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第九編 新制早稲田大学の発足

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第五章 研究体制・事務組織の整備と拡充

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一 研究機関の新設と整備

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 新学制移行までに学苑は、付属研究所として既に鋳物研究所、理工学研究所、そして興亜経済研究所を改組した人文科学研究所を発足させていた。いずれも終戦前に起源を持つものとはいえ、研究環境は設立時とは一変しており、また理工学研究所のように戦災で建物・施設の大半が灰燼に帰して活動停止のやむなきに至ったものもあって、戦後文字通り再発足・再建の過程を歩まねばならなかったのである。先ず、その間の経緯を簡単に説明しておこう。

 昭和二十一年十月三日の理事会の協議事項の中に「研究所規程及理工学研究所に関する事」があることから、研究所再建の動きの高まりが察せられる。施設・機器が無事残った鋳物研究所では早くも実習工場の電気炉を同年四月から稼働させていたが、海軍中将であった所長石川登喜治教授が公職追放を見越して辞任しており、後任の所長を求めなければならない状況にあった。

 翌二十二年一月十五日、理事会で理工学研究所と鋳物研究所の規程がそれぞれ決議・制定されたが、同時に上程された人文科学研究所規程は保留とされ、制定は二十三年度まで持ち越すことになった。十八年一月十五日施行の旧規程が三研究所に共通のものであった(第三巻九二七―九二八頁参照)のに対し、今度はそれぞれ研究所独自の規程が設けられ、しかも条文が旧規程では十三条しかなかったものが、鋳物研究所新規程が全二十九条、理工学研究所が全二十七条と、一層肌理細かくなっていて、各研究所の研究目的や運営方法、要するに性格の違いあるいは特徴を認めて実態に即したものにしようとした努力の跡が示されている。新規程制定に続いて所長人事に直ちに取り組まれ、二月六日の理事会で理工学研究所長に内藤多仲が再任され、鋳物研究所長には、先に石川登喜治の後継者として理化学研究所主任研究員から本学理工学部教授に招聘されていた飯高一郎が嘱任された。こうして「終戦とそれに次ぐ生みの親たる石川先生の退職に、文字通り苦悩と焦燥の一年を送つた鋳物研究所は、協議員、所員の陣容を刷新し研究所の民主化と日本工業の再建とを理念として力強く一歩を踏み出した」(『早稲田大学彙報』昭和二十二年五月二十日号)し、一方、理工学研究所も、駐留米第八軍より要請の米軍調達資材の材料試験、更に後には一般企業から依頼の試験や技術指導を学部内の関連研究室および実験室に委ねるという窓口業務を以て活動を再開した。しかし二十四年一月発行の『早稲田学報』(第三巻第一号)で、山本研一学部長は、「我が学部は戦災に由り其二分の一にも及ぶ大損害を受け、施設の面のみを見るも、他大学の工学部に比し、復旧と云う大いなるハンデキヤツプを付けられ、又近く開設せらるべき新制理工学部及大学院の諸施設を考え、理工学研究所の復旧、再建を思うとき、其前途は真に容易ならざるものがある」と訴え、次のように決意表明を行わなければならなかったのである。

学校経営の一環として医学部が病院を附属経営し、人間個々の病患の治療と共に教育、研究の活用を計り、社会に貢献しつつ財政的基礎を確立する如く、理工系大学が、今後、其本来の使命とする教育並に研究の二方面に大いに発展する為めにも、我が学部が産業界と直結する機関を設けて我が国産業の振興に寄与し、併せて大学の充実を期する事は寧ろ当然之を行う責務がある。……終戦後三年有余、我が学部は学園内外の大なる支援の下に着々と復旧しつつあるが、尚一段と研究施設の復興従前に勝る優秀なる研究の完成に撓まざる努力を払うと共に、更に我学部が有する多方面の専門智能、技術を挙げて、凡ゆる系統の広き研究部門と科学技術を結集準備して産業界各位の諮問に応ぜんと待機して居る。以上の趣旨の下に我が理工学部、理工学研究所及び鋳物研究所等に専属する二百有余の教職員は各人の能力の全てを傾注して……使命の達成に邁進せんとする誠意と熱情を有するものである。 (二頁)

