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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第八章 新体制の発足

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一 校規改正

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 敗戦後の日本に渦巻いた民主化の潮流を背景として、総長は理事の互選によらず一般の選挙によるべきであると中野が総長辞任に際して提唱したのが契機となって、学苑の憲法とも言うべき校規すなわち財団法人早稲田大学の寄附行為を全面的に検討し直すことが決定されたのは、昭和二十一年二月十二日に開かれた維持員会の席上においてであった。同日、左の手続によって二十八名で構成される校規改正案起草委員会の設置が決議された。

(一) 各学部、専門部各科、高等師範部、各高等学院、専門学校ニ於テハ一名宛ヲ教授及助教授中ヨリ選挙シタル者

(二) 高等工学校及工手学校ニ於テハ一名宛ヲ主任会ニ於テ選挙シタル者

(三) 書記及技手以上ノ職員中ヨリ三名ヲ選挙シタル者

(四) 五名ヲ維持員会ガ維持員中ヨリ選挙シタル者

(五) 五名ヲ評議員会ニ於テ校友中ヨリ選挙シタル者

この民主的方法に基づき選出された二十八名の校規改正案起草委員は、次の顔触れであった。

この中から互選により委員長に黒田善太郎、副委員長に大浜信泉が就き、三月二日、各学部、各機関、校友等の意見を持ち寄った委員が集まって第一回校規改正案起草委員会が開かれ、抜本的改革の検討に着手した。実現までに二ヵ月半を費やした議事の中から貴重な議論を左に摘記しておこう。

 「現行校規ハ条文上欠陥有ルニ非ズシテ運営上ノ問題ノミ」との意見も出されなかったわけではないが、「新生日本の建設と発展とに寄与し得べき人材を養成するためには、民主主義教育をもつて大学教育の指導理念とするのほかはな」く、「近年わが大学機構の弱体化をまねくに至つた最大の原因は、とかく大学当路者の間に和合と協力とを欠くためであつた。時には少数者の事を専断して、全体の支持を得ることのできなかつたことも、また大学の機能の低調をきたす重大原因の一つであつた。これは固より関係者相互の協和的精神の欠如にもよるが、しかし大学機構それ自体のうちに、人の和合と協力とを確保するに必要な組織的配慮の足りなかつたことに、より根本的な原因があろう」という、中村を代表とする反省が支配的となった。上坂もその改革私案で、従来の意思決定機構が理想的に機能しておらず、第三者の目には「総長独裁制」と映ると述べ、「問題の重点は機構の民主化改正と総長の公選にある」と断言した。こうして、「封建制」を払拭して「民主化」を徹底させるために、「校規ノ改正ハ全般ニ及ブベシ」との考えが主流を占めた。

 根本的な問題としては、早稲田大学の組織に関して、「学校法人ト教育部面トハ区別セヨ(慶応型)。財団(法人)ガ学校ヲ経営スベキデアル。早大ハ両方混合シテオル」との意見が、大島から出された。「大学の組織・機構を財団(経営系統)と学園(教務系統)との二本立とするの可否」は以後も討議が重ねられ、経営の責任者である理事長と、教育および学内統率の責任者である総長とを区別し、財団系統に属する機構を理事会・維持員会・校友会、学園系統に属する機構を総長・部科長校長会・教授会・職員会に両分する案が数度に亘り議題に上って、「総長ト理事長トハ一本トスル」との条件つきで毛受らの賛同を得たが、二本立構想は結局実現に至らなかった。

 議論が最も集中したのが総長選挙制であったのは、論を俟たない。しかし、「候補者決定ノ困難。落選者ニ気ノ毒。当人ノ意志デ辞退シタラ。公選ニテ最上ノ人物ヲ得ルヤ否ヤ」と、公選に伴う危惧・欠点を大浜が種々指摘したにも拘らず、総長を選挙によって選ぶとの基本姿勢は遂に崩れることなく、この問題について白熱した議論が展開されたのは、寧ろ、選挙人の範囲と候補者の資格をめぐってであった。これについては次節に譲る。

 次いで、維持員会、評議員会、更には理事や監事の在り方も検討された。例えば、寡頭理事会はとかく理事の専制を招き易いのみならず、理事会には副次議決機関として多少の議決権を認めなければならないから、全学苑および全校友の支持の上に立ち、且つその総意を行政に実現し得るよう、理事会の構成員をできる限り多数とすべきであるとか、評議員会は、従来の機能を部科長会議、教授会、職員会、校友会などに譲って、廃止されるべきであるとか、また、大学の全体的意思決定機関である維持員会は、単に維持員のみの機関であってはならないので、その名称を協議会もしくは評議員会あるいは商議員会などと改めて、構成員も現行の三十五名以内から五十名ないし六十名に拡大すべきであるとかいう主張は、必ずしも特異な例ではなかった。大学の意思決定機関を、従前のように維持員会の如き一元制にするか、それとも、維持員会の他に部科長会議などを加えて二元制にするかが、維持員会および評議員会の併置あるいは統合の問題と絡んで、さまざまな議論を惹起した。しかし結局、これらの機関の基本的性格には大幅な変革を施さず、それぞれの構成員決定方法の改革を軸に若干の手を加えることにより、新時代への対応を図ることになった。

 以上の他にも、理事会の構成員は教授が多数を占めるべきか、教授以外が多数を占めるべきか、常務理事を複数置いて担当分野を分割させるべきかとか、能率的運営のために事務組織をどのように改編するか、学生自治委員会規程の成文化の当否などについても、相当激しい意見が開陳された。中でも、教員の待遇改善や教授会の権限強化への要望は終始強烈であった。例えば第二高等学院からは、「附属学校トシテ、自主制ト平等制ヲ与ヘヨ。学院長ノ公選、及教授会ノ確立(教授会ハ学部ノ教授会ト同等ニ見ヨ)。学院教授ノ待遇ヲ学部ト平等ニセヨ」との意見が出され、理工学部からも、「教授会ヲ教育方針決定ノ最大権限機関」として「直接学校行政ニ関連セシムベシ」との強い意見が提出された。また、予算審議を含む「教授会ノ権限ノ大幅拡充」と「教授会ハ教務・校則ヲ審議セヨ」との要求書が学生代表から提出される一幕もあった。

 こうして多岐多様に亘る諸問題がさまざまな角度から論じられた後、三月十四日に七ヵ条の基本原則、すなわち、民主化の徹底、能率の増進、機構の簡素化と合理化、部科長会議の機能拡大、教授会の強化、教授の純事務よりの解放、研究機構の整備拡充が確定した。このうち、校規よりも校則に含まれるべき原則は、校規改正案起草委員会の建議(五月十五日に維持員会で採択)として具体化する。改正校規の大綱は三月二十三日に決定され、大浜および毛受が委託を受けて成文化に取り組んだ。その条文審議は四月二日に第八回校規改正案起草委員会で行われ、若干修正された後、十五日開催の維持員会における決議を経て、十九日に校規改正認可願を文部大臣に申請し、五月十日付を以て認可された。

 昭和二十一年五月十五日発効の新校規と、大正十二年の校規(第三巻一三九―一四四頁参照)との相違点が主に維持員数二十五名を三十五名以内に改めた点にある昭和四年六月一日改正実施の旧校規とを、左に比較しよう。○印は旧校規には見られなかった規定、△印は修正が施された規定である。

新校規

第一章 総則

第一条 本財団法人ハ早稲田大学ト称ス。

△ 第二条 本大学ハ人材ノ育成、学術ノ研究、教授及普及ヲ目的トス。

第三条 本大学ハ事務所ヲ東京都淀橋区戸塚町一丁目六百四十七番地ニ設置ス。

第二章 総長

△ 第四条 本大学ニ総長一名ヲ置ク。総長選挙ノ方法ハ別ニ之ヲ定ム。

総長ノ任期ハ三年トス。但シ再選ヲ妨ゲズ。

○ 第五条 総長ハ校務ヲ総理シ本大学ヲ代表ス。

△ 第六条 本大学ハ維持員会ノ議ヲ経テ名誉総長ヲ推挙スルコトヲ得。

第三章 理事

△ 第七条 本大学ニ総長ノ外六名以内ノ理事ヲ置ク。

総長以外ノ理事ハ維持員会ニ於テ之ヲ選任ス。

理事ノ任期ハ三年トス。但シ再選ヲ妨ゲズ。

△ 第八条 理事ハ本大学経営ノ一切ノ責ニ任ズ。

○ 第九条 総長ハ維持員会ノ承認ヲ経テ理事中ヨリ一名又ハ数名ノ常務理事ヲ嘱任スルコトヲ得。常務理事ハ総長ノ意ヲ承ケ校務ヲ掌理シ、総長欠員ノトキ又ハ総長事故アルトキハ其ノ職務ヲ代行ス。

