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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第五章 昭和二十年五月二十五日

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一 キャンパスの罹災

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 満州事変に端を発した十五年に亘る戦争も、昭和二十年に至り日本は全くの劣勢を極め、大本営の戦況発表も「我が方損害軽微」という曖味な表現の繰り返しに過ぎず、敗色はもはや覆うべくもなかった。

 本土爆撃が頻度を増したのは十九年末頃からであった。殊に二十年三月から四月にかけては空襲警報が連日連夜東京の空に鳴り響いた。「超空の要塞」と言われたB29のいわゆる焦土作戦は、無差別に一般国民の頭上に火の雨を降らせ、二十年三月十日の東京江東地区大空襲では、焼失家屋二十三万、死傷者実に十二万という被害を蒙ったと言われている。この爆撃は、アメリカ軍の作戦計画によれば、新作戦による対日攻撃第二段階の、大都市工業地区に対する焼夷弾攻撃の第一撃であった。アメリカ戦略爆撃調査団が作成した『太平洋戦争報告書(The United States StrategicBombing Survey 1941-1945)』の報告第六六「B29部隊の対日戦略爆撃作戦」には、次の如く記されている。

B29対日攻撃の第二段階、つまり最終段階は一九四五年三月九日に新戦術をもって開始された。すなわちこの日はB29爆撃機を東京に向けて発進させ、夜間平均高度二、一〇〇メートルからの攻撃を行ない、この大工業都市の最も燃え易い地区に対して一、六六五トンの焼夷弾の雨を降らせたのである。この攻撃に続いて直ちに名古屋、大阪、神戸に対し、同様の戦法による焼夷弾攻撃が四回にわたって敢行された。これらの五回の攻撃の結果として、密集した都市工業中心地帯の三二平方マイルは焼け野原となってしまい、米軍はマリアナ基地の手持ちの焼夷弾を消費してしまった。損害はわずかに二二機に過ぎず、出撃機数の二%以下であった。 (『現代史資料』39「太平洋戦争」 五八四頁)

 空襲時の東京の空は、夜に至れば、地方都市からも望見されたほど炎々たる火勢に映え、赤く染まっていた。前記資料はその後の状況を、「四月中旬までに、三回の大規模攻撃を行なうのに十分な焼夷弾が入手された。そこで、四月十三日と十五日の両日、二回の最大限の攻撃隊が発進して東京北西部と東京南部―川崎地区に対して三、八六四トンの焼夷弾を投下し、二〇・八平方マイルを焼き尽くした」(五八五頁)と記しているが、学苑の所在する戸塚地区にも火の手は次第に近寄り、学苑が被災するひと月程前の周辺の情景は、住人森矢達人によれば次の如くであった。

その夜(四月十三日)も戸塚町から見上げた夜空は東京の町の燃える火勢を照り返して赤く見えていましたが、空襲警報中は防火、消火の為、命令が出るまでは部所である自宅付近をはなれることはできぬため戸塚町の回りがどの程度の被害を受けているのか全く分りません。しかし、大部、煙が流れ火も近い様子なので大通りの早稲田通り(グラウンド坂上付近)に出てみました。ところが馬場下の方は煙でいっぱいでよく見えませんが、その方向から、こちらに向かって、大通りを続々と人々が火に追われ逃れて来ます。子供を背に両手に子供の手を引く人、リヤカーに荷物をその上に年寄を乗せて引く人、両手に荷物を下げている人、次々と逃げて来る人は、一様に炎と煙のために顔が皆黒くすすけており、目は真赤に充血し、ある人は必死な面もちで、ある人は疲れきった様子で次から次へと続きます。 (「空襲」『下戸塚――我が町の詩――』 三七九頁)

