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第九編 新制早稲田大学の発足

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第七章 新制下の国際交流

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 新制大学では、戦前の大学と比べると、教育・学術の国際交流が盛んに行われ、これが新制大学の特徴の一つになっている。本学苑は第二次世界大戦以前においても、伝統的に門戸開放策を採り国際交流に努めてきたが、第二次世界大戦直後の財政的に余裕のない時期にも、世界に開かれた大学を目指し、人と人との交流を通して学問の活性化を図り、同時に世界の平和に寄与しようとの努力を怠ることがなかった。そうした新制早稲田大学初期の国際交流の略年表を表示しよう。

第八十一表 早稲田大学国際交流略年表(昭和二十四―二十八年度)

 なお、戦前世界各国からの著名人の来校はきわめて多数に上ったが、戦後もその傾向は変らず、戦前を凌ぐ勢いさえ見せている。既に昭和二十五年九月十九日には、シャウプ勧告によりその名を全国に轟かせたアメリカの財政学の泰斗C・S・シャウプが、二十六年十一月十四日にはアメリカのロックフェラー財団・一般教育財団理事長ロックフェラー三世が、二十七年十月二十九日には元極東軍事裁判所判事インドのラダビノッド・パルが、学苑を訪れている。

一 国際交流制度の復活

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 国際交流は、互いに対等の立場に立ち、人と人との交流を通して実現されていくものであろう。しかし、第二次世界大戦後の日本は連合国の統治下にあって種々の制約があり、加えて日本の経済力の実情からも、人の交流は自由には行えなかった。そのような中で、たとえ僅かにせよ、学苑が留学生を海外に派遣できたのは、アメリカをはじめフランス、イギリスなどの外国政府や財団などの援助によるものであった。

 アメリカ政府は、日本占領計画の一環としてガリオア基金による留学制度を実施した。ガリオア(GARIOA)とはGovernment Appropriation for Relief in Occupied Areas Fund(占領地域救済基金)の略称で、経費を全額支給して留学生をアメリカに招く制度であった。昭和二十四年第一回生が留学し、二十七年連合国の占領終了とともに、四回を以てこの制度は終幕を迎えたが、この基金による我が国からの留学生は千九十七名に達した。この留学制度は、その後フルブライト人物交流計画に継承され、今日に至っている。

 一方、フランスは昭和二十五年から、イギリスおよびインドは翌二十六年から奨学金の提供を行って、留学生を招致している。この他、二十七年ドイツ、二十八年イタリアが留学生の招聘もしくは奨学金の供与の申込みを行っている。各国への留学生数の推移は次頁の第八十二表に示す通りであり、ガリオア基金による留学生数およびフルブライト人物交流計画による留学生数が圧倒的に多く、招致国は北アメリカ、ヨーロッパ諸国が中心である。

 昭和二十三―二十四年頃の日本の国際交流に関する意識は、二十三年四月八日の教育刷新委員会の建議によく表れている。この建議は、「ことに戦争中は完全に世界から孤立してその輸入がとぜつしたため教育、科学及び文化の面で世界の進運から全く立ち後れてしまつた」との認識のもと、「外国著作権の使用」「文化財の導入」「学徒並びに一般文化関係者の海外渡航」について行われ、外国文化導入の推進を求めた(「教育刷新委員会第十四回建議事項」『近代日本教育制度史料』第一九巻二七四―二七七頁)のであり、日本を「後進国」と位置づけ、アメリカをはじめとする「先進国」から文化を輸入しようというもので、海外留学にも言及してはいるが、日本と外国との関係は一方通行的にしか位置づけていなかったのである。

第八十二表 外国政府または政府関係機関等の招致留学生数(昭和24―29年度)

(『文部省年報』1952―1954年版より作成)

