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第一編 学部

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第五章 商学部

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一 大学部商科の創設

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1 創設までの経過

 明治三十五年九月東京専門学校から早稲田大学へと改称した我が大学が、高等予科に商科を設置したのは翌明治三十六年四月であった。そして大学部商科は明治三十七年九月に開設された。しかし、商科開設の動きはそれより十三年も前の明治二十四年にまで遡る。前田多蔵が記した『早稲田大学沿革略第一』には次のような記述がみられる。

明治二十四年七月二十一日 校友大会 岡田庄四郎新ニ商業科ヲ設置センコトヲ建議ス。

 岡田庄四郎は明治十八年邦語政治科を卒業し、郷里松本の商業会議所で書記を務め、のちに校友会の常任幹事を歴任した校友であるが、この商科設立の建議はその後評議員会で正式に採り上げられた。前記の『沿革略』に次の記載がある。

明治二十五年七月十一日 評議員会 於大隈伯邸 商業科新設ノ件ヲ議ス。

 こうした動きは評議員会に諮られる前から既に始まっていたようである。第二次『中央学術雑誌』第一号(明治二十五年五月発行)には次のような記事が報ぜられている。

東京専門学校に於ては来る九月より商業科を増設せらるるやの説ありて現に大隈天野家永等の諸講師専ら斡旋尽力中なりと云ふ開設の上は定めて他の諸科と並んて私立商業大学の光彩を放たん。 (五五頁)

 この記述にみられるように、商業科の新設が期待されていたのであったが、この建議は否決され陽の目を見ることはなかった。

商業科を置くの説は前々より之ありて委員を挙けて調査中なりしか去月十五日評議員会に於て否決せりと。

(同誌明治二十五年八月発行第四号 五六頁)

 当時高等の商業教育機関としては明治十八年に東京商業学校と東京外国語学校および付属高等商業学校が合併してできた東京商業学校が同二十年に改称した高等商業学校(のちの東京商科大学→一橋大学)一校だけであった。この計画が実現していれば私学では最初の商業高等教育機関となるところであったが、この案が見送られた具体的な理由は明確ではないが、次のような背景を推察することができる。

 それは設立案が建議された明治二十四年の前年である二十三年に我が国初の経済恐慌を経験したことである。当時の経済状況では地方から東京の高等教育機関に子弟を就学させることは容易なことではなかった。こうした点について『廿五年紀念早稲田大学創業録』(明治四十年刊)で市島謙吉は次のように述懐している。

東京専門学校も創立以来漸次隆盛に赴いて、明治十八年の暮には、既に三年の星霜を送り、学生の数も数百名の多きに上ぼりましたから、経済も寛やかになるべき筈でありますのに、事実は之れに反比例をして居たのです。それはどういう訳であるかといふと、月謝の滞納者が非常に多くて、その三分の一も取り立てられない。この月謝滞納のために、学校では非常に困難して、之れが為めに、大隈伯の救助を仰いだことが幾度だか知れないほどです。 (一四八頁)

 以上の記述は明治二十三年当時のことではなくて、明治十四年に始まった紙幣整理による不況がその極に達した明治十八年当時のことであるが、この恐慌の時も同様であったであろうことは十分に推察できる。すなわち、慶応義塾では、明治二十三年に大学部が開設され、理財科が置かれたが、入学者は予想外に少く、その上入学しても中途退学する者もかなりあって、財政が窮迫し、経営困難に陥った。このため評議会では大学部廃止論が提案され、一時的にせよ、これが大勢を占める状況であったのである(国立教育研究所編『日本近代教育百年史』第九巻 産業教育1 三九二頁)。

 東京専門学校については前出の創立二十五周年記念の『早稲田大学創業録』に載っている「学生数得業生数一覧表」によって窺うことができる。すなわち、同表によれば、明治二十三年から同二十六年までの学生数および得業生(卒業生)数の推移は第百六表のようである。これをみても分るように、二十三年の経済恐慌の影響は二十四年以降入学者および卒業者の著しい減少としてはっきりと現れているのである。慶応義塾の窮状と同様な事態がこの頃起きており、とても新しい学科の開設ができるような財政的余裕は存在していなかったと考えることができよう。すなわち、学内外の状況からまだ時機が熟していなかったということになる。

第百六表 東京専門学校学生・得業生数(明治23―26年)

 しかしそれから九年経った明治三十四年に至って再び商科創設の議が諮られることになった。前出の『早稲田大学沿革略第一』には次のように報ぜられている。

明治三十四年七月十三日 大隈伯邸ニ評議員例会ヲ開ク 坪谷善四郎商学大学部ヲ設クルノ議ヲ提出シ討論ノ結果更ニ調査ヲナス事ト定ム。

 この評議員会で再び商学大学部(=大学部商科)設立の議案を提出した坪谷善四郎は、明治二十一年に東京専門学校政治科を卒業し、博文館に入り長年に亘って編輯局長を務めた人物で、当時第一級のジャーナリストで財界エコノミストの先駆的人物の一人と目されている。坪谷は明治二十四年に『内外豪商列伝』を著わしており、更に同二十五年から二十六年にかけて『実業家百傑伝』全六冊を刊行し、明治期の工業化を担った企業者史の研究に不可欠の資料を残した逸材である。更に日清戦争中は内外通信社を創立して社長を兼ね、三十四年以降東京市会議員、同参事会員の職にあり、のちに日本図書館協会長、文部省社会問題調査会委員などを歴任した。また大橋家の長老として同家の事業(博文館取締役、大橋図書館など)に参画した「当時の政財界に精通した最大級のジャーナリスト」(浅野俊光「明治〔実業家文献〕よりみた企業家の分析」『経営史学』第十四巻第三号一一〇頁)として著名な存在であった。こうして七ヵ月の調査検討を経て、翌三十五年に正式に商科創設の議の決定をみることになった。

明治三十五年二月 新ニ商科ヲ設クル事ヲ決議ス。 (前出『早稲田大学沿革略第一』)

 このように初めて商科を開設することが明治二十四年に提議されてから十一年経って漸く実現されることになったのは次のような情勢の変化によるものといえよう。

 先ず経済の発展を挙げることができる。明治二十四年から三十四年までの間に、名目国民総生産は約十一億四千万円から約二十四億八千万円へと約二・二倍も増加し、従って一人当り名目所得も二八・三円から五六円へとほぼ二倍になった。会社数も二十四年の四千三百六社から三十四年の八千六百二社へと倍増し、一社当り平均資本金額も四万六千円余から九万六千円余へと二倍以上にも拡大した(安藤良雄編『近代日本経済史要覧』二、七三頁の表による)。この期間の経済的発展の目覚しさを具体的に知ることができる。とりわけ「日清戦争勃発し、我国産業の発達を促進する幾多の好事情」がもたらされ、「就中当時世界の銀塊相場は暴落し、銀本位国であった我国の経済界に非常なる刺戟を与へ産業勃発の大なる誘引となった」のであった。

