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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十一章 キャンパスの復興・広報活動・出版部

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一 復興計画と臨時資金部

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 昭和二十年夏、焦土の上に放り出された街の人達は、雨露を凌ぐのみの仮小屋で細々と日々の営みを始めたが、敗戦により与えられたショックは決して小さくなかったにせよ、連日連夜の空襲の恐怖から解放されたことは何よりの喜びであったに違いない。こうした中で、罹災者の間に、再起の計画が立てられ、その実現に必要なエネルギーが甦ってくるのはまだ先のことであった。先ず、今日を生きねばならぬとの現実問題が、大きく、重く、人々の頭上にのしかかっていたからである。応召で軍務に就いた学生も敗戦により解除され、早い者はぽつぽつと学苑に姿を見せ始めた。学苑は、既述(三一六頁)の如く、この年の九月から十月にかけて授業再開に踏み切った。何となく授業らしい雰囲気を取り戻したのは秋も深まった頃であったが、やがて再起の活気が次第に学苑に漲り始めたのである。

 ところで、学苑が第一に配慮しなければならないのは、次々に復員してくる学生のために校舎を確保することである。それには、甚大な被害を蒙った校舎を復旧する傍ら、不足する校舎を補充しなければならなかった。一四八頁に述べた如く、戦時中軍に徴用されていた第一高等学院校舎は土台を残すだけで完全に焼失したので、これの再建が焦眉の急を要した。同じく全焼した専門部工科の学生を収容する校舎もまた必要である。灰燼に帰した理工学部実験室等も復旧しなければならない。しかし、終戦直後の我が国にあっては、物資は極度に不足し、仮に資金を調達できたとしても、校舎の新築は不可能に近かった。そこでやむを得ず、学苑は、不足したこれらの校舎を先ず学外の地に求めようとした。戦災を免れた建物を入手し、それを修理して当座の用に立てるのが、当時の事情としては最も手早い方法であったからである。昭和二十一年六月二十五日、学苑は文部省臨時教育施設部長宛に「戦災学校被害状況、復興計画及軍施設一時使用調ニ関スル件」という書類を提出したが、それによると、元東部第六十四部隊兵舎(千葉県印旛郡佐倉町所在)、元第一海軍技術廠施設(横須賀市外矢浜地区所在)、富士産業株式会社(旧中島飛行機株式会社)三鷹研究所(東京都北多摩郡三鷹町大沢所在)の三つが候補に上っている。

 元東部第六十四部隊兵舎はその殆どが木造建物で、部隊本部、兵舎、講堂、被服庫等、三十余棟、建坪三、九四一坪、延坪六、四二二坪、敷地面積は、兵舎敷地、練兵場、射撃場等合せて一八七、六七七坪のもので、二十年十月三日一時借用の申請を行い、二十一年一月二十九日許可されている。建物模様替申請は二十一年一月二十日に出され、同年二月二十八日許可となっている。これが「佐倉移転計画」であるが、その経緯に関しては二九六頁に略述したので、ここで繰り返すことは省略する。

 元第一海軍技術廠の施設は、研究場十一、付属工場十二をはじめとする、主として鉄筋コンクリート造の建物六十七から成っている。二十一年一月二十五日、第二復員省宛申請し、本書類が文部省に提出された六月二十五日の時点では未だ許可が降りていない。当該施設は当時連合軍管理下にあり、調査も不十分な上転用の具体的計画も立てられない状態にあった。大学としては理工学部および理工学研究所の実験実習設備の大部分を焼失したため、当時使用中の第二高等学院の建物でその一部を補充し、なお不足する分を本施設転用によって補い、これに関連した高等学院の移転もこの施設の一部を予定していたのであったが、理事会記録や維持員会決議録などには、本施設に関する計画を学苑が積極的に進行させたようには記述されていない。また、文部省に提出された書類にも、第二復員省に申請し交渉したにとどまり、将来の見通しに関しても不明とあり、本省その他との連絡も具体的にその処置を採っていない。従ってこの問題は、恐らく申請のみにとどまったものと思われる。

 富士産業株式会社三鷹研究所は、鉄筋コンクリート三階建、一部地階付(建坪八〇八坪、延坪二、五〇一坪)の事務所をはじめ、倉庫、診療所、仮本館等、合計十七棟の主として鉄筋の建物であり、建物の延坪九、一七九坪、敷地総坪三七、八五二坪のものである。二十一年五月四日GHQに申請し、本書類の提出された六月の時点では、近日中に許可があり次第商工省に転用許可申請を行う予定であった。専門部工科の学生数は、当時の全八科総計二千四百名に達し、学苑の中でも最大であったから、その収容施設は何としても必要であり、三鷹に専門部工科を移転させる予定で、理事会や維持員会で相当検討した模様である。しかるに、二十二年頃から新制大学への移行問題が起り、専門部工科についても再検討の必要が生じたので、三鷹への移転も一時中止となり、結果的には取止めとなった。

 ところで専門部工科のみに限らず、理工系の授業は、戦時中は殆ど学生不在の文科系の校舎を以て必要を充足してきたのであり、こうした転用は戦後なお続けられていた。しかし、これも漸次解消に向わねばならず、戦後の理工系の校舎不足が、全焼の第一高等学院の問題とともに、最優先に考えられたのはこうした理由によるのであった。

 この間に戦災復興に関する計画は着々と進められ、二十一年二月十二日の維持員会では「修理費八十万円予算外支出ノ件」を、二十一年九月十六日には「戦災復興工事費ニ関スル件理工学部実験室他二十二口金額約一百二十九万円」を認めているが、いずれにしても、戦災復興の全金額を賄うのは大問題であった。

 ところで二十一年二月十七日には、インフレーションの進行を阻止して、戦争により破綻を来した日本経済を立ち直らせるため、政府は「金融緊急措置令」を公布、旧円銀行券の使用を停止させ、以後は一切の金銭取引を新円により行うこととする一方、既存の旧円勘定の預貯金の引出しは、一家族につき月五百円に限定し、いわゆる「五百円生活」を強いることになったが、大学の再建に関しても、この事態は多難な前途を示唆する重大な出来事であった。

 昭和二十二年、それまで戦後復興の資金調達に当ってきた臨時資金部の一時廃止が決定された。というのは、この頃から俎上にのぼってきた新制大学への移行問題とからみあって、従来の募金方法では非力であり、爾後の計画遂行に対する所期の目的を達成し難くなってきたので、今後の一層膨大な資金獲得運動のために、これを発展的に改組する必要に迫られたからである。

 さてここで少し遡って、臨時資金部の発足から廃止までの経過に触れておこう。そもそもこの部は戦争末期、二十年三月二十日の維持員会で設置が議決された。戦局日々に非なりとはいえ、敗戦の悲劇が訪れようとは、この時点では予測し得なかった筈である。従って、この部が最初に設けられた時の規程第一条によると、大学の「研究及教育施設ノ新設、拡充並ニ田中前総長記念事業等」に要する資金調達を目的とし、あくまで戦時下の活動を考慮して設けられたものである。ところが、終戦後四ヵ月、十二月十五日に、大学の「研究及教育施設ノ新設、拡充戦災復興計画ノ遂行並ニ田中前総長記念事業等」と、前の規程の一部を書き改めて戦後復興資金調達の部として再発足したが、その規程の大部分は従前のものの準用であったため、戦後の急変した状況に十分対応し得る内容を持っていなかった。いずれにせよ敗戦直後の混乱した時代であり、早急に手がけなければならないことが多過ぎて、募金計画案まで再検討する遑もなく発足したというのが、当時の偽らざる実情であったようである。従って、資金調達の規模においても、はたまた、父兄、校友への呼掛け態勢においても、活動を十分果し得る内容を持ってはいなかったから、インフレの急激な進行の中で、二十四年に新制大学への移行を考慮しつつ、この資金を獲得する一方、焦眉の急を要する戦災からの復興実現のために、学苑の興廃を賭した一大事業に対する組織作りが、学苑に必須となってきた。その結果、臨時資金部が廃止され、早稲田大学復興会が誕生したのである。すなわち、臨時資金部は二十二年二月十五日の維持員会で一時廃止と議決されたが、これは、より拡大された復興会組成への発展的解消の一段階と言えるであろう。

二 早稲田大学復興会

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 早稲田大学復興会は、戦後における最初の大々的募金の画期的組織であり、将来の早稲田大学の存否も、一に、この会の運動の成否がその鍵を握っていたと言っても過言ではない。

 復興会の計画は、二十二年五月二十二日の理事会で寄附金募集の件として討議され、会長は総長とし、副会長その他役員の人選は、総長、常務理事、財務理事に一任された。また、寄附金募集の細部については、右役員と打合せの上最終決定を行うこととなった。同月二十九日には、募集金額二千万円、募集期間二年間、払込方法は一回および二回払いとし、会の組織、役員等については後日の検討に委ねられた。前にも述べたように、戦後のインフレにより財政破綻の危機に曝された日本経済は、預貯金を封鎖し、旧円から新円への切り換えによって立直りを図るという重大局面を迎えていたのであり、一般国民は自らの財産を自由に処理できない状態にあった。そのような時期に大学の復興資金に寄与する余裕が、果して誰に、またどれだけあったろうか。こうした諸般の事情を勘案し、在学生、父兄、校友の総動員を以て可能な限りの金額として算定したのが、二千万円という数字であった。しかし、学苑復興と新制大学への移行を考えた場合、必要とする資金は約一億円という、まさに破天荒な数字に達したのである。

 早稲田大学復興会は昭和二十二年七月結成された。同年九月二十日発行の『早稲田大学彙報』には、「興廃をかけて/早稲田大学復興会/基金募集開始さる」と題する次のような記事が掲載されている。

全校舎並に諸施設の三分の一、延坪にして九千坪、金額にして一億余円を灰燼にした本大学は、今回総長を会長とする早稲田大学復興会を結成し応急の復興計画を立案した。全国八万の校友並に一般社会の篤志家に広く檄を飛ばし、復興への協力を求めている。今その計画をみるに、先ず資金として応急必要とする経費二千万円を二ケ年間に亘り募集し、第一期募集として一千万円を目標として、其の成績及び其の他各般の事情を勘考して第二期第三期と順次計画を進める筈である。復興計画の大要は次の通りである。

