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第十一編 近づく創立百周年

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第五章 村井総長の選出

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一 新制度による初の総長選挙

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 昭和四十五年秋、時子山総長は就任後二年にして任期満了を迎える。校規の定める総長の任期は四年であるが、当時の校規には、「任期の満了前に総長が欠けたときに、その後任として選挙された総長の任期は、前任者の任期の残存期間とする」という規定があり、次章第三節に述べるように、昭和四十九年に削除されるまではこれが有効だったからである。このことについて、当時理事であった佐々木省三は次のように語っている。

阿部賢一総長が四年間の任期を中途の二年でおやめになりましたから、時子山先生は残存期間の二年間だけをお引き受けになった。私は、こんなばかな話があるか、当選してから四年間というのが本来の筋じゃなかろうかと、憤慨いたしました。時子山総長時代に校規改正委員会が評議員会の中に設けられて、私はその委員会に列席させていただき、「残存期間というのはおかしいですよ。極端なことを言えば、任期を一週間くらい残して総長がやめ、選挙だとなったらどういうことになるんですか。だから、就任してから四年間にすべきじゃないですか」と主張しました。現校規中の総長の任期の調整規定は、以前の校規の規定とはちがっている筈でございます。

(「座談会 時子山常三郎先生を偲ぶ」『早稲田大学史記要』昭和六十一年三月発行 第一八巻 二一六頁)

校規には、常任理事による総長職務の代理または代行の規定があるから、佐々木の想定した極端なケースはさほど現実的なものとは言い難い。しかしこのような議論を背景に、校規改正の作業は着々と進められていた。それが時子山総長の在任中に間に合わなかったのは、単に拙速主義を嫌ったからばかりではない。校規全体の改正に先立つ問題として「総長選挙規則」の改正があり、任期満了に伴う総長選挙を目前に控えて、後者は前者以上に焦眉の急を要する課題となっていたのである。

 前章で説述した如く、校規および同付属規則改正案起草委員会は七月二十四日に最終案をまとめ、これが「総長選挙規則」および「総長選挙規則施行規程」として三十日の臨時評議員会で原案通り可決され、同日から新規則として施行された。委員会が払った努力の結果、その制定は時子山総長の任期満了に辛くも間に合い、今次の総長選挙は新規則の下で行うことができることとなった。

 新規則第四条には「決定選挙を行なう日は、大学が決定して公示する。公示の日と決定選挙の日との間には、少なくとも四十五日の期間をおかなければならない」とあり、八月十四日、「総長の任期満了に伴い、総長を決定する選挙を十月四日(日)に行ないます」との公示が出された。十七日には第一回の総長選挙管理委員会が開かれ、二十二日、同委員会から総長候補者選挙実施要領と左の総長選挙実施日程(◎印は投票日)とが発表された。

総長選挙実施日程(昭和四十五年))

(『早稲田大学広報』昭和四十五年八月二十二日号)

このように、新制度による総長選挙においては原則として三回の投票が行われる。候補者選挙と学生による信認投票とは新規則の白眉をなす改正点と喧伝され、その成行きが学内外の耳目を集めていた。

二 総長候補者の選出と信認投票の頓挫

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 総長候補者選挙は所定の手続に従って八月二十八日、大隈講堂で行われた。投票総数は千十六(有効投票数九百九十二)で、即日開票の結果、第六位までの得票者と得票数について左のように発表された。

第一位 二七六票 時子山常三郎(政治経済学部教授)

第二位 二六六票 村井資長(理工学部教授)

第三位 八〇票 樫山欽四郎(文学部教授)

第四位 六三票 高木純一(理工学部教授)

第五位 四六票 野村平爾(法学部教授)

第六位 四三票 有倉遼吉(法学部教授)

 「総長選挙規則」によると、「得票順位が五位までであって、その得票数が投票総数の二十分の一以上である者を総長の候補者とする。ただし、五位までの得票者のうち、候補者となることを辞退した者があるときは、その者を除いて得票順位を順次繰り下げて候補者を定める」(第四十一条)、「管理委員会は、前条の規定によって定まった候補者につき、三日以内にその意向を確かめて決定選挙に付すべき候補者を決定する」(第四十二条)ことになっている。

