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第十一編 近づく創立百周年

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第十九章 校友と校友会

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一 大学と校友

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 卒業生と母校との心の絆は、在学中における講義やゼミナールを通じての教師との琴線に触れた交流、ゼミナールやサークル単位での他の学生との触れ合いの延長線上にある。言い換えれば、早稲田大学においては校友と称している卒業生と大学との結びつきは、在学中の比較的範囲の狭いこれらの関係の親密度が前提となっている。そして、一旦学窓を巣出った人々が母校との一体感を強く感じるのは、マス・コミが母校の動静を詳しく報道したり、スポーツ界における母校選手の奮闘ぶりを耳目にしたり、政界や財界をはじめ各界で校友が重きをなしているのを知ったりした時である。

 国公立大学と比べた場合の私立大学の特色の一つは、校友と母校との紐帯の強さに現れている。単なる母校愛ならば、これは私立大学でも国公立大学でも見られるが、私立大学における校友のあり方の特色は、母校に対する有形無形の支援、とりわけ金銭的援助と、これだけにとどまらず大学経営への参加の形を採っていることである。

 志操を同じくする人々により創立された東京専門学校の初期の経営は、大隈重信の資金援助に負うところが非常に大きかった。第一巻五二三頁以下に記したように、明治十九年、大隈家からの財政的独立を図るため学生の了解を得た上で学費値上げに踏み切ったのは、経済的にゆとりのある校友が皆無に近く、名も知られていない学校に進んで寄附しようとする篤志家も少かった時代であったことを考えると、やむを得ない決断であった。学苑は創立二十周年を期して早稲田大学と名称を改め、大学部を新設するため初めて基金募集を行ったけれども、基金募集委員には、委員長の前島密をはじめとして東京専門学校の卒業生でない人々が多数名を連ねている。しかも、この時から大正十一年の故総長大隈侯爵記念事業資金募集に至るまで、募金運動は早稲田大学の名前よりも大隈重信の個人的名声に頼るところが甚だ大きかった。従って、もとより卒業生からの寄附金は無視できないとはいえ、早稲田大学を社会的存在と理解してくれた江湖の篤志家の厚意が学苑を育てる上で重要な力を発揮したのである。校友の金銭的援助が多大の比重を占めるようになるのは、募金活動に大隈の表看板を使えなくなってからであった。

 学苑は運営について学外の意見をも聴取する目的で草創期から評議員(創立後数年間は議員と称し、昭和二十六年の学校法人への組織替えに際して商議員と改称)の制度を設け、各界の有力者がこの役職に就いていた。卒業生の中から初めて評議員に選任される者が現れるのは明治二十三年七月であるが、それは全評議員二十四名中二名(黒川九馬と山沢俊夫)に過ぎなかった。その後評議員となる学外校友の数は増えるけれども、大正元年になってさえ、学外評議員四十六名中十四名、すなわち三〇パーセントは、学苑を卒業した人々ではなかったのである。経営に最高の議決権を持つ維持員(学校法人への組織変更により評議員と改称)に関しては、創立五十周年を翌年に控えた昭和六年十月、それまで学苑経営に測り知れないほど重要な職責を果してきた大隈信常高田早苗市島謙吉坪内雄蔵、渋沢栄一が揃って勇退したことが転機となった。この月、東京専門学校卒業生ではないこれらの功労者に代って、学苑の卒業生が多数維持員に登用されたからである。因にこの時、定員三十五名の維持員のうち学外から迎えられたのは十九名で、そのうち学苑卒業生でなかったのは砂川雄峻平田譲衛の二名だけであった。このように、学外校友の学苑経営への参加は昭和に入ってから本格的なものとなる。

 学苑は創立以来幾度か危機に陥っている。大正六年に勃発した「早稲田騒動」は、学苑卒業生の若手教員が旧来の体質に異議を唱えて大学改革を主張したことが、「騒動」たらしめた条件となっている。この時、学外にあった校友でこの事件に関わったのは第二巻に既述の如く石橋湛山であったが、当時の彼にはまだ騒動を収める力はなかった。それが、昭和五年の早慶野球戦切符事件になると、第三巻に記したように、中野正剛が調停に乗り出すことにより事件が収拾されたのであった。新制大学になってからの例では、昭和二十七年、第十編第十六章で取り上げた「五月八日早大事件」に際し、石田博英・川崎秀二・浅沼稲次郎の校友三代議士の斡旋で警視庁と学苑との和解が成立した。更に、同編第十八章で述べたように、四十一年の「学費・学館紛争」でも超党派の国会稲門会が、成功しなかったものの助力を当事者双方に申し出た。このように、学内の泥沼化した紛争を見るに見かねて学外の校友が解決の糸口を提供しようと東奔西走する姿は、私立大学ならではであろう。

