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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十八章 点鬼簿の中から(下)

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一 第二次大戦末期

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 前章に記した学苑関係物故者の調査に際して利用するところが最も大きかった資料は『早稲田学報』である。五三三―五三四頁に前述した如く、『早稲田学報』は戦況が我が国に不利に展開してからも昭和十八年四月まで月刊を維持した。尤も一号当り平均頁数は、昭和十四年六十二、十五年六十、十六年五十四、十七年四十七と減少し、十八年に入ってからは毎号二十頁台に激減したのであった。ところが、五、六両月は刊行されず、七月に至り、「今後本誌の発行を一月、四月、七月、十月の年四回季刊と致します」(一五頁)と記して二十八頁建の第五七九号が会員に発送され、二十頁の十月号は配付されたが、翌十九年、十頁の一月号が刊行されたのを最後に、何らの通告もなく発行は中断された。『早稲田学報』が復刊したのは昭和二十三年九月であったが、この間学苑と校友との連絡を保つのに、教務部により四頁建の『早稲田学園彙報』が十九年十月より二十年五月まで計五回刊行され、更に終戦後昭和二十二年には、学苑教育普及課により『早稲田大学彙報』が四月発刊され、月刊四頁(創刊号のみ八頁)を建前として翌二十三年七月まで十四号(二十二年八月および十二月を除く。二十三年一月からは発行所名が早稲田大学彙報編輯室と改められた)を数えた。また『早稲田大学新聞』は五九〇頁に既述の如く、昭和十九年五月二十日を最後として二十一ヵ月に亘る沈黙を余儀なくさせられた後、二十一年二月二十五日『早大新聞』の名称により復刊、同年五月十五日付第六号よりは紙名も『早稲田大学新聞』に復帰して同年中に計十八回、二十二年に二十回、二十三年に十九回刊行されている。このように、『早稲田学報』の休刊期にあって、殊に昭和二十年六月から二十一年二月までは、その欠を補う刊行物は学苑内部からは何ら上梓されなかったので、この間の消息に関しては、学苑百年の歴史を通じて資料的に最も薄弱であると認めざるを得ない。二十三年九月刊の『早稲田学報』復刊第一号は八頁、以後月刊として定期的刊行が開始したが、毎号四頁が原則であり、休刊前に比べれば未だ十分に満足できるまでに学苑内外の情報を伝えるものではなかったのである。

 さて、昭和十九年八月に第四代総長田中穂積が病没したことは既述の如くであるが、その半年前には市島謙吉が、またその一年足らず後の二十年七月には塩沢昌貞が、世を去っている。

 市島謙吉は古稀祝賀会の謝辞の中で、「振り返つて考へますのに、私は四十二歳の厄年に大患に罹りまして、其後数年養生を余儀なくされましたが、実は平生身体には無頓着で随分無理をやつてゐますのに案外頑健で、此十年ばかりは病といふことを全く存じません。それは何故かと考へて見ますと、全く早稲田の学苑に居るお蔭と思ひます」(『早稲田学報』昭和四年十一月発行第四一七号一二頁)と自ら述べたように、晩年には、坪内、高田に比し健康な身体の持主だったようである。しかし昭和六年維持員を辞し、九年日清印刷株式会社長を辞任してからは、一切公職から離れ、随筆の執筆・寄稿、ラジオ放送、揮毫を以て老後の仕事としたと言われている。春城の号で執筆した随筆はいずれも好評で、昭和六年頃から中等学校教科書に転載された作品も多数に及んだ。

 しかし盟友坪内、高田を相次いで失い、昭和十五年には愛妻にも先立たれ、その心境は落莫たるものがあったと思われる。それでも筆まめな市島は日記や随筆の執筆を続け、十五年から翌年九月にかけ『養痾漫筆』十四巻、十八、十九年には『比甲斐』(いずれも未刊)を書いている。なお、彼は青年期より日記や随筆を書いていたが、いつの頃からか、将来編纂されるであろう大学史の資料を残す目的で日記等を克明に記すようになった。早稲田大学図書館に残されている十九年三月十五日から三十一日に至る間に記された手帳が、その絶筆である。

 十九年四月一日思わぬ病に臥した市島は、遂に再び起つことができず、同月二十一日牛込の自宅で永眠した。享年八十四歳。太平洋戦争の最中で、日本の敗色が濃厚になった時であったため、高田新聞社長、新潟新聞・読売新聞主筆、衆議院議員等の輝かしい経歴を持ちながら、自己の事蹟は早稲田大学を離れては一つもないと称していたほど学苑に打ち込み、一時講師として教壇に立ったほか、会計監査、図書館長、理事、名誉理事、維持員、出版部主幹、早稲田中学校幹事等の要職を歴任して学苑発展のために尽力した市島に報いるに、学苑は盛大な葬儀を以てすることができなかった。二十四日自宅でしめやかに葬儀・告別式が執行され、遺骨は郷里の新潟県北蒲原郡豊浦村大字五十公野の塋域に納められた。昭和三十五年に催された市島春城先生生誕百年記念祭に当って印刷された『しおり』に、学苑図書館長大野実雄の執筆した「春城先生の生涯を追慕して」の一部を次に引用して、遺徳を偲ぶこととする。

