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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第一章 新制大学拡充の時代背景

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一 大学の大増加

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 昭和二十二年三月三十一日に公布された「教育基本法」(法律第二十五号)は、第一条において、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と教育の目的を掲げ、この目的実現のために教育の機会均等や男女共学が徹底されるべきであると強調している。同法は、公布後暫くの間は現実に対するインパクトを生み出さなかったが、昭和三十年代に入り経済・産業が復興し、国民の所得が増加するにつれて、大きな現実規定力となった。教育の機会均等は、生徒本人や両親が望むならば、本人の能力や知識欲、更には適性とは無関係に、彼らの進学願望をかなえてやるべきだとの形式的平等論となっていった。こうした形式的平等論は人と人、家と家との競争関係を作り出す。隣の家の子が高校に行くのならうちの子も、隣の家の子が大学に行くのならうちの子もというわけである。形式的平等論は大衆社会のシンボルだから、内容は問題にならない。問題となるのは形の上での横並びである。

 この趨勢に拍車をかけたのが男女共学論である。昭和三十年においては、高卒女子の大学・短期大学進学率は、高卒男子の一五パーセントに対してまだ五パーセントに過ぎなかった。これが四十年になると二二パーセントに対して一一パーセントと半分になり、五十七年には四〇パーセントに対して三三パーセントと男女ほぼ拮抗する。この年、高校卒業者の実に四二パーセントが大学・短大に進学するのである(この変化は次章第一節で詳論するが、二九頁に掲げた第二図は「十八歳人口の高等教育機関進学率」を示しているので、ここで論じている「高等学校卒業者の大学・短大進学率」とは一致しない)。学歴競争の実態を世界的視野で調査・研究したロナルド・P・ドーアは、一九七六年(昭和五十一)、日本の高等教育機関への進学への熱狂ぶりを The Diploma Disease:Education, Qualification and Development(松居弘道訳『学歴社会――新しい文明病』)に記している。

 進学熱の上昇は建前論で言えば青少年の思考欲・知識欲の高まりであり、結構至極であるが、本音はそのようなものではない。人もやるから自分もやる、人には負けられないとの、きわめて自立精神のない他者指向の流行性の結果だったのであり、現在もそうなのである。尤もこれは、進学熱を煽られた側からの主観的・批評的な見方であって、生き馬の目を抜く競争的市場社会においては敗者の見方と言ってよい。進学熱の急上昇は高等教育機関設立の絶好の機到来と見るのが、現実の正しい観察である。高等教育機関は利潤追求市場において浮上した魅力的な投資対象となったのであり、大学設立者の側が進学熱を更に煽ったと言える。大学には歴史的事情から疑問の余地のない圧倒的な名声がある。地盤沈下に悩む地方都市が大学を持つことを地盤沈下を防ぐ強力な防止杭と考えたとしても、それを咎めることはできない。大学・短大を利潤追求対象と看做したいわゆる創業者の思惑と、大学・短大を地方都市の評価ブランドとした地方政治家の思惑とは完全に一致した。一方に熱狂的な大学・短大への進学願望があり、他の一方に、大学・短大の設立を経済的・政治的利益とする一大グループがある。市場の形勢は後者に有利であった。大学・短大をめぐる世界は買い手市場となったのである。設立のための公的・私的資金が集まらない筈はない。昭和三十年以降は、こうして、大学・短大新設の爆発期となったのである。

 昭和三年、大学の数は四十、旧制高等学校と専門学校の数は百八十四、合計二百二十四であった。戦時経済という、高度技術を組織的に駆使することが国家的課題となる経済体制に入ると、理・工学を主とする高等教育機関が簇出したが、それでも、昭和二十年の大学数は四十八、旧制高校と専門学校は三百四十二、合計三百九十にとどまった。旧制時代に大学は殆ど創られず、経済・産業の要求に大部分、対応したのは専門学校だったのである。昭和三年から二十年までの十七年間、専門学校だけを比較すると殆ど倍増したわけである。この趨勢線上に昭和三十年代から始まる大学・短大爆発があることは、あらためて指摘するまでもないであろう。

 大学・短大爆発について述べる前に、その就職率と進学率の変化を見ておく。昭和三十年、中卒の四二パーセント、高卒の四七・六パーセントが就職した。三十五年になると、それぞれ三八・六パーセント、六一・三パーセントとなる。中卒者、すなわち低賃金で雇用できる未熟練若年労働者は五年間で四ポイント近くも減少し、都市の工場主や商店主は彼らを確保するべく血眼になった。その頃、「金の卵」「集団就職」という言葉が流行した。中卒就職者は金の卵であり、幼いので集団で上京した。その最大の終着駅であった上野駅で、引率の中学校教師が、就職先の会社や商店の店主や職員と出会い、まだあどけない中卒の少年少女達は別れを惜しみながら、塊となって就職先へ赴いた。「ああ上野駅」など、多数の流行歌が作られ、歌われた。それらはすべて、憧れの都会東京での生活に対する不安、別れてきた故郷の山川、父母、仲のよい異性への思いを伝えている。だから当然、「別れの一本杉」「早く帰ってコ」など、東京に出ていった男女の帰郷を願う歌謡曲も盛んに作られ、歌われた。しかし、故郷(田舎)を捨てて大都会へ出て行きたいとの願望を抑止することは、殆ど不可能であった。

 前述した三十年以降の大学・短大進学率の急騰はこの事実を反映している。受け皿、つまり大学・短大の新設数は激増の文字もまだ表現不足なほどである。二八頁の第一図に示すように、昭和三十五年の大学数は二百四十五、短大の数は二百八十、合計五百二十五、四十五年になるとそれぞれ三百八十二、四百七十九、合計八百六十一である。昭和二十年で既に大学、旧制高校、専門学校の合計数は三百九十だったのであるから、新制大学を旧制高校と専門学校に近いものとすると、数の単純比較では二・二倍になったに過ぎないと言える。しかし、この比較は単純に過ぎる。

