Top > 第五巻 > 第十二編 第四章

第十二編 第二世紀へ向って

ページ画像

第四章 第二世紀を迎える早稲田大学の将来像

ページ画像

一 第一世紀前半の早稲田大学

ページ画像

 第一世紀前半とは、学苑創立の明治十五年から新制大学へ移行する昭和二十四年までの約五十年間である。この五十年間に学苑は東京専門学校、早稲田大学への名称変更、「大学令」に基づく本格的大学としての早稲田大学(旧制早稲田大学)へと三転した。その過程については本史に詳述されているところなので、本節では、昭和二十三年度までの大学(以下、戦前の大学と記す)のあり方、および、その間における我が学苑の発展についてのみ簡単にまとめておこう。

 戦前の社会には、明治維新の精神が多様化しながらも変ることなく貫かれていた。維新の精神とは、西欧文明の長所を採り入れることによって伝統に生気を与え、日本という国家を世界の最先進国たる欧米国家と肩を並べる国家たらしめようとの革新的ナショナリズムである。戦前の教育制度はかかる革新的ナショナリズムの体現者達によって創出された。それは小学校に始まり大学で終る。試行錯誤を経ながらも明治十年代から二十年代末にかけてでき上った階梯は、小学校、中学校、高等学校、大学である。小学校の前に幼稚園が、大学の後に(旧制)大学院があったが、特殊にしてごく小規模なものなので割愛する。

 大学は中国官僚制に倣って、古代律令制国家の一制度としてあったが、維新後の大学は、名称は同じであってもこれとは異る。また、英語表記ではユニヴァーシティというが、ユニヴァーシティはラテン語のウニウェルシタスから来ており、ウニウェルシタスとは同業組合――学問の授受を契約した教師の組合と学生の組合――である。近代日本の大学、特に日本の大学の一大特徴であるところの私立大学の一部には、かかる本来的意味でのユニヴァーシティと呼んでよいものもあるが、しかし、全体的あり方からすると、異るとすべきであろう。

 近代日本の大学は先ず何よりも教育制度の序列を意味した。最も初歩的な学校が小学校で、次に中学校、高等学校と進んで、大学に至るのである。小・中・高・大という序列であるから、大は最高ということになる。事実、今日でも大学のことを最高学府と呼んだりする。従って、大学の称号は右記したようなユニヴァーシティという意味はないのである。小学校と中学校が普通教育、高等学校と大学が高等教育であった。高等教育機関は他にも幾つかあったが、ここでは述べない。

 相違のもう一つは、ユニヴァーシティが神学、人倫の学を教育・研究するところであったのが、近代日本の大学の教育・研究の中心は政治、経済、法律、史学、文芸、農学、工学、医学であって、神学、人倫の学は圏外に置かれたことである。近代日本の大学は広い意味での実用の学、技術の学を教育・研究するところだったのである。

 とはいえ、神学、人倫の学は全く教育の外に投げ出されたのかと言えば、そうではない。神学を天皇教、人倫の学を国家への献身とすると、それは小学校、中学校、および高等教育の第一階梯たる高等学校で行われた。最も熱心に行われたのは小学校であった。中学校、高等学校へと進むにつれ、神学や人倫の学は哲学、史学、文学などの科目として教養化され、それだけ宗教性や精神性が稀薄化されていった。

 以上のところは次のように特徴づけることもできよう。戦前の教育制度において、神学、人倫の学を最も濃密に行ったのは普通教育の第一階梯たる小学校であり、中学校は心身の練磨――総称して非知的能力の開発――に力を入れた。知的能力の本格的開発をリベラル・アーツとすると、これを施したのは高等学校であった。リベラル・アーツの一般的中心は語学および数学であったが、語学が核心を占めた。高等学校は外国語学校と言ってもよい。事実、明治初期には外国語学校と言われ、間もなく英学校となった。十九世紀末において既に英語は世界語となっていたわけである。英学校が最終的に高等学校となり、そこで二つの外国語が必修科目となった。大学の模範がドイツの大学、特にベルリン大学であったこともあって、ドイツ語の学習が高等学校のトレード・マーク視され、高等学校のドイツ語教師は特別の存在となった。

 大学は専門化した学問を教育・研究する場であった。外国語は依然として重視され、学生を悩ませたが、語学として学習されたのではなく、既に身につけた外国語を以て専門分野の教科書や研究書を読まされたのである。外国の教科書や研究書を原書と呼んだが、原書という言い方の中に近代日本の大学の学問・研究の一種の植民地性が窺われる。小野梓が力説した「学問の独立」の重要な意味は、原書至上主義という一種の植民地主義からの脱却であったとも考えられるのである。

 戦前の大学は教科としての神学、人倫の学をよほどの変り者の学生のためのものとし、また教養諸学にも重きを置かなかったが、決してそれらを軽視したわけではない。前者は小学校と中学校で、教養諸学は高等教育の第一階梯たる高等学校で、既に身につけているものとされたのである。大学創設者や大学の全体的運営者達はいずれも日本的神学、日本的道徳に深い造詣を持ち、かつ東洋や西欧の教養を広く身につけた人々であった。我が学苑の場合にもこのことは当てはまる。大隈重信をはじめとする学苑創設者達(小野梓高田早苗天野為之坪内雄蔵市島謙吉等々)は、この信条・教養の下に、日本の将来を担う人物の育成を至高の使命とした人々であった。

 慶応義塾大学を創った福沢諭吉は、一身独立して一国独立すると言い、自主独立の人間こそが日本という国家の基礎であると機会あるごとに説いたが、大隈重信小野梓も、また高田早苗も、志は同じであった。学苑の教旨にある「学問の独立」とは一身の独立なのであり、一身の独立に何よりも必要なのは厳しい自己研鑽であるとされた。校名を東京専門学校から早稲田大学へと改めた明治三十五年の九月十五日(文部大臣の改称認可は九月二日)、高田は学生全員を大講堂に集めて各科学生の覚悟を促したが、新設の大学部学生に対しては次のように述べている。

