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第十二編 第二世紀へ向って

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第一章 清水総長の就任と創立百周年記念事業計画

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 学苑は昭和五十七年に創立百周年を迎え、第二世紀に歩みを進める。百周年を記念する諸事業は村井資長総長の時代に始動し、これを清水司総長が承け継いだ。華やかに執り行われた百周年記念行事を挟み、学苑は次の百年に磐石の基礎を据えるべき記念事業の実現に努めた。そしてこの事業は平成二年十月、清水総長の後を承けた西原春夫総長の下で完成を見るのである。

一 清水総長の就任

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 昭和五十三年秋、村井総長は二度目の任期満了を迎える。第十一編第六章で既述した如く、四十九年四月一日に施行された校規の一部改正により、総長は「同一人につき引き続き二期を超えて」選挙できないことになったため、村井総長は十一月四日を以て勇退する運びとなった。

 七月三日、大学は「総長の任期満了に伴い、総長を決定する選挙を十月二十七日(金)に行います」との公示を出し、七日には総長選挙管理委員会委員の名簿が発表された。翌八日、五六八―五六九頁に掲出したものとほぼ同様の総長選挙実施日程が通知され、総長候補者選挙人名簿の閲覧が開始された。十四日には、九月二十二日に三箇所の投票所で総長候補者選挙を行う旨が公示され、併せて総長候補者選挙実施要領が通知された。

 候補者選挙の投票は予定通りに進められ、投票総数は千三百八十八(有効投票数千三百四十五)で、左の得票者が九月二十六日付で発表された。

第一位 七九一票 清水司(理工学部教授)

第二位 二九六票 並木美喜雄(理工学部教授)

第三位 一六九票 滝口宏(教育学部教授)

総長候補者の要件は、得票順位が五位までであって、その得票数が投票総数の二十分の一(七十票)以上である。この要件を満たしたのは、右に発表された三名であった。しかし、並木、滝口の両名が候補者となることを辞退したため、候補者が一人になった場合、「その候補者の候補者選挙における得票数が、投票総数の過半数に達しているときは、決定選挙の投票を経ないでその者を当選者とする」との規定により、決定選挙を経ずに清水の当選が確定した。このプロセスは、五八三頁に説述した、四十九年に行われた前回の総長選挙のそれとよく似ている。

 学生による信認投票は、十月四日から七日まで四日間に亘って行われた。八日に選挙管理委員会によって発表された開票結果は、「候補者清水司氏を信認しない旨の投票は八八〇票で、在籍学生数四三、六九四人の過半数の票数に達しなかった。なお、投票総数は一、七四一票であった」(『早稲田大学広報』昭和五十三年十月十八日号)というものである。試みに投票率を算出するならば、その値は四パーセントを割っている。十九日付学生紙『早稲田大学新聞』はこれを「わずか四パーセントの低調/投票所は終日閑古鳥」との見出しの下に、「今回の信認投票は四年前の総長選挙での二、〇一一(不信認一、二一〇)に比べても相当減少しており、あらためて総長選、とりわけ学生信認投票への学生の関心の薄さが示されたといえよう」と報じた。

 信認投票の開票の後、総長選挙管理委員会からの連絡を受けた清水は総長就任を受諾した。この時清水は齢五十三、学苑史上最年少の総長が誕生することとなったのである。

 清水司は大正十四年一月二十二日新潟県に生れ、昭和二十三年学苑理工学部電気通信学科を卒業後、五年間大学院で文部省特別研究生として電波工学を専攻した。三十五年工学博士の学位を取得している。四十二年に誠文堂新光社から刊行された『物性電子工学』がその主著と言えよう。

 学苑における職歴は、二十四年第一理工学部助手となり、専任講師、助教授を経て四十年に教授に昇っている。また、四十三年から二年間大学院委員会委員を務め、四十五年以降は庶務担当の常任理事であった。学外でも、四十四年に文部省大学設置審議会専門委員、同年以降文部省の放送大学に関する調査研究会議委員、四十六年から五年間科学技術庁電子技術審議会専門委員を歴任するなど、多彩な活躍ぶりを見せている。

 十月十一日、清水次期総長は学生紙との記者会見に応じた。十九日付の『早稲田大学新聞』は、一問一答の記事の後に、次のような解説を載せている。

清水常任理事は七十年の村井総長就任と同時に常任理事となり、八年間総長の片腕として学内行政にあたってきた。総長の病気療養中は総長代行を務め、その行政手腕は高く評価されているという。清水理事は本人も「私は若輩」と強調するように、最年少総長という年齢面もさることながら、学部長経験もなく、歴代の総長と比較すれば『異例』な総長の誕生といえる。……二期目の村井内閣では筆頭常任理事として百周年事業の下地づくりを着々と積み重ね、計画委発足にあたっては副委員長に就任し、委員会を中心になって運営してきた。……今回の総長選にあたっては、教職員の評価として「温和な人柄」「柔軟な調整力と公平さ」などがあげられている。清水氏に反対の立場をとる教職員さえ「個人的には誠実な人柄」と評している。……今回の総長選挙は、四年後にひかえた百周年事業の推進者を決定する選挙として各方面からの注目を集め、……従来にない波乱を呼んだ選挙となった。村井政権下で既定方針化された「百周年事業候補」を実現するための学内体制は、十一月十五日に予定されている評議員会での清水新内閣誕生によってほぼ完了するであろう。

