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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第十四章 昭和三十年代の教育機構改革

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一 学部と大学院の改革

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 昭和三十年代における最大の教育機構改革は、前章に詳述した夜間学部に関わるものであったが、その他にはどのような改革が行われたのか。学部ごとの変化の詳細は別巻Ⅰ・Ⅱ第一編に譲るとして、ここでは増・新設ならびに廃止された学科・専修・課程の概要について説述する。ただし、第一文学部および第二文学部の四十一年の学科再編成については前章第五節に、大学別科として三十八年に開設された国際部については本編第五章第三節にそれぞれ詳述したので、あらためて触れることはしない。

 昭和三十年代から四十年代初期にかけて変化が最も著しかったのは教育学部で、三十一年に教育学科教育行政課程の廃止が決定された反面、三十三年に専攻科が、三十七年に教育学科教育心理学専修が、三十九年に教育学科体育学専修と理学科数学専修・生物学専修・地学専修がそれぞれ増・新設されている。

 右のうち前二者は教員免許の法整備と連動している。敗戦の翌年に来日したアメリカ教育使節団は、教員養成教育につき、第四巻九〇一頁に摘記した如く、修業年限が短く画一的な教育を行っていると判定された師範学校を全廃して、大学学部に教職課程を設けて高度の専門教育を施すとともに教育実習を実施するよう勧告した。二十四年四月の新制早稲田大学発足に際して学苑は高等師範部を教育学部に昇格させたが、その翌月三十一日、勅令「教員免許令」(二十二年廃止)に代る「教育職員免許法」が法律第百四十七号として公布された。使節団の勧告を取り入れた同法は、教員養成機関を大学のみに限り、資格取得に必要な単位はどの大学でも得られるとし、教員免許状を普通(一級と二級)・仮・臨時の三種に分けた上で、それまで任命制であった教育長、指導主事、学校長など教育界における管理職も免許状を得なければならないと定めた。二十七年、教育学科に教育行政課程が設置された経緯は第四巻一〇五五頁に記したが、これは管理職人材の養成を目的に置かれたのであった。しかし、旧免許状を持つ多数の現役教員の既得権を尊重しつつ新免許状への切り替えを行わなければならなかった当時の事情を斟酌すると、「教育職員免許法」が意図した「教育職員の資質向上」(『日本近代教育百年史』第一巻一二八二頁)は直ちには実現せず、また免許制度も複雑だったので、同法は二十九年五月に改正された。改正法は、大学二年修了または短期大学卒業者に与えられた高等学校教諭仮免許状を廃止するとともに、これまで大学院修士課程修了者または一定年数の教育現場経験者に限定されていた高等学校教諭一級免許状の取得者養成を一年制の専攻科でも行い得るように改め、更に、管理職の免許状要件を免許制度簡素化・行政簡素化の立場から廃止し、人材を広く登用できるよう任命制に戻した。この法改正により教育行政課程を設置する意味がなくなったから、三十一年度より同課程の学生募集を停止することにしたのである。なお、同課程在籍者については、そのまま同課程にとどまるも、同じく教育学科に設けられている教育学課程または社会教育課程に移籍するも、本人の自由意志に任すことになった。

 右の法改正を機に専攻科が創設された。専攻科とは、第四巻九一五頁に示した「学校教育法」第五十七条の規定に準拠する課程であり、文部大臣に提出した申請書に添付の専攻科設置要項によると、「教員養成を主目的とする教育学部の基礎の上に更に精深な程度において特別な専門課程による教授を行い、その研究を指導し、専門技能者を養成する」ことを目的とした。前段で述べたように、二十四年の「教育職員免許法」では、高等学校教諭一級免許状を得る方法は、教職課程を履修して学部を卒業したのち、先ず仮免許状を与えられて一定の教職経験を経るか、または大学院修士課程を修了するかの二つに限られていた。ところが二十九年の改正免許法は前者の仮免許を授与する方法を廃止し、高校一級免許状を得るためには、大学院で修士の学位を得るか、さもなければ、大学の専攻科または文部大臣の指定するこれに相当する課程に一年以上在学して三十単位以上を習得するかのいずれかを基礎資格とした。学苑には大学院文学研究科があり、教育学部卒業後ここへ進んで修士号を得る者も少くなかったが、敢えて専攻科設置に踏み切ったのは、文学研究科が研究者養成機関であって高等学校教員の養成には適していないとの判断に依る。尤も、教育学部に設置されているすべての学科について専攻科を設けるのには多大の経費を要するので、高等師範部時代からの伝統を引き継いで担当教員の確保が比較的容易な国語国文学専攻科と英語英文学専攻科との二学科のみを置くことにした。専攻科の設置申請がなされたのは三十二年十一月三十日である。文部省は、名称を「早稲田大学教育学部専攻科」から「早稲田大学専攻科」と改めるよう指示した上で、これを受理した。

 三十三年四月に開講した修業年限一年の専攻科の定員はそれぞれ五十人で、国語国文学専攻科には十四科目・五十六単位が、英語英文学専攻科には十三科目・五十二単位が配当され、履修すべき総単位数は三十二単位以上と定められた。第一時限は午後三時五十分に始まり、教育学部のみならず他学部や他大学の卒業生のほか、中学や高校の現職の教員も放課後に通って学んだ。今井卓爾は次のように回顧している。