 勿論、「校友」の肩書きを悪用して学内問題に口出しした例は皆無というわけではないが、教職員・学生の結束や意向を敢えて無視して不当に介入し、そのために学苑の自治が蹂躙されたというような事例は一つもない。大学問題研究会第一研究部会の報告資料七『校友論』は次のように述べている。

学園が順風満帆のときには遠く静かにその成育を見守ってくれているが、学園が更に大きく飛躍をしよう(数度の拡張計画遂行の際のような)とか、あるいは学園の存立さえも危ぶまれたような危機的瞬間(明治十九年の危機や早大騒動の如き)には、これを一言でいえば当時の学生・教職員だけの能力を超える問題に直面したとき、学園を真に下から支える陰然たる勢力として献身してくれたのは常にこれらの同窓校友であり、それをパイプとしての広義の同志校友〔早稲田大学の卒業生ではないが学苑を支援してくれる人々〕であった。たとえば太平洋戦争中に軍部官辺からつくられた「私学廃校」の画策を未然におさえてくれたのも、これらの同志校友の力であった。そしてこのような関わりあい方こそ、校友の学園への関わり方としてもっとも望ましいものと考えられる……。 (四頁)

二 校友と校友会

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 早稲田大学には創立以来の卒業生を会員とする校友会があり、総長が会長を兼ねている。ただし、中途退学者や講義録履修者、あるいは学生時代を学苑で過ごした経験のない法人役員や教職員であっても、「人格識見その他早稲田大学校友として推選するに足る人物」(「校友会規則」第五条)には、校友会幹事会の選考を経て推選校友の資格が与えられる。早稲田工手学校とその後継校である工業高等学校および産業技術専修学校の卒業生は稲友会を、早稲田高等工学校の卒業生は稲工会を、また新制度の高等学院の卒業生は同窓会を、昭和五十三年四月に開校した早稲田大学専門学校の卒業生は稲芽会をそれぞれ別個に組織しており、早稲田大学校友会には加わっていないけれども、これらの付属学校の卒業生に対しても推選校友となる道は開かれている。

 戦争で活動停止に陥った校友会は、第八編第十一章第三節に既述したように着々と再建が進み、機関誌『早稲田学報』が現在と同じA5判の冊子型に復旧したのは昭和二十五年四月発行の復刊第四巻第四号からであった。本文三十二頁、定価四十円で、巻頭のグラビアには復興中の校舎および大隈会館が見える。九月発行の第八号は四十頁に増えるとともに、『早稲田学報』としては初めての企画として、新庄嘉章・暉峻康隆・仁戸田六三郎の出席を得て編集者陣内宜男の司会による座談会「今昔の早稲田」を収録した。十月号の奥付には「復刊第四巻第九号」と記すだけでなく「通巻六〇五号」と併記し、明治三十年以来の伝統を誇るものであることを鮮明にしている。この頃の発行部数は一万七千部で、維持費と呼ぶ校友会費を納めている人々に定期的に送られたほか一般にも市販されたが、翌月発行の第六〇六号はレッド・パージ反対事件を詳しく報じ、三万部を増刷して在学生の親に郵送した。新聞やラジオでは不十分な情報しか得られない親の心配を慮ってのことであった。

 この二十五年には校友総数は八万に上ると推測されたが、戦火の影響を被って安否も所在も定かでない者が多く、組織立直しには、戦時中に刊行された『校友会会員名簿』よりも信頼度の高い名簿を調製することが急務であった。新しい名簿は漸く二十六年十二月に完成したが、五万七千人の住所が収録されているこれは、左のようにまだ不完全なものであった。