 十一月五日、前日付で退任した村井総長の後を承けて清水司が第十一代総長に就任した。新総長としての抱負を、清水は「総長就任にあたって」と題する次の一文で述べている。

今日、世界は政治、経済、社会などあらゆる面で、大きな曲り角に立っています。また、わが国においても、明治以来の欧米先進国に追いつけ追い越せと励んできた知識導入型の繁栄は、すでに行きづまり限界に達したといえます。科学技術のめざましい発達とその成果は、社会に物質的豊かさをもたらしましたが、一方において、急激な社会革新を伴い、社会のなかに、さまざまな歪みや予測しえなかった多種多様な問題をもたらしつつあります。社会変革のスピードの必ずしも速くなかった時代においては、人びとは個人個人の叡智と努力で、これらの歪みを吸収し、調和させていくことができました。しかし今日では、個人の智恵と努力のみでは社会の変革を吸収しえなくなりつつあります。若年層に無気力、無関心といった形での虚無感が一般化しつつあるといわれることも、その現れの一つといえましょう。……大学は、つぎの時代を荷なう青年を育てる高等教育機関として、学術と文化の源泉として、これからの社会つまり二十一世紀の人類の平和と一致のために、その装いを新たにし、果して行かなければならない役割は、きわめて大きいといえましょう。早稲田大学は、学問の独立、学問の活用、模範国民の造就をもって建学の本旨とし、二十世紀におけるわが国近代化のために大きな役割を果してきました。ことに、明治五年の学制発布に始まる近代教育制度の揺籃期において、当時の専門学校が「外国教師ニテ教授スル高尚ナル学校」とされていたとき、「外国教師によらない邦語による専門学術の教授」をうたい、以来、学問の独立、学問の活用を提唱して、学問を庶民のものとしてきた伝統は、私どものもっとも誇りとするところであります。そして今日わが国における教育の普及、ことに戦後の高等教育のそれは、まことにめざましいものがあります。すなわち、国民の知的水準の向上と日本民族の勤勉さとが、今日のわが国の繁栄をもたらしたといっても過言ではないと思います。このようななかにあって、早稲田大学は二十一世紀に向けて新しい世界のリーダーとなるべき日本を作りあげるため、学術と文化における先達としての役割を果さなければならないと考えます。今こそ、早稲田大学教旨を思いかえし、新しい意義を見出し、実践していくことが私たちに課せられた使命ではないかと思います。

早稲田大学はこれから四年後に創立百周年を迎えます。現在、大学においては百周年記念事業計画が検討されつつあります。この記念事業がこのような意味において、二十一世紀に向けて、早稲田大学を新しく発展させる力となることを願うものであります。たまたま、私どもがこの歴史的な大きな節目にめぐり合わすことができることは、まことに光栄なことでありますが、また一面、その果すべき責任は重大なものがあります。禅のことばに「時はいのちなり」というのがあります。一切の過去がいまという時に凝縮され、一切の未来がいまという時から流れ出すことに思いを致し、私はいまという時をこのうえなく大切にし、内なる自分を正し、心身のすべてを捧げて、己の任務を果したいと思います。

(『早稲田学報』昭和五十三年十一月発行 第八八六号 二―三頁)

 同時に発表された村井前総長の「退任にあたって」なる一文も、「清水新総長のもとで、百周年に向けて、学園がいっそう飛躍することを祈念し、退任のご挨拶といたします」(同前 四頁)という言葉で結ばれている。

 八日に校友会館で開かれた臨時評議員会において、新理事・監事が選任され、同日同所で開かれた臨時理事会で理事の業務分担と総長職務の代理・代行順位が決定された。新理事会の顔触れは次の通りである(*印は重任)。

常任理事 正田健一郎(教務担当)、外木典夫(学生・広報担当)、勝村茂(庶務・人事担当)、佐々木省三(経理・労務担当)

理事 西原春夫(教務・法規関係)、川副国基(教務関係)、宇野政雄(事業関係)、時岡弘(労務関係)、渡部辰巳(庶務関係)、黒板駿策(財務関係)、佐藤欣治(財務関係)

監事 大友恒夫、渡辺敏三

校規の規定による総長職務の代理または代行者は、第一順位正田、第二順位外木、第三順位勝村となった。

 新執行部の果すべき使命は、前新両総長の言のうちに明らかであるからここに多言は要しない。創立百周年記念事業の遂行および行事執行の衝に当ることは、村井前総長の下で筆頭常任理事を務めた清水にとって一つの巡り合せであった。当時、それを転がり込んできた栄誉であるかの如くに吹聴する言説が目立ったのは、浅薄と言うべきであろう。記念事業は実現に向けての歩みを進めた途端、当初は想像できなかった数多くの困難に逢着するのが必然なのである。敢えて火中の栗を拾う覚悟を固めたのだと考えるべきである。

二 創立百周年記念事業の策定

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 昭和四十五年、村井資長は新総長就任に際し、『早稲田学報』(昭和四十五年十一月発行 第八〇六号)誌上で、「新しいヴィジョンのもとに……都の西北にあらたな学府を築くこと」(三頁)を約束した。そして五十三年に総長を退任するまで、村井はこの公約を「創立百周年記念事業」として実現することに力を注いだ。明治十五年に東京専門学校として開校された学苑は、昭和五十七年に創立百周年という、大きな節目を迎える。そこで、これを機に全学的な規模の事業を行い、二十一世紀に向けての大きな展開を図ろうというわけである。

 村井の創立百周年記念事業構想の核心は、第一に医学部の新設、第二に既存学部の移転を含むキャンパスの拡張、第三に新中央図書館の建設にあった。そして、この三者はいずれも学苑の歴史や現状に根ざす切実な要請であった。

 先ず医学部の設置であるが、それは明治時代以来の学苑の悲願であったと言っても決して誇張ではない。既に第二巻三四〇頁以下に詳述したように、日露戦争後、創立二十五周年を記念して立案された第二期計画の一環として、学苑では医科と理工科の設立が企図された。それは大隈重信の大学教育に対する一つの大きな理想でもあった。しかし、大学財政その他の問題が完全に解決できず、理工科は計画通りに新設されたものの、医科設立は「無期延期」のやむなきに至った。以後、医学部の新設は機会あるごとに強く要望されながら、結局は実現を見なかった。