大学部の諸君に対して特に注意を乞ひたきことは、大学組織に在りては総べて諸君が自主的に研究することと為さざれば、大学の大学たる所以は毫も存せずと云ふこと是れなり。教場教育の弊と云ひ、詰込主義と云ひ、皆学生自身が自主的研究を為さざる結果なり。大学部の諸君は、諸講師を参考者とし、必らず自から研究するの覚悟を以て事に従はざるべからず。

(『早稲田学報』明治三十五年九月発行 第七四号 「早稲田記事」四六四頁)

同業組合としての大学という思想を、ここに見出してもよいであろう。

 以上のところは本史の処々に記されているので、屋上屋を架するの煩は避けるべきであろう。しかし敢えて記したのは、戦前の大学が戦後の大学と著しく違うことにあらためて注意を喚起したいからなのである。戦前の大学はリベラル・アーツによって練磨された高等学校卒業者をして専門分野を探究させる所であった。東京大学は学の蘊奥を極めることを以て存在根拠とし、戦後、それは特権意識の露骨な表明として批判されることになるが、戦前においては大学とはそういう所とされ、いわば常識であった。前記の高田の言も学の蘊奥を極めよとの言なのである。学士様なら娘をやろうかとの俗謠にあるように、戦前、特に明治期の大学卒業生は、今日の大学教授以上の名声を持っていた。それだけに大学設立は容易なことでなく、また大学間の格差も今日以上に大であった。大学を見る世間の目も今日とは全く異り、大方の雰囲気は敬して遠ざけるというものであった。大学卒業者はそれにふさわしい職業に就くのが当然である、そうでなければ大学に行くなど無駄であるとも考えられた。学問をするより田を作れとの俗諺があるが、それは、大学で何の役にも立たない学問などするよりも仕事をすべきであるとの処世訓である。大学は民衆の意識の中では非常に高いところにあったが、民衆の生活感情の中では著しく稀薄な存在であったと言うことができる。

 かかるアンビヴァレントな大学なるものの姿は大学数の著しい少さに現れている。重化学工業化が進み、大学卒業者がビジネスにとって次第に重要な存在となった段階でも、事態はそう大きくは変らなかった。工学や医学を別として、他の学問は敬遠の対象であった。戦前の大学は数も少かった。私立大学のシェアの大きさは近代日本高等教育史の研究対象とすべき意義があるが、私立大学の大半は実用的な法律学習のための大学であって、社会科学、人文科学を本格的に行う大学は少く、更に自然科学の学部を持つ大学は例外であった。従って、私立大学へ入学しようとする者の数は甚だ少かったのである。私立大学が大学として正式に認可された「大学令」公布翌々年の大正九年においても、入学志願者が入学定員を上回った私立大学は早稲田と慶応のみで、他はすべて定員割れであった。昭和十四年になっても、かかる事態は変らなかった(喜多村和之『大学淘汰の時代』七二頁)。

 大学経営の重要な資金である授業料収入を少しでも増やすため、無試験入学や編入許可は日常化していた。入学検定料を財源として大学収入に数えるなど思いも及ばなかったのである。それだけに、私立大学の整備・充実は難事中の難事で、この難事に挑むためにはよほどの志が求められた。

 昭和十九年、日本に存在した大学は合計四十八校。内訳は、帝国大学七校(東京、京都、東北(仙台)、九州(福岡)、北海道(札幌)、大阪、名古屋)、官立単科大学十二校、公立大学二校、それに私立大学二十七校である。大学は皆それぞれに努力した。一つは国力の充実に役立つため、もう一つは優秀な学生をひきつけるため。それでも、官立大学には国家(税金)という強力な支えがあった。私立大学にはそれが全くなく、しかも、杖とも柱とも頼む授業料収入は、前記したような定員割れが恒常化していて、増加など夢であった。収入増という夢を正夢にする手段はただ一つ、募金である。資産家に大学充実の意義を訴え、寄附金を募るのである。高田早苗は、世に嫌なことは多々あるが、最もいとわしいのは寄附金を募ることであると言っている。志なき寄附の要請は一種の物乞いである。これから行おうとしているところが国家のため、社会公共のためのものであるとの強い意思――志――があれば、寄附の要請は誇るべき行為と化する。私立大学の整備・充実の基本的財源は何かと問うならば、それは志であると断言する所以はここにある。

 ところで、ユニヴァーシティという言葉は次第に総合大学という意味に変っていった。科学・技術の高度化は科学・技術の細分化(専門化)となり、自然科学に対して人文科学、社会科学という学問のジャンルが生れた。専門学問は工学、理学、医学、農学、政治学、経済学、法律学、文学という形で専門分化していったのである。学の蘊奥を極める大学は、これら専門分化した学問を研究・教育する場であるところの学部を持たなければならない。真の大学とは各種の学部を持った総合大学でなければならないということになった。その意味で大学をユニヴァーシティと呼ぶようになったのである。

 しかし、大学のユニヴァーシティ化は、言うは易く行うは難い事業である。戦前において、かかる意味でのユニヴァーシティを実現した私立大学は僅少である。官立大学でさえも東京と京都の二帝国大学のみであった。東北帝国大学は長く農・理・医の三学部にとどまった。九州帝国大学も医・工の二学部のみであった。東北、九州の二帝国大学に法文学部の名で文科系学部が設けられたのは漸く大正末年のことであった。大正七年に設立された北海道帝国大学と昭和初期に設けられた大阪・名古屋の二帝国大学とには遂に文科系学部は創られずじまいに終ったのである。

 かかる事情を考える時、私立大学にしてユニヴァーシテイ化を実現した早稲田大学と慶応義塾大学の近代日本大学史に占める位置はあらためて注目されなければならない。明治十五年、政治経済学科と法律学科と短命に終ったが理学科との三学部で出発した我が学苑は、明治二十三年には文学科、明治三十七年には商科、そして明治四十二年には理工科という具合に着々と総合大学化を果していった。明治期にユニヴァーシティとして存立した大学は僅かに四校、東京帝国大学と京都帝国大学、および早稲田大学と慶応義塾大学である。前二者は官立の帝国大学、後二者は法律上の資格では専門学校に過ぎなかったのである。繰り返し、大隈重信小野梓高田早苗達の高く熱い、そして長期的な志――久遠の理想――を憶わずにはいられない。