本会名簿も昭和十八年に発行以来、漸次会員諸氏の消息が不明不確実となり、一方種々の関係から休刊を余儀なくされて来ましたが、会員諸兄の御協力と大学の経済的援助とにより、茲に八年振りで不備ながらも発刊の運びに至りましたことは誠に喜びに堪えません。会員諸兄の動静は戦後徐々に明確の度を加えて来ましたが、未だ不明の向が非常に多数ありますので、此度は住所判明者のみを採録致しました。編集に際しては地方校友会、勤務先校友会、同窓会、学会その他よりお寄せ下さつた名簿も参照し、なるべく多数を採録するように努めました。しかし本会に連絡後、若しくは本会で確認後、更に異動されて未通知の方々もありますので、事実と違つた誤記に加え誤植も相当あることと思います。右誤記誤植等は御指摘願いまして、次回名簿の正確を期したいと存じます。 (「名簿の発刊に当りて」 目次頁)

 年間維持費が三百円から四百円に値上げされた二十七年四月、『早稲田学報』の定価も同月発行の第六一九号より五十円に改定され、表紙がアート紙に替った。なお、教務部の要請を承けてこの年より毎年四月には新入生特輯号を別冊として編集し、新入生に無料配付することとなった。校友会に頼らずに学生部が新入生向けに、学苑の組織や学部等の沿革を紹介し、学生生活を有意義に過ごすためのアドヴァイスを盛り込んだ『学園生活』を発行するのは、三十五年からである。これは四十三年より『学生の手帖』と改題し、発行箇所が総長室広報課に移っている。ところで、二十七年八月発行の『早稲田学報』第六二二号の編集後記には、「本誌に非校友の方々の寄稿を求めているのは、数千名に及ぶ若い校友並びに在学生愛読者諸君のためである。うちのぼたもちよりお隣りのおいもといつた調子で、学園関係者に対しては比較的魅力が少く、外部からの人々の声をききたがる傾向が強い。学生諸君の購読料も馬鹿にならない。年間を通じて昨年は十八万円に及んでいる」と、編集方針の一斑が吐露されている。生活協同組合書籍部の本棚から『早稲田学報』が姿を消すのは、専ら校友向けに編集されるようになった三十年代以後のことである。

 二十九年三月の第六三八号は校友会の活動を紹介した特輯号として編まれ、六千有余の新卒業生全員に贈呈されたが、以後、毎年三月の卒業記念号は新会員獲得に有効な方策となった。それでも、この年十二月に二分冊で刊行された戦後二回目の『校友会会員名簿』は物故者一万七千人弱を除き八万五千人近くの住所判明者を収録したものの、消息不明者が約一万五千人に上っていた。その後校友総数は鰻登りに増え、三十七年には約十七万、四十五年には二十数万、五十七年には三十三万(物故者三万を含む)を数えた。しかし、学苑創立百周年に当る五十七年の維持費納入者は三万二千ないし三万三千、すなわち現存校友総数の一割強にとどまっている。第八一三号(昭和四十六年七月発行)は「校友会活動の展望」と題して幹事による座談会を収録しており、低い維持費納入率に頭を悩ませている状況が窺われる。卒業直後は納入比率は高いのだが、卒業後七、八年経つとぐんと低下し、社会的に交際が多様化する四十歳前後から再び上昇に転じるのである。この比率を高め、校友同士の緊密度を濃くするべく、地方校友会や企業単位の職域校友会の活動を活発化するための方策も種々考案されてきたが、いずれも成功とは言い難い。

 『早稲田学報』が現在の頁建てに近い六十頁にまで増えたのは三十九年六月発行の第七四二号から、グラビアに初めてカラー写真が採用されたのは四十年三月発行の第七四一号、紙質が更紙から上質紙に替ったのは四十六年九月発行の第八一四号からである。こうして校友会の機関誌は、体裁においては一歩ずつ親しみを増してきた。内容については、第八三六号(昭和四十八年十一月発行)に発表されたアンケート調査結果によると、巻頭論説と校友の筆になる随筆とに最大の関心が寄せられ、地方校友会の会合や催し物に関する記事がそれに次いでいるが、二十歳台の校友からは「卒業生の懐古趣味を満足させるのではなく、特異な教養誌たれ」(四八頁)との注文も寄せられている。

