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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第十八章 「学費・学館紛争」(下)

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一 厳戒態勢下の入学試験

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 昭和四十一年二月五日、すなわち大浜総長の説明会が行われた翌日、これまで学生達の行動に大きな牽引力を発揮してきた全学共闘会議が分裂した。これは、共闘会議で勢力を有する「反日共系」が十日から本部を封鎖して、近づいてきた入学試験願書の受付などすべての事務を阻止し、大学に多大の打撃を与えようと主張したのに対して、「日共系」(民青系)が本部封鎖に強く反対して、私学に対する公費助成を獲得するための国会請願路線を主張したためである。本部封鎖派が、ここで国会請願デモに切り換えることは大学当局の路線に暗に追従するものであり、これまでの団結を自ら破壊するものであると主張すれば、国会デモ派は、入試事務を阻止することは社会の批判を浴び結局敗北に至ると主張して、遂に各派が自派の宣伝と主導権争いを引き起し、小ぜり合いを起した。ここに至って、指導的役割を果してきた活動家が急速にセクト化を強めることになり、「一般学生」はこれ以後彼らに必ずしも同調しなくなり、不信感を抱くようになっていった。

 八日、共闘会議派代表と大学側とで第一回の会談が行われ、更に十日に第二回の会談が持たれた。しかし、三十分で決裂し、共闘会議派の学生約三百人が本部に突入して各入口にバリケードを築き、不法占拠を敢行した。いわゆる「本部封鎖」である。他方、民青系の学生は本部封鎖に反対して「大学の自治」と題する講演と映画の会を大隈講堂で開催し、独自の路線を採っていった。十一日朝、昨夜来の本部封鎖により、本部の職員約百人が大隈会館書院に集合して理事と各部課長の指示を受けた。また、十時過ぎに人事、庶務両部長が封鎖解除の説得を学生達に行ったが、拒否されたため、大学は、本部が平常にもどるまで学生のアルバイト、下宿の斡旋、奨学金の交付、留学生の渡航証明書事務など、本部事務の一切を停止するのやむなきに至ったことを学内に掲示した。新聞、テレビなどの報道で本部封鎖を知って駆けつけた一般学生の間では、この光景に、「あまりにもヒステリックなやり方だ」として非難する者が少くなかった。この日には、これまで母校の成行きに心を痛め個別に動いてきた国会稲門会が、午後二時から赤坂プリンスホテルで緊急会議を開いて、会としてまとまって調停に乗り出すことにした。参集したのは超党派の五十余人で、これだけ多数の稲門議員が調停目的のために一堂に会したのは初めてのことであった。また、同じ日に稲門体育会も共闘会議に本部より退去するよう勧告し、翌日には本部占拠を排除しようとする運動部学生約二百五十人と共闘会議の学生が大乱闘する事態となった。そして一時バリケードが撤去されたが、共闘会議はすぐさま再構築してしまった。こうした中で、十四日、国会稲門会は大学側と共闘会議派の代表を招いて具体的な調停を行った。会は、双方から白紙委任を取りつけようとしたが、双方とも回答を保留した。そして、共闘会議派内では調停をめぐって社青同系と革マル系が対立して、セクト間の争いは運動を一層の混迷に導いていった。

 十五日、大浜総長は、午前十一時大隈講堂に全教職員の出席を求めて所信を明らかにした。この中で、本部占拠の学生に言及して、「このさい学生運動の実体を身をもって感じとってもらいたい。かれらの運動は大学を人民管理にまで持って行こうとするもので大学の総力をあげて対処しなければならない」と述べ、しかしながら、その排除のための「力の行使は最後の手段であって、一般学生に対する影響、世論の批判も考えねばならず、今日まで自重してきた」と、なおも慎重な姿勢を示した。そして、前日の国会稲門会からの白紙委任での調停案について、「校友国会議員の母校愛には敬意を表するが、ここで調停案を受け入れることは私が総長のイスを去ったあとまで禍根を残すことになるだろう。必要なときはこちらからお願いするからしばらく静観してほしいと、今朝まとめ役の方に伝えた」と経過を説明し、留保していることを明らかにした。最後に、二十四日からの学部入学試験では妨害も充分考えられるので協力してほしいと要請し、今回の紛争を通じて学内の結束が強められ、「禍を転じて福とすることを望みたい」と結んだ(『早稲田学報』昭和四十一年三月発行 第七五九号 四四―四六頁)。このあと、事態を憂慮した比較的若手の教職員から、総長・理事者の一層の努力を懇望するとの発言があり、最後に割れんばかりの拍手を浴びて総長以下理事達は十二時に退場して散会した。この激励の拍手により、大学当局は、これまでの当局の対応について教職員の信任を受けた形となり、今後の姿勢についても学内には大きな反対はないものと感じたわけである。この日午後二時より評議員会が東京会館で開かれ、学費値上げを既定方針通り進めることを確認し、国会稲門会の調停案についての理事者の意見を支持することを決めた。

 翌十六日からはいよいよ入学願書の出頭受付が朝から大隈講堂で開始され、テレビ放送車のカメラの砲列の中を受験志願者や父兄などが続々と訪れて、幾重にも蛇行する行列ができあがり、夕方五時頃までに約一万八千人の受付が終った。この行列の周りで共闘会議の学生が「学費値上げ反対を勝ちとろう」とアジ演説していたが、志願者の出足はまずまず順調であったので関係者はホッとした。

 ここに至って、にわかに国会稲門会の調停が教職員や学生そして社会の注目するところとなった。それだけ、事態打開のための期待が大きくなってきたわけである。しかし、十四日に「白紙委任」の取りつけを要請されても、大学側も学生側も委任の正式回答は保留したままであった。大学側では、十七日に大浜総長が国会稲門会早大対策小委員会の野田武夫委員長(大一二法、自民党議員)に、入学試験が円滑に実施できるよう全学生と共闘会議に呼びかけたいので大学側の努力を更に静観してほしい旨を伝え、事実、十八、十九の両日精力的に共闘会議と接触して事態打開に努力した。十八日には、この日の入学願書の出頭受付だけでも八千人を超え、累計八万二千百八十七人を数えた。そしてこの日、大学側は、非公式に神沢学生部長などを通じて共闘会議と折衝して、遂に、授業料の値上げは撤回できないが施設費の納付額は再考し、返済しなくてもよい奨学金制度を新設するという案を提示した。大学としての初めての譲歩である。しかし、直ちに拒否されてしまったのである。同日、中立系の学生達が、入試を控えているので何としても警察力の導入を避けようとして「有志連帯準備会」を結成し、これに約五百人が参加して討論会を開き、翌日には二千人の署名を集めて大学と学生の話合いを申し入れるなど、学生の間にも新たな動きが現れてきた。また、この頃結成された学苑生の母親達を主体とする父兄の会「白いハンカチの会」のメンバーが、十九日に神沢学生部長と大口全学共闘会議議長を訪れて、警察官の導入を避けて何としてでも話合いで解決し、入学試験に影響が及ばないようにと双方に強く訴えた。この日午後、警視庁では、警備、公安部長はじめ各機動隊長ら幹部が会議を開いて、学苑当局から占拠学生の排除を要請された場合に備えて実力行使の際の体制や注意事項などについて協議した。

 二十四日からの入学試験は刻々と迫ってきた。入試会場となる各教室の整備とその他の用意には細心の注意が施され、毎年その準備には一週間くらい必要である。何しろ膨大な受験生を迎える学苑にとっては一年中で最も多忙な、しかも社会的にも緊張する時期である。その入試開始四日前の二十日の慌ただしい模様を『早稲田学報』第七五九号(昭和四十一年三月発行)の「激動の八十日」は次のように記録している。

入試準備が限界に達し、関係者はいらだった面持ち、学内のあちこちに地方から駆けつけた校友の心配顔が見られる。午後一時半、大学と共闘会議の間で話合いがつき、神沢学生部長、佐久間〔和三郎〕経理部長、学生側代表などが立ち会い、経理課金庫から二月十日到着分の入学願書約千五百通がはいった郵袋が運び出された。大学ではすぐにこれらを処理し、志願者に電報、速達で願書受取りを通知した。午後六時、大隈会館での記者会見で、時子山理事が「国会稲門会の諸先輩に今日まで静観をお願いしてきたが、十万人の受験生に対する責務を考え、理事会は国会稲門会の調停をうける用意がある」と発表し、最後まで話合いによる解決に努力する大学側の態度を表明した。一方共闘会議は、午後八時過ぎ、大隈会館で待ちうけていた国会稲門会代表八氏(海部俊樹、川崎秀二、佐藤観次郎、多賀谷真稔、戸叶武、中村高一、野田武夫、武藤山治の各氏)に調停案拒否の回答をした。国会稲門会ではなお共闘会議学生の説得にあたるため学生集会場の政経学部一〇三教室へ出かけたが、入室を拒まれた。この後一行は隣室で幹部たちと面会したが、学生側の強い拒否態度に説得をあきらめた。十時過ぎ、一行は大隈会館で記者会見し、「大学側、共闘会議側のいい分を聞いて公平な案をつくったつもりだが、共闘会議側に聞き入れられなかった。これによって最悪の事態を迎えるのではないかということが大変残念だ。最後まで紛争解決に努力したい」と語った。大学側で十時からこの日三度目の記者会見をし、時子山理事が議員団の調停が不調に終わった連絡をうけたと発表、集まった報道関係者の間にもいよいよ最悪の事態と緊張した動きが見られ、居残っていた教職員の表情は連日の疲れと来るところまで来たという気分がないまぜになり言葉少なかった。 (五六―五七頁)