商学部校舎改築・文学部校舎増築・理工学部校舎新築・同機械購入併に設備・第一高等学院新築・恩賜館・大隈会館改築並に新築其の他

此の度の復興資金募集は、本大学として、興廃をかけたもので、今当局は必死の努力を続け、校友諸氏並に一般識者への絶大の援助を熱望している。

 この復興会について、その副会長であり、大学の常務理事であった伊原貞敏は、「復興会の現状を父兄、校友諸賢に訴う」という一文を二十二年十二月二十日発行の『早稲田大学彙報』に載せ、二十二年七月末に発足を見たこの会が在学生、父兄、校友の三者一体となった大がかりな募金を行うことを次のように説明している。

募金の当初には封鎖預金の解除を申請する関係上、金額を二千万円として二ケ年間に完結するよう計画いたしました。しかし実際には焼失建物及びその内部設備の復興といふ消極的な面のみでなく、新制大学移行のための新施設として、各科に研究室、図書室を増設して学生の自由研究の便を計らなければならぬ積極的な面に要する経費も捻出しなければなりません。かう考えて参りますと大体約一億二千万円の巨額を要することになります。募金はさしあたり、一億円を目標としているのが実情であります。

校舎はバラツク建にしても坪一万円を越すと頭を痛めて居りましたが、幸にも敷地五万余坪で鉄筋コンクリート建の延一万坪の格安な売物がありまして、目下購入の折衝をいたして居ります。この建物が入手出来れば、教室、研究室其の他現に障害となつて居る隘路の大半は一挙にして解消されるので、ぜひとも此の実現につとめたいと努力をつづけて居ります。然しながらこの実現には今般の募金が、明年四月頃までに六千万円に達するか、又は他から一時融資を得るとしても、年々一千二百万円を五ケ年継続で確実に収納される計画を持たねばならない苦境にあります。この二途の何れを選ぶとしても、其の根元は今回の復興募金の成否に懸るのでありまして、父兄、校友諸氏の一層の御厚志に御願いする外、道がないのであります。

右の一文は、困難な情勢下、大学の苦慮する一面を披瀝する傍ら、まさに背水の陣とも言える大学の立場を父兄・校友に切々と訴えており、大学の並々ならぬ決意を汲み取ることができる。なお、「格安な売物」と述べられているのは、五二六頁に触れた、三鷹にある富士産業株式会社の鉄筋コンクリート造建物、延坪約一万坪がこれに該当し、その利用目的、またその後の経過は、既述した如くである。

 激しいインフレが進行し、しかも預金は封鎖されるという未だかつて経験のない逼迫した経済状態に直面しながらも、寄附金が復興会へ次々と寄せられたことは、九月二十日付『早稲田大学彙報』に発表された第一回芳名録(二十二年九月十日現在)の示す二百七口、四六六、〇〇四円七二銭を皮切りとするその後の実績がこれを物語っている。

 こうした事業の遂行には、大学と地方校友との密接な連絡に加えて、大学に対する理解と協力とが何よりも必要である。何分にも敗戦から僅か二年しか経過していず、この間、校友会活動の中心となるべき若い人々の多くは、南方から、あるいは大陸からの復員者として帰国を続けており、地方校友会の立直りも、十分な活気を呈するまでには至っていなかった。それでも大学は、連絡し得る限りの校友会を拠り所に、懸命な働きかけを行った。例えば、二十二年七月には京都校友会が開催され、総長および常務理事伊原その他が出席し、母校の現状を訴え復興会への協力を依頼した。この月、大阪校友会も大会を開いた。八月には北海道各地校友会が学苑より講師を迎えて夏季大学を開催した機会に、活発な活動を開始した。大垣校友会では帰省中の学生を交えて役員選挙その他を協議した。また福井校友会も再建を決定・協議のための会合を開いた。また、二十二年十月二日から二週間、常務理事伊原、教授中島正信、庶務課長丹尾磯之助は北九州ならびに山陽方面に出張し、大学復興と地方校友会の再建を促す努力が払われた。

 こうした大学側の積極的な活動と並行して、復興会、校友、在学生などによる運動の成果も見逃し得ない。二十二年八月二十日には、大牟田校友会ならびに在学生による演劇会が三井三池染料工業所大講堂で開催された。尾崎士郎作「人生劇場」を出し物の中心とするこの会は、一般市民の絶大な支援によって大成功を収め、純益金一万円が復興会に寄せられた。二十二年十月三日には、復興会と演劇博物館との共催による資金獲得のための人形浄瑠璃鑑賞会が大隈講堂で開催され、続いて十一月九日には、その第二回たる「ベニスの商人」が、前進座の出演を得て演劇博物館正面舞台で催された。

 「金融緊急措置令」による社会の経済状態も、二十二年の半ば頃に至り一応の平静さを取り戻したとはいえ、この時点では一般国民の生活が完全に安定したとはまだ言えない状態であったが、復興会の呼びかけに呼応して地方校友会の再建も計られた。戦前には、日本全国のみならず世界の各地に二百有余の校友会支部が散在していたが、二十三年一月までには、百二十九の校友会が復活し、残り全部も、二十三年中には再建されるまでの状態に立ち戻った。

第三十六表 早稲田大学復興会の都道府県別寄附金割当額(昭和23年2月)

(『早稲田大学彙報』昭和23年2月20日号)

 ところが、この年二月二十日発行の『早稲田大学彙報』には、常務理事池原義見が、復興会募金の目標を「二ケ年間に二千万円としてありますが、二年乃至三年間位に一億円を目指し校友、在学生の数などを基礎として一応各府県別に末記のような寄附金額の割当をしました」と記している。この一文に続いて発表された「寄附金額の割当」は第三十六表のようなものであり、これを以て、各府県に対する募金の、一応の目安とした。これは、戦後の甚だしいインフレ高進により断行せざるを得なかった、目標募金額の上方修正であった。

 右の復興会の活動により学苑の復旧も軌道に乗り、新制大学への歩みも促進されたが、一方学苑における校舎の復旧はどのように進行したか、その状況を一瞥しておこう。新制大学発足までに完成された第一高等学院校舎については、千葉県佐倉の地にこれを求めようとしたことは既述の如くであるが、その後の理事会記録等を見ると、種々検討の結果、佐倉案を棄て、旧戸山町グラウンドに再建することとなった。常務理事伊原は二十二年四月二十五日付『早稲田大学彙報』に「学園復旧の概況」と題する一文を載せ、当時の建築進行状況を、「第一学院の新校舎は元の第一学院グラウンドに建てる。第一期工事として目下建築中のものは二一八坪(六教室)で六月中に完成の予定である。第二期工事としては小平の久留米道場から四棟を移転せしめ、二四〇坪(六教室)の木造校舎を建てる。これも大体六月末に完成の予定である」と記している。かくて二十二年後半に入って、木造の第一高等学院校舎が戸山町に出現したが、伊原の直話によれば、この第一期建設には、いずれかの焼け残った工場の建物が充てられたとのことである。第二期建設では、小平の錬成道場の建物が移築され、バラックながら、早稲田大学復旧第一号の歴史的建物が完成した。当時の事情からすれば、学苑としては、再起を目指した精一杯のエネルギーの象徴であったと言えよう。この木造平屋建の校舎は、現文学部の高層建築棟(現三三号館)敷地にあったのである。学苑は、右の第一期、第二期の校舎建設に続き、陸軍軍医学校の建物を買い入れて、第一高等学院第三期建設の予定としていたが、これは実現に至らなかった。

 一方本部キャンパスには、日本瓦葺木造二階建、一部地階付の、理工学部大教室が建設された。総床面積一、一五七坪、建設時期は、前記第一高等学院に遅れること約一年、二十三年四月起工、同年十二月二十九日に完成した。場所は旧専門部工科木造校舎のあった位置で、現在の一五号、一六号館の敷地に跨って建てられ、普通教室十五、製図教室三、電気通信学科実験実習室等があった。

 二十年八月の敗戦から二十四年三月までの学苑の復旧状態を見ると、校舎再建に関しては既述の木造建築数件が数えられる外は、特に目立ったものはない。主たるものは、破損した校舎の修復である。鉄筋コンクリート校舎でも、随所に戦災の被害があり、これらを当面使用に堪えるだけに復旧する必要があった。中でも、煉瓦造や木造の多かった理工学部関係の建物が修理・復旧の対象に挙げられているのは、当面の必要上早急を要したからである。

三 校友会と『早稲田学報』の再刊

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 学苑と校友とを結ぶ機関誌『早稲田学報』は、戦時下にも月刊を継続していたが、昭和十七年五月号(第五六七号)には、「凡ゆる物資が制約されねばならぬ現時局下にありまして、本誌も当然用紙割当制限を受け、減頁の余儀なきに到りましたので、五月号から会報欄の写真と寄せ書を削除することに致しました」(三八頁)との編輯部の弁が掲載されている。この年、一月号は本文七十一頁、二月号は四十三頁、三月号は三十七頁、四月号は四十五頁と、既に減頁は開始していたのであり、毎号「戦地便り」を収録するなど戦時色を具現していたが、この号は本文六十一頁、以後、第六十回卒業証書授与式、学部入学式、総長その他の役員改選など校報に多くの紙幅を割いた十月号を別にすれば、いずれも五十頁をかなり下回るに至った。更に十八年に入ると、一月号(第五七五号)には、「本年に入り更に大幅の用紙制限を余儀なくせられ、今や物心一切あらゆる国家総力を挙げて聖業完遂に集中することを要請さるるに至り、玆にわが学報も、その編輯内容に画期的改革を断行し、今後会報、詞藻、校友消息等各欄を廃止することと致しました」との「謹告」が巻頭に掲げられ、「年頭に際し不抜の決意を新たにせん」および「学制改革と大学院問題」と題する田中総長執筆の二篇のほかは、「校報其他」、「停年教授送別会」、「戦地便り」のみにとどめられ、本文は僅かに二十一頁のみとなったが、四月までは辛うじて月刊を維持した。しかし、五月、六月と発行されず、七月号には、今後発行は年四回季刊と発表され、同年十月、翌十九年一月と季刊が続いた。しかし、この一月号(第五八一号)は六頁に亘り「昭和十九年度早稲田大学学生募集」の広告を掲載しているが、本文は僅かに十頁、先ず、

