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第十一編 近づく創立百周年

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第十八章 物故録に入った教職員達

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 第八編第十七章および第十八章においては、新制大学発足の昭和二十四年までに物故した「早稲田人」を偲んだ。本章では、その後創立百周年の五十七年までに物故した早稲田人を偲んでみたい。尤も、大きく成長した学苑において、記憶されるべき早稲田人は多様且つ頗る多数に上っており、これをすべて網羅することは不可能と言わなければならない。従って、若干の校友と、教職員および役職者で物故した人々についての記述が主となる。

一 復興期から創立八十周年の頃まで

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 「集り散じて人は変れど、仰ぐは同じき理想の光……。」早稲田大学校歌「都の西北」のこの一節に涙さえする早稲田人は少くない。母校の本質をこれほど見事に凝縮して表現し得た詩はないであろう。その作詞者相馬昌治(御風)が昭和二十五年五月八日郷里新潟県糸魚川で生涯を終えた。享年六十六歳。明治三十九年大学部文学科を卒業。恩師島村抱月の片腕として文学・新劇活動に活躍したが、大正五年卒然東京を去り、その「隠棲」は大正文壇の謎とさえなっているが、以来抱月逝去の年(大正七年)に上京した以外は遂に一歩も郷里を出ることなく、著述そして良寛研究に後半生を捧げ郷党に重きをなしていた。校歌ができ上がってから四十年を経てもこれに寄せる思いは変らず、しばしば六大学野球のラジオ放送にスイッチを入れ、「若い学徒諸君の校歌の合唱を聴いてひとり感激に浸る」(『早稲田大学彙報』昭和二十二年六月二十日号)晩年であった。

 さて学苑ではこの年六月九日、政治経済学部教授の市村今朝蔵(大一二政)が教壇で脳溢血のため倒れ、そのまま不帰の人となった。まだ五十一歳で、四月に前任校の日本女子大から移ってきたばかりであり、『近世政治思想史』『西ヨーロッパ連合論』『英国に於ける憲政の理論と実践』等の著作により我が国政治学界に貢献し、自由人権協会や憲法普及会の理事として学の内外で縦横の活躍中であっただけに、大きな損失であった。

 翌二十六年早々、かつて明治三十八年に創設された清国留学生部の教務主任を務め、大正に入っては袁世凱政府の顧問あるいは大隈重信の中国語通訳として活躍し、大正十二年には学苑に「軍事研究団」を組織して軍隊の民衆化の理論的支柱となった中国通の青柳篤恒が、退職後隠棲していた福島県棚倉町で七十三年の生涯を閉じている。

 四月には元理工学部教授山本忠興が没した。山本は文字通り学苑理工学部の育ての親であり、早稲田式テレヴィジョンの発明を含む電気工学者としての業績に加え、理工学部長、理工学研究所長、維持員、理事等の学内要職、また競走部長、野球部長、体育会長から日本学生競技連合会長、昭和三年オリンピック・アムステルダム大会日本選手団長、同五年世界学生陸上選手権日本選手団総監督と、スポーツ界での要職、クリスチャンとして日本基督教青年会同盟会長、東京基督教青年会理事長、国際基督教大学建設委員会中央委員、東京女子大学理事長、そして体育審議会委員、内閣調査専門委員、電力審議会委員、文部省学術擁護判定委員など学苑内外での活躍や貢献ぶりは本書第三巻にも若干触れたところであるが、昭和十九年に田中穂積総長逝去に伴って次期総長候補の一人に推す声が上がり、他候補との競合が予想されたことなど人事問題が錯綜した中で突如勇退し、以後、名誉教授として名をとどめただけで、学苑との関係を薄くしていた。

 なおこの年にはまた二月に、元文学部教授で大正六年に辞任後台湾・南洋方面で活躍していた原口竹次郎(明三八大文)、三月に文学部教授で評論家として活躍していた江間道助(大九大文)、同じく四月に理工学部教授で学内では高等工学校長や評議員、学外にあっては日本建築学会長等を歴任した吉田享二、八月に商学部教授で厳格な教育者であると同時に社交ダンス等広い趣味の持主でもあった影山千万樹(明三八大文)が他界している。

 同じ二十六年の十一月には、学苑における戦後復興期にあって建設担当の理事として大学院校舎の新築、理工学研究所の復旧をはじめ各所建設工事の責に当ってきた小林八百吉(明四三大商)が急逝した。小林は商科卒業後、株式会社松坂屋に入社して実業人として辣碗を揮い、伊藤総本店理事および松坂屋専務取締役まで務めて勇退後も実業界にあって戦中戦後の建直しに貢献し、二十五年六月に母校再建に欠くべからざる人として三顧の礼を以て学苑に迎えられたのであった。

 また、戦前において理事として学苑経理面を担当し、田中総長時代に校舎改築期の苦しい財政をよく切り抜け、昭和二十年自宅罹災以来郷里島根県に引きこもっていた永井清志(明三九大政)が二十七年六月に没した。更にその翌月十七日、日本石油株式会社社長として石油業界の重鎮であった一方で母校の発展に熱意を傾けて、昭和十六年の石油工学科の創設に当り学苑始まって以来の巨額の寄附を行い、更には自らの所有地を投げ出して農学部を設置することまで構想した小倉房蔵(明四一大商)が急逝した。折から、自宅邸内に飛驒の山村より移築してあった「柱、梁共に栗在で仕上げは手斧目で鉋削りはなく釘打も一切使わない七百年前の建築」である「完之荘」を学苑に寄附し、大隈庭園内への再移築に当ってその上棟式には家族同伴で出席したのであったが、その翌々日頃から病床に伏せって、結局完成を見ずに逝ったのである。因に「完之」とは小倉の雅号である。また同年九月には昭和九年以来評議員、評議員会長、商議員会長として学苑経営の枢要に参与してきた東京電力会長新井章治(明三八大政)が長逝している。

 二十七年十一月には第一高等学院で数学の教鞭を執った高見豊が七十一歳で没し、翌二十八年五月には、前述の青柳篤恒とともにかつて清国留学生部を主事として支え、第一高等学院・高等師範部で中国語を教えた渡俊治が鬼籍に入った。渡は戦災で二万巻に及ぶ蔵書を焼かれてから三重県に引きこもり、七十八歳で亡くなるまで喪失感に耐えた晩年であった。十月には商学部教授小林新(大五大商)の訃報が伝えられた。享年六十歳。北沢新次郎をして「空前の秀才」を言わしめ、戦前に『統計経済学』を上梓して福田徳三博士から「一橋でも三田でもだれも養成できなかった数理経済学の青年学者」として嘱目されたことがあり、同学部教授陣の柱石をなしていた小林の損失は大きな衝撃であった。その北沢の追慕の記。

小林君は、まれに見る明晰な頭脳の所有者であったばかりでなく一度仕事に熱意をもつ場合は、寝食を忘れて全身全力を傾注する努力を払ったが、平素人並以上の健康を誇っていたので、恐らく自分の体力に過信したことが死を早からしめたのではないかと思われる。私は同君が私の研究室に屢々要談に来る度毎に「老境に入ったのだから無理をしないように」といっていたが、今や此人忽焉としてせき簀を易え、相見ざる旬日ならずして幽明境異にするに至って私は唯孤影悄然として夢を見ているが如く、哀愁の情うたた切なるものを痛感するのみである。

(『早稲田学報』昭和二十八年十一月発行 第六三五号 三五頁)

 二十九年に入って二月、人造石油と酸性白土の権威として知られ、理工学部応用化学科創設以来主任教授として同科を育ててきた小林久平が八十歳で他界した。また三月には、明治三十五年以来五十年近くに亘って文学部および政治経済学部において西洋史を講じ、学苑における西洋史研究の礎を築いてきた煙山専太郎が、退職後身を寄せていた広島の子息宅で逝去し、翌四月には理工学部建築学科において同科創設以来講師として建築史を講じ、東京帝国大学退官後は学苑教授に招かれた伊東忠太が八十七歳の長寿を全うした。ところで、この年、痛恨の極みであったのは、五十代になったばかりの働き盛りの教員を相次いで失ったことであった。すなわち、七月、大学院法学研究科委員長の職責にあり、法学者として法哲学界では東京大学の尾高朝雄教授をして「最も輝かしい希望の星」と言わしめた和田小次郎(昭二法)が病没し、十一月には文学部史学科にあって北欧神話の研究で評価されていた松崎功(昭四文)が宿痾の喘息が高じて急逝したのであった。

 三十年に入って早々の一月、名誉教授日高只一(明三八大文)の訃報が伝えられた。明治四十一年に文学部講師となり、昭和二十四年に退職するまで学部長・理事を歴任、また学外にあっては日本英文学会会長、日本シェイクスピア協会幹事、日本学術振興会常置委員等と活躍、『英米文芸印象記』『アメリカ文学概論』『英米文芸随筆』『人間解放の文学』などの著書を残すなど、英米文学の泰斗として学者・教育者人生を全うした。