 なお、鋳物研究所の実習工場は暫く川口市の東京可鍛鋳鉄株式会社の分工場として賃貸されたが、研究所としても経済的に潤うばかりでなく、研究の上でも便宜が図られるとの判断からの措置でもあった。鋳物生産は昭和二十二年五月に開始され、十月にはこの分工場は、政治評論家として知られた御手洗辰雄を社長とする東京鋳造株式会社として独立し、戦後復興の波に乗ってポンプ類など耐圧鋳物を中心に業績を伸ばしていた。研究所としても、湯鉄を貰って試験片を作ったり、鋳型をテストしたり、現場で発生した不良品を見て研究上のヒントを得たりして、製品開発に共同研究で当る便宜を享受したのである。

 他方、前記二研究所規程と同時に提案されながら保留となった人文科学研究所規程は、引続き理事会での協議事項となり、漸く二十三年七月十四日の理事会で決議・施行となった。人文科学研究所規程は興亜人文科学研究所時代以来、少くとも四種類の案文が作られた。それらを比較して、特に我々の興味を惹くのは、研究所の目的を規定した条文であるから、次に四種を並記して、同研究所が時代環境の変化にどう適応しようとしたかを窺ってみよう。

早稲田大学興亜人文科学研究所規程(昭和十九年三月二十二日決議)

第三条 本研究所ハ国家ノ進運ニ寄与スルノ目的ヲ以テ大東亜ノ人文ニ関スル科学上ノ綜合的調査及研究ヲ行ウモノトス。

早稲田大学人文科学研究所規程改正(昭和二十一年二月十四日決議)

第三条 本研究所ハ国家社会並二世界ノ進運ニ寄与スル目的ヲ以テ人文ニ関スル科学的研究調査ヲ行ウモノトス。

早稲田大学人文科学研究所規程案(昭和二十二年一月十五日提出・保留)

第三条 本研究所は人文に関する研究及び調査を行い、文化の進運に寄与することを目的とする。

早稲田大学人文科学研究所規程(昭和二十三年七月十五日施行)

第三条 本研究所は人文並びに社会に関する研究及び調査を行い、文化の進運に寄与することを目的とする。

 大学正規の研究機関の基本規則が四年余の間にこのように目まぐるしく変化したことは、表面的に見れぱ御都合主義の謗りを免れないかもしれないが、研究活動そのものは二十一年九月に機関誌『人文科学研究』第一号の刊行により発足している。北沢新次郎所長は巻頭言に、「戦争は大なる国民的浪費である。そして敗戦経済は特に全国民の日常生活を窒息せんとしている。終戦後虚脱と廃墟の裡に呻吟して居る一ケ年を空しく経過した。しかしわれわれは何時迄も無為の状態にあることは出来ない。一刻も早く民主的平和日本の建設に邁進しなければならない」と記して、前身の興亜人文科学研究所が目的を達し得ないまま敗戦により終止符を打たざるを得なかったフラストレーションを新理念によって消散させようとするかの如く見受けられる。鋳物研究所と理工学研究所とが生産・材料試験・技術指導等、外部から依頼の業務に追われる事情があったのに対し、研究成果の公表という研究機関本来の活動の遂行では、人文科学研究所が先頭を切ったことになるのであり、二十二年四月二十五日付の『早稲田大学彙報』は、同研究所内に民主主義研究委員会、アメリカ研究委員会、戦後の産業構造研究委員会、金融問題研究委員会、新教育研究委員会、再建日本と芸能文化研究委員会、社会保障研究委員会、労働法研究委員会の八研究委員会の発足を伝えている。同年十月二十七日には、久保田明光(政)を委員長とし、大西邦敏(政)、和田小次郎(法)、中島正信(商)、谷崎精二(文)、赤松保羅(文)、定金右源二(文)の諸教授を委員とした運営委員会が発足した。

