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法人略史および歴代役員

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三 財団法人時代

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 社団法人化はあくまで一時的な便法であって、ゆくゆくは十分な基本財産を備えて財団法人とすべきであるとの方針を関係者は抱いていた。その計画を実現するための布石は、早稲田大学への改称時に置かれた。すなわち、東京専門学校は三十五年九月に早稲田大学と改称することを目指して、大学の名にふさわしい設備を整えるべく充実を図った。もとよりそのためには多額の資金が必要であるが、当時、社団法人は固定基金を全く有していなかった。そこで、「講堂建築、専任講師増聘、図書館拡張、海外留学生派遣等のため基本金三十万円を募集」し、「右のうち五万円を建築費に充て、二十五万円を確実な管理方法を設けて利殖を計り、校費の補助となす」方針を立てて(『早稲田学報』明治三十四年二月発行第五〇号「早稲田記事」一五六―一五七頁)、大学拡張の第一期計画に着手した。大隈は「我専門学校は余程学校に縁故のある相当の資金ある人達に向つても是迄寄附を申込んだ事はない」と語っており(「私立大学設立に就て」同誌同号四―五頁)、学苑としては初めての寄附金募集であった。その後更に、時代の要求に応えるべく理科、工科、医科を増設して名実ともに総合大学としたいとの願望を抱くと同時に、大学経営を磐石にするため固定基金を確保しようと考えた。かくて四十一年春、大学拡張の第二期計画を世に問い、あらためて百五十万円の募金に踏み切った。そのうち六十万円が固定基金とされたのであるが、その前年秋、学苑創立二十五周年記念式典に臨んだ大隈自身も、「不動産の一部を此学校に貸与して措いたが、学校は永久的のものであるから、過去二十五年間学校が辛苦経営してここに至つた事を祝するの意よりして、此学校の敷地を、十万円のものか十五万円のものか知れぬが、之を今寄附したいと思ふ」(同誌明治四十年十一月発行第一五三号五九頁)と述べて、敷地を学苑に寄附している。ここにおいて、学苑は初めて土地財産を取得したのであった。如上の多額の寄附金募集による学苑の拡張計画によって、財団法人化が可能になったのである。もとより、財団法人としての大学が一人前の私立大学であるとの通念が社会的にもあったようで、学苑自身も、第二期計画趣意書に「吾早稲田大学は固より私立の学校なりと雖も、決して私有の学校にあらず。吾人の期する所は一個財団法人として其組織を完成し、有力なる国家教育の一大機関として永く之を後世に伝へんとするに外ならず」(同誌明治四十一年六月発行第一六〇号二九頁)と記し、財団法人こそが「完成」された大学の要件であり、社会的に認知された大学であると認識していたのである。

 学苑の財団法人化については、大隈は積極的に賛意を表した。市島謙吉の日記『背水録』によれば、大隈から寄附される学校敷地と新たに購入する土地とを登記して学校組織を社団法人から財団法人に改める件に関して、「大隈伯は直に承諾を与え」たという。

 明治四十一年五月二十二日、学苑は社団法人解散、財団法人設立の登記を完了した。財団法人化の第一着手は、その前年、四十年四月四日に大隈邸で開かれた維持員会において行われた。この席で財団法人化が決議され、併せて新組織の骨格および人事が決められたのである。すなわち、校長と学監を廃止して新たに総長と学長を置き、総長に大隈重信を「推戴」し、学長に高田早苗を「選挙」した。明治十五年の創設以来、学苑の公的な職に就かなかった大隈が、初めて役職に就いたのである。尤もこの総長は名誉職であり、実際に経営の任に当るのは学長であった。また維持員を七名から十五名に増員し、浮田和民・鈴木喜三郎・塩沢昌貞金子馬治坂本三郎田中穂積島村滝太郎田中唯一郎の八名を新たに選挙した。