 今回の場合、投票総数の二十分の一以上とは五十一票以上であり、候補者となる要件を満たした右四名のうち樫山と高木は辞退し、従って決定選挙は時子山、村井について行われることになった。得票数では時子山と村井の優位が明らかであったとはいえ、樫山と高木が候補者として踏みとどまっていたならば、そこに政治的な駆引きの介入する惧れをなしとしない。政治的な駆引きは無用の混乱を誘発する。学問の府が自らのリーダーを決する場において、およそ政治ほどふさわしからぬものはなく、教職員は総長選挙をめぐる政治運動などに手を汚すべきではない。樫山と高木の辞退は、それぞれの思惑がいかなるものであったにせよ、結果的に学苑が政治化することを防いだのである。

 決定選挙に先立ち、新規則の目玉である学生による総長候補者の信認投票が行われることになっていた。しかし、この新制度には学生の側に異論を唱える向きもあったようである。この場合学生運動は、総長選挙と相互に因果関係を持ちながら密接にリンクしていたわけではない。両者はただ雁行していたに過ぎず、学苑という同じ牀の上で別々の夢を見ていた。学生運動は、その固有の流れの川岸に総長選挙というターゲットを見出して「総長選闘争」を打ち出したのである。かかる意味において、以下に述べるような今次の総長選挙をめぐる混乱はいわゆる七〇年安保闘争の余波であり、専らタイミングの所産であったとして大過あるまい。学内の騒然とした雰囲気を、九月十日付『早稲田大学新聞』は次のように報じている。

休みあけの七日、学園では総長選闘争に向けて三つの全学的な集会が開かれた。この三つの集会はそれぞれ全学協(議長坂本良君)の主催、もう一つは一法学友会常任委員会を中心とする民青系の主催、もう一つは無党派連合、早大べ平連〔ベトナムに平和を!市民連合〕などを中心とする学生の主催で開かれた。この日は授業開始日とあって、前日までの閑散とした学園とは打ってかわって本部キャンパス一杯にあふれる学生で活気に満ちた中で、これらの集会は開かれた。

全学協は、この日十二時より本部前で、信認投票粉砕・総長選挙実力阻止全学総決起集会と題して、約百六十名ほどの学生の参加で集会を行なった。まず各学部からそれぞれデモンストレーションで本部前に集結し、十二時半頃集会は始まった。集会は文化〔団体〕連合会常任委員長の小林君、二文自治会常任委員長の近藤君の司会で進められ、まず基調報告には第一政経学部の秦君が立った。この基調報告では、一、現段階の大学当局の攻勢と背景、二、反対運動の現状、三、学生拒否権などを主要スローガンとする闘いの方向性などが述べられたが、同時に全学的な共闘機関結成の意義もうったえられた。

次に第一文学部自治会常任委員会の代表から、一日全学部に発された共闘機関結成の呼びかけが読み上げられ、共闘機関結成が訴えられた。つづいて、一政ストライキ共闘会議の代表から決意表明がなされた。この決意表明では総長選闘争の方向性とともに、崩壊状態の一政学友会の再建の展望が述べられた。すなわち、民青系の学園「民主化」運動の一環としての総長選制度改善要求運動をのりこえ、全学無期限バリストを実現していく中で、闘う学生の意志を総結集して学友会を革命的に再建することを提起された。この発言を最後に集会は終わり、学内デモンストレーシ。ンを展開した後各学部へと解散した。

 アピールの仕方は一様でない。九月八日、大学院文学研究科東洋哲学専攻の修士課程の学生五名が連名で、「新総長選挙規則に関する私共の見解」と題する左の書簡を総長および理事会宛に出した。

去る七月三十日に示達せられた総長選挙規則に於ける「学生参加」は、全くの虚名にすぎず、私共としては不満足と申すの外ありません。従いまして私共は、今回の総長候補者の信認投票に参加し得ないことを表明します。校規改正委員会の改案に到る迄の御努力は、認めるにやぶさかではありませんが、新規則そのものには到底承服し難いのであります。私共としては、より広範な学生の権限を御容認下さるよう、御再考を切望する次第です。また、今後の校規改正の為にも、校規改正委員会への学生代議員の参加が御容認頂けますれば幸であります。

同日大学は、次のような告示を出した。

新規則に基づく総長選挙の施行に当って、学生諸君の候補者に対する信認投票の実施に対し、「実力をもって粉砕する」ことが呼号されている。今回の選挙は、今後の大学改革を進めてゆくための出発点をなすものであり、初めて施行される「信認投票」は重要な意義をもつものである。こうした大学の重要な業務に対し、物理的な力をもって妨害行為を加えることは許されない。大学は既定の方針に従って、こうした不当な行為に対処する所存である。

