掲示されたものの、実際には議事に上らなかったから、『早稲田学報』には記録されていない。これに関して、田淵豊吉と同級の親友益子逞輔は左の如く記している。

明治四〇年のことだったかと思う。早稲田の学内行事である擬国会が開かれ、田淵がその総理大臣に選ばれたが、韓国問題を施政方針のなかで提案して大きな物議をかもしたことがある。当時の韓国統監伊藤博文が政府に対して、学生をして徒らに韓国問題を論議させるでないということであり、時の政府もまた早稲田大学に対して、急速に問題を収拾して欲しいとの要望である。大学当局もまた、時局柄放置するわけにもいかず、田淵にいろいろと善処方を希望したが、彼は頑として承知しない。一方、韓国学生は大挙して学校に押しかけるというありさまで、当時の学監高田早苗先生もホトホトもてあましの気味であった。私は、高田先生とは早稲田入学前に多少の関係もあったので、何とかこれが収拾に役立てばと思って、高田先生を訪ねてその経緯をきいてみた。すると、このさい、一番必要なのは事態を円満に解決することである。これには、田淵君が形式的に学校をやめたということにする以外に方法がない。しかし、田淵君が承知しないので誠に困ってしまったということであった。さらに田淵に会うと、たとえ学生であっても、自分の信念にもとづいてやったことをそう簡単に引っこめうるものではない、まして形式的にとはいうが、こういうことは、えてして本当に退学せねばならぬことになるかも知れぬ危険があるということであった。そこで、私はさらに高田先生と会い、退学届の形式に不備の点を設け、いつでも退学を取消しうる形をとって、私が勝手に届を出すということで処理し、幸いにことなくおさまった。

(「わが友、田淵豊吉」 小山仁示編『田淵豊吉議会演説集』第二巻 二三八―二三九頁)

 尤も、第十五期早稲田議会の首相は鳩山和夫であり、問題を惹起したのは田淵の施政演説ではなかった。田淵が首相を演じたのは翌四十一年の第十七期であり、そしてその年には、田淵は無事に大学部政治経済学科を卒業している。退学届の提出に関する益子の記憶が正確だとすれば、田淵の退学は間もなく取り消されたのであろうが、その記録は残存していない。

 またフィリピン群島買収問題は、田淵首相の第十七期早稲田議会の際に発生したのであるが、『早稲田学報』には、その建議案に代るものとして、税制整理建議案が急進党から提出されたことと、「比律賓案の撤回に依りて或は気抜けの観あらむかと思はれ」たにも拘らず、保守党提出の帝国鉄道株式会社設立に関する建議案の採決に際し、急進・保守「両党四、五十の腕白連遂に壇上に入り乱れ」るという「未曾有の活劇戦」が展開されたこととが記載されているのみである。

 田中正造については、三十二年の擬国会に出席したことは第一巻に指摘した如くであるが、更に、四十一年の第一日および四十二年の第二日に出席している。四十一年には中立党の一員として演説したが、

議論は別として、田中正造翁が此日の演説は満腔の熱誠火を吐かむばかりにて、軽薄児が嘲罵冷笑の声を次第次第に消え行かしめて、満場唯だ水を打つたるが如く静かに、「谷中村には家も無いぞ……」の翁が絶叫、人の肺腑を動かして、擬国会場は暫し真面目なる翁が説教壇と化し去つたり。嗚呼燃ゆるが如き翁の眼に蓬々たる翁の乱髪、之が今日日比谷議場の怒号に見る能はずして、僅かに廃村の生神として敗残の漂浪民が友たりつつあるの境遇を悲しむ記者涙無き能はず。

(『早稲田学報』明治四十一年四月発行第一五八号 六三頁)

と報ぜられている。しかし、翌四十二年には、「普通選挙実施に関する建議案」の討論に保守党として参加したものの、『早稲田学報』(明治四十二年四月発行第一七〇号)は「不得要領説」(一八頁)と片づけたのみで、その内容を全然伝えていない。

 最後に一言すべきは、四十一年以後連続して二日開かれるようになってからは、 一日を「学生内閣」、一日を「大隈内閣」ないし「名士内閣」としたことである。例えば、四十一年には、第一日が「大隈内閣」、第二日が「学生内閣」で、その顔触れはそれぞれ左の如くであった。

