Top > 第五巻 > 第十編 第二章

第十編 新制早稲田大学の本舞台

ページ画像

第二章 膨張する学苑

ページ画像

一 高等教育機関への進学

ページ画像

 前章で論じたところを、制度の変化ならびに学生数の変化を中心に説述しよう。

 第二次世界大戦勃発前夜の昭和十五年、旧制の高等教育機関、すなわち大学(予科を含む)、高等学校、専門学校、実業専門学校、高等師範学校、女子高等師範学校、師範学校、臨時教員養成所、実業教員養成所は全部で三百八十八校あり、そのうち大学および高等学校は七十九校を数えたに過ぎなかった。この年、高等教育機関に入学した学生は約十二万千人、うち三年制の高等学校および三年制の大学への進学者は三万九千人である。当時、右に挙げた高等教育機関への進学年齢は、学校によって異り十六歳または十七歳であった。昭和十五年当時のその年齢集団はそれぞれおよそ百五十万人であり、これを分母として高等教育機関進学者の比率を計算すると八・一パーセントになる。言い換えれば、同一年齢集団で高等教育を受けたのは百人中八人に過ぎなかったのである。

 戦後の新制度では、高等学校が中等教育の完成機関と位置づけられ、また教員養成がすべて大学で行われることになり、更に旧制の専門学校に相当する学校がなくなったので、高等教育機関と言えば四年制の大学だけを指すこととなった。しかし、当初は一時的な措置として設置が認められた二または三年制の短期大学が三十九年に大学の一員として正式に認知され、また、三十六年から四十三年まで存在した国立工業教員養成所と、四十一年から五十四年まで置かれた国立養護教諭養成所と、三十七年に発足した高等専門学校(ただし第四学年以上)も、高等教育機関に含められることになった。これらへの進学年齢は旧制時代よりも高く、すべて十八歳に引き上げられている。

 一部の新制大学が発足した昭和二十三年度から学苑創立百周年を迎えた五十七年度までの間における新制の高等教育機関の数は、第一図に示す通りである。それは早くも三十二年に五百校(四年制大学二百三十一校、短期大学二百六十九校)を数えていたが、特に三十年代半ば以降、急成長を遂げた。その転換点は三十八年から四十二年にかけてであり、この四年間に六百三十四校(二百七十校、三百二十一校)から八百八十八校(三百六十九校、四百五十一校)へと一挙に二百五十四校も増えた。実に四〇パーセントもの増加である。その後増加率は鈍化したものの、五十七年には千四十三校(四百五十三校、五百二十六校)に上っている。

第一図 高等教育機関の数(昭和23―57年)

 増えたのは学校だけではない。第二図は高等教育機関進学者数と十八歳人口中に占めるその比率とを示したもので

第二図 18歳人口と高等教育機関進学率(昭和28―57年)

ある。十八歳人口は大戦末期の出生数激減の結果昭和三十九年に百四十万強まで落ち込んだが、四十年代に入ると戦後ベビー・ブーム期の出生率上昇を反映して急増した。しかしこの増加は長引かず、高度経済成長がもたらした生活水準向上に伴う少子化傾向にとって代られ、四十年代半ばにはその十年前よりも寧ろ減っている。これを分母とすると、分子の動向はどうであったろうか。義務教育をおえたのち高等学校へ進学する人々の比率は、二十年代末期および三十年代初期には五〇パーセント、すなわち二人に一人の割合であった。以後この比率は間断なく上昇し、四十九年になると九〇パーセントを超えた。これに伴って高等学校卒業者も増加し、分母としての高等教育機関進学希望者数が膨らんだ。実際に高等教育機関に入学したのは、昭和二十八年には既に十六万人(四年制大学十三万人、短期大学三万三千人)を超えていたが、三十年代半ばから漸増し、四十年代に入ると急増して四十六年に初めて五十万人(三十五万八千人、十三万六千人)を突破した。五十七年には六十万三千人(四十一万五千人、十八万人)を数えている。これらの人数を同一年齢集団に占める比率で見ると、二十年代後期から三十年代中頃までは一〇パーセント前後、すなわち十人に一人の割合であったのが、四十年代の十年間には一〇パーセント台半ばから三八パーセントにまで急伸した。五十年代には四〇パーセント弱を保っており、十八歳人口のおよそ五人に二人が高等教育を受けている計算になる。なお、高度の専門教育の完成機関と位置づけられた大学院への進学者も増えているが、それによる比率の変化は見られない。