 ここで注目されるのは、理事二名が一名とされ、それを学長と称し、別に総長を戴くとしたことである。三十六年改正定款では校長・学監の二名の理事が「総会の決議に基き校務を管理す」るとされ、両者併立して校務の管理に当ることになっていたのが、四十年改正定款では学長一人による校務の管掌という形が採用された。二頭政治は時として混乱を招きかねない。事実、三十年代末には、時の校長鳩山和夫と学監高田早苗とは学校のあり方について意見を異にしており、「紛争」の火種が燻っていたのである。そのような内在する対立に決着をつけるかのように、理事一人体制が作られ、それに高田が就いて、高田を最高責任者とする学苑の経営体制が作られたのであった。ところで、学長は大学経営の最高責任者であると同時に教学の最高責任者でもあった。当時の私立学校にあっては、経営と教学は別個のものとして組織が作られていることが多かったから、学苑の体制はきわめて異例であった。ある意味では相反する性格をも有する教学と経営とを、最高責任者が管掌することによって、両者の「対立」を回避し、「絶妙」のバランスの下に学校経営を行うことが可能となると考えられたことが、その理由である。教学と経営の兼任体制はその後も受け継がれて今日に至っている。

 さて、財団法人化に伴い、四十一年五月学苑はあらためて寄附行為(校規)を定めた。法人諸規定は基本的には四十年四月四日の維持員会で決議された内容と同じである。維持員は任期終身の者七名、任期五年の者八名の合計十五名である。終身維持員というのは、社団法人時代の社員七名のために設けられた制度であった。維持員会はこれまでと同様「大学に関する重要なる事件を決定」するが、維持員会のこの性格は、今日の学校法人における評議員会に引き継がれている。「本大学の統理者」である総長は維持員会の決議により推戴され、任期は三年となっているが、大隈は逝去するまでこの地位に就いていた。また、維持員中より理事一名を選出しこれを学長とするが、その任期は三年で、対外的には学長が学苑を代表するとともに、維持員会より付託された校務を管掌する。なお、財団法人早稲田大学設立時における維持員および理事は実際には大隈が指名し、陣容も、維持員から鳩山和夫の名が消えて新たに三枝守富が就任したほかは、四十年四月四日の維持員会で選ばれた人々と同じ顔触れであった。

 四十二年七月、学長以外に、学長を補佐する理事を一名置くことを便宜的に職務規定に加え、市島がそれに就任し、空席となった会計監督には、市島の跡を継いで三枝守富が就いた。その後、四十四年九月に校規が改正され、学長を含む理事を「一名」から「二名または三名」に増員した。職務規定に加えられた事項を、正式に校規で追認したのである。そして天野為之を新たに理事に加えた。また、会計監督には三枝の他に田原栄が就き、二名に増えている。理事および会計監督の増員は、この頃に大学部理工科の開設や付属早稲田工手学校の開校など新事業が相次いで行われた結果、膨張した校務に対応するための措置であったが、と同時に、天野の理事就任は、彼を高田の後継学長に据える準備として行われたのであった。しかし、高田と天野は学苑の将来像について意見を異にしていたので、学長天野の実現までには時間を要した。

 大正四年八月、高田早苗が第二次大隈内閣の文部大臣に就任するに当って学長を辞任したのを機に、校規の改正をはじめ機構整備や大幅な人事異動が行われた。それは、高田と意見を異にしていた天野を後継学長に据えざるを得なかったことに由来すると言ってよいが、天野の学校経営の手腕を疑問視する者もいた。

