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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十七章 点鬼簿の中から(上)

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一 「大隈さんの学校」から「私学の雄」へ

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 学苑の生みの親大隈重信が、東京専門学校設立当初、その私兵養成所であるとの大方の誤解を招くことのないよう、自己の所有地であった学苑キャンパスに足を踏み入れるのさえ自制し、漸く十五周年記念式典に至り初めて講壇から学生に語りかけたほど神経質であり、他方において、高田早苗市島謙吉その他の講師が学生を説得して月謝値上げを強行することにより、創立後数年にして学苑の経常費を大隈家の援助から脱却させたのは、既に第一巻に説述した如くである。従って、無給の校長にも、最初の五年間こそ、自然科学をアメリカで学んで帰国した養子英麿を充てたが、第二代には立憲改進党創立者の一人ではあるが、「日本のローランド・ヒル」として大成するのを最大の生き甲斐と感じていた前島密を、また第三代には、久しく改進党・進歩党の領袖として政界で大隈に協力したには違いないが、晩年には進歩党を離脱するに至るような鳩山和夫を選任することにより、「大隈の私学校」との印象を希釈するのに意を用い、漸く明治四十年、すなわち創立後殆ど四半世紀を経過して初めて、自身が総長として学苑要職の筆頭に推戴されるのを容認したのであった。

 だが、東京専門学校時代においても、また早稲田大学と改称以後にあっても、世人は学苑を以て「大隈の私学校」ではないまでも、「大隈さんの学校」と看做すのに変りはなかった。大隈が総長就任以後も学苑の運営は専ら初代学長高田早苗の手に委ねられていたが、早稲田を慕って入学した学生なり、その学費を支弁した父兄なりの大部分が、大隈自身とか、大隈の名声とかに魅惑された人々であるのには旧態依然たるものがあった。大正六年の「早稲田騒動」の本質を以て、学苑を名実ともに大隈の手から離脱せしめんとする運動と見る者もあるのも先述したところであるが、万一それが成功したと仮定しても、当時の学苑の実態を考えるならば、未熟児成育の悩みを恙なく克服できたか否かはにわかに判断し難いと言わざるを得ない。大隈は「早稲田騒動」の四年半足らず後、大正十一年、八十四年に近い生涯を終えたが、学苑を「大隈さんの学校」と見る世人の慣習は一朝にして終止符を打つには至らなかった。

 尤も学苑は、大隈没後、大隈のレッテルがなくとも当時数少かった私立総合大学として輝かしい実績を挙げ得るのを事実を以て示そうと懸命の努力を傾注した。嗣子信常が名誉総長に推戴されはしたものの、大正十二年の新寄附行為には、表面的には全くの「名誉」職に過ぎない存在と規定されたのにも、それがはっきりと窺われる。それにも拘らず、四代学長・二代総長塩沢昌貞は老侯に生前親接し、「大隈さんの知恵袋」と呼ばれるのを密かに誇りとしていたし、三代総長として再び学苑に復帰した高田早苗小野梓の手足として学苑創設に参画して以来四十年に及ぶ大隈の腹心であったから、世人に大隈なり大隈家なりからの乳離れを認識させるのは決して容易ではなかった。大隈没後寄贈の形式で学苑の手に移った旧大隈邸が大隈会館と呼ばれ、故総長記念事業の一つとして建設された大講堂が大隈講堂と命名された事実も、大隈の過去の名声に学苑が恋々としているかの如き錯覚さえ生みかねなかった。大隈の建学精神の保持と大隈依存よりの離脱とは二律背反であるかの如く思惟する者も、決して稀ではなかったのである。

 結局、「大隈さんの学校」のイメージの払拭には時間が必要であった。終戦後学苑が新制大学に移行してから十数年間は、各学部の入学試験に第一次の学力検査の他に第二次として面接が行われ、面接に際して身上調書を携行させるのが慣習化していたが、それには崇拝する人物の記入欄があった。その欄に大隈重信と記入するのが学苑受験には適切な戦術との指導が予備校などで行われたのかもしれないが、大隈と記している数少くない受験生に大隈についての質問を行うと、何一つ知ることのない場合が珍しくなく、中には「大隈」を「大隅」と誤記する者さえ例年何人か発見されて、面接委員が苦笑を禁じ得なかったものである。こうして大隈の没後数十年、漸くにして多数の学苑受験生は、大隈に受験戦術以上の魅力を感じなくなり、学苑を専ら「私学の雄」とのみ考えるようになったのである。

 こうした変化を生んだのは、何よりも先ず時間の経過であったに相違ない。尤も、多年中絶していた早慶野球戦が大正十四年復活し、全国のスポーツ・ファンを熱狂させ、野球以外のスポーツでも早慶戦が最大年中行事となった昭和初頭の何年間かが、「大隈さんの学校」としてよりも寧ろ学生スポーツの勇者として学苑の名声を全国に広める傾向を生んだと見られなくもない。また昭和十八年大学院特別研究生制度新設に際し、七帝国大学および三官立大学以外に早慶両私立大学に政府がそれを認めるの余儀なきに至ったのが、福沢と大隈という創設者の権威とは寧ろ別個に、私学の雄として、慶応義塾と並んで学苑の存在を江湖に認識させるのに大きな役割を演じたのも看過し得ないであろう。更に、明治・大正期の木造校舎の大半が昭和七年以後、四代総長田中穂積により鉄筋校舎に替えられたことと、旧大隈邸や庭園とともに残存大隈時代建造物が戦災により烏有に帰せしめられたことも、学苑の大隈色の希薄化と無縁ではなかったろう。しかし、ここに看過することが許されないのは、大なり小なり大隈の薫染に浴した早稲田人の多数がこの間に黄泉の客となったことではあるまいか。既に本書において、その中の主要な何人かについては、これまで各巻に若干の頁をその逝去に費やしたが、残余の人々につき以下に寸描を試みるのは徒爾ではなかろう。

二 大正末より五十周年記念祝典まで

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 大隈が逝去したのは大正十一年一月であったが、「早稲田騒動」が一応鎮静化した後それまでに鬼籍に入った、学苑の歴史に大きな足跡を残した人々の中には、二代校長前島密(八年四月没)、名誉理事田中唯一郎(十年九月没)の他、理工学部草創期の恩人と言うべき維持員森村市左衛門(八年九月没)、手島精一(七年一月没)、辰野金吾(八年三月没)、および阪田貞一(九年十二月没)をはじめとして、学苑が誇りとした教授・理事吉田東伍(七年一月没)、および元教授有賀長雄(十年七月没)、実業界における後援者中野武営(七年十月没)、更に校友中にあっては一時期坪内を凌ぐかの如き名声を博した文学者・元教授島村滝太郎(抱月、七年十一月没)、我が国経済史学史に金字塔を樹立した京都帝国大学教授内田銀蔵(八年七月没)、校友会初代幹事・憲政会書記長黒川九馬(七年十一月没)、維持員・前東京市助役宮川銕次郎(八年五月没)、元寄宿舎長・『早稲田学報』編集主任・講師本田信教(八年八月没)などがあった。

 大正十二年春、学苑の慈母と仰がれた綾子夫人が大隈の後を追ったことは第三巻に詳記した如くであるが、綾子夫人の兄且つ信常夫人の父であり、多年維持員として大隈家の意向を学苑当局に伝達した東洋園芸株式会社社長三枝守富も昭和三年二月世を去っている。

 また、大正十二年十一月には、島田三郎が七十年の生涯を閉じた。我が国議会史上名衆議院議長の名を擅にした島田は、学苑の六代総長島田孝一の父であるが、明治十四年の政変に際して大隈とともに下野し、東京専門学校開校に当り、後の評議員に相当する議員四名中にその名を連ねたのであった。右四名の最後の一名であった元報知新聞社長矢野文雄も昭和六年六月には卒去し、大隈が同志と恃んだ学苑生誕時の最高首脳はここにすべて不帰の客となったわけである。

