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第十一編 近づく創立百周年

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第三章 大学問題研究会

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 泥沼化したヴェトナム戦争がきわめてインモラルな末期的症状に陥り、一方、ソ連支配から離脱しようとしたチェコスロヴァキアをソ連が戦車を以て武力制圧するという暴挙に出た。リベラル・デモクラシーもマルクス主義社会主義も、現実の中で、それぞれの歴史的限界を露呈していった。更に、頂点に達した高度経済成長が、インフレや公害など、いわゆる成長の逆説を誰の目にも見えるものとし、南北間の対立も深刻化する兆しを見せた。そういう中で学生運動も過激化した。昭和四十三年には、安田講堂を学生に占拠された東京大学は入学試験を中止するという異常な決定を下し、日本大学では全学共闘会議が結成されて神田の学生街において学生と警官隊との衝突がしばしば起った。パリや西ベルリンのヨーロッパ都市をはじめとして、イタリア、スペイン、メキシコ、ブラジル、アメリカ合衆国、更にはタイなどアジア諸国でも、既存の体制に反発する学生の蜂起が頻発した。まさに、既存の価値や秩序が深刻な疑問にさらされたのである。「世界的規模で生起している社会的変貌の動向を正当に理解し、本大学の歴史と伝統と現状とを的確に把握した上で、〔私立の総合大学である早稲田大学が現在当面している基本的諸問題の多面的かつ根本的な〕研究を全学的規模で誠実に行なう」(『早稲田大学大学問題研究会報告』三頁)ことを目的に、時子山常三郎総長が大学問題研究会を発足させたいとの意向を表明したのは、まさにこの年であった。

 時子山は研究会の発足に際し、忌憚のない意見を存分に述べてほしいと要請した。ここには、自ら姿勢を正そうとする大学自治の本来のあり方が明瞭に見てとれる。にも拘らず、研究会での議論が総論だけに終始して各論にまで踏み込めなかったのは、大学の自治はすなわち教授会の独立・自治であるという原則から、個々の学部の内部に関わる問題点までは論じるべきでないとの相互了解があったためである。それは、研究・教育の自由が大学問題についての自由な議論に歯止めをかけるという矛盾を意味している。大学問題研究会は報告書をまとめて解散したけれども、取り上げられた多くの問題点は『早稲田フォーラム』誌上で継続して論じられ、議論が深められた。尤も、俎上にのぼされた問題の幾つかは今日なお未解決のままである。

一 大学問題研究会の発足と研究経過

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 学部長会大学院委員長会合同会は、四十三年も押し詰まった十二月十三日、研究会設置についての総長提案を承認し、目的・性格・組織を検討するための準備委員会の発足を決めた。準備委員会は翌四十四年二月十九日に第一回会合を開き、以後会議を五回重ねて、六月二十三日に最終案「早稲田大学大学問題研究会設置要綱」をまとめた。そして七月四日開催の学部長会大学院委員長会合同会は大学問題研究会を総長の諮問機関として設置することを決定し、十八日、各学部・大学院研究科、体育局、国際部、高等学院、産業技術専修学校、各種研究所、および主事会から推薦された左の運営委員三十三名が集まって第一回会合を開き、委員長に堀家文吉郎、副委員長に中村浩三を選出した。なお、理事は会合に出席して意見を述べることはできても、決議には加われないことになっていた。

学部 正田健一郎(政)、新島淳良(政)、安藤昌一(法)、中山和久〔のち佐藤昭夫に交代〕(法)、押村襄(文)、藤平春男(文)、五十嵐新次郎(教育)、大滝武(教育)、中西睦〔のち石塚博司に交代〕(商)、藤田幸男(商)、示村悦二郎(理)、田島清灝(理)、池島宏幸(社学)、小林茂〔のち田村貞雄に交代〕(社学)

大学院 清水望(政研)、堀家文吉郎(経研)、宮坂富之助(法研)、小林昇(文研)、原田俊夫(商研)、小泉睦男(工研)

付属機関 野村堯(体育局)、柏崎利之輔(国際部)、岡田幸一(学院)、渡辺真一(産専)、出居茂(生産研)、中村浩三(語研)、渡辺侊尚(鋳研)

職員 杉本芳郎、高野善一、花崎久信、深山正二、矢沢酉二〔のち村上義紀に交代〕、山領万吉

 諮問事項は次の三項である。

一、大学の理念および大学の自治と学生の自治に関する事項

二、大学全体の管理運営とその組織機構に関する事項

三、教育研究体制、特にその制度、運営に関する事項

七月三十日開催の第二回運営委員会は右項目にそれぞれ対応する三つの研究部会を設けることを決定、各運営委員はいずれかの部会に所属するものとした。その結果各研究部会の構成は左のようになり、それぞれの部会長を選任した。*印がその部会長である。

第一研究部会 岡田、小泉、小林(茂)〔のち田村に交代〕、小林(昇)、清水、高野、中西〔のち石塚に交代〕、中山〔のち佐藤に交代、部会長は小泉となる〕、堀家、矢沢〔のち村上に交代〕

第二研究部会 安藤、大滝、正田、田島、中村、原田、深山、藤平、山領、渡辺(真)

第三研究部会 五十嵐、池島、出居、押村、柏崎、示村、杉本、新島、野村、花崎、藤田、宮坂、渡辺(侊)

なお、各研究部会にはすべての学部から必ず一名は参加するよう配慮されたので、第一研究部会には戸谷高明(教育)が、第二研究部会には時岡弘(社学)が常時出席し、研究に加わっている。

 八月八日に開かれた第三回運営委員会と第二回各研究部会とは主要研究テーマを決定し、いよいよ本格的な研究に取り組んだ。最終報告書をまとめるまでに、合宿を含めて、第一研究部会は三十七回、第二研究部会は四十回、第三研究部会は三十回開かれ、運営委員会は十五回開催されている。

 この間、第二研究部会は、四十五年一月、大学全体の管理運営とその組織機構について全教職員を対象にアンケート調査を実施し、その集計結果を二月十九日に総長に報告、これは三月十七日付『早稲田大学広報』に掲載された。更に同年二月十八日には、本編第四章第二節に記すように、「総長選挙規則」を再検討中の校規および同付属規則改正案起草委員会の求めに応じてその委員会に全員が出席し、総長選挙制度に関する意見交換を行った。また、第一研究部会は同年四月に中間報告をまとめ、左の資料と併せて公刊した。ただし、資料一は近刊が予告されたにも拘らず、結局刊行されずに終った。

資料一 大学解体論――大学をめぐる諸思想と理念――

資料二 大学の大衆化

資料三 大学の大衆化と早稲田大学の問題

資料四 早稲田大学の財政について

資料五 早稲田大学建学の精神論

資料六 「早稲田大学教旨」のいわれ 中村吉三郎

資料七 大学教育の最適条件に関する教育工学的研究序説 高橋勉

資料八 大学改革論の思想とその具体的内容

資料九 付属資料・統計

更に第二研究部会は六月十二日、研究経過を総長に報告したが、総長選挙のあり方に関するその経過報告も同月十八日付『早稲田大学広報』を通じて教職員に公表された。これは、総長選挙制度改正への動きが最終局面に差し掛かっていたため、早急に学内輿論をまとめる必要があったからである。

 大学問題研究会は四十五年八月三十一日に最終報告書を総長に提出した。企画調査課はこれを五冊に分けて二千五百部作成し、教職員全員に頒布するとともに、学部読書室にも学生閲覧用として配付した。第一分冊は大学問題研究会の総括報告、第二分冊以下第四分冊まではそれぞれ第一研究部会から第三研究部会までの報告に充てられ、第五分冊は合同研究会の報告となっている。なお、これと同時に第三研究部会は左の報告別冊を二冊まとめた。

別冊一 早稲田大学における教育の現状について

別冊二 研究所の現状と今後のあり方について

また、第一研究部会はこのとき次の報告資料をも併せて公刊している。

資料一 大学の理念および構造について

資料二 大学の構造

資料三 大学における研究と教育のあり方について および 学部と大学の結合関係について

資料四 「学部の壁」論

資料五 研究・教育組織の在り方について――筑波マスタープランをめぐって――

資料六 一貫教育論資料七 校友論

資料八 教員論

資料九 職員論

資料十 学生論Ⅰ(学部学生)――大学における学生の地位と役割を中心として――

資料十一 学生論Ⅱ――学生自治会――

資料十二 学生論Ⅲ――学生の交渉権ならびにストライキ――

資料十三 公費助成についての理論的考察――教育における大学の二重構造について――

因に十一年後の五十六年七月、企画調整部(企画調査課の後身)は、右報告書の主体をなす第一分冊から第四分冊までと第三研究部会報告別冊二とを合本の上『早稲田大学大学問題研究会最終報告書(抜粋)』として再版し、この間に新たに教職員となった人々に配付、学苑の抱える諸問題に対する関心を高めるべく努めている。