試みに此の時代の企業の勃興が如何に画時代的であったかを示す一指標として、明治三十五年現在の我国会社数八千六百十二の中、七千二百十七即ちその約八割四分が明治二十七年以降の設立にかゝるものであり、而して明治二十八年乃至三十年の三ヶ年間に企業の新に計画せられたるもの実に十四億六千万円(二十七年現在の会社払込資本高総計一億四千八百万円に過ぎず)の巨額に達している。即ち勃興企業の大部分は三十年迄に計画せられて、爾後の産業発達の大部分はその計画の実現に外ならざるものと見て大過ない。而て当時勃興した産業の中枢をなすものは鉄道、銀行、綿糸紡績の三者で、其他刮目すべきものとして電気、瓦斯、保険、製糖、鉱業等を挙げることが出来るであろう。

(文部省実業学務局編『実業教育五十年史』三六六頁)

と指摘されている通りである。

 次に文教政策上の新しい展開を挙げることができる。すなわち、明治二十六年に文部大臣に就任した井上毅は、前任者である森有礼によって形成された帝国大学―高等中学校を基軸とする高等教育の体制を変革しようとする構想をもって登場したのである。具体的には「日清戦争以後の八―九年間は、資本主義の発展、とくに工業化の進展を見越しつつ、専門教育のより多様な機会を準備することが政策の中心」となり、「帝国大学の拡大と、高等中学校の再編成すなわち専科大学化の試み、および専門教育機関の充実という方向をたどった」(前出『日本近代教育百年史』第四巻 学校教育3 四〇六頁)のである。すなわち、井上が「改革の基本目標とした点は、高等中学校を実際的・応用的専門教育機関に再編して分科大学の一種とすること、普通教育は尋常中学校までとしこれを予備機関とはしないこと、帝国大学は学術研究の機関とすること」(同上書 四五一頁)であった。井上は文相就任後約一年半程で辞任に至ったので、上述の彼の学制改革の構想はそのままの形で全面的に具体化することはなかったが、井上のこうした考え方が当時の教育界に及ぼした影響は少からぬものがあった。すなわち、「其後学制改革を論ずる人々にして動もすれば井上と類似の考の下に、帝国大学は之を専ら学者研究家を養成する高級大学として其程度の如きは之を低下するを要せざるのみならず尚一層之を高くするも妨げずとし、而して実際家を養成するが為には別に低度の実用的大学を設くべきことを主張し、之を以て学制改革の要訣なりとなす」(教育史編纂会編『明治以降教育制度発達史』第四巻 六〇五頁)主張を展開するものが相次いだのである。

 以上に述べてきた帝国大学の拡充は、明治三十年の京都帝国大学の開設で実現された。他方で実用的大学を普及させようという学制改革運動は明治三十二年頃最高潮に達したとされている(前出『明治以降教育制度発達史』第四巻、六〇八頁)。そしてこの明治三十二年に実業学校令が制定され、実業教育興隆の基が築かれたのであった。ここではその代表的な論者と考えられる久保田譲の所論をみておきたい。久保田は文部次官を退いてから貴族院議員として活躍し、明治三十六年から三十八年にかけて文部大臣に就任した人物である。彼は明治三十二年十一月の帝国教育会における講演で学制改革論を展開しているが、当時の教育制度の実情に関する久保田の認識とこれに対処して問題を打開する方策は次のようなものであった。

実際ニ於テハ学校ノ足リナイノト学校聯絡ノ不備デアル等ノ為メニ更ニ数年ノ長イ間学校ニ居ラネバナリマセヌ、ソレデ二十七八才若クハ三十才前後ニ至テ学窓ヲ離レルノデアル、ソコデ人生ノ最モ気力ノ盛カンナル時ニ於テ事業ニ従事シテ学校ニ於テ得タル所ノ知識ヲ応用シテ経験ヲ積ミ又工風ヲ凝シテサウシテ世ノ中ニ出テ一大飛躍ヲ試ミヤウト云フ所ノ準備ニ従事スルコトガ出来マセヌ……(中略)……是ハ一身上ノ不利ノミナラズ国家ノ不利デアル又実ニ不経済デアル……(中略)……然ラバ如何ニ之ヲ改革スルカト云フニ……(中略)……先ヅ各学校ノ目的ト云フモノヲ能ク明カニ確定シナケレバナラナイ……(中略)……ソレト同時ニ学生生徒ノ学問ヲスル年限ヲ短縮致ス……(中略)……サウシテ苟モ必要ナラザル所ノ学科課程ト云フモノハ痛ク之ヲ減ジテ仕舞フ、サウシテ秩然トシテ学科ノ順序ヲ能ク正シテ参リ綱目ヲ明ラカニシテ教育ノ統一ヲ期シ且ツ力メテ実際的ニシナケレバナラナイ、又力メテ経済的ニシナケレバナラナイ……(中略)……サウシテ官私互ニ相侵シ相妨グルコトノナイヤウニシタイ。 (同上書 六一三―六一六頁)

そしてこれまで帝国大学およびその学生に与えていた諸特権を、

悉ク新シイ大学ニモ附与シ私立学校ニモ或ル制限ヲ以テ大学ノ名称ヲ附シ同一ノ特権名誉ヲ附与スルコトヲ得ルト云フヤウニシタイ。 (同上 六二五頁)

と述べている。久保田はこの演説を行った直後貴族院において学制調査会設置に関する建議案討議の際、同じ趣旨の所論を述べたが、これに対し当時東京帝国大学総長で貴族院議員を兼ねていた菊池大麓が次のような反対の討論を行った。

……低イ程度ノ大学ト云フモノヲ置イテ今ノ帝国大学ト云フモノハ其マンマニシテ置イテ蘊奥ヲ研究スル所ニスルト云フ説ガアリマスガ、是ハ即チ大学ノ性質ヲ知ラヌカラ起ルノデアリマス、大学ニ於テハ研究ト云フコトト事業ト云フコトヲ分ケテ行レルノデアルカナイカト云フコトガ分ラナイ、ソレヲ一緒ニヤル位ノ程度デナケレバ大学トハ言レマセヌ、斯ウ云フコトハ決シテ出来ナイ、研究ヲシナイ大学ト云フモノハアルコトハ出来ナイノデアリマス。 (同上 六三九頁)

