Top > 第五巻 > 第十編 第十七章

第十編 新制早稲田大学の本舞台

ページ画像

第十七章 「学費・学館紛争」(上)

ページ画像

 昭和四十年十二月から翌年六月まで、学苑は未曾有の混乱状態に陥った。半年余りに亘る長期間、実質的に全学の機能が麻痺した。この間、学年末試験が延期となり、しばしば警官隊の出動が繰り返され、入学試験が厳重な警戒体制の下で行われた。そして、遂に総長以下の大学執行部が総退陣した。百五十五日間の全学ストライキという規模の面でも期間の面でも、学苑百年の歴史の中で最も大きな紛争となった。

 この紛争は、初め、新築の第二学生会館の管理・運営権を要求する一部の学生が大学本部を封鎖するという実力行動によってその貫徹を図ったため、警官隊の学内導入を招き、やがて、昭和四十一年度からの学費値上げの発表を契機に、学生会館問題が多くの学生の学費値上げ反対運動と結びついて紛争が大規模化したものである。

 しかし、当初は、この紛争がかくも長期に亘るものになろうとは誰一人として予想する者はいなかった。そして、この紛争が国と社会と教育界に投げかけた波紋はあまりにも大きく、その内包する諸問題は学苑にのみ限定された問題にとどまらず、戦後の私学ひいては大学という高等教育機関全体に共通する矛盾と深い悩みとを露呈するものであった。加えて、この紛争は歴史的には、高度経済成長が教育界にもたらした最初の大々的な影響を示す出来事であり、学生運動の観点から見ても、「全共闘」という新しい運動形態を採る最初の「闘争」でもあった。以下、紛争の推移と問題点をたどることによって、この紛争の持った意義を述べたい。

一 学生会館問題の発生

ページ画像

 昭和四十年十二月二十七日、正門前に第二学生会館が竣工した。この学生会館は二十九年五月竣工の第一学生会館に次ぐ学生厚生施設で、学生生活がより一層豊かなものになることを図って創立八十周年記念事業の一環として建てられたものである。これの建設に際しては、三年間で二十五回に亘り大学側と学生代表との話合いが行われた。そうした実績を踏まえて新会館が設計されたことは銘記されるべきである。そして、四十年二月三日に地鎮祭が行われて建設が進められ、早くも年末に完成の運びとなったのである。

 そもそもこの正門前の地に大規模な学生会館を建設する必要のあることは、第一学生会館を建設する過程で既に明らかであったのであるが、区画整理や土地の買収などの点で思うように捗らず、結局南門近くの地に落ち着き現在の第一学生会館として建設されたのであった。従って、第一学生会館完成の段階から学生の文化活動や厚生のための施設としては、この会館だけではまだまだ不備で、近い将来に第二、第三の学生会館を建設する計画が実は秘かに抱かれていたのであった。それ故に、この第二学生会館の完成は年来の宿願が実ったもので、大学としては学生による幅広い有効利用を大いに希求し、喜びを以て竣工を迎えようとしたのである。この新館は地下二階地上十一階建、総床面積五八九二・八三平方メートル(一七八五・五一坪)の堂々たる建物で、館内には、一階と地下一階に店舗、二・三階に学生ラウンジ、四・六・八・十階に部室四十八、五階に中会議室六、七階に大会議室二・小会議室四、九階にアトリエ二・茶室一・和室一・能舞台一、十一階にリハーサル室五などが配置され、学苑百年の歴史にあっても、学生のための施設としてはいささか内外に誇り得る威容を備えたものであった。そして、この新館の誕生により、学生の部室や各種の会議・練習用の部屋の不足が大幅に解消されることになり、大学としては学生の文化活動の一層の飛躍に大きな期待を寄せていたのである。

 しかしながら、竣工を間近に控えて大学側と学生側との間で新会館の利用方法についての折衝が何度となく持たれたにも拘らず、大学側のプランに学生側の一部が同意せず、双方が満足するような一致点を得るまでに至らなかったことは、学苑にとっては実に不幸な事態を招く結果となっていったのである。すなわち、早稲田祭が終った十一月下旬から、早大第二学館問題全学共闘会議(略称、共闘会議)の学生が本部前で、連日スピーカーを使って「学館の管理・運営権を学生の手に」と登校する学生に呼びかけ始め、また、集会を開いては大学を非難する演説を繰り返し始めたのである。三十日には、午後五時から大隈小講堂で大学側の学生会館に関する説明会が予定されたが、共闘会議では自分達を支持する多数の学生を動員し、他方、彼らとは考えを異にする全国早稲田大学学生会連盟(八二六―八二七頁参照)の学生も多く参加して、会場は騒然とした空気に包まれた。このため、到底話し合えるような状態ではなくなり、大学はこの説明会を中止したのであった。

 この日の十一月三十日付で共闘会議が出した「早大第二学館闘争宣言――早稲田全学生・教職員は第二学館闘争に立て」は、共闘会議の基本的な主張と取組みの姿勢を表しているので、次に掲げよう。

現在、日本国家独占体は韓国への進出という中で帝国主義への第一歩を刻み、国内再編成を全ての次元で強行展開している。その中にあって、産業体制の高度化に見合った高等教育の展開、高度生産体制への大学丸抱えという基調で進められてきた国家独占体の大学支配は、教育内容の改変から大学自治の剝奪と破壊という形の中で完結しようとしている。今春以降全国の多くの大学で展開された大学闘争は、いずれも大学・学生自治を擁護し、さらに拡大しようとの熾烈な闘争であったし、研究の深化・継承を目的とする真の大学を取り戻す戦いに他ならないだろう。

一方、早稲田大学は現在、高度化する日本産業体制の拡大方向に一致する中に大学の社会的確立の道を見出そうとしている。三十五年の二理廃止と一理拡大に端を発する大学大改造は、理工の飛躍的拡大を軸に展開され、さらに今年、二部の廃止と社会科学部の新設、新聞・自治行政両学科の募集停止、一文のカリ改編と法文系の教育内容の改変にまで至った。これは八十周年記念事業以降の「産業界の要請」と「社会需要」という基準で裁断され、合理化と拡大、教育内容の一般化と質的低下を生み出しているだろう。またわれわれは、その方針を容易に進めるための自治規制も着々と進行していることを同時に確認しなければならない。われわれはそれを教育学部自治会不承認にみ、「学生の厚生補導」に名をかりた学生担当教務主任設置、「大学は政治活動の場ではない」の大学公示に見出す。このように現早稲田大学行政は「産学協同」路線を全面的に敷きつめたが、「中堅サラリーマン養成企業大学」の道は「栄華を誇りつつも貧困なる大学」に転落する以外の何ものでもないだろう。

以上のような状況にあって第二学館闘争はまさしく、学問研究の深化継承の任にあたる学生・教職員を除外した処で政策を強行する大学理事会と、大学主体者としての地位と大学とを取り戻さねばならないわれわれとの、現時点での最大矛盾点として第二学館闘争を設定しなければならないだろう。既に大学とその教育から除外されているわれわれは、第二学館を大学が設定するような「サロン会館」に堕落させてはならないだろう。われわれは第二学館を学生・教職員の自主的創造の全面開花の場、自治活動のセンターとして設定する中においてこそ、より高度な人的交流の場を保障しえることを確認してゆく必要があるだろう。そしてわれわれのイメージで第二学館をかちとることが、同時に今後の大学政策をわれわれのヘゲモニーの方に推進し得る保障になることを銘記しよう。管理運営権の学生・教職員による掌握は学生会館を自主的活動の場として保障する何よりの条件であるし、同時に大学主体者の自治権確立の第一歩である。学生・教職員の自主的厚生団体としての生協入館もまた、学生会館が学生・教職員の手によって初めてその全機能を発揮しえるとしたならば、それを存立せしめる必須の条件であることを明らかにしなければならない。 (『資料 戦後学生運動』第七巻 一六八―一六九頁)