 なお、四十五年五月二十一日、企画調査課の管理下に大学問題研究資料室が二号館(同年九月一日の号館表示変更に伴い一号館と改称)四階に開室した。これは、「大学問題に関し、教職員および学生の理解と認識を深め、その研究に資する」(昭和四十五年一月三十日施行「大学問題研究資料室規程」第一条)ことを目的として、大学論、大学の諸制度や管理運営、大学事情、教育統計などに関する図書や雑誌を蒐集し、希望者の閲覧に供するための施設であるが、大学問題研究会が研究を進める中で集めた資料がその発端となったのは、多言を要しないであろう。

 では、昭和四十年代の大学問題とは一体どのようなものと捉えられ、これをめぐってどのような処方箋が書かれたのであろうか。第一研究部会、第二研究部会、第三研究部会での研究成果を節をあらためて順次見ることにしよう。

二 第一研究部会の研究成果

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 「大学の理念および大学の自治と学生の自治」を研究テーマとする第一研究部会では、各研究員の価値観が多様であることから、抽象的議論を繰り返して議論を集約することができなくなる懸念が存在したので、現状を分析することにより問題点を把握すると同時に、研究員各自の考え方を次第に明らかにしていくという方法を採った。その結果、具体的な方策に関して意見が一致しても、その考え方の基本が異る場合もあり得たから、最終報告書第二分冊『早稲田大学大学問題研究会第一研究部会報告』としてまとめられた文章中には、種々の意見が並列的に述べられた箇所も少くない。研究員、常時出席傍聴者、大学側出席者の中から報告者を決め、その報告者が主題に沿うリポートを作成して、これを素材に討議を重ねた。そうしたリポートには、最終報告書に盛り込まれなくとも提案や資料として価値のあるものも多かったので、これらは五〇五頁に掲げた十三冊の報告資料に編集されている。

 さて、第二次産業における技術の高度化ならびに第三次産業のうち知識・情報関連部門の拡大を招いた高度成長期には、社会は多数の人材の育成を大学に要請した。他方、高度成長により家計にゆとりの生じた親は子弟を大学に進学させることが可能になると同時に、戦後第一次ベビー・ブームの世代がその社会的要請に呼応するかのように大学卒業の肩書を欲求した。こうした状況にあって、大学の受入人数を従来のまま据え置くならば起りかねない事態を憂慮した政府は、昭和三十六年七月四日、大学の設置認可基準を大幅に緩和する方針を発表し、大学や学部の新設・増設や学生定員の拡大を認めた。こうして大学の門は大きく開かれたわけであるが、その結果二つの問題が生じた。

 一つは、二十歳前後の年齢集団の二〇パーセント以上もが大学の門に押し寄せる時代を迎えて、大学を学問研究の場と考えるよりも、資格取得・就職の手段と看做す風潮がこれまで以上に強まったことである。もはや社会のエリートではなくなった大学生が大学に求めたものは、激しい受験競争に疲れた心身を癒すとともに、企業戦士として勝ち抜かなければならない厳しい競争に備えて暫く休息するための場であった。一方、実験室で研究に没頭し、書斎で思索にふける大学教師は、自己の問題関心は学生も共有し、学問に傾倒する筈だと期待した。こうして学生側と教師側との間に意識のずれが生じ、学生に真理探究の精神を植えつけるのだという信念がもはや殆ど通用しなくなったにも拘らず、「大学は研究と教育の統合をはかる機関」とのフンボルト大学論の十九世紀型命題(寺崎昌男「大学改革をめぐる状況と課題――大学史を顧みて――」寺崎昌男・大沢勝編『現代社会と大学』(『講座・日本の大学改革』第一巻)一〇頁)は、大学問題研究会の研究員が一様に固執するところだったのである。

 もう一つの問題は、こうして増えた学生に適切な居場所を提供できない施設の貧弱さである。三九頁の第三図に示したように、第二理工学部の学生募集が停止された昭和三十六年から大学問題研究会の設置が提案された四十三年までの七年間に、学苑の学部学生は約三万二千人から三万九千人へと二二パーセント増えたが、夜間学部の相次ぐ廃止と昼間学部の定員増加とにより、昼間学部に籍を置く学生は約二万二千人から三万四千人へと五七パーセントも急増した。この間、文学部と理工学部が新キャンパスへ移転したから、本部キャンパスに残った昼間学部の学生数の増加は全体として五パーセント強にとどまったものの、理工学部は七六パーセント増、教育学部は七一パーセント増、第一商学部は五九パーセント増、第一政治経済学部と第一法学部は五五パーセント増、第一文学部は二七パーセント増を記録した。教室や教員も増えたけれども大教室でのマンモス講義は解消されず、また、図書館の座席数や学生の厚生施設が学生数増加の勢いに対応する形では拡充されなかったので、学生は至る所で圧迫を感じた。学生紛争の激発は、学内における学生の位置づけと権利のあり方が主題の一つであり、反マス・プロ教育をきっかけとした学生側の権利の回復・要求闘争であった。尤も第一研究部会は、この点の詳細な分析は行っていない。

 第一研究部会の研究テーマは大学のあり方と大学自治とに大別できる。前者については、高度経済成長に伴い大学生の量的拡大と質的変化とが生じ、大学の機能のうち研究と教育とに対する比重の置き方や、学生という特定年齢層の生活の場としての大学の意味などをめぐって、教職員・学生のみならず一般社会人の間にも多様な考え方が現れてきたとの共通の認識が委員の間に存在した。新制大学が発足して二十年が経過したにも拘らず、教育の重要性を研究と同程度に置くというその理念は大学の大衆化と歩調を揃えて若い世代に浸透したのに、旧来の大学人が持っていた、研究の方に重きを置く大学像は、容易に払拭されなかった。報告書は、「研究を本質的な目的とする大学人からみた『大学』と、多くの学生や一般社会人が教育を中心として通念的に考えている『大学』との間にかなりの開きがある」ことが、最大の問題の一つであると認めている(五頁)。では、どうすればよいか。第一研究部会はこの問いに対して何ら有効な処方箋を提示できず、結局根源的な最大の難問は先送りにされてしまった。

 大学の理念はまた、構成員である教職員・学生・校友それぞれの大学管理運営への関与のあり方に反映される。特に校友の大学行政への関わり方が議論の焦点となったが、第一研究部会では意見の一致は見られなかった。この問題は寧ろ主として第二研究部会が扱うことになっている。

 さて、この頃頻発した世界的規模の大学紛争は大学の自治について大きな疑問を提起することになった。社会が大学当局に憤りさえ感じたのは、学問研究の自由を楯にとって大学の自治を主張するのみで、良好な教育環境を取り戻すための解決策を速やかに見出せなかったからである。この時期の言論界は大学紛争を連日取り上げ、学生側の行動のみならず、大学を社会とは異る世界と考える大学側の無策をも批判して、大学問題が一大社会問題であるとの世論を喚起した。第一研究部会は、大学の自治と学問の自由との緊密な関係を当然のものと看做しつつも、これが一般に通用するかどうかは検討に値すると言いながら、それは今後の課題だとして回避し、寧ろ内部的な自治、すなわち大学行政の民主化に議論をすり替えている。換言すれば、これだけ世間を騒がせている大学問題が社会問題であるとの認識を持たず、学問研究の自由を保障するための行政問題・大学運営問題として捉えたのである。それゆえ、教職員・学生・学外校友の大学運営に対する参加のあり方のみが俎上にのぼされ、本編第四章および第六章に述べる如く、この時期の学苑の自己改革が「総長選挙規則」と校規とを改めただけに終ったのは、当然の成行きとも言えよう。