明治・大正・昭和の三代にわたる八十有余年の生涯を通じて、文字通り空白というものをもたない本館初代館長市島春城先生の一生は、一日本人の生活記録としても偉観であります。これを海洋にたとえるならば、若き日の政治教育者としての、巨巌に吠える波濤のように音高く叫んだ日々から、晩年の広い意味での文明伝導者としての、実に悠々たる深海の静けさにいたるまで、幾重にもたたみこまれた豊饒の御生涯でありました。しかも、海の色の深さによる種々相はほんの外観にすぎなくて、実はすべて透明の水の集積につきているように、その一生はおどろくほど澄みきつておりました。私は先生を追慕するとき、永遠の海の若さと、そのはかりしれない生産力を想います。この海洋は今日も生き、その水しぶきは渚にあそぶ私たちの眠りをときにたたき、またときにやさしくぬらしてくれるようです。

(早稲田大学図書館『市島春城先生生誕百年記念祭のしおり』 一―二頁)

 塩沢昌貞は水戸市に生れ、東京専門学校英語政治科を首席で卒業後、ウィスコンシン大学大学院においてリチャード・T・イーリー教授につき経済学を学び、ドクター・オヴ・フィロソフィーの学位取得後ドイツに留学、ハルレ大学のヨハネス・コンラート教授、ベルリン大学のアドルフ・ワグナー、グスタフ・シュモラー両教授の教えを受けた。塩沢は同期卒業の津田左右吉の如く多くの業績を著書として残すことはなかったが、法学博士、帝国学士院会員として学界に重きをなし、また国際連盟協会国際会議、社会政策国際会議に日本代表として出席するなど多彩な活動をした。津田とともに東京専門学校時代の学苑が生んだ双璧と言えよう。また塩沢は、高等師範部教務主任の中島半次郎、大学部文学科教務主任の金子馬治とともに、明治三十七年大学部政治経済学科および専門部政治経済科において教務主任に嘱任され、学苑出身者として初めて教務を掌ることになったばかりか、科長、学部長、理事を歴任し、平沼淑郎の後を承けて大正十年学長に就任、更に、短い期間ではあったが第二代総長にも推された。塩沢は総長を退いた後も昭和十七年秋まで政治経済学部長として後進の養成に尽瘁した。翌十八年三月定年のため教授を辞したが、名誉教授に推され、なお理事、維持員としてしばしば学苑にその姿を見せた。しかるに二十年春以来病に臥し、静岡県伊東町で静養していたが、七月七日午前十時三十分永眠した。享年七十四歳。時に我が国の敗色はますます濃く、混乱の時代であったため、学苑はこの功労者の葬儀を執行することができなかった。七月十七日付で発送された早稲田大学の通知状には、「葬儀ハ昨十六日御自宅ニ於テ近親ノミニテ執行セラレ候」と記されていた。

 塩沢は学界、実社会、あるいは本学苑に尽すこと多大であり、また外国語に堪能で、外国語で話す時は水の流れるようであったが、一見風采は上がらず、日常会話では弁舌も訥々として吃りがちであった。しかし意思は頗る強固で、正しいと信じたことはどこまでも貫き通した。戦時中国防色一色に塗り潰された時代に、塩沢は愛用の黒い帽子と黒い洋服で押し通したという逸話が残っている。昭和四十六年、塩沢の生誕百年記念講演会が一年遅く学苑で挙行された際、北沢新次郎は左の如く想い出を語ったのであった。

塩沢先生は、早稲田大学が生んだ典型的の経済学者で、その社会政策的の見識は、学界においても、一般社会においても指導的役割を果したことは周知の事実であります。しかも、教授として先生は後輩、学生に対しては、極めて親切で、不明の点については諄々として説いて少しの疲れも見せなかったばかりか時間のたつのも忘れていた程であります。実に先生は所謂「為文不厭・論人不倦」という古語を地でいった方で、これについては興味あるエピソードがあります。授業前に教員室におられた塩沢先生は、教員の質問に丁寧に答えられ、授業の時間になるのを忘れるのが常で、大抵二十分から二十五分位遅れて教室に来られ、おもむろに講義を始めます。するとじき授業の終りのベルが鳴りますと先生は「もうベルかね」と学生にいって出て行きます。このようなことが慣習になりましたので学生達は塩沢先生を「もうベル先生」と呼ぶようになりました。