二 第一世紀後半の早稲田大学

ページ画像

 戦後になると、日本の教育制度は名称を除いて革命的に変化した。小学校、中学校、高等学校は名称こそ同じであるが、教育内容は大きく変った。

 先ず小学校。戦後の小学校(新制小学校)は、明治以来のナショナリズム教育が欧米文明・社会を排撃するファシズム教育にまで推し進められた国民学校の裏返しである。明治以来のナショナリズムはすべて否定され、欧米諸国、なかんずく勝利者として乗り込んできたアメリカ合衆国の思想、文明の一面、それも悪い一面が、絶対的な価値の如くに教育の指針とされた。戦後民主主義教育と言われるこの小学校教育は、個人の行為を規制する価値のない形式的デモクラシーであり、そこから噴出したのは個人の欲求の徹底的主張であった。具体的には、形式的平等主義と物的豊富さの飽くなき追求主義である。新制小学校で徹底的に行われた民主教育は、それ以降の教育を驚くほど強く規定することとなった。

 中学校と高等学校は名称を除いて制度も教育内容もともに大変化した。戦前の中学校は若干のフレキシビリティを持つ五年制の学校であったが、戦後の中学校は固定的な三年制学校となった。切り詰められた二年間は高等学校に移されたのである。当然のことながら、高等学校も大変化した。旧制高等学校は、中学校で基礎学力をつけた若者が外国語教育を中心として哲学、数学、文芸と幅広く教養を身につける知的訓練(リベラル・アーツ)の場所であり、高等教育の第一階梯とされたが、新制高等学校は、そのような面を部分的には持ちながらも、基本的には旧制中学校の後半部分を担当した。端的に言って、新制高等学校は普通教育の最終階梯となったのである。なぜ中学校、高等学校と合せて六年間の中等普通教育を施そうとしたのか。この点は必ずしも明確ではないが、思うに人格の養成、心身の鍛錬を目的とする非知的訓練の徹底化を期したのであろう。戦前は小学校と中学校(六・五制)が普通教育であったが、戦後になると普通教育は小学校、中学校、高等学校(六・三・三制)となったのである。

 しかし、この変化はなかなか理解されなかった。特に教員は新制高等学校を旧制高等学校的に捉え続けた。旧制高等学校の殆どは新制大学となったから、数多く設立された新制高等学校の教員は初めから新制高等学校教員として採用され、その初期には旧制中学校教員の約半分が新制高等学校教員となった。それにも拘らず、教員の多くが新制高等学校に旧制高等学校のイメージをかぶせたのは、奇妙なことと言わざるを得ない。しかし、そうした奇妙なことが事実として長期に亘り続いたのである。理由の一つは教員個々人の意識の問題である。理由の二は新制大学のあり方の問題である。新制大学は旧制大学よりも一年長い四年制で、前半の二年間を語学と一般教養、つまりリベラル・アーツを教える課程とした。後半の二年間が専門科目の教授なのである。リベラル・アーツとプロフェッショナル・レッスンとを組み合せた二階建新制大学は、新制大学自体にもさまざまな問題を作り出したが、新制高等学校教員の高等教育者意識を育んだ。なぜ我々は高等学校教諭で、大学で教えれば教授なのか。新制高等学校教員の抱いたかかる疑問と不満は当然である。新制高等学校で教えるリベラル・アーツと新制大学で教えるリベラル・アーツとは質的に截然と異るものだという定義と内容が成り立たなければ、この疑問と不満は解消されないであろう。

 これは教員だけに関わる問題ではない。新制高等学校の生徒として教育を受けた内容とほぼ同様の教育が新制大学でも行われるならば、大学入学者は高等学校と大学とは結局同じではないかと感じ、大学そのものに失望する。この問題は、新制高等学校にとっても、新制大学にとっても、解消しなければならない根本問題であるが、解決の兆しは弱い。いわゆる受験戦争の中でエスカレートする入試問題の難問化は、普通教育方針を守る高等学校の地位をどんどん低下させ、大学教養科目で漸く習う範囲、時にはそれを超える範囲まで学習する、いわゆる受験校を有名高等学校化させる。有名受験校でも足りなくて、受験生は予備校へと走る。大学の教養科目(一般教育科目)を聴いてはじめて目から鱗が落ちたと学生に感じさせるような講義を行える大学教員は、こうしてますます少くなるのである。大学では一般教養の講義は不要であるとの声が挙がることになる。

 戦後の教育制度では、高等教育は制度としては大学と大学院により担われることになったが、実際にはそれは学部に集中している。高等教育は戦前には高等学校と学部で分担されていたし、新教育制度のモデルであるアメリカ合衆国では学部と大学院とスクールの三者で分担されている。戦後日本の高等教育はあり方として非常に無理である。無理なところとして二点を挙げると、一つはリベラル・アーツと専門との学問的補完性の稀薄化、もう一つは大学院の学部に対する従属である。

 先ずリベラル・アーツと専門との分離は、専門分野を学習していくのに不可欠な語学力の不足と専門を取り巻いているさまざまなジャンルに関する無知・無関心とを創り出している。これらは専門分野を深く理解する上での大きな障害となっている。同一の大学ないし学部に属しながら、語学やリベラル・アーツの担当教員と専門科目の担当教員とは水と油のような関係にある。各分野の協力・交流は各分野の担当教員の協力・交流であるのに、新制大学は組織的に協力・交流を阻むものとなっている。大げさに言えば、語学およびリベラル・アーツ担当教員と専門科目担当教員とは対立し合う関係に組織的に立たされてきたと言っても過言ではない。

 四年制新制大学の前半二年間は語学・教養課程、後半の二年間は専門課程とされた。前半の二年間で外国語と教養諸学を履修し、後半の二年間で専門の諸教科を履修するのである。前半の二年間の科目中にその学部の専門教科があっても、それらは教養経済学、教養法学などとされ、専門課程に進むための入門科目として扱われている。新制大学は旧制高等学校のリベラル・アーツと旧制大学の専門分野の教育・研究が合体したところとする所以である。