 二月には、日高と同じく明治四十一年より学苑で最初の金融論専攻者として政治経済学部・専門部政治経済科で教鞭を執り、学外でも教授在任のまま一時東京商業会議所書記長、ジャパン・タイムズ社長に就任し、グァテマラ国名誉領事になるなど多彩な活躍をしたが、昭和二十年に戦災に遭ったのを機にそのまま学苑にもどることなく、戦後明治学院の新制大学発足時に初代の経済学部長に選ばれた服部文四郎(明三五英語政治科)が七十七年の生涯を閉じ、三月には高等師範部・教育学部で漢文・中国文学を教えた近藤潤治郎(明四一高師)が物故している。

 そして同年十一月も末、昭和二十六年の定年による政治経済学部教授退職後も参議院議員、平和擁護日本委員会会長など精力的な活躍を続けていた大山郁夫(明三八大政)が逝去した。享年七十五歳。大山の葬儀は十二月八日大隈講堂で「大山郁夫平和葬」として執り行われ、常任理事阿部賢一が次のような追悼の詞を述べた。

大山先生が亡くなられたことは、学園の一後輩としてまことに哀悼の念にたえません。私共の学生の頃は大山先生は早稲田の新進学者として、高田総長から他の人のもたなかったような信頼と嘱望を得ておられました。先生御自身は純情な方で、思想の変遷と共に実践の世界に入られて一生を送られました。先生は青年時代は敬虔なクリスチャンでありましたが、思想は変わってもその純情さは先生の御一生を貫いていたようです。……先生の学説は最初はアメリカン・デモクラシーで、後にグンプロウィ。ツやラッツェンホーファーの政治思想を祖述されたものですが、先生がどれほどマルクシズムに学問的に傾倒されたかは私にはわからないのです。……大山先生は思想と行動の闘士で思う存分ご活躍された一生は、日本の政治学や政治運動史にまことに大きな足跡を印されました。先生が明治の末期に留学される前の一年間私は先生から政治学の原書講読を教えられました。これと同時にイギリスから帰られた永井柳太郎先生の社会政策などの講義を聴きました。永井先生は後に民政党の政治家として活躍せられ、クラスメートの大山先生は革新政党の政治家として華々しく活動されました。政治的に相反する立場に立たれた両先生でありますが、永井先生は亡くなられて年久しく、大山先生の長寿を祈っていたのでありました。が、ついに亡くなられました。寂寥の感深いものがあります。御遺族の御安寧を祈ってやみません。

(『早稲田学報』昭和三十年十二月発行 六五六号 二四頁)

 第二次大戦期あるいは戦災体験は個人が生きていく環境のみならずその生き方にも大きな影響を与え、そこから学苑を去っていった者も少くなかった。秋艸道人会津八一(明三九大文)もその一人で、昭和二十年四月の空襲で罹災し居宅が灰燼に帰したところで教授職を辞任、郷里新潟に引きこもり、同地では新潟日報社長、新潟市名誉市民に遇され、学苑も名誉教授号を贈っていたのであるが、三十一年に入って目立って身体の不調を来し、その年の末近く十一月になって遂に不帰の人となった。ここでは弥勒菩薩像の印象を筆跡に残した和歌を掲げておく。

あめつちにわれひとりゐてたつごとき

このさびしさをきみはほほゑむ

 一年おいて、三十三年、またも働き盛りの現役教授病没の悲報が相次いだ。先ず法学部で刑法・刑事訴訟法・刑事政策を担当し、大学院法学研究科委員長の職務にあり、学外では司法研修所講師、司法試験考査委員、法制審議会委員、大学設置審議会委員、日本学術会議会員として席の温まるところのなかった江家義男(大一五専法)が五月に入院療養中五十五歳で逝き、十一月には政治経済学部で経済機構論を担当し、学内役職のほか日本経済新聞論説委員としても健筆を揮った杉山清(昭七政)が研究室で来客と用談中に突如倒れ、五十三歳で不帰の客となった。同学部教授で大学院経済学研究科委員長の職にあった久保田明光にとって「自分の教え子の中から、このきびしい学問研究の世界に案内した最初の学徒」であり継承者であった杉山の急逝は、まさに文字通りの痛恨事であった。更にこの年には、心理学界の元老的存在で前年四月に京都大学から教育学部に移ってきたばかりの矢田部達郎が三月に六十四歳で、東京帝国大学を出て大正七年から理工学部機械工学科で内燃機関を中心に教鞭を執ってきた渡部寅次郎が七月に六十八歳で病没している。また十二月には、明治二十六年文学科を卒業し高等師範部で国文学を教え、昭和十八年に定年退職後二十二年に名誉教授となった永井一孝が九十年の天寿を全うした。

 翌三十四年九月には、明治三十九年から昭和十八年まで三十七年間に亘って高等師範部で英語・英作文を教えてきた勝俣銓吉郎が名誉教授として八十六歳の長寿を閉じた。Waseda Eisaku(早稲田で英作文を教えるの意)がそのペンネームであったことを知る日本人は少いだろうが、英文での日本文化紹介図書を読む外国人にとっては頻繁に目にする名前であった一方、その本名を不朽にしているのは、英語学者としての殆ど全生涯に亘って何万頁もの文献から集め、活きた英語表現を連語として収録した『英和活用大辞典』(昭和十四年初版発行)、『新英和活用大辞典』(昭和三十三年初版発行)であろう。世界に類を見ない業績であり、その利用価値は今日に至るもいささかも低下していない。

 三十四年十一月に小山松寿(明二八邦語法律科)が八十四歳で長逝した。明治二十五年に十七歳で信州小諸から上京して大隈家の援助を受け、卒業後は朝日新聞記者、『名古屋新聞』(『中部日本新聞』の前身)を創刊し同社長、名古屋市会議員、衆議院議員と、操觚界・政界で活躍し、昭和十二年から四年余りに亘って衆議院議長を務めるという立志伝の持主であるが、校友としては大正六年の「早稲田騒動」の収拾に腐心し、翌七年に評議員に就任、以来二十四年に辞任するまで三十九年間学苑行政に参画してきた功労者である。

 三十五年は「安保の年」であり、恐らく戦後日本政治の最大の危機の年であった。「安保闘争」に集約された危機意識はそれぞれの立場において尖鋭化していたのであるが、遂には一つの立場にとりつかれた一人の校友政治家を刺殺するというテロリズムを生んだ。同年十月十二日に日比谷公会堂でテレビ中継による国民注視の中で行われた自由民主党総裁池田勇人、日本社会党委員長浅沼稲次郎(大一二政)、民主社会党委員長西尾末広の三党首の立会演説会で、西尾に次いで二番目に登壇した浅沼がその演説途中、突如壇上に駆け上がった右翼少年の凶刃を受け、遂に帰らぬ人となったのであった。

 さて、この年早々、三が日も済まないうちに、ともに理工学部で教鞭を執った二人の名誉教授が他界した。一人は、ドイツ仕込みの質実剛健さと合理主義とで講義に臨み、材料力学の分野では塑性加工学の草分けであった山ノ内弘(大三大理)、もう一人は、東大卒業後大正十二年に応用化学科に迎えられ、昭和三十二年に定年退職するまで同科を支えた小栗捨蔵。二日続けて大隈小講堂で告別式が行われた。またこの月の末には、明治三十六年史学及英文学科卒業後京大に進んで終え、宮内省明治天皇御記編纂官、衆議院憲政史編纂委員を経て、大隈重信の事蹟研究として昭和二十五年に学苑に設置された大隈研究室の研究主任に嘱任され、戦前より戦後にかけて実証的に大隈研究をリードするとともに、翌二十六年に政治経済学部講師となった渡辺幾治郎が八十二歳で鬼籍に入っている。更にこの年の物故者の中には、学苑大学部文学科史学科第一期生で帝国大学で東洋史を専攻し、大正四年より学苑教壇に立った、明史の草分けでその世界的権威であった清水泰次(四月没)、理工学部で製図・機械工学を教えた新井忠吉(大三大理、六月没)、専門学校長も務めたことのある法学部の高井忠夫(大九専法、十一月没)の名前が発見される。

 昭和三十六年の教員および元教員の訃報には、明治四十一年に大学部文学科哲学科を卒業して大正二年から七年まで教壇に立ち、昭和十一年以来、戦後の公職追放期間中を除いて衆議院議員当選八回を数えた北昤吉(八月没)、文学部で大正十一年以来国語、文学史等を担当した岩本堅一(明三七文学部国語漢文及英語科、十月没)の名前が見える。また高等学院教諭の田辺和雄が早稲田大学アフリカ大陸縦断隊長としてモザンビーク、タンガニイカ、ケニアの各地の調査を終えて帰国直前に発病しナイロビの病院で急逝、関係者に衝撃を与えた。そして師走に入って、学苑が生んだ歴史学の泰斗・名誉教授津田左右吉(明二四邦語政治科)が八十八年の生涯を東京武蔵野市の自宅で終えた。十二月十一日大隈講堂においてしめやかに行われた葬送の儀に際して捧げられた総長大浜信泉の弔辞の中から、津田の人柄が偲ばれるエピソードを次に引用しておこう。