(『早稲田大学広報』昭和四十五年九月十九日号)

 しかし、その物理的な妨害を被った結果、信認投票は行うことができなかった。この事態に対する大学側の公式見解は、次に掲げる十日付の告示において表明された。

九月八日付の告示における警告にもかかわらず本日より行なわれる学生諸君の信認投票は、革マル派その他の集団による暴力的な妨害行為によって、一時中止のやむなきに至った。こうした事態は、民主主義をふみにじる全く不当な行為である。とくに、反民独立連合なる集団は、投票箱を強奪してこれを損壊したばかりでなく、大学正門付近の建造物を破壊したり放火したことは、許し難い犯罪行為である。こうした不法行為が繰り返されるならば、強い決意をもって対処し、その責任を追及することをここに明らかにする。 (同紙 昭和四十五年十月十五日号)

新規則には、信認投票が妨害された場合の措置が定められていた。すなわち、「信認投票が妨害により所定の期間内に実施することができないときは、管理委員会は投票期間を変更することなく、所定の手続により定まった候補者につき、決定選挙を実施する」(第六十一条)というのがそれである。これにより、信認投票がたとえ行われなくても総長選挙の続行は合法にして可能なものとなる。昭和四十三年に行われた前回の総長選挙が綱渡りめいた芸当を要したのに比するならば、今回は大学執行部も、規則の適用という面では余裕を持って妨害に対処することができた。それだけにマス・コミの論調にもややシニカルなものがある。九月二十七日発行の『朝日ジャーナル』は、「形ばかりの『学生参加』/『粉砕』された早大の信認投票」という見出しの下に次のような記事を載せた。

同大学で、新しく制定された総長選挙規則は、学生の「信認投票」を大きな特色の一つとしていた。それが全面中止になったのだから、大学側のシ。ックはさぞかし大きかったと考えられそうだが、事実はまったく逆であった。大学側は、しごくあっさりと投票を中止し、しかも総長選のスケジュールにはいささかの影響もなく、予定どおり、十月四日には教職員と評議員の代表によって「決定選挙」が行われ、新総長が誕生するはずである。

九月十日、八学部、大学院研究科の各投票所は、午前十時の投票開始を待つばかりだった。そこへ革マル、反帝学評〔反帝学生評議会連合〕などの学生が乱入して、椅子を倒し、投票箱を奪い去った。法学部、文学部……と、たちまち全投票所が「粉砕」された。大学院理工学研究科の投票所はやや妨害が遅れたので、一人の学生が投票したという。ただし、その直後、投票箱が奪われたから、有効投票とはなり得なかった。投票期間の三日間を通じて、結局、これが唯一の投票となった。

報道陣の求めで十日午後、毛受信雄選挙管理委員長(評議員)が記者会見した。「規則では、投票期間の延長などはしないことになってます」「学生側の責任です」――答えは、実にあっさりしたものであった。あまりにあっさりしているので、大学側は妨害に対して「信認投票」を守ろうという意思があったのか、と報道陣から皮肉な質問も出た。大学側は投票妨害に対する何の予防措置もとっていなかったし、係員は投票箱が奪われるのに怒りさえ示さなかった。毛受委員長は学外者の気楽さからか、「それほどのことまでして、学生の意思を聞かなければならんとは考えなかった」と、ひょうひょうとした口ぶりでいってのけたのだった。……

反代々木系は「粉砕」、代々木系も「ボイコット」の方針を打出し、大学側も「実施されてもされなくとも、どうせ関係ないから」と、のん気に構えていた。激しい紛争を経験した早稲田大学の場合、「学生参加」に積極的な意欲を持っていなかったことは確かである。 (一〇八―一〇九頁)

 記者会見でのやりとりについてはともかく、学生による信認投票に臨む大学執行部の姿勢はここに酷評されるほど不真面目なものではなかった。「もしも全候補者につき不信認が成立したら」という極端な場合すら当局では議論されており、それが前掲の二つの告示における強いトーンに反映されていたのである。信認投票は――ここは必ずしもそれを述べるべき場ではないが――学生の絶大な関心の下に正常に実施された場合の効果を考えるならば、決して欺瞞的なものでも虚名の学生参加でもない。それをこの時、「守ろうという意思」もなく頓挫させてしまった張本人は何者か。暴力的に投票箱を奪い去った一部の学生も、一連の経過をシニカルに報じたジャーナリズムも、良識ある大学人に寒心をなさしめるほどのものではない。これしきのことを超克できないようでは、学問・教育の名に悖るからである。心ある人々に暗然たる思いを抱かせたものは、寧ろ圧倒的多数を占めた「一般学生」に蔓延しつつある「無関心」ではなかったか。