 新制大学が旧制高等学校と旧制大学とをそれぞれ一年縮めて合体した学校であることは、いわゆる横割り制の新制大学について見るとはっきりする。新制国立大学はすべて横割り制である。東京大学を例に採れば、語学科目と一般教育科目を履修するのは、もとの旧制高等学校第一の名門・第一高等学校があった駒場で、校舎も旧制一高のものが使用された。そこには専門の違う、つまり学部の異るすべての学生が通学した。第三年目になると、旧制東大があった本郷の学部別に分かれた校舎に通う。東京大学は語学、教養の駒場キャンパスと専門の本郷キャンパスとの二つから成る大学だったのである。これは学生にとっても面倒なことであるが、教員にとってもきわめて深刻な問題であった。同じ国立大学教授でも、教養部を受け持つ教授は旧制高等学校の教授であって、大学の教授ではないと看做されたし、自らもそう思わされたからである。前述したように高等学校と大学とは学校制度の序列であったから、教養部に属する国立大学教授は制度的には第二位の序列ということになる。教育・研究能力がたとえ学部の教授と同等、あるいはそれより上位にあっても、制度的には第二位の地位と看做されるわけで、個人的な差はあろうとも、おもしろかろう筈がない。かかる横割り制は多くの私立大学においても採用されており、問題はすべての大学で深刻だったのである。

 それでは、キャンパスや校舎を同じくする縦割り制がよいかと言えば、決してそうとは言えない。校舎を同じくし、隣合せの研究室にいるだけに、差別感、不当感は一層大きかったとも言えるのである。そもそも教育・研究の優劣・上下を決めるのは質であって、それが制度上のどの位置にあるかではない。まして教育・研究の分野を全く異にする場合、優劣・上下をつけることはできない。極論すれば、小学校教諭と学部教授との上下を論じることは無意味であり、不道徳でさえある。小学校教諭には小学校教諭としての任務があり、大学教授には大学教授としての任務がある。仮に教育・研究を職分とする者に優劣があるとすれば、それはそれぞれの任務遂行の能力と責任の差である。役割を異にする者の優劣を論じるべきはないし、論じることもできないのである。

 新制大学のうちにかかる不条理な問題が発生した原因、不条理な対立感情が深刻化した原因は、学部という一つの組織体のうちに語学およびリベラル・アーツと専門学科とを機械的に接合したことである。旧制高等学校と大学とが補完関係にあった時代には、このような問題や感情は存在しなかった。アメリカの大学にもそれらは存在しない。ここでアメリカの大学と言う場合の大学とは、アンダーグラジュエートである。アンダーグラジュエートは四年制であるが、二年制大学もある。

 戦後の教育制度改革は占領軍たるアメリカ合衆国の占領政策の一環として強制されたものでは必ずしもなかったが、アメリカ合衆国の教育制度がモデルとされたことは明らかである。新制大学モデルも勿論アメリカであるが、その実態認識は甚だしく不十分であったようである。アンダーグラジュエートと言われるアメリカの大学は日本の旧制高等学校に似ていて、専門科目なるものはない。科目編成は完全にリベラル・アーツなのである。だから、アメリカの若者は、ハイ・スクールまでの普通教育課程でスポーツやクラブ活動などの非知的訓練を受け、大学に入って初めてリベラル・アーツという形で知的訓練を受けるのである。短大もあるが、四年制大学でも非常に多くの学生がジュニア・コースと言われる前期二年で退学し、仕事に就く。短大にせよ、四年制大学にせよ、アメリカ合衆国の高等教育の第一階梯は緩やかなりベラル・アーツを教育内容とするところなのである(天野郁夫『日本的大学像を求めて』参照)。

 専門分野の突っ込んだ教育・研究は、厳しい勉強をしなければ到底ついていけない大学院で行われる。また、高度なプロフェッションに就くためのプロフェッショナル教育は、スクールと呼ばれる所で行われる。ロー・スクール、ビジネス・スクール、メディカル・スクール、テクニカル・スクール等々、多数のスクールがある。そこで資格を取得することはまさに難行苦行であると言われる。その代償として手に入れた資格は社会において絶大な政治的・経済的利益を生む。同様のことは、フランスのエコールと呼ばれる学校についても指摘される。

 アメリカ合衆国の高等教育制度は大学、大学院、スクールの三本建であって、教育内容としてはリベラル・アーツ、専門教育・研究、高度プロフェッショナル教育・研究の三つなのである。戦後の日本では大学、大学院の二本建で、教育内容としてはリベラル・アーツと専門教育・研究の合体、特殊テーマの掘り下げた研究の二つなのである。しかも、学部の地位がきわめて高く強く、リベラル・アーツを従え、大学院をその母胎として支配している。従って、学部は日本の高等教育機関のすべてであると言っても過言ではない。このあり方は今やあらゆる意味で非効率となっている。

 大学の前半二年間で外国語に習熟することは、飛び抜けた能力を持つ学生か、外国語の専門学校の掛け持ち学生になるべく決意した奮励努力型学生かのいずれかでなければ、著しく困難である。まして二ヵ国語の修得となれば、先ず不可能である。不可能なことを強いれば、強いられた者は逃避する。新制大学の学生の非常に多くが外国語忌避症、外国語嫌悪症になるのは、この故なのである。また、リベラル・アーツ教育の効率も上がっていない。理由は、二ヵ年という短期間に盛りだくさんの教科の履修を押しつけられ、しかも、その内容たるや表面的知識だけは受験勉強でうんざりするくらい読んだり聴いたりしたことなので、勉学意欲が湧かないからである。昭和四十年代から全国に氾濫したテレビが教養なるものの魅力を引き下げ、ヴィデオがこれに追い討ちをかけた。学生は七面倒臭い教養諸学の講義を聴いたり、関係書物を読んだりすることを嫌うようになった。これは新制大学の語学教育、一般教養教育そのものがもたらしたわけではないが、だからと言って、全然無関係だとも言えない。テレビやヴィデオ、それに漫画や劇画では味わうことのできない魅力ある教養諸学の少いことが、いわゆる活字離れのかなりの原因となっていることは間違いない。いずれにせよ、学部は語学、一般教養の提供にも不十分な機関となっている。

