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第四編 早稲田大学開校

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第十章 大隈重信の総長就任

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一 野に嘯く

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 日露戦後を承けて、早稲田大学が上昇過程にある明治四十年、青陽四月十七日、大隈重信の早稲田大学総長推戴式が挙行された。

 「今更?」と世人は怪訝に堪えなかったかもしれぬ。早稲田は大隈の学校である! これは広くみな心得ている常識だからである。しかし不思議なことに、創立以来二十五年、大隈は早稲田学苑の要職に名を列ねたことは一度もなかった。それは明治十四年の政変で生れたため、西郷の私学校の先例から、謀反の壮士を養成する学校ででもあるかのように世間が誣いたので、その誤解を解き、悪印象を払拭するため、大隈は学苑内に足を踏み入れぬほどの要慎深い態度を執った。期するところは、憲法発布に備えて、立憲治下の国民として欠くるところなきよう、政治的、いな全人的教養を与えることで、区々たる一大隈の党与を作り、自分の部下を盛んにして、勢力を伸長する意図など更々ない。勿論、自分の輩下に来たり、その政党に加わるも妨げないが、強いてそれを求めるのではなく、敵派の反対党に馳せ行くことも、敢えて拒まぬのである。内実はともかくとして、大隈と早稲田大学とは、制度的に言えば無関係であった。校長も、養子英麿の後任には前島密が選ばれ、その後は引続き久しく鳩山和夫がその任にあったこと既記の通りである。

 しかし大隈の動静は、隠然として大きく学苑の消長に関係しないわけにはいかなかった。大隈が薩長藩閥にいささか後れながら伯爵を授与せられた時、木下尚江のような心からの民権的学生はいたく失望したが、多くの一般学生は校主の出世を歓呼した。それによって政府が学生を拉致し、講師を差し止め、金融を押えるというような乱暴な弾圧は控えるようになり、新華族様の学校として幾分の尊敬を増したからである。黒田・松方の両内閣に外務大臣となり、また最初の政党内閣として総理大臣の印綬を帯びたことと、例えば徴兵猶予の制度に均霑し、或いは中学教員の無試験検定の資格を認められるというような便宜が与えられたこととが、全く無関係ではなかったと想定しても、必ずしも牽強付会とのみは言えなかろう。されば早稲田大学として、大隈の政治的出世を忌避せねばならぬ理由は少しもなかった。

 ただし隈板内閣の崩壊の様態は、大隈生涯の無様さを実現した。元来、板垣の旧自由党系と大隈の旧改進党系がにわかに結合したので、官僚はその備えの全からず、基礎の脆弱なのを見越してわざと難題を持ちかけ、俗に言えば困らす手段に内閣を譲った形だったので、進歩・自由の両党は啀み合い、一方では官僚組織を把握せぬため、彼らこぞっての怠業に遭い、貴族院は反感を持ち、軍部大臣は内閣の中から揺さぶる態度に出て、まさに無援孤立と言ってもよかった。僅かなる救いは、尾崎行雄文相の「共和演説」が直接の命取りとなって、拙政のために崩壊する醜態を幾分薄くし得たことだ。日清戦後の金権の跳梁のままに放置すれば、万々一、日本が共和政体になった時、その候補たる者は、三井・三菱の徒であらねばならぬとは、何らの痛快の断定、動かすべからざる見通しであったことか!