 我が国の同窓会組織としては珍しく大学から独立した早稲田大学校友会は、第四巻一一二六頁に既述した如く、母校創立七十周年を記念して独自の募金により初の二階建校友会館を三十年に大隈庭園内に建設し、自前の事務所を持つに至った。これは校友の社交場および宿泊施設としての機能を有し、卒業生の結婚式場としても活用されたが、利用者の増加に伴い狭隘となったので、四十九年八月、三階部分が増築された。しかし、創立百周年後のキャンパス整備により、校友会館は平成三年三月に大隈会館や学生ホール(二二号館)とともに解体され、校友にとっては思い出深い三十五年余の歴史の幕を閉じた。その跡地に新しく本部事務棟の大隈会館が六年三月に竣工すると、校友会事務局はURセンター校友担当に吸収されてそのN棟一階へ移転した。こうして校友会は自前の会合・宿泊施設を持たなくなり、組織そのものも、校友との日常的関係を強化したいとの積極方針を打ち出した学苑に編入されることとなったのである。

 ところで、九二二頁に前述した如く、校友会は戦前から法人役員を送り込んで学苑の運営に関わると同時に、戦後は総長公選制誕生とともに選挙母体の一つともなった。校友から選ばれる学外商議員は学苑が定める規則とは別個の「校友会規則」に則っており、前編第十二章に解説したように、各都道府県別の割当数はその在住会員数の比率に応じて算出されていた。しかし、会員の住所異動が頻繁になり在住会員数を把握することが現実に不可能となったため、本編第六章に述べた四十九年の校規改正に際して、「校友会規則」も商議員選出数の割当基準を維持費納入会員数に改めた。一方、総長選挙に関しては、「校友会規則」に基づいて選出された学外商議員とその学外商議員より互選された学外評議員とから選ばれる学外選挙人の大多数が少数の学内選挙人と結託した場合、教職員多数派の意に副わない人物が総長に選出されかねないとの危惧が、以前から指摘されていた。加えて、四十五年二月、「総長選挙規則」を検討中の校規および同付属規則改正案起草委員会に招かれた大学問題研究会第二研究部会は、「校友を中心とする一般社会の意見を大学に反映させるということについては異論がない。しかし、そのことが、校友の総長選挙に対する投票という形での関わり方に直接結びつく必然性は少い。校友の一部は評議員や商議員として母校に意見を表明できる」からであるとの見解を示した(五四七頁参照)。いずれにせよ、同年七月に制定・施行された新しい「総長選挙規則」は、学外商議員の総長選挙に対する関与を、五六〇頁に要約した如く決定選挙のみに限定したのであった。

 前節に述べたように、校友個々人と学苑との関係は精神的な絆が基となっている。それが、団体ないし組織としての校友会と学苑との関係となると、校友会の意思がどこまで校友個々人の意思を集約したものであるかが重要な問題となろう。校友の数が年々増加し、そして校友会に入会しない校友が増えれば増えるほど、この意思の集約はますます困難となるに違いない。その反面、例えば募金活動を展開する際には、個々人としてだけでなく組織として動いてくれることが学苑にとっては欠かせない。言わば、校友会と学苑とは常にアンビヴァレントな関係にあるのである。

三 校友との関係強化

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 学苑本部事務組織に校友部が置かれたのは、第四巻一一五八―一一六一頁に既述した如く昭和三十年一月のことであったが、それ以来、学苑は校友との関係を一層密にするべく努めている。この年十月末、総長大浜信泉はミシガン大学を訪問し、その時の体験談を翌年一月発行の『早稲田学報』(第六五七号)に寄せて、次のように述べた。