 アメリカ軍の焦土作戦は、四月十三日に次ぐ十五日の攻撃の後、一時目標を沖縄侵攻の戦術支援作戦に切り換えたが、五月十一日から再度最初の作戦に戻り、以後六月十五日までの間、更に最大限の機数が出撃し、その回数は九回に及んだ。すなわち、三月十日から六月十五日までの十七回の大規模爆撃で、B29の出撃延機数は六千九百六十機に達し、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸の重要都市工業地区には四万千五百九十二トンの焼夷弾の雨が降り、総計百二平方マイル(約二百六十一平方キロ・メートル)が灰燼に帰した(『現代史資料』39「太平洋戦争」 五八五頁)。

 学苑罹災の運命の五月二十五日は、この沖縄侵攻作戦から切り換えられた都市爆撃によってもたらされたのであるが、学苑は、「焦土作戦」の火の手がいつかは来ると予測して、御真影奉護隊あるいは後述の早稲田大学特設防護団の編成をはじめ、学内の重要書類、物件、図書類の疎開等、万一に備え一応の準備を整えつつあった。御真影奉護隊は、笠原利男(昭二三専法)が『早稲田学報』第八八四号(昭和五十三年九月発行)に寄せた「御真影奉護隊始末記」によると、学苑の罹災を予測して、中村弥三次を引率教員に、専門部法律科生大家博を学生隊長とし、中村の指名による一年生十名で編成されていた(三八頁)。

 昭和二十年五月二十七日の『朝日新聞』は、二十五―六日の東京大空襲につき、「昨暁、B29約二百五十機/帝都を無差別爆撃/四十七機撃墜/宮城、大宮御所に被害」との見出しで、左の如く報じている。

大本営発表(昭和二十年五月二十六日十六時三十分)南方基地の敵B29約二百五十機は昨五月二十五日二十二時三十分頃より約二時間半に亘り主として帝都市街地に対し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。右により宮城内表宮殿其の他並に大宮御所炎上せり。都内各所にも相当の被害を生じたるも火災は本仏暁迄に概ね鎮火せり。我制空部隊の邀墜戦果中判明せるもの撃墜四十七機の外相当機数に損害を与へたり。

 この日の空襲は、三月の下町方面攻撃に次ぐ大規模なもので、市街の大半が焼き払われ、筆舌に尽せない悲惨な情景が随所に展開された。無辜の一般国民は家を焼かれ家財を失い、あるいは死にあるいは傷つき、生きる道を求めて路頭にさまよったのである。学苑周辺の住民藤田喜一の筆によれば、

その日、五月二十五日も、空襲警報は発令されていた。やがて夕暮近く、表通りの通路は他所の地区の人々の避難で溢れ出した。まっ黒にすすけた顔は無表情で、背と両手にそれぞれ荷物を抱えて家族、知人同志とかたまって群れて被災地から続々と逃れて来る。都内でも数少い焼け残りの地域となっているこの戸塚一丁目グラウンド坂下地区へ牛込方面を追われて次第に集って来たのだろうか。やがて薄暮は灯火管制の為漆黒の闇だ。無言で避難して来た人々の群は次第に増えていく、果して牛込、矢来、江戸川橋方面の空は真赤な色だ! ……やがて風に乗って火の粉が大学の構内を飛び越えて、降り注ぐ、狂ったような火の粉が屋根に地面に叩きつけられるように飛んでくる。……間断なく頭上から降りしきる火の粉と周囲の火焰は次第に増えて、遂にめらめらと大きな焰となり、家屋を延焼しはじめた。右往左往して、火の粉との闘いもついに限界だ。まわりは全く火の海だ。いつの間にやら人影はなく、屋根に垣根に付着した火の粉は折からの烈風に一層あおられて、横丁に立ち並ぶ家並は火焰の屛風だ。その横丁をあきらめて退避だ。グラウンド際、早大北門の下で警防団が竜吐水まがいの消火器を懸命に操作して火に立向っても、正に焼石に水! 全然効果はない。火勢から身を防ぐに精一杯、それらの人々も既に見当らない。火勢はどうにもならない状態でぐんぐん広がり、まわりは火の海だ。……グラウンド坂上から道幅一杯に火の粉が閃光の矢のように流れ、氾濫した火の川のように絶え間なく吹きおろしてくる。 (『下戸塚――我が町の詩――』 二八一―二八三頁)