 なお、大正十五年一月には小川為次郎が他界した。小川については、第一巻および第二巻において何回も触れるところがあったが、「学園創立の楔子」とも言うべき隠れた功労者であるから、その死に際して高田の述懐したところを、敢えて重複を厭わず次に載録しておこう。

君は東京市本郷の商家に生れながらも、年少より文学殊に国文学に親しみ、長じて経済学を修するに及んでは、鋭い識見の持主となつたが、明治の初年既に統計の学を志し、呉文聡、宇川盛三郎氏等と俱に、我が国斯学の始祖と目さるる杉亨二翁に就いて学んだ。しかるに、当時大蔵卿の任に在つた大隈侯は早くも省内に統計院を新設されたので、小川君は学業成ると同時にその統計院に入り、院の首脳であつた小野梓氏の下に一官吏として公務に与ることとなつた。

其時、本郷元町に進文学社といふ私塾があつて、我輩や坪内君等は学生時代より、その経営者たる橘機郎氏の依嘱を受けて、右の学社に教鞭を執つて居つた。ところが、小川君は橘氏の長子と親友であつたためにその学社の構内に住んでゐたのである。そこで、小川君より小野梓氏の事を知るに至つた。間もなく、我々は君の紹介で小野氏を訪ひ、色々語り合つた結果、小野氏より、我が国の憲法の制定や議会の開設もだんだん近づいて来るのであるから、同攻の諸氏と俱に各種の問題について研究したいと言はれ、我々は直ちにこれに賛同した。それより、山田一郎市島謙吉その他の人々は小野氏の居であつた向島の真崎に時々会合して一の研究会を開くこととなつた。この会を「鷗渡会」と称び、ここが揺籃となり種々発展して、我が学園の前身なる東京専門学校が生れ、改進党が結ばるることとなつたのである。それ故に、小川君は我が学園の創立には特殊の因縁を有する人と云はねばならぬ。私共が明治十五年の春大隈侯に見えた時にも、小川君が我々を率ゐて丸ノ内雉子橋の邸に行つたのである。

かくて、大隈侯、小野先生等をはじめとして、我々が相集つて、我が学園が創立されてからは、小川氏は、佐賀の人、秀島家良氏を輔けて副幹事に任じ、後には幹事となりて、学園創建当初の経営困難なる校務に努力された。我が大学が事務的になつた端を拓いたのは、小川君が与つて力あるわけである。その後も常に陰に陽に我が学園の発展を助けられた。本大学が、氏を評議員に推し、校賓として遇するやうになつたのも故あるのである。

その後、氏の経済的眼光は、安田善次郎氏の知るところとなり、終に関西における安田系の各種事業の総監督の地位に立ち、数多の銀行会社の重役として、関西実業界に重きをなすに至つた。君は、趣味としては、文学殊に和歌に堪能にして、美術を愛したが、晩年には支那画を愛好し、古い所に、唐、宗、元、明などの名幅を多く蔵し、これを鑑賞するを楽しみとしてをつた。 (『早稲田学報』大正十五年二月発行第三七二号 一一頁)

 「早稲田騒動」の際臨時ではあるが学長に就任した坂本三郎(明二一法学部)の多彩な一生については第一巻に略述したのでここでは繰り返さないが、昭和六年四月病没した。「晩年には往々同僚と争ふことがあつて、吾輩は常に調停の役を勤めさせられた」とは市島謙吉の述懐したところである。また、それぞれ人格者を以て聞こえ、多くの学生に感化を及ぼした第一高等学院長中島半次郎(明二七文学部)ならびに第二高等学院長杉山重義(慶応義塾中退、アメリカ、ハートフォード社会学校および神学校在学)も大正十五年十二月と昭和二年一月とに相次いで長逝した。杉山は齢七十に近かったが、中島は漸く五十代の半ばに達したに過ぎなかった。

 実業界における大隈の盟友とも言うべき渋沢栄一は昭和六年十一月、その九十二年に近い生涯を終えたが、渋沢については第一巻以降にしばしば触れるところがあったので、ここではそれ以上の記述を省くこととする。その他、学苑の後援者としては、理工学部「最大の恩人」竹内明太郎が昭和三年三月に、学生ホール寄附者小池国三が大正十四年三月に、基金への高額寄附者村井吉兵衛が同十五年一月に物故したことを記しておきたい。

 教授陣では、明治十五年十一月より学苑の秀島幹事を補佐するとともに漢学と英学との授業を担当すること六年半一時学苑を離れたが、再び大正二年から高等予科および高等学院で漢文を教えた前橋孝義(昭和三年十二月没)や、明治二十八年以降世界各地の歴遊談で学生を魅了したイギリス王立地学協会名誉会員志賀重昻(昭和二年五月没)や、東京大学文学部を首席で卒業したが、官界で志を遂げず、明治三十年以降学苑で主として英語を教えた、高田の従兄梅若誠太郎(昭和三年五月没)や、佐賀時代より大隈の友人で、明治二十五年筆禍事件により帝国大学教職を罷免された後、学苑に迎えられて国史および古文書学を講ずるとともに、大隈の『開国五十年史』の編修に当り、大正十一年高齢により教授を辞した久米邦武(第一巻七三八頁参照、昭和六年二月没)や、在職二十一年英語を担当し、高等師範部教務主任として功績を残した宮井安吉(大正十三年十月没)や、商科開設以来珠算・暗算を教えた神尾式速算法の案出者神尾錠吉(大正十五年二月没)や、同志社における安部磯雄の同級生で、ハーヴァードで比較宗教学を修め、ほぼ三十年に亘り学苑で英語教育に従事した岸本能武太(昭和三年十一月没)や、商科開設の翌年より二十五年間商業英語を担当、伊地知純正の言を以てすれば「商学部の英語を一人で背負った」、札幌農学校第四回卒業生、『ジャパン・タイムス』創立者の一人、『武信和英辞典』の著者武信由太郎(昭和五年四月没)が、学苑創立五十周年記念式典までに幽明境を異にしている。

 右に挙げたのは、いずれも学苑外から学苑教授陣に投じた人々であるが、学苑も創立後半世紀に近づくと、校友で母校の教壇に立っている者の訃報が次第に増加した。英学を志して明治二十五年学苑英語政治科を終えたが、結局家祖了閑や祖父渓琴の後を逐い漢文ならびに漢詩の宿学として同三十年より学苑の学科配当表に名を連ねるとともに、「学校の種々の儀式に必要とする多くの文章を筆作した」と市島が記している菊池三九郎(大正十二年十月没)、明治三十九年英文科卒、翌年より学苑高等予科の教壇に立ち、四十三年二十歳代半ばの若さで文学部教授に任ぜられ、大正八年新設の露西亜文学専攻の主任教授、十二年文学部長と、学苑文学部の大黒柱として自他ともに許すところがあったが、不幸な事件のために翌年学苑を去るの余儀なきに至った片上伸(昭和三年三月没)、学苑では片上の一年先輩で、ハーヴァードに学び、坪内引退の後英文学およびシェイクスピアを講じた横山有策(昭和四年四月没)、横山と同年の高等師範部国語漢文科卒、「西鶴・芭蕉・近松を中心に前期上方文学を講ずるとともに、その中国文学に関する造詣にもとづき、後期江戸文学の研究を開拓し」、暉峻康隆に「江戸文学の研究は教授の出現によって啓蒙期を脱した」(『日本の近代文芸と早稲田大学』二四五―二四六頁)と記させた山口剛(昭和七年十月没)、明治四十一年哲学科卒、浄瑠璃史講師として異色の存在であった黒木勘蔵(昭和五年十月没)、大正三年電気工学科卒、短波長無線工学研究の先駆者、通信工学専攻の第二分科創設の貢献者坪内信(大正十五年二月没)、大正四年文学科卒、哲学科の将来を担うべき英才と嘱望された伊達保美(昭和五年八月没)、大正五年商科卒、ハーヴァードとダートマスとで会計学を研鑽した中田浩(昭和五年六月没)、大正六年英文科卒、学苑留学生として昭和六年六月フランスで客死した、プロレタリア文学成立期の代表的批評家・助教授平林初之輔などがその主要なものである。なお、明治三十一年より学苑の教壇に立ったが、同三十五年に東京高等工業学校教授に就任して学苑を去り、同三十八年藤井健治郎のドイツ留学の後を承けて再び本学苑講師を兼ねて、石橋湛山らに深い感銘を与えた(第二巻一一三四―一一三六頁参照)けれども、更にまた四年間学苑を離れ、学苑への復帰が定着したのは大正四年で、教授就任も漸く昭和四年においてであったが、杉森孝次郎をして「天才的評価・鑑賞の哲学者」と評せしめた田中喜一(王堂)も昭和七年五月に逝去している。田中は明治二十二年渡米してケンタッキーおよびシカゴ大学に学ぶ以前、学苑の英学科で英語を修得したことがあった。また、昭和六年九月没時には肺患のため辞任していたが、大正十五年露文科卒業後直ちに高等学院講師としてロシア語を担当した小宮山明敏は、片上の遺志を継いでプロレタリア文学運動史上に顕著な足跡を印し、既に在学当時から村田春海(昭和十二年三月没)および後年の教授岡沢秀虎とともに露文科三羽烏と称された第一高等学院第一回修了生であり、高等学院修了の校友としては最も早く名を成した一人と言うべきであろう。