 教職員はもとより学生も、意識の上では大学教授・職員であり、大学生である。自身を専門学校に属するとは考えない。このギャップの持つ意味は大きい。数の上では二・二倍になったに過ぎないが、意識の上では十倍、二十倍にもなったからである。旧制大学と新制大学とは、高等教育のあり方から言うと質的に全く違う存在であるが、関係者全員の意識においては同じであった。従って、数の比較は旧制大学と新制大学・短大との間で行われるべきであるのであろう。昭和二十年に四十八であった大学は四十五年になると八百六十一になったのである。短大関係者も意識の上では旧制大学の系譜を引いている。大学数は戦後二十五年間に実に十八倍になったのである。

二 大学生の意識の大変化

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 大学生を以て高等教育を習得する意欲と能力を有する者と定義するならば、そのような大学生が二十五年間に十八倍にも増えたとはにわかには信じ難い。僅か二十五年の間に二十歳前後の若者の人格がそれほど大きく変化する筈はないし、変えようとしても不可能である。では、何故に、不可能と思われることが現実に起ったのか。前節で述べた如く、戦後の独特の平等感――横並び意識――と、大学進学を可能とする所得の著しい増加と、大学・短大の創立・運営に事業機会を見出した学校経営者の簇出とがその原因である。しかし、この三者を合体させるためにはそれなりの仕組みが不可欠である。

 高等教育を受けようとする学生は資質的に三種に分けられる。第一は、入学試験のための受験勉強など特別にしなくても合格し、入学後も教授の厳格な訓練などを格別必要とすることなく、つまり自学自修で、更に稀にはそれさえやらず、自分の興味に委せて本を読んだり、自修――実験室での実験から芝居見物、更には遊蕩まで、自修にはさまざまな形がある――したりするだけで、優等生になる学生。第二は、克己心を奮い起して自学自修し、教室にも出て、不審なところは教授に質問する学生。彼らは適当に遊びもするが、いつも成績を心にかけ、成績を遊びの下には置かないのである。第三は、自学自修はおろか教室での教育も無視する。こう言うと第一の学生に似ているが、違うところは、第一の学生は格別勉強しなくても理解できるのに反して、第三の学生は抽象的な思考や分析的学習が能力的に無理な学生である。彼らの能力は高等教育に不向きなのである。全然理解できないことに興味が湧く筈はない。第三の学生は名称のみ学生であって、実質的には学生でないのである。

 これは能力を規準にした分類であるが、勿論、別の分類方法もある。政治や社会に対する態度による分類である。「僕の方の学生は大体三種類に分れて居りますね。一つは赤、これも相当ありますね。一つは世の中の事は見ざる聞かざるで専門の科学に夢中で首を突込んでゐる者。第三は専ら享楽を漁る機会主義者達。……僕自身は、まあ、見ざる聞かざるの組に属してゐます」(石坂洋次郎『麦死なず』一三五頁)。これは戦前の東京帝大の学生を対象としているので、昭和三十年代後半からの大学・短大爆発期の大学生の分類法としては不適当と思われる。強いて今日に適用させようとするならば、自学自修で進歩していく第一カテゴリーの学生は、戦前には「赤」と言われた政治運動学生と研究に打ち込む学生とに対応し、第二カテゴリーの学生は石坂の言う機会主義的学生が対応するであろう。箸にも棒にもかからない第三カテゴリーの学生は勿論いるにはいたが、学生の一部にとどまったように思われる。

 ところが、戦後の大学・短大爆発期に入ると、学生の主勢力は第三カテゴリーの学生となった。ドーアは「飼主がそれなりの寄付をすれば利口なチンパンジーでも入学させかねない大学」(『学歴社会』九四頁)と言っている。表現はよくないが、表現しようとしている類の学生が昭和三十年代後半から大学入学者の過半となったと言っても決して過言ではない。かかる大学はすべて私立大学である。そこでは、私立の独自性を大義名分として、形式的な入学試験――不合格となる受験生は殆どいない、つまり事実上の無試験入学――で入学させ、形式的な授業――殆どの学生が私語に夢中で講義など聴かない――を行い、解答の分っている学年末試験で卒業させる。

 大学が何らかの高度な知識を習得する所とすると、大学・短大爆発期の大学は名称のみ大学で、実質的にはよく言って友人作りに役立つレジャーランドとなったのである。しかし、彼らでも卒業までに一回だけ真剣に努力する。何に努力するのか。就職に努力するのである。大学・短大爆発期に誕生した殆どすべての大学は、企業への就職斡旋所と言うべきである。就職斡旋所と言うと、大学は卒業する学生に職を見つけてやる所ということになるが、殆どの場合そうではない。四年間の人づき合いを通して、自分の大学がどの社会的需要と対応しているかを知った学生はレヴェル相応の就職口を求めて、いわゆる会社訪問を繰り返すのである。ランクの低い大学の場合、下級公務員や押売同様のセールスマンが目標とされる。それらが自分にとって相応な職場であると納得するのである。学生自身による自己評価・自己納得、これも大学・短大の重要な社会的存在理由なのである。一流と言われる大学の場合も、殆どの学生にとっての大学の存在理由は就職である。大学のランクと就職先の企業のランクとは大体において対応していた。特に、昭和三十年代後半以降の大学は、就職するために、青年にとって絶対と言ってよいほど必要な機関であったのである。