専攻科は一年修了であるので、二十数回の授業で何をどの程度にしたらよいのか、抽象的にはなにとなしにわかっているようでありながら、具体的には迷いばかりが先立って、名案がうかんで来なかった。国語の教科書は文学が主であるとは限られておらず、まして古典文学などは中心にすえられているようでもない。社会や、時には理科に関連しているものも取り込まれているので、広範囲の教材に対応できるようなものが専攻科の授業に求められるようであるとすれば、迷いは倍増されるばかりであった。国文学演習を履修しようとする学生の顔触れを見ると、実に多種多様で、授業への不安感は増幅されるばかりであった。第一、第二文学部や教育学部の卒業生の状況はおよその見当はつくものの、他大学出身者になると、実態を知ることはむずかしく、また、男女差はともかく、年齢差もかなりあったので、計画はきわめてたてにくかった。すでに教育現場にいて、豊富な経験をもちながら、さらにより高いものを求めようとしている学生も少くはなく、中には、公然と研修に来ていた者もあったし、職場の同僚などに気づかいをしながら時間に遅れまいと来る者もあった。一方では、当年に学部を卒業してそのまま専攻科に進んだ者も少なくはなく、こうした学生の方がむしろ多かったようであった。これらの中には、卒業と同時に教職につくつもりはなく専攻科を目ざした者があったし、たまたま教職につく機会を逸して、行きどころを専攻科に求めてきた者もあった。こうしたさまざまな環境から入学してきた学生の意欲をすべて同一目標に集中させることができるかどうかは、必ずしも楽観的立場でいるわけにはゆかなかった。 (「五十音図といろは歌」『早稲田大学専攻科のあゆみ』 一―二頁)

創設時以降の講義担当者や修了者数などについては、別巻Ⅰ第一編第四章、ならびに、平成二年四月の大学院教育学研究科開設に伴い三十二年間の歴史の幕を閉じることになった際に刊行された『早稲田大学専攻科のあゆみ』に譲る。

 三十七年四月、教育学科に教育心理学専修が増設された。昭和三十年代には、心理学の研究成果を生徒指導に活用する試みが積極的に行われた。しかし、専門知識を具えた現場教員は必ずしも多くなかったから、早急に彼らを養成する必要があった。第一文学部には既に長い歴史を閲する心理学専修があったが、これとは別に専門課程を持ちたいとの教育学科教員の強い要望により、「実際の教育活動に直結する諸問題の心理学のみならず、広い視野に立って心理学の全分野を学ぶ」(『教育学部学部要項』昭和五十八年度版)ことを目的とする教育心理学が設けられたのである。専修増設届を文部大臣に提出したのは三十六年十月三十一日で、このとき同時に、教育学科三専攻の課程から専修への名称変更と、先に述べた教育行政課程の廃止をも届け出た。届出書に添付された「専攻課程増設の事由」には左の如く記載されている。

今日、心理学的研究をぬきにした教育研究はあり得ない。したがつて教育心理学は、教育学、教育社会学などと並んで、教育研究の中心科学とされている。現在、教育学科には教育学・社会教育・教育行政(在籍学生無し)の三専攻課程があるが、教育心理学は学科目として設置されているが、専攻課程としては設けられていない。そこで、昭和三十一年度以降学生募集を停止し、既に在籍学生の無くなつた教育行政課程を廃止し、教育心理学専修を新設してこの面の充実をはかるものである。

 文科系の学科しか持たない教育学部が理科系学科を新設したいとの希望を抱いたのは昭和三十年代初期であった。すなわち、三十二年二月に発足した学部拡充委員会(委員長竹野長次学部長)はほぼ一年を費やして教育学部の性格、内容などを検討し、政府の科学技術振興政策に応える形で学科課程に自然科学(数学、物理、化学)系を増設する計画を立て、三十四年度から実行に移したい意向を明らかにした。しかし、理工学部に設置されている同種の学科との兼合いや教育・実験施設、教員組織などさまざまな問題に直面し、実現に至らなかった。

 その後、我が国は本格的な重化学工業化の時代を迎えて技術要員に対する需要が大きく膨らみ、高等学校や中学校における理科教育充実の必要性が急速に増大したのに、数学や理科の担当教員の必要数を確保することがどの学校でもますます困難となった。学苑でこの方面の教員を供給できるのは理工学部だけであったが、その卒業生は企業から引く手あまたであったから、教職に就く卒業生の数はごく少かった。このような事情から、各地の学苑出身学校長より、理科系学科の増設が教育学部に強く要望されたのである。そこで三十七年十一月、教育学部教授会はあらためて学部拡張委員会を発足させた。加えてこの折、体育振興に熱心な大浜総長より、体育教員養成を目的とする体育部門設置の件も併せて検討するよう要望が出されたため、同委員会は学部組織研究委員会と改称、三十八年四月、「数学科、理科(物理・化学・生物・地学)および体育厚生学科増設に関する学部長試案」を作成したのであった。同案は五月と六月の教授会で検討され、七月には「教育学部教育学科体育学専修設置要項(案)」および「教育学部理学科設置要項(案)」の成案を得、同時に専門委員会が発足した。しかし最終的には、理学科のうち物理・化学の両専修については、理工学部に応用物理学科と応用化学科があり、教育学部に両専修を設けるのは実験設備、経費、人事等の点で負担になるから見合せたいとの理事会の意に従ってその設置を中止し、三専修のみを置くことにして、九月三十日、文部大臣に申請するに至ったのである。

