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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十三章 大学令下の学苑財政

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一 収支状況

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 大正九年学苑が大学令による大学として新しいスタートを切ってから、昭和二十四年新制早稲田大学にそのバトンを渡すまでの二十九年間は、学苑が私学の雄として官立大学に伍して劣らぬ地位を確保するために懸命の努力を重ねた時期であった。既にしばしば述べた如く、学苑は大学令による設置基準を満たすため、厳しい財政を強いられた。大学令においては私立大学は財団法人であることを要し、この財団法人は「大学ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金及少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産ヲ有スルコト」が必要であり、この基本財産は「現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券」で国庫に供託しなければならなかった(第三巻四一頁参照)。供託額は一大学五十万円であったが、一学部を増すごとに十万円を加算することになっていたから、政・法・文・商・理の五学部を擁する学苑の場合には九十万円を用意する必要があった。後掲する大正九年度(自大正九年四月至同十年三月)の収支計算表に見られるように、経常部の収入金額が八十一万円、支出金額が七十九万円というのが当時の財政規模であったから、学苑にとって九十万円という供託金の納付は容易でなかった。学苑は供託金を分割して納付する方法を選び、大正十五年度(自大正十五年四月至昭和二年三月)までその供託金の納付を続けた。また大学令は高等学校令に準拠する大学予科を設置することをも認めており、学苑は高等学院を新設したから、多額の新築・設備費も必要であった。学苑は大学令による大学という資格を得るため、かなり背伸びしたようである。

 大正の末から昭和の初めにかけて、宿願の図書館、大隈記念講堂、坪内博士記念演劇博物館が相次いで完成すると、その後に待っていたのは校舎の近代化であった。木造建築は煉瓦造りに、煉瓦造りはコンクリート造りにするための努力が続けられ、建設に明け、建設に暮れる年度が続いている。またこの頃には、体育関係の諸施設が整備され、鋳物研究所、理工学研究所などの研究機関が設けられた。かつては土地建物の取得資金はすべて募金に依存してきたが、この頃になると、基本勘定に繰り入れた経常勘定の剰余金が、土地の取得や建物の建設の重要な資金源となっていた。大学の施設は次第に整えられたが、こうした状態も永くは続かなかった。昭和十六年十二月に太平洋戦争の火蓋が切られ、戦局悪化に伴って、学苑の機能は殆ど停止してしまい、多くの施設が戦火で焼失した。そして二十年八月終戦により戦後の再建が始まったのであるが、この時期、学苑は生き残るための必死の努力を傾けた。

 如上の期間における学苑の収支状況を観察するためには、大正九年度と昭和二十三年度(自昭和二十三年四月至同二十四年三月)の収支決算を比較したいところであるが、昭和二十年度以降の決算数字は、戦後の激しいインフレの影響を受けて名目的に膨張し、それより前の年度の決算数字と殆ど比較できない程になってしまった。そこで、第三十八表に掲げる大正九年度の経常部収支計算表と、第三十九表に掲げる昭和十六年度(自昭和十六年四月至同十七年三月)の経常勘定収支決算表とを比較することにする。因に計算書は、大正十五年度までは経常部収支計算表と呼ばれ、昭和二年度に経常勘定収支決算書と改称されたが、昭和十五年度に更に経常勘定収支決算表と改められた。

 大正十五年度までは、学苑の会計は、日常生活を営む上で必要な人件費や経費などの経常的支出およびそれを賄うための学費その他の経常的収支に係わる経常部会計と、学苑が募集した基金の収支に係わる基金部会計とを区分して決算していたが、昭和二年度からは基本勘定と経常勘定とに区分する方法に改められた。基本勘定では、設備基金その他基金収入の他、借入金、所属財産売却等財産に異同を生ずべき勘定の収入、ならびに所属財産より生ずる諸収入を以てその収入とし、土地建物、機械器具、図書標本什器、有価証券購入代金、建築費、設備費、改良費、借入金償還金等財産に異同を生ずべき勘定の支出、ならびに設備基金その他基金の支出を以てその支出とする。経常勘定では、学費、実験実習料、登録料、試験料、雑収入等を以てその収入とし、報酬、俸給、諸給、実験実習費、所属財産に関する諸費、消耗品費、補助費、その他の諸経費、借入金利子等を以てその支出とする。

第三十八表 大正九年度経常部収支計算表

(「早稲田大学第卅八回報告(自大正九年九月一日至大正十年八月卅一日)」『早稲田学報』大正10年12月発行第322号23―24頁)