アメリカの大学には、校友の年中行事に、ホームカミング(homecoming)とレユニオン(reunion)というのがある。……校友が年に一度家族づれで母校を訪れる慣行があり、それがホームカミングだが、ミシガン大学では、フットボールの大ゲームの日にそれをあてるという。アイオワ大学との間に試合が行われたが、収容能力九万と称する大スタンドも立錐の余地がなかった。にぎやかな応援の応酬は、神宮球場における早慶戦を彷彿させるものがあった。学生をいれて人口三万前後の大学町のことであるから、いかに多くの校友が参集したかが想像されよう。泊り合せた一組の家族は、夫婦とも十二、三年前の卒業生で、二人の子供をつれてはるばるフィラデルフィアから来たという。久振りに母校を訪れ、恩師や旧友にあうのが何よりの楽しみだと、いかにもうれしそうに語っていた。ほんとうにわが家に帰って来る気持ちであるらしく、ホームカミングとはよくも名づけたものである。……一九五〇年〔昭和二十五〕六月の末に、エール大学を訪れた際、一九〇五、一九一〇と五とびの数字が各寄宿舎の入口に大書してあるので、そのわけを聞くと、それは宿舎の割当の表示であるが、五年ごとに校友が母校に集ることになっており、今年は五の倍数の年号の卒業生のレユニオンだということであった。……校友が母校を中心に団結し、心の故郷としてこれを慕い、その発展のために力を捧げる気風は、日本では私学特有の現象のようである。そこに私学のよさと、強味があるともいえる。しかし英米のそれに比べると、組織的にも、精神的にも、まだしもの感を禁じえない。母校は、社会の舞台に活躍する校友にとっては、大きな背景であり、スポット・ライトである。母校の名声が高まることによって、校友の姿も引立つ。逆に社会の各方面における校友の地歩が高まり、その力が増大することによって、母校の声価もたかまり、いよいよ繁栄するのである。この面において一段の工夫をこらしたいと思う……。 (二―三頁)

 その「工夫」は間もなく全国支部長会として結実した。すなわち、三十一年四月十日に上野精養軒で恒例の春季校友大会が開催されたが、その翌日、学苑は校友会と共催で、この大会に参加した校友会支部長三十人と台湾校友二人を落成間もない校友会館に招待し、第一回全国支部長会を開いた。その趣旨は、学苑の近況を広く伝えて一層の協力を懇請するとともに、各道府県に一つずつ合計四十五ある校友会支部の学苑に対する要望をできる限り吸い上げることにあった。三十五年四月開催の第五回校友会支部長会に出席したある校友は、その模様を次のように語っている。

八日夕の上野精養軒の校友大会に始まり、十日朝散会になるまで、全国各地の支部長二十名位の方々と校友会館に泊り起居を共にし、丹尾〔磯之助〕常任幹事その他校友会幹部の方にお世話になり楽しい時を過ごした。校友会館はズラリと布団を敷いて中学時代の修学旅行の宿屋風景で一層親しみを加えた感じ。それに集まった支部長連中も殆んどが大正時代に卒業した人が多いので一層話が合い、初めて名刺を交換してもたちまち旧知の人の如く、全国各地の様子が聞けて大変勉強になった。……総長初め大学の当事者の方々から色々話を聴き、又各地の支部長が母校に対する意見やら希望やら述べるのを聴いていると、母校と校友との繫がりが非常にハッキリしてわれわれもその中に繫がっているのだという感じは、筆に出来ない親密感が溢れるのを禁じ得なかった。校友会に対する私の考えは全く一変した感があった。

(同誌 昭和三十五年六月発行 第七〇二号 一七頁)

 全国支部長会はその後三十八年の第八回より全国地方校友代表者会と、更に五十四年より全国校友代表者会と名称を改めつつ、今日に至るまで開かれている。また、これに先立ち、中学校または高等学校の校長を務めている校友を学苑に招待して、学苑卒業生の教育界進出を推進するための意見交換を行う会合が、二十八年六月十六日に早稲田大学教育会および教育学部の主催により開かれ、翌年五月二十八日の第二回からは学苑主催の全国校友学校長招待会として定着した。加えて三十九年七月十四日には、「職場単位の稲門会を中心にその組織を強化し、学園と校友とのつながりを深めていこうという主旨のもとに」(同誌 昭和三十九年九月発行 第七四四号 四九頁)、企業等ごとに校友で組織する稲門会の代表者五十二人を学苑および校友会が大隈会館に招いて、職域稲門会代表者会を発足させ、これまた今日に至るまで職域校友代表者会として継続している。しかし、校友会の役員や代表者だけでなく、校友そのものを大々的に学苑に招待したいとの大浜総長の願いが実現するまでには、なお多くの年月が経過した。

