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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第四章 ミシガン協定と研究の国際交流

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一 大学と国際交流

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 学問には本来国境は存在せず、学問を行う場である大学もまた然りである。従って、大学の国際交流をわざわざ謳うのは寧ろ不自然とさえ言える。しかし、現実は学問、大学ともに国家という仕切りで区切られている。国境で区切られた不自然さは、国際政治というもう一つの現実によって強められている。国際政治の緊張の極度は戦争である。我が国の大学は日中十五年戦争および日米戦争によって長い間孤立を強いられてきた。平和の到来は、大学や学問においてはかかる孤立を解消することでなければならなかった。

 第二次世界大戦中の国際交流は国家的統制下に置かれて教育機関が独自に主体的に行うことができなかったのに比べ、戦後のそれは民間の主体性を発揮できるものとなった。教育機関が主体的に取り組むことにより、学術交流や留学生受入が実現し得たのである。しかし、戦後間もない頃の日本は、国際交流を「先進国」からの学術・文化の輸入という一方通行的にしか位置づけておらず、また現実にも、連合国統治下という政治的状況や脆弱な経済力の故に、真の意味での国際交流は実現すべくもなかった。二十七年、日本はサンフランシスコ講和条約の発効により主権を回復し国際社会に復帰したけれども、貿易や海外渡航は二十四年十二月制定の「外国為替及び外国貿易管理法」(法律第二百二十八号)により大きく制限されていた。主権回復を契機に、政府渡航外貨予算の一部が海外留学生に割り当てられ私費留学の途が開かれたが、その数は僅かであった。その後の日本経済の高度成長や貿易為替自由化の動きとともに、三十八年には業務渡航が、翌三十九年には海外旅行の自由化が実現するなど、海外渡航の制限が漸次緩和されていく。日本の置かれたこのような状況は、個々の大学の国際交流のあり方を大きく規定したのである。

 昭和二十年代の国際交流は、国立大学では文部省の在外研究員制度により早くから復活したけれども、私立大学では専ら個々に取り組まざるを得ず、二十五年早稲田大学、二十七年中央大学および関西大学、二十八年慶応義塾と、教員の海外留学が実現した。また、二十九年に創設された日本政府の国費留学生制度により留学生が来日するようになると、その主たる受皿となった国立大学だけでなく私立大学も彼らの一部を受け入れた。大学教員の海外留学制度は、外国政府や外国政府関係機関の招致留学制度の創設や復活など政府レヴェルで整備され始め、また、二十七年に私費留学の途が開かれたことを背景としている。概して、二十年代の国際交流は、大学自ら積極的に展開するのではなく、政府レヴェルの国際交流、留学制度の整備の枠の中で、それに対応して徐々に進められたのである。それは、日本の主権回復や経済力の問題、あるいは大学自身の戦後復興の問題に制約されていた。

 昭和三十年代に入ると本来の姿である国際交流に向けて多大の努力が払われ、私立大学教員の海外留学の経済的・制度的整備も、三十一年法政大学、三十三年日本女子大学、三十五年専修大学と、引続き行われた。それは、私費留学の枠が次第に拡げられたこと、第八表に掲げたように、外国政府や外国政府関係機関等による日本人留学生招致が欧米諸国をはじめ、中近東諸国、オーストラリア、アジア諸国と世界的な広がりを見せるとともに、それらの留学生数も増加するという情勢を背景としていた。大学、とりわけ私立大学の主体的な国際交流への努力は、外国大学と提携して教職員や学生を相互に交換する形で進められた。その契機は、海外の大学におけるアジア研究・日本研究への関心の高まりであり、学生を海外の大学で教育するという在外教育計画の実施であった。国際交流を図りたい日本の

第八表 外国政府または政府関係機関等の招致留学生数(昭和30―41年度)

(『文部省年報』昭和30―41年版より作成)

大学と、日本研究や在外教育計画を実施したい外国の大学の思惑が一致したのである。三十一年の学苑のミシガン協定締結や三十一年から三十四年にかけて検討された関西大学のコロンビア大学との学術提携計画などは、この時期の私立大学の国際交流への努力をよく示すものである。関西大学の学術提携計画は、同大学学長岩崎卯一が「〔私の〕外遊前に決まった早稲田大学とミシガン大学との協定で、本学もニューョーク大学などと学術提携をしたいと思っていた」(『関西大学百年史』通史編・下一六頁)と述懐するように、学苑のミシガン協定が他大学にも大きな影響を与えたのである。結局、関西大学はニューヨーク大学ではなくコロンビア大学との学術交流計画を摸索したけれども、実現には至らなかった。ミシガン協定締結に学生が反対して早稲田大学が紛糾したことや日米安全保障条約改定前の反米ムードの高まりなどがその原因であったと言われ、ここにもミシガン協定が影を落している。こうしたエピソードは、ミシガン協定が当時の日本の教育関係者の注目を集めていたことを物語っている。

 学苑はミシガン協定実施後も、外国諸大学との交換協定の締結、あるいは国際部の創設と、国際交流の深化に努めた。これら一連の取組みは、二十九年に総長に就任した大浜信泉の、「戦争によって鎖された世界との学術文化の交流の道を開き、わが国の孤立がもたらした空白を埋めたい」(大浜信泉伝記編集員会『大浜信泉』一一七頁)との考えに基づいて行われたのであった。

 ところで、大学における国際交流は、教員または職員の留学を通しての学術研究交流、学生の留学を通しての教育交流、部活動・サークル活動の一環としての海外遠征や著名人の来校・講演を通しての国際交流の三者に分けられる。前二者は主として大学が意図的かつ組織的に行うのに対し、第三番目のものは大学が交流の契機と場を提供し、結果として国際交流が実現するという特徴がある。三者、特に前二者が全く無関係に展開することはないが、以下、早稲田大学の国際交流について、本章では昭和三十年代の学術研究交流を、次章で教育交流を、その他のさまざまな交流については第十二編第十章で扱うことにする。

二 ミシガン協定の締結

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 昭和三十年四月、総長大浜信泉はアメリカ合衆国大使館の参事官を同伴した国務省国際協力局(ICA)の係官の来訪を受けた。来意は次の如くであった。

 アメリカは工業化の遅れている国に対し大規模な援助計画を実施しているが、その一環として研究者の大学間交流プログラムがある。つまり、アメリカの一大学と被援助国の一大学を組み合せて、特に工学、商学、経済学といった生産性向上に関係の深い学問分野を中心に二大学間交流計画を協定させ、研究者の交流を図るものであるが、そのための資金はアメリカ政府がアメリカ側の大学を通じて支給する。これまでこの援助計画は中南米、アジアの諸国、それにイタリア、ベルギー等のヨーロッパ諸国に適用しているが、今回これを日本にも適用して二大学を選ぶことにしたが、その一つを早稲田大学としたい。

 総長はこれを聞いて、なぜ早稲田大学を選んだのかと質したところ、「私学の中でいちばん名声が高く、かつ国際的に進歩的の伝統がある上に、立派な工学部があるから」との返事であった。

 事の始まりとしてはやや唐突な感じもするが、既にマーシャル・プラン等により世界的規模で対外援助を実施していたアメリカは日本政府との間でも生産性向上に関する協定を締結し、その実施機関として三十年二月には財団法人日本生産性本部が設立されていたという背景がある。生産性向上は時代的要請として認識されていたのである。

 働きかけを受けた大浜はこれに非常な魅力を感じた。その時の受取方を大浜は次のように回想している。

先方から受取った関係文書を一読してみると、早稲田大学にとっては得るところが大きく、しかもなんら失うところはない。特に私が魅力を感じたのは、短期間の間に多数の教員に留学の機会を与えることができる点にあった。日本の学界は戦前戦後を通じて二十年近くも世界の学界から孤立を余儀なくされていたが、その間に欧米諸国では科学技術はむろんのこと、社会科学の面においても飛躍的に進歩発達を遂げていたので、日本の学界との間に大きな落差が出来てしまった。そこでこのブランクを埋め、日本の学問の水準を高めるためには、研究者を大量的に学外に派遣する必要が痛感される。しかし戦後大学は財政的窮乏に悩んでおり、他面為替管理が厳しいので、研究者の海外派遣の途は閉されているといっても過言でない。このような社会的背景があったので、先方の負担において多数の研究者を留学させることを内容としたこのプログラムに魅力を感じ、万難を排しても実現すべきであると決意した。