経常勘定と基金勘定という区分を採用した場合と、経常勘定と基本勘定という区分を採用した場合とで、経常勘定の収支計算に見られる主たる差異は、前者において経常勘定の支出の部に記載された図書購入費や機械器具購入費が、後者においては基本勘定の支出となる点である。

第三十九表 昭和十六年度経常勘定収支決算表

また経常勘定と基金勘定とを区分した場合には、経常勘定の剰余金は次年度の収入として繰り越され、不足金は次年度以降の剰余金で補塡するため繰り越すか、あるいは経常費を補助する目的で募金した寄附金で補塡されるが、経常勘定と基本勘定とを区分した場合には、経常勘定の剰余金は基本勘定に繰り入れられ、不足金は基本勘定からの繰入金で補塡される。

 このため、大正九年度の経常部収支計算表と昭和十六年度の経常勘定収支決算表とは、単純に比較できない。そこで、大正九年度の収支計算表の収入の部に記載された前年度繰越金八八〇円二二〇、支出の部に記載された図書費一九、九二〇円〇七〇と機械器具費六、一一九円五四〇を除くとともに、昭和十六年度の収支決算表から、支出の部に記載された「基金へ繰入金」八四四、〇〇六円一八を除いて、両年度の収支金額を比較する。これによると、収支決算の規模は、大正九年度の収入が八〇九、三九七円九四五であるのに対して、昭和十六年度の収入は三、四九七、七〇一円八五と、四・三二倍になっている。また支出は、大正九年度が七六九、三九一円二四〇であり、昭和十六年度が二、六五三、六九五円六七であるから、三・四四倍になっている。収入の部の学費は、大正九年度が六八六、〇一四円二三〇であるのに対し、昭和十六年度は二、九六五、三九五円二〇と四・三二倍になっているし、学費に入学金、試験料、実験実習料を含めると、大正九年度では七七三、〇七五円〇一〇、昭和十六年度では三、三六三、二六〇円一〇で、四・三五倍である。これに対して、支出の部の過半を占める人件費(報酬、教員給、職員給、小使給仕職工給または雇員給、雑給、慰労手当または諸手当の合計)は、大正九年度が五三六、一三八円〇四〇、昭和十六年度が一、八二八、〇四一円一七と、三・四一倍となっている。支出金額の増加割合に比べて収入金額の増加割合が大きいのは、昭和十六年度において、土地購入費、建物設備費等の主要な財源が学費等経常勘定の収入に求められたことを物語っている。この間、学生数は、大正九年度において、学部、大学部、専門部、高等師範部、高等予科、高等学院を合せて九、八二四名であったのが、昭和十六年度には、学部、高等学院、専門部、高等師範部の他、大正十三年度開設の専門学校を合せて二〇、三三七名と約二倍に増加した。収支決算規模の増加率が学生数の増加率を上回ったのは、物価騰貴の影響も無視できないとはいえ、学苑の機能がそれだけ充実したことを意味している。

 支出の内容を見ると、昭和十六年度の収支決算表には、大隈会館費、演劇博物館費、鋳物研究所費など、大正九年度当時には存在しなかった諸施設に対する費用項目がある。また体育部費に代って学徒錬成部補助費が加わるなど、戦時下という当時の事情も窺われる。いずれの科目も昭和十六年度の金額の方が大正九年度の金額よりも大きいのが普通であるが、海外留学費のみは例外である。大学令による大学としてスタートした当初は、教員養成のため海外へ留学生を積極的に派遣したが、昭和十六年当時の国際情勢はこれを許さなかったからである。

第四十表 年度別収支状況(大正9―昭和23年度)

 大正九年度から昭和二十三年度に至る期間の経常勘定の収支状況を年度別に示したものが第四十表である。収支計算表の金額は大正十五年度までは厘位まで表示されたが、昭和二年度からは銭位までの表示となっている。昭和三年度と昭和四年度の決算書は入手できなかった。昭和二十二年度の決算書も入手できないが、該年度については、文部大臣宛提出の「事業報告」中の収支決算書から収入および支出の金額を推定できた。以下、本章に掲げる諸表中これらの年度の金額を欠いているのは、すべてこれと同じ事情による。なお、大正十年度と大正十四年度の収支決算では、土地売却金と借入金とが収入の部に含まれる一方、それに見合う土地購入費と建設費とが支出の部に含められているので、第四十表ではこれらの金額をそれぞれ収入と支出の金額から除いてある。