 すなわち、研究と専門的職業教育とは相容れないものではなく、寧ろ両者は大学の二大使命として両立させねばならないものであるということであった。

 こうした当時の高等教育の在り方に関する議論の展開の中で、早稲田大学はどのような方針の下で大学創立に向ったのであろうか。

 『廿五年紀念早稲田大学創業録』の「第三 早稲田大学創立の方針」の中では次のように記されている。

「爰に聊か早稲田大学創立の方針なるものを概述せんに、一言にて之を蔽へば、早稲田大学は、徒らに空理空論に馳することなく、能く学理と応用とを心懸け、研究実践兼ね備はれる実用的人物を養成せんとする者にして、更らに簡単に之れを言ひあらはせば、早稲田大学は、実用大学たらんとする目的を有する者なり。(中略)早稲田大学は、権勢情実の外に卓立して学問独立の大主義を標榜し、健全高雅にして且つ実用に適すべき模範的国民を養成することを以て、その目的方針となす。

(一五―一八頁)

 このような早稲田大学創設の意図については、天野為之が創立二十周年、早稲田大学開校記念祝賀会で行った「学理と実際」と題する講演(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年記念録』および天野為之『経済策論』に所収)から一層よく理解することができる。

 天野は「学問を学問として研究する。つまり原理・原則を研究して敢て之を実地に応用する目的のない学者と、学び得た原理・原則を実際の有様に応用しようという」(岡田純一「経済学者としての天野為之」『早稲田商学』第二四九号五八頁。なお原輝史「国際化時代における早稲田大学教旨の新しい意義」『早稲田フォーラム』第三十二・三十三合併号を参照)二種類の学者があることを指摘し、「往々にして早稲田の学校は応用の学問丈けを教へると云ふ様に解釈するのは、大に間違って居る。何方でも宣い、応用の意味を以て学問する人も来るべく、又学問を学問として研究する人も素より共に来って此処に学ぶべきである」(天野、前出『経済策論』九一六頁。岡田、前掲稿、五九頁)と明快に述べている。ここで主張されているのは、理論と経験的事実との相互作用の中に学問の発展を図っていこうとする方法論である。「実用大学」の本当に意味するところはこのようなものであった。

 昭和二年、当時常務理事の職にあった田中穂積は「商科の創設当時を回想して」という一文の中で、二つの苦労した点を回顧している。その一つは、実業界の人に、高等教育としての商学教育に対する理解が不十分で、ここで教育を受けた学生に対する実業界の受入れ方と現実の教育内容とのギャップに困惑したことを語っている。しかし彼は、他の学校がそうした実業界の要求に合わせて、実務に重きを置こうとしたのに対し、そうしたことは「如何にも馬鹿らしい仕方であるから、早稲田大学の商科はそういうことはしなかった」(『早稲田学報』昭和二年十月発行第三九四号四九頁)というのである。このことは創設当時の人々が、あまりに実務的な職業教育に偏ることを自戒していた証左である。

 しかしその反面、「実用大学」の標榜が学理研究より応用重視に傾きすぎて、大学の研究機関としての機能が十分に発揮できず、単なる教育機関に堕する危険があることが鋭く指摘されている(原輝史前掲稿 一一三頁)ことを忘れてはならないであろう。

 次に商科創設の頃の経営状況について触れておきたい。

 次の表によると、日清戦争後の第一次恐慌(明治三十一―三十二年)および第二次恐慌(明治三十三―三十四年)の影響が学生数や卒業生数の推移の中に幾らか現れているが、明治二十四年頃とはかなり違っている。

第百七表 商科創設当時の大学の経営状況(明治31―36年)

 すなわち、景気の変動にも拘らず、商科予科や高等師範部の設置、大学部の発足に伴う在学年数の延長などによって、大学の財政収支や学生数の増加には顕著なものがみられるのである。このように前述のような明治二十四年前後の時期とは違って、大学の規模も急速に拡大し、学問的にみても、商科創設の条件が整ったということができよう。

2 開設時の状況

 明治三十六年二月の『早稲田学報』第八〇号には、商科新設ならびに学生の募集に関する次のような記事が載っている。

商科大学の新設 明治三十七年九月より本校大学部内に新に『商科大学』(修業年限三ヵ年)を設置し右入学志願者は来る四月開始の本校『高等予科』に入学せしむるの議成る、蓋し現今の通弊として学識ある者は実業の修養に乏しく、実業の修養ある者は多く学識を欠く、乃ち本科の目的は此二者の調和を計り高等の学識ある実業家を養ひ、実業の修養ある学者を出すにあり。

学生募集 本校に於ては来る四月より授業を開始すべき『高等予科第一期学生』を募集す、乃ち中学若くは同程度学校卒業生に限り四月中無試験入学を許し、其他の入学志願者に就ては、中学卒業程度の入学試験を執行す、而して右入学試験は三月十六日先づ之を執行し、尚臨時に之を執行する都合なり。 (「早稲田記事」五四五頁)

 このように明治三十六年四月より高等予科、すなわち、商科の関係では第四高等予科を開設し、一ヵ年半の期間の高等予科の課程が始まったのである。

 明治三十六年七月に行われた第二十回得業(=卒業)証書授与式において高田学監は学事報告の中でこれに触れ、次のように述べている。

……先づ新設の中で最も著しいものは商科を大学部の中へ設けました事であります。尤も此商科の本科は来年の九月より開設しますので、本年予科生を募りまして、凡そ八〇〇名ばかり此方の目的で入学致しました。商科を設けました趣意は殊更に玆に述るの必要もありませぬ。実業教育を盛んにしなければならぬ今日の事でありますから、国家に於きましても商業学校を頻りと増設致して居ります。併乍ら完備したる所の実業教育の機関と云うものは未だ極めて乏しい今日でありますから早稲田大学に於て多少の力を夫れに向けましたならば相当の設備が出来やうと云う考へで設けました訳であります。

(『早稲田学報』明治三十六年七月発行 第八八号「早稲田記事」六四五頁)

 開設時(明治三十六年)の第四高等予科の学科課程は次のようであった。

 これで分るように、一ヵ年半の予科を通じて英語が最も重視されており、次いで入学当初の第一学期では国語・漢文が、第二・第三学期では数学および簿記に力が注

第百八表 第四高等予科学科課程表(明治三十六年)

がれている。因に、東京高等商業学校の明治三十六年の改正学科課程表と比較してみると第百九表のようである。

第百九表 東京高等商業学校予科学科課程表(明治三十六年)

(佐野善作『日本商業教育五十年史』大正十四年 六九頁)

 東京高等商業学校は予科の課程が一ヵ年で、早稲田大学の高等予科に比して半年短くなっている。その反面毎週の授業時間は早稲田大学に比べて三―四時間多くなっている。学科内容はほぼ同様であるといってよいが、異なる点は早稲田大学では応用物理学・応用化学および第二外国語の三科目が置かれていないことである。第二外国語は早稲田大学では本科に進んでから学ぶように配置されている。ドイツ語・フランス語・中国語の三ヵ国語が配置されていた。いま一つ著しい特色としては第一外国語である英語の履修時間が早稲田大学は東京高商に比べてかなり多いことである。これは明治三十六年九月に早稲田実業学校の校舎が大学の構内に新築落成した際の式典において、大隈重信が演説の中で触れているように、「外国の新聞を此方の新聞を読むやうに早く見て直ぐ了解するやうにすると云ふのは是から実業に従事する人の必要の一である」(『早稲田学報』明治三十六年十月発行第九二号「早稲田記事」七二〇頁)と指摘されていることや、これと同じ時に高田学監が新学期の訓示の中で教育方針に触れ、「世界の大勢に応ぜんには、外国語の研究十分なるを要す」(同誌明治三十六年九月発行第九一号「早稲田記事」六九二頁、『早稲田商学』第二三四・二三五合併号資料八 一四二頁)と述べていることに示されている考え方に沿ったものと考えられる。