 この時、国会稲門会の示した調停案は、値上げ予定の学費から、授業料一万円値下げ、施設費一万円値下げ、奨学金を五百人分増加、学生の退学・除籍などの処分は行わない、学生会館の運営委員は教員・学生同数とする、三年間に五億円の寄附を集める、国会議員団は国の助成金増額に努力する(『朝日新聞』二月二十一日号朝刊)という内容であった。不成功に終った調停を新聞各紙はほぼ紙面の半分以上を費やして、「双方の胸のうちは/折れた大学当局、強気の学生側」「国会稲門会はこう動いた/裏切られた自信」「なぜ断わった学生側/結局、過激派がひきずる」「『カベ』は堅かった/頭をかかえる先輩議員」などの見出しで、数葉の写真を添えて報道した。譲歩した大学側にとって、この調停不成立は時間的に万事休すであった。大学側は、社会的に注目を浴びている入試会場確保のために、警察の力を借りるより外に選択の途がなく、この夜警視庁に警官隊の出動を正式に要請した。小雨のそぼ降る構内は警官隊の導入を予期してか騒然たる雰囲気に包まれ、六百人ほどの学生が泊り込んだ。

 二十一日早朝五時頃、学苑を取り囲むように装甲車で集結していた警視庁の警官隊約二千五百人が、テレビ各局のライトに照らし出されて、正門前に隊列を組み終った。学生達の「警官帰れ」の怒号の中、五時三十分に正門前では職員によって総長名による「入学試験の実施に差しつかえるので、ただちにこの場所から退去しなさい」と記されたプラカードが占拠派学生に示され、南門では占拠派の学生に学生部奨学課長立合の下で執行令状が渡されて、警官隊が一気に構内に突入し、占拠派学生約五百人のジグザグ・デモによる抵抗を巧みに分断して、正門に誘導していった。そして、その他の学生も含めて合計約千二百人が構内から排除され、本部をはじめとする各建物のバリケードが撤去され、各校舎では直ちに現場検証が行われた。本部は一階の経理部、校友課、二階の人事部だけが被害はなかったが、総長室、理事室、秘書課、庶務部、教務部、学生部、募金事務局などは台風に見舞われたような惨憺たるありさまで、他の建物も布団が散らばったり、週刊誌・漫画本が散乱していたりして、商学部地下のホールには異臭が漂っていた。検証が終ると校舎の整備作業が開始され、入試会場の準備が始まった。他方、鶴巻町方向に押しやられていたデモ隊は、文学部構内の記念会堂前で約三千人を集めて抗議集会を行い、非占拠派の学生達は門外で警戒を続けている警官隊に罵声を投げかけたり、警察力導入の原因を作ったのは過激な共闘会議の占拠派であるとして非難の演説を繰り返した。大学側は、三月六日の入試完了まで学生の構内立入りの禁止措置を告示して各出入口を閉鎖して、いわゆるロックアウト態勢を布いたのである。大隈小講堂でこの措置に関する総長の記者会見が行われ、漸く入試準備の作業の見通しのついた午後三時三十分頃、昨夜来から出動していた機動隊が撤収していった。

 ところが、である。機動隊が退去して間もなく、それまで遠巻きにしてそこかしこに散在していた学生が正門前に集まりだした。そして、その中の三十人ほどが、永年正門に扉や柵がなかったため先ほど急ごしらえしたばかりのパイプ製の柵を一瞬にして引き壊して、構内に入ってしまった。周りにいた一般学生は呆然としてこれを見つめていたが、誰からともなくその中から校歌「都の西北」が歌いだされ、それとともに、記念会堂から集まってきた占拠派と、独自の行動を採っていた非占拠派の学生ら約二百人とが、スクラムを組んで雪崩込んだ。一般学生もこれに続いて構内に入り込み、本部前はあっという間に約三千人の学生で膨らんでしまった。そして、ジグザグ・デモの渦となり、占拠・非占拠両派双方の戦術をめぐる非難のヤジ演説の応酬合戦が展開され、やがて、占拠派は再占拠の行動に出て、受験番号が張られたばかりの机や椅子を本部・各校舎の入口に持ち出し、またもやバリケードを築いてしまった。警官隊の撤収僅か二時間後のことである。職員や警備員は建物から追い出され、これを見つめる一般学生の表情はきわめて複雑であった。大学当局は再び機動隊の出動を要請するしかなかった。

 翌二十二日午前七時頃より、正門前に装甲車が続々と集結し、本部構内には警官輸送用のトラック二十一台をはじめパトカーなどの警察の車がひしめいた。警官隊は前日とは打って変った手際よさで九時頃までに本部構内と文学部構内の占拠派学生を警棒を用いて排除し、この日、他大学の学生を含めて二百三人が検挙されたのである。一度にこれだけの検挙者が出たのは学生運動史上初めてのことであった。新聞は「早大紛争/怒号とバ声のアラシ/『戒厳令』なみ、通行証出す」「根こそぎ検挙で学生総くずれ」との見出しと、「じゅずつなぎの大量検挙者」との説明つきの騒然とした光景の写真を掲載して大々的に報道した(『東京新聞』二月二十二日号夕刊)。また、こうした模様はテレビのトップ・ニュースで全国の茶の間に放映された。この二十一、二十二日の機動隊出動について、学苑を所轄の対象とする戸塚警察署の一署員は次のように記している。

戸塚警察には当庁としても重要である警備対象が二つある。一つはいうまでもない早大であり、他は、下落合にある東京学生会館である。……警備部隊出動の場合その連絡方法は非番の一般部隊員に対しては、居住地より本署に電話連絡をし確認の上出署することとなっていた。二十一日午前六時出署の指示を受け、当日私は西武新宿線花小金井駅を一番列車に乗った。電車は出署する警察官と、早大ストに参加するとみられる学生達でほぼ一ぱいである。「呉越同舟だな」と思った。高田馬場駅では殆んど全部の客が下車した。皆んな自然に駆け足になって、私もそれにならって本署に到着した。署の庭には多数の輸送車が並んでいて、しかも鉄かぶとを背負った他署員が警戒配置について緊迫した雰囲気であった。私は影山小隊二橋分隊に編成され、小隊は雨上りの明けたばかりの戸塚の町を警備本部のある早稲田の森へと行進を起した。……二十二日は当番員は普通に出署し看取係は平常通り交代した。しかし早大では前日駆逐された学生が警備部隊が引揚げた後再占拠したことから、この不法行為に対し二百数名という大検挙者のでることを予想し、井上刑事課長命令で長南部長を中心に被疑者留置について検討してあった。施設の点検、通謀、或いはせん動などの事故防止策等、特に分散留置に備え嘱託留置の手続関係書類一切を準備してあったが、検挙者は当署及び牛込署に連行の上全員分散留置され〔た〕。

(菅沢正夫「早大事件警備を顧みて」戸塚警察署『第六次早稲田大学事件回顧文集――二三〇名×一八〇日の警備――」 八一―八三頁)

 ところで、再占拠で荒らされた入試準備のやり直しで学内が忙殺されていた頃の午後二時過ぎ、国会衆議院の本会議では校友代議士佐藤観次郎(昭三政、社会党)が学苑の紛争に関連して広く私学振興についての緊急質問を行っていた。佐藤議員は佐藤栄作首相、中村梅吉文相に、私学に対する財政援助および寄附金の免税措置等について政府の姿勢を質した。次いで午後四時過ぎには、中村文相が事務次官、大学学術局長同席の上、大浜総長を参議院別館の政府委員室に招き、「早大の入学試験が平穏に行なわれるよう、大学側も学生側も努力してほしい」と要請し、学苑の紛争について事情を聞いて早期解決を要望するとともに、入学試験の見通しなど具体策を質した。総長は「目下解決のため努力している最中だが、入学試験だけはなんとか無事に行なえるようにしたい」と述べ、「この紛争を契機に、政府の私学振興策をさらに促進してほしい」と要望した(『朝日新聞』二月二十三日号朝刊)。

 二十四日、完全なロックアウト体制で、学外は機動隊の厳重な警戒と、学内は教職員や警手の警備によって入学試験が開始された。この朝、多数の新聞社やテレビ局の車とカメラの砲列に囲まれて受験生が次々と各受験会場に黙々と入場して、第一日目の第一政治経済学部の入試に臨んだ。この日から三月六日までの試験期間、受験生と入試関係業務の者、教職員以外は構内立入禁止となり、受験生も試験時間中は学外に出られないことになった。前年までは、試験期間中であっても受験生や付添人は前以て構内に自由に出入りして、いわゆる下見が行われたり、試験の当日も学外で昼食を摂ることもできたのであったが、今回からこうしたことが一切できなくなったのである。無用の混乱を未然に防ぎ、受験生が平静な雰囲気の中で試験に取り組むことができるようにとの配慮から、こうした措置は今日まで続いている。入試は、十日余りに亘り各学部とも妨害を受けることなく三月六日の社会科学部を最後に終了することができた。警備に当った戸塚警察署員は、「大隈講堂の地下の小講堂に待機しながら各種の警備に参加し、あの十万人をこえる受験生の入学試験を厳重なる警備警戒に従事したが、大した事故もなく新入生の試験が無事終り、地方から上京して来た親達のあかるい顔を見たときは、本当に自分の責任をはたしたような気持でほっとした」(久我寅夫「平和な学園を祈る」『第六次早稲田大学事件回顧文集』一五九―一六〇頁)と記している。

 六日夕方、大浜総長は大隈講堂に教職員の参集を求めて、入試が無事に終ったことについて謝意を表し、同日付で大学は入試無事終了の「声明書」を学苑内外に発表した。これは、多方面に対する謝辞を目的にして出されたものである。ここには、大学の対応が五項目に亘って記されており、その第二項に、「今回の事態は、大学の歴史上の一大不祥事といわなければならない。大学としては犠牲も大きかったが、他面、学ぶべき点、反省を要する点もすくなくない。学生の間から、提起された諸問題や社会の各方面から寄せられた批判に対しては謙虚な態度で耳を傾け、大学教育の在り方、大学の機構、学内秩序の問題等々につき、反省と再検討の上改善すべき点は改善につとめ、再びかかる事態を招くことのないように万全をきしたい」と、決意のほどが披瀝されていた。

