Top > 第五巻 > 第十編 第十一章

第十編 新制早稲田大学の本舞台

ページ画像

第十一章 福利厚生制度と教・職員組合の結成

ページ画像

 年金や退職手当といった教職員の福利厚生に関わる制度を創設し、その財源を自前で調達しなければならないのは私学の宿命である。尤も、かかる制度の存置を当然と看做す通念の定着は比較的最近のことである。学苑では大正から昭和にかけて高田早苗らの腐心により不十分ながらも退職金制度が整えられ、昭和二十六年に至って年金制度が確立した。その画期的意義は、診療所、健康保険組合、保養施設等の設置と併せて第九編第六章に詳述したところである。

 一方、教職員の待遇に大いに関わりのある教員組合・職員組合結成の動きは、その先蹤が大正十一年にあった。この年の暮、佐野学、出井盛之ら数人の若手教員が四谷の牛肉屋に会合し、大山郁夫を発起人に仰いで待遇改善のために教員組合を作ろうと相談したという。この計画は研究室蹂躙事件の煽りであえなく雲散霧消したとはいえ、大正デモクラシーの余香を漂わせる一挿話である。その後四十年近い星霜を経て、教員組合・職員組合が踵を接して学苑に発足した。時あたかも総長大浜信泉の下、教職員給与体系の合理化が初めて図られていた如くであったが、以後両組合は待遇問題に限らず福利厚生への取組みを推し進め、更に学内諸問題にも発言するようになったのである。

一 福利厚生制度の充実

ページ画像

 昭和二十六年に制定された「年金規則」は、第四巻一一六三―一一六四頁に既述した如く、学苑悲願の年金制度を初めて確立させたものである。その後二十七年と三十二年に条文の一部改正があったが、三十三年八月一日に至って重要な改正が施された。大浜総長はその画期的意義を次のように力説している。

宿願の年金制度が確立され、いよいよこれを実施する運びとなったことは喜びに堪えません。この制度は保険の理論を応用したものでありますので、結果論的にいえば、その具体的の恩恵は、万人について必ずしも画一平等というわけには参りませんが、教職員が社会連帯の理念、相互扶助の精神を発揮して欣然賛同されたことはまことに感謝に堪えません。この制度が教職員にとって新たな負担を伴うことはいうまでもありませんが、大学にとっても、財政的には、大きなしかも永久の負担であります。この制度が、久しくその必要を叫ばれながら、今まで遂に実現を見なかったのもそのためであります。ところで今回これを断行することが出来たのは、大学の財政的基礎がそれだけ強化された結果ではありますが、それには一大決意が必要であって、この点につき評議員会の大英断に対して敬意を表したいと思います。

(『早稲田大学広報』昭和三十三年八月十四日号)

即日施行された新制度が旧制度に比し大いに改善されたと見られるのは、次の五点であろう。

一、給付種別を普通年金、一時金、廃疾年金、遺族年金、遺族一時金の五種に分け、専任の教職員全員を対象とし、旧規則に見られた勤続年限による差別をなくす。

二、年金の給付は、大学の繰入金および醵出金、教職員の醵出金、寄附金および基金の果実より成る教職員年金基金から支出する。

三、給付期間を原則として終身とする。

四、勤続年数が二十年未満の者に与える一時金と、廃疾年金との給付を定める。

五、年金制度の管理と運営を明確にし、管理は大学、運営は年金制度運営委員会および年金基金運用委員会が行う。 そして右の第五点に沿って十名の年金制度運営委員と六名の年金基金運用委員が選出された。また「年金規則施行規程」も翌三十四年四月二日に制定、即日施行されて、新規則による年金制度の運用が軌道に乗った。

 新制度に対する教職員の反応は、給付額が計算法の違いから形式的には旧制度に比し低くなっているものの、俸給の基準額が格段に高くなり、手取金額が多くなったためか、概して好評だったようである。例えば商学部教授永山武夫は、教職員の負担が重すぎること、基金運用委員に教職員代表を参加させるべきこと、廃疾年金の額が低すぎること等の欠点を指摘しつつも、「原則的には賛成だ。こういう制度はぜひ必要で、これにふみ切った理事会の決断には敬意を表する」(『早稲田大学新聞』昭和三十三年八月五日号)と歓迎した。

 その後三十五年九月に、「この規則において『俸給』とは、『俸給の八割七分に相当する金額』をいうものとする」との条文が加えられ、四月一日に遡って適用されることになった。教職員にとっては不利な決定であったが、極度に逼迫していた大学の財政上の理由による措置であった。