 更に、校歌の作曲者であり、文芸協会および新文芸協会で活躍して、「ハムレット」の墓掘り、「ヴェニスの商人」のシャイロック、「法難」の日蓮などに天才的名演技を見せた東儀季治(鉄笛)は大正十四年二月病没したが、東京専門学校文学科の在籍を確認できないことと、田中唯一郎幹事時代に副幹事として、また基金募集の際の主事としても学苑に貢献するところが少くなかったこととを記しておこう。

 その他、昭和四年五月には神楽坂在住の二代目校医前田実(初代前田秀村の養子)が、昭和六年十一月には学生課主任望月嘉三郎が、また大正十四年二月には、高田が「早稲田中学の創立者であり、その維持者であり、その中枢人物であった」と語っている元維持員・早稲田中学幹事増子喜一郎(明二六邦語政治科)が世を去っている。

 他方、学外で活躍した有力校友でこの時期に他界した者も漸くその数を増大しているが、草創期の得業生としては、校友会初代幹事であり、明治三十五年の早稲田大学開校式に校友総代として祝詞を述べた山沢(楢崎)俊夫(大正十五年七月没)の他、明治十八年政治経済学科卒降旗元太郎(昭和六年九月没)および川上淳一郎(昭和六年十一月没)ならびに同年法律学科卒昆田文次郎(昭和二年一月没)、同十九年政治学科卒上遠野富之助(昭和三年五月没)ならびに同年法律学科卒小河滋次郎(大正十四年四月没)、同二十年政学部卒早速整爾(大正十五年九月没)などを挙げることができる。その中で世に知られることの最も多いのは、田原栄の書生として学業を卒えた立志伝中の人であり、衆議院副議長、農林大臣、大蔵大臣として政界に活躍し、学苑出身の最初の大臣の栄誉を担った早速整爾であろう。また降旗元太郎や川上淳一郎の改進党・民政党員としての政界における活躍や、創立二十五周年式典に校友会代表として式辞を述べた小河滋次郎の監獄法に関する業績や、名古屋市実業界の代表者としての上遠野富之助の多彩な活動など、いずれも学苑の名声を昻揚する上に資するところが少くなかったが、なかんずく、学苑に対する愛校心の面で特筆すべきは古河合名会社理事長昆田文次郎であろう。その長逝に際して、高田総長は二千字を遙かに超える長文の弔辞を捧げたが、その一部分を左に引用しておこう。

惟フニ我早稲田学園ノ出身者ハ幸ニシテ之ヲ他ノ学園ノ出身者ニ比シ愛校ノ念ニ於テ優ルアルトモ決シテ劣ルモノニ非ラザルコトヲ私ハ確ク信ジ深ク欣ブモノデアリマスガ、中ニ就テモ昆田君ノ如キハ愛校者中ノ愛校者トシテ推賞スルニ何人モ異論ナキトコロデアリマス。

且ラク之ヲ君ガ物質的ニ母校ニ貢献セラレタ点ニ就テ見ルモ、明治三十四年本大学ガ第一期基金募集ヲ開始セル以来近ク故大隈総長ノ記念事業資金ノ募集ニ至ルマデ前後五回ニ亘リ君自ラ数万円ノ資金ヲ寄セラレタルノミナラズ、君ノ勧説奔走ニ依リ古河男爵ヲ始メ篤志諸君子ヨリ本大学ニ寄与セラレタ金額亦実ニ数十万円ニ上リ、早稲田大学ノ発展ニ関スル私共ノ企図ニ対シ大ニ力ヲ添ヘラレタ。加フルニ或ハ君ノ義金ニ由リテ海外留学ヲ為シ現ニ我学園ノ有力ナル教授トシテ後進ノ誘掖ニ従事セル者アリ、或ハ有為ノ学生ニシテ君ノ後援ニ由リテ学ヲ終へ社会ノ各方面ニ活躍セル者多々アル等、君ガ母校ニ致セシ貢献ハ頗ル大ナルモノデアリマス。而モ君ヤ性極メテ恬淡ニシテ寡慾、名利ヲ趁ハズ、富貴ヲ希ハズ、従ツテ得レバ従テ之ヲ他人ノ為メニ散ジ、未ダ曾テ財ヲ蓄フルコトヲ為サザリシ間ニ在リテ、此ノ如キ物質上ノ寄与ヲ母校ニ致セシ君ガ熾烈ナル愛校心ト高潔ナル心事トヲ想フ時、誰カ感激セズニ居ルコトガ出来マシヨウゾ。

若シ夫レ君ノ母校ニ対スル精神的寄与ニ至リテハ、私ハ我学園ノ人々ト共ニ感謝ノ涙ヲ以テ之ヲ追憶スルモノデアリマス。君ハ実ニ過グル四十有五年ノ長キニ亘リ始終一貫シテ母校ニ尽サレタノデアルガ、就中大正六年初夏ヨリ起リタル我早稲田学園ノ重大事件ニ対シテハ君ハ深ク之ヲ憂へ、且故大隈総長ノ懇託ニ由リ同志故早速整爾増田義一、渡辺亨及其他ノ諸君ト共ニ身ヲ挺シテ之レガ解決ノ任ニ当リ、幾ンド五旬ノ間旦夕ヲ別タズ夜陰ヲ厭ハズ奔走尽力シ、依テ以テ狂瀾ヲ静メ学園ヲ健全ナル平和光輝アル発達ニ導キタルヲ始トシ、爾来或ハ評議員トシテ或ハ維持員トシテ任満ツル毎ニ推挙セラレテ連続今日ニ及ビ、陰ニ陽ニ母校ノ為メニ不断ノ努力ヲ傾注セラレツツアツタコトハ、私共ノ毎ニ感激シ、深謝シテ今尚忘ルルコトノ出来ナイ顕著ナル事実デアリマス。

且ツ最近ニ至リテ我早稲田学園ニ於テ会計規程ノ改正ヲ企ツルヤ、渋沢子爵ノ発議ニ依リ君ハ挙ゲラレテ委員トナリ、他ノ諸氏ト共ニ極メテ熱心ニソノ調査立案ニ従ヒ、二ケ年ニ亘リ幾タビカ稿ヲ改メテ遂ニ之ヲ完成シ、旧臘維持員会ノ決議ヲ経テ成文トナリ、我早稲田大学ノ会計事務ニ一新紀元ヲ画スル一大成果ヲ寄与セラレタノデアル。而モ之レ軈テ君ガ母校ニ残サレタ不朽ノ一大記念物トナラウトハ神ナラヌ身ノ誰カコレヲ予測シマシヨウゾ。

(『早稲田学報』昭和二年二月発行第三八四号 三二―三三頁)