 第二次大戦後に至っても、医学部設置問題は繰り返し論議されている。先ず指摘すべきは、昭和二十五年から二十八年にかけて世の話題ともなった日本医科大学との提携問題であろう。同大学との提携交渉は、二十五年、同大学付属病院に入院中の学苑名誉教授山本忠興による非公式提案に始まり、翌二十七年の学苑評議員原安三郎の日本医科大学事務総長訪問、商議員会長小山松寿と同大学出身の有力者との交渉などにより進展し(『早稲田大学新聞』昭和二十八年九月二十九日号)、二十八年には、小山が同大学学長を訪問し提携を申し込んだ(同紙 昭和二十八年十月七日号)。日本医科大学では、この提携が早稲田大学への「併合」に外ならないとする同大学首脳部を中心とする危機感と、総合大学の下での一大飛躍を望む教職員や学生の期待感とが激しくぶつかり合ったが、最終的には同大学理事会の判断により、提携問題は非公式のまま打ち切りとなった(『日本医科大学八十周年記念誌』一〇〇頁)。

 昭和三十一年の河野一郎農林大臣の第一国立病院(現国立国際医療センター)払下げ発言も、学苑内外で物議をかもした。同年七月十七日の閣議で政府は国立病院を民間団体に移管する方針を打ち出したが、閣議の席上、校友の河野大臣が国立第一病院を早稲田大学の付属病院として払い下げたいと発言したのである(『早稲田大学新聞』昭和三十一年八月十五日号)。しかし、この時も厚生省の強い反対により払下げは言葉のレヴェルにとどまった。

 その後も、一七七頁以下で既述した如く、創立八十周年記念事業を立案する際に、当初、医学部創設が考慮されていた。以上のような経緯を考えると、村井総長時代に、創立百周年記念事業計画の目玉の一つとして医学部の新設が考えられたとしても、それは大隈の夢を百周年を機に実現しようという意味において、いわば自然の成行きであった。

 第二の過密キャンパス解消問題は、第十編第十三章に既述した、夜間学部廃止に伴う昼間学部の入学定員拡大に由来している。すなわち、新制早稲田大学の特色の一つであった第二学部のうち、社会科学系統の第二政治経済学部・法学部・商学部ならびに第二理工学部の四学部は、勤労学生に対する大学教育の門戸開放という当初の意義が次第に稀薄化したことに鑑み、昭和三十年代後半から四十年代にかけて学生募集を停止し、他方、入学競争がきわめて難関化した第一学部の入学定員を拡大して、学苑入学志望者の要求に多少なりとも応えようとした。けれども、それは結果として、昼間学部学生数の急増とキャンパス過密状況をもたらしてしまった。そこで村井総長時代に、創立百周年記念事業の一環として既存学部の移転を含む大規模なキャンパスの拡張が計画され、千葉県幕張の海岸埋立地がその有力候補として浮上したのである。尤も、村井の回想によれば、その着想の背後には、取得したものの利用計画が定まっていなかった埼玉県本庄の地に農学部を新設するとともに、「これを足がかりにして海洋学部を海に面した幕張に建設しよう」(村井資長『変貌した大学の改革を――早稲田からの提言』二九―三〇頁)という構想も存在した。

 新中央図書館の建設もまた、キャンパスの拡張と同様、学苑に課せられた緊急の課題となっていた。大正十四年に竣工した中央図書館は、当時としては日本の大学図書館の中で屈指の規模と機能を誇っていたけれども、いかんせん五十年近くの歳月を経る間に狭隘となり、第四巻一一二五―一一二六頁に既述した増築工事にも拘らず、その蔵書をすべて書庫に収めることさえ不可能となってしまった。書庫に収めることができない蔵書の一部は品川の倉庫に別置され、本来あるべき図書館の姿からはかけ離れた状態となっていたのである。また、情報化社会に対応する総合大学の図書館としては、その機能の点から見ても甚だ旧式であった。そこで、時代に対応した規模と機能を持つ新中央図書館の建設も創立百周年記念事業として構想されるに至ったのである。

 このような創立百周年記念事業構想の成文化に着手したのは、昭和五十年十二月に設置された長期計画懇談会であった。同会は総長、常任理事、学部長および評議員会長によって構成されるもので、約半年後の五十一年七月、「長期計画構想」の骨子をまとめ、理事会で承認された。翌五十二年二月十五日、理事会はこの骨子の内容について更に検討を加えて『長期構想について』を作成した。その要旨は以下の如くである。第一。本部キャンパスをはじめとする中心校地(メイン・キャンパス)における研究教育条件を改善するため、既存の学部、大学院、研究所などの整備充実と配置の検討を図って過密状況を緩和し、また、新中央図書館を中心とした総合学術情報センター(仮称)を設ける。第二。メイン・キャンパスと共働する新キャンパスを開発し、現存のものの移転と創設の両面から考えて複数の学部・研究施設を設ける。第三。私学としての伝統を守り、特色を生かすために、付属または系属の高等学校・中学校を新設する。第四。大学の諸機能を社会に開放し、社会人教育の拡充を図るために、専門学校、大学院レヴェルの専門職業教育機関および継続教育部(仮称)を設置し、夜間学部は勤労者に高等教育を受ける機会を一層効果的に与えるべく再検討する。第五。医学を自然科学、理工学および人文・社会科学と密接に関連する学際的な科学として把え、総合的に研究教育すべく、直ちに医学部を設置することに代えて、総合医科学研究所(仮称)とこれに関連する教育課程(医師の再教育課程、大学院課程、医療管理者養成課程、医療・福祉技術者養成課程など)および専門病院を新設する。第六。大学の財政を維持充実し、その安定を図るためには、一般基金と特定基金を設定して研究教育経費の一部を恒常的に生み出す必要がある。これを実現する機関として渉外部(仮称)を設置し、大学と校友、父兄その他との関係をより密接にし、例えば校友・法人部会と父兄・一般部会を基底に置く維持後援会を早急に組織する。総長名で公表されたこの構想の下に、以後は「評議員会に設けられる『百周年記念事業計画委員会(仮称)』において、……学内外の意見を徴して百周年記念事業計画が作成されることを期待」した(『長期構想について』一頁)。

 翌三月以降、このプランを更に具体化し、記念事業を遂行していくための体制が徐々に整えられていった。先ず四月一日に、「創立百周年記念事業の準備を円滑に行うため、臨時に」創立百周年記念事業準備室が企画調整部内に設置され(『早稲田大学広報』昭和五十二年三月二十九日号)、次いで四月十八日の定時評議員会で創立百周年記念事業計画委員会の発足が決定された。同委員会の役割は「記念事業および資金・募金に関する計画などを立案し、これを評議員会に答申する」ことにあった(同紙 昭和五十二年六月十三日号)。