 改正はその後も続き、三十八年十二月、責任準備金の不足、管理と運用に対する不満を解消するために、二十四名の委員より成る年金制度検討委員会が設置され、七回に亘る討議の結果、翌三十九年五月二十八日に第一次、十月十五日に第二次の答申が出された。この答申に基づき四十二年六月、「年金規則」「年金規則施行規程」が改正されるとともに、新たに「年金委員会委員選挙規程」が制定された。この改正の骨子は、三十五年九月の改正で算定の基礎となる「俸給」が俸給の八七パーセントとされていたのが、一〇〇パーセントに改められたこと、教職員に嘱任された時点から定年に達するまでの在職期間が二十年に満たない者については、嘱任時において年金制度に加入させないこと、年金制度運営委員会、年金基金運用委員会を統合して年金委員会の一本とし、教職員の意見を広く反映させるため委員会の規模を拡大するとともに、その運営に当ってはこの委員会の中に常任委員会を置き執行的役割を果させること等の点にあった。そして五十年一月には、四十六年度以前の年金受給者に対して普通年金・遺族年金の支給額を四十七年度俸給額にスライドするように改められるとともに、最低保証額が年額三十万円と定められ、更に五十四年一月には、物価スライド制の導入・最低保証額の五十四万円への引上げが実現した。

 福利厚生の一環として教職員に対して行われる低利の融通制度にも変遷があった。第四巻一一六八―一一六九頁に述べた如く、二十八年に設置された教職員厚生会には「教職員厚生会規程」による普通貸付と、これに付帯する「特別貸付細則」による特別貸付があった。後者に定められた貸付金の最高限度額は当初の十万円よりたびたび引き上げられたが、四十六年度に至り「貸付状況と利用者の利便を考慮して」(『早稲田大学広報』昭和四十六年三月二十二日号)、「特別貸付細則」の廃止と「教職員厚生会規程」による貸付額の引上げとにより二本立貸付制度が一本化された。

 厚生会とは別個の存在であるが、貸付事務が厚生会の所管(決定は理事会)とされている三十八年九月一日施行の「教職員住宅建設助成基金規程」についても触れておこう。これは、満十五年以上勤続の教職員が自己の住宅を新築、増築、購入する場合に、基金五千万円から支出して貸し付ける制度であり、貸付金額は厚生会からの貸付金額と合算して百五十万円以内、利息は年八パーセントと定められた。高度成長に伴い都市化が急速に進行したので、都内および周辺郊外における住宅整備は大幅に遅れた。かかる需給関係の悪化に起因する住宅難の解消に、厚生会の力では既に如何ともし難くなっていた状況下で、この新しい住宅助成が大きな意味を持ったのである。この基金制度はその後、六十三年三月二十二日施行の「教職員住宅建設助成貸付規程」中に発展的に解消し、以後は住宅助成金の貸付を、「大学と金融機関との間で締結する契約に基き、金融機関が大学を通じて行う」こととなった。当初の貸付限度額は退職金相当額の一・五倍、最高九百万円とされ、改定を繰り返して今日に至る。貸付利率は年四・二パーセントである。なお、この貸付とは別に、五十三年十月に「教職員住宅手当規程」および「教職員住宅手当規程取扱細則」が制定され、住まいが持ち家であると借家であるとに拘らず教職員全員に毎月一律の金額が支給されることになった。

 職員の相互扶助組織も大きく変った。教員共済会は昭和二十九年に発足を見たが、職員の間でこれに類する役割を担ったのは職員会であった。後述するように職員組合が三十六年に結成されると、職員会の存在理由が問われるようになり、職員会を解散させて任意加入の共済会を発足させようとの動きが組合内に活発化した。このとき、同じく改組して全員強制加入の互助会とする対案が職員会執行部から出され、結局会員の投票で決めることになり、三十八年四月二十五日投票が実施されたが、会員九百四十二名中投票総数は六百五十二票で、共済会案支持が四百八十五票、互助会案支持が百五十五票、白票が十二票で、職員会の共済会への改組が決定した。三十八年五月に発足した現在の職員共済会の会則の付則第二十条に、「本会は早稲田大学職員会の資産を継承するものとする」と明示されているが、職員共済会は、基金の積立および貸付に関する事業と慶弔に関する事業とを行う点で職員会の主要業務の一つを引き継いだが、任意加入制を採用した点が相違している。

 次に診療所の発展を瞥見しておこう。

 第四巻一一七一頁に述べたように昭和二十五年に開設された診療所は、三十二年に二号館(現一号館)地下から早稲田大学出版部建物があった現二七号館(第一学生会館部分以外は現存せず)に移転し、更に三十四年には日影董が所長を退き、医学博士原素行が学苑嘱託となり、二代目所長に就任した。原は日影と同年輩で、同じく東京帝国大学医科大学を卒業後、城東病院長、広尾病院長、都立第一高等看護学院長、医療審議会委員、婦人少年問題審議会委員、日本病院協会理事、日本病院学会長等を歴任した高名な医師である。患者を治療するよりも患者を発生させないこと、すなわち健康管理に情熱を持っており、医学に対する学苑の志に適うスクール・ドクターであった。そうした原の予防医学に対する情熱は、直ちに三十四年、「学生の健康状態を調査し、特に結核管理に重点をおく健康管理を」(早稲田大学診療所『早稲田大学学生の健康白書 昭和三六年度報告』一頁)図るための定期健康診断(学生部主催)の開始となって結実した。ところで、体育各部所属学生は、それまで既に体育各部が体力検査に付随して健康診断を定期的に行っていたため、この学生部主催の正規の健康診断を受診しなかったが、こうした健康管理実施上の混乱を避けるため、三十七年からは全学生の定期健康診断を、学生部が主催する正規健康診断に統一することになった。