 それでは専門分野についてはどうか。ここでも、一年短縮されたことから生じる専門教育の不徹底性という不利益は大きい。しかし、だからと言って、専門科目の不十分さをすべて年限短縮から生じたデメリットであるとするのは如何なものであろうか。新制学部の専門科目教育のあり方こそが工夫されるべきである。自然科学はもとより、人文科学も社会科学も大発展し、従って研究対象は複雑多岐化した。それだけに、複雑多岐な一分子を取り上げるだけでは、生きた教育・研究――役に立つ教育・研究ではない――を行うことはできない。木を見て森を見ずということが言われるが、木、つまり一分子を取り上げるのは、森、すなわち全体を認識するためなのである。語学および一般教養と専門との前記した如き分離・対立も、学部の学部たる所以とされる専門科目の教育・研究を非常につまらないものとしている。新制大学は専門の教育・研究の場としても甚だ不十分な所となっているのである。

 では、大学院はどうか。新制大学院は制度としては立派なものになったけれども、内容は制度に後れること甚だしい。大学院は学部を基礎として、その上に乗るという形を採ったので、学部の専門科目にない科目は補足的な特別科目となった。そのことは何を意味するか。新制大学院の目的は、旧制大学のカリキュラムを基本的に引き継いだ新制大学の専門科目の担当教員養成ということになっているのである。

 アメリカの大学院は学部とは無関係で、中心的にして独自な存在である。学部はリベラル・アーツの場であり、専門の教育・研究は大学院で行われるのであるから、大学院のカリキュラムが学部のそれに拘束されるところは毫もない。大学のステータスは大学院のステータスによって決まるのである。ハーヴァード大学にも学部はあるが、全くステータスはない。同大学をアメリカ合衆国第一の、従って世界でも有数の名門校としているのは、ハーヴァード大学院および各種スクールなのである。

 また、アメリカ合衆国の大学制度のうち学部について言うと、八〇パーセントが州立ないしは市立であって、私立はシェアも小さく(『日本的大学像を求めて』一二九頁)、有名校も少いけれども、有名大学院や有名スクールは圧倒的に私立である。その理由のかなりの部分は大学院間、スクール間の激しい競争である。州立大学や市立大学では公共性、公衆性という通俗デモクラシーが働き、入学の門も広く、教員の地位も比較的安定している。しかし、膨大な寄附金より成る基金で成り立つ私立大学院や私立スクールの間には激しい競争が繰り拡げられ、能力なしと判定された教員は容赦なくやめさせられる。テニュアと呼ばれる定年までの地位保障を得るには長い時間が必要である。長い時間が必要だということは、優れた業績が必要だということである。

 優れた業績を上げるためには時間とともに金が必要である。しかし、大学が多額の研究費を出すことは先ずない。研究費の出るところは政府や企業である――それらは基金という形を採って存在する。従って、基金管理集団が価値ありと認める研究を行わなければ、研究費は得られず、研究は継続できない。大学院やスクールの教授は研究費支出の価値ありと認められる研究テーマを創り出さなければならない。結果として、実際の役に立つと思われる研究を行うことになるのである。時代遅れの、現在、将来ともに役に立ちそうもない研究は、自費を以てすれば可能であるが、供与される費用では行えない。有名教授は有力教授であり、有力とは国家や財団から多額の研究費を分捕ってくる力なのである。名門大学(大学院、スクール)が常に最先端の研究に取り組む大学であることは、このように考えるならばまことに当然であろう。

 それに反して、学部中心の日本の大学には競争がない。ひとたび教授になれば、刑事事件でも引き起さない限りやめさせられることはない。また、研究費は所属する大学が出すのが当然と考えられている。論理的には、研究費は所得の一種なのである。専任講師あるいは助教授として就職した途端にテニュア教員となり、研究費は所得の一種であるとすれば、大学内の競争は生れない。過度に研究業績を上げると、仲間の融和を乱す者として排除の対象となりかねない。大学内にして事情かくの如くであるとすれば、大学間の興亡を分ける競争などあろう筈はない。

 それならば、大学は皆一線に横並びかと言うと、全くそうではない。一流大学から五流大学まで、否、それ以上のランクづけがある。この過激とも言うべきランクづけは誰がどのように決めるのか。決め手の一つは歴史であるとは言える。明治の初期に設立され、百年以上の歴史を誇る大学は、上位大学である。しかし、歴史が長いからと言って、直ちに一流大学とはなり得ない。より強力な決め手は世論である。百年以上の歴史を持ち、ランクとしては一流大学というのは、案外にもそう多くない。我が学苑は、数少い百年以上の歴史を閲する一流大学中の一流大学と言われる資格を持つ大学の一つである。このような事実を見ると、大学ランクを決める最大の決め手は世論であるということになろう。本来、教育とは客観的には曖昧なものである。何がよい教育なのかを測る確たる基準はない。否、これまではなかったと言うべきであろう。だから、世論が最大の決め手であったのである。では、世論なるものはどのように形成されるのか。形成条件はさまざまであるが、敢えて挙げれば、卒業生の活動こそが第一の条件であったと考えられる。我が学苑は、卒業生の中から多数の著名学者、多数の政治的リーダー、多数の言論界のリーダー、多数の小説家・評論家、多数の科学者・技術者、また多数のオリンピック・メダリスト、多数の有名選手が輩出した。この事実こそが、我が学苑を超一流大学と人々に思わせたのである。

 しかし、我が学苑の名を高からしめた人々はいずれも戦前期の東京専門学校および旧制早稲田大学に学んだ人々である。故に、我が学苑の名声は戦前期の遺産に負うところまことに大きいのである。戦後の学苑はこの巨大な遺産を擁して発展したのである。しかし、新たに補塡しなければ、いずれ遺産はなくなる。我が学苑の将来は一にかかって遺産の補塡・増大にあるのである。この問題を考える前に、戦後の大学が今日直面している状況を見ておこう。

