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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第十六章 戦前・戦中・戦後のキャンパス周辺

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一 三転した早稲田界隈

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 学苑創立以来の早稲田界隈の変化は大雑把に見て三期に分けられるであろう。神田猿楽町で生れ明治四十年に早稲田に転居して界隈の推移を詳知していた故名誉教授中村宗雄は、次のように述べている。

これは震災、終戦を区切りにした三期に分けられると思う。明治十年過ぎこの辺は茗荷畑がいっぱいあって、ちょっと人家があった。そこへ東京専門学校ができ、これを中心に発展した。だいたい震災のころまでに、いろいろな都市造りの基本ができた。そして震災によって、ひなびた田園の町から発展した市街地、さらに近代都市大東京の一環へと移り変わった。早稲田の町造りができたころには、東京市は中央に文化の中心があり、早稲田の正門も神楽坂に向いていた。都市が大きくなるにつれ、ドーナツ現象で外へ広がって、山手線ができ、そちらの方が繁盛しだした。昭和の初めころから早稲田の正門も戸塚の方へ移るのではないかといわれていました。それが現実に形となってきたのは終戦のころからじゃないですか。終戦後はあの焼野原がこれだけに復興したということで、今更申し上げるまでもなくみなさんご承知のことです。

(座談会「早稲田わが町――界隈今昔――」『早稲田学報』昭和五十年三月発行第八四九号 一六頁)

 関東大震災と空襲罹災後の敗戦の二つを画期とする右の三区分、いわば早稲田界隈三転説とも言うべき見方は、恐らく大きな反対なしに受容されるところであろう。尤も、この画期は、単に学苑界隈の変化の指標にのみとどまるものではなく、東京そのものの江戸期以来の景観と環境が三転した大きな境界になっているのであるから、早稲田周辺の変貌は、東京の変化のミニアチュアであると言えよう。

 さて、この早稲田界隈三転説の第二期、すなわち関東大震災以降の学苑を取り巻く環境に関しては、既に第三巻第六編第十章で昭和初年までの大きな変貌の跡を詳述したから、ここでは、それを補足しつつ、ほぼ敗戦直後頃までのキャンパス周辺の様相とその変遷について記すことにする。

二 早稲田の学生街

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 昭和十年前後までの卒業生にとって、学苑周辺の中でも特に正門前から山吹町に延びている鶴巻通りを中心にした一種のゴミゴミとした街並みと、そこより醸し出される何とも言えない雰囲気とは、大変懐しいものであろう。その頃まで、否、勤労動員や空襲に明け暮れて学苑から学生の姿が消えてしまう頃に至っても、学生生活の中心は鶴巻町であったと言っても誤りではない。通りには古本屋あり、文房具店あり、食堂あり、喫茶店ありで、いつも学生でゴッタかえしており、またその裏には下宿屋が櫛比していた。鶴巻通りから徒歩で二十分足らず先には神楽坂の繁華街があった。昭和初年まで学生は、少し金があると神楽坂まで足を伸ばし、また、たとえ金がなくとも一廻りしなければ眠れなかったというほど、神楽坂と学苑とは切っても切れないほど強く結びついていた。新庄嘉章(昭五文)は、「一頃僕は中野にいて牛込駅までの定期を買い、神楽坂を通つて学校に行つたものだ、歩いて二十五分位かかつた。帰りには必ず『紅谷』や『カフェ・プランタン』に寄つたものだつた。谷崎精二先生も今は謹厳な顔をしておられるが、昔は辞表を懐にして神楽坂を遊弋したものだね」(座談会「今昔の早稲田――凉風放談――」『早稲田学報』昭和二十五年九月発行第六〇四号二六頁)と、往時の教員や学生と神楽坂との緊密さを回顧したが、その結びつきの一端が窺えるであろう。既述の如く、学生の足はやがて神楽坂から新宿に向きを変えたが、鶴巻町一帯は、かつての賑やかさは次第に薄れたにせよ、依然、早稲田と言えば大方の脳裏に連想される学生街を形成していた。

 早稲田界隈すなわち学生街の特徴は、下宿屋、食堂、喫茶店、古本屋、銭湯等の存在であろう。そして、これらに、その時々のレジャー施設としての玉突場やマージャン屋あるいは映画館などを加えると、外見こそ異っても、大体現今でも大差ないであろう。

 第三巻二七七頁に、「娯楽設備として映画館・劇場などが(大正末期―昭和初期の早稲田大学周辺には)不備」であったと記したが、これに寄席を加えても一応妥当すると言ってよかろう。大正六年の「早稲田騒動」に際して、そのクライマックスとも言うべき九月十一日の「革新派」の演説会は早稲田鶴巻町にあった早稲田劇場を借り切って行われたが、この早稲田劇場は、明治以来の小芝居「早稲田座」が改称したもので、その後先代源之助が女定九郎を演じて満員になったりしたことなどもあったが永続きせず、遂に歌舞伎を断念して浅草歌劇の上演により学苑の学生を惹きつけようとする試みも結局成功せず、早稲田キネマと更に名称を改めて映画館に転身したが、最後は軍需工場として終戦を迎えるの余儀なきに至っている。

 寄席も学苑の近辺に幾つかあった。中でも大正から昭和初頭にかけて、神楽坂には、毘沙門堂から坂に向って右手の横町に神楽坂演舞場があり、これは以前は石本亭という浪花節席であったが、のち神楽坂演舞場と改称し、大正から昭和初期にかけて、四谷の喜よしと並んで山の手の代表的な寄席として、下町の上野鈴本や人形町末広と肩を並べていた。地方政治家千葉博巳が席主で、客には学苑生も少くなかった。学苑から向ってここより少し手前の同じく右手の横町に、明治末年頃まで佐藤某経営の藁店という寄席があり、明治四十年頃地下に喫茶部や食堂を開設するなど斬新な試みをしたが、成功せず、人手に渡って映画館の牛込館となった。更に手前の牛込肴町の市電停留所から赤城神社へ向う通寺町に映画館の文明館があり、その裏手に、昔の大関剣山、引退後年寄武蔵川が席亭だった牛込亭があった。このあまり入りのよくない寄席の近くにそば屋の更科があり、若干高価ではあったが、贅沢な一部学苑生の間には評判がよかった。ここから早稲田方面に向い、矢来町より江戸川橋方向に進んだ矢来下の左側に、大正中期に建築された貸席の八千代俱楽部があり、既に人気の衰えた娘義太夫の自主公演などが行われた。更に、学苑に通じる正門前の通りには、山吹小学校(戦後の赤城台高等学校)近辺に、寄席の格から言えば一段下であったが、浪花節の寄席として有名な大和亭があった。漫才なども時にはかかったが、インテリ学生などには「しゃーい、しゃーい」という呼び込みの声に釣られてこうした寄席へ入るのを軽蔑する傾向もなかったわけではない。神田川流域には、学苑より市電終点に出て、豊橋を渡った向う側に、豊亭があった。これは戦後も存続し、他の寄席が消えた時期には、幾らか賑わったこともあった。また、川を下って江戸川橋から現在の椿山荘へ向う坂の下辺りに二階寄席の江戸川亭があり、牛込亭や小日向水道町の鈴本亭などと同格の席亭であったが、かなり早く廃業している。その他大正末には、高田町に高田亭、下戸塚に高平館などの寄席が学苑の近くにあったのも記録に残っている。

 映画館にも少し触れておこう。大正から昭和初期にかけて映画は無声映画(サイレント映画)の最盛期であり、映画館はまだ庶民の間では活動小屋とか活動写真館などと呼ばれることが多かった。前述の神楽坂の牛込館は山の手では第一流の洋画専門館で、主任弁士(いわゆる活弁で、説明者と称された)藤波無鳴は、赤坂の葵館の徳川夢声とともに、映画上映前に観客の前に姿を現して説明を行ういわゆる前説を大正六年に廃止したインテリであり、銀座の金春館の滝田天籟などとともに学生間に高く評価されていた。また、寄席牛込亭の表通りの文明館も大正前期には洋画館であったが、その後、正門通りの突き当りの市電矢来下近くの羽衣館と同様、邦画上映館となった。関東大震災以後は、洋画封切館で学苑の学生に一番人気があったのは新宿の武蔵野館であったが、昭和十年代にトーキー映画が盛んになると、馬場下の八幡坂そばの全線座(第三巻写真第六集73参照)が学苑学生で満員の盛況を見せた。セカンド・ランないしサード・ランの映画館全線座は学苑から最も近かったこともあり、時には「早大生へ感謝する週間/七月四日より・早大生に限り二十セン均一/一般は三十セン均一/豪華番組永遠の緑/メリイ・ウイドウ」(昭和十年六月二十七日―七月三日「ZENSEN-ZA PROGRAM」)などと大書した広告を出して、安く見られる洋画上映館として親しまれていた。全線座は昭和四十年頃まで存続していたが、他は空襲により焼失し、戦後復活しないものも多かった。

 学生街と言えば下宿屋街で、下宿屋街と言えば、先ず学苑の早稲田と東京帝国大学の本郷と決まっていた。他に明治大学、中央大学等の神田や慶応義塾大学の三田辺りも数えられるが、これらはいずれも散在していて一廓を成すに至らず、下宿屋街とは言えない。今和次郎編『新版大東京案内』(昭和四年刊)には、昭和初年の本郷界隈の下宿屋について、「本郷では帝大正門前を這入り交番のところを左折した台町一帯(森川町には五、六軒しかない)。竜生館、春和館、晃陽館、清風荘など、名前から、いかにも立身出世の卵の隠れてゐるにふさはしい。裏通りのごくひつそりした町並み、さかり場とちがつて、洗濯、そば、洗ひ張りしみぬき、洋服直し、撞球などの、ささやかな店が二、三軒置きに並んで忙がしさうなのが目立つ」(二一七頁)と記されているが、我が早稲田界隈の下宿街はどうか。