 右のような趨勢は、高等教育の性格について考察する際の手掛りを与えてくれる。新制の高等教育が旧制時代と異る特徴は多々挙げられるが、少数のエリート養成よりも多数の教養人育成に重点を置こうとの新制度の狙いは、高等教育進学率の上昇を見る限り、成功したと言えよう。しかし、その反面、当初は予想だにしなかった変革を大学は経験することになった。最大の問題点の一つは、新制大学の性格が旧制大学と大幅に異ったのに、これを理解できなかった社会あるいは大学教員の意識から発生した。例えば、新制大学の学生の専門知識獲得度を旧制大学の学生のレヴェルと直接に、すなわち変化を数値化して加重値もかけることなく比較して、学生の知的能力または学問研究態度を云々するような姿勢は、その最たるものであろう。残念ながら本学苑においても、教員の意識は容易には変化しなかった。これがもたらした帰結は本巻の処々で論じるので、ここでは、右の数字の変化から生じた大学および大学生の質の変化について、二点だけ指摘しておこう。第一に、大学が増え、全国津々浦々に大学が存在するようになって、従来日本各地から学生を集めていた全国型大学も地域大学化した。地元に大学があるのだから、何も遠方の大学へ行く必要はないというわけである。しかし、多様な学生が集ってこそさまざまな意見をぶつけ合い、知的刺戟を与え合うことが可能となる。地域大学化すると学生も同質化しやすく、人格・知能の活性化につながりにくい。第二に、大学生が自己をもはや学問研究を担うエリートとは看做さず、誰もが人生の一時期を過ごす場として大学を捉えるようになった。友人が大学に行くから自分も行こう、よい就職口を見つけるために取敢えず大学へ行こう、厳しい受験競争をくぐり抜けたあとは大いに遊ぼうと考える傾向が、若者の間に拡がった。こうなれば、大学が学生に提供するものも変化せざるを得ない。こうして、旧制時代の大学観を未だに引きずっている大学教員の多くは、学問研究の水準を高く維持しつつ学生に学問への動機づけを提示しようとしても果し得ず、苦悩するようになったのである。

二 早稲田大学の学生数

ページ画像

 昭和二十四年四月、早稲田大学は新制度への切替えに伴い、大学予科たる二つの高等学院を廃止して新制高等学校に相当する高等学院を一校開設し、前年発足の新制夜間高等学校である工業高等学校と併せて二つの高等学校を有することとなったほか、いずれも専門学校に当る専門部と高等師範部と専門学校(夜間の専門部)とを実質的にすべて新制学部に昇格させた。新制学部卒業生が初めて誕生した二十六年には新制大学院をも発足させ、三十三年には専攻科を、四十年には国際部を開設した。右のうち工業高等学校は三十六年に廃校が決り、その代りに夜間の各種学校として産業技術専修学校が開校したが、これは専修学校制度の誕生に伴い五十三年に早稲田大学専門学校と装いを一新した。そして学苑創立百周年を迎えた五十七年には、もう一つの新制高等学校として本庄高等学院が開校したのである。#waseda_tblimg(5_0070)

第一表 学生・生徒数(昭和24―57年度)

第二表 卒業生・修了生数(昭和25―57年度)

 このような変化の中で、学生・生徒数はどのように推移したであろうか。なお、学苑は三十八年十二月に早稲田実業学校を、五十四年四月に早稲田中学・高等学校を系属校として有するに至ったが、法人組織が別個であるので、この二校の生徒は対象外とする。

 新制早稲田大学の各年度における学生・生徒数を第一表に、卒業生・修了生数を第二表に掲げる。なお、新制への移行によって旧制早稲田大学が直ちに廃止されたわけではなく、工芸美術研究所付属技術員養成所は二十五年三月三十一日に、高等師範部と専

第三表 旧制早稲田大学の学生・生徒数(昭和24―34年度)

第四表 旧制早稲田大学の卒業生・修了生数(昭和24―28年度)

