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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第一章 最高首脳部の苦悩

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 昭和十八年十二月一日、六千に近い学苑の文科系学生は「学徒出陣」し、学苑の実人口は学生数の統計からは想像が困難なほど実質的に減少した。学苑キャンパスには理工科系学生がなお残留したけれども、その全部が教室で講筵に列していたわけではなく、勤労動員により学苑外で労働力を提供している学生も少くなかった。すなわち、高等教育機関としての学苑は、辛うじて片肺で呼吸しているに過ぎなかったが、その片肺でさえいつ呼吸を停止させられるか、全く予断を許さなかった。当時、圧倒的に発言力の強かった軍部の頭脳を占めていた教育機関は、専ら官公立学校であり、私立学校の存在理由に対する認識は往々にして無に等しかったから、学苑当局としては、私立大学無視の政策が横行せぬよう、一瞬たりとも注視を怠ることは許されなかった。しかも、強圧的な命令に真っ向から抵抗すれば、学苑そのものの運命に終止符が打たれないとの保証は、存在しないと言っても過言でなかった。学苑の最高首脳部としては、学苑の歴史に汚点を印することなく、どこに妥協点を見出すかという、きわめて困難な問題に日夜苦悩し続けたのである。しかも、学生数の大減少は収入に悪影響を及ぼすとはいえ、それにより学苑が抱擁している教職員の生活が脅かされることのないよう、万全を期する必要があった。戦争終結の日は、必ずやいつか到来するであろう。その際に教育水準の低下を来す惧れのないだけの数の教職員を、減収必至の学費収入を以て、どうしたら確保できるであろうか。これまた最高首脳者としては夢寐にも忘れることのできない大問題であった。

 そもそも、戦時態勢は徐々に学苑に浸透したが、一気に学苑を超非常時態勢に転換させたのは、「学徒出陣」であった。すなわち、昭和十八年十二月以降、新入生を迎えた短期間を別とすれば、窪田空穂が「学徒みな兵となりたり歩み入る広き校舎に立つ音あらず」と詠んだように、学苑は「開店休業」に近い状態に転落させられたのであり、大袈娑な表現が許されるならば、キャンパスに閑古鳥が鳴き始めたのである。この超非常時の乗り切りに挺身したのが第四代総長田中穂積と第五代総長中野登美雄とであり、重圧の赴くところ、田中は半途にして二豎子に冒されて再び起つ能わず、病身の中野は心身を更に衰弱させて、辞任後学苑復興の姿を自ら目にするに至らずして生涯を閉じざるを得なかった。「学徒出陣」以後の超非常時の学苑が、終戦を経て、戦後復興の途を歩むに至るまでを説述する本編の冒頭に、決戦態勢下の学苑の苦悩を象徴するとも言い得る田中、中野両総長の業績を偲ぶことにしたのは、我々後進が両総長の心労に対して聊かにせよ感謝の意を表明したいからに他ならない。

一 田中総長の病没

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 総長田中穂積は、生来の病身に戦時下の激務による疲労が累積して、在任十三年目の昭和十八年夏頃から胸部に異常を覚え、しばしば発熱するに至り、同年十二月の最終理事会では静養方を申し出て療養に務めたが、翌十九年三月二十二日の臨時理事会に病をおして出席、「学園ノ現状並将来ノ事ニ付縷々衷情ノ陳述アリ、此際常務理事ヲ置キテ補佐ヲ依頼シタク、自分トシテハ中野氏ヲ常務理事トシテ嘱任シタキ旨ヲ述べ、一同異議ナク賛意ヲ表シ」たので、同日辞任して名誉理事に推薦された増田義一の後任として理事に選任された中野登美雄が常務理事として総長を補佐することが決定、田中は四月二十日の理事会に出席を最後として静養に専心した。しかし、病状は一進一退、はかばかしく好転せず、東京帝国大学医学部坂口康蔵教授の勧めにより同年五月二十七日同大学病院坂口内科に入院した。五月三十日の臨時理事会では病状説明があり、総長の伝言により常務理事を総長の事務代行に決した。次いで八月十九日の臨時理事会では中野常務理事より「総長ガ昨今頓ニ衰弱加ハリ頗ル憂慮スベキ状態」にあると報告されたが、二十一日夜半より病状は急変し、意識の混濁と呼吸困難を来した。二十二日午前招集された臨時理事会は「田中総長病気重態ニ付万一ノ場合」の処置を協議したが、同日午後九時五十八分、肺壊疽のため享年六十八歳を以て逝去した。

