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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第二章 文教政策への自発的順応

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一 私立大学存立の危機

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 昭和十八年十月十二日に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が私学の存立を危うくするものであり、これに対し私学が強く抵抗したことは、第三巻九七五頁以降に説述したところであるが、文部省は「国民学校令等戦時特例勅令案」を作成し、公・私立の学校に対して広汎な命令権を行使できるよう画策し、同年十二月二十七日枢密院に付議した。この案は翌十九年一月十二日より二十一日まで同院で審議されたが、その中で、私立大学の整理統合に関しては、民法上から見ても統合には問題があり、また、文科系の大学の歴史とその精神を軽視すべきではないとの考えから、中央大学の学長で大審院長や法務大臣を歴任した林頼三郎その他の顧問官から強い反対意見が出された。そして何よりも、一般には政府と意見を異にする大学に命令することになり、加えて、基準もなく、諮問という手続もなく、勢い官僚独裁の形で事が運ばれてしまうことに対して強い懸念が表明され、文教上、社会上、由々しき問題であるとする慎重意見が多く出された(深井英五『枢密院重要議事覚書』三五三―三六七頁)。その結果、監督官庁の命令権行使に際しては、官吏と学識経験者同数の諮問機関を設置して慎重に処置することとし、学校の整理統合という強権発動に対して万全を期するのやむなきに至ったので、実質的には、こと大学に関してはその統合整理は骨抜きの形となったのであった。この勅令案は、やがて二月十六日、「国民学校令等戦時特例」(勅令第八十号)として公布されたが、問題の学校統合整理に関する第七条の全文は次の通りである。

第七条 監督官庁特ニ必要アリト認ムルトキハ公立又ハ私立ノ学校ニ付左ニ掲グル事項ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

一 学校ノ整理及統合

二 学部、学科又ハ課程ノ設置及廃止

三 学生生徒ノ定員変更及募集停止並ニ授業ノ停止

四 授業ノ委託及受託

五 校地及校舎ノ変更

前項第一号又ハ第二号ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ノ大学又ハ其ノ学部ノ設置又ハ廃止ニ係ル命令ヲ為サントスルトキハ別ニ定ムル公私立大学戦時措置委員会ノ諮問ヲ経ベシ

前項ノ規定ニ依ル命令ヲ為サントスルトキハ文部大臣ニ於テ勅裁ヲ請フベシ

第二項ノ規定ニ依ル命令ヲ為シタル場合ニ於テハ大学令第八条ノ規定ハ之ヲ適用セズ

第一項ノ規定ニ依ル命令ヲ為シタル場合ニ於テ必要アリト認ムルトキハ政府ハ予算ノ範囲内ニ於テ補助金ヲ交付スルコトヲ得

第一項及前項ノ規定施行ニ関シ必要ナル事項ハ文部大臣之ヲ定ム

(『近代日本教育制度史料』第七巻 二四三頁)

 この勅令は右の第七条とその他一部の規定が即日、その他は四月一日より、施行された。そして公布の日に「公私立大学戦時措置委員会設置要領」が発表され、前述の如く、大学の整理統合は、官民同数の委員により構成されるこの委員会の決定を経なければ、実際には容易に行われ難くなった。とはいえ、法的には監督官庁に広汎な命令権が付与されたのに変りがなく、伝家の宝刀の意味を濃くしたこの勅令の公布により、各私学は、この宝刀を抜かせないためにも、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」以下に示された学校整備を自発的に進めざるを得なくなった。実際には、私学の統廃合は所期の目的通り大々的には行われなかったものの、各私学は理工系部門の拡充、文科系の縮小のため、学内再編成を一段と進めたのであり、一部の私学では、統廃合の命令権が明確になっていない段階で、既に十八年の秋より著しく縮小したり、あるいは、名称を廃して専門学校への変更を余儀なくされてもいたのである。

 例えば、立命館大学の場合、「大学」という門標を下ろす事態となっている。文部省専門学務局長より通牒を受けた同大学は、十八年十一月十五日の理事会で、大学を廃止して「立命館専門学校」を設立することを決定し、直ちにその設立認可の申請を行い、翌十九年三月十日付を以て認可され、四月より専門学校として開校している。これは、「教育決戦措置への完璧な適応」(『立命館創立五十年史』五六九―五九六頁)の例と言える。また、青山学院の場合、戦時下にあって十七年に大学設置計画を進め充実を図ろうとしたが、この計画を停止し、十八年に入り伝統ある神学部をも閉鎖したのに、更に整理統合の対象になっている。すなわち、十一月三十日、小野徳三郎院長は文部省に招致され、専門部(文学部・高等商業学部)の明治学院への合併を指示されたのである。同学院は十二月六日の理事会で明治学院との合同を可決し、最終的には関東学院の高等商業部をも加えて、十九年四月を以て明治学院に統合されることになった。これを承けて、明治学院では高等学部と高等商業部とを廃止して、三校の各部を統合した形の明治学院専門学校を同月開校し、その校長には院長の矢野貫城が就任した。この際青山学院は、工科系の学校新設により活路を見出す方向を辿り、航空機科、発動機科、土木建築科より成る青山学院工業専門学校を十九年四月に開校したのであった(『明治学院九十年史』四六四―四六八頁、『明治学院百年史』三七七―三七九頁)。また、東北学院の場合、当時神学部を失った上、高等学部の文科を廃止し、高等商業部の一部門だけで命脈を繫ぐ状況となっていたが、これも定員の三分の一に制限されたため、文科系としての学校の存続が殆ど困難となった。そこへ、「軍官両面から、文科系の専門学校を航空工業方面の理工科系の学校に転換するよう、殆んど命令的に躊躇をゆるさぬ要望を指示して来」た。そこで、東北帝国大学工学部の援助を受けて、十九年四月、東北学院航空工業専門学校を新設開校して、この難局に対応したのであった(『東北学院創立七十年史』六六三―六六八頁)。更に、日本大学の場合、この当時、理工系として医学、工学、農学の三学部があり、これ以上学部を拡大する余地はなく、結局文科系の部科整理の必要に迫られたが、十九年八月、創立の精神を具現する文科系の学部を失うことは絶対にできないと考えて、遂にやむなく文科系の専門部全廃により活路を見出そうとした。加えて、この間、国家存亡の時代に、同大学の芸術科の存在は意義ないものとして廃止の岐路に立たされたので、同科の中から工科への転換可能なものとして写真科と映画科とを選び、これを基礎として専門部工科を構想し、十九年四月に写真工業科と映画工業科とを開設したのである(『日本大学九十年史』上巻八四六―八五五頁)。これらの事例によっても明らかなように、大多数の私学は統廃合の措置に対処して、理工系部門充実のための学部、学科等の再編成を急速に進めざるを得なかったのである。

 最後に、十九年六月十四日に配属将校の呼称を陸軍軍事教官に改めたことを付言しておこう。尤も、教練の内容充実にも拘らず、学校に対するさまざまな決戦動員措置により、学徒自身が学窓を離れ、出陣をはじめとして各地に勤労動員されるまでに戦局と銃後生活が極限に進んだから、十九年に入ると事実上教練の実施は不可能の事態となっていた。従って、配属将校の呼称改正の影響は学苑では殆ど感じられなかったと言っても過言ではなかろう。

 さて、学苑に限定して言えば、文科系学部生定員に対する戦争の主たる影響は、学徒出陣後の十八年度中途における約三分の一への削減、終戦直後の二倍への回復の二回に尽きると言えよう。高等学院文科への影響も同様である。

