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第十一編 近づく創立百周年

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第二十章 戦後の政治と文芸を担った校友達

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 校友の活躍を捉える方法の一つは、社会的に優れた業績を上げたとか、地位を占めたとか、影響力を揮ったとかの事実を、人物事典や人名録のような資料から探り出すことであろう。例えば、「現代史の表舞台で華々しくフットライトを浴びた人々ばかりでなく、目立たない分野で活動した人も積極的に取り上げ」た『現代日本朝日人物事典』(朝日新聞社、平成二年)には、六百六十三人の校友を発見することができるし、「一九四五年以降に亡くなられた人びとも含めて現在各界で活躍中の人びと」を載録している『現代人名情報事典』(平凡社、昭和六十二年)では、それが千三百十三人に増える。更に、「あらゆる分野で活躍中の代表的人物」を国会議員、都道府県会議員、政令指定都市市会議員、知事、市長、政令都市局長以上、中央官庁課長以上、都道府県部長以上、政府関係機関役員、上場会社役員、第一部上場会社部長、都市銀行支店長、相互銀行役員、信用金庫・信用組合理事長、マス・コミ役員・局長以上、非上場有力会社役員、大学学長・理事長・学部長・事務局長、教授、文化・芸能・スポーツ界の著名人等という基準でざっと十四万人余を載録した『出身校別現代人物事典』(サン・データ・システム社、昭和五十七年)では、八千人を超える校友の名前を見出すのである。実際、各界に活躍する学苑出身者に関する情報の蒐集はさまざまな形で行われており、いわゆる有名人の名前をたんに羅列するものから、中には各産業分野に進出している学苑出身者を網羅して大部の記述および名簿として刊行されているものまである(『大学別ヒューマン・データバンク ザ・ワセダ』全六巻、株式会社システムファイブ、昭和六十二年)。社会的、経済的世界での校友の活躍が何よりも強調されなければならないが、そこでの具体的な人物像と業績を見ることは、限られた紙幅では不可能である。

 そこで以下では二つの方法を採ることにする。一つは、戦後における校友の活躍の代表例として、初の総理大臣の印綬を帯びた石橋湛山に焦点を当て、そこに至った経緯と意義を、石橋以外の有力校友政治家にも言及しつつ説述すること、もう一つは、やはり校友の活躍が目立つ特色ある分野として、主に文芸の世界を中心に、その業績群を概観することである。

一 石橋内閣の成立と稲門政治家

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 昭和三十二年十月二十日、折からの学苑創立七十五周年を迎え、新装成ったばかりの小野講堂で名誉博士号贈呈式が挙行された。贈られた人は校友石橋湛山、七十三歳。東京専門学校から早稲田大学に改称して間もない明治四十年七月、大学部文学科を首席で卒業して、そのまま特待研究生として学苑に留まり、いずれ教壇に立つべく嘱望された時期もあったものの、結局操觚界そして政界に活躍の場を求めた。半世紀の星霜を経ての学位授与である。その約八ヵ月前、石橋は内閣総理大臣の職を痛惜の思いを周囲に残しつつ辞していた。

 学窓を出てから当初本人としては思いもかけぬ方向として社会評論、続いて経済評論家としての道を歩み、戦前既に自由主義者として令名を馳せていた石橋に国政への直接参与を決意せしめたのは、敗戦とそれに伴う国民生活の疲弊・惨状を目の当りにしたエコノミストとしての良心と責任感とであった。政界に打って出る野心など微塵もなかった石橋が、還暦を過ぎてからの昭和二十一年四月、戦後第一回総選挙出馬を決断するに至ったのである。

 結果は落選であったが、日本自由党吉田茂を首班とする組閣で石橋は議席を持たないまま大蔵大臣に推薦されて就任するという異例の人事が行われ、「街の経済学者」が一躍して政治の表舞台に立つことになった。大臣在任中の石橋の活躍を描くには夥しい紙幅を必要とする。戦時補償打切り問題、石炭増産問題、農地改革、労働運動対策、連立内閣工作……どれ一つとっても国民生活・経済あるいは国家の命運に直接係わらないもののない重要問題に一時に直面したのであり、「持ち前の自信の強さと、積極的な論法とで、身をもって出掛けてゆき、問題を一身に背負ったような格好になっていた」(吉田茂『回想十年」第三巻一九三頁)のである。

 ハイライトは二十一年七月二十五日の第九十帝国議会で行った財政演説であった。従来の慣行を破って大臣自らが稿を起したこの演説は、終戦処理と経済再建の懸案を託す歳入三百五億百万円余、歳出五百六十億八千八百万円余という大幅赤字予算の計上に当って、いわゆる積極財政論を展開するものであった。政官界、財界、学界、また国民一般の間に脅迫観念の如く張りついていたインフレ懸念に真っ向から挑戦したものとして、「石橋財政」は戦後の歴史にその名をとどめることになった。

 しかし、石橋のインフレに対する基本認識や各重要問題の処理について、時の最高権力機関GHQは寧ろこれを占領政策ひいては民主化路線に対する障害と看做し、遂には石橋を頑迷な守旧派の政治家と決めつける短絡を犯す。ここにGHQ民政局による石橋排除が画策され、公職追放令の適用となっていくのである。二十二年五月八日、石橋の追放覚書が発せられ、十七日に至って内閣より昭和二十二年内務省令第一号別表第一の七(G項)に該当するとの十六日付公職追放が発表された。

 追放は二十六年六月に解除されるまで四年余りに及んだ。政治家石橋としては致命的な挫折であり、閑居を託つほかなくなった形であるが、言論・研究へのエネルギーはいささかたりとも減じることはなかった。追放決定後間もなく自由思想協会を創立して定期的に研究会を持ったのもその表れであったし、また、時論の発表は禁じられたものの、『東洋経済新報』の論説担当記者が毎週石橋宅を訪れて各方面の問題について意見を徴してそれを論説の執筆に生かし、中には石橋の談話をそのまま論説にしたものがあったという(『石橋湛山全集』第一三巻六四四頁)。

 反GHQの確信犯であるかのように看做されたことが、石橋追放がなかなか解けなかったことの大きな理由であろう。そうであるとすれば、追放解除にはGHQ側の劇的な政策転換とか、そのための組織・機構の大改編ないし組織自体の解体を俟つほかなかったことになる。果して、戦争の記憶がまだ生々しいうちに第三次世界大戦の勃発を懸念させた朝鮮戦争を背景に日本の「自立化」が急務とされ、講和条約締結へと事態が進む中で、二十六年に至り「旧指導者」の公職追放解除が図られることになった。六月二十日、昭和二十三年内務省令第一号別表の改正による占領政策の緩和措置として追放を解かれた石橋は一躍マスコミの寵児となる。ラジオ、新聞、週刊誌等の各報道機関が競って石橋の所見を求め、その動静を伝えた。小汀利得をして「凱旋将軍の如く」と言わしめたのもあながち誇張ではなかった。いわば、いかに世間が石橋の再登場とその言説とを渇望していたかを物語るエピソードでもあった。

 追放解除より少し前から石橋は同じく追放の身であった鳩山一郎との接触を再開していた。追放がなければ政権を担当していた筈の鳩山ならびにその周辺には、追放解除の暁には政権を回復して当然との思いがあり、その実現に向けての胎動が起ってくる中で、石橋は同志的結合に加わっていくのである。石橋の政論家としての立場は、その掲げた「日本経済の再建構想」に見られるように、GHQをバックとして吉田政権下で進められてきた均衡財政主義のドッジ・ラインからの政策転換であり、その方針を貫こうとすることが鳩山政権樹立を目指す行動に政策論的根拠を与えたのであった。

 ところで、戦後政治の再編成と呼ばれるこの時期は、石橋に限らず学苑出身政治家達の動きがとりわけ目立った。先ず、既に戦前にキャリアを持ち、戦後第一回総選挙当選直後に公職追放となり、二十六年六月に解除となってから石橋とともに鳩山派の参謀として政権獲得・保守合同へと保守勢力をリードした一人に三木武吉がいる。三木は香川県に石橋と同じ明治十七年に生れ、早稲田大学と改称される前年の明治三十四年に東京専門学校邦語法律科入学、三十七年に卒業後弁護士となってから、大正六年に三十三歳で憲政会所属で衆議院議員選挙に当選を果して政治家生活に入り、一時期政界から離れたことがあったものの、戦時下の翼賛選挙では非推薦で当選して中野正剛(明四二大政)や鳩山一郎らとともに反東条英機の運動を展開した活動歴を持っていた。この経験を以て、敗戦直後の鳩山を中心とする日本自由党創設に参加したのである。老練な政治家三木が人々に与えたイメージは、権謀術数を弄する策士としてのそれであったが、その眼は一貫して誰を時の政権担当者として担ぎ上げていくのがよいかを探っているものであり、その眼鏡に最初に叶ったのが鳩山一郎、更にその後継者に一時期石橋湛山が据えられたのである。