 大学の自治を構成するもう一方の学生についてはどのような議論が展開されたであろうか。報告書は、「最近の大学紛争において学生の大学に対する不信感が露呈され、従来はある種の信頼感の上に成り立っていた大学と学生、教職員と学生との関係がくずれて、相互の権利、義務の上に新らしい関係をうちたてなければならないような事態になった」(一五頁)と述べ、「研究・教育の支柱である教員の先導性と挑戦の欠如が、学生の考え方との大きなずれ、対話の不成立、不信感の増大、という道をたどった原因」(一六頁)と分析している。しかし、これの具体的解決は個々の教員の心構えに期待するのみに終った。学生の大学運営参加に関しては、予算・人事・カリキュラムの決定権を否定したのは首肯できるとしても、総長選挙の際に信認または拒否を投票によって行うことを認めようとしたにとどまったのは、やがて学生にソッポを向かれる結果を招くことになる。世間から批判を浴びた自治会のあり方については、ことの性格上、個々の学生の自覚を待つのみであった。

三 第二研究部会の研究成果

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 「大学全体の管理運営とその組織機構」を研究テーマに取り上げた第二研究部会は、その提言がその後の学苑のあり方に反映される可能性が最も高かったという意味で言えば、大学問題研究会の核心的部会であった。当部会の報告書も本文が八十九頁と最も大部なものである。

 第二研究部会の報告書は、学苑の当面する問題点を次のように指摘した。

早稲田大学の管理運営上の根幹的機関〔は〕戦前からの伝統を維持し続けている……が、それは戦後における量的な拡大と学部教授会権限の確立とによって欠陥を生じるに至ったと思われる。量的拡大に伴なう、意思決定して執行すべき事項の増大に対し、議決機関としての評議員会は充分に機能せず、一方で理事会は私立学校法の規定から執行機関としての性格を明確にしえない。学部教授会の権限はかなり明確だが、全学的な調整をはかるべき総長の学長としての権限との関係、あるいは学部長のそれらとの関係は規定されていない。今までは伝統的管理方式を踏襲しつつ、各機関構成員を量的に増すことでカバーしてきたのであったが、それではもはや管理運営機能を発揮し難くなってきている……。……大学および法人の業務を遂行していくためにはどうしても現在の機構を批判的に検討して、それを整序する必要が認められるのである。 (五頁)

そして、学問の自由を護り意見の多様性を生かすための教学・経営両面に亘る管理運営機構を合理化するには、研究・教育の自由保障と管理運営の合理化との関係をどのように融合させるか、また、私立大学として経営と研究・教育との関係を管理運営機構上どのように位置づけて円滑ならしめるかという二つの問題を、検討に当る各研究員の共通の視点に据えた。

 長い歴史を有する私立大学では、教員、職員、学生、校友それぞれが異る次元で大学に関係してきた。そこで、各構成員の大学への関与のあり方を見直すことが出発点となる。第二研究部会の報告書はそれを左のように集約している。

(一五―一六頁)

そして、各構成員の管理運営機構への関わり方につき、各自の立場が、その分野における意思決定者なのか、業務執行責任者なのか、利害代表者なのか、審議者なのか、建議者または立案者なのか、助言者なのか、調整者なのかなどについて十分に自覚し、その許された枠内で行動し、その職責を十分に果すよう努めるべきであるが、従来の早稲田大学では、このようなシステムの確立が不十分であったと指摘している。

 では、右システムをどのようにして実現するか。第二研究部会は法人組織および教学機構へと検討を進める。法人組織に関し最も議論が沸騰したのは総長制度をめぐってであった。それは、経営の代表者(理事長)であり教学の中心(学長)でもある総長が、教学・経営両面をとりまとめ、それを執行しつつ、管理運営の能率化を図るのみならず、機構や組織を無理のない正しい形に保つことにより組織内の人間を最も生きた姿に置くという重大な責任を果さなければならないからである。従って、総長は各構成員の総意を集めて広く信認を受けることが何よりも重要であり、最も妥当な方法により総長を選出しなければならない。その場合、大学の真の構成員をどの範囲に求めるべきかがあらためて問題となる。昭和四十五年前半には校規および同付属規則改正案起草委員会が審議を急ピッチで進めており、同委員会から第二研究部会の総長選挙規則に関する見解を求められたのに応じて、五〇四頁に述べた如く、六月十二日、総長に対して研究経過報告を行った。この時、教員、職員、学生、学外校友の大学管理および大学理念との関係は次のように要約されている。

教員 一部の教員は、理事会、評議員会などを通じ、学校法人および大学の管理運営にあたる。大多数の教員は、授業を通じての教育の推進、および教授会などを通じカリキュラムの編成、学園運営に関する整備協力、学内秩序の維持にあたる。各種委員会委員として大学法人のあり方や教育環境の整備などにつき審議もしくは建議し、また諮問に応ずる。全教員は、学園の自治、研究および教育の自由を守る権利と義務をあわせてもつ。人事決定の最終的決定権は大学にあるとしても、教員は教授会メンバーとして教員採用の実質的決定者である。学校法人との適正な雇用契約を維持促進し、また生活の向上をはかるため、個人または教員組合などを通じ、法人と交渉しうる。大学の在来の伝統を守り、これを学生・社会に伝えるとともに長期計画を立案し、より高度な大学理念の確立のために継続的に努力する。

職員 一部の職員は、理事会、評議員会などを通じ、学校法人および大学の管理運営にあたる。大多数の職員は、それぞれに固有な地位に応じて学校法人の管理、維持および教育環境ならびに教育の整備実現に必要な執務を司どる。各種委員会委員として、大学法人のあり方や教育環境の整備などにつき審議もしくは建議し、また諮問に応ずる。全職員は、学園の自治、組織および設備の保全と向上をはかる権利と義務をもつ。最終決定は大学にあるとしても、職員の採用は職員で構成される各機関において審議される。学校法人との適正な雇用契約を維持促進し、また生活の向上をはかるため、個人または職員組合などを通じ法人と交渉しうる。大学の在来の伝統を守り、これを正確に記録するとともに長期計画を立案し、より高度な大学理念の確立のために継続的に努力し、その理念表明のための適確な体制を整える。

学生 大学法人の管理運営権それ自体は全く持たない。教育を受ける権利のもとに、講義・実習などを受け、また、学園の教育環境を十分に利用することができる。学園の研究と自治と平和の維持をはかる権利と義務をもつので、その枠のなかで大学法人の管理運営ならびに教育環境の整備などに関し、個人または学生自治会を通じその意思や希望などを表明することができる。勉学、研究、生活、その他学生としての身分と権利と学生相互間の秩序を維持するために、学生自治会をもうけ、これを学生の総意のもとに自主的に管理運営する。大学の理念と伝統を教職員との接触や学園的雰囲気を通じて体得涵養するとともに、若い世代の意識をもってその内容を一層現代的なものに改善、高度化するように努める。

校友 一部の校友は評議員会、商議員会、理事会、監事などの一員として大学の管理に参加し、審議し、もしくは諮問に答える。教育環境整備のため各種の施策とか、寄付金の醵出などを通じ援助協力する。校友会に加盟し、校友会組織を通じ、直接間接に大学と関係する。大学の管理運営に極端に重大な事態が生じた場合には、一部の有志校友は何らかの組織を通じ問題解決のための調停に乗りだすこともありうる。心のふるさととして大学のイメージを心中に残すとともに、大学理念の精神を社会活動に生かし、また、今後の大学理念の高度化について、その社会生活を通じて考え、場合によっては、その内容を大学に伝える。 (『早稲田大学広報』昭和四十五年六月十八日号)

これを前提に、四者の総長選挙への関わり方をめぐる第二研究部会の見解は、左のようにまとめることができる。

教員 専任教員の直接選挙とすべきである。ただし、助手を加えるか否かはなお検討すべき余地がある。また、学部パリティ方式は候補者選定など別の段階で考慮するのがよい。

職員 業務執行上一定の指揮命令系統に属しているので、平等な一票を持つことには問題があるものの、大学の構成員として総長は職員の信認を得なければならないから、専任職員の直接選挙とすべきである。

校友 一般社会の意見を大学に反映させることには異論はないが、だからと言って、総長選挙に直接結びつく必然性は少い。社会生活上の経験を生かした助言や協力は、評議員や理事として行うことができよう。

