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第十一編 近づく創立百周年

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第十六章 早稲田学生街の変貌

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一 高度経済成長と早稲田界隈

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 創立以来の学苑界隈の変化については、大正十二年の関東大震災と昭和二十年の大空襲の二つを画期とする三転説を採り、その第二段目、すなわち戦前・戦中・戦後の昭和二十年代までの変化のありさまを詳しく述べた(第四巻第八編第十六章)。ここではその後の変化(第三段目)の様相を扱うことにする。

 戦災によって明治通りから沼袋、東中野にかけての一帯は焼夷弾の猛火で一なめという惨状を呈し、新宿、牛込方面も見渡す限りの焼野原となった。学苑界隈はこうした壊滅状態の中から立ち上がったのである。戦後復興が進み、「もはや『戦後』ではない」と言われるようになった三十年代初頭の頃には、学苑界隈の街並も戦争の傷跡をすっかり癒し、新たな景観を現出させていった。三十年代後半から高度経済成長が驀進した。三十九年のオリンピック東京大会開催の頃を境目にして、学苑界隈の景観は激変という文字で記してよいほどさま変りした。そして、創立百周年を迎えた五十七年の頃ともなると、戦前の卒業生は勿論のこと、十数年前の四十年前後の卒業生でさえも、これが早稲田なのかと驚愕するほどの大変貌を遂げてしまったのである。高度経済成長の本格化が第三段目の変化のランドマークと言ってよい。

 この大変貌は決して早稲田界隈のみのものでは、勿論ない。それはこの頃の日本の大都市に共通するものであった。しかし、東京の変貌は特に著しく、街は郊外を呑み込む形で横へどんどん拡がる一方、巨大ビルを林立させる形で縦へと伸び、過密で巨大な大首都圏を形成していったのである。こうした趨勢が年一年と学苑周辺にも及んできたというわけなのである。従って、早稲田界隈の変化は東京の変化の一環であると言える。以下、学苑とともに新たな変転を遂げたこの時期の早稲田界隈の変貌を、「大学と地域」の観点から、おもに交通網や街路と古本屋および学生街の生態等の変遷を中心にして記すことにする。

二 大きく変った足の便

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 学苑の本部所在地の町名地番は南豊島郡下戸塚村六百四十七番地、豊多摩郡戸塚町大字下戸塚六百四十七番地、淀橋区戸塚町一丁目六百四十七番地、新宿区戸塚町一丁目六百四十七番地と変り、平成六年に大隈庭園内に新しい大隈会館(事務棟・会議室棟)が竣工して三月にここ(新宿区戸塚町一丁目百四番)へ本部が移るまでは、新宿区西早稲田一丁目六番一号であった。新宿区戸塚町時代までの学苑は東京市(昭和十八年六月一日からは都)の縁辺で、いわゆるアクセスはよくなかった。アクセスの便は徒歩を別とすれば、国鉄(JRの前身)と市電(後に都電)で、やがてバスが加わる。

 国鉄で来る学生は、中央線飯田橋駅または山手線高田馬場駅で降りる。戦後、二十七年三月二十一日に西武新宿駅が開設されて西武線が新宿に乗り込んだため、高田馬場駅は新宿の繁華街と直結するようになった。高田馬場駅からは、スクールバスが運行されるまでは徒歩で通学するのが普通であった。飯田橋駅に降りる者は、茅場町から神保町、九段下を経て来る市電(都電)に乗り、神田川に沿って大曲、石切橋、江戸川橋を経て早稲田車庫前で降りる。厩橋から来る市電(都電)は上野広小路、本郷、春日町を経て、大曲で茅場町発の電車と合流する。上野公園発の電車は道観山、神明町を経て護国寺から矢来下に来る。この電車を利用する学生は江戸川橋で乗り換えとなる。学生は早稲田車庫前で下車して、早稲田車庫と大隈庭園の間の大隈横丁を通って大隈講堂前に出るのである。また、王子電車という、三ノ輪、大塚から鬼子母神、学習院下、面影橋を経て早稲田に通じる電車があった。王子電車が東京市に買収されたのは昭和十七年二月一日である。バス利用者は飯田橋駅前から神楽坂の坂上、赤城神社前を経由して早稲田通り(旧戸塚通り)に入って馬場下で下車して、交差点を左折して第一高等学院(昭和三十七年からは文学部)の正門へ、または右折して三朝庵から高田牧舎へ通じる南門通りを経て南門か正門に出るのである。この他、バスでは新宿駅西口より明治通り、早稲田通りを経て早稲田までのルートと、渋谷駅より千駄ヶ谷、東京女子医大、夏目坂を経て正門前までのルートがあり、特に渋谷ルートは春秋の早慶野球戦の時などには超満員となった。以上の交通機関が、三十九年の春頃まで、学苑および学苑界隈の人々の足であったのである。

 この間、二十二年三月十五日に、四谷・牛込・淀橋の三区が統合されて新宿区が誕生し(同年十月の臨時国勢調査で世帯数三万九六三〇、人口一五万三九二四)、この頃から三十年頃までにかけて、空襲による破壊からの復興を目指して市街の区画整理が本格化した。区内では、新宿駅・歌舞伎町・大久保病院の付近に加えて戸山ヶ原・高田馬場駅・早稲田鶴巻町の付近が次々と整備されてゆき、これに伴い二十四年十二月には都電が面影橋から明治通りに出て早稲田通りと交差する交差点に戸塚二丁目電停を置き、そこから高田馬場駅前まで路線が延長された。この結果、いくぶん遠回りではあるが学苑と高田馬場駅とがつながった。

 しかし、学苑へのアクセス事情を決定的に変えたのは、営団地下鉄東西線の開通と早稲田駅の開業であった。三十五年八月、帝都高速度交通営団は、三十一年の都市交通審議会の第一次答申と翌年改訂の東京都市計画高速鉄道網に基づいて都市計画第五号線(地下鉄東西線)の国鉄中野―東陽町間十五・八キロの建設計画を決定し、完成後は国鉄線路に乗り入れて列車の相互乗入れを目指した。三十七年十月に工事が着手され、先ず三十九年十二月二十三日に高田馬場と九段下の四・八キロの間に早稲田・神楽坂・飯田橋の三駅が設置されて営業が開始された。ここに初めて早稲田の地に路面交通手段の他に新しい足が生れたのである。当初、この区間は、保有車輛十八輛、終日三輛編成、五分間隔で全区間を十分三十秒で運転し、運賃は、普通券一区(三キ・)二十円、定期券は一キロ一ヵ月で通勤七百十円、通学四百十円、普通九百二十円であった。以後、同線は、四十一年三月に中野―高田馬場間三・九キロおよび九段下―竹橋間一・〇キロが、同年十月に竹橋―大手町間一・〇キロがそれぞれ開通し、四月から国鉄荻窪―中野―竹橋間の直通運転が開始され、十月には大手町まで直行するようになった。更に翌年九月に大手町―東陽町間五・一キロが、そして四十四年三月に東陽町―国鉄西船橋間十五・〇キロが運輸営業を開始して、ここに東西線中野―西船橋間全線三十・八キロが完成し、九月には国鉄への乗入れが三鷹まで延びていったのである。この東西線の全通により、東京の西部郊外地域と京葉の船橋・津田沼以遠地区の学苑生達が高田馬場、日本橋、大手町等の都心部を経由して通学することができるようになった。勿論、地域の人々にとっても、それは都心への画期的なショートカットとなった。西船橋以遠の人々にとって、移動時間の大幅短縮となったことは言うまでもない(帝都高速度交通営団編『東京地下鉄道東西線建設史』参照)。