二 幻の卒業式

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 入学試験という社会的にきわめて注目される大学の大切な行事を無事済ませ、紛争は確かに大きな山場を乗り越えはした。しかし、学費値上げ問題は何一つとして解決されておらず、共闘会議を中心とする占拠派は依然としてかたくなに、あくまでも「白紙撤回」を要求するという姿勢を崩していなかった。従って、大学としては、三月七日から十四日ぶりに封鎖を解くとはいうものの、学内秩序維持のため、大学の認可以外の集会や示威行動、建物内外での宿泊、所定外の掲示・立看板等の掲出、拡声器等の連続発声行為、机・椅子等の器物の持出しを厳禁する旨の告示を、入試完了の六日に掲示せざるを得なかった。

 入試期間中、学苑は警察力に守られて、いわば休戦の形になっていたが、この間学外では、学苑の大規模な紛争を契機として、かかる紛争の一大原因は私学に対する国家の財政援助の根本的な無策にあるとの世論が高まり、この紛争が単に学苑のみの問題ではないことに漸く注目するようになってきた。政府は、連日の新聞やテレビ、ラジオによる学苑の紛争に関する詳しい報道で、私学振興策に具体的に本腰を入れる姿勢を示さなければならなくなっていった。二月二十二日の衆院本会議での緊急質問の後、二十五日の閣議では、佐藤首相が私学に対する政策の検討を指示し、二十六日には中村文相が文部省内の事務担当者に私学振興緊急措置を検討するよう指示した。また二十八日には、政権政党の自民党内の私立大学出身の国会議員有志が私大振興策を協議して運動に乗り出した。そして三月一日、中村文相は臨時私学振興方策調査会に対して四十二年度予算で措置すべき当面の応急策について答申を要望し、八日には大蔵省が私学に対する寄附金の取扱いについて優遇措置を講ずる構想を発表するなどの姿勢を示すようになった。私大側も、日本私立大学連盟、日本私立大学協会、私立大学懇談会の三団体の代表者が、十七日、佐藤首相に対して私立大学経常費の一部国庫負担を実施してほしいと要望するなど、学苑の激しい紛争は文教関係当局や私学界を揺り動かすものとなった。

 こうした動きの中で、三月七日、封鎖を解かれた学内に学生がもどった。諸事の禁止掲示をよそに昼過ぎには共闘会議や民青系の学生が集会を開いた。そして、共闘会議は第一政治経済学部自治会室で記者会見を行って、一般学生の対応が分散してきているとの認識を示した。前述したように、二月四日の総長説明会を境として共闘会議が分裂し戦術をめぐって占拠派と非占拠派に分かれ、十四日には共闘会議の占拠派が調停に応じる姿勢を見せたので社青同系と革マル系とが対立し、こうしたセクト間の争いが表面化してくるのに伴い、一般学生は学費値上げには憤りを覚えつつも、そうした活動家にはついていけないとの気持をますます強めてきていたからである。すなわち、心情的には共感しつつも過激な実力行動には到底同調することはできない、との考えである。従って、共闘会議としては、この状況を打開し、いかにして組織を再構築するかということが大きな課題であった。そして、共闘会議は、来る二十五日の卒業式は大学に対する弾劾の集会にすると発表した。

 九日、十日、各学部の合格発表が行われ、学内は受験生や父兄で終日ごったがえした。九日の教育学部、理工学部の合格発表後、合格者の入学手続と学費納入が十日から開始された。大学では混乱を避けるため、学費はすべて所定の銀行に振り込ませ、その領収証を持参の上入学手続を済ませた者に学生証を交付することにした。今回より施設費の分割払いを認めたものの、紛争の焦点であった授業料値上げ額は原案通りで、教育学部は初年度納入金として十四万百円、理工学部は十七万三千円(学科により実験等の違いで若干異る)、施設費の分割は教育学部三万円、理工学部七万円を二年次または三年次に払うということになった。このように授業料納入手続が原案の金額通りに実施されたことは、結局、この紛争が学生側の「敗北」に帰したことを意味するものとなった。すなわち、学費値上げ阻止の目標を事実上失ったわけである。共闘会議は、この日、「新しい目標に『人間回復』、『学内民主化』、『教育内容の民主化』を掲げ、二十五日の卒業式、四月一日からの期末試験ボイコットなどを中心に分裂状態の組織を再編成していく方針」(『日本経済新聞』三月十日号夕刊)を明らかにした。翌十一日午後、かねて指名手配中の大口全学共闘会議議長が集会に出席したところを他の全学共闘会議の事務局員とともに逮捕された。

 一方、法学部では、大野実雄第一法学部長と有倉遼吉第二法学部長が揃って学部長の辞任を明らかにし、同時に教務主任・副主任の四教授も行動をともにしていたが、十五日、この辞任と後任人事が定時評議員会で承認された。六教授の辞任は「健康上の理由」となっているが、各紙は「こんどの紛争で一、二法学部の連合教授会は先月〔二月〕十八日『大学側は値上げを再検討すべきだ。また学生は本部占拠をやめよ』との声明を発表、また大野一法学部長は一月末の学部長会で大浜総長に『一歩後退も考えるべきだ』と個人的に進言、二月十五日の評議員会では、学部を代表して『値上げを再検討すべきだ』と発言するなど、『既定方針は変えない』とする理事会に対して、批判的な空気があり、独自の働きかけを続けていたが、結局、理事会にはこの意見は反映されないままとなっていた」(『読売新聞』三月十四日号夕刊)とのいきさつのあったことを報道している。従って、学部にこうした内情をも抱えていた大学当局は、卒業式を控え、各学部ごとに学生に総長説明会を行うことによって学生の理解を得る手立てを考えた。先ず十六日午前十一時から教育学部を対象に(約三百人出席)、二十一日午前十時からは商学部を対象に(約二千人出席)説明会を開催した。会場入口では共闘会議による一般学生に対する入場阻止の動きもあったが、総長が「今後はお互いに不信感を除き、信頼できる学園作りに努力したい」と述べると、全般に肯定的な反応が示された。また、十八日には、『学生諸君保証人各位に訴えたい』(全十二頁)を在学生と父兄に発送して、学費値上げの事情とこれまでの経緯を説明して理解を求めた。しかし、こうした大学側の努力にも拘らず、この間十六日夜、共闘会議と四年生連絡協議会の幹部が記者会見して、「来る卒業式は従来のような儀式とせず、総長、学部長への代表質問などで四年間の早稲田生活を総括する場とする」と発表していたため、十九日、学部長会は、父兄も出席する二十五日の卒業式は紛争のあおりから大混乱になる恐れがあるため取り止めることを決定した。各学部では、卒業式での学生総代を選定するなどの準備を進めていたのであったが、遂に全学の統一卒業式の挙行はこの年度は幻に終ったのであった。

 二十五日は例年ならば、晴れやかな雰囲気で学部合同の統一卒業式が挙行される日であった。しかし、商学部のみが大隈講堂で学部卒業式を行っただけであった。同学部以外は卒業式に類する行事は実施せず、卒業生は各学部事務所で学生証と引換えに卒業証書を受け取ったのであった。そして、午後一時頃から共闘会議を中心とする卒業生が使用禁止の記念会堂に入り込んで、「早大統一総括卒業式」を教育評論家や詩人等をゲストに招いて行った。終了後、校歌を斉唱して、晴れ着姿の女子学生も交えて戸塚通り(現早稲田通り)、安部球場を経て本部キャンパスを巡る形で正門まで各クラスや専攻の色とりどりのプラカードを先頭にしてデモ行進を行った。

 この日、大学は大浜総長名で、「大学の卒業式は、卒業生諸君にとっては人生における大きな節づけともいうべきものであり、社会的にもその意義は大きい。……この意義のふかい式典を急に取りやめることにしたのは、学生の一部に、この式典を妨害する動きがあるからである。……学部長会は、これら諸般の情勢を考慮に入れたうえで、慎重審議の結果、卒業生諸君に対してはまことに申訳のないことではあるが、慣例による全学的の卒業式はこれを中止することにした。卒業生諸君の心境を察すれば、おそらく、このままでは去るに忍びないという気持で一杯であろうと思う。せめて卒業式だけでも、従来の方式によってこれを挙行し、温たかい雰囲気のなかで諸君の門出を祝し、父兄の方々とよろこびを共にしたいと念願してきたが、それさえできなくなったことは、まことに痛恨に堪えない」との文言を含んだ卒業生に対する祝辞と、「このうえとも精進につとめられ、各自の運命を開拓し、幸福な生涯を送られることを祈り、併せて世界の平和と民族の繁栄、さらに文化の向上に貢献されることを期待してやまない」(「続・激動の八十日」『早稲田学報』昭和四十一年五月発行 第七六一号 三三頁)との餞の言葉を、「卒業生諸君へ」と題する文書にして卒業生に配布した。

三 三ヵ月遅れの学年末試験と一ヵ月遅れの入学式

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 卒業生が挙式なくして学窓を後にし社会に巣立っていった三月下旬、在校生の関心は、四月一日以降に延期されていた学年末試験であった。三月二十八日から各学部では試験の実施予定を控えて、受験可否をめぐる討論が行われ始めた。二十九日には、第一政治経済学部の拡大クラス委員総会が試験反対のためにバリケードの再構築を確認して、学部校舎入口に再び築き、校舎内に泊込みを始め、三十日には第一文学部自治会も校舎にバリケードを築いた。同日第一商学部拡大クラス委員総会でも試験ボイコットを決定し、校舎でバリケードを造る学生とスト反対の一商ゼミナール有志連合会の学生が衝突し若干の負傷者を出した。そして、三十一日には法学部、商学部、理工学部にバリケードが相次いで築かれてしまった。かくして四月一日、教職員の説得も不調に終って、全学の学年末試験の実施は不可能となった。二日には理工学部で十人ほどの学生が受験したが、妨害で試験会場に入れなかった学生は中庭や隣の保善高等学校等を借りて、教員を囲んで説明会や討論会を開いた。また、商学部でも早稲田実業で説明会を行った。この夜、緊急学部長会が開かれ、試験は日程通り実施する方針であるが、実施不可能の場合は教員が学年別、クラス別などで学生との話合いの場を持つように努力することを申し合せた。三日には体育局の試験が中止となり、教育学部にもバリケードが築かれ、またしても全学ストが現出したのである。以後十日ほどの間は、連日のように試験実施が各学部で延期に延期を重ねていった。この間、学部別に説明会が行われ、また、新四年生の間から、就職活動期が迫ってきているので試験を受けたいという声が高まってきたこともあって、学部長会は四日、学年末試験は、各学部、学年で一斉に行う方針に固執することなく実施し得る学部、学年で個別に行ってもよいとの方針を決定した。