 このような宣言を出して、大学側の措置に反発した共闘会議の学生は、翌日から予定通り本部前にテントを張って交替で坐込みを始めた。こうした学生の動きに対して、大学の学生部では六日付でこれまでの交渉経過を、後述するように「早稲田大学第二学生会館に関する諸問題(第一号)」と題する一枚の刷り物にして学生に配布し、何とか話合いによって収拾しようと努めた。しかし、学生側の行動は一段とエスカレートしていったのである。

 八日午後三時より、大学側は、もし平穏裡に理事者の説明を聞く集会ならば出席してもよいとの条件付で、大隈小講堂において集会を予定した。だが、またしても、会場は到底話合いのできるような雰囲気ではなくなったので、滝口宏理事は出席を取り止めたのである。これに対して学生側は、夜に入り、突然立看板や椅子、机でバリケードを築いて本部の正面玄関を閉鎖し、廊下に坐込みを始めた。九日、十日にも事態は進展せず、十一日を迎えた夜中の午前零時過ぎに至って、本部会議室で時子山常三郎村井資長両常任理事、滝口理事、神沢惣一郎学生部長の大学当局と学生代表十五人との会談が持たれた。この間、大学側の要請で、それまで坐り込んでいた学生はバリケードを解いて外に出て玄関前で待機していた。この時、二時間という約束で話合いに臨んだのであるが、結論が出なかったため、待機していた学生は本部内に乱入して会談の場に雪崩込んでしまった。このため、理事達は辛うじて難を避けて混乱の中を別室に逃れたのであった。こうして、学生側は再びバリケードを築いて廊下に坐り込んだ。そして、すべての出入口が閉鎖されたため、三理事をはじめとして数十人の教職員が完全な監禁状態に置かれることとなってしまった。学部長会では打開策を審議した結果、監禁状態に置かれている理事と教職員を救出するためには、警察力により学生を排除せざるを得ないと決断して、大学は午前三時過ぎに遂に警察官の出動を要請したのである。

 警察機動隊が到着したのは午前五時近くで、軟禁状態にあった教職員が全員一時間以内に救出され、学生は建物から排除された。学生達は「警官帰れ」のシュプレヒコールを挙げたり、校歌や労働歌を合唱したり、また、構内をジグザグのデモ行進をして気勢を挙げたりして午前六時半頃解散した。この過程で、幸い怪我人は出ず、大口昭彦共闘会議議長が不退去罪の現行犯で検挙されたけれども、十四日に釈放された。この「学費・学館紛争」に関しての警察力の導入は、これが最初のものである。本編第十六章第二節でも触れた如く、昭和二十七年の「五月八日早大事件」の際に、警察官に対する学生、とりわけ学苑の学生の敵対的感情は過敏なまでに強く、教員の中にも、「性急に」警察力に頼る当局のやり方に対して疑問を抱く者が少からずいた。学生側は、以後、大学の機動隊導入の強圧的な姿勢を非難するとともに、広く一般の学生達の「警察アレルギー」に訴えることによって、当局の「不当性」を責めたてた。こうした警官導入の非はあたかも大学側にあるとの如き言い方での糾弾の姿勢は、戦術としては成功し、共闘会議派学生による本部占拠と教職員軟禁の状況をよく知らない一般学生には警察力導入の事実だけが不当な弾圧行為として映り、これを招いた当局への反感を募らせていくことになり、また、警官そのものに対しても「憎悪」の念が増幅されていく結果となったのであった。こうした事態の中で、学苑は冬季休業に入って、ほんの一時の静けさがもどったのである。

二 「学館問題」の意味

ページ画像

 一体、何故に「学館問題」で大学側と学生側との間に、警官隊を導入してしまうまでに問題がこじれてしまったのであろうか。大学は第二学生会館の建設に当り、学生会館はそもそも全学生にとって有効に利用できる施設であることが何よりも第一の前提であると考えた。従って、限られた建設条件の中で、いかにして全学生のための会館にするかというトータル・イメージを打ち出すために、前述したように、その建設計画が発表されて以来、主としてサークル関係を中心とする学生代表と何度も話合いの場を設けてきたのであった。この間、設計の面において、学生側の要望により部室数を大幅に増加し、また和室スペースの拡張を計るとともに能舞台も新たに設置したり、会議室の一部の設計を変更するなど、大学側としては数度に亘って設計変更の努力を重ねていったのである。そして、新会館はサークル活動に参加するいわば特定の学生のための施設と、その他一般の学生のための施設、すなわちロビーやラウンジなどの公共的な施設とを併せ持っているので、大学は、この両者の施設がどうすればうまく調和して円滑に有効利用できるかということを考えた。この観点から、管理・運営については学生の要望をできる限り取り入れて、大学側としての管理・運営のあり方を考え続けたのである。その上で、管理運営要項を発表して、完成に向けて建設が着々と進められている最中の九月から学生各団体代表と具体的な意見の交換を始めたのであった。

 こうして、この年十一月末までに、学生側との交渉が進められてきたわけであるが、学生側は大学の方針を納得せず、前述の如く遂に十二月一日、本部前に坐込みを始めたため、大学は六日付で、全学生の理解を得るために「大学案」の骨子を「早稲田大学第二学生会館に関する諸問題(第一号)――その経過と問題点――」(昭和四十年十二月六日、学生部)の中で明らかにして、広く全学生の理解を得ようと努めたのである。これによれば、大学は管理と運営について次のように考えていた。

 先ず、会館建物の管理については、「建物全般の管理(建物・各施設設備の維持保全・清掃・補修・火災・および盗難予防・部室を除く鍵の保管・施設の開閉等)については大学が責任を持つ」と規定した。これは、学生会館の利用者はもとより学生が中心となることは明らかではあるが、学生会館も大学の教育施設の一つであるという考えに立つものである。従って、会館は学校法人としての大学の財産の一つであって、その管理の最終責任はその他の各施設に対すると同様に大学が明確に負わなければならない、という考えである。次に、会館の運営については、大学としては、基本的に利用者の意見なり要望なりを最大限度に反映しながら行いたいとの考えから、学生側代表と大学側代表とによって構成される運営委員会を設置して会館の運営に関する具体的施策や、学生会館運営規約の改廃に関する事項は委員会の議を経なければならないと規定した。また、「主として学生サークルのための特別な施設、たとえば、部室・和室・アトリエ・リハーサル室については別に定める」として、その運営については学生に委託するという考えを明らかにしたのであった。そして、会館の事務機構については、以上の如き管理・運営を円滑に行うために会館に専従の職員を置く必要があり、このため「会館内に事務室主任一名、事務職員若干名をおく」と規定したのである。以上が大学案の骨子である。

 この「大学案」に対して共闘会議が交渉の過程で示した管理・運営に関する方式は、前掲の「早大第二学館闘争宣言」に記されているように、「学生会館を自主的活動の場として保障する何よりの条件」として「管理運営権」を「掌握」したいということから派生しており、具体的には次のような要求であった。先ず、学生代表のみを以て構成する「学生会館管理運営委員会」を設けて、これを管理・運営の「最高決議機関」とする、というものである。そして、この委員会の内部機関として事務局(企画部・情宣部・運営部・渉外部・施設部・経理部)を置き、各部に委員会の互選による委員(学生)を配置し、この下に、必要に応じて大学職員を配属して実際の管理・運営業務に当らせる、というもので、前述の委員会はこの事務職員を指揮監督する権限を有すると規定したのであった。この共闘会議案を大学の立場から考えてみると、学生のみによって構成される委員会が大学施設の管理・運営の最高決議機関となることは大学の制度や機構の上から不可能なことであって、また、この委員会が大学の職員を指揮監督するということは大学の人事管理の面から受け入れ難い問題であった。これは学苑においては、最も権威のある教授会の決定も理事会の承認を必要としているということに鑑みても、事なかれ主義で済ますことのできる問題ではなかった。そして、共闘会議では、学生が管理・運営権を持たなければ自治活動が保証されないと主張したが、大学側は、大学が管理の責任を持つということは学生の自治活動の場を大学が責任を持って保証するということであり、それによって、自治活動が侵されるとは考えられない、と反論したのである。これに加えて、「早大第二学館闘争宣言」に掲げられているように、生活協同組合の問題があった。共闘会議では、新館への生協の参入を強く主張した。しかし、大学にとっては、この問題に関しては、新館の建設地を大学が入手した時点から、実は生協の入館を拒まざるを得ないという経緯があった。それは何か。建設地は元は商店が営業をしていた場所で、その土地を買収するために大学としては非常な努力を払い、買い上げる過程で商店側の強い要望もあって、結局一定の条件が付されることとなり、これによって新館には生協が入館できないことになっていたのである。生協の入館問題は、土地買収にまつわるこうした経緯がなかったならば、第一学生会館の場合と同様にしてよいではないかとの学生の要求は無理からぬことではあったとも言えるが、そのようにできない事情があったわけである。更に、生協はそもそも一般の学生団体とは異る存在で、大学とは別個の法人組織を有する消費組合であり、新館に入ってくる他の学生団体とは別物であると学生部も考えていたことは当然であった。この他には、大学側は、新館の部室割当てについて、現在部室を持っていない団体へも、すべてがその活動の場を持ち得るように計画を進めたい、と明言していたのであった。