常務理事数名アルトキハ、其ノ所管事務及前項ノ職務代行者ハ総長之ヲ定ム。

○ 第十条 理事ハ維持員会ノ決議ニ依リ之ヲ解任スルコトヲ得。

第三十四条第二項ノ規定ハ前項ノ決議ニ之ヲ準用ス。

○ 第十一条 第十八条及第二十条第一項第一号乃至第三号ノ規定ハ理事ニ之ヲ準用ス。

第四章 監事

第十二条 本大学ニ監事二名以内ヲ置ク。

監事ハ維持員会ニ於テ之ヲ互選ス。

○ 第十三条 監事ハ財産ノ状況及理事ノ業務執行ノ状況ヲ監査ス。

監事ハ、監査ノ結果不整ノ廉アルコトヲ発見シタルトキハ、維持員会又ハ主務官庁ニ之ヲ報告スルコトヲ要ス。此ノ場合自ラ臨時維持員会ヲ招集スルコトヲ妨ゲズ。

△ 第十四条 監事ノ任期ハ三年トス。但シ再選ヲ妨ゲズ。

○ 第十五条 第十一条ノ規定ハ監事ニ之ヲ準用ス。

第五章 維持員及維持員会

第十六条 本大学ニ維持員三十五名以内ヲ置ク。

△ 第十七条 維持員ハ左ノ二種トス。

一、評議員会ニ於テ本大学教職員タル評議員中ヨリ選出シタル者二十名以内

二、評議員会ニ於テ本大学教職員ニ非ザル評議員中ヨリ選出シタル者十五名以内

維持員選挙ノ方法ハ別ニ之ヲ定ム。

△ 第十八条 維持員ノ任期ハ三年トス。但シ、任期満了前次期維持員ノ選任ナキトキハ、其ノ選任ニ至ル迄任期ヲ伸長ス。

維持員ノ一部ニ新任者ヲ生ジタルトキハ、其ノ任期ハ在任者ノ任期ニ従フ。

第十九条 維持員ハ別ニ定ムル所ニ従ヒ維持員会ヲ組織シ、本大学ニ関スル重要事項ヲ議定ス。

△ 第二十条 維持員ハ左ノ事由ニ依リ退任ス。

一、任期ノ満了

二、辞任

三、禁治産、準禁治産、破産又ハ公権剝奪若クハ停止

四、評議員タル資格ヲ失ヒタルトキ。但シ引続キ評議員ニ推挙セラレタルトキハ此ノ限ニ在ラズ

五、除名

維持員ノ除名ハ維持員五分ノ四以上ノ同意アルコトヲ要ス。

第六章 評議員及評議員会

△ 第二十一条 本大学ニ評議員若干名ヲ置ク。

評議員ハ、評議員会規程ニ依リ推挙又ハ選出セラレタル者ニ対シ、本大学之ヲ嘱任ス。

△ 第二十二条 評議員ハ別ニ定ムル所ニ従ヒ評議員会ヲ組織ス。

評議員会ハ学事並ニ会計ノ報告及諮問事項其ノ他ニ付キ審議ス。

評議員会ハ其ノ決議ヲ以テ大学ニ建議ヲ為スコトヲ得。

△ 第二十三条 第十八条及第二十条ノ規定ハ評議員ニ之ヲ準用ス。

第七章 大学院、学部、附属学校及附属機関

第二十四条 本大学ニ大学院及左ノ学部ヲ置ク。

一、政治経済学部

二、法学部

三、文学部

四、商学部

五、理工学部

第二十五条 各学部ニ教授会ヲ設ケ、其ノ学部ノ教授ヲ以テ之ヲ組織ス。

△ 第二十六条 本大学ニ附属学校及研究所、図書館、博物館等ノ附属機関ヲ置ク。

○ 第二十七条 各学部、附属学校及附属機関ニ各長一名ヲ置キ、之ヲ以テ部科長会ヲ組織ス。

△ 第二十八条第二十五条ノ規定ハ附属学校ニ之ヲ準用スルコトヲ得。

第八章 計算

第二十九条 本大学ノ予算及決算ハ維持員会ノ決議ヲ経ルコトヲ要ス。

第三十条 本大学ノ会計ハ、維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル会計規程ニ依リ之ヲ処理ス。