 戦前からの研究遺産を引き継いでいるという点では、いわゆる会津コレクションの保管・陳列および研究を目的とした会津博士記念東洋美術陳列室にも言及しなければなるまい。会津八一が大正十五年の文学部での東洋美術史開講以来、自らの生活を切り詰め、また時に恩師坪内逍遙市島春城の後援を受けて蒐集してきた美術資料は、会津に本格的な博物館設置を構想させたのであるが、漸く昭和九年に至り恩賜記念館に一室が確保され、東洋美術研究室として構想の一端が実現されたのであった。開設当時の収蔵品内訳は、中国明器百三十点、日本の古瓦二百五、六十点、中国秦漢瓦十数個、朝鮮高句麗瓦約四十個、百済・新羅瓦合せて四百六十個、インド・中国・朝鮮各時代の仏像小品、鏡六十面余、ほかに中国貨幣等千余点で、その後も蒐集努力が重ねられた。しかしこの努力は悲劇的な運命をたどる。すなわち、東京空襲の危険が迫るとともに、美術品・資料を現置しておけず、昭和十九年甘泉園の一角にある土蔵造りの倉庫に大部分が移転されたが、東洋美術研究室のある恩賜記念館そのものが昭和二十年五月二十五日深夜の東京空襲で焼失してしまったのである。収蔵品の大部分が難を逃れたのは不幸中の幸いと言わなければならないが、これより先、四月十四日の空襲で下落合の居宅秋艸堂が研究資料とともに灰燼に帰すと、会津は翌四月十五日教授職を辞任してその月の末に郷里新潟県に帰ってしまい、コレクションは管理・研究の主を既に失っていたのである。終戦後、コレクシ・ンは島田総長直属の下で安藤更生小杉一雄両教授により管理・運営されることになり、昭和二十三年、会津への名誉教授号授与とともに漸く図書館二階の小部屋に東洋美術陳列室が設けられ、展示されることになった。僅か十二坪のスペースでは到底全容を表せるものではなく、あくまで一部展示の暫定的措置ではあったが、その価値への認識は高まり、「本館二階の東洋美術陳列室は逸すべからざるもので、名誉教授会津博士が数十年来苦心蒐集した東洋美術品三千余点の一部が展示され貴重なコレクションとして光彩をはなつている。一方三万の学徒は朝の八時から晩の九時まで入れかわりたちかわり殺到し」た(『早稲田学報』昭和二十五年四月発行第四巻第四号二五頁)とあるように、学苑図書館の誇る施設の一つとなったのである。その後、昭和二十九年に現在の第一学生会館建設に伴って、隣接の出版部の元倉庫が改修・接続され、ここに東洋美術陳列室が移された。当初は三階建の一階・二階のフロア約七十坪を占め、漸く常設の展示場を確保し、会津コレクションの再興が成ったのである。しかし、別名「会津記念室」として知られ、演劇博物館と並ぶ名所としての存在を主張できるようになったのも束の間、ここも安住の地ではなく、昭和四十年代に入り大学紛争の嵐が吹き荒れると、過激派学生に占拠された第一学生会館に隣接する陳列室は、破壊・損失を免れるために収蔵品や資料等を学内の安全な場所に移して保管せざる得ず、四十四年五月、陳列室の扉は閉ざされたまま、コレクションは未だ一般公開されていない。

 昭和二十四年度からの新学制への移行に伴い、理工学研究所と鋳物研究所の規程が改定され、九月十五日より施行された。いずれも基本的骨格は二十三年制定の規程をそっくり引き継ぎ、変更は事務的事項であった。すなわち、新学制に合せて「理工学部」の名称が「第一、第二理工学部」となり、「専門部工科長」が消え、新たに「事務主任」の配置が明文化されたこと、鋳物研究所規程に、事業項目の一つとして「研究生の指導」とあったのが「本大学学生、研究生の指導」となったこと、「所員」が「研究員」に呼称変更されたこと、また「研究補助」が「副研究員と助手」となったこと等である。なお、二十三年七月施行の人文科学研究所規程は新学制での機構があらかじめ織り込んであったので、そのまま継続している。こうして規程が整えられたところで、特に理工学研究所は、内藤多仲を再度所長に戴くとともに、研究所建物復興の要望を明確に示し、昭和二十五年五月に正式に要望書を提出した。この年度、学苑は翌昭和二十六年度中の新制大学院開設を目指して校舎建設に取り掛かり、一一二二頁に既述の如く、その一環として喜久井町の建物を工学研究科用校舎の一部に充当するよう二十五年十一月一日に改築に着工、翌二十六年四月二十五日に竣工させた。しかし、半年後の同年十月には本部キャンパス内商学部隣に理工系大学院校舎が完成したので、喜久井町教室は不要となり、そのすべてが理工学研究所の施設となり、復興要望は一応満たされたのである。鋳物研究所でも、前述の東京鋳造が昭和二十七年七月業務拡張に伴って本拠を別の場所に移したので、実習工場が同研究所専用施設となり、実験用の小型キュポラ、高周波炉その他の設備を整えて溶解実験の充実を行った。