門学校は二十六年五月三十一日に、専門部および高等工学校は二十六年十月三十一日に、そして旧制早稲田大学(大学院および学部)は三十五年三月三十一日にそれぞれ廃された。それまでは旧制度に依る学生・生徒が残留していたのであり、これらの旧制早稲田大学の学生・生徒数と卒業生・修了生数については第三表ならびに第四表を参照されたい。第一表および第二表の初期の数値は少いけれども、それはこの二表が新制の数字のみを掲げているからである。因に、旧制の残留学生・生徒数を加算すれば、学生・生徒総数は二十四年度には二万七千弱、二十五年度には二万八千弱、二十六年度には二万九千弱となる。以下では、これらの統計データを利用しつつ、規模の変化がもたらした問題点を明らかにしていこう。ただし、卒業生・修了生数の動向と学生・生徒数の動向とを比べると、第三図に見られるように、数年のラグはあるものの両者はほぼ類似の軌跡を描くので、在学生数の推移を中心に検討する。

 新制早稲田大学の中核をなすのは学部である。学部学生数が学生・生徒総数に占める比率は八八パーセントを超えている。前節に述べたように旧制との単純な比較は慎重の上にも慎重でなければならないが、旧制高等学院(第一学院三年制、第二学院二年制)が新制学部前半二年間の教養課程に、三年制旧制学部が新制学部後半二年間の専門課程に相当すると敢えて仮定するならば、昭和十五年当時、学部学生(五千百二十三人)と二つの高等学院生徒(四千三十人)が学生・生徒総数二万三千三百六十九人中に占める比率は三九パーセントに過ぎなかった。これに対して、専門部・高等師範部・専門学校の生徒数は実に三九パーセントにも達し、残る二二パーセンーは工手学校と高等工学校の生徒が占めていたのである。新制への移行期の改革で最も重要なのは、政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部の五学部に夜間学部たる第二学部を併設し、この十学部に教育学部を加えた十一学部で再出発したことであった。後述するように、その後、第二理工学部の廃止に続いて、第二政治経済学部と第二法学部と第二商学部が廃止される代りにこれら三学部を統合した夜間の社会科学部が新設された。こうして八学部となったのであるが、夜間学部を整理した反面、昼間学部の入学定員を拡大したから、学生総数は却って増えた。

 昼間学部学生総数、夜間学部学生総数、および学生総数の動向を、第一表のデータに基づき作成した第三図により概観しよう。旧制度在籍者の新制度への移行措置の結果、第一および第二学年のみで発足した新制学部が第四学年まで完全に揃うのは昭和二十六年度である。その後学部学生総数は急増し、三十一年度には三万を超えた。三十年代前半の伸びは緩やかであったが、第二理工学部が学生募集を停止した三十六年度から急増に転じた。この増加は四十年代初期まで続き、三十五年度から四十一年度までの六年間の増加率は二五パーセントを記録した。四十年代半ばには若干減少したものの、後半になると漸増して五十一年度に四万を超え、その後は横這いで推移している。

第三図 学部の学生数と卒業生数(昭和24―57年度)

 次にこれを昼間学部と夜間学部とに分けて観察しよう。夜間学部すなわち第二学部の設立経緯は第四巻九三八―九四一頁に詳述したし、それの廃止・存続・統合の経緯は本編二五一―二七八頁に詳述するので、ここでは繰り返さない。夜間学部の学生は二十年代後半に増え続けて三十年度には一万二千三百四人のピークに達し、学部学生全体の四一パーセントを占めたものの、以後減少に向った。これに対し、昼間学部の学生数は一貫して漸増傾向を示している。学苑当局は明らかに第二学部の規模縮小と第一学部の定員増加を図っていたと言える。そのクライマックスは、第二理工学部の学生募集が中止された三十六年度に始まり、四十年度に第二法学部と第二商学部、四十一年度に第二政治経済学部と続いた第二学部の廃止である。尤も、後三学部を統合した社会科学部が四十一年度に新設され、また第二文学部は存続したから、夜間学部が全廃されたわけではない。しかし、第二政治経済学部と第二法学部の在籍者がいなくなり、第一文学部を除く昼間四学部の名称から「第一」の冠辞が消えた四十八年度になると、夜間学部学生数の学部学生全体に占める比率は一三パーセントまで低落し、五十七年度でも一五パーセントにとどまっている。

 夜間学部が縮小され、昼間学部が拡大されるに至った昭和三十年代後半から四十年代初期は、学苑にとって重大な転換期である。折から始まった高度経済成長の最大の果実である生活水準上昇を背景に、戦後教育の理念であった教育の機会均等を相言葉として、大学進学希望者が激増した。と同時に、敗戦直後に誕生した巨大な人口集団が高等教育を受ける年齢に近づいたので、文部省は大学の門を拡大する方針を採った。その結果、第一図に見られるように高等教育機関の数は急速に増えたのであった。しかし社会は、当初、戦後の新設大学よりも旧制時代から名の通った大学に進む方が何かと有利であろうと判断したから、学苑を含む後者への入学が難関となった。学苑はこの事態を緩和するため、廃止される第二学部の入学定員を上回るほどに第一学部の定員枠を拡げたのであった。