 以上のように、学館問題は、建物管理、運営、事務機構、生協などの面で大学側と学生側との間に意見の一致を見るに至らなかったのである。そして、十二月上旬の段階で、管理・運営方式をはじめとして、大学案に反対するグループも、また賛成するグループもあって、大学側としては今後ともこうした諸グループと意見の交換を活発に行うことによって、よりよき解決の道を見出すことに努力したい、と学生にビラなどによって伝えたのである。

 ところで、実は、学館問題は独り学苑のみに限定された特殊な問題ではなかったことに注目しておかなくてはならない。学生達が本部前で坐込みを始めた頃、同志社大学でも学生会館問題が紛糾しており、大学本部が学生により一週間占拠された後、大学側が管理・運営問題について学生側に大幅に譲歩して「解決」したとの経緯があった。また、中央大学でも学生会館が着工したばかりの段階で早くも管理・運営問題をめぐって紛争が起り、学生達がバリケードを築いて大学を全面的に占拠するという事態が発生し、一週間後に大学側が学生会館委員会の構成について学生案に大幅に譲歩して「解決」するという出来事があった。こうした一連の他大学における学館問題に際しての「譲歩」による「解決」ぶりに直面して、我が学苑当局ではこれをその大学当局の「後退」の姿勢の表れと看做す意見が強かった。紛争の最中において、学生部長の神沢惣一郎は次のように語っている。

私は譲歩することを無条件によくないこととは思わないが、しかしこれらの一連の事件における、理性的にではなく圧力に折れたとしか思えない他大学の後退は、学内問題をかかえている早稲田大学の立場を苦しいものにし、学生に力という解決手段を示唆して、その後の動きにすくなからぬ影響を与えたことは否めない。私は他大学における早期解決をうらやましく思わないわけではなかったが、正当なことだとは思えなかった。何故ならば教育の問題は早期に政略的にではなく、どんな方法でどのように解決したかが重要であるからである。平和であるべき学園においては紛糾の長びくことは極力避けねばならない。しかし適正な解決のために紛糾を余儀なくされることは、好ましいことではないが、決して不名誉なことではないように思う。

(「紛糾の中で」『早稲田学報』昭和四十一年四月発行 第七六〇号 八頁)

 大学当局にとって、前年に起った慶応義塾大学の学費値上げ問題をはじめとする国公私立を問わない大学紛争の発生は、早晩学苑にも波及することが予想されていた。そうした紛争が大規模化するかしないかは、学生側の要求を大学側がどのように受け容れるかにかかっている。そして、要求の妥当性を分析することによって大学としての態度を決定していく筈である。この場合、実体としては、大学側にはできるだけ紛糾を拡大させたくないという気持が当然強くある。反面、学生の要求には常軌を逸するような法外なものがある場合が決して少くない。とりわけ、学苑の場合、外部団体の支援を受けた学生の要求には到底受け容れ難いものがある。学苑当局は、次第にこうした種々の難題に否応なく直面していくことになったのである。しかし、当局の姿勢は、理事滝口宏が「学生会館、学生寮はその管理運営をめぐって、例外なくといってよいほど紛争をおこしている。……学生生活のより豊かな姿をと願う建設が、紛争の基になるという不幸が、学生寮の新改築の場合と共に、各所でおこる。学生が使用者であるから運営の中心が学生であるべきだということは一応理屈の通るように思われる。しかし、教育の立場から学生自治は考えられていなければならないのであって、放任の形になる可能性のある限り、運営のすべてが学生中心に任されるべきものではない」(「紛争の経緯とその教訓」同誌 同号 一〇頁)と述べているように、終始一貫して、「管理運営」に関しては「譲歩」し「後退」することがなかったのである。

 この「学館問題」は、他面、前述したように我が学苑のみで処理し得るものではなかった。学生寮・学生会館をめぐる紛争が多発するようになったのは三十九年以降のことである。特に学生寮は、国立大学では敗戦直後の混乱期に窮乏を極めた学生生活の救済という考え方を受け継いで、格安の寮費と食費の外はすべてを大学が負担し、且つ、寮の管理・運営は挙げて学生任せという、いわば「放任状態」が続いてきた。そこで文部省では、三十七年に学寮長期整備計画をまとめ新寮建設に着手するとともに、寮生活の改善と大学の管理責任を明確にした「大学学寮管理運営規則(参考案)」を発表し、更に三十九年二月に寮経費の負担区分に関する原則を各大学に通達した。これに基づいて各国立大学では、管理責任と負担区分を明示した新寮規則の制定や寮則の改正に乗り出した結果、これに対して学生達が「寮自治、寮生活の破壊」であると反発して反対行動を巻き起していったのである。かくして、四十年、四十一年の二年間における大学紛争の中で「学生寮・学生会館問題」を紛争原因とするものは、国立大学三十四件、公立大学一件、私立大学七件、合計四十二件にも上ったのである。事例は国立大学が圧倒的に多いが、私立大学でも学生会館の計画の進展に伴って管理・運営権をめぐる紛争は頻発の傾向を示し、学苑は私立大学の中にあっても、以後激しい紛争を継続していくことになったのである。

 さて、学生達は何故に学生寮や学生会館の管理・運営権の確保にかくまでもこだわったのであろうか。ここには、戦前以来の伝統とも言うべき「学生自治は寮自治に始まる」と言われるように、自治権完全確保を目指す学生間の問題意識の強いことが挙げられる。それに、学生運動がますます政治的学生によってリードされ、その政治的学生がセクトに分れリーダーシップの取り合いを演ずる中で、権力闘争の論理にとりつかれるという戦後の学生運動の状況が加わる。こうして、学生寮・学生会館の紛争はとりわけ尖鋭化していったのである。この問題は学生運動の活動家にとっては、「闘争の拠点」として重要な「死活」の問題であった。特に寮では何かと学生に動員をかけ易い。そして、管理・運営の実権を握っていると入寮者を自分達で選別できるし、何かと利点が多い。こうした点から考えるならば、経済的には、寮費の場合、国立大学では一ヵ月百円から三百円に値上げされても、これは大した問題ではなく、別なところに問題があるということになる。すなわち、彼らにとっては「拠点」が潰されてしまうということに最も手痛い問題があったのである。大学の外に「拠点」を設けるならば、かなりの広さを確保し、家賃を恒常的に払わなければならないし、治安当局の「監視」にも十分対処し「防衛」に留意しなければならないことになる。ところが、学内に「拠点」の場を求めるならば、家賃という経費がただとなり、「大学の自治」を隠れ蓑として公安当局の「監視」を遮断できるというように、防衛問題が解決でき、学生の動員が機能的にできるという具合で一石二鳥、三鳥の格段の利点がある。全国的な学生寮・学生会館問題の紛糾の続発は、活動家にとっては、広く多方面に亘る運動の「拠点」を、維持するか、確保するか、手放すかということをめぐっての抜き差しならない最重要緊急事であったことが了解されよう。このことに関しては、我が学苑とて決して例外ではなかった。寧ろ、例外どころか、日本の学生運動に占めるいわゆる有力「拠点校」の一つと看做されていた学苑にとっては、小さな火種の爆発では決してなかったのである。更に加えて、学苑の場合、この学館問題に年明けからの学費値上げ問題が重なることによって、未曾有の紛争に拡大していくことになったのである。