内閣総理大臣 伯爵 大隈重信

大蔵大臣 加藤政之助 外務大臣 望月小太郎 内務大臣 箕浦勝人

陸軍大臣 松原九郎 海軍大臣 大石熊吉 農商務大臣 田中穂積

逓信大臣 塩沢昌貞 文部大臣 蔵原惟郭 司法大臣 花井卓蔵

内閣総理大臣 田淵豊吉

内務大臣 永田善三郎 外務大臣 長野潔 大蔵大臣 別府熊吉

文部大臣 菅田元成 農商務大臣 花川八蔵 海軍大臣 亀井英雄

陸軍大臣 上福賢固 逓信大臣 坂入準三 司法大臣 門間令助

(同誌明治四十一年四月発行第一五八号 五九頁、六三―六四頁)

 この年には、「大隈総理大臣は何か重要な用事ありて、演説せずに去りたり」(同誌同号六三頁)と記録されているが、翌年の第二日にも、総理として大隈の名は記載されているものの、出席しなかったのではないかと推定され、四十三年第一日には大石正巳、四十四年第二日には犬養毅が首相の地位に就き、「大隈内閣」ではなく、「名士内閣」となったのであった。

二 擬裁判・法学部討論会

ページ画像

 学苑の大学部法学科および専門部法律科の学科課程には、専門学校令下の大学時代のすべてを通して、二、三年に「法学実習及訴訟演習」が配当されている。しかし、その「訴訟演習」が『早稲田学報』に記録されているのは、明治三十五年十二月十三日、四十一年二月二十九日、四十二年三月六日、四十四年三月十一日、四十五年四月二十七日の五回に過ぎず、大正に入っては一回も発見せられない。また名称も三十五年には「擬律擬判」、四十四および四十五年には「擬裁判」と、一定していない。裁判長は、三十五年には今村信行、四十一年には牧野菊之助と、何れも講師が演じているが、四十二年についてはその記録が欠け、四十四年には学生中村健蔵、四十五年には後年代議士として活躍した弁護士三木武吉(明三七専法)がそれに当っている。

 右の五回の中で、『早稲田学報』が最も詳細に報じているのは、四十四年の擬裁判である。四十四年は学生が裁判長席に就いている点でも注目される。また当時は毎回大講堂に立錐の余地もないほどに聴衆が溢れていたと伝えられて、擬国会と拮抗する勢いを示していたが、四十五年については簡単な記事しか残っていない。そこで、ここには四十四年の擬裁判の記録を再録しておこう。

本校法科の公開擬裁判は三月十一日午後一時より、大講堂に於て今村講師指揮の下に挙行せられたりしが、当日は朝より六花繽紛として、終日止まらざりしに拘らず、定刻前より聴衆堂に満ちて、予想外の盛況を呈したりき。今其概況を記さんに、訴訟事件は刑事にして犯罪事実左の如し。

被告石井健蔵及金村安八の両名は明治四十三年八月三日午後九時頃東京市神田区猿楽町二番地太田銀次方にて川淵善太郎等と会飲中、石井健蔵が検閲点呼のため帰郷するに付、石工組合より小遣銭の贈与を受けたき旨を申出で、善太郎と口論を為し、安八は健蔵に加担し、遂に腕力に訴ふるに至り、同日午後十時頃銀次方宅前に於て、健蔵は西洋料理の庖丁を取り、安八は有合せの火箸を以て争闘し、頭部胸部及左手に創傷を負はしめたり。

法科学生中より選ばれて、裁判官・弁護士・被告・証人等の任に当りし者左の如し。

裁判長 中村健蔵(法三)

判事 井本孝(法三) 河原三郎(法二)

裁判所書記 入沢峯太(法三)

検事正 遊佐慶夫(法三)

検事 矢倉孝太郎(法三)

弁護士 加藤猛雄(法三) 坂井幸平(法三) 須永金兵衛(法三)

天満善次郎(法二) 本間賢治(法二) 草村有美(法二)

被告 石井健蔵事 上野慶三(法二)

被告 金村安八事 上田吉太郎(法二)

証人 山口秀治郎(法三)