 その三木武吉と二人三脚を組むように激しい行動を示したのが河野一郎であった。河野は明治三十一年神奈川県の生れ、大正十二年学苑の政治経済学部を卒業後、朝日新聞記者になり、昭和恐慌下の農村の窮状に心を痛めつつ昭和七年の衆議院選挙に政友会から出馬し当選、翼賛選挙では三木と同様非推薦で当選した経歴を持つ。戦後の日本自由党の創設メンバーとして初代幹事長に就任し、初代総務会長三木武吉とともにその支柱となった。しかし、公職追放となり、その間選挙資金斡旋の疑いで公職追放令違反の罪に問われるという経験もしている。

 一方、逆に吉田に重用されその後継者となった緒方竹虎は、明治二十一年山形県の生れながら福岡県で育ち、四十四年学苑の専門部政治経済科を卒業後、朝日新聞社に入りジャーナリストとしての道を歩み、編集局長、主筆、代表取締役を歴任し、その上で各種政府委員を務めた公職履歴は石橋と同様であるが、昭和十九年の東条内閣退陣後の小磯国昭内閣で国務大臣兼情報局総裁に就任し、終戦時の東久邇宮内閣では国務大臣内閣書記官長兼情報局総裁であった。戦時内閣の閣僚であったことで戦争犯罪人の容疑を受け、間もなくこの容疑は晴れたものの、公職追放の処分は免れず、政界復帰はやはり二十六年まで待たねばならなかった。追放解除になると、緒方は、追放期間中に進出してきた官僚出身政治家を配した吉田の側近政治への傾きを矯正する目的で政界復帰を要請され、二十七年十月選挙で議席を得たところで直ちに第四次吉田内閣の国務大臣官房長官に就任、翌二十八年五月発足の第五次内閣では「内閣法第九条により臨時に内閣総理大臣の職務を行う国務大臣」すなわち副総理として入閣する。

 自由党以外では、終戦直後に鳩山自由党と同時期に結成された日本進歩党の後身たる改進党で幹事長の職にあった松村謙三がいる。松村は明治十六年富山県の生れで、三十五年四月東京専門学校高等予科入学、三十九年、早稲田大学大学部政治経済学科卒業に先立って報知新聞社での記者生活に入ったが、同四十五年に退社帰郷し、町会議員を振り出しに県会議員を経て昭和三年第一回普通選挙に立候補・当選してから二十一年に公職追放になるまで、衆議院議員、東久邇宮内閣では厚生大臣兼文部大臣として緒方竹虎とともに閣僚に人を連ね、幣原喜重郎内閣では農林大臣として農地改革に取り組んだ実績を持つ古参の政治家である。学生時代に同郷の関与三郎を通じて文学科の石橋湛山と出会い、以来同学出身として親しい関係を保っていた。

 他方、保守政党に対して革新勢力を代表した日本社会党では、鈴木茂三郎(大四専政、愛知県出身)が左派のリーダーとして昭和二十年十一月の結党時から中央執行委員職にあって、二十四年四月に書記長、二十六年一月に中央執行委員長となり、同年の左右分裂をくぐり抜けて三十年十月の統一後の委員長として、合同後の自由民主党と対峙することになった。左派に対して右派を率いたのが浅沼稲次郎(大一二政、東京都三宅島出身)である。二十四年に鈴木と書記長の椅子を争って敗れた一時期を除いて二十三年以来、分裂期を含めてこのポストを占め続け、長らく鈴木委員長、浅沼書記長のコンビを持続させることになる。

 さて追放解除・講和条約発効を承けて二十七年十月選挙が実施されるに当り、早くも鳩山後の宰相候補を予測する次のような記事が流されていた。

このごろ、政界において、話題の中心となる二人の男あり。緒方と石橋である。……二人とも自由党員である。二人とも、言論の仕事に携わって来た。年配も略々同じ。ともに早大に学籍をおいたことがある。……鳩山の病状に、大変化なく、吉田派からいわしめると依然として余りよろしくない、という状態で推移し、九月末と予想される総選挙を迎えると、自由党内の党状は一層厄介なものとなり、すくなくとも選挙後は、分裂の危機を孕むものと見られる。その中に処して、緒方、石橋の今後の生長は事態の成行を方向づける大きなファクターであろう。

(有竹修二「緒方竹虎石橋湛山」『財政経済弘報』昭和二十七年七月発行 第三二九号 八ー九頁)

果して緒方は二十九年十二月の吉田退陣を承けて自由党総裁となり、三十年二月衆議院議員選挙後内閣首班指名を鳩山と争ってこれには敗れて野に下ったものの、保守合同後は先の見えた鳩山に代る次期首班と目されるに至った。しかし、その保守合同からまだ間もない三十一年一月二十八日、緒方が突如として逝去し、七月四日には三木自身が逝ってしまった。緒方竹虎六十七歳、三木武吉七十一歳であった。緒方の急逝は政界に大きな衝撃を与えた。鳩山の退陣が目前に迫り、殆ど誰もが次の首班と考えていた矢先だったからである。存命であれば学苑出身の総理大臣第一号は緒方竹虎となる筈であった。

 この三十一年の最大の外交課題であった日ソ国交回復成立を花道に鳩山は引退したが、緒方、三木なきあとの政界は混迷を極め、各派勢力の合従連衡の中で鳩山自身は後継者を指名できず、党総裁選挙に依ることとなった。ここで石橋は、党幹事長である岸信介と緒方派を継いだ石井光次郎とともに総裁候補者の一人に挙げられていく。自ら求めてというより、周囲に推され、それに応えるというのが本人としては正直なところであった。あとは各派の連携工作とそれに先立つ思惑ないし深謀遠慮のゲームである。石橋自身の勢力はまことに小さいものであったが、松村謙三らの旧改進党グループや鳩山直系と呼ばれるグループが石橋支持を打ち出し、元首相の芦田均も石橋の側についた。十二月十四日の自由民主党総裁選挙に向っての各派の動きの中で編み出された妙手が二・三位連合作戦であり、第一回の代議員投票で過半数に足りない二百二十三票で一位となった岸に対して百五十一票と二位につけた石橋は、百三十七の石井票の大部分を吸収して、決選投票で二百五十八対二百五十一と遂に逆転したのである。

 十二月二十日、衆参両院での首班指名は、自由民主党総裁石橋湛山に対する日本社会党委員長鈴木茂三郎と校友同士の争いとなった。衆議院で二百九十一対百五十、参議院で百五十対七十七の投票結果を得て首班に指名された石橋は直ちに組閣に入り、難航のすえ二十三日に閣僚名簿を発表、ここに石橋内閣が成立した。

 石橋湛山の首相就任は我が国政治史の上でも画期的な出来事として位置づけられる。「純粋なジャーナリスト出身の初めての宰相であり、近代的な大学制度整備後の初の私学出身宰相でもあった」(筒井清忠『石橋湛山――自由主義政治家の軌跡』三七九頁)からである。学苑関係者もこれに多くの感想を寄せた。『早稲田学報』第六六七号(昭和三十二年一月発行)よりその幾つかを抜粋・引用しておこう。

早稲田大学は、伝統的に政治と縁故がふかい。それは、創立者が明治、大正を通じての偉大な経世家大隈老侯であったことにもよるが、学校創立の経緯が当時の政治の動きと微妙にからんでいたことにもよるであろう。とにかく早稲田の伝統には、経世家的の風格がそのバック・ボーンとなっている。また事実上、中央、地方の別を問わず、日本の政界に多くの人材を輩出させた。それでいて、不思議なことには、内閣の首班者を出したのは、今回がはじめてである。昔流の表現を用いれば、漸くにして天下をとったのである。(大浜信泉) (二頁)

このたび石橋湛山君が輿望をになって自由民主党の総裁になり、つづいて国会の指名をうけて内閣総理大臣となって国政を司ることになった。故大隈侯の衣鉢をつぎ、早稲田大学出身者として最初に総理大臣の栄誉を得ることとなったわけである。しかも、面白いことには、永井柳太郎中野正剛緒方竹虎三木武吉など、政経、法科から、英才が雲の如く出て政界を闊歩したが、ついに総理の椅子を占める者が出ず、文学部哲学科出身の石橋君が最初に総理となったことは、まことに皮肉というほかはない。(松村謙三) (八―九頁)

石橋さんはハッタリもなければ、権謀術策を弄する政治家でもない。彼は早稲田出身である。その早稲田で培われた在野精神が、彼の内閣から官僚的な政治を排斥してくれることを望みたい。そうして早稲田精神、すなわち在野精神が在朝精神とどう融合して行くか、今まで批判する立場にあったものが、これからは実践する立場になるのだ。この二つの精神の融合の上に新しいものが生まれてくることを、私は一番期待している。(原安三郎) (九―一〇頁)

石橋さんによって遂に早稲田も首相を出した。これは早稲田にとっても一つの試練である。今まで一度も政権を担ったことのないワセダニァンが、これからはどしどしその任に当るだろうが、石橋さんはその試金石であるといえよう。同時にそれは野党精神がどのように政治を動かすかという人々の関心につながるものである。(浅沼稲次郎) (一一頁)