 大正十五年度までは、収支余剰は次年度に繰り越され、収支不足は賛助会補助金により補塡された。大正期には、十年度、十二年度および十四年度において収支金額が支出金額に不足しているように、収支の適合は必ずしも容易でなかったようである。大正十年度と十一年度の決算は次のように説明されている。

大正十年度決算の説明

大正十年度経常部会計ハ故総長葬送費及追悼会費ヲ除クトキハ多少ノ剰余金ヲ生ズベキ筈ナリシモ此臨時事件ノ為メ金二万五千四百二十八円五十七銭五厘ノ不足金ヲ生ジタリ

大正十一年度決算の説明

右収入増加ハ主トシテ入学志願者ノ増加ニ伴フ受験料ノ増収ニ依ル

支出増加ハ主トシテ営繕費、創立四十年記念式費、故総長伝記編纂賛助金及総長墓所鳥居献納費、大隈会館費等ノ臨時支出アリタルニ依ル

 また、決算の説明ではないが、大正十三年度と十四年度の予算について次のような説明が付されている。当時の収支状況を物語る資料の一つとして、左に紹介しておこう。

大正十三年度経常部予算の説明

本年度予算ハ震災ノ影響ト経費ノ自然的増加ノタメニ収支ノ適合頗ル困難ナルガ故ニ専門部及工手学校入学希望者ヲ極度ニ収容シ両高等学院及高等師範部ニ於テモ制限以上ニ入学生ヲ増加シ同時ニ夜間専門学校ノ新設ニヨリ学費、登録料、試験料等ニ於テ約十五万六千円ノ増加ヲ計リタルモ翻テ教職員給其他ノ人員費ニ於テ自然的増加ニヨルモノト夜間専門学校ノ新設其他学級数ノ増加ニ基ク経費ヲ合算スレバ約九万円以上ヲ増加シ物品費ニ於テ極度ノ節減ヲ加ヘタルモ尚ホ且ツ震災後ノ物価騰貴ノタメ或種ノ費目ハ却テ増加シ又臨時費ニ於テハ主トシテ理工学部ノ設備補充ノタメ約三万円ノ増加ヲ余儀ナクセラレタルガ故ニ震災復旧工事ノ急ヲ要スルモノ尠カラズト雖モ営繕費ハ之ヲ前年度ニ比シ僅ニ七千余円ノ増加ニ止メ辛ウジテ収支ノ適合ヲ計レリ

大正十四年度経常部予算の説明

本年度予算ハ之ヲ前年度ニ比較シ収入ノ部ニ於テ約二十万円ノ増加ヲナセルハ(一)学費引上、(二)出版部ニ対スル土地売却金繰入、(三)借入金ノ三項目ニ職由スルモノニシテ支出ノ部ニ於テハ学費引上ニヨル財源ヲ以テ主トシテ(一)教職員増俸、(二)営繕費増加、(三)薪炭費増加、(四)図書費増加ニ充当シ土地売却金ヲ以テ学生ホール建設費ニ充テ借入金ヲ以テ工手学校製図室建設費ニ当テ以テ収支ノ適合ヲ計レリ

 しかし昭和期に入ると、決算方法が変更され、経常勘定の支出の部から図書費や機械器具費が除かれたこともあって、毎年度かなりの剰余金を基本勘定に繰り入れている。決算書を入手できない昭和三年度と四年度を除き、昭和二年度から十九年度までに基本勘定に繰り入れた剰余金は四、九三八、五八六円六三に達している。かつて土地や建物の取得は基金を募集して行ってきたが、この頃になると、経常勘定から基本勘定への繰入金がかなりその財源として用いられたようである。昭和二十年度から二十三年度にかけては、収入金額は支出金額に不足し、不足金を基本勘定からの繰入金で補塡しており、繰入金額は三、三九六、九九〇円四七に達した。

 第四十一表は、収入総額と学費等の学生納付金とを年度別に比較したものである。ここで学費等は、学費の他、実験実習料、登録料(入学金)、試験料を含めてある。学費等の金額は収入総額のほぼ全額に近い。しかし、昭和十二年度から数年間、収入総額に占める学費等の割合は若干低下している。これは、昭和十二年度に理工学部特別研究費として寄附された二十万円を収入の部に受け入れるとともに、支出の部に同額の研究費を計上したためで、その後の諸年度には、未使用残高が繰越金として収入の部に記載されるとともに、それと同額の研究費が支出の部に記載された。経常勘定にこうした多額の寄附金でもない限り、経常費の増加は直ちに学費改訂を以て対処しなければならなかった。このため、大正九年度に学部九十円、高等学院・高等師範部七十円、専門部六十円であった年間学費は、数回の改訂を経て、昭和十七年度には学部百九十円(理工学部二百十円)、学院百七十円、専門部百七十円(工科百九十円)、高師百六十円となった。その後は毎年改訂され、昭和二十三年十月には、学部、学院、専門部、高師の区別なく学費は五千七百円(理工系六千九百円)にまで達した。