 共闘会議が「全学バリスト」による「試験粉砕」強行をいくら叫んでも、一般学生の心情は、「試験ボイコット」に踏み切った一月段階とは明らかに異ってきていた。初めは、学費値上げに憤慨し積極的に強行路線を支持し、学費値上げ問題を契機に日頃の授業内容、設備、その他学生生活をめぐる不平不満を一気に噴出させ、大学当局を目の仇にするまでに反対運動を盛り上げたが、ここに至って学費値上げ反対という現実の目標がなくなり、「転機」が訪れていることを運動の担い手達も自覚せざるを得なくなった。「全学バリスト」は「試験粉砕」のために行われてはいても、一般学生のきわめて心情的なしかも消極的な支持があっても、かつてのような熱気を伴った積極性はもはやなかった。すなわち、大学側も、強硬派も、一般学生も、現状は「闘争のための闘争」という色彩の濃いものに推移していることを暗黙に認めていたと言ってよい。しかし、一般の学生には、この紛争で噴出した大学に対するもろもろの不平不満は何一つとして改善されてはいないとの思いもきわめて強くあり、しかもその「解決」は値上げ中止とか値下げとかという形で済む問題ではなく、即効性のある答えを用意し得ない問題であるだけに、大学としては実に苦慮するところであった。この段階の四月五日付で全学生に発せられた『大学の当面の課題と対策について』(全十二頁)は、このことを如実に物語るものとなっている。これは、前述の三月六日の「声明書」を承ける形で、「第一 教育の在り方に関する問題点と改善策」、「第二 学費の値上げと予算の概要」、「第三 学生厚生センターとレクリエーシ。ン施設の計画」、「第四 施設費の軽減問題について」、「第五 学生会館の管理運営について」の五項目が記されているもので、五つの「課題」中、学費や学館の問題よりも、「第一」中に掲げられた、大学の規模拡大に伴う諸問題として(一)教員と学生との人格的接触の問題、(二)学生生活に関するガイダンスの必要、(三)学生相互の人間関係と、次に、一般教育科目および単位制度の問題点として授業やカリキュラムをはじめとする学生生活全般に関する事項とを巻頭に掲げ、これらの問題に半分近い頁数を費やしている。このことからも学苑の深い悩みを窺うことができる。大学の抱えているこうした問題点は、やがて、第十一編第三章に後述する大学問題研究会で盛んに論議されていくことになるが、大学としてはその当面の基本姿勢を取敢えず示すことによって、「紛争」の治癒に努める姿勢を表したのである。

 この大学の声明がこの時どのように学生の心を摑んだか否かの判定は綿密な分析が必要であるが、八日頃から受験の可否があらためて各学部で投票に付されていった結果、受験賛成の声が多くなっていった。八日と十一日の両日に理工学部で受験可否の投票が行われ、受験賛成派が多数を占め、九日、十一日、十二日の三日間の投票で商学部も受験賛成が多数となった。そして、十三日に商学部、十四日に理工学部のバリケードが学生の手によって撤去されだし、十八日には両学部とも試験を実施した。教育学部も二十一日に新四年生の分離試験が早稲田実業で行われ、次第にスト解除の気運が全学的な趨勢となってきたのである。

 こうした情勢の中で、二十三日、大浜総長は学部長会で辞意を表明した。翌二十四日の臨時理事会では全理事も総長に辞表を提出し、大学の最高執行部は総退陣することが内定した。辞表は五月十日に銀座東急ホテルで開催された臨時評議員会で受理され、同時に総長代行に阿部賢一評議員会長が選出されたのである。十二年に及んだ学苑の「大浜時代」は、「学費・学館紛争」の終息を控えて、ここに終りを告げることになった。この紛争の最終的な収拾と、いわば、この紛争の「戦後処理」は、総長代行からやがて総長に就任する阿部新執行部に委ねられることになっていったのである(大浜総長から阿部総長への交替の経緯については、第十九章で詳述する)。

 五月一日、紛争で延び延びになっていた昭和四十一年度の学部入学式が一ヵ月遅れで、記念会堂で午前と午後の二回に分けて挙行された。開式に先立ち、グリー・クラブ、コール・フリューゲルによって校歌の指導が行われ、早大交響楽団の奏でる校歌とともに教職員が久しぶりに式服に威儀を正して入場して壇上の席に着いた。教務部長の開会の辞に続き、既に辞意を表明している大浜総長に代って時子山常任理事が式辞を述べた。「最初にお詫びしなければなりませんことは、清新潑剌たる諸君をお迎えするに当りまして、まだ学園の正常化が十分ではなく、バリケードなども残っていることでありますが、現在各学部で学園の正常化と改善に努力しておりますし、また、大学全体としても、今回の事件から学びとりましたいろいろな教訓に顧みまして諸君を迎えるにふさわしい大学づくりを目指していますので、今日から名実とも早稲田大学学生の一員となられた諸君は、新しい早稲田大学の歴史づくりに加わるのだという意気込み、自負をもって、今後四年間の学生生活を実り多いものにして頂きたいのであります」(『早稲田学報』昭和四十一年六月発行 第七六二号 一〇頁)と謝罪の言葉を述べたあと、「『永遠」の今を生き抜こう」との内容の新入生歓迎の式辞を行った。最後に全員が起立し校歌を斉唱して式を終えた。この入学式は、本部校舎にバリケードを残したままで挙行されたのであったが、学苑はこの日を待ちわびた一万余の新入生とその父兄達で賑わい、あちこちで記念撮影がなされ、またサークルの勧誘が盛んに行われたりして華やいだ空気が溢れていた。何しろこの新入生達は、果して学苑の入学試験が実施されるか否かに一喜一憂した者達で、この日を迎えた感慨は一入であった。ところで、式場の記念会堂の前では共闘会議派の学生が集会を開いたが、妨害もなく、式は二回とも無事に終了した。なお、大学院と専攻科の入学式は、学部に先立って四月十八日に二一号館(現一〇号館)の大教室で既に挙行済みであった。

四 爽風を吹き込んだ阿部総長代行の登場と収拾

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 五月十日の評議員会で選ばれたばかりの阿部賢一総長代行は、新聞に、「母校の『難局』を憂いながらも『火中のクリを拾う』ことにしり込みする関係者の中にあって、その誠実で温厚な人柄をかわれ評議員、理事の有力者『絶対多数』の支持で臨時総長に選ばれた阿部さんは、『迷惑しごく。ほかに有能な人物がいくらでもいるのに……』と不服そうだが、『引き受けた以上は、この老人、最後の奉仕をする覚悟』とことば少なに語る」(『毎日新聞』五月十一日号朝刊)と、そのプロフィールが紹介された。そして十一日各紙朝刊は、「学生の声を聞く/わたしは態度で示すよ」、「根気よく取組む/早大総長代行阿部さん語る」、「早大阿部総長代行語る/血の通う大学に」、「阿部氏が総長代行/凍った感情ときたい」などの見出しで総長代行就任の抱負を伝えた。各紙の記事は事態打開に対する期待感が強く込められた論調で共通していた。朝、これらの朝刊を読んだ学生達は、続々と登校してきた。阿部総長代行自身も、就任の翌日早速登校して、学生の前にその姿を現したばかりでなく、更に共闘会議の集会に前触れもなく、いわば分け入る形で出席するという積極的な行動を採った。この阿部の行動は、それだけでも学生のみならず社会にとってもニュースであった。この光景を新聞は大きな写真入りで次のように報道している。

「どこへでも出かけて、だれの声でも聞くよ」とフランクな姿勢で登場した早稲田大学の臨時総長阿部賢一さんは、初登校の十一日、さっそく学生の前に姿を見せ「いっしょに紛争を解決していこう」と呼びかけた。この日の阿部さんは、共闘会議のアジ演説を聞き、抗議の立看板をながめながら、構内を歩き回った。昨年末から、総長の姿が構内から消えてしまったワセダで、何ヵ月ぶりかの「キャンパスの総長」だ。

午後三時すぎ、阿部さんが近所の床屋から大学に帰ってくると、共闘会議の学生が「新総長の話を聞こう」と本部前にイスを並べて待ち構えていた。一般学生もこれまで「総長の顔」をほとんど見たことがなかっただけに、約千五百人の学生が本部前を埋めた。阿部さんは学生の求めに応じて気軽に壇上にあがり、マイクの前へ。「大学もヘマをしたけど、君らには苦労をかけるね。君たちがいろんな希望を持っていることは知っている。どんな思想、行動も自由だ。しかし、行きすぎはいけない。君たちは私の孫みたいなもんだ。ときどき手に負えなくなる。だが、ものわかりのよい学生であってほしい。せかずに、じっくり話し合おうじゃないか。具体策は、新理事と相談しないうちに私一人で放談するわけにはいかないが、どうするにせよ、ひとにぎりの理事者だけではできない。君たちと一緒にやっていこうじゃないか。大学は諸君らによって守られなければ……。一人一人が早大生の自覚を失わないでほしい」とへだてのない調子で話しかけた。「先輩、期待しているよ」と学生からヤジがとぶと、ヤジった学生の顔をさがして「ウン、やる」といちいち受け答えする。「ぼくは毎日、本部へくるのに、本部前に机を並べて出入りを監視されているようなのは困るね」との注文には、共闘会議の学生もニガ笑い。約十分話したあと「総長だから毎日くるよ。いつでも会う。きょうはこれでもういいね。それじゃあ」とニコニコしながら手を振って壇を降りると、学生たちはその背に盛んな拍手。理事者が集会に出てくるとなかなか放さない共闘会議の学生も、この日は立ち去る総長を引きとめない。こじれにこじれたワセダ紛争の解決に、なにか明るいきざしを思わせるような「総長と学生たち」の出会いのシーンだった。 (『毎日新聞」五月十二日号朝刊)