(『早稲田大学史記要』昭和四十七年三月発行第五巻 一二五頁)

 三尊中最も高齢を保った市島が天寿を終えてより一年余、旧大隈邸と庭園とは米機の焼夷弾により灰燼に帰し、更にその四十数日後、大隈に心服すること最も深かった塩沢が白玉楼中の人となっては、学苑の大隈色は一段と希薄化を免れず、戦後復興に際してもはや専ら大隈の過去の名声に依存することは許されなかった。終戦は学苑にとっては、名実ともに大隈よりの乳離れを意味したと言っても過言でなかろう。本編第八章に説述した如く、昭和二十一年五月の新校規第六条には「本大学ハ維持員会ノ議ヲ経テ名誉総長ヲ推挙スルコトヲ得」と、旧校規第四条の「本大学ハ設立者侯爵大隈重信ノ家督相続人ヲ名誉総長ニ推薦ス」との規定を改め、それに従って大隈信常を引続き名誉総長に推薦はしたが、その逝去後は大隈家から名誉総長を推挙することはもはやなく、乳離れを内外に闡明したのであった。

 学徒出陣より終戦までの二十ヵ月余には、右の市島、田中、塩沢以外にも、大隈なり学苑なりを語る際に逸すべからざる何人かが鬼籍に入っている。例えば、十九年四月には、文学科第一回卒業生の一人中桐確太郎が永眠した。中桐の在学中の成績は金子馬治に次ぐものであったが、学苑の教壇に迎えられたのは金子より十年遅く、高等師範部および両高等学院教授として論理学その他を講ずること、前年に定年制実施により退任するまで通計三十七年に及び、短期間ではあったが高等師範部長にも任ぜられ、西田天香の一燈園の熱烈な後援者としても、日本温浴史の研究者としても聞えていた。また同月、専門部法律科教務主任の商法を専攻する長場正利(大一二法)と、原始社会の研究者として高い評価を与えられ、文学部に社会学専攻を設置する原動力となった寡作の碩学で、石橋湛山の無二の親友であった関与三郎(明三九大文)とが日を接して没した。更にその二ヵ月後の六月には、明治三十七年平沼の推薦により新設の学苑商科に迎えられた小林行昌(明三一高等商業学校専攻部卒)が死去したが、小林の学問領域は、末高信の記しているように、「商業関係の諸学科の殆ど全部を覆うていて、……商業算術にはじまり、商業英語、商業売買論、関税論、ないし外国為替論等の諸学科にわたり、何れもその学問の先駆者ないし開拓者として、精深なる研究を行い、それらの著作は学界において基準的な書物としての評価をうけ」た(『紺碧の空なほ青く』五八頁)のであり、三十九年に及ぶ学苑の教壇生活の間には、専門部初代商科長として行政面に貢献したこともあった。なおこの年八月には、「早稲田騒動」直後手薄となった教授陣補強のため学苑に迎えられ、大隈の知遇を受けること厚く、大隈生誕百年記念出版『人間大隈重信』(昭和十三年刊)執筆を依嘱された赤門出(明三三)の政治学者で、物忘れの名人・逸話の泉として知られた五来欣造(素川)が没し、九月には、学苑キャンパスの旧所有者の息であり、既述(第二巻六五三―六五四頁)の如く学苑の式典にはしばしば校友総代に選ばれて学生に広くその名を知られた貴族院議長、学苑前理事・維持員会長、伯爵松平頼寿(明三五邦語法律科)が卒去した。更に翌十月末には、鋳物研究所の生みの親とも言うべき校賓各務幸一郎(第三巻九一〇―九一一頁参照)の訃が報じられた。次いで同年十二月には、その雄弁において大隈の衣鉢を継ぐと自負するところがあった元学苑教授であり、国際的には「世界民族平等」、国内的には同志社以来の恩師安部磯雄の「社会政策実施による福祉国家」建設への理想に燃えて政界に転じてからは、拓務、逓信、鉄道各大臣を歴任し、校友中最初に総理の印綬を帯びるであろうと期待された永井柳太郎(明三八大政)と、専門部法津科長および法学部長を歴任した信託法研究の権威であり、時代に先んじて著書の横組を敢行した遊佐慶夫(明四四専法)とが長逝した。翌二十年一月には、明治二十四年以来五十余年間学苑に漢学その他を講じ、東洋学については大隈の顧問とも言うべき役割を演じ、「早稲田騒動」に際しては、失敗に終ったとはいえ前述(七六七頁)の如く牧野謙次郎とともに調停を試みた名誉教授松平康国(明一九―二一ミシガン大学在学)が、また同七月には、明治二十九年邦語政治科卒業後直ちに学苑本部に勤務、寄宿舎副舎長、高等予科主事、副幹事を歴任、大正四―十二年には幹事として活躍し、『早稲田大学沿革略』(未刊)その他の編者として本大学史に貴重な資料を遺した前田多蔵が他界した。なお終戦後まで通知は到着しなかったが、この年一月には、前年六月に応召した前科外講演部長、国際政治を専攻した政治経済学部教授川原篤(昭三政)が漢口で戦病死していたのであった。

