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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第十三章 第二学部存廃問題と社会科学部の開設

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一 社会環境の変化と第二学部の問題化

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 昭和三十年代以降の学苑における教育体制の改革は、それ以前と比べて格段に大規模で、単なる学科の改廃にとどまらず学部編成の手直し、更には付属学校等の再編成にまで及んだ。すなわち、「新制学部の最も特異な点」(第四巻九三八頁)と言える第二学部のうち、二政・二法・二商・二理の廃止が断行されるとともに、二政・二法・二商を統合した新たな夜間学部である社会科学部が開設されたのである。この社会科学部の開設および第二文学部の存続によって勤労学生に対する学部の門は開かれ続けたが、社会科学部の定員は二政、二法、二商三学部の合計定員よりも遥かに少く、また理工系の夜間学部は新設されなかった。こうして学苑は勤労学生に対する門を狭める一方で、第一学部の規模を拡大したから、全体として学生数は増加した。しかし、そのことは「昼間人口」の膨張、すなわち三九―四一頁で述べたキャンパスの過密化という、現在においてもなお未解決の深刻な問題発生の原因となったのである。

 新制早稲田大学発足の経緯とカリキュラムその他の具体的内容については第九編第一章および第二章に詳記したが、新しく生れ変った学苑の特色を機構面から摘記すれば、次の三点にまとめることができよう。第一点は、政・法・文・商・理各学部に第二学部(夜間学部)を設け、専門部と専門学校(夜間の専門部)を廃止したこと、第二点は、高等師範部を教育学部へと発展・昇格させ、他の学部と同格にしたこと、第三点は、工手学校の後継校として設置された夜間の新制工業高等学校を別にして、二つあった付属の高等学校を一つに減らし、これを新制の早稲田大学付属早稲田高等学院(昭和二十四年十二月二十日に早稲田大学高等学院と改称)としたことである。二十二年三月公布の「教育基本法」および「学校教育法」に則って、学苑の基本体系を大学院―学部―高等学院としたこの大改革は画期的なものであり、中でも、教育学部を除く五学部にそれぞれ夜間学部を併置したことは、当時の状況を考えるとき、勤労者の要請に応える改革と評価すべきであったろう。勿論、第一学部(昼間学部)と第二学部とが完全に同一の学習条件を具備していたわけではないが、昼間学部と資格を同じくする夜間学部の設置は、疲弊した戦後社会で働きながら大学教育を受けたいと願う多くの人々にとり、まことに有意義なものだったのである。

 しかし、社会が次第に秩序を回復し経済も安定してくると、夜間学部の意義に翳りが生じ、特に二つの点でそれが顕著となった。第一は、第一学部と第二学部をめぐる社会的評価の問題で、第二学部を第一学部と同等視しない風潮が生れてきたことである。戦後復興の目途が立ち始めた日本経済は、優秀な人材を大学に希求した。本編第一章に指摘したように、「優秀な人材」の社会的判定規準は学部での成績よりもその学部の入試難易度であったから、入学試験に合格するのが夜間学部よりも難しい昼間学部の卒業生を採用したいと考える企業が増えたのである。第二は、第二学部に入学する学生が必ずしも勤労者とは限らなくなったことである。新制学部発足時、あるいはその直後の学生の就業状況に関する資料は欠如しているが、昭和三十二年十二月に学苑が行ったアンケート調査によれば、第二学部学生のうち昼間定職を持つ者は二七・五パーセント、アルバイトをしている者は二七・八パーセントで、両者合せて約五五パーセント、これを第一学部学生の就業状態(定職を持つ学生一・八パーセント、アルバイトをしている学生三五・三パーセント)と比べると、確かに「勤労学生」は多いと言えるが、しかし逆に見れば、既に第二学部学生の半数近くが「昼間修学しても差支えのない」(『学生生活実態調査報告書』昭和三十二年度版六七―六八頁)状態にあったのである。

 この実態は、働かなくても学べる若者の増大を示すものとして、ある意味では喜ぶべきことではあったが、しかし少くとも次のような問題を提起した。一つは、第一学部を希望したが入学試験の成績が合格点に達せず、不本意ながら第二学部へ入学した学生が増加し、働きながら学びたいと希望する者、仕事を持たなければ大学教育を受けられない者を排除する結果を生んだことである。これは第二学部設置の本来の意味が失われてきたことを示すものとして、あるいは第二学部を第一学部の予備軍化させるものとして、大問題であった。その二は、入学者層のこのような変質が、前述した社会的評価の問題と相俟って、第二学部の雰囲気を大きく変化させたことである。特に、学生の間に瀰満した脱落感・無力感はきわめて深刻であった。生活条件よりも入学試験の結果として第二学部に入学する者の比率が上昇すると、第一学部では毎年生ずる若干の欠員の補充に、第二学部の対応年次の学生の転部を以て優先させるよう決定した。このことは第二学部学生一般に希望を与えることにはなったけれども、志望者全員を転部させるわけにはいかず、積み残しが累積した。完全に積み残しとなったことがはっきりした第二学部学生の間では一縷の望みもなくなり、欝屈した空気がみなぎり、活気は著しく減退してしまったのである。

 では、こうした問題はいつ頃から顕在化し、どのような解決策が摸索されたのか。昭和三十年九月二十日付の『早稲田大学新聞』には「単一学部制の現状と問題点」と題する次の一文が掲載されている。

「太陽光線の教室で授業を受ける学生と、電燈の光線で授業を受ける学生とに何の差別があるのだろうか」、こんなところから発展した第二学部生の要求は、「授業料は第一学部と同額なのに講義、学内の各施設(例えば図書館、診療所)の利用については全くひどい差別がある」と訴え、最もひどい差別待遇は就職の問題だという。……第一、第二という名称を撤廃して単一学部制を敷いてくれ――昭和二十四年四月、第二学部設置以来わずか四年で壁につきあたつた。二十八年以来、毎年秋になるとこの運動がおこつてくる。それも「名称撤廃」から「単一学部」へとすすんできている。昨年も第二各学部から学部統一専門小委員会が作られ、(一)憲法二十六条で教育の機会が強くうち出されたが現在の社会で夜間部が本当に差別されている。(二)学生が各々自分に最も都合のよい方法で勉強できるところに単位制の合理性がある。にもかかわらず昼間、夜間という枠にはめこむことによつて単位制を非合理的なものとしている。(三)同一学士号を持ちながら社会に出ると夜間学部だけという理由で差別される、と二部制の不当、不必要を訴えている。

右の記事により明らかにされているのは次の諸点である。第一に、先に指摘した第一の点、すなわち第一学部と第二学部の間に生れた差別(特に就職に見られる)の解消が問題の中心になっていること、第二に、問題の当初の提起者は主として第二学部に学ぶ学生であったこと、第三に、新学制発足四年後に早くもこの問題が顕在化したこと、第四に、解決方法の要求が第一・第二の名称撤廃から、両学部の合併である単一学部制の採用へと変化したこと、第五に、第二学部の横断的な学生組織として学部統一専門小委員会が結成されたこと、等である。

 第二学部問題は、文学部を除く政・法・商・理四学部での第二学部廃止、および新たな夜間学部たる社会科学部の新設となって落着するのであるが、そこに至るまでは以下の四つの段階に分けられる。第一段階は昭和二十八年―三十一年三月で、先の記事で明らかなように、第二学部の名称廃止・単一学部制の要求の高揚を内容とする。第二段階は三十一年四月―三十二年五月で、学生の如上の要求・運動に対応する形で、あるいは第二学部に種々の問題が生じているという状況に鑑み、理事会が単一学部制実施を含め改革方策を種々検討し、一つの改革案を提示するに至った時期である。それは第一、第二の学部名称の廃止と、授業時間を午前八時より午後六時までとすることとを骨子とするものであったが、この理事会案をめぐって賛否両論が展開し、やがて同案が棚上げされる中で、第二学部廃止の方向が打ち出され、一部実施に移されるに至る。これが第三段階で、時期としては三十二年五月―三十六年三月である。第二理工学部が学生募集を停止したのは昭和三十六年度からであった。第四段階は、文学部を除く第二学部のすべての廃止が決定され、学生募集が停止される三十六年四月―四十一年三月である。この段階はまた勤労者を対象とする新しい夜間学部、すなわち社会科学部が開設された時期でもあった。