 さて、五月二十七日に開かれた第一回計画委員会で、委員長に村井総長、副委員長に松本元商議員会長と清水司常任理事が選出された。席上、村井委員長は同委員会の主旨につき、「創立当初に立ちかえり、本大学の存在意義は何か、また、今後果たしていくべき役割は何かをここで再び問い直し、現状の改革と将来の発展を期するためのビジョンを描くとともに、これを裏づけるための財政的な措置を講ずることが必要である」(『早稲田学報』昭和五十二年七月発行 第八七三号 三七頁)と述べ、また委員には、学内はもとより学外からも広く参加を求めたことを明らかにした。委員の総数は実に九十六名で、その内訳は左の通りである。

一 学外の評議員及び商議員のうちから三十五人(評議員会長及び商議員会長に一任)

二 教職員 四十七人

一、職務上委員 二十七人

各学部長八人、各研究科委員長六人、体育局長・国際部長・高等学院長・産業技術専修学校長・図書館長・演劇博物館長各一人、各研究所長七人

二、選出委員 二十人

(一)系統学部ごとにその本属の専任教員のうちから各一人合計七人(各学部に一任)

(二)体育局本属の専任教員のうちから一人(専任教員会に一任)

(三)研究所・国際部・産業技術専修学校本属の専任教員のうちから一人(専任教員による互選。但し、その実施手続については、当該箇所長の協議に一任)

(四)高等学院本属の専任教員のうちから一人(教諭会に一任)

(五)管理職である専任職員のうちから五人(部課長事務長会に一任)

(六)管理職でない専任職員のうちから五人(管理職でない専任職員による互選。但し、その実施手続については、理事会に一任)

三 総長・理事・監事 十四人 (『早稲田大学広報』昭和五十二年六月十三日号)

なお、学外評議員は理事・監事を除く二十三名の全員が、学外商議員は全国地域ブロックに配慮して選ばれた十二名の代表者が委員に就任した。計画委員会は、このように学内外から選出された百名近くの委員で構成される大規模なものとなったが、更に、同委員会はその検討状況について、教職員、校友に広く周知するとともに、学内外の意見を徴することを義務づけられた。事実、同委員会は教職員だけでなく一般校友にも、文書によって提案・意見を同委員会に寄せるようにと、『早稲田学報』誌上で広く呼びかけた。創立百周年記念事業が、学内はもとより全国各地の校友をも含む文字通り全学的な事業を目指したことが、こうした計画委員会の委員構成や活動から窺われよう。

 さて、このようにして組織された計画委員会は、記念事業計画の策定に関して、「計画全体が社会的に評価されるところの大きな意義を担う」ことを基本方針としたが、その方向としては、第一に、「人類が将来に向って期待するところの問題に関する研究・教育機関を百周年を機として、新たに設置する」、第二に、「既存の研究・教育体制を整備、充実することを通じて、本大学がこれまでおこなって来た人材の育成をさらに発展させる」の二点を掲げた(『定時商議員会報告書』昭和五十五年 二三頁)。そして、この方針に則した具体的プランの立案は、この計画委員会が「記念事業の各計画、資金および募金計画などの主題に応じて」設ける専門委員会が担うこととなった(『早稲田大学広報』昭和五十二年六月十三日号)。第二回計画委員会では、先ず「基本計画の素案」の作成を任務とする小委員会の設置が決定された。小委員会は学外評議員、商議員、学苑教職員・理事・監事から成る二十八名の委員で構成され、委員長には学外評議員・商議員の内古閑寅太郎(大一二理)、副委員長に法学部教授高野竹三郎が選出された。九月二十六日のその第二回会合では、小委員会は「長期構想」や校友から寄せられた意見・提案について類似項目ごとに整理、検討を行い、「記念事業にふさわしい基本計画の骨子をまとめていくことにな」り(『早稲田学報』昭和五十二年十月発行 第八七五号 五〇頁)、同時に、校友からの創立百周年に関する意見・提案の受付を同年十一月末に締め切ることを決定した。

 小委員会は、上記の基本方針と学苑内外から寄せられた多数の意見・提案とを慎重に考慮した上で、五十三年四月十五日の第四回計画委員会において、記念事業の項目・規模・募金計画などに関する『創立百周年記念事業計画委員会小委員会中間報告』を作成した。その概要は左の通りである。

一 記念事業の候補

一、総合学術情報センター(仮称)の新設

新中央図書館(約二十八億円)、共同利用研究施設(約七・五億円)、情報処理施設(約四億円)、資料館(約七・五億円)、保存図書館(約二億円)

二、新キャンパスと新学部等の設置

新学部・学科(約三十億円)、総合医科学研究所(約十億円)、付属専門病院(約五十億円)、総合体育施設、新校地(未定)

三、体育・厚生施設の建設(約十五億円)

四、国際交流センター・校友会館及び大学本部の建設(約二十一億円)

五、本庄校地における付属高等学校及び寮の設置(約二十億円)

六、その他

二 募金計画案

一、募金目標額 百五十億円(含募金経費)

二、募金の対象 校友・父兄・教職員七十五億円 法人・一般篤志家七十五億円

三、募金方法 分割払いもとり入れる。

 この『中間報告』は昭和五十三年六月発行の『早稲田学報』(第八八二号)に掲載され、学内外の意見を徴する措置が採られた。記念事業の経費の見積り合計金額は百九十五億円に達し、募金の目標額が満額達成されても、到底及ばず、また総合学術情報センターの敷地をどこに定めるか、新キャンパスを建設すべき新校地を奈辺に求めるかについても、正式に、且つ具体的に示されていない。この段階では、「事業の用地、資金計画などについて今後さらに検討、解決すべき問題」(創立百周年記念事業準備室『記念事業ニュース』昭和五十三年四月二十八日発行 第八号 一頁)として残されていたのである。