第九章 資産

第三十一条 本大学ノ資産ハ財産目録ニ之ヲ掲載ス。

第三十二条 本大学資産ノ管理、使用及処分ハ、維持員会ノ決議ニ依リ理事之ヲ行フ。

△ 第三十三条 本大学解散ノ場合ニ於ケル残余財産ハ、維持員会ノ決議ニ依リ、本大学ノ目的ト同一又ハ類似ノ目的ノ為ニ之ヲ処分ス。

第十章 校規ノ改定

△ 第三十四条 本校規ハ維持員会ノ決議ニ依リ主務官庁ノ認可ヲ経テ之ヲ改定スルコトヲ得。

前項ノ決議ハ、維持員ノ三分ノ二以上出席シ、出席維持員ノ三分ノ二以上ノ同意アルコトヲ要ス。

附則

第三十五条 本校規ハ昭和二十一年五月十五日ヨリ之ヲ施行ス。

第三十六条 旧校規及其ノ附属規程ニ依リ選任セラレタル理事、監事、維持員及評議員ハ、本校規及其ノ附属規程ニ依リ改選セラルル迄在任スルモノトス。


旧校規

第一章 総則

第一条 本財団法人ハ早稲田大学ト称ス。

第二条 本大学ハ品性ノ陶冶、学術ノ教授、研究及普及ヲ目的トス。

第三条 本大学ハ事務所ヲ東京都淀橋区戸塚町一丁目六百四十七番地ニ設置ス。

第二章 総長

第十四条 理事ノ互選ヲ以テ総長一名ヲ置キ、本大学ノ代表者トス。

第四条 本大学ハ設立者侯爵大隈重信ノ家督相続人ヲ名誉総長ニ推薦ス。

第三章 理事

第十二条 本大学ニ理事七名以内ヲ置キ、維持員会ニ於テ之ヲ互選ス。

第十五条 理事ノ任期ハ三年トス。但シ、維持員ノ資格消滅シ引続キ推薦又ハ再選セラレザルトキハ、理事ノ資格モ亦消滅ス。

第十三条 理事ハ維持員会ノ決議ニ基キ一切ノ経営ニ任ズ。

第四章 監事

第十六条 本大学ニ監事二名以内ヲ置キ、維持員会ニ於テ之ヲ互選ス。

第十七条 第十五条ノ規定ハ監事ニ之ヲ準用ス。

第五章 維持員及維持員会

第五条 本大学ニ維持員三十五名以内ヲ置ク。

第六条 維持員ハ左ノ二種トス。

一、維持員会ニ於テ功労者中ヨリ推薦シタル者十三名以内

二、評議員会ニ於テ評議員中ヨリ選出シタル者二十二名以内

第八条 維持員ノ任期ハ三年トス。

第十一条 維持員ニ一部ノ新任者ヲ生ジタルトキハ、其任期ハ在任者ノ任期ニ従フ。

前項補欠員任期ノ規定ハ本校規ニ於ケル他ノ同一ノ場合ニ之ヲ準用ス。

第七条 維持員会ハ維持員ヲ以テ組織シ、本大学ニ関スル重要事項ヲ議定ス。

第九条 維持員ノ資格ハ左記ノ事由ニ依リテ消滅ス。

一、任期ノ満了

二、辞任

三、禁治産、準禁治産、破産

四、死亡

五、除名

六、第六条第二号ニ因ル維持員ガ其評議員ノ任期満了シ引続キ推挙又ハ再選セラレザルトキ

第十条 維持員ノ除名ハ他ノ維持員五分ノ四以上ノ同意アルコトヲ要ス。

第六章 評議員及評議員会

第十八条 本大学ニ評議員ヲ置ク。

第十九条 評議員ハ、評議員会規程ニ於テ特定シタル者並ニ其規定ニ依リ推挙又ハ選出セラレタル者ニ対シ、本大学之ヲ嘱託ス。

第二十条 評議員会ハ評議員ヲ以テ組織ス。

第二十一条 評議員会ハ学事並ニ会計報告ノ承認及諮問事項其他ニ付決議ヲ為ス。

第二十二条 評議員ノ任期ハ三年トス。

第二十三条 第九条及第十条ノ規定ハ之ヲ評議員ニ準用ス。

第七章 大学院、学部、附属学校、図書館

第二十四条 本大学ニ大学院及左ノ学部ヲ置ク。

一、政治経済学部

二、法学部

三、文学部

四、商学部

五、理工学部

第二十五条 各学部ニ教授会ヲ設ケ、其ノ学部ノ教授ヲ以テ之ヲ組織ス。

第二十六条 教授会ハ教務教則ニ関スル事項ヲ審議ス。

第二十七条 本大学ニ附属学校及図書館ヲ置ク。

第二十八条 第二十五条及第二十六条ノ規定ハ之ヲ附属学校ニ準用スルコトヲ得。

第八章 計算

第二十九条 本大学ノ予算及決算ハ維持員会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム。

第三十条 本大学ノ会計ハ、維持員会ノ決議ヲ以テ定メタル会計規程ニ依リ之ヲ処理ス。

第九章 資産

第三十一条 本大学ノ資産ハ別冊財産目録ニ掲載ス。

第三十二条 本大学資産ノ管理、使用及処分ハ、維持員会ノ決議ニ依リ理事之ヲ行フ。

第三十三条 本大学解散ノ場合ニ於ケル残余財産ハ、維持員会ノ決議ニ依リ設立者家督相続人ノ同意ヲ得テ、本大学ノ目的ト同一若クハ類似ノ目的ノ為ニ之ヲ処分ス。

第十章 校規ノ改定

第三十四条 本校規ハ維持員五分ノ四以上ノ同意ニ依リ主務官庁ノ認可ヲ経テ之ヲ改定スルコトヲ得。

附則

第三十六条 本校規ハ昭和四年六月一日ヨリ之ヲ施行ス。

第三十五条 旧校規ニ依ル維持員ハ其残任期間引続キ在任スルモノトス。

本校規第五条及第六条ニ依リ増加セラルル維持員ハ、本校規ニ依リテ之ヲ推薦又ハ選挙シ、其任期ハ旧校規ニ依ル維持員ノ任期ニ従フ。

旧校規ニ依ル総長、理事、監事及評議員ハ、本校規ニ依ル総長、理事、監事及評議員トシテ各其残任期間引続キ在任スルモノトス。

 改正の要点は次のように摘記できる。

 一、早稲田大学の目的を、「品性ノ陶冶、学術ノ教授、研究及普及」から「人材ノ育成、学術ノ研究、教授及普及」へ改めた。特に「品性ノ陶冶」の「人材ノ育成」への代替は、大学の目的としての「人格ノ陶冶」を批判した矢内原忠雄の提言にも、第一次アメリカ教育使節団報告の高等教育改革の包括的提言にも、結果的に副うものであった。

 二、旧校規第四章理事に含まれていた総長に関する規定を、旧校規に独立していた名誉総長に関する章と合せて、一つの章に纏めた上、その内容を一新した。すなわち、従来、理事の互選により選ばれた総長を、別に定められた総長選挙規程に基づいて選ぶ一層民主的な選出制度を採用し、更にその任期を三年としたのである。また名誉総長には「大隈重信ノ家督相続人」を推薦することになっていたが、この資格制限を撤廃した。

 三、維持員による理事の互選制は、維持員会における選任制に改め、維持員以外から理事を選出できる途を開くと同時に、理事解任規定を新設した。更に、従来もあった、総長を補佐する常務理事に関する規定を初めて校規に盛り込み、経営の円滑化を図るために二名以上の常務理事を置くことをも可能にした。

 四、監事については、職務権限をはっきりさせた以外には、目新しい変化はない。

 五、維持員の選任に関しては、旧校規第六条第一号で認められていた「維持員会ニ於テ功労者中ヨリ推薦シタル者」を廃し、選出母体を評議員のみに限り、学内選出維持員を二十名以内、学外選出維持員を十五名以内と定めた。維持員選挙の方法は後述の評議員会規程で触れる。また、維持員の退任事由に「公権剝奪若クハ停止」を追加し、この規定を理事、監事および評議員にも適用した。これは、戦後吹き荒れた公職追放の嵐を考慮に入れた規定である。

 六、評議員会に対しては、「決議ヲ以テ大学ニ建議ヲ為ス」権利が与えられた。

 七、各学部、付属学校および付属機関の長を以て組織する部科長会に関する規定を新設した。

 八、早稲田大学解散の場合における残余財産の処分に関し、「設立者家督相続人ノ同意ヲ得テ……之ヲ処分ス」るという制限を削除した。第三十三条の修正は、旧校規第四条の修正と相俟って、大隈家からの影響を避けることを図ったものである。

 九、校規改正の決議に必要な定足数を緩和した。

 校規改正案起草委員会は、以上述べた重要な修正規定ならびに新設規定を含む校規と合せて、総長選挙規程の新設案、維持員会規程の修正案、評議員会規程の修正案を、維持員会に提出した。これらはいずれも可決され、四月十五日より発効した。そのうち最も重要なのは、言うまでもなく総長選挙規程の制定とその実施であるが、これについては次節に譲り、ここでは新・旧の維持員会規程および評議員会規程を比較検討する。

 維持員会規程では、第一条に「維持員会ハ維持員ヲ以テ之ヲ組織ス。理事ハ維持員会ニ出席シ意見ヲ述ブルコトヲ得」が新たに設けられた以外は、互選による三年任期の維持員会会長の選出、出席維持員の過半数による決議など、旧規程通りである。

維持員会規程

第一条 維持員会ハ維持員ヲ以テ之ヲ組織ス。

理事ハ維持員会ニ出席シ意見ヲ述ブルコトヲ得。

第二条 維持員会ハ定時及臨時ノ二種トス。

第三条 定時維持員会ハ毎月一回大学之ヲ招集ス。

第四条 臨時維持員会ハ、大学ニ於テ必要アリト認メタルトキ、又ハ維持員五名以上若クハ監事ノ請求アリタルトキ、大学之ヲ招集ス。但シ監事ノ招集権ヲ妨グルコトナシ。

第五条 維持員会招集ノ通知ハ、定時維持員会ニアリテハ会日ノ五日前、臨時維持員会ニアリテハ二日前ニ、之ヲ発スルコトヲ要ス。

前項ノ通知ニハ会議ノ目的タル事項ヲ記載スルコトヲ要ス。

第六条 維持員会ハ維持員ノ互選ヲ以テ会長一名ヲ置ク。

会長ノ任期ハ三年トス。

第七条 会長ハ議事ヲ整理ス。会長事故アルトキハ出席維持員ノ互選ヲ以テ臨時代理者ヲ定ム。

第八条 維持員会ハ維持員三分ノ一以上出席スルニ非ザレバ之ヲ開会スルコトヲ得ズ。

第九条 維持員会ノ決議ハ出席者ノ過半数ニ依ル。

第十条 維持員会ハ予メ通知アリタル事項ニ限リ決議ヲ為スコトヲ得。但シ出席者全員ノ同意アル場合ハ此ノ限ニ在ラズ。第十一条 維持員会ニ於テ為ス選挙ハ連記無記名投票ニ依リ之ヲ行フ。但シ出席者全員ノ同意アルトキハ別ノ方法ニ依ルコトヲ妨ゲズ。

附則

第十二条 本規程ハ昭和二十一年五月十五日ヨリ施行ス。

 他方、評議員会規程にはかなり手が加えられている。すなわち、前記の如く、新校規により、従来の学事・会計報告および諮問事項その他についての審議の他、決議に基づき大学に建議する権限が付与されて、その重要性が増したのに応じ、構成員たる評議員の選出方法などが、第一条および第二条において、次のように改められたのである。

新評議員会規程

第一条 評議員会ハ評議員ヲ以テ之ヲ組織ス。

第二条 評議員ハ左ノ区分ニ従ヒ之ヲ選出ス。

一、維持員会ニ於テ本大学関係者中ヨリ推挙シタル者三十五名以内

二、各学部及附属学校教授会又ハ之ニ準ズベキモノニ於テ所属ノ教員中ヨリ選出シタル者七十五名以内

三、主事会ニ於テ本大学職員中ヨリ選出シタル者十名以内

四、校友会本部ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者五十名以内

五、校友会各支部ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者若干名

旧評議員会規程

第一条 評議員会ヲ組織スル評議員ハ左ノ六種トス。

一、名誉教職員若干名

二、維持員会ニ於テ本大学関係者中ヨリ推挙シタル者三十五名以内

三、大学及附属学校教授会ニ於テ教授中ヨリ選出シタル者三十名以内

四、学部長、附属学校長、専門部科長、高等師範部長、図書館長、演劇博物館長、附属研究所長各一名

五、校友会本部ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者四十名以内

六、校友会支部ニ於テ其会員中ヨリ選出シタル者若干名

すなわち、名誉教職員の他にも、各学部、付属学校および付属機関の長が対象外となり、代って職員の参加が認められた。選出基盤の民主化に伴い、員数にも修正が施されている。

 左に掲げる第三条から第十一条までの内容は、旧規程の第二条から第十条までのそれと殆ど変っていない。

第三条 評議員会ハ定時及臨時ノ二種トス。

第四条 定時評議員会ハ毎年一回大学之ヲ招集ス。

第五条 臨時評議員会ハ大学ニ於テ必要アリト認メタルトキ、又ハ評議員ノ五分ノ一以上ノ請求アリタルトキ、大学之ヲ招集ス。

第六条 評議員会招集ノ通知ハ定時評議員会ニアリテハ会日ノ七日前、臨時評議員会ニアリテハ三日前ニ、之ヲ発スルコトヲ要ス。前項ノ招集ノ通知ニハ会議ノ目的タル事項ヲ記載スルコトヲ要ス。

第七条 評議員会ハ評議員ノ互選ヲ以テ会長・副会長各一名ヲ置ク。

第八条 会長及副会長ノ任期ハ三年トス。

第九条 会長ハ議事ヲ整理ス。会長事故アルトキハ副会長之ヲ代理ス。会長・副会長共ニ事故アルトキハ、評議員会ハ臨時代理者ヲ互選スルコトヲ得。

第十条 評議員会ハ評議員五分ノ一以上出席スルニ非ザレバ之ヲ開会スルコトヲ得ズ。

第十一条 評議員会ノ決議ハ出席者ノ過半数ニ依ル。

 一方、評議員会における維持員選挙の方法は大幅に改正された。それは、旧規程の第十一条および第十二条を、新規程では第十二条から第十六条に亘って詳記することにより、一層の民主化が図られているのである。