第四十一表 収入総額に占める学費等の割合(大正9―昭和23年度)

 東京の小売物価指数は、昭和九―十一年平均を一とする戦前基準総平均指数で捉えると、大正十一年に一・五四〇であったのが昭和六年に〇・八八五まで下がり、その後反転して十七年には一・七六六、二十年には三・〇八四、そして二十一年から急上昇して二十三年には一四九・六にまで達している(『明治以降本邦主要経済統計』八〇頁)。物価騰貴の中で学苑が生き残るには、学費の増額もやむを得なかったであろう。しかし、学費増額は可及的に避けなければならない。後年、諸施設の拡充資金を学生の納付金に求めることが次第に多くなり、折に触れてその可否が論じられた。この点に関し、昭和九年十月維持員会で選ばれて学費増額案を審議した小委員五名による次の決議は注目される。半世紀も昔の決議ではあるが、そこに示された希望条項は、多少の修正は必要であるとしても、学校経営に携わる人人がいつの時代においても心に留めておくべきであろう。

学校当局ノ提案ニ賛成ス。但左ノ希望条項ヲ附ス

一、通常支出ニ対シテハ、通常収入ヲ以テシ、施設ニ対スル費用ハ原則トシテ別途ニ収入ノ途ヲ講ズルコト

一、学費増加ノ資金ヲ以テ

(イ) 教職員ノ待遇ヲ改善スルコト

(ロ) 海外留学生ヲ増員スルコト

(ハ) 学生ノ就職斡旋ニ就テ更ニ一層ノ努力ヲナス為ノ費用ヲ増加スルコト

一、通常支出ハ自然増加ヲ免レザルモノナレバ可成的節約ニ努メラレタキコト

第四十二表 支出総額に占める人件費総額の割合(大正9―昭和23年度)

 第四十二表は支出総額と人件費とを年度別に対比したものである。支出金額中に占める人件費の割合は、昭和初期に八〇パーセントまたはこれに近い年度も見られるが、概ね七〇パーセント弱にとどまっている。昭和十二年度に支出総額に占める人件費の割合がかなり低下したのは、この年度に、六〇一頁に前述した理工学部指定寄附金があって、それだけ研究費に対する支出が加わったためである。また昭和二十年度には、支出総額に対する人件費の割合はほぼ五〇パーセントまで低下した。これは、二十年五月二十五日の空襲により大被害を受け、そうした中で終戦により学窓に復帰する多数の学生を迎えなければならなかったことから、多額の修繕費を必要としたため、また、終戦直後からドッジ・ラインの効果が現れる二十四年半ばまで続いた激しいインフレの中で、人件費の改善を行ったものの、物件費がそれに輪をかけて増加したためと思われる。

二 資産と負債

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 第四十三表は大正九年度末(大正十年三月三十一日)の財政状態を示した貸借対照表であり、第四十四表は昭和十六年度末(昭和十七年三月三十一日)の財政状態を示した貸借対照表である。これらを比較すると、資産総額は三、七九四、三二二円一二一から一五、九六三、〇二六円八〇と四・二倍に増加していることが知られる。経常収入は大正九年度から昭和十六年度までの間に前記の如く四・三倍に増加したから、資産総額の増加率は経常収入の増加率とほぼ同じである。また負債の総額は、大正九年度末で、土地購入借入金、未経過収入、預り金、未払金を合せて二二一、五三三円一二〇であり、昭和十六年度末で、仮受金、預り金、未払金を合せて二、六五六、一三六円六九である。負債の金額は同じ期間に十二倍になっており、資産総額に対する負債総額の割合は、大正九年度末で五・八パーセントであったのが、昭和十六年度末には一六・六パーセントになっている。

 昭和十六年度末の負債の内容を見ると、仮受金の金額が大きい。大正九年度末の負債のうち未経過収入も、昭和十六年度末の負債の中の仮受金も、説明が付されていないので、内容は不明である。しかし学校会計では、しばしば、入学前に納付された新入学生の学費がこの科目で、負債のうちに含めて記載されている。