学生 学生全体の意見を大学に反映させることは望ましいけれども、総長選挙に対して投票という形での関わり方には問題があり、寧ろ、信認や拒否などの方式が適当である。

 さて、学苑の最高意思決定機関となっている評議員会は、第二研究部会の見方によれば、「私立学校法」施行以前の維持員会の権限および性格をほぼそのまま引き継いでいるので、経営のみならず一部の教学事項についても議決権を保持している。それだけでなく、学内選出評議員は交替が比較的多いのに、評議員の半数近くを占める学外校友選出評議員の顔触れはあまり変化していない。他方、理事会は総長を補佐する執行機関的性格が濃厚であり、商議員会は多数の学外校友が学外評議員および学外総長選挙人を互選することにより大学運営に参加する媒体になっている。このように評価する第二研究部会は、そうした機構をそのまま踏襲していたのでは、やがて大学自体の自主性が弱められて、管理運営機能に重大な障害が生じるであろうと危惧する。

 こうした反省の上に立つとき、大学の各構成員は経営機構にどう関わるべきであろうか。第二研究部会の報告書は以下のように述べている。国や産業界が大学経営に介入したり、経営が経営のための経営に陥ったりしないように注意し、研究・教育の実り豊かな経営を確立するためには、研究・教育の一義的な担い手である教員が理事や評議員を兼ねることは必要である。しかし、法人や大学管理業務に長期間継続的に従事するとなれば、研究者・教育者としての能力が低下するであろうから、適宜交替するのが望ましい。また、経営上の業務については職員の実務能力に負うところが大きいので、教員との十分な協力態勢を整えた上で、職員選出の理事・評議員・商議員の定数を若干増やすのがよい。他方、学生にとって学校法人は実体感がなく、多くの場合管理者として抑圧力を感じる存在である。学費値上げ反対運動や学生会館管理運営権要求運動なども、学生生活に対する抑圧を感じ取ったことから生じたのであって、教育や研究や自主的文化活動などが大学の実質なのだとの学生の実感は否定・非難されるべきものではない。ただし、学生が経営に参加するのは適切でない。学生と日常接する教職員こそが、学生の実感を実りあるものとして生かすように経営業務を担当すべきであって、その経営について学生の信頼を得るよう種々の方策を講じなければならない。こうして見ると、最大の問題は、学外校友が経営機構上大きなウェイトを占めていることにある。大学の規模が巨大化して審議議決すべき事項が増大し、しかも構成員の意見が多様化している現在、生活の本拠を学外に持つ校友が多数を占め、かつ交替性に乏しく職業・年齢に偏りがあると、多様な意見を吸収しにくくなる。学外校友は、法人や大学の業務の実際について直接審議したり、企画・調査・立案に当ったり、執行の責任者となったりするには適さないことが多く、寧ろ批判・忠告を与える存在であることが適切である。更に、このような位置づけおよび大学の公共性に鑑み、大学と直接関係を持たない一般の学識経験者を参画させる方途も考慮してよい。

 このような役割分担を念頭に置く第二研究部会は、大学運営の中心であるべき理事会を最高意思決定機関と位置づけ、評議員会は校友や学外一般の意見を積極的に汲み取るための理事会の諮問機関として考えるべきだと提唱する。その理事会は当然大所帯となるが、多人数による意思決定機関と多人数では却って機能しにくくなる執行機関とに分離分担させ、業務執行に携わる機関としての常任理事会の設置を提案する。この場合の理事会は、例えば、総長の他に、教員九名、職員三名、校友および校友以外の学識経験者三名、そしてこの区分にとらわれずに総長の指名する者五名(この五名が、総長を補佐して業務執行に当る常任理事となる)の計二十一名で構成され、経営のみならず教学にも決定権を持つことになるが、経営に関しては評議員会の、教学に関する問題については後述する新設の教学評議会の意見を聞いた上で決定しなければならない。ところで、第二研究部会のこの案が実現すると、商議員会の存在意義は薄れざるを得ない。事実、第二研究部会は、商議員会を学内に対する校友の連絡機関としてのみ位置づけており、校友選出評議員の選出母体として設置するに過ぎない。

 さて、教学機構について第二研究部会はどのように切り込んだであろうか。報告書より摘記しよう。教学機構の根幹をなすのは学部教授会である。総長および理事会は教学の全学的統括機関ではあるが、実際には、財政面から学部教授会を規制するにとどまっている。研究・教育について判断し、決定し、執行する権限は教学を直接担う人々が行使すべきであるから、学苑のあり方は本質的には正しい。しかし、学部教授会の自治は、現実にはセクショナリズムや非能率性など、自らの理念や意義を裏切る要素を潜在的に持っている。また、新制大学以降の大衆化現象が学生像にもたらした大きな変化にも対応できないでいる。大学を各学部独自の専攻学問追究の場というよりも、多様な科目を各自の関心に応じて自由に聴講する教育の場、更には、教育よりもサークルなどの学生生活を満喫する場と看做す学生層の肥大化は、その場を自己の所属する学部だけに限定するのではなく、全学的な場に設定するから、学部教授会が学部という枠内で自己完結的に教育の問題を判断し決定することの妥当性・正当性は疑問視されざるを得ない。従って、学生に関わるさまざまな問題の処理に当っては、全学的な視野を持ち、全学的な関連性・波及性を慎重に検討することが不可欠になってきた。そこで、第二研究部会が切り札として構想したのが、教学評議会なのである。

 複数の学部にまたがる諸問題はこれまで学部長会が協議してきたが、大学院研究科委員長や研究所長や付属機関長の出席しない学部長会は全学的とは言えないと、第二研究部会は断定する。仮にこれを全学的なものに拡大しても、学部長、大学院研究科委員長、研究所長、付属機関長などはその役職柄どうしてもその学部、その箇所の利益代表の立場を採らざるを得ないから、この会を全学的な教学上の審議議決機関とするのは適当でないと言う。このような学部長や付属機関長の会は教学事項に関する連絡機関にとどめておくのが望ましいと考える第二研究部会は、総長ないし理事会の諮問機関として位置づけた評議員会に対し、新構想の教学評議会を総長の諮問機関として位置づける。

教学評議会は、教学的事項に関する総長の諮問機関とする。ここでは、総長の提出する教学上の諸議案を、全学教員――間接には全学生――の世論を背景として審議し、全学的な合意に達するための協議をおこない、事項によっては議決して総長に答申する。そして場合によっては、理事会の方針や、総長ないし常任理事会の諸施策を批判し、さらにまた所要事項については、問題提起や立案建議をもおこなう権限をもつ。……教学上の業務についての意思決定も理事会で行なわれるべきだとしたわれわれが、この教学評議会の新設を提唱するのは、大学内の個々の研究・教育活動をより充実させるためであり、いわば教学の現場を尊重しなければならないとする趣旨からである。 (六五―六六頁)

 教学評議会は、その性格上、全学の専任教員の中から民主的に選出された代表者により構成されるのが望ましく、従って専任教員全員がその選挙権と披選挙権を持つ。各系統学部教員会から選出される四名または六名(七学部で計二十八名または四十二名)、体育局・各研究所・国際部から選出される四名または六名、高等学院・産業技術専修学校から選出される四名または六名、選挙区を設けず選出される十二名または十六名の総計四十八名または七十名の議員の任期を二年とし、メンバーの固定化を防ぐため定員の半数を二年ごとに改選する。この他、二十五名に上る箇所長はその在職期間中、自動的に議員となる。

 これが教学評議会の骨子であるが、第二研究部会の構想は、理事会・評議員会・商議員会との既存の関係全体を大大的に見直すという甚だ困難な作業を伴うので、今日に至るまで案のままにとどまっている。

 ところで、第二研究部会は、大学の規模拡大による組織の肥大化と分化とに伴い重要性が高まる事務機構と、顕在化する人間の物化・疎外化傾向を克服するための方策についても検討を加えた。前者については、事務組織の果す機能と事務活動に対する認識が経営者側に不足していたため、組織機構の整備に一貫性を欠いていたと指摘する。具体的な構想にまでは言及していないが、コンピュータの利用による事務処理の効率化、部課長・事務長の権限の集中化と分散化、長期に亘る経営計画立案のための企画調査業務の拡充・整備などを提唱している。また後者については、学苑の平和と秩序を保つため、不満の解消を図り相互の意思疎通を改善することが必要であり、構成員の意見が不当にないがしろにされたり不法に人権が侵害されたりした事態に備えて、提訴受理機関の設置を提案している。

四 第三研究部会の研究成果

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 「教育研究体制、特にその制度、運営」を研究テーマとする第三研究部会の基本的姿勢は、その報告書に断ってあるように「現行の体制を根本的に改めるという前提にたっていない」(一二頁)とはいえ、同研究部会は多岐に亘る改善を提言している。その基本的視点を鮮明に述べているのは報告書中の左の総括である。