 十八年度の変化は、十八年十月十二日の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」に由来する文部省指示「学校整備要領」(私立大学および予科の文科系定員の約三分の一への縮減、文科系専門部も約半分に削減、理科系学部・専門部の拡充、文科系学部・専門部の理科系専門学校への転換、文科系学部の統合等)によるものであったが、組織上の統合・転換が学苑で実施されなかったのは注目されよう。また、二十一年度の文科系定員の回復が専門部や専門学校で見られなかった点も注意すべきであろう。ただし、十九年度に修業年限が三年に短縮された高等師範部は、二十一年度に四年制に復旧するとともに一科が増設されたので、総数ではほぼ回復したと言える。他方理科系の学生等定員は、十八年十月には石油工学科および土木工学科の新設により理工学部と高等学院で、三科増設により専門部工科で、増加し、二十年度は専門部工科の一科増設により増加しているが、これらに関しては節を改めて詳述しよう。

二 理工系部門の拡充

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 戦時下の文教政策に対応して学苑が理工系部門の拡充に努めたことは、第三巻一〇〇五頁以降に既述したところである。すなわち、理工学部は十七年四月電気通信学科を、また同十月応用化学科に石油分科を新設、翌十八年十月には、この石油分科を石油工学科に独立させたほか、土木工学科を増設、更に既設の工業経営分科を一括して工業経営学科を開設した。また第一高等学院文科と第二高等学院では、第三巻一〇三七頁に見られるように、十九年一月、希望者を理工学部へ進学させるための文科第二部を創設した。ただしこれは今回限りの措置であった。

 なお、十八年十月発足時の大学院特別研究生については第三巻九八六頁に既述したが、十九年十月入学の大学院特別研究生第一期課程生は十二名を数えた。彼らは全員理工学部生で、理工系重視の傾向が明瞭に看取できよう。敗戦直後の二十年十月入学者は十七名で、政治経済学部二名、法・文・商各学部各一名、理工学部十二名となり、各学部に亘っている。二年間の第一期課程を修了した者が三年間の第二期課程に初めて入学したのは戦後の二十年十月で、九名を数えた。この後、学苑における特別研究生制度は、本編第七章第五節に述べる如く、二十一年四月一日施行の「早稲田大学大学院特別研究生規程」に基づく制度に引き継がれていく。

 理工学部主事丹尾磯之助は「学園の科学技術教育機構」と題して、昭和十九年春の現状を次のように語っている。「ここに詳述の自由を有しないが、時局下陸海軍の緊急重要問題の研究を委嘱され関係者○○名に達する研究室があり、精鋭教授が日夜渾身の努力をささげつつある……。近く、農業専門学校が誕生を見んとしてゐることは詢に欣快のいたりで、これに依つて学園の科学技術陣営は愈々充実……遠からぬ内に当学科〔石油工学科〕と不可分の燃料研究所(仮称)が開設される予定である」(『早稲田大学新聞』昭和十九年三月五日号)。ここに言及された燃料研究所と農業専門学校(専門部農科の設立計画を指す)は結局実現しなかったが、この時期の理工系教育は学苑が最も力を注いだものであった。丹尾は更に、特に高等工学校は、昭和三年の創立以来この時までに卒業生を約六千二百名出し、現在の定員は二千百名で、また早稲田工手学校は、明治四十四年の創設以来の卒業生は約一万八千名で、在学生はほぼ三千名を上下する状態というように、夜間授業の両校は工業界各方面に対し、特に独立自営者の養成機関として、重要な役割を果し続けていると力説している。しかし、決戦態勢下の学苑の理工科系充実策の中で最も注目すべきは、専門部工科の三科増設であろう。しかも、二十年には更にもう一科の増設が企てられたのであった。

 十八年十二月二十九日、学苑は高級技術者養成を目標に専門部工科に航空機科、電気通信科、鉱山地質科の三科の増設を内容とする学則変更の認可申請を行い、十九年三月六日、実験実習設備の充実に「遺憾無キヲ期セラレ度」との但書付で認可された。実施期は十九年四月一日で、増設の理由と内容は次の通りである。

理由

一、戦局ハ今ヤ決戦ノ段階ニ突入シ、帝国ノ隆替正ニ一億国民最後ノ奮起ニアリ、殊ニ生産陣容ニ於テ速ニ敵米英ヲ圧倒セズンバ、前線将兵ノ熾烈ナル尽忠報国ノ精神ニ答フル所以ニ非ザルノミナラズ、聖戦完遂ノ偉業達成ノ道亦遠シト言ハザルベカラズ。政府ハコノ容易ナラザル戦局ノ推移ニ処シ、国民ノ総力ヲ必勝ノ一点ニ集中発揮セシムベク国内態勢ノ強化ヲ策シ、ソノ一環トシテ教育ニ関スル戦時非常措置方策ヲ決定セラレタルガ、本大学ニ於テハ国策ニ即応シ文科系統学科内容ノ整備、学生生徒定員ノ縮減ヲ図ルト共ニ、理科系統学科ノ拡充強化ヲ計リ学生生徒ノ増員ヲ為スベク万般ノ施策ヲ進メツツアリ、不取敢昭和十九年度ニ於テ専門部工科三学科ノ増設ヲ企図シ、以テ速ニ多数ノ高級技術者ヲ養成シ戦力増強ニ資セントスル次第ナリ。

〔中略〕

専門部工科学科増設ニ関スル事項

〔中略〕

二、生徒定員

航空機科 一〇〇名

電気通信科 一〇〇名

鉱山地質科 一〇〇名

(各科一組五〇名ヲ単位トシテ二学級ニ編成ス)

三、校舎及設備

校舎ハ文科系学生生徒ノ定員減少ニ依リ余裕ヲ生ズベキニ付之ヲ整理ノ上既設ノ諸学科ト併セ専門部校舎ニ収容シ必要ナル教室、実験室、研究室等ヲ設クル予定ナリ。但シ実験室ニ付テハ取敢ヘズ理工学部既設ノモノニシテ共用可能ナルモノハ之ヲ使用ス。

〔以下略〕

 そして、改正学則における学科課程は次のようになっている。

第一表 専門部工科航空機科・電気通信科・鉱山地質科学科配当表(昭和十九年四月)

航空機科

電気通信科

鉱山地質科

 各科の主任はそれぞれ伊原貞敏、広田友義、野村堅であった。

 なお、今回の学則改正を機に専門部工科を構成する機械工学科などの名称は機械科などとなり、学科の呼称は結局学部に限ることとなった。後述(三四頁)の如く、ほぼ同時に専門部、高等師範部、専門学校の制帽も改正され、十九年度の新入生からは丸帽蛇腹を用いることになった。また、専門部等の学則が変更され、従来の学生は生徒と呼ぶように改められた。これは全国的な改正で、四月に官立工業専門学校の規程が改正され、高等工業学校などは工業専門学校に一括され、学科の呼称が科に改められている。

 三科増設が政府のみならず産業界の要望であったことは勿論であるが、特に校友からは多大の期待が掛けられた。昭和十九年一月二十日付『早稲田大学新聞』は「前川氏再度の篤志/新設航空工業科へ十万円」という見出しで、航空機科誕生を「いち早く伝へ聞いた、熱烈なる愛国心に燃ゆる校友前川喜作氏(前川製作所々長、理工学部大正九年機械科卒)は……一昨年冷凍機寄附に引続き再度今回金十万円を〔航空機科〕建設費中の一端へと寄附を申し出で手続を十二月二十日終了した」と報じている。