先生は一六、七年も前から自分の死について一部門下生に対して語られ、葬儀のあり方についても希望をもらしておられたということであります。西行の歌のようなのが理想である。頃は暮春の候、処は花びらがひらひらと柩の上に降りかかるような場所が好ましい。また世間一般で行われている告別式は会葬者が一人一人礼拝することになっておるが、これは会葬者にとっていたって迷惑をかけることになるので、自分の場合には追悼会形式によってほしい。自分は既成宗教の信者ではないから形式にとらわれることなく、清楚にして荘厳な儀式を営み、静かな音楽の奏楽裡に親しい人々によって葬ってもらいたいと漏らしておられたということであります。ところで暮春の候ではなく、枯風のふきそめる冬に他界されましたことは、その点先生の夢を実現することができずまことにいかんと存じますが、せめて葬儀の形式とその雰囲気の上には先生のご希望に添いたいと存じまして、このような装飾をしつらえて、ここに先生とお親しい方々、先生と慕っておられる方々に御会葬願って在りし日の先生の面影を偲び、輝かしい御業績をたたえ感謝の念を捧げて、先生の御冥福を祈る次第であります。

(『早稲田学報』昭和三十七年一月発行 第七六七号 三七頁)

 三十七年春、名誉教授竹野長次(大三高師)が白血病と診断され、教え子や学生多数が献血に馳せ参じたが、その努力も空しく七月になって永眠した。語り草となった献血運動は、竹野が大正期より第二高等学院で教壇に立ち、「いわゆる独自の人情主義の教育をもって幾万の子弟を徳化・薫育せられ……殊に戦後のもっとも困難な時代に衆望を負って第二高等学院長・新制高等学院長・教育学部長などの要職を歴任、精神の荒廃期にあった学生を善導せられた教育上の功績」(同誌 昭和三十七年九月発行 第七二四号 三二頁)に応えようとしたものにほかならない。

二 戦後も終って

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 政治経済学部では、戦前に外交史、国際政治、国際公法等を教え、大著『戦時国際法講義』では学士院賞恩賜賞を受賞した学士院会員信夫淳平(明二三英語普通科)が三十七年十一月に九十一歳で長逝したが、それから三ヵ月後の三十八年二月には五十代の現役教授をも失うことになった。内野茂樹(昭一二政)、享年五十二歳。内野は昭和二十二年の新聞学科創設とともに招かれ、新聞記者養成というユニークな教育・研究環境の形成に力を尽してきたのであるが、その途上での逝去が結局同学科の存廃に影響したことは否定できない。

 理工学部でも、理工学研究所長の職責にあった宇野昌平(昭四理)を三十九年一月に失っている。宇野は分析化学を専攻し、化学肥料の研究にも入り、工業的には「沈殿物の工業的迅速分離法」の発明で工場廃水の処理また河川・海水汚染防止に貢献した。

 更に、この時期に物故した教員および元教員としては、三十八年に湯沢幸吉郎(四月没)、小沢恒一(明四一大文、七月没)、沖巌(九月没)、植田清次(昭六文、十月没)、宇佐見徳衛(昭一八文、十一月没)、翌三十九年に岡村千曳(明三九大文、五月没)、石川登喜治(六月没)、川辺喜三郎(明四〇大法、七月没)、伊地知純正(明四〇大商、八月没)、大隅菊次郎(大七大理、十月没)の名が挙げられる。湯沢は昭和二十一年より高等師範部および教育学部で国語学・国語学史・国文法を担当し、三十一年には『近代国語の研究」で日本学士院賞受賞の栄誉に輝いた。小沢も高等師範部および教育学部でおもに教育行政を担当し、教職課程主任を務めた。沖は大正九年に九州の明治専門学校(九州工業大学の前身)から理工科機械工学科に招聘されて以来昭和二十八年の定年退職まで三十二年間に亘って同科を支えたものであり、水力学・水力機械の権威として知られ、二十六年に日本学士院会員に選定された。植田は現役での物故。昭和十二年以来文学部および政治経済学部で英語・倫理学・西洋哲学を教え、英米哲学の研究家として知られた。宇佐見は高等学院の現職教諭。岡村は大正六年から教壇に立ち、終戦直後の第一・第二高等学院長を、続いて図書館長の要職を歴任した。鋳物研究所初代所長であった石川は、昭和二十一年に辞任して以来学苑から離れていたが、葬儀は六月二十七日に同研究所で所葬として行われている。川辺は戦前および旧制大学の期間おもに高等学院と専門部で英語および社会学を担当したが、その後駒沢大学、更に国士舘大学に転じていた。名誉教授となっていた伊地知は商科の第一回卒業生。在職中は商学部長、理事、評議員等の要職を歴任したが、よく知られていたのは英語の達人として英語教育のみならず英文による日本文化の紹介に情熱を注いだことで、昭和十五年刊行のThe Life of Marquis Shigenobu Okumaは「単なる大隈侯の伝記に終わらせることなく、一人の偉人の生涯を通じて見た維新史とし、その故に欧米における日本近代史研究者にとって必要欠くべからざる参考書」(伊東克己「商学部の英語と三人の英作文家」『早稲田商学』昭和五十年三月発行 第二四九号 八九頁)である。大隅は電気機械の軽量化の研究で業績を上げ、三十五年定年退職後は国士舘大学に移って教鞭を執っていた。

 学苑役職経験者では、三十七年一月、評議員・理事・監事を歴任し、学苑の復興とりわけ大隈会館庭園の復興には物心とも多大の力を尽し、学外にあっては東京動産火災保険取締役・社長、東神火災保険社長、大東京火災海上保険取締役会長を歴任した保険業界の功労者反町茂作(明四四大商)が没し、同じ年の九月、反町と同じ商科の一年前の卒業で同じ大東京火災海上保険で反町の事業を助け、学苑行政には理事・評議員・商議員として経理面で貢献した黒田善太郎が故人となっている。

 四十年一月に飛田忠順(穂洲、大二専法)が病没した。野球部主将、読売新聞入社、野球部監督、そして監督退任後に朝日新聞に入社して学生野球の発展に尽し「学生野球の父」と呼ばれるに至ったことは、ここであらためて詳しく紹介するまでもない。その「父」を慕う多数の人々また団体から寄附が集められて、菊池一雄東京芸術大学教授により胸像が制作され、翌四十一年六月二十五日に安部球場のセンター後方にある安部磯雄胸像の右に設置、除幕式が盛大に行われた。付記すれば、安部球場が撤去された跡地に総合学術情報センターが建った現在、二人の胸像は同センターの正門を入った右手に移設され、学生達の常時絶えることのない出入りを見守っている。

 教職員物故者としては、高等師範部で倫理学、社会学、修身等を教えた渡利弥生(大四大文)が二月に、仏教文学の先駆的権威として学界に知られ文学部また大学院で国語・国語学・中世文学を担当した伊藤康安(明四五大文)が十二月に、同じく文学部でロシア文学を講じた米川正夫が同月に他界している。特に四十年以上に亘って学苑教壇に立って多くの教え子から慕われた伊藤の葬儀は早稲田大学国文学会葬として行われた。この間、五月、アメリカ各大学の調査研究のために出張中であった学生生活課長栗原実(昭二二商)が病を得てボストン郊外メモリアル・ホスピタルで加療中急逝し、遺骨となって帰国したのは痛ましいことであった。

 ところで前述の黒田善太郎のあとを承けて三十七年に常任理事に就任し財務を担当していた朝桐尉一(昭一三商、山一証券副社長)が四十年四月に物故しているが、以後四十四年までの時期に学苑役職者で鬼籍に入ったおもな校友としては、主事から始めて理事まで昇りつめ生涯を学苑経営に尽した丹尾磯之助(大六専政、四十一年七月没)、長年に亘って学苑監事・評議員・商議員を務めた難波理一郎(明三八大政、四十一年十一月没)、四国電力会長等を歴任し戦前紀元二千六百年奉祝創立六十周年記念事業に多額の醵出金により貢献した校賓竹岡陽一(明三五邦語政治科、四十一年十一月没)、静岡銀行頭取、全国地方銀行協会長、日銀政策委員等を歴任し長らく評議員に名を連ねていた中山均(明四一大政、四十一年十二月没)、評議員・早稲田実業学校長浅川栄次郎(明四一大商、四十二年八月没)、中国電力社長および会長を歴任し長らく評議員を務めた島田兵蔵(大四大理、四十二年十一月没)、中国民報(現山陽新聞)社長、倉敷町長、岡山県公安委員等を歴任した評議員原澄治(明三六英語政治科、四十三年一月没)、日本電信電話公社理事・技師長を歴任し学苑には評議員そして理事として貢献した中尾徹夫(昭二理、四十四年二月没)、サンケン電気相談役で評議員・理事の市川繁弥(大二大理、四十四年九月没)等の名前を発見することができる。

 戦前パリ、アムステルダム、ロサンゼルスのそれぞれのオリンピック大会に水泳選手として活躍し、学苑戸山町キャンパスに「高石記念プール」の名を残した日本水泳界の指導者高石勝男(昭五商)が四十一年四月に鬼籍に入っている。享年五十九歳であった。戦後三十六年に日本水泳連盟会長ならびに日本体育協会理事、三十九年のオリンピック東京大会では水泳選手団総監督を務め、日本水泳史に一時代を画したが、彼が建設に尽力した大阪プールで四十一年四月十九日に日本水泳連盟葬が行われた模様を、当時の『毎日新聞』夕刊は次のように伝えている。