 こうした書き方は各紙ほぼ同じであった。阿部は第三巻第六編第十六章の「大山事件」のところで言及したように、昭和初年の政治経済学部の新進の教授時代、大山郁夫教授の辞職が議題に上った政治経済学部教授会で、大山の辞職を求める高田早苗総長の教授会への臨席を不都合として高田に退席を求め、教授会の大勢に抗して大山を擁護し、また、『毎日新聞』(『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』)の主筆時代、対米英宣戦布告を直前に察知し、身体を張って、東条英機首相の弾圧を覚悟の上で開戦の一大スクープを国民に報知した、まさに昭和ジャーナリズム史上にその名を留めている人で、学識の豊かさ(本学苑が付与した経済学博士の第一号)に加えてその見識と気骨あるりベラルな人柄は知る人ぞ知るで、こうした人柄が、いきり立っていた学生達に期せずして好感を以て迎えられたのである。学苑の現下の情勢は、確かにかかるパーソナリティを備えた指揮者を必要としていたと言える。右に記したように、阿部の総長代行としての登場は学苑に爽風を吹き込む役割を果したのである。実は、こうしたいわば「生身の総長」を渇望していたというのが、当時の学生の実感であった。僅か十分ばかりの学生とのこの初の「対話集会」を伝える新聞が、「阿部さんニコニコ、学生もニコニコ/一緒にやろうよ/早大臨時総長、マイクに立つ」、「阿部さん、学生に第一声/魂のふれ合いを/ワセダを守るのは君たち/学生さかんな拍手」、「なごやかに学生と話し合う阿部総長代行/『阿部調』に爆笑と拍手/学生二千人に顔見せ」、「『名誉を回復しよう」/阿部早大総長代行集会で気軽な第一声」等々の見出しで詳報したのは、決して言論界の大先輩に対するマス・メディアの好意だけではなく、学苑の全学生の共通した期待感の表れでもあった。かくして、阿部総長代行の登場は、紛争の流れを変える上で一大エポックとなった。結果としては、大浜総長の辞任の英断は功を奏するものであったと言えるのである。

 十三日、阿部総長代行を中心とする新理事会が発足した。四五一頁に掲げる新理事とともに、阿部は紛争解決に向けて積極的に行動した。十六日、阿部総長代行名で「学生諸君」と題する一文を掲示し、左の如く訴えた。

学費問題のみならず、学生会館問題などの自余の問題については引きつづき検討を続けてゆくが、ここに憂慮される緊急の事態は、予定された大学の行事のうち、最低必要とするものさえその実行があやぶまれてきたことである。すでに体育実技のある種のものは遂行不能におちいっているが、このまま日を送れば例年行っている夏季学期は、これを八月中に行うものとしても日数がなく、そのために単位不足により留年の止むなきに至る学生数は数千に及ぶことになる。この関係は第二学部では夏季学期が正規の授業時数のうちに予定されているだけに、一層深刻である。これによってこれら学友のうける時間と経費の損害は意想外に大きいのである。学生諸君は一日もはやく、一人のこらず登校し、大学の庭に見られる現実を直視し、慎重に考慮するとともに、最終の期限である五月二十三日(月)を目標に正規の授業が開始されるように協力しなければなるまい。授業を行う一方で話し合いを続けることは決して不可能ではない。極端な闘争手段によらなくても、何時でも話し合うつもりであるから、大学を信じ、諸君の良識による局面の打開を考えてほしい。……重ねていうならば、今が最終の態度決定の時である。過去の早稲田大学の歴史において今日ほどの危機に出あったことはなかったのである。

(『早稲田大学広報』昭和四十一年五月十六日号外)

学苑がこうしたぎりぎりの危機的状況を迎えていることを訴え、二十三日が全学一斉の授業再開目標日であると表明した。そして、この日、定時評議員会が開かれ、阿部新体制は学費の中の施設費を二万円引き下げる方針を打ち出したのである。この件は、この後、七月十五日の評議員会で正式に決議され、即日施行となった。

 五月十七日、阿部総長代行は教職員に就任の挨拶をして解決への協力を求めるとともに、記念会堂で第一、第二商学部学生に説明会を行ったのを皮切りに、十八日に第一、第二文学部、十九日に第二政治経済学部、二十一日に教育学部、二十七日に第一法学部等々と次々に説明会に出席して、紛争収拾への協力を説き続けた。

 ところで、この段階で右の阿部総長代行の言う「五月二十三日」は重要な意味を持つものであった。学苑当局は、実は、「五月危機」に直面していたからである。一つは、阿部が自伝『新聞と大学の間』で、

大学側の一つの懸念としては、次に紛争長期化に伴う心配があった。六カ月以上授業を行わなかった場合、文部省は学校に対して閉鎖を命ずることができるという法律がある。学校教育法の一カ条であるが、大学はバリケードで各学部が封鎖され、五カ月にわたって、八月二十三日がその期限になる。むろんそう簡単に早稲田に閉鎖命令を出すとは誰も考えないが、それを無視することはできない。といって、紛争処理に焦って、このことを吹聴すべきではない。大学側が期限内の処理に急ぐとなると、多数の学生はこれを理解するかも知れないが、過激各派はこれを大学の弱味の暴露とみて、おそらく、もう一押しすれば勝てると、一段と気勢を高めるに相違ないとも考えた。 (二一八―二一九頁)

と回想している如く、「学校教育法」第十三条に、「六箇月以上授業を行わなかつたとき」には「監督庁は、学校の閉鎖を命ずることができる」と定められており、また一方、「大学設置基準」第二十七条では、「一年間の授業日数は、定期試験等の日数を含め、三十五週にわたり二百十日を原則とする」と定められていて、大学の存立に直接関わる非常事態に直面していたのである。尤も、この段階では、「学校教育法」に抵触するまでには暫くの日時が残されていたが、「大学設置基準」に違反する恐れは目前に迫っているという緊急事態にあったのである。従って、学苑はこの事態を学生達に十分に理解させ、現状打開を早急に訴えなければならなかった。「五月二十三日」の重要な意味を学生に周知徹底せしめるため、各学部では更に詳しく説明した掲示を張り出した。例えば第一政治経済学部では、二十八日付で、「学年度の完結について」と題する次のような掲示を出している。

大学が、先に掲示をもって、本年度中に、修業もしくは卒業に必要な日数を満して、学年度を完結するための最後の日取りとして、五月二三日に授業態勢にはいる必要を公示した。これをさらに具体的に示せば次のような内容をもっている。

(一)授業開始五月二三日から学年末試験終了の二月一一日まで三八週。

(二)上の三八週には、夏季学期四週(この期間には体育夏季実技などが行なわれる)及び冬季休業二週合計六週が含まれ、一般の授業期間は三二週。

(三)二月一二日からは冬季体育実技が行なわれるほか、この前後から全学入学試験体制にはいる。

(四)この日程によると、すでに予定された体育夏季実技の一部は受講できない学生が多数でる見込みとのことである。また、この日程によれば、夏季学期を履修する学生及びこれに関係する教職員には夏季休業が一日もないことになる。

上の通り年度内に修業もしくは卒業に必要な最後の日限が五月二三日であったのである。然るに、すでに四、五月の二カ月間が空費されようとしている。要はこの二三日を起点として、授業開始が幾日おくれるか、そのおくれただけの日数が翌年度に持ち越されることになるということである。 (『早稲田大学広報」昭和四十一年六月二十二日号外)

 だが、こうした中でも、かつての規模ほどではないものの、少人数のデモが断続的に繰り返され、バリケードはそのままであった。十九日には、あるセクトが「学費・学館、処分撤回問題」の討論集会を開き、二十日には共闘会議派(約四百人)と民青系(約千五百人)がそれぞれ他大学の学生の応援を得て集会とデモ行進を行い、これに対して、彼らの参加を非難する全国早稲田大学学生会連盟との間に一時険悪な睨み合いが続くなど、事態は決して楽観できるまでには至らなかった。しかし、ほぼこの日を以て大きな混乱はなくなった。それとともに、大々的な警察力を借りての長かった警備もこの日を以て幕を閉じたと言ってよい。戸塚警察署の高橋源治郎署長が学苑の紛争に際して出動した記録を左に掲げることによって、いかにこの「事件」が大きなものであったかの一端を示しておきたい。

昭和四十年十二月第二学生会館の運営をめぐり派生した早稲田大学の紛争は、昭和四十一年の春入学試験期を前にして授業料値上げ反対、学期末試験のボイコット、入試妨害等と発展し、一月末ごろよりその運動は最高潮に達した。次は私が署長車運転者として署長とともに早大事件に関し出動した記録である。

一月四日、二十七日、二十九日

二月二日、十日、十二日、十六日、十八日、十九日、二十日、二十一日、二十二日、二十三日、二十四日、二十五日、二十六日、二十七日、二十八日

三月一日、二日、三日、六日、七日、九日、十一日、十五日、二十四日、三十日

四月四日、十三日、十六日、十七日、十九日、二十日、二十一日、二十二日、二十三日、二十八日

五月一日、二日、十日、十四日、十八日、二十日

以上でも判るように二月二十一日早大構内のピケを実力で排除した日を中心にして最も多く出動しているが、その実力行使を前にして署長の身辺はとみに多忙となり、或いは本部に或いは某所へと車を走らせる。そのころの心覚えを二、三拾ってみた。

一月二十七日 四方面本部にて早大警備打合せ。二十九日 本部にて早大関係署長会議。

二月七日 下落合駅前の学生会館に入居反対派の学生が押しかけて、さわぐ。四名検挙、機動隊の応援要請。八日 前日の検挙者を釈放しろと学生本署に押しかける。十日 署長前々日のデモ警備の際デモ隊に押され肩を強く打った模様にて本庄医師の診察を受く。幸いに大したことはない模様。十六日 署長連日の警備にて心身ともにつかれた様子である。二十一日 早朝大学本部及び各学部教室と占拠学生に対し実力行使(占拠学生を校外に排除)。夜再び占拠さる。二十二日早朝第二回実力行使(機動隊泊り込みで警備にあたる)。二十四日 早大入学試験はじまる。二十七日 機動隊の泊り込み警備態勢をとく。