 さて、一方では大きな期待の寄せられた三科増設ではあったが、申請書類上から見ると、少くとも申請時点では態勢は万全ではなかったようである。何しろ既に十八年十月十二日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、専門部政、法、商三科の入学定員は十八年度の千七百名が半分の八百五十名に削減され、専門学校の方も半減し、学苑最初の文科系削減が実施された頃である。情報統制下で一般国民には知らされていなかったが、十七年六月のミッドウェー海戦で敗勢は歴然となり、軍・政上層部の周辺から何とはなしに異った雰囲気が伝えられ始めていた時である。この状況下、十九年三月、内藤多仲から工科長のバトンを引き継いだのが堤秀夫であった。

 堤科長を頂点とする工科は、二十年四月一日実施を目標として生産技術科の増設に踏み切り、二十年二月十日申請、三月十日に認可された。増設の理由等は左の通りである。

理由

一、大東亜戦争勃発以来特ニ我ガ科学技術ノ重要性ヲ痛感スルニ至リタルガ、従来ノ我ガ国工業界ノ欠陥トシテ、(一)原材料智識ノ貧困、(二)量産方式ノ不備、(三)輸送機関ノ貧弱等ヲ数フルコトヲ得ルガ、コレ主トシテ我ガ国工業教育ガ時代ノ進運国家ノ発達ニ並行セズシテ固陋凍結セル結果ニ依ルモノナリ。換言スレバ工業教育ノ分野タル科目、科種ノ如キモノモ徒ラニ旧態ヲ固守シ其伸暢性ヲ欠キシ結果ニ外ナラズト思考セラル。玆ニ於テ本大学ハ従来ノ工業教育ノ弊ヲ破リ国家ノ要請ト現下ノ情勢ニ鑑ミ不取敢新ニ生産技術科ヲ設ケ工業教育上機動性ヲ加ヘントスル次第ニシテ、今ヤ飽クナキ敵ノ物量攻勢ニ依リ愈々焦眉ノ急ヲ告グル戦局打開ノ重大責務ヲ有スル我ガ国工業技術陣営ニ一刻モ速カニ清新潑剌タル技術者ヲ参加セシメ其欠陥ヲ補ヒ以テ敵撃滅ニ邁進セントスルモノナリ。

専門部工科学科増設ニ関スル事項

〔中略〕

二、生徒定員

生産技術科 一〇〇名

(一組五〇名ヲ単位トシ二学級ニ編成ス)

三、校舎及設備

校舎ハ文科系学生生徒ノ定員減少ニ依リ余裕ヲ生ジタルニ付之ヲ整理シ既設ノ諸科ト併セ専門部校舎及本部校舎ニ収容シ必要ナル教室、実験室、研究室等ヲ設クル予定ナリ。但シ実験室及研究室ニ付テハ取敢ヘズ理工学部既設ノモノニシテ共用可能ナルモノハ之ヲ使用ス。

〔以下略〕

 生産技術科の初年度の学科配当表は左の如くである。

第二表 専門部工科生産技術科学科配当表(昭和二十年四月)

 学苑の理工学部には他よりも早く工業経営学科が設けられていたが、決戦段階に入ってなお、アメリカ等の造船、航空工業等の生産力の優秀性がフォード以来の大量生産方式、運搬機械、工業経営技法等を基礎にしていることを十分には自覚せず、また、仮に自覚しても既にその余裕すらない時期に差し掛かっていたのである。十四年頃から官公私立工業専門学校、工学部、工業大学等の増設や学科増設を実施したが、工業経営、生産技術の名称は見出せない。初め昭和二十年一月二十五日の理事会では、工業材料科、量産技術科、運転施設科の三科を七月に開講する方針であったが、申請段階ではこれを一本化して生産技術科としたのであった。初代の科主任は理工学部工業経営学科教務主任上田輝雄の兼任で、四月に嘱任された。この時、中谷博が工科教務主任になっている。

 また、十九年四月早稲田高等工学校にも航空機科、電気通信科、木材工業科の三科を増設、併せて既設の機械工学科を機械科、電気工学科を電気科、建築学科を建築科、土木工学科を土木科、応用化学科を化学工業科と改称したが、これは実は、各種学校である同校を専門学校令による実業専門学校に昇格させる方策の一環であった。これに先立ち、二月十七日の理事会は、校名を早稲田工業専門学校と改称する決議を行い、以後その準備を進め、翌二十年一月二十日に、四月開校を目指して設立認可を申請したのであった。ところが、当時、夜間の工業専門学校は前例がないとの事情から、認可を受けられず、同校の実業専門学校への昇格は結局実現しなかったのである。更に、同年二月八日に理事会は早稲田工手学校の工業学校への昇格を決定しているが、これも実現しなかった。

 ところで、前に文教当局の専門部への風当りの強さに言及したが、これは、大学統廃合の方針に基づき、できるだけ部科の整理を図ろうとしたことと密接に関連していた。学苑では却って専門部に理工系諸科を増設してその充実に努めたものの、学部との差異を明確化せざるを得なくなったものと見え、十九年一月十四日の臨時理事会は、四月より専門部、高等師範部、専門学校の制帽は、従来の角帽でなく丸帽とするよう決定するとともに、四月以降これらの学生を生徒と呼称することに改めた。しかし、学部学生と同じく特色ある角帽を被り、早稲田の学生としての自負心を強く持っていた右部校の学生達に与えた衝撃は大きかった。当時の専門部法律科長中村宗雄は、後年、「これは天降りの決定で、当の学生は、皆、勤労動員に派遣されている。僕は専門部法科長として学生をなだめるのにずい分苦労した」(「座談会 激動の日日」『早稲田学報』昭和四十二年七月発行 第七七三号 一三頁)と述懐している。

 以上説述したところにより、学徒出陣以後の学苑にあっては、理工系部門の拡充といっても、研究所を暫く別とすれば、関心は専ら専門部工科に集中し、高等工学校にもこれに追随する動きが見られたのにとどまったのが知られるであろう。理工学部は、第三巻で触れたように、十八年十月カリキュラムの大改正を断行した直後であり、その学科配当表は、左に掲げる如く、二十年四月に至るまで変化を見せず、終戦後の同年十月にあってもまた、各科の教練をはじめ、建築学科の防空工学(防災)や地理建築学(大東亜)とか応用金属学科の造兵学のように廃止が推定される若干の例外はあったにせよ、概ねこのまま踏襲されたものと考えられるのである。なお、第一高等学院理科の臨戦体制順応の「改革」に関しては、便宜上次節に譲ることとする。

第三表 理工学部学科配当表(昭和十八年十月―二十年四月)