(「大学と国際交流」『早稲田フォーラム』昭和五十年三月発行 第八号 六頁)

この感想はきわめて率直である。学苑は既に戦前、教育研究体制改善を目的に乏しい財源から教員の海外派遣費を捻出してきたが、日中戦争勃発のため昭和十四年を最後に派遣を中断するの余儀なきに至り、制度の恩典に浴する筈であった新進教員を落胆させていた(第三巻七四五頁参照)。学苑派遣留学生制度が復活したのは実質的には昭和二十八年になってからであるが、この復活第一回の派遣教員となった平田冨太郎(政)、一又正雄(法)、飯島小平(文)はいずれも四十歳台の教授で、この年齢構成は翌年以降も変りがなかったから、三十歳台の教員にとっては留学は遥か先の話であった。二十年近い孤立に由来する学問研究レヴェルの落差を埋めることは日本の学術研究全体の問題であり、とりわけ早稲田大学においては他大学に率先して状況を打開し、研究・教育のレヴェル・アップを図りたいとの意識が強かった。従って、派遣制度を充実・拡大する必要は総長の言を俟つまでもなく全学的に痛感されていたのである。しかし財政に余裕がなく、実現は困難な状況にあった。そこにICAの誘いが来たのである。学苑当局者にとってこれが乾天の慈雨の如く感じられたとしても無理はなかろう。ICAの提案に応じて交流計画が成立・発足すれば、確実に短期間に多数の教員をアメリカに送り出すことが可能となるのである。

 数ある日本の大学の中から早稲田大学が選ばれた理由の一つが理工学部の存在であり、生産性向上を計画のテーマとすることから、大浜は当然の如く提案を専ら理工学部の問題と考えて第一理工学部長青木楠男と相談した。青木は早速学科主任会議に諮った。その時の青木の意向も総長と殆ど同じであった。この点に関して理工学部教授高木純一の次のような観察もあったことを加えておこう。

話に乗るに至つたと思われる点は、二年間の指導の後に、何かと早大に便宜をはかり、工業教育のための訓練生を米国に送つたりすることができるということであつた。何しろ今の早稲田大学の規定では各学部が対等(?)の形で留学生を出すので、教育学部と理工学部で比べると教師の数が数倍多い理工学部では毎年同じ人数を送るものなら理工学部の今の教師が全部洋行するには百年位おくれる勘定になる。この世帯の辛さが理工学部長をしてこの話に耳をかすことにもなつたろう。また総長としてもつくづく同情されての上の口ききであつたろう。 (『早稲田大学新聞』昭和三十年九月六日号)

絶好の機会と見た青木は直ちにアメリカ大使館の担当係官と打合せの上、提携相手としてジョージア工科大学を内定した。同大学は一八八五年創立の、ジョージア州アトランタにある、学生千七百余名、教員二百七十余名という、小ぢんまりした単科大学であった。計画は早稲田大学全体としてよりも理工学部とジョージア工科大学との間の協定として進められることになった。

 この選択は大浜には不満であった。事前に相談を受けることなく、事後承諾を求められたからである。尤もその後問題は遥かに深刻な形で展開した。同年六月の理工学部教授会で議決事項として諮ったところ、多くの教授から疑問や反対が起きて紛糾し、翌月に入ってもいっこうに収まりがつかず、寧ろ拡がる気配を見せ始めたのである。疑問や反対の理由は、大浜の『総長十二年の歩み』から摘記すれば、大略次のようなものであった。

一、相手の大学が無名の小地方単科大学で、しかも黒人を差別待遇している南部の州の大学である。

二、計画が生産性向上を狙いとしたもので、産学共同路線の一環である。

三、生産性向上は反勤労階級的であり、それゆえ反動的である。なぜなら生産性向上は労働強化と失業者の造出を伴うから。

四、アメリカの大学との協力の裏面として、それからの干渉を受け、大学の自治、建学の理想、学問の独立が脅かされる。

五、資金はアメリカ政府から出るので、紐付きとなることは必須で、従ってアメリカの国策に追随することとなる。

(二七―二八頁)

 前記五項目の中にはとってつけたとの感の否めないものもある。しかし、では何故そのような不満・批判が出てきたのか。ありていに言えば、それはやはり相手校選定の意思決定に学部教授会が何ら関与していなかったからであった。理工学部教授会だけではない。「生産性向上」の大義には工学だけでなく商学や経済学等の経営管理に関わる学問系統も含まれる筈であったのが、無視されている。ともあれICAから学苑に話が持ち込まれたのは四月の初めで、六月の教授会に正式に議題に上るまでの三ヵ月間、教授の大多数は何も知らされていない格好になっていたのである。ここに大学における意思決定のあり方という大問題が出てくる。要するに、教授会側の権限と総長・理事者側の権限とについて、双方に認識の食い違いが生じていたのである。総長・理事者側から見れば、大学として何を行うかは法人の責任者たる自分達の権限であり、教授会は作られた方針や機関の具体的運営についての権限所有者である。これに対し、教授会の側は、研究・教育について何を行うかは挙げて学部教授会の権限であって、総長・理事の役割はかかる学部教授会の決定が財政的に可能かどうか判断することであり、研究・教育の内容について容喙すべきでないと考えた。この役割認識の相違の狭間にジョージア工科大学問題が陥ってしまったと言えるだろう。

 学苑当局としては六月中に契約の合意を取りつけ、提携実現に向け手続を進めていく予定であった。しかし、何の進展もないまま暗礁に乗り上げ、七月一杯を空費した。総長はのちに、「ジョージア大学の学長の来日の日が迫まり、だんだん袋小路に追いつめられてしまった。人生には、時折絶体絶命の窮地に立たされることがあるものだが、この時ほど進退両難に苦しんだことはない」(「大学と国際交流」八頁)とこの時の苦しい胸のうちを語っている。ところが事態は急転直下、八月半ばにジョージア工科大学側から協定締結の断念を通告してきたのである。ジョージア工科大学としては恐らくしびれを切らせたのであろうが、この方針変更の真意は分らない。理工学部教授会の内紛状況がジョージア工科大学側に伝わり、それで嫌気がさしたとも言われたが、所詮憶測の域を出ない。いずれにしても、当局にとっても、教授会側にとっても、撫然たる思い、あるいは憤懣の念を残しての幕切れとなった。

 計画は不首尾に終ったが、それでも少くとも学苑にとって、外国大学との提携という問題は留学生大量送り出しの手段といった次元でのみ受けとめるべきでなく、早稲田大学の教育・研究体制と生産性向上という時代的課題とをどのように結びつけ融合させるかという原則問題への反省を促す契機になったとすれば、それはそれで意義があったと考えるべきであろう。事実、アメリカ側大学との提携の可能性そのものはなくなったわけでなく、大浜の「万難を排しても」の言葉から窺われる如く、その可能性を何とか現実化して大学の教育・研究のレヴェル・アップを図ろうとの意志は、当局において寧ろますます強固なものとなり、そのための体制造りが推進されることになった。すなわち、ジョージア工科大学との提携交渉を「一応打切りにはしたものの、絶好の機会を逸してしまうのがいかにも惜しく、どうしてもあきらめきれない」(『総長十二年の歩み』二八頁)総長大浜の機敏な巻返しが展開されたのである。それは、提携する受け皿を前回の理工学部のような一学部なり既存機関なりに委ねるのではなく、新たに研究所を設けてこれに委ね、学部の自主性の侵害という非難を避け、アメリカ側からは大学自治の保障を取りつけるということであった。この戦略を以て大浜は交渉再開を決意し、九月にトルコのイスタンブールで開かれる国際大学協会大会に私立大学代表として出席する機会を利用して、ヨーロッパ諸都市歴訪後、十月にアメリカに渡った。アメリカでの行動について大浜自身の説明に耳を傾けよう。