三月六日 早大入学試験最終日。

(門脇良雄「早大事件に関連して」『第六次早稲田大学事件回顧文集』 一〇〇―一〇一頁)

 さて、五月二十一日頃から学生の間に収拾の具体的な動きが現れるようになってきた。この日、第一商学部学生によるスト可否の投票が実施され、バリケードが撤去されだし、第二政治経済学部の新二年生、新三年生の期末試験の受験可否の投票が圧倒的多数で受験と決定し、二十三日の授業再開の目標日には、全学部には至らなかったが、第一商学部と理工学部の学部全体と一政・一法・二文の各一部が実際の授業を行うことができたのである。そして、二十五日に第一文学部新四年生、第二政治経済学部新二年生・新三年生の期末試験が実施された。この一方で、二十八日午後二時から二一号館で共闘会議主催のティーチ・インが阿部総長代行と各理事が出席して開かれた。処分問題、学費値上げ・学生会館問題、機動隊導入問題について学生との質疑応答があり、堂々巡りの議論で阿部総長代行の疲労も加わり、遂に十一時三十分頃医師が制止して阿部総長代行の退場となった。そして、翌日午前二時頃まで高木純一常任理事が代って答弁するという長時間集会となってしまった。「五月危機」はそのまま六月に入り、こうした大学側と学生達のティーチ・インは六月一日にも行われ、各学部での学生大会も頻繁に開かれた。大学当局の熱心な働きかけと一般学生の授業再開への努力が次第に実り始め、四日には第一政治経済学部が、五日から七日にかけて第二文学部が、十四日に第一法学部・教育学部(民青系)・第二政治経済学部が、十五日に教育学部(革マル系)がそれぞれスト中止を決議した。そして、最後まで去就が注目された第一文学部では十九日の学生大会が遂に深夜にまで及び、このため多くの女子学生も帰宅できない事態となり大隈会館や校舎内で宿泊あるいは仮眠する者が続出し、二十日付で第一文学部長名による、「下記の者は、昨夜の当学部学生大会に参加し、深夜に及び、帰宅できなかったことを証明します」との証明書まで発行することになってしまった。こうした大会を経て、二十二日午後二時までに学生投票が終了してスト中止と決定し、同五時に学苑最後のバリケードが撤去されたのである。ここに一月十八日の第一法学部・教育学部のスト突入以来の断続して打たれてきた全学ストが百五十五日ぶりに解除されたのである。

 翌二十三日、大学は「学生諸君へ」と題する次のような告示を掲示した。

学園の校舎の入口を閉ざしていた障害物は学生諸君の自治的な手続きによって撤去された。しかしこれによって大学が正常化したと考えることは早計である。教室で授業が行なわれるようになったとはいえ、失われた時間をとりもどすためには並々ならぬ努力と忍耐を必要とすることだろう。またこの度の事件の原因とみられる諸問題についても引き続き検討を要するものが多い。

学費の値上げに関連して、私立大学の経営に対する論議がさかんになったが、これは一大学内の問題にとどまるものではなく、その困難の原因の多くは戦後の社会情勢の急激な変動にある。したがってこれが根本的な解決をみるにはなお多くの時間を要することはいうまでもないが、これを促進するためにもひろく経営の実情を訴え、私学の立場を理解してもらうことが望ましい。経理内容の概要を公開することは、この方針に沿うて今後も続けるつもりである。

学生会館の運営については、まだ審議が最終の段階に達していなかったことでもあり、今後もこれを継続する。良識による規程のもとで、学生諸君が最も効果的に会館を使用できるよう、学生の代表者と関係者が充分話しあい、具体的な運営の方法を定めてゆく。話しあいの機会をもつことは、学生会館問題に限らず、学生生活のすべての面で必要であるから、諸君の意見が教授会に反映し、さらに理事会にも反映するよう各方面になお一層の配慮を願うこととした。教育の府である大学においては、人間関係をそこなうことのないよう、組織のいたるところにつねにこまかい神経のゆきわたるよう努めなければならない。

(『早稲田大学広報』昭和四十一年六月二十三日号外)

そして、「学問の独立」の意味を考え、学生の総意が教育と研究に支障のない洗練された形式を生み出すような「正しい自治の実行」が実現できるよう強く要望し、更に、「大学の教育の現状については、この事件を通じて鋭い批判をあびた。これらの問題こそこの度の事件の真の原因であったと解釈する。したがって正常化は、教育の刷新、機構の改革を通して行なわれるべきである。なかでも教育の問題は各学部教授会ですでに取りあげられているが、大学においても特別の委員会をもうけ、各学部の総意を交換し、その実現に強力しあう体制をとる」と声明し、「五ヵ月にわたるながい苦しみを、幸に転じうるか否かは、これからの努力にかかっている。全学の諸君が勇気と希望をもって前進することを期待してやまない」と最後を結んだ。そして、この日から全学揃っての授業が再開されたのである。

五 紛争の教訓

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 二章に亘り概観した百五十五日にも及んだ紛争の意味と、この事件がもたらした教訓などについて、少し述べておく必要があろう。

 紛争の当初、一般の学生は学生会館問題をよく理解していなかったようである。全学共闘会議が主導して始めた学費値上げ問題については、自分達にとっては密接な関係があるから、ごく自然に共感して行動した。そして、その推移を考えてみると、運動の時期自体が共闘派にとって有利で、大学側には不利であったと言える。すなわち、運動の初期の段階で学年度末試験に直面していたことが挙げられる。試験ボイコットという本来学生が行ってはならない行為が戦術に用いられて、大学側を大いに苦しめるという展開をたどった。つまり、試験が日一日とずれていく。そうすると一般学生は大学に出てきても試験が中止となっていて、繰り返される共闘会議派のアジ演説などによって次第に扇動されて、大学当局批判に共鳴し、やがて専攻やクラス単位などでこの問題についての議論が高まり、バイアスのかかった認識を新たにしていく。このような学生がやがてデモに参加していくようになる。こうして形成されていくデモの姿が意外と重みを増し、学内世論の高揚という形で社会に映っていく。そして、全学三万八千の学生が大渦巻きのデモを敢行しているというような光景(実際には、集会で一万三千人くらいが最大規模)が、ある種の錯覚として世間に拡まっていくようになる。特に、この時期は、一年半前のオリンピック東京大会を大きな契機としてテレビが一般の家庭に普及し始めた頃で、社会の人々は、そして、当の学生達自身も、同時性を武器とする映像情報で母校の紛争の展開を毎日毎日逐一追うという生活を暫く送ったのであって、こうしたテレビや新聞・週刊誌等のマス・メディアによって紛争が「事件」として増幅されてしまったという、こうした見方も成り立ち得る。実際、この紛争がいかに多くのメディアで取り上げられた「事件」であったかは、国会図書館が『昭和四十年十二月―四十一年六月「早稲田大学紛争」に関する文献目録――付・文献展望、経過日誌――』(昭和四十一年七月)を特に作成・刊行していることからも窺うことができよう。

 また、この紛争を機に、教員と学生との間の人間的な触合いの稀薄さが指摘された。ただし、ここにはやっかいな問題がある。学生は、大学において、アカデミックなものに常に憧れたり、真理の探求に若い情熱を最も注ぎ得る存在であり、事実注いでいる世代である。と同時に、殆どと言ってよい学生は、就職を志望し、学問以外に大いに学生生活をエンジョイしたいと考えている。このように学生は二つの面を併せ持っている。ここに、旧制と新制の大学の違いが出てくる。すなわち、大衆化してきた大学の変貌が顕著に現れてきた点に、この時期の特色がある。例えば、教員にとっては、学生を四年間何かと面倒を見なくてはならない。しかし、手取り足取り面倒を見るというのは高等学校までのことであって、大学では、学生を寧ろ突き放したところで学問や研究の仕方を教授する場であって、学生は自学自修という主体性を以て勉学に励まなければならない。このような思いで大半の教員は学生に接してきた。実はここに、旧制大学と新制大学とで教員と学生とのあり方の違いがあるのであって、制度の上では明確に新制への切換えができているにも拘らず、教員の方にも学生側にも内実がそれに伴っていないという面が露呈してしまった。教員が、大学は学問・研究をするところで、学生に対しての多方面に亘る指導は必ずしも必要とはしないとの旧制大学以来の気持で学生に接していたとしたならば、教員の手厚い指導を期待している学生との間に大きなギャップが生れ、両者相俟って学生生活をギクシャクしたものとしていっても、不思議ではなかったのである。

 学生と教員との関係を、学生と学部、学生と大学当局(理事会)との関係などの機構面から考えてみると、大学における死角とも言うべきものが浮き上がってくる。例えば、学生から教育に関する問題が出た場合、それを各学部の教授会が摑んで、これを学部長会を通して理事会に反映させる。その問題で費用がかかるというのであれば、理事会が可能な限り処理していくというのが理想的なあり方であろう。しかし、こうした学部から学部長会へ、そしてそれから理事会へというパイプが詰まることなく機能していたのか。学生ラウンジや学生会館の問題にしても、理事者側の主導で一方的に行ってきたという経緯がある。従って、そのプロセスにおいて、教授・教授会不在との指摘が、為にする非難とは一概に言えない。教授が教えるという立場だけではなく、学生の声、例えば、学生ラウンジを造ってほしいとか、読書室を拡充してほしいとかという学生の声を受けとめ、教授会から学部長会へと盛り上げるべきだとの意識がないという現実がある。こういった現実にも悲劇の根があった。従って、結局、矢面に立つのは常に理事会ということになる。しかし、理事会と学生が対立するという関係は本来的にはおかしな関係である。各学部にはそれぞれの個性・性格があり、学部の学生と教授会とが対立するというのならば自然であるのに、学生と理事会とがいきなり対立する構図となっている。ここには、マス・コミの取り上げ方の問題点も指摘しておかなければならないであろうが、学生対理事会という構図があまりにも大きなものとなっていた。これを別な角度から考えてみると、学生に対して、理事会(理事長すわなち総長、常任理事四名、理事六名の計十一名)は一体どれほどの権限があるのかと言えば、全くと言ってよいほど何もなく、学生の処分権もないのである。加えて、最高決定機関である評議員会(昭和四十年十一月現在で五十六名)に理事会より何人送り込んでいるかと言えば、総長も含めて六人であって、理事会の権限をめぐる機構的な問題点もある。解決せよ収拾せよと言っても、現在の機構では立ち所に解決できる状態になってはいなかったのである。理事会はこうした現実をいろいろな機会を捉えて率直に、実情はこれこれなのだ、と配慮を重ねて説明してきたかと言えば、この点についても反省すべきところがあった。しかも、紛争をめぐって、ただ対立史観のみでの取り上げ方(マス・コミを含めて)があまりにも支配的であり、学費値上げに反対した当時の学生の殆ど全員が、事態をそのように見ていたと言えるのである。社会もマス・コミも、そして当の学生自身も、学生運動・学苑紛争に対して固定的・先入観的・図式的な見方の呪縛に囚われていたのである。