 さて、村井総長の下で胎動した創立百周年記念事業は、清水総長に引き継がれて推進されることになった。先ず計画委員会の動きを見ると、同委員会は大学役員、役職者等の異動のために一時中断した後、清水総長が新委員長となり松本副委員長が再任されたほか、清水の後任の副委員長に正田健一郎常任理事を加えて五十四年一月から活動を再開した。なお、小委員会の構成については、従来通りとすることに決定された。小委員会は先の『中間報告』とそれに対して寄せられた学内外の提案・意見とを慎重に検討し、先ず五月、記念事業にふさわしいと考えられる項目の大綱について第六回計画委員会で承認を得た。そして七月の第七回計画委員会に、最終報告書『創立百周年記念事業計画に関する報告書』を提出したのである。

 この『報告書』は先ず検討の経緯の概略を説明したのち、「記念事業の選択の方向」を左のように述べた。

何を記念事業とすべきかについては、学内外から多種多様な意見・提案が寄せられた。しかし、これらに盛られたすべての諸計画を百周年を契機として一挙に実現することは困難である。そこで、小委員会は、本大学のおかれている現状をつぶさに分析、検討した結果、創立百周年記念事業が本大学永遠の発展のための礎石となることを願い、その選択の方向としては、既存の学部、大学院および研究所等の研究教育条件の改善充実を妨げていると思われるメイン・キャンパスの過密化の現状をできるだけ解消し、また、研究教育の効果を高める事業でなければならないと考え、学問やきたるべき社会の進展にも寄与しうるような事業でなければならないと考え、限られた資金規模をも配慮し、つぎの三項目〔略〕を提案することにした。ただし、この提案に盛られた事業の規模および所要資金などについては、新しい計画に参加する既存の機関・関係者の諸条件、さらには、建設する施設の合理的な運用、ならびに推移する経済的な外的諸条件などにつき、なお、多くの流動的な要素があるなどの事情から、項目によっては、若干の変動の可能性があることに留意され、今後、実施計画が策定される段階において、十分な検討を加えられたい。 (二頁)

 そしてこの『報告書』をもとに作成された「創立百周年記念事業の基本計画について(答申)」が、九月に開催された第八回計画委員会で承認を得て、翌十月の評議員会に答申された。ここでは村井総長時代の構想のうち学苑の現状に照らして実現可能性が高く、且つ創立百周年記念事業としてふさわしいものによって実行プランの枠組を策定しようと努めたのであるが、実際にこの「答申」が提案した実現すべき記念事業を見ると、第一に「総合学術情報センター(仮称)」の設置である。具体的には「新中央図書館」と「情報処理施設」と「共同利用研究施設」との設置であるが、これら三者が「相互に補完機能を果たすことにより、さらには、各学部、大学院、研究所などとも連携することによって、それぞれの機能を一層高めることになる」という意義に鑑み、「これらを総称して総合学術情報センター(仮称)と呼ぶ」ことになった。

 第二は、メイン・キャンパスの過密状況を改善し、「既存学部、学科、部局の一部を再編統合した研究・教育諸機関を設置すべき」新キャンパスの建設と、新キャンパスにおける「生理学、生物学、心理学、社会学、比較文化、環境科学、社会工学等々の関連諸領域を基盤とし、人間の心理、社会、文化の諸相を統一する新しい『人間科学』の樹立をめざし、その構想の下に研究・教育活動を行おうとする」人間科学系の新学部と、「健康・体力問題およびスポーツ科学に関する研究を行い、学校体育・地域体育の指導者および体育行政・健康管理の専門家を養成し、主として身体機能の維持向上という側面から社会に貢献しようとする」体育・スポーツ科学系の新学部の設置、ならびに「医療技術、医療システム、医療経済、医療心理、環境・産業医学などを中心とする学際領域についての研究を行おうとする」総合医科学研究センター、体育諸施設の設置であった。

 その他、「きたるべき世紀に向けてますます拡大、深化していく国際化の進展に対応するために……学内における運営の現状を改善し、サービスの一層の向上を図」ることを目的とする国際交流センター、「大学と校友と社会との関係を一層密接に」し、且つ「招聘外国人教員や留学生などの交流の場として、かねてから要望のある」早稲田大学会館、および「現第一号館をおもに学生の利用する教室棟として再生し、本部キャンパスの過密化の解消に役立てるため」の大学本部の建設を提案した。募金目標額は百五十億円から二百億円に増加された。「その後の経済情勢の推移や記念事業の実施がさらに今後、三、四年先になるなどの事情」(『早稲田学報』昭和五十四年九月発行 第八九四号 二頁)による。

 なお『中間報告』で提案された「総合医科学研究所と付属専門病院の一体的設置」は、「資金規模等の観点から、これを今次百周年の事業とせず、将来の課題とする」こととし、また「付属高等学校〔本庄高等学院〕の設置」、「保存図書館の建設」、「体育・厚生施設の建設」、「資料館の設置」も記念事業とせず、「関連事業として、大学において経常的に取り扱うことが適当である」とした。

 総合医科学研究所と付属専門病院は、『中間報告』の段階では医学部に代えて設置が提起されたものであった。しかし、清水総長の下、計画が具体化するにつれて実現を危ぶむ声が上がり始めた。五十四年三月に開かれた第十三回小委員会では、「百周年となるこの機にこそ設置すべきである。また、広く社会に貢献するこの候補項目を除外したら募金事業も困難となるのではないか」と実現に固執する意見を残しながらも、「将来の課題としては考えられるとしても、本大学における必要優先度、施設資金面、最新機器を含む財政運営面などを考慮すると、今回の事業からはずすべきである」との見解が次第に説得力を持ちつつあった。これを承けて四月に開かれた小委員会学内委員会のメモによれば、「募金の枠を考えれば、附属専門病院を設置することに問題があるし、また医師、看護婦などの勤務条件なども大学の教職員と比べて大きな問題となる」、「専門病院を切り離しても総合医科学研究所が成り立つものならば、関係の研究者が核となった研究所あるいは施設等だけを考えてもよい」、「病院はつくるべきではない。しかし、総合医科学研究所については、将来の芽を伸ばす意味からも全学の関係の研究者が共同研究などで利用できる施設をつくるべきだ」等々の意見交換があり、問題点が整理されていった。それが「答申」では如上のような形に落ち着いたのである。また高等学校の設置計画は、第十一編第七章第六節および第九章第四節で触れた如く、本庄校地の活用問題に端を発したもので、いわば地元対策とも言うべきものであった感は否めない。それゆえ、他の記念事業とは、当初から基本的に性格を異にするものであったと言ってよいかもしれない。