 その他、既述(一五七頁)の如く、第二高等学院教授郭明昆(昭六文)は、学徒出陣が実施された十八年十二月、台湾帰省の船舶もろとも海底の藻屑と散り、翌十九年一月および二月には、第一高等学院創設以来の教授吉川秀雄(明三九東京帝国大学文学部卒、国語担当)および秦孝道(同志社英学校よりハリス理化学校に転じ明治二十四年同本科中退、数学担当)が相次いで逝き、また七月には、明治三十五年より大正七年まで草創期の学苑商科に簿記と会計とを講じた東京高等商業出身の吉田良三が没し、十二月には第二高等学院教授、時事英語の第一人者花園兼定(明四三大文)が急逝したことを付記しておく。

 この時期に不帰の客となった教職員以外の校友としては、古河鉱業より電線事業界に投じて指導的役割を演じ、維持員として学苑に奉仕すること厚かった崎山刀太郎(明三八大政、昭和十八年十二月没)、大衆作家として多作を誇った三上於菟吉(明四四高等予科入学、中退、推選校友、十九年二月没)、私小説の代表作家近松秋江(本名徳田浩司、明三四文学部、十九年四月没)、今日なお歌い継がれている多数の童謡や民謡を世に送った野口雨情(本名英吉、明三四高等予科入学、中退、推選校友、二十年一月没)、民俗芸能の学問的分析の開拓者小寺融吉(大七大文、二十年三月没)が数えられる。

二 終戦、復興、新制大学移行前夜

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 終戦後年余、二十一年十月二十八日には、その数年前までほぼ四十四年の長きに亘り政治経済科・学部で政治学その他を、文学科・学部でフランス革命史その他を講じた名誉教授浮田和民(明一二同志社英学校卒)が八十七歳の生涯に終止符を打った。そもそも坪内により学苑に招請され(『浮田和民先生追懐録』一四八頁)、大隈が満幅の信頼を寄せるに至った浮田については、第一巻七三八頁、第二巻一二八―一三三頁その他にしばしば説述するところがあったが、

多数の人民が承服しないなら、国家は一日として存立しない。国家も君主も多数人民の服従する間のみ、その権威を維持することができるという考えは、彼の論作のいたるところで発見される。彼の国家観は社会学的であり、大体マキヴァーRobertMorrison Maclverのそれに近い多元的国家観であって、当時としては非常に新しい国家観と見られるものであった。しかし、浮田の本領はこうした体系だった教科書〔的概説〕よりも、その広い知識を背景とし、鋭犀な判断力をもって時事の諸問題を自由に批判することにあったように思われる。 (『近代日本の社会科学と早稲田大学』 六三頁)

吉村正が記しているのにも窺われる如く、五十歳台の十年間を学苑当局と「協議」の上、雑誌『太陽』の主筆として活動した浮田は、漫りに妥協することのない高邁な識見により、多数の崇拝者を学苑内外に生み出した。その没後、知友・門弟による浮田追慕の「白水会」が、昭和二十七年以降毎年浮田の命日、またはその前後に開催され、学苑が創立百周年を迎えた年には第三十一回を数えた如きは、影響力の大きさを如実に物語るものであり、他にその例を見ないところであった。浮田は学苑内では、図書館長(明治三十三―三十五年)、高等師範部長(同三十七―四十年)、維持員(同四十―大正六年)に比較的短期間就任した以外には重要役職に就かず、それが研究と健康とに資すること甚大であったと当局の配慮を大いに徳としていた。大正九年三月十五日、その外遊を前にして学苑首脳により開かれた送別宴の答辞中に、