 こうして三十九年四月、教育学科に体育学専修と、数学・生物学・地学の三専修を持つ理学科とが新たに開設された。新制への移行に際して廃止された高等師範部体育科の十六年ぶりの復活とも言える体育学専修は、学校教員および社会体育の指導者、産業界における厚生・健康管理者、スポーツやリクリエーション指導者の養成を目的とした。担当教員には体育局より移籍した者が多い。他方、理学科は、これまた大正六年に生徒募集を停止した高等師範部数学科および理化学科の再生と言えなくもないが、私立大学では初めて理科系教員の養成を専門に行う学科である。校舎や施設は西大久保に移転したあとの理工学部のそれらを活用し、教員は理工学部や他大学から招聘したほか、一般教育科目の自然科学系担当教員が専門学科を担当した。数学専修の目的は、数学、特に現代数学の各分野に亘って学習・研究を行い、高等学校と中学校の数学教員、および純粋数学・応用数学の研究者を養成することにあった。生物学専修は、高等学校と中学校の理科教員は勿論、広く産業界で生物学を必要とする分野や、生物学と関連する諸研究機関の研究者・技術者として第一線で活動できるよう、優れた能力を身につけた人材の養成を目的とした。地学専修の目的は、高等学校と中学校の理科教員の養成とともに、資源開発・建設業界における地質調査部門の技術者・研究者として、あるいは生産工場の材料部門等に広く活躍できるよう、専門知識の応用能力を育成することであった。

 ところで、二八五―二八六頁に述べたように、アメリカ教育使節団は教育実習の必要性を説き、「教育職員免許法」は教員資格をどの大学のどの学部でも取得できるとしたが、新制大学の特徴の一つに、教育実習を受ける学生の激増が挙げられる。その結果、教員養成に力を入れている大学は、十分な数の実習校確保に頭を悩ますことになった。我が学苑も例外でなく、それだけに、三〇〇頁に後述する如く、早稲田実業の系属校化の話が持ち上がったときには、これを「教員志望学生のための実習校として活用するのに便宜である」として諸手を挙げて歓迎したのであった。

 教育学部の如上のような充実のほかに、この学部改変期に充実が図られたのは理工学部であった。二つの理工学部が発足した昭和二十四年、第一理工学部には機械工学科、電気工学科、鉱山学科、建築学科、応用化学科、金属工学科、電気通信学科、工業経営学科、土木工学科、応用物理学科、数学科の十一学科が、第二理工学部には機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科の四学科が設けられた。第一理工学部十一学科のうち新制大学発足時に新設されたのは応用物理と数学の二学科であった。なお、第一理工学部に置かれていて第二理工学部に存在しなかった学科のうち電気通信に関する課程は、三十三年、電気工学科の分科として第二理工学部にも設置されている。こうして二学部で始動した理工学部ではあったが、前章第三節で見たように、長時間の実験が欠かせないため夜間の授業では学習目的を十分に達成できないとの判断から、最も早く三十六年度から第二理工学部の学生募集を停止した(廃止されたのは、在籍者が皆無となった四十三年三月、第一理工学部が理工学部と改称するのは四十三年度からである)。

 この三十六年度より第一理工学部の鉱山学科は資源工学科と改められ、対象範囲を鉱山から資源一般へと拡げたが、この年四月、大学院でも改革が実施された。これまで工学研究科の応用物理学専攻には博士課程がなく、数学専攻は修士課程も博士課程も設けられていなかったが、新制理工学部発足後十二年間の実績により漸く研究者育成の目途がついたので、これらの増設に踏み切った。こうして理工学部の大学院課程は学部とほぼ同系列の専攻を備えるに至ったが、応用研究だけでなく基礎研究の重視という姿勢を明確にするため、従来の工学研究科を理工学研究科と改めることになった。文部大臣への申請書には次のように説明されている。

現下、科学技術者の養成は産業界の強い要望でもあり、応用物理学・数学の分野においてもその重要性は増大している。現在、本大学工学研究科には、機械工学専攻・電気工学専攻・建設工学専攻・鉱山及金属工学専攻・応用化学専攻の各専攻について、それぞれ修士課程・博士課程が、応用物理学専攻については修士課程のみ設けられていたが、教員組織等の強化に伴ない、応用物理学専攻に博士課程を増設すると共に、数学専攻修士課程・博士課程をも増設し、あわせて各専攻の学生定員を変更し、その拡充をはかるものである。なお、右専門課程の増設に伴ない、工学研究科の名称を理工学研究科に改めるものである。

 四十年四月には理工学部に物理学科が増設された。先に触れた如く第一理工学部には応用物理学科が既に存在していたが、これとの相違および設置理由が、三十九年九月三十日に文部大臣に提出した届出書に左のように説明されていて、基礎研究・教育の充実を図ったものであることが分る。