 ところが、一九四九年(昭和二十四)一月世界の未開発地域に対する援助を謳った、アメリカ合衆国大統領トルーマンのポイント・フォア宣言、翌五〇年の国際連合の拡大技術援助計画、五一年イギリス連邦所属の東南アジア諸国を主対象とした東南アジア開発計画(コロンビア計画)の発足など、アジア地域への開発協力が世界的要請となってきたのに伴い、日本の政界でもアジア、特に東南アジアとの経済提携を重視する姿勢が打ち出され、またアジア地域との連携、特に留学生の受入が国内で叫ばれるというような動きに応えて、昭和二十九年国費留学生制度が創設され、海外から留学生が招致されることになった。この留学生には、「学部留学生」と呼ばれるものと「研究留学生」と呼ばれるものとの二種類があり、「学部留学生」は東南アジア諸国から招致して、大学の学部に正規の学生として入学するものであるのに対し、「研究留学生」は欧米諸国から招致するもので、大学・大学院または研究所で一年間その専門の研究を行うものであった。国費留学生の数は第一年度においては二十三名であり、東南アジア諸国からの留学生は「学部留学生」に限られていた。

 昭和二十七年サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復して国際社会に復帰し、翌二十八年にはフランスと、三十年にはメキシコ、イタリアと文化協定を結び、国際的文化協力を推進していったが、この間、二十七年十月には政府渡航外貨予算の一部を海外留学生に割り当てる措置が採られたので、私費留学の途が開かれ、二十七年度二十九名、二十八年度九十六名、二十九年度五十一名、三十年度四十六名が私費により留学し(『文部省年報』一九五四年版および一九五五年版)、民間レヴェル、特に大学の国際交流が促進されるに至った。

 以上のような昭和二十年代後半の状況下において、我が学苑の研究者の交流も、前述のガリオア基金による留学制度により開始した。二十四年の第一回留学生の募集には全国の大学から百六十七名が応募し、五十名が選ばれたが、その中に、本学苑講師古川晴風、同今西基茂、助手倉橋健、大学院特別研究生伊東克己の四名が含まれ、古川はシカゴ大学、今西はコロラド大学、倉橋はワシントン大学、伊東はシンシナティ大学へ留学した。今西は留学に先立ち、左の如く、戦後第一回の留学生としての使命感と抱負を表明している。

何処の国へ行つても海外へ行くという事はそれだけ自分の見識を広める事になりプラスになると思います、今回の渡米教授の成績如何によつては今後もこのような企てがあると聞いているからしつかり勉強したい、そして後に続く者が一人でも多い事を願つている。 (『早稲田大学新聞』昭和二十四年九月一日号)

 昭和二十七年連合国の占領終了とともにガリオア基金による留学制度は終止符を打ち、フルブライト人物交流計画がそれを継承したのは前述した通りであるが、フルブライト人物交流計画はガリオア基金による留学制度とは性格が基本的に異り、アメリカで研究・教授する日本人に費用を支給するとともに、日本で研究・教授するアメリカ人にも費用が支給される双務的性格を持っていた。この制度に基づき、学苑には交流計画初年度の二十七年十月チューレイン大学教授ハロルド・ヘックが来校して、大学院経済学研究科・同商学研究科・第一政治経済学部・第一商学部で国際貿易、銀行貨幣論などを担任し、翌年六月帰国した。一方、この制度により学苑からアメリカに留学したのは、三十年十月理工学部教授南和夫が交換教授としてイリノイ、カリフォルニア両大学へ出張したのが最初である(『定時商議員会学事報告書』昭和三十一年)。他方、既述の如く、二十五年フランス政府招聘留学生制度が復活し、日本から毎年六名派遣できることとなったが、その第一回派遣留学生に本学苑助教授吉阪隆正が選ばれている。

 アメリカをはじめとする外国政府招聘の留学制度が整うに従って、前述したように学苑からの留学者も増加したが、昭和二年施行の「外国留学生二関スル規程」(第三巻七四四頁参照)では実状にそぐわなくなり、その改正が必要となった。そこで昭和二十五年下半期にかなりの時間をかけて検討を行い、新たに「早稲田大学留学生規則」(全十二条、付則)およびその細則である「留学生留守手当支給規則」(全六条、付則)を十二月十五日の維持員会で議決、制定し、その後の留学制度の根幹となった(本編第五章第二節参照)。この新留学生規則は、二十六年五月の理事会において、フランス留学中の助教授吉阪隆正、人文科学研究所研究員岡山隆に適用された。なお、前記の十二月十五日の維持員会では、外貨不足のために海外留学制度が思うに任せないので、その埋合せとしての内地留学制度について考慮している旨の説明もあった。「国内留学制度」すなわち内地留学は二十八年から実施され、講師門倉敏夫(理)ら四名が国内の大学、企業に一年間派遣された。