 先ず第一に目につくのは、異常とも言うべき大学・短大の簇生である。平成七年現在で我が国には四年制大学五百五十二、二年制大学(短期大学)五百九十三、合計千百四十五校が存在する。そのうちの八〇パーセントは私立大学である。アメリカ合衆国の大学数は三千百校であるから、日本の大学はまだまだ少いとも言えるが、面積、人口、人種構成が日本よりも比較にならないほど大きく、かつ複雑なのを斟酌すると、我が国の大学数はアメリカのそれに匹敵すると言ってよい。アメリカの大学との決定的相違は、アメリカの大学の八〇パーセントが州立・市立であるのに、我が国の大学の八〇パーセントは私立である点である。

 我が国にこれほど多くの私立大学が存在する理由については第十編第一章において詳述した。それを思い起せば、戦後、特に昭和三十年代後半からの我が国の大学は、ホワイト・カラーと呼ばれるサラリーマンの供給所(就職斡旋所)として機能し、教育・研究機関としては甚だお粗末であった。それに、甚だ残念なことながら、戦前の大学に見られた精神や理念、すなわち志が非常に稀薄になって、今日に及んでいる。戦前には大学は社会のサプライ・リーディングな存在であったのに、戦後の新制大学は曖昧模糊な世の風潮と企業の労働力確保策に追従するというデマンド・フォロアーとしての存在になってしまったのである。私立大学中には大学経営を以て儲かるビジネスとしているところもあるのである。大学として確固とした精神・理念を有するところでも、前段で述べた学部中心主義の弊の故に、良質の教育・研究の場ではなくなっており、結果として、大学で何も学ばない若者を卒業生として世に送り出している。このことは国立大学といえども例外ではない。大学とは所詮、非知的訓練を施すところ、レジャーランドであるとされるまでになっていると言っても過言ではない面がある。

 戦後の大学が量的にのみ拡大し質的には劣化した責任は、勿論大学のみが負うべきものではない。社会や企業の側にも大きな責任がある。しかし、大学に身を置く者が社会や企業の責任を云々するのは卑怯な逃げ口上である。潔くすべては大学の責任として引き受けるべきであろう。そうして初めて、大学の今後の展望が開けるというものである。

 大学進学者の中心である十八歳人口は現在二百四十万であるが、少産化はますます進み、紀元二〇〇〇年には百五十一万にまで減少すると見込まれている。きわめて単純な計算ではあるが、入学定員や若者の大学進学率を現在と同じと仮定すると、紀元二〇〇〇年には約四百校が閉鎖・消滅せざるを得なくなる。このきわめて深刻な事態から、我が学苑も免れるものではない。この危機をいかに乗り切っていけばよいかを、我が学苑の問題とし、考えなければならない。危機とは危険と機会の合成語であるとすれば、危機の中に、あるいは危機だからこそ、発展の機会もあるということになる。危機を発展の機会とするには、どうすればよいか。これこそ、第二世紀の早稲田大学の将来像を描くポイントである。

三 第二世紀の我が学苑の将来像

ページ画像

 第二世紀の大学はいかなる大学であるべきか。結論を先に述べると、学生のニーズに積極的に応える場となることである。しかし、学生のニーズに受け身で対応する場であっては絶対に――絶対という言葉をここで敢えて初めて使う――いけない。そうかといって、教員のよしとするところを独善的に学生に押しつけることもいけない。学生のニーズの背後には社会のニーズがある。学生のニーズに応えることは社会のニーズに応えることである。

 デイヴィッド・リースマンは、大学運営の意思決定者の変遷に着目して、三転説を一九八〇年(昭和五十五)に打ち出した。第一期は聖俗の権威者・権力者の大学、第二期は教授団支配の大学、第三期は学生消費者主義の大学である。第一期は近代初期まで、第二期は近代盛期、第三期は現代である(On Higher Education : the Academic Enterprise in an Era of Rising Student Consumerism――喜多村和之ほか訳『高等教育論』)。日本では、三尺下がって師の影を踏まずとの江戸時代以来の規範がつい最近まで守られ続けてきた。確かに、敗戦による民主主義教育への転換は、教員を権威の体現者・師匠から先輩・友人、更には使用人的なものへと変えた百八十度の転換であったと言える。この転換は小学校から始まって中学校、高等学校へと及び、昭和三十年代後半から大学へと波及した。学苑の百五十五日闘争から東大安田講堂攻防戦に至る諸事件は大学の教授団支配の事実上の終焉を告げる出来事だったのである。しかし、それにも拘らず、三尺下がって師の影を踏まずとのモラルは続いてきたと言える。

 特に大学、大学教員について、そう言える。教授団支配としての大学なるものは形骸化しながらも、四十年代の大学紛争が終息すると復活した。学生達は、ラルフ・ネーダーに率いられたアメリカの消費者運動が行ったところ、すなわち商品の選別・排除といった消費者主権の行使は行わず、不出席、無視――教室での私語から新聞・雑誌を読む――という消極的反対にとどまった。尤も、それが落第につながらなかったのであるから、学生消費者運動は成功したと言えるかもしれない。学生は大学にとってお客様――消費者――なのであるから、値引きには最大限応じ(白紙に近い答案にも及第点をつける)、学生の教室でのマナーの悪さは、顧客離れを起こさせないためにも、愛想笑いまではしないとしても、見て見ぬ振りをする。こうした学生消費者主義はいちばん悪いとも言える。アメリカの大学で実施されているような学生による教員評価は、教員を緊張させ、能力一杯の講義をさせるプラス効果があるが、我が国のような学生消費者主義は、教員、学生両者にマイナス効果しか与えない。