 しかし石橋内閣は短命に終った。失政からではなく石橋自身の突発的な発病からである。老齢に激務と無理が重なったからと言うほかないが、三十二年一月二十三日の母校大隈会館庭園における「石橋内閣総理大臣就任祝賀会」出席後間もなく、かりそめの風邪がもとで石橋は病床に呻吟するという状態に至り、病状の進行から早期快癒が困難との診断が下された。時間が最大の敵となった。一つの選択肢が容赦なく突きつけられることになった。あくまで回復を待つか、それとも首相職務に耐えられないことをはっきり認め辞任するかである。この選択肢から逃れられないことを覚悟したとき、決断は速やかであった。大方の常識は前者にあったと言ってよい。何と言っても総理大臣職は最も得難い地位である。更には、明確な信念と政策方針とを持ち、それを披瀝した以上、その実現を図ることも石橋の責務である。しかし、何よりも第一に考慮されるべきは、政治(行政)の空白を作ってはならないということである。誠実をモットーとする石橋はこの点を最も重要視した。石橋は総理の職を辞したのである。敢えて自らの主体的意志によって挫折の道を選んだという言い方が正当であろう。二月二十三日未明、「政治的良心に従って辞める」との「石橋書簡」が官房長官石田博英(昭一四政)によって記者団に対して読み上げられた。六十三日の短命内閣であった。

 石橋の総理就任が画期的事件とすれば、その退陣ぶりもまことに異例かつ印象的なものであった。退陣を惜しむ声が沸き起り、同時に、その出処進退の潔さに賞賛の声が相次いだ。「不明朗なことの多い政界に石橋の退陣ぶりはまことに鮮やかで国民の心を打つものがある」(『読売新聞』昭和三十二年二月二十四日号)とか、「石橋のこうしたやり方は、いままでの内閣でどの総理大臣もやらなかったことである。石橋は他の凡俗政治家とは趣を異にしている」(『毎日新聞』昭和三十二年二月二十四日号)とかの評である。釣り損なった魚の大きさをひとしきり惜しむ気持に似ていないこともないが、学苑関係者にとっても、校友の総理としての活躍を目の当りし、自己にとっての励みとしたかったであろうことを考えれば、この挫折がいかに残念な事態に見えたか、想像に難くない。しかし、これによって石橋がいかに真摯にして、誠実なる政治家であるかを日本全国に印象づけたと言えるのである。

二 文化勲章、文化功労者、日本学士院賞、日本芸術院賞

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 「文化の発達に関し勲績卓絶な者に授与される」文化勲章は、文化全般に亘り、科学、文芸、絵画、彫刻、建築、音楽などの分野で顕著な功績を成した者に対して毎年授与されている。昭和五十七年度までに学苑出身者でこれを受章したのは、第八回(二十四年度)の津田左右吉(明二四邦語政治科)、第九回(二十五年度)の正宗白鳥(忠夫、明三四文学部)、第二十六回(四十一年度)の井伏鱒二(満寿二、大文中退)、第二十七回(四十二年度)の村野藤吾(大七大理)、第三十七回(五十二年度)の丹羽文雄(昭四文)、第三十八回(五十三年度)の尾崎一雄(昭二文)である。

 津田は、東京専門学校邦語政治科首席卒業という経歴に窺われるように、最初から史学者を目指したわけではなかったが、沢柳政太郎、白鳥庫吉の知遇を得たことをきっかけに歴史研究の道を歩むことになった。大正七年に学苑講師となり、『神代史の研究』、『古事記及日本書紀の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』等で展開された記紀の合理的批判的解釈は、日本史、日本思想史の新機軸を開くものであった。戦前からその学問水準は注目されたが、とりわけ戦後になってその令名は高まり、校友・学苑関係者の中からの文化勲章受章第一号となった。今日でも日本古代史、日本思想史を研究しようとする者が津田の研究を無視して先へ進ことができないという事実を考えてみると、受章は当然で、寧ろ遅きに失したと言えよう。

 津田に続いた五名のうち、正宗、井伏、丹羽、尾崎と、四名までが作家・文学者であることは、一つの特徴ではある。正宗を自然主義文学の旗頭として紹介することは文学史の常識であるが、強烈な自意識を出発点に人間の死と生をいわば終生のテーマとした創作・批評活動は大正から昭和、更に戦後へと息長く続けられ、また作家論・人物批評に他の追随を許さないものがあった。井伏は高等予科から大学部文学科仏蘭西文学専攻に進学した上での中退である。繊細で傷つきやすい心をユーモアでそっと包み込む精神の柔軟さが『山椒魚』をはじめとする佳作を次々と生み出し、どの土地に住もうと旅行しようとそこに郷土(ハイマート)を見出す姿勢が多くの作品の源泉となった。続く丹羽と尾崎はともに三重県生れ。高等学院から文学部国文学専攻進学というコースを尾崎の方が二年先輩で歩み、同人誌活動を共にした仲である。志賀直哉に傾倒して出発した尾崎はやがて志賀文学からの自立を意味する作品『暢気眼鏡』によって芥川賞を受賞して作家としての地位を不動とし、戦時中の大患をくぐり抜けると、地面を這い回る虫けらの生にまで及ぼす眼差しによって悠久の時空のどこかに引っ掛かる人間の生への欲求をモチーフに、名作・佳作を次々と生んだ。一方、戦前の銀座風俗や女性の生活力を描いて流行作家の典型をいった丹羽は、職業としての作家を体現していた。戦後は一層旺盛な創作活動を展開したが、その中で宗教的課題への取組みが『親鸞』、そしてライフワーク『蓮如』等に結実した。日本文芸家協会理事長および会長を務めた。

 このように文学系統の受章者が目立つ中で異彩を放っているのは、建築の村野藤吾である。戦前から商業建築を中心に芸術性の高い建築作品を次々と残し、それらに対する各種受賞歴は枚挙にいとまがない。日本建築家協会会長を務め、文字通り日本建築界での大御所的存在であった。なお二十七年の村野の日本芸術院賞受賞に際して、理工学部教授明石信道はその祝意とともに村野の功績を紹介する一文を『早稲田学報』第六三〇号(昭和二十八年五月発行)に寄せ、津田左右吉と並ぶ学苑出身の最大の文化功労者として名誉博士の授与を提案し、学苑の名誉博士号授与制度への道を拓いたことを紹介しておく。村野への名誉博士の贈呈は四十八年に実現した。

 その後、昭和五十九年度に森繁久弥(昭三一推選)が文化功労者に選ばれ、平成三年には文化勲章が与えられた。そして翌四年度には井深大(昭八理)が文化勲章に輝いている(平成元年度に文化功労者となる)。森繁の受章はいわゆる大衆芸能の映画・演劇人として初めてのことであり、町の発明家・起業家から出発して我が国を代表する世界的企業ソニー株式会社を育て上げた井深への文化勲章も、同勲章の歴史において画期的な意味を持つものであった。

 ところで、文化勲章は戦前昭和十二年制定の文化勲章令によるもので、それ自体は経済的に功に報いる制度にはなっていなかった。そこで昭和二十六年になって文化功労者年金法が制定され、これによって文化勲章受章者は同時に、あるいは前後して、文化功労者として終身年金が与えられることとなった。「文化」の範囲も広がり、ユニークな人物が文化功労者に選ばれるようになった。五十七年度までに選ばれた学苑関係者は、第三回(二十八年度)の小川未明(健作、明三八大文)、第四回(二十九年度)の山田三良(明二二英語普通科)、第八回(三十三年度)の窪田空穂(通治、明三七文学部)、第十二回(三十七年度)の内藤多仲、第十四回(三十九年度)の尾崎士郎(大政中退)、第十九回(四十四年度)の河竹繁俊(明四四大文)、第二十六回(五十一年度)の高橋亀吉(大五大商)の七名であるが、その後も、第四十一回(六十三年度)には名誉教授竹内理三と織田幹雄(昭六商)、第四十二回(平成元年度)には元中央大学学長原田鋼(昭一一政)と続いている。

 右のうち、小川は児童文学というジャンルの確立者、窪田は歌人、尾崎は日本型教養小説(ビルドゥングス・ロマン)とも言うべき『人生劇場」の作者と、いずれも文学系統であり、そして、学苑において窪田は国文学、内藤は建築学、河竹は演劇学の講義を行った名誉教授である。文化功労者制度の幅の広さを印象づけたものとして、経済評論の高橋の受章がある。在野の経済学者としての高橋の鋭い洞察力と見識とは、通常の経済評論の域を超え、アカデミズム経済学者にも官庁エコノミストにもない独自のものとして一目置かせるものであった。

 生涯の功労に対して与えられる文化勲章、文化功労者制度に対して、日本学士院賞は優れた個別研究業績に与えられるものである。学苑関係者としては、帝国学士院時代の昭和十八年度に政治経済学部教授信夫淳平(明二三英語普通科)が『戦時国際法講義』で恩賜賞を受賞しているが、戦後になっては先ず二十一年度に土岐善麿(明四一大文)が『田安宗武』によって受賞した。これは、土岐が朝日新聞論説委員の頃から関心を向けていた国文学者にして歌人の田安宗武(徳川吉宗の次子)についての研究を定年退職後に本格化させて昭和十七年に第一冊を刊行し、戦争をくぐり抜けて二十一年の第四冊刊行まで漕ぎ着けたものである。三十一年度には、教育学部教授湯沢幸吉郎(東京高等師範卒)の『近代国語の研究』が選ばれた。湯沢は文部省図書監修官等を歴任して二十一年より学苑に奉職したが、その三十年余に亘る近代国語史の研究成果が認められたものである。三十五年度には、文学部教授河竹繁俊の『日本演劇全史』が選ばれた。本書は河竹の研究生活の集大成として「今日も未だ類書を見ない体系的演劇史の樹立」(『紺碧の空なお青く――近代日本の早稲田人五五〇人』四五四頁)である。その後暫く学苑関係者には賞授与の沙汰がなかったが、四十九年度になって、文学部教授佐藤輝夫(大一二文)の『ローランの歌と平家物語』と法学部教授外岡茂十郎(大八専法)の『明治前期家族法資料』とが同時受賞となった。前者はヨーロッパ中世の戦語りに日本の『平家物語』と非常によく似たプロットを発見した比較研究であり、後者は旧明治民法施行前の無法典時代の家族法について実に七千余の布告・指令等を収集・整理した初めての網羅的研究であった。