 大正期から昭和十年代にかけてが、早稲田界隈の下宿街の最盛期であった。特に鶴巻通りの左右はいずれの路地に入っても下宿気分が横溢しており、古くから大扇館があり、大正十五年開業の城東館(岡崎病院の裏手辺り)やその隣り近所に昭和五年に開業した日進館などは旅館並みで、部屋数が三十以上もあり、女子従業員数も五、六人を数えていた。この他に、千歳館、南越館、目黒館などが著名であった。大学裏手のグラウンド坂上周辺には松葉館や茗渓館や栄進館があり、スコット・ホールの西側に大東館、そして馬場下方面では時習館(のちの日吉館)、東光館、山松館、小松館、日本館があり、若松町に行く途中に信濃館、赤城神社近くに長生館、矢来町に若松館というように、下宿屋が学苑を囲むようにして群在あるいは散在していた。牛込区弁天町四番地にあった稲門荘は、書籍販売の稲門堂を手放した名物女将太田源が、普通の下宿屋とは一線を画した寮と旅館との中間とも言うべき高級宿舎の提供を目標としたものであり、後年政界にその名を轟かすことになる竹下登(昭二二商)などを宿泊させていたが、開業に際して、「気持良い旅館兼下宿を始めました/稲門堂同様何卒宜敷……/稲門荘 太田源」(『早稲田学報』昭和十年四月発行第四八二号巻頭広告)と広告を出している。これなども散在の一例であろう。こうした下宿街に、かつては葛西善蔵(信濃館)、横光利一(松葉館)、井伏鱒二(茗渓館、のち南越館その他を転々とした)、尾崎一雄(時習館)らが住んでいた。

 そうした下宿生活の一端を窺ってみよう。大正年間に次のような校歌の替歌が記録されている。

早大下宿の歌

一、都の西北早稲田の森に

聳ゆるトタン屋根われらが下宿

われらが日頃の賄を知るや

新香の二切なつぱのおつけ

現世を忘れた煮豆と白湯で

斯く痩すわれらが指手を見よや

やせたやせた やせたやせた やせたやせた

二、唐米ご飯の効果はうすし

一つでうづまる金魚の餌の

大なる麩のつゆ、腐れ焼鯖

われらが指手は極めて青し

やがて食はずに理想のミイラ

あまねく天下に知らせてやらん

やせたやせた やせたやせた やせたやせた

三、あれ見よかしこの常磐の森は

心のうつしと吾等が下宿

集り散じて人はかはれど

仰ぐは同じき理想の下宿

いざ声そろへて空もとどろに

われらが下宿の名をば呪はん

やせたやせた やせたやせた やせたやせた

(滝浦文弥『寄宿舎と青年の教育』 三二五―三二七頁)

 賄の問題は常々下宿問題の種となっているようで、この歌もいろいろな替歌の中の一種であり、当時、必ずしも裕福とは言えない早稲田マンの下宿生活のイメージを一層明確化するものであろう。昭和六年から九年まで在学した下宿学生石原知津(昭九専政)の回想に、「当時早稲田界隈の下宿は、六畳一間で部屋代だけだと七、八円、賄つき下宿が二十五円くらい、それだけ出せば、上はキリがないが、まずはゆっくりした、普通程度の状態だったろうと思う。私の青年寮の四畳半四円五十銭の間借り住まいは、格段の低レベルではあったろう。しかし、私はこの下宿住まいにさびしい思いもせず、少々腹は減ってもヒモじい思いもせずすごした。外食も、朝八銭か十銭、昼夜十二銭か十五銭を忠実に守って、切りつめた予算でやるようにしていたが、慣れてくれば、五度に一回、三度に一度は友人とお茶をのんだこともあろう」(『早稲田日記』一九頁)とある。こうした生活ぶりが、この時期の平均的学苑生の下宿生活であったと言ってよい。ところで、下宿学生が友人などの来訪を受け食事時にでもなると食事を用意しなければならなくなり、当然下宿の女将などに頼むことになる。すなわち、「客膳」を注文するわけで、そうしたことが多ければ多いほど臨時の増収となるから、下宿屋に歓迎されたという。下宿屋華やかなりし頃の隠れたエピソードである。

 これより少し後の昭和十一年、学苑を中心とする半径二キロメートル以内に所在した下宿業を、早稲田大学年鑑社編『早稲田大学年鑑』昭和十一年版中の「下宿便覧」により窺ってみよう。

(四七三頁)

このように学苑周辺には四つの下宿業組合があり、組合加入軒数は二百四十九であったが、この「下宿便覧」から次のように当時の下宿の様態が知り得られる。

 下宿と言っても、大は五十室規模くらいのものから小は十室程度の家まであるが、各組合の下宿とも平均二十室前後である。各組合とも必ずしも地域的に区分されているわけでなく、各下宿屋が同好同志でそれぞれの組合に加入していた。しかも、これらの他に、いわゆる素人下宿という三人以下を収容する下宿が四百戸くらいあって、約千人を収容した。こうした早稲田界隈の下宿事情の特徴について「下宿便覧」は次のように述べている。

一万二千の昼間学生中自宅より通学する者は約一割で他の四割が親戚父兄の知己の郷党関係によつて寄宿するもので先づ此の二粁以上より通学するものは他の大学と異つて前記の特殊関係によるものの外には極めて少いものである。之は何に起因するかと言へば地域が全く勉学に適し神田本郷等の如く他の大学と雑然とした気持がなく早稲田大学中心であつて町内の誰もが大大隈老侯の遺徳を追慕し報恩の気持を学生の世話に酬ゆることが多く此の地に限つて下宿料の踏倒し待遇の要求等の争を聞いたことがない。自然止宿人の移動も少く営業者も非常に有利でこれが又下宿料の廉価の所以でもある。又素人下宿も裕福な家庭が早稲田の学風を非常に理解し進んで学生を世話するので学生も一度世話になると其の家庭の一員となつて融和し仮令他に転ずる様なことがあつても在学中は交渉の絶えることなく卒業後遠地に至るも通信を続けるといふ状態である。

(四七四頁)

早稲田界隈の下宿と学苑との強い結びつきの一端がよく示されている。室料は、組合の協定により普通一畳につき一円五十銭で、設備の状態や陽当りの良し悪しその他の事情により多少の相違はあるが、電灯付きで六畳間が八円から十二円、四畳半が六円から九円程度、食費は、三食で十三円から十八円、昼食なしの二食でも十二円から十四円程度であった。浴室を備えているものは少く、一般に銭湯を利用しており、当時入浴料が五銭であった。なお、下宿希望の学生に対しては、「宿所ニ関シテハ学生課共済係之ヲ取扱ヒ優良下宿(殊ニ素人下宿)ノ『カード』ヲ事務室ニ設置シ、宿所希望学生之ヲ閲覧シ適意ノ場合照会斡旋シ、現在盛ンニ利用セラレツツアリ」(文部省思想局『学生生徒ノ福利施設』昭和十年三月八五頁)と記録されているように、本部学生課が担当して斡旋していた。

 下宿街を貫く鶴巻通りには喫茶店が多数あって、教授正田健一郎が高等学院時代を回顧して、

早稲田大学の前にあった喫茶店は戦災で焼け、戦後復興したけれども、焼ける前は豪壮でしたね。十八年から十九年の頃は、学院生の半分くらいは授業に出ないで、あそこの喫茶店の女給目当てに行ったんですね。おもしろかったね、取りっこで喧嘩したりしてね。 (座談会「戦中戦後の学生生活」『早稲田大学史記要』昭和六十一年三月発行第一八巻 二〇九頁)

と述べているように、いかにも学生街らしかった。「かなりあ」や「東京行進曲」などの童謡や歌謡曲の作詞者として国民各層に亘り親しまれた文学部教授西条八十などは、学生の人数も少かったので、講義をこの通りの喫茶店でしばしば行ったという。また、校友歌手で一世を風靡した東海林太郎の兄が経営していた「東瀛閣」で中華料理の味に親しんだ学生も多かったであろう。しかし、こうした下宿街にも戦時下の学苑の投影が散見されるようになった。

特高の取締まりが厳しくなったときは悲しかったですよ。学生さんの留守中にやってくるんです、刑事が。私らに立ち会わせて学生さんの部屋へ上がりこみ、さあっと本棚や押入れを調べ、うまいもんで、隠してある『資本論』なんかひょいと発見する。こうして引っぱられていく学生さんもずい分いました。何もいわずに連れていかれ、四十日も五十日もたって帰ってくる。しらみがいっぱいわいていました。差入れを持っていこうにも、いったいどこへ連れられていったのか、何日で帰してもらえるのか、一切教えてくれません。郷里の親御さんにも知らせたものかどうか迷いましてね。するとそのうち親御さんが気がついてびっくりして上京されました。〔学生の写真が貼られているアルバムを手にして〕みんな学徒動員で出ていくとき、「おばさん、覚えていてくれよ」って置いていった写真ばかりです。かわいそうにねえ。この人も頭の切れるいい人だったに死んじまった。ほら、この人も死んじゃってね……。

(元城東館沢藤正教・加与夫妻の談、関信博「早稲田とその街」『大学シリーズ 早稲田大学』 一五三―一五四頁)