国家の運命を賭しつつある大東亜戦争は、あらゆる方面に亘つて転換を要請されたが、就中教育の全面的切替は、国家百年の大計なるが故に最も重視されねばならぬ。学問に対する観念と態度は一変した。これまで学問の中心をなしたものは、法文系統の抽象的知識であつたが、法文系教育機関の圧縮に伴ふ理工科方面への転換は、学問の主体を応用又は実学に置くようになつた。学問の利用厚生化は、戦力強増と云ふ当面の問題たるに止まらず、次の世代を指示する道標となるであらう。

に始まる千五百字に垂んとする「巻頭言」一頁に、田中総長の前年十月出陣学徒壮行会での訓辞「出陣学徒に与ふ」三頁が続き、余は「戦地便り」四頁に「校報」その他二頁がそのすべてであった。しかも、これが終戦前に刊行された『早稲田学報』の最後であり、以後四ヵ年半に及ぶ休刊を余儀なくされたのである。

 言うまでもなく、『早稲田学報』は校友会の機関誌である。しかし、『早稲田大学広報』が刊行されていない時代にあっては、校報が掲載される学苑の準機関誌でもあった。従って、それが休刊に追い込まれたことは、学苑にとって、重要行事や人事を周知せしめる手段の喪失を意味し、戦時にあって校友大会その他の活動を自粛せざるを得なかった校友会が更にまたその手足をもがれた以上の打撃を、学苑が与えられる結果となった。不幸にしてその時期は、田中総長の病中であり、学苑当局による対応は迅速を欠かざるを得なかったが、恐らく中野常務理事の胸中には着々と計画が練られていたのであろう、総長に就任した翌十月二十五日、『早稲田学園彙報』が発刊された。A4判四頁、その第一頁には、「発行に際して」と題して、左の如く記されている。

本年四月学徒勤労動員は通年制となり、一万に近きわが学徒は戦力増強の一翼を担ふところとなつたが、学園と学徒の緊密なる連絡は教育上一日も緩かにすべきにあらず、玆に学園の薫育陶冶の精神を明かにし、兼て学園の指示事項の徹底を期し、情報機関として『早稲田学園彙報』を随時発刊することとなつた。学徒諸君の援助を乞ふ次第である。

 すなわち、少数の例外を除き、大多数の学生がキャンパスを離れ、それぞれの職場に動員されている実状に鑑み、学生と学苑との連絡を密にするのがその主目的であったが、記事には『早稲田学報』を偲ばせるものがないわけでなく、「時局下資材欠乏に基づく発行部数制約のため、本輯読了後は出陣学徒に慰問として各自送られる様お願ひ致します」との「お願ひ」も発見される。「辞令」の中に、九月一日付で、第一高等学院教授工藤直太郎が教務部編輯事務に、第二高等学院講師陣内宜男が教務部編輯兼学生係に嘱任されているのにより明らかなように、本報は専らこの二人の手で作成されたものであった。なお、「後記」として、「毎月一回乃至二回発行の予定」ならびに「次輯は十一月中旬」と予告されているが、当時の為政者に顔の利いた中野総長を以てしても、月刊の実施に十分な量の用紙の入手は困難であったのか、第二号(各号に記されているのは発行日のみで、号数はないが、本稿では便宜上、号数を付した)は十二月二十五日、第三号は二十年二月十日と隔月刊を余儀なくされている。しかも、印刷所も空襲を受けたため、第四号は五月一日まで発刊できず、遅刊を取り戻そうとしてであろう、第五号は五月二十日と同月中に号を重ねたが、その数日後には学苑自身が空襲を受けて、『早稲田学園彙報』も半年余の短い歴史を閉じざるを得なかった。

 右の五号、いずれもA4判四頁、第一号より三号までは、三号刊行の直後に名誉教授に推された五十嵐力の筆に成ると見られる題簽が印刷されているが、四号からは、恐らく罹災によって凸版が失われたのであろう、何の風情もない明朝活字に改められている。五十嵐は第二号に、

待ちに待たれ生るる彙報よ要を得て 命に満ちて趣味ゆたかなれ

学園の汝はかがみよ脈絡よ 曇りあらすなとどこほらすな

金剛石なす小粒の中に大東亜の 大きいかしき姿見せなむ

と三首の歌を寄せて「更生の学園彙報を悦び迎へて」いる。なお第三号には、後年の名誉教授岩津資雄が「年頭所感」と題して、

脚胖解く間なくこのごろ明け暮れて 決戦下四たび年革る

三度目の正直今は決勝の 年たれ年たらしめざらめやも学徒兵に

兵隊は兵隊らしくありてこそ 学徒が誇肚にたたみて

言添ふる何のあらむや生き死にを 超えし思ひはただに遂げしめ

の四首を、また第五号には、日夏耿之介(文学部教授樋口国登)の、

単機つひに坪井大尉に仕止めらるると この怡びをわかつ客もがも

一億のこのいきどほりいかに言はむ 山はとべ海はあせよ空は火えつくせ

息衝きて風は上枝をあよびゆく 地にまろべるは小猫なるべし

古屋少将健三君に付ふる二首(平磯飛行隊)

酒ほがひ神のわく子らさくめけば 涙わくめるもののまぎれに

歓喜咲楽わく子ら国津たからぞと おもへるなべに小胸衝かるる

の五首を掲げている。その他、第一号には小沢恒一の「勤労動員査閲」二首、第三号には加藤紫舟(中庸、学徒錬成部講師)の俳句「特攻隊」三句も載せられている。他方、学生からは、第三号で、短歌、俳句、詩、小品文、手記を募集しているが、第五号では、応募作品が短歌九首、手記一篇に過ぎないのが嘆かれている。第五号に初めて設けられた「学徒文芸」欄に二名の学生により、それぞれ三首の短歌が発表されているのは、右の応募作品中より選ばれたものであろう。

 『早稲田学園彙報』の第一号には田中総長逝去に関する記事、第二号には中野総長の「就任の辞」が特に紙面の多くを占めているが、第三号に学部軍事教官陸軍大佐松下金雄が、「親愛なる母校出身学徒軍人諸君へ」を巻頭に執筆し、同じく第三号に教授岩片秀雄が「電波兵器」につき、また第五号に後年の総長、当時助教授の村井資長が「松根油」につき解説し、また第四号に工藤直太郎が「甘藷も兵器」と題して青木昆陽の「科学精神」を紹介し、第五号に戦後の総長島田孝一が「戦時に於ける交通事業の性格」を論じている以外は、最も多くの紙幅は、当然のことながら、勤労奉仕関係の記事に割かれている。その中で、「勤労学徒に与へて学園の近況を報ず」(第四号)は、昭和二十年度の入学に関する学苑当局の数少い公式報道として引用に値しよう。

両学院、専門部の新入学者数は此程発表されましたが、官立諸高校に於ては、文、理ともに志願者数は昨年のそれに半減し、平均して定員の四倍弱と報ぜられてをりますが、我学園を志すものは依然として定員の八、九倍に及んでをります。それは我学園の占むる教育的地位と内容の完備を物語るものに外ならないと同時に学園としてもその使命の重大なるを自覚して精進をつづけてをります。今年度の入試方法は昨年と異つて、内申を主として人物、智力の綜合考査に依り判定したものでありますが、いづれにしても、諸君の若き後輩として恥しからぬ優秀なる学徒が学園に進学したことを確言します。なほ又上級学校への進学を制限された工、商等の実業学校卒業生中極めて優秀なる学徒が多数学園を目ざして志願してきたことも本年度入試の特異な現象でせう。

なお、右に言及せられた倍率は、第三号に発表された次頁の数字とは若干矛盾している。すなわち、もしこれが正確であるとすれば、高等学院および専門部を合せた競争率は定員の七・七四倍となるからである。尤も、昭和二十年度の入学志願者数に関しては、三三九頁に見られるように、秋に授業再開後文部省に報告された数字があり、両者の間に若干の差が発見されることを指摘しておきたい。更にまた同じ第四号には、二十年度に限り補欠入学の特例が認められた旨の左の如き記事が見られる。

両学院補欠採用

四年制度中学校は本年度から卒業生を出すことになり、在来の五年卒業者を加へて卒業者は例年の約二倍に達したので、文部当局も卒業者の上級学校進学希望を出来るだけ満たすこととなり、本年度に限り、各高等専門学校等に一定数の補欠入学を認めることになつたが、今回の特別措置に依り本学園の補欠採用者は、

第一高等学院 文科 六〇名 理科 二五名

第二高等学院 文科 一六〇名

右の補欠入学者の数は定員に加えられるべきであるから、上掲の表の定員をこれに従って訂正すると、倍率は辛うじて七倍と低下し、水増しが少々度を越しているような感を抱かせられるのである。

第三十七表 第一・第二高等学院および専門部入学志願者数(昭和20年度)

(『早稲田学園彙報』昭和20年2月10日号)

 勤労奉仕関係の記事が多いとはいいながら、勤労学徒自身の筆になる体験記は、数えるほどしか見られない。中には後の政治経済学部教授小松雅雄が政治経済学部三年の学生として、「歓喜と苦難の錯綜」の経験を報告したものなどもあるが、中で最も具体的に学徒勤労の現実を伝えているのは、第三号に寄せた理工学部三年大宮五郎(二〇年機械工学科卒)の左の如き手記ではあるまいか。

早大学徒勤労報国隊員として○○工場に挺身して既に二箇月近くなる。自分の此の工場に於る仕事は工作機械の一たるフライス盤を使用して取付具、冶具、工具等を作る仕事である。自分は幸ひ機械科の学生であるので一通り操作法を教へて貰へば後は仕事に応じて自由に刃物も回転数も選択し得る様になつた。色々の機械や部品に就いての名称及其れに関する知識も学校に於ける講義や実習のお陰で楽に理解出来た。現在では大分仕事にも馴れて一通りの作業に従事する事が出来る様になつた。