機械工学科

一、第三学年ニ於ル甲類又ハ乙類ハ其一ヲ選修セシム

電気工学科

一、第三学年ニ於ル必修科目中甲類又ハ乙類ハ其一ヲ選修セシム

電気通信学科〔前掲、第三巻一〇〇五頁参照〕

採鉱冶金学科

一、採鉱冶金学科ヲ二分科ニ分チ第一分科ニ於テハ主トシテ採鉱ヲ、第二分科ニ於テハ主トシテ冶金ヲ専攻セシム

一、採鉱学、冶金学、地質学及選鉱学ノ科目内容左ノ如シ

採鉱学第一 採鉱学汎論、探鉱、鑿井及採鉱法

同 第二 鑿岩、開坑及坑内構造

同 第三 運搬及通気

同 第四 排水保安及鉱山鑑定

同 第五 照明

冶金学第一 冶金学汎論

同 第二 銅冶金学

同 第三 金及銀、「アルミニウム」及「マグネシウム」冶金学

同 第四 鉄冶金学

同 第五 電気冶金学

同 第六 「ニツケル」、「コバルト」、鉛、亜鉛、錫及其他ノ金属冶金学

地質学第一 一般地質学

同 第二 石炭及石油地質学

選鉱学第一 選鉱学一般及比重選鉱法

同 第二 浮選法、各種選鉱法、選炭法並選鉱設計

一、第三学年ニ於ケル選択科目数ハ二科目以上トス

建築学科

一、第三学年ニ於ケル選択科目数ハA、B、C中ノ一科目ヲ含メ五科目以上トス

応用化学科

一、工業化学各部ノ科目内容左ノ如シ

工業化学第一部 酸「アルカリ」工業化学

同 第二部 珪酸塩工業化学

同 第三部 電気化学

同 第四部 燃料工業化学

同 第五部 油脂塗料化学

同 第六部 糖類、澱粉醱酵工業化学

同 第七部 繊維素工業化学

石油工学科〔前掲、第三巻一〇〇七頁参照〕

応用金属学科

一、金属材料及金属加工法ノ科目内容左ノ如シ

金属材料第一 一般金属材料

同 第二 1耐摩擦

2特殊高力合金、耐高温及電気材料

金属加工法第一 鋳造、鍛造、圧延、抽伸及製管

同 第二 金属表面処理

同 第三 金属熔接

同 第四 機械加工

一、第三学年ニ於ケル選択科目数ハ三科目以上トス

土木工学科〔前掲、第三巻一〇一〇―一〇一一頁参照〕

工業経営学科〔前掲、第三巻九九八―九九九頁参照〕

三 文科系部門の戦時色

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 学徒出陣により五千余の学生をキャンパスより失い、しかも勤労動員は強化の一途を辿ったが、それでもなお文科系部門にあっても学生が教室から全く姿を消したわけではなかった。昭和十九年二月二十五日の閣議決定「決戦非常措置要綱」により「通年動員体制」は一応樹立されたけれども、翌二十年三月十八日の閣議決定「決戦教育措置要綱」により、同年四月一日より向こう一カ年間「授業……停止」が確定するまでは、授業の実施が全く否定されたのではなかったから、カリキュラムをいかにして戦時に即応させるかについて、文科系各学部でもそれぞれ苦慮するところがあった。当時の為政首脳部との間に若干のパイプを持っていた中野登美雄が十九年四月常務理事として病中の田中総長を代行し、更に九月には総長に就任したことは、学苑の文科系各学部に戦時色濃厚な学科課程改革を十月第一学年より実施する案を作成、十月十六日に申請、直ちに実施に移して、文部省の指示に忠実に即応したことと恐らく無関係ではなかったであろう。それには、改正の理由が次のように説明されている。

本大学ニ於テハ戦局愈々重大ナル現段階ニ対処シ、「決戦非常措置要綱ニ基ク大学教育ニ関スル措置要綱」ニ鑑ミ文科系学部ノ教科内容ヲ刷新シ、又各学部ニ於テ多年踏襲セル科目制ヲ廃止シテ学年制ヲ実施シ、以テ学問ノ簡素化並ニ統一セル知識ノ活用ヲ図ルト共ニ教授方法ニ一段ノ工夫ヲ為シ動員即応ノ態勢ヲ確立セントス。尚文科系学部ノ学科課程改正ノ要旨左ノ如シ。

㈠ 政治経済学部

本学部ニ於テハ重点主義ニ依ル教科内容ノ簡素化ヲ図リ科目ノ改廃ヲ行フト共ニ、特ニ大東亜戦争完遂ノ為物心両面ニ亘リ重要ナル任務ヲ有スル政治並ニ経済研究ノ須臾モ忽セニスベカラザルニ鑑ミ「戦時政治論」「戦時行政法」「戦時経済論」「戦時財政論」「戦時配給論」「東亜政治研究」「東亜経済研究」他数科目ヲ配シ、尚共栄圏留日学生ニ対シ「特別研究」ヲ設ケテ皇国ニ関スル充分ナル認識ヲ得シムベキ措置ヲ講ジタリ。

㈡ 法学部

本学部ハ従来第二、三学年ニ於テ選択科目ヲ三類別ニ分チ学生ノ志望ニ依リ法律、行政又ハ経理ヲ専攻セシメタルガ、今次改正ノ趣旨ニ基キ選択科目ハ之ヲ全廃シ、法学ニ於ケル基礎科目並ニ必要ナル関係科目ヲ必修科目トシテ履修セシムルコトト為シ、以テ決戦下明確ナル基礎知識ノ活用ニ主力ヲ傾注セントス。

㈢ 文学部

本学部ニ於テハ決戦非常措置要綱並学年制実施ノ趣旨ニ鑑ミ教科内容ノ一大刷新ヲ図リ、各学科ノ専攻ハ之ヲ廃止シテ組織ノ簡素化ニ努ムルト共ニ日本精神ヲ基調トセル大東亜共栄圏ノ文化的啓発引イテハ世界文運ニ対スル寄与ヲ主眼トシテ科目ノ配列ヲ為シ、之ガ為各学科共通科目トシテ「国体ノ本義」「日本中心ノ世界観」ヲ置キ、尚従来ノ各専攻ノ特徴ハ哲学科ニ於テハ科目ノ選択並指導演習ニ依リ、文学科及史学科ニ於テハ選択科目ニ依リ発揮セシムルコトトセリ。

㈣ 商学部

本学部ハ多年最高商業教育機関トシテ国運ノ進展ニ貢献スルトコロ尠カラザリシガ時勢ノ推移ニ伴ヒ屢々ソノ内容ヲ改正シ現在ニ至レリ、然ルニ愈々緊迫セル時局ニ即応シ、決戦非常措置要綱ニ基キ更ニ大ナル刷新ヲ施サントスル次第ニシテ、即チ大東亜共栄圏確立ニ寄与スベク的確ナル国家目的ヲ把握シ且産業技術ニ関シ造詣深キ経営指導者ヲ育成スルヲ以テ主眼トシ、之ガ為工業ニ関スル学術修得ニ重点ヲ置クコトヲ以テ特徴タラシムベク必要ナル科目ヲ増設シタリ。

すなわち、「決戦非常措置要綱ニ基ク大学教育ニ関スル措置要綱」(昭和十九年六月十四日付通牒)に基づき学科単位制は廃止され、学年制が実施されることになった。同時に選択科目も全廃ないし縮小され、専攻が廃止され、要するに自学自習とか個性に基づく科目選択とかは否定されるに至ったのである。

 そもそも政府の教育統制の動きは、小学校から中等学校へという段階的なものであり、大学への訓令等は、教育方針とか指導の姿勢とかに関するもののみと言い得たであろう。確かに文部省は十年四月十日に天皇機関説事件に関連して「国体明徴」を訓令した(文部省訓令第四号「建国ノ大義ニ基キ日本精神作興等ニ関シ教育関与者ノ任務達成方」)。続いて、十五年十二月二十四日には訓令第二十九号「大学教授ハ国体ノ本義ニ則リ教学一体ノ精神ニ徴シ学生ヲ薫化啓導シ指導的人材ヲ育成スヘキ旨ノ訓令」が出され、十六年八月八日の訓令第二十七号「学校報国隊制確立方」により教育は動員体制に完全に組み込まれ、「行学一体」の教育が強調された。しかしこの段階でも学生の自発的研究は、たとえそれを夜間に実行することが要求されたにせよ、無視されてはいなかった。勿論、通年動員対象外の学生に対する詰込教育の指示はあったが、教育内容そのものに対する統制はなかった、あるいはできなかったのである。教育内容の統制は中等教育、師範教育どまりで、大学関係では十三年に京都帝国大学で日本精神史講座、東京帝国大学で日本思想史講座を開講したくらいである。しかし、時局の急展開は、もはや大学を聖域のまま、統制の外に放置することを許さなくなったのである。