 校規の改正点は、維持員数を十五名から十八名以内に、理事の員数を「二名または三名」とあったのを四名以内と、それぞれ増員したことである。同時に改正された職務規定では、毎週一回理事会を開いて教務・庶務・会計、教職員の任免、その他の校務を決定して学長がこれを実施に移すという条文が新たに加えられた。これらの改正は、つまるところ、理事による合議体制を敷こうとするものであり、天野学長の独断専行の抑制を狙ったものであった。なお、この時に「名誉教職員規定」が設けられ、学長を辞任した高田早苗、高田と同時に教授を辞任した坪内雄蔵、理事を辞任した市島謙吉に適用され、それぞれ名誉学長、名誉教授、名誉理事の称号が贈呈された。こうして整った新陣容は、総長大隈重信、学長(理事)天野為之、理事塩沢昌貞田中穂積田中唯一郎、会計監督三枝守富、終身維持員高田早苗天野為之坪内雄蔵市島謙吉大隈信常・三枝守富・浮田和民(前年十月に死去した田原栄の後任)、有期維持員金子馬治田中穂積田中唯一郎中村進午中島半次郎増子喜一郎安部磯雄坂本三郎阪田貞一塩沢昌貞・鈴木喜三郎であった。なお、翌九月、田原の後任として増子が会計監督に就任している。

 大正六年に起った「早稲田騒動」は学長の地位をめぐる争いという側面もあったので、「騒動」の最中の八月三十一日に天野の学長任期満了を迎えても後継学長を置かず、総長大隈の統裁の下に数名の理事によって校務を執る理事集団指導体制が敷かれることになった。すなわち、校規を改正して理事の員数を「七名以内」と拡大し、学長の欠けた時や事故のために校務を執ることができない場合には互選によって選ばれた理事が学長の職務を行うという規定を新たに盛り込んだのである。この時に理事となったのは平沼淑郎内ヶ崎作三郎・徳永重康・宮田脩吉田東伍で、互選の結果平沼が代表者理事となった。この臨時体制に際して理事の事務分掌が明確にされ、平沼は庶務・会計、宮田は会計、徳永と内ヶ崎は教務、吉田は図書館事務を担当した。

 平沼を代表者理事とする理事集団指導体制は、次の校規改正までの臨時のものであった。約一年を費やして大正七年九月、校規が改正された。その結果、維持員は二十五名と大幅に増員され、「設立者又ハ其家督相続人、若シクハ其代表者」一名、「総長ノ推薦シタル者」五名、計六名の終身維持員と、評議員会で評議員中から選出された十四名(うち七名は教授会選出評議員から選ぶ)、功労者や寄附者中から維持員会が推薦した五名の計十九名の有期維持員(任期三年)とで、維持員会が構成されることになった。それまで大隈重信の指名により選任されていたのに比べれば、遙かに組織的な選任方法である。更に特筆すべきは、社団法人化以来初めて評議員会からも維持員を選出するようになったこと、しかも教授会選出評議員からの選出枠が確保されたことである。これにより、校友および教授の学校経営への参加の道が再び制度化されたのである。学苑を支える逸材を各方面から選び出すための体制がとられたと言えよう。五名以内と定められた理事は維持員が互選し、維持員会の決議に基づいて学苑の経営に当る。以後今日に至るまでの理事のあり方が作り出されたのである。また、維持員会の決議により理事のうち一名を学長とし学苑の代表者とした。大正六年改正校規で新たに盛り込まれた学長代行規定も存続した。評議員の選出区分も一種増えて四種となった。教授会において教授のうちから選出された者三十五名がそれで、七科部(大学部政治経済学科および専門部政治経済科、大学部法学科および専門部法律科、大学部文学科、大学部商科、大学部理工科、高等師範部、高等予科)から五名ずつが選出されたのである。この三十五名のうちから更に七名が維持員に選出されることになっているから、各科部の教授会の意見を評議員会、更には維持員会に反映する形が機構的に保証されることとなったのである。

 この時の改正により、教授会の構成員が大きく変り、また権限も拡大する方向で改められた。それまでの教授会は、総長および学長から嘱任された全学の教授会議員により構成されていたのが、各科部に教授会が認められたのに伴い、各科部の教授全員によって組織されることになった。つまり、総長および学長の恣意的な組織化が排除されることになったのである。審議事項も、学長からの提案に限られていたのが、教授および研究に関する件、学生の指導訓練に関する件、学長・維持員会からの諮問事項となり、審議権が明確化し、その範囲も拡大された。また、科部長の互選権、評議員の互選権が認められた。教授会の決議は、「学長が実行する」という規定から、「維持員会の決定により実行される」とされた。維持員会の発言力が増す形となっているが、この変更は、教授会が総長および学長から嘱任された教授会議員によって構成されるのではなくなったこと、従って教授会の性格が学長の諮問機関から各科部の議決機関としての性格を強めたことによるものであった。総じて、民主的運営の形が一段と整えられたと言える。第二次世界大戦後、「学部教授会の自治」が定着するが、その濫觴はこの校規改正に遡るのである。