現行の応用物理学科は、物性工学、計測工学等すでに確立している物理学の成果の応用、言葉をかえていえば物理学と工学との結びつきの領域を対象とする研究および教育の機構であるが、物理学科は、素粒子物理、原子核理論、宇宙線実験等の広義の原子核物理、個体物性、極低温物理、生物物理等の物理学の基礎的分野を対象としてさらに未知の分野の開発を志向する研究および教育の機構である。科学技術の飛躍的の進歩発達に伴い、理学と工学との連帯性、両者の有機的結合の重要性が実証され、大学における工学教育においても基礎科学の比重がますます増大する傾向にある。理工学部においてはこの情勢に対応してさきに応用物理学科を設置し、さらに創立八十周年記念事業の一環として理工学部の規模の拡張と施設設備の全面的の一新をはかるにあたつて、基礎科目の教育を前面に押出して教育体制の刷新を断行したが、基礎物理学は最も基礎的な科学であるばかりでなく、未開拓の分野が多く残されている領域でもある。そこで大学としてはこの分野の研究体制を確立することが焦眉の急務であるが、それには物理学科を設置することが不可欠であるばかりでなく、この学科の設置は、この分野の研究者養成の観点からも、また理工学部全般の基礎科学教育の充実向上をはかる上からも極めて重要である。

なお、この物理学科とともに化学科の増設も計画されたが、このときは見送られた。化学科の開設が実現したのは、次編第七章に後述するように、八年後の四十八年である。いずれにせよ昭和三十年代後半から理工学部およびその大学院では基礎研究が従来以上に重視されたわけであるが、これは理工学部のあり方にとって大きな転換期に当っていた。折からの重化学工業化は相次ぐ大型の技術革新を特色とし、製造企業は膨大な研究開発費を投入して新製品や新製法の開発に取り組んだ。こうした中で、研究費に限界があり設備を更新し続けるわけにいかない大学の理学部や工学部は、応用研究に関して企業の研究所に大きく後れをとり始めたのである。大学が産業界をリードする研究を進めることが難しくなると、基礎研究や基礎科学教育に活路を見出す以外に方途は残されていなかったと言える。

 ところで、新制大学が旧制大学と根本的に異る理念の第一点は、教養教育の重視である。これを実現するため、どの学部の学科配当でも一般教育科目が人文科学、社会科学、自然科学の三系統に分けて置かれ、学生が各自の関心に応じて選択できることにしたのであった。しかし、この新しい理念は、専攻学問の研究を重視する旧制大学の中で育った教員の意識になかなか馴染まず、容易には定着しなかった。学生の間でも、大学入学後二年間は高等学校の授業の焼き直しのような講義を大教室で聴かされて、失望する者が少くなかった。第二の相違点は、学部での専門教育を旧制の三年間から二年間へと短縮し、高度の専門教育は学部でなく大学院に委ねられたことである。ところが社会は、高度の専門教育は大学院で行われるとの理念を理解できず、相変らず学部を専門教育の完成機関と見做す風潮が根強かった。我が国経済が戦後復興から重化学工業化へと進み始めた昭和二十年代末期になると、高度の専門知識を有する技術者の大量育成が大学に要請されるに至り、学部での一般教育科目縮小と専門科目拡大とを求める声が高まった。五九頁に前述した如く三十一年に文部省令「大学設置基準」が公布されたが、同省令は、主として工業界から沸き起った専門教育重視の声を反映して、「一般教育科目に関する授業科目のうち、その学部の専攻分野に関連のあるもの」(第二十三条)を「基礎教育科目」に指定し、学生に必修させることができるとした。これに基づき学苑の第一理工学部は三十八年度から、数学、物理、化学を基礎教育科目に指定して必修を義務づけた。こうして一般教育科目縮小の第一段階が開始し、やがて四十年代に入ると他の文科系学部でも一般教育科目の見直しが進展するのである。

 一般教育科目と並んで新制大学の教育の特色となった語学科目と保健体育科目の教育システムにも触れておこう。新制への切り換えに当り、多くの他大学が設置したような前期二年課程の教養部を学苑は設けず、どの学部にも一般教育科目および語学科目の担当教員を配置して、縦割り制を採ったのである。このうち語学教育については、担当教員を一箇所の機関に集めることにより縦割り制を廃して全学部共通の横割り制に改めようとした大浜総長の着想は実を結ばなかったけれども、保健体育教育は第四巻九四六―九四七頁に既述した如く学部縦割り制でなく全学部横割り制として発足し、これを一括して担当する体育部が新設されたのであった。それまで養成されてこなかった体育実技担当教員を全学部に配備するのは、人材確保の面でも費用の面でも不可能と判断されたからである。加えて実技のための施設も十分でなかったから、正課体育を担当する体育部は、昭和二十七年、野球部や水泳部など二十八の運動部を統轄する体育会と合体して体育局となり、各運動部のコーチらが正課体育をも教えると同時に、運動施設を正課体育と課外体育とが共用するシステムを作り上げた。施設に関しては三十二年に記念会堂が竣工して渇を癒され、体育局独自の建物も三十六年に竣工して保健科目もここで一括教授されることとなったが、奇しくもこの三十六年、日本学術会議も中央教育審議会も大学における必修科目の保健体育の教育効果に対して疑義を投げかけたのである。四十年代半ば以降これについて議論が深められ、やがて平成に入ると遂に必修科目から除外されることとなる。