三 決定選挙

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 この間、各学部では学生集会が開かれ、「反動的総長選実力阻止」等をスローガンに掲げるバリケード・ストライキが全学に拡がった。やや長文に亘るが、その様子を九月二十五日付の学生紙『早稲田キャンパス』の記事に窺おう。

十二日は革マル系の主導権で、一文、二文、教育、社会の学生大会が開かれ、十二日以降二文では無期限バリスト、他学部は十日間バリストが行なわれている。各学部ごとの学生大会の状況は以下の通り。

一文―十二日十二時から文学部一八一教室で開催。しかし、学生大会は参加者七二六名で成立せず、常任委が「学部投票における一二〇一名のバリスト賛成者の意志を尊重し、また現在の総長選の動向を考え、無期限ストをめざして常任委の責任で十日間ストライキを行ない、二十二日再度学生大会を開く」との声明を緊急提案。これが可決され、一文は十三日からバリストの状態に入った。スト明けの二十二日の学生大会で、〔自治会〕執行部はこの日の措置と十日間のバリストの成果が問われることとなろう。

二文―十二日、二二一教室で六時半から開催。参加者三五三名で定足数には達しなかったが、八日から行なっていた学部投票が投票総数一一三〇で成立し、「無期限バリスト賛成」六一五が確認され、二文は無期限バリストに突入した。

教育―自治会常任委(革マル系)主催による学生大会は、十二日午後四時より一五号館一〇二で開かれた。しかし参加者は四〇名程度で成立せず、また学部投票総数も成立に満たなかった。しかし常任委は一文の場合と同様に十日間バリストを宣言した。二十二日には再度学生大会が開かれる予定。また、十六日には学生自治会常任委(民青系)により午後一時から二二号館三〇一教室で学生大会が開催されたが、定足数に満たず学生集会となった。

社会―十二日午後六時半から一五号館一〇一教室で学生大会は開催されたが定足数に満たず流会。しかし、教育と同様にして十日間バリストに突入した。なお同常任委は二十一日に再度学生大会を予定。

法―学生大会は十六日午後二時半より二二号館三〇一教室において学友会常任委の主催で開催され三二〇〇名が参加して、九月十八日―十月四日のストライキを可決した。採決の結果は次のとおり。常任委案…一〇六一、対案(革マル系)…一七一、保留…一七八、棄権五四、無効…一一、委任…六二〇。

政経―学生大会は十六日午後十二時より大会実行委員主催で一〇号館一〇九教室で開催。参加者数は約五五〇名で、大会は成立せず集会となった。しかし、一文等の学部と同様、実行委の判断から、大会実行委の責任のもとに十日間バリストに突入した。なお二十八日に再度学生大会が予定されている。

商―十六日、本年度第二回クラス委員会が一一号館二〇五教室で開催され、「十七日の学生大会勝利!」を基本的に確認し、四十三・四十四年度の会計報告が承認された(これは学部当局の会計監査を受け、承認されたもの)。また学生大会は十七日一五号館四〇五教室で、商学部自治会常任委員主催で開催された。しかし、定足数に達せず学生集会となった。前田委員長から「本学生集会の決定をふまえて無期限バリストを提起し、二十八日に再度学生大会を開催する」との動議が出され、この動議は、賛成七六四、棄権二二、保留一〇、で可決された。商学部はこれによって十日間バリストの状態となっている。

この一連の学生大会の結果、十八日の時点で、理工を除いて、全学ストライキ状態となっている。しかし、法学部、第二文学部を除く、他学部におけるストライキは、その決定手続上、学生大会決定、学部投票決定ではなく、常任委(政経学部においては一政共闘)の責任という形でストライキに突入したわけである。現在的に総長選問題を考えた場合、学生側の闘争体制構築が急務の課題としてあることは疑う余地はない。しかしながら、そのことが大衆的基盤を無視した形で目的化された場合、総長選闘争の中では闘争自体の内実性を自ら喪失させる結果に陥るのではないかという疑問を抱かざるを得ない。その意味で十日間ストライキの内実とその後の学生大会でこそ、指導部の責任が問われているといえるだろう。