三 学費値上げ問題の発生

ページ画像

 「学館問題」の紛糾が冬季休業で一時的に鳴りを潜め、構内に僅かばかりの静けさがもたらされていた四十年暮の十二月二十日、定時評議員会が開催された。この評議員会で、第二学生会館が年内に完成して引渡しの運びとなっていると理事会より報告され、議事として「学費改定の件」が審議された。大浜総長より、学費は昭和三十七年以降四年間据え置いてきたが教育・研究の水準を維持するためにも値上げをせざるを得ない、教職員の人件費増も考慮して改定したい旨の説明がなされ、他大学の状況、大学財政の見通し、学内への改定趣旨の徹底等について質疑応答があったのち、評議員会は四十一年度学費を原案通り決定した。

 決定された学費の内訳は、授業料が文科系(学部・大学院・専攻科、高等学院)が現行の五万円から八万円に、理工系(学部・大学院)が現行八万円から十二万円に、入学金がすべて現行三万円から五万円に、施設費が文科系(学部・大学院、高等学院)が現行五万円から七万円に、理工系(学部・大学院)が十万円から十二万円に(専攻科は二万五千円で据置)、それぞれ値上げとなり、産業技術専修学校の本科は授業料(現行四万円)と入学金(同一万円)は据置のままで施設費のみ一万円を新たに徴収することにし、また、おもに理工系での実験実習費も各科授業内容に応じて数千円を値上げすることに決定された。

 この学費値上げの決定は、すぐさま公表されたわけではなく、また、冬季休業に入っていたため冬休み中は表面化しなかった。しかし、翌四十一年一月十日の休み明けとともに、全学共闘会議の学生達は学生会館問題に学費値上げ反対を結びつけて強力な反対運動を展開するようになった。早くも十二日には第一法学部学友会と教育学部自治会では値上げ反対のストライキ決議の投票を開始した。翌十三日、理事会は値上げの決定を学生に周知させるため「学生に対する学費改定趣旨説明書の件」を諮り、これを一枚の印刷物にして各学部事務所を通じて配布することを決め、同日付で「学費の改定について」を配布した。その内容は次の通りである。

一 本大学は昭和三十七年度以降四年間学費の改定をさけて来た結果、他の私立大学との比較において本大学の学費は低い線にあったが、物価の上昇をはじめ数年来建設を進めて来た諸施設の完成に伴ない経営費の膨張をまぬがれない。また教員の増強、その他充実改善を要する面が多く、現状をもって満足することはできない。そこでこの事態に対処し、さらに大学の充実発展を期する必要上、今回やむを得ず学費を改定することにした。もっとも改定学費は、昭和四十一年度以降入学する学生を対象とするものであって、現に在学中の学生とは直接関係がないことはいうまでもない。

教育の機会均等の要請からいえば、学費の値上げは極力これをさけなければならないことはいうまでもない。しかしこの理想は、国の文教政策と相俟ってその実現を期すべき国の政治上の重要課題であって、一大学の力によって解決できる性質の問題ではない。もしこの理想の故に学費を釘付けにしなければならないとなると、国庫補助その他寄付金等に経営費の財源を求めることができない日本の現状においては、私学の研究機能も教育機能も、質的低下の一途を辿るほかはないであろう。とにかく私学の学費は、教育の機会均等の理念だけで、そう簡単に割切れる性質の問題ではないのである。

二 大学の経営に巨額の資金を要することは自明の理であり、問題はそれを誰が負担するかにある。この点につき学校教育法第五条は学校の設置者はその設置する学校の経費を負担しなければならない旨を明定している。すなわち国立は国、公立は当該地方公共団体、私学の場合には学校法人がそれぞれその経費を負担しなければならない建前である。もっともこの規定は、経費負担の責任の帰属を明らかにしたものであって、その財源を定めたものではない。ところで国または地方公共団体がその財源を租税に求めることはいうまでもないが、私学の場合には、その大半を学費に依存する以外に途がない。この点において、国公立と私学とは、根本的にその性格がちがうことを看過してはならないであろう。

さらに大学の経費を学生の一人あたりについてみると、国公立は私学の数倍ないし十数倍もかかっている。それなのに、学費は名目的の額にとどめ後は全部公費によってまかなっているので、目立たないだけのことにすぎない。これに反して私学の場合には負担の過重をさけるために学費を最小限度にとどめてはいるが、それでも国公立の数倍も高くならざるをえない。要するに一方は公費の恩恵によって大学教育を受け、他方は自己の負担においてこれを受けなければならず、しかもその差が余りに大きい。これはたしかに不合理且不公正というべきであり、……教育の公共性は国公私立の間に区別がなく、国家社会への貢献においてもなんら差異はない。とにかく大学教育に対する社会的需要は国公立のみによって充足されているわけではなく、むしろその大半は私学がこれを果しているのである。このことは本来国家が自からなすべきところを私学がこれを代行しているとさえいえるのである。

このように述べた後、三として、国庫補助の拡大、私学に対する寄附の免税措置、日本育英会の奨学生の増加を国に強く要求し、特に経営費に対する補助の緊急なことを訴え、最後に、「学費改定の事情、私立大学の立場およびこの問題に関する本大学の見解は以上の通りであるが、一部の学生がこの問題を取上げ不穏な反対運動を展開しようとしていること」に遺憾の意を表した。そして、「大学の機能の発揮とその充実改善を犠牲に供することは許されるものではなく、大学は断乎として既定の方針をもって進む決意であるので、一般学生諸君は軽挙妄動することのないよう、自重されたい」と、大学としてやむなく値上げ決定に至った苦衷を披瀝するとともに、方針については強い決意のあることを伝えると同時に、学生に「軽挙妄動」することのないよう自重を強く求めたのである。

 しかし、「大幅な」学費値上げに抗議して、十八日に一法・教育の両学部がストライキに入り授業放棄の挙に出たのを皮切りに、二十日に第一政治経済学部・第一商学部・第一文学部がストに入り、二十一日には理工学部もストを開始して、遂に瞬く間に全学ストライキに突入していく事態となってしまった。

 加えて、教職員組合の反応も注目された。既に暮の十二月二十日、教員組合と職員組合は評議員会での値上げ決定と同じ日付で、連名で大浜総長に「申入れ書」を提出した。両組合は、「この大巾値上げは、官公立大学の授業料との格差をいよいよひろげて教育の機会均等の原則をはなはだしく侵害するもの」であり、「学費値上げを経営・財政問題とのみ考えず、教育理念の問題と考えるよう要望」し、「私学の危機をすべて学生に転嫁させるというもっとも安易な態度と断ぜざるをえない」として、「大幅値上げ」に反対の意志を表明した。そして、学生のストの中で、教員組合は再び同様の反対声明文を発表するとともに、全面的な公費助成獲得運動を強力に推進することが私学の危機を打開していく捷径であると訴えた。他面、官憲の導入を結果的に招いてしまうような軽挙は大学自治を自ら破壊するものであるとして、一部学生の動きに対しても警告を発したのである。

四 学費値上げ反対運動

ページ画像

 事態は一月十八日頃からマス・コミの報道するところとなった。全学ストに突入の兆しを見せていた二十日の『朝日新聞』朝刊は、一連の経緯を「授業料値上げ・会館問題/揺れる『ワセダの森』」「学の独立危うし/学生側。組織広げる争い/大学側」との見出しで次のように伝えている。