 早稲田大学の学生の場合はどうであったか。既に第三巻三八頁以下に引用したところであるが、敢えて重複を厭わず教授酒枝義旗の学生時代の思い出を紹介しておこう。酒枝が第一高等学院を修了して政治経済学部に進んだのは昭和初年である。第一学年で安部磯雄の特殊研究(Thomas Nixon Carver,Principles of Politicat Economy の講読)を受講したが、びっくりしたのは最初の時間に安部がこう述べたことである。「今まで高等予科では、一クラスの学生数が多く、且つ年限が一年半だったために、遺憾ながら英語の教育が、充分に徹底できなかった。然るに、このたび第一高等学院からは三年間、第二高等学院からは二年間、それぞれ少数単位のクラスで、みっしり英語教育をうけた諸君を迎えたわけである。今までは、学生諸君に当てるなり、私自身が訳すなりして、授業を進めてきたが、諸君のように、すでに充分の英語教育をうけてきた人に、そうした授業方法を繰り返す必要はないと思う。それで、これからは諸君が自宅で予習して来て、疑問の点があったら、それを、この教壇で遠慮なく質問して貰うことにする。一頁について三分間待ち、その間に質問がなければ、次の頁に進むことにします。」この方法でやれば、六百頁近い原書も読みあげるのは不可能でない。次の時間から安部はその通りに実行した。しかし、予習などしてくる学生はいなかったから質問は勿論なく、三分経つと頁がめくられて、終業の合図で安部が引き揚げるまでに数十頁も進んだ。この繰り返しで忽ち百頁ばかり進んでしまった。試験の出題範囲は読み終えた部分だと聞き、「さァ大変」とクラス一同大騒ぎとなった。何としてでも頁めくりの進行を喰い止めなければならないが、喰い止める唯一の手段は質問をすることである。そのためには予習をしなければならない。しかし、予習をしようという学生はいない。一同頭を抱えてしまったところ、一人の勇者が現れた。勇者は、「先生その五行目のitは何をうけているのですか」と、it―thatの英語の初歩も分っていないことを曝露するような愚劣な質問を発した。これに対して安部は、「諸君は、英文を読みこなす力を充分にもっているものと自分勝手に考えて、今まで進んできた私の誤りを、只今の質問は的確に指摘してくれました。今までそのことに気づかず、諸君が理解できたかどうかを考えずに進んできたことを、諸君にお詫びせねばなりません。それでは、第一頁にかえって、新らしく出直すことにしましょう」と言った(『早稲田の森――生ける母校の姿――思い出……』一二六―一二九頁)。酒枝は別のところでも、「それからは、実に懇切丁寧に、読んでは訳して、原書の時間をすすめてゆかれた」と記し、「先生の純真と誠実をこめた〔学生への〕信頼に答えて発奮し、よし一つ頑張って安部先生を相手に、この原書を読破してやろうという勇猛心を振り起こさなかったのは、返すがえすも慚愧に堪えない次第である」と述べている(「回顧四十二年」『日本の近代化と早稲田大学』(『早稲田政治経済学雑誌」昭和三十七年十月発行 第一七七号〈早稲田大学創立八十周年記念論文集〉)九二頁)。

 これを読むと、学生総数中の何パーセントと特定はできないけれども、石坂の言う第一・第二カテゴリーの学生が確かにいたことが分る。昭和十一年創刊の『早稲田大学政治経済学部学友会会誌」がそれを物語る。各号とも、会長の塩沢昌貞学部長が巻頭言を掲げ、教授や助教授も寄稿し、学生の論文五、六編が載っている。第二号の論文は、政治学科三年佐久間正夫の「現段階に於ける社会理論の性格について」、同学科三年上山不覊夫の「我が農村社会発達の史的分類に就いて」、同学科三年小沢竜雄の「満州植民政策に関する一考察――満州移民問題を中心として」、同学科一年田村懋の「軍需工業論」、同学科三年田村正祥の「ドイツ資本主義の編成替=展開枢軸の分析」、経済学科二年山辺亨の「資本主義と統制経済」と並び、評論一編――政治学科三年坂井春夫の「政治の文化哲学的基礎(一九三一年)」〔R.Kroner,Kultur Philosophische Grundlegung の部分訳〕――と随筆一編――経済学科三年大和勇三の「実在の表象としての顔・表情及び化粧について」――が加わる盛況さである。

 「老侯生誕百年祭記念」と表紙に赤刷した第四号は、中扉に「此の一巻を我等が精神の父老侯の英霊に捧ぐ」と大活字を以て印し、三編の顧問寄稿――井上雅二「興亜の志」、岡崎鴻吉「大陸へ」、永井柳太郎「世界再建は亜細亜より」――を掲げている。永井柳太郎の文章は六頁一杯埋めた長大なものである。五来欣造、内田繁隆、時子山常三郎酒枝義旗吉村正青柳篤恒林癸未夫の七名の教授・助教授が論説や思い出を特別寄稿している。学生論文は五編であるが、いずれも力作である。後に政治経済学部教授となった経済学科三年増田冨寿の「露西亜に於ける農奴解放の前史」はロシア語、フランス語、ドイツ語、英語と実に四ヵ国語の文献を使った専門家はだしの論文である。学生の論文とはとても思われない。坂井正の「大戦中に於けるロシア農業の生産力を中心としての概観」、満野孜朗の「戦争遂行過程における法幣問題」も、増田論文ほどではないが、学生の論文の域を超えた内容を持つ。佐野利通の「植木枝盛評伝」には、平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』が中心的文献として使われていたり、「昔思へば亜米利加の/独立したのも蓆旗/此処らで血の雨降らさねば/自由の土台が固まらぬ」との民権俗謡が記されていたり、対米戦争直前によくもこのような評伝を載せ発行したものであると驚かされる。

 事例を政治経済学部に限ったが、学生の執筆した研究論文を掲載する『学友会雑誌』の刊行は他学部でも見られた。安部磯雄の授業のやり方から受けた大戸惑いについて酒枝が書いたような学生の怠慢があったことも事実であるが、教授や助教授と肩を並べて負けじと研究に励む学生がいたことも、これまた事実なのである。しかし、第二次大戦後の大学・短大爆発期になると、第一・第二カテゴリーの学生はどんどん少くなるのである。