 更に年度が下ると、明治二十六年邦語政治科卒の日清生命保険株式会社社長池田竜一が昭和四年二月に、明治二十八年邦語政治科卒の政界の雄、憲政会総務関和知が大正十四年二月に、中国校友と学苑との連絡に抜群の役割を演じた明治三十三年英語政治科卒の元全閩師範学堂総教習桑田豊蔵が大正十二年九月に、明治四十一年英文学科卒の主要歌集十五冊、六、八九六首を数える歌人若山繁(牧水)が昭和三年九月に、大正三年英文学科卒の新国劇創立者沢田正二郎が昭和四年三月に、黄泉の客となった。沢田は行年僅かに三十六歳、日比谷公園新音楽堂で執行された告別追悼会には参会者が「つなみの如くに押しかけ定刻前には既に満場立すいの余地もない」ほどで、「一俳優の最後を飾る営みとしては真に驚異的盛儀であつ」たとは『東京朝日新聞』の報じるところであるが、その際に坪内雄蔵が手向けた「告別の辞」には左の如き賛辞が含まれていた。

君は純然たる一介の読書生、何等の芸門閥も芸伝統もない一アマチユアであつたにも拘らず、譬へば、彼の伊勢新九郎長氏が一布衣より起つて、忽ちのうちに関八州を席巻して、後北条五代の基ゐを定め得たが如くに、又彼の尾張の一小名上総介信長が敢然として勁敵今川の大軍を皆殺しにし、ついで美濃の斎藤道三を屠り、将軍義昭を扶け、兼ねて皇室を崇め奉り、浅井、朝倉を族滅し、松永久秀を誅し、叡山を威圧し、石山をおびやかし、覇を京師に称へた如くに、君も一朝にして全国の興業界を風靡する稀有の風雲児となつて、しきりに劇壇に新機運を誘致し、一代の大人気を備さに一身に集むるに至つた。按ふに、君を嫉み悪む者と雖も君の此成功の花々しさを、其目ざましさを如実に認めないわけにはいくまい。が、それは決して僥倖ではなく、偶然ではなかつた。主として君の身に備へてゐた力其物の結実であつたのである。

といふのは、君は、無論、芸術的にも特に恵まれた素質を具有してゐたのでもあつたらうが、更にそれ以外に種々の有力な徳器を具へてゐた。例へば、部下の衆を統べ率ゆる器度、才幹、自ら信じ自ら恃んで邁進するの勇気、全力を傾注して懸命に事に当る熱烈火の如き気魄、暫くも休まざる向上心、聊かもたゆまざる勤勉力、機を見るの明、将来に対する不断の考慮等、加ふるに、精悍でもあり、敏活でもあり、公明でもあり、卒直でもあり、濶達でもあり且つ意気にも俠気にも富んでゐた。だから、君が稀有の成功を博したのに、本来何の不思議もない。君に一代の人気が集まつたのも当然の話である。蓋し君は新劇界の織田信長であつたのである。いや、むしろ上杉謙信であつたといひたい。

嗚呼、しかしながら、君の不幸短命であつたこと其事までが同じく謙信に似てゐたのは何といふ悲しい事実であらう! 謙信は時の将軍には勿論、時の皇室にも上なく頼もしい者に思はれまゐらせ、強敵信玄病死の後は、将軍を輔佐し禁闕を擁護し奉らんために、弾正大弼として、家の子郎党を提げて上洛し、洽く天下に号令すべく、将に本国を出発しようとした其間際、而も慥か三月の初旬ごろに卒然として病み、僅に数日で病ひ革り、溘焉として他界の人となつた。ああ、何といふ残念な死であつたらう! 信長とてもさう。これからといふ大事の瀬戸際で端なくも命を終つた。最後の大いなる成功に到達すべき其途中で死んだのである。君もまたさう! ああ何といふ残念な事であらう!

(『早稲田学報』昭和四年四月発行第四一〇号 五五―五六頁)

 なお、甚だしい貧窮に苛まれながら私小説の典型と評される作品を残した葛西善蔵は昭和三年七月に結核のため生涯を閉じたが、明治四十一年英文学科の聴講生として学苑に在学したことのあるのを付記しておこう。

三 学徒出陣まで

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 田中穂積高田早苗の後を襲って第四代総長に就任するよう決定した際に、学苑の一部に反対の空気が存在したのは既述の如くであるが、高田の存在があまりにも大きかったことと、薬餌に親しむ日が多かった在任中の高田から校務の代行を委ねられるのが常であった田中のきわめて有能な行政手腕が一種の警戒心を若干の人々の脳裡に醸成したこととが、その主たる原因であった。田中が総長として着手すべき事業中優先順位の第一に置いたのは、創立五十周年記念事業として公約した木造校舎の改築であったと推測される。田中は既に常務理事時代に校舎の不燃化計画を発足させていたのであるから、ある程度まで道は既に踏み固められていたには違いないが、就任当時は昭和経済恐慌の最中であり、更に漸く恐慌から脱出してもソーシャル・ダンピングの声が国際的に高まって、我が国の輸出の好況は累卵の危うきにあったのであるから、建築費を可能な最小限度にとどめながら、改築のプログラムを恙なく消化できたのは、田中の緻密な計画に負うところが甚大であった。当時、慶応義塾の新校舎落成の披露宴に招かれた田中が、その建築費を聞いて、早稲田ならばもう一つ校舎ができたでしょうと言ったとの逸話に、田中の自信の程が窺えるであろう。この田中の実行力の前に、学苑内の田中批判の声は急速に鎮静化していったのである。

 他方、昭和恐慌に際しての我が国農村の窮状は議会政治に対する不信の念を軍の一部に植えつけ、五・一五、二・二六と血腥い不祥事が繰り返された後、遂に蘆溝橋事件を契機として日中戦争に突入し、昭和十六年末の対米英蘭開戦へと導かれたのであったが、この間私学に対する軍・官の不当な干渉は次第に度を高め、一朝対応を誤れば学苑の閉鎖さえ必ずしも杞憂とは言えなかった。田中が学苑の存続を至上命令として、譲り得る限りの譲歩を行いながらも、守るべき最後の一線を死守したこともまた、その評価を高める結果を生んだのであった。

 こうして田中が必死の努力を学苑の経営に傾注している間にあって、学苑の三尊と称される坪内雄蔵が昭和十年二月、天野為之が十三年三月、高田早苗が同年十二月物故した。そもそも学苑生誕に際して中核的役割を遂行した鷗渡会七人組は、岡山兼吉山田一郎とがそれぞれ明治二十七年と三十八年とに、山田喜之助が大正二年に世を去っているが、残る四名中、関西在住の維持員として学苑の発展に寄与するところが少くなかった砂川雄峻が昭和八年四月逝去したので、天野と高田とを失った後は、市島謙吉ただ一人が健在を誇るのみとなった。また、「早稲田騒動」の収拾に忘れることのできない功績があった平沼淑郎も十三年八月に他界したから、学苑が六十周年記念式典を十五年十一月に繰り上げて実施した頃になると、老侯に親炙していた学苑古老の数は激減し、これが自ら学苑の大隈色減退をもたらした。大隈の建学精神の忘却阻止を目的として、専門部政治経済科長服部文四郎(明三五英語政治科)が昭和十年より当該科学科配当に「模範国民論」を新設して、大隈との対談の想い出を学生に伝えようと試みたのは、決して偶然ではなかったのである。

 高田、坪内、天野ならびに平沼の逝去については既に第三巻に説述したので、ここでは省略に付する。

 現役の学苑首脳に関して田中総長を最も悲しませたのは、同郷の先輩であった常務理事金子馬治(明二六文学部)が昭和十二年六月急逝したことであったろう。恐らく反田中の空気が未だに底流には澱んでいたと考えられる文学部との間を繫ぐパイプとして、金子の存在は田中にとりきわめて貴重なものであったに違いない。田中は金子を追慕して左のように記している。