国務省にでかけて、いったん中止した形になっている大学契約の話を復活したいと申入れた。まず私の方から日本の特殊事情を説明した上で、二、三の条件を持出した。アメリカの特定大学と契約を締結して協力関係にはいった場合、早稲田大学としては学ぶところがすくなくないと思うが、しかしそれを採用するかどうか、またそれをどのように実施するかは、私の方で判断すべき問題であって、アメリカ側はいっさい干渉または強要がましいことはしないこと、またアメリカから派遣された人は、学内活動に関するかぎり私の監督とさしずに従うべきもので、勝手の行動をしないこと、この二つのことは大学自治の観点からきわめて重要であるので、明確な保障を与えてもらいたいといったところ、アメリカ側は当初からその方針でいるので異論はないとのことであった。第二に、特定の学部が直接外国の大学と接触することはいろいろの面で摩擦を起す危険があるので、特別の研究所を設立し、そこを協力の場としたいと主張したところ、それも結構だということになった。第三に協力の相手になるべき大学の選択だが、前回選んだジョージア工科大学のような南部の大学は黒人差別問題をかかえていて好感がもてないから、北部の大学を選びたい。それについてはミシガン大学はどうであろうかと提案したところ、その場で電話で連絡し、先方も乗気だということだったので、早速ミシガン大学を訪れて協力の具体的内容について打合せ、契約の草案については、工学部長と工業経営学科の科長が来日の上で相談するということに話がまとまって私は帰国した。 (同書 三四七頁)

大浜の提案にミシガン大学が即応した形である。ミシガン大学は北部にあるというだけでなく有力な総合大学の一つであり、何よりもアメリカにおける数少ない日本研究の拠点の一つであった。これが成立の背景と言ってよかろう。

 ミシガン大学側当事者の来日が日程に組まれる情勢になって、総長大浜の帰国後の行動は機敏であった。研究所の具体的組織造りに早速着手し、十二月二十二日の理事会に「生産性向上に関する研究所新設に関する件」を総長自ら提案した。そこで配付された説明案「研究所設置に関する基本方針」は次の如くである。

一、生産性の向上及びこれに伴う諸問題を工学、経済学、商学、法律学等の観点から総合的に研究し、経済界の発展に寄与し、併せて教育の改善に資することを目的として特別の研究所を設置すること。

二、同研究所の研究員は、関係学部の教員及び助手のうちから選定嘱任し、兼任を原則とすること。当分の間総長が所長としてその統括にあたるものとすること。

三、学部の自主性、教育の中立性、学部における研究の純粋性を保持することを考慮し、学外からの研究委託、寄附講座の受入、又は外部との共同研究は、原則として研究所を介してこれを行うこと。

研究所における研究成果については、それが適切に学部及び大学院における教育の上に反映することを期待するとともに講習会の開催、出版物の刊行等によりその社会的の普及に努めること。

四、ミシガン大学との間に折衝することを予定している協力関係が成立した場合には、派遣チームとの共同研究はこの研究所において行うほか、協力に関する事項もまたこの研究所の所管とすること。なお派遣チームの所属員は、学事に関する事項については、総長及び研究所長の監督下におくものとすること。

五、右の研究所の設置及び運営に要する経費については、昭和三十一年度予算において必要な措置を講ずるほか、篤志家からの寄附の獲得に努めること。

この提案は直ちに承認され、年改まっての最初の理事会(昭和三十一年一月十二日)に「早稲田大学生産研究所規則制定の件」として、規則案が提示された。八章三十三条から成る規則の第二条には、「本研究所は、工業生産性の向上及びこれに関する諸問題を工学、経営学、商学、経済学、法律学等の観点から総合的に研究し、産業の発展に寄与することを目的とする」とあって、右の原案とほぼ同文であり、四日後(一月十六日)の評議員会で無修正で可決され、初代所長を総長大浜として、二月一日には開所式が挙行されるという手際のよさであった。

 これで受入体制は整い、この進行状況に合せて生産研究所開所式直前の一月十九日にミシガン大学総長一行が来日し、協定書案文完成そして締結へと手順を進めていった。協定文の作成は早い段階から進んでいたと見られ、生産研究所発足後間もなく調印に漕ぎ着ける見通しまで立てられたが、詰めの段階で慎重を期し、三月十五日の午前の緊急学部長会議および午後の評議員会での草案可決を経て最終案がミシガン大学に送付され、同大学で若干の字句修正の上了承され、四月に入って再送付されてきたところで、五日、理事会において正式調印が完了という経緯をたどり、ここで初めて前文および全五条から成る協定の全容が、三十一年四月七日付の『早稲田大学広報』および四月十・十七日合併号の『早稲田大学新聞』で公表されるに至ったのである。左に協定書の主要部分を抜粋再録しておこう。

早稲田大学とミシガン大学間の協定(抜粋)

早稲田大学は、生産研究所を設置して直接に又は既設の学部に奉仕することによって、産業の生産性の向上と雇傭の改善に寄与することを企図しているのに対して、合衆国の諸大学においては、産業経営の技術面における研究及び教育がかなり進んでおり、そして産業の生産性及び経営に関する技術及び理論について日本の大学に対して有用な専門家を供給し、且つ若い日本の卒業生又は研究者の指導又は研究に必要な諸便宜を提供しうる立場にあるが、ミシガン大学は、この点について、早稲田大学に対して必要な人員及び施設を提供することが可能であり且つ喜んでこれをなす意思がある……。

第一条 協力の方法

一、協力の組織

A ミシガン大学の派遣員には、その長として主任助言者(chiefadvisor)(以下助言者という)一人をおく。助言者は、日本におけるミシガン大学の代表者として、ミシガン大学の本協定上の義務の履行について全般的にその監督の責に任ずる。

B 早稲田大学は、生産研究所に所長をおき、所長は総長の人的代表者として本協定の実施に関して助言者と協議するものとする。

C ミシガン大学は、その教授の一人を本協定に関する主任代表者と定め、その代表者は、同大学が日本における助言者に対してなすべき支持及びミシガン大学において行う指導及び相談に関して指示を与え又は調整を行うことを任務とする。

D ミシガン大学は、本協定に参加する教授団及び短期派遣員を定め、研究所長との合意により研究、指導のプログラム及び事業計画を定め、所要の図書目録を作成する。

二、協力の範囲

A ミシガン大学……の助力には次の事項を包含する……。

(一)工業技術と管理

a 生産技術

b 工程設計及び配置

(二)経営研究及び講習(業界人及び大学関係者のために又は両者との協力によりこれを行う)

(三)市場研究、特に

a 商品(新規製品を含む)に対する潜在的及び現実的の国内的及び国際的需要の分析及び調査

b 販売(貿易を含む)及び販路拡張の方法及び技術

(四)商業及び経済の調査及び予測の方法及び技術

〔中略〕

C 早稲田大学は、ミシガン大学との協力により、教員及び研究者の経験をひろめる目的を以て、アメリカの生産性の実情について特別の研究又は視察のために、十八月を超えざる期間ミシガン大学に派遣すべき適当な派遣研究員を選定する。派遣研究員は、希望により、啓蒙のための講演をすることがある。……

第二条 ミシガン大学側の実施に関する条件〔略〕

第三条 早稲田大学が提供すべき便宜及び用役〔略〕

第四条 一般規定〔略〕

第五条 存続期間及び終了

〔中略〕

二、存続期間及び終了

この協定は、一九五九年五月九日まで即ちミシガン大学と国際協力局との間の契約の発効の日から三年間その効力を有する。……

この協定文の公表に加えて、学苑当局は更に、協定の「理解の便宜のために」として「解説」を付し、協定による事業が学部・大学院と直結したものでないことをあらためて強調するとともに、両大学が相互に派遣する学者の数はミシガン大学が三年間に十三名、早稲田大学が約三十名を予定していることを明らかにしている。以上の経過を経て協定書は五月九日のミシガン大学とICAとの調印を以て発効したのである。

 ここまでは学苑当局の再度の挑戦は順調に推移してきたかに見える。確かにこの「成功」のポイントは生産研究所の設立によって既設の学部・機関とは切り離されて事が進められたところにあり、前年のジョージア工科大学問題の時のように教職員が何も知らされていないとの不満ないし疎外感を少くとも公然と表明する根拠は摘み取られていたからと見ることもできよう。また多分に建前論あるいは思想的・政治的な傾きのあった産学協同とか対米従属とか反動的とかの批判も、基本的には教職員共通のものとは言えなかった。しかし、当局にとっての最大の誤算は、学生の動きであった。すなわち、この年、ミシガン協定の締結と生産研究所設立の動きが明るみに出されてから、これらについて論議が持ち上がり、遂にはマス・コミに取り上げられるまでに強硬な協定反対運動が展開されるに至ったのである。協定そのものも学苑研究機関史上特異なものであったとすれば、これをめぐって学生の大規模な反対運動が起ったことも異例の経験であった。そこで、次に、この間の経緯を記そう。