 しかし、その率いた憲政党(自由・進歩の合同)の後始末が、大隈としてあるまじき油断と迂闊であった。時のアメリカ駐劄公使は剛腹さの故に押し通るの異名のあった星亨であった。故国政界の風雲のただならぬのを望観して、帰国願を出したが、兼摂外務大臣の大隈はそれを許可しなかった。しかし星は独断で任地を去り、横浜に着いてから、実はまだ電報も見ていないと言って、出迎えの衆人の面前で封を切るという見えすいた芝居をした。そして忽ち旧自由党員を籠絡し、あっと言う間もなく党本部に立てこもってこれを占領し、自ら憲政党と称して憚らず、かねて伊藤博文に非政党主義を改めて新しい政党を作る内意のあるのを知り、これを売り込んで、主力を形成して誕生したのが立憲政友会である。

 大隈は残兵の旧進歩党員を集めて、憲政本党として陣形を立て直し、こと政党に関しては伊藤より一日の長があるのを恃んで、政友会に対峙した。尤も腹心の門下の尾崎咢堂が政友会に奔ったのは、世間も意外とし、大隈派にとっては一大損失であった。尾崎は、非政党主義の伊藤が政党を組織するのは我が方の軍門に降ったのだから、これを助け、過ちなきように監視し、指導する任務があるというのを口実としたが、大隈を首肯させるに足りなかった。

 「政党の操縦は容易ならぬことで、吾輩でさえも手に余るのに伊藤ではうまく行く筈がないと、大隈伯は前途を見すかしておられるようだった」と、尾崎は死の直前その時の事情と心境を語った。果してその通りで、伊藤は政党が意外に厖大なる費用を要するものなのに先ず驚き、殊に桂首相から、伊藤公が一面、陛下に密邇して上奏進言する枢密院議長で、他面内閣の野党たる政友会の首領であるならば、内外に亘ってオールマイティになるから、何れかその一方を辞してもらわなくては政治の行えない旨を上奏するに遇い、天皇から、政党を捨てて枢密院議長に専心するようにとの内諭があって、政友会総裁は西園寺公望に譲ることとなったのである。

 もし、この間に星亨が健在であったら、彼の辣腕は何事を画策するか分らぬところであったが、天なる哉、命なる哉、呆気なく壮士の兇刃に倒れた。大隈が終世ひそかに最強の勁敵として舌を巻いたのは、ライヴァルの伊藤にあらず、大正になって台頭した原敬や後藤新平にあらず、まさに星亨であったろう。

 世は日露戦争を迎えて、政党の内に鬩ぐを許さず、抗争した伊藤・大隈も、根が最も腹心を打ち明けられる親友なので、旧交を復し、各種の会でも伊藤の出席するところ必ず大隈も参加し、大隈の顔を出すところ伊藤もまた出席して、互いに歓談して余念なきものの如くであった。その情景にしばしば接した徳富蘇峰が、談論においては常に大隈が伊藤を制して、座中の花形たる観を呈したと言っている。

 しかし、隈板内閣の失敗は大隈の政治生涯に再起の難しきほどの深傷を負わせ、政権の座から全く遠ざけられてしまって、再び大臣となり、況んや首相の印綬を帯びる機は永遠に去ったと思われた。然らば大隈は世から埋没してしまったのかと言えば、その反対で、野に嘯く予言者の如き権威を以て、その一言一句は、国内はおろか世界を動かすに至った。これは恐らく本人も十分には自覚しておらぬ才能であったろう。

二 世界的大隈

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 明治時代の雄弁家を挙ぐれば、大隈は必ずその筆頭に数えられる。しかし太政官時代、八面六臂の手腕を発揮したといっても、折伏の弁を以て烈しく応酬したとの記録はなく、殊に明治十年代、筆頭参議になってからの大隈は、寧ろ寡言の人で、後半世あのような弁舌の人になるとは思いもよらなかったと、当時の人が語り残している。「板垣死すとも自由は死せず」式の劇的名句は、大隈には残っていない。しかし隈板内閣の施政方針演説で、従来は「大臣」というのが慣例であったのを「私」と改め、その懐抱を説き来たり弁じ去るや、抑揚に富み、意気揚り、満場の聴衆は「おや!」と意外の感をなして、ここに雄弁家大隈の誕生を見たのである。