下宿屋は、まさしく時代とともにあり、そして学苑学生と一体の関係にあった。

三 交通網の整備

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 関東大震災後、急激に郊外へ人口が移動し、従って東京市に隣接する町村が驚異的な速さで発展した。これに対応して、都心と郊外とを結びつける交通網の整備が急速に進められた。我が学苑周辺の交通事情もその影響を受けた。学苑を取り巻く交通網は大正中期には明治末に比し驚くほど便利に整備され、更に震災後の昭和三―五年頃を境として復興がほぼ完了するのに伴い交通事情は一段と充実した。その前後の変遷は既に第三巻第六編第十章に記した通り、学苑は開校四十五周年(昭和二年)の頃には、昔時に比べれば、殆ど交通上の不便を一掃したかの如く通勤・通学が便利になっていた。しかし、何しろ昭和三年の時点で学苑には既に毎日一万五千人ほどの学生・生徒が集散していたから、利便は更に利便を欲して止まなかった。さればこそ、この時、西武鉄道会社の校友安蔵吉次郎(明三九大法)が「早稲田を繞る交通界の今昔」の中で、次のような計画が進行中であるのを伝えているのは大変興味深い。

学園の為一大福音とも謂ふ可きは、早大を繞つて今三つの路線が現はれやうとして居る事である。其一つは王子電気軌道の延長線で、現在雑司ヶ谷の鬼子母神まで来て居る電車が近く目白の学習院下を経て早稲田の面影橋まで延長される。若しこの線にして開通せんか、上野や王子滝の川方面の人々はドンナに便利となるか解らない。次は東京市営の地下鉄道で、これは池袋から戸塚町を通つて、早稲田の背面から馬場下町に抜け柳町方面へ行く事になつて居る。尤も東京市の方は起債の認可や何かで相当経緯があるラシイから、今直ちに具体化するか何うかは疑はしい。ソコになると吾人の最も悦びに堪えないのは第三に述べたいと思ふ西武鉄道の延長線敷設である。これは現在川越から入間川、所沢、東村山、田無を経て武蔵野の平原を横ぎり、省線高田馬場駅に至る二十八哩有余の線であるが、ここから早稲田大学の正門前まで約一哩半許りを目下懸命の努力で工事に着手せんと急いで居る。従てここ一、二年の後に同線の全通を見る事ともならば、啻に同社の川越、村山両線から直行する人人許りでなく、山手線各駅又は中央線や、京浜線等から通学する人々の為めに殆んど天来の福音とも謂つ可く、早大の天地はこれに依つて画世紀的の変革を来すであらう。……早稲田の駅に連結停車する事が出来るとあれば、大隈講堂に集る数千の学生もホンの瞬時に運び去り運び来るに相違ない。この様にして西武鉄道早稲田線の開通は早大に取つて誠に意義ある事柄となるのである。況んや同線の上保谷駅前には、早稲田の綜合大運動場が今や工事の第一歩を進めんとして居るに於てをやだ。

(『早稲田学報』昭和三年五月発行第三九九号 三〇―三一頁)

右のうち、この時実現を見たのは王子電気軌道路線のみで、鬼子母神前―面影橋間が大正十四年七月に、面影橋―早稲田間が昭和三年七月に敷設の特許が得られ、昭和五年三月、三之輪から早稲田終点まで延長十二キロメートル余が全通した(この路線が、現在都内に唯一残っている都電荒川線である)。ここに至り、既に大正七年に江戸川橋より早稲田に延びていた東京市電と豊多摩郡の王子電車とは、早稲田で乗り継げるようになった。なお、両者は十七年に統合されて市電となり、更に戦後の二十四年にこの軌道を利用して面影橋―高田馬場駅間が開通し、早稲田への都電の足は一段落したのであった(のち、昭和四十三年に高田馬場駅―茅場町間、早稲田―廐橋間が廃止となった)。

 安蔵の伝えている他の計画、池袋―戸塚町―馬場下―柳町間の東京市営地下鉄計画と、高田馬場から早稲田(正門)への西武鉄道の延長計画とは、結局共に実現せず、戦後に早稲田駅が設置されて地下鉄東西線が開通するまで、早稲田の地には都電以外の鉄路の足はなかったのである。西武鉄道早稲田線は幻に終り、西武鉄道の早稲田乗入れは、結局後年高田馬場から西武新宿への延長に帰着したが、地下鉄の早稲田接近には前後譚がある。東京市では、関東大震災後の部市計画の一環として、大正十三年に地下鉄道市営の計画を立ててその許可を政府当局に申請し、東京都市計画高速度交通機関の路線として五つの路線を決定していた。その一つが、「省線池袋駅付近ヨリ早稲田、飯田橋、一ツ橋、東京駅、永代橋ヲ経テ洲崎ニ至ル一四・二(粁)」(渡辺伊之輔『東京の交通』一三三頁)という路線計画であった。しかし、この計画は資金、地質調査その他諸種の事情に阻まれて実現しなかった。戦後になって、二十一年八月、東京地方都市計画特別委員会は将来における地下鉄の建設について、新たに五路線の増新設を決定した。その一つが、中野駅付近を起点として深川東陽町付近を終点とする路線で、主な経過地が高田馬場・早稲田・富坂町・水道橋・神保町・東京駅・日本橋・茅場町・門前仲町の延長一五・七キロメートルという計画であった(同書三三三―三三四頁)。現在の地下鉄東西線は、この路線が三十二年六月十七日建設告示第八十三号として、途中の富坂町・水道橋・神保町方面が変更の上、飯田橋を経て大手町から東陽町(のち、国鉄西船橋まで延長)に至る路線に改訂告示されたものが実現したわけである(帝都高速度交通営団編『東京地下鉄道東西線建設史』三六―三七頁)。

四 行政区画の変更と景観の変貌

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 昭和七年十月一日、東京は大東京となった。東京市は、これまで、麴町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区の十五区に過ぎなかったが、この時、東京府下の五郡隣接八十二町村を合併して、一挙に新しく二十区を加え、三十五区の大東京が誕生したのである。従って、市の人口も大幅に増加して四百九十七万余人となり、東京市は世界第二位の大都市となった。これを承けるかのように、翌年夏から東京市内で「東京音頭」の盆踊りが始まり、続いて全国に波及していった。ところで、新設の二十区とは、品川区・目黒区・荏原区・大森区・杉並区・王子区・板橋区・足立区・蒲田区・世田谷区・渋谷区・淀橋区・中野区・豊島区・滝野川区・荒川区・江戸川区・向島区・城東区・葛飾区である。これに伴い学苑の立地も、馴れ親しんできた豊多摩郡から淀橋区へと行政区画が変更されるに至った。その経緯をたどってみよう。

 昭和六年、東京市近辺で町村合併促進運動が高まり、七年に入ると、東京府も東京市もこの問題に本格的に取り組んだ。既に世界有数の大都市としての性格と「帝都」としての特殊性を備えていたが、関東大震災後の市外近郊の目覚しい発展により、この問題が促進された。東京市は四月に「市域拡張における区設置方の件」(東京市案)を府知事に提出したが、学苑の所在する豊多摩郡は、渋谷区(渋谷町・代々幡町・千駄ヶ谷町の地域)、淀橋区(淀橋町・大久保町・戸塚町の地域)、中野区(落合町・中野町・野方町の地域)、杉並区(和田堀町・杉並町・井荻町・高井戸町の地域)の四区に分割され、学苑が編入される新しい淀橋区の構想は、次の通りになっていた。

淀橋町、大久保町及戸塚町の三ヵ町を以て淀橋区を編成す。淀橋町は豊多摩郡役所の所在地たりし地にして早くより殷盛を示し新宿は大東京西部の商業中心として特に娯楽中心として近時異常なる発展を示せり、大久保町はその北東に隣接し住宅地として栄え其の北部は広大なる陸軍用地を隔てて戸塚町に接す。戸塚町は早稲田大学を中心とする学生街として相当の発展を見たり。交通機関に就ては省線の山の手線は三町の中央を縦貫し尚中央線は新宿より大久保町を通過し中野に至る。……如斯淀橋、大久保、戸塚の三町は之を合して一区を編成するを以て極めて自然なりと謂ふべし。……又落合町は戸塚町との交渉相当深きものあるも、大久保、淀橋とは寧ろ稀薄にして却つて野方、中野との接触極めて密なるものあり。

(新宿区役所編『新宿区史』 五一四―五一六頁)

 しかし、町村合併に際して起りがちな地域利害や生活感情などによる編入反対の声が挙り、やがて声は反対運動に発展した。戸塚町では、学苑が所在地でもあることから、大学所在地一帯を日頃何かと密接な関係のある牛込区に編入させてほしいとの陳情運動を展開したが、結局、中野区に編入されることになっていた落合町が加えられて、淀橋区は淀橋・大久保・戸塚・落合の四町から成る区編成となった。これを含む東京の新たな地域区名の修正案が同年五月に東京府参事会で最終決定され、内務省は、五月二四日、その許可指令を東京府に送達した。

 かくして昭和七年十月一日、二十の新しい区が東京市に誕生した。この時の淀橋区の面積は三、〇四一、九七二坪で、人口は一五三、五〇二人であった(『東京百年史』第五巻六二三頁)。次いで新区成立に伴う町名変更が行われ、学苑本部の所在する戸塚町は左表の如く改称された。ここにおいて、学苑本部の所在地の名称は、久しく慣れ親しんできた東京府豊多摩郡戸塚町大字下戸塚六百四十七番地から東京府東京市淀橋区戸塚町一丁目六百四十七番地に変更された。なお、この後、都制が布かれて市が廃止され、東京府が東京都となったのは、十八年七月一日のことであった。更に、終戦を前にして疎開と空襲とにより人口の激減を見た四谷区・牛込区・淀橋区の三区が統合されて今日の新宿区が発足したのは、戦後一年半を経過した二十二年三月十五日のことで、この時、三十五区が二十二区制(八月、更に一区新設)に整理統合されたのである。

 さて、この前後は、右のような単に地図上の行政区画が変っただけではなく、街並み自体が徐々に、しかも次々と波及的に変貌しつつあった時期であった。大正から昭和初年にかけて、学苑は文学界に幾多著名な作家や研究者を輩出したが、暫く、彼らに早稲田界隈の推移を回想してもらおう。