 他方、学苑における大学院の理念はどうなったであろうか。第四巻一〇一一―一〇一二頁で述べた如く、他大学の大学院が概ね二段式、すなわち修士課程を修了した上で博士課程に進む構造になっていたのに対し、学苑の場合には、修士課程を経ないで博士課程に入ることもでき、いわゆる「二本立て」となっていた。こうした制度を採用したのは、修士課程と博士課程とでは本来その目指すところが異り、博士たるためには修士の学位を必ずしも必要としないとの認識に基づいていたのである。しかし現実には、修士課程に進む者の大半が博士課程への進学を目指しており、また経済学研究科のように二段式のみの研究科もあって、この二本立て制度は、新制大学院発足当初から狙い通りに機能しなかった。そして三十九年度に至り、遂にこの二本立て制度は運用が停止されてしまったのである。因に、学則上の改正は四十五年一月十六日のことである。

二 新聞学科と自治行政学科の廃止

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 第二政治経済学部が学生募集を停止した昭和四十一年度から、第一政治経済学部は新聞学科および自治行政学科の学生募集停止に踏み切った。第四巻三五一―三五六頁に既述した如く、新聞学科は二十一年学部に、自治行政学科は二十三年専門部政治経済科に、戦後の新生日本の担い手を育成するものとして大きな期待を集めて発足したユニークな学科であり、二十四年、新制大学発足とともに第一政治経済学部に移行、存置されたのであった。しかし、新聞学科に関しては、ニュース編集のテクニックは社内教育により教えることができるので、寧ろ政治・経済・社会に関する一般知識や分析能力を具えた卒業生がほしいというジャーナリズム側の要望を反映して、政治、経済両学科からマス・コミ界に進む学生が多かったし、また教員に人材を得られず指導が不十分であった。自治行政学科に関しては、同じ第一政治経済学部でも比較的合格し易いとの受験戦術として志望した結果、入学後他学科への転科を希望する学生があとを絶たなかった。このような実情に鑑みて存続に疑念が表明され始め、夜間学部の統廃合問題とともにこの問題が大きく浮上し、四十年六月、第一政治経済学部教授会は両学科の廃止、「新聞学科および自治行政学科に配当されている主要な専門教育科目は、検討の上、これを政治学科または経済学科もしくは両学科に配当し、両学科の学生が履修できるようにする」こと、および「他学部と協力して、大学院にマス・コミュニケーション研究に関するコースを設置するよう努力する」ことを申し合せ、これを七月に正式決定したのである。

 両学科廃止の決定は、両学科に学ぶ学生に大きな衝撃を与え、反対運動をひき起した。これに対し第一政治経済学部教授会は、今回の措置は既に両三年前から検討し、さまざまな人々の意見を聴き慎重な審議を重ねてきた結果得た結論であるとし、両学科廃止の理由を次のように説明して学生の説得に当った。

一、両学科の専任教員数が著しく不足し、またこの分野の研究者絶対数が僅少であるので、補充の道が困難である。

二、現在自治行政学科に配当されている学科目と政治学科の学科目とが多くの点で共通しており、自治行政学科独自に配当されている学科目を政治学科に配当しても支障ないし、むしろ望ましい。

三、新聞学科には、政治学科と経済学科に配当されている基礎的な専門教育科目を従来以上に履修させるべきである。しかし、現行以上にそれらを新聞学科の学生に課することは、新聞学科創立以来の職業教育の伝統を維持することを困難にさせるし、学科の独立意義を失わせる。

四、現在、マスコミ界に進出する学生は政治学科、経済学科に多数存在しているので、新聞学科の主要課目を両学科の学生にも自由に履修出来るようにすべきである。そのためにも、新聞学科を現在のような封鎖的な独立学科として存続することは再考を要する。 (『早稲田キャンパス』昭和四十年九月十五日号)

 学生側は学部のこのような対応に対し、授業放棄などの手段を以て反対運動を展開したが、評議員会は学部の方針を支持し、十月十五日正式に承認した。これを承けて第一政治経済学部教授会は十九日付で次のように告示した。

第一政治経済学部は、新制大学発足以来、政治学科、経済学科、新聞学科および自治行政学科の四学科をもつて構成されてきたが、今日、学部組織および学科目について、二十年に近い経験に照らし再検討を加えるべき時期に達した。本学部ではかねて学部組織につき教授会において慎重に検討を重ねてきた結果、新聞学科および自治行政学科は、学部教育の段階においては、独立の学科として編成するよりはむしろより広い基盤に立たしめることが適切であるという結論に達し、昭和四十一年度以降両学科の学生募集を停止することに決定した。

新聞学科はその名称に「新聞」の表現を用いてはいるが、それは単にマス・メディアの一としての新聞のみを対象とする趣旨ではなく、ラジオ、テレビ、映画、定期刊行物などを含めたいわゆるマス・メディアおよびマス・コミユニケーシヨン現象一般を対象とするものと解しなければならない。しかし、このように広義に理解したとしても、学部教育における学科としては、政治学科または経済学科と対比した場合あまりにも専門的に偏するうらみがある。自治行政学科についても、ほぼ同様のことがいえる。民主政治において地方自治が重要であることはいうまでもなく、また、自治行政が学問研究の対象として一分野を構成することは疑いないが、これをただちに学部教育の次元における学科の基盤とすることには難点がある。