 大正七年十二月の「大学令」公布により、私立大学も官立大学と同等のものであると法律的に認められることになり、学苑は早速に認可申請を行い、九年二月六日に認可を得た。認可を得た大学は五学部(政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部)から成っており、これに伴い校規の改正が必要となった。五月十四日付で認可された校規によれば、教授・助教授・講師を五学部に分属することになったのに連動して、教授会選出評議員の員数が三十五名から二十五名に減少している。一学部五名の選出枠には変化がなかったためである。尤も、教授会選出評議員のうちから維持員に選出される数は七名と不変であった。「大学令」に基づく大学になったことによる法人組織の改編は、ほんの僅かにすぎなかった。

 それよりも大きな変化は首脳部の世代交代であろう。大正十年、任期満了により平沼が学長を退任した。後継学長の候補に挙げられたのは、いずれも学苑卒業生の塩沢昌貞田中穂積であった。結局、大隈のブレインと自他ともに認める存在であった塩沢が第四代学長に就任したのであるが、その時には既に総長大隈の病状は悪化の一途を辿りつつあった。そして翌十一年一月の大隈重信の逝去は、学苑組織に少からざる改編をもたらした。それまでの学苑の組織は大隈の存在を前提として作られており、直接的に、あるいは間接的に、大隈の影響を受けて成り立っていたと言っても過言ではない。その大隈を失って、早急に「大隈後」の体制を構築しなければならなかった。また、当時の学苑は、「大学令」に基づく大学に移行したことにより、その要件を満たすべく諸設備の充実が急務とされており、学苑財政は大きな困難に直面し、その打開が課題とされていた。このような状況からも新体制の構築が要請されたのである。

 新校規作成は十一年六月頃から議論せられ、具体案は高田を中心として立案され、翌年の三月に至って校規の改正を見、五月から施行された。この校規によって新たな法人組織を見ると、七名以内の理事の互選で総長を選び、総長が学苑の代表者とされた。旧校規では学長が学苑の代表者とされていたわけであるから、学長が総長と名称変更したことになる。そして、旧校規に規定された「大学の最高統率者」としての総長は置かれず、それに代って名誉総長が新設された。つまり、総長・学長制を廃して総長という名称の学長を置き、別に名誉総長を設けたのである。これらの改編は、学苑組織からいかに大隈色を稀釈していくかという方針に沿って行われたと言ってよいであろう。名誉総長の新設にしても、名誉総長は設立者大隈重信の家督相続人を推薦すると規定されており、学校経営に対する大隈家の影響力を極力抑えようとする姿勢が看て取れる。この点は、旧校規にあった、大学解散時には設立者大隈重信が寄附した土地は大隈重信の家督相続人に帰属するという規定を、新校規で削除したことに一層はっきりしている。

 維持員にも大きな変更が加えられた。すなわち、終身維持員が廃止され、有期維持員だけとなったのである。終身維持員は大隈重信または「其家督相続人、若シクハ其代表者」一名と、総長大隈重信が推薦した者五名であったわけであるから、ここにも大隈色の稀釈が看て取れる。その六名分は、維持員会が功労者中より推挙する任期三年の維持員として確保されたけれども、終身維持員の廃止は高田の持論であり、それが漸く実現したのである。