 しかし全体としてみれば、先にも述べたように、東京高商の学科課程と大差はない。これは「大体に於て言ふときは官公私立の別なく諸校何れも其設立の当初は勿論近年と雖も尚旧東京高等商業学校の教科を軌範とせざるものなきが如し」(前出、佐野『日本商業教育五十年史』六一頁)と指摘する通りである。

 先の「商科創設当時の大学の経営状況」を示した表にみられるように、学生数は明治三十五年の二千三百六十七名から翌三十六年の三千八百八十二名へと六割強も増加したため校舎の増築が必要となった。このため「明治三十六年五月高等予科講堂二棟(三三八坪木造)ノ新築ニ着手シ七月竣功ス、同六月早稲田実業学校兼本校大学部商科の校舎(二〇二坪五合木造)ヲ従来ノ寄宿舎敷地ニ建設シ、寄宿舎(四三九坪木造)ハ一層拡張ノ目的ヲ以テ地ヲ鶴巻町ニ移シ其改築ニ着手セシガ同十二月何レモ竣功」(『早稲田学報』明治三十七年七月発行第一〇三号一六頁、『早稲田商学』第二三四・二三五合併号資料一三 一五九頁)し、明治三十七年九月から開講の大学部商科の校舎の準備もできたのである。これら高等予科講堂二棟、大学部商科の校舎および寄宿舎の建築には十二万六千余円を費したが、このうち商科の校舎の建築に要した費用は三万六千余円であった(『廿五年紀念早稲田大学創業録』一一九・一二二頁)。

 こうして商科の予科である第四高等予科は明治三十六年四月発足したのであるが、同年七月の得業証書授与式に出席された渋沢栄一男爵は演説を行い、その中で商科の開設に触れて次のように述べている。

……只今学監から本学校の是迄の経過の御報告がありましたが、其中に商科大学を設けると云ふ事を伺ひまして私は学者と云ふ位地でなく、殊更に其御報告に感じました事であります。

勿論学問に経歴のない私ですから学校と云ふものは他人の勤めをするものゝ如く経過し来りましてございますけれども、前に申しました通り容易な計画では此日本の商工業を拡張し得るものではないと云ふ丈けの事は、私も明治六、七年頃から深く感じましたのであります。故に其昔しは商売人に学問を与へるのが弊である害であると云ふ言伝へのあるにも拘らず、私は是非商業に付ては相当の学問がなければならぬと云ふので、東京高等商業学校に付ては、微力乍ら数十年苦慮尽力致しました。蓋し其事柄は学問其のものではありませぬ、只商売に学問が必要であると云ふ単純なる道理に依って心配致したに過ぎぬのである。彼の学校も諸君も多分御聞及び御見及びでありませうが、追々に進んで参った。付ては両三来今一歩進んで商科大学にしたら如何であろうと云ふ事を其学校を支配する人々又は教育に従事する学者連に対して愚見を呈した事も屢〻ありましたが、今以て其事が行はれぬ。如何な訳かと云ふに、或る説には、商業に従事する人達には余り気位を高くすると云ふ事は不利益である。却って其実務を疎略にするやうになると云ふのが、反駁する一の理由になって居るやうに承はるのでございます。如何にも其通りで私共も例へば一人の若い者を雇ひますに付ても、余り気位が高く、只商業の蘊奥を修めたと云ふ丈けで算盤も弾けぬ、帳面を付けぬと云ふやうな丁稚は用ひるのは嫌やだ。誰でも夫れは好みませぬから、若し左様な意味のものであったなら、夫れは不利益か知れませぬ。けれども自分等が之を希望するのは、元来商工業と云ふものは、兎角他の方面から低く見られると云ふ事の習慣が今以て甚だ強い。而して其強いと云ふ事は決して慶事でない。又其事を修める人も自から今申す素町人と云ふやうな言葉を自然に唱へる。是れ甚だ自からを卑しめる事である。真正に考へたら商業は決して他の諸物の後へに瞠若すべきものではない。然らば今日の場合既に法科と云ふものを大学とし、農科と云ふものを置き、工科と云ふものを置きて、独り商科大学と云ふものを設けないと云ふのは、決して適当の事ではなかろう。故に自分等は之を希望して止まぬのです。けれども未だ其事が行はれぬ。然るに早稲田大学に於ては、爰に商科大学を御取設けになったと云ふ事は、其出る所の精神は如何であるか、未だ詳しく窺ひ知る事は出来ぬが、兎に角私共が従来希望して居りました事が、意外にも此学校に於て見る事を得たと云ふので実に喜ばしい次第であります。

(『早稲田学報』明治三十六年九月発行第九一号「早稲田記事」七〇四―七〇六頁)

ここには当時の商業高等教育に対する社会の受け止め方がどんなものであったかが示されている。すなわち、商業に関する高等教育を不要とする状況が根強く存しており、そのために商業に携わるものの社会的地位までが他の分野に比べて低くみられる風潮があるというのである。こうした風潮を是正してゆくためにも商科大学の設立が要望されており、早稲田大学における商科の新設は、これに応ずるものとして期待されていることが知られるのである。

 高等予科で学ぶには明治三十六年で受験料一円を要し、入学の際束脩(入学金)二円と学費年間三十七円五十銭、合計四十円五十銭が必要であった(『早稲田学報』明治三十六年七月発行第八七号「明治三十六年早稲田大学規則一覧」)。

 この年間の学費が当時の所得水準に比してどの程度の負担であったかを検討してみよう。明治三十六年の国民一人当たりの名目所得は約六十円(前出『近代日本経済史要覧』の長期統計により算出)と算出されるから、年間学費はその約六割ないし七割程度に相当する。これに対し昭和五十四年の一人当り国民所得は約百五十万円(『日本国勢図会』一九八一年版八二頁による)で、同年の早大の学費は約六十五万円(入学時、文系)であるからその約四割に当っている。これをみても分るように、現在と比べると、明治三十六年当時の学費はその所得水準に比して大きな負担となっていたことは間違いない。