 学術上の功績を顕彰する機関である日本学士院に対して、「芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための名誉機関」として設けられた日本芸術院は、授賞対象を美術、文芸、音楽、演劇、舞踊と拡げている。

 先ず二十四年度に、政治経済学部教授でフランス文学の山内義雄が『チボー家の人々』全十一巻で受賞となった。我が国におけるフランス文学の紹介および研究の先駆の一人として、十四年(昭和十三―二十七年)をかけて完成させた最大の訳業である。山内はフランス政府からもレジオン・ドヌール勲章を受章している。二十五年度には前述の小川未明が文化功労者に先立って童話文学の業績により受賞し、二十六年度には文学部教授樋口国登日夏耿之介、大三大文)の『明治浪漫文学史』『日夏耿之介全詩集』が受賞対象となった。樋口の詩人・英文学者としての集大成である。続いて二十七年度には村野藤吾が「建築界につくした功績」により、二十九年度には童話作家の坪田譲治(大四大文)が『坪田譲治全集』により、三十年度には井伏鱒二が『漂民宇三郎』により受賞している。ほぼ毎年学苑関係者が選ばれるという活躍ぶりであった。坪田が受賞したとき、小川未明が『毎日新聞』(昭和三十年三月二日号)紙上で「坪田譲治の人と作品」と題して、「坪田君はものを善意に解釈している人であり、その作品は人間性に立脚し、人間を賛美している文学である。このごろの文学はややもすると偏見にとらわれ、過激な材料を扱ったりしているが、坪田君にはそんな点は全く見られない。実に単純率直に自分の気持を表現し、あたたかい同情心に富んでいるため、おのずから作品に気品があり、そこが皆に喜ばれるゆえんであろう」と祝した。三十年代はやや淋しくなって、三十四年度に作家火野葦平玉井勝則、文中退)の絶筆となった『革命前後』を含む業績が没後受賞となったのが目につくところであるが、四十年度になると、作家中山義秀(議秀、大一二文)が『咲庵』をはじめとする業績により、文学部教授舟木重信が評論『詩人ハイネ・生活と作品』により、理工学部教授今井兼次(大八大理)が皇后陛下還暦記念音楽堂「桃華楽堂」その他の設計により、一度に三名の受賞者を出し、更に翌四十一年度に理工学部教授佐藤武夫(大一三理)が建築界に尽した功績により受賞するという盛況を見た。中山の『咲庵』は明智光秀の生涯を描いた歴史小説であるが、中山自身が光秀に乗り移ったかのように独自の解釈で反逆の本質を明らかにした力作であり、丹羽文雄によれば、芥川賞受賞作『厚物咲』で始まった中山の文学はここに「到達すべき高所に達した」(『中山義秀全集』第七巻月報)のである。ドイツ文学者舟木重信も山内義雄と同様「外部からきて早大文学部の人になりきった」(新庄嘉章の言)人であるが、「革命詩人」ハイネの研究は戦前・戦中の抑圧された雰囲気の中で貫かれたものである。村野に続く今井、佐藤の受賞は早大建築学の名をあらためて天下に知らしめるものであったと言ってよいであろう。ここで掉尾を飾るものとして、五十四年度に市川染五郎(現九世松本幸四郎、本名藤間昭暁、一文中退)が「歌舞伎及び歌舞伎を基調とした新作の演技」によって受賞したことを挙げておこう。ブロードウェイ・ミュージカル「ラ・マンチャの男」でアメリカ人に混じって主役を演じたこと等が評価されたものである。

三 戦後文芸をめぐる早稲田群像

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 新学制は学苑の体制・機能を大きく変え、その環境の中で入学し、社会に巣立っていった世代は、新しい時代の中で新たな可能性を与えられ、それぞれの道を切り開いていくことになった。

 学苑が昭和二十四年に新制大学として再出発して以来入学してきた最初の世代は、大体昭和五年前後の生れとして括ってよいであろう。この世代は戦前に幼年期から少年期を過ごし、戦争の何たるかを多少とも肌で感じ、そして敗戦後の混乱と窮乏を少年期から青年期にかけて体験してきた世代を先頭としている。疎開や引揚の経験者も多い。そこで、この世代を差し当って新制大学第一期世代と呼ぶことにする。もとより戦争を身を以て体験したのは、兵士として動員され、戦場にも身をさらした世代であり、この世代が戦後社会における生き方や考え方を最も強く表現してきたことは言うまでもない。そうした世代の存在を考慮に入れつつ、ここでは復興期から高度成長期およびポスト高度成長期の我が国社会の文芸の進展という観点から、学苑を出た新制大学世代を中心に戦後の校友の活躍の様子と特徴を概観する。

 戦争そして敗戦という強烈な時代体験が個人の問題意識を形成し、それを創作活動へと昇華させていった代表例を文学の世界に求めるならば、新制大学世代に注目する前に、例えば井伏鱒二の『黒い雨』を思い起してよいかもしれないが、数名を挙げたらどうであろうか。高木俊朗(昭八政)は、もともとは映画監督であったのが、戦後になって映画制作と併行して戦記文学を書き、ノンフィクション作家へと転身した。代表作が『インパール』と『陸軍特別攻撃隊』で、特に後者は出色の戦争記録文学と評価された。その高木と同じ世代である田村泰次郎(昭九文)は、既に戦前に小説を書き始めていたが、十五年に応召され二十一年に帰国するまで中国各地を転戦した。その間のただ食べて寝て戦うだけで、知性も思想も無用の生活体験の故に、敗戦直後の有楽町界隈の売春婦の生きざまに共感を得て、『肉体の門』を書いて衝撃を与えた。戦場となった沖縄では、池宮城秀意(昭五文)がジャーナリストとして故郷の運命をつぶさに見つめた。『琉球新報』の編集長そして社長を勤め、戦争体験に基づく思想・言論を数々の著作にまとめている。もう一人、沖縄師範学校を経て学苑に入学し、アメリカ留学を経て琉球大学の教壇に立ち、のちに沖縄県知事となる大田昌秀(昭二九教育)は、社会学者として近現代沖縄社会の研究を専門とし、『沖縄の民衆意識』『沖縄のこころ』『総史沖縄戦』などの著作がある。

 新制大学第一期世代の学苑関係者の活躍を見よう。沢地久枝(昭二九・二文)は青春時代を戦争・敗戦で塗りつぶされた引揚組である。中央公論社の編集者から、作家五味川純平の『戦争と人間』の注釈作りの経験を経て、視線を戦争につながる昭和史に向け、女性の視点からの歴史観を切り開いた。その処女作が『妻たちの二・二六事件』である。更に注目された作品として『火はわが胸中にあり――忘れられた近衛兵士の叛乱』『昭和史のおんな』等がある。その沢地と同じ世代に野坂昭如(二文中退)がいる。強烈な戦災体験がのちの直木賞受賞作品『アメリカひじき』『火垂るの墓』に昇華された。

 直接体験派としてその体験自体にこだわってきたのが彼らであるとすれば、客観的にあらためて戦後状況に問題を発見した袖井林二郎(昭二九・一政、昭三一政研)は、六年に亘るアメリカ留学を経験したアメリカ政治専攻者として対日占領政策をテーマとし、その研究成果の一つが『マッカーサーの二千日』である。やはりアメリカに渡って彼の地で結婚したドウス昌代(旧姓梅沢昌代、昭三七・一文)が、戦時中の日本軍部による英語放送の声「東京ローズ」(アイバ戸栗ダキノ夫人戸栗郁子)の存在を知ったのは、太平洋戦争従軍のアメリカ人兵士からであった。これに関心を持ち、周到な取材・調査によってダキノ夫人を反逆者扱いしたアメリカを告発した作品『東京ローズ』は、忘れられていた特異な戦争エピソードを明らかにした労作である。

 戦後復興を果して高度経済成長へ移っていく時代に新制大学第一期世代は向い合うことになる。政治的には独立・平和・民主主義が叫ばれ、国際的には冷戦の時代、そして三十五年の「安保闘争」を頂点とする昻揚の時代を体験した世代でもある。この中で視点を民衆・労働者に置いて問題を発見し取り組む仕事が行われている。土本典昭(一文中退)は一時期政治活動に携わったあと岩波映画制作所に入って記録映画監督になり、その第一作「ある機関助士」は日本国有鉄道のPR映画ながら記録映画として評価され、四十六年から撮り続けた水俣病の記録映画第一作「水俣――患者さんとその世界」は世界的な反響を呼んだ。ノンフィクション作家の鎌田彗(昭三九・一文)は、自ら自動車工場の季節工になるという潜入取材により、製造企業における労働者の疎外状況を『自動車絶望工場』として発表した。雑誌編集者を勤めた富山和子(昭三二・二文)は、経済成長の陰画と言うべき環境問題に「水」のあり方からアプローチする視点を確立し、政策的な発言も行って環境論のリーダー的存在となっている。