 しかも博識にして記憶力よく、百科全書的知識を以て何事についても一家言あり、それが人をして首肯せしめる。殊に政治意見は宏達にして先見に富み、特に外国人は、官僚的偏見に堕せず、民主的日本を代表する脈摶はここに打っていると直観し、来日の外人は、大隈伯の意見を叩かなくては未だ日本の本音に接せぬ思いをなし、その自慢の庭園は、海外の客を惹く名所の一つとなった。

 その訪問者名簿に名を記入した世界の名士は、綺羅星の如く、ここに一々挙ぐる煩に堪えぬが、『タイムズ』の外交部主任ヴァレンタイン・チロルの名は特筆に値するであろう。同紙の北京駐在員は、今も東京駒込の東洋文庫にモリソン・コレクションとして名を留むる大記者ジョージ・アーネスト・モリソンだったが、やや反日本的で、日露戦争後の日本が満州を独占してイギリスのアジア権益を無視するとの理由で、日英同盟廃棄説を唱え、これに反して通信員フラーンシス・ブリンクリーは日本の立場に理解同情を以て、日英同盟強化説を唱えたので、さすがに世界第一の新聞『タイムズ』も二つの意見に接して戸惑い、外務大臣以上の勢力があるとの評判あるチロルをわざわざ東洋に派遣したのである。チロルは後に天皇から拝謁を賜わった最初の外国人記者たる栄誉を負う大記者だったが、何よりも先ず、モリソン、ブリンクリーの両者を伴うて大隈邸を訪問し、各自腹蔵なく意見を吐露して、遂に三者とも、大隈の歴史から推論した高遠公正の意見に聴従するに至ったので、大隈の名声は国際的に絶頂を極めた観がある。これは一例で、東からはアメリカ政界の惑星で若さに輝く古今の大雄弁家ブライアンも来て、大隈と意気投合し(彼はジェファソンの帰依者で、その監修の全集を大隈に贈ったのはその故である)、西からはスウェーデンの世界的探険家ヘディンも訪れて学生に講演するという有様で、千客万来、民間国際外交の中心となった。

 二十世紀を目前にして、『ノース・アメリカン・レヴュー』が初めて大隈に原稿を求めてきて、論壇の飛将軍高山樗牛が、外国の一流雑誌から寄稿を乞われたのは日本においてはこれを最初とすと、珍しそうに評論したのは、つい昨日のこと、今や各国からの寄稿を乞い来る者、引きも切らずの盛況である。日露戦争に大勝を博した所以のもの、勿論、忠武の軍人の勇戦が直接の原因だが、世界に散布した大隈の言論もその功に依ること少しとせずと言われた。現に『日露戦争実記』を繙いて「世界の反響」という欄を見よ。大隈の言論活動がいかに華々しく、貢献すること多大であったかが分る。

 これは恐らく、政府筋は全く予想せず、大隈自身とても十分には自覚しなかった新天地の開拓で、政権から弾じき出された損失を償うて余りある余得であった。中央勢力に超然として野に高嘯する者、勝海舟あり、三浦梧楼あり、先例は乏しくないが、彼らが幾らか睨みのきくのは国内においてのこと、大隈に至っては実に国際的なお山の大将で、日本人としては初めて現れたパターンである。一地方新聞が「トルストイ伯と大隈伯」の社説を掲げ、どちらも伯爵にして、それ以上に昇爵する望みなく(この記者は、ロシアでも昇爵の例があり得ると誤解している)、しかもその言論、彼においては皇帝も如何ともし難く、此れにあっては首相よりも天下に重きをなすところ、相似たりと言ったのは、やや真相を得たものである。

 大隈は生活において貴族好みであり、大名の如くでありながら、不思議と民主性と国際性を発現して来たのは、大いに早稲田学生の志向に投じ、大隈崇拝熱は高揚して止まるところを知らなかった。この大隈と学生との間に親密な融合の生じたのは、今までに例のないことだった。伯爵・大臣としての大隈の存在は、寧ろ学生には近づき難いものがあったが、野に獅子吼するに至った今は、親分として、大ボスとして親しみよかった。