 尤も、学苑の全学部が、文部省に対して受け身に終始したわけではなかった。例えば中野総長の出身学部の政治経済学部では、昭和十七年、日本軍の南方進攻作戦たけなわの頃、「時代ノ要求ニ応ジ経済地理学、経済政策、経済哲学、東亜政策及国防論ノ科目ヲ新設」(毎週授業数各二時間で国防論のみ随意科目、他は選択科目。ただし経済政策は経済学科では必修科目)するよう学則変更認可を二月二十日に申請し、三月三十日付で認可を得て、四月より実施したが、学科配当表で見ると経済地理学(杉山清)だけが十七年度に設けられ、十八年度に経済政策(林癸未夫)と東亜政策(杉森孝次郎)が追加されたのみであった。尤も、十八年度学科配当表には、政治・経済両学科とも、「特殊研究」の科目名で英語の名著研究が一般学生の必修科目であったのに対して、留日学生にはそれに代るものとして「国語特殊研究」(十九年度配当表では「特別研究(留日学生)」と改称)が新設されたのが注目される。第一・第二学年にあっては、大隈侯遺著『東西文明之調和』をテキストとして青柳篤恒が担任、第三学年は内田銀蔵著『日本経済史概要』をテキストとして小松芳喬が担任した。更に十九年に入ると、四月二十日決裁の学科配当表には、経済哲学、経済地理学、国防論は見当らないが地政学が登場し、「戦時」とか「東亜」を冠した科目が急増している。先ず政治学科では、第一学年に東亜政策(杉森孝次郎)、第二学年に戦時政治論(中野登美雄)(以上必修)、戦時経済論一部(林癸未夫)、同二部(久保田明光)、東亜史(青柳篤恒)(以上選択)、第三学年に戦時財政論(時子山常三郎)、東亜政治研究(大西邦敏)(以上必修)、地政学(吉村正)、戦時行政法(佐藤立夫)、戦時配給論(山川義雄)、戦時経済論三部(服部文四郎)、東亜経済研究(杉山清)(以上選択)等が配当されている。なお、五四頁に掲載する十九年十一月決裁の同年度配当表では、東亜政策の担当者杉森孝次郎が学苑を去ったため大西邦敏・杉山清に変更している。次に経済学科では、戦時政治論、地政学が選択科目に、戦時経済論一―三部、東亜経済研究が必修科目に移っているだけである。なお、国防論の行方を六四頁に掲げる専門部政治経済科の十九年四月学科配当表に探ると、類似科目として国防政治学(中野登美雄)、国防経済論(林癸未夫)が見出される。

 十七年から十九年にかけての政治経済学部の教育改革は、必ずしも受け身ばかりではなかったと言えよう。特に、この学部が社会科学の分野の中でも現実社会との係わりが深い領域に位置している点を考えると、時局にある程度対応せざるを得なかったであろう。また、教室の内外で何人かの教員や校友が東亜共同体、国防、統制経済等に論陣を張っている。明治維新以降の後発資本主義国日本の歩み、第一次世界大戦以後の世界経済の流れとしての広域経済圏、ブロック経済の形成、企業の利益追求と公益との矛盾解決策の摸索から行政国家への傾斜等は、戦後に引き継がれている課題であり、いわば世界史的必然性との関連の中で戦争との係わりを把握すべきものであった。戦時期の知識人の行動の一つのタイプとして昭和研究会が代表的であり、校友の高橋亀吉(大八大商)や三浦銕太郎(明二九邦語政治科)も参加した。彼らの多くは「現在日本が直面してゐる現実の重大性について認識をも」とうとした(昭和同人会編『昭和研究会』一七二頁)。傍観者にとどまることができなかったのである。単に皇道主義イデオロギー批判に満足するのみでは、知性の逃避でしかない。社会的・政治的現実に変革を加えようとする集団が存在したことは、注目すべきであろう。他方、昭和初期に「小日本主義」を主張して、朝鮮併合以降の帝国主義的膨張路線を進む日本の大勢を真っ向から批判した石橋湛山(明四〇大文)の存在が眩しいことは言うまでもない。

 法学部は、選択科目の全廃により「決戦下明確ナル基礎知識ノ活用ニ主力ヲ傾注」することを改革の主眼点とすると述べているが、十九年十月の学科配当表(五七頁参照)には、僅かに戦時経済法に時局の影響を発見するのみで、他の科目は全く平時と異るところがない。しかし、これを以て、法学部が時局に背を向けていたと判断するのは早計で、第七編に説述した如く、昭和十六年には「大東亜新秩序の基調たるべき法理の体系を樹立すること」が「法律学徒に課せられた時代的役割」であるとの認識に基づき、東亜法制研究所を設立している。また十九年七月認可申請の専門部法律科の学科配当表(六五頁参照)中には、統制経済法、金融統制法、国防法、大東亜法制、戦時法制、戦時立法、軍事学、兵器学、海事講習などが組み込まれていて、法学部の学科配当とは著しい対照が発見されよう。

 文学部では、第三巻九九一頁以降に既述の如く、基礎学科目の設置と充実とがその主唱者吉江喬松学部長の死(十五年三月)とともに解消に向かった(学部長は十五年五月から二十一年九月まで日高只一)が、五八頁に見られるように、十九年十月適用の学科配当表になると、科目の内容が急変し、「国体ノ本義」(五十嵐力)、「日本中心ノ世界観」(杉森孝次郎)で共通必修科目(他に卒業論文)を構成し、他は学科ごとに全て選択必修科目となっている。政治経済学部と並んで、著しく時局性を示したと言えようが、津田左右吉、京口元吉と、引続き出血を余儀なくされた文学部としては、それ以上犠牲者を出さないためにも、きわめて神経質にならざるを得なかったのであった。

 次に商学部における変化に眼を転じよう。商学部の学科配当と戦時体制との関係は、昭和十五年に早くも現れている。第三学年配当の東亜経済論(嘉治隆一)(選択)がそれで、その後十七年度に、更に第二学年に指導演習(必修)の中に東亜産業事情(呉主恵)が、第三学年に同じく戦時金融論(小林新)、「戦時下ノ商業航空」(戸川政治)、そして経済立法(中村弥三次)(必修)が配当されるに至った。更に十八年度になると経済立法は統制経済法と名称が変り、次頁に掲げる十九年三月の教授会決定による「商学部刷新要綱」にある配当表には、統制経済論、物資論、勤労管理が、機械、化学、電気、建設、鉱業工学、工業材料等の科目とともに新設されるという大変革が示されている。尤も、この学科配当表がそのまま実施されたか否かは疑問である。

 ところで、右の「商学部刷新要綱」に添えられた学科配当表の名称は、産業経営学部となっている。これをめぐって若干の経緯があったことは第三巻九八七頁に一言したが、敢えて重複を厭わず左に略述しておこう。