またこの学生大会をめぐる学生の主導権争いで、再び革マル系と民青系の党派闘争が表面化し、十六日から十七日にかけて、両党派間で、激しいゲバルトが行なわれた。

学生運動は、前年に昻揚したいわゆる七〇年安保闘争のトラウマを引きずったまま、漸く蹉跌の様相を呈し始めていた。それはもはや学生運動たる実質を失い、従って学生の総意を結集し、表現し得るものではなくなっていた。昭和四十五年といえば、大阪で開かれた万国博覧会、市谷の陸上自衛隊駐屯地での三島由紀夫の割腹自殺事件と並んで、日航機よど号ハイジャック事件が想起されよう。この事件が象徴するように、日本の新左翼運動はこの頃から大学の外に出て、地下に潜伏し過激な「闘争戦術」を行使する兆しを見せていたのである。学内に足場を留める活動家は、「一部の学生」というカテゴリーに追い詰められた。彼らが抱えた矛盾は、学生大会の定足数すら満たすことができず、無理を承知の手続によってストライキを強行せざるを得なかったことのうちに具現されている。

 九月十七日夕刻、選挙管理委員会が開かれ、十月四日に行われる予定であった決定選挙を、郵便投票で行うことを正式に決定した。前回の郵便投票が選挙人会長と投票管理者による臨機の措置であったのに対し、新規則はかつて実際に起きた学生による選挙妨害をこれからも起り得る事態と想定し、「出頭投票の原則」の例外として、郵便投票に関する規定を盛り込んでいたのである。

 これより先、十六日に、第一法学部学友会その他より、「総長選挙規則」およびそれに基づく選挙の実施上の諸問題についての公開討論を行いたいので、学生担当理事、学生部長、選挙管理委員会委員長に出席してほしいとの申入れがあった。大学は十八日、左の理由でこの申入れを拒否した。

九月十六日付文書をもって申入れのあった公開討論会への出席はつぎの理由により応じられません。

(一)一学部の集会には従来応じていないこと。

(二)現在のような学生集団間の対立の激化している状況の下では、混乱と危険が予想されること。

(三)第一法学部がストライキ状態に入っている状況の下では、こうした集会は適当でないこと。 以上

(『早稲田大学広報』昭和四十五年十月一日号)

 十九日、前日に閉鎖した名簿による総長決定選挙人九百六十八名の全氏名が、選挙管理委員会から通知された。この時期は前期試験に当り、各学部では連日のようにストライキ解除を呼びかける掲示を出している。大学も二十二日に次の告示を出した。

最近学生集団間の対立が激化し、つぎのような不当、不法な行為がみられる。(一)構内への開門時間以前の不法立入り。(二)凶器(ゲバ棒・石・ビンなど)の持込み・所持・使用による暴力傷害行為。(三)バリケードの構築による試験・授業・大学業務への妨害。(四)教室などの無断使用。

さらに一部の学生は昨二十一日には、既に新聞等で発表されているように、第一政治経済学部の試験の実施に際しては、試験問題の強奪という許し難い妨害を加えた。大学はこうした事態を断じて見過ごすことはできないので、全学一体となって、従来の方針を堅持し、強い決意をもって、かかる不法行為に対処し、その責任を追及してゆく所存である。また、このような行為を不法に行なう一部の学生には強い反省を求める。 (同紙 昭和四十五年十月十五日号)

 二十四日、「早大全学協」の団体名で、総長以下の全理事・総長選挙管理委員会委員長・大学問題研究会委員長・学生部長宛に「団交要求書」が提出された。その課題は(一)十月四日の総長選挙について、(二)機動隊導入・バリケード除去について、(三)「一〇・二七告示」について、(四)学館問題について、(五)「大学改革」についての五点であった。このうち第三点の「一〇・二七告示」とは、前年十月二十七日に「七〇年安保闘争」絡みの全学バリケード封鎖が解除され、授業が再開された際に出された学生証確認措置と警察力出動要請に関する告示を指すのであろう。これに対して大学側は、二十八日に総長名で回答書を出し、この「団交要求」を断った。