第四十三表 大正九年度貸借対照表(大正10年3月31日現在)

(「早稲田大学第卅八回報告(自大正九年九月一日至大正十年八月卅一日)」『早稲田学報』第322号 23頁)

第四十四表 昭和十六年度貸借対照表(昭和17年3月31日現在)

 こうした資産と負債との関係について、大正九年度末から昭和二十三年度末までの推移をたどると、第四十五表の通りで、資産総額の増加とともに負債の額が大きく増加しているのが分る。昭和六年度末(昭和七年三月三十一日)には六十八万円に達した借入金もその後漸次返済され、昭和十六年度末から昭和二十年度末(昭和二十一年三月三十一日)までは借入金なしの状態が続いた。従って、この頃における負債の増加は、仮受金の増加に主たる原因があった。これは、昭和二十一年度以降の負債増加についても妥当する。しかし昭和二十一年度末(昭和二十二年三月三十一日)には五百十万円が、そして昭和二十三年度末(昭和二十四年三月三十一日)には二二、九一五、五八〇円と、負債のうちほぼ三分の一が借入金となっている。昭和二十三年度末には資産総額に対する負債の割合は実に七三・二パーセントにまで達した。

第四十五表 資産と負債(大正9―昭和23年度)

 学苑が貸借対照表と収支計算表の他に財産目録を作成するようになったのは、大正九年度からであった。それ以前に資産負債表と呼ばれる計算書が作成されたことはあったが、これは貸借対照表の前身とでも言うべきものであり、財産目録とは異っている。財産目録は会計年度末の資産と負債の明細を示すものであり、大正九年度の財産目録は第四十六表のように作成された。この財産目録において、未収基金五六七、八一四円七二〇は御大典記念事業資金と大学基金の申込額のうちの未収分である。未収基金は、今日では一般に資産として扱われることはないが、当時はこれを基金申込者に対する大学の債権と看做し、資産のうちに加えていた。またこの財産目録では、負債のうちに未経過収入が含められていないが、未経過収入も負債に含めて記載するのが正しい。財産目録は、貸借対照表と異り、資産と負債の明細を表示している。従って、こうした財産目録を観察することにより、当時学苑がどのような資産を持っていたか、またどのような負債があったかを、知ることができる。その後、財産目録は毎年度貸借対照表や収支計算表とともに作成されてきたが、様式は次第に改善されている。第四十七表は、記載方法が大幅に改善された昭和十六年度の財産目録であるが、これには負債の記載がない。

第四十六表 大正九年度財産目録(大正10年3月31日現在)

(「早稲田大学第卅八回報告(自大正九年九月一日至大正十年八月卅一日)」『早稲田学報』第322号 23頁)

 こうした財産目録により大正九年度から昭和二十三年度までの土地建物の取得状況を示したものが第四十八表である。大正九年度から大正十五年度までの財産目録では、土地は校地と投資土地とに区分して記載されていた。例えば大正九年度について言えば、校地は総坪四四、六八四坪九八、金額にして六五一、四九七円三九八であり、投資土地は総坪八、四五二坪二、金額にして二一七、七五八円八三〇であった。しかし第四十八表では、その後の年度との比較に便利なように、これらの金額を合算して示してある。この表から、大正九年度より昭和二十三年度までの間に、学苑の土地は坪数で二・六倍、金額で四・〇倍に増加

第四十七表 昭和十六年度財産目録(昭和17年3月31日現在)

したことが分る。一方、建物は、同じ時期に金額で二十三・一倍に増加した。これは、戦後の激しいインフレ下で、戦災で失った建物の復興が急速に進められた結果、建物の金額が異常に膨張したためである。そこで、大正九年度から昭和十九年度までの期間を見ると、建物の金額は四・八倍に増加したことが知られる。建物の延坪数は昭和七年度(自昭和七年四月至同八年三月)の財産目録で初めて記載され、昭和七年度から十九年度までの間に建物の延坪数は一・六二倍に増加した。

第四十八表 年度別土地および建物の状況(大正9―昭和23年度)

 昭和七年度から財産目録には土地および建物について個別に坪数と金額とが記載されているので、昭和七年度より二十三年度までに学苑所有の土地や建物にどのような変化があったかを、観察できる。第四十九表は土地について、第五十表は建物について、その推移を示したものである。これらの表で坪数に増減のないまま金額が変化しているのは、土地の改良や建物の模様替が行われたのであろう。また金額が同じであって坪数のみが増減しているのは、実測による訂正ではないかと考えられる。第四十九表において昭和十三年度に増加した鋳物研究所敷地は、その年度に減少している荒井山所有地が転用されたものである。