 実は、学校は、これを設立すれば、その設立者の人格が必ず学校に浸潤し投影して校風をなすと限ったものでもなければ、藩閥の有力者が手を貸したからと言って、その人格的薫染を学校が帯びてくるというものでもない。例えば、今までしばしば例に引いた山田顕義を見よ。法典論争に際して失意の人となった山田は、二十三年九月日本法律学校(今日の日本大学)を、同年十一月国学院を作った。しかし、それら二大学のどこかに、山田顕義の影響として今日も欽仰されるものが、些少でも残っているであろうか。それは政略のために教育を利用したので、教育に対する誠実性を欠いたからである。そこへいくと慶応はいかに大きく発展しようとも福沢諭吉の学校に違いなく、同志社から新島襄の濃厚な人柄的薫染を払拭できるものではない。世に教育に着手する者は多い。しかしその学校に設立者の魂魄の残るものは少い。

 大隈はいつまでも政治に縁を絶たず、政治と大学を両天秤にかけていたら、たとえ早稲田が大隈の学校と思われても、どこかそぐわぬ一膜が残って、福沢や新島のような人格的投影を大学に残すことは、或いはできなかったであろう。隈板内閣後の政治的休息時代が、彼と早稲田大学との間に好ましい融和関係を醞醸させたのだ。

三 待望の総長就任

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 明治四十年を以て大隈重信の生活は一大変化を遂げ、それとともに早稲田大学にも新時代が開ける。

 この一月六日、宮中席次の変動があって、次の如く決まった。

伊藤博文、山県有朋、大山巌、東郷平八郎、西園寺公望、松方正義、井上馨、徳大寺実則、田中光顕、寺内正毅、松岡康毅、斎藤実、阪谷芳郎、山県伊三郎、松田正久、原敬、牧野伸顕、林董、野津道貫、伊東祐亨、大隈重信、桂太郎、榎本武揚、芳川顕正、板垣退助、山本権兵衛

これは日露戦争の論功行賞で、無爵の東郷が一躍して大勲位を賜り、無位無官の原が西園寺新内閣に内務大臣に列せられるなど、異動があったからである。ただし、世が世なら伊藤に肩を並べているべき大隈が最後から六番目に列しているのが、さすがに奇異に見え、小学校などでは「この人は偉くて第一、二位を占めるべき人だ」と教師が教えたところもある。これは大隈の宮中、もしくは官界に占める地位の薄弱さと、民間に持つ博大の声望とのずれを暗示するもので、ここに録するに値せずとしない(ただし、この宮中席次を改めた記事は『明治天皇記』には欠落し、『日本』新聞(明治四十年一月六日号)から補った)。二月二日、天盃を賜う。山県有朋以下十人の名を列記し、「七十歳の高齢に達せるを以て、御紋付木盃各一個・酒肴料各金五円を賜ふ」と『明治天皇紀』にあり(第十一六七九頁)、形式的なもので、天恩は有難かったかもしれぬが、重臣への恒例で大した意味はない。しかしその前一月二十日、憲政本党大会に臨んで、憲政本党総理を辞する演説をしたのは、大いに意味がある。尤もここに憲政本党の消長を述べる暇はないが、要点を言えば、伊藤の政友会創立の向うを張って憲政本党総理の椅子についていたが、やがて政友会は西園寺内閣ができて、我が世の春を謳歌するに対し、憲政本党は伊藤との交渉上、一、二の入閣者があるのを期待していたのに、何の音沙汰もなく、かくて憲政本党は永遠に政権とは絶縁の形になったので、党員の失望不満もあり、派閥の抗争もあり、さしもの大隈も嫌気がさして来た。

