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法人略史および歴代役員

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 税金で賄われる国公立大学と違い、私学は独自の建学の理念を社会に掲げ、その実現のために自力で奮闘努力することを強いられてきた。学苑も例外ではない。もとより建学の理念を具現するためには、それに賛同する優れた研究者・教育者・学生の結集が第一の条件ではあるが、教学すなわち教育と学問研究を推進するのに欠かせない資金と、その有効な活用を実現させる経営組織がなければ、教学そのものが成り立たない。私立の、とりわけ総合大学にとって、経営は教学に比肩する重要課題なのである。にも拘らず、大学や大学史を論ずるに際して、ともすれば教学のみが議論されて資金調達や組織運営といった経営面が裏方扱いされる傾向は否めない。『早稲田大学百年史』の執筆は、このことに鑑みて法人組織や資金調達についての叙述にも能う限りの配慮をしてきた積りであるが、総索引・年表編を編集・刊行するに当り、あらためて学苑の管理運営組織の変遷を通観し、それを担った創立以来の法人役員の氏名を一覧として掲げることにした。

一 私塾時代

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 明治十五年、東京専門学校は、「改正教育令」(明治十三年十二月二十八日付太政官布告第五十九号)第二十一条にある「私立学校幼穉園書籍館等ノ設置ハ府知事県令ノ認可ヲ経ヘク、其廃止ハ府知事県令ニ開申スヘシ」(『明治以降教育制度発達史』第二巻二〇四頁)との規定に基づいて、東京府知事に申請、認可を得て開校した。

 学苑の草創期を語る史料は決して多くない。開校二年目期首の明治十六年九月に作成されたと思われる『東京専門学校年報明治十

五年度』は、学苑の初年度の姿を伝えている。それに所載の「編成及教旨」によれば、役員は、校長一名、議員五名、幹事一名、副幹事一名、補幹一名、会計委員二名、書記三名であった。校長は事務を総理し、議員は講師・幹事とともに学苑の主要な事柄を議決する。幹事・副幹事は事務を監督し、補幹がこれを補佐し、会計委員は金銭の出納を担当し、書記は記録その他の事務一般を司る。陣容は、校長大隈英麿、議員鳩山和夫・成島柳北・小野梓矢野文雄島田三郎、幹事秀島家良、副幹事小川為次郎、講師高田早苗坪内雄蔵(明治十六年八月就任)・山田一郎天野為之岡山兼吉山田喜之助砂川雄峻・薩陲正邦・大隈英麿田原栄であった。学苑の重要事項は議員・講師・事務職責任者の合議によって決定されたわけで、議員会とか講師会とかの組織を作っての学校運営ではなく、陣容にも示されているように、小所帯なりの運営組織となっていた。

 十七年三月に秀島家良が辞任して幹事の役職が廃止され、監督―理事制に移行、事務組織を教務・庶務・会計の三部に分け、この三部を監督(任期三年)が管掌し、その監督を補佐する理事を置いた。この改編は、教員と生徒の増加や施設の拡充に伴い事務分掌体制を整えることに主眼があり、監督の職掌は幹事のそれを受け継いでいたと考えるべきであろう。なお、この時監督になったのは山田一郎で、山田のあと、同年九月には高田早苗が、翌十八年四月からは天野為之が、同年九月からは田原栄が監督となっている。任期三年としながらも、実際には僅かに五ないし六ヵ月、その職に留まったにすぎない。

 十九年三月十八日の議員会(評議員会)において、学費の一円から一円八十銭への値上げが決議された。これは、それまでの学苑財政が大隈家からの援助に依存していたのを、そのようなあり方は学校経営のあるべき姿としてふさわしくないとの高田らの主張に基づき、学費収入を増やして大隈家から経済的に自立することを目指したものであった。大隈の私的な学校から、「公的な」学校への脱皮を図ったとも言える。この時、事務組織が刷新され、監督を廃する代りに任期二年の専任幹事を復活させ、講師田原栄がその任に就いた。幹事の職掌は監督のそれを継承したと思われるが、定かでない。二十二年七月に至り幹事を二名に増員し、高田早苗田原栄が任じられた。幹部職員の備忘録などに依って学苑の歩みを年譜の形式で記した未公刊の『早稲田大学沿革略』には、高田は「精神的方面」を、田原は「行政的方面」を分担したと書かれてあるが、「精神的方面」が具体的にどのようなものであったかは不明である。二十五年四月に高田と田原は幹事を辞任している。『早稲田大学沿革略』によれば、代って評議員小川為次郎が幹事になったとあり、二名体制が崩れたことになっているが、同年十一月調べの『東京専門学校人名簿』には「評議員兼幹事」として小川為次郎田原栄の名が記されている。三十年四月二十三日に至り、幹事を助け事務の監督をするため事務長が新設された。これは、幹事の学校経営への参画を一層重視するようになったため、事務全般を専門に管掌する役職が必要になったからと思われる。