顧れば金子君と私との交友は春風秋風殆んど四十年の長きに亘り、私よりは勿論年齢も卒業年度も余程先輩であるのみならず、東京専門学校時代に於て金子君は既に学園に於ける空前の秀才として令名嘖々たるものがあつた。即ち金子君は小学から中学に亘つて常に首席を占め、明治二十三年大学の前身たる東京専門学校の英語普通科を卒業して、直ちに当時創設された文学科に入り、明治二十六年卒業の際又矢張り第一位を占め、坪内逍遙先生や、大西祝先生に多大の希望を嘱せられて、直ちに学園の講師に就任したほどであるから、嶄然として済輩を抽き敬慕の中心であつた。私が君を親しく知つたのは明治三十四年学園に大学開始の企てがあつて、其第一着手として各科から一名づつの海外留学生を派遣することになつて、文学科から金子君、法律科から坂本三郎君、政治経済科から私と云ふことになつて、初めて相知るやうになつたのであるが、未熟な私などと違つて金子君は当時既に造詣も深く立派に一家の風格を備へてゐたから、私は常に同君に兄事した。即ち君は留学生として専ら独逸のライプチツヒに於てヴント教授に師事して研鑽を深め、確か明治三十七年帰朝して教壇に立つたのであるが、帰朝後学界に於ける君の活動は水際立つて鮮かなものがあつた。……

併しながら学園の事情は、何としてもこれだけの偉材を学問のみに没頭せしむることを許さなかつた為めに、或は学部長として、或は理事として、繁雑なる事務を掌ることを余儀なくしたのみならず、昭和五年以後は常務理事として、専ら其主力を事務的方面に傾注せざるを得ない境遇に置たことは、金子君にとつては定めし堪へ難き苦痛であつたと、私は深き同情を禁じ得ないのであるが、併しながら熱烈なる母校愛に燃ゆる君は、事情已むを得ざるものと諦めて、潔よく後進にして而かも短才微力の私の補佐役たる貧乏籤を引受け、熾烈な責任感と、公平無私の雅量とを以て一意専心只管学園の向上発展の為めに、全心全力を傾倒して倦むことを知らなかつた。其誠意と温情は到底私の拙き筆舌を以てしては尽し得ないことを憾みとするのであつて、金子君は独り天禀豊かなる其学才を以て学界に顕著なる貢献を為し、我が学園をして九鼎大呂の重きを為さしめたのみならず、同時に又其重厚にして円満、高潔にして温潤玉の如き天成の性格は、学園今日の隆運を致せる殊勲者中の殊勲者たることは、普く万人の認むる所であつて、逍遙先生逝かれ半峯先生退かれた今日の学園にとつては、洵に偉大なる棟梁であり柱石であつた。 (『早稲田学報』昭和十二年六月発行第五〇八号 一二―一三頁)

 その他、この時期に学苑の理事、または理事経験者としては、昭和十二年三月に宮田脩(明三一文学部)、十五年二月に徳永重康、同年三月に吉江喬松(明三八大文)、同年九月に浅野応輔、十六年九月に鈴木寅彦(明二九邦語政治科)、十七年六月に寺尾元彦(明三九大法)が、更に監事としては、八年十月に渡辺亨(明一九法律学科)、九年十月に埴原正直(明三〇英語政治科)、十年十月に上原鹿造(明二五邦語行政科)、十四年三月に名取夏司(明三八大政)、十七年十一月に早川徳次(明四一大法)が故人となった。

 徳永重康は二十八年間に及ぶ工手学校長であり、浅野応輔は元理工科長・名誉教授であり、いずれも学苑理工学部育成に貢献するところきわめて大きかったのは、既に第二巻(三三八頁、三三九頁その他)で触れた如くである。吉江喬松に関しても第二巻(六九四頁)に素描したが、ここでは、吉江が我が国において文学者としては最初のレジォン・ドヌール勲章受章者であったことと、田中総長が、同郷の後輩の挙げた業績について、「在職必シモ長シトセザルモ、其温乎玉ノ如キ性情、穏健中正ノ見解、該博緻密ノ識見ニ加フルニ、熱烈ナル母校愛ヲ基調トセル正論讜議ハ、鑿々肯綮ニ当ラザルナク」(同誌昭和十五年四月発行第五四二号五五頁)と弔詞に記していることとを指摘しておく。また寺尾元彦についても、同じく第二巻(七〇一―七〇二頁)に田中総長の弔辞の一部を引用したので、十七年の長きに亘り教務主任として寺尾を補佐した中村宗雄(大六大法)が、教授在任二十六年、法学部長在任二十一年、理事在任九年、寺尾が「ひたすら我が早稲田大学の為めに心血を濺がれた、真の意味での早稲田人であり、又早稲田の学者なのである」(同誌昭和十七年七月発行第五六九号一七頁)と追懐しているのを付記するにとどめる。

 宮田脩ならびに鈴木寅彦は、いずれも理事在任期間は一年の短期に過ぎなかったが、第二巻(九八三―九八四頁)および第三巻(五八五頁)に記した如く、その就任がそれぞれ「早稲田騒動」直後の大正六年九月、ならびに高田総長辞任の昭和六年七月であり、学苑が鼎の軽重を問われた時期であったことを忘れるべきではない。鈴木の略歴は既述(第三巻五八五頁)したので繰り返さない。学生時代、第一巻(六六九―六七〇頁)に述べた美学講師高山樗牛苛めのリーダーであったと伝えられる宮田は、明治四十一年以降殆ど三十年に近く私立成女学校長として自他ともに許す女子教育の権威であったが、学苑の理事として「病弱の軀、蒲柳の質を以てして、剰へ他に頗る重要なる本職と兼務とを有せらるるに拘らず、奮励努力劇職を分担し、例へば火災の時の消防手の如く、紛擾を鎮定して、これを事前の状態に回復し得たる功労は、早稲田大学の歴史上逸すべからざるものである」(同誌昭和十二年四月発行第五〇六号七九―八〇頁)とは、平沼淑郎の追憶するところである。

 他方、この時期に監事(昭和八年就任)として母校愛を最も発揮したのは、帝国生命保険会社専務取締役として社運の挽回に縦横の手腕を揮った名取夏司であった。田中穂積は名取について、左の如く学苑に対する貢献を偲んでいる。

名取君の長逝は我邦実業界の一大損失であるが、更らに我学園にとつては一大支柱を失へる大打撃である。君が阿仁鉱山から帰京して旭電化工業会社を荷うて起つたのは大正七年頃からであるが、爾来其長逝に至るまで二十有余年、母校に対する熱愛は終始一貫渝ることなく、多難の会社を経営する傍ら、混沌状態にあつた校友会を整理して、学園のバツクとして有力なる大団体の組織を完成し、相当の基金を造つて其基礎を安定し、又約十年来学園の監事に選ばるるや、会計組織を整理して模範的のものと為したのみならず、教育の府に於て会計の局に当るものは、設令一銭一厘の微と雖も曖昧のことがあつてはならぬと云ふ配慮から、監事に就任当初数百金の私財を会計課長に与へ其部下の清廉を厳守する資金として自由処分を課長に委ねて後顧の憂を絶てるが如き、或は全力を学園の為めに傾倒する教職員の退職慰労基金の補充の為めに、特に自から進んで生命保険に加入し、死後の保険金受取人を大学名義と為せるが如き、其到れり尽せる誠意の発露は名取君ならでは、到底思ひ及ばざる所であつて、或は学徒を激励し、或は其就職口を開拓するが為め、劇務の傍ら寸暇を割いて斡旋奔走到らざるなく、唯一意専心学園の興隆発展を以て自己の楽みと為せる態度は、景仰欽慕を禁ぜざるものであつて、苟くも学園の為めと思ふたことは黙して已み難く、率直にこれを私に忠告し、而も取捨選択は私に一任せる寛宏の襟度は、洵に学園の至宝として永久に其啓沃を期待した。 (同誌昭和十四年四月発行第五三〇号 六〇頁)

 学苑出身者で国家試験に合格、外交界で飛躍した嚆矢である埴原正直については第二巻九一―九二頁に既述したが、「同級生中の首席を占め、学力の優秀抜群なることは勿論、短軀ではあつたが白哲紅顔、当時の学生は弊衣破帽を誇りとし随分粗野な風采をしてゐたものであるが、同君は平生飾らないが清楚な、明朗な、闊達な好青年で、模範的な学生とは埴原君のやうな人を云ふのである」(同誌昭和十年二月発行第四八〇号二八頁)と田中穂積は追憶している。埴原が学苑創立四十五周年祝典に校友総代として祝辞を述べる栄誉を与えられたのは、偶然ではないと言うべきであろう。昭和五年十月に監事就任後、数ヵ月にして二豎の侵すところとなり、以後四年に近く病床に呻吟して、再び立つことができなかったのは惜しんでもあまりあるのであった。