 各段階の態様を、単一学部制要求運動の高揚および学苑の対応(第一、二段階)と、第二学部廃止への動き(第三、四段階)とに分けて見てみよう。ただし、第四段階に行われた社会科学部の設置については節を改めることにする。

二 単一学部制要求運動の高揚と学苑の対応

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 「単一学部制」とは、学部名称より第一・第二の冠辞を取り去り、昼間と夜間とに併置された同一科目を学生がその生活時間に応じて任意に選択できるという仕組みである。これは、「教育の機会均等の立場から、きわめて大胆に大学教育の開放を企図した」昼夜開講制として、東京都立大学が昭和二十四年度より採用した方式(『東京都立大学三十年史』七三頁)と同じものである。第一学部と第二学部の格差解消を目指して単一学部制実施を学苑当局に要求する運動が学生の間で急速に高まってくるのは、昭和三十年の新学期開始以降であったが、同時に第一学部の学生からこの運動に反対する声も上がり始めた。同年一月二十六日付『早稲田大学新聞』は左の如く報じている。

冬休みが明けて単一学部制を要求する関係各学部では「ことしこそは」の意気ごみで動きはじめたが、定期試験を控えてあまり活発とは言えないようだ。冬休み中の活動もあまり活発というほどではなく「着実に進めた」というところだ。全学協〔全学学生協議会〕の話だと、各学部ともそれぞれ独自の問題を中心に早稲田祭の処分、単一学部制、授業料値上の対策ととりくんでいる。しかし第一学部では一商のように反対の色をあらわしてきたところもあり、問題は複雑になつてきた。

 学生の運動は一般に秋に高揚して冬休み以降停滞する。単一学部制問題をめぐる運動もその例外ではなかったが、三十年は運動の盛り上り方に若干例年と異るものがあり、六月十四日付同紙は左の如くそれを伝えている。

昨年まで各学部委員会は単一学部の対策委員会が出来るのは多くの場合、秋から冬にかけてである。ところが今年は委員会招集と同時に対策委が開かれている。先ず二政委員会では〔六月〕六日新委員会を開き松本貞次郎君を委員長とする十人の対策委員を決めた。その席上基本方針が討議されクラスでの話し合いを基礎とする線を打ち出した。二商の対策委員は委員以外の学生からも希望者をつのつて、九日の学生大会における十分な討議をもとにしての運動をすすめる模様。また二文にも対策委員会が出来ているのが新委員長を迎えて期待は大きい。とにかく今年の単一学部への運動は委員会の上部的な動きではなくサークル、クラスから盛り上つてきているのが特徴で今後の成行きが期待される。

右の六月九日の第二商学部学生大会については、同紙は次のように報じている。

二商学生大会は六月九日商学部四〇二教室において開かれ教室をあふれ出る位の多数が参加した。今年のスローガンとしては「単一学部制実現への積極的努力」「全学友の意志を反映した学内の民主化」「学生々活の擁護」の三つがかかげられたこの日……単一学部制問題においては、大槻総務部長から三十一年度実現可能性の論拠と題する報告と、雄弁会代表による演説及び六月七日に発足した単一学部制要求合同委員会への一般学生からの熱意と意志のある希望者の受付に関する報告が行なわれた。単一学部制の問題に対して、充分な討議が予定されていたが、時間の都合で簡単なものに終つた。

 なお、右に引用した新聞は、このことに関する雄弁会の動きに触れているが、実際、この年運動が活性化した原因の一つに、雄弁会の行動があったことも見逃せない。すなわち同会は、五月二十一日幹事会を開き単一学部実現を図ることを決議し、二十七日緊急総会を開いて合意を得、全員の意志により運動を進めていくことにしたのである。その理由とするところは、「われわれは雄弁会員である前にまず早稲田大学の学生であり、よりよい学園を作るため、不平等をおしつける二学部制に反対するのは当然の義務」(同紙同日号)というにあった。そして運動を最も盛り上げる時期を十一月に置くことを目標に、早くも五月末日より第二学部の学生を対象に遊説隊を組織し、機関紙『新早稲田』を発行、行動資金カンパと情宣活動を始めたのであった。

 しかし、現実にこの問題は学生全体の意志統一を図りにくく、運動の主体となるべき第二学部学生の間においても意見は多様であった。例えば、名刺や学友会、所属サークルでの名称から「第一」の文字を削ろうという意見も見られた。これは身近なところから第一・第二の区別の解消を行えば運動は円滑に進み、やがて大目的も達成されるというものであった。また、問題は就職での差別にあるのだから第二学部の存在意義を求人側に認めさせる努力をすればよいとの考えもあった。こうした意見を説く学生は、ジャーナリズムを動かし、世論に訴えることこそ肝要であるとした。以上のような状態であったから、運動ももう一つ盛り上りを欠いた。また大学側の対応も、改革の必要性を認めつつも容易に事を運ぶことがかなわず、三十一年春からの単一学部制実施の希望は消え失せた。その状況について、三十年十二月十三日付『早稲田大学新聞』は左のように記している。

「単一学部実現」運動は〔十二月〕一日の二商学生大会を皮切りに、六日には二政、二文、二法の三学部の学生大会がもたれ、ともに「単一学部実現要求書草案」を学校当局に提出し「単一学部実施委員会」設置を要望、その回答を十二日までの期限付とすることを決議して「より具体化した歩み」をとることになつた。しかし、学校側では、これに対し九日夕、合同委〔単一学部制要求合同委員会〕との総長会見の席上……学校行政へ学生が口ばしを入れることは許せないとの理由で「単一学部実施委はとうてい、設置できまい」と内示した模様であり、合同委としても何ら明るい言質が得られなく昭和三十一年度単一学部実現不可能を確認している様子で、運動は「五年越し運動」となることは必至である。

このように学生の要求する単一学部制は学校行政をめぐる根本的問題であったために容易に解決を見るに至らず、学生も長期計画を立てて活動を見直すこととなった。

 この間学苑当局も、前掲新聞が報じたように手を拱いていたわけではなく、また学生の運動に理解を示さなかったわけでもなかった。社会状況の変容に対応する学苑のあり方を検討し、第二学部に生じ始めた種々の問題解決のため努力を重ねていたのであって、大学院博士課程の設置に伴い新制度の教育機構が整ったことにより「教育制度全般について再検討」するため二十八年十二月十七日に設置された学制研究委員会(委員長大浜総長)が、第二学部を検討するための分科会、すなわち第二学部専門委員会(委員長上坂酉蔵第二商学部長)の設置を三十年五月に決めたのは、その努力を示すものである。ここでは単一学部制問題を含め第二学部の現況が真剣に討議されたのであった。

 しかし、単一学部制問題は早稲田大学だけにとどまらず、我が国教育制度全般に関わる問題として浮上した。すなわち、設立当初から開講時間を昼夜に亘るものとし、同一学科目を昼夜に併置して学生が受講時間を随意選択できる昼夜開講制を採っていたため、かねてから単一学部制のメッカとして注目されていた東京都立大学に対し、文部省は三十年九月頃から、「学校教育法第五十四条〔「大学には、夜間において授業を行う学部を置くことができる」〕は教育の機会均等の立場から勤労青年などに夜間学ぶ機会を与えたもので、昼、夜好きな時間に学校に通える制度ではない」(『早稲田大学新聞』昭和三十一年十一月二十七日号)との解釈を採り、十二月に入ると、「昼夜開講制を二部制に訂正するように、学則の変更を求める行政指導を迫った」(『東京都立大学三十年史』七六七七頁)。このような文部省の対応の仕方に対し、学苑内には、例えば前第一法学部長野村平爾や第一商学部長中島正信のように、法的に見て第五十四条は単一学部問題に何ら抵触するものではなく都立大学の昼夜間学制を法的違反とするのはおかしい、早大で単一学部が実現したとしても法的には差支えないとの、批判的な声も聞かれた(『早稲田大学新聞』昭和三十一年十月二十三日号、昭和三十一年十二月四日号)。しかし、文部省の強硬な勧告に従い都立大学が三十二年度から昼夜開講制を廃止したこともあって、客観的に見て学苑における単一学部制実施への可能性は大きく後退した。