自分の名は和民なれども、人或は洋民なりと云ふ。如何にも自分が早稲田に救はれざりせば、日本に居り所なく、西洋に逃げ込み洋民となりたらん。

と浮田が「滑稽を弄し」たと、市島謙吉が日記に記している(『小精廬日録』三)が、これは決して阿諛ではなく、たまたま浮田がその本音を漏らしたと見るべきであろう。

 なおこの年には、二月二十四日、政治経済学部で行政法を講じた会津生れの熱血漢天川信雄(大一二政)が講演旅行の途次病を得て仆れたのをはじめとして、三月十四日には、山本有三の『路傍の石』のモデルと称された教育学・教育史担当の文学部教授稲毛金七(詛風、明四五大文)が逝き、四月十三日には、「早稲田騒動」で学苑を去り、東北帝国大学教授として日本思想史講座を創設し、津田左右吉事件の後数年は学苑講師をも兼ねた村岡典嗣(明三九大文)の訃が報じられているが、当時猖獗を極めた発疹チフスは艾年にも達しない新進学徒の生命をも奪っている。すなわち、四月五日には宮本逸治(昭七東北帝大卒)、翌六日には森儁郎(昭三文)がその犠牲者となったが、第一高等学院・専門部工科教授宮本は昭和十五年に学苑に迎えられて数学を担当し、森は槐南の息で文学部助教授、第一高等学院教授・学生係、版を重ねること多数、外国語速修書流行の先鞭をつけた『独逸語四週間』の著者であった。また既にこの年には古稀を過ぎて学苑の教壇からは離れていたが、明治の昔から学苑とは因縁の浅くなかった学苑出身者ではない遠藤隆吉(明三二東京帝大哲卒)と桑木厳翼(明二九帝大哲卒)とが二月五日と十二月十五日とに没している。秋元律郎が「自由奔放に生きた明治の社会学者」(『早稲田百年と社会学』一六四―一六五頁)と記し、大道安次郎が「アメリカ社会学の導入〔と〕心理学的社会学をもっとも早く、かつ鮮明に主張し〔て〕その後の日本社会学の主流をなした心理学的社会学への先駆的役割を果したこと」(『日本社会学の形成』二二八頁)とをその我が国社会学史において果した積極的役割として挙げている遠藤は、明治末より昭和初期に亘り学苑教授として、主として文学科・文学部の授業を担当し、短期間政治経済科や法律科や高等師範部にも出講したが、文学科・文学部では、社会学の講義は次第に関与三郎に委ね、自らは支那哲学史に力を注ぐようになった。桑木は学苑では終始講師であったが、遠藤よりも出講期間は長く約四十年に及び、哲学史と哲学概論とを担当した。桑木の名を読書人の間に高からしめたのは明治三十三年の著『哲学概論』であるが、本書はそもそも学苑講義録に掲載されたものをまとめたのであった。その講義ぶりについて、樫山欽四郎は、

東京帝国大学教授というようないかめしい感じはなく、当時〔昭和初年〕すでに学界の一方の旗頭であったはずなのだが、それを表に出すようなことは決してしなかった。むしろ、江戸ッ子であったためか、時に冗談を言ったりしていたし、早稲田を愛する態度が見えていたように思われる。 (『紺碧の空なほ青く』 五六頁)

と記している。

 更にこの年には、明治十八年第二回得業生として政治学科より巣立った山田英太郎が八十三歳の生涯を六月六日に終えている。山田は、朝野、報知両紙に健筆を揮った後、日本鉄道株式会社に入社、日露戦争後、常務取締役在任時に日本鉄道が政府に買収されたので、成田鉄道に転じて社長・会長にまで昇進、岩倉鉄道学校長をも兼ねたが、学苑関連の事業に関しては、第五編第二十一章に説述した如く、明治三十九年日清生命保険株式会社創立発起人の一人であり、昭和四年取締役会長に就任しているし、大正三年には校友俱楽部設立委員長として永楽俱楽部生みの親にもなっている。「早稲田騒動」に際しては調停委員の一人として鎮静化に努力し、直後の校規改定調査委員に選ばれ、大正七年以後母校維持員に名を連ねて昭和十七年に及んだのであり、実業界における早稲田人の大御所的存在であった。

 明けて二十二年一月十一日、名誉総長大隈信常が易簀した。大隈信常は肥前平戸松浦詮伯の五男、明治三十二年東京帝国大学法科大学卒業、既述(第一巻四七一頁)の如く大隈英麿が南部家に復籍した翌月の三十五年十月、大隈家令嗣として熊子養女光子(重信夫人綾子姪)と娶され、学苑維持員および教授(大正七年まで、担当科目西洋史、英語その他)に就任、三十八―四十年ケンブリッジ大学留学、大正四年衆議院議員、大正十一年襲爵と同時に貴族院議員、翌十二年学苑名誉総長に就任したのであった。終戦後一年数ヵ月、学苑は漸く復興の緒に着いたばかりであったが、一月二十一日、大隈講堂で大学葬を執行した。初代総長の葬儀は「国民葬」であったから、学苑が「大学葬」の礼を以て功労者に報いたのは、百年の歴史の中で、三代総長高田早苗(昭和十三年)、四代総長田中穂積(昭和十九年)に次いで、このたびの三回に過ぎないのである。