 三十四年から診療所は健康相談も開始し、学生とのコミュニケーシ。ンをそれまで以上に密接にし始めたが、これも患者の発生を未然に防ぐという予防医学の考えに基づくものであるのは言うまでもない。原は四十二年に所長を退任した後も嘱託として学苑にとどまり、診療所の健康相談のように健康管理に関する相談だけでなく、より広く、学生のいかなる悩みごとにも応じるという趣旨の「学生相談センター」開設の調査研究を精力的に進めたが、学生相談センター設立の経緯・目的については次編第十三章で述べる。

 原の後任は、昭和三年に東大医学部卒業後、都立駒込病院長、東大講師等を歴任し、三十八年十月に体育局教授となって社会医学その他の講義を担当していた宮川彪が、四十二年十二月に所長に就任し、五十四年六月に宮川が急逝した後は、新潟医科大学を卒業し、東京都牛込保健所、四谷保健所等で所長を務めた岡田藤二郎が、一年間の所長代行を経て五十五年六月に所長に就任し、五十八年度末までその責を果した。「診療所規程」が制定・施行されたのは五十八年十月七日である。その第二条に、「診療所は、教職員および学生生徒の健康管理、健康診断および診療を行い、健康の保持増進を図ることを目的とする」とあり、診療所設置の目的が初めて明文化された。なお、診療所は平成三年三月に大隈庭園脇に竣工した健康管理センター(二五―二号館)に再移転して今日に至っている。

 次に健康保険組合について見る。

 昭和二十六年に誕生した健康保険組合は、第四巻一一七六―一一七八頁に前述した如く、私立学校教職員共済組合への非加入を決めたのであったけれども、四十五年頃から四十七年にかけて共済組合側から加入を勧誘する動きが活発になり、加入是非の問題が再燃した。そこで加入の得失を検討したのち、四十八年十一月に教職員の全員投票が行われたが、加入反対が過半数を占め、この問題に終止符を打つことになった。

 保養施設の充実は健康保険組合の宿願であったが、三十二年には熱海市下天神町(現清水町)に木造瓦葺二階建(地階付)の建物を購入して「熱海寮」とした。これにより保養所宿泊定員は、第四巻一一七八頁に説述した奥利根荘および山の家と合せて一日八十二人となった。その後、五十三年に奥利根荘の敷地(国有林)が払い下げられて組合の所有地となったのを機に、それまでの木造平家建を取り壊して鉄筋コンクリート二階建に改築されたが、山の家については、その後四十六年に、前面道路の拡張工事により玄関からの出入りが不可能となったため、やむなく同年四月から利用が停止され、結局、二年半後の四十八年十月に売却処分された。現在健康保険組合所有の直営保養所は熱海寮、奥利根荘、逗子海の家の三箇所であるが、二百を超える旅館・ホテルと保養所契約・利用契約を結ぶことにより、利用可能施設の充実度は昔日の比ではなくなっている。

 最後に、本編対象時期に初めて開設された大学直営の厚生施設である館山寮、軽井沢寮、菅平寮および岩井海の家(夏季のみ)について略述する。

 昭和三十年七月開設の館山寮は、教職員の厚生と学生の体育訓練の合宿に併用し、教職員が引率する場合は、体育訓練に支障のない限り一般学生も利用できることになっている。三十八年十二月開設の菅平寮も、設置趣旨は館山寮と同一であったが、木造宿泊施設は耐用年数を過ぎ、平成五年十一月に面目を一新して菅平セミナーハウスが竣工した。軽井沢寮は、鴻池家から寄附を受け、野球部のグラウンドを設ける(第二巻一〇七二頁参照)など元来体育部の合宿所として用いられていた施設を、改修築して寮としたもので、三十一年夏から教職員およびその家族に開放された。自動車科正課体育の実技と自動車部合宿、ア式蹴球部合宿、ハンドボール部合宿に利用される夏季を除き、二泊三日を限度に利用できたが、その機能の一部は四十四年八月に開設された追分セミナーハウスに、一部は六十二年五月に開設された松代セミナーハウスの中に発展的に解消されたため、いわゆる軽井沢合宿所は平成五年に除却された。以上の三寮に対し、岩井海の家は、三十八年から千葉県富山町高崎(岩井海水浴場)の民家と契約し、毎夏七月と八月にのみ開く臨時施設で、二泊三日を限度として教職員とその家族の利用に供し、六十三年まで存続したものである。なお、現在の大学直営厚生施設としては、館山寮および右記三セミナーハウスのほか、次編第九章で述べる本庄セミナーハウスがある。