 明治三十七年九月大学部商科の授業が開始された。同年十月発行の『早稲田学報』第一〇七号はその年九月十八日の始業式の模様を次のように報じている。

昨三十六年四月其予備門たる高等予科を設けてより一ヵ年半の課程を終りたる者七〇〇余名、玆に今学期より商科大学の開設を見るに至りたるを以て、九月十八日午後一時本校大講堂に於て其始業式を挙げたり。講師諸氏商科及び商科予科生一同着席し、天野商科々長先づ今日商科大学の設立を見るに至りたる所以を述べ、併せて商科学生の心得べき覚悟を訓示し、次で商科学生総代斉藤朋之丞氏答辞を朗読し、来賓文学士土子金四郎氏(商科大学の本領)、法学博士添田寿一氏(軍国の商民)、各々一場の演説をなし、最後に大隈伯爵も一場の演説を試み、終りて散会を告げたるは午後五時頃なりき。当日の出席者は大隈伯爵を初じめ天野商科々長、高田学監、添田寿一、土子金四郎、田原栄山田三良小林行昌杉山重義塩沢昌貞池田龍一金子馬治、田中幹事の諸氏なりき。 (三八―三九頁)

 こうして大学部商科は法学博士天野為之を科長に、文学博士横井時冬を教務主任として発足したが、横井は発足後間もない明治三十九年四月十九日病気のため逝去された。そこで高等予科の科長である田原栄が取敢えずこれを兼務し、次いで同年七月田中穂積がその後任として嘱任された(『三十年紀念早稲田大学創業録』大正二年一五一頁)。

 既述の第二十回得業証書授与式における高田学監の学事報告に述べられているように、明治三十六年四月に商科の予科に入学したものはおおよそ八百名であった。ところが一年半の後の同三十七年九月の始業式に臨んだ者は七百余名と報じられている。明治四十年の第六回高等予科修了証書授与式における高田学長(明治四十年四月以降学監を学長に変更)の訓示では、明治三十七年の高等予科修了試験の合格率は六三パーセントであったとされている(『早稲田学報』明治四十年八月発行第一五〇号 五〇頁)。この数字からすれば第四高等予科入学者中大学部商科へ進学できた者の比率は平均をかなり上回って良好であったということができる。

3 教科の内容

 大正二年刊の『三十年紀念早稲田大学創業録』には次のような記述がある。

本科の設置せられたる当初にありては、主として白耳義アンヴェルス(=アントワープ)商業大学に傚ひ、内部の組織を分って商業部及び外交部の二となし、商業部に於ては、卒業後商業上の実務に従事せんとする者の為めに、外交部に於ては、専ら外交官、領事官たらんとする者の為めに、必要なる学科を授くるの方針を執りしが、外交官、領事官は、政府採用の人員に制限あり、随つて入学希望者も至つて少数なりしのみならず受験を目的とする学生の養成は、動もすれば商科学生一般の学問的嗜味を奪ひ、所謂死学の弊に陥いるの恐ありしが故、明治三十九年以降外交部の廃止を断行し、専ら実業界に活動すべき有為の人材を養成するに努むるに至れり。 (一五一頁)

 開設の当初はベルギーのアントワープにある商業大学に範を求めて、商業部および外交部の二部を以て発足したのであるが、間もなく外交部は廃止されたというのである。

 商科の開設に当って何故ベルギーのアントワープの商業大学(正確には高等商業学校)に範を求めたのであろうか。その理由の考証については猪谷善一の労作「ベルギー・アンヴェルス商科大学と日本」(『早稲田商学』第二四一号 商学部史⑵ 所収)がある。ここではこれに拠って叙述を進めたい。

 アントワープの商業大学は一八五一年イギリスのロンドン、ハイド・パークで開催された英国博覧会に示された産業革命後「世界の工場」として発展しつつあったイギリスの産業上の優位に触発されて、翌一八五二年(嘉永五年)設立されたものである。同校はその後に設立されたブラッセル・ルーヴァン・リージュ・モンなどの同種の学校のモデルとなったばかりでなく、ヨーロッパ各地のこの種の学校のモデルともなった。

 明治十七年三月文部省直轄の東京外国語学校に付属の高等商業学校が併設され、これと農商務省より文部省に移管された東京商業学校が明治十八年合併して新たに東京商業学校が発足した(前出『実業教育五十年史』一八七―八頁)。この外語付属の高等商業学校にスタッペンというアントワープ高等商業学校の卒業生が教鞭を執り、一年程在職したが、明治十九年辞職した。その後任として同じくベルギーから同校の卒業生であるマリシャルが着任し、明治二十五年八月まで在任した。彼は商品学・商業史・商業地理・商業慣例・商業実践などの科目を講義した。この二人のアントワープ高等商業学校卒業のベルギー人教師の影響で、高等商業学校からベルギーの同校に留学する者が出てきた。明治二十八年文部省から高等商業学校の校長となった小山健三は翌二十九年規則を改正して本科については専門科目の充実を図った。その際アントワープ高等商業学校のカリキュラムの長所が採用されたとされている。更に高等商業学校からは明治三十一年に関一、同三十二年に石川文吾がアントワープに留学した。関一は留学後母校高等商業学校の教授となり交通論を担当したが、発足当初の商科においても講師として同じく交通論の科目を講じた。また石川文吾も留学後同様に母校の教授として商業通論(のちに生命保険論も担当)を担当したが、明治三十八年に始まった通信教育である『早稲田商業講義』に講師として商業通論・同各論(売買)・保険などの科目を担当している(『早稲田商学』第二三四・二三五合併号 商学部史⑴資料一九 一六六頁)。

 このように商科がアントワープの商業大学に倣ったといわれる理由は、商科が創設の当初、既に唯一の商業の高等教育機関として先行していた東京高等商業学校(明治三十五年神戸高商創設とともに改称)の教科内容やその陣容に依存して出発したということ、そしてその東京高等商業学校がその前身の東京商業学校から高等商業学校の時期にかけてアントワープ高等商業学校の卒業生を御雇い教師として迎えていたこと、および高等商業学校の明治二十九年の学則改正の際アントワープの高商の教科内容に倣ったことなどにみられるように、東京高等商業学校を媒介としてアントワープ高等商業学校(当時商業大学と呼んでいた)と関連をもつことになったとみることができる。

 東京高商の教授として早稲田大学商科の講師を兼ねていたのは、前述の関一および石川文吾(この二名はいずれもベルギー、アントワープ高商に留学した)の二名に限られてはいなかった。明治三十七年商科が発足した当時の『第二十三回早稲田大学報告』によって商科第一学年の科目担当者のうち東京高商に関係する者、および明治三十八年に始まった通信教育『早稲田商業教育』の教科担当者のうち東京高商の関係者は第百十表の通りである。