 ここで、局面の展開において重要な意味を持ついわゆる「一般学生」と「一般教員」についても、多少言及しておく必要があろう。先ず、「一般学生」であるが、彼らは全体的には反共闘派ではない。どちらかと言えば、消極的な支持が多い。彼らは終始揺れ動く存在・層であり、その時点時点で流動する存在である。しかし、大変重要な存在で、往々にして興廃を決するのもこの層である場合がきわめて強い。選挙の時の浮動票層に通じる存在という面がある。彼らは、この後の「学生反乱」という「大学における政治の季節」後の政治や学生運動はもとより、身近でない事柄には関心を寄せないいわゆる「無関心学生」とは異っており、政治や社会の出来事に直接には係わることがなくても、関心を保って社会に対して大なり小なりの主体性を持ち得た学生であったように思われる。従って、彼らも、学生運動の活動家と同じように大学側に対する不信と警察に対するアレルギーを持っており、特に警察に対するアレルギーは、学苑における学生の場合、この頃までは、「伝統的に」強かったように思われる。そして、学生運動の指導者は、常に何か騒ぎを起し、こうした「一般学生」を盛り上げつつ引きずっていき、啓蒙し、リードし、常に緊張の緩まない状態を作り上げようとする。昭和三十五年の安保闘争の頃から、反日共系の指導層は、いわゆる混乱を起して、これをきっかけに大衆を動員するという戦術を採用するようになった。すなわち、事を「社会問題化」するのである。例えば、学苑の場合、警官隊が導入されることによって問題が大きくなる、結果的に混乱を大きくすることを狙っているとも見られる節がある。また、他面では、治安当局によるいわゆる「泳がせ」戦略も指摘されることがある。その中で、「一般学生」は、常に学内問題に引きもどそうという意志があり、外部の勢力に対しての拒絶反応が強いように思われる。一方、試験拒否については、この紛争で噴出してきた学苑の抱えている矛盾を試験ボイコットで解決することは無理なのだということを自覚し、そこから先をどうすればよいのかというような解決策へ向けての訓練が全くないという、いろいろな意味において、「自治」の訓練が未熟である存在でもある。

 次に、「一般教員」について。これは、「一般教育」科目を担当している教員という意味ではない。極端に言えば、自己の研究のみに中心を置いた教員生活を送り、「全体の一員」としての自覚に乏しく、自己の殻に閉じこもっている教員をいう。このタイプが大学教員には決して少くなく、いわば、「当事者」としての自覚や能力を欠き、我関せずとして、「解決」へ動こうとしない教員である。「一般学生」の存在がある意味ではやっかいな存在であるのと同様に、「一般教員」もやっかいな存在なのである。このような「一般教員」は、「教育」というものの原点から考えてみてもきわめて憂慮される存在としなければならない。そもそも大学における教員は、学業を伝える教育者としての教員、学問の蘊奥を究めて研究に邁進する研究者、そして大学の運営に責任を持たされる教員に大別され、これらを総称してファカルティとしての教授陣となるわけであるが、こうした中での「一般教員」は、自己中心的な研究生活(と言っても、論文すら書かない教員も皆無ではない)のみに専念しているわけである。従って、紛争の最中に、「戦前に比べて戦後の大学はこれだけ変貌を余儀なくされた。だから、いろいろな問題がこの時期にその他の要因と相俟って、これだけ出てきているのだ。何とか解決しよう」というような呼びかけがあっても、我関せずを決め込んで応じようとせず、諸事について理事会が常に矢面に立って努力を重ねても、これを尻目に見るような態度を採る。とはいえ、紛争の推移を見ると、やがて、そうした「一般教員」の中からも新しい動きが出てきている。「一般学生」ととことん真剣に話し合って、どう解決していくべきかを煮詰めていき、全学投票などの手続を経た上で、もう一度話合いを行うことによってしか「正常化」は望めないのではないか、そして、思い切った抜本的な変革がなされない限り、話合いによる解決策はない、ということに気づいた「心ある一般教員」も現れ始めたのである。

 加えて、学生の言うに言われぬ学生生活の中での不満はやはり授業であり、教室の規模である。マス・プロ教育への不満はきわめて根強い。高校全入の勢いが盛んとなり、やがて、その上の大学への進学率の上昇となる。「大学の膨張化時代」の到来である。これに大学が追いついていけない、施設の面でも、教員の面でも。しかし、学苑を含めて、私立大学はこれにどう対応したか。私学側に、誇るべき「建学の理念」に立脚して、これこれの教育を施しているのだという信念と自信があれば、安易に学生を増やすことは、実はなかなかできない筈である。それに対する責任があるからである。極端な言い方をすれば、「私学には定員がない」と言い切って、いわゆる「マンモス大学」の路線を採り、マス・プロで多数の学生を卒業させて、社会に送り出すというやり方も、一つの選択ではある。事実、この路線は、各大学に大なり小なり共通する部分を持っている。だが、大学志望者が増大してきた時に、国立大学こそが高等教育充実のために本来その責を負うべきではなかったのか。そうした中で、私学の形成と発展の歴史に鑑みて、私学は自己の掲げる個性豊かな教育の目標を見失ってはならない筈ではなかったか。こうした観点から見ると、いわゆるスクール・カラーが薄くなり個性が失われてきたと指摘されてくる時代において、却って慶応義塾大学とか本学苑などが注目を浴びるのである。誤解を恐れず、敢えて言うならば、こうした「大学の膨張化時代」に直面して、私立大学として良心的にやっていこうという大学にこそ紛争という悲劇が起ったのであり、できるだけ良心的に「建学の理念」を守ろうとする本学苑でこのような大紛争が発生したことは象徴的であった。大学史を見る上で、このような視点を重視する必要があろう。

 では、この紛争には、逆説めくが、一体「成果」と言うべきものがあったのだろうか。なかったとしたならば、あまりにも犠牲が大きく、きわめて不毛であったということになる。「成果」とは言わないまでも、「教訓」という点から考えてみたい。この紛争によって、日本の大学、特に戦後の大学そのもののあり方の矛盾が露呈したということ、現在の大学はこの辺りでどうにかしなくてはならないという時期に来ていることを社会に強くアピールしたということ、この意味は決して小さくはない。この点からすれば、学苑にとっては、紛争そのものはきわめて大きなマイナスではあったが、社会に対して大学像の再検討という課題を認識させたし、私学の財政問題について社会の強い関心を初めて掘り起した点において、プラスであったとも言えるのである。

 最後に、「学館問題」のその後の推移を記しておこう。紛争終結後の四十一年十月十四日、学部長会の要請に基づいて学生会館問題委員会が設置された。同委員会は各学部および体育局の教員代表、学生の会の会長代表、教務担当常任理事、学生部長、庶務部長ら二十四名から成り、以後、翌年五月六日まで十九回委員会が開催された。しかし、学生側との折衝は実を結ばなかった。その後、四十四年に再検討され「学生会館管理運営大綱案」が作成されて、建物の管理責任・人事および予算の最終決定は大学側にあるが、実際の使用上の問題は、学生代表によって構成される運営委員会によって運営され、規約や予算などは大学と運営委員会との間に設けられた協議会によって協議されることが提案された。しかし、その後も、学生側との折衝がうまくいかなかったばかりか、引き続く学苑紛争によって閉館もやむを得ない状態が長年続いた。この間、四十六年夏に建物保全のため外装の一部が補修され、更に五十五年に一階から五階にかけて改修が施されて、遂に秋より、竣工以来実に十五年ぶりに開館の運びとなったのである。

六 学生運動の変質

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 この「学費・学館紛争」以後も、学苑ではさまざまな学生運動が展開された。三年後の四十四年四月に学生のグループ(中核派・社青同派・反帝学評派が共闘)が大学によって封鎖されている第二学生会館を突如占拠したり、次いで、「大学運営臨時措置法」(当時のいわゆる大学立法)に反対して別のグループ(革マル派)が大隈講堂を占拠するなどしたり、激しい戦術を採って全学ストの実力行動を展開した。この紛争も半年ほど続き、学内は騒然とした空気に包まれ続けた。しかし、先の「学費・学館紛争」以後の学内の学生運動は、従来の運動とは著しく異り、変質したものとなっていった。この年五月に学苑では、闘争方針やイデオロギーの相違から竹竿や角材(いわゆるゲバ棒)を振ってのセクト間における激しい内輪揉めの武闘「内ゲバ」が出現し、この頃より、それが増加していった。そして、四十七年十一月、自治会活動に名をかりた特定の派閥諸集団の不法な行為の中から「川口君事件」(第一文学部二年生川口大三郎が集団暴行を受けて死亡した事件)という実に痛ましい事件が発生した。だが、暴力的傾向を著しく強めた学生運動の質的変化は、学苑のみの現象ではなく、国・公・私立の別なく全国的傾向となって現れてきたものであった。