 奇しくも右と全く日を同じうして、名誉教授五十嵐力(明二八文学部)が七十二歳の生涯を閉じている。五十嵐は明治三十四年以降定年に至るまで学苑の教壇に立つこと四十三年余、文学部国文学専攻科初代主任教授、短期間ではあるが文学部長にも就任し、その著『新文章講話』(明治四十二年刊)は洛陽の紙価を高からしめ、また『国歌の胎生及び発達』(大正十三年刊)により新学位令下学苑最初の文学博士の学位を授けられ、更に『純正国語読本』(昭和四年刊)により国語教育界に新風を吹き込むよう努めるなど、学苑文学部の柱石の一人であった。その告別式は隠栖の地西多摩郡成木村で行われたが、文学部長谷崎精二が昭和二十二年四月二十五日付『早稲田大学彙報』に記したところによれば、当日は、

多数の旧知門下が東京から参列いたしました上に、成木村の村民たちで式場はあふれるばかりでありました。さながら成木村の村葬と申上げたい位、村民始め村の有志、学童までが先生の御遺徳を慕つて参列した盛儀は、日本の国語・国文学のために一生を捧げられた先生の御終焉を飾るものとしていかにもふさはしいものでありました。

更にその半月余り後の一月二十七日には、既に昭和六年、南京政府顧問就任のため学苑を去ったが、明治二十八年以降講師、同四十年以降教授として、三十数年間学苑で憲法および行政法を講じた副島義一(明二七帝大法卒)が没した。「小野梓によって拓かれた科学的憲法学の正統を継承し」た(『近代日本の社会科学と早稲田大学』三二六頁)副島の憲法は、明らかに天皇機関説の「系譜の筆頭」に置かれるべきであったが、天皇機関説問題が火を吹いた際にはもはや副島は学苑教授の肩書きを持たなかったので、副島もまた学苑政治経済・法両学部も、国体明徴論者の執拗な攻撃の標的になるのを免れたのであった。続いてその翌月には、半世紀以上に亘り愛矯たっぷりの東北弁によるりベラリズムの主張で学生を魅了した元教授内ヶ崎作三郎が急逝している。内ヶ崎の略歴は第三巻四九〇―四九二頁に既述したが、その政界進出の際には、第二高等学校での二年後輩で生涯を通じて親友であった吉野作造や、朝日新聞社での吉野の同僚柳田国男が、内ヶ崎の選挙応援に宮城県の北端まで足を延ばしたところ、柳田はあまりにも殺気立つ聴衆にほとほと困惑して、以後一切選挙演説を謝絶するよう決意するに至ったとの逸話が伝えられている。内ヶ崎は政界では、第一次近衛内閣の文部政務次官、衆議院副議長などを歴任したが、学苑の教授なり講師なりとして二足の草鞋を穿いていた時代に、休講掲示の頻発とともに成績評点「優」を激発して一部の学生を喜ばせたとはいえ、科外講義の量と質とを一時期の学苑の名物にまで高めた功績は、「早稲田騒動」収拾の際に演じた貢献とともに、忘れるべきではなかろう。

 この年十月二十六日、前図書館長、前政治経済学部長、前常務理事(二十一年一―六月総長事務取扱)林癸未夫(明三八大法)が病没した。林は大正十年古河鉱業より学苑に迎えられ、政治経済学部に社会政策、工業経済などを講じたのであったが、新図書館の建設・運営と病総長代理としての終戦処理とに学苑が林に負うところはきわめて大きかった。前年の第一回総長選挙において林の得票は津田に次いだが、林には前総長中野のイメージが重なり過ぎているとの批判が学内にあるのを察知して、津田の就任辞退により行われた再選挙には、出馬の意がないのを周囲に漏らしたと伝えられている。林は絵筆を手にしたり、広範囲の文献に親しんだり、ラグビー蹴球部長就任後はスポーツにまで一家言を有するに至る趣味人であったが、終戦前後の筆舌に尽し難い過労は、理事退任後の林をやがて病床に呻吟させることとなり、再び起つことはできなかった。翌月五日執行された林の告別式の式場には、大正十二年十月新築計画立案時以来この年二月まで二十三年余に亘り館長として心血を注いだ図書館のホールが選ばれている。