本学部は、明年度からの右両学科学生募集停止が十月十五日評議員会で正式に承認されたので、明年度以降とるべき措置を教授会において次のごとく決定した。

(一)学生募集停止後も現在両学科に在籍する学生が卒業するまでは両学科を存置し、勉学の初志を尊重して、できる限り改善をはかる。

(二)両学科の学生で希望するものがあるときは、新聞学科の場合は、既に履修した科目により政治学科または経済学科に、自治行政学科の場合は政治学科に、それぞれ転科することを認める。その手続きの詳細は、おつて発表する。

なお、新聞学科、自治行政学科に配当されている主要専門科目については、新学部組織のもとにおいても、もつとも適切な形式と内容において、政治学科または経済学科もしくは両学科にこれを存置し、明年度以降入学する学生が選択履修できるよう、また、マス・メデイアおよびマス・コミユニケーシヨン現象の研究については、大学院またはその他の研究機関を全学的規模により設置するよう努力することを、教授会は申し合わせた。さらに、教授会としては、本学部の今後の発展のためできる限りの努力を傾ける考えである。

学生諸君、特に新聞学科および自治行政学科の学生諸君が今回の学部組織再編による両学科の名称の消滅に対していだく哀惜の情は十分に察することができるが、本学部の方針を理解し、勉学に専心するよう切に希望する。

 右の告示にあるように、両学科所属の学生は政治学科か経済学科への転科を認められ、その手続は早くも翌十一月十六日より第一政治経済学部事務所で始まった。また新聞学科の大学院コース設置を検討するための小委員会も第一政治経済学部内に設けられたが、これは実現に至らなかった。なお、二学科が正式に廃止されたのは、第二政治経済学部廃止および第一政治経済学部の政治経済学部への改称と同じ四十八年のことである。

 新聞学科と自治行政学科の廃止は第二学部存続問題に次ぐ大きな学部組織改変であり、欠陥の是正には限界が存するのを率直に認めて廃止と判断した学部に対しては、当然賛否両論があり得よう。特に新聞学科廃止については、当時第一政治経済学部長としてこの決断に踏み切った小松芳喬は、次のように述べている。

廃止が決まりましてからすぐに私は〔阿部賢一〕先生のところにご了解を得るようお伺いしたんですが、先生はどうしても納得してくださらなかったのです。同じ新聞人でも私ども新聞学科設立の生みの親の小汀利得さんは新聞学科の歴史を顧みて、新聞学科は失敗だったという結論を承認せざるをえないとのお考えから、新聞学科の廃止に双手を挙げて賛成してくださって、ご苦労さまという葉書をわざわざ私にくださったほどでございましたが、阿部先生はどうしても納得してくださらなかった。

(「座談会 阿部賢一先生を偲ぶ」『早稲田大学史記要』平成二年三月発行 第二六号 二五八―二五九頁)

三 早稲田実業学校の系属校化

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 明治三十四年に設立され、中等程度の実業教育に専念した早稲田実業学校は、早稲田大学および「早稲田中学……をも併せて早稲田学苑と総称」(『早稲田学報』大正七年八月発行 第二八二号 六頁)されて、大学とは「親子兄弟の関係にあった」(逗子浪夫「私立学校」『早稲田公論』昭和三十八年十一月号 二七頁)ものの、制度上は大学の傘下から独立し、大学とは別個の法人が運営してきた。その上、東京専門学校創立の功労者の一人で、早稲田実業学校の設立・運営にも与って力のあった天野為之は、「早稲田騒動」以後は早実の校長に就任して学苑とは殆ど無縁の状態になり、昭和十三年に没してから後も、学苑から久しく顕彰されることがなかった。

 さて、次編第十七章に後述する如く、天野生誕百周年に当る昭和三十六年、この「忘れかけていた学恩ある先覚者の記憶を学園内に復活させ」(阿部賢一天野為之先生のこと」『早実七十五年誌』四〇〇頁)、その遺業を偲ぶべく、早稲田大学は記念行事を主催した。その折の十一月十八日、天野の女婿で早実校長の浅川栄次郎(明四一大商)が学苑理事阿部賢一を訪問し、天野の学苑への「復帰」の礼を述べた上で、早稲田実業学校(中学部と高等部(商業科のみ)に分れ、夜間部の第二高等部を併設)の学苑への併合を申し出た。その模様を阿部はこう回想している。

天野先生の大学復帰の礼をいわれた後で「早実を大学で引き受けてもらいたい」という申出があった。そして後継者に人を得難いことや、学内の事情を詳しく話された。早稲田と早実の双方にとってよいことと思ったが、事が重大なことだけでなく、当時総長選挙も近いので、総長の決定をまって相談しようと、一応この話を私の胸に収めておくことに浅川氏の同意を得た。……大浜氏の三選が決定したので、浅川氏を訪ね、氏の意思と学校の長老諸氏の意思も同じであることを確かめて、大浜総長に詳細を伝え、これ以上は早稲田大学と早稲田実業学校間の正式交渉に任すことにした。 (同書 四〇〇―四〇一頁)

早実の「学内の事情」とは何か。三十七年二月二日、早実高等部入試判定会議の席上、浅川はこう語っている。

これから先の社会、ならびに経済事情を思うと、私立学校経営も多難なものがある。とくに産児制限のための生徒数の減少を思い、これらに対処する構想を練っている。早大との合併もその一構想である。もとより相手のある問題だから、はっきりとは言えぬが、学校の将来を考えて最善の処置を考えたい。 (同書 三九九頁)