 ところで、地下鉄東西線の開通時期は、東京の路面から電車が姿を消す時期でもあった。都電は戦前の市電以来、都内メイン・ストリートにおける貴重な輸送手段として愛され続けてきたが、四十二年十二月の第一次撤去から四十七年十一月の第八次撤去までで旧市内三十五路線、百八十キロが相次いで廃止されていった。この間長く学苑関係者に親しまれてきた高田馬場駅前―茅場町間と早稲田―厩橋間が廃止されたのも四十三年のことであった。これらの廃止は、オリンピック東京大会の開催が決定した三十年代半ば頃より、都心を中心として道路の拡張や地下鉄網の整備に伴い、都電が交通の邪魔者扱いを受けるようになったためで、これに拍車をかけたのがモータリゼーシ。ンの到来であった。三十五年に全国で四十四万台であった自動車は四十三年に四百万台を突破し、三十年に二十四万台であった都内の自動車保有台数も四十年代に二百万台、五十五年には三百万台を突破するという猛烈ぶりであった。また、「余暇」の語も「レジャー」(三十六年登場の流行語)の語にとって代られ、そのレジャー・ブームがマイカー・ブームを呼んだ。自動車工業は非常な活気を与えられた。ブームがブームを呼んだのである。四十一年には、この年の交通事故による死者は全国で一万三千九百四人を記録し、「交通戦争」の語も生れた。しかし、物事にはすべて反面がある。マイカー・ブームは都電を邪魔物視していく過程でもあった。すなわち、急増した自動車は忽ちのうちに都電の軌道に乗り入れて都電の行く手を阻んでしまうため、都電はノロノロ運転を余儀なくされ、僅か一キロ余の区間でも、途中に何ヵ所も信号があれば尚更のこと、大渋滞して一時間もかかるほどになってしまったのである。従って、当然のことながら、乗客も減少し、交通の面でも経営の面でも、都電は厄介な存在となってしまったのである。新宿区史には次のように記されている。

都電はかつて都内における代表的な大衆輸送機関として利用されてきたが三十五年度の輸送人員一六三万七〇〇〇人(構成比一〇・九%)を境に、その後路線の縮小や統合改廃がすすみ、四〇年度以降一〇年間の推移では、四〇年度において一日平均の輸送人員が一二四万八〇〇〇人(構成比六・二%)、四三年度六〇万六〇〇〇人(構成比二・九%)、四六年度二二万四〇〇〇人(構成比一・〇%)と、年を追って減少し、四九年度では一日当りの輸送人員が九万人(構成比〇・四%)となっている。……都営交通企業の採算を悪化させ、経済効率の面で問題……。 (東京都新宿区役所『区成立三〇周年記念 新宿区史』 八八八頁)

そして、三十一年に五億一千万円の黒字であったものが、三十五年には二億一千万円もの赤字に転落してしまったのであった。

 当然ながら、学苑に近接する旧王子電車系統の荒川車庫前―三ノ輪橋間も廃止計画に組み込まれた。しかし、大部分が専用の軌道であることと、廃止した場合の代替交通機関の確保が難しいとの理由から、廃止は一時保留となった。そして、四十九年十月に早稲田―荒川車庫前の三二系統と王子駅三ノ輪橋間の二七系統との存続が決定され、両系統が統合されて早稲田―三ノ輪橋間が「荒川線」(十二・二一キロ)と呼称されて残ったのである。この存続には、利用者・沿線住民による都電を守る会の結成や廃止に反対する五万人にも及ぶ署名運動の展開、それに都電の消滅を惜しむ都民の熱心な要望があったのである。代替のバス路線の確保が困難であることが最大の理由であるとしても。同年三月美濃部都知事が都議会において存続の意向を表明して、都内にはこの「荒川線」一路線のみが都営路面電車として辛うじて残ることになったのである。これは、古くからこの路線を利用する人々はもとよりのこと、通学する教職員や学生にとっても大変な朗報で、池袋の名画座や人生座に通いつめる映画好きの学苑生にとっても胸を撫でおろす出来事であった。しかし、長年親しまれてきた高田馬場駅前から面影橋を経て茅場町までの一五系統と、早稲田から大曲を経て厩橋までの三九系統の両路線は共に四十三年九月に廃止されてしまい、代りに都営バスが通ることになったのは時勢の赴くところとはいいながら、長く関係者のセンチメンタリズムに触れた。また、同年三月には、明治通りを走っていた大きな車体のトロリーバスも廃止となっていたのである。

 存続の決まった荒川線は、全線の九〇パーセントほどが専用軌道である。このため、自動車やオートバイ、軽車輛などと並走する区間は一割程度で、路面の電車としてはきわめて特殊な路線で、この後もモータリゼーションの影響を受けることなく健在である。ただし、合理化が進められて五十三年四月より運転手一人の完全ワンマン化となった。その後の推移と学苑創立百周年前後の様子は次の通りである。

昭和五六年の春には神田川の改修とともに都電の放射七号線の拡幅工事が完成し、これにともなって荒川線の線路のつけ替えが行なわれ、面影橋―早稲田間の軌道は道路中央に新設された専用軌道に移設され、自動車に邪魔されることもなく快走することになったのである。新設された軌道への移設にともなって早稲田の終点も改良され、乗降ホームが区分された一線二面式のものとなった(なお、三ノ輪の終点も同形態である)。昭和五七年には、ワンマンカーとして装いを新たにした電車たちのネグラである荒川車庫が、王子電気軌道時代に舟方車庫として建設されて以来、全面的に改築された。……現在〔昭和六十一年〕荒川線に所属している車輛は七〇〇〇型が三一輛、七五〇〇型が一四輛の合計四五輛の旅客車と、非旅客車である六〇〇〇型の応急車が一輛と保存車として七五〇〇型が一輛で総合計四七輛の所帯である。ところで応急車というのは事故(脱線等)の復旧や故障車の救援、あるいは降雪時の除雪作業などに出動するもので、普段は荒川車庫で眠っているほうが多いので、あまりお目にかかることはない。 (宮松丈夫『王電・都電・荒川線』 七六頁)

 こうして、都電荒川線は、学苑の教職員や学生そして系属校の早稲田実業や早稲田中学・高等学校の生徒を乗せて下町から山の手へと結ぶ貴重な足として、今日なお現役として大活躍している。沿線には花見の名所飛鳥山、高岩寺とげぬき地蔵、池袋サンシャイン六〇、鬼子母神、甘泉園、芭蕉庵、新江戸川公園などの名所旧跡があり、電車はビルとビルに挟まれた都市街の谷間を夢軌道と化して、緩やかに爽やかに、チンチンと懐かしい音を響かせて駛ってゆく。乗客や踏み切りで眺める人々と一体となって、都電荒川線は郷愁とロマンの香りを無機質な今日の東京に振り撒いている。

三 早稲田通り古書店街

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 地下鉄東西線早稲田駅を出たところにある夏目坂交差点から坂上の喜久井町の理工学研究所を斜めに背にする形で、高田馬場駅方面に向って進む早稲田通りは、馬場下交差点に向って右に学苑系属の早稲田中学・高等学校を、左に文学部キャンパスの記念会堂を見ながら、穴八幡神社の脇の八幡坂を登って西早稲田(旧戸塚)の三叉路に出て、その後は緩やかに蛇行して高田馬場駅に至る。この間、穴八幡と道路を隔てて反対側に水稲荷神社があり、境内に民間信仰として知られていた「富士講」の高田富士が祀られていたが、三十七年に学苑の法商研究室棟建設用地取得のために学苑の甘泉園の一部との敷地交換の契約が成り、翌年七月に移転の遷座式を行っている。この八幡坂を更に五十メートルほど登っていった辺りに戦前以来の伝統ある映画館「全線座」があった。ここには、学苑より二、三分であったので、学生達が講義終了後や授業の合間、はては授業をサボって出入りしたものである。封切り館ではなく二流館ではあったが、なかなか風情がある建物で、よい洋画がかかった。早稲田界隈には、現在も、早大通り(旧正門通り、鶴巻通り)突き当りの山吹町に「羽衣館」(戦後は「牛込文化劇場」となったが、尾羽うち枯らして、往年の面影は全くない)、高田馬場駅前稲門ビル内に「高田馬場東映」と「高田馬場東映パレス」、明治通りとの交差点近くに「早稲田松竹」とがある。そして、この交差点角に二十年代中頃より「戸塚映画」もあったが四十年頃までに閉鎖してしまった。三十年代後半の映画館の思い出を文学部教授佐々木雅発は「わが映画史」で次のように語っている。