スト騒ぎに火がついたのは学生会館問題がこじれていたところに、学費の大幅値上げがもち上がったからだ。……大学側の説明では、学費の据置きを続けたこの四年間に経常費は毎年約四億円ずつ、計十五億円余りもふえ、国庫からの借入金も約八億円にのぼっている。このままではかさむ一方の人件費、施設費をまかなえないばかりか、教育、研究の内容も低下してしまう。この財政危機を切抜けるため「忍びがたきを忍んでのこと」という。だが、東京・戸塚の早大構内には「学の独立を守れ」「学園のブルジョア化を許すな」といったプラカード、立看板がひしめき、ものものしい空気だ。全学共闘会議の大口委員長はこういう。「こんな大幅値上げでは、学生の生活が破壊されてしまう。しかし、大学側の本当のねらいは、産学協同路線によって、企業の要請する人間を育てることだ。学費値上げで、理工系の施設拡充をして高級エンジニアを、また学生会館の管理運営権を握って学生の政治、文化活動をおさえ、従順な人間を作りだそうとしている。だから、実力で打破るのだ。」

しかし、一般の学生たちには、もっと素朴なスト賛成論がある。たとえば、スト中の法学部二年生は「後輩たちがかわいそうだ。これでは、庶民の大学が金持ちの大学になってしまう」「スト、いいじゃないですか。慶応でさえやったんだから」などという。昨年二月の慶大の学費値上げ反対ストが学生の頭にあり「こちらも一度、ノロシを――」といった空気である。もっとも、ストを推進している全学共闘会議は、日共系と反日共系などにわかれ、激しい主導権争いをつづけている。だから「政治闘争だ。値上げは反対だが、リーダーの強引なやり方にはついていけない」(政経学部三年)といった批判も強い。それに二十四日からは期末試験。就職のきまった政経学部の四年生などは「卒業試験を受けられないと、就職もどうなることか。ノイローゼになりそうだ」とイライラしていた。

大学当局の態度は――。滝口宏理事(教育学部教授)はこのストの一面を「イデオロギー闘争」とみながら、こう話す。「ストを通じて学生運動の各団体が、主導権争いにシノギをけずっている。ことを起して、自分たちの組織を広げ、実績をかせごうとしているのだ。これは、横のつながりのある他の大学の学生がテコいれにきていることでもわかる。」もっとも、滝口理事は「政府が私大助成に、ちっとも力をいれないから、学費を値上げせざるをえないのだ」と――文教政策にも不満をぶちまけた。結局、紛争の背景には、私大経営の危機と、マスプロ教育による相互不信があるというほかない。

 右の報道は当時の学内の状況をよく伝えているように思われる。この朝刊を読んで登校する学生は決して少くなかった。構内の各学部入口は殆ど机や椅子でバリケードが築かれて閉鎖されており、残りの入口では二十―三十人の学生がピケを張り、スト決行中の看板を背に「授業料値上げ反対」のシュプレヒコールで気勢を挙げている。そして、中には、校舎に「入れろ」と全共闘の学生にくってかかり小ぜり合いする学生、また、授業を受けようと呼びかける学生がいても力にはならず、教室を締め出された学生の大半は本部前や大隈銅像前で盛んに開かれている各学部の学生集会を横目に右往左往する光景が現出した。

 各学部のいわゆる一般学生にとって、二十日前後の現実の関心は二十四日から予定されている期末試験であった。例年であれば、その試験範囲や問題の傾向などが説明されることの多い各最終授業がストのため取止めとなっているため、その動揺がかなりある。このため、学部の入口や掲示板に試験範囲を書いた張紙が出されたり、また、教職員がマイクを手にして試験に関する通告を行い、それを囲んでノートをとる学生などが散見された。こうした中で、各学部ではそれぞれ告示あるいは要望書などで学生にストの不法さと自重を訴えた。例えば、二十日に出された葛城照三第一商学部長名による「要望書」には、「学生は個々に授業ならびに試験を受ける権利がある。いかなる理由があっても学生委員会が校舎の出入口を机と椅子で封鎖するという暴力によって第二商学部学生を含む多数学生のこうした権利を奪うことは授業ならびに試験の妨害である。学生委員会は速かに校舎の出入口を解放し学生が教室に自由に出入りできるよう正常な状態にもどすことを要望する」(『早稲田学報』昭和四十一年三月発行 第七五九号 一六頁)とあり、他学部の対応もほぼ同様のものであった。また、全学共闘会議の学生をリーダーとする全学ストは、泊り込みの態勢を採るようになってきたため、学苑当局は、二十二日、「大学の施設はそれぞれ使用目的が定まっており、また学生がこれを利用できる時間についても制限があり、学生が寝泊りするところでないことはいうまでもない。それにもかかわらず一部の学生が無断で布団を持ち込んで寝泊りを続けているが、大学はこのような施設の不当使用を放置することはできない。大学は学内の秩序確保の観点から、学生が午後十時から翌朝八時までの間に大学の許可を得ないで大学の施設内に立入りまたは居続けることは、一切これを禁止する」との掲示を出して、学生の行動に強く警告を発したのである。

 全学ストに突入した段階の二十二日の学生紙『早稲田キャンパス』は、ストに入った経緯とその問題点を「論説」欄で「全学ストに思う」と題して次のように主張している。

一法、教育の十八日からの無期限ストに続いて二十日から、一政、一商、一文、二十一日から理工学部が無期限ストに入った。しかし、全学ストに入った二十日から、すでに学生を混乱にいたらせている学部が、一部にあることははなはだ残念である。学生を混乱させている原因の第一は、討論の薄弱さである。二十日からのストライキを急ぐ余り、ストライキそのものが目的化し、ストライキの前提である徹底した討論と意志統一に欠ける面があるようだ。スト権確立に関してもより慎重な取扱いが必要ではなかったか。一政、一法、教育学部については肯定できるにしても、一商、一文でのスト権確立は余りにも安易にすぎた感がある。一商では総員の三分の一の投票で成立し、その投票のうち過半数がストライキに賛成すればスト権が確立するとし、一文では四分の一の投票で成立して、そのうち過半数が賛成すればスト権確立だとした。すなわち一商では全体の六分の一、一文では全体の八分の一でストライキが決定されることになる。このような決め方には今後も問題が残るだろう。ストライキは運動の切札ともいうべきものであり、効果も極めて大きいものである。それだけにその運用にあたっては、慎重配慮されねばならない。

あからさまな各学生政治派閥の主導権争いもまた学園生を混乱させている原因の一つである。例えば教育学部前では、二つの集会が開かれ、更にマイクのとり合いを行なうなどの醜態を見せる。あるいは暴力沙汰を起すなど学園生の運動指導者に対する信頼感を薄めるような事態が各所で起こっている。我々はここではっきりしておきたいと思う。すなわち、今回の学費値上げに反対する運動の究極の目標は、国家の文教政策を変えさせることであって、ストライキが目的ではなく、いわんや試験ボイコットが目的ではないということである。その意味からも、学費値上げ反対運動が単に一学生政治派閥の勢力伸張のための道具として利用されることは絶対に慎まねばならない。ストライキという運動の方法は、極めて多くの学園生の支持を必要とするものであって、その支持を失うとすれば運動そのものが成り立たないことはいうまでもなかろう。その点からも学園生の信頼を裏切るようなことがないよう慎重な行動を期待したい。

最後に当局は、今度の反対運動も各学生政治派閥による政治闘争であると言明しているが、実際には今回のストは広範な学生に支持されており、当局の百年一日のように変らない学生観では問題の解決にならないことを訴えたい。

この見解は、比較的客観的な姿勢で、政治セクトの学生やいわゆる「一般学生」の動きや気持を伝えているように思われる。こうした全学スト態勢に入っている学生達の反対運動に直面して、二十三日、第一、第二法学部では連合教授会を開き、二十四日から予定されている期末試験の延期はやむを得ないと決定した。