新評議員規程

第十二条 評議員会ニ於ケル維持員ノ選挙ハ左ノ区分ニ従ヒ之ヲ行フ。

一、校規第十七条第一項第一号ニ定ムル維持員(学内選出維持員)ハ本大学教職員タル評議員ニ於テ之ヲ選挙スルコト

二、同第二号ニ定ムル維持員(学外選出維持員)ハ本大学教職員ニ非ザル評議員ニ於テ之ヲ選出スルコト

第十三条 評議員会ハ前条ノ区分ニ従ヒ若干名ノ特別銓衡委員ヲ設ケ、維持員候補者ヲ選定セシムルコトヲ得。此ノ場合ニ於ケル候補者ハ学内選出維持員ニ付テハ三十名、学外選出維持員ニ付テハ二十名ヲ下ルコトヲ得ズ。

第十四条 前条ノ維持員ノ選挙ハ連記無記名投票ニ依リ之ヲ行フ。

本大学教職員タル評議員ハ十名以上、教職員ニ非ザル評議員ハ八名以上ノ被選挙者ヲ連記スルモノトス。

第十五条 有効投票ノ最大数ヲ得タル者ヲ以テ当選者トス。

但シ、有効投票者数ノ十分ノ一以上ノ得票アルコトヲ要ス。

当選者ヲ定ムルニ当リ、得票同ジキ者アルトキハ年長順ニ依リ之ヲ決ス。

第十六条 当選者定員ニ達セザルトキハ、当選者ノ協議ニ依リ、当選点ニ達セザル得票者中ヨリ銓衡補充ス。

旧評議員規程

第十一条 評議員会ハ校規第六条第二号ニ依リ維持員ヲ選出ス。

第十二条 前条維持員ノ選挙ハ十一名連記無記名投票ニ依ル。

当選者ハ投票者十分ノ一以上ノ得票ヲ要ス。

 そして、旧規程第十三条「評議員会ハ其決議ヲ以テ意見ヲ大学ニ提出スルコトヲ得」が新規程では削除されて、これを新校規第二十二条の一部に移し、評議員会に積極的な役割を期待したのである。なお、新規程は付則として第十七条「本規程ハ昭和二十一年五月十五日ヨリ施行ス」を置き、更に、過渡的措置が次のように採られた。

一、新評議員会規程ノ適用ニ関シ今回ニ限リ左ノ如キ特別措置ヲ講ズルコト。

⑴ 新評議員会規程第二条第一号ニ定ムル維持員会ハ、新校規及附属規程ノ施行後最初ニ行ハルル評議員推挙ニ付テハ、旧校規及旧維持員会規程ニ基ク現存ノ維持員会ヲ指スモノトス。

⑵ 旧評議員会規程第一条第五号及第六号ニ基キ選出セラレタル評議員ハ、昭和二十一年三月三十一日ニ至ル迄新評議員会規程ニ依リ選出セラレタルモノト看做ス。

 評議員会は、学事ならびに会計報告および諮問事項その他について審議する機関であり、また決議に基づいて大学に建議することができる。その構成員たる評議員は評議員会規程第二条により選出される。校友会各支部選出評議員の数は若干名としか記されていないが、それは、地方在住の卒業生数を基準にして、校友百名を有する支部は一名、同二百名を擁する支部は二名、同三百名の場合は三名、三百名以上の校友を有する支部については三百名を増すごとに一名を加え、一支部当り選出評議員の最大数が十名で打切りとなるように、道府県別にそれぞれ選出するためである。従って、多くの県では評議員二名を選出するに過ぎないのに対し、大阪府のように多数の校友を擁する支部は十名を選出することになる。そこで、評議員の総数は二百名を超すのである。

 こうして評議員が選出された後、教務、財務、人事等に関する重要事項一切を審議する維持員会の構成員たる維持員を、評議員中から選出することになる。評議員会は特別銓衡委員を設け、その委員が維持員候補者を選定する。しかる後、連記無記名投票により、学内選出維持員を二十名以内、学外選出維持員を十五名以内、選挙するのである。

 次に、大学の経営全般に亘って責を負う理事の選任が、維持員会で行われる。新校規第七条に明記してある如く、理事は選挙によってではなく、選任という形を採っている。新制度施行後七月に行われた理事選任の際には、維持員会長の指名を受けて、総長を含む七名の銓衡委員が組織され、その七人の合議により理事が選任された。更に、総長のブレーンとも言うべき常務理事は、大正十二年より置かれてはいたが、二十一年に至って初めて校規中に明記され、総長が理事中から選んだ人物を維持員会に諮った上で嘱任される。

 最後に、総長は、旧校規では、七名の理事の互選により決定されることになっていたのが、新制度では、九十名という多人数の総長選挙人会において選挙で選ばれることに改められた。そしてこの総長決定の方法変更こそが、新校規中最大の焦点だったのである。

二 総長選挙

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 いかに敗戦後の日本を民主化の嵐が席巻したといっても、大学の頂上人事まで選挙により決定されるとは、全く以て前代未聞である。民主主義の先進諸国を見渡しても、大学総長が公選により決定される国など、一つも存在しない。昭和三十年頃、フルブライト計画で来日していたシカゴ大学のある教授が、日本には総長選挙制があるのを知って驚き、わざわざ早稲田学苑を訪ねて、その内容を大浜信泉総長に質したことがあるほどである。

 翻って我が国を見渡して、現在、総長公選制を校規に定めてある大学は、何校あるであろうか。

 最も初期の例として、東京産業大学(現一橋大学)における学長選挙がある。同大学では、敗戦の年の秋以降、学生の強い要求を承けて協議した結果、翌二十一年二月に「学長推薦規則」を制定した。これに基づいて学長推薦委員会が組織され、二名の候補を選定して学生の除斥投票に委ね、日本最初の公選大学学長上原専禄が六月十五日に誕生したのである。日本の社会全体が混沌期にあったとはいえ、官立大学の長を選挙によって選ぶのを、しかも学生の除斥投票によって決定するのを、文部省はよく認めたものである。尤も、今日では、文部官僚の間に、一橋方式に対して難色を示す傾向がないわけではない。

 次に総長選挙制を採用したのが、我が学苑である。

 二十年代の例をもう少し見てみよう。立命館大学では、昭和二十四年に「立命館総長選挙規程」を制定し、予科・付属学校を含む全専任教職員の外、高等学校以上の学生にも選挙権を与え、その代表九十五名による間接選挙を行って、三月、末川博を総長に選んでいる。二十六年には、関西学院も学長選挙制を採用した。各学部教授会を代表する五人と理事を代表する五人とで組織される銓衡委員会が、学長候補三名以上を銓衡し、これらの候補者中から全学の教授および助教授の投票により学長を選出する手続を経て、二月、大石兵太郎が学長に就任した。二十八年には、東京都立大学でも、一橋方式にほぼ準じた総長選挙が実施されている。あるいは、法政大学のように、校規には定めていないが、三十四年に総長選挙規則委員会を発足させ、慣例として選挙制を採用している大学もある。爾来、大学の最高人事を選挙に委ねる慣行は、日本の特質の一つとなった観がある。尤も、すべての大学で総長あるいは学長を選挙で選んでいるわけではないが、学苑の制度が最も初期の稀な例に属することに、疑問を挟む余地はない。

 二十一年三月二日より草案作成の任に就いた校規改正案起草委員会は、総長選出方法をめぐって侃々諤々の議論を展開した。それを今ここに拾ってみると、「総長ハ教授ノ直接選挙」「総長ハ学園中ヨリ広ク公選セヨ。若イ人デモ良イ」「学園内ノ各部科ノ地方分権ヲ確立シ、各部科ヨリ総長ヲ出セ」「総長ハ教授会ノ推薦(三名)ニヨリ理事会ガ承認スル」「学内ヨリ適当者ヲ選ブ。教授会(七十名)、職員(十名)、維持員(二十名)ヲ以テ公選」「総長ハ維持員会デ直接選挙。被選挙権ハ校友ト限ラズ」等々々。こうして煮詰められた総長選挙の方法は、

(1) 常設機関(例へば維持員会の如き)に依る選挙

(1) 特設選挙母体に依る選挙

(1) 公選

(イ)複式選挙(先づ候補者を選挙)と単式選挙

(ロ)直接選挙と間接選挙

(2)銓衡委員に依る選挙(間接選挙)

に収斂し、更に議論が継続された。その過程で「公選ニテ最上ノ人物ヲ得ルヤ否ヤ」が問題となり、校規改正案起草委員会の結論は、総長候補者銓衡委員会を組織して候補者を前以て選ぶ案に落ち着いた。しかるにこの案は維持員会で否決されてしまった。その経緯を、大浜はこう伝えている。