 同じ学生消費者主義の大学となりながら、どうして、両国にこのような大きな相違が生じたのであろうか。最大の条件は社会、なかんずく企業にある。次に大きな条件は学生意識である。第十編第一章で述べた如く、戦後民主主義は横並び方式という平等主義を頑固きわまる主義とした。大学を卒業することが問題なのであって、大学で何を学んだかは全くと言ってよいほどに問題ではなかった。また企業は上位ランクにある大学の卒業生を素質・潜在能力の高い人間と看做し、彼らがどのような思想や価値観を持ち、どのような専門知識を身につけているかは、殆どと言ってよいほどに問題としなかった。従って、ランクの高い大学に入学した学生は入学したことによって社会の一等席に坐る切符を手にしたわけであるから、苦労して勉学に励む必要を感じなかったし、ランクの高くない大学に入学した学生はいくら勉強しても行く先は大したところではないと承知しているので、これまた勉強などしない。優秀な学生にとっても、そうでない学生にとっても、大学は非知的能力を身につける場すなわちレジャーランドなのであって、不熱心な教員の不熱心さを追及しようなどとは学生は思わないのである。三尺下がって師の影を踏まずとの通俗道徳が説かれていた戦前期の方が、学生達、否、生徒達まで、無能・不熱心な教員を追及・弾劾する気持や姿勢は遥かに強かった。師たる資格を有する人が師なのであって、その資格のない者が師を称することは一種の詐欺であると考えられたのである。その時代においては、中学校卒業生はそれにふさわしい、大学卒業生はそれにふさわしい技能が求められた。社会の求める技能を付与させることのできない教員が非難・弾劾されたのは当然であった。

 将来は前述のような戦後大学卒業者的なものは排除され、戦前期のそれが求められていくであろう。なぜならば、予想を超えた科学技術の発達、高密度情報社会、グローバリズムとかボーダレス・ワールドとかと言われる世界に直面する日本人は、極論すれば第二の明治維新に、第二の開国・開港に匹敵する状況にあるからなのであって、欧米技術・欧米産業を学び、それに改良を加えることに励んだ戦後高度経済成長期の状況とは全く異るからなのである。学習、改良、改革が最大の事業であった第一世紀後半とは違い、事物を創造し展開する第一世紀の出発点と同じ地点に立たされていると言ってもよいであろう。しかも、なすべきことは幾倍も困難である。第一世紀の出発点には明確に存在していた追いつくべき目標は今やない。日本は世界の最先端に立つ国となったからである。目標は日本人自身が創り出さなければならない。先頭ランナーは最も辛いというが、我が国はその最も辛い位置にいるのである。

 第一世紀の出発点においては、和魂洋才、東洋道徳西洋技術などと言われる精神、価値を持っていた。大学について言えば、建学の精神を持っていた。しかし、戦後の大学爆発期に優秀な学生の奪い合いに躍起になるあまり、大学は市場の需要にせきたてられて使命感というものを喪失してしまった。我が学苑の場合、創設期の志が非常に鮮明で大であったが故に、使命感は決して失われてはいないけれども、稀薄化し、曖昧化していることは否定できない。志こそが創造の根源的エネルギーであるとすると、我が学苑の場合も、達成すべき使命は何であるかを明確に創り出し、その実現に向って全学の意志を結集するに足りるだけのエネルギーの発生源たるに十分な志すなわち使命感ありと直ちに首を縦に振るのは、楽観的に過ぎるであろう。

 二十一世紀はグローバル世紀、ボーダレス・ワールドの世紀と言われる。日本から外国に出かける教職員・学生、外国から日本にやってくる外国の教職員・学生の数は飛躍的に増加するであろう。しかし、いわゆるアカデミック国際交流の条件整備は甚だ困難である。多数の大学がこの流れを乗り切れないであろうと考えられる。東西文明の調和は大隈重信をはじめとして我が学苑の創立者達の使命とするところであった。我が学苑は世界に渦巻き流れる文化の潮を統一すべき使命感に燃えていた。こうした学苑の伝統と今日の環太平洋文化圏・経済圏の形成という世界史の動向とを結びつける時、学苑がその推進・実現の中心に位置していることは歴史の宿命でさえあるように思われる。しかし、この宿命を達成するために越えなければならない壁は、ハード、ソフトともに甚だしく高い。

 更に学苑の使命について述べるならば、文化・学問の大衆化の促進がある。日本が世界第一の長寿国になっている現実を直視し、更に、文化・学問への夢を抱きながら女性なるが故に夢を果せなかった膨大な数の女性の存在に思いをいたすならば、かつて高田早苗を先頭に大奮闘した通信講義録による校外生教育や、全国各地にあまねく行われた講演会事業は、更に本格的に展開されるべきである。

 しかし、アカデミック国際交流も、いわゆる文化・教育の大衆化も、我が学苑がその先頭に立てるのは、我が学苑が教育・研究の一大中心地となっていればこそのことである。十八歳人口の激減を前にして、我が学苑はいかにして、学苑が学苑であることの証であるところの教育・研究の高度化を図るのか。これこそが我が学苑にとって最優先の課題であり、環境の大変化にリーダーとして立ち向うことのできる前提なのである。戦前の学苑は戦後の学苑よりも教育、研究とも高度であった、少くとも姿勢において高度であったと思われる。第十編第一章で述べた如く、各学部で教授と学生が並んで論文や随想を掲載するところの『学友会会誌』や『学友会雑誌』を発行していた事実は、そのことを示すと言ってよいであろう。

 大学が一国の文化・制度の一環であることはあらためて言うまでもない。グローバリズム、ボーダレス・ワールドがどれほど進展しても、各地域・各国の歴史が消滅してしまうことは断じてない。グローバリズム、ボーダレス・ワールド化が進めば進むほど、逆に各地域・各国の歴史は意識化され、強まるであろう。大学の歴史また然りである。日本の大学で学部と言われる部分が非常に強く、従って教授団支配こそが大学の大学たる所以との観念もきわめて強い。このあり方は今後も守護されるべきであると思われる。しかし、ここで考慮に入れるべきは学部中心主義の歴史である。戦前の学部学生の出身地は全国に亘っていた。従って、学生生活を送る中で、日本各地の気質・民情を知ることができた。それは日本の文化を知ることに外ならなかった。東京や大阪といった大都市に生れ育ち、同じような環境の中で生れ育った友人と交わって生長した青年は、日本の国情や民情を知ることは決してできない。東京や大阪は日本の一部、しかも最も非日本的な日本なのである。このままに推移すると、日本の文化・文明を殆ど理解せずに卒業して教職員や社会人になる傾向が強まることは避けられない。グローバリズム、ボーダレス・ワールドの進行に対する逆行であると言ってよい。