 こうした喧騒の中で、十九日から郵送による総長決定選挙が開始された。開票日の十月四日の模様を八日付の『早稲田大学新聞』は、「大学当局/決定選挙を強行/機動隊厳戒下『郵便投票』で」という見出しの下に、「この機動隊の暴力的弾圧を背景とした総長選挙の郵送投票による強行に対する粉砕闘争に先立って、全共闘を初めとする学生側は、十二時より二二号館前において総決起集会をおよそ三〇〇名を結集して持った」と報じている。前回の総長選挙が行われた四十三年五月、「総長選挙民主化」を訴えて大隈講堂前で集会を開いた学生の数は約千名であった(四九二頁参照)。学生運動の質的変化は動員可能な学生の数字にも反映している如くである。

 四日午後、即日開票の結果が発表された。投票総数九百四十五(有効投票数九百三十九)、過半数は四百七十三票で、両名の得票数は左の通りとなった。

四九三票 村井資長

四四六票 時子山常三郎

候補者選挙の際の得票順位が、決定選挙では逆転したのである。ここに当選の決定した村井が就任を受諾し、学苑第十代総長となった。理工学部出身者の総長就任はこれが初めてである。

四 村井新執行部の発足

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 村井資長は旧姓日野西、明治四十二年十一月二十二日北海道に生れ、村井家の養子となった。第一早稲田高等学院を経て、昭和八年学苑理工学部応用化学科を卒業後、大学院に進み燃料工学を専攻した。十一年から十三年まで東京帝国大学工学部応用化学科に国内留学し、光化学を修めた。しかしながら村井の関心は、専ら代替燃料の開発研究に向けられた。理工学部石油工学科助教授時代の昭和二十五年五月二十日に発行された『早稲田学園彙報』に、松根油の原料と精製法に関する素人向けの解説を執筆している。太平洋戦争末期に極度に逼迫していた燃料事情を背景に、航空ガソリン確保の非常施策の要請がかかる研究へと赴かせたのであろう。村井が最も精力を注いだ研究は、草炭の利用に関するものであった。「草炭は水分が多い。それを蒸し焼きにしてタールをつくり、そのタールから石油を作ろうというのが、私の研究主課題である。草炭と石炭は違うが、いわばいまの石炭の液化計画ともいうべき研究だった」(村井資長『変貌した大学の改革を』八九頁)。この代替燃料としての草炭研究は、後年方向を転じ、砂漠の緑化を目的とする研究として再開される。草炭の酸性と高い吸水性を利用して、中国や中近東の砂漠を効率的に緑化し、世界が抱えている食糧問題の解決にも貢献しようという壮大なプランで、その一部は既に実現の緒に就いている。

 学苑における村井の職歴は、十一年に理工学部教務補助となり助教授を経て、二十九年に教授となった。二十九年から三十三年まで教務部長の任にあった。総長就任の時点で既に大学経営に対する造詣が深かったのは、三十三年から四十一年まで教務・庶務・募金担当の常任理事を務め、四十二年から二年間評議員の地位にあった経験のしからしむるところである。その関係で、蠟山政道編『大学制度の再検討』(昭和三十七年)、『私立大学経営白書』(昭和四十三年)等を分担執筆している。

 さて、総長選挙のプログラムが終了し、各学部のバリケード・ストライキ体制は、あるいは定足数に満たない学生集会での決議により、あるいは単なる期限満了により、あるいは学部当局のバリケード撤去により解除された。新総長の第一声は、十月四日夜市谷の私学会館で行われた学生紙との記者会見における次の発言である。

私が新しく総長に選ばれたのは、学内での支持がかなり高かったからであろう。このことは候補者選挙の時、現職の総長との票差がごくわずかだったことにもあらわれている。教職員が学内の何となくよどんでいる空気を一新することを期待していたのだろう。これからは過去に築き上げられた歴史の上に立って新しい前進を考えていかなければならないと考えると、身の引き締まる思いがする。大学には現在、改善改革しなくてはならぬ問題が山積している。教職員・学生が一致協力して、教育とは何か、学問とは何かという究極の目的を捜し、根本理念に立って新しいビジョンを打ち立てていかなければならない。そして、新しい大学の雰囲気を作って充実した施策を考えたいと思う。大学は政治的に中立であること、時代に迎合しないようにすることの二点を骨子とし、また学問の研究成果はこれを社会、文化、人類の幸福に貢献するようにしていかなければならないと思う。 (『早稲田キャンパス』昭和四十五年十月十日号)