大学の周辺は火の海と化し、戸山ヶ原、穴八幡方面からの火の流れが鶴巻町方面を焼き尽した。学苑に及んできた火の状況は、時子山常三郎の『早稲田生活半世紀』によって知ることができる。

昭和二十年五月二十五日、六日の山手地区一帯の大空襲で、わが学園は全建物の三割七分を焼失した。平素はほとんど学生の勤労動員先きに出回っていたが、この日はたまたま在宅していた。周辺地区の高円寺や沼袋あたりは空襲の一波、二波をうけて焼きつくされ、一面の焼野原となった。東方、山手方面にも火の手があがっているのが望見されたので、大学の安否を気づかいながら夜を明かしたところ、当時大学前、鶴巻町に住んでおられた前野真一(文信堂主人)さんが、自家が全焼の被害をうけたのも顧みず、大学の被害状況を報らせにかけつけてくれて(途中沼袋の中島正信教授の自宅を見舞ったが全焼していて消息が判らぬという)大学の被害状況をはじめて知った。校庭にはローソクを立てたように焼夷弾の火柱が立っていたが、それよりも戸山が原、穴八幡、〔第一〕高等学院(現在記念会堂、文学部校舎がある)方面から、急流のように襲うてきた火の河が焼トタンその他危険物を吹き飛ばして、鶴巻町一帯をもの凄い勢で焼きつくしてしまったという。かねて心配していた図書館の安否をただしたところ、コンクリート建築までは焼けていないようだから図書館は無事だと思うというので、トッサに生前たいへんな苦労をしてコンクリート建てに努力された亡き田中総長に感謝の気持でいっぱいになったことを思い出す。

(一三八―一三九頁)

 学苑キャンパスに焼夷弾が雨下した夜、中野総長は前に記した如く、大隈会館に宿泊していた。当時早稲田大学出版部に勤務していた後年の教育学部教授池田美代二(昭五政)は、中野に乞われて、夜間の私的秘書として、無給で中野と起居を共にしていたが、当夜の状況を左の如く記している。

当時は、御真影や教育勅語その他の詔勅の謄本が大学にもご下賜になっていて、その保管は大学の責任者である総長が当るべきものとされておりましたので、中野総長は前々から御真影及び教育勅語その他の詔勅の謄本をリュックサックに入れて、総長室の隣室に置いてあった大金庫の中に奉安され、危急の場合には、法学部の研究室に寝泊りしておられた中村弥三次教授のご協力を得て、そのリュックサックを捧持して安全な場所にお移しする態勢をとっておいででした。

ところで、一九四五年五月二十五日夜から二十六日にかけてのことですが、警戒警報が発令されると、中野総長と私は直ぐに大学本部(現三号館南側)に駆けつけ、本部の玄関に待機しておりました。しばらくして空襲警報が発令され、間もなくB29の大編隊が大学の上空に襲来し、西門の方から大隈会館の方に向かって、焼夷弾の雨を降らせながら通りすぎて行くのを本部の玄関で眺めました。本部の建物と図書館の建物との間の校庭に投下された夥しい焼夷弾は、さながら大きな蠟燭の火柱の行列が突如として出現したような観を呈しましたが、その行列からはみ出した焼夷弾の一つが、図書館の入口より一段下の左側(本部側から見て)のガラス窓のガラスを打ち破り、その割れ目に突きささって燃え盛りました。私がそれに気付いた時、中野総長はすでに長柄のついた叩きを持ってそこへ走って行かれて、その焼夷弾を懸命に叩き落されていました。本部玄関に待機していた防護団の方々は臆したのか、或いは私のように茫然として焼夷弾の行列に見とれていたのか、中野総長に続いてそこへかけつけた人はあまりなかったようでした。中野総長は焼夷弾を叩き落されると、なんでもなかったようにすぐ本部の玄関にお戻りになりました。