定刻に至るや、一段高き正面には裁判長、陪席判事、書記及検事等、法服美々敷儼然として居並び、此れと相対して六名の弁護士威儀を正し控えたり。軈て矢倉検事は儼粛なる口調を以て、起訴の理由を述べ、併せて公判を請求したり。此れに対して草村弁護士は公判請求書不備と犯罪事実不明の理由により公訴不受理の申立をなせしも、却下となりて、被告の訊問に入れり。被告両名の訊問終つてより、傍聴席にありし証人を喚問す。次に遊佐検事は立つて、被告両名の行為は正当防衛にあらず、又心神喪失中の行為にも非ず、明に刑法第二百四条及第二百七条に該当するが故に、傷害犯の共同犯として被告健蔵を一ケ年間、安八を六ケ月間の懲役に処せられたしと峻厳に論告し、終つてより更に被告の訊問に移り、漸くにして弁護士の弁論に入れり。

此時迄、片唾を呑んで控へたりし弁護士は交々立つて、或は正当防衛或は心神喪失等を理由として滔々無罪論を主張し、又は人格論・事実論を唱へて、刑の執行猶予を求め、弁論終つて後、裁判長より、被告健蔵を一ケ年間の懲役に処し、被告安八を六ケ月の懲役に処す、但し安八は三年間刑の執行猶予を与ふと判決言渡ありて、喝采湧くが如き中に閉廷す。後今村講師の批評及注意ありて一同紀念撮影をなし、終りたるは正に五時なりき。抑も今回の擬裁判が非常なる好結果を得たりしは、実に各自其任に当りし者が、熱心と誠実とを以て責を尽したるに因る。今左に聊か当日の各自の活動振りの一端を紹介せん。

加藤猛雄君。当日君は劈頭弁護の火蓋を切れり。弁は快弁にあらざるも、荘重人の襟を正さしむ。君は被告石井健蔵の為めに、 極力正当防衛を論じ微を穿ち細に入り、その事実を認定するや精巧、法理を説くや細緻、真に千鈞の重あり矣。君は法科の 秀才にして且つ美丈夫なり。悠々たる風格、貴公子然たるも此れがために累をなしたるを聞かず。当日の氏の弁論は秀麗なる風采と明快なる論旨と相並行して一段の快感を与へ、擬裁判戦闘の第一人として、会衆及び法廷に身の学堂にあるを忘れしむ。

坂井幸平君。風姿温として玉の如く、而かも一度立つや透徹せる口調を以て、検事が人に依りて刑の要求に手加減を用ふるの非を熱罵し、下層社会の特質を陳べて、裁判官に哀願し、被告両名の為めに、刑の執行猶予を求めたり。音量の豊富、論旨痛快、快刀乱麻を絶つ概ありき。当日今村講師より其の主張の非凡なるを賞賛せられたり。君は才気喚発にして、熱血家なり。此れを以て君の性は学究の人に適せず、活動的人物なり、鑑みざる可けんや。

須永金兵衛君。君は清朗の音調を欠き、其言辞徹底せず、早きに失する感ありしは、平生の能弁に似ざる遺憾あり。当日君は警察の横暴を痛罵し、被告健蔵の行為を心理学上より論じ、心神喪失を説けり。君法科にありて文学に親しむ、近来小説界の堕落を概して、『小女物語』を草す、奇と謂ふ可し。

本間賢治君。悠々たる態度に比して、被告安八の為に正当防衛を説くや、峻烈を極む。音吐朗々潮の寄するが如し。検事の論告は杜撰極まる事実審査の上に仮定を置き、其の仮定の上に論理的遊戯を為したるに過ぎずと主張せるは上々なりき。君の風丰、一見剛骨にして、何等の情趣を解せざる如きも風流を解す、然も頭脳明晰、研鑽怠無し。

天満善次郎君。滔々懸河の弁を振うて被告安八の為めに正当防衛を主張せる所、舌鋒鋭利前後人なき如し。君の性や温厚篤実、社交に長ず、記者は君の前途を慶賀して俟つのみ。

草村有美君。儼乎たる風貌、加ふるに其弁や、宛も奔流の岩に砕くる如し。被告安八は甞て早稲田大学法科に学べるものなりと喝破せる処最奇抜。君は法科二年の切れ者なり、君理性に富み、世態人情に通ず。名法官の資ありと謂ふ可し。