前章で詳述したように、新たな「総長選挙規則」では、教職員全員が決定選挙に参加するものとされた。右の発言は、選挙終了直後のこととて、新規則の特徴を強く意識したものとの印象を与える。職員組合史も村井の当選を、「わずかな差でしたが、組合の立場に共感と理解を示し、前向きな話し合いの姿勢をもつ村井候補の当選は、新制度の民主的成果を最大限に生かした結果といえましょう」(『国民のための大学づくりめざして 職員組合二五年史』一二三頁)と論評している。一方、退任することになった時子山前総長は、次のような「退任ご挨拶」を発表した。

想えば在任中の二年五ヶ月は、わが国のみならず世界的に大学問題の激動期でありました。早稲田大学にとりましても大隈侯当時以来の困難な学外勢力の介入期とまでいわれてきました。とくに昨四十四年四月の沖縄デー、六月頃よりはじまった大学立法反対のための騒擾当時は全国動員をかけられる危機にも当面しました。この間にあって昨四十四年四月に発したいわゆる「早稲田の昭和宣言」、これを実行に移すための同じく十月に採った諸措置等を基本とする諸施策に関し、学内教職員に並々ならぬご苦労を煩わした非常事態など、今さらに感慨深いものがあります。

新しい大学づくりについては、教育・大学とは何かより根源的に研究して頂いた大学問題研究会の答申を得、早稲田の憲法改正を目指す校規改正委員会の諸課題のうち総長選挙規則の改正とそれに伴う校規の一部改正だけを得た段階で、対外的には戦後二十数年来の懸案であった人件費を含む私学経常費に対する国庫補助を昭和四十五年度政府予算ではじめて実現し得て、これに伴う日本私学振興財団の発足を見たばかりで、いずれも種子蒔程度に終りましたが、村井新総長の英断を願ってやみません。

恩師塩沢昌貞先生が、私共学生の頃「世の中は波のうねりのようなものだヨ」と諭されましたが、激動の過程にあってこのご遺訓を想起し、激動に押されて悔を将来に残さぬよう、同時に、激動のなかに進歩を見出し、時世に照応した母校の発展を目途に諸般の事態に対処しましたが、大過なきを得たのは学内外の皆様のお蔭にほかならず、ここに重ねて厚くお礼を申し上げます。 (『早稲田学報』昭和四十五年十一月発行 第八〇六号 四頁)

ここに言及されている「早稲田の昭和宣言」とは、四十四年四月十七日の大学本部占拠に始まる過激派学生のゲヴァルトがエスカレートし、当時「外人部隊」と呼ばれた他大学学生が学苑に集結するとの予告がなされた折、破壊と流血の惨事を防ぐために二十五日に発された「学内平和宣言」のことである。これは学内秩序保持に関する基本方針を宣明したものであるが、退任に当ってかようなものが「感慨」を呼び起すのも、紛争の渦中に総長職を務めた時子山の不幸な宿命と歎ぜざるを得ない。

 十月十二日の評議員会で新理事・新監事が決定され、二十八日には常任理事の決定と理事の担当業務が通知された。新理事会のメンバーは次の通りである。

理事 増田冨寿(常任、教務担当)、神沢惣一郎(常任、学生担当)、清水司(常任、庶務担当)、木村賢蔵(常任、財務担当)、有倉遼吉、押村襄、佐々木省三(労務担当)、友成靖一(施設担当)、安井俊雄(体育施設担当)、渡部辰巳

監事 久保九助、渡辺敏三

このうち有倉・押村・渡部の三理事は「業務全般にわたって他の理事を補佐する」こととされた。また、校規の規定による総長職務の代理または代行者は、第一順位増田常任理事、第二順位神沢常任理事となった。

 ところで、村井の総長就任式は行われなかった。恐らくセレモニーができるような学内情勢ではなかったのであろう。現に六日には第二文学部の学生が穴八幡境内で焼身自殺を遂げる事件が起き、十九日にはまた次のような騒動が起きている。武装した学生約八十人が突如本部構内に現れ、大学の退去要請を無視して集会を始めた。一方、これに対抗する二百余人の学生集団が大学内外からこれを窺い、大混乱が予想されたため、大学は警官隊を導入する措置を採った。この時、反帝学評系の学生十三人が凶器準備集合罪により逮捕された。この事件に関して学苑は、「大学は教職員、学生の身体・生命の安全には重要な責任を有するので、こうした危険のある時には断乎たる処置をとることを明らかにしておきたい」(『早稲田大学広報』昭和四十五年十月二十八日号)との告示を出している。