 それはともかく、十月に開かれた評議員会はこの答申通り記念事業を決定し、同時に「記念事業全般の進行状況につき大学から報告を受けるとともに、その重要事項につき意見を具申する」創立百周年記念事業委員会、「記念事業募金につき意見を具申するとともに、学内外・各界・各層への募金活動を強力に推進する」創立百周年記念事業募金委員会、「記念事業の実行計画を立案し、推進する」記念事業実行委員会、「記念式典その他諸行事を立案し、推進する」記念行事実行委員会、そして「募金活動の具体的方策を立案し、推進する」募金実行委員会の設置について了承した(『早稲田大学広報』昭和五十四年十一月九日号)。このうち記念事業委員会委員長には総長清水司が、募金委員会委員長にはソニー名誉会長井深大が、募金実行委員会委員長には前総長村井資長が就任した。更に十一月には、これらの委員会を事務レヴェルで支援する、すなわち「記念事業委員会その他の委員会の運営について連絡・調整するとともに記念事業等の執行全般の推進をはかる」ための創立百周年記念事業推進連絡本部、「記念事業実行委員会、同専門委員会に関する事務を行」う記念事業事務部門、記念行事実行委員会や記念行事等の一部の実施の事務に関する記念行事事務部門、ならびに「募金委員会・同実行委員会等に関する事務」や「募金の募集に関する事務」を行う創立百周年記念事業募金事務局が設けられた(同誌 昭和五十四年十一月十五日号)。

 このように記念事業を推進すべき実施態勢は、昭和五十四年中に事務レヴェルに至るまで整った。その手始めとして十一月、早速、ホテル・ニューオータニにおいて開かれた全国校友代表者会において清水総長が本格的に募金活動を開始することを報告し、協力を要請した。総長清水司は五十五年一月の『早稲田学報』(第八九八号)の巻頭で、その抱負と決意の程を次のように表明している。

年が改まり、大学の百周年も文字どおり二年後にせまりました。本年はいよいよ記念事業計画実施のスタートの年であります。年初めの早々に募金事業に着手すべく、募金委員会が発足(一月十八日)いたします。また、学内を中心に記念事業計画の具体化をすすめる委員会も近々動き出す運びとなっております。咋秋評議員会において記念事業計画の大綱が決定されて以来、私は多くの各地、各職域での校友の会合にお招きを受け出席致しましたが、その都度、校友のみなさんの母校に対する熱いお気持ちに接し、励ましの言葉を戴き感激いたしました。たしかに、今回の記念事業は、他の大学に例をみない大規模なものであり、目指すところはきわめて高いのであります。こうした校友のみなさんの支えのある限り、記念事業の完遂は決してむずかしいことではないと確信しております。 (二頁)

 そして五十五年一月、直ちに第一回記念事業委員会、および「百周年記念事業に強い関心を寄せ、募金委員を引き受けた企業の有力者、評議員、校友会県支部長、学内関係者等々が」参集した第一回創立百周年記念事業募金委員会が開催された(同誌 昭和五十五年三月発行 第八九九号 四八頁)。同委員会に課せられた役割は重大であった。創立百周年に当る五十七年十月、学苑では次章で述べる如く、盛大な記念式典が行われたが、その直後、十月二十三日付『毎日新聞』は「早稲田建学百周年におもう」と題する次のような社説を掲げ、募金活動の成否が記念事業そのものの性格にまで深く関わることを、次のように指摘している。

一口に百年というが、明治・大正・昭和の激しく変転した時代を通じ、こんなにも多くの人たちに親しまれ、あるいは関心をもたれて成長し続けてきた私大は、あまり例がないようだ。……官と民が対立したら、常に民の立場で物を申す、そんな早稲田マンを社会は求めているはずだ。……国庫補助に頼らず、自分たちの手でキャンパス建設をやってきた歴史と伝統。それでこそ私学が「学の独立」と胸をはれるわけで、今回早稲田マンの愛校心がどれほど燃えるか、大いに期待して見守りたい。

 以上のようにして創立百周年記念事業計画は、漸く実現の緒に就いたのであるが、行く手に待ち受ける嶮難は、お祭り気分で乗り越えられるほどなま易しいものではなかった。

 先ず問題となったのは、募金活動の滞りであった。右の『毎日新聞』の社説が指摘していた如く、学苑年来の教旨の一つである「学の独立」を堅持しつつ、百周年にふさわしい記念事業を実現できるか否かは、募金委員会を中心とする募金活動の成否にかかっていたが、記念事業計画が実行に移された直後の五十五年二月から同年末にかけて、入学試験問題の盗難、漏洩と、学年試験の成績原簿が数年に亘って改竄されていたという不祥事が、一学部において発覚したのである。この一連の不祥事は、スタートしたばかりの創立百周年記念事業計画の「前途に暗影を投じ」るまことに不幸な事件であった(『早稲田大学広報』昭和五十五年四月二十四日号)。学苑当局は「百周年記念事業の募金活動を一時停止せざるをえな」い状況に追い込まれた(『早稲田学報』昭和五十五年四月発行 第九〇〇号 四七頁)。募金事務局は五十五年三月に「募金趣意書」を全国各地に散らばる校友三十万人のうち、住所の判明している約二十二万人、および教職員・父兄約四万五千人に発送し、募金活動を本格的に繰り拡げることを予定していたが、延期を余儀なくされたのである。実際に趣意書の発送を開始することができ、また、これに合せて法人約四千社にも協力を呼びかけたのは六月下旬になってしまった(『早稲田ウィークリー』昭和五十五年七月三日号)。募金申込累計額は創立百周年に当る昭和五十七年度末に至っても、目標額二百億円の四分の一程度しか達成することができなかった。