 学生の目にミシガン協定の文字が最初に触れたのは恐らく昭和三十一年一月二十四日付『早稲田大学新聞』においてである。事実経過が第一面記事で明らかにされるとともに、ミシガン大学総長ハーラン・ハッチャー総長一行来学の様子が写真入りで報道され、学生にとって既成事実を突きつけられた格好となった。以後、同紙はこの問題をほぼ毎号ごとに大きく取り上げ、注意を喚起するためのキャンペーンを行った。早速一月三十一日付同紙は、生産研究所規則全文と併せて「技術提携への疑問」と題する主張記事を載せた。その要旨は、(一)協定がアメリカ国務省を通じているがゆえにその対外政策に引きずられることはないか、(二)生産性向上が政治的意味を持っており、かかる目的の研究機関を学内に設ける積極的理由はあるか、(三)提携そのものが大隈重信小野梓以来の学問の独立の趣旨を踏み外しているのではないか、というもので、この時点では問題提起にとどまっていた。ところが二月十四日号になると、学内外における協定に対する反響が取り上げられるようになり、疑問提示にとどまらず、明確な反対の意思表示の意見が掲載されるようになる。また、この号の報道・論評から窺われる動きは、共産党早大細胞が大浜総長に公開質問状を発表して会見を行っていることで、これを同紙は「学生ようやく動き出す」と報じている。しかしそれから年度末までは学年末休暇による空白を余儀なくされた形で、動きが再開されるのは年度が明けて、四月いよいよ協定文の調印とその公表があってからである。すなわち、四月十・十七日合併号同紙は、協定草案全文を一面全体を使って掲載し、協定の全容が学生の目の前に明らかにされ、これを承けて、各学部学友会の連絡機関である早大全学学生協議会(全学協)が同月二十日に「声明」を発表したのである。学生側の最初の本格的な対応、および学内の雰囲気を伝えているものとして、四月二十四日号よりその要旨を左に引用しておこう。

四月十日・十七日号の早大新聞は四月五日に早大・ミ大の技術提携の調印終了と協定案全文を発表した。二月十五日来私達は全学部代表者会議を開き、事実の調査、蒐集、意見の交換を行い、各学部長にその見解を質問した。結果次の問題点で意見の一致をみた。

(一)この問題は「教授・学生の関与すべき性質でない」との総長言明は果してそうか

(一)学校主要構成メンバー、学部長が関与しないのは不可解だ

(一)「ヒモ付きでない」具体的保証資料がない

(一)この協定は米対外政策の一環ではないか

(一)「生産性向上」の名のもと、学問の自由と独立を犯す特殊な政治的意図はないか

この懸念から学部長会、教授会で検討するよう公開要請状を発表したが黙殺のまま調印された。私達は、総長はじめ一部の人の秘密主義的傾きに本学の伝統のために大きな危惧を抱く。援助資金はICAのものであり、MSA〔相互安全保障協定〕に連がる。単なる大学間の自主的契約でないことは明かだ。主任助言者以下米教授団来日後も長期留意を怠たつてならない。反動諸政策が提出された折に私達の早大はこの提携を強行した。私達は学友諸兄に訴える。更に一層の関心を払い、考え、声高く論じあおう。十日付早大新聞発表を検討しよう。何よりもクラスの中で論じあおう。サークル、研究会でとりあげよう。わが国、始めてのケースである技術提携が学問の自由を奪い取るのであらしめない為に。

四月二十日 早大全学学生協議会・各学部学友会代表者会議

この全学協声明を承けた形で『早稲田大学新聞』も主張記事で「政治資金」を当てにすることの危険性を指摘して、協定反対を明確に意思表示した。しかしこれで直ちに学生の反応が呼び起されたわけではなかった。この時期は、学生運動史上では昭和二十七年の全学連分裂以来の低迷状態が尾を引き、学苑内でも全学学生自治会は解体状況にあり、それに代って同じ年に発足した早大全学学生協議会が非公認のままかろうじて各学部学生会・学友会の連絡組織として存続し、混迷打破の方策を摸索しているというところであった。この中で、折から昭和三十一年メーデーを迎えるに当って、メーデー全学実行委員会が四月二十日に結成され、そこで打ち出された「憲法改悪反対」「小選挙区制反対」など九項目のスローガンの中に「学問の独立と思想の自由を守れ、ミシガン協定を破棄せよ」の一項が加えられたのである。四月二十八日の全都学生向け総決起集会とそのデモ行進の中に「ミシガン大とのひもつき契約破棄!」のプラカードが一枚加わり、異彩を放った。

 ここに至ってミシガン協定は特定の問題にとどまらなくなり、学生自治会活動・学生運動の低迷を打開するための一つの格好の材料ないし足掛りとして位置づけられ、利用される情勢になってきたのである。五月一日付『早稲田大学新聞』のコラム「都の西北」は、「全学協がミ大問題で声明を発表した。遅まきながら妥当の処置である……。この処置が……サーヴイス機関化しつつあつた学友会活動に新風を送りこむことにでもなれば正に一石二鳥である。……近年の学生運動は、五二年頃の『浮き上がり』を批判するあまり、それらからの正しい摂取を怠り、……指導性を放棄してきた。……声明が学生運動の低迷打破の契機になることを祈」ると評したし、また五月十五日付の同紙は、「組織の整備と強化を/全学協議会の諸課題」との見出しで、全学協は「各学部が出来るだけ早く新委員会を発足させるように努めることを決め、ミシガン問題を各委員会が正式にとりあげ、問題をクラスの中へ入れるように決議し、早大新聞を通じてミシガン問題に関する声明……を発表した」と報じた。

 こうした呼びかけを踏まえて、同紙六月五日号は、「ほとんどの学友会が『ミ大学契約』を活動方針にとりあげているので六月に入つて反対運動が相当な昻りをみせるであろう」と見通しを立てたが、一般学生からの反応はまだ盛り上がらず、指導的学生達の思惑通りとはいかなかった。そこで全学協としては更に問題を調査・分析して協定の実態と意味を周知させることに努める方針を採った。その結果として作成されたのが「早大ミシガン大技術援助問題資料」であり、要旨は六月二十六日号に次のように紹介された。

一、問題の当初から一貫して総長のとつた秘密主義的傾向の疑念は氷解されていない

二、国際的な協定文は両国語文を同時に発表すべきものだ

三、FOA〔海外活動本部〕解体後組織されたICAも基本的に変らないことは……あきらかで、この事実から派遣団の授業編成計画および教授法に関する介入が考えられる

四、FOAの大学契約基本方針によれば契約資金を支配される学園側要員は思想資格審査合格証をもたねばならず、「学問の自由」がなくなる

五、現在の独占資本が意図している大学の知識製造機関化と学園における「生産性向上」の研究が全く符号している

以上の五点により、ミシガン協定は建学の本旨である「学問の独立」に反する疑いが濃いというわけである。この論拠を踏まえて、全学協は「ミシガン問題対策委員会」を開き、総長に質問状を手交し、併せて教授側にミシガン問題に対する意見を質問することに決定した。しかし総長側は結果的にはこの質問状を黙殺したのである。更に全学協からのたびたびの会見要求にも拒否的な態度をとり、この閉塞状況のまま夏季休暇に入ることになった。学生側に不満あるいは不安が蓄積されていく一方であったかに見える。つのる不満・不安ははけ口を求める。

 そのはけ口を与えるきっかけとなったのは、夏休み明け九月に入って、協定プログラムに従いミシガン大学から教授二名(チャールズ・ゴーディおよびエドワード・ページ)が派遣されてくるとの情報が伝わったことであった。いつまで経っても疎外されたままとの思いで協定自体は着実に進行していく状況を目の当りにして、全学協は「ミ大協定破棄全学対策委員会」(全学対)を設置し、ミシガン大教授来学反対を意思表示して、教授が到着する羽田空港での抗議行動の方針を打ち出したのである。