三 大学と実社会

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 日本は維新後間もなくから、教育を国家発展の原動力と看做して、小学校から大学に至る単線的学校組織を整備した。一流大学は勿論エリート大学である。しかし、エリート大学の意味は社会的特権層の入学する大学ではなくて、高い能力を持つ青年の入る大学ということであった。政治的・経済的にいかに格の高い家に生れても、それを理由として入学することのできる学校は原則的に作られなかった。戦前の学習院は皇族と宮家、および政治的・経済的特権層の子弟の入るエリート学校であったが、学習院出身の学生も大学では庶民出身の有能な学生と机を並べた。華族大学は存在しなかったのである。確かに、陸・海軍将校を養成する学校――幼年学校、士官学校、兵学校、陸・海軍大学校――という例外はあった。この点を重視すると単線的学校組織とは言えないという意見もあり得ようが、将校養成のための専門機関を設けることは西欧諸国のすべてにおいて見られるところであった。しかも、西欧諸国の場合、そうした軍学校に入るのも特権的身分エリートの子弟に優先権があった。それに対して、日本の場合、皇族を除いて、軍学校も入学は能力本位であった。能力本位という点を重視するならば、日本の学校組織は結局において単線型であると言ってよいのである。

 それでは、単線型学校組織の頂点に位置する大学は最有力な就職斡旋所であったのであろうか。昭和十年頃まで、中央官庁や陸海軍への就職を除くと、決してそうではなかった。東京帝国大学を卒業した日本唯一の学士様でも就職は難業であった。夏目漱石の『彼岸過迄』には、東京帝大を卒業した敬太郎の就職難のありさまが詳しく描かれている。彼が同じ下宿の森本にありのままを訴えると、森本は驚いた顔で、「へえー、近頃は大学を卒業しても、ちよつくら一寸口が見付からないもんですかねえ。余程不景気なんだね。尤も明治も四十何年といふんだから、其筈には違ないが」(『漱石全集』第五巻二四頁)と言う。「明治も四十何年といふんだから」の意味は、大学も毎年卒業生を送り出し、もう相当数の学士様がたまっているからということらしい。就職口を頼みに行くと、田口はあなたの希望する就職先は何かと尋ねる。敬太郎が何でも結構ですと答えると、田口は笑って、「学士の数が斯んなに殖えて来た今日、幾何世話をする人があらうとも、さう最初から好い地位が得られる訳のものでないといふ事情を懇ごろに説いて聞かせた。」言われるまでもなく事情を知っていた敬太郎は、それに対して「何でも遣ります」と言う。「何でも遣りますつたつて、まさか鉄道の切符切も出来ないでせう」との田口の応答に敬太郎はこう言う。「いえ出来ます。遊んでるよりは増しですから。将来の見込のあるものなら本当に何でも遣ります。第一遊んでゐる苦痛を逃れる丈でも結構です」(同書九三頁)。

 東京帝大の卒業生でさえこういう状態であったから、早稲田や慶応の卒業生が遭遇した状況の困難さは言うまでもない。第一次大戦の好景気の最中でも、大学卒業を実社会での地位に結びつけることは容易でなかった。早稲田の場合、学校推薦で就職できるのはせいぜい一割から一割五分。コネで就職する者が二割から三割。コネは非常に有力な就職の条件だったのである。それでも若干の進歩を見たのであるが、それも第一次大戦後の不況の結果著しく後退する。大学は就職斡旋所どころか、失業者生産所となったのである。大正末から昭和初期までの就職難のひどさを記した伝記類やルポルタージュ類は数限りなく多い。昭和四―六年間、大学卒業者の就職難は映画――活動写真と言った――の最大テーマの一つであった。名監督と言われた人々のうちの一人小津安二郎はこの頃、「大学は出たけれど」「会社員生活」「落第はしたけれど」「生まれては見たけれど」などの名作を残している。「落第はしたけれど」は、真面目で成績のよい大学卒業生がどうしても就職できないで悩んでいるというのに、有力なコネをもつ落第生がコネの故に逸速くよい就職口を見つける不条理を、淡々としたカメラ・アングルで、それだけに深刻に描いている。

 このように、大学を卒業することは一般的に言って就職に有利な条件では決してなかったのである。これを一転させたのは、昭和八年から始まる軍事力増強のための重化学工業化を柱とする計画経済・統制経済である。どのような形で、計画経済・統制経済は大学を有力な就職斡旋所としたのか。二つの条件を挙げよう。

一、軍需工業は第一次大戦を契機に大発展したので、高度な技術を理解し管理することの可能な能力を必要とした。それは直接には理工科系大学で習得する自然科学的能力であったが、重化学企業の巨大化はそれまでの算盤と大福帳を手段とした経営管理技術を無効とし、近代的経営技術を要求した。それは社会科学系大学の出身者にして最もよくなし得るところであった。

二、平和的産業は極限まで縮小し、そこでの人的・物的資源を軍事的重化学工業に転用することが要請された。平和的産業の多くは伝統産業であり、高等教育機関とは縁の薄い伝承的技術――職人的技術――を重視していた。従って、企業整備の名の下に平和的産業が大幅に縮小することは伝統的技術の重要性の大縮小であり、それはすなわち、高等教育機関で習得されるべき近代的技術の重要性の飛躍的増大である。

右の二条件は、昭和三年以降の専門学校の著増と表裏の関係にある。

 徹底的とも言うべき敗戦により日本の経済・産業の規模は昭和十年代の半分以下に低下したが、他面において、何か機会さえあれば急速に盛り返す左の如き条件をも獲得した。

一、軍事的勝利を一〇〇パーセント否定されたが故に、経済的・産業的勝利が日本の最大にして最高の目標となった。維新以来の富国強兵という目標は、強兵が完全に否定された結果、富国化のみとなった。富国化すなわち経済発展が文字通り国民統合の価値となったとも言い得る。

二、それまでの資本家・経営者の非常に多くが公職追放の対象となり、せいぜい部長か、あるいは課長に過ぎなかった人々が、一躍社長や重役に昇進した。彼らはそれまで同僚であった社員・工員を引き続き同僚として優遇し、企業一家的意識を急速に拡大させた。