当時の早稲田近辺には高田馬場のパール座、早稲田松竹に戸塚映画、馬場下に全線座があった。早稲田松竹と戸塚映画は邦画専門と記憶しているが、パール座や全線座にはヌーヴェル・ヴァーグのリバイバルがよくかかり、友人等と入り浸ったものであった。入口を入ると左右の通路の床が変に傾斜していて、闇夜の中をおそるおそる進みながら空いた席に着く。やがて回が終わって休憩時間になると、灯りがついたとはいえ薄暗い場内を「オセンにキャラメル」と小母さんが回ったものであった。中でも全線座で見た「太陽がいっぱい」のいくつかのシーンは今でも忘れられない。アラン・ドロン扮するトムが友人のアメリカ青年フィリップを殺し、死体を海に捨て、その後フィリップになりすますためにその署名を練習する場面、最後そのフィリップの死体が偶然海から引き上げられてしまう場面――。おそらくカミュの「異邦人」などを読んで「実存主義」にかぶれ、ヌーヴェル・ヴァーグのスクリーンに展開される偶然の無意味な殺人などに「現代人の苦悩」を見出していたのであろうか。(『早稲田古書店街連合目録』平成六年九月発行 第九号 二二頁)

これらはともに界隈の数少い映画館として学苑生の憩いの場となっていたり、また現在でもなっているが、東西線が開通し、テレビが普及し始めた四十年頃には、この「全線座」も閉館となってしまった。

 早稲田通りの道を進んで、学苑西門から伸びる路地と安部球場に沿った坂道とが合流するグラウンド坂上の西早稲田の三叉路に出ると、この辺りから明治通りに向う両側に古本屋の看板が目立ってくる。早稲田の古書店街の始まりである。三叉路から明治通りまでの間には古書店、食堂、理容院、靴店、喫茶店、居酒屋などいかにも学生相手の店が点在し、通りの両側からの何本もの路地の入り口には下宿屋の所在を示す看板などに交って左側に学苑の鋳物研究所への入口看板も見える。更に歩を進め、左に「戸塚子育地蔵尊」を見て印度大使官邸前の高田馬場二丁目(旧戸塚二丁目)のバス停辺りまで来ると古書店街も一段落ついて、明治通りとの交差点(四十年頃まで「戸塚二丁目のロータリー」と呼んでいた)を越えると、左右の様相は一変して賑やかな商店街となり、そのまま高田馬場駅に続いていく。この間、交差点から少し先の左に古書店「ヤマノヰ」(のち馬場下に移転)を過ぎて百メートルほどの所に戸塚警察署(「戸塚子育地蔵尊」より少し入った早稲田通りの裏手にあった)を移築しようとしたところ、商店街を途切れさせ、地元の発展を阻んでしまうとの反対の声が挙がり、結局、庁舎はここより離れた西早稲田三丁目の現在地に新築され、その候補地の跡地にできたのが、先に触れた映画館「早稲田松竹」であるという。

 さて、学苑の図書館の充実に努め、日本図書館協会の会長として近代図書館の育成に貢献した春城市島謙吉は、「古本屋は古人の思想の陳列場である。或意味に於て古人の墓場のやうなものである。普通の墓は石で作られ、其の下には遺骨が埋まってゐるが、此の墓は紙で作られ、そして思想精神が包まれてゐる。古本は古人の紙碑とも云ひ得るであらう」(『春城筆語』二八七頁)と語っているが、その古書店に恵まれているのが我が学苑である。東京における古書店街は、大学の群集する神田神保町界隈と東大の本郷付近と我が早稲田界隈の三つに大別できるが、大学があるからといって古書店が街並を造るとは限らない。それは、戦前戦後の多くの大学近辺の街を見てみればすぐ分ることである。その意味では、どちらかと言えば文科系を中心とした書籍を多く有する早稲田古書店街は、大学と緊密に結びついて発展してきた珍しい例なのかもしれない。ところが、この早稲田通りの古書店街であるが、戦後になってからも、実は四十年代から五十年代にかけて盛衰があったのである。この変遷について、小林静生編集責任「東京古書組合五十年史』(東京都古書籍商業組合発行)の早稲田古書店街を含む「新宿支部史」に依って以下に少し辿ってみることにしたい。

 戦前、学苑の正門から山吹町にかけての鶴巻通りには古書店が並んでいた。既に、関東大震災前に十一、二軒の店があり、学苑裏側の早稲田通りの現在の古書店街には僅か二軒しかなかったという。その震災後十数年のうちに新規に転入して開業する者が続き、昭和十五年の早稲田近辺には、牛込五十六、四谷十八、淀橋(早稲田を含む)七十二、十六年には牛込・四谷八十、淀橋・早稲田七十九の古書店数となり、盛況を極めるようになった。だが、二十年の東京大空襲によりその大部分が空襲の惨禍や強制疎開に見舞われてしまった。早稲田通り沿いの一部は戦火を免れて古書店は一軒も焼けなかったが、正門前は丸善支店をはじめ跡形もなく焼け野原となり、古書店街は消滅してしまった。昭和十五、六年当時の新宿支部員は百五十―百六十人を数え、店舗を持つ業者は百人前後であったが、戦後の混乱期も漸く過ぎて二十六年になっても支部員は五十一人に過ぎなかったという。尤も、これは新宿支部固有の現象ではなく、戦時中千六百余人を擁した全組合員数が戦後のこの時期になると半数以下に激減したというように、東京の組合全支部に共通した現象であった。そして、特に、早稲田界隈の古書店に関しては、右のように戦前では正門前に集中していた店が戦後の一時沈滞期を過ぎると俄然早稲田通りの現在地に集中しだして、三十年頃には神田神保町界隈に次ぐ古書店街を形成するまでに成長を遂げたのである。これは、神田をはじめとする他地域からの若い転入業者と従来の店の二世達が相互に学苑付近という地の利を活かして切磋琢磨して活動していったためである。印度大使官邸の斜め前に二十七年に開業した「三楽書房」の店主佐藤茂が、開業頃の様子を、「当時の早稲田古書店街といえば、早大近くに稲光堂三瓶氏、正門近くに日東堂長田氏、理工書専門の春羊堂根塚氏、早稲田終点〔都電通り〕に風雅書屋の北川氏、豊橋の向う側に集川書店、早稲田通りには洋書を専門の白欧堂佐田氏、照文堂伏黒氏、大進堂北原氏、文献堂小野氏、私の店の近くには現在の一心堂さんのところに経済と洋書専門の日高書房瀬見氏……、文学専門の伊豆書房谷村氏……、一言堂書店、また高田馬場駅前に新井書店、戸塚第二小学校前に南洋堂荒井氏等々、多士済々の諸先輩が早大の学生対象の所謂堅い本ばかり扱っていた」(「古本屋開店 其の一」『東京都古書籍商業組合新宿支部報』昭和五十六年一月発行 第三三号 二一頁)と記しているように、戦前の「早稲田の古本屋街」が戦後は正門前から学苑裏の早稲田通りに転移していることが分る。これが、戦後も十五年ほど過ぎた三十年代の半ば頃になると充実してきて、学苑の教職員や学生には「戦後の店」とも馴染みができて、店主と客との独特の親密な関係が醸し出されてくるようになった。その頃のこうした様子の一端を、文学部教授鈴木幸夫の「随筆・古本屋地図 早稲田、高田馬場通り」で垣間見てみよう。

大学裏門の体育館からグランド上の戸塚の通りに出るまでに、左側に菊書房、右に稲光堂がある。菊書房は比較的新しい店で、明治文学関係、古典関係の古書や古雑誌を並べていたが、今ではかなり板についた感じがある。稲光堂は看板としてはずいぶんと古い。私が学生になったばかりの頃は、通りへ出た左側の、郵便局の先にあって、級友に主人と近しい友人があって、私も大いに、といっても定価の一割引き位で本を売ってもらった。……郵便局の隣りは白欧堂で、近代文学の、それも英仏独の洋書に珍らしいものがあり、言語学の本を集めているのも特長である。この左側は、大学へ通う人の流れと反対であるために、二丁目までには英文学、美術、哲学、歴史などの和書洋書で、一応筋のとおった本を並べている文献堂、一時は演劇関係の和書を集めていた伊豆書房、戦前は美術、文学書の貴重な宝庫であった一言堂の三軒があるにすぎない。文献堂の主人は早大の英文学出身だということである。