今迄学校で坐り詰めの生活が実に朝七時二十五分から晩の五時二十分迄約十時間フライス盤の傍で立ち通しの生活に変つたので最初は辛かつた。時には職場を変へて貰はうかと思つた程だつた。フライス盤でも横フライス盤は図体が大きく血気の十八九から三十代位迄の男しか使へない仲々力の要る機械であつて、機械を上にあげる時などのハンドルを廻す力は旋盤等の比ではなかつた。腕などは一番使ふのに太くなるより細くなつてきたのには驚いた。又あばらの骨が著しく目立つ様になつた。此は単に肉体的疲労のみならず精神的疲労も加はつてゐたからであらう。此の苦しい時期を四日の休みで喰ひ止めたのは大出来だと思つてゐる。此の様な苦しみを受けるのは国民の一人として当り前だと思つて耐へてゆく事が出来た。唯健康の限度を越えぬ様四日も休んだ事は仕方がないが遺憾に思つてゐる。

自分が工場に入つて感ずる事は工員を働かす事は難しいものだといふことで、自分は十時間の勤務中は全力を尽して働くべきだと思つて働いた。然るに工員の中には十二時間も勤務してゐ乍ら、我々の仕事の半分は愚か三分の一もしないのがゐる。此の原因に就て自分は工業経営科の学生でもあるので、色々研究して将来に備へた。唯自分は長たる者は常に陣頭指揮をせねば部下はついて来ない事、又長たる者は闘志と責任を持ち、人間が出来てゐなければならぬ事を痛感した。又一つの工場が将来良くなるか悪くなるかはその工場の幼年工の教育如何に懸つてゐると云ふ事も感じた。此の伸び盛りの感受性の強い子供達を唯工場に野放しにして働かし、病気等になつてもそれを看てやるべき母代りの寮母もゐない彼等の生活に接した時は、大いなる憂ひを邦家の将来の為感じた。

自分はフライス盤に付いてから機械科の学生の立場から又大いに機械に就いて研究し、又此の機械の出来る作業も凡ゆる機会を捉へて研究してみた。最初は家に帰つてもぐつたりして直ぐ飯を食つて寝てしまつたが、段々と体の調子の良い時とか休みの日には、本を引張り出して読む様になり、フライス盤の大体は了解し大いに自信を得た。

此の○○工場は町工場が大きくなつた様なもので工業経営の立場より見る時は管理等はなつてゐない。此の様な工場に一旦配置された以上、自分は不平不満等は一切止めて自己の力を工場の中に生かす事により、例へば現在僅かな休み時間を利用して少年工に数学を教へたり、作品に就いて自分の機械の知識や数学の知識を工員の質問に応じて生かす事により国家に奉仕し、又朝の通勤時間を利用して専門の知識を磨いたりして将来にも備へたいと思つてゐる。要は確固たる時局認識を持つて皇国の興亡は懸かつて今日にあるの自覚を持つべきだと思つてゐる。

 五月二十五日の空襲は、『早稲田学園彙報』を短命に終らせる結果を生んだが、同時に六十年に近い歴史を持つ校友会をも麻痺させた。本部が祝融の災を受けたのみならず、地方支部の大部分もその機能を停止して全く形骸化し、終戦を迎えたのであった。

 先述の如く、戦争終結とともに、学苑の教学再建への努力は速やかに開始された。しかし極端な物質の欠乏は、その努力に対してしばしば冷水を注ぐことのあったのも否定できず、例えば、校友会の復興や、『早稲田学報』の復刊の如きも、短時日には実現できなかった。そこで島田孝一教授が公選による最初の総長として二十一年六月に選出されると、常務理事に選ばれた教授吉村正の創案により、本部機関として新設された部課の一つである教育普及課の手により、二十二年四月二十五日以降、A4判の月報『早稲田大学彙報』を刊行して、校友との連絡を図ることにした。主筆陣内宜男の名が「編輯兼印刷発行人」として記載されているのにより明らかなように、一は動員学徒との連絡、他は校友との連絡と、目標は異るとはいえ、『早稲田学園彙報』が二年弱の休刊後、『早稲田大学彙報』と名称を改めて復刊したとさえ見られるほど、少くとも形式的には、両者の間には類似が発見される。なお、既に二十一年十一月には当用漢字が発表されているにも拘らず、当用漢字には含まれていない「彙」を使用しているのは、今日の眼からは異様に見えようが、二十二年当時、当用漢字表は未だ必ずしも大きな権威を持っていなかったことを想起しなければならない。山本夏彦が記しているように、「明治時代は新聞に『彙報』という欄があった。昭和初年までの『早稲田文学』には巻末にこの彙報があった」(『ダメの人』一二四頁)のであり、「彙報」という誌名は学苑とは無縁ではない。ただし、山本が「これ以後彙報という文字を見ない」と記しているのは正しくなかったのである。

 さて、『早稲田大学彙報』の創刊号には、先ず「発刊に際して」と題して、

澎湃たる教育民主化の思潮のさなかに在つて、今、我が学園は斬新なる構想の下、教学再建への希望に燃えている。大学の使命が今日ほど重要な意義を持つチヤンスに遭遇したことは未だ日本の歴史上かつてその例をみない。本報は渺たる一小報ながら盛上る我が学園の教育意欲を投影し学園のよりよき在り方を希求せんがために生れ出たものである。創立以来、我が学園は校友諸賢の絶大なる御支援によつて今日の盛大を招来した。明日への大なる飛躍も亦更に諸賢の御協力に負うところ多大である。今般校友との連絡機関として「本報」を創刊するに際し、玆に我が親愛なる全国八万の校友諸賢に倍旧の御支援を衷心より乞う次第である。

と校友に呼びかけ、更に島田総長が「校友諸君に望む」と題して、第一頁の大半を費して、校友に訴えたのであった。その一部を次に引用しておこう。

官学偏重の傾向は明治時代この方、あまりに著しく我が国の社会に力強き根をはつてゐた。それは更に官私両教育機関の卒業生に対する社会的差別待遇を伴ふに至つたことは遺憾な極みである。勿論官学には官学としての特徴があることは私と雖もこれを率直に認めるのであるが、然し同時に私学の有する長所を社会は今一層深く認識するようになつてほしい。……経済の民主化と同様に教育の民主化もまた差別なき待遇を通じて始めて理想的状態に到達し得ると信ずるのである。

然し私学にはまた大きな悩みが随伴してゐる。物的並びに人的要素についての充実の欠如である。殊にこの度の戦争中、物的設備が受けた破壊の程度には極めて著しきものがある。尤もこの点は官公私の学園のいづれについても同様であつたであらうが、就中私学としてはこれを一日も早く復旧し復興するやう努めなければならない。出来得べくんばこの際に百年の大計を樹て、雄大な規模の上に置かれた理想的な学園の建設を目標として出発を開始することが最も肝要なことである。……勿論吾々としてはこれ等の総てを国庫の援助に期待することは不可能な状態にある。過去の我国の私学の発展は殆ど全部が社会に於ける特志家の財的援助によつたといつても過言ではないが、学園の復旧は著しき努力を要する事業であつて、決して容易ではないのであるから、今後吾々としてもこれがために全力を尽さなければならないのは当然である。……

私はこの機会に北米合衆国の一流の大学の殆ど全部が私学によつて占められてをり、而もその壮麗なる物的設備と充実せる人的構成とを以て青年学徒の教育を行いつつある実際を指摘したく思うのである。これを可能ならしめる最大の原因が特志家の富を散ずるに吝かでないことにあるのをみるにつけても、我が国の社会が一歩でもこれに近づいてくれる日の近く到来するのを念じてやまない。私は嘗て鬱蒼たるエルムにとりかこまれた校庭に、堂々とそびゆるハーヴアード大学のワイドナー記念図書館の階段に立つて、このようなことを考えたのは今から二十数年の昔のことであつたが、今もつてかくの如き考えをいだいてゐるのである。

然し先にもいうようにこれはまさしく至難の業の一つであつて、殊に現在並びに近い将来の我が国に於ては一層その感が深いのである。従つて場合によつては私学自らがある程度の資産を運営して、私学としての経済的自立性を維持するように努めることもたしかに一考を要する問題たるを失はないと思うが、いづれにしても我が学園出身の全国八万の校友諸君の絶大なる御後援を衷心から希望するものである。

 『早稲田大学彙報』は、初号は八頁であったが、今回は号数を付し、次号は第二号として同年五月二十日発行の四頁、以下、同年八月を除き定期的に毎月二十日刊行、翌二十三年一月号は第二巻第一号とし、同年七月の第二巻第七・八号まで、すべて四頁建が継続された。その短い一年三ヵ月、計十四号の歴史を通じて我々の胸を打つのは学苑再建のための必死の足どりであり、初号のみでも、「本大学の新機構」、「画期的なる学園民主化の展望」、「学園復旧の概況」、「再建後の学園の近況」と、関連する記事は多く、最後のものに至っては、第二、三、四号と引続いて掲載されている。しかも、再建を必要とするのは、戦時に冷遇された法文系学部のみではなく、優遇されていた理工学部もまた例外ではなかった。しかもそれには、精神的面を蔑ろにしては覚束ないことは、第三号の「時の言葉」で、理工学部長山本研一が左の如く説いていることによっても明らかであろう。

戦争中我々は非科学的な物的裏付けの無い空虚な精神主義の強圧には懲々したが、敗戦後の今日は其反動と物的窮乏の為に又余りに物質主義に走り過ぎて居る。国破れて八方塞りの現在、我国の又我学園の再建の為めには先づ気力を奮ひ起す事が第一である。

私は過去二十数年間に我同窓校友が実社会に於ても、人が尻込みする難局に、自ら進んで其実力以上の難しい仕事を引受けて其為めに苦しみもしたが、又人知れぬ非常な努力を為し、其の結果自信と実力を向上して大成した多くの実例を見聞して学校教育の根本は区々たる学問、技術の末節では無く、結局学園伝統の精神教育如何にありと痛感して居るものである。

いうまでも無く早稲田精神は真理と正義の為めに明治、大正を通して薩長の藩閥政権に抗した大隈老侯の不撓不屈、自由独立の精神を其源泉とし、不遇の地位にあるも明朗濶達、殊に難局に際しては率先窮行飽く迄積極的建設的な我学園伝統の大隈精神に通ずる。今こそ我等は伝統の大隈精神を凡ゆる面に発揮する秋である。一科学者一技術者に過ぎざる私が斯くの如き形而上の問題を取り上げた所以は大隈精神こそ我学園の唯一無二の原動力なりと考へた為である。