 九月十二日、羽田空港構内には「ミ大協定即時破棄」「来日歓迎せず」「ゴーディ、ゴー・ホーム」等のプラカードが、衝突場面を取材せんと構えるマスコミ報道陣とともに朝から現れた。一方、大隈銅像前では千余名と看倣された参加者による抗議集会が開かれ、協定破棄が決議され、学内デモが行われ、夜に入っても七百名とされる夜間部学生による集会が持たれ、構内は終日喧騒に包まれた。翌日の各新聞朝刊はこの一連の動きを報道し、九月十八日付『早稲田大学新聞』は「抗議運動のこのような急速なたかまりは驚くほど」と伝えた。この動きには全学連をはじめ外部からの支援があったことと、抗議の矛先が来日教授個人に向けられる趨勢とを憂慮した総長側は、不測の事態に備えて警察の介入の可能性を示唆したし、また既にアメリカ本国を出発したもののホノルルで足止めを食ってしまったゴーディ教授は、「東京のゴー・ホーム・ヤンキース(米人帰れ)の運動者のことについては何もいいたくない。だがこのような運動が行われているのは悲しいことだ。出発の日どりは未定だ」(『毎日新聞』昭和三十一年九月十三日号夕刊)との談話を漏らした。

 学苑当局は事態深刻化の原因が学外勢力と一部学生の結託による扇動にあるとの判断に立ち、九月十五日、異例の総長告示を発表した。これはミシガン協定に関して初めて全学生に向けて経過報告を行うとともにその精神を訴えたものである。前述の反対運動側からのキャンペーン内容を紹介したこととバランスを取るためにも、左にその全文を引用しておこう。

学生諸君に告ぐ 早稲田大学総長 大浜信泉

早稲田大学とミシガン大学との研究に関する協定は、大学の発展、自主性の確保、その他あらゆる観点から慎重に検討を遂げ学部長会及び評議員会の審議を経て調印されたものである。なお、ミシガン大学からの派遣教授との協同研究は生産研究所において行われるが、同研究所には、政治経済学部七名、商学部八名、理工学部二十五名の教授がそれぞれ所属学部の教授会の議に基き研究員としてこれに参加しているばかりでなく、すでに該協定によつて本大学教授たる九名の研究員が渡米し、ミシガン大学が特に早稲田大学のために整備した施設内に宿泊し、同大学の厚遇に満足して各自の専攻科目の研究に従事している。然るにこの段階に至つて、一部少数の学生が外部勢力と連繫してこの協定の実施を妨害し、その破棄を唱え、大学の禁止を犯して不法な集会を重ね、さらに来日を予定されている派遣教授に対して非礼不穏な行動に出る形勢をさえ示していることは、まことに遺憾に堪えない。大学の既定方針を妨害するこの種の軽卒な行動は、大学の対外信用を失墜し、在米中の本大学教授を困難な立場に陥れる惧れがあるばかりでなく、明らかに大学の自治、研究の自由に対する不当な干渉であつて、学問の独立に名を藉りて自ら学問の独立をじゆうりんするものというほかはない。

生産性の向上とこれに随伴する諸問題の研究は世界の国々が等しく取り組んでいる重要課題であり、早稲田大学生産研究所もこれらの諸問題の研究を指向しており、ミシガン大学派遣教授との共同研究もこの範囲内において行われるものである。生産研究所は、純学理的の研究機関であつて、自ら生産を行う場所ではない。生産性の向上は一部の人々によつて勤労階級の利益に反すると言われているが、それらの問題をも併せて学問的に研究することが大学の尊い使命であつて、研究それ自体を阻止すべき理由はない。

ミシガン大学の派遣教授はいずれも工業及び経営に関する学者であり、その専門の知識及び技術をもつて生産研究所における研究に協力するにすぎない。大学の附属研究所における研究に二、三の外国人教授がその科学的知識をもつて参与したからといつて、それによつて大学の方針を左右され、その自治を侵害されるかのように慎れることは、杞憂であるばかりでなく、自信の喪失というほかはない。

早稲田大学の建学の精神である学問の独立はわれわれ自らがこれを擁護すべきものであつて、外部の勢力によつて守らるべき筋合のものではない。また学問の独立は厳正な批判力と自主的精神を基調とするものであり、決して外国大学との学問的協力を否定するような排他的の精神を内包するものではなく、寧ろ宏大な気宇を以て積極的に各国の科学の成果の摂取に努めることが我が早稲田大学の伝統である。

以上の見地に立つて大学は既定の諸計画を推進する決意であるから、学生諸君は大学の方針を理解して慎重に行動されたい。

(『早稲田大学広報』昭和三十年九月二十八日号)

 告示の冒頭から明らかな如く、学苑当局は協定締結と生産研究所設立の意思決定を学部長会および評議員会のレヴェルでの審議を経ることで十分であり正当であるとして事を進めてきたわけで、そこから一般の教職員・学生の中に疎外感が醸成されるという基本的構図は、ジョージア工科大学問題以来何ら変っていなかったと言える。政治的・イデオロギー的側面を含めての協定反対の理由づけや大義名分に対して当局側がいかに反論し説得したとしても、疎外感という基本的構図が抱える問題に対する認識が甘かったことは明白である。また、外部勢力の影響を殊更強調する論法は、その前の警察権導入の示唆とともに学生の間に一層の不安と反発を呼び起す結果ともなった。しかし、同時に、反対運動側の行動自体も当局の指摘を俟つまでもなく疑問や批判を招くものであった。羽田空港での行動がマス・コミによって「米教授排撃運動」と性格づけられてしまったことは、当事者には不本意であったとしても、運動の狭量さや浮き上がりぶりを印象づけるのに十分であったろう。そして何よりも皮肉だったのは、反対運動側がその大義名分の一つとした「学問の自由・独立」が、大学当局によって反対運動支援の外部勢力の干渉および影響力からの早稲田大学の自由・独立という具合に取り込まれて、いわば攻守ところを替えた格好になったことであった。こうして総長告示以後、学生の間にも、全学協・全学対路線に対して態度を保留したり公然と批判するばかりか協定支持を積極的に打ち出す勢力さえ出てきた。九月二十四日、ハワイに足止めされていたゴーディ教授が来日した際に全学対はなおも教授に会見を求め、それが体よく断られた形になったところで「ゴーディ教授来日に反対する」抗議声明を発表するのが精一杯で、もはやそれ以上の盛り上がりは望むべくもなかった。そして遂には十月九日付『早稲田大学新聞』によって「全学対の誤りは何か」と分析されるに及んでは、もはや組織の解体を俟つほかはなく、結局十月に入って、協定に対する批判的監視を続行するとの合意を確認しつつ、協定反対運動は鎮静していったのである。

三 外国諸大学との学術研究交流

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 ミシガン協定に基づき学苑から派遣された教員は研究を目的として渡米していったが、受入側は学生並に扱った。そのため、当初、学苑側の派遣教員達と、ミシガン大学当局者との間に「待遇問題などにからんだいざこざ」(『大浜信泉』一二四頁)が絶えなかった。両者の認識の齟齬が何に由来したかの事情は不明であるが、このような事態に至ったことは、その後、大学間協定を結ぶ際の教訓となり、相互平等主義の精神を貫くことになったのである。

 ミシガン協定は、このような言わば負の遺産を残したけれども、外国大学との協定が学術研究交流の上で大きな成果を挙げ得ることを立証したのも事実であった。同協定は、外国大学と学術研究交流協定を締結させていこうとする学苑当局に自信を与えたのである。「この交流は、早稲田大学の学問および教育の水準を高める上に貢献するところが大きかったのみならず、学内の雰囲気を国際的なものにする上でも効果があったと思っている」(『総長十二年の歩み』二九頁)との大浜の述懐は、その自信の程を窺わせる。

