Top > 第五巻 > 第十一編 第二章

第十一編 近づく創立百周年

ページ画像

第二章 阿部総長から時子山総長へ

ページ画像

 「大学は体質的に評論過剰の社会だ」とは、大浜総長が自伝的随筆集『総長十二年の歩み』の中で幾度か引いた警句である。そこに込められた意味は、「評論」の主を口さがない早稲田雀と言ってしまえば聞えはよいが、その正体がかつてマックス・ウェーバーの指弾してやまなかったKafeehaus-intellektuellen,すなわち喫茶店にたむろする知識人の類であるとの批判であることは大方察しがつく。彼らの言説は時として節度を失い、ややもすれば結果的にリーダーの足元を危うくするような事態に立ち至らしめることもある。かような知識人が、昭和四十年代にも学苑内外で盛んに「評論」活動を展開していたようである。幾多の鬱陶しい「評論」に悩まされ、大浜総長は報いるに冒頭の警句を以てしたと推察されるが、阿部総長の代になってもこの囀りはなおかまびすしかった。

一 阿部総長の辞任

ページ画像

 大学関係者を震撼させた「学費・学館紛争」のさなかに総長代行となり、九回裏のピンチ・ヒッターとしてバリケード封鎖を解除に導いたとき、阿部賢一の振ったバットにはヒットの手応えがあったのか、それともフォアボールを待って一点を押し出しただけだったのか。その評価をめぐり、阿部自身は次のように述べている。

紛争が収拾されて学園が常態にもどると、教授は学生に囲まれて学業に励んでいたが、中には評論家になって、紛争の収拾など時機がきていたので誰にでもできたのだ、と冷評しながら吹聴してまわった連中もある。私は、……最初から誰か若い教授の中から難局を背負ってくれる人の出ることを願い、またその気持で勧説もしたが、誰も危ながって立つものはなかった。また紛争は収拾したが、根本的な改革は何もなかった、と冷評した人もある。事が終わった後になって、こういう無責任な批評を耳にすると、私は何も思わないが、何ヵ月もの間、心身を砕いて紛争の収拾に当たった理事や教授諸君に対して、何たる無責任な批評であるか、と多少の憤りを感じたことでもある。 (阿部賢一『新聞と大学の間』 二三四頁)

一方で「私は何も思わない」と言い、他方で「多少の憤りを感じた」と言うのはややナイーヴに屈折しているが、真意は言うまでもなく後者にあろう。紛争が泥沼化した時に、責任を持って問題の解決に当ることのできる人物は学内にはいなかった。そこで、学外から総長代行に擁立された阿部が学苑に爽風を吹き込み、事態を収拾に導いたことはこれまでに屢述したところであり、動かし難い事実である。当面の危機を乗り越えると自分達のあり方を棚に上げ、とかくの「評論」を学内に吹聴して回る人々が大学には多いのである。

 「無責任な批評」はこれだけにとどまらなかったようである。阿部が活動家の学生を総長室で応接したことについて、いちいち抗議を申し入れる現職教授がいた。校地の問題、教職員組合との拗れがあれこれ取沙汰された。果ては理事会が不正をやっているなどというとんでもない噂が飛び交った。常任理事として阿部総長を終始支えた保田順三郎は、後年これらを「老齢の先生には実にお気の毒な雑音」だったと回顧している(「座談会 阿部賢一先生を偲ぶ」『早稲田大学史記要』平成二年三月発行 第二二巻 二八〇頁)。

 別して保田の念頭にあった事実は、昭和四十二年六月十七日に始まる「春闘団交」の席で起きたある事件であろう。これは本編第九章で述べる軽井沢の土地購入をめぐって起きた事件であるが、教員組合史は次のように記録している。

この席上、組合側は緊急質問として「軽井沢の土地購入につき理事が多額のリベートをとっているとの噂があるが真実か」とただした。このとき、組合側がこうした質問をしたのは、当局が組合の春闘要求に僅か三百円の上積みしか示さないのに、当面必要でもない軽井沢の土地を二千三百万円もの手付金を出して購入するというやり方に疑問を感じたからであった。この質問にたいして、出席理事は言下にこれを否定したので、組合はそれ以上追求しなかった。そして席上当局が、噂の出所を調査しその結果を次回以降の団交で明らかにすると約束して、団交を終了したのである。ところが二日後の六月十九日、当局は突然に教職両組合の四役に会見を申入れてきて、「リベート発言は、理事会ひいては大学にたいする侮辱である。組合はさっそく噂の出所を調査し、その事実がなければ理事会の疑惑が完全に解消するだけの措置をとれ」と要求してきたのである。その後、当局の態度はますます硬化し、「文書で陳謝せよ」とエスカレートさせ、謝罪しなければ以後組合との団交に応じないとして、一方的に団交拒否を通告してきた。それは組合にとってまったく意想外のことであったが、これからまる一年間、正式団交が一回も開かれないという異常事態を迎えることとなったのである。