 しかし、施設が従来のままであれば忽ち満杯どころか溢れてしまう。その解決策が、第一・第二理工学部および第一・第二文学部の本部キャンパスからの移転であり、本部キャンパスの大々的拡充であった。四学部の移転が開始する直前の三十五年における本部キャンパスの昼間学部人口は二万五百九十一人、移転が完了した四十二年にはピークの二万三千二十九人に達して一一・八パーセント増となった。その後は漸減したけれども、施設の狭隘さは容易には解消されなかった。教室や図書館や学生ラウンジなどの込み具合は学生が最も不満としたところであり、それは三十年頃には「すし詰め教室」「立ちん坊授業」に、その後は「マス・プロ教育」の言葉に代表された。なお、五十七年の学部昼間人口は二万千七百一人で、十五年間に五・八パーセント減少している。

第四図 各学部の専任教員一人当り学生数(昭和30―57年度)

 学生が抱いたもう一つの不満は教師との触れ合いの稀薄さである。これの原因は学生数に比べて教員数が少すぎることであるが、実態はどうであったろうか。第四図は各学部の専任教員一人当り学生数の推移を逐ったものである。学生数は第一表の数値を使用し、教員数は毎年の『早稲田大学教職員名簿』より算定した。ただし、同系統の第一・第二学部は一つの学部と看做して両学部の教員数も学生数も合算してある。因に昭和十五年当時、例えば政治経済学部の専任教員は二十二人であり、その学生数をこれで除すると六十五人となる。十五年後には新制同学部の教員一人当り学生数は百十二人にも上っており、教師との触れ合いがないとの学生の実感が裏付けられる。昭和三十年代前半には学苑はこの不満を軽減すべく専任教員を増やしたけれども、その後半には教員の増員は学生の激増とほぼ同じ歩調をとったため改善は僅少にとどまった。専任教員一人当り学生数の減少が進むのは四十年代に入ってからである。三十年度に四百七十九人であった各学部専任教員は二十七年後には八百七人を数えるに至った。これにより、全学部平均の教員一人当り学生は六十三人から四十九人へと減ったのであった。とりわけ政・法・商の社会科学系三学部と文・教育の人文科学系二学部および理工学部の三学部との間に当初見られた大きな格差が縮小した。尤も、例えば五十七年における政治経済学部の専任教員一人当り学生数は七十四人であり、四十年前の水準にまではまだ回復していない。増えたのは専任教員だけでなく、三十年度に四百二十七人であった非常勤講師(他学部専任および研究所専任の兼担教員は含まない)の数は四十三年に専任教員数を追い越し、五十七年度には千百八十九人に膨張した。このように、趨勢として教員が増え、専任教員一人当り学生の人数は低下したとはいえ、大教室に数百人もの学生を集めて行われる講義形態は今なお続いている。

602号 26頁,

度版より作成)