二 教員組合の結成

ページ画像

 昭和三十三年、岸内閣により警察官職務執行法(警職法)の改正が図られたとき、学苑ではこれに強い危機感を抱いた有志教員が反対の意思表示をするために結集する動きを見せた。その中心にいた文学部教授山崎八郎は、後年次のように記している。

十一月四日に大隈会館で、警職法についての松岡三郎〔明治大学教授、労働法学者〕氏の講演があり、かなり多くの先生がたが集った。その数日後の七日の日付をもった早大教員有志の「反対声明」には二五三名という多数の署名が集った。何しろ「オイコラ警察の復活」だというので、今日からみると署名者の顔ぶれはおどろくほど多彩である。われわれの準備会がこの署名運動のまえであったか、あとであったかはっきりした記憶がない。たまたまこの日が水曜だったので、とりあえず「水曜会」と呼ぶことにしたが、この名前があとまで残ることとなった。

(「警職法から安保へ――水曜会のこと――」『早稲田大学教員組合 十五年の歩み』 一―二頁)

 「水曜会」は第一回例会を十一月二十六日に開き、会員相互の連絡を保つ意味で一ヵ月一回程度の研究会を兼ねた例会を開くこと、学問の自由を侵すような問題が生じたときはそのつど会を開いて協議すること、会の名称を正式には「文化問題談話会」とし通称を「水曜会」とすることを決めたのである。当初この会に参加したのは、政治経済学部から安藤彦太郎・堀江忠男・鈴木悌二、法学部から野村平爾・杉山晴康・中村吉三郎・島田信義、文学部から舟木重信・河合亨・中村英雄・大槻健・洞富雄・山崎八郎、商学部から永山武夫・六角恒広、理工学部から中村浩三・富山小太郎・高橋利衛・並木美喜雄・勝村茂らであった。

 会員の多くは最初から「組合を作りたいという考えをもっていた」ようで、「組合のことが折にふれて話題となった」(同書四頁)。その気運を促した要因として、のちに組合規約草案を執筆した島田は次の三点を指摘している。

 第一は、学内外における民主主義的要求の高まりである。三十五年には、日米安全保障条約改定反対を具体的目標に掲げる民主主義擁護の国民運動が活発に展開した。そして、

安保条約改定阻止国民会議のよびかける統一行動には、連日のように学生のほか、教職員も参加したが、政府・自民党による安保条約改定の強行採決という事態に、わが国の民主主義蹂躙を憂慮した大学人の活動組織として、「民主主義を守る学者・研究者の会」(民学研)が結成され、早稲田の教員にも参加のよびかけがなされてきた。これに応えて、大学内にも、水曜会のメンバー以外にさらに輪をひろげ、助手層をもふくんだ教員が結集した早稲田大学教員民主主義を守る会がつくられて、統一行動への参加や民学研独自の自動車デモ……への参加など活発な活動をおこなってきた。

(「安保闘争から組合結成へ」同書 七頁)

のである。引用文中に見える「早稲田大学教員民主主義を守る会」というのが、先に触れた組合結成の中核となったもので、この「守る会」について、『早稲田大学新聞』(昭和三十五年九月十四日号)は次のように論評している。

安保闘争が事実上終わりをつげ、一切の問題が日常性のなかに埋没している現在「重い腰をあげて立ちあがった」(舟木重信文学部教授談)「早大教員民主主義を守る会」の行くえはどうなっているだろうか。地道ではあるが忍耐強くつづけられている処分反対運動、職員会で再び活発化した職員労組結成の動きが注目されているおりから、教授側を代表するただひとつの全学的組織としての「民主主義を守る会」の任務はこのさい重要であろう。二百人弱の現会員は安保の強行採決に反対し民主主義を守るという線で結集したもので、学園民主化問題などには、足並みをそろえにくいという弱点をもっている。会員が少ないというのはイデオロギーの相異というよりはむしろ一部の学部に顕著に見られる伝統的な派閥が若手の助教授などの参加を阻んでいる。そういった学園内部の保守性と対決してそれを打倒することにこそ「守る会」の今後の課題がある。その過程で会への参加を呼びかけることこそ必要なのではあるまいか。明確な方針の提起は参加者を減らす恐れがあるという意見が多い(中村浩三理工学部教授談)といった事情も、現状維持に終始するあいまいな性格を示しているといえる。六・一五事件の翌日「守る会」は全学集会を招集した。その席上で会を「一時的なものにしないためにも組織強化をはかろう」と入交好脩教授(商)が発言し、学部ごとの集会をもって組織の強化をはかった。しかし夏期休暇に入ったためか出席者が少なく、いずれの学部でも懇談会のような形になってしまった。安保闘争の余熱がさめやらぬ当時においてさえ、この低調さである。夏期の活動方針としては「全国学者・研究者の会」が決定した「帰郷運動に協力する」という方針に従うことになっており、その成果は九月十五日におこなわれる実行委員会において明らかにされる。