 文芸の世界の広がりは文芸のジャンルの広がりないし多様化に他ならない。それはまたメディアの発達によっても促進されていく。昭和二十八年はまさに新制大学入学第一期世代が卒業し始める年であるが、それは我が国にテレビの本放送が開始され、テレビ時代の幕開けの年でもあった。この年にテレビ・メディアの世界に入り、テレビ番組制作の草分けとなったのがこの世代であった。その中に、せんぼんよしこ(千本福子、昭二八・二文)、和田勉(昭二八・一文)、牛山純一(昭二八・一文)、萩元晴彦(昭二八・一文)等の名前を見出すことができる。

 せんぼんは日本テレビ放送網においてドラマ制作に専ら取り組み、「縁」「ああ!この愛なくば」等の作品が評価され、一方、和田がNHKにあって演出したドラマは三十二年の「石の庭」から始まって、「日本の日蝕」「大市民」「文五捕物絵図」「中央流砂」「天城越え」といずれも高い評価を得、鬼才の名をほしいままにした。ドラマとともにもう一つテレビ文化を代表する分野として開拓されてきたのが、報道メディアとしての特性を生かしたテレビ・ドキュメンタリーである。牛山は日本テレビ放送網で報道畑を歩き、記者から報道制作の側に回ってから三十七年に民放初のドキュメンタリー番組として「ノンフィクション劇場」を企画、「老人と鷹」「ベトナム海兵隊戦記」「すばらしい世界旅行」「知られざる世界」など続々と話題作・秀作を提供して、まさにこの分野の草分けとなった。萩元はTBSの前身ラジオ東京に入社し、間もなくテレビ報道番組に携わるようになり、とりわけ四十二年の「現代の主役・小沢征爾『第九』を揮る」はテレビ・ドキュメンタリーに新風を吹き込んだと言われる。他に「オーケストラがやってきた」「遠くへいきたい」「太平洋戦争悲話・欧州より愛を込めて」「海は甦る」等が代表的な制作である。

 二十八年各社入局組に続いては、ドラマでは深町幸男(昭二八・一文)や大山勝美(昭三二・一法)、ドキュメンタリーでは吉永春子(昭三〇教育)、池松俊雄(昭三二・二文)、渡辺みどり(昭三二教育)、相田洋(昭三五・一法)、星野敏子(昭三五・一文)等が業績をあげている。NHKの深町は新東宝の助監督を経ての入局で、映画の手法をテレビ・ドラマ制作に生かした「ドブネズミ色の街」、印象深い作品に「夢千代日記」(五十年放映)がある。大山は「若者――努の場合」「真夜中のあいさつ」「岸辺のアルバム」等を制作し、「ドラマのTBS」の評価を確立することに貢献した。

 ドキュメンタリー作品は言うまでもなく制作者側の問題の発見・認識が出発点である。吉永はTBSの報道畑を歩み、「松川の黒い霧」のように現代史の暗部を追求する番組の取材・制作をラジオ時代から続けている。池松は日本テレビ放送網の報道記者としてサリドマイド児の問題に突き当り、長期取材の成長記録「君は明日を摑めるか――貴くんの四七四五日」は五十年から五十一年にかけて内外で放映されて大きな反響を呼んだ。同じく渡辺みどりも日本テレビにあって、東京のある家庭の三つ子の誕生から中学校卒業までの成長を「三つ子の成長記録――がんばれ太・平・洋」シリーズとして撮り続け、「新しい旅立ち――一歳から中学校卒業」として完成させた。相田はNHKにあって現代の世界における科学技術の意味を問い続け、「核戦争後の地球」を映像化して世界的に衝撃を与えた記憶は生々しい。新しい仕事に「電子立国日本の自叙伝」がある。また星野は戦後占領時代の置き土産とも言うべき混血児の問題に取り組み、エリザベズ・サンダーズ・ホーム出身の混血児達に取材した作品「子供たちは七つの海を越えた」を制作した。

 テレビを含めて放送メディアはドラマ番組を中心に台本の書き手を必要とした。間もなくその書き手はシナリオ・ライターというにとどまらず「放送作家」という新たなプロフェッションを生み出した。岩間芳樹(文中退)はラジオ時代からの「放送作家」であり、「おとうちゃん」「シルバーグレイの空間」「海暮色」とラジオ・ドラマの秀作を発表する一方、現代史を題材としたテレビ・ドラマの脚本も手がけ、五十六年の「マリコ」は太平洋戦争秘史である。橋田寿賀子(文中退)は女性脚本家らしい視点で高度経済成長時代の家庭とその人間的葛藤をドラマ化し、共感を呼んだ。岡本克己(昭二八教育)はテレビ・ドラマ「絆」で高い評価を得た。高橋玄洋(昭二九・二文)は三十四年NET(現テレビ朝日)入社時から脚本を執筆し、「傷痕」「子機」「いのちある日を」等順調に業績をあげ、四十七年の「繭子ひとり」はテレビ小説に新風を吹き込んだと言われる。家族のあり方の変容をはじめ、時代と社会のテーマを採り上げたドラマ作りという点では次々と話題作を生んでいるのが山田太一(石坂太一、昭三三教育)である。「それぞれの秋」「河を渡ったある夏の日」「岸辺のアルバム」「男たちの旅路――戦場は遥かになりて」等話題作を生んだ。

 ここに挙げてきた校友活躍の事例は、自らテーマや問題を見つけ、あるいは新たな分野に活躍の場を求めていった開拓者のそれと言ってよい。文章にせよ、映像にせよ、デザインその他の表現活動にせよ、独自のスタイルや境地を確立していった校友達の実績はそのまま戦後日本の文化を演出していると言ってよいほど多彩で豊富である。

 人間の目に映った一瞬の光景や場面を固定する写真に作品性を帯びさせるのは写真家のスタイルである。この場合スタイルとは写真家のテーマと方法を意味する。秋山庄太郎(大九大商)は二十二年に近代映画社に入って映画雑誌のグラビア写真を担当したのを皮切りに女性のポートレートで一世を風靡し、女性写真の第一人者と言われた。奈良原一高(楢原一高、昭三四文研)は土地景観に時代の心像風景を見る視角から出発し、ヨーロッパに滞在して撮影した写真集『ヨーロッパ・静止した時間』で高い評価を得た。二川幸夫(昭三一・二文)の被写体は建築物である。建築写真家としては世界トップ・クラスで、その被写体に選ばれただけで設計した建築家のランクが上がると言われ、我が国の主要な百科事典などに掲載されている有名建築物の写真は彼のシャッターによるものが多い。内藤正敏(昭三六・一理)は理工学部出身らしく技術的な処理や工夫による特異な写真表現を得意にし、昻じて特異な被写体を求めて出羽三山に入り即身仏を撮影した。その作品を個展「日本のミイラ」として発表し、更に写真集『出羽三山と修験物語』等、写真家というよりは殆ど民俗学者である。浅井慎平(昭三二・二政中退)は広告写真家の先鞭を切り、エッセイストとしても知られる。広河隆一(昭四二教育)は世界のホット地域を歩き回る報道写真家であり、写真集『ベイルート一九八二――イスラエルの侵攻と虐殺』がある。

 学苑出身の写真家の在学中の専攻やサークルは多様であるが、対照的に同世代の同一サークルの仲間からプロを輩出させたのが三十年代初め頃の漫画研究会である。仲間同士ながらそれぞれが個性を主張して独自のスタイルを確立し、漫画家として自立した。ナンセンス風にサラリーマンの悲哀を描く東海林さだお(庄司禎雄、一文中退)、おおらかでユーモラスな主人公を配した園山俊二(昭三四・一商)、ていねいな線で安心できる学習漫画の飯塚よし照(飯塚恵昭、昭三四教育)、とぼけた風のあるドライで行動的な人物を描いた福地泡介(福地豊、昭三五・一法)等多士済々である。

 写真や漫画が二次元のスタイル表現とすれば、さしずめ建築は三次元のスタイル表現である。吉阪隆正(昭一六理)は学苑の教授となる一方で、コンクリートの彫塑性を生かした造形表現でユニークな建築作品を残した。その中にはヴェネツィア・ビエンナーレ展覧会日本館、アテネ・フランセ校舎等が含まれる。菊竹清訓(昭二五理)は、建築評論家の川添登(昭二四専工、昭二八・二理)や京都大学出身の黒川紀章とともに、建築を成長・代謝するものとして捉えるメタボリズム運動を提唱し影響を与えた。若き頃の菊竹のユニークな形態の代表的作品の一つに「出雲大社の舎」がある。内井昭蔵(昭三一・一理)は菊竹の設計事務所に入ってこれを支え、「桜台コートビレッジ」をはじめ「野村証券ビル」「東京YMCA野辺山高原センター」「身延山久遠寺宝蔵」等、各種受賞作品を生んでいる。建築学はたんに建物設計のためだけの学問ではない。四十五年の大阪万博の基幹施設の設計に参加した尾島俊雄(昭三七工研)は都市環境の問題に取り組んで都市環境工学という新たな学問を切り開いたし、前述の川添は、建築評論の世界を築き上げて『民と神の住まい」を著し、更に「生活学」の概念を掲げて『生活学の提唱』を世に問うた。建築評論ではもう一人、長谷川堯(昭三五・一文)が建築における近代主義に対してポストモダンの立場から表情のある建築に価値を見出す評論活動を開始し、都市風景論の先駆者として『都市回廊』『建築有情』を著している。