中村健蔵君。温乎たる風貌、悠々たる態度、然も其中に犯す可からざる威厳を備へたるは、真に裁判長として其人を得たりと言ふ可し。訊問振り能く其要を得て巧妙、只証人の訊問稍緩慢に失したる感ありしは、白璧の瑕瑾と謂ふ可き乎。君頗る奇骨あり、学究の人として、世才の人として畏敬せらる、君に家庭あり、然も汲々研鑽を怠らざるは感ず可き也。

井本孝君。金縁眼鏡に法官服の風采は故今村名判官に彷彿たり。其の儼乎たる態度は法廷に一際の森厳を加へたり、君の性真率にして研究に余念なく、其頭脳明快、故に君の素志たる司法官の月桂冠を得る近きにある可し。君常に机上に慈母の写真を飾る、以て君の一般を知るに足る。

河原三郎君及入沢峯太君。共に適材を適所に用ひたりと謂ふ可し。

遊佐慶夫君。擬法廷にあるや、終始儼恪の態度を持し、一笑だに洩らさざりしは、検事として上乗。老練なる事実の認定、論理一貫して乱れざる法律論を以て、峻厳に有罪の論告をなしたる処、殊に聴衆の注意を惹きたり。君の頭脳や清澄、其の法理を研究するや細大洩らさず、突然人を捕へて曰く「散歩の約束は法律行為なりや」と、以て君の熱心を知る可し。

矢倉孝太郎君。端然として威儀を正したる態度、厳格なる口調、遊佐君と共に検事としての適任者なり。

上野慶三君。君当日自から進んで被告となる。君の其日の花として最巧妙に活動せし人なり。特に家に在りて刑に服する新らしき刑法出来たる由なれば、其の恩沢に浴し度しと述べたるは、頗る振つたものなりき。

上田吉太郎君。君も亦被告として振つたる一人なり。其の火箸を持つて飛出せしは平生灰をかきまわす習慣に基くと弁明せる如き、君にあらずんば言ひ得ざる処なり。

山口秀治郎君。駆幹偉大、証人として法廷に立ち演説口調を以て陳述証言す。其の要領を得たる如く得ざるが如き、蓋し証人としての秘訣を会得せるものか。

各自の活動せるや記述の如し。今村講師をして予想外の成功との評を為さしめたる決して偶然にあらず。吾人は吾法科のため且つ本大学のため双手を挙げて当日の成功を祝さざるを得ざる也。

(『早稲田学報』明治四十四年四月発行第一九四号 一一―一二頁)

 次に、法学部討論会については、明治末期には、三十五年十一月十五日、三十六年三月二十八日、三十六年十一月十五日、三十六年十二月十九日、三十七年二月十三日、三十七年四月二日、三十七年十月八日、三十七年十二月十七日、三十八年三月十九日、三十八年十月二十一日、三十九年四月二十三日、三十九年十一月十七日、三十九年十二月十五日、四十一年十一月二十七日、四十二年五月八日、四十三年三月十九日、四十三年十二月三日、四十五年三月十五日と、『早稲田学報』に残っている記録によれば、合計十八回開催されたことになる。すなわち、三十六―三十七年度に最も多く開催され、四十―四十一年度には一回も開催されていないわけであるが、果して『早稲田学報』の記事に脱漏がないか否かは明らかでない。また*印を付したものは「大討論会」と記載されているが、それが他の「討論会」と差があるのかないのかも、審らかでない。聴衆数が明記されている場合のみを取り上げてみても、「大討論会」が四百余名ないし八百余名、「討論会」が五百余名ないし八百余名であって、単なる命名の差ではなかったのかと考えられる。なお†印を付したものにあっては「懸賞討論会」と命名されていると否とを問わず、三名ないし五名の学生に賞品が授与されている。比較的詳しく記録されているのが、明治四十三―四十四年度のものであるから、それを次に掲げておこう。