 学苑の重要事項は評議員会で議決されていた。議員から評議員への名称変更および評議員会の組成は二十二年のことと推定される。二十一年六月調べの『東京専門学校人名簿』には「議員」という肩書きが記されているのに対し、二十二年十月調べの『東京専門学校人名簿』には「評議員」となっているからである。学苑機構が改編されたのも前段で述べたように二十二年七月であったので、議員会から評議員会への移行も、あるいはその時に行われたのかもしれない。大正後期に作成された『早稲田大学沿革略』には、「評議員会」が明治十八年六月十八日に開かれたと書かれているが、大正後期には「評議員会」が学苑の中心的組織となっていたため、恐らくその前身の「議員会」も「評議員会」の呼び名で記述されたのであろう。

 十八年六月の「評議員会」(実は「議員会」)は「臨時」と断ってあるので、定例会が開かれ、制度化されていたのは間違いない。この臨時評議員会(議員会)では、岡山兼吉が提案した法律学科の神田への移転の件が協議され、否決されている。この時以降について開催を確認できる議員会および評議員会は次の通りである。

明治十九年三月十八日 評議員会ヲ大隈邸ニ開ク、大隈重信臨席。「教則」大改正。監督ノ制ヲ廃シ専任幹事ヲ置キ、任期ヲ二ヶ年ト定ム。講師田原栄幹事トナル。三学年ノ課程ヲ四学年トナス事トス。従来、年々大隈重信校費ノ補給ヲナシ居タルモ、今年ヨリ之ヲ辞シ、書物ノ購入費ニ充ツル事ヲ請ヒ聴サル

明治二十三年五月三十日 臨時評議員会ヲ開キ、文学科新設ノ議ヲ決ス

明治二十五年七月十一日 評議員会ヲ大隈邸ニ開キ、尋常中学校及専修英語科ヲ設クル事并ニ商業科新設ノ件ヲ議ス

七月十五日 臨時評議員会ヲ開キ前項ノ議、見合セニ決シ、新ニ研究科ヲ設クル事ヲ議定シ、来年二月実施ト定ム

明治二十六年七月十一日 評議員会ヲ大隈邸ニ開キ、来ル九月研究科ヲ開始スル事、八月中地方巡回講演ヲ行フ事決ス

明治二十八年七月十四日 評議員会例会ヲ開ク

明治二十九年七月六日 評議員会例会ヲ大隈邸ニ開ク。八月一日ヨリ信越地方ニ巡回講演ヲ行フ事ヲ決ス

明治三十年四月十四日 臨時評議員会ヲ霞ヶ関大隈伯官邸ニ開キ、本校事業拡張ニ関シ協議ヲナス

明治三十一年七月十六日 評議員例会ヲ開ク。本校ト中学校ト聯絡ヲ保ツ為ニ、高等予備科ヲ設ケントスルノ提議アリタルモ、来年四月迄其決議ヲ見合ス事ト定ム

優等生ニ賞品ヲ授与スルノ制ヲ廃シ、単ニ賞状ノミヲ与フル事ト定ム(卒業生ハ旧制ノ如シ)

右から分るように、評議員会は大隈邸で大隈臨席の下に開かれており、学校経営が大隈の了承を得つつ進められていたのである。評議員会の協議事項は、「教則」の改定、事務組織の改編、学費改定、教育課程の改編、学科や研究科等の新設、地方巡回講演の実施、新事業の策定等々、教学・経営両面に亘り、重要事項を決定している。これらの機能は、社団法人時代の三十六年十二月に設けられる維持員会に継承されていくことになる。

 議員または評議員の定数や資格基準は明らかでない。明治十五年の開校当時、講師が議員を兼ねることはなかった。しかし、十九年十二月に作成された『校友会規約・同会員名簿』には、議員十六名の中に高田・田原・坪内・三宅恒徳の四名の講師が名を連ね、更に、各年の『東京専門学校人名簿』によれば、二十一年六月には議員十九名中講師兼任は七名、二十二年十月には評議員二十九名中十四名と、講師中からも評議員が選任されるようになって、教学の現場の意見が学校経営に直接反映される道が徐々に拡大した。

 卒業生が母校を物心両面から支えるという姿は私立大学の大きな特徴である。卒業式を二度重ね卒業生の数が八十名近くになった明治十八年の十二月十三日、東京専門学校と卒業生との関係を密にするために校友会が発足した。その規約第六条には、「会員中東京専門学校ニ対シ意見アル者ハ、之ヲ提出シテ衆員ニ質シ、若シ多数ノ賛成ヲ得ル時ハ、本会ノ名ヲ以テ東京専門学校ニ建議スルコトヲ得」とあり、また第七条には、「会員ハ、東京専門学校ニ応分ノ力ヲ尽ス可シ」(『中央学術雑誌』明治十八年十二月二十五日発行第二〇号三二頁)と謳われている。右の「衆員ニ質」すというのは、年一回(二十一年より年二回)開かれる校友大会での協議を指すが、二十三年七月二十一日の校友大会の模様を伝える記事に、「校友中より専門学校評議員二名を設けんとの前島校長の通知に従ひ議決投票の末黒川九馬、山沢俊夫両氏を撰挙」した(『第五回報告校友会名簿』五頁)とあり、この年に初めて卒業生が学校経営に直接参画する道が開かれた。任期二年の校友会選出評議員(ただし在京者に限る)は翌二十四年には二名から四名に、三十年には七名に増員され、卒業生の増加に伴って選出評議員の定数拡大が図られている。