高等教育・研究機関としての大学が果たすべき役割は単に知識を教授することではなく、次代の文化の積極的な創造者となりうる能力を開発することである。大学がこうした役割を果たすためには、たえず一流の研究水準を維持することが必要であり、充実した研究に裏づけられない教育は不毛であるといわざるをえない。……早稲田大学が多様な可能性を維持していくためには、既成の学問体系、集団構成などにとらわれず、常に自律的に組織化することができるフレキシビリティが必要である。……教育が行なわれる場あるいは学生が所属する場としての現行の学部(学科)の組織はそれぞれの時代の歴史的な事情のもとに形成されたもので、現在においてもなおその意義は評価されるが、制度として硬直化することなく、常に学問の進展、社会の要請の多様化に対応して変革しうるものでなければならない。学部(学科)の組織は同時に教員集団の組織でもあり、教員は主として自己の所属する学部(学科)の学生に対して教育の責任を負わなければならない。したがって、教員集団としての学部(学科)の組織の硬直化を防ぐことはもちろん、学部(学科)エゴイズムが発揮されないよう注意すべきである。 (一―二頁)

 学苑のカリキュラムは一般教育科目、外国語科目、専門教育科目、保健体育科目に四大別されている。模範国民の造就を教旨に掲げる学苑に必要なのは、この四系統の科目が有機的・一体的に履修できるように編成することであると第三研究部会は言う。例えば、とかく無用の長物と考えられ易い一般教育については、そのうちの幾つかの科目を基礎教育科目として必修させることのほか、総合科目の設置が提唱されている。これは、特定テーマを複数の教員が交互に担当し関連諸分野から分析して総合的に把握させる目的で既に四十一年度から理工学部に設けられてきた総合科目(「近代日本のナショナリズム」「現代社会と人間」「日本の経済成長」「現代欧米文学の動向」「日本文化論――伝統と近代」)を、総合大学としての特色を生かすために全学共通の科目として拡大しようとする狙いであるが、この他にも、各学部の主要専門分野を相互関連的に把握する総合科目と、地域研究を主とする総合科目が提案されている。このような科目は何も一般教育だけに限られず、社会科学部が四十五年度より社会科学総合研究(「都市問題」「独占企業論」)として実施しているように、専門教育にも導入を図ってよいと言う。これらの総合科目は計画・実施に当って複数学部の非常に多くの教員の協力と調整が欠かせないから、全学教育計画委員会を設けることが提唱されている。この委員会は、全学的な提案や、例えば学部・学科・専修・教育センター・研究所等の統合・新設・廃止などのように複数機関にまたがる提案を、協議する機関である。

 教育制度に関してはどのような改善策を提言しているであろうか。一学年は前期と後期との二つの学期に分れ、大部分の学科目は一週に一回、両学期に亘っているが、これを一週二回、学期ごとに完結する授業に改めることにより、教員も学生も担当科目数や履修科目数を現行期間の半分に集中することができ、教育効果や学習効果が上がるだけでなく、学習順序の定められた学科目の配列が容易になるだろうと期待する。しかし、第三研究部会が提案した、のちに「セメスター制」として人口に膾炙する方式は、教員陣のかなりの割合を非常勤講師に依存する限り、実施不可能である。また、卒業に必要な単位数は「大学設置基準」に示されたそれを上回っているが、卒業までに必要な最低取得単位数を削減し、四年間で履修可能な最高取得単位数との差を拡げることにより、個別に選択された分野での一層深い学習の機会を与えると同時に、自習効果を高めることができようと述べている。更に、学生数の増加とカリキュラムの多様化に伴い授業の時間割は過密の度を加えてきたが、教室の絶対数が増えない限りこれは解決不可能な問題であると言う。同一学科目を複数のクラスに分割することが行われているけれども、その学科目の配当時間帯を一定にすれば他学科目との時間割上の衝突が減ると予想されるが、これも実現不可能であろうと匙を投げている。学業成績は、特に論文形式の試験による評価の際には、一点刻みの数字による表示は適切でなく、文字による表示、それも優・良・可・不可よりも、六十点を合否境界点として合格を十点刻みに四つに区分する純粋に記号的なA・B・C・Dおよび不合格のFが望ましいとしている。しかし、同一学科目であっても高評点を乱発する教員と合格点を取りにくい教員との格差をどうするかといった問題や、教員の授業方法改善の問題には一切触れていない。

 新制大学は総合力を持つ幅広い教養人の育成を目標としてきたが、これには特定学科目の知識だけでなく、境界領域の学問に関する知識が欠かせない。そのためには総合科目の設置やカリキュラムの再編成が必須であるが、正規の授業のみでなく、それを補充するための課外教育を従来よりも拡充し、制度化すべきであると論じる。また、学苑が日頃の研究成果を一般社会に還元し、社会人の再教育に対する要請や、企業内現職者に対する研修・再教育の必要性に応えることも重要な使命であると言う。第三研究部会の報告書はそうした要請を、(一)在職する高校卒業者への技術教育、(二)新分野の技術修得の希望者への再教育、(三)経営管理者への経営管理技術教育、(四)法文系大学出身者への技術教育に整理し、これらを一括して「ユニバーシティ・エクステンション」と称している(二二―二三頁)。しかし、本編第七章第四節に後述する如く、この語が含む意味は数年後に急旋回することになるのであるが、この時構想された大学院における社会人コースは、平成六年度に大学院社会科学研究科が誕生して漸く実現する。

 他方、研究についてはどのように分析されたであろうか。昭和三十年代後半以降、企業や官庁の研究機関が急成長を遂げ、大学の研究機能の比重が相対的に低下したにも拘らず、第三研究部会は、このような新しい状況下における大学での研究のあり方のみならず、大学外の諸研究所との望ましい関係のあり方については、全く語っていない。

 研究には、個人的動機に基づき単独で行う個人研究と、問題意識、研究方法、研究領域などを同じくする研究者が同一の課題の下に共同して行う共同研究と、特定の問題に関して異領域の研究者が集まり計画的・集団的・総合的に行う総合研究との三種があるが、複数学部の教員が参加する後二者に対する物的な支援は、全学に開かれた研究所を中心として、積極的になされるべきであると主張する。しかし、学苑のこうした研究の物的条件に対する配慮は国公立大学に比べて十分でなく、制度的・組織的な保障の欠如を各教員の自己責任において補充している場合が少くないので、全学的な審議機関の設置が望まれるとしている。

 教員は研究活動を常に充実させる責任があるが、そのためには研究業績の評価を絶えず適正に行う必要がある。報告書は、「研究業績の評価は本来ならばそれぞれの研究者が個々に学問的良心に基づいた自己点検によって行なわれるべきであろうが、実際問題としては何らかの手段によった外的点検の助けを借りなければ十分なものにはなりえない」(三五―三六頁)と断言する。第三研究部会が提案した外的評価手段は、「(a)年間の研究計画および成果を本属の教授会または管理委員会〔学部教授会に相当する研究所の組織〕などを通じて研究に関する全学的な審議機関に提出する。(b)年間の大学機関誌・学会誌などへの投稿論文、刊行した著作ならびに学内研究会、学会などへの講演発表に関する『リスト』を本属の教授会または管理委員会などを通じて研究に関する全学的な審議機関に提出する。(c)上記の著作、論文および講演前刷〔レジュメ〕などを本属の図書室へ保管のために寄贈し、広く閲覧に供する」(三五頁)というものであり、これらを確実に実行することによって、学内に広く相互批判・相互援助の機会を創出することを狙ったのである。因に、学苑創立百周年後の昭和五十九年に教務部から「早稲田大学学術年鑑』が創刊されたが、本書は、第一次的には専任教員の研究活動記録をデータ・バンク化して学苑の知的資産の形成を、第二次的には学術情報の公開により教員間のみならず社会一般との間における研究教育への相互交流・相互刺戟を期待するものである。しかも、本書に収録される研究活動記録は自己申告制に則っていて、業績について何らかの基準が示されているわけでもない。従って、第三研究部会が行った自己点検の提案からは程遠いものであるが、改善次第では、それを実現する第一着手となる可能性を秘めていると言えるかもしれない。