本学年第一回懸賞討論会は十二月三日午後一時より予科第十四教室に於て開かれたり。数百余名の法科学生は予て指定されたる積極・消極の両席に岐れ、中村・三潴・寺尾の諸講師は正面右側に、平松・三木・氏家・石原・山岸の校友は其左側に席し、第二号鐘を合図に出題者今村講師は会長席に着き、徐に討論開始を宣言せり。

討論題 甲は乙を殺害せんとし、某夜乙の書斎の窓に人影の表はれたるを見て乙なりと確信し、拳銃を以て狙撃せんとし、窓側に至りたるに、丙の認むる処となり、其場に逃走したり。然るに当時乙は同所に在らずして、人影と見えしは立像の影なりしと云ふ。甲の処分如何。

積極論者(草村・天満・片尾・河原・上田・福島・加藤・高野・本間・中村)は、主観主義により、甲は犯意あるを以て有罪なりとし、消極論者(須永・油井・中川・矢倉・宮川・渡辺・福田)は、客観主義により、法益の侵害なきを以て無罪なりとし、各自研究せる所に依り得意の弁舌を振ひて花々しく論戦し、勝敗容易に決せず。就中平松弁護士は消極側に立ち、職掌柄被告の無罪を主唱するとて、犯罪予備と着手未遂との分界の曖昧なる所以を説き、巧みなる例を牽き、是れに対して三木弁護士は、余は中立論者なり、単に予備罪として罰せざるべからずと論じ、石原君は消極説、快弁を弄する等、論戦何時果つべくも見へず。やがて今村講師は本問題を解決すべく登壇せられ、或は主観主義より或は客観主義より之を論じ、最後に現行刑法は主観のみに依り将た客観のみに依り凡ての場合を解決し得べきものにあらず、或る場合は主観により、或る場合は客観による、即ち折衷主義に依りて解決すべしとなし、結局殺人未遂なりとして、汎く学説を牽き普く実例を採り、各方面より詳細に論断せらる。尚ほ当日懸賞の栄を得しは、一等賞上田吉太郎、二等賞本間賢治、三等賞中川挺三の三氏なり。而して散会を宣せし時は午後六時にして、数十の電燈は一時に皓々と光を放ち、校門を出づれば、寒月分外に清し矣。

(同誌明治四十四年一月発行第一九一号 一四―一五頁)

 なお、この学年に第二回以後の懸賞討論会が開催された記録は見当らない。

三 科外講義と公開講義

ページ画像

 科外講義の濫觴とその初期における経緯については、第一巻八二〇頁以降に詳述した。それならば、それは明治末期にはいかに実施されたであろうか。

 科外講義は、時に応じて単一或いは複数学科の学生、或いは全学生を対象とし、演説会の形式をとるものと、講義・講話の形式をとるものとがあった。科外講義については、毎年刊行される「早稲田大学報告」には、「科外講義及演説会」と一括して記載されるのがこの時期の常であり、それらの中から真に「科外講義」の名に値するもののみを選び出すことは必ずしも容易ではない。ところが、明治四十三年九月以降の分に関しては、はっきりと「科外講義」として記録されている。そこで、それ以前については、三十五年九月―三十六年八月には、演説会を含めて十二、三十六年九月―三十七年八月には、同じく五(連続講義を含めれば延十一)、三十七年九月―三十八年八月には、同じく十八、三十八年九月―三十九年八月には、同じく二十八、四十年九月―四十一年八月には、同じく十三、四十一年九月―四十二年八月には、同じく十九、四十二年九月―四十三年八月には、同じく二十四の演題について実施されたと「早稲田大学報告」に報ぜられているのを記すに止め、明治の最終二ヵ年間についてのみ、演者と演題とを、左に表にまとめておこう。(なお、実施日は『早稲田学報』によった。)

第二十三表 科外講義(明治四十三年九月―大正元年八月)

 このうち四十四年四月二十六日から六月六日までの二十回分は高等予科特別講話である。高等予科では、「生徒の精神修養に資すると共に兼て其常識を涵養するの目的を以て」明治三十六年十月二十四日を第一回として、毎月二回の土曜講話の制度を設けていたが、「講話を土曜日に限る事より、講話せらる人若くは其会場等の都合より時に開催の不確実を免がれざるの憾みありしを以て」四十四年四月から「此の憾みなからしむると同時に一層此の講話を拡張せんが為め、新に特別講話を設け、予め日を期し正確に之を開催すること」にしたのである(『早稲田学報』明治四十四年六月発行第一九六号八頁)。