組織上の弱点としては、さらに規約がないことと事務局が設置されていないことが挙げられる。長期の活動をしていく団体にしては根本的なおぜん立てがなされていないわけである。規約は六月末に草案提出の声があったというが、「明確な規約を作っては参加する人が少なくなる」との意見で取りやめになったという。事務局の設置にいたっては具体的な話はまだないらしい。したがって会の運営は実行委員がやっている。これでは連絡も不充分になりがちだし、学内ニュースの知識にもこと欠く。まず事務局の設置と、機関紙の発行とは組織の急務として切望されることだ。こういった一連の組織上の欠かんをみると、それを克服するには、当然進歩的な教授の態度が問題になってくる。組織強化を言いつつ具体的な問題になると身をかわし現状維持のムードにひたりきってしまうという低迷ぶりは、とりもなおさず、会の性格そのものなのである。現在の状態のままでは、やがては学園の保守性の厚い壁に阻まれ、泡のように消えさってしまうであろう。

これを脱却するためにはカンフル注射のつもりで思いきった処置をとる必要がある。官立大学教官のベースアップがうわさされ、職員側の労組結成の動きがあるいま、それにたいして教員側の意思表示をすべきである。そういった運動は若干の現会員の脱落をまねく。しかし若手教員の積極的参加を阻むものが保守的な学閥意識に負うところが多いことを考慮すれば、これを打破するものは、若手、中堅教授の強いたちあがりにまつほかないし、個々の教授によるたちあがりをバックアップするだけの強い組織化も必要とされるわけである。学園民主主義を守る会が、この意味においても一つの大きな契機となることが強くのぞまれる。

 組合結成を促したとされる第二は、教員の待遇改善に関する給与委員会の機能の限界を、多くの教員が多かれ少かれ自覚するに至ったことである。昭和二十八年二月に理事会の諮問機関として設置された給与委員会に関し、山崎八郎は、「生活は苦しく、給与委員会はわれわれの期待に答えてくれないということで、われわれはいくらかあせっていた」(『早稲田大学教員組合 十五年の歩み」四頁)と述べ、また島田は、「給与委員会は……大学側の諮問機関にしかすぎず、決して自主・対等の立場にたった団体交渉によって給与改善を実現しうるような役割をもつものでなかった。そのため早稲田大学の給料は、主要大学における最低といわれたような状況がつづき、教員の間にかなりの不満がうっ積していたことは事実であった」(同書 六頁)と記している。

 第三は、慶応義塾にも組合が結成されたことである。慶応で組合が結成されたのは昭和三十四年六月二十七日であった。七月十四日の『早稲田大学新聞』はこのことにつき、教授・助教授・塾職員約五百人が集まって結成大会を開き、全塾を一本とした「慶応義塾労働組合」が誕生したこと、結成大会では文学部助教授沢田允茂を執行委員長に選び、「一、民主的で明かるい職場をつくろう、一、公平な給与体制と退職制度を確立しよう、一、不当な身分制度を撤廃しよう」などのスローガンを採択したこと、当日の参加者(組合員)の比率が六一パーセントに達したことを報じている。次いで八月十一日号は「学園でも労組結成か」という見出しを掲げて、次のように伝えたのであった。

先月末慶応義塾に労働組合がうまれたおりから、学園にもいま有志職員間で労組結成の話が取沙汰されている。まだごく少数の職員間での話であるが、現在の「職員会」制度のもとでは、職員会は親ぼくと利益擁護とを目的とするという役職員をも含めた職員団体であるから、多くの職員の満足が得られないとし、労働組合を結成して身分保障の確立をはからなければならないとしている。目下のところ、職員だけの労組でいくか、教員にもよびかけるか、どんな組合をつくるか、など基礎的な諸点を研究中という段階をでていないが、できるだけ早く、強い組合をつくりたい意向のようである。

 しかし、教員組合の結成は容易には進展せず、三十六年春に至って漸く、労働組合についての学習を始めること、島田に組合規約の草案の執筆を依頼することが、具体化するという状況であった。だが、ここまで来ると、組合結成へのその後の歩みは速かった。すなわち、島田は労働法専攻の法学部講師佐藤昭夫と相談して規約草案を早速作成、五月中旬には「守る会」を中心とする人々によって、組合結成へ踏み切ることと七月一日に結成大会を開催することとが決められたのである。