多額の設備投資に伴う借入金の返済や高騰する人件費などによる財政の圧迫や、将来の生徒数減少に対する危機感に加え、大学進学者の著しい増加により職業高校は一般に生徒数が漸減して凋落の傾向にあり、早実もその例外ではなかったという事情があった。そのことを端的に示すのは、明治四十五年に併設され、多くの勤労学徒に実業教育を施してきた同校の第二高等部が、昭和三十年代に入ると次第にその生徒数を減じ、赤字経営に苦しんだあげく、遂に三十八年に廃止されたことであろう。学苑に動揺をもたらし、学部と工業高校に大規模な機構改革を余儀なくさせた高度成長の社会経済的波紋が、早稲田実業学校にも押し寄せたが、同校当局は、「大学の傘下に入って大学を背景とすることは、社会的信用を高め、生徒募集の上にも一段と魅力を添えることになり、将来の発展を期する上に極めて有利である」(「早稲田実業学校の早稲田大学系列下編入に関する合意書」同書四〇二頁)と判断したのである。

 一方、学苑当局は、早実は「教員志望学生のための実習校として活用するに便宜である。従来教員志望者の授業実習は、他の学校に委託してこれを実施して来たが、教員の養成を主眼とする学部がありながら実習校をもたないことは、そのこと自体機構上の不備とさえいえる。なお、教員養成制度の改革問題が提起されており、この改革が実現した暁には、実習校をもたないことによって不利益な立場におかれる危険」が増大する懸念があるけれども、早実が学苑の傘下に入るならば、その危険は減少するであろう(同書 四〇二頁)として、系列下編入の利点を認めたから、三十八年八月、両者の間で「覚書」が交されるに至った。十一月十五日の定時評議員会では同校卒業生の学部進学の特典の問題が討議の焦点になったものの、「学内には併合に関して全く反対意見がなく」(『早稲田大学新聞』昭和三十八年十二月五日号)、十二月十七日、「早稲田実業学校の早稲田大学系列下編入に関する合意書」および実施事項の覚書が調印され、ここに早稲田実業学校が系列下に編入されたのである。ただし、長年学苑から独立して経営されていた早実は、当然のことながら教職員の年金、健康保険、給与等につき学苑とは別個の体系で運営されていたから、併合して統一するには種々の困難が伴うので、編入の方式は通常の法人の合併手続によらず、法人組織はそのままとし、役員、評議員、校長等の人事を通じて、大学理事会の方針を同校の管理運営に反映するように再編されることとなり、こうして系列下へ編入された早実は、高等学院、工業高校等の付属校と区別するために、大浜の造語である「系属校」と呼ばれるように定められたのである。なお、同校高等部には三十九年度から従来の商業課程(一学年定員百五十人)のほか普通課程(同二百五十人)が設置されて同校の「主体」となったが、いずれにせよ同校の生徒全員が早稲田大学へ進学できたわけではなく、かかる特典を与えられたのは「成績優秀な卒業生」(『定時商議員会学事報告書』昭和三十九年 一二頁)に限られざるを得なかった。

四 工業高等学校の廃校と産業技術専修学校の開校

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 新制早稲田大学発足の前年、すなわち昭和二十三年に、旧制下の早稲田工手学校を継承、発展させた夜間四年制の新制早稲田工業高等学校(二十五年十二月二十日に早稲田大学工業高等学校と改称)が設立されたことについては第四巻一〇二九―一〇三六頁に説述したが、同校は開設時の機械、電気、金属工業、建築、土木の五科のうち、二十六年に金属工業科を、次いで二十九年に土木科を、いずれも応募者が年々減少してきたために、生徒募集を停止した。工業高校発足時の一学年定員五百人を二百四十人へと半減した三十年以降、入学志願者は定員をかなり上回ったが長続きせず、三十年代後半に入ると再び減少し始め、三十七年には定員割れさえ生じた。こうして、三十年代前半までは経営が逼迫することはなかったけれども、皮肉なことに高度経済成長が軌道に乗り、国民の生活水準が順調に向上し始めた三十年代後半には、抜本的な機構改革が焦眉の急務となり、遂に同校は廃校のやむなきに至るのである。志願者の質的変化よりも志願者数の伸び悩み・減少から廃止を余儀なくされた点は、第二学部と事情を異にするが、その背景には、戦後における夜間高校の急増、大企業内における「工業高校程度の技術教育機関」(早稲田大学工業高等学校『早稲田大学工業高等学校の将来について』五頁)の普及等といった社会状況の変化があったのである。

 昭和二十六年九月に山ノ内弘の後を承けて同校校長に就任した埴野一郎は、工業高校の将来構想を練った。埴野の案は同校を廃止して夜間の工業短期大学を設立するというものであったが、第二理工学部が存在したため、夜間の理工系学部と短大との併設は無理であるとの意見が多数を占め、この構想は実現せずに終った。