 十九年八月二十八日、田中総長の大学葬が午後一時より大隈講堂で行われた。葬儀委員長は維持員会長松平頼寿の予定であったが、病気のため名誉理事増田義一がこれに代り、常務理事中野が大学を代表して祭詞を捧げた。田中の自宅牛込弁天町から式場までの沿道には多数の学生・市民が葬送し、その死を悼んだ。次いで九月二十二日郷里長野県更級郡川柳村の生家で埋骨式が行われた。生家の裏山に戦後建てられた墓碑には、その側面に総長島田孝一の筆で「その生涯を我国私学乃興隆のために捧げた聖川先生はここに眠る」と刻まれている。それより先、九月十三日開催の臨時理事会は、「故総長田中穂積氏ノ功労ニ対シ弔慰金並ニ感謝状供呈ノコト」を決議した。次いで十六日の維持員会において、理事欠員二名の補欠選挙により日高只一林癸未夫が選出され、続いて臨時理事会を開いて、総長互選の結果、中野登美雄が第五代総長に推挙され、中野総長は十月十日大隈講堂で就任式を行った。

 田中穂積は明治九年二月十七日出生、隣村塩崎村の小学校の高等科を優秀な成績で卒業、明治二十一年県下唯一の松本中学校に入学、松本に下宿して通学したが、三年在学中に風土病の肺ジストマに冒されて喀血し、上京して北里柴三郎の治療を受けるため、松本中学校を三年で退学、以後三年有余の間、生家で療養しながら東京専門学校講義録で独学に励んだ。田中は、講義録を学習し終えた校外生には銓衡の上東京専門学校の二、三学年に入学を許されるという制度を利用して二十八年十一月に邦語政治科第二学年の編入試験に合格、入学のため上京後、引続き同年十二月第三学年編入試験にも合格し、第三学年に編入学した。時に十九歳であった。翌二十九年七月、在校生としての「在学日数の最短記録」を樹立して卒業後、東京日日新聞社に入社し、経済財政記者として論陣を張るとともに母校の研究科に在籍し勉学を継続したが、三十四年六月には東京専門学校留学生としてコロンビア大学に学び、翌三十五年六月に同大学よりマスター・オヴ・アーツの学位を取得後イギリスに渡り、経済・財政の研究を進め、二ヵ年に亘る海外留学を終えて三十六年十月帰国した。翌三十七年九月本学苑講師、大学部政治経済学科等で財政学を担当し、四十年には教授会議員に嘱任された。また四十三年には法学博士の学位を授けられた。他方、学校行政の面では、明治三十九年七月より大正十二年九月までの十七年余に亘り、商科教務主任および科長、あるいは商学部長を歴任するとともに、明治四十年には大学維持員に選任され、大正四年からは理事として大学経営に参画した。更に、大正十三年十月より昭和六年六月まで常務理事として総長高田早苗を補佐し、あるいはその職務を代行したのち、昭和六年六月より十九年八月まで総長として大学運営の重責を担った。その間学外においては、文政審議会委員、文部省教学局参与、日本学術振興会創立委員ならびに同理事などを歴任し、昭和十四年一月には貴族院議員に勅選された。

 人間田中穂積については、加藤中庸編『田中総長追想録』への寄稿者八十四名により余すところなく語られているが、その死の直後に『早稲田学園彙報』(昭和十九年十月二十五日号)に寄せた四十年来の友、名誉理事増田義一の「前総長田中博士の思ひ出」と題する一文は、『追想録』に語られている種々な面を的確に表現していると言えよう。

君は資性温厚謹厳な人で思慮周密、事を苟もせず識見高く極めて常識の発達した責任観念の強い人であつた。自分の考えたことを実行するには、種々の角度から深く研究し、一旦決意するや非常な信念を以て飽迄断行する。従つて自信力強くして且つ粘り強いことは敬服する。それだけ実行力の強かつた意志の人でもあつた。君は常に几帳面であつたが、人に接しては如何にも肌障りのよい外柔内剛の人で、言語態度上品な上に、親切な行届いた性格の持主であつた。部下を諸方面に斡旋したもので、態々奔走して周旋した程熱心親切であつた。殊に人を見るの明あつて、適材を適所に嵌めることに妙を得てゐた。又何か相談に行くと懇切にその相談対手となり情味掬すべきものがあつた。君が演説の巧妙なことは天下一品と謂つても過賞でない。……君の澄んだ音声で、言葉使ひが綺麗で無駄がなく、歯切れが能く、理路整然としたる演説には、一同を深く感嘆せしめた。……君は性来虚弱の質であつたから健康に注意し、毎朝冷水摩擦と、簡易な体操とを多年継続励行してゐた。煙草は好きであつたが、健康の為め遂に断然禁煙した。又以て意志の強固なるを知るべきである。趣味としては読書を好み頗る広汎に亘り、歴史伝記から文学方面に及んでゐる。又道楽としては新画で観山会、大観会、翠雲会、青邨会、十畝会、永邦会その他幾多の画会へ入会して相当の新画を集められたが、観賞する事だけは頗る好きであつた。玆に珍しいことは舞踊が分るので、菊五郎、三津五郎などの芸術をよく批評したものである。告は元来品行極めて方正な人で、家庭を愛好してゐたから、脱線した事なく、従つて逸話の無い人である。