(『早稲田大学教員組合 二十五年の歩み』 二五―二六頁)

噂の真相は語るに落ちているから、敢えて問う必要もない。けれども、単なる幻影が不信感を生み、「異常事態」を現実に惹き起こしてしまうことの怖さは銘記すべきである。

 昭和四十三年、「例年の如く本部わきの木蓮が純白の花をつける頃」(『新聞と大学の間』二四二頁)、阿部総長は辞意を表明することを決意した。苦労を共にした理事・監事に意中が打ち明けられると、理事会は全員が総長と進退を同じくすることで一致し、このことが病気療養中の毛受信男評議員会長に報告された。

 四月十五日の定時評議員会で阿部総長の辞任は、後任の総長の決定まで引き続いてその地位に留まることを条件に了承された。しかしながら、四年の任期を僅々一年七ヵ月務めただけでの辞意表明が、各方面でさまざまな揣摩憶測を呼んだのはある意味で当然である。次に掲げる同日付『朝日新聞」夕刊の記事は、その最たるものであろう。

阿部総長の任期は四十五年九月までの四年間の任期の大半をまだ残しており、任期途中での辞任は同大としても珍しいことだという。このため辞任の理由は紛争が一応おさまったことのほか、学園運営の今後のあり方について理事会など学内に意見の対立があることや、ベースアップ問題で交渉がこじれている教職員組合からも全理事退陣要求の声があがっているため、その責任をとったのが直接のきっかけ、という見方も強い。

この「見方」の出所をマス・コミは報じない。しかし呼応する記述が、教員組合の『二十五年の歩み』に見出される。

都労委の斡旋も不調に終って、大学内には当局は退陣すべきではないかとの声も上るほどであったが、組合執行部は翌〔四十三〕年一月二十三日に組合員にたいし、(一)当局に正式団交を開かせる方法を職場で徹底的に討議すること、(二)職場から当局へ抗議団を送ること、(三)年金委員選挙の対策について、(四)職組と緊密な共闘体制をとること、の四点を提案した。この提案にたいして、各職場ではいっせいに討論がおこなわれ、抗議文の発表や抗議団の派遣が相ついだ。他方、二月から三月にかけて団交再開要求の署名運動がすすめられ、各区で九〇パーセントから一〇〇パーセントに近い署名を集めて大学当局に提出した。

ここに至って理事会の中にも意見の対立が表面化し、二月末には高木純一理事が辞任を口にするほどであった。やがて組合は、緊急を要する高年齢者の別枠昇等級について正式団交を開くべく労務担当の宇野政雄理事と折衝をつづけていたが、三月十四日に至って、(一)軽井沢問題と団交拒否とは本質的に次元が異る、(二)執行部が組合の正式代表である、(三)誰を団交要員とするかは組合の自由である、の三点について合意に達した。ところが、この確認事項が理事会で否決され理事会が団交再開を拒否したため、窮地におちいった宇野理事は二十二日に辞職した。これは理事会の不統一、また担当理事制度の矛盾が暴露されたことであった。教職両組合はここで一九六八年度年末手当の団交を再開すべく予備折衝を申入れたが、もはや当局は理事会の体をなさなかった。 (二八―二九頁)

宇野政雄がこの時に理事を辞職したというのは事実でないが、学内のリーダーシップが弱まり、空気を今一度引き締めなければならないような状況が生じていたのは事実のようである。仕切り直して大鉈を振うべき時に、阿部総長の人柄はいささか優しすぎたのかもしれない。人心の一新が図られた所以である。

 十五日夕刻、阿部総長は記者会見に臨み、辞任の弁を述べた。翌日の朝刊に載った総長の言葉を拾ってみよう。

「二年後はぼく八十歳なんですよ。辞任の理由……老人は去るべしですよ。学校も一段落したしね」

「大学をほうり出すのでもなければケンカしたのでもなく、行詰まったのでもない――老人は去るんですよ。新学期がスタートしたばかりなのにやめるというのは、新総長に考え、準備する時間をと考えたんです」

「本当はね、日本中の大学が平静になる日まで、ぼくはがん張りたかったんだ」

「学生運動家――そう一昨年の大学紛争のとき顔なじみになった学生と道でばったり会った。どうだね、最近元気かねって僕がいったら、彼は『元気でやっていますよ(学生運動のこと)。先生お体を大切にしてください』といってくれた。とてもやさしいんだね。このときはうれしかったね」 (以上『毎日新聞』)

〔去るにあたって後任総長への要望は、との質問に〕「本当に学生を愛してもらいたい。どんな学生でも愛すべきものなんです」

(『朝日新聞』)