 こうした中で学苑理事会は、三十一年十二月七日に開かれた学部長会に、第二学部専門委員会案と単一学部制要求合同委員会案を折衷したものとして、(一)第一・第二の文字を削除して両者の区別は一部・二部(または一類・二類)の呼び方に改める、(二)同一系統の両学部は一人の学部長が統括する、(三)入試は両学部別個に行う、(四)卒業証書その他の証明書には一部・二部(または一類・二類)の区別をつけない、の四点を骨子とする案を提示した。しかし学部長会では、名称だけを一本化することは無意味であり対外信用にも係わる、姑息な措置を採らず名実ともに一本化の理想に向って努力すべきである、との意見が大勢を占め、この理事会案を否決して、単一学部案を研究するための委員会の設置と、第二学部が就職時に受けている社会的偏見を除去するための積極的措置の採用とを申し合せたのである。

 そこで、三十二年一月には、この「単一学部問題の解決策を検討するために」総長および全学部長から成る学部組織研究委員会(委員長大浜総長)が設置され、同年五月四日、同委員会は理事会が作成した学部組織改革案を審議した。その改革案で示された「基本方針」および「手続上の具体的措置」は左の如きものであった。

一、基本方針

学部は、昼間において授業を行う一本の機構に統一し、授業時間は現行の八時限に改め(原則として午前八時より午後六時(現行四時)まで)、手続上は次の具体的措置を講ずること。

二、手続上の具体的措置

一、現行の第一、第二学部の名称を変更し、その呼称も単に○○学部に改めること。但し夜間において授業を行う学部が存続する間は、それとの区別の必要上、学部の呼称に(一部)、(二部)を付加すること。

二、現行の第二学部は、これを廃止する方針の下に、来年度以降の学生の募集を停止すること。

三、現に第二学部に在学中の学生については、可及的に昼間において授業を行う学部(○○学部二部)への編入措置を講じ、残余の学生が全部卒業した暁に、終局的に学部廃止の手続をとること。

 この五月四日の学部組織研究委員会は、第二の第三項を削除すること、この改革案を教授会に諮ること等を申し合せたが、同案に対しては、「勤労学生の締め出し」「教育の機会均等への背反」「文教反動化の一環」とする学生側の反発は勿論、教員内部にも強い批判があり、結局棚上げになった。第二学部改革問題は難航を続けたのである。

三 第二学部廃止への動き

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 単一学部制が実施困難になると、代って理事会の基本構想となったのは「第一学部拡大・第二学部縮小」というものであった。この方針は、「二、三年前から第二学部の入学志願者が大きくへつたことが原因で、……本年度すでに法学部、文学部、政経学部などではこの本部の意向にそい第一学部の入学者を多くとり、第二学部を少なくするといつた形で実施されて」おり(『早稲田大学新聞』昭和三十四年十月十三日号)、特に他の学部と異った性格を持つ二理・二文の組織構成変更については三十六年度より行うことを理事会は目標とした。

 こうして単一学部案が行き詰まったときに出てきた第二学部縮小案は、各学部で検討されることになったが、検討過程で鮮明になってきたのは、縮小ではなく廃止への動きであった。とりわけ第二理工学部では、かねてより広田友義学部長を委員長とする二理制度調査委員会がこの問題を審議しており、逸速く廃止を決定した。二理廃止が他の第二学部よりも早く決定された理由を、理工学部教授で常任理事の要職にあった村井資長はこう説明する。

二理の場合は、特に実験、演習などに文科系の学部よりよけいに時間をかけねばならないが、実際問題として夜だけ授業を行って完全な教育を行うことは無理である。一理の方も一応たてまえとしては四時に授業を終ることになってはいるが、実験などで六時、七時になることは常識である。そこで……二理を廃止して、その分だけ一理の方を拡大し、毎日七時頃まで授業を行うことにすれば、一理の方もより充実したものになる。 (同紙昭和三十五年四月二十七日号)

このような特殊事情があった第二理工学部は、他に魁けて三十六年四月から学生募集を停止し、同時に一理の収容定員を一学年当り六百六十人から千二百五人へとほぼ倍増した。因に一学年当り二百二十人で出発した二理の定員は、その後二十九、三十三両年度に拡大されて三百四十五人となっていたが、この一理の拡大は、二理廃止に伴う学生数の減少を補って余りあるものだったのである。なお、第二理工学部は在学生全員が卒業または退学した四十三年三月を以て廃止され、それに伴い第一理工学部は四十三年四月より「理工学部」と改称された。

 二理には以上のような特殊事情があったとはいえ、この措置は当然のことながら他の第二学部の問題の検討を不可避とした。かくして第二学部に関する基本問題を検討し今後の方針を決めるため、三十六年十二月八日の学部長会の要望に基づき、第二学部検討委員会が設置された。のちに再度第二学部検討委員会が設けられるので、これを「第一次検討委員会」と呼ぶことにする。この第一次検討委員会は理事会より三名、学部・大学院より十五名の合計十八名で構成され、委員長には常任理事・文学部教授戸川行男が就いた。前以て総長より諮問された件は次の四点である。

一、学生の素質の向上をはかり卒業生の就職を有利にし、延いて大学の評価を高める観点からいえば、現行の第二学部は廃止することが望ましい。

二、ところで第二学部には、十分にその存在理由があるので、それに代るべきものを考えた上でなければ、第二学部を全廃することも適当でない。

三、大学の財政的基礎を維持するために、全体として現在程度の学生数を確保することが絶対に必要である。

四、入学志願者の激増の情勢に鑑み、できるだけ多くの学生に学習の機会を与える趣旨から既存の学部とは別系統の学部の新設を考慮することが望ましい。

ここには、第二学部問題に対する理事会の基本姿勢が示されている。同委員会は三十七年二月から六月まで六回の会合を重ね、第二学部廃止を前提にその対策として夜間に総合学部を設置する案を検討した。その結果、賛成者からは、新しい夜間学部は学生に魅力を感じさせるものでなければならない、入学試験の方法についても既往に囚われない工夫が必要である、授業時間は午後六時から午後十時半ないし午後十一時までとしてよい、理工系を除き各系統の学科を併置すべきである、などの要望が出された。一方、同案を否とする委員からは、先ず基本的なこととして、

一、第二学部廃止、夜間綜合学部設置という案には、多くのプラス面も考えられる。すなわち(一)夜の学部に特色をもたせることも、これが一本になつていた方が便利であり、(二)各第二学部を綜合することで人件費の節約や事務費の軽減も十分に予想されようし、(三)第二学部を大幅に縮小した場合にこれを学部として存続させてゆく不経済や不合理も救われうる。しかしながら教育面からすれば、夜を一つにまとめて一学部とすることが、夜の教育に特色をもたせるためとはいいながら反つて夜間部軽視の印象、差別待遇の印象を強めることになり、いわゆる夜間学生の劣等感を強化する結果となりはしないか。

二、夜間の新設学部に対しては前記の如き要望が提出されているが、これら要望が実現されうる確実な見通しなく唯だ機械的に四つの第二学部を縮小、綜合して一学部とすることに果して教育上の意味があるのかどうか。

という懸念が表明され、具体的には、本案は第一学部拡大(一学部につき一学年当り千二百人)・第二学部縮小(設置した場合の夜間総合学部は一学年当り千二百人)の方針を基礎としているけれども、

一、第一学部の拡大は、これを一、二〇〇名とした場合、教員数からしても教室数からみても、少なくも三十八年度は全く不可能であることが政経学部の第二学部に関する委員会によつて指摘されている。

二、夜間綜合学部における文学科は現在の第二文学部の如く十五専修から成るものではなく、もつと簡素化されたものが予想されているのであるが、この簡素化には相当異論もあり、且つ長い準備期間が必要であるとの意見が文学部教授会から出されている。