 主要な建物は、図書館の増築や本部建物および武道館の完成した昭和八年度までに、ほぼ取得された。昭和七年度末において、教室一、六六一、九四五円七六の内訳は、煉瓦建教室六二、八〇四円一四、コンクリート建教室八〇七、八四八円七四、木造建教室七九一、二九二円八八であり、木造校舎が半額近くを占めた。その後、鋳物研究所、理工学研究所、艇庫その他が建設されたが、昭和十年代に全力が投じられたのは、こうした教

第四十九表 所有土地の推移(昭和7―23年度)

室の拡充と近代化とであった。しかし、教室の建設は戦局の悪化とともに昭和十七年度から完全に停止し、更に二十年には、本編第五章に詳述した如く、恩賜記念館、大隈会館、理工学研究所とともに、多くの教室が空襲により灰燼に帰してしまった。

 なお、本章冒頭に言及した、大学令による国庫への供託金九十万円は、有価証券で供託する場合その証券の額面価額で計算すればよかったから、実際の支出はそれよりも少く済んだ。学苑は低利の国庫証券を額面価額よりも安く購入して供託するという方法で、資金の節約を図った。供託を開始した大正九年度の財産目録に見られる供託有価証券一三一、九六一円九四一は、同年度末までに供託した有価証券の購入価額である。供託は大正十五年度に完了したが、供託有価証券の総購入価額は五三八、二八三円六八一であり、その内訳は仏貨四分利公債(額面価額二、〇二八、五〇〇フラン)四七七、三四五円一八と、日清生命保険株式会社株式一、五〇〇株六〇、九三八円五〇とであった。昭和十六年度にこのうち日清生命保険株式会社株式を売却し、三分半利公債を買ったため、この年度末の供託有価証券は五五〇、六四五円一八となっている。昭和十六年度の財産目録に記載された公債の一部に、供託したこの有価証券が含まれていることは、当時こうした供託が大学の死活問題として騒がれた割には、あまり気づかれていない。この仏貨四分利公債と三分半利公債とは昭和二十四年三月現在なお学苑の所有有価証券として存続し続けた。

三 基金の推移

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 大正九年四月、学苑が大学令による大学として再出発した時点で、基金は二、五六二、六二九円九一九に達していた。このうち七三〇、八七八円六七〇は未収であった。その後、基金は新たな申込金額を加えて大正

第五十表 所有建物の推移(昭和7―23年度)

十五年度末には二、六四八、〇二五円三九九に達し、未収金も逐次払い込まれて二五五、六九四円を残すのみとなった。明治三十四年三月に初めて基金の募集に着手してから大正十五年度末までに払い込まれた基金の内訳は、左の通りである。

第一期基金

二三四、七六五円七一〇

第二期基金

七三九、八五三円四七九

御大典記念事業基金

五九八、六三六円七一〇

大学基金

八一九、〇七五円五〇〇

合計

二、三九二、三三一円三九九

 しかし、大正十五年度時点で、資産総額は五、一一五、九七三円一六五(うち未収基金二五五、六九四円〇〇〇)に達していた。借入金、預り金、未収金等の負債をこれから控除した正味身代、すなわち純資産は四、五三一、四五九円七二九であり、未収基金を除いても四、二七五、七六五円七二九に達していた。純資産額が基金の払込金額を超える差額は、預金および有価証券利子・土地売却益等の基金部収益金、経常勘定より支出した図書器具類の資産振替額や年金積立額、賛助会残高その他特定寄贈金、経常勘定の剰余金、文部省補助金などから生じたものであった。大正十五年度末において、こうした金額は次の通りである。これらの金額もまた、基金払込額とともに、大学経営に必要な自己資金を形成するのに大きく貢献していた。

 昭和二年度(自昭和二年四月至同三年三月)に学苑は会計規程を改め、経常勘定と基本勘定という会計区分を採用するとともに、基金を源泉別に分類する方法から使用目的別に分類する方法に変更した。この会計規程の改正は大正十四年十一月の維持員会に諮られたが、会計上きわめて重要な変更であっただけに、議論区々で結論に至らず、その後会計規程案審査委員を選んで一年越しの検討を重ね、漸く大正十五年十二月八日の維持員会で決定、翌年度より実施された。この会計規程によると、基本勘定において基金は左に掲げるように第一基金から第七基金までの七基金に区分された。このうち第五基金は実際には設定されなかった。また政府補助金はこの段階ではいずれの基金にも含めず、独立項目として扱われた。従前の基金勘定と新しい基金勘定との関係は必ずしも明確でないが、第一期基金、第二期基金、御大典記念事業基金、大学基金などは第一基金に、賛助会残高は第三基金に、教職員年金積立金は第四基金に、基金収益金は第七基金に組み替えられたものと思われる。