 「早稲田大学をもう少し国際的なものにしたい、その地位を高めたいということをつねつね考えて」(『早稲田学報』昭和三十四年五月発行 第六九一号 四頁)いた大浜は、相互平等主義に基づくヨーロッパ諸大学との研究員交換を企画し、三十四年一月にジュネーヴで開催されるILO総会に日本国政府代表委員として出席する学苑理事末高信に、イギリス、フランス、ドイツ等の大学との折衝を依頼した。アメリカとはミシガン協定やフルブライト人物交流計画をはじめとして種々の交流が実施されているので、今まで交流の乏しかったヨーロッパとの交流に力を入れて学苑をより国際的なものにしたいとの考えからであった。末高は、パリ、オックスフォード、ロンドン、ボン、ウィーン、ローマの各大学を訪問し、直接本学苑の計画の主旨を伝えて協力を求めた。

 末高のパリ大学との折衝は甚だ順調であった。その折衝の様子を末高は次のように語っている。

国家間の人事交流は日本とフランスはもうすでに打ち立てられておりまして、フランスは日本から毎年三十人の人を呼んでいるのに、日本はフランスから二人しか呼ばない。いかにも片貿易、片務的だというので、〔パリ大学学長サライユは〕多少残念がっているんです。早稲田の今度の申し出はすべてをパリティーと申しますか、平等でいこうということでありますので、向うで非常に喜びまして、まあ具体的な話にまでいきました。平等でいくのは研究者の交換ですね。……キャプタン〔元フランス文部大臣〕という人にお会いしたときには、どうも向うは国立大学でこちらは早稲田というような、私立大学資格だとすれば、話はなかなかむずかしいんじゃないかということを言われたし、私もそうした点に、案ずる点があるんじゃないかと思っていたんですが、サライユという人は、そんなことはちっとも気にかける必要はない、それは早稲田から二人や三人の研究者をうけ入れるために特別に日仏の人事交流以外に早稲田との協定を結んだところで、その程度の人事の交流は、総長の権限で、国立大学であるパリー大学でも自分でできますから、その点御懸念なく、こういうことでした。そこで非常に乗り気になりまして、向うでぜひ大浜総長から正式な文書によるところの申し出をしていただきたい、そうすればそれを基礎としていろいろ考えて御返事をいたします。その御返事はそのまま二つの大学の間の協定になるわけだからということで、話が非常に順調でございました。 (『早稲田学報』昭和三十四年五月発行 第六九一号 四―五頁)

 他の大学との折衝もほぼ順調であった。三月三十日付文書で学苑から正式に各大学に交流を申し入れ、その後の折衝を経てボン大学、パリ大学との研究員交換が実現した。

 ボン大学とは契約書を交換せず、折衝に当った教授松本馨が交換計画の原案をボン大学に提示し、同大学がそれを承諾して実現した。派遣人員各一名、研究期間一年間で、往復旅費は派遣大学が、滞在費は受入大学が負担するという条件で、毎年両大学の合意により継続するという内容であった。研究員の交換は昭和三十五年四月から行われた。ボン大学からは中国学専攻の教授ペーター・オルブリヒトが日本の科学的研究と日本の稀覯資料の研究、日本の中国学文献の蒐集、日本人中国学者の原文批判と著作研究などを研究課題として派遣され、学苑からはドイツ文学の教授浅井真男がドイツ文学研究を研究課題として派遣された。なおオルブリヒトは、早稲田大学国文学会発行の『国文学研究』第二三集(昭和三十六年三月発行)に「ドイツの日本学の現状」(川原栄峰訳)を寄せている。その後も、ボン大学からはアジアおよび日本を研究対象とする語学、経済地理学、文学などの研究者が派遣されており、学苑からはドイツを対象とする法学、歴史学、文学、語学、哲学などの研究者が派遣されている。

 次いで実現したパリ大学との研究員交換については正式に契約書が取り交された。契約書はパリ大学学長兼評議会長サライユと早稲田大学総長大浜信泉とが署名し、三十五年十二月一日の理事会で承認された。パリ大学および早稲田大学は毎年相互に教授や助手(博士論文準備中の学生をも含む)を派遣し、滞在費は受入大学側が負担するという内容で、ボン大学のものとほぼ同様の条件であった。初年度は本学苑から三十六年二月に教授安井源治、パリ大学から同年九月にエコール・ノルマルの研究員ジャン・J・オリガスがそれぞれ派遣された。安井は「現代文学、特にカトリック文学と実存主義におけるパスカルの影響」と「パスカルの作品と思想自体の研究」を、オリガスは「比較文学・日本現代文学研究」をテーマとした。

 昭和三十五年にミシガン協定が終了すると、学苑はアメリカの大学との交流を継続するため同年から翌年にかけて代表を送って交渉を行った。その結果、コロンビア大学とワシントン大学(セントルイス)が交流計画の推進を打診してきて、ワシントン大学との教授交換が実現した。なお、同大学との交流計画の協議の中から、のちの国際部創設に繫がる外国大学の学生受入機関の構想が生れてくる。

 アメリカの二大学が学苑の交渉に応じたのは、ヨーロッパの大学と提携して実施したような学生の在外教育計画をアジア地域においても実施しようとの機運が高まってきていたからである。特にワシントン大学では学生の在外教育計画が進行中であり、同時にアジア地域研究も進展しており、日本の大学との提携を希望していたのである。

 昭和三十六年十二月にワシントン大学教授ジョン・W・ベネットが来日し、翌年一月にかけて本学苑の古川晴風、長谷川晃一、一又正雄らと協議した。ベネットは、海外受講生の受入、合衆国研究を主題とする学苑およびワシントン大学の協力、研究者の交換、研究資料の交換、交流を効果的に運営するための機構の設立などについて提案を行った。この提案を契機として学苑側にも、アメリカ諸大学の学生受入機関だけでなく、もっと広汎な教育・研究の国際交流を行う特別な機関が必要であるとの認識が生れ、その設置が検討された。しかし、ワシントン大学との協議はこの時点では計画を最終的に確定するに至らず、その後の交渉は、ワシントン大学招聘教員として渡米することになっていた商学部非常勤講師松宮一也に託された。その交渉の結果、取敢えず、日本研究の基礎となる日本語講座を一九六二年(昭和三十七)秋学期からワシントン大学に開設、そのための教員を学苑から派遣することになった。そして、なお細部に亘る計画の確定は今後の折衝に委ねられた。この日本語講座開設のため、松宮自身率先して「語学インストラクター」に就任、学苑からは語学教育研究所長川本茂雄が赴き、更に三十八年二月には講師秋永一枝が派遣された。

 その後も折衝が続けられた結果、四年間を目途として、左の目的を掲げる学術援助計画がまとまった。

この計画の全般的目的は、学者の交換と協同研究によって、二大学の学術目的を達成することである。二大学は平等の基礎の上に相手方となり、両大学教授団は同様の教育及び研究業務を行う。早稲田は主として、ワシントンの Asian Studies Pro-gram の発展に貢献し、ワシントン派遣教員の主要課題は、早稲田の American Studies Program 立案・設立に対する援助である。

まさに、欠を補い合って学術目的を達成するという、相互平等主義に立った内容となっていて、具体的な計画として、教授の交換、研究資料の交換、共同研究の推進を謳っている。経費に関しては、「基礎的給与資金は、両大学によって醵出されており、附加的資金は学外資金源に求められる」としており、両大学は四年間、毎年一万ドル、合計八万ドルを醵出する計画であった。学外資金源からは十数万ドルを計上しているが、これはフォード財団からの援助を想定してのことであった。

 しかし、フォード財団からの実際の援助額が期待に反して四万ドルに過ぎなかったため、両大学間の共同研究計画は一時見合せ、教授の交換と研究資料の交換とに限定して行うことが、三十八年五月八日の学苑理事会で承認された。この日の理事会は同時に川本・秋永の後任として五十嵐新次郎と長谷川晃一の二教授派遣を決定した。ワシントン大学からは九月にリチャード・ヘイズルトン(文学)とジェラルド・ナドラー(工業経営)が来校した。ヘイズルトンは、第一文学部でシェイクスピア劇の講義を担当し、大学院文学研究科で中世英文学の科外講義を行っている。ナドラーは第一理工学部が受け入れ、生産研究所において「ワークデザイン」セミナー、工場診断の研究に協力、大学院理工学研究科学生を対象に特別講義「ワークデザイン」を行っている。両名は三十九年一月末に帰国した。