 更に深刻であったのは、実行プランの策定が遅延したことである。基本計画から直ちに実行プランを作成するには、なお困難が伴った。重要な論点は、第一に総合学術情報センターの用地問題、第二に新キャンパス建設用地の問題、第三に新設学部問題で、それらはいずれも基本計画において、詳細がペンディングされていたものである。

 先ず総合学術情報センターの建設については、当然のことながらその用地確保問題が伴っていた。本部キャンパス内には大規模な施設を建設する余地がもはや存在しなかった。しかし、総合学術情報センターは、その趣旨からして本部キャンパス内もしくはその隣接地域に建設しなければ十分な意義を持たないことは明白であった。では、その用地をどこに求めるか。それはまさしく難問であったと言わざるを得ない。実は五十四年三月に開かれた最初の記念事業計画委員会小委員会学内委員会の席上で、このことは既に議論に上っていた。第一回小委員会の審議メモによると、「七号館をとりこわして、ここに新築することも考えられる」としながらも、それはキャンパスの過密解消に逆行する。結局「安部球場以外に空地が見出せない」ことから、「安部球場の利用を第一の候補として考える」方針が示されたのである。この方針は翌四月の小委員会で報告され、「おおむね了承を」得た。しかし安部球場を「空地」と言うのは、歴史認識の甚だしい欠如を示す。球場移転に関して関係者の合意を取りつけるのに、なお曲折と時日を要するであろうことは火を見るよりも明らかであった。

 新キャンパス建設予定地の選定問題も、一筋縄ではいかなかった。既述の如く村井総長時代には千葉県の幕張埋立地が有力候補に挙がっていたが、五十五年五月頃から新たに「都の西北」に位置する埼玉県所沢市三ヶ島地区が浮上してきた。このことはマス・コミの報じるところとなり、千葉県では巻返しを図るために積極的な誘致運動が繰り拡げられた。理事会が両候補地を慎重に比較検討したところ、「海浜ニュータウンA地区」と称された候補地は厚さ約十六メートルの軟弱層の上に立ち、地盤・表層土の大規模な改良工事と塩害対策とを要する埋立地であり、それに伴う危険性も予想される土地であることが判明した。予想される買収費用も、幕張の方が遥かに高額であった。そこで十一月四日に開かれた臨時理事会では、「新キャンパス候補地は、所沢市三ヶ島地区とする」との決定を下した。これは用地の決定ではなく、他を除外して所沢に候補地を一本化した上で諸条件を詰める、という意味合いの決定である。部外秘であったこの決定が新聞に報道されると、募金実行委員会委員長の村井前総長は評議員全員に対し辞意を表明する書翰を送り、これがまたマス・コミの報道するところとなった。そこで清水総長は十一月十八日、「新キャンパスの用地選定にあたって」という文書を公表し、理事会の方針を説明した。これによると、理事会が所沢を候補地と決定した理由は次の六点である。

一、自然環境に恵まれた研究教育条件がととのっていること。

二、周辺地域が「学生の街」として発展する可能性のあること。

三、上記の二条件が新学部、新研究センターの目的に合致していること。

四、本部キャンパス、上石神井の高等学院、東伏見校地との有機的利用が可能であること。

五、地元住民に積極的な誘致の意志があること。

六、埼玉県当局が所沢候補地の取得に積極的な支援を与えてくれ、これが本庄校地の農地転用、開発許可など十数年来の懸案解決に明らかに寄与していること。

三日後の二十一日に開かれた臨時評議員会で下された「新キャンパス候補地に関し、所沢市三ヶ島地区につき検討をすすめる」との決定は理事会決定の線に沿ったものであるが、勿論これですべての問題が解決したわけではない。

 新設学部については設立の趣旨、教育・研究内容からその名称に至るまで、合意を得、決定を経なければならない課題を残し、既存学部との関係の調整も図らなければならなかった。総合医科学研究センターは、その名称から言っても構想の経緯から言っても、学内外に誤解と幻想を惹起しかねないものであった。当局者は将来における発展を展望してこれを一つの「芽」と捉えていたのであるが、「芽」となるにふさわしい先進的内容は実現可能性とつき合せつつなお摸索していかなければならなかった。

 同時に、新学部や新キャンパスだけでなく、これを機に現キャンパスの教育・研究環境を抜本的に改善するべきだとの意見も、次第に強くなった。創立百周年を契機に、学苑の全体的な刷新を図るべしというわけである。

 そこで、こうした諸問題を解決し実行プランを作成するために、各種の委員会が設置された。「募金趣意書」発送直後の五十五年七月には、記念事業実行委員会が「『百周年記念事業基本計画』を基礎としつつ、それぞれ対象とする事業項目の実行計画案を策定することを目的とする」(『早稲田大学広報』昭和五十五年十月二十七日号)各専門委員会の委員の構成と運営について審議し、これを大学において決定の上、設置することにした。そして十月以降次に掲げる十の専門委員会が設置された。

総合学術情報センター部会 新中央図書館専門委員会、情報処理施設専門委員会、共同利用研究施設専門委員会、国際交流センター専門委員会

新キャンパス・新学部部会 新キャンパス総合計画専門委員会、人間科学系学部専門委員会、体育・スポーツ科学系学部専門委員会、総合医科学研究センター専門委員会

大学本部・大学会館部会 大学本部専門委員会、大学会館専門委員会

記念事業の実施細目は、今後これらの専門委員会で個別に検討されることとなった。

 新キャンパス用地の取得については、五十五年三月に発足した新キャンパス用地取得対策連絡会が、技術的諸条件の検討を進めていた。この技術的諸条件とは、所沢市三ヶ島地区の開発行為・農地転用許可、地権者の同意、埋蔵文化財の確認調査、自然環境に関する学術調査等用地の取得と開発のために避けることのできない諸条件である。大学は九月に「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」と第一回懇談会を開き、以後十数回に及ぶ話合いで了解を得ることに努め、埋蔵文化財と自然環境の本格的調査も開始した。五十六年三月三十日、大学の立地要望申請に対し内諾の通知が埼玉県知事名で出され、五月一日の理事会で最終決定が協議された。この時の理事会記録には、「所沢市三ヶ島地区を新キャンパス用地と決定し、取得のための手続きをとる。なお、少数意見として、不祥事件などを考慮し、新キャンパス用地決定を先に延ばすべきだとする意見もあった」とある。これを承けて開かれた五月八日の臨時評議員会では、新キャンパス用地の件につき種々意見交換の後、これを採決するか否かの投票を行い、賛成二十四票、反対十六票で採決することに決定した。次いで議案の採決に入り、投票の結果、賛成二十四票、反対十四票、白票二票で理事会案が採択され、新キャンパス用地は所沢市三ヶ島地区に決定した。