一言堂は大変なじみの深い店であった。主人の加納和弘君は見るからに悠然たる大人で、パリに美術関係で遊学したことがあり、父君は奈良に住んだ有名な鋳金家で、当時志賀直哉氏とも親しくしてもらっていた。上京して店を持ってからは、そんな線から座右宝刊行会の人たち、のちに徳大寺公英君などが出入りし、早大の美術の連中をはじめ、終戦直後まではちょっとした雰囲気のあるサロンの観を呈していた。……店は弟君が再開して、目下しきりに本を集めている最中である。

通りの右側は、一時さびれていたのが、年をおうごとに店数が増えた。依然として健在なのは尾崎一雄さんの小説で一躍勇名になった大観堂で、二階一杯の大看板はちょっと明治的おうようさを漂えてほほえました。先代はとっくに亡くなって、うず高かった古書の山はいつの間にか整理されて、今は古書と新刊書の半々である。……静文堂、昭文堂という新しい店が、それぞれこの通りにじっくりと落ち着き出したが、小川外科病院の片隅が、今でもぽっかり空き地のままで取り残されている。ここにユリヤ書店があった。小綺麗に整理されて、装丁の美しい本を並べ、珍しい和洋の詩集がつつましく置かれていた。主人の佐藤俊雄君とは、ここで開業した時からのつき合いで、疎開で店を畳んで、馬橋へ引っ越した。村上菊一郎君が住んでいたあとで、今ではそこで大雅洞という、主に詩集の限定出版をやっている。……今の空地にユリヤが引続いて店を持っていたら、どんなに眼福を得られたことかと思うことが時々ある。

(『日本古書通信』昭和三十五年四月十五日発行 第一九二号 一〇―一一頁)

 しかし、地下鉄東西線が開通して馬場下に早稲田駅ができると、この古書店街は一時大打撃を受けてしまった。高田馬場駅から大学まで徒歩で通学する者が激減したからである。スクールバスは相変らず通ってはいるものの、道往く人の流れはがらりと変ってしまった。高田馬場駅から乗り継ぐJR利用者や中野、三鷹などの以西の中央線沿線の学生はもとよりのこと、教職員の大半も地下鉄早稲田駅を乗降駅にするようになり、加えて、地下鉄の便利さ故に、学生は必ずしも大学近辺に下宿を定めなくてもよくなり、学生を学苑界隈から電車沿線の地へと散らばせてしまう結果ともなったからである。この古書店街を通る人々のすべてが古書店の顧客ではないが、通行人がこのように激減すれば、減った分だけ店も打撃を受けるようになったのである。更に、これに輪を掛けて古書店街を襲ったのが、四十年から四十一年にかけての「学費・学館紛争」であった。第十編第十七―十八章で詳述したようにこの百五十五日に亘る大紛争は、学生のストライキの連続で授業が行われなくなり、大学へ登校する学生もめっきり減り、近辺の食堂をはじめ学生相手の店は開店休業の状態が長く続いて商店街の死活問題となり、当然古書店も多大の影響を受けたのである。学苑や他大学の紛争と古書店との関係について「古本屋物語」は次のように記している。

戦後の世相のなかで、古本屋にとっていちばん直接的なものは、学生運動であろう。「今の若い者は本を読まなくなった」と年配者はいうが、いつの時代でも本屋の店頭を埋めるのは若者である。とりわけ、昭和四十一年から四十二年にかけては、大学紛争の年であった。学費値上げやインターン問題などが口火であったが、大きく見れば、すべてが時代の流れであった。あまりにも暗い過去を例にとるのはともかくとして、自由に批判のできる今の世を、若者たちはどのように意識しているのであろう。「占拠の思想」に傍観的でも、東大や日大の学生運動が全国に波及して、学生街の古本屋は損害を受けた。デモ隊と機動隊の衝突に、ウインドーやシャッターをこわされた店もある。歩道の敷石を割って投石するため、学校付近はみなアスファルトになった。……本郷・神田だけでなく、どこの大学でもストが始まるとその周辺の古本屋は売上げが落ちた。とくに目録販売のような、本を主とする店はひどかった。 (『東京古書組合五十年史』 六八六―六八七頁)

このように地下鉄と大学紛争は四十年代の初頭には早稲田の商店にとってもまさに商売仇きであったのである。

 そんな「学生反乱」の時期でも、早稲田古書店街にはそれなりに魅力的雰囲気があったと見え、この頃の学生は後年回顧して、「文献堂――早稲田通りのこの店は、政治の季節に、いわば一つの聖地だった。左の入囗からはいって右手の棚が文学で、ブルトンの『ナジャ』やポオ、ボードレールの全集もここで買った。左側の棚は社会学の専門書がぎっしりと並び、……若い学生は、なんとなくぴいんと張りつめた空気があって長くは立ち止まれない。そして右側へと移って行く。実はここもお目当てのコーナーで、中核、革マル、ブントなど諸セクトの機関紙、パンフレットが山のように置かれていて、『首都圏を制圧せよ!』『怒りの鉄槌を!』など刺激的な版組による『解放』への強いメーセージ(と私には思われた)が踊っていた。埴谷雄高も秋山駿も、羽仁五郎も、黒田寛一、吉本隆明そして高橋和巳もここにあった」(井桁貞義「文献堂の季節」『早稲田古書店街連合目録』平成七年九月発行 第一〇号 三〇頁)と記し、また、「昭和四十五年前後の時期に意識を集中すると、いつでも時間と空間を超えて、あの時代の世界に飛び込める。デモと催涙弾。機動隊の壁。装甲車の群れ。――バイトで金を稼ぎ、デモに明け暮れ、その合い間に大学へ。多忙の割に足繁く古本屋街をよくまわったものだった。……二朗書房、当時、早稲田に行くという事は、二朗へ行く事だった。昭和四十三年秋。この店で「学生運動関係書類」と銘うったダンボール紙に、十文字で結束された出物があった。汚い大学ノート数冊、アジビラが一杯つまっていた。買うのに躊躇した記憶がある。……谷書房、思想関係の類はこの店をよく利用した。この主人の優しさと人の良さは本を売る時に体験した。ある日、二〇冊ばかりの雑本を持って行くと、申し訳なさそうな顔をして、こういう本は、〇〇の店がいいと教えてくれた事を想い出す」(野宮章平「タイムスリ。プ――二〇年前の早稲田古本屋街」同誌 平成二年九月発行 第五号 六頁)とも述懐して、若き日の古書店街の思い出を共有している。このような学生は他にも少からずいたことであろう。また、機動隊に追われて頭から血を流している学生達が逃げ込んでくると、咄嗟に匿ってやった古書店主もいたという。やがて「学生反乱」の時期も過ぎ去ると、地下鉄の開通による打撃からも立ち直るためにも、古書店の主人達は、悩み惑いながらも結束を固め、古書店街の活性化を図っていった。

 早稲田の古書店街は、学苑をはじめ日本女子大学、学習院大学、川村学園、目白学園、富士短期大学等の諸大学や、専門学校、予備校、高等学校等、多くの教育機関を近くに持ち、いわゆる立地条件に恵まれている。そして、高田馬場駅が乗り換え駅化してきたために付近は新宿と池袋の中間に位置する唯一の繁華街となって、多くの人々が昼夜ともに集まる娯楽の街ともなってきた。こうした変貌を目の辺りにして、古書店主達は連合して、思い切って高田馬場駅前広場で「新宿古本まつり」を開催することを決意した。会場の周りには紅白の幕と提灯をめぐらせ、入口にはアーチとくす玉を掲げ、頭上には神田の青空古書展で使用した万国旗をたなびかせてお祭り気分を高めた。祈るような気持で四十六年十月三十一日に初日を迎えたこの初めての試みは、十一月五日までの会期中、多くの人波が絶えることなく大成功を収めた。そして、これを源流にして、四十九年から毎月一度一週間高田馬場駅隣のビッグボックス一階広場で「古書感謝市」を開催するようになり、また、六十一年からは年に一度十月一日から六日(時には七日)まで馬場下の文学部前の穴八幡神社境内で「早稲田青空古本祭」も始めて、これらを定着させることに成功し、店売り以外の早稲田の特色ある恒例の古書即売展として斯界に名を馳せている。もとより、こうした即売展を楽しみにして集う多くの学生や古本愛好家そして研究者に交って、学苑のOBやOGの姿が見受けられるのは言うまでもない。