 村井総長が次に掲げる校友向けの挨拶「総長就任に際して」を発表したのは翌十一月である。

私が新しい総長選挙規則のもとで、あえて候補者を受諾したのは、候補者選挙の段階で全教職員の直接参加があって、学内の空気とその動向を察知することができたからです。そこで、私は学内の全教職員と学外の総長選挙人の全員に、早稲田大学の再建と将来への発展のために、あらゆるご支援とご協力をいただくことを切望いたす次第です。私はパウロがコリント人へ送った書簡の「私はすべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」の言葉の通りに、ただ総長の任期中だけでなく、終生を、忠実に自己の任務を果たしたいと願うものです。

大学は過去の文化や科学の遺産を伝承するとともに、未来の創造に役立つ教育と研究の場でなければならないと思います。現代の大学は、閉鎖的な古いアカデミズムを克服して、現代に生きる学徒の心のよりどころとなる学問研究の実践に取り組まなければなりません。一方、現代の大学は高度の職業教育の場でもあります。専門の知識、高度の技術を究めることも当然でありますが、一方において、今日の情報社会、管理社会における人間性の恢復と、人権の尊重を前提としなければならないことも当然であります。……

早稲田大学の財政は現在、極度に逼迫し、年々その内容は悪化しつつあります。このままでは破局を避けることが困難です。大学の教育条件、研究条件をこれ以上低下させることはできません。国費助成、寄付金、学生納入金が現在の主要財源ですが、いま私に課せられている当面の大きな課題は、自主的な努力が報いられる寄付財源の増収を計ることです。このことによって少しでも教学費を増額し、教育、研究条件の向上を計れたらさいわいであると思います。

(『早稲田学報』昭和四十五年十一月発行 第八〇六号 二―三頁)

学生に向けて「就任にあたっての所感」を発表したのは、更にその翌月であった。村井総長はこの「所感」を、「一日も早く、そして全学生、全教職員の手で早稲田を学問、真理探究の場にしてゆきたいものです」(『早稲田』昭和四十五年十二月八日号)という言葉で結んでいる。

 四年後の昭和四十九年、村井総長の任期は満了し総長選挙が行われた。九月二十日に行われた総長候補者選挙の結果、村井総長と滝口宏教育学部教授が候補者に選ばれたが、滝口は辞退して村井総長が再選された。これは「総長選挙規則」に「決定選挙に付すべき候補者が辞退その他の事由により一人になったときは、その候補者につき決定選挙を行なう。ただし、その候補者の候補者選挙における得票数が、投票総数の過半数に達しているときは、決定選挙の投票を経ないでその者を当選者とする」(第六十三条)との規定があり、村井の得票がこの但書の条件を満たしていたからである。因に言えば、この時に行われた学生による信認投票の結果は、投票数二千十一票のうち不信認は千二百十票で、在籍学生数四万二千二百八十九人の過半数の票数に達しなかった。

 第二期村井理事会は左の如き構成(*印は重任)となった。

理事 増田冨寿(常任、教務担当)、押村襄(常任、学生・広報担当)、清水司(常任、庶務担当)、佐々木省三(常任、経理・労務担当)、有倉遼吉(法規関係)、竹内常行(教務関係)、宇野政雄(事業関係)、時岡弘(労務関係)、渡部辰巳(庶務関係)、久保九助(施設・財務関係)、佐藤欣治(財務関係)

監事 黒板駿策、渡辺敏三

 次章で述べる如く、この年の四月一日に施行された校規の一部改正で、総長の任期は「四年とし、再選を妨げない。ただし、同一人につき引き続き二期を超えて総長に選挙することはできない」こととなった。それゆえ二選を果した村井総長は、昭和五十三年に満了する最後の任期を全うして勇退することになる。それに先立つ五十二年四月、五年後に控えた創立百周年の記念事業の基本計画を立案するために、創立百周年記念事業計画委員会が設置され、委員長に村井総長、副委員長に松本元商議員会長および清水司常任理事が就任した。かくして村井総長の下、百周年記念事業は具体化への第一歩を踏み出したのであるが、その詳細は次編第一章に譲る。