(『新宿区史』 五二一頁)

 昭和初期までの高田馬場駅から学苑までの早稲田通り(当時は通常、戸塚通りと呼称)の様相も、この前後を境に変っていった。丹羽文雄、新庄嘉章、暉峻康隆、石川達三などとほぼ同時期に学苑生活を送った作家の尾崎一雄(昭二文)らは、この早稲田通りの光景を、

尾崎 戸塚で安部球場へ行く道の悪かった時代、今、ちゃんとした道になっておるけれども、今の大学と安部球場の間のあそこは広いけれども、何か赤土のでこぼこ道だったでしょう? 雨降った日なんかすべって歩けなかった。戸塚通りに出てから片側に溝がありましたよ。

大観堂(北原てう) どぶがありました。それに欅の並木なんかもありましたね、今の一言堂あたりに。

浅見(淵)第一、高田馬場から戸塚町までの道が今の道幅の三分の一くらい。おまけに雨が降ると道がぬかるし、天気だと肥え車がたくさん通ってね、実に閉口したもんだよ。

尾崎馬がよくひっぱってね。汚ないところだったよ。

(座談会「大正時代の文科生気質を語る」『早稲田学報』昭和三十一年七月発行第六六二号 二一頁)

と回想している。更に、戸塚町二丁目(現、西早稲田三丁目)の薬局店主中岡房之助の早稲田通りの光景に関する回顧「古老談話」は、より具体的である。

小滝橋から戸塚三丁目、高田馬場駅から戸塚二丁目へ通ずる道路は、今でこそ広いが巾一間半位のくねくねした小道に過ぎなかつた。此の道路を汚穢を積んだ車が延々と連つた光景は、何と云つても印象深い。落合、中野更にもつと奥の村々から下肥汲取りに東京へ出掛けて来るのである。夕方には荷を一杯にした車が再び延々と連つて帰つて行く列で、道を横切るのに骨を折つた程だ……。東京近郊のお百姓達が肥料に用いるのだが、其の頃は金を出して買つたのであり、或は大根や茄子、菜の類を持つて行つた。こうした汚穢車の行列は、此の道路には限らなかつた。此の道路は、元は早稲田大学の裏門へ通ずる道から、大学構内を抜けて今の都電早稲田停留所の所に通じていた。道筋には肉屋、菓子屋、酒屋等々が点在してをり、長屋風の家が多かつた。 (新宿区役所編『新宿区史 史料編』 三七三頁)

 すなわち、この頃までの六メートルほどの狭い早稲田通りは、雨でぬかるみ天気で肥え車、といった泥濘と「黄金通り」でもあったわけだ。こうした通りも、昭和三年から拡張改装工事が始まり、様相を新たにしていった。そうした計画を、昭和三年四月十九日付『早稲田大学新聞』は、「交通網の完備に/恵まれたる学園付近/舗装も今年中/市電も延長されて」との見出しで次のように報じている。

雨が降れば汁粉然たるぬかるみ、天気の日には塵埃をまきあぐる学園付近の通学路、省線高田馬場から源兵衛の南部さんの屋敷まで第一期の区画整理は、拡張後そのままとなつてゐるが、近々地ならしから舗装に取りかかり、今年中には幅十二間の人道、車道、中間に軌道を取つて立派な道路が出来上り、省線通学者には一大便宜が加へられる。第二期工事として、南部さん屋敷から八幡坂下の三朝庵まで着手されるが、沿道二百数十軒の内五十軒を残して大方の土地買収を終つたから直に拡張に着手される。更に第三期工事として三朝庵から南町を抜けて弁天町二番地にて柳町の道路と交叉し天神町に出て護国寺から一直線に来る大道路にT字形に出会ふ。……鶴巻町から新小川町に出で砲兵工廠を貫いて本郷へ出る道路が開かれる。東京市の環状道路は幼年学校の西側を通り諏訪に来て加増湯の横でクロスして松平邸の横を通りちとせで目白台の幹線と交り、更に雑司ヶ谷を貫いて池袋から王子に延びるといふから大学五十週年を迎ふる頃には学園付近の交通網は完備して旧観を一変するであらう。

 やがて、右工事の過程で、馬場下の八幡坂下に位置する三朝庵も、「昭和七年三月、八幡坂(穴八幡の傍らの高田馬場へ向う道)があまりにも急なので、道路の拡幅工事とともにゆるやかな坂にするための工事が行われ、侯爵より譲られた店舗を改築せざるを得なくなったので、店舗を新築した」(加藤鷹久「早稲田大学と三朝庵」『早稲田学報』昭和五十七年十月発行第九二五号三五頁)というように、界隈の店舗の様相も徐々に変っていった。そして、現在の馬場下交差点より地下鉄早稲田駅上の交差点までの拡幅工事は九年六月に完了し、後者の交差点より早稲田実業方面に至る道の拡幅工事の完了は十年五月であった(『東京市公報』)。なお、前掲の座談会で尾崎一雄が言及している市電早稲田車庫方面から戸塚の三叉路に至る現在のグラウンド坂は、大正末期までは僅か幅三メートル足らずの細い急坂で、両側には学苑の野球場とテニス・コートがあり、いわゆる切通しであった。古い校友ならば、坂下からこの赭土の坂を登り、曲り折れて下宿屋の間を抜けると下戸塚の交番に通じるのを記憶しているであろう。このグラウンド坂は大正十五年春、東京府による拡幅工事の結果、急坂も緩和され、初夏の頃には幅十一メートル弱の立派な府道になったから、この年十二月に改元して昭和となった頃には、以前は自転車を押して登ったデコボコ道の急坂は、自動車道に変化してしまった。昭和初年の在学生は、野球試合のある日にはこの道の両側に次々と自動車が駐車して、あたかも自動車品評会の観を呈したのを思い出すであろう(「遷り行く早稲田」『早稲田学報』昭和二年一月発行第三八三号五九頁)。ところで、このグラウンド坂府道造成に当り、学苑の敷地を東京府に提供する交換として、現在の東門から西門に通じる府道が学苑の敷地に繰り入れられることになった。この道は観音寺から高田馬場に抜ける爪先上りの細い坂道で、学苑構内には東西を縦断する形で公道が通っていたわけである。これが交換後整備舗装されて、グラウンド坂完成より少し後の大正十五年十月にユニヴァーシティ・レーン(大学路)として全長百七十五・五メートルの構内階段付通路に生れ変ったのであった。また、グラウンド坂拡幅工事に伴い、計画敷地内(本庄医院と久野靴店の間)には校友の後の首相石橋湛山宅があったが、新道完成に際して落合に転居したという(下戸塚研究会編『下戸塚――我が町の詩――』一八〇頁)。

 こうした界隈の変化は、恐らく、新庄嘉章が回顧して左の如く述べているような、「幸福」な早稲田の文学的風土をも、次第に失わせていった。

僕も小説家になろうと笈を負うて上京したわけだが、あまりにも生活派になつてとうとう書けなくなつた。僕らの卒業〔昭和五年〕の頃は早稲田文学のはなやかな時代で、穴八幡のかこいの石垣のところに「ドメニカ」という喫茶があつて、丹羽文雄君、浅見淵君、それから火野葦平君は玉井勝則時代で髪の毛をロマンチックに伸ばして童話を書いていた。今のたくましい作風とは全然むすびつかないね。……その頃はどこの喫茶へ行つても、井伏鱒二が坐つていたり、誰かがいた。早稲田界隈は文学的雰囲気にあふれていた。われわれは幸福だつた。

(座談会「今昔の早稲田――凉風放談――」『早稲田学報』昭和二十五年九月発行第六〇四号 二七頁)

しかし、この後の世代の学生とて、決して不幸な環境の下で学苑生活を送ったわけではない。その時々に、学生は自分達の環境を共有し、それぞれの時代情況との関わりの中で早稲田の雰囲気を味わっていた筈である。

 この時期の早稲田界隈の変貌の中で逸することができないのは、かに川の暗渠化である。かに川とは、昔時「金川」とも記録されており、『江戸名所図絵』に、「金川 同所穴八幡の前を、早稲田の方へ流るる小川を云ふとなり。水源は戸山御庭中より発する所なり。……昔は川の幅も広かりしとなり。その頃は加奈川又は加能川とも称びけるとなり」と見え、下ってまた『東京府志料』に「加ニ川」ともあって、「戸塚町旧名古屋藩戸山邸ノ池ヨリ発シ、第四大区十一小区牛込馬場下町ヲ過キ……江戸川ニ入ル。一名戸山落ト云幅一間」と記されてある川幅二メートル足らずの小川である。文献で見る限り、その水源は、現在の文学部校舎や記念会堂の裏手に当る旧戸山ハイツのあったところで、ここには右のように当時尾張徳川家の下屋敷「戸山荘」があって、その庭園の池がかに川の水源地であるらしい。しかし、参謀本部陸軍部測量局の明治十六年測図「五千分の一地形図」(第一巻写真第二集20「開校直後の東京専門学校付近図」は、その一部である)や、大日本帝国陸地測量部の明治四十二年測図「一万分の一地形図」およびこの測図の昭和四年第三回修正測図「一万分の一地形図」、そして東京都新宿区教育委員会が発行した『新宿区地図集――地図で見る新宿区の移り変わり――』、『地図で見る新宿区の移り変わり』(牛込編、淀橋・大久保編、戸塚・落合編)所収の各地図等々を見ると、尾張徳川家の池には、まだそれよりも上流のあったことが分る。この流れをたどっていくと、かに川の水源は、どうやら現在の新宿二丁目の新宿公園と、これとは別に、現在の歌舞伎町一丁目のコマ劇場辺りの二ヵ所に求められるようである。新宿公園の池は、元は広かった太宗寺の庭園の一部であり、ここの湧き水が戸山町方向に流れ、現在の新宿文化センターの近くで、コマ劇場付近を水源とする小川と合流して北流し、やがて、戸山荘に達していた。