 昭和十八年十月、文部省は「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ基ク学校整備要領」により、商学学校等を工業学校、工業経営専門学校などに転換するよう各学校に命じた。そして勅令により、十九年三月二十九日に官立の高等商業学校は経済専門学校と改称、あるいは工業経営専門学校、工業専門学校に転換され、九月二十七日には東京商科大学は東京産業大学、神戸商科大学は神戸経済大学と改称されるに至った。この一環として学苑も十九年四月、専門部および専門学校の商科を経営科と改称したが、商学部を経営学部と改称する件は十八年十二月九日の理事会で研究課題とされた。田中総長が主宰したこの理事会には商学部長北沢新次郎も理事の一員として出席している。次いで十九年三月十三日、それまで三回の教授会の審議を経て決定された「商学部刷新要綱」を適当の時機を見て実施する件の決裁を仰いだ後、その中に掲げられた学科配当は学則変更の形で十月十四日の維持員会の決議により、文部省の認可を略して学内決定された。「商学部刷新要綱」には左の如く記されている。

一、商学部の改組

時局に鑑み商学部の内容に刷新を施す。

二、教育目的

東亜共栄圏確立に寄与するために的確に国家目的を把握し、且つ産業技術に関し造詣深き経営指導者を育成するを以て主眼とす。

三、学科目決定方針

工業に関する学術修得に重点を置くことを以て特徴たらしむ。

四、経過的規定

学生就学の状況を勘案して学科目の編制替を実施す。

第四表 産業経営学部学科配当予定表(昭和十九年三月)

1、外国語は華・独・仏・英の四国語となす。猶随意科目として華・独・仏・英の四国語を教授す。

2、本学科配当表には教練及び体錬の時間を掲載せず。

3、一時間授業の学科は前期後期に纏めてこれを行ふ。

 更に二十年二月一日付で、四月から全学年に適用する予定で、次の理由による学則変更の申請を文部省に提出した。

学問ノ領域ニ於テ一分野ヲ構成スル商学ハ所謂自由主義機構ノ下ニ生成発展シ来ルモノニシテ、本大学商学部ニ於テハ創設以来国家的見地ニ立脚シテ其学理及応用ヲ教授シ、且其蘊奥ヲ攻究シ来レルガ、世界政局ノ変転ハ今ヤ自由主義的経済機構ヲ払拭シ強力ナル統制経済ヲ要求スルニ至レルノミナラズ大東亜共栄圏確立ニ寄与スルタメニ的確ニ国家目的ヲ把握シ且産業技術ニ関シ造詣深キ経営指導者ヲ育成スルヲ緊急事トスルガ故ニ既ニ昭和十九年十月学科課程ヲ全面的ニ改革シタルガ、今般更ニ同学部ヲ産業経営学部ト改称シ名実共ニ其使命ノ達成ニ邁進セントスルモノナリ。

ところが、この件は理事会にも維持員会にも諮られた形跡がなく、商学部の名称を、「刷新要綱」中に示された学科配当表に冠された「産業経営学部」と改めるべき「適当の時機」が到来したとの判断が、いつどこで行われたのかは、今日残存している記録からは知り得られない。しかも、申請はいかなる理由でか文部省で握り潰されたまま終戦を迎え、九月十五日、学苑は申請書類の返還を求め、十月二十四日付で書類が返還され、改称問題は解消してしまった。

 政府との交渉については、十八年十二月九日の理事会で既述の如く改称問題が取り上げられる前、十一月八日と十一日とに、田中総長は文部省で永井浩専門教育局長と会見していろいろ話し合ったことが、十日と十二日の理事会に報告されている。そして十二日の理事会では、「学校整理統合」に関しては「政府ノ方針ニ従ヒ善処スルコト」を異議なく可決している。その後、理事会で商学部改称問題が議題に上ったことは記録されていない。

 第三巻九八七頁に引用したように、理事兼商学部長北沢新次郎はその著『歴史の歯車』の中に、「商学部は改廃すべきではない、と主張して、商学部の名称を頑として変更しなかった」(一九七頁)と記しているが、結果から見れば北沢の反対論が貫徹されたように見られないこともないけれども、学苑が文部当局の強い意志に屈服せず、あくまでも正しいと信ずるところを主張し続けたと公言し得るか否かには、疑問点が多分に存在すると認めざるを得ない。しかし、文科系四学部の中で、商学部が非常時下商業なり商学なりの存在理由を低評価ないし否定しようとする大波の圧力を真面に受けて、最大の苦難の道を歩むのを余儀なくされた学部であったのは紛れもない事実であり、学科配当上に最も大きな変革が見られたことにもそれがはっきりと反映しているのであった。

 商学部と並んで、時局の圧力に翻弄されるところが夥しかったのは高等師範部であった。第三巻九六六頁以降に説述した如く、昭和十七年度には、「大東亜共栄圏に活躍すべき我が国青年の指導者たるに相応せる教養を与」えることを目的として、修身科および体錬科の教員免許を授けるための国民体錬科を増設したが、その反面、翌十八年度には、「敵性語」教員に対する需要減退の大勢に抗し得ず、四十年の輝かしい歴史を誇る英語科に関して生徒募集を一時停止するの余儀なきに至ったからである。更に十九年度には、文部省の指示により修業年限を四年から三年に短縮し、四月入学の新一年生より適用した。六八頁以降の高等師範部学科配当表に「新制」とあるのは、この三年制課程を示している。ところが、この修業年限短縮措置により国民体錬科の卒業予定者は修身科教員免許を得られなくなったので、急遽、「同科卒業生ニシテ更ニ中等学校国民科修身教員資格ヲ希望スル者ノ為別ニ」一年制課程の専攻科を設置した。尤も十九年四月の時点では国民体錬科は卒業生を出していず、専攻科が実質的に発足するのは二十年からである。二十年四月より実施予定の配当科目は七三頁に掲載してあるが、実は国民体錬科在学生は殆ど全員兵役に就いており、卒業生を送り出すどころでなかっただけでなく、戦後二十一年に高等師範部の修業年限が四年に復旧した際、国民体錬科を体育科と改称すると同時に専攻科を廃止したので、この専攻科は遂に一度も機能しなかった。

 高等学院に関しては、前編一〇三一―一〇三二頁に説述した如く、十七年八月の閣議決定に従って、高等学校高等科および大学予科の修業年限三年を二年に短縮する方針が翌十八年一月改正の高等学校令および大学令の改正により正式に決定されたのに伴い、学苑では第一・第二高等学院の学則変更を十八年五月に申請、九月に認可、遡って四月入学の新一年生から適用することとなった。七六頁以降の第十二表中「第一学年」の欄に見られる新配当科目は、同年三月の文部省令第二十七号「高等学校規程改正」に忠実に準拠するものであった。すなわち、教授内容に亘ってまで、早くから政府の容喙を甘受せざるを得なかった点では、両高等学院が学苑最大の被害者であったとも見られ、更にまた国の理工系重視政策の担い手として、理工学部拡充に伴う理科の入学定員増加のみならず、二四頁に述べたように、文科在学生の理工学部進学の途を開くため文科第二部を設けて、十九年一月から九月までの間、特別の予備補習教育さえ実施したのであった。