 評議員の選出区分も五種と増加し、その内容も変更された。「総長および維持員会推薦」とあったのが「維持員会の推薦」と変り、五学部の教授会で選出される評議員五名ずつ計二十五名が、専門部・高等師範部・第一高等学院・第二高等学院にも教授会の設置を認めたため、五学部(各四名)および四付属学校(各二名)の教授会選出評議員二十八名となった(夜間の早稲田専門学校にも教授会が置かれて、評議員二名を選ぶようになるのは昭和四年である)。新たに学部長・図書館長・付属学校長も職務上の評議員となり、校友会本部から選出される評議員は二十名から二十六名と増やされた。評議員会の権限として変ったのは、諮問事項その他について決議するというように、諮問機関としての性格が新たに付与されたことであろう。学部長・図書館長・付属学校長が評議員になると新たに規定されたことや、従来は「維持員は評議員会に出席して意見を述べることができる」とされていたのが、「評議員会は維持員が評議員会に出席して意見を述べることを拒否できない」と改められたことも、評議員会の性格変化に関係しているのであろう。

 新校規が施行された大正十二年五月十一日の定時維持員会で大隈信常が名誉総長に推薦され、理事を一名増やして高田早苗を理事に追加した。この時、校規改正により自動的に学長から総長となったばかりの塩沢はその職を辞任し、理事の互選により高田が新総長となった。理事には高田のほかに塩沢昌貞田中穂積平沼淑郎金子馬治山本忠興・松平頼寿が選ばれ、新たに常務理事が設けられて田中がその任に就いた。ここで名誉学長高田が総長に推挙されたのは、大隈なきあとの早稲田大学の「顔」としてどこからも文句のつけられることのない実力者を必要としていたためであるが、高齢の高田は総長受諾に際し、自身の後継者として田中穂積を念頭に置き、彼を総長補佐役の常務理事に据えたのであった。

 昭和四年六月に維持員は二十五名から三十五名以内へと増えた。この事情について高田は次のように語っている。

古い維持員は皆老功の人で其地位に永く居て貰はなければなりませぬ。所が段段新進気鋭の人が出来て来ます。私共老人から見るとまだ若いと思ふがもう鬚髮霜を戴いて居り、経験もあり、立派な人が評議員として沢山居られます。そういふ人々を少し加へなければ維持員会の空気なるものは新らしくなりませぬ。老功者も必要だが新進の人も必要でありますから、そこで相談の結果三十五人といふものに増しました。 (『早稲田学報』昭和五年十一月発行第四二九号 〔二一―二二頁〕)

すなわち、積極的に世代交代を推し進めようとの意図が働いたのである。また、評議員については、選出区分に名誉教職員が新たに設けられたほか、校友会本部選出評議員数が二十六名から四十名以内と大幅に増えた。これらの改定は、評議員会で主として校友会選出評議員から出された、評議員会の権限の拡大と維持員数の増加を要望する意見を汲み取った結果であり、校友会選出評議員が維持員となる道が広くなった。校友会の声を意識しつつ、創立半世紀を目前に控え、初期の卒業生がまさに社会の重鎮として活躍しつつある時代を迎えて、大隈の個人的名声に頼ることの多かった支援者の獲得を、増加する校友主体の支援へと切り換えていこうとの配慮によるものであった。

 また、この時、財団法人解散の場合の財産処分の規定が改められ、処分に当っては「設立者家督相続人ノ同意」が必要とされた。大隈家の影響力が大きくなったと言えるかもしれないが、これは、「民本主義ノミニテ出来タル学校ニ非ズ、設立者アリテ出来タル事ヲ明ニスル」ためであった。昭和二年十月の大隈記念講堂の竣工や大隈庭園に大隈綾子銅像を設けるなどの「大隈」追慕の雰囲気の中で改められたのであろう。

 昭和六年高田は引退を決意し、総長のバトンは田中に引き継がれた。この時、高田の年来の主張であった世代交代が進み、草創期以来高田とともに学苑行政に深く関わってきた市島謙吉坪内雄蔵、渋沢栄一、大隈信常も揃って勇退した。その後、役員の世代交代は更に進むが、法人機構そのものの改編は昭和二十一年まで行われなかった。