三、もし昼一、二〇〇名の予定が完全に実現されず文学科の簡素化が十分に行われないとすると、新設の夜間学部は大学の経理を圧迫することとなり、これが学生数の増加要求となる悪循環も予想されないではない。

教務部から委員会に提出された資料によれば昼系統一、二〇〇名、夜一、二〇〇名の計画は財政的に可能といわねばならないが、これには文学科の簡素化、等の前提があり、これが実現されないとすると新夜間学部は一、二〇〇名の線を守ることができなくなろう。この結果は縮小の基本方針を無意味にする惧れがある。

と、問題点が指摘されたのであった。議論のすえ、第一次第二学部検討委員会が出した結論は、

夜間綜合学部案は、人的物的諸条件あるいは学部の特殊事情からみて、現在はまだ実施の段階に到つていないと考えられる。これの実施を阻んでいる諸条件が緩和されうる時期に再度これを検討する必要は十分に考えられるが、現在この案の実施を急いで、たとえば昭和三十八年度から各第二学部が同時に学生募集を停止することには、多大の無理がある。

というものであった。なお、七月六日に大浜総長に提出された答申書の末尾には、「第二学部改善案」と題する次の一文がつけ加えられている。

当委員会で発言された、新設夜間学部に関する要望意見には、そのまま現行の第二学部改善案として採用しうるものが多い。すなわち、入試についての工夫も、学科目編成上の工夫も、照明その他施設面での改善も、また給与面での考慮も、いずれも綜合学部の実現をまつことなく実施しうるものと考えられる。従つて本委員会としては、これら改善の方策を各学部ごとに検討することを要望すると共に、然るべき時期に改めてこの目的のための委員会設置を要望したい。

 設置から半年、第一次検討委員会は、以上のように第二学部問題に関し慎重な姿勢を示したが、大浜総長三選後の新理事会は第二学部廃止の意向を明確にし、早くも三十七年第二次の第二学部検討委員会が設置され、同年十二月五日第一回の会合を開き、委員長に常任理事・政治経済学部教授時子山常三郎を選出、正式にスタートした。この第二次検討委員会の答申書が大浜総長に手渡されたのは、第一次検討委員会の答申が提出されてからちょうど二年後の三十九年七月六日であった。第一次検討委員会に比し答申書提出までかなりの年月を要したのは、第二次検討委員会が、第二学部の問題を検討するというよりも、実質的には既存の第二学部を廃止し、新夜間学部設立の可能性を探るという、新理事会の方針を具体化する役割を担うに至ったからであろう。すなわち答申書には、第二回委員会の開催が第一回会合から十ヵ月余を経た三十八年十月一日になったことについて、「夜間総合学部案の実施を阻んでいる諸条件が緩和されうる時期の到来を待って、それの実施問題を検討するほかな」かったと記されているのである。

 さて、第二回会合で第二次検討委員会は、理工学部新校舎の第一期工事の完了による理工学部の一部移転に伴い教室に余裕の生れることが見込まれるようになったこと、学生の素質向上を図り卒業生の就職を有利にし、ひいては大学の評価を高める観点から、第一学部の学生数を増やす方が望ましいと総長が強く望んでいることを前提に、第一・第二学部の一本化の具体案や実施時期などを検討する方針を固めた。そして、三十七年に文学部の戸山町校地への移転と、三十八年に理工学部の西大久保校地への全面移転とが行われたことから、政・法・商・教育の四学部に対する本部キャンパスの教室配分に見通しが立ったことと、文学部を除く昼間学部の三十九年度学生収容数が千人を超え、第一学部拡大・第二学部縮小という両学部一本化の漸進的方式が具体化してきたことという二つの状況を踏まえ、三十九年四月十日第三回委員会を開催、時子山委員長は、右の事情のほか、新たな問題として首都圏整備に関する法令により校舎・教室の新・増築が制限されることになるため今期中に結論を出したい旨要請した。しかし、各学部の事情もあって、委員相互の意見は一致せず、結局、結論は各学部の教授会での討議に委ねることになった。

 そこで、各学部の検討を待ち、七月六日第四回委員会を開いたが、政治経済学部は、一本化の具体的措置としての第二学部の学生募集停止については、勤労学生に修学の機会を与えるための総合学部(政、法、商、文の諸学科を含む)の設置が必須条件であるとし、法学部は一本化の具体的措置として、四十年度より第一・第二学部を廃止して新法学部を発足させるが、夜間総合学部を設置すべきか否かについては、他学部との関係があるので白紙の態度で臨むとし、商学部は、三十六年十二月八日の学部長会に提出した案そのままで、四十年度から第二商学部の学生募集停止を強く要望するが、代るべき新設校は必要でないとし、文学部は、廃止される第二学部に代る新設校(必ずしも学部でなくともよい)が具体化されることを必須条件とし、教育学部は、法・商に近い案がよいとし、理工学部からは現在通りの方針で進みたい旨発言があった。

 各学部の対応は如上のように一様ではなかったが、ともかくも第二次検討委員会は、系統学部一本化の方針で第二学部を廃止するけれども、学部廃止の時期および形式については更に検討することとし、政・文両学部が強く主張した、廃止に代る新設学部ないし新設校の内容については、改めて検討委員会を設けて審議するとの条件つき答申を行ったのである。この答申に沿い、同年九月十五日の評議員会は第一・第二学部の統合方針(実際には第二学部廃止)とその具体案、および第二学部に代る新たな「勤労学徒を対象とする教育機構」の四十一年度開設を決めた。左にその決議の主要箇所を掲げる。

夜間授業を建前とする第二学部が制度上昼間通学することのできないいわゆる勤労学徒を対象として構想されたものであることはいうまでもない。しかるに第二学部の実状についてみると、勤労学徒はきわめて少数であって、大部分は昼間通学にさしつかえのない立場の学生である。ところで昼間授業の学校と夜間授業の学校とは、その理由はともかく、伝統的に社会的評価の上に格段の差があり、このことは、第一学部と第二学部との入学志願者の数の上にも如実に反映しているが、卒業生の就職に際しても差別的の取扱いがなされることが多い。そこで従来第二学部の学生から、学部の名称上の区別の撤去または昼夜両学部の単一学部化等の要求が繰返されて来た。しかし夜間授業を建前とする機構を存続しながら、昼間授業を建前とする機構と併せて単一の学部として編成することは学校教育法の適用上許されないことであり、また昼夜両学部が併存する以上、名称上の区別を撤去することも不可能である。この問題は、結局勤労学徒を対象とする機構については別途に考慮することとし、現行の形態による第二学部を第一学部に統合する以外に解決の方策は見出せない。しかし第二学部の廃止によって学生の収容定員を激減することは、年を逐うて大学進学者が増加する社会的傾向に逆行するばかりでなく、大学の財政的基礎に及ぼす影響も大きく、したがって第二学部を第一学部に統合するには第一学部の学生定員の増加を前提条件としなければならない。そこでこの問題は、施設の拡充と相俟って解決する方針の下にこれを持ち越して来た。

その後文学部新校舎が完成したほか、理工学部新校舎の建設と新校舎への全面的移転および大教室の建設計画等により大学全体として施設面に大幅にゆとりが見込まれるようになったので、まず理工学部については昭和三十六年度から第二学部の学生募集を停止して学部統合に踏み切ったが、施設の建設計画も全面的に進捗をみるにいたったので、他の学部についても統合を断行する方針の下に左記の措置を講ずることにする。

一、学部の統合は、第一学部については名称を変更する(第一の二字削除)ほか学生収容定員を増加し、第二学部についてはまず第一学年の学生募集を停止し、すでに入学を許可した学生が卒業したときに学部廃止の手続をする方法による。ただし第二学部廃止の手続が完了するまでは両学部が併存することになるので、第一学部の名称変更の手続は、第二学部廃止の手続のときに併せ行なうことにする。