 他方、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和二十七年、前述の如く海外留学者に外貨を割り当てる措置が採られ、私費留学の途が開かれると、学苑は翌二十八年に飯島小平(文)・一又正雄(法)・平田冨太郎(政)の三教授を「大学派遣海外留学生」と定めている。飯島・一又はイギリス、平田はアメリカに赴いたが、出発に当り一又は、『早稲田学報』第六三一号(昭和二十八年六月発行)に、戦争中発刊された外国書籍の入手が日本ではきわめて困難な現状へのいらだち、留学中にこれら書籍の購入をすることへの期待、しかし留学予算が少いため思うようには購入できないであろう不満を、次のように述べている。

まあ、一番最大の希望は戦争中の書籍のことなんですが、どんなことがあつてもこのことだけは逃さないつもりです。これは皆さんが考えていらつしやる以上に学者は悩んでいる。最近のは大体来ていますが、戦争が始まつてから七、八年ぐらい、一九四四、五年頃までのものはこつちでは本屋を通じては絶対に手に入らない、やはり、現地で何とかさがし出さなければならない。このためには、どんなに金がかかつてもなんとか奔走して買わなければならない。これは私に言わせれば最大の大事なんです。むしろ、それで金を使い果したら帰つて来ようと思つているくらいです。本屋はよく知つていましてね……ベラボーに値段が高いんですよ、留学の予算の中に図書費というものがあるけど少ないですね……。中央大学の教授なんか図書館から委託されて行くといいますがね、僕等も学校から頼まれたいですね。 (一五―一六頁)

 因に、この時期、二十七年には中央大学・関西大学で、二十八年には慶応義塾で海外留学制度が復活しており、海外留学生への外貨割当て措置を契機に、多くの大学で海外留学制度が設けられたのである。

二 スポーツ外交

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 学苑の国際交流は、スポーツの面でも特筆されなければならない。

 戦後、学苑の幾つかの運動部による国際交流は、戦前に比して目を見張るものがあり、民間の外交使節として果した役割は絶大であった。昭和二十年代におけるその代表的なものとして、二十七年の山岳部によるアコンカグア登頂と、二十八年野球部の台湾(中華民国)遠征とが挙げられる。

 昭和二十七年山岳部のアコンカグア征頂は、独立間もない日本とアルゼンチンとの親善に大きな役割を果した。アコンカグアは南半球の最高峰で、南アメリカ大陸アンデス山脈の中央に位置しているが、その登頂計画は二十六年二月頃から話題となった。山岳部では、当初ヒマラヤ遠征の計画もあったが、国際的な障碍に煩わされることが比較的少いアコンカグア遠征に決定したのである。しかし、入国手続、外貨の準備、装備の調達など、難問が横たわっていたので、山岳部は強力な後援組織を作ることとし、吉田茂内閣の官房長官緒方竹虎(明四四専政)に後援会長就任を依頼、日本アルゼンチン協会、朝日新聞社、アルゼンチン共和国大使館、在アルゼンチン日本人会等の力強い後援を得、漸く遠征が実現したのであった。

 二十七年十月二十三日、理工学部講師関根吉郎を隊長に、隊員五名・朝日新聞社カメラマン一名の一行七名は神戸を出航し、アフリカ経由で十二月二十三日ブエノスアイレスに到着した。同地では在留邦人ならびに同国の人々から熱烈な歓迎を受けたばかりでなく、ペロン大統領の命により国賓なみに待遇され、特にペロン大統領との謁見も行われて親しく激励の言葉を賜ったが、総長島田孝一は遠征隊に託して兜を大統領に贈呈した。遠征隊は、アルゼンチン体育連盟、スキー山岳協会、在ア日本人会の後援、ア政府の物心両面に亘る援助を得て、翌年一月二十六日アコンカグア登頂に成功した。しかも、遠征隊全員が山頂に立つという同山登山史上初の快挙であり、遠征隊は頂上でアルゼンチン・日本両国の国旗を掲げ、旗の翻る中「都の西北」を合唱した。アコンカグアは標高七、〇三五メートルで、遠征隊は七、〇〇〇メートル以上の山の登頂に成功した最初の日本人となったが、現在ではアコンカグアは標高六、九五九メートルと測定されているので、幻の七、〇〇〇メートル登頂となってしまった。