 尤も、その訣別演説では、政治が本来飯より好きで、決して絶縁するのでない旨、意気軒昂として述べたが、日露戦争後半頃から、次第に文化活動により興味を覚えて来つつあったのが、この結果に及んだと言えよう。つまり従来よりも、大学の方に打ち込む姿勢に変ってきたのである。この年秋大学は創立二十五周年を迎える。その準備として、大隈の銅像建設、その他若干の学科の改廃など協議している中、後述(三五四―三五五頁)するように、学校を従来の社団法人から財団法人に更え、総長・学長を設けて校長を廃止するという案が出た。

 イギリスでは政界の名士が大学総長に就くことが珍しくない。例えばバルフォアはエディンバラとケンブリッジ、ローズベリーはロンドンとグラスゴー、カーゾンはオックスフォードの総長である。大隈の明治史における政治的勲功の偉大さは、それらイギリスの政治家を寧ろ超ゆるものがあり、しかも大隈は事実上の校主である。されば、イギリスの大学と日本の私立大学との間には大きな差があるとはいえ、今までも恐らく大隈総長案は再三出たであろう。しかし政界に関係して寧日なき有様で、承諾を得べくもなかった。だが今は憲政本党総理を辞して、口でこそ政治は捨てぬと強がりを言うものの、いわば退閑の身である。そこで大学から総長就任の相談を受けると、非常な満足を以て快諾した(三五五頁に引用した四十年四月四日の維持員会決議参照)。ここには問題はない。そして、その下の学長となると、後世から見れば高田早苗以外には考えられないほど、彼が創立以来発揮した手腕・実績は比類なく、その徳望と学識からいってまさに最適格者である。

 ただ、この時は校長として鳩山和夫が在任中である。彼が早稲田に対する経歴・功績は、必ずしも高田早苗に甚だしく劣るものではない。文部省最初の法学留学生として、五年の間に三つの学位をとってきたという評判の大学者で、政界では常に藩閥の誘いを退けて、どんな悲境の時でも大隈に背かず、早稲田を捨てなかった人だから、その点は大隈も信頼と恩義を感じていた。小野梓は別格としても、高田・天野・坪内博士に劣らぬほど長い間学校に尽瘁して、今現に要職の校長である彼を、この際取り替えねばならぬ局面が生じてきたのだ。

四 鳩山校長への不満

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 どう考えても、この際、鳩山の校長更迭を決議したのは、政界における鳩山の動きに大隈が既に不満を感じていたにしても、常識的には非は寧ろ学校側にあったと言わざるを得ない。しかもそれを天下教育の府が敢行したのは、言うに言えず、記録するに記録できない事情が存したのではないか。恐らく、第一は鳩山に人間的魅力または迫力に欠ける点が若干あったのではないかと思われる。無論彼は立派な紳士で、人格的・道徳的に非議すべき点はない。しかし欠陥はないが何となく人に好かれぬ性格であった。開成学校の学生時代から、最年少でいつも首席を占める秀才でありながら、どことなく男らしさがなく、僚友から親しまれず、重んぜられなかった。さればいよいよ成績のいい数人が最初の海外留学をするに当って、ひそかに彼の排斥運動が行われて、危うく選に漏れようとしたのを、自伝でも語っておれば、排斥の張本であった斎藤修一郎(留学中、『忠臣蔵』を英訳してルーズヴェルトの愛読を受け、帰来井上馨の下に農商務次官として、大臣以上の名のあった才人。惜しくも失脚す)も語っている。それから察すると、才能抜群で欠陥はないが、衆を惹きつける情熱の乏しい人物ではなかったか。鳩山は伊藤など藩閥からも誘いを受ける人材だが、人間的に彼を一番信用していたのは、大隈だったようだ。