中村弥三次教授が前述のリュックサックを背にして本部の玄関に出てこられたのは、それから間もなくのことでした。そこで、私は本部の建物の最上階に駆け上り、目白駅近く学習院の辺りが一番暗いのを確認して駆け下り、中野総長にそれを報告しました。総長は「では、そこへ行きましょう」と中村教授を促がされて、政治経済学部校舎(現三号館北側)の横の東門(観音寺の傍ら)から大学の構外へ出て行かれました。私は食糧の茹玉子を入れた袋を提げて、両先生の後に従いました。空襲のために家屋が焼失して火のついた材木がまだ燻ってそのまわりに人が集まっているところに直ぐぶつかり、足元が焼けるのではないかと思われる火のついた材木の上をやっと通り抜け、「こら逃げるな」という罵声を後にして、豊橋の手前から左に曲り、面影橋を右に見て、電車道に出て、「学習院下」という停留所のところから千登世橋の左に上り、目白通りを学習院の方に向かって進みましたが、その途中で中野総長がご疲労のために歩けなくなられましたので、道路の左側に転がしてあった電柱に腰かけて、一休みしました。その間に私は暗闇をすかして辺りを見回しますと、道路の向こう側の正面に目白警察署があるのに気付きました。私は中野総長にそのことを申し上げ、警察署のそばまで行き、立ち番をしている警官に「早稲田大学総長の使いの者ですが、署長殿はおられますか」とたずねますと、署長がとび出して来られましたので、「早稲田大学総長が御真影を捧持して、ここまで来ましたが、疲労のために歩けなくなりましたので、署内で休息させていただきたい」と申し出ました。署長は署の内外にいた警官を整列させ、威儀を正して最敬礼をして、中野総長の手からリュックサックを受け取り、恭しくそれを捧持して、署内の神棚の上に奉安され、その後で中野総長、中村教授、私の三人を客を遇するがごとく、その頃は店頭から全く姿を消していた蜜柑の缶詰を開けて歓待されました。お蔭様で三人は私が持って行った茹玉子で空腹をおさえ、署内で夜を明かすことができました。

さて、夜が明けましたので、私は出版部の事が気にかかりましたから、中野総長のお許しを得て、一足先きに大学に帰って来ました。大学の西門から構内に入りますと、解体して積んであった理工学部の木造校舎がまだ激しい勢いで燃え続けており、中野総長や煙山専太郎教授らの研究室があった恩賜館は内部がすでに燃え落ちて、煉瓦造りの外郭だけが残っておりました。昨日まで中野総長と共に寝泊りしていた大隈会館は、旧大隈侯邸が全部焼失して文字通り灰燼に帰し、鬱蒼と繁っていた木々までが焼失して、無惨な焼野が原と化していました。ところが、昨夜中野総長と一緒に大学を出て行った時、猛火に包まれていた出版部の建物が窓硝子には全部ひびが入りながら、奇跡的に焼けずに残っておりました。これは出版部の防護団の方々が籠城して内部からホースでまわりのガラス窓に水をかけ通して死守された賜であることを、後で知らされました。私は出版部の防護団員の一員でありましたので、形容のしようもない苦い思いでわが身を苛むばかりでした。

(「終戦前後の中野登美雄総長」『早稲田大学史記要』昭和五十七年九月発行 第一五巻 二三七―二三九頁)

なお、その後の御真影の行方については、前掲の「御真影奉護隊始末記」には、七月十七日、中村弥三次と御真影奉護隊とによって軽井沢の旧野球部合宿所に移され、終戦後の九月八日に東京に戻ってきたと記されている。