 商科と通信教育との兼担を除くと、八名の東京高商の教員または同校の卒業生が科目を担当していた。

 簿記を担当している吉田良三は明治三十六年東京高商の専攻部(明治三十年に設置され、同三十二年に修業年限が二ヵ年とされ、翌三十三年これを終えたものに商業学士――のちに商学士――の称号が与えられた)を卒業したのであるが、それに先立って三十五年秋から早稲田大学講師となり、明治三十九年には教授に昇任し、大正七年六月母校東京高商に招聘されるまで在職した。

第百十表 『早稲田商業教育』教科担当者中の東京高商関係者(明治三十八年以降)

 日本商業史を担当している横井時冬は明治十九年東京専門学校法律学科を卒業し、次いで翌二十年英学科を終え、同二十一年高等商業学校に招かれ、同二十三年同校の助教授、同二十八年教授となり商業史を講じていた。大学部商科開設とともに講師となり、同三十九年四月逝去されるまで在職した。その間『日本工業史』(明治三十年刊)および『日本商業史』(明治三十一年刊)の両著で明治三十五年文学博士の学位を授与されている。

 商業文(英文)・商業各論(倉庫)・税関の各科目を担当している小林行昌は明治三十三年東京高商の専攻部を卒業し、商科発足とともに講師となり、昭和十九年逝去されるまで商科および高等予科で教鞭を執った。

 交通論を担当している関一は前述のようにアントワープ高等商業学校に留学ののち母校東京高商の教授になったが、明治三十七年の商科開設時より同四十二年まで講師を務めた。

 商業文(日本)を担当している杉山令吉も東京高商の教授であり、明治三十七年および同四十二年から大正六年まで講師を務め、その講義は「チョークを持って名筆を黒板に清書し、朗々誦すべき漢文調の時事書翰文の説明が行われたのである。悪童も心あってかその名筆は消さず幾日も黒板に残っていた」(猪谷善一「ベルギー・アンヴェルス商科大学と日本」『早稲田商学』第二四一号九頁)といわれている。

 商業通論・同各論(売買)および保険を担当している石川文吾も東京高商の教授であり通信教育の講師を兼ねているが、明治三十八年の一ヵ年だけであるが商科で商業各論を講じている。

 商品学・西洋地理を担当している池本純吉も東京高商専攻部卒業の商業学士であるが、池本は明治三十七年度に高等予科で簿記・商業通論・日本商品地理を、翌三十八年度にはそれらに加えて英語(訳解)も担当していた(『早稲田大学史記要』第九巻石山昭次郎解題「明治後期における早稲田大学の教員および担任課目」による)。

 以上商科発足時に東京高商の関係者で、早稲田大学の教員として関係をもった七人の担当科目などについて述べてきた。大学部商科だけについてみれば、明治三十七年度に科目を担当した二十九名のうち吉田良三横井時冬小林行昌関一、杉山令吉の五名が東京高商の関係者で、量的には二割に満たない数であったが、吉田や横井・小林のようにその後の商科の発展に大きな寄与をした人々が含まれている。

 商科創設時の教科内容とそれの東京高商との比較検討は二つの資料によってなされているが、早稲田大学商科については開設の前年に当る明治三十六年の時点における予定された学科課程表であって、実際に創設の時点では必ずしもそのまま実施されたわけではない。また比較される東京高商のものも明治二十九年の学則改正の結果できた学科課程表で、同校ではその後明治三十六年にも改正が施されている(佐野善作『日本商業教育五十年史』六九―七〇頁)。

 そこでここでは明治三十七年から明治四十年――明治三十九年の資料は得られないため――までの『早稲田大学報告』に記載の「講師及受持学課目」によって、明治三十七年に大学部商科が開設された時の「講師及受持学課目」を第一年度のカリキュラムとして捉え、以後三十八年度の「講師及受持課目」に新しく記載されているものを第二年度に配置の科目と考え、以下四十年度に新たに登場しているものを第三年度配置の科目として整理すると次のような学科課程とその担当者がえられる。

第百十一表 開設時大学部商科の学科課程と担当者(明治三十七―四十年)

 次に明治三十六年に改正された東京高商の学科課程表を掲げると第百十二表のようである。

 そこで早稲田大学と東京高商の学科課程を比較するための第百十三表を作成してみた。

 この対照表をみても分るように、商科の方が科目が各分野に亘って細かく配置されている。商科になくて高商にある商業道徳については高等予科に倫理が、商業地理や商業算術も高等予科に同一名の科目が置かれており、商品学も高等予科に商品地理がみられる。本科・予科を通じて該当する科目がないのは財政学・破産法・商業学および第二外国語のうちの四ヵ国語である。このうち財政学は明治四十一年度より田中穂積の担当により、商品および商業地理ならびに破産法は同四十四年度よりそれぞれ増田恒蔵および岩田一郎の担当によって開講されている。商業学は商業通論が高等予科に置かれていたが、大学部ではかなり遅れて大正九年度より小林行昌の担当で開講された。

第百十二表 東京高商の学科課程表(明治三十六年)

 こうしてみてくると、早稲田大学商科は確かに東京高商の学科課程を殆ど引き継いでいるが、同時に経済学の各分野に亘って東京高商にはみられない広汎な科目が置かれており、そこに独自性が見受けられるのである。この点はなによりも商科長である天野為之の年来の主張と見識によるところが多いとみられるのである。

 天野為之は「ミルを中心とするイギリス古典派経済学を正しく理解消化することを通じて、我が国において、恐らく初めて科学としての経済学の形成に取り掛かることを意図し、その意図はある程度まで、彼の研究成果において達成されている、と考えることができるのではないかと思う。そのように考え得るとするならば、天野為之こそ、たんに自由主義経済学の移植者ではなく、我が国における経済科学の創始者であるということができるのではなかろうか」(岡田純一「経済学者としての天野為之」『早稲田商学』第二四九号 六五頁)とされる「明治期の三大経済学者」(福田徳三の評価)の一人であった。そして天野は商科設立を間近かに控えて「今や経済学は堂々たる一大科学なれば、之が為めに一学科を特立するは当然の次第なり。況んや今日本邦の情態殊に経済思想の函養普及を急務とする場合に於てをや、此時に当り、依然、高等的普通教育の一科として之を教ゆるに止むるが如きは実に時務を知らざるの甚しき者なり」(天野為之「重ねて経済大学新設の必要に付て」『東洋経済新報』第二〇一号明治三十四年七月十五日 五二―五三頁、杉山和雄「明治後期ビジネスの商業教育要請」『経営史学』第八巻第三号七―八頁)と喝破しているように、経済科大学設立を強く主張していた。彼の経済学者としてのこの見識が商科の教科内容に反映しているものといえる。

第百十三表 早稲田大学商科と東京高商の学科課程との比較(明治三十六年)

 因に明治四十年の東京帝国大学法科大学の政治学科の学科編成のうち経済学関係科目は、必修科目が経済学・財政学・統計学・商法、選択科目が経済史・経済学史となっている(前出 杉山論文 七頁)。