 登頂後、歓待は一段と熱烈となり、二月十三日にはメンドーサ市の山岳連盟による記念メダル伝達式が行われ、特に隊長関根にはメダルとともに登山家として最高の名誉とされるコンドル章が贈られた。二十八日には在ア日本人会主催登頂祝賀会が催され、三月四日にはアルゼンチン共和国体育協会会館において、アコンカグア登頂記念メダル授与式が行われた。この授与式の時、先の兜の返礼として、同国の最高の栄誉であるサン・アルティノ将軍剣がペロン大統領自らの手によって学苑に贈られた。後援会長緒方竹虎は、遠征隊の出発に際し「今回の壮挙は、これを内にしては、戦後意気沮喪して進取の精神を失つた観ある我国青年に活を入れるものであり、外にしては、学生スポーツを通じて日亜両国の親善を増進することと思う」(『早稲田学報』昭和二十八年一月発行第六二七号一七頁)と両国の友好親善の増進を期待していたが、サン・アルティノ将軍剣の贈与に象徴されるように、両国の親善は期待通り達せられ、遠征隊は民間外交使節としての役割を十分に果したと言えよう。早稲田大学アコンカグア遠征隊の登頂成功のニュースは世界を駆け巡り、学苑の名を世界に轟かせた。

 以後、このような快挙は、昭和三十二年の赤道アフリカ遠征隊(隊長関根)、三十五年アジア・ヨーロッパ自動車横断隊(隊長理工学部教授三田洋二)、アラスカ・マッキンレー遠征隊(隊長理工学部教授吉阪隆正)、中央アメリカ探査隊(隊長関根)、三十六年アフリカ大陸自動車縦断隊(隊長高等学院教諭田辺和雄。ケニアのナイロビの病院で胃潰瘍のため客死)等等と続いた。

 昭和二十八年十二月から翌年一月にかけて野球部は台湾(中華民国)へ遠征した。野球部は第四編第八章に記した如く、日露戦争中アメリカに遠征し、早稲田大学の名を全米に拡めたことがあり、スポーツ外交では既に実績があった。台湾遠征は、台湾の同学会(校友会)と台湾棒球協会の招待によるもので、各地で試合を行い、十勝一敗の好成績を残した。試合には、時には万余の観衆が詰めかけ、スタンドには「都の西北」「紺碧の空」の大合唱が響きわたり、また、街では客待ちの車夫の会話にさえ「ワセダ」「モリ〔森茂雄監督〕」「イシイ」という言葉が囁かれるほど台湾の人々の関心を集めた(『毎日新聞』昭和二十九年一月八日号)。一行は台湾各地で熱狂的な歓迎を受け、更に台湾省政府首席兪鴻釣・行政院長陳誠・三軍長永清ら政府高官をはじめとして、国を挙げて歓待された。これらの高官達は、「中日友好を説き両国の提携なくしては東洋の平和はあり得ないことをしきりに強調」し、更に「東洋の次代を担うものは若い人達であり、その意味で若い日本のスポーツマン諸君の訪台によって、中国の青年達との交歓がなされるのは、両国の将来のため、東洋のために、誠に慶賀にたえない」(『早稲田学報』昭和二十九年三月発行第六三八号四九頁)と、日中友好促進への貢献を裏書した。主将石井連蔵(二商)は二十九年一月九日付『朝日新聞』に、

戦後のスポーツ使節として台湾に遠征することの出来た私達は来るべきシーズンに備える技術の錬磨はもちろん日華親善のため一役買うことが出来るならば幸いだとただ一生懸命プレーし、グラウンドから自然とわきでる中日両国人のこん然一体として調和した姿を見る時、私達も少なからず喜びを感ずる。

との手記を寄せ、日中両国の友好親善に果した自らの役割を窃かに誇るところがあった。