 創立七十周年記念アルバム刊行委員会『早稲田大学アルバム』中の山路平四郎「学園罹災の日」には、当日の学内火災の様子が如実に語られているので、次に引用しておこう。

〔第二高等〕学院の校舎〔現社会科学部校舎〕で石井保武〔後の法学部教授〕に出あつた。彼は当時、第二学院の主事を兼ねていたので、単身学院にたて籠つていた。……攻撃は執拗をきわめ、一波・二波・三波と一定の間隔をおいて正確無類である。ついに学園附近は襲われてしまつた。こんどは落下音が近いな、と思う暇もあらばこそ、体育館続きの木造建物と、その右手の疎開跡に積み重ねてあつた木材が先づ燃えあがつた。石井と二人で、転がるように屋上から降りて現場に馳けつけたが手の下しようもない。もうこうなればコンクリートの建物を守るより方法はなかつた。たまたま来あわせた数人の学生が応援してくれた。片つ端から、窓際の暗幕を剝いで廻つた。机や椅子や、燃え易いものを横倒しにして窓際から遠ざけた。どの位の時間がたつたか、短いようでもあり、長いようでもあつた。やつと一作業終つて、校庭へ出た時は、もう学園の周囲は全く火の海であつた。同じ学園のうちでさえ、連絡のつき兼ねるような状態だつた。煉瓦建ての恩賜館は屋根が木造だつた。焼夷弾がその屋根を突き抜けて、内部から燃え出したのだろう。白い煙が上つていた。演博の化粧屋根も燃え出した。強い風に吹きまくられて、横に流れる煙で息も出来ないようだつた。学園の敷地は全部コンクリートで舗装してあるので、高射砲の破片が落下しては、カチカチと不気味な音をたてた。 (八三頁)

 山路の一文は更にまた、商学部に火の入った状況を、「夜明け近くになつて西隣からの火で商学部の一部に火が移つた。北沢〔新次郎学〕部長や島田〔孝一〕教務主任の顔も見えて、盛んに指図していた。私等も疲労した身体に鞭うって、裏手の貯水池から水を汲み出してはかけて廻つた。宵から働いていた連中は血気な学生達でも疲れ果てて、その動きは鈍かつた。北沢〔学〕部長はまだるこしそうに叱咤していたが御当人は夢中であつたらしい」(八四頁)と記している。商学部は鉄筋の建物でありながら、最も被害の大きかったものである。この日、商学部長北沢新次郎は連日の泊り込みで学内にいた。教務主任島田孝一、教授池田英次郎も北沢を助け商学部校舎の消火に当ったのであるが、被災の様子を北沢は、『歴史の歯車』に、

空襲が激しくなったので、私たちは、空襲の被害をできるかぎり少なくするために、教職員と残留学生とで防衛隊なるものを組織して、交互に番をすることになった。ことに商学部の校舎は……商学部の卒業生が醵金して建立したものであるから、これを焼失しては校友諸君に申しわけないと思って、私は、このころから自宅を去って学部長室で日夜起居することにした。食事は、自宅が近かったのでそのつど運ばした。私たちは、一日に何回となく空襲警報のサイレンとともに地下室に走った。ついにその日がきた。五月二十五日の夜十一時ごろのいわゆる第十三梯団の空襲によって、早稲田学園は、少なからざる被害をこうむった。……商学部校舎も三分の一は焼けた。空襲と同時に、商学部に隣接した木造校舎が焼けて、その火煙のために商学部の一階にあった記念室が燃え出したので、私はホースを持って消そうとしているあいだに煙にまかれて失神状態になった。そのうち、商学部の周囲の建物がつぎつぎと火を吹いたので、私は「もう駄目だ」と叫んで、池田教授や当時は学生であった永山〔武夫〕教授など二、三の学生たちと布団を頭からかぶって近くの甘泉園に避難した。 (一九二―一九三頁)

 当時、学苑の各事務所を統合し、一箇所で事務を総括していた連合事務所にも火の手は迫ってきた。学生課員だった小野正は「早稲田大学灰燼に帰す」で、すさまじいばかりの火の様相を次のように描いている。

〔現一一号館二階〕では西側に直接面した理工実験室が炎上し、その火炎がガラス窓に吹きつけるようになった。危険を感じ、重要な物件、特に学籍簿、成績原簿などをかつぎ出し、一階出口まで運んだ。なんと、その重かったこと。二回目のかつぎ出しにかかったが、燃えあがる炎ますますものすごく、ガラス窓が音をたててゆらぎ、室内の温度も相当に高くなってきた。三回目の持ち出し作業のため、事務所入口の廊下近くに達したときには、すでに熱風がドアのすき間から吹き出しているので、これ以上近づくのは危険だと判断し、一階におりると、ドーンと鈍い爆発音がした。今にして思えば、密閉された事務所が火炎のために気温が上昇し、書類などがカラカラに乾燥し気化されたガス状態になり、そこに火がはいり爆発したのではないかと思う。 (『早稲田学報』昭和五十四年六月発行 第八九二号 五頁)