 もう一つ北沢新次郎の追想を掲げて、別の一面を示しておこう。「聡明、俊敏なる田中先生程『イエス』と『ノー』のはつきりした人は稀である。……私は或時『先生の様に態度をはつきりされると対手の不満や反感を買ふ事が多いのではないでせうか』と御尋ねした。先生は『それは屢々対手の感情を害する事があるが、其の間に何等の私心をさしはさまなければ、時のたつにつれて僕の考へを理解するものですよ』と答へられた」(『田中総長追想録』七七―七八頁)ということである。また政治経済学部の小松芳喬は晩年の田中総長に接する機会をしばしば有したが、田中は、学部からの提案があれば、直ちに卓の抽出から算盤を出して弾いた上で、即座に諾否を回答したと語っている。田中は学苑事務の能率化に貢献するところ大であったと思惟されるが、それが時としては冷酷な性格の所有者との誤った印象を生む結果となったのも、否定できないところであった。

 田中は、前記の如く、明治末以降学苑の行政に参画したが、その活動の内容を三つに分けて述べよう。

 先ず商科および商学部における活動を見よう。明治四十三年学則を改めて第四高等予科(商科)に二部教授の制を設けた。明治四十四年には商科長に嘱任された。この年五月竣工の恩賜記念館内に商科研究室を設けた。大正二年学苑創立三十周年記念に際して商科主催の広告展覧会を開き、翌三年一月に学生が広告研究会を設立すると推されてその会長に就任し、広告学の普及・発展に寄与した。三年にはまた商科に学期制度を導入し、年度内に前・後二回の試験を施行した。また学風の向上と学生間の意志疎通とを目的に商科学生委員制度を発足させ、各組選出の候補者を委員に任命した。四年八月理事に選任され、商科長を兼務することになり、八年六月には準備委員として大学令実施に伴う学苑整備に着手、大学令に基づく九年三月の学則改正認可とともに商学部長に嘱任された。

 理事、常務理事としての活動に目を転じよう。田中は、大正四年八月に理事に選任されてから、一時期を除き、天野為之平沼淑郎塩沢昌貞の三人の学長と、塩沢、高田早苗の二人の総長を補佐し、大正十三年十月以降昭和六年六月まで常務理事として大学経営に深く関わった。

 天野学長の下で理事として最初に参画した事業は、大正四年に決定した「大学教育の眼目たる研究機関設備完成の計画」を御大典記念事業として遂行することであった。田中は、これら施設の整備こそ「大学の生命であつて、学界に於ける我が大学の名声を発揚する」前提となるとともに、学生の演習にも利用でき、学生の「啓発自習」を徹底して学習効果を高められると力説した(『早稲田学報』大正四年十一月発行第二四九号二四頁)。更に大事業であったのは、平沼学長の下で行われた大学令公布による大学への移行に伴う諸事業であった。それは「法令の規定に依る政府供託金、高等学院の新築及整備費合計百五十万円の資金」を要する容易ならざる事業計画であったが、「田中理事専ら此局に当り……各地に出張勧説せられ……大学当面の改造事業は之を以て着々其進行を為すを得たり」(「早稲田大学第卅七回報告」同誌大正九年十二月発行第三一〇号二頁)と報告されているような好成績を収め得た。この際、資金面から政治経済学科と法学科との合併案(第三巻一八―一九頁参照)があったが、これには激しい反対運動が起り、田中は「其の主張に極めて同情的態度を示され、先生の直接間接の御尽力で無事法学部が独立の学部として認可を受けることになつた」(『田中総長追想録』一六九頁)と、法学部の中村宗雄は回想している。