 なお、憲法発布二十周年に相当する四十二年二月十一日には、「朝野の名流三十有余名を聘し立憲政治に関する講演会」(『第二十七回自明治四十一年九月至明治四十二年八月早稲田大学報告』二頁)が、学苑主催で開かれている。勿論、厳密な意味での科外講義ではないけれども、その講演を翌月『憲法紀念早稲田講演』と題する冊子として刊行しているところから見ても、学苑当局のこの記念講演会に対する意気込みの程が察せられるので、ここに付記しておく。

 「第二十八回早稲田大学報告自四十二年九月至四十三年八月」(『早稲田学報』明治四十三年十月発行第一八八号)には、「〔四十三〕年五月雑誌『早稲田講演』(毎月一回発行)を創刊し、主として本大学科外講義を収録し、校外教育部の機関に充てたり」(二七頁)との記載が、出版部の項に見られる。すなわち、次章に説述する新設の校外教育部と校内教育とを結ぶ環として、科外講義に新しい機能が期待されるようになったとも見られよう。この雑誌『早稲田講演』は、大正五年三月まで刊行が続けられている。

 他方、明治三十七年九月の『早稲田学報』(第一〇五号)は、学術の普及を計る目的を以て、公開講義の制度が学苑に設けられたことを報じている。

公開講義規則

(一) 学術の普及を計るため本校に於ける通常講義以外、特に数科の講筵を開き、広く公衆の聴聞を許す。

(二) 公開講義は当分の内、三月より五月に亘る春期と、九月より十一月に亘る秋期との二種とす。

但し、講義の都合により学期間を伸縮することあるべし。

(三) 公衆の便宜を計り一学科を一週一回二時間と定め午後四時以後に始むるものとす。

四(四) 十八歳以上の男女は何人と雖も聴聞するを得。

但し、本校に於て不都合と認めたる者は謝絶することあるべし。

(五) 公開講義には通常講義の教場規則を適用す。其特別なるものは別に之を定む。

(六) 聴聞者は一学科一期を通じて聴聞料金一円五十銭を納め、聴講券に替ふべし。但し、聴聞学科の数を増す毎に金五十銭を加納せしむ。

但し、本校大学部及専門部学生は半額とす。

(七) 聴聞者には本校の図書閲覧を許す。 (三二―三三頁)

 これは、規則の(一)にも見られるように、通常講義以外の数科の講筵を開いて希望する大衆に開放し、大学の講義に匹敵する内容を理解・普及せしめるためのものであった。

 この規則が発表された後、第一回通俗公開講義の開かれたことが、『早稲田学報』第一〇九号(明治三十七年十二月発行)に載せられている。

第一回通俗公開講義 十一月毎日曜(六日、十三日、二十日、二十七日)午前八時より十二時迄、各二時間宛左の二博士の講演を公開せり。聴講生は男女四百余名にして、学術の普及を図る本校の目的は頗る好果を得たり。

文学の話 文学博士 坪内雄蔵

諸人種風俗談 理学博士 坪井正五郎 (四九頁)

 この公開講義の制度は、三十八年の「早稲田大学規則一覧」(同誌明治三十八年七月発行臨時増刊第一二〇号)に、右規則の(一)の「数科の講筵」を「数科ノ通俗講筵」と改めたほか、(三)と(七)とを削除し、(六)の聴講料については「毎回之ヲ定ム」としたなど、若干の変更を加えた全五条を「公開講義規則」として収録している(八二頁)が、四十一年を最後として姿を消している。しかも、右の第一回以外には、公開講義が開催された記録は残っていない。次章に触れるように、四十年からは校外生のために夏期講習会が開催されているが、それによって公開講義に代えたと見るのは無理であろう。恐らく、清国留学生部の設置、文芸協会の創立等、学苑も内外多事であり、公開講義の継続実施にまで手がまわりかねて空しく両三年の日子が過ぎるうちに、校外教育部新設という一層野心的な計画が学苑当局者の脳裡に芽生え始め、公開講義制は自然消滅の運命をたどったものであろう。