 こうして迎えた七月一日には三百三十余人が参加し、規約案の討議と採決、委員長山崎八郎、副委員長杉山晴康・永山武夫をはじめ執行委員の選出、左の大会宣言の採択を経て、ここに早稲田大学教員組合が発足したのである。

本日われわれは早稲田大学教員組合を結成した。これによって、わが早稲田大学のかがやかしい歴史は新しい段階にはいる。われわれは、この歴史的な結成大会に列席しえたことをよろこびとし、また誇りとするものである。われわれは、組合を結成したことによってわれわれに新たな責任が課せられたことを知っている。早稲田大学教員として大学の発展のためにつくす責任と、教育者としてわれわれにゆだねられた数万の学生を教えみちびく責任とに加えて、今やわれわれは、組合員として、わが教員組合を公正なる主張と健全なる良識とにもとづいて、正しく民主的に運営する責任をもつ。これによって全学教員の心が一つになり、そこから新しい母校愛が生れるであろう。われわれは、これこそわが早稲田大学の真の発展の道であると信ずる。

教員組合のなすべきことは、おのずからさだまっている。組合は大学当局にいたずらに対立するものではなく、また教授会等の議決事項に口をさしはさもうとするものでもない。また組合は、給与委員会の存在に矛盾するものではなく、かえってこれを支えるものである。なぜなら、組合の要求について総長が然るべき機関に諮問するのは当然であり、またこれに教員の考えを反映させるために組合が協力することも当然だからである。われわれはただ、教育者として責任を果すに足る生活を維持したいと願い、また学内に研究者にふさわしい環境を作りたいと欲するだけである。しかしまたわれわれは、われわれだけのことを考えているのではなく、組合活動によって生れる民主的な自由な空気から、優秀なる後進がすくすくと成長してゆくことをも期待している。

われわれの最高の願いは、いうまでもなく早稲田大学の発展である。今日われわれは、この同じ願いをもって組合へ結集した。よってここに早稲田大学教員組合が創立されたことを、大会の名において宣言する。

一九六一年七月一日 小野記念講堂において 早稲田大学教員組合結成大会

(『早稲田大学教員組合 二十五年の歩み』三九七頁)

 この大会の状況について、大会宣言案を朗読した杉山晴康は次のように記している。

はじめ先生方には「全学教員懇談会」ということで呼びかけたのだが、会場の小野講堂には、「やったね」とか「よかったね」と先生方が笑顔で私共に声をかけながら集って来られ、すでに定刻頃には満員に近い盛況であった。それゆえ、果して先生方が集って下さるかどうか疑懼していた私も、組合結成成功を確信する事が出来た。司会者の高橋教授(理)が「議題を学内最重要問題である教員組合結成に絞りたい」との動議も反対なく、議長団として大槻(文)、永山(商)、三浦〔和雄〕(学院)の諸氏が選ばれ、ここに教員組合結成大会が成立した。まず結成準備会のリーダー格であった山崎教授(文)から経過報告が行われたが、これに対し会場の先生方から活発な質疑が出された。その主なるものは「組合結成の準備が『民主主義を守る会』の会員有志によって行われていたことから、こんご組合のなかに『民主主義を守る会』の政治的・思想的立場が持ち込まれるのではないか」といったことであり、これに対し「結成準備にあたった者は確かに『民主主義を守る会』の有志であったが、組合のなかに、それらの政治的・思想的立場を持ち込む事は無い。現に三三〇余名の加入希望者が居る事を考えても杞憂にすぎないのではないか」との応答があり、満場一致で教員組合の結成が確認された。

慶応大学教職員組合委員長が来賓として祝辞をのべ、また多くの祝電が披露されたあと規約案の提案・説明が島田教授(法)よりなされ、次いで逐条審議に入った。この規約案の審議は長時間、出席者が納得行くまで行われ、「組合の統制に組合員は服さなければならないのか」「上部団体への加入」「ストライキ」など白熱した討論が続いた。きくところによると、この種の大会は、大むねシャンシャン大会で終るものなのだそうだが「さすが早稲田ですね」と慶応の委員長が三嘆されていたとの事である。……議長団の解任、閉会の辞についで全員で校歌を唄ったが、私は校歌を唄いながら「今日から早稲田は変る」との感を強くもった。 (「教員組合結成大会」『早稲田大学教員組合 十五年の歩み』 一一―一二頁)