 すなわち、学苑の復興には物心両面の再建が必要であり、同じ号には、渡辺幾治郎が五月二十九日に挙行された大隈精神昻揚講演会において、

大隈侯は国家の政治は常に世界の通則に従ふべしといふこと、平和主義による文明国家の建設といふ二大理想を想定した。これは今日日本が当面してゐる問題である。この意味で大隈侯の政治理念は今日なほ活々と生命を保つてゐるものである。

と述べ、大隈の精神こそ早稲田精神であり、学苑復興の指針であらねばならぬと説いたことが報ぜられている。

 他方において、学生自治会の誕生や教職員学生協議会規程の制定など、戦前とは異った学苑の様相であるとか(第四号)、二十四年より実施せられるべき新制大学の輪郭(第二巻第三号)および基礎的理念(第二巻第六号)や右に関する設置委員の決定(第二巻第五号)や諸委員会(第二巻第六号)に関する記事など、制度的な変化とともに、各運動部の活動状況などもしばしば報ぜられているし、大山郁夫の帰国(第七号)および二十三年五月十九日の初講義(第二巻第六号)、東京大学に派遣されたオックスフォード大学教授エドマンド・ブランデンの学苑出講快諾(第二巻第二号)および十三回連続講義の第一回(二十三年六月八日。第二巻第六号)の記録なども見られる。更に、本報の性格上、早稲田大学復興会に関する記事が多くの紙面を占めているのは、異とするに足らないが、それに関しては既述したので、ここに再び取り上げる必要はないであろう。また、それと並行して進行した地方校友会の再建に関しても、同じく前節に譲るが、第二巻第三号に校友会常任幹事毛受信雄が「校友会再建について」と題して、

わが早稲田大学校友会は現在約八万の会員を擁し、戦前には日本全国は勿論世界各地に支部をもちその数二百有余に及ぶ盛況であつた。そして機関誌『早稲田学報』を毎月刊行、また年々会員名簿を編纂して、母校の発展と会員相互の親睦に寄与して来た。太平洋戦争のためにその活動は一時まひ状態に陥つたけれども、終戦後、戦災の傷手になやむ母校の復興のために立上つた全国校友の愛校心は期せずして校友会再建の要望となり、すでに地方支部の復活したもの一二九を越え、本年中には残り全部の復活を見る状勢にあり、学報の復刊、名簿の編纂も着々企てられている。わが学園は母校と校友を一体とし、わが学園の卒業生は全部校友会員となる建前である。校友会は言はば学園の半身であり、今日のような疾風怒濤時代には母校の発展は校友会の積極的活動にまたねばならないと思う。この際新卒業生諸君を新にわが会員としてお迎えすることは校友会の心からの喜びとする所である。

と記していることと、第二巻第五号には、復活第一回の校友大会が、会費五十円、同伴者一名ごとに三十円で開催されて「母校復興の魁」となったことの記事が、左の如く報ぜられていることは、ここに特記しておく必要があるであろう。

家族同伴の校友会春季大会を四月二十九日午後一時から大隈講堂で左記の通り開催した。

大会順序

一、開会の辞 丹尾常任幹事

一、会長挨拶 伊原会長代理

一、会務報告 毛受常任幹事

一、議事

一、余興 イ、詩朗読 加藤道子 ロ、武者小路実篤作「だるま」文芸協会 ハ、坪内先生作「役の行者」朗読文芸協会 二、坪内先生作「お夏狂乱」坂東彦三郎、中村福助

昭和十七年以来中絶していた校友大会でもあり、前日迄怪しまれていた空もすつかり回復した好天に朝から一家揃つて開場を待つ校友の数も少なからず、富山県からは評議員の山森利一氏、盛岡からは前幹事の野島寿平氏等が態々上京出席するという熱心振りで、定刻迄には出席者千四百名に達した。前記の如き順序で大会の幕は切つて落された。議事は磯部幹事を座長に推し、本会規則一部改正(維持費年百円に増額)の件は満場一致可決、引続いて待望の余興を開演、古典、新劇とり交へてのプログラムは好評嘖々。一方一階ベランダ、二階廊下に設けられた売店には旧友卓を囲んで談論風発、幕間に福引当選番号が発表されるや福引々替所は転手古舞、些少な賞品乍ら受取つて微笑ひとしきり、こうした和やかな雰囲気の中に五時半閉会した。

 『早稲田大学彙報』は第二巻第七・八号を以て終刊となるのであるが、その号の発行の時点では、まだその運命が決定していなかったことは、左の「読者にお願」がこの号まで掲載されていることによっても明らかであろう。

本誌大学彙報は校友諸賢との連絡機関として発行するものでありますが、最近講読希望者激増のため、校友会へ一年百円の維持費を御納入の方に限つて、お送りいたすことに決定いたしました。本年度維持費未納の方は何卒至急この際校友会に御払込み下さい。 早稲田大学彙報室

 現代仮名遣いも、二十一年十一月に内閣により告示されているが、本報は仮名遣いについては筆者の選択にまかせてある。しかし、号を追うに従って、新仮名遣いが旧仮名遣いを圧倒していくのが、はっきりと見てとれる。編集子も第二巻第一号の文化面でこの問題を特集しているが、「森の雀」の中で、二十二年の下半期のこれに関する激変を左の如くコメントしているのは、過渡期の実感として興味深い。

筆者は最初彙報創刊の頃は新旧かなずかいのどつちにしようかと迷つたほどであつたが、実地に日本経済新聞社で毎月の『彙報』の校正にあたつてみると、旧かなずかいえの愛着は一片の感傷にすぎぬことを発見した。新聞社の現実はトツトツと新かなずかいに移行しつつある。いつも初稿えの朱筆を握ると、旧かなずかいの原稿はまるで切られ与三の裸身のように痛々しく朱に染まる。去年の四月頃はさほどでもなかつたが、旧臘の校正の時など職工さんの頭や腕は完全に「新」の方に切り替えられていた。たつた半年のうちに驚くべき変化だ。ただ今日なお綜合雑誌には随筆、論文、小説など「旧」で綴られているものがあるが、これもやがて時が解決するだろう。

 都筑省吾が、

長き休み終へては来れば豊橋 橋の袂に売れりゆでぐり

炎え狂ふ焰が中にほとほとし 死にし命と言ふは尽さず

よろしき世豈来ざらめや語り続け 語り疲れて我の呟く

と詠んだ和歌を本報に寄せたのは、二十二年九月であったが、それから一年後には、本報は『早稲田学報』にその存在を譲ることとなった。二十二年十二月の編集「後記」には、「校友会機関誌『早稲田学報』の復刊までというので、本誌は産まれましたが、その復刊は当分見込がたちません」と記されていたところ、それより九ヵ月、復刊が実現し、『早稲田大学彙報』は廃刊されるに至ったのである。

 昭和二十三年九月二十日(奥付には二十五日)刊行の『早稲田学報』復刊第一号には、「復刊のことば」として、

戦争末期から本年まで四年間の断層を余儀なくされた本学報を復刊せしめたことは編輯子の喜びとするところである。

『早稲田学報』は本大学の発展と共に成長して、幾万校友との深い血のつながりを持つ。過去に於て学報の存在は種々の方面からその文化的使命を果してきている、だが、今日の、今後の「学報」の在り方は奈辺にあるのであろうか?少くとも「学」という文字を冠せる以上、学問と近縁のものでなくてはならない。文化のわけても学問の最高水準との接触面を持つことが必要であろう。早稲田大学が日本の文化史上、或は学問の発展史上に占める使命と自覚に裏づけられた内容を持つことこそ当面の任務であろう。本誌は校報であり、会報であるが、同時に、真の意味の文化誌でありたい。本誌には日本の文化の横断面がそのまま現われるように、世界の学問の方向が鳥瞰される方向に進みたい。また一面、複目的としては青史に輝く早稲田大学百年史の正確な史料でありたい。

編輯子の念願は以上であるが、このささやかなる紙幅の本誌を盛り立てて育成して頂くのは全国八万の校友諸氏である。復刊に際して切に学園内外諸先輩の御援助を乞う次第である。

と記されているが、題名の変更に伴い、発行所は早稲田大学彙報編輯室から早稲田大学校友会に移り、編輯印刷発行人陣内宜男は、発行兼印刷人丹尾磯之助・編輯者陣内宜男と分担が見られたものの、依然A4判で、第一号は八頁であるが第二号以下は四頁建、しかも第二号は第二巻第九号と数えられている(『早稲田大学彙報』の最終号が第二巻第七・八号であるから、『早稲田学報』復刊第一号は、『彙報』の号を追うならば第二巻第九号であり、復刊第二号は第二巻第一〇号の筈であるが、恐らく、第七・八号を単に第七号と看做した結果、こうした数え方になったものであろう)。従って、題名と発行所は変化したが、内容は殆ど『早稲田大学彙報』の継続であるのは、怪しむに足りなかった。

 勿論、若干の変化が見られるのは当然である。例えば『彙報』の「校友会だより」は、『学報』では「会報」となっている。そして、戦後第一回の春季校友大会に続き秋季校友大会が、会費百円(同伴者一名につき五十円)で開催されることが復刊第二号で予告されている。半年間に会費が倍額になったのに、当時のインフレの進行状況を窺うことができよう。その半日は復刊第三号に左の如く記録されている。