 大正十年には体育各部を、学長を会長とする体育会に組織することになった。田中は、この「根本的刷新によつて我が学園の体育会は近き将来全く其面目を一新し、我邦の運動競技界に愈々陸離たる光彩を放つに至るべきことを確信」(『早稲田学報』大正十年三月発行第三一三号三頁)していた。またこの年四月から女子聴講生の入学を許可し、更に五月には外国人および外地(朝鮮・台湾)からの学生を正科生として入学許可することになった。十年、次期総長としての呼び声が学苑の一部に挙げられたが、第三巻五二頁に記したように、塩沢昌貞に先んぜられ、失意の中を、同年九月から翌年五月まで、学苑の命により教育制度視察のため欧米へ出張した。十四年十月新図書館が完成した。これは、田中が「今日学園の図書館としては先づ極東第一と申しましても決して誇張の弁でない」(同誌大正十三年五月発行第三五一号五頁)と自負しているほど、研究・教育の発展に貢献するところ大であった。この年には、学術奨励のため奨学金の制度を創り、新築された学生ホールの一部に学生健康相談所を設け、更に学生の会に関して科外教育審議会を設置するなど、学生生活の各方面に亘って施策を講じた。

 また昭和二年十月には大隈講堂が、翌三年には坪内博士記念演劇博物館が開館した。学苑の一部には、田中の大学経営は商・理工両学部偏重に傾いているとの不満を口にする者があったことは否定できないが、他方、館長河竹繁俊が、我が国初の大学付属の博物館であるこの演劇博物館を「無料公開といふ好もしい制度にしたのも、偏へに田中先生の英断、御支持によるものと感謝してゐる」(『田中総長追想録』七六頁)こともまた事実である。

 更に総長としての活動を見よう。昭和六年六月より高田総長の後を承けて総長に就任し、十九年五月まで学務を統理し、経営に当った。年来計画を練ってきた学制改革を七年四月から実施し、当時のいわゆる詰込主義・注入主義の教育の弊を改め、「飽までも学生の自発的研究を本位として、……学問討究の興味を刺戟作興しよう」(『早稲田学報』昭和七年四月発行第四四六号六頁)というのがその趣旨であった。この年は創立五十周年に当っており、皇室より御下賜金を賜ったので基金を設定し、その果実により、学生の学術奨励を目的に恩賜記念賞の制度を定め、同時に優等賞を設けた。この五十周年を境として、関東大震災の経騒も考慮して木造から鉄筋コンクリート造りへの校舎の改築、理工学部研究施設の整備を急速に進め、その総長在任中に、現在本部キャンパスにある施設の主要部分を建設したのであった。これに必要な用地についても購入取得が進められ、「これによつて戸塚町に於ける校舎敷地は優に六万坪を超ゆるが故に、先づ近き将来にあつては敷地の不足に苦む憂は、大体一掃することが出来た」(同誌昭和十六年一月発行第五五一号三頁)と自負し得たのである。

 昭和十五年九月、第三巻九四六―九四七頁に既述した如く、教職員を大隈講堂に集めた田中は「教職員各位に訴ふ」という一場の講演を行い、内外情勢激変の時に当って大学教育を根底から改革する必要を述べ、そのために従来最も立ち遅れていた体育の振興を説き、この具体化が学徒錬成部創設以降の戦時色の強い諸施策となって現れたのであるが、こうした戦時下の行動については、「先生は戦争への無条件協力者であったかのような、一部の誤解が生ずるのを恐れるのでございます。先生が早稲田大学の最高責任者として、あの曠古の大戦に対して錬成その他を通じて順応せられたことは、むしろ当然であったと私は考えます。……先生が軍国主義の同調者であられるわけがなく、……明治前期に経済学を学ばれたオールド・リベラリストであったと私は確信するのでございます」(入交好脩「晩年の田中穂積先生」『早稲田大学史記要』昭和五十二年三月発行第一〇巻二二八―二二九頁)という証言がある。

 それにもまして重要なのは、第三巻九七五頁、九八一―九八三頁以下に詳述した如く、昭和十八年頃、戦時下のため大学教育の年限短縮という非常措置がとられる反面、優秀な研究者を確保する目的で、毎年、全国官私立大学の卒業生中より五百名を限って文部省で選抜し、これを七帝国大学に配置し、年額一千円の奨学金を数年間給付し、徴兵猶予の特典を与えて研究に専念させようと企画されたが、田中は同年一月の『早稲田学報』(第五七五号)に「学制改革と大学院問題」の一文を寄せ、「該計画は……官私大学を平等視せる三十年来の伝統を破壊し、官学万能の旧態を復活するのみならず、我邦文化の発展を根柢より阻礙するものにして、到底之を黙過すること能わず」と批判し、「寧ろ政府は大学院の拡充整備に当つる金額を官私大学に公平に分配し、其使途を大学院学生の養成に限定〔する〕に如かず」(八―九頁)との所信を披瀝している。慶応義塾の名塾長と謳われた小泉信三が、「大学総長としての田中氏は練達無比の感があつた。豊富な経験と識見とにより、それこそ目をつぶつても間違いなく歩るかれるやうに見えた」(『田中総長追想録』九五頁)と記し、その一例として、この際に協力を求められて、差別的取扱いの実現を阻止した事例を挙げていることは、第三巻九八三―九八四頁に既述した如くである。