午後一時、喪主勝氏(故人の長男)に抱かれて、プールに到着した遣骨は、スタート台に向かって審判席に設けられた祭壇に、遺影とともに安置され、プール・サイドと、コース・ロープは、三千本の菊花で飾られた。飛び込み台には水連旗、高石さんの母校、早大、茨木高校の校旗が半旗でかかげられ、プールの周囲には中学時代から東京オリンピックまでの活躍を物語る五十枚の写真と数々のトロフィー。そして水面には日本水連、早大、茨木高のマークが浮かべられた。……静けさを破ってブラスバンドがロスアンゼルス・オリンピックの応援歌を演奏すると、自由形の山中毅、平泳ぎの大崎剛彦両選手が、先輩の旅立ちにおくる献泳のしぶきをあげた。ロスアンゼルス大会は、高石さんが主将をつとめて、大勝した思い出多いオリンピック、そして山中、大崎両君は、故人が能登半島の一角からさがし出して、大成させたオリンピック選手。しかも早大の後輩。空は気持ちよく晴れ、明るい性格で親しまれた高石さんの葬儀らしく、しめっぽさはない。参列者はプールサイドを一周しながら霊前に献花し、それぞれ、「水泳王国再興」を誓った。 (日本水泳連盟関西支部編『高石さんを憶う』 四五―四六頁)

なお、同じ水のスポーツの関係者として、明治三十五年東京専門学校入学とともに端艇部に入ってボート・スポーツに打ち込み、卒業後、大正九年には日本漕艇協会の創設に参加、学苑では大隈会館主事を務めたこともあり、伯父に当る乃木希典にそっくりの風貌で松村謙三の「善友でもあり悪友でもあった愉快な男」深沢政介(明三九大政)が、高石よりも少し前の四十一年二月に病没していたことを付記しておく。

 同じ四十一年九月に名誉教授十代田三郎(大八大理)が物故している。十代田は大正十五年から昭和三十九年まで三十八年余り教鞭を執り、とりわけ昭和二十四年から二十八年までの学苑の復興期に施設部長という重要職務にあって、戸山町の当時の高等学院および工業高等学校用の物理化学階段教室・生物学教室(現在の三二号館)、本部キャンパスの語学共通教室(一〇号館)、法文系大学院校舎(七号館)、理工系大学院校舎(一二号館)、大隈会館、校友会館等の新築工事を指揮した功労者である。

 昭和四十二年に入っても現役教授の訃報が相次いだ。三月に急逝した理工学部教授上村外茂男(昭和一九理)は享年四十六歳。そして同じ月、初代社会科学部長であり、多年将棋部の部長その他学生の面倒見のよいので知られた「証券論」の芳野武雄(昭二商)が急逝した。芳野は卒業後直ちに早稲田専門学校講師として珠算を担当し、専門部商科講師・助教授・教授を歴任して商業数学を講じ、新制大学発足とともに第一・第二商学部教授そして第二商学部長を務め、四十一年の社会科学部発足とともに学部長に就任したのであったが、この新学部を発足させるに当っての過労・心労が逝去の直接の原因となったのであろう。また十月には昭和三十六年に東京大学教授定年とともに文学部に迎えられて教鞭を執ってきた国語学の権威時枝誠記が病没し、更に年も押し詰まった十二月三十日には理工学部教授小野英二(昭一五理)の突如の訃報に接した。

 現役を退いた名誉教授・元教授では、歌人であり文化功労者・芸術院会員・名誉博士の栄誉に輝いた窪田通治(空穂、明三七文学部国語漢文及英文学科)が四月に八十九歳で長逝。九月には、その前三月に定年により学苑を去ったばかりの日本史の名物教授京口元吉(大一五文)が逝き、そして十一月には、芸術院会員で十月に文化功労者に選ばれたばかりの演劇学の最高指導者河竹繁俊(明四四大文)が物故した。

 翌四十三年には、大正十年から専門部法律科の、次いで第一高等学院の教壇に立ち、大正十四年に学苑派遣留学生としてアメリカに渡って新聞研究に従事してから帰国後政治経済学部で昭和十六年まで「新聞研究」を担当した喜多壮一郎(大六大法)が一月に、大正十一年から昭和十三年まで第二高等学院でフランス語・フランス文学・英語を教えた藤本民雄(大六大文)が七月に、大正七年から昭和二十二年まで高等師範部で英語を教え、評議員また校友会幹事として尽力した上井磯吉(明四二高師)が八月に、大正十年から昭和三十五年まで文学部で哲学研究・倫理学等を担当した熊崎武良温(大二大文)が十一月にそれぞれ他界し、そして十月には、学苑出身の社会学者としてはパイオニア的存在で文学部・政治経済学部で教壇に立ち、第二高等学院長、維持員、理事等の学苑要職に尽瘁する一方、論壇においては『中央公論』『改造」等に次々と巻頭論文を載せて稀代の啓蒙事績をあげた、往年のジャーナリズム世界のスター杉森孝次郎(明三九大文)が八十七歳の長寿を全うした。

 なおこの年六月五日、昭和三十七年二月に大隈講堂壇上に立って騒然たる雰囲気の中で「都の西北」の大合唱を聴いてからワセダへの親愛感を隠さず、学苑に「奨学基金」を残し、三十九年一月にその前年の学生による大隈講堂での故ジョン・F・ケネディ大統領追悼集会に対する謝辞を述べるために再び来校した、アメリカのもう一人の若き指導者ロバート・ケネディ上院議員が、サンフランシスコでの選挙集会中に凶弾に倒れるという衝撃的なニュースが届いた。学苑では早速弔電を打つとともに、同月十九日には早稲田精神昻揚会によるロバート・ケネディ追悼講演会が開かれたことは八三七頁に述べたところである。

 四十三年九月に英語・英文学担当の文学部教授大沢実(昭一四文)、翌四十四年に入って二月に経営経済学の商学部教授池田英次郎(大一五商)、三月に資源開発・採鉱学の理工学部教授田中正男(昭一七理)、十一月二月には刑法の権威で共犯理論の研究者として知られた法学部教授斉藤金作(昭三法)、十二月に財政学・英仏語経済学の商学部教授林容吉(昭一〇商)と、現役教員が病没した。この中で、刑法改正案を起草している法制審議会刑事法特別部会第二小委員会委員長も務めていた斉藤には勲三等旭日中綬章が追贈された。

 この間、四十四年六月に、明治文学研究の開拓者柳田泉が他界している。大正七年二十五歳での英文学科卒業から昭和十年四十二歳での講師(臨時)就任まで名翻訳家として一家をなす一方で、大正十三年発足の吉野作造主宰の明治文化研究会に終生の友であった木村毅とともに加わって編集者・研究者としての活動に従事し、資料に即した実証的文学研究の方法を確立、大著『政治小説研究』を含む『明治文学叢刊』の刊行を開始していた。講師就任のきっかけは柳田の話を聞きたいとの学生の要望であったという。「自ら好んでこの生涯に入る。冨貴栄達に念なく、樸学自得、孜々実証につとむ、蓋し天性也。学風は古人を期し、独創を尚ぶ。文章は自然を好んで華飾を排するも、詩歌はとって養神の具となす」とは、自ら書いたプロフィール(『建学八十周年記念 早稲田大学アルバム』一三五頁)。没後昭和四十七年、明治文化研究会代表木村毅の編集になる『柳田泉自伝』(『明治文化研究』第六集)が刊行された。

 また七月には、「ジャック・アンド・ベティ」を主人公にした英語教科書で全国の中学生を英語に入門させた教育学部教授萩原恭平が、大正十四年以来四十四年の教壇生活に別れを告げて四ヵ月も経たないうちに急逝した。

 四十五年一月に二人の現役教員の訃報が届けられた。文学部でドイツ文学、特に文芸理論を長く担当してきた小口優(昭五文)と、理工学部で材料工学その他を担当していた岡本重晴(昭一六理(電気)・昭二四理(応用化学))とである。岡本は享年五十三歳。更に二月に入っては高等学院教諭の安田寛(昭二七文)が四十三歳で夭折し、四月には理工学部で水理学・発電水力を担当した米屋秀三が六十歳で病没している。

 退職教員では、二月に、大正十一年以来高等師範部・教育学部で英語・英作文等を担当してきた名誉教授増田綱(大二大文)、明治四十三年の理工科創設以来測量学、探鉱学等を担当してきた藤井鹿三郎、大正十三年から昭和十九年まで第二高等学院で英語を教えた石川哲(明四〇大文)、昭和二十九年の大学院文学研究科史学専攻博士課程発足に伴って東大史料編纂所から招聘され四十一年に退職した、日本史学の碩学で荘園研究や民衆史研究の先駆者である西岡虎之助が相次いで故人となり、四月には、大正八年以来理工学部で機械設計、機械力学等を担当してきた鈴木徳蔵(大六大理)が亡くなっている。この中で、増田は、前述した勝俣銓吉郎が編集主幹を務めたことのある研究社『新和英大辞典』の第四版の編集主幹および執筆に当っていたものの、その完成を見ずに不帰の客となったのである。