 古書探し、古書店巡りは、新刊書の店とは異った独特の味わいがある。店に入るとその店独自の雰囲気、店主、お内儀さん、娘さん達の心の匂いが漂っていて、新刊書店では感じられない落着きを与えてくれる。そして、長年探し続けていた本に遭遇したりすると、百年の知己に巡り合ったような幸せを感じ、何とも言えない満足感に満たされることがある。ある者は研究や卒業論文の文献を求めて、ある者は知的快楽を求め、ある者は求道の遍歴の一過程として、古書店を訪れる人々は実に多様である。そうしたさまざまな顧客のニーズに応えて、早稲田の古書店街は、神田神保町とは異って、鉄筋建のエレベーター付きではない木造の平屋の店、株式組織ではなく店員も置かずに夫婦で、大資本・大量ではなく小資本・小量で、こぢんまりとした規模ではあるが、しかし、それ故にと言ってよいだろうが、お高くなく、きわめて融通性を以て、しかも人情味を漂わせつつ、一所懸命に営業努力をしている。加えて、空襲の被害を辛うじて免れたがために、却って、戦後、特に高度経済成長期にも、この古書店の辺りだけが「開発」から一定の距離を置いたところとなっていた。やがて大きな変貌に見舞われることになるかもしれないが、それはもう少し後年のことになるであろう。

四 高田馬場駅前と馬場下の活況

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 戦前は、学苑の教職員や学生の足は正門から神楽坂方向に向っていた。神楽坂は大正期を中心に山の手における繁華街として殷賑を誇り、ここが早稲田人の、いわば溜り場であった。それが、戦災を境にして足は西門から早稲田通りに出て高田馬場駅に続くルートへと、まさに正反対の転回を遂げた。もとよりこのルートは戦前より学苑への通勤・通学の道ではあったが、飲食を共にする会合やちょっと一杯引っかけたいなどという時は、教職員も学生も正門から鶴巻町界隈や神楽坂方面に繰り出していたのであって、高田馬場駅辺りの賑わいは戦前においては神楽坂に遠く及ばなかった。それが、前述したように地下鉄東西線の開通により、高田馬場駅が国電と西武新宿線そして東西線の交錯する乗り換え駅と化したために、四十年代に入り、高田馬場駅周辺が非常な繁華街となっていったのである。また、地下鉄早稲田駅の設置により馬場下付近も人の往来が激しくなり、非常に活況を呈するようになった。しかし、高田馬場駅前が現在のように高層建物が立ち並び、しかも、大半のビルが地下一階、二階を持ち、街全体が上方と下方に伸び、目を見張るほどの変貌を遂げていった過程には、地域の人々の大変な労苦があった。以下、東京都新宿区役所編『区成立三〇周年記念 新宿区史』によって、その経緯を少し辿ってみよう。

 戦後、駅近くには敗戦直後の多くの駅前に見受けられたような露店商が並んでいた。昭和二十六年十一月にはここや新宿の露天商の整理が終ったとはいうものの、四十年代の半ば頃までの駅近辺は、とりわけ駅前広場のビッグボックス前の現在の花壇を中心とするロータリー辺りは、バラック造りの小さな店が密集してハーモニカ長屋を形成していた。その真ん中辺りには板囲いの共同便所があった。その周りには一杯飲み屋が軒を連ね、焼き鳥屋やおでん屋、そして所々に小さな洋酒バーが、ひと味違った雰囲気を漂わせていた。夕方、それらの赤提灯に灯が点される頃になると、近所のサラリーマンや住民に交って、学苑の教職員・学生もうす汚れた暖簾やドアを押して、似たりよったりの店々に出没したものである。ここに集まってくる人々は、一日の疲れを癒したり、心の憂さを晴らしたり、ゼミやサークル仲間の親交を温めたり、教授連と学生達が「夕方からの特別授業」を始めたりで、駅周辺がまさに溜り場そのものであった。そして、ビッグボックス辺りの後方から大通りに通じる何本かの路地は、道幅が狭くてしかも急坂もあって、人や車の往来にはかなり窮屈で、この近辺は火災の多発地帯でもあり平生から消防署にマークされ続けていたのであった。この地域は戦後間もない二十三年に第一回の区画整理の対象地区となり、三十七年には都市改造事業の区画整理地となり、更に四十二年に駅周辺を二つのブロックに分けて防災建築街区に指定されてきたが、駅周辺の「戦後」は漸く四十年代半ばに終りを告げることになったと言ってよい。

 三十七年三月に駅周辺約八万平方メートルが区画整理の施行地域に指定された時、地域の商店主達はこれを機会に長年の宿願であった綺麗で明るい近代的な街造りに一斉に立ち上がり、高田馬場総合開発建設協会(のち防災街区造成組合と改称)を結成した。そして、次のような大きな目標を掲げて、都市計画を民間主導の形で積極的に推進していった。この会の独自性は、他地域に往々にしてありがちの、換地の要求や移転に伴う補償等の問題は二の次にして、商業共同高層ビルの建設によって狭い土地の効率的利用と不燃化を図ることと、地域内商店の近代化、特に中小商店の繁栄を図り、そのためには有名企業も誘致することと、高層住宅も建設して居住人口の増加と定着を図ることなどであった。やがて機構を整備して、協会(のちに組合)は順調に発足したとはいうものの、いざ実施の段階を迎えると、次々に大きな壁にぶつかったという。何と言っても、大都市の中の土地である。父祖伝来受け継いできた大事な土地を守るべきか、思い切ってこれを機に、街が繁盛して活況を呈し地価もこれに伴って倍増してもどってくるという期待にかけるか、いずれをとるかの瀬戸際の大決断である。このことは、決して地主ばかりのことではなく、借地権者、営業権者にとっても同様であった。だが、問題が起るたびに、理事長以下、組合役員が地道に知恵を出し合い一丸となって問題の解決に取り組んだ。何よりも高田馬場再開発という大目的に向って街造りに励み、これを達成させたのである。四十三年秋頃の周辺の高層化の進展には目覚しいものがあり、これは、三十九年二月に行われた新宿副都心起工式とこれに伴う新宿の高層ビル街の開発などと連動する現象と言えるであろう。かくして、高田馬場駅周辺の開発は、遂に、小規模企業振興の最もよい実例の地域として東京はもとより全国的に紹介されるまでになったのだという。当時の理事長丹羽正春は次のように語っている。

皆さんのお蔭で確かに容れものはできました。内容も着々充実していきます。しかし、この街に本当の魂が入るのはこれからです。残された問題もない訳ではありません。例えば戸塚二小付近の暗がり、高田馬場駅舎の改築等。折角ここまで開発ができたのです。ここで力を抜かず私たちも、もちろん努力は続けます。国や地方公共団体でも助言と協力を惜しまず更に立派な街に仕上げるよう援助を願って止みません。 (『区成立三〇周年記念 新宿区史』 一〇〇五頁)