 かくして、「組合員の基本的権利を守り、その経済的・社会的地位の向上をはかる」(規約第二条)ことを目的とする教員組合の生誕を見たが、この組合の結成に対し、総長大浜信泉は、「私立大学と労働組合、正直のところこの取組みには、理論的にも実際的にも、無理があるのではないか。言葉をかえていえば、私学の場合、労働組合の成立に必要な前提条件が欠けているのではないだろうか、わたしは平素その点について疑いを抱いている」(『早稲田大学新聞』昭和三十六年七月五日号)と懐疑的な姿勢を示したが、のちに、「大学の教職員も労働組合法の適用上労働者に該当するとなれば、勤労者の団結権と団体交渉、その他の団体的行動をする権利を保障している憲法の規定の建前上、何人といえども教職員が組合を結成することを阻止することはできない。……慶応をはじめ他の多くの大学には、数年も前から組合が結成されており、それが時代の大勢であってみればむやみに逆らうことも考えものである」(『総長十二年の歩み』五四頁)と、容認している。なお、教員の待遇改善を目的に二十八年に設置された理事会の諮問機関である給与委員会は、三十八年より機能を実質的に停止し、「給与委員会規程」は四十二年に廃止された。

三 職員組合の結成

ページ画像

 第四巻一一八〇―一一八一頁に記した経緯を経て、三十五年六月、職員会の中に労働組合研究会が生れた。同研究会は、六月十六日の第十一回職員会総会の決議により、「労働組合を作る場合、早稲田大学では、どういう形で設立されるのが望ましいかということについてあらゆる面からの検討・研究を進め、その結果を早い機会に答申する」ことを目的に設けられたもので、その経過は次のように伝えられている。

安保闘争がいやがうえにも盛りあがっているなかで第十一回学園職員会総会が開かれた。最近ではまれな盛会で、三時半には小野記念講堂がほぼいっぱいとなった。この会議の冒頭、一・二政と鋳物研究所の職員から「労働組合結成を前提としての労働組合研究機関設置に関する件」についての動議が提出された。絶対多数の拍手はこの動議をとりあげることを決めた。……その後、職員会の決定にしたがい、労働組合研究会が約三十人〔実際に選出されたのは二十七人〕で構成された。現在までに研究会は四回ほど開かれ、労働組合の規約の研究、いかにしたら多くの職員を組合に引き入れることができるか、教授側との連絡をどうするかなどについて話し合っている。 (『早稲田大学新聞』昭和三十五年九月十四日号)

 労働組合研究会は六月二十五日の第一回を皮切りに年末までに七回の研究会を開いた。しかし当初の情熱は必ずしも持続せず、次第に活気を失っていった。その原因としては、最初から、同研究会が労働組合結成を前提にその方法を研究すべきだとする見解と、労働組合結成の是非の研究にとどめるべきだとする見解とに分裂しており、また組合結成方法をめぐっては、職員会を組合に改組しようとする立場と、職員会を解散して新たに組合を結成しようとする立場とに分れていたことなどを指摘できよう。研究会は翌三十六年六月十日に中間報告をまとめ、二十二日に開催された第十二回職員会総会に提出した。これは、研究会活動の低調さにつき、一般論として、現実をよりよい方向に発展させようとする行動感覚の欠如、伝統的心情に基づくことなかれ主義に終始する保守主義の横行を指摘するとともに、具体的には、職員の自覚の問題、大学の特殊性、研究会そのものの人的構成の脆弱さ、職員間の年齢的断層による違和感などを挙げている。『早稲田大学新聞』(昭和三十六年六月二十八日号)は、中間報告が行われたときの職員会の状況を、今後執るべき途にも触れながら次のように評した。

議論は給与問題に集中し、注目の職員労組の件については、「労働組合研究会」の中間報告が提出された。この件に関しても、なんら実質的討論がなされぬまま、自然承認された。したがって、職員労組の問題は、労研中間報告で打ち出している方針の、一、諸問題点を総会において論議し、結論が得られた場合は更にこまかく研究をつづける。二、結論が得られなかった場合にも更に地道に研究を続ける。三、労組研の改組――従来の職域代表制をやめて他の方法により、組織を再編成するなどの三つの方針のうち、二・三の方針をとることになる模様である。しかし今回の総会において、労組研の討論がまったくなされなかったことは、職員労組結成問題の今後の展望が、ほとんどないことを示すものと思われる。

 こうした状況にも拘らず、有志により職員組合結成のための組織原則や規約案などの議論が次第に深められ、結成準備会を組織しようとの動きがあった。そして五日後の二十七日、左の「早稲田大学職員組合結成趣意書」が全職員に配られた。

職員の皆さん 私達は私学の雄、早稲田大学に職を奉ずるという誇りと愛校心とによつて多年にわたつて大学当局のいう学校財政の限度という名目を信じて、一般企業はもとより他大学と比較していちじるしく低い給与水準に甘んじて参りました。幾多の曲折を経てやうやく今春完了した給与改定もすでに経済変動の波に追越されております。大学当局及び給与委員諸先生の御努力は多と致しますが、折角の給与改定も実現した時にはすでに一般水準は次のベースアップが完了している状態です。このようなことは、給与委員会が当局で設置した総長、理事者を補佐する諮問機関であつて、私達職員の利益を代表する機関では決してないという給与委員会の機能の必然的な限界を示しているのです。