選挙規則の起案にあたっては、投票の対象となるべき候補者をどう規定すべきかが問題になった。立候補制を唱える人もあった。立候補となると、政見発表と票集めの運動はつきものである。どうも、大学総長のイメージとはピッタリしない。そこで、選考委員会を設け、候補者をしぼり、それを投票の目標とする案が出た。目標が定まっていないと、選挙人はだれに投票してよいか判断に迷うであろうし、他面散票の弊をまぬかれないからである。とにかく、その都度組織される選挙人会の中に、選挙人の互選によって選考委員会を設け、そこで五人以内の候補者を定めることに原案がまとまった。ところがこの案は、評議員会において否決されてしまった。その理由は、候補者を限定することは、選挙人の自由を制限し、民主主義に反するというにあった。 (『総長十二年の歩み』 一〇頁)

 かくして、総長の被選挙資格については何らの制限も設けない、左の総長選挙規程が生れたのである。

総長選挙規程

第一条 総長ハ本規程ノ定ムル所ニ従ヒ其ノ都度組織スル総長選挙人会ニ於テ之ヲ選挙ス。

第二条 総長選挙人会ハ左ノ選挙人ヲ以テ之ヲ組織ス。

一、校規第十七条第一項第二号ニ定ムル維持員 十五名

二、評議員会ニ於テ本大学教職員ニ非ザル評議員ニ依リ互選セラレタル者 十五名

三、各学部ニ於テ所属ノ教授及助教授ニ依リ互選セラレタル者(各五名) 二十五名

四、専門部各科、高等師範部、両学院及専門学校ニ於テ所属ノ教授及助教授ニ依リ互選セラレタル者(各三名) 二十四名

五、高等工学校及工業学校主任会議ニ於テ所属ノ専任教員中ヨリ選出シタル者(各三名) 六名

六、主事会ニ於テ職員中ヨリ選出シタル者 五名

第三条 総長選挙人会ハ大学之ヲ招集ス。

第四条 総長選挙人会ハ選挙人ノ互選ニ依リ会長一名、投票管理人若干名ヲ置クコトヲ得。

会長ハ議事ヲ整理シ投票ヲ管理ス。

投票管理人ハ会長ノ指揮ニ従ヒ投票ヲ管理ス。

第五条 総長ノ選挙ハ選挙人ノ無記名投票ニ依リ之ヲ行フ。

第六条 選挙人総数ノ過半数ノ得票者ヲ以テ当選人トス。

一回ノ投票ニ依リ当選人ヲ得ザルトキハ二位迄ノ得票者ニ付キ再投票ヲ行フ。

第七条 総長選挙人会ニ於ケル決議ハ出席者ノ過半数ニ依ル。

付則

第八条 本規程ハ昭和二十一年五月十五日ヨリ之ヲ施行ス。

 すなわち、この規程では、選挙のたびごとに総数九十名の選挙人により組織される総長選挙人会で、三年任期の総長を選ぶ間接選挙制が採られている。それは単記無記名投票制であり、選挙人総数の過半数、すなわち四十六票以上の得票者を以て、総長とするものである。一方、総長の被選挙資格には何らの制限もないから、教員、職員を問わず、学内、学外を問わず、適当と思われる人物があれば、選挙人はその人に票を投ずることができる。こうして早稲田では、東京産業大学あるいは立命館のような学生参加を考慮しなかった反面、関西学院の選挙母体よりも幅広い基盤を採用したと言える。しかし、総長選挙という単一目的のために行われる間接選挙は学苑としては最初の経験であり、総長選挙規程第二条第二号ないし第六号に定められた総長選挙人を選出する各母体にあっては、全く戸惑いが見られなかったわけではない。一方において、苟も教育機関における選挙である以上、運動がましいことは一切行うべきでないと純理論を主張するピューリタンが存在するのと並んで、些かたりとも戦争協力の危惧の存する者と交わりを結んでいる限り、総長選挙人から排除しなければならないと囁きまわる隠密裡の選挙運動も展開された。

 このような混迷とも言うべき数週間を経た後、右の規程に従って、四ヵ月余り空白のままであった総長の席を埋めるため、第一回の総長選挙人会が招集されたのは、二十一年六月十日であった。この日午後一時半、期待と注目を一身に浴びて、総長選挙人会が図書館第一閲覧室で開かれた。投票に先立って、「現理事は、過去の責任上、たとえ開票の結果多くの票を得ても断じて受諾すべきでなく、これを辞退すべきである」と小汀利得評議員が発言し、会場は一時騒然となった。更には、候補者があらかじめ選定されていないのでは、誰に投票してよいか分らぬではないかといった不満も出て、紛糾したが、結局当初の一般投票により行うことになり、一旦休憩したあと、いよいよ投票に移った。開票結果は次の通りである。

 このように票が散っていて、過半数の得票者はいなかった。そこで上位二者について直ちに決選投票を行った結果、津田に五十九票、林に二十票と、津田に過半数が投じられ、ここに津田新総長が選出されたのである。津田は、第三巻一〇七四―一〇七五頁に既述した如く、筆禍事件をきっかけに昭和十五年一月学苑を去った学究で、経営手腕に対する期待からではなく、最高学府としての早稲田大学を象徴する大学者および高潔な人格者という評価から、多数の票が投じられたのであろう。『早稲田大学新聞』は六月十五日号において、「博士が〔数え〕七十四歳の老軀を提げて再び学園に帰へられる時こそ早稲田の森に自由の鐘が鳴り渡り、心のふるさとに灯がともされる時なのである」と、津田総長の誕生を熱烈に歓迎した。

 ところが、事態は意外な方向へ展開していく。岩手県平泉に疎開していた津田に対して、学苑は、六月十三日に日高只一、黒田善太郎、赤松保羅の三名を派遣し、総長就任の懇請の衝に当らせたが、頑として受け付けないのである。そこで学苑は再度交渉するべく人選を行い、その旨を津田に伝えた。

前略 電報只今拝見致しました。先日は日高理事、黒田監事、赤松教授の遠路御来訪を辱くしましたに対し勝手のことを申上げ恐縮に存じますが、私としてはそのやうに御返事申上げる外は無いのでありまして、この上更にどなた様がおいで下さいましても、やはり同じ御返事を申上げるのみでありますから、何卒私情御賢察、この度の儀は一切御ゆるしを願ひたいと存じます。維持員会の方々に御煩労をかけますのは恐縮の至と存じ電報で固く御辞退致す旨を申上げましたが、重ねてここに同じことをくりかえし申上げることに致しました。他に適当の候補者を御選定、一日も早く問題を解決せられるやう希望致します。私の如きは到底その任に堪へざるものでございます。 匆々敬具

六月十六日早朝 津田左右吉

早稲田大学御中

これは、学苑が送った電報に対して津田から速達便で届いた辞退状である。それでも、一縷の望みをかけて、十七日には小汀評議員、磯部愉一郎理事、吉村正政治経済学部教授の三名が平泉まで足を運んだが、津田の決意は揺るがなかった。更に二十二日には学生自治委員会も学生二名を派遣したにも拘らず、遂に首を縦に振らなかった。

 津田にとっては寝耳に水であったろうと思われる自身の総長選出について、実は、津田は東京帝国大学総長室に南原繁を訪ね、「自分はその任でないと思うがどうか」と相談した。南原は、第三巻一〇六五頁に記した如く、津田筆禍事件の直接契機となった東京帝国大学への出講懇請の中心人物で、無罪嘆願のための上申書署名運動も起こしてくれた、いわば恩人である。津田が持ちかけたこの相談に対して、南原は、「私も研究を続けられる方をお勧めし、博士の御意見と全く一致した」(『南原繁著作集』第九巻三七五―三七六頁)と述べている。津田は、総長受諾の懇請に対する固辞の理由を、二十一年七月一日付『早稲田大学新聞』に、次のように表明した。

第一に私は七十三歳の老齢であるし、総長といふ職につくためにはもつと健康でなければならないと思ふ。一学究者としての生活と総長としての生活とは理論的には両立する様に見へるが、実際には決してさう簡単には行かない。私としても学園を愛する気持にかはりはないが、今の学園の状態を改革してゆくことには肉体的にも技術的にも自信がない。むしろもつと適当な人がいくらでも有ると思ふ。第二に今私がやつてゐる仕事は自分の生涯をかけたものであり、一日本人として何等か御国につくすことが出来るとすれば、それは総長としてではなくむしろ一学究者としてであることを、私は自ら信じてゐる。最後に、私が総長を辞退するといふのは、一時の感情でもなく、学校に対する不信でもなく、全く純粋な学問的良心からである事を理解して欲しいとおもふ。

 実は、当選者辞退の懸念は、既に校規改正案起草委員会で論じられたのであり、だからこそ同委員会は、候補者銓衡案を具申したのである。津田の「学園を愛する気持」は、総長島田を頂点とする新体制確立後、十一月十二日、十四日、十六日の三日に亘り大隈講堂で開かれた特別講演会に結実した。津田は「学問の本質」「学問の立場から見た現時の思想界」「学生と学問」をテーマに滔々と熱弁を揮って、講堂を埋め尽くした学生を魅了し、学苑は津田に報いるに、戦後第一号の名誉教授贈呈を以てしたのである。なお、津田は、この特別講演会の速記に雌黄を加え、二十三年一月、『学問の本質と現代の思想』と題して岩波書店より上梓し、その印税を津田奨学資金として学苑に寄贈した。津田奨学金の対象者は、当初は東洋哲学または東洋史学を専攻する大学院生および助手であったが、大学院生の他に第一・第二文学部の三・四年生にまで拡大され、更に五十七年四月からは全学部の学生が対象となった。