 さて、学苑においては、明治四十二年以降ほぼ毎学年学科配当表を印刷・公刊して今日に及んでいるが、その間、昭和十九年度よりこの慣行が一時中断している。昭和十六年度以降度重なる修業年限臨時短縮により大学暦が複雑化したのみならず、勤労動員強化のため学科配当表が次第に空文化し、供給逼迫の急を告げる用紙の浪費と考えられたのが、印刷中止の当初の原因と推測せられるが、前に一言した如く、二十年三月の閣議決定までは、教室における授業が全面的に否定せられたとは言い難く、学科配当表を以て全くの無用の長物であったと断定するのには若干の躊躇を感ぜざるを得ない。公刊配当表が存在しない期間の学科配当表については、本部への稟議なり文部大臣宛学則変更認可申請なりが残存している学部・科もあるが、散佚して発見困難の場合もないわけではない。そこで、文科系各学部・科について、残存資料の中から二十年四月または同年八月以前のそれに最も近い時点で、なるべく担当教員名の記載のあるものを選び、以下に掲載することにより、終戦直前における、潜在的であるにせよ、学苑の教育態勢を覗う縁としたい。ただし、以下に掲げる学科配当表のうち政治経済学部の表は、第一学年は十九年十月および二十年四月の入学者を、第二学年は十八年十月入学者を、第三学年は十七年十月入学者を対象としている。因に、昭和七年の大改正で採用された選択科目制(第三巻九九一頁参照)はここにおいて完全に終息したことが分る。他方、法学部・文学部・商学部の配当表は十九年十月以降の入学者のみを対象としており、十九年十月現在の第二学年および第三学年在籍者は対象外である。また、両高等学院の場合は、昭和十九・二十両年度の学科配当表を発見できないので、十八年度のものを掲載するの余儀なきに至った。前述した如く、この年度には、第一学年は二年制、第二学年および第三学年は三年制という過渡的な配当になっていることをお断りしておく。更に、専門学校に関しては、他の学部・科とは異り夜間授業という特殊事情が存在するから、学科配当改正の要旨をも稟議から転載しておいた。

第五表 政治経済学部学科配当表(昭和十九年十月および昭和二十年四月)

政治学科

刑法 民法各論 倫理学(東洋) 倫理学(西洋) 社会学

右科目ハ他学部ノ当該科目ヲ選択セシムルモノトス(主トシテ高等教員及中等教員志望者ノタメニ設ク)

二・三学年外国書研究ノ選択ハ一ケ国語ニ限ル。二ケ国語以上ノ研究ヲ欲スルモノニハ随意聴講ヲ許ス

一学年〔必修科目ノ外国書研究ハ政治学及経済学ソレゾレニツキ一ケ国語ヲ選択セシメ、〕随意科目ノ外国書研究中独・仏・英ハ必修科目ノ独・仏・英書研究ヲ聴講スルモノトス

経済学科

刑法 民法各論 倫理学(東洋) 倫理学(西洋) 社会学

右科目ハ他学部ノ該当科目ヲ選択セシムルモノトス(主トシテ高等教員及中等教員志望者ノタメニ設ク)

二・三学年外国書研究ノ選択ハ一ケ国語ニ限ル。二ケ国語以上ノ研究ヲ欲スルモノニハ随意聴講ヲ許ス

一学年〔必修科目ノ外国書研究ハ政治学及経済学ソレゾレニツキ一ケ国語ヲ選択セシメ、〕随意科目ノ外国書研究中独・仏・英ハ必修科目ノ独・仏・英書研究ヲ聴講スルモノトス

第六表 法学部学科配当表(昭和十九年十月)

一、外国法ハ独法、英法及仏法中ソノ一ヲ選択セシム

一、高等学校教員志望者ニハ所定科目ノ他経済史及財政学ヲ、中等教員志望者ニハ同シク倫理学(東洋、西洋)、社会学、経済政策及社会政策ヲ履修セシム。但シ経済史、財政学、倫理学(東洋、西洋)、社会学、経済政策及社会政策ハ他学部科目中ヨリ之ヲ選修セシム

第七表 文学部学科配当表(昭和十九年十月)

文学部共通科目

哲学科

一、哲学科ニ於テハ文学部共通科目ノ外第一学年十科目、第二、三学年各七科目(指導演習各一科目ヲ含ム)ヲ履修セシム。但シ指導演習ハ同一科目ニツキ之ヲ継続セシム

一、高等学校高等科教員資格志望者ハ左ノ科目ヲ履修スルコトヲ要ス(本科目ハ大正八年文部省令第十号高等学校教員規程第十条ニ依ル無試験検定指定科目ニシテ括弧内ハ之ニ該当スル本大学所定ノ科目ナリ)

修身

倫理学概論「倫理学」(一) 東洋倫理学史概説「東洋倫理研究」(二) 西洋倫理学史概説「倫理学研究」(二) 支那哲学「支那思想史」(一) 印度哲学又ハ宗教学概論「印度哲学史又ハ宗教学」(一) 哲学「西洋哲学研究」(二) 社会学概論「社会学」(一) 教育学「教育学、教授法」(二)

哲学概説

哲学概論(一) 支那哲学史概説「支那思想史」(一) 印度哲学史概説「印度哲学史」(一) 西洋哲学史概説「西洋哲学史」(二) 支那哲学又ハ印度哲学「東洋哲学」(一) 哲学「西洋哲学研究」(二) 心理学概論又ハ社会学概論「心理学又ハ社会学」(一) 倫理学概論又ハ美学概論若クハ宗教学概論「倫理学又ハ美学若クハ宗教学」(一) 教育学「教育学、教授法」(二)

心理及論理

心理学概論「心理学」(一) 心理学「心理学研究」(二) 心理学実験「実験心理学」(一) 論理学(一) 哲学概論(一) 哲学「西洋哲学研究」(二) 倫理学概論「倫理学」(一) 社会学概論「社会学」(一) 教育学「教育学、教授法」(二)

一、中等教員資格志望者ハ左ノ科目ヲ選択履修スルコトヲ要ス

国民科修身

哲学概論(一) 倫理学(一) 倫理学研究(一) 東洋倫理研究(一) 心理学(一) 社会学(一) 教育学(一) 教育史(一) 教授法(一) 教育行政(一)

文学科

一、文学科ニ於テハ欧洲文学中ソノ一ヲ選修セシム

一、日本文学及欧洲文学中第一、二学年ニ於テ各一科目ハ当該文学主潮トス。但シ英文学主潮ハ米文学主潮ヲ含ム

一、教員資格志望者ハ※印ノ科目ヲ履修スルヲ要セス

〈国語教員資格志望者必修科目〉

〈外国語教員資格志望者必修科目〉

〈教員資格志望者共通科目〉

史学科

〈教員資格志望者履修科目〉

文学部第二外国語

第八表 商学部学科配当表(昭和十九年十月)

一、外国語及第二外国語ハ支那語、独語、仏語又ハ英語トシ各ソノ一ヲ選修セシム

一、高等学校高等科教員資格志望者ニハ所定科目ノ外行政法(総論、各論)、民法(親族及相続)、刑法(総論、各論)、経済史及経済政策ヲ履修セシム。但シ行政法(総論、各論)、民法(親族及相続)及刑法(総論、各論)ハ他学部科目中ヨリ之ヲ選修セシメ尚経済史ハ「産業史」ヲ、経済政策ハ「統制経済論」ヲ以テ之ニ充ツ

一、国民科修身教員資格志望者ニハ所定科目ノ他倫理学(東洋、西洋)、社会学、行政法(総論、各論)、民法(親族及相続)、経済政策及社会政策ヲ履修セシム。但シ倫理学(東洋、西洋)、社会学、民法(親族及相続)及社会政策ハ他学部科目中ヨリ之ヲ選修セシメ尚経済政策ハ「統制経済論」ヲ以テ之ニ充ツ