家族同伴の校友会秋季大会を十一月三日午後零時半から大隈講堂で左記の通り開催した。

大会順序

一、開会の辞 丹尾常任幹事

一、会長挨拶 島田校友会長

一、来賓挨拶 労働大臣 増田甲子七氏

一、同挨拶 逓信大臣 降旗徳弥氏

一、余興 イ、童謡舞踊 清水和歌社中 ロ、実演「女形になる迄」に続き舞踊「藤娘」志賀山流志賀山扇永 ハ、奇術 春日絹子 ニ、「大尉の娘」運命座出演

一、閉会の辞 丹尾常任幹事

昭和十七年以来中絶していた校友大会が今春久方振に開かれたのに続いて、今回が復興二回目の校友大会であつた。当日は新しい祭日文化の日として都内各所に種々の催しもののあつたのに加えて、朝来の時雨にもかかわらず、遠く熊谷から支部長長谷川堅治氏、常任幹事加藤謙二氏其他の熱心な団体来場者等もあつて余興開始頃には一階はほぼ満員となつた。殊に今回は、母校出身の増田労相、降旗逓相の来臨もあつて、為に会場は一段の光彩を放つた。会長の挨拶並に両相に対する祝辞に続いて、両大臣交々立つや就任祝賀の拍手は期せずして起りしばし鳴も止まなかつた。両大臣はいづれも早稲田精神の昂揚を強調して一同に深い感銘を与えた。

続く待望の余興は家族連れにはお誂向とあつて大好評。幕間を利用して折柄開催中の演劇博物館創立二十周年記念の現代劇綜合会をお揃いでのぞく者、或は一階ベランダ二階廊下に設けられた昔懐しいおでん、かん酒、ビールの売店に卓を囲んで恩師先輩と懐旧談に花を咲かせるもの、旧友と口角泡を飛ばせるもの、さては発表の福引当選番号に同伴家族と微笑し合つて些少の賞品をも悦ぶなど、満堂和やかな気分横溢。来会者の八十二パーセントが家族同伴者という賑やかさのうちに午後六時閉会した。

 地方各地の校友会支部大会の動静も、前年以来『彙報』の報ずるところであった。例えば大阪校友会は、二十二年七月五日、戦後最初の大会を開催、約二百名の出席を得、次いで十二月四日には大山郁夫歓迎会を兼ねた大会にこれまた二百余名が参集したが、二十三年に入っては五月二十二日に約百五十名参会の後を承けて、十一月六日の秋季校友会は記録的な盛会がこれまた復刊第三号に報ぜられている。すなわち、

大阪校友会は、十一月六日(土)午後一時から朝日会館に於て秋季家族校友会を催した。本大学からは総長代理伊原常務理事、演劇博物館長河竹繁俊教授、鈴木〔孝助〕復興会主事が特に出席した。会は司会者の挨拶についで、伊原常務理事挨拶をなし、母校の現状を語り、ついで河竹教授は「演劇と観客」と題する講演を行い後、左記のような余興に約二千名の来会者が同窓の歓びに打ち興じた。

余興、朝日ニュース、早明戦決戦ニユース、映画「安城家の舞踏会」、歌謡曲、漫才、西村楽天の漫談

今回の秋季大会は大阪校友会として稀にみる盛況であつたが、この成功は、校友会を広く開放し在学生の父兄に呼びかけたことである。これは大阪校友会のみならず、全国百数十の校友会支部大会の今後の在り方に大いに示唆を与えるものであらう。当日は感激の父兄有志の方々から即座に八万七千円の復興会寄附を頂き学園当局は大いに感謝している。

 その他各地校友会の活動は、毎号の『学報』を賑わしているが、その一々の紹介はここでは省略に付し、二十四年一月の復刊第五号から、校友会常任幹事である丹尾磯之助総務課長の「再建途上の校友会」と題する一文を引用するのにとどめよう。

曾て私は、或人から「早稲田出身者がお互い兄弟のように仲のよいのを見ると羨ましく思いますね、殊に年令の随分違う人でも非常に親しくして居られることは他の学校卒業者にあまり見られないことです、私は早稲田の校友の仲のよいのに感心して自分の息子を早稲田へ入れたいと思うようになりましたよ」と言われたことがあります。この人は某官立大学出身の相当な社会的地位にある人でした。私共がこれに似たような言葉を聞くことは屢々あります。まことにわが校友が年令職業地位を超越して親睦の厚く、また母校愛に燃えていることは創立者大隈老侯時代から高田、田中両総長を経て流れて来ている早稲田の一大伝統であり特徴であると思います。

斯く人も羨み自らも誇つていた私達の校友会も戦争の影響を蒙つて一時潰滅に近い状態になりましたが、社会情勢の安定立直りと共に、熱心な校友の努力によつて、一昨年春頃から各地支部が再建し始め、その機運は全国に及んで、既に昨年内に三十二府県支部が再建され、残りの処も恐らく今年内には復活再建されるものと思われるのみならず、終戦後になつて従来なかつた処に支部会が新設された処も数ケ所ありますので、洵に力強く思う次第であります。

支部再建の状態は以上の通りでありますが、会として目下第一の悩みは、会員名簿の整理であります。戦前会員の住所職業等の判明していた率は八割以上でありましたが現在は漸く五割にも達しないのであります。随つて会費納入者は昨年末に於て全会員の一割程度でありまして戦前の七割以上の時もあつた時代と比べて隔世の感があります。

会としては戦災後仮の事務所に於て極めて手不足の職員を以て鋭意会務の整理充実に努力し、昨年九月から学報もどうにか復刊しましたが、追々名簿の発行を初め、新しい有意義な仕事を実行したいと考えて居ります。殊に多年懸案の「校友会館」もなるべく早く建設して、事務所、集会室、地方校友のための宿泊設備等を持ちたいと痛切に思います。校友各位の協力援助によつて母校が日に月に復興の新威容を具備しつつあることは力強い限りでありますが、同時に校友会の復興案に新発展のために一段の御協力御支援下さることを年頭にあたりまして幹事の一員として切に御願いいたします。

 同じ号の巻頭に島田総長は、「年頭の辞」と題して、新制大学設立の準備が着々と進行しつつある状況を左の如く述べているが、二十四年四月に至るまでの『早稲田学報』に報ぜられた主要学内記事は、専ら新制大学に関するものであったと言っても過言ではなく、学苑は総力を挙げてこの新しい使命に邁進していたのであった。

本年は我が早稲田大学のみならず、多くの大学、専門学校が新制大学に転換する我が国教育史上意義深い年である。即ち戦後我が国の大学は、昨年新制大学を設置した少数の学校を除いて、他の多くのものは本年迄旧学制の下に新しい精神を盛つて教育を遂行して来たのであるが、今春を期して新学制を採用し、全くその面目を一新して真に正しい教育の在り方に徹し、大学の使命を全うせんとするに至つたのである。而してこの変革は昭和二十六年度に於て設置される新学制による大学院の発足に至つて完成するのである。

目下今春を期して新制大学を設置しようとしている全国二百余の学校は、何れもよりよい大学を設立しようとして大いなる努力を傾けている。私は政府の大学設置委員として新制大学設置のことに参画し、委員会を通じ或は又分担した大学予定校を実地に視察して、当事者の非常なる努力をつぶさに見聞している。我が早稲田大学に於ては、学内に設置した新制大学設置準備の為の各種委員会関係者を初め、一般教職員、学生、先輩校友、何れも真に我国第一流の模範的新制大学の設立を期して非常な熱意と努力とを傾倒している。私はこの大いなる努力は、必ずや我が学園の永い光輝ある伝統を、更に将来に愈々栄あるものとすることを確信して疑わないものである。

惟うに大学の良否は、その持つ教員組織と研究設備、教育施設による。我が早稲田大学の新制大学設置準備に当つても、第一に重要な問題として努力を傾けたのは教員組織の充実である。幸にして我大学は従来から優秀な教授陣を擁していたのであつて、新制大学設置に当つても我が国第一流の大学として相応しい陣容を整え得たものと考えている。今後に於ては、更に優秀教員の育成、招聘に努め一層その充実を期するつもりである。第二は設備の充実、強化である。大学は戦災による被害復旧の途上にあると共に、新制大学創設には旧制学部とまた自ら異つた諸設備を必要とする。学園では一昨年以来戦災による被害の復興と新制大学設置を目標に、先輩校友、学生父兄各位の芳情に訴えて資金の募集に努め、或は又政府及び金融機関からの融資に努力している。これ等の成果は刻下の経済情勢に煩わされて、極めて困難を感じつつあるが、幸に新制大学設置に当面必要とする研究室、学部図書室、教室等の新設、拡充工事は目下着々進捗しつつあるのであつて、この機会に寄附者各位に深く謝意を表する次第である。新制大学の運営に万全を期するならば、今後引続いて設備の充実、強化を計らなければならないのであつて、大学当事者の努力と共に、大方の御支援を要するのである。

斯くして新制大学設置の準備は成り、将に発足を目睫の間にひかえている。制度の創設はその全き運用をもつて完成する。本年は従来設置の準備に傾けて来た熱意と努力を更に発足以後の運用に持続して、新制大学の成果を発揮しなければならない年である。殊に我が国の再興に教育の持つ役割の大いなることを思えば一層この感を深くする。大学に於ては有能な学者の研究と相互の批判とによつて真理が探求され、学術の進歩が実現される。又教授と学生との正しい協力的な学問的交渉によつて高い知性を持つた有能な社会人を育成する。斯る大学の役割は何時の時代に於ても社会に大きな重要性を持つものであるが、敗戦の窮乏の中から再建せんとしつつある我が国の現状に於ては、その重要性は更に倍加されるものと考える。学園関係者は新制大学の将に発足せんとするこの年頭に当り、一層の熱意と努力とを傾倒して我が学園将来の発展に微力を致す考えである。校友諸氏のなお一層の御協力と御後援を衷心より冀う次第である。

 復刊『早稲田学報』は、二十四年一月発刊の第五号で八頁に増大されたが、第六、第七号が四頁、第八号が八頁、第九、一〇両号が四頁に戻った後、第一一号以後は用紙事情の好転を反映して八頁を継続し、二十四年八月を除き、二十五年三月まで、A4判によって計十八号を刊行し、二十五年四月、待望の冊子型に装いを改めることになるのであるが、それらの変遷は筆硯を新にして後続の編で説述することにしよう。