 また、学部中心主義が教授団支配主義であった時代はそう長い歴史を持っているわけではない。国立大学の場合は文部省(国家権力)の意向が、私立大学の場合は総長・理事者の意向が強く働いていた。教授団支配(教授会支配と言う方がよいかもしれないが、文章の継続性を尊重するためにこう呼ぶ)は学部の中での支配だったのである。また学生との関係においても、教授団支配は当初からそれほど確固としたものではなかった。新任の教員に対して学生は知恵を絞って難問・奇問を作り、新任教員がそれに答えられないと無能教員として辞職勧告を突きつけたり、総長や理事者に罷免要求を出したりした。戦前には、否、政治闘争であった大学紛争が華やかになる昭和三十年前後まで、新任教員は戦場に臨むような気持で教室に赴いたのである。教授は自分の思うところを一方的・独断的に学生に述べる者、学生は教授の講義を一方的に聴く者という教授団支配大学は、日本では、昭和三十年代後半からのことである。

 一口に教授団支配大学と言っても、戦前と戦後とでは著しく異る。戦前の教授団支配は専門分野を研究する教授団の支配であったが、戦後のそれは語学、リベラル・アーツ、専門学科の三者の教員より成る教授団の支配なのである。従って、教授団支配を成り立たせているものは研究でなく、教育なのである。故に、教育しない教員は教授団支配のメンバー資格のない者だと言っても決して悪口ではない。最良の教育を施す、この一点において戦後の大学は教授団支配大学たり得るのである。しかし、大学教員の大半は自らの義務を以て教育だとしてはいない。義務は研究だと考えているのである。語学や一般教育の担当教員と専門科目の担当教員との対立・反目の根はここにある。その最大の被害者は学生である。

 かかる論理から出てくる帰結は、学部をアメリカのアンダーグラジュエートとせよ、換言すればリベラル・アーツの場とせよということである。この結論は妥当であろうか。妥当性、非妥当性を論じるに当り最大の問題はビジネスの態度である。前段で述べたように、ビジネスは大学卒業生に仕事に役立つ専門知識を求めていない。故に、現時点では、学部はリベラル・アーツの場なのである。学部の専門性は、その学部の卒業生の就職先、すなわち社会での仕事とは無関係なのである。将来はどうであろうか。将来的には、右の傾向は更に強まると予測される。社会の要求する役に立つ知識やスキルは著しく高度化するであろうからである。

 これに対する反対は当然あり得る。それは、二年間の語学や一般教養を廃して専門課程を一年延長し旧制学部とせよとの論である。しかし、この論は甚だしい危険を含んでいる。現在の教育システム全体を改めずにこの論を実行に移すと、若者は情操を失い、視野の狭いロボット人間になってしまう。およそ社会にとって最も必要なのは、情操のある非専門的な人々である。これこそが国家・社会の下半身・足腰である。頭でっかちな火星人より成る人間社会は想像するだけでもおぞましい。リベラル・アーツは強い下半身・足腰を作る上で不可欠なことを忘れてはならない。

 新制学部は大切にしなければならない。私立大学では特に大切にしなければならない。大学経営の費用の大部分を授業料で賄う私立大学にとって、学部学生の支払う授業料は収入の根幹である。我が学苑が充実した学部を運営できたのは、学生数のきわめて多い専門部(旧制)という専門学校があったからである。新制学部は、高等教育制度の全面的改革の結果きわめて高い地位を得て、入学するためには非常に難しい入学試験を突破しなければならなくなった。しかし、夜間学部である第二学部の学生と合せると学生数は非常に多く、学生の納入する学費と入学検定料を合計すれば、戦前と比較すると著しく巨大な額となった。それを中心的収入として、教職員の充実、キャンパスの整備・拡大を実現できたのである。学部を縮小するならば直ちに財政難が深刻化するのは火を見るよりも明らかである。

 それだけに学部は、専門学科と語学および一般教養とを有効かつ適切に結合させた専門性の高いリベラル・アーツの場とする必要と責任とがある。そのためには、最良の意味での学生消費者主義を体現しなければならない。学生はよき市場を創造する能力も意欲も持ち合せていないから、学生消費者主義を認めることは学苑の堕落であるとする意見は、もっともらしく聞えても、実は改革を避けるための口実である。何度も繰り返すが、学苑は既に学生消費者主義を実行しているのである。最もよい形で。学苑の教職員には発展的な学生消費者主義を実現させる義務がある。換言すれば、大学レジャーランドを嫌悪し、よき知的訓練の場たらしめるような学生消費者を育成することに、全力を傾倒する義務があるのである。

 これと関連して、新制大学院の抜本的改革が検討されるべきである。現在のような学部の上に乗る、従って学部での勉学のやり方をなぞるような講義や研究を行っている大学院とは異る大学院、内容に即して言えば学部の講義とは分野もレヴェルも異る、敢えて言えば社会人が求める知識や技能を提供できる大学院の創設が、検討の対象として挙げられる段階にきているように思われる。それはアメリカ合衆国のスクールやフランスのエコールであると言ってもよいであろう。現在の大学院を廃止するのではなく、それはそれとして、分野を拡げ、レヴェルを高める努力を注ぎながら、学部カリキュラムとは関係のない大学院を新たに設立するのである。それは学部から独立することになるから、独立大学院と呼んでよいかもしれない。欧米流に言えば、スクールであり、エコールである。

 我が学苑がこのように多様でアカデミズムに徹するところと、現代および将来の世界に実際的に役立つところとを並列して持ち、日本文化の足腰である学部という基盤の上にそれらが据えられる時、グローバリズム、ボーダレス・ワールドは初めて、お題目ではない、学苑を流れて精気を与える血液となるであろう。学苑の体力が充実するならば、エクステンションという学苑の歴史的課題も学苑独自のものとして発展することは、まさに自然史的過程となるに違いないであろう。