 林に先立つこと半月余、同月九日には清廉を以て聞えたクリスチャンでりベラリストの政客田川大吉郎(明二三邦語政治科)が、半年前の東京都知事選に一敗地にまみれた失意のうちに生涯を終えた。前後九回衆議院に議席を得た田川は、権威に屈することを潔しとせず、昭和十七年翼賛選挙には非推薦で落選したが、その際、同志尾崎行雄の反軍的応援演説が尾崎に舌禍を招き、不敬罪で起訴されるという波瀾を生んだのであった。文壇では、田川よりも殆ど三十年も年少の横光利一がこの年十二月三十日に鬼籍に入っている。大正五年高等予科に入学、五年間在学したが文学科へは進学できず、最後は専門部政治経済科で除籍となったのが、「文学の神様」横光の学苑時代であるが、

横光は卒業するということよりも、在学中に作家修業を積んで、なんとか一日も早く文壇に出たいという焦慮に駆られていたように思われる。これは当時の作家志望の文科生気質の一つのタイプでもあった。横光は登校するのは試験の時だけで、へいぜいは下宿で孜々と小説を書き続けていた。 (『日本の近代文芸と早稲田大学』 一六〇頁)

と記した浅見淵(大一五文)は、横光が出世作「日輪」(大正十二年)以来四分の一世紀の間流行作家的存在を続けることのできた最大の理由は、「いつも時代の流れに先行して時代の好尚の核心的なものを嗅ぎつけ、それをば逸早く作品のモティーフにしていたことである」(同書一六一頁)と指摘している。

 翌二十三年五月二十一日、長身白哲、貴公子然たる風貌の前総長中野登美雄が、五十六歳十ヵ月の生涯を学苑の一隅の仮寓で閉じた。既に二十一年一月二十四日、在任僅か一年四ヵ月余で中野は総長を辞任したが、宿痾に蝕まれた中野の健康は肩の重荷を下ろした安堵感を以てしても好転せず、しかも同年公職追放の追い討ちを受けて耐乏生活に追い込まれ、訪客も稀な寂しい最期は悲運と言うほかなかった。

 追放がいかに大きな苦痛を心身に与えるかは、健康を誇っていた高等師範部教授杉山謙治(大一二商)が、教員適格審査に不適格の判定を受けてから一年数ヵ月、この年五月二十三日に中野の後を追ったことによっても知り得られよう。初代第二高等学院長杉山重義を父とする杉山謙治は、第二高等学院教授として同学生係主任、教務主任を歴任し、本部調査課長を兼任した後、昭和十五―二十年は学徒錬成部の首脳として内外の注目を集めたのであった。

教授は流石に永年の学園を去るに際し一抹の寂莫の感があつたかと思いますが、然し教授は不適格の判定は男児として悦んで受理するが、自分の思想と言行には少しも後悔する所はないという意味のことを申されました。之れは日頃の教授の信念と人格を彷彿たらしむるものがあるかと思われます。 (『早稲田大学彙報』昭和二十三年六月二十日号)

とは、高等師範部長赤松保羅が追憶の辞に記したところである。

 この年には学苑の現役のスタッフ中から、法学部教授金沢理康(大一五法)が一月十七日に、理工学部教授黒川兼三郎(大五大理)が五月一日に失われた。ザクセン・シュピーゲルの邦訳により学界に認められた金沢は、比較法制史的研究の将来を期待されたが、戦争末期に病を得て再び起たず、他方大正十二年、理工学部に工業基礎実験室を開設して理科的要素の導入に努め、昭和十七年、電気通信学科開設の功労者である黒川は、電気回路衝流理論の著述を完成することなく急逝した。広田友義は、黒川について、

故博士は電気音響工学の吾国に於ける開拓者で、その業績の代表的なものは大隈講堂の音響設計のかがやかしい成果として、学園関係者に永く記憶されねばならぬ。 (同誌昭和二十三年七月二十日号)

と追懐している。

 同じ年に他界した校友の中で、学界における国際的な知名度から見て第一に指を屈せられるのは、八月十一日アメリカで客死した学苑文学科第三回首席得業生・エール大学名誉教授朝河貫一である。朝河については、第一巻九三六―九三九頁にその略歴を説述したが、復刊後第二年度を迎えた『早稲田学報』は第三巻第九号(昭和二十四年十月発行)を一周忌記念の朝河博士特輯号として、八頁中実に四頁あまりをその追悼記事に割いている。今世紀初め、我が国の史的発展の解明が欧米学界の課題として漸く登場した頃、彼の地の編集者が欧文による学術論攷の寄稿を安んじて依頼し得たきわめて少数の本邦人学徒中、五指に必ず入ったのが朝河であるのみならず、西欧封建制と日本封建制との比較研究に関するその先駆的業績は、今日なお必読の文字と言わなければならない。朝河は明治三十九―四十年に学苑の教壇に立ったことがあるほか、右の『早稲田学報』には岡村千曳が「朝河教授の思ひ出」と題する一文に、