学生を愛し、学生との対話を重んじる阿部の姿勢は、当時「阿部路線」と称された。右の『毎日新聞』の記事の見出しには、「それでも/学生、愛すべし」とあり、恐らく濫觴はこの辺りにあるのであろうが、「されど学生愛すべし」が阿部総長の遺した名文句として今日に語り継がれている。かかる名文句は伝説化するにつれて真実味が損なわれるものであるけれど、これが必ずしもジャーナリズムによる作為ではなく、「敬天愛人」を座右の銘とした阿部の人格から出た言葉であること、紛争の収拾に当った際の一度きりの言葉でないことを、側近であった保田順三郎が証言している(『早稲田大学史記要』第二二巻 二七四―二七六頁)。

 昭和五十八年七月二十六日、阿部は九十二歳の長寿を全うして逝去するが、同年九月八日に大隈講堂で行われた追悼式において、西原春男総長はその功績を讃え、人柄を偲んで次のように述べている。

機動隊導入によらない紛争の解決は容易なものではありませんでした。先生は、長年にわたる新聞記者としての経験から、正確・公平な新聞報道を求めて、学内に記者室を設け、時々刻々変化する情況を客観的に記者諸氏に伝えるよう努力されました。また、大学の行方を心配してストライキ解除のために立ち上がったいわゆる有志学生に依拠し、これを鼓舞する施策を講じられました。そして、何よりも特筆すべきこととして、先生は身をもって各学部自治会の主催するいわゆる大衆団交に連日連夜長時間出席され、脈拍が二百二十に達してドクター・ストップがかかるまで、学生運動の指導者と激論を交されたのでありました。こうして、五ヵ月に及ぶ大紛争も、六月中には各学部で次々とストライキが解除され、終焉に向かったのでしたが、総長代行としての先生の緻密な作戦と、総長室の扉をつねに開け放ち、学生とも対等に議論しあうざっくばらんなお人柄、そして七十五歳という御高齢の先生の、母校を想う情熱からほとばしり出る気迫がなかったら、はたしてこのような早い時期に紛争の収拾ができたかどうか、思えば慄然とするものがあります。先生は、まさに身を捨てて母校の未曾有の危機を救って下さったのでした。

紛争の収拾という功績があまりに大きいために、その蔭にかくれて忘れがちですが、先生が早稲田のために残された大きな仕事はそのほかにも沢山あります。理事時代に、西大久保にある旧陸軍戸山射撃場の払い下げを受け、今日の理工学部キャンパスを確保するために大変な努力を重ねて下さったこと、紛争中、私学に対する国庫補助の必要性を痛感され、紛争後私学助成運動の先頭に立たれてその実現のために尽力されたこと、在学中早稲田奉仕園の友愛学舎に居住されたことから、奉仕園関係の学生のために私財をもって奨学基金を設立されたことなど、いずれも現在の早稲田大学に大きな意義を持つ、まさに歴史的な大事業を完遂されたのでした。 (『早稲田学報』昭和五十八年十月発行 第九三六号 一二―一三頁)

阿部が学苑にもたらした雰囲気の清新さがここでは如実に語られており、「されど学生愛すべし」の一言に集約される「阿部路線」のイメージを、後人をして汲み取らしめるに十分である。

 四十三年四月十七日付『早稲田大学広報』は、「総長辞任について」と題する次の教職員宛文書を載せる。

四月十五日の定時評議員会に私は総長辞任の意志を表明いたしました。いささか唐突の感なしとしませんが、私自身も熟慮の上決意したことで、この点御諒察をお願い申し上げます。……代行に引き続いて、総長に就任しましたが、当時私が使命として心に決しましたことは、地味ではありますが、紛争後の学園状態を整理改善し、学園本来の学問と教育の場に復元することでありました。さいわい皆さまの御協力を得て現在学園は一応平常の姿をとりもどしました。懸案となっていた諸問題も大方軌道に乗りましたし、一番懸念しておりました経営面もすっきりした形になり、予算もその方針に基いて編成されたことは御承知の通りで、大私学としての威信を回復しておると考えます。……なお大学を前進させる任務は重く、しかも任期も半ばに達しません。しかし、私も知らぬ間に老齢を重ね、前途遥けしの感があります。しかし大にしては建学の精神があり、小にしては大学の既定方針もあり、大学の事業は無事進行することと思います。この際進んで職を退き、大学の新しい発展のために、新進有為の新総長に後事を託したいと考えた次第であります。

ピンチ・ヒッターとしての役割は終えたとの自己認識に立ち、残る問題の解決方は学内で責任を取り得る立場の人物に委ねるというのが辞任の趣旨であり、阿部の真意でもあっただろう。四月十九日発行の『早稲田』にも「辞任に際して」という学生に向けた一文を載せ、同様の趣旨をもう少し砕いた言葉で述べ、「学生諸君も、この趣旨を理解し、早稲田大学がいっそう内容を充実することができるよう協力してほしいのです。多難な時代だけに深く考え、強い意志のもとに大学のために活躍して下さい」と結んでいる。