 アメリカ軍の日本文化財リストには、爆撃を避けるべき対象の中に学苑も挙げられ、なかんずく演劇博物館が特記されていたというが、演劇博物館とて決して安全ではなかった。『演劇博物館五十年』には、

警手の山川義孝は、奥さんと当時中学生だった息子の武雄と三人で地下の宿直室に寝泊りしていた。夜になると彼の手に館の保全がゆだねられる。激しくなってきた空襲で奥さんは身のまわりの品を背にしてもうこれが限度と、夫に退避を促した。館の保全もあるが家族の安全もはからなくてはならない。山川もある程度は止むを得まいと決心してもう一度三階をと見回った時だった。裏手の人家を焼いた火が館の屋根裏へはいのぼった。彼は急いで息子を呼び、宿直室東側の窓下に用意しておいた非常用水槽からバケツで三階へと水を運び、手あたりしだい布にふくませては火をたたき伏せた。さらに息子に命じて書庫のなかのスチール製書架の棚板を運ばせて、これを塔から三階へ通ずる口におしあて、火が階下へ回るのを防いだ。午前四時から六時までの二時間、山川父子はなりふりかまわず火と闘い、ついにそれに勝った。 (一六二頁)

と、演劇博物館の運命が風前の灯であったのが記録されている。山川一家の活躍は勿論特筆されなければならないが、演劇博物館以外にも、類焼寸前の箇所が幾つか数えられる。同夜馬場下の簡野病院に入院中であった、当時高等学院で中国語を担当していた後年の政治経済学部教授安藤彦太郎は、空襲を受けて避難の途次たまたま学苑の正門前に来たところ、「正門前は火の粉が文字どおり渦まいていた。つぎつぎに投下される焼夷弾が図書館の屋上や大隈講堂の時計塔に落ちて、火を吐いている。図書館はてっきり炎上するとおもった」(『日中関係の視点』二七九頁)と記しているが、安藤の予想が的中しなかったのは、宿直職員達の懸命の消火活動の賜だったのである。当夜の教職員の活躍は、キャンパスの被害を最少限度に喰い止める上に貢献したところ甚大であったが、中には、書記として配属されていた、学苑の留日学生協会関係の書類を胸に抱きながら煙にまかれて死亡した加藤金之助(昭一八専校商)のような痛ましい犠牲者もあったことを強調しておきたい。

 かくて、悪夢の如き一夜が明けた。焼臭の漂う跡に現出した学苑の姿は、まさに異様と形容されて然るべきであろう。次頁に掲げる第一図は、本部キャンパスの空襲被害状況を示したものである。殆ど全焼の憂き目に遭った戸山町および喜久井町両校地ならびに大隈会館敷地は、本図に描かれていない。多くの思い出を秘めた校舎が、一瞬の悪夢の中に消滅したのである。煉瓦、木造の建物が殆ど壊滅した。殊に本部キャンパスについて言えば、この時を限りに

第一図 本部キャンパス空襲被害図(昭和二十年五月二十五日)