三、第二次大戦は第一次大戦以上に高度な技術開発を促した。高度技術の内容をごく単純化すれば電化と電子技術と高分子化学であるが、それらの基礎となったのは優れた鉄鋼業と鋼を使った高速大型造船業である。

四、それらに向って財政投融資が大規模に行われ、信用業務(銀行、信託、証券)の複雑なネットワークが張りめぐらされた。

五、高度技術と濃密な信用機構は本格的な資本の時代を創り出した。戦時経済により廃業に追い込まれた伝統的産業の多くは復興できず、伝統産業の牙城であった食品業――例えば、チョコレート、ビスケット、ケーキ類――の生産をも大企業が支配するに至った。

右の五条件は、戦時経済の特徴として一三―一四頁に挙げた二条件の拡大版であるが、戦後が経済・産業の時代、それも大資本による支配の時代となったことを物語る。熔接技術の大発展によって二十万トン、三十万トン、更には五十万トンを超す大型タンカーが建造され、想像を絶する量の石油――その大部分は重油である――が輸入され、臨海立地にはその重油を燃料とする大型火力発電所が続々と建設され、発電機の出力は五万キロワットから十万キロワットへ、更には二十五万ないし五十万キロワットへと巨大化していった。

 安保改定反対運動が挫折した昭和三十年代半ば、池田勇人内閣による所得倍増計画が国民の心を完全に捉えた。所得倍増計画とは生活の飛躍的高度化計画であり、それを実現する方策は、国民総生産の飛躍的増大と、企業従業員すなわち社員への利潤の分配を主とする資金循環システムとの構築である。前者は加工貿易型経済の本格化によって実現され、後者は従業員に利潤の大部分を分配する方式――個人株主の冷遇政策――によって実現された。所得倍増計画は計画以上の成果を挙げた。三十六年から四十五年までの年間平均成長率は一〇・九パーセントという驚異的なもので、ドルで測った国民総生産は昭和三十年には二百四十億ドル、すなわちアメリカ合衆国の十七分の一であったが、四十五年には千九百七十二億ドル――アメリカの五分の一強――となった。五十五年になると一万五百九十三億ドルとなる。それはアメリカ合衆国の五分の二である。

 かかる驚異的発展の真の原動力は、経済・産業発展に適合的な人材の養成・確保である。これは徹底的な社内教育と終身雇用、年功序列型賃金システムによって達成された。アメリカ合衆国の経済学者や経営学者はこれを日本型家族主義経営と捉え、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンと言った。そこには賞賛と批判とがこめられていた。

四 日本型企業の完成と大学

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 マサチューセッツ工科大学の産業生産性調査委員会が一九八九年(平成元)にまとめた Made in America(依田直也訳『Made in America――アメリカ再生のための米日欧産業比較』)は、内容的には日本工業の生産性が何故にかくも高いのか、その原因究明の報告である。最大の原因は、企業内部および企業と下請企業との間に見られる激しい競争と一心同体的協力との組合せである。この組合せが品質管理の素晴らしさ、必要な時に必要な量の部品が調達される美事さを作り出して、それが高い生産力・競争力の原因となっているというのである。品質管理をクォリティ・コントロール(quality control)の頭文字をとってQCといい、部品の定時定点納入をジャスト・イン・タイム(just-in-time)の頭文字をとってJITという。QCを提唱したのはアメリカ合衆国の経営学者W・E・デミングであり、JITの提唱者は同じくアメリカ合衆国のテイラーとフォードであった。デミング・システムもテイラー・フォード・システムもともにメイド・イン・アメリカであったのであるが、それを一層強力な競争システムとしたのは昭和三十年代の日本であった。両者を統合したシステムをオーノイズムという。トヨタ自動車工業の労務部長大野耐一がそれをシステムとして完成させたからである。

 等しい単位時間で大量の部品を生産しても、その五〇パーセントが不適格品であれば生産性は二分の一となる。仮にアメリカの自動車会社で単位時間当りに生産されるエンジン・クランクが千個、日本の自動車会社でのそれが五百個であるとする。単純な数量比較では、アメリカの自動車会社の生産性は日本のそれの二倍である。しかし、規格に適合しないエンジン・クランクがアメリカの場合六百個、日本の場合五十個としたら、どうなるか。単位時間当りの生産数量はアメリカ四百個、日本四百五十個となって、生産性は日本の自動車会社の方が高いということになる。生産数量中の不良品発生率は実際には年を逐ってアメリカでは高く、QCの徹底を目指した日本では低くなったから、日本の自動車産業の生産性はアメリカのそれを大きく凌ぐに至ったのである。完全に規格に合った部品により組み立てられた自動車は、当然のことながら耐久性が大で、故障などのトラブルは極少である。

 JIT方式は、組立工場での間断ない流れ作業を保証するための過大な在庫を不要とした。必要な時に必要な量の部品が確実に入荷するからである。過大な在庫が不必要となったことはさまざまな利点を企業にもたらしたが、何と言っても最大の利点は、ランニング・コストを大きく引き下げることによって、コスト全体を生産規模に対して著しく少ならしめたことである。JIT方式はコスト構造を革命的に変えた。それまで欧米企業に比して著しく小であった開発研究費は、昭和三十年代後半から鰻登りとなった。大企業はそれぞれ、大学の理工系研究実験室を遥かに上回る規模と内容の研究所を有し、高給を以て大学から若い能力を雇い入れた。四十年代に入ると、第一流の国立・私立の自然科学系学部において、後継教員として大学に残そうとして教授が声をかけてもそれを拒否する大学院学生が増えていった。自然科学系大学の関係者からは、後継難に起因する大学の将来を心配する声も挙がったのである。ここまで来ると、大学の就職斡旋所化は人材斡旋所化と言わなければならないほどとなったのである。