 総長選挙が行われ、後任の総長が決まるまでの間は、阿部理事会が引続き職務を執行する。本来はそれだけのことであった筈なのに、事態は総長選挙の実施をめぐって意外な方向へ展開を遂げていった。

二 総長選挙人の選出

ページ画像

 四月十七日、阿部総長辞任に伴う総長選挙の日程が通知された。これによると、同日に選挙のための学外商議員会等の開催通知および選出依頼が出され、五月十三日までに総長選挙人二百三十一名を選出・決定し、十八日に大隈講堂で開かれる総長選挙人会において新総長が選出される手筈になっていた。ところがこの辺りから、学生運動の再燃する兆しが見え始める。四月二十三日、学内に次のような掲示が出された。

先般来の学内の状況にみられるように、学部自治会によって来る二十六日を反戦デーとし、学業放棄を行なう計画がある。平和を念願とすることにおいては、誰しも深くこれを望むところであるが、戦争を否定する意志の表現として授業を放棄することは、学問の府である大学としては適切ではなく、これを認めることはできない。学生諸君は人類平和に深く思いを致し、軽挙妄動することなく、慎重に行動することを望む。 (『早稲田大学広報』昭和四十三年五月一日号)

翌二十四日には、更に次のような掲示が出された。

学生諸君が自己の思想を看板ポスター等で表現し、これを広くアッピールすることは言論の自由に属することである。しかし各個人や団体が自己の主張を熱心に宣揚するために無制限にこれを掲出することや、必要以上の大看板を並べることは、大学の学問的環境と風格にふさわしいものではなく、また構内を往き来する教職員、学生の妨害になることはいうまでもないことである。大学が従来看板の大きさを規制し、これを厳しく注意しているのはこのためである。また構内集会を禁止しているのは学生の自由な討論を阻害することが目的ではなく、その騒音が授業をうけ、研究読書をしている教職員、学生の妨害になるからであって、大学人各自の人権と自由を保証するためのものである。最近大学構内に再びその乱れがみられるので、諸君は構内モラルの確立に協力されんことを希望する。 (同前)

 ここに指摘された学生の動きは、早くも総長選挙そのものを論争の俎上にのぼせる構えを見せた。同日、法学部学友会常任委員会・法学部学園民主化実行委員準備会の連名で、総長選挙に関する質問状が理事会宛に提出された。その要旨は、「(一)学内教職員選出の選挙人が少ない。(二)立候補制・推薦制でないため、選挙人を選ぶ教職員は白紙委任を強いられることになる。(三)学外選挙人の九十二票が常に一本にまとまり、選挙の決定権をにぎる傾向があるとみられる。(四)在学生に拒否権がなく、学生の声を反映する機関がない。(五)選挙管理委員会が設置されず、秘密選挙の危険を含む」(『早稲田』昭和四十三年七月五日発行父母号)というものであった。

 これに対し理事会は、二十七日に高木純一常任理事名で左の要旨の回答をなした。

総長選挙規則そのものを変更することは選挙の直前では不適当と思われる。規則の変更は、評議員会の所管事項であり、これに計って討議の上、改正することになろう。それには時間がかかる。質問状にかかれた問題点は今までにすべて出ていることばかりであるから、いずれ各段階で論じられることだろう。私立大学は国公立とちがい、校友を無視しては成り立たない面もあることを知らねばならない。 (同前)

ここに見られるように、理事会が現行の「総長選挙規則」に「問題」が存在すること自体を否定していないのは刮目に値する。しかし、法学部学友会常任委員会はこの回答を不満とし、五月四日あらためて(一)立候補・推薦制の実施、(二)所信表明、(三)選挙管理委員会の設置という三項目の要求を掲げ、十日午後一時から大隈講堂において総長に会見したい旨を申し入れた。九日、総長はこの申入れを文書で断った。

 ところで、五月六日に発行された『早稲田』を見ると、「総長選挙と新理事の選任まで」という大見出しの下に、「この選挙がどのような人々によって、どんな手続で行なわれるものか、また新総長決定後に生まれる理事会はどのように構成されるのだろうか」という問を立て、自ら解答を与えている特集記事が注意を惹く。この記事は現行の総長選挙制度を分り易く説明し、「評議員とは」、「商議員とは」、「主事会とは」という小見出しの記事を併載するなど、実に懇切かつ詳細に亘るものである。タイミングから忖度するならば、これは紛争の火種となりがちな無用の誤解を除去すべく、問題となっている総長選挙の制度的内容を学生に周知せしめ、しかも選挙の実施に関しては既定の方針を貫徹するという大学執行部の強い姿勢を示すためのプロパガンダであろう。