第一基金 土地建物、機械器具、図書、標本、什器、其他ノ設備ニ充ツル目的ヲ以テ寄附セラレタルモノ

第二基金 元本ヲ据置キ其ノ利子ノミノ使用ヲ条件トシテ寄附セラレタルモノ

第三基金 経常収入ノ不足ヲ補充スル目的ヲ以テ寄附セラレタルモノ

第四基金 教職員ニ対スル年金ノ給与生命保険料ノ支弁ニ充ツル為毎年度経常勘定ヨリ繰入レタルモノ

第五基金 所有固定財産ノ減価償却ノ為経常勘定ヨリ繰入レタルモノ

第六基金 経常勘定ノ剰余ヲ繰入レタルモノ

第七基金 基本損益勘定ノ剰余ヲ繰入レタルモノ

 昭和二年度末(昭和三年三月三十一日)と昭和五年度末(昭和六年三月三十一日)の基本勘定の明細は、次の通りである。昭和三年度および四年度は、資料を欠き、不明である。

昭和二年度には、大隈講堂の完成に伴い、故総長大隈侯爵記念事業資金特別会計から建物六五八、六三七円九四を学苑の会計に受け入れるとともに、この金額を第一基金に組み入れている。また昭和五年度にはこの特別会計の収支決算を行い、その残高五八〇、七六〇円三一を第一基金に組み入れた。昭和五年十二月開催の定時維持員会において、昭和五年十二月末日現在を以てこの特別会計を基本勘定に繰り入れることを決議したが、第五十一表はこの決議書に添付された特別会計収支決算書であり、また第五十二表は基本勘定へ繰り入れた時の計算書である。大正十一年四月に記念事業完成のための寄附金二百万円の募集を開始してから八年の歳月を経過し、申込金額は一応その目標額に到達したものの、なお多くが未収となっていた。特別会計を学苑の会計に繰り入れるに際し、この未収資金は打ち切られている。かつては、募金に要する経費を募集金額のうちより支出するのは寄附者の厚意を減殺するとして、経常勘定より支出する心意気を見せた学苑も、この時の募金経費は募集した資金のうちから支出している。このため、故総長大隈侯爵記念事業資金特別会計から学苑の会計に繰り入れられた金額は正味一、二三九、三九八円二五にとどまった。この他、昭和五年度には、教職員に対する退職慰労金弔慰金の給与に充てるため、高田早苗の古稀記念として寄附された金額が、高田基金として加わっている。なお、当時、演劇博物館の建設に関し、坪内雄蔵より宅地四百坪および建物九十坪が寄贈されるとともに、寄附金の募集が行われ、昭和三年十月十日現在で左の如き会計報告が、実行委員長市島謙吉名により行われている。

第五十一表 故総長大隈侯爵記念事業資金収支決算書(昭和5年11月29日現在)

第五十二表 故総長大隈侯爵記念事業資金の基本勘定への繰入計算書(第2回――昭和5年12月31日現在)

 昭和七年二月二十九日、維持員会は基本勘定について再び会計規程を改正した。この結果、第一基金を設備基金、第三基金を経常勘定塡補基金、第四基金を教職員給与基金と改称した他、第二基金と政府補助金を設備基金に合併し、第六基金と第七基金を合せて繰越金と呼ぶことになった。また第五基金は廃止された。このため、昭和六年度末(昭和七年三月三十一日)と昭和七年度末(昭和八年三月三十一日)の基本勘定は、次のようになっている。

 昭和九年一月二十三日、維持員会はまたも会計規程を改正し、設備基金、経常勘定塡補基金、繰越金を合併して、これを単に基金と呼ぶとともに、この際、恩賜金を別科目として分離した。またこの昭和八年度に大隈基金と教職員基金とが新設された。その後、昭和九年度(自昭和九年四月至同十年三月)に佐藤文庫基金が、昭和十年度(自昭和十年四月至同十一年三月)に小野奨学基金が、昭和十四年度(自昭和十四年四月至同十五年三月)に出版部基金が、昭和十八年度(自昭和十八年四月至同十九年三月)に研究費基金が、昭和二十三年度に奨学基金が新たに設定された。こうした基本勘定の区分法は、決算報告にその後長く使用されることになる。昭和八年度から二十三年度までの基本勘定の推移は、次頁に掲げる第五十三表の示す通りであった。基金勘定は二十三年度には基本金勘定と改称している。