 旧制時代と著しく異る特徴をあと二点、数字をもとに指摘しておこう。

 第一点は、三〇頁に述べた地域大学化の波と学苑も無縁ではあり得なかったことである。学苑に学んだ学生の出身地方別分布は、早稲田大学の性格を考える場合、きわめて重要な意味を持っている。学苑生は創立以来全国各地から集まり、一地方に限定されていなかった。いわば全国型大学であって、地域型大学ではなかったのである。これを第五表によって見ると、東京専門学校創立初年度末(明治十六年八月)には、関東地方よりも寧ろ中部地方の出身者の多かったことが分る。中でも東京府出身者は十三人で、全体の六パーセントを占めたに過ぎない。大正九年の卒業生のうち関東地方出身者の比率は二七パーセントであり、昭和十年には三二パーセントであった。しかし、戦後間もない二十五年になると出身地方別比率は大きく変化し、関東地方出身者は六〇パーセント近くになった。これは、東京が戦災に遭って住宅事情や食糧事情が悪化し、勉学のため子女を上京させることが経済的にも困難であったためと思われるが、以後、関東地方出身者の比率は戦前の水準に逆戻りせず、過半を占め続けた。五十七年の東京都出身者は二千三十二人で、二六パーセントに達している。その背景には、大企業の東京集中、東京と地方との所得格差、住居費に典型的に見られる東京での生計費高騰があった。因に四十年の県別一人当り平均所得は、全国平均を一〇〇とすると、最高額の東京都が一八三・七、最低額の鹿児島県が六二・八であり、二・九倍以上の格差が存在したのである。新制大学が全国各地で増え、国立大学が地域大学化し、東京大学を除く旧帝国大学にはその所在地周辺府県の高等学校の生徒しか受験しなくなる状況の中で、学苑において関東地方以外の出身者の比率が四〇パーセント台を維持し続けたのは寧ろ特筆すべきことと考えられるかもしれないが、反面、早稲田が従来持っていた泥臭さ、多様性、いわゆる「早稲田らしさ」を喪失する結果を伴った。このことが、早稲田精神昻揚会が結成されてさまざまな試みが行われたことに窺われるように、学生の一部に早稲田らしさ再確認の願望を生む一因となった。

第五表 出身地方別学生数とその比率(明治16―昭和55年)

(『東京専門学校年報明治十五年度』 24頁,『早稲田学報』昭和25年6月発行第

同誌昭和40年9―11月発行第754―756号,『基本諸統計』昭和55年

第五図 女子学生数の比率(昭和23―57年)

 第二点は、戦後教育改革の所産である男女共学理念の浸透に伴い、学苑においても女子学生が増大したことである。女子学生の大量出現は新制大学期の最も顕著な現象であり、以前には想像さえできないことであった。因に、第三巻八〇四頁以下に既述した如く、学苑が女子の学部入学を正式に認めたのは昭和十四年であったが、その翌年、在籍女子学生は九人に過ぎなかった。それが二十五年になると既に三百六十九人を数え、四十年に三千九百九十六人となるまで増え続けた。その後若干減少したものの、五十五年には五千四百七人のピークに達し、五十七年現在では五千二百四人となっている。この人数は我が国初の女子大学である日本女子大学の学生数に匹敵し、東京女子大学や同志社女子大学やお茶の水女子大学よりも遥かに多い。これを学部学生数に占める比率で示すと第五図のように推移しており、二十五年の一・七パーセントから四十年には一〇・七パーセントに達した。女子の進出が際立っていたのは第一文学部と教育学部であり、三十年代後半から四十年代初期にかけて四〇パーセント前後を占めるに至った。このため女子学生の増加は一種の社会的話題ともなった。昭和三十七年に学苑教授暉峻康隆は『婦人公論』三月号に「女子学生世にはばかる」を発表し、次いで翌四月号に慶応義塾大学教授池田弥三郎が「女子学生亡国論」を発表した。大学関係者の中には女子の大量入学に苦慮するところも出てきた。四十一年四月には熊本大学学長柳本武が「激増する薬学科女子入学者の制限策を考えたい」と発表して、物議を醸した。こうした現象について、学内外やマス・コミではどのような意見や批判が出されたろうか。批判的な立場は、女子学生の独創力の欠如、学問上の後継者の育成難、男子教員と女子学生との間に存在する指導上の限界、職業人となる意識の欠落、就職後の結婚による学問の不活用を指摘した。肯定的な立場は、入学試験での女子の優秀な成績による当然の増加、卒業式の総代に女子の多いことから立証できるように熱心な勉学の姿勢、教育の機会均等論、男子学生と異って学問を就職の手段と考えていないことから生じる学問への取組み方の純粋さを挙げた。どちらの立場を採るにせよ、それらの意見には「このように見ることもできよう」といった程度の漠たる気持がこめられているのであって、この主題はもっと長期的に見る必要があろう。学苑における学部女子学生の比率は四十年代前半に若干落ち込んだが、四十年代後半に再び増加し始め、五十年代は一三パーセント台を維持している。第一文学部で四〇パーセント台を回復するのは五十年代に入ってからであるが、教育学部では、四十九年を除き、今日に至るまで三〇パーセントに達していない。なお、学苑で初の女子専任教員が誕生したのは三十七年、それから二十年後には三十人を数えている。