 田中は学苑卒業後研究科に進み、僅か二年後の明治三十一年五月に六編五十一章より成る九百三十五頁の大著『財政学』を明法堂より刊行した。総論第二章「財政学の定義性質及ひ範囲」を見ると、コッサ(Luigi Cossa)、シュタイン(Lorenz von Stein)、ビショッフ(Alois Bischof)、ゲフケン(F. Heinrich Geffcken)、ワグナー(Adolph Wagner)などの所説が引用されている。明治十年代はフランス財政学の輸入時代であり、シュタインやワグナーと並ぶ大著と称されたルロア・ボリュー(Pierre Paul Leroy-Beaulieu)の『財政論(Traité de la science des finances)』(1877)が邦訳紹介された。この著作は、当時政府が必要とした財政上の知識と技術を提供するのに相応しいものであったが、二十年前後から三十年代に至り、ドイツ財政学の導入へ時代は移行した。コッサやビショッフの著作が邦訳され、これらを通じて、シュタインやワグナーをはじめシェーンベルグ(G. Schӧnberg)やシェフレ(Albert Schӓffle)などの説を知ることができるようになったのであるが、田中の著作はこうした学界の状況を反映し、そこに流れる財政思想は、主流となりつつあったドイツ歴史学派のそれを基調とするが、部分的にはフランス財政学の流れをも反映して、過渡期の交錯した状況が認められるのであった。

 その後田中は租税に関する著作その他を相次いで発表した。主なものは『早稲田叢書高等租税原論』(明治三十六年)、『公債論』(同三十七年)、『早稲田叢書高等租税各論』(同三十九年)、『税制整理論』(同四十三年)、『国民経済概論』(大正六年、改訂新版昭和六年)である。『高等租税原論』は、前著『財政学』の刊行後財政学が急速に発達し、アダムズ(H. C. Adams)その他の外国文献の邦訳、田尻稲次郎、神戸正雄らの著作の刊行のほか、明治三十二年の所得税法の改正などもあったので、前著の改訂を企てたものである。改訂の眼目は、税率に関する「比例税説」と「累進税説」についての部分であり、田中はフランス財政学の比例税主義を踏襲していたが、三十年代に至り我が国の財政学界で累進税主義が通説となった状況を反映して、この書では「累進税説」を採るに至った。『公債論』は、『高等租税原論』と同様、前著『財政学』の改訂の一環をなすものである。『高等租税各論』も『公債論』と同じく『財政学』改訂作業の一部であり、日露戦争後間もなく刊行された。戦時財政の運営が「財源の撰択を慎むの遑なく、各種の租税は相次で増徴若くは新設せられ、国民の負担は愈々増加して殆んど底止する所なきを目賭し、各論刊行の閑却すべからざるを思ひ」(序一頁)出版したもので、各国の最新の財政事情に関する資料を採り入れているところに特徴がある。次に、『税制整理論』は、和田垣謙三を編輯主任とした「最近経済問題叢書」の一冊として刊行されたもので、行政費など六千万円の節減による財政整理を行った上での税制改正に関する具体的提案が見られる。

 『国民経済概論』は、「経済学研究の学生に対し研究の指針を提供する」(自序一頁)意図を以て書かれた概説書であり、大正十三年には増補第五版を出版した後、昭和六年に全体に亘って徹底的に改訂を加えた新版を刊行した。この改訂新版に対し、学苑教授北沢新次郎が三十八頁に及ぶ書評論文「田中穂積博士著改訂新版『国民経済概論』に就いて」を『早稲田商学』(昭和六年十一月発行 第七巻第三号)に発表した。これに対し田中は、反批判論文「北沢教授の拙著に対する批評に答ふ」を同じく『早稲田商学』(昭和七年二月発行 第七巻第四号)に寄せた。両教授の論争の中心点は、田中の整理によれば、(一)世界経済という概念の存否、(二)マルサスの『人口論』に関連して産児制限の可否、(三)経済組織の指導原理としての個人主義と社会主義との関連および両者の優劣、(四)生産的労力(=労働)と不生産的労力(=労働)の概念の区別の当否、(五)企業家の役割とその必要性の評価、(六)限界効用価値論の当否、(七)土地国有の是非、(八)資本主義の功罪の八点であった。これによっても窺われるように、北沢の批判は社会主義経済学の立場からなされたものであり、昭和四年にアメリカに端を発し、翌年我が国にも波及した世界恐慌の下で、資本主義への批判が盛んな時期であったにも拘らず、資本主義経済が経済システムとして社会主義経済に比べて勝っているとの田中の確信に揺るぎはなかった。本書は田中が商学部で担当した「経済学原理」のテキストであるが、田中は常務理事として、また総長として、きわめて多忙の中にも、毎週商学部の教室で学生に講義することを無上の喜びとし、昭和十三年度まで続けている。この点、早くより大学行政に専念するため教室での講義を中止した高田早苗とは若干異るところのあったことを指摘しておきたい。なお、この他田中には数編の論文があるが、殊に「社会政策より観たる税制問題」(社会政策学会編『社会政策より見たる税制問題』)は、租税を社会政策の手段として採用することの当否をめぐって東京高等商業学校教授上田貞次郎との論争を巻き起こしたものであった。