 この決定をきっかけに、村井資長前総長は百周年記念事業募金実行委員会委員長を辞し、後任に清水総長が就いた。村井の辞任は、この決定を含む記念事業の進め方全般に対する抗議の意をこめたものである。村井総長時代に描かれた記念事業の夢の幾つかが、実現の過程で潰えてしまったことは事実である。記念事業についての基本的なイメージが、当初のものとは変ってしまったと言っても過言ではない。それは学苑にとって非常に残念なことであり、村井の悲憤にも肯うべきところがある。しかしながら学苑の現状と記念事業の資金規模は夢の満願成就を許すものではなく、事実の展開はまことにいたし方ないものであったとしなければならない。

 新キャンパス用地取得対策連絡会は昭和五十五年十一月を以て解散され、十二月にあらためて新キャンパス用地取得対策委員会が設置された。この委員会は、「新キャンパス用地の取得・開発に関する手続を円滑に行うため、……地権者に対する交渉の委任・折衝・契約、自然環境・埋蔵文化財の調査、農地転用・開発許可申請など、その他用地の取得・開発に関する方針を審議するとともに、これらの業務の円滑な進行をはかる」(『早稲田大学広報』昭和五十六年一月二十一日号)ことを任務とした。理事会・評議員会の用地決定が下った五月には更に新校地開発推進委員会が設置され、右の業務は以後この委員会に引き継がれて進められることとなった。

 他方、現キャンパスの整備計画を含む早稲田大学の将来の研究・教育計画に関しては、五十五年十二月、現キャンパス総合整備計画委員会が発足し、「百周年記念事業の実施にともない、現キャンパスにできる『余裕』を活かし、その機能と研究教育条件をさらに高める」(『早稲田ウィークリー』昭和五十六年一月二十二日号)ことを審議・立案することとなった。越えて五十七年二月には、この現キャンパスの将来計画と百周年記念事業基本計画との関連を総合的に検討するために、百周年総合計画審議会の設置および百周年総合計画審議会設置要綱の制定を理事会が決定した。同審議会設置の趣旨は次の通りである。

百周年記念事業については、昭和五十四年十月の評議員会で「基本計画」が決定され、それにもとづいて募金や新キャンパス用地の取得交渉などが開始されたことは御承知のとおりです。しかし、その後……大学の教育研究のあり方を見直そうという気運も強まってまいりました。そこで、私どもといたしましては、現キャンパス(既存の教育研究機関)における教育研究条件の整備充実の計画策定に着手することとし、現キャンパス総合整備計画委員会を発足させましたが、その方面の計画策定を百周年記念事業計画に連動させる余地を認め、併せて基本計画に対して提示されている様々の意見を斟酌することが必要であると考えました。これを実現する方策には種々のものが考えられますが、事が学部等の単位を超えた全学にわたるものであるばかりでなく、問題点の所在を討議により明らかにした上で計画を煮つめていくためには、一つの独立した会議体を設け、全学の意見を集約する方法がもっとも適切であると考えるに至りました。そこで、昨年末以来、学部長会・大学院研究科委員長会、教授会・大学院研究科委員会、研究所長会、部課長事務長合同会などに諮り、そこで示された御意見を斟酌しつつ、……「百周年総合計画審議会」を設置することにいたしました。この審議会を通じあるいは正規のルートを通して教授会・研究科委員会等の意見を斟酌していくことはいうまでもありません。 (『早稲田大学広報』昭和五十七年七月三十日号)

 五十七年四月の第一回審議会では、清水総長から同審議会に対して「現キャンパスにおける教育研究条件の整備充実計画を考慮した百周年記念事業の内容について」の諮問がなされた。同時に総長は、これは総括的諮問であって、今後、個別的な諮問があり得ると述べたが、この諮問の前半の「現キャンパスにおける教育研究条件の整備充実計画を考慮した」という部分の意味については、現キャンパス委員会に提出されている各学部等の要望・提案による大規模な整備計画案または改善計画案を、百周年記念事業に反映するとの趣旨であり、また、後半の「百周年の記念事業の内容について」は、基本計画が五十四年十月の評議員会で決定されたけれども、これについてはなお多くの意見があるので、その内容について検討してほしいとの意であるとの説明が、常任理事からつけ加えられた。

 なお、後者については、更に二つの前提条件があることも明らかにされた。先ず第一に、「現在の募金活動が、昭和五十四年十月の評議員会で決定された基本計画を前提として行われているので、基本計画の変更は不可能ではないが、その内容を大きく変更してよいかどうか、問題があるということ」、そして第二に、新キャンパス「用地については、昭和五十六年五月の評議員会で所沢市三ヶ島地区に決定し、現在、用地取得の手続きを進めているが、農地転用許可および開発行為許可の事前申請などの法的手続きが事実上終りに近づきつつあり、また、地権者との契約の件も整いつつある」ことであった。つまり、この二つを前提として基本計画を審議することが、この審議会の任務となった(同紙昭和五十七年十月三十日号)。

 このように、基本方針そのものは踏襲されて、創立百周年記念事業の実行プランが策定されることになったのであるが、爾後の検討に委ねられた問題点はなお少くなかった。これらの問題点がいかに解決され、現在の総合学術情報センターや人間科学部が建設されることになったのか、現キャンパスの整備はその後どのように進むのか。これらの経緯は第三章に譲る。