 十三日、二百三十一名の総長選挙人が決定し、全氏名が十六日付『早稲田大学広報』を通じて公表された。当初の予定通りに事が運んだのはここまでである。翌十七日、大学は学生に対し次のような告示を出した。

明十八日に行なわれる総長選挙は校規に基づく重要な行事である。選挙の方法について議論することは自由であるが、さりとて選挙そのものを妨害することは許せない。学生諸君の自重を望む。 (同紙 昭和四十三年六月十九日号)

総長選挙人会の開催を翌日に控え、当局者の間には既に、不測の事態に対処すべき腹積りができ上がっていたことをこの告示は窺わせている。

三 郵便投票の実施

ページ画像

 五月十八日、総長選挙人会は午後二時から大隈講堂で開催の予定であった。ところが、講堂の前では法学部学友会、政治経済学部学友会、教育学部学生自治会を中心とする学生が「総長選挙民主化」を訴えて集会を開き、その人数も正午過ぎには約千人に膨れあがっていた。午後一時二十分、阿部総長は高木純一常任理事と神沢惣一郎学生部長を伴って学生達の中に入り、選挙人が講堂に入場できるよう説得に当った。しかし学生達は、前掲の三項目の実施等を要求して一歩も譲らなかった。結局総長は三時前までそこを離れず、高木と神沢は四時過ぎまで話合いを続けた。

 大隈講堂に入場できなかった選挙人達は大隈会館書院に参集し待機していたが、午後二時三十分、選挙人会招集者阿部総長の代理であった渡鶴一常任理事が開会を図り、五分の四以上を満たす二百十六名の出席が確認されたため選挙人会の成立が宣言された。

 会は先ず安念精一評議員を選挙人会長に指名し、安念の指名で有倉遼吉第一法学部長、上村正義第一文学部事務長、内古閑寅太郎評議員・校友会常任幹事、大西邦敏政治経済学部教授、谷正男商議員の五名が投票管理者に選ばれた。小休の後、安念会長から、投票のできる状況ではないので、混乱を避けるために選挙人会を継続し、投票日時・方法などについては会長および投票管理者に一任してほしいという提案があり、これが満場一致で可決され、投票は後日に持ち越されることになった。この決定は三時四十分、国分保庶務部長を通じて学生代表にも伝達された。

 一連の経過は場当り的な対応の積み重ねのようにも見える。しかし時間軸に沿ってこれを子細に辿るならば、機動隊は導入しないという「公約」を守りつつ選挙人会を成立させるために、周到な工夫が凝らされていることに気づく筈である。平穏裡に新総長が選出される第一のシナリオの他に、選挙妨害の発生を含みおいた第二のシナリオが事前に練られ、ここでは後者が遂行されたと見て大過あるまい。

 二十日夕刻、第一文学部自治会、第一法学部学友会、第一政治経済学部学友会、早稲田祭実行委員会、文化団体連合会などの学生が中心となり、本部前で集会が開かれた。これに応対した高木常任理事は、三日後に総長選挙問題に関する質疑に応ずる旨を学生に約した。その一方で大学は二十一日、学生に対し次の告示を出している。

先に警告したとおり、かりに総長選挙規則に問題があるとしても、これが正規の手続によって改正されないかぎり、総長選挙は現行規則によって実施するほかなく、これを実力で妨害することは許されない。去る十八日に予定されていた選挙は、大隈講堂前における総長の説得にもかかわらず、会場の変更を余儀なくされた。選挙人会は会長の選挙と管理委員の決定をすませたが、投票を行なうことはできなかった。この日の学生の実力行使については、関係学部当局からも事前に充分説得されたことであり、投票妨害を強行したことは甚だ遺憾であった。総長選挙は校規にもとつく最も重要な行事である。これを実力で妨害することの正当性はあり得ない。選挙規則の改正については時間をかけ、論議を尽して後、評議員会で決定されることである。この作業は辞意を表明した総長ならびに理事会の扱うことではなく、次期総長就任後に行なわれることになろう。学生諸君はこれを研究し、論ずることにさまたげはないが、今回の選挙の実施については事の理非をわきまえた行動をとるよう切望する。 (『早稲田大学広報』昭和四十三年六月十九日号)

 二十三日午後、二一号館(現一〇号館)に各学部学友会・自治会の学生約千人が集まり、高木常任理事と神沢学生部長を迎えて討論が行われた。今回の選挙は現行制度で行う以外に方法はないとする大学側に対し、学生側は現行制度を変えない限り選挙は延期すべきだと主張し、討論は平行線を辿ったまま、午後八時過ぎ、疲労を訴えて医師の診察を受けた高木理事の退場を以て幕切れとなった。