 三十二年九月に校長は埴野から帆足竹治に交替し、彼の下で種々の改革案が検討された。その一つは、昼夜間の工業高等専門学校創設案である。工業高校でも短大でも技術教育としてはいずれも不十分であるから、両者を接続して一貫教育の工業高等専門学校にしようとの構想である。三十三年から三十四年にかけて、国会で、高校課程プラス大学前期課程の、六・三・三・四制の学校体系とは別個の「専科大学法案」が審議され、その構想の一部は三十七年度に高等専門学校の創設となって実現を見た(海後宗臣編『教育改革』(『戦後日本の教育改革』第一巻)二五八―二五九頁)。工業高校の工業高等専門学校昇格案は、こうした当時の六・三・三・四制見直しの気運に照応する動きであった。しかし、この案も、土地、建物、設備等に相当の費用を要するという難点があり、結局実現しなかった。

 こうして短大昇格案も工業高等専門学校昇格案も潰えたのであるが、この間、同校を蘇らせるための努力が皆無だったわけではない。すなわち、第二理工学部への推薦入学枠の拡大がこれである。同校卒業生の第二理工学部への推薦入学の道が開かれたのは二十六年三月であるが、同校教諭池田美代二によれば、

大学進学志望の生徒のために特別に考慮を払うということは、本校のような夜間授業の工業高校の場合には全く邪道であるかもしれないが、現実の問題として、本校に入学する生徒のなかに大学進学志望者がふえ、父兄の要望もあり、また生徒の士気にも大きな関係があるので、この問題に取り組むことになったのである。勿論、本校生徒に対しては以前から特別に理工学部の門は開かれていた。しかしいわゆる狭き門で、第二理工学部へ特別入学を許される生徒は毎年二、三名にすぎなかった。そこで、大学進学志望の生徒で、ある基準以上の学業成績をとり人物もしっかりしている場合には、本校の推薦により無試験入学を許可してもらいたいというのが吾々の希望であったが、これが昭和三十年三月第二理工学部当局の深い御理解によってかなえられ、以後毎年二十名前後の卒業生が第二理工学部に入学出来るようになった。

(「思い出にことよせて」早稲田大学工業高等学校編『創立五十周年記念誌』 三六頁)

こうして同校は「大学進学者の最も多い夜間高校」(同前)という特色を持つに至ったが、既述の如く第二理工学部は昭和三十六年度より学生募集を停止したから、二理への大量の推薦入学の道は閉ざされてしまった。そこで、この三十六年四月、戸山町キャンパスより本部キャンパス一五号館へ移転した工業高校は、「高校卒業程度の学力あるものに最新の技術を短期講習で教え、技術革新時代の要望にこたえようと」する産業技術専修コースを開設したが、これは「第二理工学部の募集停止によって進路に一大蹉跌をきたした」(同前)同校卒業生のための対策でもあった。

 だが、こうした努力も空しく、一向に好転の見込みが立たないばかりか、生徒の資質の向上にも困難が感じられ、工業高等学校が将来私立の夜間工業高等学校としてその発展を期待するのは困難であるとして、学苑理事会は三十九年度以降の生徒募集停止を決定し、同校は第二理工学部と同じく四十三年三月、在校生がすべて卒業または退学したのを機に廃止された。

 しかし、工業高校の廃止によって、工手学校以来の夜間の工業教育が放棄されたわけではない。代って、学校の系譜の上では工手学校、更に工業高等学校の後継者、すなわち夜間の各種学校である産業技術専修学校が、工業高校が生徒募集を停止した三十九年の四月に創設されたからである。尤も、系譜上の位置づけは右の通りであるとしても、その趣旨と目的とにおいて、この産業技術専修学校は工手学校や工業高等学校とはかなり異っており、端的に言えば、「より高度で専門的、実践的な技術教育を、社会人も含めた広い範囲の人々に教授し、とくに職場と学校を結びつけた職学一体の教育をも目指した学校であった」(荒山彰久「『早稲田大学専門学校』の系譜」『理工学部技報」昭和六十二年十二月発行 第一六号 九二頁)。

 この点をもう少し具体的に述べよう。産業技術専修学校は、三十六年に開設された既述の産業技術専修コースが、「学部の学生、産業界からの受講者が多く、この種の技術教育は法文系の学生に科学技術に関する学習の機会を与えるとともに、他面産業人に再教育の場を提供し、時代の要請に適合することが実証された」(同前)ことに鑑み、これを拡充したもので、その設立の趣旨・目的は、「産業に関する高度の専門技術教育を行ない、有為の人材を育成して、産業の発達と人類の福祉に寄与する」ことにあった。それゆえ、対象者も工業高校とは異り、主として高校卒業者とされた。なお、同校には二ヵ年の本科と六ヵ月の専修科とが置かれた。前者は一般教育や専門基礎教育を施すことを目的とする課程で、機械工作科(四十九年度より機械科と改称)、電気科、建築科、産業経営科の四科に分けられていた。専修科は、本科の卒業者もしくは「これと同等以上の学力を有する者」――具体的には「産業の第一線にある現職技術者、中堅幹部要員、専門技術の習得を志す大学在学者」(『学園生活』昭和三十九年版四七頁)――に対して、「細分された専門分野につき、高度の技術教育を行なう」ことを目的とし、開校初年度は精密工作技術、製図、IE工程管理、自動制御、電子計算など十コースで、次年度からは十三のコースで学生を募集した。

 ところが、この起死回生の衣替えは暫くの間功を奏したものの長続きせず、五十三年、産業技術専修学校は遂に廃校となり、代って早稲田大学専門学校が開校するのであるが、その経緯については次編に譲ろう。