 一時見合せとなった両大学間の共同研究計画は、三十九年九月には地域研究所設置計画へと進展していった。かねてより学苑では日本の国際的地位の上昇とともに大学における地域研究の必要性が痛感されていたが、研究者の陣容、費用等の問題のため実施されずにいた。ところが、ワシントン大学では日本研究計画が強力に推進されていたので、学苑でもアメリカ研究の体制を早急に具体化しなければならない状況となった。ちょうどフォード財団からの補助金のうち二万ドルが保留されていたので、これを財源としてアメリカ研究計画を推進する見通しが持たれるに至った。ところが、アメリカ研究の体制を確立するとすれば独立の研究所を創設することが望ましいけれども、もしそうするのであれば、研究対象をアメリカだけに限定するのではなく、他の地域をも含めた広汎な地域研究所とし、その中にアメリカ・セクションを設けることが適切であると学苑では考えるようになった。しかし、恐らく資金不足がその理由と思われるが、この計画は結局実現されなかったのである。ワシントン大学側の計画は協同研究を行う点に特徴があった。しかし、財政上の問題もさることながら、本学苑に「受入れの場としての地域研究の体制ができていな」かった(『総長十二年の歩み』三一三頁)ことと、ワシントン大学側の事情とによって、一期四年で終了し延長されることはなかった。この間、本学苑から六名、ワシントン大学から四名が派遣されている。

 学苑の国際交流は西側諸国の大学に限るものではなかった。昭和四十年学苑はモスクワ大学と交換協定を締結したが、ソ連の大学との単独の交換協定は我が国ではこれが嚆矢である。しかし、締結までには紆余曲折を経た。

 ソヴィエトとの学術交流が計画されるようになったのは、第二次大戦後の東西両陣営の対立・緊張が緩和されてきたことを背景としていた。三十四年総長大浜信泉は、「たとえ政治的には鉄のカーテンをへだて対立していても、せめて学問の領域においては両国をつなぐパイプが必要である」と考え、「ソ連は別の道を歩いて来た国であるだけに学ぶべきものが少くないであろうとの期待と、早稲田大学は古くからロシア文学科を備えた唯一の大学であるから、早稲田大学こそはロシア研究については他の大学に率先して先鞭をつけるべきである」(「大学と国際交流」『早稲田フォーラム』昭和五十年三月発行 第八号 一一頁)との信念に基づき、学問的分野でのソ連との交流を理事会に諮った。理事会では「赤化」に対する危惧等から異論も出たが、最終的にはソ連に打診することに決した。

 この決定に基づき、学苑当局は駐日ソ連大使フェデレンコと交渉し、同大使の賛意を得て、大使館を通じて書簡をソ連科学アカデミーに送った。この書簡に対し、三十四年九月十六日付で、ソ連科学アカデミーは政治経済学部教授増田冨寿を六ヵ月間受け入れる用意があること、それには学苑が同期間にソ連科学アカデミー付属東洋研究所研究員ヴィクトル・ヴラーソフを科学研究のために受け入れることが条件であり、それぞれ生活費は受入側が保証しモスクワー東京間の往復旅費は送る側が持つこと、という返答が届いた。これに基づき、両名の相互派遣が内諾された。ところが、増田が出発する段になっても入国ヴィザが下りず、大使館に問い合せても埒が明かなかった。業を煮やした増田は、三十五年二月十四日取敢えずパリに向け出発したが、結局ヴィザは下りず、増田は留学先をヨーロッパに振り替え、ソ連へは短期間観光者として入国するほかなかった。ちょうど同じ時期、文学部教授黒田辰男がモスクワ大学から招聘され、三十四年九月から主としてモスクワ大学でロシア文学を研究し、翌年八月二十九日に無事帰国している。黒田のソ連留学は「現職の教授が正式の招請状を受けてソヴエトの大学に留学するのはわが国ではじめて」(『早稲田大学新聞」昭和三十四年十月二十日号)と報じられたが、このように増田と黒田とが対照的な処遇を受ける結果になった理由は明らかでない。なお、ヴラーソフも学苑には来なかった。

 学苑ではソ連科学アカデミーとの約束は反古になったと考えていたが、三十六年になって突然、同アカデミーからソ連大使館を介してヴラーソフと増田との交換の件が持ち込まれた。学苑は再び増田とヴラーソフの交換実現に奔走し、その結果、同年七月十二日増田は横浜からソ連に向け出港し、八月十日にはヴラーソフが来校した。増田はロシアにおける農奴解放運動・資本主義発達史を研究して十二月十日に帰国し、ヴラーソフは第二次世界大戦後の日本経済(主として中小企業)の発展に関する資料蒐集および研究を行って十月二十八日に帰国した。

 その後も三十七年六月ソ連科学アカデミーから、三十八年九月学苑から、四十年四月ソ連科学アカデミーからと、両者の間で研究員交換の申込みがなされたけれども、実現には至らなかった。四十年東京で開催された第四回国際大学協会大会に出席したモスクワ大学副学長セルゲエフ他二名が九月十三日学苑を訪れ、研究員の交換と協定書案の作成を熱心に希望した。そこで、協定書を作成し、総長大浜がサインしてセルゲエフに手渡した。協定書は全八条で、翌四十一年一月一日発効するというものであった。しかし、モスクワ大学総長のサインはすぐには得られず、漸くサインを得て協定が発効したのは昭和四十一年五月になってからであった。

 協定書の内容は、両大学は毎年自然科学系または人文科学系の教授を一名、一年間、講義のために派遣する(第一条、第四条)、毎年両大学は研究生を二名派遣し(一年留学)、受入側の教授の指導下で研究を行う、ただし、早稲田大学がモスクワ大学に派遣する研究生は若手講師ないし助手とする(第二条)、毎年、両大学は各分野における一流の学者(できれば教授)を約一ヵ月間、一名ないし二名を派遣する(第三条、第四条)、派遣する研究生・教授の旅費は、派遣する側が負担し、滞在費および研究経費は受入側が同じ条件で負担する(第五条)、両大学は講義要項、講義の録音テープ、学術刊行物および相手方学術刊行物への掲載論文を交換する(第七条)というもので、四十一年一月一日から発効するとし、協定期間は二年間で、双方の合意により更新可能とされた。

 この協定に基づき、四十一年度には学苑から交換教授(協定第一条)として理工学部教授佐藤常三が、交換研究員(第二条)として文学部助教授山本俊朗および語学研究所助手中島とみ子が、モスクワ大学から視察者(第三条)として金属延性理論教室主任教授ユリ・N・ラヴォトノイが、それぞれ派遣された。佐藤は、当初、この協定によらない専任教員の海外出張扱いで、四十一年九月から十月にかけてソ連の教育施設・教授法の視察、専門教授との学術的意見交換を目的にソ連各地を視察していた。その途中から協定による交換教員となり、四十二年八月までモスクワ大学で材料力学理論の研究を行っている。山本はロシア帝国法律大全を完成させた帝政ロシアの政治家スペランスキーの研究を行い関連資料を蒐集して帰国したが、交換協定の最初の経験者として、モスクワ大学での生活について留意点を大学に報告している。その報告によれば、住環境が研究に適さないなど研究環境が必ずしも満足できる状態ではないこと、ルーブルで支給される生活費だけでは研究生活は難しいことなどを指摘し、ソ連社会ではドルが非常な力を持っており、契約更改に際してはドル携行にするのが望ましいとしている。実際に経験した者の切実な思いが感じられる。中島はロシア語教授法の研究を留学目的とし、モスクワ大学文学部の「外人のためのロシア語科」で現代ロシア語の授業や「外人にたいするロシア語教授法」の講義を受ける一方、同学部ゲルマン・ラテン語科の学生に第二外国語として日本語を教えた。受講した講義からは多大の収穫があったと述べている。この協定による交換は二期続き、学苑から五名、モスクワ大学から六名が派遣された。

 ところで、これまでは学苑から欧米の諸大学に働きかけて教授・研究者の交換協定を結んできたが、三十九年には韓国の私立漢陽大学校から人事交流計画が持ち込まれた。すなわち、七月に同大学校教授南宮寔が来校し、(一)漢陽大学校の教員陣容強化のために留学生を派遣するので、学苑の大学院理工学研究科で受け入れてほしい、(二)両国間に正式な国交が確立されていないので、留学生受入について大学間の協定の締結と、その所要経費の保証とを行ってほしい、(三)この計画は平等かつ対等の原則に立つものとし、漢陽大学校側も学苑派遣の教員・研究者の受入と費用負担の用意があると述べて、人事交流計画を申し出た。これに対し理工学部は、研究科各専攻ごとに一名ずつ合計して一年に十名ほどの受入は可能であり、かつ研究・教育の機能を通じて他国の大学の発展に助力することは望ましいと考え、協力する意向を示した。学苑当局も、門戸開放の伝統から見てこの計画への助力は妥当であるとの判断に立ち、この申し出を承認した。