 行政家としての田中の業績については触れられることが多いが、学問の分野においても大きな足跡を印したのであり、その学者としての信念と努力とにも敬意が払われるべきであろう。

二 悲劇の総長中野登美雄

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 既述の如く、田中穂積の逝去後、昭和十九年九月十六日の臨時維持員会において理事欠員二名の補欠選挙が行われた後、臨時理事会が開かれ、「総長互選ノ結果満場一致ヲ以テ常務理事中野登美雄氏当選シ、維持員会再開右報告ノ上散会シタリ」と維持員会記録に記載されている。田中は中野を常務理事に推薦した時点で、自己の後任者として時局を乗り切り得る人材は中野以外にないと考えていたと推定されるが、当時中野以外に将来の学苑総長の呼び声の高かった者がなかったわけではない。例えば、理工学部長山本忠興もその一人であった。『山本忠興伝』は次のように伝えている。

戦雲漸く緊迫した昭和十九年春、突然山本は早稲田大学における第一線を退く意向を公表して、関係者をびつくりさせた。後進に道を譲りたいというのが表面の理由であつた。これより先きに、山本を早稲田大学の総長にしたら……という呼び声が高く、彼を支持する者も多く居た。しかし他にも総長になりたい人は居り、またこれ等の人を後押しする派もあつたから、もし山本が公然候補者として出馬したならば、猛烈な鍔ぜり合いになることは明らかであつた。こうした争いをしてまでも総長になりたい執着を彼は持たなかつたので、きれいに身をひくことを懸案として居た矢先き、理工学部長改選に絡んだ或る雰囲気を察知して勇退の決意を固めたものらしい。 (一一七頁)

また、十九年十月五日の理事会では、「理事、維持員、教授、杉森孝次郎氏辞任ノコト」との簡単な記録が残されているが、杉森は自らを最適任者と信じ、中野の総長就任に釈然としなかったので学苑を去ったと伝えられている。

 中野登美雄は明治二十四年七月十三日、札幌市南二条東四丁目一番地に生れ、大正元年、第二種生試験に合格、学苑高等予科に入学、同五年大学部政治経済学科を卒業後、副島義一および中村進午の指導下に研究科で国法学ならびに国際法学を専攻、同七年、学苑留学生として渡米、シカゴ大学で語学等の研修を受けた後、同八年より十一年までジョンズ・ホプキンス大学大学院に在学、当時アメリカ政治・公法学界の第一人者であったウィロビー(W.W.Willoughby)教授の下で学位請求論文“The Ordinance Power of the Japanese Emperor”を完成、同大学出版部より刊行した。本書は十五章より成り、諸外国の君主または国家元首の権限下にある執行部により発せられる「命令(Ordinance)」の理論およびその実際について詳細に検討した後、我が国の天皇の命令権を論じたものであるが、『ボルティモア・サン』紙により絶賛された。この間、巌本善治・嘉志子(筆名若松賤子)夫妻の長女清子と結婚、十一年に渡欧、ハイデルベルク大学およびソルボンヌ大学に学び、十二年帰国、直ちに助教授、翌十三年には教授に嘱任され、国法学および特殊研究を担当した。

 中野は帰国後専ら純学究としての活動に没頭し、十数年間に発表された多数の学術論文や著書は、新進学徒として確固たる地位を学界に築き上げた。すなわち、昭和二年にはケルゼン(Hans Kelsen)の『国家原理撮要』を翻訳し、ケルゼンをめぐる我が国の論争を通じて自己の理論の構築に役立てようと試み、同四年には『国法および国法史の研究』を刊行して、イェリネックの方法論の強い影響下に、各国憲法における主要問題の展開を比較検討した。また同七年上梓の『法律綱要(公法)』では、「天皇、政府及び議会の権限に関しては、我憲法が普国の勢力よりも寧ろ中部及び南独逸諸憲法の影響の下に在るのは疑ふを得ない」(二八一頁)とのきわめて示唆に富む指摘を行っている。