 ところで、アメリカ合衆国で開発された生産性向上方式がアメリカ合衆国や西欧諸国ではきわめて不十分にしか機能せず、独り日本でのみ最大限に機能したのは何故であろうか。結論を先に言うと、甚だ逆説的ながら日本の労働市場の未発達の故になのである。明治維新以降、小規模ではあるが経営的に強力かつ膨大な数の農家が、農業の他にさまざまの非農業部門、つまり商工業を兼営した。専業の工業や商業も次第に展開したけれども、陸海軍工廠や綿紡績工場、貿易商社などの他はおしなべて江戸時代以来の暖簾に前垂れの伝統的経営手法に則っており、東京や京阪神などで都市型の商工業も形成されたもののその比率は小さく、兼農型の商工業は全国的に、換言すれば地方ごとに、それなりの展開を見せていた。いわゆる原始的蓄積と言われる一挙的な労働力の生産手段からの分離、徒手空拳の労働者の大群と一握りの資本所有者へと分離させる過程は、近代日本では起らなかったのである――尤も、西欧近代国家でもかかる一挙的過程が存在したとされるのは事実でなく、イデオロギーの上でのことであった。男女の労働者は奉公人と呼ばれ、伝統的なルートを介して就業した。いわゆる近代的労働者も多様な伝手を通じて工場や事務所に雇用された。明治中期以降に近代的部門が拡大し賃労働への需要が高まると、(労働者)募集人なる制度ができた。募集人はよく言えば今日のリクルート業者、悪く言えば人買いである。勿論、江戸時代以来の口入屋と呼ばれる私設の職業紹介所は増加した。しかし、職業紹介所と言われる公的機関ができるのは大正末から昭和にかけてである。ところが、職業紹介所は日本ではとかくうさんくさい目で見られ続けた。職業紹介の公的機関として求人側、求職側双方から信頼されたのは学校であった。初めは小学校が就職斡旋所となり、そこに各種の職工学校が加わっていく。

 学校を通して雇われる男女の殆どすべては未熟練者である。雇用者側はどのようにして彼らに技術を授けたか。熟練者の仕事ぶりを眺めさせることによって、授けたのである。見よう見真似である。雇った側は彼らに見よう見真似をさせる時間を設けてやったわけではない。新入者は雑巾がけ、油布での磨きなど、要するに掃除、後片づけに追い使われながら、見よう見真似で習得したのである。見よう見真似をするために掃除の手を抜くと、怠けていると言って、痛い拳骨が飛んできた。技術は盗むべきものと言われた所以である。盗む以上、殴られたり蹴跳ばされたりするのはやむを得ない。小学校が良質の労働力の供給機関となったのは、小学校で何らかのスキルを訓練したからではなく、スキルを習得する前提であるところの心構え、態度を育成したからである。一時間、否、三十分でも、姿勢を崩さずに教師と黒板を見続けるということは、訓練されなければできない。十分もすれば、よそ見をしたり、身体を動かしたり、足をばたつかせたりする。自然の欲求をこらえて、同じ姿勢でジッと正面を見ることができるというのは、それ自体がスキルなのである。スキルを身につけるためのスキルと言うのが適当であろうか。技術や組織が複雑、高度化するに従い、労働力の供給源は中学校、専門学校、更には大学へと変化していったが、雇用主が学校に求めたのがスキルを習得できるスキルの持主の養成であったことに変りはない。昭和三十年代の「ああ上野駅」的風景は、より上級の学校を目指す少年少女の受験競争にとって代られた。中学校や高校は点取り虫の繰り拡げる殺伐たる競争の場となった。今日でも愛唱されている「高校三年生」は、失われた無邪気さ、親愛を回顧し、ノスタルジアをかきたてる。

 会社や社会で習得されるべきスキルが高度化するにつれて、先天的・後天的な優れた資質が求められたのは当然である。では、そうした資質の有無を検証する試金石は何であったか。どのランクの大学に入学したかが最も確実な試金石となったのである。極論すれば、需要者側は大学・短大で何をどの程度のレヴェルまで学んだかは問わない。問うべき点はどのようなランクの大学に入学したかである。最高のランクの大学に入学できれば、その事実だけで、その青年の人格――忍耐心、克己心、競争心――と能力――上記の人格と勉学によって身につけた成果――は既に証明済と看做された。需要者は彼らを無条件に近い形で入社させ、入社後に各種の実務を順繰りに経験させる形で訓練した。最高の大学入学者を以て先天的・後天的資質の高い人間と決めてかかり、彼らを先ず組織内に取り込み、内部においてOJT(on-the-job training)方式で訓練したのである。従って、彼らも雇用主にとっては「金の卵」であったのである。中学卒業生は低賃金の労働力であるが故に「金の卵」とされたのであるが、昭和三十年代後半の最高ランクの大学の卒業生は大金を投じて得た労働力であるが故に、名実ともに「金の卵」であったのである。雇用側はこの「金の卵」を他に奪われないために、終身雇用制と年功序列型賃金制を二大支柱とし、その上に各種の貨幣的・非貨幣的利益――フリンジ・ベネフィット――の屋根を造ることによって、企業一家を作り出し、社員の安寧を終身保証した。大学卒業生は一度雇われると、犯罪かよほどのへまをやらない限り、解雇されることはない。この生涯に亘る保証は中央官庁や大組織であればあるほど、豊かにして且つ強力なのである。森嶋通夫は左のように論じている。

中小企業部門の労働市場は常に開かれていたが、大企業部門に入るチャンスは一生のうちに、学校を卒業したときにただ一度あっただけである。そういう意味で、日本の産業界のエリート――大企業の従業員――には職業選択の自由がなかったし、いまもそうである。……日本では、就職は会社にとっても個人にとっても結婚のように一生の問題であるから、ある人の就職の適否を評定する際には、その人の人柄や忠誠心や、長期にわたる会社への潜在的貢献力が、直接的なその人の労働生産性や技能よりも重要視される。あたかも養子をもらうときと同じように、この人を社員にとればどのような貢献を会社が期待でき、どのような弊害を蒙るかもしれないかが、慎重に顧慮検討されるのである。

(『なぜ日本は「成功」したか?――先進技術と日本的心情』 一三八頁、一四六頁)