 この間選挙人会長と五名の投票管理者は、「総長選挙規則」の趣旨に添って慎重に審議を進めていた。その結果、地方の選挙人を早急に一箇所に招集することは困難であると判断し、二十七日、郵送による投票を行うことを決めた。投票は十八日の選挙人会に出席した二百十六名によって行われ、有効投票の過半数の得票により当選が決定される。郵送締切は六月六日、新宿局留となった。この連絡は、午前中に安念会長名で選挙人宛に発送され、教職員にも発表された。学生に対しても、審議の経緯と今後の投票日程が翌二十八日の「告」で説明され、「学生諸君は現在の事態を正しく理解し、慎重にこれに対処することを望む。なお選挙規則の改正は、今回の選挙の経験をもふまえ、議論をつくした上で、必要に応じ近い時期に実行に移されるものと信ずる」(同前)との警告と展望が示された。前例のない郵便投票による総長選挙が、かくして始まったのである。

 六月四日、本部会議室において文学部自治会を中心とする約八十人の学生代表と高木常任理事・神沢学生部長が、四時間に亘って話し合った。しかし今回も両者の主張に接点は見られなかったものの如く、翌五日、第一政治経済学部学友会を中心とする学生が「選挙中止および団交要求に関する申し入れ」をし、更に六日には第一法学部の学生が、投票によりスト権が確立したと称して授業放棄に入った。この「総長選挙民主化」を訴えるストの流れは直ちに他学部に波及し、七日には第一・第二文学部、教育学部の学生も授業放棄に突入した。

 この日の午後、保田順三郎常任理事、宇野政雄理事、渡部辰巳理事、神沢学生部長、川合幸晴総長室参与は二一号館に出向き、第一・第二文学部自治会および第一政治経済学部学友会、早稲田祭実行委員会、文化団体連合会、第一商学部、教育学部を中心とする学生約千人と話し合った。このたびは選挙担当理事である保田に開票の日時と場所をめぐる質問が集中し、午後六時過ぎ保田は過労で倒れ、小教室で休養をとった。討論の続行にはドクター・ストップがかかったにも拘らず、学生はこれに納得せず、午後八時過ぎより保田が体を横にしながら総括質問に応じるという異例の形がとられ、八時半過ぎに終了した。

 翌八日、保田・渡両常任理事が記者団を前に開票結果を発表した。

四 時子山総長の選出

ページ画像

 発表によると、投票総数二百十四票のうち有効投票数は二百十一票で、第一位の時子山常三郎政治経済学部教授が八十九票、第二位の高木常任理事が五十票、第三位の樫山欽四郎文学部教授が三十七票をそれぞれ得票し、いずれも有効投票の過半数に満たなかった。このため、「総長選挙規則」に基づき、時子山・高木について決選投票に相当する再投票が行われることとなった。再投票は、一回目の投票と同じく郵送によって行われる。投票期間は、投票用紙の発送された九日から十九日までで、これに関わる一切の処置は安念会長と五名の投票管理者に委ねられることとなった。

 選挙結果と再投票の件は学内各箇所に通知され、本部前で集会を開いていた学生約百五十人にも神沢学生部長を通じて伝えられた。選挙人に対しては午前中に打たれた電報で通知され、翌九日あらためて文書が発送された。

 十日付の学生紙『早稲田キャンパス』は、一連の経過を「総長選/決戦投票へ」なる大見出しの下に報じた。決選投票を最初から最後まで「決戦投票」と記しているのは噴飯ものであるが、当時のキャンパス内に漂っていた雰囲気を参酌するならば、これは歴史的誤記と称するにふさわしい。その記事によると、時子山は総長就任に意欲を示し、インタビューに答えて次のように述べている。

決戦投票の結果、私が総長に決定した場合、私を推してくれた人の意見を聞いて、総長を受けるかどうかを決めたい。問題が多い時に責任者となるのは大変なので個人としては遠慮したいが、難しいとして逃げるのは卑怯だし「こういう時だからやるべきだ」という声もあるので、色々と考慮したい。(総長になった場合、どういう方針でやるかという質問に対して)阿部総長の路線を受けついでいきたい。

一方、高木は「決戦投票となった現在、私としてはとやかく言う事はできない。しかし私の意志は、〔阿部〕総長辞任当時の気持ちと変わっていない」と述べ、記事はこの発言を「総長就任の意志はなく、決戦投票により選ばれたとしても、辞退するものと思われる」と分析している。