 昭和六十年度のJRの一日平均乗客数は、乗車総数新宿六六万三八五六人、高田馬場一七万八二四六人、目白三万七五三九人、新大久保三万一九六九人、飯田橋八万二八九五人で、西武新宿線のそれは、高田馬場一三万五九六二人(降車総数一四万六〇七〇人)、西武新宿一一万四二四三人(同一〇万五五二四人)、中井一万二六〇三人(同一万三〇八四人)、下落合七二七九人(同七八〇九人)で、東西線のそれは、高田馬場九万二四一九人(降車数八万八三三二人)、早稲田三万四七六四人(同三万三四七八人)、飯田橋三万一五七一人(同三万一六七八人)、神楽坂一万九二五二人(同一万九八二四人)、落合一万一九一九人(同一万九五四人)である(同書 六三〇―六三一頁)。乗り換え駅としての高田馬場駅がいかに賑わうようになったか、これらの乗降車の数字によっても裏づけられる。だが、右の言にあるように、高田馬場駅の建物が近い将来に一新した暁には、また新たな駅界隈が誕生することは間違いない。

 高田馬場駅前の早稲田通りを西武線とJRのガードを潜って、すぐ右に富士短期大学(昭和二十六年四月開校)に通じる小規模の歓楽街の装いを呈しているさかえ通りを横目にして真っすぐ小滝橋方面に向うと、この辺りは昭和五十年六月に戸塚三丁目から右側が高田馬場三丁目、左側が四丁目へと住居表示を変えた沿道である。百メートルほど進むと左側に早稲田予備校があり、更に数十メートル先にレストランの「大都会」が見えてくる。かつての特徴あるレンガ造りから大きなビルにさま変りしているこの店を後にして、所々に切れ目のあるアーケードの歩道を更に進むと左右にパチンコ店、食堂、薬局、雑貨屋、居酒屋などが昔ながらのたたずまいで軒を連ね、やがて左側の「シチズンプラザ」手前辺りで賑やかさも途絶えてくる。この付近は戦災を免れたこともあって、細い路地が何本も早稲田通りに通じている。特に、「大都会」から「シチズンプラザ」にかけての裏手辺り一帯の路地に入っていくと、迷路のように細い道が曲がりくねったり交差したりしている。路地の一帯には三階建くらいのマンションが点在していても、古くからある木造アパートや一戸建住宅が寄り添うように仲よく並んでいるのが目につく。「シチズンプラザ」の裏手には、学苑を超えて言論界・政界で名を馳せた「輝ける委員長」大山郁夫の旧宅も、改築されはしたがその地にあり、特にこの辺りには、かつての早稲田界隈の何とも言えない落ち着いた静かな生活のたたずまいの名残りが感じられる。その先の小滝橋に出て、小滝橋交差点から左に高田馬場四丁目、右に百人町四丁目を境にする補助七四号通りの緩やかな坂道を進んでいくと、右側に並んでいる都営戸山団地のはずれ辺りで道路は一旦細くなる。これがその少し先で再び広くなって、JRと西武線のガード第一戸塚架道橋を抜けると諏訪通りに繫がっていく。そして、明治通りを横切って、道はそのまま馬場下に至り学苑の南門通りとなって正門に通じていくのである。すなわち、この道路は馬場下交差点と小滝橋交差点の二ヵ所で早稲田通りと交わっているのである。この二つの道路によって細長く楕円形状に囲まれている地域の大半も、未だに戦前の名残りをとどめている所がかなり散見され、従って、小滝橋から正門までの道がはっきりと一本になる頃には、「開発」も進んで、また街が一変してしまうかもしれない。

 さて、馬場下界隈であるが、ここは、地下鉄東西線の早稲田駅が開設されるに伴って、旧時の面目を一新することになった。穴八幡神社下の戸山キャンパスは、高等学院の上石神井への移転後、昭和三十七年四月に第一・第二文学部が本部キャンパスより移転してきて、校舎も木造から斬新な現代的建物に全く装いを新たにし、特に女子学生が多いこともあって華やかな雰囲気になった。

 しかし、食堂らしいものさえなく、教職員や学生は不便を感じていたが、やがて、食堂「まんぷく」や喫茶店ができ、不便をやや解消させたが、馬場下の変りざまの激しさは、交差点から早稲田駅の三ヵ所の入口付近にかけての二百メートルほどの早稲田通りと夏目坂近辺に見られる。地下鉄開通以前には、早稲田中学・高等学校の正門の左右に老舗の蕎麦屋「三朝庵」と菓子屋「武蔵野」および材木店や食堂、それに向い側に老舗の飴屋があったくらいである。それが、早稲田駅の開業により、グラウンド坂上の西早稲田や早稲田車庫近くの神田川沿いの文京区の住民、そして夏目坂上方向の戸山町、喜久井町、若松町方面の人々も、一斉にこの駅を利用するようになった。勿論、学苑の教職員や学生も前述のように圧倒的にこの駅を拠点としたために、周辺はかなりの賑わいを見せる商店街となったのである。当然学生相手の店もでき始めた。喫茶店や立ち食い蕎麦屋などで、特に早稲田中学・高等学校前にできた喫茶店「ジャルダン」(のちに第一勧業銀行となる地)は一時有名であった。二階建で中庭があり、ピアノも置いてあるこの店は、従来の早稲田には珍しく明るく、奥にテラス調の雰囲気もあった。特に四十年から四十一年にかけての「学費・学館紛争」の頃には、女子学生の多い文学部の学生達の溜り場となった。折から在学中の女優吉永小百合なども出入りした一人である。すなわち、文学部の学生達は、授業の合い間には、本部キャンパス方面に行かなくても、穴八幡の境内で語り合ったり本を読んだり陽なたぼっこしたり、あるいは馬場下の喫茶店などで時間をつぶすことができるようになったわけである。

 ところで、馬場下の文学部と体育局の後方には、戦前、馬場下―高田馬場駅―新大久保駅の三点で囲まれる形で、広大な陸軍の施設があった。戦後、この地域は都や民間の施設となった。その一部は、二十四年春に米国払下げ資材等により木造二世帯住宅の「戸山ハイツ」千六十二戸が完成してまとまった住宅地となった。その隣には二十五年三月に学習院女子短期大学などが開校し、また、明治通りの反対側には二十九年八月に都立戸山公園が開設され、そしてその隣に明治通りに面して、三十八年九月に学苑理工学部校舎が竣工して大久保キャンパスを形成したりしたため、戦前の軍用施設は跡形もなくなった。更に、四十三年十一月から「戸山ハイツ」の鉄筋高層住宅化が始まり、五十年三月に三千五十一戸が完成して広大な住宅地区となった。しかし、そのはずれには、学苑生も散歩がてらによく登った東京二十三区内で最高峰の「箱根山」が、現在でも別世界を保って健在である。

 夏目坂下も、早稲田駅交差点角に江戸時代以来の老舗の酒屋「小倉屋」と鰻専門の「すず金」とがあるくらいで、普通の民家が軒を並べていたのであるが、早稲田駅開設後には喫茶店・食堂・大衆酒場ができ始め、中高層の建物が出現し、銀行やスーパーマーケットも進出するようになった。古くからの住民に通勤、通学する人々が加わり、いわゆる昼間人口を増加させて、高田馬場駅前の盛況には規模の面でも遥かに及ばないが、一応の賑わいを見せるようになったのである。だが、早稲田駅交差点から早大通りに向う通りは、左右に早稲田中学・高等学校と早稲田実業の両系属校が向い合う形で並んでいるために、商店街はできにくい。それでも、早実の並びには近年少しずつ中華料理をはじめ小さな商店が僅かに現れてきている。そして、その先の、かつて戦前に賑わった鶴巻町、そしてその先の神田川沿いにかけての付近は、やはり四十年代の後半から中規模のビルが建ち始め、マンガ専門図書館など珍しい施設も登場し、戦前以来の落ち着いた喫茶店「早苗」もビルの中に装いを新たにしたりしている。中でも、旧来からある中小の印刷・製本会社が立派な社屋に脱皮し、独自の地域を形成してきている。

五 「神田川」ロマン

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 早稲田界隈の変貌とともに、この地に学生生活の拠点を定めていた下宿学生も年一年と減少していった。学苑界隈の木造・モルタル造の下宿屋、共同炊事場・共同便所のアパート等が、台所・浴室・トイレ付きのいわゆるマンションに改築されていくに従って、家賃は高くなっていった。このため、学生はこの界隈を追われるようにして、東西線や西武沿線に移っていってしまった。現在でも、早稲田界隈には昔ながらの下宿屋が少数ではあるが散在している。しかし、学生の下宿生活のピークは四十年代までと言ってよい。