森嶋は更に次のように述べる。「『忠誠心』の市場は各人に一生にただ一回、学校を卒業したときにだけ開かれている。その市場において忠誠心の供給者は、忠誠心の需要者、すなわち『君主』を見つける。明治維新前には、仕えるべき君主は生れたときにきまっていたが、維新後は選択することができるようになった。しかし忠誠な気持ちでこの市場に自由に出入りし、何度も君主を選び替えるのは、特別な理由がないかぎり、どんな忠誠心の定義とも矛盾するであろう」(同書一四九頁)。この森嶋説は、組織のエリート採用について基本的に当てはまるものであるが、基本的には組織の人事――採用、管理――のすべてに妥当する。

 ブルー・カラーと言われる現場労働者も忠誠心の提供者であり、組織はそれを期待する需要者であった。昭和十年前後から日本の組織は著しく温情主義的となったが、この特徴は高度成長期に全面化し、かつ強化されていった。従業員相互間や従業員と経営者との間には一家主義的連帯感が支配的であり、組織は事実上一つの大きな家族であった。組織は従業員の永続勤務を生産への貢献よりも評価し、永続勤務させる目的で年功序列型賃金を支払った。従業員は短距離競走をせず、スタミナを維持して組織への長期的貢献をすることにベストを尽した。

 当然のことながら、競争は集団的競争となった。組織はすべて他の組織に対する競争的集団であった。また、組織内部においても集団があり、集団的競争を行った。生産ラインのAグループとB・Cグループはきわめて競争的であったのである。一見すると逆説的ながら、組織内の競争が激しければ激しいほど、その組織は目標に向って一致団結した。一体性と競争は相互補強的であった。かかる集団的競争を維持していく人――労働者――の基幹的採用ルートが、最高の大学を卒業するというルートだったのである。

 このあり方はQC方式やJIT方式にとってきわめて適合的であることは、あらためて説明するまでもないであろう。その時々の賃金を得ることのみを動機として作業する労働者にとって、組織の運命はどうでもよい。それは資本家や経営者が考えるべきことであって、労働者が考える問題ではないとされるのである。QC方式やJIT方式、更にはOJT方式を以て労働者を搾取する資本家や経営者の狡智とするならば、それらの方式にコミットすることは働く人々の恥でなければならない。最高の大学出身者はかかる狡智者達の後継者であって、一般従業員の極端に言えば敵である。欧米でのこのようなあり方に対して、日本では彼らは全従業員の代表であり、組織の命運を担う責任者なのである。最高のランクの大学に入学することは、一面においてきわめて利己的な行為であるが、他面においてはきわめて国民的・全体的な行為なのである。

 高度成長期に大学・短大など高等教育機関への進学熱が異常な高まりを見せた社会的原因はこれである。高等教育機関の数が急激に増加すれば、大学・短大のランクづけが複雑に、しかも截然と作り出されるのは当然である。中央官庁や大企業と対応するのは最高ランクの大学である。二流、三流の大学を卒業しても大したメリットはない。それ以下のランクの大学・短大であれば、卒業しても直接的メリットは全くない。それにも拘らず、なぜ高校卒業生の殆どが大学進学を希望するのか。この論理を具体的かつ詳細に解析することは容易でない。この主題は節をあらためて取り組むことにしよう。

五 日本的学歴社会形成の論理

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 日本的雇用システムがシステムとして現れたのは昭和七、八年頃である。軍事力増強のための重化学工業化政策の中で、それは始まったのである。青年・壮年はすべて軍隊に入るか工場に入るかのいずれかであった。総力戦の名の下で経済も産業も軍隊の一翼となり、工場は兵営の一種となった。戦争に勝ち抜くには、経済と産業の組織においても一致団結と滅私奉公の精神と秩序が不可欠とされた。企業戦士とか工場戦士などという言葉ができた。この運動は企業という組織に強固な一体感を付与せずにはおかなかった。

 敗戦後、経済・産業の先端的部分では、資本と労働の対決の名の下で日本的経営は挫折したかに見えたが、事実はそうではなかった。戦後民主主義は、前述した如く形式的平等主義を最大の旗印として掲げることにより、日本的経営を本格化させる役割を果したのである。敗戦までに昇りつめた一君万民主義――皇国主義的軍国主義――は戦後民主主義の下で万民一君主義――平等主義的全体主義――となった。全体主義の内容はこれまた前述したように富国化と経済発展であった。平等主義的全体主義という建前(原則)は現実には競争主義的個別主義として展開していった。競争主義的個別主義は、本音に徹底させて言うと、排他主義的利己主義となる。しかし、この本音は不思議にも決して本音として現れることがなく、常に平等主義的全体主義のマスクをかぶっていた。平等主義的全体主義が価値である以上、排他主義的利己主義をどれほど批判しても、それは現実の批判とはならない。現実的批判とするためには平等主義的全体主義を否定しなければならないからである。

 終身雇用制と年功序列型賃金は中小企業にはなかなかなじまず、雇用・就職システムは二重構造となってかなり長期に維持されたが、QC運動やJIT方式、更にはOJT方式が展開し拡大するにつれて、大企業のシステムは中小企業にも及んでいった。最大の契機は労働力不足に起因した初任給高騰である。大企業並の高い初任給を払うのならば、高卒者よりも大学・短大卒の方がよいと中小企業主は考えたのである。中小企業主の考えは極端に言うと迷信の一種であるが、高等教育機関に対する独特の社会意識そのものが戦後民主主義が作り出した迷信なのであるから、彼らの考え方は決して迷信とは言えないであろう。

 社会の観念はある時点で現実に転化する。この社会法則は高等教育機関についても当てはまる。否、美事なまでに当てはまると言うべきかもしれない。高卒者の過半が大学・短大に進学することが現実のものとなると、進学しない者はそれだけで劣者と判断されることになる。著増した高等教育機関の大半の学生が学ぶことに何の興味も持たないのであるから、大学進学者よりも非進学者の方が資質、能力双方において勝っている場合があるかもしれない。しかし、時勢に囚われた人々はそうは考えない。かかる高等教育機関信仰が高等教育機関を爆発的に増加させた究極の原因であると言ってよいかもしれない。