 再投票の作業は予定通りに進められ、二十日午後、時日も場所も学生には伏せられたまま行われた開票の結果が公表された。これによると、有効投票百九十票のうち時子山が百十五票、高木が七十五票をそれぞれ得票し、時子山の当選が決定した。投票総数は公表されなかったが、それが二百十五票であり、うち無効が六票、白票が十九票であったと看做すべき徴証がある。開票後、時子山は安念選挙人会長に対し総長に就任することを受諾し、ここに学苑第九代総長が決した。夕方、この決定は神沢学生部長を通じ、本部前で集会を開いていた学生にも伝えられ、同時に大学は、学生に対し次の告示を出した。

只今総長選挙の結果が選挙人会長および投票管理者より発表された。過日来、総長選挙の問題をめぐって学生諸君より多くの意見や批判がよせられ大学は数回にわたってこれに答えてきたが、大学は学生諸君の声に決して耳をかさなかったのではなく、既に辞意を表明しそれが了承されている総長のもとでは現行制度によって実施するほかなかったのである。しかしこの問題については学内外に多くの意見のあることでもあり、今後日数をかけ衆知を集めて議せられ、よりよき改定の方向に進むことを信じてうたがわない。 (『早稲田大学広報』昭和四十三年六月二十二日号)

 新総長の決定を、二十五日付『早稲田キャンパス』は以下の如く論評している。

決選投票で、白票が一九あったことはささやかなる「郵送投票」への批判と考えられよう。とも角も、一ヵ月に亘る郵送投票によって、時子山新総長が誕生したのだが、新総長を認めないとする動き、或は感情的に納得がゆかぬとする学生は多く、例え認めるとしても「仕方がない」と言う消極的な態度であることは否めない。……このような問題を含んだ制度、方法によって選ばれながら、それを受けた時子山氏の意欲が具体的にどう表われてくるかは今後の評価であるが、学外、一般紙とは会見していながら、早稲田大学の教職員、学生の前に堂々と出現し、抱負を語れない総長は不幸でありその前途は多難であると言えよう。

五 時子山体制の発足

ページ画像

 第九代総長時子山常三郎は明治三十三年四月八日大阪府堺市に生れ、昭和二年学苑政治経済学部経済学科を卒業後、大学院に進み、財政学、統計学を修めた。四年より早稲田大学助手を務め、六年には政治経済学部専任講師となった。助教授を経て、十四年専門部政治経済科教授、同教務主任、十五年に政治経済学部教授に昇り、財政学、統計学等を講じた。この間昭和八年から十年まで、早稲田大学派遣留学生としてイギリス、ドイツに留学している。主著は三十五年に東洋経済新報社から初版が上梓された『財政本質論』とすべきであるが、「技術史観ノート」(『早稲田政治経済学雑誌』昭和二十三年三月発行 第九四号)に始まる一連の技術史観論こそが、時子山の学問をして異彩を放たしめている最大の光源である。三十五年には経済学博士の学位を授与されている。

 法人関係の役職も、二十六年九月から二十九年九月まで評議員、三十七年十月から四十一年五月まで教務担当の常任理事を務めた。変ったところでは、学生に乞われて二十四年から三十六年までと四十二年から一年間余り世界連邦研究会会長の任にあり、また、二十四年より二十一年間の長きに亘って雄弁会会長の座にあった。これらも時子山の人柄・人脈を知る縁となろう。特筆すべきは私立大学連盟会長、全私学連合代表、日本私学振興財団理事長として、私学に対する国庫助成という画期的な制度を実現に導いたことである。今日この制度を度外視して私立大学経営が存立し得ないことを省みるならば、その甚大な功績は学苑のみならず全私学に及ぶものと言ってよい。

 さて、四十三年六月三十日に開かれた評議員会は十名の新理事を選任し、七月十五日にそれぞれの担当業務が決定された。ここに発足した時子山理事会の陣容は左の通りである。

理事 岩片秀雄(常任、教務・学生担当)、葛城照三(常任、庶務・労務担当)、荻野三七彦(教務担当)、北島勝之助(職員関係業務〔人事など〕担当)、佐々木八郎(業務全般に亘って他の理事に協力)、星川長七(法規・就職担当)、堀江忠男(学生担当)、木村賢蔵(財務・調度担当)、佐々木省三(労務担当)、友成靖一(施設・調度担当)

監事 久保九助、黒板駿策

阿部総長がそれとなく行った全学部からの理事選任の方針が踏襲され、以後慣例化する端緒がここに見られる。総長の職務代理または代行については、岩片、葛城の順に当ることになった。また、木村は十月に常任理事となった。

 七月一日、時子山総長は「学生諸君へ」と題する一文を『早稲田』に寄せ、「阿部路線」継承を学生に約束した。記念会堂で初めて学生を前に所信を表明したのはその二日後である。四日付『朝日新聞』朝刊は次の如く報じた。