 八月に入っては、大正十年から昭和二十年まで教鞭を執り、高踏的な詩人であると同時に、童謡、歌謡曲、ポピュラー音楽の作詞家としてはヒットメーカー、そして最晩年に至って三十有余年に亘る研究の成果である『アルチュール・ランボオ研究』を完成させた西条八十(大四大文)が死去した。それから二ヵ月の時を置かずに故西条の葬儀委員長を務めた文学部教授更生安藤正輝(昭三四推選)が急逝しているのである。会津八一記念東洋美術陳列室整備の功労者であった。

 やはり八月、明治四十三年に東大を卒業して大学院学生のまま創設時の学苑理工科の講師となり、そのまま昭和三十二年に定年退職するまで四十六年余りの間学苑建築科を育て上げ、「早稲田の建築」の名を天下に高からしめた内藤多仲が八十四歳で幽明境を異にした。関東大震災にもびくともしなかった歌舞伎座建物やエッフェル塔の半分以下の資材量でその高さを上回った東京タワーの設計等でいわゆる内藤構造学を確立する一方、送り出した教え子・卒業生が八千人とは自ら誇りを以て数え上げたところであって、それらの面目躍如たるところを、佐藤武夫が次のように偲んでいる。

先生の耐震構造の基本的な思考は、地震という横揺れから生じる建築物内の不時の力は、壁に大部分を吸収してもらうという、まことに素朴なアイデアなのである。逸話になっているが、この素朴なアイデアを先生はアメリカに留学されたときの大きなトランクからヒントを得られたという。この不時の横力を受け持つ壁を耐震壁と名付け、これを基幹として独自の理論と技術があの大震災を契機として急速に浮かび上がり普及して行ったことは当然で、外国でも「ナイトース・セオリー」として高い評価を獲得した。先生の業績は、実はそれから次第に膨れあがるのである。東京タワーをはじめとする数々の高塔技術の開発、鉄骨、鉄筋の溶接技術、地盤の基礎に関する技術、等々。先生の教育者としての姿勢はまことに謹直であった。鐘が鳴ると忽ち教室に姿がある、というところから「火消しポンプ」の称号があったほどである。今日と違って先生が建築科の主任をしておられるころは学生の就職先の心遣いが大変なことだった。その面倒をほとんど独りで裁いておられたし、以後の身の振りかたや、個人的な問題にわたっても惜しみなく相談に乗っておられた。ご遺族の方から今にして、あんなお人好しはありませんでした、と伺って肯ける節があるのである。これが八千人にのぼると言われる直弟子どもから「おやじ」としてむしろ卒業後の長い間に深く根強い師弟関係を築きあげてきたのであろう。

(『早稲田学報』昭和四十五年十月発行 第八〇五号 一七―一八頁)

内藤の葬儀はかつて自ら設計に参加したゆかりの大隈講堂に三千人を容れて行われた。

 また同じ月、その年の春に定年退職し古稀を祝ったばかりの元法学部教授酒井賢治(大一五高師・昭五法)が、四十年に亘る教壇生活からの解放を十分に楽しむことなく他界した。

 この年の校友物故者の中には、旭電化工業株式会社や花王石鹼株式会社の社長および会長など日本の油脂化学工業界の指導的存在であった一方、昭和十一年から逝去するまで三十五年間に亘って維持員・評議員・理事として学苑の運営に貢献した磯部愉一郎(明四〇大商、五月没)がいる。

 四十六年に入ると、政治経済学部関係では、コロンビア大学出身でミシガン大学でPh・Dを取得し、日本語よりも寧ろ英語が母国語であったとまで言われ、特にミシガン協定の締結に向けて学苑側の窓口的役割を果し、生産研究所発足に際して副所長となった交通経済学の河辺〓は、定年を待たずに退職し、国連本部技術顧問としてニューヨークに在ったが、同地で病を得て急逝、享年六十七歳であった。そして六月、農業経済学・経済学史を担当し、とりわけケネーの研究家として我が国ばかりでなく世界的に知られ、一九五八年のパリ大学におけるケネー『経済表』公刊二百年記念式典では記念講演を行う栄誉を担った名誉教授久保田明光(大八大政)が黄泉の客となった。その久保田がかつて古稀とともに定年を迎えるに当って自ら編んだ回顧・断想集『メレの式典』の「あとがき」には、次のように語っている文章が発見される。

振り返ってみると、母校早稲田大学の教壇に立ってから、明年〔昭和四十二年〕三月末停年で退職するまで四十四ヵ年になる。入学した年から数えると半世紀をこえること三ヵ年。これでは僕の心身とも早稲田一色に染まってしまうのも当然であると思う。その上私事にわたって恐縮だが、三人の息子も母校の卒業だから、早稲田学園への学恩はまことに大きく深いと言うべきである。……そればかりでなく、十七年前神に召された老妻が既に僕より一足先に行っている僕等の墓も、高田早苗先生や平沼淑郎先生の御墓とは、墓地は同じでも少し離れているが、僕が直接御指導を受けた恩師塩沢昌貞先生の御墓からは百メートルとは距ってはいないので、この染井霊園では永劫にこうした恩師緒先生の傍近くに眠ることができるのを幸せに思っている。

なお、久保田のフィジオクラシーおよびドイツ・カメラリスムスの原典稀覯書を含む欧文蔵書は「久保田文庫」として中央図書館に収められている。

 近い者同士があまり日を置かずに相次いで物故するという例は、年齢の問題が加われば不思議な話ではないだろうが、ともあれこの同じ四十六年、同じ頃に同じ大学部文学科英文学科を卒業し、同じく学苑教壇に立ち、そして同じ年に鬼籍に入った三人がいる。日夏耿之介を筆名とした樋口国登(大三大文、六月没)、原久一郎(大三大文、十月没)、谷崎精二(大二大文、十二月没)である。三人とも同じ年(明治二十三年)の生れ。樋口没翌年に追悼文集が日夏研究および著作目録と併せて『詩人日夏耿之介』(新樹社)として刊行され、狷介孤高とも特異とも言われた詩人の人間性が浮彫りにされている。その同級生原久一郎は、卒業後は東京外国語学校(現東京外国語大学)露語選科に進んでロシア文学を専攻し、大正九年開設されたばかりの学苑露文科の講師に就任したが、同十三年に退職し、以後ロシア文学者としてトルストイ研究に打ち込んだ。トルストイ全集の翻訳を独力で完遂した業績は国際的に高く評価され、昭和四十二年にソ連最高会議から名誉勲章、モスクワ大学名誉博士号を贈られて晩年を飾った。谷崎については、例えば、「没落商家の貧苦のなかで、兄のほうは他人の援助で一高から東大へ、弟のほうは、夜勤の発電所の技師をやりつつ独力で、予科から早大へ……。兄のほうは作家として豊麗な、いわゆる耽美主義の作品世界を開花させたのに対して、弟は地味な現実主義的作品を書いて、大正中期以後英文学者として早大文学部の教壇に立ち、一生を教師として終わった」(早稲田学生新聞会編『紺碧の空なほ青く――近代日本の早稲田人五五〇人』二六四頁)というように、その兄潤一郎との対比で紹介されることがあるが、右に挙げた三人の中では谷崎が最後まで学苑に留まったのであり、昭和二十四年から三十五年に退職するまで第一文学部長として、新制大学になってからの学部長の在職期間としては他の学部にない最長記録をつくった。

 更にこの年十月そして十一月と鬼籍に入った中谷博と逸見広はともに大正十五年の独文科卒。ともに旧制高等学院講師に任ぜられ、中谷はドイツ留学後文学部講師となって小説研究から大衆文学に進展し、逸見は芥川賞候補作品を含めて作家活動にも従事し教育学部で作家論を担当した。特に中谷も大衆文学路線は科外講演部長としての活動に存分に発揮され、毎年夏季には必ず全国各地に出張して司会役とともに文学論あるいは「早稲田精神論」を弁じて人気を呼んだものであった。

 校友言論人としては、『中外商業新報』(『日本経済新聞』の前身)記者から経済部長・編集局長・日本経済新聞社長に昇任、一方、学苑では政治経済学部での「新聞研究」担当、維持員会長、大隈研究室顧問と、教育・研究・経営にも貢献するところ多大であった小汀利得(大四大政)が、四十七年五月に八十二歳で没している。戦前浜口内閣の金輸出解禁政策に石橋湛山高橋亀吉らとともに反対の論陣を張った反骨精神は戦後においても評論家としての言論活動にいかんなく発揮されたところであり、その活躍ぶりを後輩の日本経済新聞社長万直次(大一五政)が次のように偲んだ。

小汀さんの在野精神は在学中に培われた点もあるが、やはり明治のど根性でありましょう。毒説居士、憎まれっ子、保守反動を自ら認めて誇張し、しかもことを警世の具として社会の啓蒙に努められたものと思います。官学と官僚が一番嫌いで「ヘナチョコ官僚」「ヘッポコ軍人」という表現は専売特許であり、低能、たわけもの、脳みそが足りないなどは日常語として連発したことは周知の通りであります。戦後、講演、座談会、放送を通じてあのしわがれた発声と併せて独特の小汀調をつくり、聴取者からは、ストレスの解消や溜飲を下げる効能を買われて喝采を博したのも小汀さんの人柄を物語るものであります。

(『早稲田学報』昭和四十七年七月発行 第八二三号 四〇―四一頁)