 中野の代表的著作『統帥権の独立』は昭和九年に上梓され、同十一年法学博士の学位が授与された。軍統帥の国務に関しては、国務大臣は干与することを許されず、国務大臣の責任の外に置かれ、議会もこれを問責し得ないとの明治憲法第十一条の規定は、同憲法制定後しばしば問題となったにも拘らず、これに関する精緻な研究は中野以前に公にされることなく、美濃部達吉が、世界的な唯一最高の権威と絶賛する私信を中野に送ったと伝えられるが、必ずしも過褒ではないのである。後年、時流に迎合するとして中野に対する非難の声を放つ者がないわけではなかったが、本書において、中野は、我が国法の実際における統帥権は、その内容よりすれば、統帥権というよりは寧ろ兵権と称した方が妥当であり、その

独立の実際をして適当なる限界を守らしむる事は、制度の将来のために欠く可らざる条件と言はざるを得ない〔が、〕最近一、二年間に於ける一部軍人の矯激なる言動が国民に著しい不安の念を与へて居る事は否定し得ない事実である。著者は独りわが軍制の基本的組織のためのみならず国防其もののためにも切に軍部当局の自重を重ねて望まざるを得ない。

(七二八―七二九頁)

と、軍部に対して厳しい警告を発していることは見逃されるべきではない。

 ところが、昭和十二年に勃発した日中戦争は、好むと好まざるとに拘らず、中野を書斎に安住させることを不可能にした。中野は自らの学問と国家の当面した現実問題との調和に苦慮せざるを得なかった。同十五年に上梓した『戦時の政治と公法』や翌十六年の『日本翼賛体制』には、戦後批判の矢面に立たせられるに至った評論が発見されるし、大政翼賛会や大日本言論報国会等の要職に就任するのに伴い、象牙の塔の外部において費やされる中野の時間は夥しく増加するのを免れなかった。

 さて、同十七年十月、定年制実施に伴い塩沢昌貞が政治経済学部長を退任すると、中野はその後任に選出された。昭和二年以降、政治学科教務主任として中野は塩沢を補佐してきたとはいえ、学部行政一般に関しては、経済学科教務主任二木保幾、更にその没後は久保田明光の活動に可能な限り依存することにより、研究・執筆の時間を確保するよう努めたと見受けられるが、学部長就任とともにもはやそのような便法を発見できるわけがなかった。更に、同十九年三月には常務理事に補され、総長事務の代行を委嘱されたのであるから、必ずしも頑強とは言い難い中野の健康が、大きな負担に悩まざるを得なかったのは否定できなかった。

 しかも、前述の如く、その半年後には、中野は第五代総長に推挙された。昭和十九年十月十日大講堂で挙行された就任式において、中野は、

今や我が国の大学は他の教育上の諸機関と同様に、決戦態勢下異常なる変革を遂げて居るのであります。戦時下の文教機関、特に大学に課されました特殊の任務は略ぼ二つに之を要約することが出来るのであります。其一つは専ら狭い意味に於ける教育の面に於けるものであり、而して他の一つは専ら研究の区域に於けるものであります。前者に就て申せば決戦態勢に伴ふ学徒勤労動員の結果として現在では従来の所謂坐学は之を行ふ余地は殆どない状態であるのであります。今日は生産の増強の為め、戦力増強の為に御承知のやうに下は国民学校から上は大学に至るまで其の生徒学生は挙つて勤労に挺身して居るのであります。即ち今日の学徒勤労は単なる労務の提供ではなく、教育の一環として軈て皇国に於ける勤労体制確立の推進力として行はれて居るのであります。此の学徒勤労をして効果あらしめ、学行一如の教育精神に基き皇国勤労体制の確立に寄与するがためには大学は大なる責任を有する訳であります。……吾々はあらゆる困難を克服し、新なる文教体制の確立を期して使命の達成に政府と協力邁進致したいと存ずる次第であります。