 翌二十四日、学内は騒然とした空気に包まれた。午前八時に約三千、午前十時には約一万(『東京新聞』一月二十四日号夕刊)に上る各学部の学生が続々と登校してきた。学生達は、構内のそこかしこで激しいジグザグ・デモや学部別の集会を行い、「値上げ粉砕」のシュプレヒコールを繰り返し、前日までとは違った大きな盛り上りを一気に示した。そして実は、こうした盛り上りの中で、新聞が、「学生たちの間には、外部の干渉をきらう空気が強く、午前十一時二十分過ぎ、支援のため大隈講堂前にきた共産党の宣伝カーが学生たちに追い出される一幕もあった。はじめ車を囲んで日共系と反日共系学生が小ぜりあいを繰り返していたが、間もなく一般学生も加わって人波は五百人近くにふくれ上がり『帰れ、帰れ』と激しく叫んで車をゆさぶった。宣伝カーは二十分後、激励演説もできないまま引き上げた」(『毎日新聞』一月二十四日号夕刊。同様の記事は他紙にもあり)と伝えているように、いわゆる「一般学生」特有の心情が盛り上りの大きな部分を占める現象が顕著になってきた。すなわち、「一般学生」がこうした学生運動にコミットし得るのは学費値上げという学内の問題であるからこそ、という面が強くあるのであって、外部勢力の介入に対して拒絶反応を起し、「お前らには関係ないじゃないか。帰れ、帰れ」というように、学内問題であるから行動している、との意志が歴々と窺えるのである。以後も同様な姿勢で進展していくことに留意しておかなくてはならない。この日は午後になると、各学部入り乱れての学生が本部前で、ボリュームを上げたスピーカーの音で騒然たる雰囲気の中で大会を開いて、値上げ反対、全学試験ボイコット貫徹の気勢を挙げた。学年末試験の延期を余儀なくされている各学部では、同日午後学部長会で今後の方針を協議して、試験は二十七日まで実施しないこと、試験の要領はあらためて二十七日午後に学内に掲示することを決定して、この旨を夕方学内に掲示した。そして、各学部では二十七日を目途として、今後とも学生との話合いを続けることにした。しかし、この段階では、理事者側は学生との団体交渉(団交)には応じないとの態度を決めており、話合いによる解決の見通しは立たない状況であった。そして、この夜もまた、学生の一部は構内に泊り込み、寒い夜空の下で篝火をたきながら、各建物入口のバリケートを張り番する光景が散見されたのである。

 ところで、試験延期の決定は事実上の休校という事態を招くものであり、従って学生の登校も急速に減って動きが沈静化し、解決へ向うであろうと理事会は期待した。だが、その思惑とは逆に、全学共闘会議の同盟登校の呼びかけに応えて、あるいは自発的に、連日「一般学生」が登校して、事態は深刻の度を深めていった。すなわち、大学側には誤算となっていったのである。二十五日には、午前十一時から各学部の教務主任十一人と学生側から共闘会議代表ら六人が出席して混乱の収拾について話合いが行われた。しかし、夜八時までの交渉は、値上げ撤回要求は断じて変えないと学生側が主張したため、結局不調に終った。このように九時間にも及ぶ話合いも結論が出ないまま、全学ストは一週間を迎えることになった。この二十五日には、親の負担を慮って学生の掲げた「泣くな父ちゃん値上げはサセネェ/早稲田大学一法3C」との大きな立看板も登場して、これが新聞にクローズアップされて報道され(『読売新聞』一月二十六日号夕刊)、幾分学生側にも同情的な紙面構成を採るものも現れてきた。翌二十六日午後八時には、二十七日正午に予定されていた学部長会が急遽繰り上げて開かれ、二十四日以来延期に追い込まれてきた学年末試験につき協議した。この結果、学生代表との話合いはこのままでは解決の糸口を摑めないので、既に発表している時間割りで二十九日から試験を実施する、と決定した。学部長会の日程が繰り上げられたのは、これまで各学部の教務主任がまとまって学生代表に説得を続けてきたが、事態収拾の目途が立たず、このままでは大学当局と学生双方の主張が折り合うことは不可能と見て、とにかく試験だけは実施して、とりわけ四年生を無事卒業させなければならず、試験の件を学費値上げ問題から切り離して話し合うべきであると学部長会に報告したためである。二十九日からの試験実施の決定を知らされた全学共闘会議の学生達は、「ますます強い試験ボイコット体制を固めるだけだ。試験当日に混乱が起きても、それは学生側の意向をまったく無視した大学当局の責任だ」(『朝日新聞』一月二十七日号朝刊)と主張して、この決定に反発してバリケードでの全学ストの続行を一層強化する戦術を続けた。

 ここで、卒業を間近に控えた四年生の態度が具体的にクローズアップされてきた。二十七日の四年生の動向を新聞は次のように報道している。

授業料などの値上げに反対する早稲田大学の学生ストは期末試験、卒業試験ボイコットにまで発展、卒業間近の四年生の動向が注目されていたが、二十七日午後六時半から約一千人が集まって開かれた全学部四年生大会では圧倒的多数で卒業試験ボイコットが決議された。この大会は三時間にわたって行なわれ、試験ボイコット是非論がたたかわされたが、結局(一)二十九日以後大学当局が予定している試験をバリケード、ピケ、デモで阻止する、(二)大学当局に団体交渉を要求する、(三)大学の経理内容公開を要求する――などの闘争体制を確認した。 (『日本経済新聞』 一月二十八日号朝刊)

 紛争の要となってきた四年生がスト続行支持に明確に踏み切ったことは三年生以下に与える影響も大きく、爾後の成行きは予断を許さぬ形勢となっていった。二十八日正午から再び学部長会が開かれ、(一)卒業予定者の試験は予定通り二十九日から実施するが、午後五時から学外で行う、(二)三年生以下の試験は四月以降に延期する、(三)独自の対応をしていた第一・第二法学部の試験は別途発表する、(四)三十日の体育局の試験は卒業予定者のみ予定通り実施する、と決定された。翌日の各紙朝刊は挙って、「ワセダの森騒然/『分離試験』決定に反対」「再び大揺れワセダの森/卒業試験は学外で/学生側はボイコットへ」「学生泊まり込み対抗/早大のきょうの試験/学校も最後の説得」などと大活字の見出しで報道し、社会の注目をいやが上にも学苑に注がせる紙面構成を採った。翌二十九日は、構内のみならずキャンパス周辺地域も騒然とした空気に包まれた。正午過ぎから本部前で総決起集会を開いた学生達は、続いて正門前右方向の学苑系属の早稲田実業までデモ行進して「値上げ粉砕」の連呼を繰り返しつつ早実校舎を取り巻き、同校舎で予定された卒業予定者の試験を遂に実施不可能にさせた。また、三十日午前十一時からは体育局校舎で卒業予定者の体育講義の試験が実施されたものの、開始時刻前から校舎の門でピケを張っていた千人以上の学生が試験阻止を図って、受験予定者四百三十人のうち僅か六十七人しか受験できないという事態にしてしまったのである。更に三十一日午後五時にも予定されていた早実での試験が学生達のピケによって入口が封鎖され、校舎を取り巻くジグザグ・デモのため、またしても実施不可能となってしまったのである。試験中止を余儀なくされた学部ではレポート提出に切り換えるなど対応に追われた。だが、各学部の学年や専攻あるいはクラスなどの対策委員会ではレポート提出をも拒否する戦術に出て、各人から学部事務所や担当教員などに直接出さないという誓約書を取ったり、更に、レポートを学生達が一括保管して然るべき段階で提出するというような戦術を採った。事態はますます深刻になっていったのである。

 なぜ、学費値上げ反対の動きがこのように大きな高まりを見せたのであろうか。学生側からこのことに少し言及してみよう。この点、今回の学費値上げは「多くの疑問を抱かせる」として、一般学生が素朴に感じる心情をほぼ的確に伝えていると思われる次の論説「学費値上げの再検討を」は、このことを窺うための示唆に富んでいる。