 その大隈と鳩山との関係に気まずいヒビが入ったと言えば、隈板内閣の時、彼を大臣にしなかったことであろう。大隈首相の下に彼が外務大臣たるべきことは、十目十指、天下がこれを認めていた。ただ政府は旧自由・旧改進両党の寄合いであるため、閣僚の数の比率の上から難しく、その上自由党の方に鳩山では飽き足らぬ感情があって、大隈が兼摂外相に任じて、鳩山を次官とした。これは往く往く機を見て外相に引き上げる心算があったので、その辺の暫くの我慢も鳩山なら諒としてくれると考える理解と親しさが両者の間にあった。しかし半年にも足らぬ短命で倒れたため、大隈の意図は実現されなかった。これは鳩山にある程度の不満を与え、傍の目からは大隈・鳩山の間を裂こうとする口実になった。

 伊藤が政友会を作って、鳩山を招聘しようとして面会を求められた時、鳩山の胸中には、政党を介して伊藤・大隈の両雄を握手せしめようとの案があり、それを切り出すと、伊藤は一も二もなく退けて、罵倒した。「大隈といふ男は元来が薄情な人間である。誰でもあの男にかかれば結局は酷い目に会はされる。第一に君を大臣にすらしなかつたではないか」(鳩山春子編『鳩山の一生』二六五頁)と、話を切り出す隙をさえ与えなかった。また、エール大学二百年祭に、伊藤が鳩山夫妻とともに渡米した時、春子夫人は一生に一度の懇談の機会として、夫の念願の、両雄握手のことを言い出すと、「大隈は酷い男で、とても一緒に仕事は出来ないよ。……大隈の夫人が悪い、奥さんはさう云ふが、第一に大隈は貴女の御主人を大臣にも仕得なかつた男ですよ」(同書二六六―二六七頁)と、伊藤は再び同じことを言って拒絶している。こういう裏面の消息が何となく漏れて、二人の交情に一抹の暗雲を漂わせたというより、大学側の鳩山を見る目が平らかではあり得なかったような事情はないか。

 第三の不平不満は学生側から出たようだ。鳩山の二人の令息一郎と秀夫は世に名だたる秀才で、当然のことながら、一高・東大のエリート・コースを進んだ。世間一般の目からすれば、これには何の異論も錯誤もあるべき筈がない。しかし鳩山はその時、早稲田大学の校長である。その自分の訓育し、董督する教育機関に、自分の愛児を託することができないとは何事か。自分の子すら教育する自信のない大学で、他人の子を集めるとは何事か! こういう不平不満が学生の脳裡に燻り始めたのである。考えてみれば、当時の早稲田は大学になって日も浅く、設備も不完全、教授には勿論天下きっての碩学も交じっているが、大部分は掛持ち講師で、専任講師なら概して官立大学に劣る。そこへ鳳雛にも比すべき無双の寧馨児を託さなかったとしても、別に不思議はなかった。中学卒業生とあれば、無試験で、優劣の差なく、大量入学を許す学校、当時「早稲田蛙」の蔑称さえあった中に伍せしめて、錦鯉の幼魚を放り込むには、親として絶大の勇気を要したろう。しかし学生は純真で、既に「日本一の大学」の誇りさえ芽生えかかっている矢先だから、そのような官学尊重なら、自由学風が看板の早稲田の校長たるに適しないとの不満が、底流をなして渦巻いてきたのも、強ち無理とのみは言い得ない。

五 鳩山家の憤懣

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 大隈総長・高田学長の就任は明治四十年四月六日を以て公表せられ、十七日がその推戴式、三十日は校友会を紅葉館に開いてその送迎の宴を張った。出席者百七十名、宮川銕次郎が代表して送迎の辞を述べた。この時、西村真次の『半世紀の早稲田』によると、

鳩山校長の位地は自ら解消した。……普通ならば気持の悪かるべき鳩山前校長は、飽くまで虚心坦懐に総長及び学長の新任を喜び、「私は今後校友会員の一人として、又維持員の一人としましては、及ばずながら早稲田大学の発展には、諸君の驥尾に附して尽力する考へでございます」という語で其演説の終りを結んだ。 (二二八―二二九頁)