 苟も都市交通に関心を有する者ならば知悉しているに違いないのは早川徳次であろう。早川は学苑卒業後、鉄道院、南満州鉄道、高野鉄道と交通事業に身を投じたが、大正三―五年外遊の際ロンドンの地下鉄に魅せられて、我が国でも将来の都市交通の主役は地下鉄であると確信し、大正九年東京地下鉄株式会社を創設、財政上・技術上のあらゆる困難を克服して、昭和二年十二月上野―浅草間二・三キロメートルに本邦最初の地下鉄を開通し、同九年六月には新橋まで延長に成功した。「米大陸の存する限りコロンブスの名は亡びざると等しく、早川徳次の名は、我が国に地下鉄の走る限り残るであろう」(『石橋湛山全集』第一二巻六〇五頁)とは少時よりの友人石橋湛山の記すところであるが、その多忙な早川が昭和十年以降母校監事として、学苑財政健全化のため田中総長に協力したことは特筆に値しよう。また上原鹿造は、弁護士として法曹界に重きをなし、明治三十六年には一期ではあったが衆議院議員に当選したこともあり、京成電気軌道その他実業界にも関係したが、大正八年以降維持員、昭和五年以降監事として尽瘁したのであった。渡辺亨は昭和七年、埴原の病臥・辞任の後を承けて監事に就任したが、在任二年に満たずして急逝した。渡辺の歩んだ道は、東京日日新聞記者、東京株式取引所書記長、同理事、鬼怒川電気取締役等が主たるものであるが、「早稲田騒動」に際して、大隈が昆田文次郎早速整爾増田義一、渡辺の四名を招いて、校友の力による収拾方を懇嘱し、渡辺らは大いに感激して会合を重ねること幾十回、遂に鎮定に奏功したことを特筆しなければならない。

 更に役職者の中からは、昭和九年四月に第二高等学院長宇都宮鼎、同十二年三月に高等師範部長牧野謙次郎、同十三年五月に専門学校長中村万吉が病没している。宇都宮は海軍の出身で明治二十六年より滞独六年、学位を得て帰国後累進して海軍主計総監に任ぜられ、その間学苑に出講することもあったが、大正十四年よりは学苑教授として財政学を担当し、同時に大正十五年に第二高等学院の第二代院長に就任、田中穂積の追悼の辞によれば、「君は身を以て学徒を率ひ、学生の懇請を容れラグビー部長となれば選手と共に合宿し、軍事教練の野外演習には老軀を提げて学生と寝食を共にすると云ふ熱意を以て事に当られたから、学生が慈父の如く君を敬慕し、院長たる君の命令には絶対服従を守つた」(『早稲田学報』昭和九年五月発行第四七一号四六頁)のであった。牧野は明治三十四年以降学苑に漢学を講じた碩儒であり、同四十四年南北朝正閏問題に際しては南朝正統論を強硬に主張し、第二巻(九三五―九三八頁)に既述の如く、「早稲田騒動」の際には、結局失敗に終りはしたが、松平康国とともに調停に立ち、また大正十三年大東文化学院設立に参画したが、創立後二年余で辞任した以後は専ら学苑にあって教育に専念し、昭和四年には高等師範部長に補せられ、七十六歳の高齢に及んだのであった。中村万吉は明治三十九年学苑文学科(哲学)卒、万朝報社に勤務の傍ら東京帝国大学法科大学を四十五年卒、大正三年学苑講師、民法研究のため海外留学後同七年教授、東京市会議員として活躍したこともあったが、志を政界より断ち、労働法学の先駆者として学界に知られるとともに、東伏見駅前に中村学寮を建設、寮生の訓育指導に当った。学苑の専門学校長に就任したのは昭和十年である。

 また既に役職から離れていたけれども、昭和十四年十月、古稀祝賀論文集の上梓を前に逝去した中村進午が、明治二十七年以降、同三十年より三十二年まで留学中を除き、引続き学苑において国際公法その他を講じ、同四十三年より大正九年までは法科科長として当時専任教員の数が十分とは言い難かった学苑法科の運営に貢献したことについては、既に第二巻(七〇〇頁)に説述したので、ここでは寺尾元彦が、「先生の講義の特色は透徹した声で、明晰な語を緩やかに使はるる間に、巧な諧謔が口を突いて出たことである。学生聴講者は抱腹絶倒一度にドツと笑ふのに、之を語る先生自身は真面目な顔して冷々淡々微笑だにしないので、一層可笑しさを増した」(同誌昭和十四年十一月発行第五三七号三二頁)と追想しているのを記すのにとどめたい。その翌々十六年六月に、還暦を過ぐること数年で病に斃れた佐藤功一が、明治四十二年以降三十三年の長きに亘り、宿痾に往々悩まされながら学苑建築学科の育成に専ら力を注ぎ、明治四十四年より大正十年まで同科主任であったばかりでなく、工手学校や高等工学校にあってもそれぞれの開校時に同じく主任として教程の作成に寄与した功績については、これまた第二巻(三三七―三三八頁)に既述したので、内藤多仲が建築学科草創期の佐藤に関して、「義は師弟であつても情は親子の如く、寺小屋式に理想的の人格教育を為された」(同誌昭和十六年七月発行第五五七号三〇頁)と偲んでいることのみを付記しておく。なお、第二巻(三四〇頁)に応用化学科の設置に際して顧問的役割を演じたと記した理工学部商議員高松豊吉も、昭和十二年九月黄泉の客となっている。

 その他、明治時代より多年に亘って学苑の教壇に立ち学苑の名声高揚に貢献した碩学としては、岡田朝太郎が昭和十一年十一月に、熊本謙二郎が同十三年十月に、柳川勝二が同十四年一月に、氏家謙曹が同年十月に、名誉教授増田藤之助が同十七年一月に、山岸光宣が同十八年十月に、名誉教授高杉滝蔵が同年十一月に物故している。中で最も古いのは増田で、第一巻六七〇―六七三頁にその面影は活写されているが、明治二十七年九月以来昭和十二年三月隠退するまで四十三年余に亘り英語の生字引として内外の尊崇を集めたのであった。岡田は増田より一年後れて学苑に刑法を講じたが、東京帝国大学法科大学助教授(後に教授)として留学を命ぜられた期間ならびに清国政府法律顧問として招聘された期間を除き、二十七年余、三面子と号して貯えた古川柳に関する蘊蓄に裏付けられた名講義で学生を魅了した。高杉については第二巻七〇四―七〇五頁に記した如く、明治三十五年より昭和十八年定年制の適用を受けて引退するまで四十一年間、主として英会話を担当し、早稲田中学にも出講して教え子の多きを誇るのを常としていた。第一回定年教員十七名中、塩沢昌貞松平康国勝俣銓吉郎とともに名誉教授の称号を与えられた四名中に高杉が加えられたのは偶然ではないのである。柳川は同じく明治三十五年より商法その他を講ずること三十六年を超えた。山岸は東京帝国大学独文科卒業後明治三十九年より学苑の独文学科育成に努めるとともに、ドイツ現代演劇研究の先覚者として名声を博した。氏家は帝国大学理科大学卒、明治四十四年より学苑理工学部教授として物理学を講じ、兼任の第一高等学院においては十二年間理科主任として学生に敬愛された。また学苑柔道部長、第一高等学院端艇部長として、早稲田スポーツの向上に尽すところが大きかった。帝国大学法科大学中途退学の学歴を持つ熊本は、夙に明治三十七年より四年余学苑に出講した後、一時学苑を離れて学習院その他官立学校教授として我が国英学界にその人ありと知られたが、大正十年学苑高等師範部に迎えられ、英語科の教授陣充実に資するところが大きかった。