二、統合後の各学部の〔一学年当り〕学生入学定員は、大学設置基準との関連を考慮して定めることとし、大体の目標は次のとおりとする(括弧内は現行定員)。

政治経済学部 八五〇名(七〇〇名) 法学部 八五〇名(六〇〇名) 商学部 一、〇〇〇名(六〇〇名) 文学部 八〇〇名(五〇〇名)

三、第二学部の学生募集の停止は、法学部および商学部については昭和四十年度から実施し、政治経済学部および文学部については昭和四十一年度から実施する予定である。

四、統合学部の授業は、昼間において行なうことを建前とするが、教員の時間繰りの都合または教室の都合により例外的に夜間(大体八時頃まで)に及ぶことも妨げないものとする。

五、勤労学徒を対象とする教育機構については、昭和四十一年度からの開設を目標に、特別の委員会を設けてその具体策を検討することとし、この委員会は昭和三十九年九月中に発足するものとする。

 右の決議には、第二学部設置を取り巻く状況の変容、新たな対応への摸索、法的規制との関連、学校運営上の諸問題、教育研究条件改善の態様、第二学部廃止のプログラム、勤労学生のための新しい学部または学校の設置等々に関する本学苑の苦悩が滲み出ている。戦後の大きな転換期が我が学苑に訪れたのである。いずれにしても、三十六年度からの理工学部の第二学部学生募集停止に続き、四十年度から第二法学部と第二商学部が学生募集を停止した。そして従来の第二学部に代る「勤労学徒を対象とする教育機構」を四十一年度から開設することも同時に決定され、政・文両学部の要望は一応満たされたのであったが、四十一年春より実施予定の第二政治経済学部と第二文学部の学生募集停止については、実施の運びとなったのは第二政治経済学部のみで、その後第二文学部は存続へと方針が変更された。第二政治経済学部廃止に関し、第二政治経済学部教授会は次のような告示を出している。

大学は長年にわたる慎重な検討の結果、第一、第二学部の系統別統合方針を決定した。この方針にしたがい第二法、商両学部はすでに、諸君周知のとおり第一年度の学生募集を停止している。本教授会は、かねてより第二学部にかわる勤労学生のための夜間新学部の設置を切望していたが、ようやく社会科学部として明年度より発足する予定となつたので、これを機会に、昭和四十一年度より新入生募集を停止することに決定した。

新制大学の開設にあたり、第二学部を設けた理由は、昼間通学を困難とする勤労学生に対し勉学の機会をあたえようとしたものであつた。このような抱負は、わが第二政治経済学部においても、発足の当初、強くつらぬかれていたのである。しかしながら、その後入学する学生にいちじるしい変化が生じ、特に最近では勤労学生の数は激減し、昼間の通学に差支えない学生が多数を占めるようになり、第一学部への転部を熱望する学生諸君の数が極めて多い現状である。われわれは第二学部本来の趣旨にそい、勤労学生およびわが学部で勉学の初志をつらぬこうとする諸君の多いことを願つている。しかしながら年々わが学園をめざして集る夥しい志願者を迎え、これらの中よりこのような学生のみを優先してえらぶことは、大学が社会に対してもつ公共性とその責任にかんがみ、とうてい許されることではない。

ところで明年度発足を予定されている社会科学部は、系統上はそれに対応する昼間学部がないことにより、実際上勤労学生に門をひらくことになるとともに、終始わが第二政治経済学部にあつて勉学することを希望したような諸君に対しては、社会科学部が現在わが学部に設けられている主要科目の大要を網羅しているので、その要望にこたえうるはずである。昼間通学が可能な学生に対しては、大学は、現在の第一学部の学生定員を増加することによつて、門をさらにひらく方針である。われわれはこの二つの門戸開放こそ、累年にわたる第二学部の問題を解決する最も妥当な方策と考える。

 第二文学部の存続問題については、学部の機構改革との関連で、第五節で述べることにする。

四 社会科学部の開設

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 前節に記したように、三十九年九月十五日開催の評議員会で、現行の第二学部を全面的に廃止するが、その代りに新たな夜間の教育機構を設置するという方針が確認され、同時に、四十一年度からの開設を目標に、特別の委員会を三十九年九月中に発足させて具体策を早急に検討することが決議された。これを承けて全学的な夜間新教育機構検討委員会が、全学部長および学部選出委員ならびに三理事により構成された。同委員会は、新教育機構の性格、名称、学部とすればその学士号、ならびに学科目の編成などに関し、全体会議七回、小委員会三回の会議を重ねた。

 最も留意された点は、新たな学部または学校の教育上の特色をどのように打ち出すかという問題と並んで、財政負担軽減のため新しい学部または学校には専任教員を置かず、昼間学部の教員が兼任するということであった。そもそも今回の課題は夜間学部全廃であったが、引続き勤労学生に高等教育の門戸を開くべきであるとの意見が根強かったので、新設する夜間の教育機構は四年制の学部が望ましいとされた。そして、入学希望者の卒業後の進路は中小企業のサラリーマンが多いと予測されたので、経済学や法学や商学に重点を置く学部が構想され、この段階で文学系統の包摂は断念された。更に名称をめぐって議論が百出し、「社会科学部」という当時としては斬新な名称が採択されたのであるが、後掲する配当予定科目を一瞥しても分るように、これは学際的な学問新分野を開拓しようとの野心から生れ出た名称では全くない。しかし、学問研究の細分化が進む中で、総合化の試みではあったのである。こうした審議を経た結果、委員会は左の「新設夜間学部設置要綱」を作成し、四十年二月二十四日、総長に答申した。

新設夜間学部設置要綱

一、学部の設置

新たに設置すべき夜間教育機構は、現行の第二学部の廃止に伴い、それにかわるべきものとして構想すべきこと、および第二学部を全面的に廃止する方針を決定するにあたっては、勤労学徒を対象とする学部を別途に考慮すべきことが前提条件とされて来た経緯に照し、新設機構は学部の性格を備えたものであることが必要であって、短期大学または各種学校とすることは適当でない。そして改めて学部を設置するのは、ひとえに勤労学徒に対する配慮に基くものであるから、新教育機構は最小限度の必要にとどめるべきであり、従って単一の学部とすべきである。

二、学部の性格、名称、学士号

新設学部は、その名称を社会科学部と称し、学科目の編成はこの線に沿って考慮し、学士号は社会科学士とする。

新設学部の構想にあたっては、学部の名称についても、また学士号についても既存の学部との重複はさけなければならない。なお新設学部は、それが勤労学徒を対象として構想すべきものであること、さらに入学志願者の動向、卒業生の進路等に照し、その内容は経済、商学の分野に重点をおいた学部であることが望ましい。委員会はこれらの事情を念頭において論議を進め、審議の過程において経営学部、法経学部、産業社会学部、社会科学部、社会学部応用経済学科等の諸案を取上げ検討の結果、社会学部応用経済学科とする方針の下に一応学科目編成案をまとめたが、学部名と学士号の関連において難点があるとの理由で、これを社会科学部とすることに改め、学科目の編成案についても、この線に沿い、文部省の大学関係法令集に例示されている社会科学科案を参考として修正を施し、究極において、多数意見により、前掲の通り学部名は社会科学部、学士号は社会科学士とする案を採択した。

もっともこれに対しては、法学部関係の委員から、同学部教授会の意見を反映して、学部の名称にせよ、学士号にせよ、社会科学という外延の広汎な表現を用いることは、実が名に伴わない憾みがあるばかりでなく、誤解を招く危険が大きいとの観点から、強力な反対意見が提唱されたので、特にこのことを附記しておく。

三、学科目の編成

学科目の編成は別紙の通りとする。

外国語は、英、独、仏のうち一ヵ国語を必修とし、第二外国語は随意科目とする。これは、大学設置基準によれば第二外国語を履修させることは必ずしも必要でないこと、勤労学徒の場合には予習復習の時間が乏しいことのほかに、従来の経験に照し、第二外国語を強制して精力を分散させるよりむしろ一ヵ国語に集中する方が教育効果の観点から望ましいとの見解に基くものである。