とある。ここで鳩山が少くとも表面的には「ゴテなかった」のは、この交替を紛擾から防いだが、西村の記述の「自ら解消した」とあるのは含みの多い記述で、危うくすれば、大正六年の学校騒動はこの時にも勃発すべき契機がひそんでいなかったとは言えない。公にこそされなかったが、鳩山家の憤懣は当然で、実は早稲田大学側にも、いささか踏むべき手続を疎略にし、十分の説明と了解を求める礼儀を尽さず、「自ら解消させた」痕が見えなくもない。これに対して『鳩山の一生』に述べるところは次の如くである。従来の早稲田関係の書物にはこの点が全く閑却されているから、ほぼ全文を掲げておこう。重複するところが多少なくもないが、またその経過を別な視野から眺めた点もあって、引用は無益でない。

明治二十三年七月、鳩山は大隈侯の依頼により、外務省を辞して間もなく前島氏に替つて校長の職に就任することとなつた。元来、鳩山〔は〕私学の勃興に尽力することを以て理想の一としてゐた……が、早稲田の校長となるに先んじ、十三年帰朝早々私学の発展に志し、田尻稲次郎子等と図り専修学校を起して私学教育に関係し、一方には同校より法律講義録を発行して就学し得ざる青年の教育に心懸けた。明治十五年には大岡育造氏の経営してゐた講法学舎(現明治大学の前身)に招聘せらるるや、鳩山はまたこれを快諾して官学に対する私学の興隆には一身の労力を惜まぬ風を示した。然るに身辺の事情に拠つてその後は暫く私学関係を遠ざからざるを得なくなつたが、また再び私学の発展に尽力するの機会を与へられたので、多忙の身ながら、鳩山としては、固より校長たるの任重しと考へたかも知れぬが、自已の理想に忠実なる余りこれを謝絶し難く、遂に東京専門学校の経営の衝に当ることを快諾したものである。

鳩山が校長就任当時の生徒数は、僅かに六百六十余人といふ有様であつたが、明治三十一年、その学校の発展を策して経営組織を変更し、大隈英麿鳩山和夫高田早苗坪内雄蔵市島謙吉天野為之の六氏を社員とする社団法人と改め、更に同三十三年二月に至り校制を改革して校長と学監とを理事とするに決し、鳩山が校長に重任し、学監には高田氏が就任することになつた。翌三十四年一月より校舎増築その他学校発展の為め基金を募集することとなり、鳩山も大いに財政上に尽力するところあつた結果、三、四年の間に二十六万三千余円といふ申込を受け、これが基本となつて後日早稲田大学と改称し、私学の雄となるに至つたのである。明治三十五年九月、専門学校令に従つて早稲田大学と改称したけれども、鳩山は依然として校長の職に在り、この時の生徒数は三千人を突破し、経費も二万五千円余となり、その目醒しい発展は世間を愕かしたものであるが、後四十年四月法人の定款を改正して校長・学監の職を廃し、新に総長及び学長を置くこととなつた為め、在職十八年の永きに渉つて尽力斡旋した早稲田大学より、終に、鳩山は退かねばならなくなつた。その就任当時に比すれば、生徒数は一躍六千余人、経費十九万三千四百円余、収入十九万五千九百円余といふ状態となつてゐた。