 四十六年から四十七年までの一年足らずの間に他界した建築学科出身の三人の元教員、木村幸一郎(大八大理、四十六年九月没)、佐藤武夫(大一三理、四十七年四月没)、大沢一郎(大三大理、四十七年六月没)は、前述の十代田三郎とともに、同学科における学苑出身教員の第一世代に属する。木村は大正十一年より教壇に立ち、設計製図から建築構造、照明学、建築衛生などを担当してそのまま定年を迎えた。佐藤は大正十三年卒業と同時に教員スタッフに加わり、建築音響学・建築意匠を担当し、大隈講堂の設計に参加している。昭和二十七年に教授を辞し、建築事務所に拠って設計業務に専念、建築音響学の権威として旭川市庁舎や北海道開拓記念館など受賞作品を含む多くの公共建築の設計に関与したが、その原点は大隈講堂にほかならない。私学出身として最初の建築学会長にもなった。大沢は大正四年から昭和二十年まで学苑にあって建築設備等を担当し、関東学院大学に移って同校の建築設備科目を強化した。またこの間、昭和四十年の理工学部物理学科の開設に当って中心的役割を果した理論物理学の富山小太郎が定年退職直前の四十七年八月に急逝し、翌四十八年二月には化学工学の石川平七(昭五理)がこれまた現役のまま病没している。

 その四十八年に、後輩、教え子らから「巨星」とも「父」とも仰がれた二人が鬼籍に入った。文学部史学科西洋史専攻の発足時に浮田和民煙山専太郎、原随園、野々村戒三とともにただ一人学苑卒業生として教員スタッフに加わり、三十三年に定年退職するまで四十年以上に亘って同専攻を支え、八十五歳の長寿を得た古代オリエント史の定金右源二(明四五大文、四月没)と、商学部にあって商業英語、国際経済論、世界経済などを講ずる一方で、「大学院大学」構想とともに世界大の早稲田大学像を描いて倦まず、名物教授ぶりを発揮しつつ定年退職後間もなく急逝した中島正信(大一五商、七月没)とである。二人とも学苑に「種」を蒔いた。定金が開いた古代オリエント学は後述する川村喜一を通じて古代エジプト調査事業に継承されたし、中島は本庄校地の取得に当り中心的役割を果して学苑拡大の夢の実現に寄与したのである。

 また戦前に一旦廃止された文学部露文専攻でただ一人残って戦後の同専攻復活の柱となった岡沢秀虎(大一五文)が三月に、昭和二十二年まで法学部にあって憲法学・行政法学に業績を残した中村弥三次(大一二法)が同じ三月に、商学部で商業英語等を担当していた鈴木金太郎(昭三文)が五月に、理工学部資源工学科で鉱山保安研究の第一人者として活躍していた中野実が六月に物故したのに続いて、九月には政治経済学部において地方行政、自治行政その他を担当し同学部長・大学院政治学研究科委員長を歴任した後藤一郎(昭一七政)が五十三歳の働き盛りで逝去するという悲劇が繰り返された。

 一方、明治四十五年に東京芸術大学の前身である東京美術学校を卒業して、開設されたばかりの学苑理工科建築科の助手となり、以来昭和三十四年の定年退職まで教壇に立って装飾、意匠等を担当し、その間、大正期以降変貌する日本人の生活様式に着目して「考現学」を提唱、生活者の視点に立った「生活学」の先駆となった今和次郎が十月に八十五歳で長逝している。イガ栗頭にジャンパーと運動靴を以て終始し、アカデミズムを超越した型破りな「先生」であった。そして十二月、文学部と政治経済学部でフランス文学を講じ、前述した谷崎精二が没したときには「谷崎もとうとう死んだね。これで西条・日夏それに吉江〔喬松〕先生とぼくの周囲のものはみんな亡くなって、ぼくだけが独り残ってしまった」と歎じた山内義雄も後を追った。東京外国語学校の卒業(大正四年)の自ら言うところの「外様」であったが、決然と「早稲田に腰を落ち着け」、昭和二十四年に日本芸術院賞を受けたマルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』の翻訳などの業績を上げつつ、定年まで学苑に留まった。

 昭和四十九年には、法学部で国際法を担当した一又正雄(昭五法)が十月に、大学院文学研究科で教育社会学を指導した牧野巽が十一月に、理工学部で分析化学の井上勇(昭一五理)、計測工学の難波正人(昭一二理)が十二月に世を去った。一又は既に学苑を去っていたが、牧野、井上、難波はいずれも現役であった。この中で、難波は前年病気のために昭和三十四年開設以来の電子計算室長を辞していた。文字通り育ての親を失った感を電子計算室関係者は抱いた。

三 近づく創立百年

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 既に見てきたように、多数の専門学科・機関を擁する学苑にあって、それぞれの開設・存続がその箇所でのリーダーと言うべき個人の努力や主張に掛かっていた例が少くないとすれば、戦後の文学部教育学専修においては先ず原田実(大二大政)がそれであったと言っても異論はないだろう。昭和二十四年の新制大学への移行に伴う高等師範部の教育学部への昇格によって文学部教育学専修をそれに統合するかどうかの問題に際し、原田の見解が決定力を持ったのである。その原田も大正十三年以来三十六年間の教員生活を昭和三十五年に終え、名誉教授として長寿を保ったものの五十年一月に八十四年の生涯を終えた。もう一人、この年八月に八十一歳で鬼籍に入った中村宗雄(大六大法)は、三十三年の比較法研究所の開設を推進して初代所長に就任しているが、それにも増して既に大正十四年から昭和二十年まで法学部教務主任・専門部法律科長・法学部長の職責を休む間もなく引き受け、更に早稲田大学法学会長、学外にあっては日本学術会議会員・部長、日本民事訴訟法学会長、法政審議会委員等内外の多数の役職を務めてきた重鎮であった。法学者としてはその民事訴訟理論によって日本の民事訴訟学を世界的な水準に高める基盤を作り、三十四年に日本学士院会員に選定された。

 理工学部では五十年四月に帆足竹治(大九大理)、五月に堤秀夫(大二大理)、六月に横田清義(大一三理)と立て続けに三人の名誉教授の訃が報ぜられた。いずれも学部草創期の卒業生、従って学苑出身者として理工学部教員となった最初の世代であり、特に堤はその第一号の栄誉を担っていた。帆足の教員歴は卒業と同時に始まり、昭和四十一年に退職するまで四十六年に及んだ。外見にこだわらない野人の風貌を持つ名物教授の一人であり、その間に開発した電気回路理論は帆足=ミルマンの定理として世界的に引用された。電気工学科最先輩の堤は卒業の翌年に助教授に就任、本多光太郎の東北大学、またスタンフォード大学、イリノイ大学への留学を経て、絶縁材料、電磁気学等の分野で独創的な研究業績を上げ、同科の興隆史を体現した一人と看做される。学苑行政や学外での数々の要職歴任等で発揮された献身ぶりについての紹介は省くが、故郷北海道新冠に堤を顕彰する銅像が建てられたことのみは記しておこう。機械工学の横田も卒業後本多光太郎に師事した一人である。昭和五年から教壇に立ち、特に今日の材料科学の基礎たる機械材料学を確立し、また溶接学の確立に尽力した。

 文学部では、ドイツの詩人ハイネのイメージを革命詩人として一変させ、大著『詩人ハイネ 生活と作品』で昭和四十年度の日本芸術院賞を受賞して教授生活の掉尾を飾った舟木重信が四月に八十一歳で永眠した。大正六年に東大独文科を卒業して九年から学苑教壇に立ち、以来フランス文学の山内義雄と同様「外部から来て早大文学部の人になりきった」教師・文学者人生であった。八月には西洋哲学の岩崎務(大一二文)が七十五歳で、そして十二月には、煙山専太郎に師事して西洋史を専攻して卒業しながらも日本史に転じ、学苑にもどっては日本近現代史を担当し、特に秩禄処分、初期議会、条約改正の問題では学界の第一人者と言われ、『明治天皇紀』『伊藤博文伝』編纂で名を残し、また学生囲碁の発展に尽した深谷博治(昭五文)が、定年後間もない七十二歳で黄泉の客となっている。

 商学部では、会計学、特に監査論の研究で業績を上げ、公認会計士講座の責任者としても尽力していた日下部与市(昭二五商)が一月、病を得て道半ばにして倒れた。四十六歳の若さであった。その師でもあり、驚くほど多数の著書・論文を残し、会計人を育てながらも、学問一辺倒でない趣味人ぶりを発揮した佐藤孝一(昭一二商)が同じ年の八月に亡くなったのも奇縁か。一方、政治経済学部で金融経済や経済政策等を講じた出井盛之(大五大政)が十一月八十三歳で鬼籍に入っている。

 現役教授として五十嵐新次郎(昭一二高師)の訃が報ぜられたのは十二月である。テレビの英語講座講師として羽織り袴で鼻髭をたくわえた明治人スタイルで人気を博したタレントぶりと、語学教育研究所の開設メンバーの一人であり教育学部で英語および音声学を担当した謹直精励ぶりとの「落差」に目を見張った学生も少くない。