 このように商科は東京帝国大学法科大学の教科内容および既に先行している大学部政治経済学科ならびに専門部政治経済科の教科内容も取り入れており、東京帝国大学出身または同大学の教員であるその関係者――早稲田大学商科の専任または非常勤の教員――は天野為之河津暹高野岩三郎和田垣謙三大隈信常、土子金四郎、山田三良平沼淑郎梅若誠太郎山崎覚次郎、柳川勝二、有賀長雄清水澄、伊藤万太郎、山岸光宣、牧野英一など多数に上った。このようにみてくると、早稲田大学商科は、その創設に当って教科内容やその担当者の面で二つの源流――東京高商と東京帝国大学――をもっていたと考えることができる。

 以上の検討を通じて、ベルギー・アントワープ高等商業学校に倣ったとされるのは、商科発足の当初主としてその内部を商業部と外交部の二本立てで組織したという点にあったので、教科内容に関しては東京高商のものを継承している面で間接的にアントワープの高商の教科と関連している点はあっても、他方で東京帝国大学法科大学の経済学関係の教科との繫がりもあったから上述のように二つの源流をもっていたとみる方が妥当なのではないかと考えられる。

二 草創期商科の展開

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1 教育の方針

 大正元年創立三十年を期して刊行された『早稲田大学創業録』には大学部開設後八年を経過した商科が教育上当面している問題について、次のように記述している。

本科の理想とする所のものは、一言以て之を蔽へば、実務に堪能なると同時に将来実業界の偉材として大成すべき才幹、能力を備ふる人物を養成するにあるは、論を俟たずと雖も、此の理想の実現は容易の業にあらずして、試みに高等商業教育上の難問題を指摘すれば、

其の第一は、所謂実業と称するものゝ範囲頗る広く、各種の業務に従事する者皆な必ず其の業務に特別なる知識の供給を要するに拘らず、此の如き事は、限りある授業時間に之を実行し難きのみならず、仮りに時間にして之を許容するとするも、此の如くすれば、教育上の統一全く破れ、所謂注入的教育の弊に陥いるを免れざる也。

第二の難問題は、今日の如く、複雑なる経済組織の下にありては、之に対する学理的研究も亦た著しく進歩せるが故、随って深奥なる学理的研究の怱にすべからざるは、素より論を俟たずと雖も、凡そ敏活にして有効なる経済的活動を試むるに当りては、卑近なる慣例、技術等にも亦た必ず熟達せざる可からず。然るに中等教育を終へて高等専門教育に進まんとする青年は、最も知識慾の旺盛なる時代に属する者にして、高尚深遠なる理論的研究は之を喜ぶも、慣例、技術の修得の如きは、末節瑣事として之を閑却するの嫌なきにあらず。即ち此の両者の併進は、其の事頗る至難なるの結果、往々高等商業教育の全科を了するも、日常の用務に堪えざるが如き非実務的の不具なる得業生を出すの恐れ無きに非ざる也。

最後に第三の困難は、外国語の習熟にあり。蓋し現時日進の科学を研究するに当り外国語の必要なるは明かにして、広く知識を世界に求めんと欲せば、自国語のみに依る可らざるは論を俟たず。況んや経済的活動の舞台次第に拡大して世界的となれる今日、広く実業界に活躍せんとするに於てをや。外国語の習熟は、高等商業教育上の重要問題なるや、彰として疑ふ可きに非らず。然れども欧洲語と全然語原を異にする国語を使用しつゝある我邦学生に取りては、語学の習熟は、実に困難の事たるを免れざる也。

以上の三者は、高等商業教育に伴ふ難問題なるが、尚ほ此等のものゝ外に、一般教育上にも共通なる二個の難問題存することを注意せざる可らず。

即ち第一は、注入的教育の弊にして、其の結果、学生の能力如何を顧みず、過多の時間に過多の授業をなすか、若くは徒らに高尚なる理論のみに走り、毫も学生の理解力を顧慮せざるが如き事態を生じ、其の害毒戦慄すべきものある也。されば此の悪弊を矯め、教育の真価を発揮すること、亦た必ずしも容易の業にあらざる也。

第二に共通の難問題は、如何にして倫理教育の効果を全からしむべきかと云ふにあり。即ち此の問題は、独り高等商業教育のみに関する問題に非ざれども、特にここに言及するを要する所以のものは他なし、卒業の暁身を実業界に投ずる者にありては、二六時中物質上の利害得喪に身心を委するが故、自ら幾多の誘惑に逢着し易く、此の危地にありて自己人格の尊厳を維持するが為めには、修学時代に於て道徳上の修養を積むの必要、特に緊切なるものあるが為めなり。

此の如く幾多の難問題は、高等商業教育の進路に横はると雖も、吾が早稲田大学の本科は、幸に多年の研究と屢次の改善とを経て、着々此等の難関を踏破し、年を逐ふて教育の効果を改めつゝあること、吾人が信じて疑はざる所なりとす。

即ち第一の難問題たる学術の多岐に渉り動もすれば秩序と統一とを失はんとする危険を避くるが為めには、本科は、経済学と法律学とを骨子たる主要科目となし、之に必要欠くべからざる四五の学科を按排して必修科となし、総べての学生に対して其の攻究を強制すると同時に、一学年少くとも三四課目、多きは五六課目の随意科を設け、精力の余裕ある学生に対し、其の撰ぶ所に任かせ、特殊専門の学科を修得せしむるの便宜を与へ、以て教育の効果を全からしむることを期しつゝあり。

次に第二の難問題たる徒らに高尚なる理論研究のみに走り、卑近なる慣例、技術等を蔑視するの弊風を矯むるが為めには、本科に於ては、算術、簿記の如き学科は入学の当初より卒業の終りに至るまで各学年を通じて必修課目となし、以て理論研究と実務的練習の併進とに努めつゝあり。

而して第三の外国語の習熟に関しては、語原の全く異れる国語を使用しつゝある我国の学生は、一ヵ国の欧洲語を修むるすら其の困難頗る大なるに拘はらず、従来動もすれば数ヵ国の外国語を必修せしめ、其の結果無益徒労に終れるもの少なからざりしが故、本科に於ては、最初より二兎を逐ふて一兎を獲ざるの軽挙を避け、必修語学は英語のみに限り、独、仏、及び支那語の如きは、総べて之を随意科となし、単に語学に対して特別の趣味と技能とを有する学生に限り兼修の便を与ふると同時に、別に正科以外に学生の任意団体として英語会なるものを設け之が習熟を奨励したる結果、其の成績顕著なるを認むるに至れり。更に又た注入的教育の弊を避くるが為めには、本科にありては、必修科の授業は之を或る限度に制限し、精力の余裕ある者に対しては、自由に随意科目を兼修せしむる方針を執れるのみならず、専ら自修自発の学風を養成するが為め、二学年より三学年に至る期間の暑中休暇を利用して、学生各自の見聞に基き経済事項に関する報告体の論文を起草せしめ、之を卒業予備試験として提出せしむることゝ為せり。即ち該論文の提出は、一方に於ては学生をして経済上の実際問題に対する学理応用の能力を発揮し、自ら実際問題研究の趣味を感ぜしむると同時に、他方に於ては実務上必要なる文章の練習を促がさしめんとするに外ならざる也。而して又た別に三学年に於ては、経済原理、内外金融論、経済史、交通政策、関税政策、其の他の課目に関し、彼の欧米諸大学のゼミナールに傚ひ、特殊の研究を奨励しつゝあり。