五 大学改革熱の冷却とその帰結

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 未曾有の規模で大学紛争が続発したこの時期に日本全国の多くの四年制大学が作成した改革提案は、昭和四十二―四十三年の四十三件から四十四年には二百五十二件へ、四十五年には学苑のそれを含めて百八十三件へと飛躍的に増加した(喜多村和之「大学改革の進展状況に関する調査――日・米比較――」『レファレンス』昭和四十七年四月発行 第二二巻第四号 六二頁)。東京大学の大学改革準備調査会の三つの専門委員会が審議に費やした時間にそれぞれの委員数を乗じてこれを合算すると、延五千六百二十一時間となるが(同「大学改革の動向に関する予備調査――改革提案の数量的分析――」同誌 昭和四十六年六月発行 第二一巻第六号 九五頁)、学苑の場合、三つの研究部会が最終報告書をまとめるまでに費やしたエネルギーは、延六千二百五十六時間という実に膨大なものであった。

 ところが、四十六年以降になると大学改革熱は一気に冷めてしまう。おびただしい数に上る各種改革案に華々しく展開された構想の大部分は、学生紛争が鎮静化して、教員の日常生活が再び教育や研究に追われるようになるや、実現に向けての検討努力がなされないままお蔵入りしてしまい、大学問題の根幹に触れるような改革は直ちには何一つ実現しなかった。この意味で、大学が自己改革のための委員会を設置し、改革案を作成したのは、怒れる学生および一般社会に対するポーズまたは糊塗策に過ぎなかったとさえ評されてもやむを得ないであろう。

 しかし、学苑の場合にも妥当するのであるが、もう少し長い時間尺で見ると、改革案が契機となって改善への一歩が踏み出された部分がないわけではない。それは、一つには大学運営の手続に、一つにはカリキュラムに窺うことができる。本編第四章および第六章に取り上げる「総長選挙規則」と校規の改正は前者を代表するものであり、一般教育科目の改革は後者を代表するものである。本節では一般教育科目の改善について一言しよう。

 そもそも新制大学の歴史的意義は、「高等教育がより多くの国民に解放され、国家のための高等教育から国民のための高等教育に転換された点に」あった(海後宗臣・寺崎昌男『大学教育』(『戦後日本の教育改革」第九巻)四七一頁。傍点原付)。そして、一般教育科目と専門科目とをうまく組み合せることにより、各大学が独自の伝統と学風とに従って個性豊かな大学造りを目指すよう期待したのである。昭和二十二年七月八日に結成された大学基準協会は、「近代日本の大学史上、はじめて、文部省の大学行政とは独立して大学のアクレディテーション(適格判定)を主要な任務とする民間専門団体」(田中征男「大学基準協会の形成と『大学基準』の成立(上)」『大学基準協会会報』昭和五十六年発行 第四四号 二頁)であるが、同協会が同日採択した「大学基準」は、大学が具えるべき具体的要件を定めたものにとどまらず、この基準を参考にしつつ各大学が教育内容の質的向上を図ることを狙ったものであった。ところが、戦後新設された大学の中にはこの基準が高すぎると考えて最低の要件を満たすことだけに汲々とするものもあり、旧来の大学の中にも水準向上の自主的努力を怠るものがあり、「大学基準」の理念の実現には程遠かったのが実情であった。

 その隙を突くかのように、五九頁に記した如く、文部省は昭和三十一年十月二十二日、右の「大学基準」に代替するものとして「大学設置基準」(文部省令第二十八号)を発令し、それまで民間に任されてきた教育水準の維持・向上に容喙し始めた。この省令化は新制大学の理念に重大な修正を迫るものであって、これ以後、大学の硬直化・類型化を招くことになったと一般に評価されている。

 省令「大学設置基準」は、これまた二九三頁に前述したように、専門知識を具えた人材の養成に力を注いでほしいとの産業界の強い要請を受け入れた結果、一般教育の必置科目数と単位数とを削減し、しかも、八単位までを専門教育志向型の基礎教育科目で代替させてよいとする制度を導入した。

本格的専門教育は大学より大学院に期待する新制大学当初の大学観に対し、大学側の意識も、大学卒業者の雇用の形も、研究者養成についてはともかく、職業従事者のコースとしては、大学学部を専門教育の完成教育機関と見て、もっぱらそこからの人材供給を期待した。つまり六・三・三・四制の全面的採用により中等教育までは戦前の日本や欧州主要国の複線型学校体系をほぼ廃止したが、高等教育と社会との関係は旧学制時代とほとんど変りなかった。この実情が、学部に対して一般教育を精選して、専門教育を拡充するカリキュラムを求める要求となった。大学設置基準制定の段階では工学系からの強い要求となり、やがて、昭和四十年代になると、それ以外の多くの学部でも一般教育の縮小要求となっていくのである。

(黒羽亮一「設置基準の省令化と高等教育行政」天城勲・慶伊富長編『大学設置基準の研究』 一二八頁)

しかし、一般教育の縮小ないし軽視は、大学人も責任の一端を負わなければならない。そもそも一般教育は学問研究の専門化と細分化とに対する批判を内包するものであるが、一般教育科目の担当教員は本来専門分野の研究者たることを目指しそのような研究者養成体制の下で教員になったという矛盾が存在する。また、専門教育科目の担当教員の側には、「一般教育が専門教育の圧縮をもたらしたのだとみる」(『大学教育』四七五―四七六頁)抜き難い被害者意識があった。こうして、爾後の新制大学はどうあるべきかについて根源的な議論がなされないまま、一般教育は大学内外から十字砲火を浴びたのであった。

 昭和三十七年十一月に発表された国立大学協会の意見書「大学における一般教育について」は、人文・社会・自然三系列均等必修という「大学基準」以来の制度は一応是認しつつも、基礎専門科目および総合科目の採用への傾斜を強めた。翌年一月の中央教育審議会答申「大学教育の改善について」も、右協会の意見書の基調をほぼそのまま受け継ぎ、一般教育科目の系列および科目を再検討する必要があると謳った。これらの改革提言は、四十年三月に文部大臣に答申された大学基準等研究協議会の「大学設置基準等改善要綱」中に具体化され、大学に設置される科目は一般教育科目・外国語科目・保健体育科目・基礎教育科目・専門教育科目の五種類で構成されるとした。このうち一般教育科目の履修単位は三十六単位から三十四単位に削減、基礎教育科目については十二単位の履修さえ義務づけられているほか、お茶の水女子大学において、「学問の分化が顕著な現代社会では、孤立しがちな諸学問の連関を回復させ、全体を把握する総合的視野からの的確な判断力を学生につけさせることこそ、一般教育に要求されている」(『お茶の水女子大学百年史』三七二頁)との蠟山政道学長の考えに基づき三十一年度から独自に実施されてきた総合コースすなわち総合科目の設置も許容している。この「大学設置基準等改善要綱」に対しては、日教組大学部や大学の一般教育科目担当教員をはじめとしてさまざまな方面から、一般教育の事実上の圧縮であるとの反対が渦巻き、遅れて四十一年二月に大筋として要綱支持を表明した国立大学協会も実施については慎重を期するよう要望したため、右要綱に基づいて省令を改正しようとしていた文部省は改正を断念するほかなかった。

 「大学設置基準」をめぐってこうした論議が戦わされている最中に、慶応、早稲田を先陣とする大学紛争の幕が切って落とされたのであった。燎原の火の如く燃え拡がった大学紛争と多くの大学が相次いで作成した改革文書とは、「大学設置基準」改正のための促進剤となった。国立大学協会は先の慎重な姿勢を改めて、四十四年十一月、「現在、各方面において大学制度の改革が進められているが、それには現行の大学設置基準の全面的な改訂が必要となるであろう。しかしながら、大学における一般教育、あるいは教養課程の改革は、最も急を要する問題であるので、とりあえず、一般教育に関連のある設置基準の一部を……改訂するよう要望するものである」(文部省『新しい大学設置基準』(文部省『広報資料』昭和四十五年十一月発行 五六) 一六三頁)と、文部省に申し入れた。

 「大学設置基準」は四十五年八月三十一日、奇しくも学苑大学問題研究会が答申書を総長に提出したのと同じ日に、省令第二十一号によって一部改正され、四十六年度より施行されることになった。改正基準で注目すべきは、一般教育科目の人文科学・社会科学・自然科学の系列ごとに従来は三科目以上必置、卒業までに合計九科目三十六単位必修とされていたのが、系列と卒業要件の三十六単位とに変更はないものの、単一科目に加えて総合科目の開設も認められ、また、一般教育科目のうち八単位までは基礎教育科目で代替できたのを、十二単位まで外国語科目・基礎教育科目・専門教育科目で代替できるようになったことである。お茶の水女子大学が先鞭をつけ、学苑理工学部も模倣した総合科目は、ここに漸く認知された。この改正に則って、例えば第一法学部は四十七年度から、「基礎科目四単位のほかに、人文科学系、社会科学系、自然科学系の三系列から三十二単位を取得するか、あるいはさらに綜合科学系を含めた四系列から三十二単位を取得しなければならない」(『早稲田大学学科配当表』昭和四十七年度 一六四頁)と定めている。「大学設置基準」はその後四十七年三月(省令第五号)、四十八年十一月(省令第二十九号)と相次いで改正され、他大学との履修単位交換制度や学部以外の教育研究組織設置などが容認されるに至った。