 科外講義専任講師としての新渡戸稲造の学苑における活動については第三巻四九二―四九四頁に説述したが、新渡戸が昭和八年十月故人となり、その異色ある科外講義により聴講者を感動させた期間が数年で終ったのは、同巻一一〇四頁に明らかにした如くであった。

 この時期になると、学苑出身者で母校教壇に立つ者の数は増加の一途をたどったので、鬼籍に入った者も少くなく、ここではその一部に触れるのみにとどめざるを得ない。

 昭和八年三月には、文学部教授繁野政瑠(天来)が、「ミルトン失楽園の研究」により文学博士の学位を得てから僅かに三日、長逝した。繁野は明治二十七年学苑に入学したが、教室には殆ど姿を見せず、詩作に専念し、得業を約半年後にしながら同三十年退学、操觚界に身を投じたが永続せず、英語教育に転身して、中等学校教員検定試験、高等学校教員検定試験に合格、大正十年よりは学苑に迎えられて、高等学院教授、昭和二年よりは高等師範部教授、続いて文学部教授として英詩を講じ、学生の信望を一身に集めていた。繁野より四ヵ月近く後に没したのが法学部前教授杉田金之助であり、明治二十年学苑法学部を卒えた後、アメリカで学位を得、帰国後は判事に任官、更に野に下って弁護士・弁理士として活躍するとともに、明治三十年以降、同四十一―四十四年の韓国特許局審査官在任期間を除き、昭和六年まで前後三十三年間母校で羅馬法を講じて倦むことを知らなかった。

 翌昭和九年二月には、文芸批評家として文名の高かった文学部教授宮島新三郎(大四大文)が大隈会館玄関前で急逝し、同年五月には杉田の後継者として将来を嘱望されることが大きかった法学部教授井上周三(大一二法)が三十六歳の若さで生涯を終えた。更に、同年九月には政治経済学部教授二木保幾(大三大政)が行年四十二年三カ月で病没した。本学の『中学講義』の卒業者として学苑高等予科に入学し、学生時代より学才を塩沢に認められていた二木は、卒業後東京朝日新聞の記者生活二年余、一時実業界に身を投じた後、「早稲田騒動」により弱体化を免れ得なかった母校教授陣強化の使命を托されて、大正八年米・独に留学、同十一年帰国後学苑の教壇に立った。学界へのデビューは同年末社会政策学会第十六回大会における相対性原理と経済理論との関係を主題とする報告であったが、親しくこれを聴いた福田徳三は、二木を自分に譲ってくれと塩沢に懇望したというエピソードが伝えられている。しかしきわめて慎重な性格から、活字となった研究成果は少数にとどまった。二木の愛弟子酒枝義旗は、二木について次の如く記している。

その経済学も経済哲学も、いわば未完成に終ったのであるが、一方においてはアインシュタインの相対性原理に関心を示しながら、他方には竜樹の中論、空観を論じ、また一方にはカントやジムメルを批判しながら、他方にはマルクスとマーシャルの綜合に想をひそめるという経済学者、しかもこれには微塵ほどの単なる思いつきや衒学的粗雑さがなく、一切が厳密な積極的批判の精神によって統一されているという経済学者は、当時の早稲田学園に生々とみなぎっていた自由と批判と、そして寛容の精神のなかにおいてこそ生まれえたのではあるまいか。 (『近代日本の社会科学と早稲田大学』 二三二頁)

 昭和十一年四月には、我が国に最も早くD・H・ロレンスを紹介した一人である高等師範部教授矢口達(大二大文)と、明治三十五年以降多年に亘り美学や美術史を講じ、大正六年には日本美術学校を創立した文学部教授紀淑雄(明二六文学部)とが世を去った。次いで十三年四月には、第二巻六九一―六九二頁に既に触れるところがあった、学苑において三十六年の教歴を持ち、漢詩壇にその人ありと知られた高等師範部教授桂五十郎(湖村、明二五専修英語科)が永眠した。更に十四年一月には、苦学力行して本学講義録合格者として専門部二年に入学、首席卒業後学苑留学生として大正五年コロンビア大学でM・Aの学位を取得、同七年より学苑の教壇に立ち、昭和二年『現代政治の科学的観測』により本邦最初の政治学博士となった政治経済学部教授高橋清吾(大二専政)が、美味飽食の生涯を四十七年余で終えたが、高橋は科学的方法による政治学の体系化に絶大の自信を持ち、学生が参考書の教示を乞うと、自著以外に必読書はないと答えるのが常であった。また翌々十六年八月には、朝日新聞編集部長として活躍、多くの著書により学徒を啓蒙した後、母校に財政学を講じた牧野輝智(明三〇英語学部)が、商学部教授に任ぜられてより五年に達せずして他界した。更に同年十二月には、劇作家として幾多の秀作を世に問うとともに、学苑教授としてギリシャ劇とシェイクスピア劇とを講じた中村吉蔵(明三六文学部)が没している。

 昭和十七年一月には猪俣津南雄(大二専政)が病苦と貧窮のうちに死去した。猪俣は大正四年渡米、ウィスコンシン、シカゴ、コロンビア各大学に学び、帰国後同十年学苑講師として専ら経済学史ならびに農業政策を講じたが、同十二年第一次共産党事件に連座して学苑を去ったので、母校の教壇に立った期間は僅かに二年余に過ぎなかった。「彼のマルクス主義的研究はわが国の資本主義構造に関する一つのまとまった体系的分析にまで結晶されずに、断片的にとどまっている憾みはあるが、日本におけるマルクス主義研究と日本資本主義研究の発達にいちじるしい貢献をなしたことは認めなければならない」(『近代日本の社会科学と早稲田大学』二一六頁)とは平田冨太郎の猪俣評価である。同年五月、昭和九年以降文学部で東洋哲学研究および東洋現代史を講じた高等学院教授出石誠彦(大一二文)が急逝したが、特に中国説話研究者として大成を期待されていただけに、四十歳代半ばでの夭折は惜しまれるところであった。奇しくも享年を殆ど等しくして、同年十月商学部教授長谷川安兵衛(大八大商)が、原価計算指導のため四ヵ月間マレー、スマトラ、ジャワに出張しての帰途、飛行機事故の犠牲となった。長谷川は「英米派の会計学派に属し、きわめて精力的に多数の著作を発表し、会計学の発展と大衆化とに寄与するところが大であった」(『紺碧の空なほ青く』四七八頁)とは愛弟子青木茂男の記すところである。翌十八年五月には文学部教授西村真次(酔夢、明三八大文)が六十四年の生涯を閉じた。校外生より文学科に進んだ西村は東京朝日新聞記者、次いで『学生』(冨山房刊)主幹として、操觚界に文名を馳せた後、大正七年、吉田東伍の後任として学苑に迎えられ、同十一年教授、日本古代史、人類学などを講じ、著述は百冊以上に上った。「自学自修して、早稲田史学の先達の一人となった珍らしい存在であり、その業績をもって学界に重きをなしたばかりでなく、『大和時代』(『国民の日本史』)以下の名著をもって、若き学徒に歴史研究を男子一生の事業としても悔なきものと、感奮興起させた功績は大きい」(『近代日本の社会科学と早稲田大学』四二四頁)とは京口元吉の、また「ありしよき日の早稲田を担う、真のワセダニストとして尊敬に値する偉人の一人」(「西村真次――文人肌の文化人類学者――」綾部恒雄編著『文化人類学群像』三日本編一四三頁)とは水野祐の、それぞれ恩師を偲んでの評言である。同じく十八年十月には、同年四月第一回定年教員として退職した深沢由次郎が逝去したが、深沢は東京専門学校文学部文学科明治三十年中退、大正九年第五高等学校より第一高等学院教授に転じ、更に高等師範部教授をも兼ね、几帳面で厳格な授業で知られていた。