この多数意見に対して法学部関係の委員から、強力な反対意見が開陳された。学部である以上は一般の例に従って二ヵ国語を履修させるべきであり、これを一ヵ国語に限定することは教育水準の低下を意味し、夜間学部だからといってこれを肯定すべき理由はない。外国語の学習は一ヵ国語に集中したからといって必ずしもそれだけの教育効果が期待できるとは限らない。外国語学習の機会は学生時代でなければえがたいものであるから、学生の将来のためには第二外国語をも履修せしむべきである。これが反対論の骨子であった。

なお折衷説として、履修すべき外国語一二単位につき、これを一ヵ国語に集中するか、二分して例えば、八単位を第一外国語、四単位を第二外国語として履修するか、学生の選択に委ねることも一考の余地があろうとの意見もあった。

具体的なカリキュラムは、右の「三、学科目の編成」の項にある別紙に示されている。これによれば、専門科目は政治学、経済学、法学、商学の四分野から必修・選択科目合せて二十科目八十単位履修とされているが、その内訳は左の通りである。

必修科目(一科目四単位)……八科目三二単位

社会学原論、財政学、経済政策、憲法、民法(総論)、社会法概論、会計学、外国書研究(英・独・仏)

選択科目(一科目四単位)……一二科目四八単位

経済学史、経済史(日本・西洋)、金融経済論、世界経済論、社会政策、統計学、政治史(日本・西洋)、政治学史、行政学、国際関係論、商業経済、貿易英語、貿易論、産業構造論、証券論、労働問題、賃金論、行政法、労働法、中小企業論、経営学、簿記、原価計算、財務諸表論、会計監査論、租税法、民法(財産法)、民法(身分法)、商法、刑法、交通経済、保険経済、産業心理学、社会調査、経済地理、演習

 以上の「新設夜間学部設置要綱」は、同年三月十三日開催の臨時学部長会に提出され、

一、委員長答申中の「一、学部の設置」の最後に次のただし書を加える。

「ただし、現行の第二学部を廃止した後、文学部系統の夜間教育機構を別個に設置するかどうかはあらためて審議する。」

二、「二、学部の性格、名称、学士号」の項中、「その内容は経済、商学の分野に」とあるのを「その内容は経済、商学、法学の分野に」に改める。

三、外国語科目の編成については、折衷説を採ることに決定。

と、文言の追加、修正および方針の決定が行われて、同要綱は承認された。また学科配当表については、後日設けられる設置委員会(委員は理事会が決定)においてなお検討を加えることとし、更に次の「新設夜間学部設置要綱追加」案が了承され、その具体化を図ることになった。

新設夜間学部設置要綱追加

一、学部の規模

学生の入学定員は、一学年当り五〇〇名とする。

勤労学徒を対象とするという観点からいえば、学部の規模も最小限度にとどめるべきであるが、独立の学部として財政的に自立をはかる必要があるので、入学定員は五〇〇名とする。なお、入学志願者の状況により、学力の水準をあまり低下させない範囲内において事実上七〇〇―八〇〇名程度までは入学を許可する方針をもつて臨むべきである。

二、教員の陣容

大学設置基準の適用によれば、入学定員を五〇〇名とした場合には、一般教育科目については二一名、専門科目については二三名の専任教員を必要とするが、実質的には専任教員は二〇名前後にとどめ、……財政上の負担軽減をはかるべきである。

教員の給与は、専任教員および非常勤講師の場合は、一般の基準によるべきであるが、兼担の場合には、通算して義務時間を超える部分に対してはできるだけ非常勤講師に準じて取扱う方針をもつて進む。但し第二学部が存続する過渡期の間は、それとの均衡をはかる必要がある。

三、修業年限

修業年限は四年とする。但し、夜間学部の性質上、授業時間の幅がせまいという特殊事情を考慮し、休暇の短縮、夏期講座の開設等の工夫によりこの欠陥を補い、教育水準の低下を防ぐ措置を講ずる。

四、学費

学費は従来第二学部については第一学部との間に差等を設けなかつたが、新設学部は勤労学徒を対象としていることと社会一般の例を参照し、昼間学部よりは低額とすべきである。ところで現行の学費は再検討の必要があるので、新設学部の学費もそれとにらみあわせ後日決定することにする。

五、助手、副手

助手、副手制度をどの程度に新設学部にも適用するかについては、後日改めて検討する。

六、研究室、読書室

専任教員の研究室および学生読書室に関しては、理事会において立案する。

 第二学部廃止に代るこの対応は、明確に勤労学生を対象にし、また「入学志願者の動向、卒業生の進路等」を考慮して「経済、商学、法学の分野に重点をおいた学部」の設置を図ったこと、そして、学習条件に恵まれない勤労学生のために学費を昼間学部よりは低額とする方針を採ったこと(従来は「要綱追加」にあるように第一学部と第二学部との間に差を設けていなかった)などの点を考えるならば、第二学部開設当時とは違った意味で、大きな意義を持つものであったと言えよう。臨時学部長会が以上の「要綱」および「要綱追加」を了承した翌月、早速、社会科学部設置委員会が設けられて具体的実施案の作成に着手したのである。

 四十年四月発足の社会科学部設置委員会は、第二政治経済学部長佐藤立夫、第二商学部長芳野武雄、第二法学部長有倉遼吉、第一文学部教務主任清原健司、教育学部教務主任大杉徴、理工学部教務主任田中正男、ならびに教務担当常任理事時子山常三郎、教務部長古川晴風を構成メンバーとし、発足後間もない四月二十八日、第一回の会合を開いて委員長に芳野を選び、以後学科目の年次配列、履修方法、クラス編成、専任教員の配分などに関し慎重な審議を重ねて「社会科学部設置要綱」をまとめ、次いで七月九日の学部長会議で承認され、更に同月十五日の評議員会で最終決定を見た。要綱には社会科学部設置の経緯および目的が左の如く記載されている。

社会科学部は第二政治経済学部、第二法学部および第二商学部に代わるべき単一の学部として構想され、したがつて社会科学を専門分野とする大枠が決められた。しかし社会科学を専門分野とするにしても、既存の特定の専門分野に偏することは、三学部廃止の方針に合わない。就中、新しい学部の性格は、勤労学徒の要望ないしは社会的需要の度合、あるいは卒業生の進路等を斟酌して決定するを要する。ところで従来の実績から見ると、政・法・商学部卒業生の就職先は、ひろく社会各界に亘つていて、卒業学部の如何に関わらない。したがつて何れの方面に向うにも社会科学に関する基礎知識を修得させることが必要となつているばかりでなく特に夜間学部の卒業生にあつては、多く大企業よりも中小企業に迎えられていて、とりわけ、経済成長と社会開発につれて、細分化された専門的知識よりも、広く社会科学に関する基礎的な知識能力を望まれる傾向にある。このような観点から新しい学部は政・経・法・商等の何れかの分野に限るより、社会科学に関する基礎科目を配当し、学生をしてこれらに関する知識を綜合的に修得させることが必要である。以上の事情と趣旨に照らし、特に勤労学徒を対象とする社会科学部は、社会科学系専門分野に関する綜合的知識を修得させるとともに、これらに関する能力を啓発し、もつて社会各界に貢献し得る有能な人材を育成することを目的としてこれを設定する。

こうして社会科学部新設の準備は整い、九月二十九日付で設置認可申請書が文部大臣に提出された。

 文部省の書類審査は同年十月十四日に、また実地審査は十一月六日に行われ、十二月には大学設置審議会の審議に付された。ところが、申請書中の専任教員の人数が少すぎると指摘され、急遽これを増員して書類を再提出した。昼間学部の教員に社会科学部の授業を兼担させて人件費を軽減しようとの目論見は、この段階に至って潰えたのである。こうして配当科目、担当教員等につき若干の修正が施されたあと、翌四十一年一月に新学部設置が認可された。なお、この間、社会科学部設置委員会は四十年十一月九日の第十二回委員会を以てその任務を終え、入試業務等については、これに先立って五日に学部長会で設置が承認された、社会科学部教授会が発足するまでの期間当該教授会に代ってその機能を果す社会科学部開設委員会に委ねることになった。同委員会の委員に任命されたのは、前記社会科学部設置委員会の構成員八名のほか、社会科学部専任教員予定者から選出された十名の合計十八名で、第一回の委員会を十一月二十九日に開催し、第二商学部長芳野武雄を委員長に選出した。この前後は「学費・学館紛争」が最も高揚激化した時期で、同委員会の運営も苦難を強いられたが、四十一年三月の入試業務も無事終了したのであった。