 こうして総長選挙は振出しにもどってしまった。そこで六月下旬、原安三郎維持員の肝入りで、学内外の選挙人の主だった人々が集まり、善後策を講ずることになった。席上、会津八一の名が挙がった。しかし、予想される候補者の事前承諾を得ていなかったから津田の辞退というような事態が生じたのであるが、会津は新潟に在住していて、当時の交通事情では次の投票日までに連絡をとれる見込みは薄い。新潟まで行けたとしても、内諾を得られるとは誰も保証できない。遂に会津擁立も暗礁に乗り上げてしまった。このとき選挙人有志を動かしたのが、大浜の提案である。

この際、総長になにを期待するか、裏返していえば期待される総長像は、どんなものであるべきかについて、再検討の上認識を統一する必要があるように思う。津田先生にせよ、会津先生にせよ、早稲田大学の誇るべき碩学であり、たしかに最高学府としての名声を象徴する人としては申分がなく、この点においては何人も疑問をさしはさむ余地はないであろう。だが、大学者必ずしも名総長とは限らない。なぜなら、総長に負託された任務には、学徳だけではカバーできない俗務があり、しかもその比重は決して軽視できないからである。敗戦に伴う社会的の混乱と経済的窮乏の中で、大学の前面には、民主化の線に沿う諸改革、学制改革に伴う学校体系の切替えと整備、戦災校舎の復興等々多くの難問題が山積している。総長は、最高責任者としてこの難局打開の陣頭指揮にあたらなければならない。学徳と声望を重視しなければならないことはいうまでもないが、非常時の総長の場合は、手腕力量のほか体力も軽視することができない。老碩学を煩わすには、あまりに俗務に失する。そこで総長を象徴的の存在として推戴し、実務は若い者がこれにあたればよいとの説もあるが、それは極論すれば奥の院と番頭政治というものであり、非常時にこのような体制で臨むことが得策といえるかはなはだ疑問である。この際、英雄崇拝主義を捨て、次元を下げて学内の現職者の中から人を求め、その人を中心に組職の力をもって進む方針に頭を切替えてはどうであろうか。

(『総長十二年の歩み』 一一―一二頁)

そして大浜は、その一例として、商学部教授島田孝一の名を挙げた。

 第二回の総長選挙人会は六月二十九日に招集された。投じられた票は島田に四十五票、大浜に十六票、内藤に八票、会津に四票、その他に七票と割れ、島田は過半数に僅かに及ばない。そこで決選投票に移り、島田六十三票、大浜十七票で、ここに新総長が決定したのである。島田孝一は、学苑創立当時議員(現在の評議員)として名を連ねていた、雄弁を以て世に聞えた政界の雄、島田三郎の長男で、明治二十六年、東京に生れ、大正六年大学部商科を卒業、翌七年よりペンシルヴァニア大学に留学してマスター・オヴ・アーツを取得した後イギリス、フランス、ドイツに遊学し、十一年三月帰国するや講師に、翌年十月教授に嘱任された、交通経済学を専攻分野とする学究である。昭和十五年から二十年十月まで商学部教務主任を務めたが、学部長は経験していない。それが総長と決まったのだから、全くの異例と言ってよい。一部で声が高かった前回の次点者林癸未夫では、中野前総長代理の前歴からして、「新体制」の名が泣こうとの、吉村正などによる強力な運動が奏功して、林は就任の意のないことを非公式に表明した結果、ダーク・ホースが金的を射落したのだから、一番驚いたのは、島田孝一その人であったろう。島田は総長就任に当っての覚悟をこう述べている。

戦後の激動期に際して、微力短才な私が極めて重い地位につくことは、決して適当でないと考へて、就任に対しては甚だしく躊躇したのであるが、四囲の情勢は私の希望を容れず、遂に御受けするのを余儀なくするに至つた。こと玆に至つた以上は、及ばずながら全力を尽して正しいと信ずる道に沿つて邁進するのみと考へるが、私自身の力の足らざるために、我学園の発展に障碍を与へることのないやうに希ふのみである。殊に現在の如き社会的動揺期に於ては、何事も思ひのままに処理するのは容易ではなく、心ははやつても、目的を達するのは寔に難いのが実情である。然し私に協力して下さる理事諸君として、学園の内外を通じて新進気鋭の人材が立つて下さつたのは、私にとつて何よりも幸福なことであつて、これ等の諸君の献身的努力が結合して、意外に大きな収穫が期待し得られるであらうと確信して疑はないが、私は更にこの際凡そ我学園に関係ある教職員、学生、卒業生諸君の絶大なる御協力と御後援とを希ふのである (『早稲田とともに』 四九―五〇頁)

 総長就任式は、九月十七日、戸塚球場において盛大に行われた。

 かくして、五十二歳の島田総長により率いられる新体制が、いよいよ多難な前途に向って発足したのである。

三 新体制固まる

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 二十一年五月二十二日の臨時維持員会において、改正評議員会規程第二条第一号に定められた評議員三十五名が推挙されたのを皮切りに、学苑の組織再編が出発した。議決機関である維持員会の構成員選挙は、翌六月七日開催の評議員会で行われた。その結果維持員に当選した三十五名の顔触れを、得票の多い順に掲げる。なお、学内選出維持員のうち新人には○印を、再選者には△印を付しておく。

学内選出維持員)

学外選出維持員)

この中に前総長中野登美雄と前理事最長老の日高只一の名が見えないのは、学内選出維持員二十名のうち半数が新人により占められ、且つ従来の理事ならびに古参への投票数が著しく少数だったことと合せて、時代の変転を感じさせる。この投票結果は、実に、学苑に漲った革新的気風の現れであった。

 六月十五日には、新メンバーによる最初の維持員会が本部会議室で開かれた。この日、維持員会長に小汀利得を互選し、更に、新校規に基づく名誉総長に大隈信常を推挙した。大隈は健康が勝れず、翌二十二年一月十一日に没し、学苑は大学葬を以て報いた。その後、今日に至るまで、学苑は名誉総長を戴いていない。

 六月二十九日は新総長決定の日。越えて七月五日、臨時維持員会において、理事ならびに監事の選出が行われた。先ず七名の銓衡委員が維持員会長の指名を受けて組織され、その委員による銓衡の結果、島田総長の他に、赤松保羅、伊原貞敏、大浜信泉、反町茂作、上坂酉蔵吉村正の新理事が誕生した。新理事の平均年齢は五十二歳で、これを、旧理事の中野登美雄北沢新次郎内藤多仲日高只一林癸未夫堤秀夫、磯部愉一郎の平均年齢と比較すれば、八歳近く若返っており、民主化という課題を新理事に託した学苑の意気込みの程が察せられる。新理事中ただ一名学外から選ばれたのは反町茂作(明四四大商)で、反町は大東京火災海上保険株式会社社長として活躍中の現役の経営者であるが、かねてより学外の強力な実力者と見られていた超多忙の財界人原安三郎(明四二大商)が、自ら理事陣に参加できないため、原の懇請を受けて出馬を決意したと伝えられている。また監事には、維持員の互選により、反町と同じ会社の取締役で校友会の有力者黒田善太郎(明四三大商)と北海道きっての財界人である板谷宮吉(明四二大商)とが就任した。

 さて、総長の手となり足となって校務を掌理する常務理事には、総長の任命する上坂酉蔵、伊原貞敏、吉村正の三名が、七月十五日の定時維持員会で承認された。その職務分担は、上坂が文科系統および庶務関係、伊原が理工科系統および復興関係、吉村が企画および渉外関係で、校規第九条による総長職務代行者は上坂と定められた。昭和二十二年四月二十五日創刊の『早稲田大学彙報』は、「上坂理事の重厚、伊原理事の穏健、吉村理事の俊敏」と評し、このフレッシュ・コンビに大きな期待を寄せているが、同年六月二十七日には上坂が辞任し、学外より池原義見(大一四政)が迎えられてその後を襲った。なお、翌二十三年二月十二日には吉村が辞任し、五月十四日付で久保田明光が理事に就任している。

 こうした経過をたどって学苑再建の輿望を担うべき新体制が固まり、夏休みが明けた九月十七日、午前十時より戸塚球場で島田総長の就任式が盛大に挙行された。二十日付の『早稲田大学新聞』は次のように論評している。

校規改正といふ学園民主化の大きな陣痛の裡に、暗雲に針路を失なつた難船のやうに低迷してゐた学園も、やうやく新しい曙光を見出した。この学園当局の新陣容を最も意義づけるものとして考へられることは、第一は「若がへつた早稲田」といふこと、さらに学園の運営が旧勢力から脱皮して、そこに新しい積極的な活動が期待されるといふことである。島田新総長をはじめ、理事六氏がその経歴からいつても、学校行政に於て全く新しい人々であり、なかでも吉村理事の如き、年齢的〔四十六歳〕にも新進気鋭の教授であつて、少壮教授層のトツプを切つて就任したことは、停滞眠るが如き状態にあつた学園に清新潑剌とした空気を注入したものとして注目すべきである。第二にこの異例な旧幹部一掃によつて刷新された陣容は、あくまで成文にすぎない形式的な新校規を基礎づけたばかりでなく、実質的にも従来の所謂総長理事格といふ貫禄を信奉した閲歴、格式主義の旧観念を揚棄し、新抱負を持つた若い力を教育施策間に活かさうとする学園内外の民主主義的な精神の充分な反映であつたといふこと、さらに第三にこの民主主義的な大学の出発が我教育界今後の進路を指し示すであらうといふことである。