 ところで、研究機関の新設・整備を促すのは、本来的には学問研究の進展から生じる内的要請であろうが、実現のタイミングにはさまざまな外的条件が係わっており、従って、その外的条件を利用する機敏さや見通し能力が必要である。新学制移行年度の五月、第一回大隈記念祭が開かれ、これを機に、大隈家当主の参議院議員大隈信幸より老侯関係文書が図書館に寄附された。この文書は有栖川宮をはじめ井上、伊藤、岩倉、板垣、大久保ら当時の顕官名士からの書簡を整理したもの三百六十七巻と、ほかに書簡約五百五袋(二千百七十通)を含み、日本近代史研究のきわめて貴重な史料として大方の垂涎の的であり、その整理・公開は大学の義務でもあったので、これに取り組む体制を早急に整えることが必要となった。同年度のうちに文部省科学研究費の各個研究を申請するなどの措置が採られ、早くも「大隈研究室」設置の件が昭和二十五年二月十五日の理事会で協議・決定された。研究主任に渡辺幾治郎、研究員として塚越菊治、中村尚美が嘱任されて、同年四月、図書館内に正式発足を見た。左に研究室規程の一部を掲げる。

大隈研究室規程(抜粋)

第二条 本研究室は本大学の創立者たる大隈重信侯の人物思想および事蹟を調査研究しその精神を顕揚し普及することを以て目的とする。

第三条 本研究室は左の事業を行う。

一、大隈侯に関する文書及び文献の蒐集整理、古老及び研究者の談話の聴取

二、大隈侯の人物、思想及び事蹟の調査研究竝に普及

三、大隈侯に関する研究会、講演会、及び展覧会の開催

四、研究会誌の発行、蒐集文書文献の刊行

五、その他理事会に於て必要と認むる事項

こうして態勢を整えた大隈研究室は翌二十六年五月に機関誌『大隈研究』を創刊した。また二十七年一月には小汀利得、京口元吉、野村秀雄、柳田泉吉村正が顧問に就任、同年八月には吉村正、渡辺幾治郎、阿部賢一上坂酉三、中村宗雄、斉藤金作、京口元吉、一又正雄、入交好脩、佐藤立夫、深谷博治を研究員とする文部省科学研究費・機関研究として「明治初期の外交及び財政、諸官制、諸施設の近代化に関する新研究」を申請し、百万円の交付を受けることとなった。こうして同研究室は日本近代史研究機関としての充実化を進めていったのである。

 前記プロジェクトは資料蒐集とともに着実に進められ、成果が『大隈研究』第四輯(昭和二十九年三月発行)、第五輯(同年十月発行)、第六輯(昭和三十年三月発行)に亘り計十三編の論文として発表され、一応完了したのを機に、大隈研究室は人文科学研究所と合併し、次巻に詳述する如く、三十年四月一日大隈記念社会科学研究所として発展的解消を遂げることになった。早稲田大学出版部の三階にあった人文科学研究所は、前述の如く、昭和二十二年に改組・再出発後、機関誌『人文科学研究』につき、「国際関係の研究発表を中心として発刊を続ける」(昭和二十四年一月発行第五号「後記」)との編集基本方針を打ち出し、昭和二十四年度以降、文部省科学研究費交付の共同研究を次々と発足させたが、第一・第二理工学部が母体の理工学研究所および鋳物研究所と異り、母体とする特定学部がないだけに機関としての目標があまりに観念的・抽象的であったのみならず、組織編成や運営に関する規定も緻密さに欠ける憾みがあった。例えば、研究所活動の担い手たる「研究員」の身分および任期に関する明確な規定がなく、また事務を担当する職務規定もなかった。一一五三頁に後述するごとく、昭和二十五年度から大学は毎年度、各学部から同研究所への派遣教員を認定して、当該年度中の講義・学生指導等の教育任務から解放し研究に専念させるという、現在の国内研究員制度の前身に当る制度を作った。人文科学研究所はこの制度の受け皿とされたので、この点からも、研究機関としての独立性ないし主体性が必ずしも明確でなかったと指摘できるのである。

二 研究員制度と教員研究費

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 昭和十四年を以て中断を余儀なくされた学苑の海外留学制度がともかくも制度として復活を見たのは、昭和二十五年十二月十五日に左記の如き「早稲田大学留学生規則」が設けられた時点と見てよい。この規則は実質的には、昭和二年制定の「外国留学生二関スル規程」(第三巻七四四頁参照)を口語体に改め、部分的に修正を加えたものであるが、昭和四十二年に廃止されて新たに「在外研究員等規則」が設けられるまで、これに基づいて百名を超える教員が、欧米諸国を主として世界各地に派遣されたのである。