 さて、新制になってから大学院の位置づけも役割も大きく変った。旧制大学院との相違点は第四巻一〇〇五頁以下に既述したが、煩を恐れずもう一度まとめておこう。研究者育成のみを目的とする旧制大学院ではカリキュラムは編成されず、大学院学生は二年以上在籍して自身の指導教授のもとで自学自修に励み、独創的な博士論文を制作して学位を取得する。それに対して新制大学院で特徴的なのは、二年制の修士課程が設けられたことである。すなわち、学部は専門教育の入口を跨いだところまでを担当するものと位置づけられたから、修士課程ではそれを更に深めるとともに、高度な専門知識を具えた職業人を養成することも重要な任務となった。そして、旧制大学院の純然たる研究者育成機能は三年制の博士課程に委ねられると同時に、両課程ともカリキュラムが組まれ、これに沿って教育が施されることとなった。ところが、昭和二十年代半ばには「大学院基準」をめぐってさまざまな解釈があり、学苑は当初、修士課程と博士課程の「二本立て」方式を採用した。すなわち、現行の制度や他大学の大学院システムとは異り、博士課程を五年制とし、大学院入学時に修士課程と博士課程のいずれかを選択することができるシステムを構築したのである。これに対して、多くの大学における大学院は二段式となっており、博士課程は修士課程の上位に位置づけられている。従って博士課程への進学を希望する者は、原則として修士課程を修了していることがその要件として求められる。学苑の大学院が一般に採用されている二段式に転換したのは、二九五頁に後述するように昭和三十九年度であった。この点に留意しながら、第六表により新制大学院の学生数の動向を観察しよう。

 新制大学院が開設され修士課程が発足した昭和二十六年度の大学院学生総数は、総定員千二百六十四人に対して三百四十四人であった。その二年後に総定員四百三十八人の博士課程が発足して、右に説述したシステムが実際に運用されることになったけれども、合計総定員千七百二に対して在籍者は八百七十人にとどまった。合計総定員は更にその二年後に二千五十三人と大幅に増加されたが、実際の在籍者は暫くの間定員を下回った。学生数が急増するのは三十年代後期以降で、四十年度に初めて二千人を超えた。学部の場合入学者数は定員を上回るのが通常であったのに、大学院では長期に亘って在籍者数が定員を下回ったのは何故であろうか。それは、学生も教員も大学院とは研究者を養成する場であるとの旧制時代からの意識を持ち続けたからである。二本立てで出発したにも拘らず、修士課程に進んだ学生の大半が初めから博士課程を目指していたのはこの意識の反映であり、教員の側も、一度に多数の学生を指導して一人前の研究者に育てるのは不可能との認識を抱いており、定員枠一杯まで学生を受け入れるのを自制した。要するに、両者とも修士課程の本来の機能を殆ど理解していなかったと言える。大学院での最終的成果は博士論文の

第六表 大学院学生数(昭和26―57年度)

(『学生生徒数及異動調』各年度版より作成)

第七表 大学院学位取得者数(昭和27―57年度)

(『早稲田大学統計要覧』昭和61年度版 39頁)

提出と博士号の授与に現れるが、その数は第七表が示すようにごく少かった。独創的な新研究を完成させなければそれに値しないと考える重圧が、こうした結果を生んだのであろう。

 次編第七章で説述するように、転機は五十年に訪れた。すなわち、文部省は大学設置審議会の答申に基づき「大学院設置基準」と「学位規則」を改正し、斬新な研究成果よりも研究能力そのものの有無を学位授与基準としたのである。と同時に、修士課程は制度としては廃止され、博士課程に一本化された。この博士課程は前期課程と後期課程とに二分されたけれども、それぞれの修業年数は二年と三年で、実質的に前期課程は修士課程、後期課程は博士課程と看做された。この改正に併せて、五十一年、学苑の大学院総定員は一挙に四千二百十四人へと拡大されている。しかし、五十年代における大学院学生数および学位取得者数の推移を見ると、学苑では右の転機を転機と捉えることなく旧態依然たる大学院観に固執し続けたことが分る。こうした大学院観が揺らぐのは、学苑大学院に学んだ外国人留学生が学位を取得できないまま帰国して、日本での業績を本国で正当に評価されないという事例が多々報告されるようになってからである。

 「新制」大学はまだ完結していない。学苑創立百周年までを対象とする本史最終巻は、戦後の教育制度と高度経済成長によって生み出され蓄積された歪に対する不満が爆発した昭和四十年代初期を以て時期を二分して叙述し、加えて、第十二編において百周年記念事業の成果を見るとともに学苑第二世紀へ向けての課題を展望する。