 こうして夜間の社会科学部が発足したのであるが、第二学部廃止の契機となった就職時の差別問題や、「勤労学徒を対象とする」と謳いながらも実際には昼間に定職を持たない学生が大量に在籍するという問題は、今日においてもなお解決されていない。第一・第二の区別を名称に持たない社会科学部が独自の教育理念を掲げ、また、入学者は僅かではあっても勤労学生や社会人に門戸を開き続けていることが、昭和三十年頃の第二学部学生が抱いたほどの社会的差別を社会科学部の学生に痛切に感じさせず、夜間学部の「問題化」を防止しているのであろう。

 新学部の授業開始、およびそれ以後のことについては、別巻Ⅱ第一編第七章、ならびに、学部創立二十五周年を記念して平成四年に刊行された木村時夫編『早稲田大学社会科学部小史』の記述に譲り、全学年が揃った四十四年度の学科配当表を左に掲載しよう。

第二十六表 社会科学部学科配当表(昭和四十四年度)

一般教育科目(各系統より三科目選択必修)

外国語科目(一ヵ国語選択必修)

第一学年

英語Ⅰ(講読)(毎週二時間十四組) 本戸啓嗣、佐藤和夫、長谷川洋三、藤井基精、金勝久、神戸利喜夫、松本達郎

英語Ⅱ(講読)(毎週二時間十四組) 田中康裕、森島恒雄、鳥海久義、中山末喜、井内雄四郎、弘法春見、栗山昭一、中林瑞松

英語Ⅲ(作文)(毎週二時間十四組) 原田謙一、前田豊、山田英教、石井保武、伊賀上謙、藤井基精、園部明彦

独語Ⅰ(講読)(毎週二時間二組) 速川治郎

独語Ⅱ(文法)(毎週二時間二組) 大畑末吉

独語Ⅲ(文法)(毎週二時間二組) 堀越知巳

仏語Ⅰ(講読)(毎週二時間二組) 近田武

仏語Ⅱ(文法)(毎週二時間二組) 長谷川隆久

仏語Ⅲ(文法)(毎週二時間二組) 森乾

英語Ⅰ(講読)(毎週二時間四組)(再履修) 井内雄四郎、中林瑞松

英語Ⅱ(講読)(毎週二時間四組)(再履修) 小林堅太郎、原田謙一

英語Ⅲ(作文)(毎週二時間四組)(再履修) 松原正、中山末喜

第二学年

英語Ⅰ(講読)(毎週二時間十四組) 石井保武、市山研、丹薫、春木一、峯田英作、森島恒雄、上野田守

英語Ⅱ(講読)(毎週二時間十四組) 出口保夫、長谷川洋三、佐藤和夫、本戸啓嗣、弘法春見、井内雄四郎、中山末喜、栗山昭一

英語Ⅲ(作文)(毎週二時間十四組) 神戸利喜夫、丹薫、珍田弥一郎、三上源四郎、本戸啓嗣、山田修、中林瑞松

独語Ⅰ(講読)(毎週二時間二組) 大槻真一郎

独語Ⅱ(講読)(毎週二時間二組) 大畑末吉

独語Ⅲ(講読)(毎週二時間二組) 根岸喜久雄

仏語Ⅰ(講読)(毎週二時間二組) 坂丈緒

仏語Ⅱ(講読)(毎週二時間二組) 白川宣力

仏語Ⅲ(講読)(毎週二時間二組) 森乾

第三学年

英語(講読)(毎週二時間十四組) 松本達郎、園部明彦、原田謙一、長谷川洋三、小林堅太郎、上野田守、山田英教

独語(講読)(毎週二時間二組) 堀越知巳

仏語(講読)(毎週二時間二組) 坂丈緒

第二外国語(四十一年度入学者の中で第一外国語に英語を履修した者のうち、第二外国語選択者は一ヵ国語を選択し、一年度二単位、二年度二単位を必修)

第一学年

第二独語(毎週二時間一組)(再履修) 速川治郎

第二仏語(毎週二時間一組)(再履修) 白川宣力

第二学年

第二独語(毎週二時間一組)(再履修) 大槻真一郎

第二仏語(毎週二時間一組)(再履修) 森乾

随意科目

第一学年

英会話(毎週二時間二組) A・W・ピーターソン

英語(毎週二時間一組) 栗山昭一

独語(毎週二時間一組) 大槻真一郎

仏語(毎週二時間一組) 森乾

第二学年

英語(毎週二時間一組) 佐藤和夫

独語(毎週二時間一組) 速川治郎

仏語(毎週二時間一組) 白川宣力

第三学年

スペイン語(毎週二時間一組) 野間一正

第四学年

スペイン語(毎週二時間一組) 野間一正

専門教育科目(外国書研究は、英書研究、独書研究、仏書研究のうち一科目を選択必修)

五 第二文学部の存続と第一文学部の改組

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 二六三―二六五頁に記した如く、第二次第二学部検討委員会は第二学部の全面的廃止を決め、三十九年九月に開かれた評議員会はこれを了承したから、この時点で、第二文学部も昭和四十一年度より学生募集停止と決定されたのであった。ところが、第二文学部廃止の条件として文学部教授会が第二次第二学部検討委員会に要望した、夜間新教育機構に文学系統を包摂するという案が、やがて社会科学部に結実して文学系統が欠落するや、文学部は第二文学部存続論を猛然と展開した。その論拠となったのは、第二文学部には勤労学生が比較的多い上、卒業後は教職関係、ジャーナリズム方面に進む者が多いので、他の第二学部卒業生ほど差別待遇がひどくないという事実であった。例えば三十九年三月の第二学部卒業生の就職状況について見ると、二文では就職決定者の半数近い四五パーセントがマス・コミ、学校関係で、これらの分野が一〇パーセントにも満たない他の第二学部に比べると、この方面に進む者の比率が遥かに高かったのである(『定時商議員会学事報告書』昭和三十九年二一頁)。二七一頁に記したように、夜間新教育機構検討委員会作成の「新設夜間学部設置要綱」を検討した四十年三月の臨時学部長会は、文学部の強硬な存続論に配慮して、「夜間教育機構を別個に設置するかどうかはあらためて審議する」と、問題を先送りした。

 この二文問題は五月七日の学部長会で取り上げられた。大浜総長は席上、文学部には現在の第二文学部の機構を何らかの形で残したい意向があるけれども、昨年第二文学部廃止の方針が評議員会の議を経て社会一般に発表されたから、実質的な二文継続はすっきりしない面があるので、文学部の主張する二文継続理由を検討し、学部長会に何らかの方針を決定してもらいたい旨の趣旨説明を行い、二文存廃問題を議題としてあらためて提出したのである。総長の意向は、その発言からも明らかなように二文廃止であったが、この日の学部長会では結論が出なかった。

 その後理事会と文学部とが折衝を重ねた結果、理事会が折れて二文存続への方向が決定した。六月八日文学部は臨時教授会を開き、二年前より各専修一名の代表者で構成されていた第二文学部検討委員会が答申した、カリキュラム変更を中心とする大幅な改組案を満場一致で可決し、時を同じくして第二文学部教務主任押村襄は、「本部では最初二文を廃止して、新設される社会科学部に吸収する意向だったが、折衝を重ねるうち二文は『勤労学生が多い』『就職に特に差別されない』〔という〕主張が受け入れられた」(『早稲田大学新聞』昭和四十年六月十七日号)、「この答申により第二文学部の名称は変更されるかも知れないが、ともかく夜間部は存続することになる」(『早稲田キャンパス』昭和四十年六月十五日号)との言を公にしたのである。七月九日開催の学部長会に提出された「第二文学部の存続方針とその趣旨」には、次の如く記されている。