早稲田大学留学生規則

第一条 本大学は学術の研究をさせるために留学生を学外に派遣することができる。

第二条 留学生は大学がこれを命ずる。

第三条 大学は留学生候補者の選定、留学生の研究事項、留学の場所及び期間その他留学に関して必要な事項について当該教授会、体育部協議員会又は学科主任会に諮問しなけれぱならない。

第四条 留学生に対する旅費及び給与については大学が評議員会の議決を経てこれを定める。

第五条 留学生に対してはその出発の翌月から留学期間満了の前月まで俸給及び諸手当の支給を停止する。但し直系血族及び三親等内の親族であつて、留学生が現に扶養している者のあるときは、その生計維持のため必要の限度内において留学生留守手当を支給する。

前項但書の留学生留守手当の額は留学生の受けていた俸給及び諸手当、扶養親族の員数等その他一切の事情を考慮して理事会においてこれを定める。

前項の規定により留学生留守手当の額が定まつた後事情に変更を生じたときは、理事会は留学生留守手当の額を変更することができる。

第六条 留学生を命ぜられた者は本規則を遵奉する旨の誓約書を大学に提出しなければならない。

第七条 留学生は留学を終えた後一年以上五年以内の期間大学の命ずる職務に従事する義務を負うものとする。

第八条 留学生が大学の命令に服しないとき又は病気その他の事由によつて大学において不適任と認めたときは留学生を免ずることができる。

前項の場合においては当該教授会、体育部協議員会又は学科主任会に諮問しなければならない。

第九条 留学生が第七条の義務に違背したとき又は前条によつて留学生を免ぜられたときは大学は留学中の給費額を賠償させることができる。

第十条 留学生はその研究に関する報告を当該教授会、体育部協議員会又は学科主任会を経由して毎年一回以上大学に提出しなければならない。

第十一条 留学生は研究、病気その他已むを得ない事由によつて留学期間を延長する必要を生じたときは遅滞なくその事由を具して大学に願出て、その許可を受けなければならない。

大学は留学生が前項の願出をしないとき又は前項の許可を与えないことを相当と認めたときは直に休職の指定をしなければならない。この指定は留学期間満了の翌月から効力を生ずるものとする。

前二項の許可又は休職の指定についてはそれぞれ第八条第二項の規程を準用する。

第十二条 日本政府、外国政府、内外公私の団体又はその他のものから給費を受け或は自費を以て留学する者がある場合において大学がこれを承認したときはその者に対しても亦この規則を準用する。

 右の規則を昭和二年規程と比べると、主たる変更は次の点である。先ず、旧規程では、留学生の選定は教授会に諮った上で研究事項、留学先、留学期間を大学が決定していたのが、新規則では、留学制度を機動的に処理できるようにするためと思われるが、これらすべてにつき教授会および体育部協議員会が権限を持つようになった。第六条の俸給および諸手当の規定は大幅に変更され、旧規程では留学生の留守家族に対し本人の年俸の二分の一を超えない額を支給するとなっていたのが、その対象家族の定義が厳密化され、「二分の一」規定が削除されている。なおこの点については、本規則とは別に「留学生留守手当支給規程」が設けられて、留学生の扶養親族申告書とともに戸籍謄本および扶養事実を証明する資料の提出が求められ、扶養親族数に応じて俸給と手当(物価手当、親族扶養手当)の合計額の支給率が扶養親族一人の場合は六割、二人で七割、三人で八割、四人以上で八割五分と規定され、更に、留学生本人には旅費・給与とは別に餞別を贈呈すると定められた。恐らく最も注意すべきは第七条で、旧規程第八条で留学生は帰国後大学の命ずる職務に従事する義務を負わなければならないとされた条件が緩められるとともに、労働基準法との関係で更に検討・改訂の対象事項となっていく。ともかく、こうして学苑の費用負担で留学生の海外派遣体制が整えられ、一一八六頁に述べる如く、二十五年五月にフランス留学中の吉阪隆正と岡山隆に右規則が適用されたが、実際に学苑が派遣を開始したのは昭和二十八年度からで、翌二十九年までに派遣された留学生は次の如くである。

第八十表 早稲田大学派遣留学生表(昭和二十八年五月―二十九年五月)