四 出版部の命運

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 日露戦争によって経営困難に陥った大学出版部に対し、鳩山校長と天野為之の廃止論に抗して、当時の出版部長高田早苗が、名称は依然として存続するけれども、経営は全く大学より分離した匿名組合を設立してこれを継承するとの英断を下し、予約出版による叢書の刊行により苦境を脱出、大正七年には経営を公開して世人が疑惑を挿む余地をなからしめるため株式会社に移行、部長高田、主幹市島謙吉その他の主脳部の施策宜しきを得て、業績きわめて好調、大正末期より昭和初期にかけて黄金時代を現出、時には黒字膨張の抑制に腐心するまでに至り、大学に対してのみならず、教職員や学生に対してもしばしば寄附を行って、学苑の名声高揚に貢献するところ多大であったが、好況に慣れて放漫に堕する嫌いなしとは言い得ない経営は昭和初頭の大不況期の乗り切りには脆弱の憾みを否定できず、赤字決算が続き、昭和八年および十年の二回に亘る減資のやむなきに至り、漸く同十一年度より辛うじて復配の実現を見たが、我が国の戦争突入に伴い、経済統制は強化され、用紙割当制の実施は事業の縮小をもたらし、経費節減により配当の維持に汲々とする窮境に呻吟するに至った経緯は、本書第二巻および第三巻に既述した如くである。

 尤も早稲田大学出版部は、既に昭和十八年初頭に、出版界の整理統合の対象に加えられ、存立の基礎まで脅かされていたのであった。当時の出版部社員、後年の教育学部教授池田美代二は、その間の事情を次のように語っている。

出版界は一九四三年頃から統制が強化され、印刷用紙の統制は勿論のこと、出版界の整理統合が日程にのぼり、同年三月だったと思いますが日本出版文化協会が日本出版会という統制団体にかわり、早稲田大学出版部は黒字であった中学講義録のみの出版会社となり、その他の書籍の出版や大学講義録(政治経済、法律、文学の三種)の出版を他の出版会社と合併して行うか、中止するか、どちらかにせよと、出版会から申し渡されるところまで追いこまれておりました。私はこの出版部の事情を知り、出版部の東清重専務理事に、早稲田大学出版部の名前がなくなるのは困ります、政治経済学部の中野登美雄教授が日本出版会の評議員の由ですから、中野先生に、早稲田大学出版部が現状のまま残るようお願いして下さいと申し出ましたところ、それでは君が中野先生のところへ行ってくれと言われましたので、早速中野先生の巣鴨のお邸にとんで行って、早稲田大学出版部が危機状態にあることを訴え、早稲田大学出版部が存続するようお骨折り下さいと嘆願いたしました。その結果、中野先生のお骨折で、早稲田大学出版部はどことも合併されず存続することになりました。

(『早稲田大学史記要』昭和五十七年九月発行第一五巻 二三四―二三五頁)

池田はまた、出版部に対する用紙統制の実際についても触れているので、それもついでに左に引用しておこう。

戦時中の印刷用紙の配給統制は中々厳しく、早稲田大学出版部関係で見ますと、煙山専太郎教授著『世界大勢史』は、予約の申し込みが二万部近くありましたのに、日本出版会によって許可された用紙の配給は二千部分でした。また、中野登美雄教授著『国防国家論』は予約注文を取らずに日本出版会によって許可された用紙の配給は一万部分でしたが、印刷が終り、製本中に空襲にあい、本郷の六義園の近くの印刷会社で全部焼失しました。さらに、煙山専太郎教授著『ロシヤ史概説』は、原稿は優にA五判三百頁の本になると思われる先生ご苦心のものでしたのに、日本出版会で許可された用紙の配給はゼロで、戦時中は印刷発行できませんでした。戦後、先生のご窮状を少しでも救いたいと思い、先生に『ロシヤ史概説』の原稿のことをお尋ねいたしましたら、五月二十五日夜の空襲で恩賜館内の先生の研究室と運命を共にしたとのことでした。

(同誌同巻 二三五頁)

 昭和十九年から終戦に至るまでの出版部は、講義録の出版がその主要活動であったが、その面でも、第四十八回事業報告書(自昭和十八年十二月一日至昭和十九年五月三十一日)は、「講義録ニ付テ見ルニ、入学志願者ハ依然トシテ多キモ発行部数ヲ制限セラルルタメ業績芳シカラザルモ、経費ノ節約ニ努メテ若干ノ利益ヲ挙グルコトヲ得タリ」と記し、第四十九回事業報告書(自昭和十九年六月一日至昭和十九年十一月三十日)は、「講義録ニ付テ見ルニ、生産原価ハ昻騰セルモ学費ヲ継続ノ中途ニ於テ引上ゲ又ハ減頁等ヲナシ能ハザルヲ以テ業績香シカラザルモ、極度ニ経費ノ節約ニ努メテ若干ノ利益ヲ挙グルコトヲ得タリ」と述べているが、第五十回事業報告書(自昭和十九年十二月一日

至昭和二十年五月三十一日)に至っては、「印刷能力ノ極端ナル低下ノ為メ印刷ノ遅延ト醜翼ノ空襲ノタメ印刷所ニ於ケル罹災等ノ原因ニヨリ、今期ハ講義録ノ刊行僅少ニシテ、四〇、四一、四二回女学講義、六二、六三回商業講義、八〇回政治講義、七一、七二回文学講義ヲ刊行シタルノミナレバ、業績芳シカラズ」と、需要の多い中学講義の刊行まで不可能であった事実さえ認めざるを得なくなっている。

 また、中学、商業、女学講義録の科外読本として頒布されていた『新天地』が十七年五月から独立の青年雑誌として発売され、幸いに好評を博したが、新雑誌の寿命は二年に満たず、「図書部門存続ノ必要上自家統合ヲナスタメ廃刊」のやむなきに至った旨第四十八回事業報告書に記載されている。

 他方、書籍に関しては、ごく少数の重版書以外に、この間に刊行されたのは、前述の煙山専太郎の『世界大勢史』(十九年九月刊)のみであった。本書は概説書であるが、坊間往々にして見受けられる類書の受け売りとは全く異って、広い視野の堅持を信条とした煙山生涯の蓄積が小著に結晶して読者に感動を与え、名著と称しても過言ではない。

 さて、二十年五月二十五―二十六日の空襲に際し、出版部は甚だ幸運にも祝融の災を免れた。しかし、出版部の建物は無事であったけれども、出版部の二階は、同夜自宅が罹災した東清重専務理事一家の避難所となるなど、出版部の機能は麻痺への一途を辿らざるを得なかった。減収に苦しみながらも、十九年五月決算では六、〇四五・四四円、同十一月決算では六、〇二八・二三円、二十年五月決算では四、四二七・六八円の黒字を計上、それぞれ、七分、七分、五分の配当を実施し得たのであったが、二十年十一月決算では、一応二、〇三九・〇二円の利益金は計上されたものの、無配を余儀なくされたのは怪しむに足りないのである。

 先述の如く、学苑キャンパスでは、その三二パーセントに当る建物の戦災による被害があったにも拘らず、九月中旬より授業の再開を命ずる文部省の通牒に従って、曲りなりにも「平常ノ教科教授ニ復原」の実施が進行したが、出版部の業務復旧がそれと歩調を合せるのは到底不可能であり、その実現までには相当の日時を必要とした。すなわち第五十一回事業報告書(自昭和二十年六月一日至昭和二十年十一月三十日)には「空襲ノ激化ト印刷所ノ罹災ノタメ講義録及書籍ノ発行不可能トナリ、全ク開店休業状態ニ陥入」った由記されているが、第五十二回事業報告書(自昭和 二十年十二月一日至昭和二十一年五月三十一日)にあっても「ポツダム宣言ノ全面的受諾ニ伴ヒ我国ノ政治、経済、文化ニ一大転換ヲ求メツツアルヲ以テ、発行中ノ講義録モ其儘刊行シ得ザルヲ以テ中途ニ於テ刊行ヲ打切リ一大刷新ヲ加ヘテ刊行スルコトトシ、単行本ニ於テモ企画ヲ変更スルノ必要アルヲ以テ今期ハ其準備ニ終始シ、講義録及ビ単行本ノ発行ナ」しと認めざるを得ず、漸く第五十三回事業報告書(自昭和二十一年六月一日至昭和二十一年十一月三十日)に及んで、「今期ハ業績ハ良好ナリ」と誇り得るに至ったのであった。

 それならば、終戦後約一年にして、出版部はどのようにしてその活動を再開したのであろうか。右の第五十三回事業報告書は次の如く説明している。

講義録ニ於テハ予テ依頼セシ原稿ノ一部ガ漸ニシテ出来セシヲ以テ印刷所ヲ督励セシ結果、八月ニ中学講義及ビ女学講義ノ一号ヲ刊行スルコトヲ得ルヲ以テ校外生ヲ募集セシ処、勤労青少年ノ向学心ハ旺盛ニシテ忽ニシテ募集予定人員ニ達セリ。

用紙事情ニシテ良好ナランカ、収容人員ヲ制限スルコトナク勤労青少年ノ独学ノ希望ヲ満シ得ルモ、如何セン用紙ノ割当量ガ依然トシテ僅少ナリシタメ収容人員ヲ制限セザルヲ得ザルハ誠ニ遺憾ノ極ミナルモ、国内ノ用紙事情ヨリ観ル時ハ亦已ムヲ得ザル次第ナリ。

単行本ニ於テハ植田〔清次〕教授ノ現代西洋哲学、桑木〔厳翼〕博士ノ哲学要義及ビ西洋哲学史概説其他三点ヲ刊行セシモ、何レモ良好ナル売行ヲ見テ業績佳好ナリ。

 以後半期ごとの決算についての報告を見ると、二十二年五月決算では「業績ハ大シテ良好ナラズ」、同年十一月決算では「大体ニ於テ良好ナリ」、二十三年五月決算では「書籍ニ於テハ良好ナリシモ講義録ニ於テハ不良ナリ」、二十三年十一月決算では「大シテ香シカラズ」、二十四年五月決算では「良好ナル業績ヲ挙ゲルコトヲ得タリ」と、一進一退が記録されている。すなわち、各期の利益金は、二十一年五月決算の八七、〇七五・五八円の欠損が二十一年十一月決算では九〇、八六四・一五円の黒字に転じ、以後半年ごとに、一三、六一四・七七円、一一一、八八三・一〇円、六一、〇二三・一二円、一三八、七五三・〇八円、二三二、七一四・一六円と一応黒字が報ぜられ、配当も、二十一年十一月に五パーセント、二十二年五月より二十三年十一月まで八パーセント、二十四年五月には一〇パーセントと上昇している。その上、二十二年には学苑の復興会に対して寄附金の支出も行われている。また、事業報告書によれば、二十年十一月末に最低十五名まで縮小された従業員も、次第に増加して三年半後には二十八名に増加している。しかし、これらの数字から、出版部もまた学苑の復興に歩調を合せて、順調に復興の途を歩んだと即断はできないのである。すなわち、我々は、この時期が我が国が未だかつて経験したことのないインフレ昻進の時期であったのを忘れてはならない。後年、出版部の問題が評議員会で採り上げられた際、昭和三十八年六月十五日に左の如く報告されたのは、決して出版部を誣いるものとは言い得ないのである。