 さて、戦後の歴代総長としては昭和二十九年から四十一年まで十二年間在任し、学苑の顔、否、我が国の私立大学の顔とも言うべき存在であった大浜信泉は、総長辞任後も学内にあっては校規改正を仕上げ、学外にあっては特に沖縄の本土復帰を目指す動きの中で沖縄協会会長などの要職に就き、復帰後の沖縄国際海洋博覧会の最高責任者となってこれを成功させたところで、その終了直後五十一年二月早々、激務がたたってか病床に倒れて肺炎を併発、同月十三日急逝した。享年八十四歳。四十一年の「学費・学館紛争」で総長としての「挫折」を味わったとはいえ、その実務能力またリーダーシップは抜群であって、ゆえに学内要職のみならず、前記のほか日本ユネスコ国内委員会、日本私立大学連盟、日本学生野球協会、プロ野球コミッシ。ナー、ユニバーシアード東京大会組織委員会の各会長、沖縄問題等懇談会座長を次々に歴任したのであり、二月二十一日青山葬儀所で約四千人が参列した告別式は早稲田大学、日本野球機構、沖縄協会位、日本青年奉仕協会の合同葬として執り行われた。弔辞として総長村井資長は大浜の人となりと業績とを次の如く偲んでいる。

先生は大正七年早稲田大学法学部を卒業され、直ちに三井物産に入社され、特に才能を見込まれ、研究的業務につかれましたが、先生は法律技術屋たることに飽き足らず三年の後惜しまれながら同社を去り、弁護士を開業されました。大正十四年に助教授として母校に迎えられ、直ちに英国に留学、ここで終生の大学人としての研究生活に入られました。先生は商法を専攻され、教壇での多忙な学生の教育の傍ら、研究に没頭され、その成果を次から次へと論文あるいは単行本として発表され、大学教授としてまた学者としての本領をいかんなく発揮されました。

また先生は私学の慣いとして、多忙な本務のほか、終始大学行政面のさまざまな役職を引き受けられました。そして昭和二十九年秋には、選ばれて第七代総長に就任され、以来三期、十二年の永きに亙って在任されました。大学は漸く戦後の混乱期から脱し、新制大学が軌道に乗って間もないところでありました。大学にはなすべきことが山積していました。先生は持ち前の鋭敏な判断力、企画力、大胆な実行力をもって、早稲田大学の拡充整備と内容の刷新充実に精力的に取り組まれ、今日の大学の偉容を整えられただけでなく、未来への発展の余地も残されました。その一端を挙げますと、今日の早稲田大学の多面的な国際交流、ユニークな数々の研究所の創設と既存研究所の整備刷新、八十周年記念事業の募金と諸施設の拡充、高等学院、文学部、理工学部の移転と隣接水稲荷神社の移転と本部キャンパスの整備拡充、当時東洋一の体育館――記念会堂――校友会館の建設、広大な本庄校地のほか、館山、菅平、追分校地等の買収が行われました。一方、事務機構、職員制度の改善、大学年金制度の創設等々があります。また先生はひとり早稲田大学の内政だけでなく、学外においても広く活動されました。私立学校法、私学振興助成法の制定、私立大学に対する国庫助成運動などこれまた枚挙にいとまがありません。戦後の大学総長として、国公私立を通じて先生ほど大きな足跡を残された方は極めて少なかったのではないでしょうか。

(『早稲田学報』昭和五十一年三月発行 第八五九号 五一頁)

 なお同年四月、政府、沖縄県、沖縄国際海洋博覧会、早稲田大学、日本野球機構、沖縄協会、日本青年奉仕会が中心となって「故大浜信泉先生記念像建設委員会」(茅誠司委員長)が組織されて據金が寄せられ、七月に海洋博覧会跡地の沖縄館隣接広場に「大浜信泉先生像」が完成した。

 大浜が昭和二年にイギリス留学から帰国するに先立ってヨーロッパ大陸に遊んだとき行を共にしたのが、一年遅れで商学部からイギリスおよびドイツに留学していた上坂酉蔵(大七大商)であった。酉蔵の文字よりも酉三を好んだ彼は、外国貿易の実務と理論の研究者として斯界の第一人者の地位を築き、学内では早稲田専門学校長、商学部長、商学研究科委員長、評議員、理事等を歴任し、学外にあっては日本商品学会会長、日本貿易学会会長等を務め、三十四年に定年退職、名誉教授となり、四十七年には故郷宮城県気仙沼市の名誉市民第一号に選ばれていたが、大浜の四十九日が済んだばかりの四月四日に逝去した。享年八十七歳。

 五十一年という年に目立ったのは、五十代前半までの現役教授が相次いで病没したことである。理工学部で有機化学の藤井修冶(昭二一理、六月没、五十二歳)、フランス語の河村正夫(六月没、五十二歳)、金属学の中山忠行(昭二二理、八月没、五十三歳)、土木材料・コンクリート工学の神山一(昭二三理、十二月没、五十二歳)、文学部で心理学の相場均(昭二五文、九月没、五十一歳)、そして教育学部で英語担当の上本明(昭三四文研、十一月没)に至っては四十三歳であった。

 またこの年、第一東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、法務省法制審議会委員等として令名の高い法曹界の重鎮で、学苑役員としては監事・評議員会長また校規および同付属規則改正案起草委員会委員長等の要職を歴任して、大学紛争直後の困難な大学運営の時期に議事の運営を遺憾なからしめた毛受信雄(大八専法)が六月に、故田中穂積総長の女婿であり、実業人で、学苑評議員・監事を経て四十九年から理事の職にあった久保九助(大一五商)が十一月に鬼籍に入っている。

 この年には、教員として定年退職を直前にした西洋哲学の樫山欽四郎(昭六文)と、まだ五十代の現役であった心理学の清原健司(昭一七文)がともに八月に他界している。ヘーゲル学者としての樫山は信州人らしい教育者の風貌を持って文学部長や野球部長に就任、総長候補にもなったことがある。告別式は同月十三日に文学部葬として大隈講堂で執り行われ、夏休み中にも拘らず多数の参列者があった。他方、異常心理学を専門とし、更にスポーツ心理学という新境地を開拓していた清原の早世は、前年の相場の喪失とともに文学部心理学専修にとって重なる打撃であった。

 五十三年の教員・元教員・名誉教授物故者としては、戦後会津八一が去ったあとの文学部美術専修を支え三十二年に定年退職していた坂崎坦(明四三大文、一月没)、同じく文学部で社会学を担当した川又昇(昭三文、三月没)、フランス語の斎藤一寛(昭二文、四月没)、英語学の担当でアメリカ南部方言までカヴァーした宮田斉(昭六文、十一月没)、理工学部で電気機械理論、設計等を担当した上田輝雄(大六大理、五月没)、政治経済学部で金融論を担当した中村佐一(大一二政、六月没)達の名前が挙げられる一方、現役では、文学部で史学史を教えた五十嵐久仁平(昭二三文)が七月に、メソポタミア史を専攻し、昭和四十六年から古代エジプト調査隊を指揮していた川村喜一(昭二八・一文、昭三三文研)が十二月に、理工学部で冶金学を担当した川合幸晴(昭一一理)が十月に物故している。とりわけ川村はまだ四十八歳の働き盛り。考古学上の世界的発見となった「魚の丘」発掘を含め成果を上げつつあった古代エジプト調査の礎となったとはいえ、大きな損失であった。

 明けて五十四年一月二十二日、法学部にあって四十八年に定年退職するまで半世紀近くもの間教鞭を執り、多数の実務家・研究者を育てた野村平爾(大一五法)が黄泉の客となった。その逝去を悼んで雑誌『法律時報』昭和五十四年四月号に組まれた「特集=野村平爾先生の学問と業績」は、野村の教育者・労働法学者および実践家としての存在の大きさを物語るもので、そこで野村法学を論じあるいは故人を偲んだ顔触れは学苑関係者のみにとどまらず、他大学教授・学長、弁護士、日本学術会議議長、東京都知事、日本社会党委員長、日本共産党幹部会議長、日本労働組合総評議会議長、国鉄労働組合委員長、全逓信労働組合委員長その他に及んだ。

 翌日二十三日には商学部にあって経済学を担当した北村正次(昭五二推選)が名誉教授となって二年目で物故し、現役として文学部でドイツ語、ドイツ思想史等を教えた山崎八郎(昭九文)が四月に、大浜信泉の女婿でもあり法学部で憲法・行政法を担当していた有倉遼吉(昭一三法)が六月に、教育学部で文学史を講じていた川副国基(昭五高師)が六月に、同じく教育学部で英語・米文学史を講じた名誉教授竜口直太郎(昭四九推選)が八月に、文学部で東洋史を講じた故市村瓚次郎の高足栗原朋信(昭一一文)が九月に、理工学部では応用数学の佐藤常三名誉教授と機械力学の関敏郎名誉教授(昭八理)がともに十一月に幽明境を異にした。