先月二十日の就任以来、学生との摩擦を避けて姿を見せなかった時子山常三郎新総長が、三日午後二時から同大記念会堂で初の所信表明をした。実質的に夏休みにはいったにもかかわらず、約八千人の学生が広い会堂を埋め、大学側からも新理事、幹部教職員ら約七十人が出席した。大学当局は構内に掲示した「新総長就任あいさつ」を「新総長からのお話の会」と変え、新総長との対話の時間を織込むなど、対話ムードの盛上げにつとめた。しかし、文学部を中心とした反代々木系の学生たちはこの会をあくまでも「団交の場である」と主張し、就任あいさつははじめから騒然とした中ではじまった。……熱気と怒号、ヤジ。その中で新総長はきまじめにマイクをしっかりつかんで、一語一語区切るように話した。その胸にワセダカラーのエンジのネクタイがしめてあった。事態収拾を全学生に呼びかけるため、この日特別につけてきたという。所信表明は十分足らずで終った。総長の声は何度もヤジでかき消され、学生と報道陣が壇上を取囲む中で、総長は「阿部前総長の路線を引継ぐ」と結んだ。

マス・コミの論調はしばしばセンセーショナルに偏し、校友や在校生の父母に無用の心配と不安を呼び起す。これは学内正常化の妨げにもなりかねない。そこで同じ所信表明の様子を、総長自身は八月に在校生の父母宛に送られた書面の中で次のように述べ、マス・コミの論調に一矢を報いている。

ところが結果は最近各大学で行なわれているようないわゆる団交形式となったわけで、これについては、ラジオ、テレビ、新聞等で大きく取り上げられまして、「犬が人間を咬めばマスコミの材料にならないが、人間が犬を咬めばマスコミの材料になる」とひろくいわれているように、異常事態だけが大写しに取り上げられた関係から、マスコミによる報道をお聴きになり、ご覧になった方々には大変ご心配をおかけしたような結果になったのであります。他大学から多数の方々が参観に来られたようですが、それらの方々は現場の全体をご覧になった関係から、早稲田の団交はこんなにも静かなものかと驚かれたと後で聞いたほどで、時間的にも約束より少し遅れただけで終了いたしたような状況でありました。

(『早稲田学報』昭和四十三年八月発行 号外 一―二頁)

 七月五日発行の『早稲田』父母号には「父母の皆様へ」と題する在学生父母宛の就任挨拶が載せられ、六日には教職員に対する就任挨拶が行われた。左には校友宛の「就任のご挨拶」を掲出し、以て新総長の抱負を語らしめよう。

阿部前総長が、六月二十日、任期半ばに至らずしてご退任になり、図らずも私が学内外の皆様のご推薦を頂いて後任総長に就任致しました。皆様のご寄託に感激致しますとともに、さいきん諸大学において困難な学生問題の頻発しているさ中に、山積する学内の諸問題を控え、任務の重大さを痛感しています。就任にいたるまで、既にご承知のような事情でひとかたならぬご心配をおかけし、とりわけ選挙人会の方々には大変なご辛労を煩わしましたが、その間をつうじてオール・ワセダの皆様方の熱誠な愛校心に深く感銘致しました。終戦後の困難な事態に対処された島田〔孝一〕第六代総長がご退任に当って校友の方々の愛校心に感謝の意を捧げられていたのを思い出しますが、私は就任前既にこの感銘を得まして覚悟を新たに致しました。このご挨拶の機会をかりまして、いっそうのご指導、ご協力をお願い申し上げます。

阿部前総長の手で大学機構研究委員会、教育研究委員会、学生会館問題委員会等が設けられ、過去一年間にわたってそれぞれ関係の問題点を取り上げて下さっていますので、さし当りこの路線に沿うて仕事にとりかかりたいと存じます。教職員の皆様にも申し上げたのですが、私としましては、早稲田大学の三大教旨に則り、その現代的解釈の上で、教育・研究の府としての早稲田大学の教学の強化を基本目標として、さらにこれらに関連する諸問題に取り進みたい所存でございます。これらは私の微力をもってしては及び難い困難な仕事とは存じますが、学内外の皆様のご協力を得てできうる限りの努力をしたいと念願しています。 (『早稲田学報』昭和四十三年七月発行 第七八三号 二―三頁)

ここに見られる三大教旨への回帰を、時子山総長は自らの基本姿勢としてしきりに強調した。前掲の在校生父母宛書面でも三大教旨を詳述した上で、「以上、早稲田大学の建学の精神を、現代に生かすことを、これからの私の教学に対する根本路線としたいと存じます」と述べている。

 新体制の出端を挫いた総長選挙の混乱を教訓に、時子山総長の代には本編第四章で後述する如く総長選挙制度の改正が実現した。しかしこの時の混乱と郵便投票の実施は、図らずも二年後の総長選挙に前例を与え、新しい「総長選挙規則」の中に跡をとどめることになる。その顚末は第四章・第五章で詳述しよう。