 創業期において早稲田大学の財政基盤は、いわゆる「世の理解ある人々」の寄附金の上に築かれた。大正九年に大学に昇格した後も、大学基金、故総長大隈侯爵記念事業資金、高田基金、坪内博士記念事業資金をはじめとして、折に触れ募金が行われた。『早稲田大学八十年誌』には、左の如き二つの挿話が載っている。

世にも美わしい母校愛の発露ともいうべき一挿話があるのを紹介しておこう。それはこの年〔昭和十年〕の三月十四日に、「早稲田大学商学部校舎改築促進会発起人会」というものが結成されたことである。大学が企図する商学部の校舎改築を、同学部出身者の手によって実現し、これを大学に贈呈しようとする運動である。親の苦労を傍観しているわけにはいかないという孝行息子の叫びであり、五〇年来早稲田の伝統が培って来たグッド・ウィルの現われである。そしてこの発起人会は、主題そのままの促進会となり、五月一日に、建築費一六万八、〇〇〇円で四階建鉄筋コンクリート造一、二〇五・五坪の校舎をつくり、設備費と共に金三〇万円の募金額を決定し、直ちに募金運動にのり出したのであった。 (二四三頁)

紀元二六〇〇年並びに創立六十周年記念事業として、その基金一〇〇万円を公募し始めたのは、昭和十二年の初頭の候であったが、その間に日支事変が起き、政局が予期しない方向に走ったのと、経済界の事情が募金に適当な時期でなかったため、十五年の十二月にいたって、やっと申込額が九七・九万円に達したような有様だった。そしてこの速度も最近になってから急増したもので、これは明らかに軍需工業の激増による景気の恢復と、校友たちの懐具合がよくなった結果であろう。しかも十六年一月末には申込額が、一一四万六、四二八円になり、募集金額を上廻り、一カ月間に一六・七万余円も増加しているのである。こうなると募集する方もいい気なもので、十二月に学報にのせた勧進帳には、募集金額をうたっていたが、十六年一月からは応募金額一口三〇円以上として、公称の看板を下してしまった。この際出来るだけ沢山いただき度いというわけでもあるまいが、先例によると実収額が減少するのが常識であったからであろう。 (二五一―二五二頁)

第五十三表 基本勘定の推移(昭和8―23年度)

 昭和二年度の会計規程の改正により、基本勘定において基金が使用目的に従って区分され、基金勘定に経常勘定からの繰入金が含まれるようになってから、「世の理解ある人々」の貢献が必ずしも明確にされていない。しかし、決算報告書によると、昭和七年度から十九年度までの寄附金は、基金に対し一、二七二、二一七円九九、大隈基金その他の諸基金に対し七二七、六五七円三三、経常勘定に対して三六四、三五二円七〇であることが知られる。同じ期間に経常勘定から基本勘定へ繰り入れた金額は、基金勘定では四、四三七、一三九円〇九、教職員給与基金と研究費基金勘定で一、四五三、一七七円三一であるから、学苑財政の寄附金への依存度は低下した。この時期には、明らかに学苑の財政は、校舎の建設資金をも含め、学生の納付金により強く支えられていたのである。

第五十四表 昭和二十三年度貸借対照表(昭和24年3月31日現在)

 しかし、昭和二十年度以降、経常勘定が赤字に転じ、基本勘定からの繰入金が必要となる一方、戦災により失われた校舎の再建が開始すると、学苑は再び「世の理解ある人々」に窮状を訴え、援助を求めた。昭和二十年度から二十三年度まで四年間の寄附金は、基金勘定では二、九三三、二九四円八二、経常勘定では一七、六六〇円〇〇であった。また、本編第十一章第二節に説述した如く、昭和二十二年七月に総長を会長とする早稲田大学復興会が結成され、全国八万の校友、二万五千の学生父兄、および一般社会の篤志家に訴え、復興費一億円の寄附金募集を開始した。第五十四表に掲げる昭和二十三年度の貸借対照表には、二十四年三月までに学苑が受け入れた復興資金八、三三八、一五九円〇六と、特定寄附金六三八、六一六円七八とが見出される。