 演劇・劇作の世界でも文学部または演劇サークルで活動した人々を中心に早稲田山脈ができ上がっている。矢代静一(昭二五文)が入学したのは終戦年の昭和二十年である。在学中に俳優座文芸部員となりそして文学座に移るという具合に戦後間もない時期の我が国の演劇活動に参加し、旺盛な劇作・演出活動を続けてきた。その劇作家としての評価を決定した戯曲が『壁』『絵姿女房』であり、『写楽考」『北斎画』『淫乱斎英泉』三部作は、狂言の様式性などを採り入れた大胆さで評価された。千田是也(伊藤圀夫、文中退)を師と仰ぐ小沢昭一(昭二七・一文)は、俳優として映画「にあんちゃん」「人類学入門」「あこがれ」に出演する一方、「芸」をつきつめて民衆芸能の研究に入り、フィールドワークとして放浪芸を採集した成果であるLPレコード『日本の放浪芸』『また日本の放浪芸』は高い評価を得た。秋浜悟史(昭三三・一文)は学生劇団の自由舞台で台本を執筆した経験を持ち、四十三年の『幼児たちの後の祭り』は三十五年の安保闘争に挫折した若者の姿を自虐的に描いたものである。秋浜と同期の渡辺浩子(昭三三・一文)は演劇サークル自由舞台でその台本を演出したことがあり、劇団民芸に入団してからパリ大学に留学してジャン・ルイ・バローの稽古場に通った。帰国後その劇団民芸に新風を吹き込み、ロルカ「血の婚礼」の演出で注目された。戦後ならぬ安保後にあって清水邦夫(昭三五・一文)は現実をゲーム化し虚構化するような劇作方法で若者の圧倒的な支持を得た。その成果を、四十七年の『ぼくらが非情の大河をくだる時』、五十一年の『夜よ、おれの叫びと逆毛で充たす青春の夜よ』に見ることができる。鈴木忠志(昭三九・一政)と別役実(一政中退)は、演出家と劇作家という組合せで劇団早稲田小劇場を結成し、寺山修司(教育中退)らとともに我が国のいわゆる小劇場運動を担い、現実と虚構の壁を取り払った前衛的な、従来にないドラマの世界を展開した。

 映画制作の分野では山本薩夫(文中退)や小林正樹(昭一六文)といった巨匠に続いて、戦後も続々と校友映画監督が多数の名作を生んできた。今村昌平(昭二六・一文)は荒々しいほどのリアリズムで日本の風土と日本人の姿をスクリーン上に展開した。制作実績もまことにエネルギッシュで、「盗まれた欲情」「果てしなき欲望」「にっぽん昆虫記」「人間蒸発」「神々の深き欲望」「復讐するは我にあり」「楢山節考」等と数え切れない。村野鉄太郎(昭二八・一文)は卒業と同時に大映に入り、三十五年に監督デビューしているが、何と言っても評価を決定づけたのは森敦の小説『月山』の深い精神性を映像化した作品で、そこで見せた手法は柳田国男の「遠野物語」の映画化にも生かされ、民間信仰・民間伝承の精神を映像鮮やかに表現して見せた。安保前年三十四年に松竹で助監督から監督になった篠田正浩(昭二八・一文)は、この時代にあって思想青年や政治青年ではなく感覚や虚無に生きる青年をとらえて「松竹ヌーベルバーグ」の旗頭の一人となった。人間の情感・情念をつきつめた代表作に「心中天網島」がある。岩波映画で修業した東陽一(昭三三・一文)は五十三年にATG提携作品「サード」で、小栗康平(昭四三・二文)は五十六年に「泥の河」で、それぞれの年の主な映画賞を総なめにしている。また「小津安二郎論」を卒業論文として四十九年に日活に入社した根岸吉太郎(昭四九・一文)も二十七歳の若さで監督として一本立ちし、立松和平の小説『遠雷』をATG提携で映画化して、これまた数多くの賞をさらった。

四 おもな文学賞受賞作家

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 詩人・歌人を含めて文学者・小説家をここで採り上げたら長大な文学史ができ上がるであろう。この活動分野においては学苑出身者が我が国で断然最大の人材山脈を形成し、児童文学を含めておもな文学賞の受賞者リストに占める割合も圧倒的な大きさである。一国の文学界で一つの大学の出身者がこれほど大きな割合を占めている例はちょっと見当らないのではないか。例えば昭和二十四年に復活した芥川賞・直木賞を見ると、五十七年までに芥川賞を受賞した作家は六十九名を数えるが、そのうち学苑出身者が十三名、直木賞受賞作家は七十八名のうち学苑出身者はやはり十三名となっていて、いずれも大学別の順位をつけるとすれば第一位である。多数に上る校友作家群像は既に第八編第十五章において二十四年までについて浮彫りにした。ここでは同章で対象としたような、ほぼ仕事をやり終え評価の定まった戦前世代の文学者ではなく、現時点で若干の例外を除いて殆どが現役の作家を対象とするため、文学史的な叙述よりも暫定的な業績記録に近いものになる。

 戦後になってから文学活動を開始した世代として、先ず立原正秋(米本正秋、専法中退)、菊村到(戸川雄次郎、昭二三文)、結城昌治(田村幸雄、昭二四専法)の三人を挙げてみよう。立原は二十一年に文学部国文科の聴講生となって創作活動を始めている。初めての受賞は『近代文学』三十五年五月号に掲載した「八月の午後と四つの短編」に対する近代文学賞である。その後、二度、芥川賞候補に上ったが結局外れ、四十年の『別冊文芸春秋』に載った「白い罌粟」が四十一年の直木賞となった。異常神経・異常愛欲に生の実存を求めるような虚無や美を主題に「清冽な詩情と適度な通俗性をもった」作風と評価される。菊村は読売新聞文化部および社会部の記者の傍ら作品を発表していたが、三十二年に、生き残り復員兵の自殺の謎を追って解いていくストーリーの『硫黄島』で芥川賞を受賞したのを機に作家活動に入った。見習い士官としての戦争体験が作品に反映されている。東京地検の事務官を勤めた結城はいかにもその経験を生かした形で、ミステリーに新境地を開き、四十五年に直木賞を得た『軍旗はためく下に』は、軍規違反や敵前逃亡などの「罪」を問われた兵士の遺族や関係者を取材し、旧陸軍の非人間性を暴いたものである。

 新制大学世代は作家・文学者の多産世代でもあった。その一期生に当る位置に秋山駿(昭二八・一文)がいる。人間の内面を深く見つめる姿勢で『小林秀雄』をはじめ優れた文学評論で注目され、「内向の世代」とも批判されたが、寧ろ逆にこれが文学史的概念として積極的な意味を帯びることになる。後藤明生(明正、昭三二・二文)もその一人に数えられる。在学中に『赤と黒の記憶』で全国学生小説コンクールに入選する才を見せ、卒業後、広告会社・出版社を経て創作活動に入った。戦後経済成長の象徴的社会空間であり景観である団地の均質画一性に現代人の不安を発見するなど、存在感覚の曖昧さを思考運動の中で展開するというカフカばりの書き方が認められた。

 この世代の「内向性」は成長期また青年期に抗い難い不条理に直面したことと無関係ではないだろう。実際、後藤は、朝鮮半島生れで中学生のときに敗戦、引揚の途中で祖母と父を失うという故郷喪失の原体験を持って学苑に入っている。高井有一(田口哲郎、昭三〇・二文)にも少年時代の戦中から敗戦への時期に肉親を次々と失った強烈な体験がある。その不条理への折り合いを端正で古風なかなつかいによる物語化に求め、『北の河』(四十年芥川賞)では敗戦と疎開先での母の入水自殺、『夢の碑』(五十一年芸術選奨文部大臣賞)においては祖父の生涯を描いた。三浦哲郎(昭三二・一文)においては、四人の兄姉たちが失踪そして自殺と自滅していった血の不条理に悩んだ末の文学への到達であった。三十五年芥川賞受賞の『忍ぶ川』は自らの結婚に至る経緯を材料に、血の問題に抗して生への意思を表明した文学となった。