 先述の如く、校規改正案起草委員会の検討に委ねられた問題は多岐に亘っていて、その一部のみが校規、総長選挙規程、維持員会規程、評議員会規程として具体化したのであった。これはいわば枠組設定であり、その内容充実のためには、なお多くの改革が必要なのを知悉していたのは、まさしく校規改正案起草委員達であった。そこで委員会は、改正校規等を維持員会に答申した後も、校則、学風刷新、職制の三点について引続き検討を加え、基本姿勢をまとめて、学園民主化の徹底と、研究機能の強化と、事務能率の増進とを指導精神として、校則改正委員会および職制改正委員会を設けよとの建議書を維持員会に提出した。それらの委員会に検討を委託すべき主題は、校則については、

一、教授会ノ権限拡充並ニ付属学校ニ於ケル教授会制度ノ確立

イ、教授会ハ教務教則ニ関スル事項ヲ決議スルコト

ロ、教授会ハ教務教則ニ関スル予算ヲ審議スルコト

ハ、教授会ハ教員ノ進退其他ノ事項ニ付審議スルコト

ニ、専門部、高等師範部、高等学院及専門学校ニ教授会ヲ設置シ、之ニ学部教授会規程ヲ準用スルコト

ホ、前項ノ付属学校長ハ教授会ニ於テ選挙シ、総長之ヲ嘱任スルコト

へ、大学々部規定及付属学校規定ヲ再検討シ、所要ノ改正ヲ行フコト

二、学部長付属学校長会議ノ設置

イ、本会議ハ教務教則ニ関スル共同事項ヲ審議スルコト

ロ、本会議ハ学部長、専門部科長、高等師範部長、学院長、専門学校長、高等工学校長及工業学校長ヲ以テ構成スルコト

三、研究所制度ニ関スル改正

イ、研究所役員(所長及理事)ハ所員ノ選挙ニ依リ総長之ヲ嘱任スルコト

ロ、予算ニ人件費及研究費ヲ分離計上スルコト

四、主事会ノ設置

イ、主事会ハ大学事務規定ノ運営ニ関スル事項ヲ審議スルコト

ロ、主事会ハ副主事及技師補以上ノ職員ヲ以テ之ヲ構成スルコト

学風刷新については、

一、大隈精神ノ顕揚

イ、学ノ内外ニ大隈精神ヲ顕揚スベキ方途ヲ講ズルコト

ロ、大隈奨学財団ヲ設定スルコト

一、大隈奨学資金ヲ設クルコト

二、大隈研究資金ヲ設クルコト

三、大隈講座ヲ開設スルコト

ハ、大隈重信侯ノ事績ヲ研究スルコト

二、常設学術振興委員会ノ設置

イ、本委員会ハ学術ノ振興並ニ教育ノ刷新ニ関スル事項ヲ調査立案スルコト

ロ、本委員会ハ各学部、専門部各科、高等師範部及両高等学院ノ所属教員中ヨリ選出セラレタル各二名ノ委員ヲ以テ構成スルコト

ハ、本委員会ハ総長ニ直属シ、総長ヲ以テ委員長トスルコト

三、研究室ノ設置及拡充

イ、各学部及付属学校ニ夫々専用ノ研究室ヲ設置スルコト

ロ、大学予算ノ中ニ右研究室予算ヲ計上スルコト

四、授業担当期間及研究担当期間ノ分離設定

研究ノ成果ヲ挙グル為各教員ニ対シ研究担当期間ヲ設ケ、授業担当期間ハ之ヲ適宜按配シ得ルコト

五、俸給令ノ制定及公布

イ、教職員ニ対スル初任給並ニ定期昇給ニ関スル規定ヲ制定シ、且ツ之ヲ公布スルコト

ロ、教員ノ担任着任時間数ヲ短縮スルコト

ハ、教職員功労及年功加俸規定ヲ制定スルコト

六、教職員ノ賞罰

教職員ノ賞罰ヲ明ニシ職階、昇進並ニ俸給令ノ運用ニ之ヲ反映セシムルコト

七、厚生施設ノ整備拡充

イ、教職員ノ疾病ニ依ル長期欠勤者ニ対スル給与規定ヲ改正スルコト

ロ、其他ノ福利厚生施設ヲ整備拡充スルコト

そして職制については、

一、本部機構ノ改正

本部機構ノ刷新ヲ計ル為適当ナル改正ヲ施スコト

二、学生部ノ新設

本部ニ学生部ヲ新設シ、学生ニ対スル就職斡旋、厚生施設及指導ヲ強化スルコト

三、職員会ノ設置

イ、職員会ハ事務能率ノ増進ニ関スル事項ヲ研究審議スルコト

ロ、職員会ハ書記及技手以上ノ職員ヲ以テ之ヲ構成スルコト

と、実に多種多様である。

 これらの建議は五月十五日の維持員会で採択されたが、赤松、伊原、久保田、末高、時子山、中村弥三次、渡鶴一、吉田初雄の八名より成る校則改正委員会の設置が正式に決定されたのは、二ヵ月後の七月十五日であった。しかし、校規改正案起草委員会の校則に関する建議のうち一のニとホ、すなわち付属学校に教授会を置きその長を教授会が選出する件は、校則改正委員会の答申する予定の「関係規程ニ拘ハラズ」、この日に決定を見、九月十五日より施行することになった。久保田明光を委員長とする校則改正委員会は、八月から十数回の会合を重ねて練直しに取り組んだ。その結果、九月十六日の維持員会で可決された改正校則は、大学学部規程、早稲田高等学院規程、専門部規程、高等師範部規程、早稲田専門学校規程、早稲田高等工学校規程、早稲田工業学校規程、早稲田大学部科長会規程、早稲田大学主事会規程と、更に理事会が別個に作成した早稲田大学名誉教職員規程とから成る膨大なものである。それらを全部ここに転載するのは煩雑に過ぎるから、十月一日付の『早稲田大学新聞』により、その特長のみを左に摘記しておく。恐らく、当時の学生が新校則をどのように受けとめたかを理解する一助にもなるであろう。

一、教授会の権限が拡大されて、同会が研究・教務・校則に関する予算の審議権を持つやうになり、総長・評議員・学部長候補者の選挙に関して助教授も投票権を持つやうになつた。

二、専門部・高等師範部・学院・専門学校等の科長・校長等は公選によつてその候補者を選出する。

三、部科長会の確立――すなはち総長・理事・部科長・付属学校長・付属機関の長をもつて組織するものであるが、必要に応じて教授・教務主任・学生係主任又は各科主任も出席することが出来るやうになり、同会はつぎの事項を審議することになつた。

イ、研究及研究に関する規定方針 ロ、校則又は学則に関する共通事項 ハ、教務に関する事項 ニ、大学の諮問に関する事項 ホ、その他必要と認められる事項

等であり、その他特別功労ある者には名誉理事、名誉教授の名称を与へることになつたことと共に、民主的な線に副つて改革されたことが注目される。

 先ず民主化の徹底という観点から、新しい諸規程に基づいて各学部長、科長、校長、院長等の選挙が九月中旬から実施され、十月一日付で総長より嘱任された。その氏名は次頁の第三図に掲げておくが、ここにも新人の台頭が顕著である。特に専門部政治経済科長の時子山常三郎、専門学校長の安部民雄、第一高等学院長の渡鶴一は、まだ四十歳代の若さである。更に理工学部の如きは、各科十一の教務主任まで公選しているのが注目される。その他の付属機関についても、長はすべて公選制を採るべきであると考えられたのは、この時期の風潮のしからしめたものであり、結局後に至って任命制に復帰することになるのではあったが、二十二年一月十五日に制定された図書館規程、坪内博士記念演劇博物館規程、理工学研究所規程、鋳物研究所規程に基づき、一ヵ月後にはそれぞれの機関で長の選挙が行われた。当選者の顔触れは、これも第三図に掲げてある。なお、人文科学研究所規程は保留となり、その決定を見たのは更に一年半後の二十三年七月十五日であった。

 次に事務組織の変遷に目を移そう。八月十五日直前の本部機構は九五―九六頁に示しておいたが、この編成は、戦禍の深刻な諸影響を蒙った学苑が採った整理統合策であり、超非常時乗り切りのための臨時態勢であって、新体制推

第三図 早稲田大学組織図(昭和22年3月)