 四十二年十月、「ヴェトナム闘争」の一環として学生集団が佐藤栄作首相の南ヴェトナム等の東南アジア歴訪の出発を阻止しようとして羽田空港で機動隊と衝突して死者一人を出し(第一次羽田事件)、翌月にも佐藤首相の訪米を阻止しようとして再び学生達が羽田で機動隊と衝突し三百三十三人が検挙された(第二次羽田事件)。そして、四十三年一月、東京大学で医学部のインターン制度に代る登録医師制度問題に端を発して大々的な「東大闘争」が起り、六月に全学共闘会議(東大全共闘)を結成し、紛争は翌年まで続き、遂に入学試験の中止という未曾有の社会問題を現出した。その過程で、学生達は「自己」を問い始め、中には「東大解体」まで論議する者もいた。この間、四十三年四月に、国税庁が日本大学の経理に二十億円の使途不明金があると発表したことから、学生が追及に立ち上がり「日大闘争」が起った。学生達は大学経営の民主化、全理事の退陣、経理の公開等を要求して五月に全学共闘会議(日大全共闘)を結成し、翌年二月の建物封鎖解除までに最終的に約千六百人が退学・除籍となる大闘争に突き進んだ。東大、日大双方とも一般学生も多く参加して紛争が長期に亘り泥沼化した。そして、四十三年から翌年にかけて、東京医科歯科大学、慶応義塾大学、京都大学、明治学院大学、中央大学、北海道大学、広島大学、東京女子大学をはじめとして、「大学闘争」は全国の大学で続発し、四十四年だけでも国立六十二、公立十五、私立四十七の紛争校を数え、まさに「学生反乱の時代」となった。しかも、「学生反乱」は決して日本のみの現象ではなく、世界的な潮流であった。一九六七年(昭和四十二)、西ドイツでヴェトナム戦争を背景に全国的な学生運動が起って大学の機能を麻痺させ、翌年には、アメリカでヴェトナム反戦等で激しい運動が発生し、コ・ンビア大学では建物占拠、全学スト、警官導入という典型的な展開がなされ、フランスでもパリ大学ナンテール校で大学の管理強化、ヴェトナム反戦を契機に過激な活動が始まり、ソルボンヌの占拠、カルチエ・ラタンのバリケード構築による警官隊との大衝突、そして労働者と結びついての「五月革命」という重大な政治危機を生んだ。中国でも、一九六五年(昭和四十)から始まっていた「文化大革命」の嵐が最高潮に達して北京大学の学長が罷免され、他の大学でも教授陣が学生の吊し上げに遭って大学を逐われたり、授業が長く停止になるというように、この時期は世界的に「スチューデント・パワー」の時代であった。この意味で、日本の「学生反乱」は世界的な若者の反乱と連動した動きであった。

 当時の日本の大学紛争は、前節で述べた如く、高度経済成長に伴う大学の大衆化現象にさまざまな局面で国の大学政策と各大学が十分に対応し切れなかったことに対する学生の不満が爆発して、全国的に吹き荒れたものであった。特に、大学の権威主義、つまり権威的な手続のあり方、学問のあり方や、健全経理、マス・プロ教育等々を根源的に問い続けるものであった。そして、従来の学生運動に指導的役割を演じていた共産党をはじめとする既成の党派に対する不信感を持つ「新左翼」が形成されて、これらの紛争の重要な担い手となり、また、自治会そのものの党派的運営などに反発して、「大衆団交」「全共闘方式」という直接参加・直接行動の運動体を生み出していった。加えて、これらの闘争は、大学構内を制圧しようとする機動隊と学生との衝突にとどまらず、特に東大闘争支援の「反日共系」学生の集団などは四十四年一月に神田駿河台から湯島にかけて道路を遮断し、「解放区」を造る目的でバリケードを築き、これを規制しようとした機動隊に投石を繰り返し、機動隊も催涙ガス弾を発射するなどしてこれに応戦し、市街戦さながらの様相を呈した。やがて、東大闘争は全国学生運動の各セクトと警察力との闘いの「天王山」と位置づけられ、五流十三派が参加して自派の存在を誇示するようになって、闘争は白熱化し、主導権を握るための内ゲバも多発化した。中には、東大正門に毛沢東の肖像写真と「造反有理」「帝大解体」の標語を掲げるセクト(ML派)も現れ、四十三年の大晦日には新年を前にして占拠派は安田講堂の壁面にヘルメットとゲバ棒で作ったしめ飾りを飾り、時計台の放送からベートーヴェンの「第九交響曲」を流し続けた。こうした長いバリケード生活と校舎の占拠、とりわけ安田講堂封鎖の意義は、大学院を中心とした全学闘争連合(全闘連)が四十三年七月三日に全学にばらまいたビラに窺うことができる。

封鎖、それは連帯のしるし!……せっかく立ち上りかけた学友が本部封鎖の事実によって離反してしまうとの批判の声があがっている。しかしそうだろうか?……諸君たちと、闘いの勝利、高度な運動の発展との間を結ぶ掛け橋として、時計台封鎖が真に有効なものであることを主張する。それは何故にか?これまでの闘いで我々は自己の存在そのものを全力をあげて大学当局につきつけてきた。これ以外に我々が得るものは何一つ無いことをいやというほど思い知らされる中で、まさしく本部封鎖はこの我々の全力をかけた闘いの象徴として行われたものだからである。すべての学友の心の中にわだかまっている自己の変革を通した闘いへのおそれ、そして傷つくことのおそれが、この本部封鎖実現によってあとかたもなく消し飛んだからである。我々の封鎖によってもたらされた全学的状況は、我々と諸君の運動における離反としてあるのではなく、かえってこの封鎖の実現によって解き放たれたところの限りない闘いの可能性、そして自由な行動の発議が保証されたのだ。……我々の本部封鎖は、封鎖により我々自身を、そして諸君を閉じ込め固定化するものでは決してない。我々は逆に、封鎖により、自らを大衆的に解放し、全学友の闘う本当の具体的行動を要請しているのだ。諸君、我々は、封鎖により、そしてその封鎖を、我々のこれまでの統一スローガンの勝利まで、徹底的に守りぬき、かち取ることを、あらためて決意する。

(山本義隆「理性の錯乱」情況編集委員会編『大学叛乱の軌跡――論文集成」 二三九頁)

これもまた、「拠点の論理」と「闘いの象徴」という行動様式の類型の一つであった。

 その「天王山」となった「東大闘争」は、四十四年一月十八日の朝から翌十九日の夕方にかけて、大学側の要請で機動隊八千五百人が出動して占拠学生が立て籠もる安田講堂や法文二号館および工学部列品館などの封鎖解除の実力行使で決着を見た。占拠学生は投石を繰り返し、火炎ビンを投げつけ、火炎放射器を使って激しく抵抗し、これに対して警察側は、警備車七百台、ヘリコプター三機、ガス弾四千発、消火器四百七十八個、エンジン・カッター二十三個、鑿岩機四台という未曾有の物量を投入した。長期に亘り占拠されていた安田講堂は堅牢な砦と化していたため下から発射する催涙弾程度では攻めきれず、遂にヘリコプターから催涙液を空中散布するという戦術を採用したほどである。そして講堂正面に突破口が開けられて、占拠学生三百七十五人が逮捕されたのであった。学生と機動隊との白熱した攻防は、さまざまな角度からテレビによって全国に同時中継され、国民の目は、茶の間で、職場で、道すがらの家電器機販売店の店頭で、この光景に釘付けされたのであった。

 東大の「安田城落城」前後に起った尖鋭的政治学生の陰惨な諸事件――新宿駅襲撃事件(昭和四十三年十月)、よど号ハイジャック事件(四十五年三―四月)、警視総監土田邸小包爆弾事件(四十六年十二月)、クリスマス・ツリー爆弾事件(同年同月)、浅間山荘事件(四十七年二月)、連合赤軍リンチ事件(同年三月)――は、一般の学生や、この時期に高校生であったり、中学・小学生であった生徒達に、「学生運動はおっかないものだ、首を突っ込んではならないものだ、学生は政治運動をしてはいけないのだ、関わりを持たない方がよいのだ」という気持を抱かせるようになっていった。二十歳前後の大学生が政治に強い関心を抱き、健全な政治意識を養うのは、民主主義国家として最も重要であることは論を俟たない。しかし、過激な学生運動は、これ以後、民主的手続を経た正当で健全な自治活動にさえ「関わりを持つべきではない」との先入観を、その本来の構成者であるべき学生に、その幼少年期に植えつける役割を果してしまった。我が学苑は、明治期の創立当初からしばしば政治学校と目されたが、その最大の育成者の高田早苗はただの一度も政治家や高級官僚の育成を目指したことはなかった。それは、「政治に間接に関係する者が健全であるといふことが国家の為めに必要である」(「憲法に関する回顧と希望」『高田早苗博士大講演集』三六九頁)との確固とした信念を抱き続けていたからである。将来「政治に間接に関係する」若者が、学生時代において健全な自治の修練に励むことに背を向けた時、次世代の国家はどのようなものとなるのか、高田ならずとも大いに憂えるべきこととしなければならない。

 かつて新制発足頃の学生運動には、自他ともに活動家を任じていた政治的学生にあっても、その活動の中にロマンの香りが漂い、当時の学苑紛争はもとより、四十―四十一年の「学費・学館紛争」の際にも、活動が重要な局面に直面したり高揚したりした時、あるいは、クラス単位などでの行動の締めとも言うべき時などには、校歌「都の西北」が大合唱されたものである。ところが、こうした光景は、「学費・学館紛争」をほぼ境として、以後は見出せなくなってしまった。学生運動の変質は、実はこのようにところにも反映していたのである。そして、この時期の学生運動に立ち合った一ジャーナリストは、「わずか半年の全共闘運動、安田講堂占拠でしかなかったが、たしかに歴史的な意味を残した。今、学生の非政治化、アパシーが問題になっており、経営者や大学教授から『個性的学生を』などといわれるが、僕は『そうさせたのはあなた方じゃないか』と反論する」(高木正幸「時代の私 朝日新聞記者」『AERA』平成一年一月十七日号 七〇頁)と、断罪の意味を込めて回想している。この時期の学生運動の後遺症は、このような点にも現れていたのである。