 こうして、大学がカリキュラム改善へ向けて鈍重な腰を上げるための基本的枠組は一応整ったのであるが、「大学基準」および「大学設置基準」に拘束される側面がなかったわけではないとはいえ、多くの学生にとってはそれが他律的なものとして映ったが故に、また改革の核心となるべき大学のあり方についての抜本的な見直しが見送られたが故に、やがて学生の間に失望とアパシーが根を下ろし、大学人の側でも自己改革の熱意が冷めてしまうという、更にやっかいな状況が生れたのである。

六 『早稲田フォーラム」誌上の大学改革論議

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 大学問題研究会は広範な問題を検討したのち解散したが、「ここで、明らかにされた問題は一時の検討にとどまるものでなく、不断に検討を深めていくことが大切であり」、「またさらに、これらの問題の解決をはかっていくためにも、学内外の世論を喚起し、問題に対する理解を深め、できるだけ多くの英知を結集して、緊密な協力体制を築くことが必要であ」る(『早稲田大学広報』昭和四十八年一月二十七日号)との認識に立ち、昭和四十八年五月、『早稲田フォーラム――大学問題論叢――』が発刊された。総長村井資長は創刊号に寄せた「創刊の辞」で、「さまざまな大学問題を、教授会あるいは大学の委員会、協議会レベルの討議とはべつに、大学関係者全員が論議に参加する意味において、提言し、提案し、あるいはそれらを討論する場を提供しようとするものである」(一頁)と、その目的を述べた。総長室広報課より年四回発行、教職員および希望する校友に配付される本誌は、左に掲げるような特集を毎号組み、大学問題研究資料室がその特集に相応する参考資料を紹介している。

創刊号(四十八年五月)大学の自治と学生自治

第二号(同 七月)大学における研究と教育

第三号(同 十二月)大学入試をめぐる諸問題

第四号(四十九年四月)大学と社会

第五号(同 五月)大学の管理運営

第六号(同 七月)大学院の現状と改革

第七号(同 十一月)私立大学の財政問題

第八号(五十年三月)大学の国際的使命

第九号(同 六月)生活の場としての大学

第一〇号(同 八月)私学助成の理念と論理

第一一号(同 十月)大学生と大学までの教育

第一二号(五十一年二月)大学と研究所

第一三号(同 六月)大学におけるカリキュラム

第一四号(同 八月)大学大衆化の問題点

第一五号(同 十一月)大学における外国語教育

第一六号(五十二年二月)大学における一般教育

第一七号(同 五月)大学とスポーツ

第一八号(同 八月)大学入試制度の再検討

第一九号(同 十月)私立大学における建学の精神

第二〇号(五十三年二月)総合大学のあり方

第二一号(同 四月)早稲田の学風

第二二号(同 八月)転換期の大学教育と私立大学

第二三号(同 十一月)大学と国際交流

第二四号(五十四年二月)大学の内面的省察

第二五号(同 四月)早稲田大学の未来

第二六号(同 八月)共通一次試験と私立大学

第二七号(同 十一月)推薦入学制度をめぐる諸問題

第二八号(五十五年二月)新制大学の功罪――量から質への転期に立って――

第二九号(同 五月)現代学生論

第三〇・三一号(同 十二月)新たな出発を期して

第三二・三三号(五十六年六月)地球化時代の大学

第三四号(同 十月)現時点において私立大学とは

第三五・三六号(五十七年五月)大学事務を考える――教務事務の電算化――

第三七号(同 七月)第二世紀の早稲田を考える

第三八・三九号(五十八年二月)創立百周年にあたって――私の提言――

第四〇号(同 三月)世界の大学――創立百周年記念講演集――

 本誌が創刊された昭和四十八年(一九七三)の六月に、カリフォルニア大学社会学教授マーティン・A・トロウは、OECD(経済協力開発機構)が開催した「中等以後教育の未来構造に関する会議」に、討議用報告書"Problems in the Transition from Elite to Mass Higher Education"を提出した。これは三年後に翻訳されて、『高学歴社会の大学――エリートからマスへ――』(東京大学出版会)中に「高等教育の構造変動」と題して収録されるや、我が国でも大きな反響を呼び、大学の歴史的位置づけを探究していた大学関係者らの必読文献となった感がある。この報告書でトロウは、アメリカ合衆国の経験を基に、大学適齢人口中に占める大学生の比率が一五パーセント未満の段階は大学はエリートを養成する場であり、一五パーセントを超すと大学はマス高等教育を施す段階に移行し、更に五〇パーセント以上になるとユニヴァーサル型になると分析した。この三段階は次のように要約される。

高等教育の発展段階の相違は、学生や全体社会との関係で高等教育がはたす機能の相違とも結びついている。エリート高等教育はなによりも支配階級に属する人々の精神や性格の形成機能をはたし、学生を行政や専門的職業など、多様なエリート役割にむけて準備する。これに対してマス高等教育の場合には、高等教育機関は依然としてエリート養成を行うものの、そのエリートの範囲は拡大し、社会のあらゆる技術・経済組織体のリーダー層をふくむようになる。そして教育の重点も人間形成から、特定の専門分化した役割をはたすエリートの養成へと移っていく。万人に進学の機会を提供するユニバーサル型の高等教育機関になると関心ははじめて、多数の学生に高度産業社会で生きるのに必要な準備をあたえることにむけられる。高等教育機関は広い意味でも狭い意味でも、エリート養成を主要な目的とすることをやめて、全国民を教育の対象とするようになり、その関心はなによりも、社会と経済の急激な変化に特徴づけられた社会が要求する適応性を、十分にあたえる教育にむけられるようになる。 (『高学歴社会の大学』 六五頁)

 トロウ理論を日本に当てはめるならば、十八歳人口中に占める高等教育機関進学者の比率が初めて一五パーセントを超えたのは昭和三十八年であり、四十七年にはそれが三〇パーセントを超し、四十九年以降今日に至るまで三〇パーセント台後半を維持しており(二九頁に前掲の第二図参照)、『早稲田フォーラム』で早稲田大学改革論が展開された時期は、トロウの言うマス高等教育の段階と一致する。ただし、エリートからマスへ、マスからユニヴァーサルへと高等教育の段階が移行することにより、先行段階の特徴的形態が完全に消滅するわけではない。そうではなく、先行段階の諸特徴に後続段階の諸特徴が接木されることにより、全体的な構造に変質が生じるのである。そしてこの移行期こそが、大学のあり方や改革の方向を摸索する大学人を悩ませることになる。

 ではトロウは、三段階の高等教育のどこがどのように違うと言うのであろうか。

 エリート段階では、高等教育は少数者の「特権」と考えられ、人格形成がその目的なので、教師と学生との人間的紐帯が重視される。そして教養教育を中心に据えたカリキュラム編成も、将来の学者あるいは専門的職業人として何が必要かについて大学教員が抱いている考え方に支配され、学内の運営に関しても長老の教員が決定権を握っている。高等教育機関としての機能は狭くて伝統的な枠内に収まっており、教員も学生も同質的であるから、大学の性格や価値に関しその構成員全員の間で暗黙の合意が存在する。

 ところが、教育の民主化を求める社会的要請を受けたマス段階に移ると、大学進学は一定の資格を具えた多数の人人の「権利」と看做されて、大学の主要機能が教養教育よりも技術・職業教育へと変化する。そこで、大教室で行われる講義を主体とするカリキュラムは選択科目中心となって、コースを弾力的に組み合わせて履修することが学生に要求される。そして人数が増加した若手スタッフも学内諸機関の運営に決定権を持つが、自身を選ばれたエリートとは考えない学生もその決定に参加する権利を要求するようになる。また大学の機能は多様化するので、教員の間でも学生の間でも高等教育のあり方について多様な見方や考え方が生れ、合意が形成されにくくなる。