明治が失われたと言っても過言ではない。現在の第一共通教室(一〇号館)敷地に建っていた理工学部の電気・機械実験室は、理工科創設の頃の第二期拡張による建物で、煉瓦造りの古風な風格を持っていた。疎開半ばにして焼失した三階建製図教室も、学内随一の木造大校舎として、現一二号館の敷地にあったが、同じく理工科草創時の記念塔とも言える。恩賜記念館に至っては、優雅なイギリス風近代ゴシック建築で、建物も成り内部諸設備の完成を機に、明治四十五年五月十七日、皇太子(後の大正天皇)の行啓を仰いだ記念すべき建物であった。またこの建物は、「早稲田騒動」における恩賜館組という若手教員の名によっても知られている。もし今日残っているなら、慶応義塾大学の煉瓦建築のように、早稲田における名物となっている筈である。戦後この建物の再建も考えられたようであるが、遂に実現しないまま、この被災を限りに消えてしまった。大正期の建物では、第一高等学院の全木造校舎の被害が最大であった。思えば、こうした古い建物の数々は、各時代の証言者でもあり、また集まり散じて早稲田キャンパスを逍遙した人々にとって忘れ難い、そして若い血を燃やした青春の象徴でもあった。

 戦災直後、中野総長が学苑の罹災状況を伝えた大隈信常宛書簡には、最高責任者としての心情が吐露されている。

拝啓過般来神経痛に悩ませられ候由洩承早速御見舞に参上可仕本意の処、小生も亦宿痾再発臥床中の為失礼罷在候間、既に貴地へ御疎開被遊候趣其後御起居如何かとお案じ申上居候折柄、去る二十五日夜来の敵襲により御邸宅全焼の厄に逢はれ候由にて寔に御気の毒千万の義に存候。併し御疎開後にて御身辺に御別状なかりしはせめてもの議に御座候。本学園も過日の空襲に際し小生以下多数教職員極力防衛敢闘のかひもなく遂に恩賜館、大隈会館、第一学院(但し陸軍々医学校に貸与中)、理工学研究所等全焼のほか校内諸所に少からざる被害を生じ候。殊に大隈会館は故老侯を記念すべき最も貴重なる建築物なりしに拘らず烏有に帰せしめ候義寔に痛恨に堪へざる議に御座候。尚学園関係者中増田義一、磯部愉一郎、大橋誠一、荻野元太郎(死亡)、林癸未夫難波理一郎等の諸氏何れも在宅全焼、其他教職員の罹災者五十余名(四月以降百余名)に上り申候。右は拝趨言上可致筈の処目下善後処置に忙殺せられ居候ニ付不取敢書中御見舞かたがた御報告申上候次第ニ御座候。尚近々梅雨の季節とも相成可申候ニ付一層御自愛御摂養の程偏ニ奉願上候。 敬具

昭和二十年六月二日 早稲田大学 中野登美雄

侯爵 大隈信常閣下

 さて、二十年十月二十五日、中野総長は文部省学校局長に戦災被害報告書を提出した。それには、「当日午后八時頃空襲警報発令夜半ニ至リ本大学上空ニ敵機来襲焼夷弾攻撃ヲ為シ投下弾数数百発ニシテ特設防護団ノ活躍モ其ノ効ナク木造建物ハ殆ンド全焼、コンクリート建物モ一部焼失シタルモノ数棟ニ及ビ該施設ニモ相当ノ損害ヲ出セリ」と記されている。先の小野の直談によれば、「学内にあった教職員の人数も、勤労動員された学生の指導監督に当るなどして次第に減少し、当夜は二十数名が学苑にいたに過ぎず、火勢が強くなるにつれ、警手の人々は手押しポンプを以て消火に当ったが、全く焼石に水の状況で、手の施しようがなかった。各職場では重要書類の搬出等が行われ、前連合事務所主任の大塚芳忠は部下の指揮督励に当り、被害を喰い止めるため懸命の努力をした」という。

 昭和二十年七月二十日、中野総長から文部大臣太田耕造宛に学苑の被害状況が次表のように報告されている。これによって、学苑の蒙った被害の全貌を知ることができよう。

第十四表 空襲被害状況(昭和二十年五月二十五日)

一、建物

二、設備

 右は大きな部分の損害を示すものであって、建物の中に火が入り、カーテンを焼く、ガラス窓を破損する、壁が落ちる等の被害は随所にあった。他方、東京都心を離れた施設・建物は、殆ど被害を蒙らなかったと言ってよい。なお、二十年十月二十五日に中野総長から文部省学校局長宛に出された諸施設被害状況報告には、損害見積価格が三、五七〇、四七二円と記されている。