一、現行の第二学部は全面的にこれを廃止し、勤労学徒を対象としてこれにかわるべき単一の学部を新たに開設する方針の下に立案を進めて来たが、第二文学部については、下記の理由により、学科の編成を改革し、その内容を簡素化した上で当分の間その存続を認め、昭和四十一年度以降も学生の募集を継続する。……

二、第二文学部を廃止せず、その存続を認めるのは次の理由によるものである。

(一)第二学部廃止後これにかわるべきものとして構想されている社会科学部は、その内容において政治、経済、法学、商学等の社会科学を主軸としたものであり、文学部系の志願者を収容するには不向きである。

(二)第二学部は、本来勤労学徒の学習の場として構想されたものであるにかかわらず、実際には勤労学徒はきわめて少なく、結局は第一学部に入学困難な学生の救済の場と化し、学生の資質の向上をはかる上に障害になつており、このことが第二学部廃止の理由の一つとされているが、第二文学部の場合にはすでに教職にある者など勤労学徒の志願者が多く、この点において他系統の学部とは趣を異にしている。

(三)卒業生の就職に際し、社会的に第一学部との間に差別的取扱いがなされていることも第二学部廃止の理由の一つにあげられているが、第二文学部の卒業生は、教職、マスコミ方面に向うものが多く、この方面においては実力本位主義がひろく行われており、第二学部の出身者だという理由で差別的の取扱いがなされることがすくなく、この点においても、他系統の学部とは事情がちがう。

(四)本大学と競争関係にある大学について学生数を比較すると、昼間学部に関する限り、本大学の方が劣勢にある。ところで、毎年社会に送り出す卒業生の数は、その質とともに各大学の社会的勢力の消長と重大な関係があるが、この面においても第二学部に多くを期待することはできないので、第二学部はこれを廃止し、その分だけ第一学部の学生数を増加する方針をたてたが、この関連においても文学部は他系統の学部とは趣を異にし、同一に論ずることのできない面がある。

(五)第二学部廃止の方針は、大学の財政的基盤確保の観点から、その分だけ第一学部の学生数を増加することを前提条件としているが、文学部はその性格上無理に学生数を増加したのでは入学者の質ならびに教育効果の低下を招来する危険があり、他面卒業生の就職難をさらに悪化させる怖れもあるので、第二文学部を存続した上で、第一文学部の規模の拡大はこれをさけることがむしろ得策である。

 第二文学部の存続については、四十一年度以降四年間の実績に照らして入学志願者数、就学継続率、卒業生の就職状況などを検討した上で、引続き存続させるか否かを最終的に決定すること、ただし情勢の変化により継続が適当でないと認めるべき事態が発生した時は、四年の経過前といえども廃止の措置を講ずることを妨げないことが、当日の学部長会で同時に了解されたが、ともかくも第二文学部は存続が決まり、四年経過後も継続されて今日に至っているのである。右の「第二文学部の存続とその趣旨」には、安易に昼間学部生を増やすこと、および、他大学との競争を意識し、質を問題として第二学部廃止の方針を採用したことへの、文学部の理事会批判があることを読み取れないでもないが、先ずは文学部の熱意が理事会を説得・譲歩させたと言うべきであろうか。

 しかし第二文学部の存続は、単なる存続ではなかった。すなわち、従来の第二文学部組織は第一文学部とほぼ同一であったが、勤労学生教育の本来のあり方から考えて必ずしも妥当とは認め難いとの反省に立って、夜間における学修の効果を上げるのにふさわしい組織に改められることになったのである。同時に第一文学部においても、学問研究がますます細分化の傾向を強めた結果、相互に連絡を欠き、広い視野に立つ研究が弱化する傾向にあるため、学問分化の傾向を認めるとともに総合的研究のための場を開く必要があるとして、組織改革に着手した。

 第一文学部改組の趣旨と大綱は九月十日の学部長会に、また第二文学部のそれはこれより先の七月九日の同会に、それぞれ提出、了承された。左に第一文学部改組の趣旨を示しておく。

(一)新組織では現行の三学科一五専修制を改めて、二類一八専攻課程制とする。新専攻課程制は現行の専修制に比較して固定したものではない。これは、一方では広い学修を基礎として専門研究を一層充実させるとともに、他方では必ずしも専門にとらわれることなく、広い範囲の学修をしうるように配慮したためである。

(二)最近、学生の卒業後の状況をみると、戦前の場合とは著しく異なっていることがわかる。大多数のものは社会のあらゆる方面に進出しているが、大学院に進むものの数も決して少くはない。これは戦前きわめて狭い範囲でしか活動しなかったことを思うと大きな相違といわなければならない。このたびの改組はこのことも念頭において行なわれたものである。

(三)このたびの改組では一般教育の充実をはかっている。新制大学においては発足当時から一般教育重視が一つの目的とされたにもかかわらず、所期の目的が達せられたとはいい難い。本来文学部は人間研究の場であるから、その専門教育は高度の教養教育の背景においてのみ充実されうるものである。そこで、過去二〇年間の経験にてらし一般教育を充実し、その運用について一段と考慮を払うことにした。

(四)文学部教育には、国語・漢文、外国語などの基礎的諸科目をとくに重視しなければならない事情がある。そのためこれらの諸科目の充実を期し、その教育効果について充分検討してゆく方針である。

 第二文学部改組の趣旨も四項より成っているが、第一・二項だけが異っている。それを次に掲げる。

(一)新組織では、現行の一三専修制を改めて、二類七専攻課程制とする。これは勤労学徒の諸条件を考慮に入れて、新たな構想のもとに、現行の専修を整理統合し、充実させたものである。

(二)改組にあたっては、従来と異なった型の学生の育成を期しているが、それとともに、比較的実用的な学科を履修しうるようにした。

類別入学試験、教養課程重視、一文の専攻増(人文・文芸)と二文のユニークな専攻設定などがその骨子であるが、詳細は別巻Ⅰ第一編第三章ならびに文学部創立百周年を記念して平成四年に刊行された『早稲田大学文学部百年史』に譲り、四十一年四月より始動することになった改組の大綱を示そう。

一、従来の三学科一五専修制(一文)および一三専修制(二文)を改め、別表のとおりとする。

二、入学試験は類別に選考する。

三、第一・二年度を一般教育の課程とし、第三・四年度を専門課程とする。

一般教育課程においては、Ⅰ類またはⅡ類のいずれかに属し、所定の単位を取得したうえで専門課程に進み各類ごとに設けられている専攻課程のいずれかに属する。

(別表)

第一文学部 類別・専攻課程別)

第二文学部 類別・専攻課程別)

(『定時商議員会学事報告書』昭和四十一年 三九―四〇頁)

ここで第二文学部の従来の組織が「一三専修制」とされているが、学則上は八専修であった。ただし、実際には哲学専修は東洋哲学、西洋哲学に、外国文学専修は英文学、仏文学、独文学、露文学に、芸術学専修は演劇、美術に、史学専修は日本史、東洋史、西洋史にそれぞれ分かれていたため、十三専修制と看做されていたのである。また学則では、この改組の後も「専攻」という名称は使われておらず、従来通り「専修」のままであった。因に、学則通り「専修」という名称に統一されたのは五十九年度以降のことである。

 なお、二文存続、カリキュラム改編などに関する二文自治会の公開質問状に対し、第二文学部は、「一、四年後への最終決定見送りは『完全廃止への第一歩』ではない。二文の入学志望者が著しく減少しない限り廃止は考えられない。二、『従来と異なった型の学生』とは、総合的研究ができるような広い視野に立つ学生を意味する。三、仏文、露文、独文の三専修廃止は、これらの研究が勤労学生にとって過重と見られる(勤労学生の時間的制約は第二外国語の文学を専攻するのを非常に困難にしているという意)。四、二類七専攻制としたのは、最近の学界の総合研究に応えるだけでなく、広い視野に立つ教員の養成をめざしている。五、このたびの改組は、文学部独自の見解にもとづいて行なわれた」(『早稲田大学新聞』昭和四十年十月七日号)と答えていることを付記しておこう。