更に又他の一面に於きましても今日戦時下の大学に課された所の任務は研究の領域に属するものであります。今日我が国家民族は大東亜戦の偉大なる歴史的創造目的の為に幾多困難なる問題に直面して居るのであります。是が解決は科学的でなければならない。学術的に行つた正確な基礎に基くものでなければならぬのであります。事態が全く新しいだけに国家・民族の直面する所の問題も深刻であり、又極めて広汎なのであります。大学は此の困難なる問題の解決に国家の為に協力しなければならぬ、それが為には其の有する所の研究調査能力を動員することが必要でありまして、それが為には之を編制することが必要であります。大学既存の研究室設備や、個々の教授の任意の研究を以て有効に此の目的に協力することは困難であり、特殊な設備、特殊な機構、特別な編制を必要とするのであります。我が早稲田大学に於きましても、既に数年前から自然科学、理工学の方面に於きましては諸君の知らるる通り有力なる数個の研究機関が設立せられ、科学技術の面に大なる貢献を為しつつあります。所謂法文系の領域に於きましても、本年に入りまして、法文系各学部、或は其の他の附属学校に於ける教授を動員しまして全学的な、さうして其の組織も綜合的な〔興亜〕人文科学研究所が設立せられるに至つたのであります。……大学としまして其の強力なる力を今日の困難の突破の為に捧げて東亜の新しき秩序建設の為に、聖戦完遂の為に協力し得ることを甚だ喜びとする次第であります。……

吾々の直面して居る困難は実に絶大である、絶壁を伝ふが如き困難を有するのであります。併ながら前途の終局は洵に輝かしいものである。……此際如何なる困難があらうとも此の目的の達成の為に全力を傾けることが必要であります。……

大隈老侯が東西文明の融合を説かれ、是が為に我が建学の精神であります所の学の独立を強調せられましたのは、決して一時の思付きではありませぬ。……老侯が外国語に代ゆるに日本語を以てする研学を強調せられ、また教学上時の藩閥的政権と闘争されたのも決して単なる教育上の便宜や党派的立場に基く言動ではなく、皇国本然の文教観に基く其不可侵性の意識に由るものと言つて過言でないと存ぜられるのであります。

されば早稲田大学の建学の精神は取りも直さず日本民族が持つ基礎精神を具現するものに外ならないのでありまして、吾々は此の点を明確に致しまして、今後如何なる困難があらうとも挙学一体、此の建学精神の実現の為に、又之を通じまして我が無窮なるべき皇運の扶翼の為に最善の努力を尽したいと存ずる次第であります。

(『早稲田学園彙報』昭和十九年十二月二十五日号)

と述べた。今日の眼を以てすれば、戦争遂行に協力的であるとして、中野に対しては非難の余地が大いにあり得ようし、また当時にあっても、特に中野が発表した時事評論などをめぐり、学苑内に中野批判の声が絶無だったわけではない。しかし、非常時下に学苑を空中分解させないためには、「此の責に当りました以上は、至誠一貫我が国教学のため大学の進歩発達を其の目標としまして、堅忍不抜の敢闘精神の下、其の職責の遂行に邁進する覚悟であります」(同誌同日号)との悲愴とも言うべき所信を、時局便乗を志した面従腹背の空念仏としてではなく、偽るところのない自己の信念の忠実な表明として口にすることのできる総長を必要としたのを認めないわけにはいかないのである。

 総長事務代行者から名実ともに総長に就任したことは、事務量の上では大差なかったにせよ、精神的には中野の負担を激増させることになり、宿痾には更に一層の悪影響をもたらした。中野の総長在職期間は一年半に満たず、その経綸を十分に行う由もなかったが、常務理事時代に設立した興亜人文科学研究所が、後述(一〇二頁)の如く開店休業状態に陥ったのは、恐らく中野としては最大の遺憾事の一つであったに違いない。中野は空襲の激化に伴い、大隈会館に宿泊し、更に大隈会館ならびに中野の私邸が焼失した後には総長室および隣室に仮居して、職制の縮小を断行して収入の減少に対処するとともに、教職員から成る特設防護団を組織して空襲対策に遺憾なきを期したが、それらに関しては本編第三章に譲り、また昭和二十年五月二十五日の学苑の罹災については第五章に後述することにする。

 同年八月、総長はじめ大学首脳陣が敗戦という厳しい局面に対応していかに苦慮したかは察するに余りある。我が国が受諾した「ポツダム宣言」の基本方針、これに伴って我が国の民主化推進を至上命令とする連合国の占領政策は、当然に大学教育の民主化に及び、戦争遂行に協力的であった多くの指導者の責任が問われることになった。その指導者の一人として、十七年三月より十月まで大日本言論報国会理事の地位にあった中野は、公職を追放される憂き目に遭った。中野は既にこれを予知して二十一年一月二十四日、病気の故を以て理事会に総長辞職を申し出たが、翌二十五日の理事会はこれを承認した。恐らく戦時下の無理と、公職追放後生計の資を得るための講演などによる疲労とが祟ったのであろう、学者としてきわめて優れた資質を持ちながら、中野は教職に復帰することなく、昭和二十三年五月二十一日、五十八歳の若さで逝去したことは、悲運と言うほかなく、惜しみても余りあると言わなければならない。