 なお、文学部教授中谷博が被災後拾ってきた、焼失した大隈会館の屋根瓦が、現在大隈会館のロビーに陳列・保管され、旧大隈邸を偲ぶ唯一のものとして残っているが、これには大隈家の家紋が刻まれていることを付記しておこう。

二 早稲田大学特設防護団

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 さて、前節の罹災概況にも述べられており、本巻でも一二〇―一二一頁に触れるところがあったが、ここで、特設防護団について一言しよう。この防護団の創設は昭和十二年に遡る。その年の九月九日、定時理事会において、「本大学特設防護団設置ノコト(防護団規程制定)」が協議・議決された。同年九月十五日付の『早稲田大学新聞』は、「『早稲田大学特設防護団規程』の作成及び団員の構成が完了発表されるに到つた」と報じ、団員は職員および傭員を以て組織され、平時には防空防護に関する諸般の準備、併せて訓練を行い、非常変災に際しては、関係公衙と連繫して、学苑の防護に任ずることになっているのが知り得られる。団長には幹事永井清志が当り、更に総務班、警備班、防火班、防毒班、救護班、配給班、経理班、避難所管理班、工作班の九班を以て特定の班務に当ることとなった。

 特定都市における学校防空の指導者を対象として、防空上特に必要な事項を記した「昭和十八年十月一日実施 学校防空指針 文部省内務省」には、当時学校に対する防空態勢として、学苑の自衛防空と校外防空との要領が示されている。自衛防空とは勿論、教職員、傭員、学生生徒が一体となっての学苑自衛であるが、その主眼は御真影・勅語等の奉護、学生の保護、重要文献・校舎の防護等である。校外防空とは、東京都の場合警視総監指揮の下に、学校教職員、学徒の持つ集団的且つ精強な防空能力を動員し、学校報国隊防空補助員として校外民防空機関に協力させることである。当時の学生課員小野正は、学生が校外防空に従事する場合、町の消防署の指揮下に入り、その補助要員として働いたと証言している。

 十九年二月、学苑では、空襲必至の緊迫した情勢に対処し、実戦的に学苑の自衛化を図るため、特設防護団を改組して新役員を決定した。新編成の特設防護団は、同月十九日大隈講堂で結団式を挙行したが、団員は学生を以て充てることとし、職員は各所属事務所の防護、非常持出物件の処置、所属建物間の監視に当ることとなっている。ところが、時局は更に緊迫し、十九年八月を過ぎる頃には学徒の全面的勤労出動という事態を迎えたので、更に改組を余儀なくされ、教職員を主体として学苑防護に限定せざるを得なくなった。新編成による学苑特設防護団結成式は八月二十一日大隈講堂で挙行された。次頁の第二図は早稲田大学特設防護団の指揮系統関係を示すもので、十九年八月二日の日付が記されている。

第二図 特設防護団編成図(昭和十九年八月現在)

 なお、昭和十九年九月十一日、幹事名で防衛係の設置が学内に通達されている。これは「学園防衛要務ヲ管掌シ本学特設防護団ト密接ナル連絡ヲ図ル」もので、当番勤務十名、連絡係一名その他が任命され、交替当番制により宿直の責に任ずることとし、総務部に属し、係室は本部の一階に設けられた。なお、この係の設置は、通達の日を以て即日実施されている。学苑内の状況は以上の如くであるが、加えて文部省当局よりの指示もあり、学苑残留の学生が防空補助要員に組み入れられ、輪番宿直の制度を以て学苑万一の場合に備えることとなっていた。

 こうして早稲田大学特設防護団は運命の昭和二十年五月二十五日を迎えた。人数の劣勢に加えて、火勢があまりにも強かったことは、既述の被災体験者達の談話に如実に示されている。それにも拘らず、特設防護団は超人的な活動を展開した。もしこれらの人々の奮闘がなかったなら、学苑はより大きな被害に見舞われて、更に何層倍も惨憺たる姿を露呈せざるを得なかったに違いない。