 我が国では古くは慶応義塾が昭和二十八年三月を第一回として、毎年大学卒業式の折、卒業後二十五年および五十年目に当る卒業生を母校に招待する慣行を確立し(『慶応義塾百年史』下巻七五六頁)、上智大学などでもそれに類する行事が行われていた。学苑がホーム・カミングを本格的に構想し、計画を実施しようとしたのは四十四年のことであったが、あいにくこの年は学苑紛争が再燃してそれどころではなかったから、延期せざるを得なかった。

 第一回ホーム・カミング・デーの構想は四十五年四月発行の『早稲田学報』(第八〇〇号)の巻頭に時子山常三郎総長の談話中に発表された。そこでは同年十月の創立記念日が開催日に予定されたけれども、やがて恒例の秋季校友会大会前日の十一月二日と決定し、住所の判明している卒業後二十五年目に当る昭和二十一年卒業生千五十人と当時の教職員三百五十人と明治年間の卒業生七百五十人とに案内状が発送され、四百人余から出席回答を得た。

 さて、当日午前十時より、大隈講堂において、総長就任後間もない村井資長は、「卒業後二十五年目に当たる、実社会であぶらの乗りきった方々を母校にお迎えして、大学の実情をご覧いただく機会をもち、母校発展のためになにかとお知恵を拝借し、ご協力をお願いするためにこの式典は開かれたもので、すでに大浜総長時代にも考えられたことであるが、今春、時子山前総長の手によって理事会で決められた」と趣旨および経緯を述べたのち、「一九七〇年代は国際教育時代ともいうべきで、早稲田大学も新しい学園を目ざして再出発しなければならない。国費助成、寄付金、学生納入金が財源の三本柱であるが、いい教育にはどうしても金がかかり、当面は寄付財源の増収をはかりたいと考えている」と、校友に援助を訴えた(同誌 昭和四十五年十二月発行 第八〇七号 七一頁)。これに続いて大浜信泉元総長、昭和二十一年理工学部卒業のNHK解説委員村野賢哉、明治四十四年専門部法律科卒業の井本金属社長井本孝の挨拶と回顧談とがあったのち、会場を大隈庭園に移し、園遊会が開かれた。前評議員会長安念精一が乾杯の音頭をとったあと、懐かしい顔を見つけ合っては談笑に時の過ぎゆくのを忘れた。あちらこちらで思い出話に花が咲く間に、時子山前総長、野島寿平校友会常任幹事のスピーチがあり、午後一時過ぎに校歌を大合唱、阿部賢一元総長が「いつまでたっても母校とはいいものだ。村井新総長のもと母校のますますの発展を祈りたい」と新総長を激励し、その音頭で「早稲田大学万歳」を三唱して散会した。

 この第一回ホーム・カミング・デーに出席した理工学部卒業の一校友はこう語っている。

はじめ思ったより人が少ないので「およびでない」のに来てしまったようなばつの悪さを一寸感じたが、そのうち、やあやあという顔があちこちに見え、式が三十分程遅れたのを幸いに何人かの旧友と話す中に、さき程のためらいはすっかり消えてしまった。二十五年振り組の中には正直いって胸の名札を盗見しないと名前の思い出せないこともあったが、誰とて一緒で、式が始まる頃には大隈講堂はすっかり学生時代の気易さに包まれていた。……大隈講堂の中に入ったのは正しく二十五年振りである。記憶の中ではもっと大きいと思っていたのに案外であった。しかし二十五年前と一寸も変っていない。左上の丸窓。よくあそこへ上って講演の拡声をしたものである。……興がのったところで式は閉会となり、大隈庭園での園遊会に移った。この頃にはさらに人数が増え、小春日和の芝生のあちこちで御対面風景が展開する。それにしても先生方はよくわれわれの名前や一寸したことまで覚えていて下さるものだとわれわれはびっくりしたり感謝したり。同級生の一人が明治の大先輩と間違われたといって大笑いになったり、又文科系にすすんだ友人から多くの文科系の人達を紹介されて飲み直すことになった時、皆全く快く迎えて下さって、早稲田は一つという感慨を深くした。楽しい文字通りホーム・カミングの一日であった。

(『早稲田』昭和四十五年十二月八日号)

 四十八年の第四回以降になると参会者は常時千人を優に超し、この行事はすっかり定着した。そして、開催日が近づくと同級生同士が呼び掛け合い、ホーム・カミングは自分達で再会の機会を作り出す媒体ともなったのである。