その第一は、値上げの決定が休暇中の十二月二十日に行われた点である。……学費値上げという重大決定が休暇中になされたことははなはだ遺憾という他ない。学園当局がいかに弁解しようとも、学園生のいない時期を狙って値上げを決定したとのそしりは免れ得まい。……第二は、学園が本当に財政的にやって行けない程窮迫しているかどうかを説明することなしに値上げを決定した点である。大学は「告示」、「学費改定について」のビラなどで学費値上げの必要性を訴えてはいる。しかし、そのいずれもがわれわれを説得し得る材料になっていないことは残念なことである。本当にどの程度赤字がでて困っているのか、どのような目的で学費を値上げするのか、われわれが納得できるような資料を示して欲しいと思う。……今回の学費値上げに際し、学園当局は、在校生には関係ないと説明する。しかし、われわれ在校生もまた学園の将来に責任を負うものであり、今回の学費値上げによって、教育の機会均等の原則が薄れ、学園の正しい伝統がゆがめられるとするならば、われわれはそれを看過するわけには行かないのである。第三に、われわれがもっとも恐れるのは今回の学費値上げによって……低所得層の家庭から大学へ通うことはむつかしくなり……今回の学費値上げが、その傾向に拍車をかけることはいうまでもない。

もち論、今回の学費値上げの問題は、単に学園だけの問題ではなく、国家の文教政策と大きく関連することは明らかである。財政難から私学危機が叫ばれるようになってから久しい。この間、国はそれに目を向けようともせず、問題を放置した点責任がある。大学が、十分な財政補助を受けることなくその経営が行き詰まりをみせていることは、国家の文教政策の大きな矛盾と言わねばならない。われわれは、国家の私立大学に対する補助は、本来、単なる「補助」ではなく、国家に課せられた「義務」と考えるのである。その点からの国家に対する要求は学園生も学園当局も一致して行なわなければならない。だからといって国の補助がないことは値上げを正当づけることにはならない。補助がない、財政が行き詰った、それなら学費値上げだという方程式は余りにも安易すぎる。もっと他に財源がないのか考えてみる必要があるのではないか。

(『早稲田キャンパス』 一月二十二日号)

 この論説には学生達の学費値上げ反対の理由が集約的に述べられている。ここで注目されるのは、学費値上げが冬季休業中の「学園生のいない時期を狙って」決定されたことへの反発である。すなわち、冬休み中に値上げを決定して、休みが明けてから、しかも一片の紙切れで通告された、との思いである。彼らは、値上げの理由について情意を尽した説明が大学側には欠けていると感じたわけである。しかし、大学側としては、値上げの事情を説明した「学費の改定について」を配布すれば、学生はほぼ納得してくれるであろうとの認識があった。だが、こうした姿勢が学生の目には、教育者の姿よりも寧ろ経営者的な姿であると映ってしまった。やがて、これに日頃の学生生活のもろもろの不満が加わり、大学に対する不信感が増幅されて、一挙に運動が高まる形となっていった。いわば、感情という底知れぬパワーが、この段階における一般学生の反対運動を盛り上げる上で大きな要素となったと思われる。従って、「騒いでいるのは一部の学生と外部の者だ」(『朝日新聞』一月二十二日号朝刊)と認識したり、「大学側が値上げ反対を一部活動家の動きときめつけ」(『毎日新聞』一月二十四日号朝刊)たりしたのは、当初においては誤算であったということになる。事実、大学当局は一握りの活動家に目を奪われて、多くの学生のいることを最初のうちは忘れていた、少くとも、それほど重視はしていなかった、という節がある。このような認識や対応が学生達の目と心を大学の方に向かわせるのではなく、大学から離反させてしまうこととなり、離反した学生はかなり容易に共闘会議を支持する側についてしまった、という過程をたどったように思われる。そして、学生達の不満と不信の爆発したのが、総長と学生が一堂の下に初めて会して行われた二月四日の説明会の場であった。

五 昭和四十一年二月四日

ページ画像

 四年生以上の卒業予定者の試験を二十九日に実施し、三年生以下の学年末試験を四月以降に延期することを決定した一月二十八日の夜、あくまでも完全試験ボイコットを貫徹しようと全共闘の学生が約二千人(『朝日新聞』一月二十九日号夕刊)学内に泊まり込んでいた頃、東京杉並区の大浜総長の自宅に八人の学苑生が突然訪れた。彼らはサークルの仲間で、事態打開のためにやむにやまれぬ思いで訪れたのだという。「会ってくださるまでは、朝まででも門前で待たせていただきます」との熱意を汲んで、既に就寝中の総長は、夫人を通じて「朝あらためて君たちの話をきこう」と約束した。彼らは、「なぜ総長がバラを割って学生に話してくれないのだろう」とサークルで議論のすえ、総長邸にやってきたのだという。これを伝える新聞は、「総長が声涙ともに下る異例の演説をし、全学生が『先生、わかった』と、反対運動のホコをおさめる――そんな時代ではないかも知れない。しかし、スト騒ぎが起って以来、大浜総長が学生と直接会うのは、初めてだという。教育のマス・プロ化がいわれる早稲田にも、なお『人生劇場』の伝統は残っているようだ」(同紙 同日号朝刊)とやや大時代的な筆致で記して、こうした「一般学生」の動向に注目している。この学生達は、二十九日の早朝七時に総長邸を再び訪れて、いわば「直訴」の形で総長に訴えた。「『総長、どうか創立者大隈老侯にかわって学生を説得し、母校の危機を救って下さい』『このままでは静観していた学生まで硬化します』と口々に訴えた。一時間近く耳を傾けていた同総長は『よし、考えよう」と答え、同日中にも全学生を集めての総長訓示の計画を理事会に相談することを約束した」(同紙同日号夕刊)。この会見は、「早朝から学生と話合う大浜総長」との説明つきの大きな写真とともに大々的に報道された。そして、この日実施予定の卒業予定者の試験が中止のやむなきに至った後の夜の記者会見で、総長の態度が次のように表明された。

大浜信泉早大総長は、二十九日夜九時から早大の大隈会館で記者会見をして「学校行政の自主性を守るため、学費値上げ問題で、絶対に安易な妥協はしない」との強い態度を明らかにした。このような大学当局の強い決意により、紛争が大学側の「譲歩」という形で解決される可能性は、ほとんどなくなった。

まず、大浜総長は、大学の考え方として「昨年からの全国的な大学紛争には、学校行政への学生の発言権を強めるという共通の要素がある。いまの早大紛争にも、こうした社会的背景があるので、大学としては、安易な妥協をするわけにはいかない」とのべた。なぜ、学生側との話合いをこばんでいるのか。この疑問にはこう答えた。「職業的な学生運動のリーダーと会う場合、今までの経験では、ダラダラ時間をついやす。約束の時間がくると、大勢の学生がはいってきて監禁する。このため、警官の出動を要請するハメに追込まれる。大学としては、警官導入は好ましくないので、こんな結果になるような学生側との会談はしないことにしたのだ。」「ただし」と大浜総長は、三十一日以後、早い機会に一般の学生に会う考えを明らかにした。早大記念会堂に全学生を集め、値上げに追込まれた実情を率直に訴えるという。 (『朝日新聞』 一月三十日号朝刊)

 総長をはじめとする大学当局は、この頃に至って、「直訴」なども現れ、広く「一般学生」にじかに訴える姿勢を示し始めたわけであるが、このことは、そうせざるを得ないところまで事態が切迫していたことを物語るものであった。学生側にとっては、「大衆団交」の機が熟してきたことになるが、大学側としては、ここで誠意を尽して値上げを訴えたならば、学生も納得してくれるのではないかとの期待が込められていたのである。

 二月三日の夜、大学側は全共闘の代表と、四日に記念会堂で総長説明会を行うための打合せをした。午後一時に開場、壇上に教職員二百人が坐る、滝口理事の司会で総長の説明のあと学生代表三人の質問を認める、との約束で説明会を進行させることにして当日に臨んだ。四日、記念会堂に実に一万二千人を集めた総長説明会の模様は新聞各紙に一斉に報道されたが、その推移は次のようなものであった。