〔昭和五年〕から数年の後、当時教務幹事であつた私は、理事の金子〔馬治〕先生から、「朝河君は定年で近日中エールをやめるから、早稲田に招き度いと思ふ。何とか工夫があるまいか」といふ相談を受けた。私は勿論大賛成であつたが、当時本学に於いて停年制を実施したばかりであつた関係上、残念乍ら何とも工夫の余地がなかつた。 (七頁)

と記しているが、学苑の定年制実施が確定したのは金子理事の逝去後であるから、岡村の記憶には若干の錯誤があり、恐らく定年制実施を検討中であったため、朝河の招聘は実現の運びに至らなかったのであろう。

 そのほか、文壇からは、ジャーナリズムに、文学評論に、明治・現代文学史研究に、また昭和期に入っては水戸学研究に、幅広く活躍し、日本大学で教鞭も執った高須芳次郎(梅渓、明二八文学部)が二月二日に、また二十代半ばで学苑に入学、既に予科時代にその作が歌舞伎座で上演され、教室には殆ど出席しなかったが、岡本綺堂を師と仰ぎ、卒業までに商業演劇の劇作家として認められるに至った額田六福(大九大文)が十二月二十一日に、他界している。

 学苑が新制大学に移行する五十日以前の昭和二十四年二月十日、安部磯雄(明一七同志社英学校卒)が八十四歳に垂んとする一生を終えた。安部が社会民衆党委員長就任のため学苑の教授を辞したのは昭和二年であるが、翌三年には講師を以てしても両立困難として二十九年間在職した学苑と全く袂を別ったのであった。安部が学苑で担当したのは社会政策、都市問題その他多数の科目に及んだが、久保田明光は、

安部が明治・大正・昭和を通じて日本の社会科学に寄与したところは、鋭い論理の力をもってしたというよりも、むしろ彼の誠実・真摯な人格と一貫した信念によって裏づけられた、かわらざる思想によってであったというべきであろう。

(『近代日本の社会科学と早稲田大学』 一六四頁)

と記している。世人が学苑と結びつけて脳裡に浮かべることが最も多かった人物は、大隈を別として、高田、坪内に次いでは恐らく安部であった時期が存在したと言っても必ずしも誇張ではなかろう。学苑を辞任後も久しきに亘り、無産政党の党首としてよりは、早稲田大学のキリスト教社会主義者として、また名野球部長として、安部の名が人々に記憶されることが多かったと記したらば、あまりに身贔屓に過ぎるであろうか。尤も、学苑が安部に名誉教授の称号を贈ったのは、教授辞任後殆ど二十年に近い昭和二十一年十二月であった。それには、安部の教授辞任が第三巻に説述した労農党委員長大山郁夫の教授留任運動で学苑が騒然とした時期であったことも無関係でなかったかもしれないが、昭和十六年に小林久平、引続き浮田和民が名誉教授に列せられるまでに、学苑でその称号が与えられたのは、坪内雄蔵(大正四年)、浅野応輔(大正十三年)、増田藤之助(大正十四年)の三名を数えるのみであったことも想起されるべきであろう。名利を追わず栄達を望まぬ安部については、幾多の逸話が真偽とりまぜ残されている。安部が我が国における社会主義運動揺籃期以来顕著な役割を演じたにも拘らず、非合法運動と明確な一線を画し続けたのはその信念の然らしむるところであり、また明治末以降、体育部長(明治三十四年)、高等予科長(明治三十五年)、維持員(大正四―六年)、理事(大正六年)、図書館長(大正八年)、政治経済学部長(大正九年)等学苑の要職に就きながら、野球部長(明治三十四―四十年、明治四十三―大正十五年)と庭球部長(明治三十六―四十三年)とを除いては、短期で退任しているのは、恐らくその淡泊な性格によるものであろう。安部から教室で与えられた強い印象を、文化勲章受賞者・日本芸術院会員村野藤吾(大七大理)は次のように記している。

高等予科時代の真昼の暑くてうだるような日、我々学生には「上着を脱いでもよろしい」と言われながら、ご自身は上着を脱がずに講義をされた安部磯雄先生。この「自らを厳にして、人を許す」精神が、私に何とも言えぬ感銘を与え、「これが大学なのか……」と、その自由な気風を感じとって、早稲田にきてよかった、と感慨にふけったものである。

(『紺碧の空なほ青く』 四二二頁)

 なお、この年には、「一党一派に偏せず、吉野作造以来の自由主義の伝統をつらぬき、近代日本の言論界・思想界・学界・文学界に数々の金字塔をうち立てた」(同書三八〇頁)と藤田圭雄(昭五文)が絶賛を惜しまない、安部よりも二十二歳も年少の中央公論社社長嶋中雄作(明四五大文)が一月十七日に病没している。