遠い昔はともかく、戦前出版部は、講義録の刊行に重点をおき、これによってようやく出版社としての面目と経営の基礎を保持して来たが、戦争の激化さらに敗戦に伴う社会的の混乱と経済的窮乏は、講義録の発行を困難にし、それがため出版部は極度の経営難に陥り、戦後は在庫品(図書・用紙)の処分によってかろうじて当座を凌ぐ窮状に陥った。

 尤も、出版部とて全く無為に日を送ったわけではない。第五十三回事業報告書よりの先の引用で明らかな如く、二十一年八月には中学講義と女学講義の刊行を再開し、二十二年十二月にはその臨時附録として『早稲田大学出版部創立六十周年記念号』を刊行して、吉村正、坂西志保、北沢新次郎、山室民子、原田実、横山隆一その他の寄稿を収めたが、その巻頭に総長島田孝一は「創立六十周年に際して」と題する一文を寄せ、左の如く説いたのであった。

出版部は今日に至るまで六十有一年の発達をつづけて来た。その間に於て……幾変遷を経て来たが、常に大学と密接な関係を保ち、発行する講義録の種類も漸次増加して、今次大戦直前には、政治経済、法律、文学、中学、商業、女学、電気、建築等の各講義を発行するやうになつた。そしてこれらの講義録によつて教育を受けた者は全国の津々浦々に及び、その数は恐らく数百万の多きに達したことであらう。またそれらの人々の中には、学界、教育界、政界、実業界、官界、文壇その他各方面に於て頭角を表はして来た人々が決して尠くない。我国有数の経済学者として帝国学士院会員になられた元の本大学々長故塩沢昌貞博士の如き、清節の代議士として、のち貴族院議員に勅選された小久保喜七氏の如き、独学によつて弘前高等学校教授となつた三浦圭三氏の如き、みな嘗つては出版部の講義録によつて勉学した人だと聞いてゐる。

英国の著名な大学では巡回講演により、米国の諸大学では通信教授によつて校外教育の普及をはかつてゐるが、我国では従来かかる事業を行つて来た大学は極めて尠いのみならず、またあつても早稲田大学出版部ほどに長い生命を持続し且つ発展したものは全くない。これは出版部の事業が極めて有意義だつたことと、経営の方法が宜しきを得たこととによるものであるが、しかし出版部の発展は決して坦々たる途を歩んで来たものでなく、時には経営の困難から廃止論さへ起つたのであつた。けれどもこの事業の主唱者高田博士は不抜の精神を以つて、その難局を打開されて来たのであつて、これらの点に於て、高田博士はじめ出版部の発展に力を尽くされた人々の卓見と努力に対し深い敬意を払はずにはおられない。

なほ出版部は講義録の外に幾多の名著を出版して来たが、その中には坪内博士の沙翁全集や漢籍国字解全書、大日本時代史、倒叙日本史、通俗世界全史のやうな不朽の大著も含まれてゐる。六十有余年間に於ける出版部の活動を彼此考へてみると、我国文化の発展の上に残したその功績は洵に著大である。

今や我国は新憲法の採用によつて武を捨て文によつて世界の進運に寄与することになつた。そしてそのためには一般国民の中に広く学問と教育を普及せしめることが喫緊である。学問と教育が従来の如く一部の特権階級に限られてゐては文化は進まない。それと共に今後国民の中に普及せらるべき学問と教育は徒らに政権に隷属してその侍女と堕したものでなく、一切の拘束から解放された独立のものでなければならぬ。周知の如く本大学は学問の独立、研究の自由を建学の本旨として来たが、これこそ今日未曾有の大変革に遭遇して微動だにしない学問と教育の大道である。私はかかる建学の本旨に立つ本大学の学問と教育が出版部を通じて広く一般社会のために解放されることは、新しき文化国日本建設のために願はしきことと確信し、ここに出版部の過去六十有余年に亘る輝しき歴史に深き敬意を表すると共に、今後の活動と発展に大なる期待をかけるものである。

(二―三頁)

 しかし、この記念号刊行の時期には、既に講義録に赤信号が点滅していたのである。すなわち、第五十五回事業報告書(自昭和二十二年六月一日至昭和二十二年十一月三十日)には、「勤労青少年ノ向学心ハ旺盛ニシテ入学率並ニ継続率モ佳良ナリシガ、期半頃ヨリインフレノ急激ナル昻進ニ因リ購買力ハ激減セシタメ、此影響ヲ受ケテ秋季開講ノ申込ミ並ニ継続率ハ良好ナラ」ずとの実情が報ぜられている。なお記念号には二十二年中に商業講義を、また二十三年四月からは文学講義を再刊する旨予告され、商業講義は二十三年一月より刊行を開始したが、その第一号には、「学修上の心得」として、

戦後の日本の立場は、戦前のそれとは全く違います。また立場ばかりでなく頭もすつかり切替えて、世界の国々と共に日本も富み、日本と共に個人も富む気持で進むべきです。これを忘れたらこれからの商業は成立ちません。この考え方を土台として「世界の中の日本」の本格的な商業人になつて頂きたい。これがこの講義の目的です。 (四頁)

と説かれている。第五十六回事業報告書(自昭和二十二年十二月一日至昭和二十三年五月三十一日)は、「勤労青少年ノ向学心ハ依然旺盛ナルモ最近購買力極度ニ減少シ、商業講義及女学講義ハ募集予定数ノ僅少ナルニ因ルモ漸ク予定数ニ達シタルガ、中学講義ニ於テハ未ダ予定数ニ達セズ、継続率ノ如キモ香シカラ」ずと、講義録の不振を記録し、第五十七回事業報告書(自昭和二十三年六月一日至昭和二十三年十一月三十日)も、「インフレノ昻進ハ勤労階級ノ生活ヲ極度ニ苦シクナラシメシタメ、勤労青少年ヲ対象トスル講義録ハ多大ノ影響ヲ受ケテ、今秋開講ノ入学数ハ予定数ノ三分ノ一ニモ達セズ、継続ノ如キモ極メテ不良」と告白せざるを得なかったが、第五十八回事業報告書(自昭和二十三年十二月一日至昭和二十四年五月三十一日)に至り、「既刊ノ中学、女学及ビ商業ノ三講義ハ学制改革ノタメニ入学者僅少ナリシモ、今春新規刊行セル新制高等学校講義ハ世評極メテ良好ニシテ入学者モ多ク予期通リノ好成績ヲ挙グルコトヲ得タリ」と、些かにせよ、漸く胸を張り得たのであった。

 このように、一時は、出版部の救いの神になるかと大きな期待が寄せられた『早稲田新制高等学校講義』の第一号は、

「高等学校時代来る」この声を皆さんは既に耳にされたでしよう。まさしく世は既に高等学校時代です。中学は義務制となつて今では誰でも学びます。しかもその新制中学は僅か三年で、学習の範囲は従来の高等小学と大差ありません。名は中学といつても旧制の中学に比べればその程度に於て相当の隔りがあります。曾ていわれた中学時代は去り、世は既に高等学校時代といわれる所以です。……なお皆さんは高等学校の課程を通信教育の方法によつて修得されるわけですが、通信教育は教育の一分野として文部省でもハツキリ認めておるのですから、皆さんは既に従来の如き単なる独学者ではありません。立派な高校生です。しかも皆さんは早稲田高等学校講義の第一回生であつて、元来第一回生は何処の学校でも最も意気軒昻で、有為の人材が輩出するのが通例ですから、皆さんも最後まで頑張り抜いて、第一回卒業生としての栄誉をかちえて下さい。

と一頁に記した学習指導書と二百八頁の教材から成り、教材の執筆には、佐々木八郎(国語科)、野村猛(数学科)、田崎友吉(化学科)、増田綱(英文法)と学苑教授が動員されているほか、人文地理は東京女高師教授阪本信之が担当している。学費は一ヵ月百七十円、一年半の全修了期間三千六十円である。この時点で出版部による学苑の校外教育は右の新制高等学校講義のほか、いずれも一ヵ年を以て修了する中学講義、女学講義、商業講義の合計四種類となったが、先に予告された文学講義をはじめ、最も特色とすべき専門科目の講義録は、戦後遂に復刊されなかった。

 これより先、二十三年二月、学苑は総長名で出版部宛左の如き過渡的措置を実施する旨通告している。

従来貴部御発行の講義録卒業の資格に於て本大学に入学せんとする者については特別の取扱いをして参りましたが、近く新学制の実施を控え、昭和二十三年度に於ては取敢えず左のように取計いたいと思いますから、左様御諒承願います。追て将来のことについては協議の上改めて申上げたいと思います。

一、早稲田大学出版部講義録卒業生で試験の上本大学専門部及び専門学校第一学年に入学を許可する場合これを第二種生として取扱い、本年中に専検に合格した者は明二十四年度に於て新制学部に移行せしめる。

二、前項の専検に合格しない者で新制学部に入学を志願する場合にはこれを聴講生として取扱う。

 ところが、いよいよ昭和二十四年度より新制大学への移行に際しては、勤労学徒の教育に関して、夜間授業の学部を学内に設置するか、昭和二十三年十二月の「大学通信教育基準」に則った通信教育を出版部の長年の経験を活用して実施するかの岐路に立たせられたが、次編に詳述する如く、学苑の選んだ道は前者であった。その結果、出版部は短日月の間に学苑の校外教育担当者という特色を喪失し、単行書の刊行により辛うじて余命を保つ如き観を呈したが、更に戦後十一年余に至ると、全株式を買収した大学の全面的支配下に置かれるという運命を辿ることになるのである。