 この頃までの早稲田には、三四郎の池での思索や蔦の絡まるチャペルでの語らいに代るものとして、学生風俗としての下宿生活が残っていた。そして、そこは「早稲田イメージ」を濃厚に維持する空間であった。戦前から戦後にかけての学苑界隈の雰囲気は、早稲田に生れ、早稲田中学校に進み、早稲田実業学校に転じ、やがてグラウンド坂上の「八幡鮨」の家業を嗣いだ安井弘が、「叔母に手を引かれ、早大構内を通りぬけて鶴巻幼稚園へ通っていた昭和十四年ごろの正門通りは、バスがようやくスレ違うほどの道幅で、本屋さんや喫茶店など学生さん相手の店がギッシリ並び大変賑やかだった。また、戦災までは大学周辺だけで四百軒の下宿屋があったといわれている。今の早大一号館の窓から馴染みの職員さんが『オーイ坊主今帰りかい』と声をかけてくれた。構内はまた、格好の遊び場でもあった。今は考えられないが、入試の時も自由に人が往き交っていたものだ。グランドで野球を見て、相撲の道場をのぞき、柔道、剣道を見学した」(「二つの母校」『早稲田古書店街連合目録』平成三年九月発行 第六号 二三頁)と子供時代を回顧しているが、こうした「大学と地域」の結びつきは、戦後になっても決して絶えてしまったわけではない。今日の正門が完成した昭和十年に門柱と扉を取り払い、爾来、学苑は門によって町場と区切るという形をとらなかったので、きわめてオープンなキャンパスのあり方のうちに早稲田大学=自由な大学とする見方が芽生えてきた。早稲田大学には創立以来門がなかったと信じる人々が校友のうちにも少からずいるけれども、実のところ、門のない大学であり続けたのは約三十年間に過ぎず、昭和四十四年暮、この正門に鉄柵状の門扉が設けられて、夜間や休日には構内に出入りできなくなった。その時には一時的な措置であったが、その後相次いだ政治的学生集団間の抗争や、学費値上げが発表されるたびに起ったストライキの影響を受けて、やがて恒久的なものとなり、遂に五十六年秋、この門扉は現在のアコーディオン式開閉ドアに替えられた。地域の子供や人々が学苑に親しみを感じ愛着を持ってくれているからこそ、下宿する学苑生もまた地域にゆったりと溶け込んで、大学生という青春期を存分にエンジョイすることができたのである。ともあれ、門のない大学の三十年余は、門の有無を超えた意味を持っているとすべきである。昭和三十年に政治経済学部に入学して、卒業後読売テレビに勤務するようになった加藤庸介は、三十年代初頭の界隈における下宿生活を次のように語っている。

ワセダの四年間で下宿を四回変わりましたが、最初の下宿は喜久井町のお医者さんの離れでした。医者が素人下宿をするというのも現在の常識では妙な気がしますが、そこに入っていた四人の学生たちはそのお医者さんよりもっと手許不如意。しかしお金はないけれども暇だけは幾らでもあった。高校時代受験準備に追われつづけた反動で、入学した年は毎日学校周辺に遊びには行ったが教室にはほとんど足を踏み入れなかった。遊ぶ、といっても肝心の軍資金はない。ご多分に漏れず友人たちと雀荘に籠もるか二本立て映画は新宿で確か五十円、三角寛が経営する池袋「人生座」は番組が古いのでもっと安くて三十円だったかなぁ。

ワセダ界隈は歩いた歩いた。今はどうか知りませんが、当時の早稲田通りは東京の中の田舎、といった感じで地方(岐阜)から出てきた人間にもなじみやすい町でした。そうそう、ある時路地の道端にたらいを出して洗濯していたおばさん(当時の庶民に電気洗濯機なぞ高根の花だった)に道を尋ねたら「ここをマッツグ行って右に曲がったところだヨッ」と「下町なまり」で教えられ、「ああ、オレはワセダに入ったんだ」と妙に感動したことがありましたね。尾崎一雄の『暢気眼鏡』(昭和八年)時代の雰囲気はまだまだ町にたっぷり残っていました。……牛込、市ケ谷の方にも足を延ばしました。矢来町の新潮社、途中にあった漱石山房、そして神楽坂、飯田橋と歩きましたね。……五木寛之さんの『青春の門』に出てくる赤線地帯は新宿二丁目を代表格に二年生の時まで健在でした。売春防止法が公布された昭和三十一年(一九五六)を境に「戦前派」「戦後派」を区分けする話は後になって聞きました。その伝で言えばわれわれの世代は「戦中派」と呼ぶべきかも知れませんね。

(「『昭和』は遠くになりにけり」同誌平成四年九月発行 第七号 九―一〇頁)

このように、『暢気眼鏡』時代の雰囲気が残っていたと、三十年代初頭の様子を証言している。

 では十年後の四十一年に入学した学苑生の場合はどうか。彼らは「学費・学館紛争」最中の新入生である。この頃はいわゆる「全共闘」時代で、機動隊に守られ受験票を提示して入学試験を受けた世代である。そして、「政治的学生」が学苑紛争や羽田、成田、佐世保などで政治的闘争を重ねながら、青春を送っていた時代である。その一人に、後の詩人喜多条忠がいた。彼は四十一年に入学し、早稲田界隈に下宿して学生生活を送り、やがて成田の三里塚へ援農闘争に出かけ、第一、第二の羽田闘争にも加わった。だが、出かけていったデモではいつも機動隊の圧倒的な厚い壁に粉砕されてしまった。そして、催涙ガス弾にも見舞われて激痛を伴った涙とともに敗北感にさいなまれ、学苑をも中退したという。彼らにとっては、周りがすべて体制側そのものであり、そして、自己にとっては、「挫折がすべて」でもあった時代である。そうした暗く不安な「青春」の体験を背景にして作詞した歌が大ヒットしたのが、南こうせつとかぐや姫が歌った「神田川」であった。この歌は四十八年にクラウンレコードから発売され、瞬く間に百五十万枚も売れてしまったという。ちょうど「政治の季節」の終焉を象徴するような現象である。喜多条は、その下宿時代を回想して次のように記している。

僕らの世代は、学生のタイプとして、それほど多くのパターンを持っていなかったように思う。政治的過激と、無関心、そしてその中間であるノンポリ。プライベートには、同棲時代が流行り、学校すら行く奴と行かない奴の二種類しか無かった。当時の僕のノートがある。仕送りが三万円。まかない付きの下宿が一万三千円。これは六畳間である。そして本代。これはもっぱら古本であるが一万五千円。月々の借金が約一万円。どう考えても計算が合わぬ。これを埋めるのが、肉体労働などのアルバイトという奴である。

あなたはもう忘れたかしら

赤いてぬぐい マフラーにして

二人で行った 横丁の風呂屋

僕の書いた詩に南こうせつが曲をつけた「神田川」という歌が流行したのは、昭和四八年である。横丁の風呂屋というのは、戸塚一丁目から甘泉園の方へ、ちょっと入った安兵衛湯。……その横に、岡安質店というのがある。ここにはよく学帽を入れた。学帽を入れるたびに、岡安の大おじいちゃんに説教をされる。「学生さん、学帽、特にワセダの角帽を質に入れるのは、武士でいえば刀を入れるも同じ。わかりますか?……。」この説教をくらった後で、いつも法外と思える高い値段をつけてくれるのが、これまたつらいもんであった。

僕と当時の彼女とが住んでいたアパートは、戸塚二丁目の大同病院から、高田馬場寄りにちょっと入った神田川沿いの三畳一間。つまりは、僕がイソウロウをしていたわけであるが、部屋にはゴミ箱がなかった。窓の下には神田川というわけで、川が全てを流してくれた。我々の想い出も一緒に……。

(「『神田川』のころ」同誌 昭和六十三年十月発行 第三号 九ー一〇頁)