 海外派遣教員は当該期間中は授業その他の学内任務から解放されて研究に専念できる。しかし、海外留学の特典に浴することができる人数は、制度復活後もかなり長期に亘ってごく限られていた。大学の財政事情もあったろうが、外貨の持ち出しが厳しく制限される期間が続いた事情も考慮に入れなければならない。そこで、この趣旨をほかならぬ学内において実現して、研究・教育体制の一層の充実を図るため、一一四九頁で触れた如く、人文科学研究所に教員を派遣して一年間授業を担当せず専心研究に従事させるとのアイデアが生れた。同研究所規程にはこれに関して明文化された事項がなかったため、昭和二十五年四月二十二日の左の如き理事会決定により発足したものである。

人文科学研究所に関する件

一、派遣教員の本属 本属の学部

二、名称資格 教授、但し対外的には研究所研究員の如く扱う。

三、研究課題 自由

四、勤務条件 一週間に三日研究所或は学部研究室、図書館等で研究する。

五、研究成果 論文一つ以上

六、留学には代えない

七、期間 二十六年三月迄

 この内規に基づき同年五月の理事会で、文学部教授岡一男、教育学部教授中西秀男、法学部教授有倉遼吉が派遣教員として任命され、先陣を承ることになった。更にこの決定に続いて九月、理事会は人文科学研究所派遣教員図書費として一人につき年額二万円の支給を文部省科学研究費と重複しないことを条件として定め、十二月の理事会で「来年度も一系統から一名を実行する」と決定した。こうして、この学内派遣研究員は一応の制度化を見たのである。

 専任教員に対し俸給・諸手当とは別に研究者個人の研究活動に伴う経費を大学から補助するとの考え方は、少くとも制度的には新学制発足まではなかった。この方法の実施を迫った直接の契機は昭和二十六年度よりの新制大学院設置の条件作りであった。一段の研究水準向上を図る体制の整備が緊急に要請され、そのための措置ないし対応の一環として教員個人に対する研究助成の構想が立てられて、ここに「特殊研究助成費」の考え方が生れたのである。研究一般に対してではなく、「特殊」と限定したところに苦心の跡が見えないでもない。昭和二十五年三月一日の理事会で「特殊研究助成費要綱」が定められた上で、左の規程が制定された。

特殊研究助成費規程

第一条(この規程の目的)

1 特殊研究助成費(以下助成費と略称する)は、新制大学院の設置に対処し、緊急且つ重要課題たる教員組織の完備を期するために、設置されたものであって、主として各学部の専門分野に関する研究を助成するために図書機械器具の購入及び実験費等に使用する。

2 助成費は、前項の趣旨よりして、研究者の生活費に充当することを得ない。

第二条(管理委員会)

1 助成費を管理運営するため各学部に管理委員会を置く。

2 管理委員会を構成する委員は、これを若干名とし、当該学部の教授会によって選出されたその学部本属の教授又は助教授とする。

第三条(管理委員会の作成する書類)

管理委員会は、学年の始めに、助成費の使用内訳書及びそれによって行う特殊研究の計画概要書を総長に提出しその承認を得なければならない。

第四条(助成費の使用内訳書)

助成費の使用内訳書作成については、第一条の趣旨に則り、これを作成しなければならない。

第五条(特殊研究の計画概要書)

特殊研究の計画概要書には、左記の項目を記載しなければならない。

1 研究者の氏名

2 研究題目

3 研究計画の概要

4 研究費の使用予定

5 その他必要とする事項

第六条(助成費の交付)

1 総長は、前二条の使用内訳書及び計画概要書に基き、交付の決定を行い、管理委員会に助成費を交付する。

2 前項の助成費の金額は、理事会の議を経て毎年これを決定する。

3 前項により交付せられた助成費は、第一条第二項の趣旨に則り、管理委員会がこれを管理し、その運営について一切の責任に任ずる。

第七条(助成費による購入物件の所属)

助成費により購入した物件は、すべて早稲田大学の所属とする。

第八条(研究、決算の報告)

管理委員会は、年度末にその助成費による特殊研究報告及び決算報告を総長に提出しなければならない。

第九条(管理委員会の連絡協議会)