また私達は職員会という親睦団体をもつております。会則には一応「経済的地位……」とうたつておりますがその活動は御承知の通り極めて消極的で、時には会の指導的立場にある上級職員が当局を代弁して私達の最小限度の要望すらおさへつぶして来ております。これも親睦団体である以上やむをえないのでしよう。……

とにかく私達は人間としてもつと合理的な生活水準を一日も早く築き上げたいのです。そのためには私達の自主的な努力と団結とによつて、私達の本当の利益を代表するものを作らねばなりません。学園の先生方もすでに組合結成に立ち上ろうとしておられます。この際私達も力を合せて労働組合結成のために団結しようではありませんか。すでに続々と有志の加入申込みをうけておりますが貴方におかれましても是非参加され、教職員の経済的地位を本当に向上できるように御協力されるよう切に要請する次第であります。 早稲田大学職員組合結成準備会 臨時代表 松坂伊智雄・高宮秀夫

他有志多数

 この趣意書に賛同の意を示して組合への加入を申し込んだ職員は旬日のうちに三百人近くに達し、準備会は七月十五日、教員組合結成より遅れること二週間にして、小野講堂で早稲田大学職員組合結成大会を開催したのであった。その当時の雰囲気を振り返って、松坂は次のように述べている。

大会の成否についての不安と確信は、相半ばしていました。「切り崩しや妨害は」「どれだけの仲間が結集するか」など……大会運営も、初め職員懇談会とし、規約案、宣言案を確認してから大会とするなど柔軟に予定していましたが、しかし続々と集る仲間の力強い足どり、自覚に満ちた姿に不安はけしとびました。そして、労働組合便覧と首引きの連日の準備行動の疲れもどこやら、心の底からこみ上げてくる熱いものを止めることができませんでした。大会は、最初から戦闘的な雰囲気で、多くの職場から決意が表明され、直ちに規約、宣言が採決され、職員会の使命の終了を宣言するとともに、限りない前進と豊かな未来の創造を、団結の力で築くことを誓い合いました。 (『職員組合結成一五周年記念誌 十五年あれこれ』九頁)

大会は執行委員長に高宮秀夫を、副執行委員長に杉本芳郎と菊地一郎を選出し、次いで左の大会宣言を採択した。

早稲田大学職員の良識によって本日ここに早稲田大学職員組合は結成された。

われわれは、いま新しい時代に生きようとする。わが組合の使命は幾多の先輩の苦労の上に築きあげられた輝やかしい遺産を正しく継承し、これを未来に委ねようとするものである。われわれは、今日から新しい伝統の担い手となった。われわれの心の中にある古いもの、卑屈なものをはき出して広がって行く輪のなかで、われわれ自身を高めて行く努力をしよう。そして、信頼できる人間関係と、明かるい職場をみんなの力で育てて行こう。お互いの団結と自由な表現の基盤の上、困難な道を切り拓いて前進しよう。

われわれはまた、みずからの至らなさについても謙虚に反省を重ね、民主的な規律に従って、良識ある態度と節度ある行動をとり、今後の組合の発展が大学の発展を導くことを信じよう。従って、われわれはいたずらに力を誇示するのではなく、法律で定められた基本的権利にもとづいて、われわれの生活を守ろうとするのである。われわれは、教育の場の一翼として、職員の責務と使命の重大さを十分に認識する。しかし、現状に見られるように、上から与えられた諸制度による話し合いの場においては、本来の機能が全くマヒし、職員全体の意見は少しも反映されていない。この原因を充分考える必要があるであろう。また過去十数年にわたる職員会の成果についてもその過渡的役割は認められても、決して職員全体の正しい姿ではなく、今日すでにその使命を果しつくした。われわれは過去において職員会の推進力となって努力された人々に十分の敬意を惜しまない。しかもなお、さらに強く結ばれる心があり、それらが一つになってここに職員組合結成の第一歩は踏み出された。

われわれは今後に予期される幾多の試練に耐えて、われわれの正しい考えを推し進めることを誓う。われわれの正しい考えは、今後のわれわれの行動によって実証されるであろう。本日ここに結集された新しい意志と理念とにもとづいて、われわれは勇気と力をもって、わが早稲田大学職員組合を限りなく前進させ豊かな未来を創造しよう。

右宣言する。

一九六一年七月一五日 早稲田大学職員組合結成大会

(『職員組合二五年史別冊 資料編』 五頁)

 職員の組合結成に対し、大浜総長は教員組合への対応と同じく疑念を呈したが、これもまた時代の流れであったと言うべきであろう。なお職員会は、二二八頁に前述した如く、二年後の三十八年四月、職員共済会に改組された。