 記念会堂の前には早朝から椅子が並べられ、共闘会議の学生達が「総長の一方的な説明会方式を廃し大衆団交を克ちとろう」という立看板を背景にアジ演説を始めていた。午前十時には一般学生も三々五々現れ始めた。午後一時開場、教職員は一時半入場の予定であったが、早くも十一時半には、共闘会議の学生活動家百五十人ほどが会場整備中の職員の制止を振り切って旗やプラカードなどを手にして雪崩込み、壇上の教職員用に準備されていた椅子を片づけて、演壇頭上に巨大な「主催、全学学館学費共闘会議」「学館の管理運営権の獲得」「学費値上げ粉砕!」との足れ幕を掲げた。そして、演壇の机を「値上げ白紙撤回を勝ちとろう」と書かれた布で巻き、拡声器を置いてアジ演説を始めた。やがて、旗やさまざまなスローガンの書かれたプラカードを先頭に、これに同調する学生が次々と繰り込み、また、大きな禁煙の掲示をよそにあちらこちらから紫煙が昇り続けて、大学側から見れば、学生らしさや秩序ある雰囲気とは到底看做されるものではなかった。進行段取りの約束を学生側が破ったことに対して大学側は、神沢学生部長を通じて約束履行の説得を続けた。会場は立錐の余地のないほど学生で超満員で、入りきれない学生が多数、場外でスピーカーを囲んでいた。大学としては、これだけ総長の話に関心を抱いて参集した一般学生を無視できず、旗やプラカードはしまうこと、スローガンの足れ幕を両脇に寄せること、椅子を壇上の袖幕の内側に置いて教職員を坐らせることなどの最少の条件で妥協する以外に収拾の方法がなかったのである。

 しかし、共闘会議の正・副議長、事務局長のほか、各学部の代表者が壇上を占拠してしまい、このような雰囲気ではとても説明会は進行できない形勢であった。神沢学生部長が、学生の本分を守って静粛にしてほしいと訴えても、ヤジと怒号で打ち消される始末であった。そうした喧騒を極めた中で説明会を行わざるを得なかったのである。学生部長を介して、学生側との間で、総長の発言中は時子山常任理事が司会し、学生の質問に入ってからは学生側の司会という了解が取りつけられ、会は漸く始められた。

 結局、説明会は総長が三時間近く演壇に立って行われ、「総長は、(一)最近の急激な物価値上がりによってこのままでは完全な大学教育は出来ない、(二)値上がりにより大学は奨学金制度の対象となる学生を増やす、(三)教授陣を充実させ各学部に談話室・読書室を完備させて教授と学生の人間関係を緊密にする、(四)庶民の大学という意味は大学の気風とかそこを出た人物が大衆の人気を得るということでそれは値上げによって変わるものではないなどという意味のことを話した」(『早稲田学報』昭和四十一年三月発行 第七五九号 三〇頁)のであった。これは、これまで報道などで伝えられてきた大学当局の考えを直接学生達に伝えることによって、何としても大学側の意のあるところを理解してもらいたいとの思いを込めたものであった。このあと、全学共闘会議の大口昭彦議長ら四人の学生が、「授業料値上げは学生生活を破壊してしまう」などと詰め寄り、今後の大学運営の基本方針などについて総長に反論と質問を行った。これらに対して総長は、「(一)学費値上げの基本方針を変更する意思はない、(二)学生会館管理問題もこれまでの方針をかえない、(三)こんどのストに対する処分はいまのところ考えていない」(『日本経済新聞』二月五日号朝刊)などと答えた。

 こうした値上げをめぐっての庶民や大衆の大学云々の論議が延々と続く中で、大浜総長は、「三十七年に大巾の値上げをしたときに入った諸君は果して金持ちのどら息子だったのか」との如き発言(『早稲田学報』第七五九号 三〇頁)をしてしまった。この時の発言の内容は新聞各紙に報道されたが、学生達の怒声やヤジの飛び交う喧騒を極めた中での発言であったため、一体正確な内容はどのようなものであったかは、微妙な点までは各紙によって必ずしも一致していない。ここでは、この現場を録音したと言われる次の記録を引用しよう。

今日お集り願ったのは諸君の知性と善意と良識に訴える事によりワセダを混乱から救いだしたいからである。早稲田は八十年の歴史をもつ一流大学であり、教授も全生涯をかけている。諸君もこの早稲田の名声をしたって集まって来られた。ここにおいて教職員と学生は運命共同体であり一致団結して問題の解決にあたって欲しい。(ヤジ激しくなる)この様子は全国に報道しているのでいやしくも大学の学生たる者ヤジをとばすとは何事か。(会場騒然となる)天下に醜態をさらすのか。(総長非難の声々で場内混乱)値上げの理由を述べたい。(総長憤然とした様子)本学園の大衆性とはその学風の大衆性であり本学より出て大衆政治家、大衆評論家となられた方も多い。このような大衆性であり決して貧乏人の大学ではない。(再び激しいヤジ、そして総長のうしろに座っていた大口君より〔発せられた〕、金持の息子だけを入れるのか、〔と〕のヤジに怒ったように)金持の能力の低い者が入るというが、それではここに例を挙げて聞くが三十七年の大幅値上げの時入学した今年の卒業生は皆んな金持のバカ息子なのか。(会場再び騒然として収拾つかず)私は諸君に値上げに賛成してもらいたいのではない。ただ大学の立場を説明するだけだ。諸君の全てが反対しようが大学の方針は変わるものではない。〈記念会堂の模様を収録した録音より――早大放送研究会提供〉

(早稲田キャンパス新聞会『写真集 早稲田の一五〇日』 一四頁)

 これは、総長としては正論を語ったものではあっても、想像を絶した騒然たる雰囲気の下で発言されたため、その意が十分に伝わらず、理解されないまま一般学生を突き放してしまうような全く不本意な展開を招いてしまった。この言葉に学生達は硬化せざるを得なかった。この時、卒業を控えた第一文学部学生で当の総長自身の三女迪子の耳にも「貧乏人は早稲田に来るな」的な暴言として響いたという。新聞もこの発言に飛びついてしまった。「『都の西北』早稲田大学の騒動はいよいよ長びきそうだ。……新聞で伝えられた大浜総長のことばのなかに……『ワセダは大衆大学だから値上げはいかん、というが、これは学問の大衆性をいうのであり、ワセダは貧乏人だけの大学ではない』とも総長はいったそうだ(『朝日新聞』)。これでは、あとで一学生が反論したように『貧乏人はワセダに来るな』と学生に受け取られてもやむをえまい。冷静な懇談の席で事を尽くすのとは違って、あのような興奮した学生大衆を前にしての総長のことばとしては、火に油を注ぐ結果になる」(『毎日新聞』二月七日号朝刊「余録」欄)。学生達は、床を踏み鳴らし、ヤジを飛ばして非難したため、この日の総長の学生に対する説得は不調に終り、総長は四時半頃、引き揚げるのを激しく阻止しようとする学生達に背を向けて退場したのである。このあと、約千人の学生が大隈講堂までデモ行進して気勢を挙げ、午後五時半から対策を協議し、全学共闘会議は更に総長に大衆団交を要求し、受け入れられなければ、入学試験の事務を阻止するために本部を占拠するとの方針を決定した。

 大浜の伝記『大浜信泉』は、説明会の件について、「のちにこの日を回想して、大浜みずから『大失敗であった』ともらしたように、野次と怒号の入り乱れる場内の中で、共闘会議の学生活動家と真向から対決し、しかもそのとげとげしいやり取りが、マイクを通じて会場のすみずみまで、紛争の解決を期待して集まった一般学生の耳に届いているとは、思いもよらなかったのである」(一六三頁)と記している。この日を境に学生の大学当局に対する心は一段と離れていくことになり、一部教職員の間にも冷ややかな空気が流れていったのである。