助成費の各学部に於ける管理運営を相互に規整するため、総長は、年度始めに於て全学の管理委員会を召集する。

付則

第十条 この規程は、昭和二十六年四月一日から施行する。

二十六年度に計上された助成費は総額三百万円で、政治経済学部・法学部・商学部に各四十五万円、文学部に六十万円、教育学部に四十万円、理工学部に六十五万円を割り当て、規程第五条に従ってそれぞれの研究者に配分された。選択的研究助成の開始と言えよう。九月に三選を果した島田総長は、『早稲田学報』(昭和二十六年十月発行第六一五号)に寄せた挨拶の中で、「既に斯界の権威者としての地位を確保して学界に重きをなしておられる人々がなお学園の基礎の上に立って学界を指導していただきたいのは勿論であるが、これらの人々につづく次の時代を担うべき人材の養成という問題が、充分に考えられなければならないと思う。本年の春試みた特殊研究助成費の支出の如きは、この目的を達成するための一助であったのである」(三四頁)と述べた。

三 事務組織の整備

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 昭和二十四年一月十九日の理事会で、新制大学発足に備えて本部事務組織を手直しする件が池原義見理事より提案され、七月二十五日の臨時維持員会で決定された。すなわち、第十四図のように、秘書役を総務部から分離して秘書室とし、新たに学生厚生部を置いて総務部より就職課を、教務部より学生生活課をこれに移し、第二学部関係の事務連絡を統轄する第二事務部を新設し、校外教育担当の教育普及課を部として復活させ、加えて、内外大学制度の調査に当る調査課を教務部に復活させた。なお、本部事務組織からは独立したユニークな機関として戦前より在学生を対象に啓蒙活動を繰り広げてきた科外講演部は、この年十月六日の理事会で廃止が決定している。

 こうして本部の事務組織は一応整ったが、二十六年に学校法人化に伴う改訂が行われた。五月十五日の評議員会で決定した改訂の主旨は経理

第十四図 本部事務組織(昭和23―30年)

部門の強化にあり、総務部より経理課と資材課を分離して新設の経理部へ移すとともに、庶務課のみを抱えることになった総務部を庶務部と改称した。更に同年九月十五日、一一二九頁に前述した如く、早稲田大学復興会の後身として、資金部を新設した。ところが翌二十七年には、一〇九二頁に記した事情をも背景に、四月二十二日の評議員会に事務組織規則改正案が再び提示され、五月十五日の評議員会で決定を見、七月一日より実施された。要点は、第二事務部の廃止と、四月の平和条約締結によりGHQが消滅したため無用になった渉外部の廃止と、大学運営の企画立案ならびに外国機関や外国人との連絡をも担当することになった調査課の部への独立と、教務課の負担軽減のための学籍課の新設と、経理課の仕事を分担する出納課の新設とであり、併せて、資材課を庶務部へ移し、学生厚生部と教育普及部は学生部、社会教育部と改称した。昭和二十四年制定の「社会教育法」第二条に、「社会教育」とは学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年および成人に対して行われる組織的な教育活動と定義されているが、従来の教育普及部の趣旨はこれと異らないから、法に準じてこのように名称を改めたのである。なお、この年教育学部に「社会教育課程」が設置されたのは、本編第二章第四節に前述した如く、「社会教育法」に定められた「社会教育主事」の資格を得るためのもので、ここに述べた社会教育部新設とは直接の関係はない。

 昭和二十八年十二月、新学制の一応の完成に伴い全学的に学制を再検討することになり、次巻に記す如く学制研究委員会が十七日に発足したが、他方、事務部門を見直す機関として事務組織調査委員会が二十四日に設置された。後者の委員会は一年間に亘って検討を行い、その成案は二十九年十二月十五日の評議員会に大浜信泉新総長より提案され、一部修正の上翌三十年一月十七日の評議員会で改正規則が採択された。今日の事務組織規則の原型であるそれは左の如きものである。