 高度成長期の新興企業を創始した人々の多くが高等教育とは何の関係もない人々――例えば松下電器産業の松下幸之助、本田技研工業の本田宗一郎、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊――であったことは、右の指摘の虚妄ならざることを証明するであろう。高等教育とは無縁の人々が、高度成長を牽引した新興企業を創出することができた秘密は、既成の知識から自由であったことである。教育が若い人々の能力を陶冶するのは確かである。しかしその反面、教育は人間をステレオタイプ化することもまた事実なのである。教育を受けた人々は、「そんなことは理屈に合わない」「そんな考えは無知の証拠である」などとよく言う。しかし、理屈なるものは過去に誰かが考えついたものに過ぎない。だから、理屈に合わないとの批判は、百年前、五十年前のある人物の考えを金科玉条とする嗤うべき仕業でもあるのである。極言すれば、「教育」は知識ある愚者を作るものなのかもしれない。知識ある愚者とは、創造性のない物真似屋のことである。

 幕末における最高の指導者の一人横井小楠は、「博学明弁共に皆思の字の小割れにて、其実は思の一字にて学問大端を包めり。全躰己に思ふの誠なければ後世の如く、幾千巻の書を読候ても皆帳面しらべになるものに候。先書は字引と知べく候」(『小楠遺稿』三九二頁)と述べている。知識を有用なものに変換させる決定的要素は、思い――創造に向けての熾烈な志――なのである。専門と称する狭い知識からは、新しいものを生み出す創造力は生じない。広い分野についての造詣――各種の専門に通じること――こそが、専門をして生彩ある専門たらしめるのである。高田早苗を以て政治学者とすることはできない。高田は政治学者であると同時に政治家であり、最高の新聞記者であり、また、英文学者であり、芸術評論家であった。自伝『半峰昔ばなし』を一読すれば、高田早苗は五つも六つもの専門家であったことが分る。このことが、高田という人物をして独創的な人物たらしめているのである。

 東京通信工業(ソニーの前身)を興した井深大(昭八理)は本田宗一郎についての優れた評伝を著したが、その中で次のように記している。

技術者として本田さんと私とのあいだに共通していたのは、ふたりとも、厳密にいえば技術の専門家ではなく、ある意味で「素人」だったということでしょう。技術者というのは、一般的にいえば、ある専門の技術を持っていて、その技術を生かして仕事をしている人ということになるでしょう。しかし、私も本田さんも、この技術があるから、それを生かして何かしようなどということは、まずしませんでした。最初にあるのは、こういうものをこしらえたいという目的、目標なのです。それも、ふたりとも人真似が嫌いですから、いままでにないものをつくろうと、いきなり大きな目標を立ててしまいます。この目標があって、さあ、それを実現するためにどうしたらいいか、ということになります。この技術はどうか、あの技術はどうか、使えるものがなければ、自分で工夫しよう……。 (『わが友 本田宗一郎』 二四―二五頁)

また、「やるからには、他人の追っかけたがりじゃ気がすまんから、アッと言わせるものをこしらえてやるんだ」(四四頁)とか、「物を苦労して作った奴ほど強い奴はないね。物を作ったことがない奴は、皆だめだね」(五四頁)とかの本田の口癖を、井深は紹介している。

 上位ランクの大学入学を目指しての受験競争は、幼・少年期に芽生える創造の心――新しいものに憧れ、いつの日かそれを造ってやろうとの心――を萎えさせ、他人が作った教科書・参考書の丸暗記に全精力を使い果す。丸暗記そのものが悪いと言っているのではない。漢籍の素読、和歌・俳句の暗誦、外国の名詩や名文章の暗記、これらは幼・少年期に大いに努力すべきである。しかし、入試問題の解答のための暗記はこれらと全く異る。情操も風格もなく、一点でも高い点を取るべく、味噌・糞の区別なく暗記する。この暗記は上位ランクの大学に入るために強いられたものであり、そこから生れるものは優劣の感覚、勝負の感覚である。

 平等主義的全体主義は日本的経営を確立させ、以てアメリカ合衆国、西欧先進諸国へのキャッチアップに成功した。平等主義的全体主義と日本的経営との連携役を果したのが高等教育機関であった。勿論、大学は単なる連携役に甘んじていたわけではない。第三章以下に具体的に、詳細に述べる如く、我が早稲田大学は、新しい時代が要請する研究・教育に応えるべく、さまざまの施策を断行した。しかし、時勢という大きな世のうねりに抗することは難しく、いかにうまく乗るかに腐心せざるを得なかった。教職員も学生も、この時勢に対して自主性を、更には独自性を保つべく努力したのである。とはいえ、狂瀾を既倒にめぐらす術はなかった。学苑の発展そのものが、戦後民主主義という社会的趨勢に乗じた側面は否定できない。学生は産学協同路線絶対反対を叫んだが、学生となったそもそもの動機が産学協同路線に沿ったものなのであった。自らが蒔いた種から芽生えたものを見て、激しい自己嫌悪を覚えた。だから、学生運動は自己嫌悪から来る自己否定の運動という要素を強く持っていたように思われる。

 教職員についても同じこと、否、より深刻な事態が展開したようにも思われる。就職斡旋所という大学にとって好ましからざるあり方に対して、どのように対処するのか。対処の仕方についてはともかく、いちばん根本にある問題は、「専門家化」から生じたところのモラル、歴史・社会感覚の低下である。この低下をとどめ、上昇に転じさせるには、どうしたらよいのか。

 二十一世紀を間近にして、時勢は今や大きく変ろうとしている。学苑教職員、学生はいずれ時勢の転換に直面せざるを得ないが、転換に当っての旋回操作に第一番に責任を持つ者が教職員であることは間違いないところである。