 在日朝鮮人二世として苦難を経験した李恢成(昭三六・一文)にとっては民族主体性の問題が個人の内面の問題であり文学の主題となった。四十七年芥川賞を受賞した『砧をうつ女』では、戦前樺太に住んだ在日朝鮮人一家の生活が回想形式で描かれている。宮原昭夫(昭三五・一文)は『石のニンフ達』で四十一年文学界新人賞を取ってから六年後に『誰かが触った』で芥川賞を獲得した。これはハンセン氏病療養所内の中学校分校廃止の問題をめぐっての葛藤、また子供たちとの交流を力まずに描いたもの。その翌四十八年には三木卓(冨田三樹、昭三四・一文)が『鶸』で芥川賞作家となった。三木も、敗戦後に肉親(父、祖母)の死と満州からの引揚という苦難を嘗め、卒業後、記者、編集者を経て、創作活動としては詩作から始め、その処女詩集『東京午後三時』は四十二年のH氏賞を受けている。

 内向性の文学は存在に対する不安の文学である。その不安そして孤独を深層意識また神話のレヴェルまで追求したのが森内俊雄(昭三五・一文)である。宮原昭夫や李恢成と同級であり、世代のテーマを感じさせる。『翔ぶ影』によって四十八年第一回の泉鏡花文学賞受賞。もう一人、このテーマを親子関係また夫婦関係の葛藤の中で見つめている作家として山田智彦(昭三三・二文)がいる。銀行員を勤める傍ら創作に入り、『父の謝肉祭』『結婚生活』『家を出る』など、芥川賞候補を含む作品の題名がその問題意識を示している。自伝風の『水中庭園』で五十一年毎日出版文化賞を与えられた。

 純文学に対して、いわゆる大衆文学の分野においては、三十一年に『赤い鴉』でオール読物新人賞を受けた福永令三(昭二六文)や三十二年に『雑兵』で講談倶楽部賞を受けた白石一郎(昭二九・一政)をはじめとして数多くの受賞作家を挙げることができる。しかし純文学と大衆文学という分類よりも、新たなジャンルを開拓したものとして、深田祐介(深田雄輔、昭三〇・一法)の『新西洋事情』が挙げられよう。これは、日本航空社員としてのロンドン勤務の経験を基に、いわゆる文化摩擦に伴う日本人の悲喜劇を自身の中で受けとめて表現し得た作品で、五十一年大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。もう一つ国際ビジネスの先頭に立つ日本人を描いた『炎熱商人』は企業小説と呼ばれる分野を開拓するものとして、五十七年直木賞作品となった。企業小説また経済小説のジャンルで先駆的な存在と言われる清水一行(和幸、昭三〇・二政)がいるが、四十九年日本推理作家協会賞を受けた『動脈列島』は新幹線にからむ犯罪を描いたもので、フォーサイスばりの手法が新鮮な印象を与えた。

 「内向の世代」と同じ年代から見ると、対極に立ち、エンターテインメントに徹する小説・文学で旺盛な創作活動を見せる作家が多数出ている。その両極が無関係でなく、寧ろ一人の作家の中に同居させているのが、小林信彦(昭三〇・一文)である。『ヒッチコック・マガジン』初代編集長を務め、中原弓彦のペンネームでミステリー評、映画評、喜劇評を手がけ、『日本の喜劇人』で四十七年芸術選奨文部大臣新人賞を受ける一方、純文学作品(『虚栄の市』『冬の神話』『家の旗』)、パロディ小説(『オヨヨ大統領』『唐獅子株式会社』)、ユーモア作品(『ちはやふる奥の細道』)を発表するなどマルチ才能ぶりを発揮している。同級の生島治郎(小泉太郎、昭三〇・一文)も『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長を務めたが、日本にも本格的なハードボイルド小説がほしいと思ったところで、自らがその役を買って創作活動に専念し、組織暴力に対する退職刑事の孤独な闘いを描いた『追いつめる』で四十二年に直木賞を受賞し、その夢を実現した。尤も、ハードボイルド小説の第一号と言われるものに、大藪春彦(教育中退)の在学中の作品『野獣死すべし』がある。

 実際、この年代に直木賞受賞の校友作家が多いのは一つの特徴であろう。野坂昭如については前述した。五木寛之(松延寛之、二文中退)は『蒼ざめた馬を見よ』により昭和四十一年に受賞とこの世代ではいちばん早い受賞である。『さらばモスクワ愚連隊』と併せて一気にエンターテインメント作家としての旺盛な創作を開始し、高度経済成長期の大衆社会化状況の中で人間の自由な生き方を求める気持を代弁、若い世代を含めて圧倒的な支持を得た。尾崎士郎『人生劇場』の伝統と言うべき五木『青春の門』は早大生伊吹信介が登場する戦後の大河小説である。青島幸男(昭三〇・一商)は漫才台本の投稿を作家人生の出発とし、放送作家、タレント、小説家、そして政治家と、多面に亘る才能発揮の中の一つが直木賞受賞となった。その作品『人間万事塞翁が丙午』は生家の祖母を主人公とした庶民感覚あふれる小説である。

 長部日出雄(一文中退)は三浦哲郎や寺山修司と同じ青森県出身。週刊誌の記者やルポライター等の経験を経て四十八年に『津軽じょんがら節』『津軽世去れ節』により直木賞受賞。故郷津軽の風土性を精神的背景としながらも、題材の広さに定評があり、『鬼がきた――棟方志功伝』は五十五年芸術選奨文部大臣賞に選ばれた。五十四年『来訪者』で日本推理作家協会賞を受けた阿刀田高(昭三五・一文)は同じ年に『ナポレオン狂』という変った題名の短編集で直木賞を受賞したが、題名の示す通り、人間の内面の異常性や病的な側面をブラック・ユーモア風にえぐり出す手法で中間小説に新しい境地を開いたことが評価された。

 ところで一九四〇年代以降の生れの世代になってくると、当然ながら戦争やそれにまつわる体験の影は薄くなってくる。個人の運命が抗い難い勢いの中で翻弄されるような時代の嵐が過ぎ、平和な日常が常態化した中で、寧ろそこから飛び出し、敢えて非日常性なり異文化なりを自ら積極的に体験しようという冒険家あるいは放浪者の出現を見ることができる。青野聡(一文中退)は小説家としてのデビューに先立って約十年間の世界放浪を体験した。昭和四十五年芥川賞受賞の『愚者の夜』は、インドからヨーロッパを放浪して日本に帰ってきたヒッピー青年の根無し草的生活に今日的リアリティを感じさせる作品として読まれた。夫馬基彦(一文中退)もフランスから中東そしてインドを遍歴した体験を以て創作活動に入り、その二作目『宝塔湧出』を五十二年中央公論新人賞に応募して入選した。立松和平(横松和夫、昭四六・一政)は在学中から沖縄、韓国、東南アジアを放浪し、また四十四年の学苑紛争にぶつかった。在学中は第七次『早稲田文学』の時期にも当り、掲載作品「自転車」で四十五年早稲田文学新人賞を受けている。五十五年に野間文芸新人賞を受賞した長編『遠雷』では、団地が進出してくる北関東の都市近郊農村を舞台に、土地を売って大金を得たものの無目的になって生活を解体させていく農民一家を描いた。

 リアリティに投げ込まれた中で苦闘するというより、主体の側からリアリティを求めていくという対比が世代論として可能と思わせるのが、とりわけ戦後生れの作家の台頭であろう。内向の世代が懸命に自我を求めたとすれば、この世代は自我の把えどころのなさ、あるいは空虚さを露呈することに何のためらいも見せない。その意味で「空虚の世代」との呼び方さえある。三田誠広(昭四八・一文)が卒業後四年目の五十二年に芥川賞を射止めた作品『僕って何』は、大学紛争に巻き込まれた「僕」を主人公に現代学生気質を描いたものとされるが、若い世代にありがちな過剰な自己正当化や感傷を抑えて自己を相対化する眼差しが評価されたものである。高橋三千綱(一文中退)、村上春樹(昭五〇・一文)等の登場はとりわけその新しい世代の台頭を印象づけた。高橋は入学前にアメリカの大学に籍を置いたことがあり、その体験を材とした作品『退屈しのぎ』で四十九年群像新人文学賞を受賞し、そして高校の剣道部の一年生を主人公にした青春小説『九月の空』がその描写と巧さによって五十三年芥川賞に輝いた。村上は、現代アメリカ小説的な率直に語りかけるような文章スタイルが高く評価された『風の歌を聴け』で五十四年群像新人文学賞を、また一九六〇年代から七〇年代にかけての若者達の反乱が終った後の日常性の中の空虚さを『羊をめぐる冒険』において描き、五十七年野間文芸新人賞を獲得した。

 「女性作家」の呼称で一括するやり方は問題であろうが、敢えてこの方法を採らせてもらう。竹西寛子(昭二七・一文)は十年ほどの出版社勤務を経て評論から出発した。その評論作品『往還の記――日本の古典に想う』が三十九年田村俊子賞。日本古典文学に対する造詣の深さは四十八年に平林たい子賞を受賞した『式子内親王・永福門院』にも発揮されている。竹西は創作でも実力を示した。広島県出身として原爆体験を契機とした短編集『鶴』は鋭い人間凝視と格調の高さが評価されて五十年芸術選奨文部大臣新人賞を獲得し、長編『管弦祭』では五十三年女流文学賞を、そして新境地を開いたとされる『兵隊宿』では五十六年川端康成文学賞を受賞した。