 更に、ユニヴァーサル段階を迎えると高等教育は初等・中等教育と同じく万人の「義務」と考えられて、自らの意志で進学したわけではない学生に、新しい、より複雑なものの見方を幅広く身に着けさせることが目標となり、大学の価値も正当性も認めようとしない彼らに学習への動機づけをいかにして行うかが最重要課題となる。こうなると、段階的に学習するカリキュラム編成はもはや意味をなさず、定められたコースの履修を学生に要求することも難しくなる。生涯学習の必要が強調されるとともに、視聴覚機器やコンピュータなど、新しい教育工学的な教育形態も積極的に活用される。

 右のような理念型は、エリート高等教育についてはヨーロッパの歴史の古い大学を、マスおよびユニヴァーサル高等教育についてはアメリカ合衆国の大学を、それぞれ念頭に置いて構想された。トロウ理論をそっくりそのまま日本の高等教育に適用できるわけでは勿論ないし、妥当性についても史実に照らして実証的に検討すべき余地がたくさんある。にも拘らず、ここでトロウ理論を引き合いに出したのは、実は、昭和四十年代以降の高等教育の位置づけを巨視的・歴史的に把握した上で全体として早稲田大学が進むべき方向を示唆する論攷が、『早稲田フォーラム』には決して多くないからである。例えば、早稲田大学は民主主義社会に対して「開かれた大学」であるべきだとの主張は随所に見られるけれども、学苑の門をどの程度まで開くのか、開いた結果、学問研究やカリキュラム編成、あるいは管理運営体制や合意形成にどのような影響が及ぶのか、影響が及んだ暁に学苑は何を目指す大学になっているのかといった未来予測は、完全に欠落している。提言された改革案の多くは、各筆者の所属する立場――学部か、学部の中でも専門科目の担当か一般教育科目の担当か語学教育の担当か、研究所か、体育局か、等々――からの部分的改善であって、実際にそのような改善策を実行に移したならば、学苑の進路全体にどのような影響が波及するのかという根幹的な議論は棚上げにされている。あるいは、公費助成の増額や国際交流の拡大や入学者選抜方法の改善といった全体的な改革提案がなされても、それは早稲田大学の全体的な将来像が描かれた上でのこととは限らない。

 また、提案された改善策の中には、一旦実施すれば相当の金額をその該当部分に支出しなければならないものもある。しかし、学苑の財源は無限ではないため、他の部分への支出を削減したり授業料増額分により手当したりする必要に迫られよう。これに連動して、当然、学苑のあり方全体も変化するが、果してそれは望ましい方向へ進むであろうか。この主題との関連で、公費助成に胚胎する難問については七四四―七四五頁で述べることにしよう。

 多くの論者は学問研究の自由を、大学の(現実問題として「学部の」と表現すべきであろうが)自治を強く主張している。しかし、この鎧の下に隠されているのは、他者の事柄に自らは口出ししない代りに、自己の事柄に対して他者が容喙するのを峻拒するという姿勢である。この姿勢は学内の諸機関についてのみでなく、教員一人一人についても見られる。従って、カリキュラムを編成し直す際にも、その影響がどこまで自己に及ぶかが最大の関心であり、改善の合意を得る難しさは並大抵のものではない。「とくに総合大学の場合、大学全体という観点を何らかの形でカリキュラムに反映させることが望ましい」ので、「全学的な立場で論議し、調整する場」(藤田幸男「私立大学におけるカリキュラムの在り方」第一三号 四〇頁)として、五一七―五一八頁に述べた「教学評議会」の設置があらためて要請されるのは理に適っている。しかし、総論には賛成しても、各論となるとなし崩し的に自己本位の行動を採る傾向が甚だ強いから、全学的協議機関は、仮に設置しても、形骸化する可能性が非常に高い。

 大学の教育機関としての重要性も多くの論者が説くところであるが、一般教育科目や専門科目の担当者と語学の担当教員とでは教育に関する理解に差が見られる。前者は学問研究に裏打ちされた教育と異口同音に言うが、後者にとっては、『『優れた研究者』にあらずして『優れた教師』であるということはありえない」(藤原保信「大学における学問研究と教育――ひとつの精神論――」第二号 四頁)と承知していても、寧ろ教授法改善の方が急務と考えられている。各学部における外国語教育は、教材などを「専門科目担当者と語学教育担当者の間で検討し、学部としてあるべき語学教育を摸索」(武田勝彦「大学における外国語教育」第一五号 四頁)すべきであるが、語学教師の多くは文学者や語学者として養成されたので、これの調整は容易でない。その一方で、会話能力獲得に対する学生の二ーズも高まりつつある。その二ーズに応えようとすると、視聴覚機器を活用した短期集中訓練形式の小人数クラス編成が不可欠となるが(田辺洋二「大学における英語教育――学習目的との接点を求めて――」同号)、それにふさわしい教員の確保や、教室の手当や、更には学科配当全体に亘る見直しも必要であろう。マス段階の学生を大教室で教える一般教育科目や専門科目の担当教員にとっても、教授法改善は等閑視できない問題である筈だが、各教員の教授法について他者が容喙できないことが障壁となっていて、結局は教員個人の自覚に俟つほかない。加えて、学者の卵に大学院で教授法を習得させるコースもない。拙劣な講義を聴かされる学生こそ被害者であるが、制度の上で救済の途はない。『早稲田フォーラム』には、教授法をめぐるこれらの問題点を指摘した論攷は皆無である。

 昭和二十四年の新制度発足以来、研究者養成機能は大学院に委ねられてきた。ところが、これに関して学苑には独自の理念があったとは思われず、声を大にして研究の重要性が唱えられてきた割りには、研究の中核をなすべき大学院の充実はなおざりにされてきた。いわば「新しい革袋に古い酒を盛る」ことでこと足れりとしてきた感がある。その間に社会は、優れた研究者だけでなく、学部で授けられるよりも高度の知識を具えた専門職業人の育成をも大学院に期待するに至り、四十九年六月に「大学院設置基準」が改定された。学苑はこの新基準に基づき大学院のあり方を修正したが、それは学苑独自の理念に沿ってのことでは全くなく、あくまで他律的な「改革」であった。実情がこれでは、文部省主導型の大学院再編成論を反駁できる筈がない。これについては本編第七章第二節で論究しよう。

 昭和五十年代に入ると、「社会において自分の立っている立場を見失い、悩むことが少ない大学生があまりにも多くなっている」(片岡寛光「大学の未来、民主主義の将来」第二五号 一〇頁)という嘆きが、教員の間から聞えるようになった。四十八年より先ず第一文学部で始まった推薦入学制度を含む入学者選抜方法改善については、本編第七章第一節に詳述するが、学苑はどのような資質を具えた学生を求めているかを鮮明にした上で改善に取り組まない限り、右の嘆きは絶えることがないであろう。「自分の大学にふさわしい優れた学生を入学させるための入試としながらも、現実には適性を考えること少なく、習得検査の考え方で入試を行っている点に問題がある」(浅井邦二「大学入学者選抜方法の改善について」第三号 三頁)のである。マス段階からユニヴァーサル段階へ移りつつある大学生の質は確かに変化しているとはいえ、必要な玉を選び抜く責任はあくまでも学苑側にあるからである。

 早稲田大学は高等学院と名付けた付属高等学校をも擁する総合大学である。付属高等学校を持つことの意味、それを更に一校増やしただけでなく、系属校をも増加させたことの意味は本編第七章第五節で説述する。他に専門学校を擁するだけでなく、五十六年には、トロウの言う生涯学習とも関連するエクステンション事業を開始した。本編第七章第四節に後述する如く、エクステンション事業が巷の「市民教養講座」と何ら変るところがないとすれば、早稲田大学の大学としての存在理由が問われることになろう。こうして学苑の規模も多様性も大きく変容してきたが、「総合」を冠する限り、建物および施設のレイ・アウトや管理運営についても総合的な理念に立脚して然るべきである。キャンパスの総合的配置がどのように構想されたかは、本編第九章および次編第三章に記述するが、「ひとつのまとまりのある組織というよりも、さまざまの価値観をもつ集団の寄り合い世帯ともいうべき状況にある……大学の管理運営は、割拠する多くの勢力の存在を認めて、これらをいかに調整し、いかにインテグレイトしていくか」(中山敦夫「総合大学のあり方――その意義、管理運営と事務――」第二〇号 四四頁)に、その成否がかかっている。この難問は永遠の課題である。