 ところで、この尾張徳川家の戸山屋敷(戸山荘)の趣向を凝らした庭園は、寛文七年に二代藩主徳川光友の着工といわれる。国立国会図書館所蔵の「戸山邸濫觴図」(寛文七未年祖心尼より御求以後追相増候絵図)によれば、現在の文学部の敷地もこの屋敷内に含まれていたのであり、記念会堂とその前の広場の地とが延宝元年に、校舎のある高台の地が同七年に、それぞれ農民より買い上げられていた。すなわち西は現在の明治通りに接し、今日の戸山町のほぼ全域に亘っている実に広大な屋敷であった。同館所蔵の「宝暦頃戸山町御屋敷絵図」(明治廿一年三月模写成、皆園散人小沢圭識)によれば、宝暦年間には庭園の池が「上の御泉水」と「御泉水」とに分かれており、「御泉水」の東端に滝があって、これより落下した流れがかに川となっていったように受け取られる。特に同館所蔵の「戸山焼後図」(安政六己未年春二月御類焼後の略図)には、御泉水からの水が、現在の文学部キャンパスに流れ込み馬場下交差点方向に進んでいることが明示されている。これらの絵図類や同館所蔵の「尾州公外山園荘之図」(年不詳、文政以降)などによれば、御泉水の東側端にある竹椅門に通じる「竜門橋」のすぐ下が滝となっており、この滝の位置がどうやら現在の記念会堂の左側裏手の後方らしい。前述の『東京府志料』にかに川を一名「戸山落」というのは、この戸山荘より落下する滝に因んでのことであろうか。この「竜門橋」の辺りは、後に「東築留」と呼ばれるようになった。いずれにせよ、この庭園は、地形を十二分に活用して、この御泉水のそばには、かつては町家が一町半余に亘って宿場の如く配され、時には「玉円峰」とか「麻呂の嶽」とかと記されている通称「箱根山」まで広がる江戸有数の名園であったという。やがて、幕藩体制が崩壊し、明治期に入ると、この屋敷は陸軍戸山学校となり、幼年学校、近衛騎兵聯隊が置かれた。そして、昭和期に入った頃にも、第一高等学院(現在の文学部キャンパス)の後方には、陸軍の軍医学校・衛戍病院・軍楽隊・戸山学校・幼年学校(現在の国立病院医療センター一帯)と近衛騎兵聯隊(現在の学習院女子短期大学・学習院高等部中等部・都立戸山高等学校付近)があり、更に旧屋敷の西方には広大な射撃場(現在の理工学部キャンパス一帯)が連なっているというように、軍の施設が延々と続いていたのである。

 さて、戸山荘からのかに川は、現在の記念会堂の裏手から文学部校舎に沿ってその下を流れ、やがて、現在の文学部スロープと少しばかり並行する形で続いてから馬場下交差点方向に右に曲って三朝庵の辺りに出て、学苑本部キャンパス方向への道(現在の南門通り)を少し入った地点で早稲田中・高等学校の敷地内へと右折し、そこを通り抜けてからは早稲田実業方面に向っている。そして流れは、現在の第二学生会館、戦前この辺りにあった水沢材木店の傍らを通って、一旦大隈庭園内に注いだ後、今度は鶴巻町を東流して、現在の鶴巻小学校を少し過ぎた辺りに至り、牛込柳町方向から北流してくる別の「加ニ川」と合流し、目白不動のたもとの往時の一休橋の少し上流の地点で神田上水すなわち江戸川に注いでいた。水路は鶴巻町辺りからは田圃の用水などとともに江戸時代以後幾変遷したらしいが、かつてそのそばをかに川が流れていた馬場下の三朝庵には、近年に至るまで、「此の所は通称『かに川』と云ふ小川のあった跡です。私の幼い頃には木橋が架けて有りました。昔将軍が鷹狩の折穴八幡神社放生寺に大木の特に見事な光松が有りましたので、将軍が駒を止めて御覧に成った橋を駒留橋と云って居りました。この『かに川』は早高の中を通って神田川に流れ込んで居りました。光松も戦争のために焼失して今は其の面影はありません。三朝庵店主」という立札が建てられていた。店の入口右手には、かつてのコンクリート造の駒留橋の橋脚の一部が残されていて、昔時が偲ばれる。

 かに川には、第一高等学院創設期に至るまで、文字通り沢蟹がたくさんいて、近在の子供達の絶好の遊び場でもあった。大正六年学苑予科に入学以来、引続きこの界隈に住んでいたことのある作家の井伏鱒二は、『随筆早稲田の森』の中で、自分達はかに川を「芭蕉川」とも呼んでいたと記し、大正後半期の様子を次の如く回想している。

芭蕉川には沢蟹がたくさん住んでいた。私もその実際を見たことがある。関東大震災の翌年、私が喜久井町の誓閑寺裏の仕舞屋に下宿していたころである。当時、誓閑寺の裏手の墓地は、土の崖と溝を境にして早稲田高等学院の校庭に接していた。私の下宿していた家は、墓地山を切崩して地ならししたところにあったので、庭先に立つと赤土の校庭とその竝びの箱根山の森がすぐ目の前に見えた。校庭と森との境は有刺鉄線の柵で仕切られて、森の方から大小の木が柵の上にかぶさるように枝を伸ばしていた。そんな樹木のうち、幹を弓なりに伸ばして柵越えに枝を垂らしている木が一本あった。それが大きな山桑の木であったことに私は注意をひかされた。昔、このあたりは尾張徳川家の下屋敷地内であったという。だから深山の感じを出すために、誰か山桑をここに移植したのかもしれないと思った。優に五寸角の桑の柱がとれそうな太さであった。この山桑の木の太い下枝に一本の長い縄が垂らしてあった。縄は校庭の側の方に垂れていた。下宿の婆さんに諮くと、近所の子供たちが箱根山の森へ忍びこむための秘密の仕掛だと云った。子供たちは縄を伝って下枝から幹に這いあがり、幹伝いに柵の外側へ降りて行く。縄には滑りどめの結びこぶが幾つもつけてある。子供たちは森のなかの川へ沢蟹を捕りに行くのだと婆さんが云った。

(五九―六〇頁)

 このように、早稲田の森を、田園を、縫うようにして流れ、東京専門学校時代の学生に、学び舎の前方をゆっくりと貫流して田園風景を呈し、明治より大正初年にかけて早稲田田圃が次第に姿を消した後も、界隈になお、自然の名残りをとどめて清涼感を与えていたかに川も、東京府の政策により、昭和八年十一月一日より暗渠化が着工されて地下にもぐり込むことになった。竣工は翌九年六月二十九日であった(松下正巳「かに川を歩く」『早稲田学報』昭和五十四年七月発行第八九三号、九月発行第八九四号)。

 ところで、現在の学苑南門辺りから馬場下交差点までの南門通りの道、すなわち、八幡坂下の三朝庵のところから本部キャンパスに向う道は、少し入った早稲田中・高等学校の北門から現在の診療所の手前まで、上下二段になっていた。高田牧舎の前を通る下段の道は、旧鎌倉街道と言われているが、僅か一・八メートルばかりの幅で、上段の方がずっと広かった。この上段は元来、水稲荷の境内の端で、『江戸名所図会』を見れば、三朝庵の方からの突き当りに水稲荷の正門がある。この門の手前から少し右にそれ境内に沿っていた道が、後の下段の小道であった。上段の広い道は、もともとは大隈が馬車を通すために寺社側から借りていた私道であったが、上段の道を削って下段の道にならしたのは昭和七年であるという(宝泉寺住職談)。また、『江戸名所図会』を見ると、八幡坂は幅の広い階段になっていて、車馬はこの南門通りの小道を通って大隈会館のところから回って、観音寺の側の道から大学構内(東門と西門を結ぶ前述のユニヴァーシティ・レーン)に入り、グラウンド坂上に出たものらしい。なお、上下二段の道の間には小さな溝があり、高い方の道端には大正期まで大きな黒松が残っていた。いわゆる「八幡太郎船繫ぎの松」とか「太田道灌駒繫ぎの松」とかと呼ばれたものがこれである。「船繫ぎの松」は、東京市企画局都市計画課編『東京市町名沿革史』下巻には、「旧宝泉寺地内(戸塚町一丁目)五百八十九番の懸崖にあり、江戸名所図絵に言ふ『船繫松は同じ堂(高田稲荷毘沙門堂)の後山の中腹にありしが、是も今日枯れたり。昔大将軍家此地御遊猟の頃、此松の齢を問せらる、寺僧某凡そ千年に及べる由答へければ、千年松と唱ふべき旨欽命ありしとなり、守宮池も同じ山下に在り』と」(三三〇頁)と記されている。こうした大木の繁る奥辺りに水稲荷があり、ここには富士信仰の霊場として安永八年に築かれた高さ十メートルほどの富士塚、いわゆる高田富士もあって(法商研究室棟の真裏辺り)、かつては「お富士さん」のお祭り時には近辺一帯に聞えるくらいに銅鑼の音が夜半まで響き渡り、お祭りのことは昭和初年の教職員や学生も憶えているという。この道を進んで八幡坂の下を横切り第一高等学院正門前を過ぎていくと、のちの戸山ハイツの入口(現在の体育局の右側)が騎兵聯隊の正門で、そこより右へ薄暗い坂を少し登ると、突き当りにスコット・ホール(第三巻二六二頁参照)があり、そこから左に騎兵聯隊の土手に沿って道は戸山ヶ原まで伸びていた。現在、校友会館一階ロビーに掲げられてある会津八一の歌「母校のかとに立ちて/たちいてて とやまかはらの しはくさに かたりしともは ありやあらすや」は、その戸山ヶ原をうたったもので、古い学苑OBには、限りなく懐しい光景が浮んでくる。