進のためには、当然再検討が試みられなければならなかった。そこで、校規改正案起草委員会の建議を受けた学苑当局は、事務能率増進を主眼に置いて本部機構を再検討し、その結果を二十一年九月十六日の維持員会に報告した。屋上屋を重ねる嫌いのあった部制を廃止したほか、人事課の廃止が目に付く。教員および主事以上の職員の新規採用ならびに解任は、翌二十二年三月一日に設置された人事委員会の審議に委ねられることになったが、同委員会は、常務理事伊原貞敏を委員長に、各理事、各学部長、および二名の維持員――会長小汀利得原安三郎――を構成員とする、理事会の諮問機関であった。また、従来の調度課および施設課は統合されて営繕課に生れ変り、その下部組織として調度係が組み込まれた。一方、新設されたのは、総長や理事の業務を円滑に進めるための秘書課と、学生の就職斡旋を担当する就職課と、学内諸規程、官公私立大学諸規程、諸大学付属学術研究所制度、目睫の間に迫った新学制に関する資料等を蒐集する調査課と、大学のみならず全国各地に開催する公開講座を管轄する教育普及課の四課、それに、GHQその他の外部機関との折衝に当るため伊地知純正を部長として二十年十二月に設置が決定された連絡部を改称した渉外部であった。こうして整った新体制を図示したのが第三図であり、括弧内はそれぞれの長である。

 二十二月十月、本部事務組織に更に改正の手が若干加えられた。新設されたのは資材課で、その業務は、工事用・教育用資材の購入・配給・保管ならびに事務用消耗品・備品の購入・配給・保管等である。従来の会計課は経理課と名称を変え、学生課は学生生活課と改められて、学生の風紀・保健・厚生・共済に関する事務や、学生の会に関する事務を管掌することになった。そして、この年も押し迫った十二月五日から翌年にかけて、学苑最初の試みとして、理事反町茂作委員長以下七人の手により、事務監察が実施された。すなわち、事務機能が十分に発揮されているか、経営上の充実発展を図るにはどこをどう手直しすべきか、換言すれば、事務運営の改善・合理化の途を研究し、事務能率増進の具体策を建てようというのである。恐らくその結果であろう、二月に部制が復活し、秘書課・庶務課・経理課・就職課を統轄するものとして総務部が、教務課・学生生活課・調査課・教育普及課を総理するものとして教務部が、営繕課の上に施設部が、それぞれ置かれ、従来の渉外部と合せて、四部九課制となった。

第四図 本部事務組織(昭和二十三年五月)

 新学期に入ると、いよいよ一年後に迫った新制大学の実施切替に備えると同時に、一層の効率化を図るために、各課の統廃合を促進した。上図は二十三年五月十日改正の旧制最後の本部機構の姿を図示したものである。すなわち、秘書課は秘書役と、庶務課は総務課と改称され、調査課と教育普及課はその任務を終えたものとして廃止された。新たに設けられたのは、施設部の下に置かれた臨時建設課と、総務部の下に置かれた資材課である。そして商学部地下室に工事中の印刷所を資材課の管轄下に置き、学内一般の印刷業務を遂行させることになった。こうして、新制大学への切替を迎えるのに必要な事務態勢は一応整備されたのである。

 校規改正案起草委員会のもう一つの建議である学風刷新は、大隈精神昻揚運動として具体化した。およそ人間は、危機的絶望状態に陥ると、自らの始原の姿に立ち返ろうとするものである。敗戦の屈辱、生きるための指針の喪失、いや増す窮乏生活は、いささかの容赦もなく学苑を襲った。学生に与える精神的拠り所はどこに求めたらよいのか。幸いにして学苑には大隈精神があり、建学の精神があり、早稲田精神がある。今こそそれを活用すべきであると考えられた。否、「学問の独立」「学問の自由」こそは、いつの世にあっても我が学苑を導き、我々を奮いたたせる校是なのである。その校是が戦時中に歪められてしまった事実は否めない。学苑が文部大臣に提出した「昭和十六年度事業報告」で、「本大学建学ノ本旨タル『模範国民ノ造就』ヲ以テ根本精神トシテ大東亜聖戦下ニ対処シ、適切ナル方策ヲ実施シ、学生ノ指導訓育ニ努メツツアリ」と報告したように、「模範国民ノ造就」の本来の意図は、当時の国際政情下で、国の戦争遂行政策に従属せしめられたのであった。それはまさしく、二十二年十月十五日に発足した教旨検討の委員会が削除を建議し、二十四年四月二十二日にその削除が決定した、旧教旨にあった「立憲帝国ノ忠良ナル臣民トシテ」という語句が、曲解された結果にほかならない。しかし、学苑が誇るべき本来の建学の精神、本来の校是は、焼け野原と化した日本の一隅に不死鳥の如く舞い上がり、その翼を拡げるであろう。

 学風刷新のテーマは、二十一年十二月五日に設置された企画委員会に委ねられた。企画委員会は総長直属の諮問機関で、各学部科から選ばれた十二名の委員で構成され、委員長には常務理事吉村正が就任した。同委員会は、大隈精神の昻揚、六・三・三・四制新学制、通信教育制度、夜学制度、入試制度の刷新、学術研究所制度、学生生活の実態などにつき数次に亘って審議し、翌年一月二十二日に四件の建議を総長に提出した。これらのうち、例えば入試制度の刷新は、春の入学試験において初めて知能検査を採用し、九月下旬にはそれを更に精緻にする目的で知能検査研究委員会を設置したことに、具体化している。

 大隈精神昻揚策は、大隈精神昻揚講演会の開催と、大隈重信を主題とする脚本の募集との二つの形をとって二十二年五月に具体化された。大隈講堂で開催された講演会の日程、演題、講演者は次の通りである。

 特に渡辺は、「大隈侯は国家の政治は常に世界の通則に従ふべしといふこと〔と〕、平和主義による文明国家の建設といふ〔こととの〕二大理想を想定した。これは今日日本が当面してゐる問題である。この意味で大隈侯の政治理念は今日なほ活々と生命を保つてゐるものである」(『早稲田大学彙報』昭和二十二年六月二十日号)と述べ、大隈重信の精神を早稲田精神として採り入れ、学びの星として高揚すべきことを、熱っぽく説いた。

 他方、脚本募集要綱は五月十九日の維持員会で決定を見た。

一、応募者資格 本大学学生

二、締切 六月末日(筋書のみ)

筋書の優秀なる者数名に脚本を書かせ、九月十日に最後の締切をなす。

三、賞金 一等 総長賞ならびに副賞三千円

選外佳作数編に薄謝を呈す。

四、審査員 河竹繁俊、坪内士行、中谷博、楠山正雄、印南高一

 寄せられた中から先ず四編の優秀作品が発表され、その四人の作者が脚本の競作に採り掛かった。その結果選ばれた入選作品と選外佳作は、次の通りである。入選作品に対し副賞として与えられる筈であった三千円が二千円に減じられているのは、選外佳作への副賞の金額を増額した結果であろう。この年、第二期より、文科系学部一年生の授業料が千百円から二千百円に値上げされたことを考慮に入れれば、その副賞の持つ意味は軽視すべきではなかろう。

 授賞式は十二月十三日、演劇博物館で行われ、入選者千代間は島田総長から賞品を授与された。入選脚本は十月中に学生の手で上演される予定であると、九月二十日付の『早稲田大学彙報』は伝えたが、実際には二十四年五月に開催された大隈記念祭の一環として、劇団白鳥、自由舞台、黎明座、パンの会、真鐘座、放送研究会、演劇研究会、舞台美術研究会の学生劇団出演に、劇壇の元老三田貞(上山草人、明三六予科中退)、加藤精一(明四二予科修了)等の運命座の特別出演が加わって、大隈講堂で上演された。三幕六場より構成されるこの劇は大好評を博し、夏休みには九州に公演旅行を敢行して地方校友会再建の一助となった。

 右に述べた大隈記念祭とは、次編第四章第二節で説述する如く、とかく学生に疎遠になりがちな大隈重信の業績とその建学の精神とを学生に普及させるための催しであり、五月六日から十三日にかけて盛大に開催されたものがその第一回である。これは講演会、音楽会、大隈銅像への花輪贈呈式、上述の演劇、大隈関係文書を中心とする展覧会、雄弁会主催の大隈杯争奪雄弁大会、映画などより成り、第二回からは主として新入生を対象に新学年開始期に行われることになった。

 大隈重信の事績を研究する企画は、この第一回大隈記念祭の開催に感激した令孫大隈信幸が学苑に寄贈した二千数百点もの書翰等の文書と、既に大隈重信逝去後大正十一年に寄贈されていた約六千点に上る官庁関係文書等の整理に端を発し、二十五年四月には渡辺幾治郎を主任とする大隈研究室が設置されて、実を結ぶことになるのであるが、これについては次編第五章第一節に譲る。

 校規改正案起草委員会が学内奨学金制度を設けるよう提言したのは、四三二頁に既述した如くである。委員会案では大隈奨学資金と名付けられる筈であったが、二十四年一月に発足した基金は早稲田大学奨学基金と称され、大学の補助金と寄附金とを基金とし、日本育英会の奨学金を貸与されていない学生を対象に、授業料相当額を当該年度限り(更新を妨げない)給与する奨学金で、最初の、すなわち二十三年度の恩恵に浴した奨学生は百四十四名であった。