こうした生活がすべての学苑生の下宿生活ではないのは勿論であるが、この時代の「政治の季節」を過ごした世代の一端を示していることは間違いない。喜多条がインタビューに答えて、

爆発的な売れ行きの原因ですか?反体制闘争のすべてが見事に挫折した時代です。寒々しい時代と風景。学問も、就職も、闘争も、僕らの言葉でいえば「すべてが情況に散在していった真冬の季節」に、風呂あがりの小さなぬくもりが求められたと思います。

なにもこわくなかった ただ

あなたの やさしさだけが こわかった

この二行が、あの世代のキーワードだといわれました。〓(朝日新聞社会部『神田川』 一三頁)

と語っているように、この時期の若者に少からず共感を呼んだようである。フォークソングの中で男性歌手が女性人称で唄った最初のヒット曲と言われ、「口語体の歌詞や南こうせつの明るい声でうたわれた『神田川』は、はるかに幅広い人気を獲得しました。五木寛之は後に『神田川』を『全体のトーンそのものは古風なロマンチシズムだが、石鹼がカタカタ鳴る、というような細部の感覚に新しい世代の歌を感じた』(『青春ふたり旅』)と評」している(北中正和『にほんの戦後歌謡曲史』一七一―一七二頁)。確かに、十年前の三十年代初頭とは明らかに異った新世代のメッセージが、この歌からは伝わってくる。

 こうした新世代の学生達が四十年代の早稲田の一隅で青春を送っていた。それから二十年ほど後の創立百周年の五十七年頃から昭和の末年(昭和六十四年=平成元年)頃の学生の場合はどうなったのか。昭和六十二年に教育学部を卒業して中日新聞・東京新聞に入社した蒲敏哉は、学苑界隈での生活を次のように回想している。

私の学生時代はどうだったか。クラスメイトの大部分は四畳半や六畳の共同炊事、共同トイレの下宿で暮らしていた。私自身は、都電面影橋近くの下宿二階の六畳間を借りて住んでいた。皆、同じ生活だったので、それで貧しいとか、風呂付きの部屋へ移りたいとか思ったことはなかった。先輩で一度「俺は風呂付きの部屋を目指す」と頑張った人がいたが、家賃のためのアルバイトや、風呂目当てに毎晩押し掛ける仲間たちにうんざりして、半年余りで四畳半に撤退したのを覚えている。

街とのつながりもそれなりにあった。……居酒屋でも、今も、顔を出すと覚えていてくれる店がある。学生時代、アイドルだったその店の看板娘も今は結婚して二児の母だ。数ある早稲田の店の中で、学生に馴染みが深いのが銭湯。……安兵衛湯は、知名度もさることながら、個人的にも大変お世話になったお風呂屋さんである。いつも番台にいるおばさんは、とても優しく、早慶戦の夜、新宿の池に飛び込んで泥だらけになった私たちの足を雑巾でぬぐってくれた事もあった。また合宿から深夜帰宅し、閉店直前に飛び込んで来た私に「女風呂はお湯が残っているから入っていきなさい」と勧めてくれたこともあった。おばさんによると女風呂に入った学生は、後にも先にも私一人だったらしい。

(「早稲田の昨今」『早稲田古書店街連合目録』平成二年九月発行 第五号 一五頁)

 この頃でも、「バンカラ早稲田」健在の感があるが、その蒲は卒業僅か三年後に界隈を歩き回って驚愕してしまったという。堀部安兵衛が高田馬場で仇討ちしたのに因みその傍らに昭和六年に開業して、戦前・戦後を通じ長い間学苑生に親しまれてきた先の安兵衛湯が、平成二年五月に廃業してしまっていたからである。彼は、「学生さんたちの気質が変わってきたからね」と寂しそうにつぶやくかつての安兵衛湯の女将に久しぶりに会って、その急激な変化が、学生のライフスタイルの変化によるものか、じわじわ高騰する最近の地価により街そのものが大きな転換期に入っているのか、と自問自答する。そして、その足で、学苑の学生生活担当に早速取材を試みた。その結果、新年度を控えた平成二年一月から三月までに受け付けられた貸部屋物件は約三千二百件で、そのうち賄付きの下宿屋は百二十三件あるが、大部分が郊外に所在し、早稲田界隈には殆ど存在しない状態であること、また、学生の気質や生活の変化とは別に、地価が高騰して、早稲田の地も今や都心の一等地となり、下宿やアパートの大家さんも人件費、管理費、代替りの相続税等で悩んでいることも知らされる。更に、東京共同住宅協会に行って都内の賃貸住宅やアパートの様子を聞いてみると、古い下宿屋が耐用年数を過ぎて、新しいワンルーム・マンションに建て替えられている例が多く、大手建設会社が絡んで土地そのものを売却して移転してしまう大家さんも多く、贅沢志向と地価高騰が結果としてワンルーム・マンションに住む学生を増加させ、そうしたことが銭湯の減少にもつながっているのではないかと推測しているのを知る。かくして、彼は、各所を取材してみて、

確かにこうした関係者の話しを聞いていると、早稲田の学生は皆ぜいたく志向とも受け取れるが、私の後輩たちの中には、鶴巻町の三畳間に住んでいるのもいるし、文学部の裏の六畳間で朝昼晩きちんと自炊しているのもいる。置いてあるテレビも近くの粗大ごみをひろってきた「音しか出ない」代物だ。昔ながらのバンカラ学生はまだまだ早稲田には「生息」している。しかし、いずれの下宿も二、三年後には取り壊す予定で、大家から立ち退きの勧告が出ているのも事実だ。 (同前)

と、「バンカラの生息」を僅かに見出しつつも、このような見通しを立てざるを得ないとしている。彼は言う、「学生時代を振り返るたび、私は、自分を育ててくれたのは、大学と言うより、早稲田の街そのものではなかったかという気持ちを強く持つ。だから私は、安兵衛湯の廃業を聞いたとき、自分の青春時代の一部が無くなるようで、たまらなく悲しかった」(同前)と。こうした「悲しさ」は、早稲田界隈で青春を過ごしたことのある校友であれば誰もが等しく共有するところであろう。このことは、「ワセダが好きでワセダにやって来た人間は、……条件反射を体験してしまうのである。淋しくなったり、生きるのにくたびれたり、行きづまったりすると、そうした人間はワセダに足を向けている。もう二昔も、三昔も経っている街を歩いていると、時々タイムスリップする情景にぶつかる。それは、今も変らず残っている電信柱であったり、壁の古傷であったりする。それとやっぱり風だろう。部屋を吹き抜ける風、古本屋の中の風。そしてコロッケや揚げ物の匂いを運んでくる風。下宿屋のある角のカレーライスの匂い。懐かしくも、もう戻ることのない青春と同じ風が、やっぱり吹いてくる街。それが早稲田だ」(喜多条忠「『神田川』のころ」同誌第三号 一〇頁)と言われるように、「風」や「匂い」などを漂わせていた「心の故郷」の心象風景が実際面では喪失させられつつあることを意味している。

 だが、校友達にとっての「喪失」は、この地に現実に住んでいる人々にとっては、新たな活性化を目指す「開発」に結びついていることもまた事実なのである。新しい「創造」のためには、同時に「破壊」を伴うことは避けられない。しかし、伝統や引き継ぐべき文化的遺産までをも「破壊」して何が「創造」なのか、という声も高い。地域における「創造」が、そこに生活する人々の「我が街」を思う魂までも失わせて強行されてしまっては、生活する家は単なる建物、人情味のある街路は単なる通行路と化してしまう。早稲田界隈は、現在では少くなりつつある「都心の伝統ある大学」を持っている。学苑は、いわば、繁華街の中にあるという立地条件を重視して、「早稲田という街そのものが大学」という個性ある街区を将来に亘って地域の人々とともに維持し、発展させ、「共存」「共生」していかなくてはならない。そのためには、学苑と地域の人々、商店、企業、そして行政とが知恵を出し合い、渾然一体となって再開発に取り組まなくてはならない。学苑は現在、「地域と大学」という難しい課題を背負っている。キャンパスの将来計画の立案、その実行に際しては、この難しい課題から顔をそむけてはならないのである。