 この時期に物故した永年勤続職員の中には、市島謙吉の片腕とも称すべき大石理圓(明二四邦語政治科)が発見される。大石は大正二年より学苑図書館に勤務、市島をして「図書館の事務を取る人は敢て乏を感じないが図書に鑑識のあるものは得難い」と感嘆させたのみならず、「校正が堪能で、早大出版部の出版物で特に綿密の校正を要するものは皆此人の手を経た」(『随筆早稲田』二三一―二三二頁)と記させているのでも明らかなように、大石在任中に上梓された和漢書目録には誤植が絶無であるとの定評が確立されたのは大石の功績であった。昭和九年定年退職後も嘱託として後進の指導に当っていたが、僅か一年、十年三月他界した。大石の一年後に没した中村芳雄は学苑中退者と推定されるが、明治三十五年以降三十四年の長期に亘り本部職員として在職、昭和七年には副幹事に任ぜられ、教務課長を兼ねて、学苑教務に関する生字引的存在であった。また、既に本百年史において何回か触れるところのあった小久江成一も中村より一年余後に没したが、小久江は川越藩で家老に次ぐ名家の出で、学苑の裏方として、創業時の出版部に、次いで日清印刷の経営に尽瘁した風流人であった。しかし、小久江が家庭の事情で学苑を中途退学した時期については、中村の場合と同じく、学苑の記録から確認することは困難である。

 学苑教職員以外でこの時期に世を去った東京専門学校得業生としては、先ず第一回生中唯一の生存者であった評議員会長斎藤和太郎が昭和十二年五月に電車事故の犠牲者となったのを挙げなければならない。斎藤は学苑創立時に政治経済学科二年生四名中の一人として入学したが、最年少でありながら、「最もタチがよくて卒業するまで第一席を占めてゐた」(『早稲田学報』昭和十二年六月発行第五〇八号六六頁)とは高田の記すところである。操觚界より私鉄経営に転じた斎藤が、創立十周年記念式典ならびに四十周年記念式典と校友代表として祝辞を述べること二回に及んだのは既述したところである。第二回得業生からは、ともに昭和九年に、政治学科広井一(北越新聞社長)と法律学科高山圭三(日本放送協会理事・関西信託取締役)とがそれぞれ一月と三月とに故人となった。第三回得業生からは、同八年十月に既述の渡辺亨が急逝する少し前に、政学部の瀬川光行が病没した。瀬川は読売新聞記者として社会人の第一歩を踏み出したが、三木武吉の僚友として東京市会、更に衆議院に活動の天地を求め、「早稲田騒動」の際にも三木の片腕として鎮静化に資するところが大であった。翌九年二月には、福井県から進歩党代議士として中央政界に活躍した後、武生町名誉町長として郷土に貢献した三田村甚三郎(明二三邦語政治科)が物故した。更に十年八月、明治三十五年冨山房より学苑出版部に転じ、前年末まで三十二年を出版部の経営に捧げた種村宗八(明二六文学部)が長逝した。出版部史に関する種村の手記が出版部を語る際に必読の文献であることは万人の認めるところである。次いで十二年十一月には、第一巻および第二巻に触れること再三に及んだ明治時代の代表的社会主義思想家木下尚江(明二一法学部)が、社会主義と絶縁を表明後二十七年、六十八歳で死去している。更に、十五年八月には、学苑の教壇に立ったこともある自然主義文芸評論家長谷川誠也(天渓、明三〇文学部)が、十八年六月には、江戸文学ならびに浄瑠璃史研究に先人未踏の領域を開拓した水谷弓彦(不倒、明二六文学部文学科第一回卒)が、不帰の客となっている。

 東京専門学校時代の学苑にあっては、得業以前に中途退学した学生が珍しくなかったと推定され、校友会で比較的古く推選校友に推された者の大部分を占めているものの如くである。この時期に鬼籍に入った推選校友中には、第二巻(一二五―一二六頁、六五五―六五六頁)に既述した倉敷の大原孫三郎(昭和十八年一月没)や、京都校友会長として大隈の関西旅行ごとに宿舎万端準備に遺漏なきよう細心の注意を払った藤本ビルブローカー銀行会長谷村一太郎(昭和十一年三月没)などの有名人が発見されるが、大原については明治三十二年十二月より三十四年一月まで法学部に在学し、谷村については明治二十年に英学本科一年後期試験に合格した記録が残されている。

 早稲田大学と名称を改めてから後の校友でこの時期にその死が社会に大きな波紋を投じたのは、昭和十八年秋東条内閣打倒の重臣工作が奏功せず、逮捕、警視庁に拘禁、憲兵隊に移された後、議会開会の前夜、六日ぶりに一時帰宅を許容された十月二十六日の深更に、関兼貞の名刀により割腹の後、左の頸動脈を切断して自尽した中野正剛(明四二大政)を第一とすべきであろう。中野については既に第二巻一〇五頁、一〇八頁その他に触れるところがあり、また昭和五年の「切符事件」の際調停者として見せた峻烈な気魄については第三巻四七七―四八一頁に詳述したが、死の前年十一月十日、大隈講堂で、隻脚の身に些かの疲労も見せず、三時間余に亘り「天下一人を以て興る」と題し、立錐の余地もないほどの学生を前に揮った熱弁は、優に半世紀を超す講堂の歴史を飾る幾多の名演説中でも、長く後世に残るものであった。中野が、

日本の巨舶は怒濤の中に漂つてゐる。便乗主義者を満載して居ては危険である。諸君は自己に醒めよ。天下一人を以て興れ。これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。 (猪俣敬太郎『中野正剛の生涯』 五〇六頁)

と、東条内閣の統制経済政策に対して完膚なきまでの批判の結びの言葉を述べると、学生は校歌の大合唱によってその感激を表明したのであった。

 なお政界にあっては、学苑における中野の先輩で、浜口雄幸内閣時代の鉄道政務次官であり、憲政会ならびに立憲民政党の幹事長を歴任した山道襄一(明三九大政)が十六年五月に、また終始無所属で、権勢への抵抗を以て生き甲斐とし、「仙人」と呼ばれ、懲罰を受けること四回という記録を残した議会の名物男田淵豊吉(明四一大政)が、前年の翼賛選挙で落選した失意の中で、十八年一月に、生涯を閉じている。また、これより先、十二年八月に、北一輝(本名輝次郎)が二・二六事件首謀者として銃殺されているが、北は明治三十七年聴講生として半年間学苑に在学し、有賀長雄などの講義がその思想形成に大きな役割を演じたと言われている。

 中野正剛と前後して学苑に学んだ水谷武(竹紫、明三九大文)は義妹水谷八重子の育成者として、加能作次郎(明四四大文)は『世の中へ』(大正七年)など私小説の作家であるとともに『文章世界』の名主筆として、それぞれ地味な足跡を残したが、水谷は昭和十年九月に、加能は同十六年八月に、生涯を閉じている。

 他科に比べると文学科に中途退学者が多いのは怪しむに足りないかもしれないが、昭和九年二月物故した大衆文学興隆の功労者であり、「直木賞」にその名をとどめている直木三十五(本名植村宗一)について、

明治四十四年というから、直木さんは弱冠二十歳、父の反対を押切って早大英文科予科に入学したが、学費未納の故を以って退学処分を受けた。進退谷まった直木さんは卒業式当日校庭で記念撮影をしている同級生一同を眼にして秘かにこれに加わり、その写真を大阪の父に送って一時を糊塗した。 (永井竜男『落葉の上を』 一八六―一八七頁)

と伝えられている「有名な逸話」のように、大正四年の卒業期に至るまで授業には出席しながら卒業はしなかったというような学生は、寧ろ少数の例外に過ぎないと言えよう。若山牧水土岐善麿の同級生で、明治末より唯美主義の象徴詩で詩壇を風靡するとともに、近代短歌史上にも独自の新風を導入し、大正中期よりは童謡文学を樹立した芸術院会員北原隆吉(白秋)は、昭和十七年十一月病没したが、明治三十七年学苑高等予科に入学後翌年には早くも退学している。なお、新聞人としてまた文芸批評家として縦横の筆を揮った千葉亀雄(昭和十年十月没)は、明治三十五年に専門部歴史地理科傍聴生として登録しているが、いつまで在学したかは明らかでない。