 文学部出身者が圧倒的に多い中で、政治経済学部に籍を置いた干刈あがた(浅井和枝、一政中退)は創作第一作の『樹下の家族』で五十七年海燕新人文学賞を受賞している。干刈は作家として早いデビューではなかったが、結婚・主婦生活の体験を梃子に家族や性の問題を時代と重ね合せて女性の生き方を描いた。その一つ『ゆっくり東京女子マラソン』は五十九年芸術選奨文部大臣新人賞に輝いた。

 五十六年に『小さな貴婦人』で校友女性作家として芥川賞受賞第一号となった吉行理恵(吉行理恵子、昭三七・二文)は在学中から詩を発表していた。詩集『私は冬枯れの海にいます』で四十年円卓賞を、『夢の中で』で四十三年田村俊子賞を受賞する一方、四十六年には『まほうつかいのくしゃんねこ』で野間児童文芸賞と児童文学でも実績を残している。中島梓(今岡純代、昭五〇・一文)は評論家としてのペンネームであり、小説家としては「栗本薫」を名乗る。その栗本名による『都築道夫の生活と推理」で五十一年幻影城新人賞佳作に入選し、中島名で現代の文学状況を分析した『文学の輪郭』で五十二年群像新人文学賞を得た。更に栗本名での作品『ぼくらの時代』で五十三年江戸川乱歩賞を、『弦の聖域』では五十六年吉川英治文学新人賞を獲得するなど、多面的な才能を発揮している。

 さて、我が国の児童文学における校友作家および文学者の活躍はいくら強調してもしすぎることはない。例えば日本児童文学者協会編の『現代日本児童文学作家事典』(昭和六十二年)には物故者や評論家および研究者を含めて九百三十四人の名前が収録されているが、その中で実に百二十九人の校友の名前を確認することができる。坪内逍遙門下の小川健作(未明、明三八大文)、坪田譲治(大四大文)、浜田広助(広介、大七大文)は草創世代、早大童話会を主要母体とした人脈の中での打木保(村治、昭三政)、藤田圭雄(昭五文)、岡本良雄(昭一三文)、永井萌二(昭一九文)らは戦前卒業世代、そして今西祐行(昭二二文)、竹崎有斐(昭二三高師)、寺村輝夫(昭二四専政)、大石真(昭二五文)ら学生時代と戦争が重なった――今西、竹崎、寺村は学徒出陣組――世代の児童文学作家、そして戦後世代へと、伝統は連綿として続く。

 打木は戦前に芥川賞候補にもなった小説家(第四巻七〇一頁参照)であったが、戦後四十歳を越してから児童文学作家へと決然と転身している。この転身と戦争体験との関連が推測されるが、今後の研究に俟たねばならない。大量の作品の中で『夢のまのこと』が三十二年小学館文学賞、大作『天の園』が四十七年芸術選奨文部大臣賞および四十八年産経児童出版文化賞、『大地の園』が五十三年日本児童文芸家協会賞となった。藤田は中央公論社で編集者を務め、編集部長、出版部長そして取締役を歴任し、一方で児童文学の研究をライフ・ワークとした。その成果『日本童謡史』が四十七年日本児童文学者協会賞、『解題戦後日本童謡年表』が五十二年日本児童文学会賞、『北原白秋全集』の編集が五十二年日本童謡賞となり、その後も成果を問い続けている。「小川未明論」を卒業論文とした岡本は、戦前から児童文学活動に関わっていたが、軍隊生活を送り、戦後に日本児童文学者協会の設立に参加し、二十六年の第一回児童文学賞に『ラクダイ横丁』『あすもおかしいか』『イツモシズカニ』がワン・セットで選ばれた。永井は、その代表作『ささぶね船長』で三十一年産経児童出版文化賞を受賞したが、これは『週刊朝日』記者時代に終戦直後の焼け跡を舞台に浮浪児と呼ばれた子供たちの生き方を描いたもので、敗戦直後の社会の様相を伝える作品として貴重である。

 今西の作品にも戦争体験が影を落している。四十一年日本児童文学者協会賞をはじめ幾つもの賞を受けた作品『肥後の石工』は、石橋建設の秘密を知った石工が闇に葬られる中で、独りその持っている技術のゆえに生かされた石工頭の苦悩を描いたものであるが、これには、今西自身が学徒出陣で戦場に赴く筈であったのが官給品の盗難に逢って出遅れ、結局戦友の中で独り生き残った経験あるいは負い目が重ね合されている。竹崎は在学中は童話会に所属したが、本格的に児童文学作品を書き出したのは打木と同じく四十歳を過ぎてからであった。『石切り山の人びと』で五十二年産経児童出版文化賞、日本児童文学者協会賞、小学館文学賞、『花吹雪のごとく』で五十六年山本有三記念路傍の石文学賞、そして五十九年『にげだした兵隊』で野間児童文芸賞を得ている。いずれも戦争直前から戦時中の郷里熊本を舞台にし、厭戦思想が込められた作品である。寺村は竹崎や後述の大石と同じく童話会出身で、しかも同じ出版社で机を並べた仲であるが、その出版社時代から創作活動に入り、独特のナンセンス・テール風の大人にも楽しめる児童文学の世界を切り開いた。三十六年毎日出版文化賞受賞の『ぼくは王さま』、五十五年絵本にっぽん賞の『あいうえおうさま』、五十六年国際アンデルセン優良賞の『おしゃべりなたまごやき』、五十七年講談社文化賞絵本賞の『おおきなちいさいぞう』、そして、その業績全体に対して五十九年巌谷小波賞が贈られている。大石は竹崎と寺村が同僚であった出版社の編集長まで務めた。早くも二十八年に名作『風信器」で日本児童文学者協会新人賞、三十八年に『見えなくなったクロ』で小学館文学賞を受賞し、その後も感動を呼ぶ作品を次々と産み出している。

 新制大学になってからの校友に移ろう。鳥越信(昭二七・一文)、神宮輝夫(昭二八・一文)、古田足日(一文中退)、山中恒(昭三〇・二文)らが童話会にあって「少年文学」の旗を掲げたことは、戦後児童文学のスタートを画したものと看做され、その後の活躍は評論、研究、創作と多岐に亘っている。鳥越は学問としての児童文学研究の確立を目指して、教育学部教授として特に書誌学的研究で業績を上げ、『日本児童文学年表Ⅰ』で昭和五十一年日本児童文学者協会賞、『日本児童文学年表Ⅱ』で五十二年日本児童文学会賞および毎日出版文化賞を受賞した。神宮が特に英語圏の児童文学の研究、翻訳、紹介で先導役を務めてきたことは、昭和三十九年に日本児童文学者協会賞を受けた『世界児童文学案内』、四十三年児童福祉文化奨励賞を受けた『アーサー・ランサム全集』全十二巻の翻訳業績などが物語っている。古田は評論と創作の両面で活躍した。昭和三十五年の日本児童文学者協会新人賞を受賞した『現代児童文学論』は児童文学のオピニオン・リーダーとしての面目躍如で、広く影響を与えた。山中は「少年文学」の理念を三十一年日本児童文学者協会新人賞受賞の『赤毛のポチ』をはじめ『とべたら本こ』『サムライの子』といった長編で具体化した。

 児童文学が文学として作品至上主義の野心の場となりかねない危険性を見てとったのが北川幸比古(昭二九・一文)である。子供を楽しませることを児童文学の第一義とする北川の五十八年新美南吉児童文学賞受賞の作品『むずかしい本』のタイトルには、一種逆説と皮肉が込められている。鈴木実(昭三〇・一政)も童話会出身。山形大学教育学部に学士入学したあと教員となり、地域に根差した児童文学運動に従事した。三十六年日本児童文学者協会賞の『山が泣いている』は共同作品で、山形県内の米軍基地への反対闘争を背景とした人々の生きる姿を描いた。浜野卓也(昭三〇・二文)は歴史の中の庶民に人間性を見出す児童文学作品を多く書いて、姥捨の風習への抵抗を描いた『やまんばおゆき』で五十三年産経児童出版文化賞を、戦国時代を舞台にした『とねと鬼丸』で五十七年小学館文学賞を受賞した。一方、砂田弘(昭三一・一文)は今日的社会状況に視点を定めて高度経済成長社会の問題を巧みに採り入れて注目された。欠陥自動車問題から自動車産業のあり方までを題材として社会的正義を追求した『さらばハイウェイ』で四十六年日本児童文学者協会賞を得た。

 一旦日本を離れてブラジルに住んだことがある角野栄子(渡辺栄子、昭三二教育)は、それぞれの作品のタイトルからも窺えるように、ユーモアあふれるファンタスティックな物語で子供から大人まで多くの読者を惹きつけている。『ズボン船長さんの船』が五十七年旺文社児童文学賞、『大どろぼうブラブラ氏』が五十七年産経児童出版文化賞、そして代表作『魔女の宅急便』は六十年に野間児童文芸賞、小学館文学賞、アンデルセン賞と、おもな国内賞を独占した。

 今も学苑関係者の中から児童文学者は続々と輩出している。昭和五十七年は小川未明・野口雨情生誕百年の年でもあった。「日本の近代児童文学は早稲田大学で生れ早稲田大学で育った」とは、日本児童文学者協会会長藤田圭雄の力説してやまないところである。