早稲田大学事務組織規則

第一条 本部に教務部、学生部、就職部、庶務部、経理部、施設部、調度部、校友部、科外講演部及び秘書室を置く。

第二条 教務部は左の事項をつかさどる。

一 学則に関する事項

二 教員の人事に関する事項

三 大学院委員会及び学部長会に関する事項

四 学位論文に関する事項

五 研究助成に関する事項

六 試験に関する事項

七 教員室及び教室に関する事項

八 学籍簿及び成績簿に関する事項

九 証明書類に関する事項

十 大学及び教育に関する調査並びに諸統計の蒐集、作成及び保管

十一 その他教務に関する事項

第三条 学生部は左の事項をつかさどる。

一 学生の風紀、教養、保健、厚生及び共済に関する事項

二 学生の課外活動に関する事項

三 学生会館の管理に関する事項

四 学生寮に関する事項

五 奨学制度に関する事項

六 その他学生に関する事項

第四条 就職部は左の事項をつかさどる。

一 卒業生の就職斡旋に関する事項

第五条 庶務部は左の事項をつかさどる。

一 評議員会、理事会及び商議員会その他学校法人に関する事項

二 大学印、総長印、理事長印及び常任理事印の保管

三 不動産の売買その他の契約に関する事項

四 規約の立案及び運用に関する事項

五 文書の取扱、整理及び保管

六 事務組織及び分掌に関する事項

七 職員の人事に関する事項

八 給与制度に関する事項

九 教職員の厚生、保健及び共済に関する事項

十 警備及び消防その他他課に属さない事項

第六条 経理部は左の事項をつかさどる。

一 予算及び決算に関する事項

二 資金計画に関する事項

三 学費その他の収入

四 給与及び諸経費の支払等の金銭出納及び保管

五 その他経理に関する事項

第七条 施設部は左の事項をつかさどる。

一 建物及び工作物の保存及び修理に関する事項

二 建物及び工作物の建設に関する事項

三 工事用資材の購入及び保管

第八条 調度部は左の事項をつかさどる。

一 教育用資材の購入、配布及び管理

二 事務用消耗品及び備品の購入、配布及び管理

三 印刷所及び木工所に関する事項

四 資産の保全及び管理

五 什器、機械器具等の保全及び管理

六 その他資産の管理に関する事項

第九条 校友部は左の事項をつかさどる。

一 校友その他との渉外及び連絡に関する事項

二 地方における学術講演に関する事項

三 寄附金に関する事項

第十条 科外講演部は左の事項をつかさどる。

一 学内における科外講演に関する事項

第十一条 秘書室は左の事項をつかさどる。

一 総長及び理事の秘書事務

第十二条 部に必要に応じて、課又は係を設け、その事務の一部を分掌させることができる。

第十三条 大学院、学部、体育局、高等学院、工業高等学校、図書館、演劇博物館、人文科学研究所、理工学研究所、鋳物研究所、診療所及び大隈会館に、その事務をつかさどるため、各事務所を置く。

第十四条 部に部長又は部長心得を、課に課長又は課長心得を、係に係長を、事務所に事務主任を置く。

第十五条 部に必要に応じて、顧問又は参与を置くことができる。

第十六条 この規則の施行に必要な事項は、規程で定める。

附則

1 この規則は、昭和三十年一月十七日から施行する。

2 早稲田大学事務組織規則(昭和二十七年五月十日庶達第三号)は、この規則施行の日から廃止する。

次いで第十六条に基づき二月三日に早稲田大学事務分掌規程が制定され、部・課・係は前掲の第十四図のように整理された。資金部と社会教育部とは廃止されたが、後者の学外活動は新設の校友部に委ねられる一方、在学生を対象とする科外講義を復活し、新たに本部事務組織に組み込まれた科外講演部にこれを担当させた。校友部は地方での学術講演のほかに校友その他との渉外活動を担当し、調査部は企画に関する活動を縮小して教務部に編入された。総務部から経理部そして再び庶務部へと転々と移った資材課は、調度課と改称して新設の調度部に含められた。調度部の管財課は大学財産の管理を担当する新設の課である。また学生部就職課が独立して就職部に昇格したのは、年々増え続ける新卒業生に一層便宜を計ろうとするためであり、理工学部卒業生の多くが企業からの直接の誘引を得て就職しているような例外はあるが、学苑卒業生の大半は就職部の斡旋を受けて就職先を決定している。学生部に奨学係が置かれたのは、これまた年々増え続ける奨学生に対応するためであった。こうして学苑組織が拡大するに伴い、関係者のみに対する伝達方式ではすべての教職員が学苑全体の動きについて知ることが難しくなり、ジャーナリズム出身の阿部賢一常任理事の主唱に大塚芳忠庶務部長が共鳴して、学苑の規約、人事、学事その他の重要事項を全教職員に伝えるための『早稲田大学広報』が昭和三十一年四月一日より庶務部の手で刊行されることになった。

 最後に、勤続年数が満三十年に達した専任教職員の労を称えるため、二十八年十月十五日に永年勤続教職員表彰制度が誕生したことを付言しておこう。その最初の栄誉に輝いたのは、教員では松田治一郎、渡利弥生、山本研一、田幸彦太郎、広田友義、宮部宏、小栗捨蔵の七人、職員では森文作、北島勝之輔、山中英男、中村代仁の四人で、学苑創立記念日の十月二十一日に表彰状と記念品が授与された。