第九表 専門部政治経済科・法律科・経営科学科配当表(昭和十九年四月、昭和二十年四月)

政治経済科(昭和十九年四月)

法律科(昭和十九年四月)(第三学年ハ一月ヨリ実施。一部追加変更アリ)

経営科(昭和二十年四月)〔すべて必修科目〕

第十表 高等師範部学科配当表(昭和十九年四月、昭和二十年四月)

国語漢文科

英語科

国民体錬科

国民体錬科専攻科(昭和二十年四月)

第十一表 専門学校学科配当表(昭和十九年四月)

早稲田専門学校学科改正要旨

一、文部省ノ新方針ニヨリ、全国ノ商科系統学校ハ経済若ハ経営専門学校ニ改編スルコトトナリタルガ、本校ニハ政治経済科ト商科トガ併存シアル関係上、商科ノ経済科的改編ハ之ヲ避ケ、政治経済科ニ対シテハ其ノ内容ニ特ニ興亜科的色彩ヲ濃厚ニ附与シ、商科ニ対シテハ「産業経営科」トシテ名実共ニ工業経営科的色彩ヲ濃厚ニ附与スルコトニヨリ、両者ハ全ク異質的ノモノナルコトヲ一目瞭然タラシムルヤウ改正シタリ。

二、授業ハ午後六時ニ始リ同九時ニ終ル三時間ヲ四時限ニ分チ(一時限授業四十五分、二時限継続授業一時間二十分)、必修学科及選択学科ヲ合セ一週二十時限(一日二講座四時限制)トシ、其他ニ教練ヲ課ス。

随意科ハ希望者ニ限リ土曜ノ後半ヲ利用シテ授業ス。随意科目ノ中外国語(華語、マライ語)ハ学友会事業トス。

三、増産挺身隊学生ノ為特ニ「工場実習」ヲ選択セシメ之ニ換ヘテ他ノ学科負担ヲ軽減セシムルコトヲ得。但英語ヲ之ニ換ヘタルトキハ華語又ハマライ語ノ孰レカヲ履修セシムルモノトス。前記ノ「工場実習」ハ工場ニ於ル作業ヲ以テ之ニ充当ス。同挺身隊ノ為政治経済科並法律科ニモ随意科トシテ「工業常識」講座ヲ設ケタリ。

四、各科第一学年ハ比較的長期ニ亘ルヲ以テ、一時限授業ハ半期ノ二時限継続授業トシ、試験期ヲ前期・後期ニ分ケテ学生負担ノ軽減ヲ期ス。尚各科一年ノ倫理学ハ六月開講、二年ノ哲学ハ五月開講トシ、之ニ先ツテ実践倫理ヲ開講ス。

五、各科担任教員ハ現任教員ヲ委嘱ス。但産業経営科ハ工業総論・工業各論・応用物象並図学ニ理工科系統ヨリ三、四名ノ応援ヲ受クル予定ナリ。

政治経済科

法律科

経営科

第十二表 第一・第二高等学院学科配当表(昭和十八年度)

第一高等学院 文科

第一高等学院 理科

第一高等学院特修科

第二高等学院

第二高等学院第二外国語(各組共通)

第二高等学院特修科

第一特修科(哲学及科学)

第二特修科(語学及芸術)

第三特修科(特修体錬)

四 幻の農学部・専門部農科

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 農業問題が資本主義経済発展の中心課題の一つであったのは言うまでもない。昭和初期に青年将校らが惹起した事件も、直接には昭和恐慌による農村疲弊が原因であった。十一年の二・二六事件を契機に、皇道派と統制派の抗争もほぼ決着がつき、後者の優位が確立したが、両派とも農村救済を強く主張し、自由主義経済を批判、既成政党不信を訴えた点では共通していた。戦時経済体制に入り重化学工業化が強く推進される一方、自作農創出策も採られたが、十年に戦前最高に達した小作争議は、十二年以降急カーヴで減少した。十三年から産業報国運動が内務省主導で進められ、小作争議防止、戦時農業統制を支える役割を担った。戦時下には食糧自給自足のための増産と統制政策は不可欠であった。農村は軍事、産業両者の重要な人的資源の供給源でもあったが、戦争の苛烈化に伴い矛盾を露呈し、地主と小作農の融和どころではなくなった。十四年施行の小作料統制令は、低物価政策のために地主の利益を抑えたものであり、十五年には米の供出制度が実施された。十六年以降、米の二重価格制が採られ、生産者奨励金が交付されるとともに生産統制令により計画的増産が強制されるに至ったが、稲作付面積は十三年以降減少し続け、十八年に入ると都会から近県への買出しが盛んになり、決戦料理の名で野草の食用が奨励されるまでになったのである。

 学苑では、昭和十八年六月十四日の理事会で初めて「農学部新設案ニ付種々談合」され、十月七日、「来十九年度ヨリ農学部開設」の決定を見た。更に十二月二十三日の理事会は、専門部に「十九年度ヨリ農科開設」を工科増設とともに決定し、農学科百名、農業土木科五十名、農業経営学科五十名、計二百名の定員により、十九年四月の開講を目指して十二月二十九日文部省に認可を申請した。この農科新設計画は、「東亜共栄圏建設過程にあつて一重要問題たる東亜農業諸民族の指導者、東亜の農地開発に任ずべき有為なる技術者の養成を目的」(『早稲田学報』昭和十九年一月発行第五八一号九頁)としたものであるとして、十九年一月には『早稲田学報』や『早稲田大学新聞』で大々的に報道されたものの、翌十九年三月二十九日の維持員会で専門部農科の件の経過報告が行われ、結局中止の旨を四月に公表した。中止の理由は不明であるが、恐らく認可に至らなかったのであろう。

 この間、十九年八月の田中総長の逝去、九月の中野総長の誕生は既述の如くであるが、理事も十九年一年間に半数が新顔となり、教職員の中からも辞任者が続出した。更に二十年に入ると、三月一日付で林癸未夫が常務理事になり、終戦直後の十月四日から総長代理として、二十一年六月二十九日に島田孝一が総長に就任するまで、職務を担当することになるが、その常務理事就任直前の二十年二月八日の理事会で、(一)農学部新設資金三百万円(土地買収費五十万円、施設費二百五十万円)、(二)理工学部整備拡充費七百万円、(三)興亜人文科学研究所基金三百万円、(四)故田中総長記念事業資金二百万円から成る、合計千五百万円に上る「研究資金募集案」が内定した。募金方法は、「一般ニ呼カケナイ。学内外関係者ノ斡旋尽力ニヨリ自発的寄附ノ形式ヲトル」こととし、十カ年を目標期間としたが、五月二十五日夜の空襲で学苑は罹災し、この案は維持員会に諮られることなく消え去った。

 こうして、専門部農科も農学部も学苑では幻に終ったが、話の発端は小倉房蔵にあるらしく、「小倉さんは又、那須に大きい山林があり大学農科を作るなら寄附するといわれた事もあ」る(『早稲田学報』昭和三十二年十月発行 第六七四号 三頁)と内藤多仲は回顧している。しかし結局「学校では踏み切らなかった」のであり、当時法律科の科長であった中村宗雄も、農科の件が「専門部の科長会議に議題としてかけられたことは覚えておりません」と語っている(「座談会 激動の日日」同誌 昭和四十二年七月発行 第七七三号 一三頁)。なお、日本大学は十八年に農学部を設置したが、この時期の私立大学では唯一の新設例であったことを付記しておこう。