 しかし、この人事交流計画は、研究のために理工系の研究者を韓国に派遣する必要性が学苑側にきわめて乏しく、そのため、平等の原則の上に立つとはいえ、人事交流は極端に偏ったものになってしまう可能性が高く、両大学間に財政上の負担のアンバランスを生じかねないという問題を有していた。事実そのような危惧を抱く向きもあったが、こうした問題について学苑は、留学生に対して負担するのは学費免除という形式であるので財政上大幅な負担とはならず、また、この協定が先方の大学から何らかの利益を受けることに重点があるのではなく、寧ろ研究・教育の機能を通じて援助を与えることを主眼とすべきものであると考え、三十九年十二月教務部長古川晴風、理工学部教務主任田中正男を協定締結に向け漢陽大学校に派遣した。外国大学との国際交流の妥当性を経済的な平等性でのみ斟酌するのは間違いである。その意味では学苑の基本的な考え方は正しい。しかし、「援助を与える」として捉える限り、ミシガン協定で学苑が経験したように、相互平等主義に基づく交流は実現しにくい。

 古川らが帰国した翌年、学苑は二月三日に協定書に調印した。その内容は、漢陽大学校は研究者を早稲田大学に派遣し、大学院理工学研究科の正規学生または特殊学生として研究を推進させる(第一条、第二条)、入学させる派遣研究員の数は、毎年、各専修につき原則として一名、総計十名を限度とする(第二条)、漢陽大学校は、早稲田大学の事前の同意を得て、人文科学または社会科学の専攻者を派遣研究員として派遣することができる(第三条)、早稲田大学は、派遣研究員の学費相当額の奨学金を支給する(第四条)、早稲田大学が調査研究のために韓国に派遣する教員または研究者に漢陽大学校は便宜を供与し、早稲田大学が漢陽大学校の派遣研究員に支給した奨学金の限度内でその滞在費を負担する(第五条)、漢陽大学校の要請により、早稲田大学はその教員を短期間、集中講義または実験実習指導のために、漢陽大学校に派遣する(滞在中の費用は漢陽大学校負担)(第六条)というもので、発効を四十年六月一日からとし、期間を三年間とした。そして、期間満了前の両当事者間の合意によりこれを更新することができると定めた。この協定は、学苑が漢陽大学校の教育機能を支援し、発展させる内容となっており、研究のために理工系の研究者を韓国に派遣する必要性が学苑側にきわめて乏しい状況を反映したものとなっている。

 この協定と同時に、「早稲田大学は、漢陽大学校が両大学間の協定に基づいて派遣する研究員に対して、早稲田大学に在学する期間中、学費相当額の奨学金を支給するほか、生活費として月額二万円の手当を支給」し、「早稲田大学は篤志家のこの目的に沿う指定寄附金をもつて派遣研究員奨学基金を設定し、前記協定に基き派遣研究員に対して支給する生活費手当は、この基金から支出する」という覚書を取り交した。学苑は「篤志家」の「指定寄附」を社会に呼びかけたが、その結果、フジテレビ、杉並建設株式会社、竹馬技術研究所、権重五(楽天地商事代表)、大日本大韓基督教三河島教会等から申込みが相次ぎ、生活費は十分に賄えたのであった。漢陽大学校との人事交流は、国交未確立という障害を乗り越えて、本学苑、漢陽大学校、それに企業をはじめとする民間人の三者が一体となって取り組んだ、ユニークな国際交流として注目に値する。本学苑と漢陽大学校との交換協定は更に二年延長され、五年間続けられた。この五年間に、漢陽大学校から十四名が留学し、本学苑からは理工学部助教授曾我昌隆(英文学)が昭和四十年九月に二十日間渡韓したのをはじめ、五名が韓国に赴いているが、詳しくは第十一編第十章に譲る。なお、民間からの寄附により設けられた漢陽大学校派遣研究員奨学基金は、協定終了とともに凍結された。

 ところで、大学間協定とは異るが、この時期の我が国の学術研究交流に大きな役割を果したものにフルブライト人物交流計画がある。その始まりについては第九編第七章に述べたので、ここでは同計画による学苑の人物交流を次頁の第九表に掲げよう。ただし、学苑からの留学はきわめて少かった。因に、昭和五十七年六月、学苑はフルブライト元上院議員に対し、学術文化の国際交流を推進し国際相互理解に寄与した功績を讃えて名誉博士号を贈呈している。

 右に見たように、昭和三十八年までの外国諸大学との研究者交換協定は、アジア研究を進める必要に迫られていたという内部事情のある相手大学もあったが、学苑の強い希望によって結ばれていったのである。この点は留意されてよい。ここに総長大浜の意思が如実に示されていると言えるであろう。協定内容を見ると、(一)研究員の相互派遣であること、(二)旅費は派遣側大学が出すこと、(三)留学中の費用は受入側大学が持つことが共通している。昭和二十年代に見られた片務的ではなく、相互主義が図られていることが理解されよう。

 また、経済的負担の仕方は、当時日本が置かれた状況を色濃く反映している。三十八年以前の海外渡航は、二十四年十二月制定の「外国為替及び外国貿易管理法」により外貨持ち出しが著しく制限されていた。二十七年十月に政府渡航外貨予算の一部が海外留学生に割り当てられる措置が採られたが、その恩恵に浴したのはごく僅かな人数でしかなかった。このような状況の中で、大学が海外留学を制度的に行おうとするならば、外貨の持ち出しを極力抑える方法を採らざるを得なかったのである。その現実的な方法が、外国の大学と協定を結び、渡航費や生活費などを相手大学が保証するものであった。この経済的負担の方式は、外貨持ち出しを抑え、しかも相互交流を行うことによって片方の大学に過重な負担を強いることを避け得るものであった。実際に学苑が結んだ協定では、渡航費用は派遣大学の負担となったが、滞在中の費用は受入大学側の負担であり、外貨の問題は解決できたのである。

第九表 フルブライト基金による学苑の交流人数(昭和27―41年度)

(『定時商議員会学事報告書』昭和29―42年より作成)

 国際交流は対等な立場に立って行うべきものでる。かかる観点からすれば、如上の学術研究交流が相互平等主義に基づいて実現したかどうかは、大きな問題である。ミシガン大学との交流に見られたように一部問題はあったものの、概して対等の条件の下に交流が実現したとしてよい。特に、実現には至らなかったもののワシントン大学との交流計画の中に、両大学教員による共同研究が企画された点は評価されるべきであろう。交流を行う二大学の平等性に関して言えば、漢陽大学校の申し出は留意すべきものである。同大学校の申し出は、日本の大学が学術研究交流の対象として国際的に認知されたことを意味していた。それは、学術研究交流は欧米「先進国」と行うものであるとするそれまでの通念に変更を迫るものであった。しかし、欧米「先進国」の大学と日本の大学との関係を日本の大学と欧米先進国以外の大学との関係に置き換えて考えるならば、相互平等主義に基づく交流は実際には困難なのである。この意味において、漢陽大学校との交流は、日本の新たな大学間交流、国際交流を占うものであった。その交流がどのようなものであったかは、第十一編第十章で見ることにする。

 我が国の私立大学の多くが外国諸大学と協定を結び、学術研究交流や教育交流を積極的に展開していくのは、昭和四十年代後半以降である。その意味で、学苑が三十年代に展開した海外諸大学との協定締結による学術研究交流は先駆的なものであった。私立大学が外国の諸大学と協定を締結して交流を進めることは、国立大学にない特徴と言える。国立大学は国家予算や国政、特に外交政策に縛られ自主的に交流を企図することが難しい状態にある。そのような束縛を受けない私立大学であるからこそ、外国諸大学との交流が可能であったのである。国交をまだ結んでいない韓国の漢陽大学校との交流は、このことを如実に示していよう。