五 空襲の爪痕

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 さて、早稲田界隈の変貌は、戦争の開始とともに進行した。戦争の進展に伴って戦時色を次第に濃厚に反映し始めたが、勤労動員の強化、殊に十八年十月の学徒出陣の後は、学苑の構内から学生の姿が急速に消えてしまい、やはり学生あっての早稲田界隈であるのが痛感された。十七年四月を最初として界隈は何回か空襲を受けたが、学苑のキャンパスは付近の人々の格好の避難場所となり、防火防災その他の面において、学苑は界隈の住民と従来にも増して緊密な関係を持つようになった。また、地域の変貌ぶりは、食料難の戦争末期、軍が戸塚道場(現安部球場)にサツマイモを植えつけたことによっても窺えよう。もとより軍栽培のサツマイモには学苑は手をつけることを許されなかったが、畑に一変した大隈庭園に植えられた学苑のサツマイモは自由であった。これに関しては、「法学部もその一角を取り込み、サツマイモを植えたが、これには面白い話がある。大学の先生というのはとかく講義が好きだ。みんなが一生懸命苗を植えていると中村弥三次教授がそうやっちゃいけません、こういう風に弓なりに植えるのですと長々と実習講義をするので、何んだこんなところまできて講義しているよと半畳を入れて、みんなが大笑いしたことがある。肥料も何もやらないから大きくなりっこない。ネコのしっぽみたいなものを労務員のおばさんが茹でてくれて、教授会でみんなが喜んで食べたことをいまでも覚えております」(座談会「激動の日日」『早稲田学報』昭和四十二年七月発行第七七三号一九頁)とのエピソードを中村宗雄が紹介している。まさに、戦争末期の界隈は、通りも庭もすべての景観が一変するに至ったのである。そうした中で、二十年に入り、東京は三月と五月に最も大規模な空襲に見舞われた。特に五月二十五日夜の大空襲によって、学苑界隈はまさに文字通りの壊滅地域に変り果ててしまった。以下、『東京大空襲・戦災誌』(全五巻)により、早稲田界隈の空襲を概述しておこう。

 東京に対しては、本土が初めて爆撃を受けた昭和十七年四月十八日の米軍機B25中型爆撃機によるものが初空襲であった。これは、日本本土から千三百十七キロメートル離れた海上の米軍空母から十六機が飛来したうち十三機が東京上空に現れ(他の機は名古屋・大阪・神戸を爆撃)、荒川・王子・葛飾・牛込・小石川・品川の六ヵ所を爆撃したが、B25爆撃隊の隊長がドゥリトル中佐であったのに因み、「ドゥリトル空襲」と呼称されている。この時、B25は正午東京上空に達し、十二時十五分から三十五分まで焼夷弾を投下、警視庁管内の死傷者は三百四十六名(死者三十九名。全国集計は死者約五十名)に上った。被弾地中の牛込というのは早稲田鶴巻町の数ヵ所であり、死者二名のうち一名は早稲田中学校四年D組の一生徒で、米軍機による本土初空襲の犠牲者である。級友の尾山令仁(昭二六・一文)は「親友の爆死にあって」と題し、校庭に投下されたこの時の爆撃の体験を次のように綴っている。

ものすごいものが私たちのまわりに落ちてきた。約六〇発の焼夷弾である。すでに何度も訓練されていたとおり、私たちはただちにものかげに行って伏せた。校庭は焼夷弾の火と煙でもうもうとしている。まさに一瞬の出来事であった。私たちはただちに武道場に避難した。学校のサイレンがけたたましく空襲を知らせた。それからややしばらくして、東京市の空襲警報が鳴りひびいた。それはB25による日本本土最初の爆撃だったのである。あまりの低空飛行に、私たちも避難しながら、はっきりと機体に印されたアメリカのマークを見た。やがて私たちに悲しむべき知らせが伝えられた。クラスメートの小島茂君が直撃弾二発を受けて即死したのであった。そしてふしぎなことに、あの六〇発の焼夷弾は、彼以外の誰にも当たらなかった。焼夷弾が落ちてくる直前まで、私は彼と話していた。そしてそのちょっとあとで、私は飛行機を見るために場所を移動したのだった。だから、彼が直撃弾を受けたことは、あとで聞くまで、全然知らなかったのである。私たちのクラス四年D組には、ついに空席がひとつできてしまった。 (同書第二巻 三二頁)

この日東京は雲一つない好天で、爆撃など夢想だにしなかった市民にとり、突然の空襲はまさに寝耳に水であった。四十年の後、五十八年四月十八日、早稲田中・高等学校第四十六回生有志が校庭に面して建立した慰霊碑「いのり」には、「平和の尊さを嚙みしめつつ、小島君の霊の安らかならんことを祈り、この碑を建てる」と誌されている。

 この初空襲後二年半ほどは、東京上空に米軍機は来襲しなかった。空襲が本格化したのは十九年十一月からで、以後、B29超重爆撃機による爆撃が二十年八月十五日の敗戦の日まで連日のように続いたのである。中でも特に大規模な空襲は、二十年三月十日の下町の江東地域に対する空襲と、同年五月下旬の山の手地域に対する空襲であった。

 早稲田界隈の壊滅的罹災は、五月二十五日夜から二十六日未明にかけての大空襲によるものであった。二十五日午後十時二十二分東京に空襲警報が発令され、十時三十分に火の手が揚がり、翌二十六日の午前五時十五分まで(空襲警報解除は二十六日午前一時零分)、都内ほとんど全域が火の海と化した。『東京大空襲・戦災誌』は次のように記している。

五月二五日午後一〇時二二分から約二時間にわたってB29二五〇機(米側資料四七〇機)は東京中部と西部の住宅残存地区を徹底的に焼夷弾攻撃して大火災を起こし、東京市街地の大半は焼失した。被害は死者三六五一名、負傷者一万七八九九名、被害家屋一六万五四五戸、戦災者六二万一二五名(「帝都防空本部情報」)。戦災区域は渋谷(二万八六一五戸)、中野(一万九九三〇戸)、淀橋(一万四六〇一戸)、小石川(一万一九七二戸)、芝(一万一七〇〇戸)、世田谷(一万六八二戸)、赤坂(九九六一戸)、杉並(九八七六戸)、牛込(九〇九三戸)、麻布(七七九四戸)、四谷(六九六七戸)、麴町(五五〇〇戸)、目黒(五三四一戸)、京橋(四八九八戸)。以下、神田、日本橋、本郷、下谷、浅草、深川、品川、荏原、大森、豊島、滝野川、荒川、王子、足立、向島、葛飾、江戸川、板橋区のほか北多摩郡、南多摩郡なども相当な被害をうけた。つまり東京旧三五区のうち蒲田、城東、本所の三区を除く区は全部被害をうけた。もっとも城東と本所は三月一〇日空襲で焼け野が原であった。 (第二巻 三八三頁)

 この時、学苑も約三分の一焼失という大被害を受けたが、本編第五章第一節で詳述したので、ここでは界隈の罹災の様子について述べておく。当時、牛込区若松町の中学生であった清水利雄は、「火魔」と題して、馬場下、穴八幡、大隈講堂辺りの模様を次のように証言している。

それは午前一時ごろであったろうか? 始めは、どっちへ行こうかと迷ったが、近所の者がみな江戸川方面へ向かうので、私の一家もこの長い列について一路江戸川へと向かった。すでにもうもうたる煙で、空の様子はさっぱりわからない。が、爆撃が続いていることは確かである。それが証拠には、煙の中から炸裂するタマや爆音が入り乱れて聞こえてくる。絶え間ない避難民の列はいつまでも続く。雨のように降りそそぐコブシ大の火の粉と、焼けトタンの舞うなかを、家財道具や荷物を背負い、子どもの手を引いて避難して来る人たちが、あとからあとからと馬場下の坂道を降りてゆく。その群衆のあとから烈風と煙と炎とが追いかけてくる。真紅に照らし出された町は強大な火熖のカサをかぶった形となり、もはや探照灯は役に立たなくなって、むなしく煙の渦の上をなでているばかりである。その煙の渦のなかから焼夷弾がパラパラッと降ってくる。降り注いだところに、新しい火災が起きる。途中で警防団がトビグチを持ち「逃げるやつは国賊だぞッ。帰って消火しろッ」と声を限りにふり回している。しかし避難民は、そんなことには耳もくれず、ただ安全地帯へ逃げるのに夢中である。いまさら引き返せまい。馬場下の手前の三角路へ来て、さて、どちらへ行こうかと迷ったが、左手の穴八幡の方は、すでにもうもうたる煙と火の粉が吹きあれている。それで、右へ曲がり弁天町の方へ逃げようとした。が、その退路も炎々たる火熖に包まれている。行くては燃えさかる火の海だった。このまま火に包まれてしまうのかと思うと、身の毛がよだつ思いがした。……そこは大通りで避難民が右往左往している。だれも他人のことどころか、自分だけ逃げるのがやっとだという様子である。ふたたび心はくもった。大隈講堂の屋上には幾十の焼夷弾が燃えひろがり、火のびょうぶを立てたようである。

(同書同巻 七四四―七四五頁)