 この間、九月、木村毅(大六大文)が八十五年の生涯を閉じた。明治二十七年生れで、十二歳にして『少年世界』に投稿し文士を志したほどの早熟。文学科を卒業後、名編集者として好企画を次々と立案し、創作、評論、明治文学研究を精力的に行った。その中でも特に『小説研究十六講義』で小説の理論的研究の基礎を築き、改造社の『現代日本文学全集』等を企画して昭和初年の有名な円本時代を現出させた一方、明治文化研究会同人となり、浩瀚な『明治文化全集』(戦前版・戦後版)の刊行を推進するとともに、文学の素養とジャーナリストの感覚で『文芸東西南北』『日米文学交流史』等を著し、きわめて幅広い視野から明治文学、比較文学、大衆文学の研究を開拓し、特に「明治文化のチチェローネ」とは関西大学教授谷沢永一の強調してやまないところである。他面、日本フェビアン協会、日本労農党、社会大衆党に参加し、無産運動を実践したが、戦後は明治・上智・立教それに学苑の講師を務めた後、松蔭女子学院大学教授となり、更に晩年を母校の歴史編纂に捧げた。

 五十五年は長寿を保った名誉教授・元教授・校友の相次ぐ物故を見た年であった。一月三日に長逝した北沢新次郎(明四三大商)は享年九十二歳。卒業後の五年間のアメリカ留学で学位を得て帰国した翌大正四年より教壇に立ち、昭和三十二年に定年退職するまで四十二年間学苑とともにあり、その間特に戦後三度に亘って総長候補になりながら果せなかった大学行政への自負を退職後は東京経済大学学長として発揮するなど、六十年近い大学人生活を送った。「早稲田に在学中、私がいちばん影響をうけたのは安部磯雄先生であった」という北沢の生き方は、戦前の労働運動・農民運動の指導者としての活動や戦後の民主化を目指しての政府委員(中央労働委員会委員、文部省労働者教育委員会委員長、公正取引委員会委員、郵政審議会会長など)の就任に、また教室では授業開始時間に遅刻した学生を絶対に入れないという厳格さに現れ、経済学者としては六十冊以上の著書、二百八十編を上回る論文・書評等を残し、日本学士院会員として満九十歳の祝福を昭和五十二年二月同学士院において受けていたのである。

 この年はまた、終戦直後の鋳物研究所所長石川登喜治の辞職に伴い理化学研究所から理工学部に招聘されて三十一年まで後任を務めた飯高一郎が八十六歳で逝き、その飯高の後を襲って第三代所長に就任した塩沢正一(大五大理)が十二月に八十八歳で他界するという鋳物研究所(現各務記念材料技術研究所)にとっての連続訃報の年になった。

 一方、大正期の学生時代に信夫韓一郎らと新聞学会を創設して『早稲田大学新聞」を発刊し、社会主義研究を深めて遂に国家社会主義者を以て自ら任じ、戦後昭和二十四年に政治経済学部に迎えられて「近代社会思想」を講じた石川準十郎(大一三政)が二月に八十歳で病没し、その新聞学会時代の石川を第一線の新聞記者として指導したことのある土岐善麿(明四一大文)はこの年九十四歳で展示会に書を出品するほどであったものの、四月十四日昏睡状態に陥り翌日永眠した。土岐は、哀果の号で知られる歌人として独自の作風を展開した一方、『朝日新聞』の文化欄を充実させ、また江戸時代の国学者で歌人の田安宗武の研究『田安宗武』によって昭和二十二年に帝国学士院賞を受賞するとともに二十三年に学位を授与され、また長く国語審議会会長を務め、芸術院会員に選定されるなど、業績の範囲は広い。「ぼくは早稲田大学を出て、新聞記者生活に入って、三十二年間新聞記者をつづけて、朝日新聞を昭和十五年にやめた。その後書斎生活をするようになって、今は学者というわけにはゆかないが、学究生活をやっている。……早稲田大学で少し講義をしたが、それも停年でやめ、今は仏教主義の武蔵野女子大学に一週間に一回づつ講義に通っている。……この学校で若い女子学生と話をしていると、ぼくも何となく若返ってくる。これがぼくの『時序百年心』である。今年もまた一年、他人に迷惑をかけずに自分の納得のゆく生き方をしたいと考えている」とは、土岐九十歳のNHKラジオ「人生読本」放送であった(『周辺』昭和五十五年十一月発行 第九巻第二号 九―一一頁)。

 更にこの年、文学部で教鞭を執り、アイルランド文学、特にイェイツ研究に生涯を捧げた尾島庄太郎(大一二文)が三月に八十歳で逝去。同じ文学部で大正期アメリカ行動主義心理学の洗礼を受けて帰国後学苑にもどって心理学専攻の創設に当り、三十七定年退職後も流通経済大学、更に関東学院大学で教壇に立って最晩年まで現役であった「早稲田心理学の父」赤松保羅(大六大文)が八月八十九歳で、九月には、『平家物語』研究の権威として知られる一方、教育学部長、図書館長、常任理事等を歴任し学苑行政でも手腕を発揮した佐々木八郎(大八高師)が八十一歳で他界した。佐々木が教育学部長時代に遭遇したのが昭和二十七年の「五月八日早大事件」であるが、その渦中にあって示した毅然たる態度は大学教師の鑑として語り草になったものである。

 その一方で、十二月には、建築家としての数々の業績を上げていた理工学部建築学科の吉阪隆正(昭一六建築)が六十三歳で病没した。独特の風貌の源であったボー・チミン髭はチェ・ゲバラやフィデル・カストロに会見する小道具であったという吉阪の行動と思惟は文字通り地球大で、学苑創立百年の彼方をも見ていたその人物像は戸沼幸市理工学部教授の追慕の記に集約されている。

吉阪隆正先生は死への病床に在って、うわ言に「ワセダ、ワセダ、ガンバレワセダ」といわれた。ご自身、病床にて酸素マスクを付けておられたから、あるいはこの三月にヒマラヤ・K2に登頂せんとしている早稲田隊に強く声援を送っておられたのかもしれない。先生は幼少期を国際連盟の出発した頃のジュネーヴで過ごされたが、そのことと関連して「どうもすぐ地球規模に拡大して物を考える癖がついちゃっているんです」と笑いながら話しておられるのを聞いたことがあった。先生は全く気軽に地球の各地に赴き、山に登り、未開を探検し、村や街に滞在し、建築を創り、世界の大学生に有形学を講義された。先生は建築にしろ、何にしろ形を作るのは世界平和のため、人類の平和共存のためと考えてそれを軸に行動を広げた国際人であり、誰とでもわけへだてなく話あう自由人であった。しかしこのようにとらわれない行動の人であっても、心のよりどころに早稲田大学があり、「早稲田がんばれ」であった。そして、それは古き早稲田ではなく未来に向かう早稲田であった。ちょうど大学紛争の最中、二十一世紀の日本像を求める政府のコンペティションがあり、吉阪先生の呼びかけによって、早稲田大学内、学部、研究所の壁を越えて多くの先生方が集まり、そこの学生も職員も加わって、早稲田大学二十一世紀の日本研究会が結成されたことがあった。ここでの三年余にわたる研究成果は北上京遷都論を含む数々の提案となり、見事、最高賞を獲得し、今に到るまで外部からも大きな評価を得ている。今にして思えば、吉阪先生の真意は、成果を得ることは勿論であったが、それ以上に二十一世紀の早稲田大学像を求め、大学での研究の在り方を探ることにあったと思われる。

(『早稲田学報』昭和五十六年三月発行 第九〇九号 三九頁)

 五十六年になっては、戦前の高等師範部から戦後の教育学部で漢文および古典を教えた大矢根文次郎(昭七高師)が二月に、敬虔なクリスチャンであり政治経済学部で経済学原論等を担当した酒枝義旗(昭二政)が三月に、文学部で西洋哲学、宗教学等と寧ろ地味な学問を扱いながらその独特の講義ぶりが人気を呼び大教室を満員にしていた名物教授仁戸田六三郎(昭六文)が四月に、同じ文学部で『源氏物語の基礎的研究』を主著とし平安文学を講じた岡一男(大一三文)と、教育学部を本属として政治思想史を担当した服部弁之助(昭二政)が五月に、坪内逍遙島村抱月に学び、抱月去った後の『早稲田文学』を主宰し明治文学研究の重鎮となった本間久雄(明四二大文)が九十四歳の長寿を得たものの六月に、津田左右吉の門下生で文学部で中国哲学史を教えた小林昇(昭八文)が七月に、それぞれ故人となった。

 昭和五十七年、学苑創立百周年の行事を目前にしてこれを見ることなく逝ったのは、法学部で貴族然とした雰囲気でフランス語を教えた数江譲治(昭一七文、二月没)、英米法を専攻し英法史の研究で他の追随を許さないと言われた水田義雄(昭四法、二月没)、ドイツ語を担当した山田博信(昭一八文)、文学部では昭和二十七年に招聘されて東洋史、特に内陸アジア史の研究を指導した松田寿男(三月没)、英文科で奇しくも同じ四十八歳の働き盛りであった中山末喜(昭三四文研、三月没)と三谷貞一郎(昭三七文研、九月没)、理工学部建築学科で東洋建築史・日本建築史を講じた田辺泰(大一三理、四月没)らである。

 そして創立百周年記念日の十月二十一日、学苑創立の僅か二年後の明治十七年生れで商科の第一回卒業生であり、浮田和民の女婿、実業人・財界人として戦前昭和十一年から学苑維持員に、戦後評議員――一時期会長――に五十三年まで名を連ね、特に創立八十周年に際してはその記念事業資金募集委員会委員長として尽力し、学苑の大きな後ろ楯となった原安三郎(明四二大商)が九十八歳で大往生を遂げた。