恰もこの頃、すなはち、明治三十九年十一月頃より約二ケ月余に渉つて鳩山は病床の人となつてゐたから、事実、学校が如何に変革されつつあるやを識らなかつたのである。然るに、何人もそれを鳩山の耳に入れやうとしなかつたことは頗る遺憾である。しかも、明治四十年の春、病後静養に赴いた大磯より、約一ケ月にして鳩山が帰京したその日、早稲田よりの使者として来訪した箕浦勝人氏は、実に、突如として学校の変革を報じ、且つ鳩山の退職を求めたものである。斯くて、久しく経営難に陥ちてゐた東京専門学校を財政その他の点において苦心経営し、漸くにして今日の基礎をつくつたのではあつたけれども、終にこの年の春、鳩山は潔く早稲田の学園より身を退いたのであつた。翌四十一年三月、早稲田大学が社団法人より財団法人に改めらるる際に、鳩山は更に維持員をも辞して、ここに全く早稲田大学とは関係を絶つに至つた。併し乍ら、既にこの当時における私学の発展は一般に旺んなものがあり、その鳩山が理想とした目的の大半は達せられた状態に在つたから、全然私学関係を絶つに至ると雖も、鳩山は決してそれを遺憾としてゐなかつたやうに考へられる。少くとも鳩山は愚痴とか感傷的な言葉とかを嫌つた。そんな様子を他人に見せなかつた。この点許りでも春子は常に敬服に堪えなかつたものである。

(七六―七九頁)

 これだけでは、まことに淡々として欽仰すべき心境だが、実際は当然、このように平らかなものでないことが、同書の別な記事で分る。

鳩山は一片の口頭辞令を以つて、早稲田との関係を絶つべき旨を通告せられたのである。丁度、それは明治四十年春のことであつた。前年の暮十一月頃より鳩山は最初のマラリア熱に罹り、約二ケ月にして快方に向つたので、四十年の春に入つて約一ケ月ばかり大磯の招仙閣に静養し、全く健康を回復して恰も帰京したその日、早稲田の使として箕浦勝人氏が来訪した。春子はそれを病気見舞かとばかり思つたところ、意外にも、その来意は病気見舞どころではなく、突如として早稲田大学の学制改革が報ぜられ、鳩山の病中には一言の相談すらもなくしてその諒解を求めに来たのである。その時春子は、隣室に在つて話を漏れ聞き、その瞬間、鳩山の胸中を察して涙は忽ち胸に溢れた。おお、如何に鳩山自身がその理想の為めとはいへ、情義の前には一身の栄達すらも顧みず、二十年に近く心身を傾け尽した早稲田学園より、斯くも冷酷な取扱を受けて鳩山は追はるるのである――と思へば、箕浦氏の去つた後、春子は遂に得耐えずしてそこに泣き伏した。「泣くな、泣くな――今まで早稲田の為めには凡ゆる勧誘を、如何なる勧告をも、総てそれ等に耳を傾けなかつたが、今こそ鳩山は自由の身となつたのだ」と云つて、却つて鳩山は春子を慰めたものである。しかし、大隈侯と鳩山との関係が如何にして結ばれたかを按へば、その終末が如何にも不条理に過ぎたことは余りにも意外であつた。 (二六八―二六九頁)

 この鳩山夫人の不満を率直にぶちまけた著書により、従来早稲田側であまり念頭に置かれず、従って知らるることの少かった鳩山和夫との交渉の陰影が鮮明に浮き上がっている。しかし、八九四頁に後述するように、学苑主脳部にはまたこうした措置を採る然るべき理由があったのかもしれないのである。

 新学長の高田早苗についてはこれまでもあまりにたびたび触れて来たので、今更書き加えねばならぬことはないが、もともと旧鷗渡会員中、学才最も優れ、識見最も富み、その学生を教うるや令名いよいよ高く、木下尚江の語り残すところによると、明治二十年代の学苑の講師陣の中では、嶄然頭角を抜いて学生間の信望が厚かったのは高田で、さすがの坪内逍遙の講義でさえ、識見卓抜の妙所に至ると、「ありゃあ高田さんに教わって来たんだぜ」と噂し合ったものだそうである。終生を学問の研究と教授に没頭したなら、蓋し進境は計るべからざるものがあったであろうが、大学組織になると、学監としても事務漸く繁激を加え、更に学長に登っては、惜しいことに少くとも学者としては消滅した。しかし学長としては学生の信頼いよいよ厚く、鳩山と比べて、「入婿の叔父と親身の兄との違いはあった」と当時の学生が語っている。