また、牛込区戸山町の主婦飯塚敏子も「きれいな死顔」の中で、戸山町、喜久井町、馬場下方面について、

戸山町は陸軍病院があるから焼かれないと言われ、だれも疎開しませんでした。その病院前では、兵隊さんたちが火たたきで懸命に火を消していました。この先の避難場所まで行く力はなく、病院内に逃げこもうととっさに思い、入ろうとしましたが、兵隊さんにことわられ、ふたたび気をとりなおして戸山学校跡までたどりつきました。学校跡は木だけが少々のこり、その木にときおり飛火がつき、それを火たたきでたたいて消す。それをくり返していました。騒々しかったのは一時頃まででしたでしょうか。そのうちだんだんと静かになり、ただ焼けるのを見ながら、避難してきた大勢の人びととともに、眠ることもなく一夜を明かしました。……地形的に低い喜久井町、馬場下では大勢の人が亡くなりました。その朝、前の家のおばさんが「馬場下では人間が銅像のようになっているよ」というので隣の家の娘さんと二人で見に行きました。銅像のように立っている焼死体はありませんでしたが、壕の中では、どの壕もどの壕も多くの人が死んでいました。どれも立派な壕でしたが、窒息死らしく、みなきれいな顔でした。 (同書同巻 七三九頁)

と回想している。右の陸軍病院は四月十三日の空襲で既に被災していたが、この時の状況をも含めて、当時、牛込区原町の書籍商であった吉岡亀七は、「猛火に抗しきれず」の中で、若松町、榎町から江戸川方面にかけて、

四月一三日、まだ宵の口の一〇時にもならぬころ、警戒警報が出て間もなく、B29一機が牛込上空に飛んできて、重油のような黒いベトベトしたガソリンをまいて去るとすぐ、次に飛来した飛行機の群れは焼夷弾を次々に落としはじめた。火災は牛込若松町、西大久保、東大久保のあらかたを焼き尽くした。若松町の国立東京陸軍第一病院(のちの戸山ハイツのあたり)では、たくさんの白衣の勇士が傷病の身を養っておられたが、B29はこの夜、逃げまどうこの病者達の白衣をめがけて焼夷弾を投下し、多数を殺傷したという。翌日、私が行ってみると、簡易舗装の道路の面いっぱいに、まるで雨後の筍とでもいいたいほど、ニョキニョキと焼夷弾の筒が突きささっていて、自転車を前に進めることができなかった。……帝都最後の大空襲といわれた五月二五日の夜である。午後一一時ごろから始まった敵機の来襲は息もつかせず、翼を連ねたB29が投下する焼夷弾の量はダンプが砂利をまくほどの圧倒的なもので、たちまち家々の屋根を貫き、道路上に炸裂した。……榎町の米屋の倉庫の前では、真黒く焼け焦げた老幼の死体が山をなした。人びとは逃げる前にまず食料を……とここに群らがってきて、倉庫内の米を取ろうとしたというが、それを手にするよりも早く火に巻かれてしまったらしい。防空壕の中、下水道の中まで死体でいっぱいだった。家族全員マンホールのふたを開けて、下水道に避難して、一人残らず死亡した不幸な家もあった。……同夜の火災は早稲田方面から、江戸川にかかる江戸川橋までの人家を一なめにして、逃げ遅れて橋から川に落ちた人びとは数知れず、火と水両方に責め立てられて、たくさんの死者を出した。 (同書同巻 七三六―七三七頁)

と記している。また、当時高等女学校生であった牛込区喜久井町の長谷川佳通子は、我が学苑生を兄としていたが、「ひとり消火に残った兄」の中で、

兄はもう少し頑張るからお前は先に逃げうといって、防空頭巾の上からバケツの水をかけてくれた。江戸川公園に行けよという兄の言葉を最後に、外へ出てみると、もう表通りの向い側は真赤な炎で、人影もない。行く手にはごみ箱が火を吹き出しており、私は夢中で早稲田の方へ走った。やっとの思いで、強制疎開跡の空地まで行くと、すでに二、三人ずつが石のかげなどに避難していて、やっと人影がみえたのだが、広い早稲田通りの向い側はすでに一面火の海で、この火を越えて江戸川公園までなど行かれたものではない。……ようよう白々と夜が明けてきた。焼けるにまかせて焼いたあとは、昨日までの町並は跡形もない。余燼のくすぶるなかを、家の方へ道を急ぐ。あちこちに焼死体がごろごろとしていて、自分が生きているのが不思議であった。衣服に火がついてか、黒焦げになっている者、真裸で異様にふくれ上がり、性別もわからぬ者、下半身が焼けている者、衣服はきちんとしているのに口や鼻から出血して死んでいる者、崖にはいのぼろうとして手をのばしたまま倒れている者、場所によってさまざまな状態で死んでいる人達を、目をそむけようもなく見て通る。……兄はポケットから出た早大の学生証で身元がわかり、知らされたようで、遺体はまとめて池袋の戦没者墓地に埋葬されていた。

(同書同巻 七三四―七三五頁)

と、その悲しみを綴っている。人々は避難先を求めて、少しでも安全な場所を探し求めて逃げ回ったが、当時、牛込区早稲田南町の陸軍偕行社病院(旧簡野病院)の看護婦であった後藤いね子は、「患者とともに」で、患者を世話しながら早稲田中学校へ、次いで学苑の戸塚球場へと逃げ、更に日本女子大学校までたどりつく道筋の光景を次のように書き留めている。

ことに早稲田は強く町民達によって結ばれていた。私は病院の屋上に上がって、どこまで敵機がきたかを見に行ったところが、驚いた。一機が、赤青等の照明をしていくうちに、両国の花火の何十倍の光が目に映じて、次々にぼう大なる照明弾を落として、それが途中でじゅずつなぎに四方に広がり、ゆうゆうとゆれて、アッと思う間に、早大の時計台、新宿駅、三越と、あとバラバラと、筒状のものが落ちてくるのがわかった。この明りのきれいだったこと。これは命の木戸銭を出してみる、実に一生忘れられないきれいさであった。急いで二階より降りて、歩行患者はつきそってもらい、タンカで重病患者を運び、玄関に院長が自宅よりかけつけて避難命令を出している。私は患者につき、あとは防火につくようにする。院長先生とて、六〇歳をこえていられる。患者三〇名、医師一人、看護婦四名、事務員一名。院長の指令した早稲田中学はもう避難民でいっぱい、早大グランドへ行く。これも人でいっぱい。グランドの入口の戸をおさえている人は、早稲田署員で、昨日まで治療にきていたのに、もうこちらが避難民となると、入れてくれない。人の心の裏表など思ってもせんないこと。引き返して早稲田の都電の終点の、赤い旗振る小屋の前で、少し休ませてほしいとたのんだ。焼夷弾のパチパチと落ちるなかを、焼けない所に逃げたとて、あの照明弾のゆうゆうと動いているかぎり、残っている所を焼くでしょう。このなかを突破して、目白へ。三月一〇日に焼けた目白の女子大にたどりつく。幸い空室に患者をねかせて、夜の明けるのを待った。私の救急袋に故郷の秋田から送られた糯米の干餅が少しあった。「干餅あるかしら」といったら、ねていた患者が、いっせいに頭を上げたのにはびっくりした。……病院は丸焼け、一夜のうちに早稲田南町、北町、鶴巻町、病院の前の共同便所は、死体が重なりあっていた。見るに忍びず、出てきた所で、神楽坂にすんでいる友達がいきなり私にすがりついてきた。生きていたの、と二人相いだいて泣いた。何の抵抗もできぬ都民を、この残酷さは、黒こげの死体をまるで材木のように、トラックに積んでいた。

(同書同巻 七三一―七三二頁)

 とりわけ界隈の人々の多くが避難のために殺到した江戸川の状況について、当時成女学園生であった牛込区山吹町の小沢幸子は、「私の体験記」で、

近くの大日本印刷工場に大きな音がしました。焼夷弾が落ちたのでしょう。真赤な色が夜空を染めます。B29はあちらこちらに続いて焼夷弾を落とし始めました。それと一緒にガソリンをまくような感じでした。物凄い音や方々からの火の手、B29の飛び交う音、迎え撃つ高射砲のひびき、それらがいり混じってもうその時は恐ろしいなど通り越して、ただ歯がガクガクしていました。父が「皆逃げろ、江戸川公園の方へ行け」と叫びました。……みんな身体は物凄く熱く顔などは火照っています。少しでも涼しいようにと思ったのでしょうか、私は無意識のうちに川の縁に腰かけました。川は何メートルかわかりませんがかなりの深さでした。私の友達が横にいました。誰だったか今は名を思い出せませんが、その人は「熱くてたまらない」と、とうとう川に飛び込みました。私も飛び込みたいのですけれど川の深さを見ると勇気が出ません。と突然、弟が後ろの方から走ってきてその勢いで川に飛び込みました。そこは幸い水深も五〇センチぐらいのようでした。でも弟は少し流されかけて誰かに手を摑んで貰いました。私も熱さにとうとう我慢しきれず防空カバンを肩から外して飛び降りました。気持がフワッとした瞬間、川の汚れた水が口に入りました。いつの間にか靴も脱げてしまってハダシでした。しばらくして身重の母も妹を抱いて飛び込んで来ました。次々と飛び込む人がふえました。……五月二五日の父を奪ったこの日は、早稲田から鶴巻町、山吹町、矢来町、江戸川方面、護国寺方面一帯が焼け野原と化しました。戦争とはこんなに残酷です。無慈悲です。

(同書同巻 七一三―七一六頁)

と、少女期の強烈な体験を綴っている。このような惨状は、当然、学苑の教職員の身辺にあっても共通の出来事であった。例えば、学生時代は大学正門前の下宿街で過ごし、卒業後は石切橋近くの水道町に家庭を持って母校の教壇に立った、当時第二高等学院教授の岡田幸一も、罹災した一人であった。岡田は既に家族を疎開させて、弟と鶴巻町に移転していたが、この夜の空襲警報に逸速く二人で学苑構内に駆けつけて防火に奮闘し、「翌朝、不眠と煙のために痛む眼がしらを気にしながら、私は正門前に立った。鶴巻町から飯田橋にかけて一望の焼野原である。外廓を残す岡崎病院をめざして行くと、その玄関には倒れ伏す焼死体がある。わが焼け跡に来て見ると、まだ燃えきらない紅い書籍の山が、吹く風に形を崩し、白い灰となって飛び散っていく。うつろな眼で私はこれを見、戦争の持つ残虐さと空しさが身にしみた」(「庭の桜」『下戸塚――我が町の詩――』二三一頁)と語っている。また、同じく界隈の山吹町に自宅のあった当時政治経済学部教授小松芳喬も罹災した一人で、空襲の一年余り後に記した「蔵書罹災記」に、

罹災は遺憾ながら杞人の憂ではなかった。昨年(一九四五年)の五月末、わたくしは家を焼かれたばかりでなく、家族まで犠牲に供せしめられた。当時旅行中であったわたくしは、帰京後旧宅の焼跡にポツンと書庫が残っているのを発見したが、書癡をもって自ら任ずることのできぬわたくしには、書庫が煙を吐いた模様のないのに欣喜雀躍したり、焼跡の処処に一見書物の残骸とわかる多量の真白な灰を見て悲歎の涙にくれたりするだけの心の余裕を持合せなかった。仕事も中絶し、焼残った書庫は、その儘放置しておく以外に方策がなかった。 (『三つのゲイヂ』 一一三―一一四頁)

と述べているが、「当時旅行中」というのは、豊川海軍工廠へ動員学徒の監督のため公務出張中だったのである。

 かくして、五月二十五日夜から二十六日未明にかけての数時間のうちに、到底筆舌に尽し難い無数の惨状が地獄絵の如く展開した。この時、学苑界隈は、「警視庁消防部空襲火災概要」によれば、淀橋区管内および牛込区管内の大部分が大々的な被害を受け、淀橋区は、焼失戸数一四、九一四(戦前戸数四三、一二〇)、焼失建物坪数二三、〇一〇(戦前建物坪数七三八、五一一)、死者三〇・傷者二〇〇・死傷者計二三〇(戦前人口一八三、一〇二)となり、牛込区は、焼失戸数一二、一三三(戦前戸数二八、四八三)、焼失建物坪数一八一、〇〇七(戦前建物坪数七二〇、六三三)、死者・傷者・死傷者計は不明(戦前人口一、一二六、七六二)と、それぞれの被害が出て(『東京大空襲・戦災誌』第三巻三一一頁)、また、「帝都防空本部情報」によれば、淀橋区は死者三五七、重軽傷者二、五五一、全焼一四、五九四、半焼七、罹災者五八、五七二となり、牛込区は、死者四九一、重軽傷者二、四四二、全焼九、〇九三、半焼不明、罹災者三六、七〇七との被害が記録された(同書同巻三一六頁)。罹災地域を界隈の警察署の管轄別に記せば、戸塚署管内では戸塚一・三・四丁目、諏訪町、下落合一・三・四・五丁目、上落合一・二丁目、西落合一・二・三丁目が、早稲田署管内では原町一・二・三丁目、富久町、余丁町を除く全地域が、淀橋署管内と神楽坂署管内は各全地域が、それぞれ未曾有の被害を受けたのである(同書同巻三一四―三一五頁)。

 一夜が明けた二十六日の朝、学苑周辺は戸塚町一、二丁目の一部を残して、明治通りから先沼袋方面と東中野にかけて一なめの惨状となり、また、新宿、牛込方面も見渡す限りの焼野原と化して、南榎町辺りからは遠く秩父連峰が見えたという。「東京戦災延焼状況図」〈戦災焼失区域表示 帝都近傍図〉(新宿区立中央図書館蔵)や「戦災焼失区域表示 現況東京詳細地図」(昭和二十一年四月、三和出版発行――本巻写真第八集45参照)によっても分るように、早稲田界隈の大半は壊滅状態となった。こうした惨状は罹災地域共通の現象で、阿鼻叫喚の筆舌に尽し得ぬ戦禍の爪跡が至るところに残された。中でも、正門前の鶴巻通りは強制疎開後で、人通りも少く、かつての賑いは想像もつかないほどのさびれようであったが、この日を以て、数々の想い出をそこここに残していた旧来の学生街の面影は完全に消滅した。早稲田界隈三転説の第二期を終焉させたのは、実にこの二十年五月二十五日夜の大空襲であった。

 二十年八月の敗戦後、学苑は九月に入り講義が再開され、焦土の早稲田界隈に学生の声が戻ってきた。久しぶりに高田馬場駅前は復員服を着た学生の姿が充満した。その中の一人で、復学した後年の東大史料編纂所教授林幹弥(昭二二文)は、「それは敗戦にうちひしがれた姿ではなかった。再び学園にかえって勉強できるんだ、という希望に胸をふくらました、あたかも新入生のような新鮮な顔でいっぱいだった。学友のだれかれと顔をあわせると、以前はあまり口をきいたこともないもの同志でも、お互に手をとりあって、『お前、生きていたのか』などといいあったりしていた」(「友の独り言」『早稲田学報』昭和四十二年七月発行第七七三号九頁)と回顧して、軍隊の桎梏からの解放や学苑への復帰と学問への再びの希望に渦巻く学生の安堵感の一端を伝えている。しかし、復学はしてみたものの、学苑は三分の一を焼失したままであった。正門前の鶴巻通りも、左右に一木一草もない有様で、この辺りには岡崎病院以外には鉄筋コンクリートの建物もあまりなかったから、誇張して言えば一望千里の観があった。また、大隈講堂のベランダ側に樹木が僅かばかり焼け残ったのみであったから、この時期には、大隈庭園から鶴巻町や山吹町のみならず、弁天町や矢来町まで見通せるほどであった。また学生がせっかく復学しても、学苑もさながら廃墟であった。第二高等学院在学中に学徒出陣し、政治経済学部に移籍され、復学して文学部に転籍した後年の作家菊村到(昭二三文)が、「一面の焼野が原で、文学部の校舎もところどころ空襲で破壊された傷痕がそのまま残っていて、まことにさむざむとしていた。私は学生服がなかったので、軍服を着て学校にかよっていた。さつまいもを弁当がわりに持って行ってかじったりしていた。冬の教室はまことに寒かった。窓ガラスは割れていて寒い風が吹き込んでくる。教師も学生もオーバーを着こんだまま、背中をまるめて机にかじりついていた」(「廃墟のなかで」同誌同号一一頁)と当時を回想しているが、こうした廃墟の中での学苑生活が当分続いたのである。もとより、敗戦直後の未曾有の混乱の中で、早稲田界隈の復興も遅々として進まなかった。大正期より昭和初年にかけて考現学を提唱した今和次郎の研究成果の一端は第三巻第六編第十章に引用したが、今は戦後、昭和二十七年五月発行の『早稲田学報』(第六二〇号)に「早稲田界隈の今昔」を寄稿し、次のように敗戦後数年間の様相を筆にしている。

戦争時代を経過して、戦災で、大学の西側の界隈だけが部分的にのこつたが、東側も南側も北側も焼け失せてしまつたのであつた。で「復興振りはどうかねえ?」という問いに答えなければならない段取りになるわけだが今のところ、ぐるり考現学などをやつてお目にかけるような食指が動かない程、対象としての貧困さだとまずいいたい。……もとの正門前と称される区域は、バスの停留所の円い台だけが淋しく裸かのままで、裸かの背景の中にみられるばかりなのだ。背景とされていた鶴巻町通りは全滅のままなのである。緑地広場の計画なのだそうだが、赤土のはだかの荒地のままなのである。そして旧鶴巻町通りをどこまで歩いてみても、正門から伸びている限りの地域には街らしい街がない。矢来から神楽坂まで歩いてみても昔の俤がどこにもない。田舎の新開町にも劣るような情景の展開なのだ。五軒町の方も大曲までも、バラック式のちぐはぐの小住宅と、場末らしい店屋がみられるばかりなのである。馬場下通りと同様で若松町までも裸かのままで、学院の新築の建物や理工学研究所などはまる裸かのまん中に建つているばかりなのである。まるで旧約聖書にかかれている荒れた廃墟の感だと報告できるばかりなのである。夜になると一人歩きができないような淋しい街と化してしまつているのである。もちろん通学の学生の歩いている姿もほとんど見られない。では北側は、都電側はといえば、都電が高田馬場まで伸びたことによつて、都電利用の学生たちが相当にあるが、またバスの発着所が車庫前にあるためにその乗り降りが賑つているけれど、街そのものは復旧しているとはいえない。都電利用の学生は特に夜間の学生たちに多いのは当然なことだが、あえて記すに足りる程でもない。ただ一人西側の戸塚方面だけが極めて著しいのである。通学の学生のほとんどすべてがこの口からだといえるもののように、戸塚通りの両側の約一キロの歩道は、時間によつては歩くのに窮屈な位学生の列でうまつてしまうのである。それにまた、学生専用のバスも常に満員の車を走らせているのである。けれどもしかし、それによつて戸塚通りの店屋が特に発展しているとはいえない。大学のぐるりの有様は特にそうとしかいえないのだ。 (二三―二四頁)

今は、このように、敗戦後数年間を経ても早稲田界隈の考現学的調査には「食指が動かない」と記し、時期尚早と明言している。戦後も七年近く経ても、界隈の復興にはまだなお長い時間が必要であった。これに反して、戦前に比べて大きく変りつつあるのが学苑西側のグラウンド坂上辺りからの戸塚通り(現早稲田通り)であると指摘し、戦前における正門前の鶴巻通りにとって替って、戸塚通りが本格的な学生街路になりつつあることが示されている。こうした変化をも含めて、戦後の新たな早稲田界隈の瞠目すべき変貌ぶりについては、巻を改めて説述しよう。