若し夫れ最後の難問題たる倫理教育の効果を収むる手段に至りては、一場の訓話などによりて其の効果の全きを期し難きは論を俟たざる所なるが故、高等予科時代にありては専ら訓話に重きを置くも、本科に進むに及びては、特定の訓話若しくは倫理に関する科目を設けずして、一学年を三組若しくは四組に分ち、各組専任の指導教授を定め、此等の教授は学生の師父友侶たる位置に立ち、或は学生の同級会に臨席し、或は教授の自宅に学生を引見し、笑談歓話の裡、徳操の涵養に努むるの方針を執れり。 (一五一―一五七頁)

 これより先、明治四十年に高田学長は「現代学制の欠点」という一文を『早稲田学報』第一五二号(『早稲田商学』第二四一号商学部史⑵資料四四所収)に寄せている。その中で当時の学制の欠点とも言うべきものを「予輩の考へを以てすれば、今日の教育の弊害として真っ先に数へなければならぬことが二つあると思ふ。第一は、総べての教育が往々にして不消化的になること。第二は、高等普通教育即ち『リベラル、エヂケーション』が不完全なることである。……大学の準備教育に忙はしくて、人物教育を施すべき余裕が少い」(一二七頁)と指摘し、その原因は高等教育機関が少いこと、従って入試競争率が高く、受験勉強の弊害がみられ教育を歪めていることによるものであることを主張している。こうした状況を克服するために官公私立同一視主義に基づいて、大学令や学位令を制定したり、改正して高等教育機関を整備することの必要性を説いている。

 ところで先の創立三十周年記念の『早稲田大学創業録』にみられる明治末頃の商科が当面していた教育上の問題と述べられているものを要約すると、次のようである。

 第一は商学という学問は広範多岐に亘っているので、知識の詰め込み主義に陥り易く理解力の不足をもたらす恐れがあるということである。そこで明治三十六年九月の新学期からは「必修科目選択科目の区別を立てゝ其好む所に従って彼を選び是を採ると云う自由を多く与へると云う事に致します積りであります」(「第二〇回得業証書授与式における高田学監の学事報告」『早稲田学報』明治三十六年七月発行第八八号「早稲田記事」六四六頁)というように改善された。

 第二には大学では理論的研究が大切で、学生もその方面への知識の欲求は旺盛であるが、その反面実社会で必要な実務の習得に欠ける面が出てくるということである。すなわち、学理とその応用ということをいかにして併進させ調和させるかという問題であった。

 この点に関しては第二学年から第三学年への進級の際の休暇を利用して学生に論文を作成させ、これを卒業予備試験に代え、「実際問題に対する学理応用の能力」を養い、且つまた「実務上必要なる文章の練習を促す」ことにしたのである。更に明治三十七年度からは第三学年に設けた名著研究という科目をセミナー方式の授業として「名著大作の研究に従事」(『第二十三回早稲田大学報告』二頁)させることとした。

 第三に指摘されている点としては、外国語に習熟の必要性である。そのためには英語だけを必修とし、第二外国語を選択としたこと、ならびにこの第二外国語の中に、ドイツ語・フランス語などと並んで「実際英語」という実用的な英語科目を置き選択履習できるようにしたことである(『早稲田学報』明治三十八年八月発行第一二一号「早稲田記事」六七―六八頁)。

 更に、課外活動としてサークルによる活動を奨励し成果を挙げたことが記録されている。例えば明治三十七年度の『第廿一回早稲田大学報告』には「研学の傍師弟間の交誼を親密ならしむるを以て目的とし主として学生の催にて講師を招聘し種々の会合を開」(同報告 四三頁)いた各種の学生サークルの中に、「外国語学会」や「英語学会」の名前がみられる。また明治三十八年一月、英会話を主体とする「英語談話会」が設けられ、「一週三時間宛其の会合を為し、商業上各般の場合に応ずる実地の演習をなす」(『早稲田商学』第二三四・二三五号商学部史⑴ 一七六頁)運びとなった。

 第四には倫理教育の効果をいかにして高めようか、という問題があった。この点についてはクラス担任の制を設け、教員と学生との間の人間的な交流を深めることによって対処しようとした。明治三十九年九月の大学部始業式で高田学監は「学生の風紀に就て」という一場の訓示の中で、次のように述べている。

講師と学生との関係を親密にすることである。段々諸君が大勢になって来るから相互の交際も疎になる。自然学校の団結に影響を及ぼすことになる。諸君の不利益もそれから来る。諸君の風紀のことも学校も八釜敷く云ふよりは相互に戒めるが肝要であるから、級友会を頻繁に開くが宜しい。又科長教務主任其他の講師も勉強してさう云ふ所に臨まれることになって居る。大きな級は小区分に随て開き折々大会を開くが宜しい。講師諸君と懇意になって指導して貰ふと云ふことは大利あって小害のないことであるから、さう云ふことを自から務められたら宜からうと考へる。近来の学生に私共の学生時代と較べて面白くない点が一ツあると云ふのは、集ると云ふことが嫌になったことである。段々別れ別れに孤立になる傾が往々認めらるゝが、之は最も忌むべき現象である。余程注意をしなければならぬ。成るべく多数の者と共に親しくして手を携へて往くことは他日世間に出ても利益になることである。国家の団結といふこともこれが根本になる。故に諸君は務めて会合を開かれることにしたら宜からうと思ふ。 (『早稲田学報』明治三十九年十月発行第一四〇号 七―八頁)

2 教授陣の整備

 商科発足の当初は東京高等商業学校と東京帝国大学に教授陣を依存して出発した早稲田大学は、独自に教授陣を整備するための努力を払った。以下にその主要なものを順次みてゆくことにする。

a 研究科の設置

第百十四表 研究科学生数の推移(明治37―45年)

『早稲田大学報告(第31回)』16頁による。

 明治三十七年度の『早稲田大学報告』に、「大学部卒業生を其研究を継続せしむる為め……研究科を置き……九月より実施することゝせり」(三頁)と記されているが、『早稲田大学規則一覧』によると、明治三十三年六月東京専門学校の時代に「研究科設置ノ議亦成リ」とされている。同じ規則の第七章「研究科規則」によると、「研究科ハ各学部得業生ニシテ既習ノ学科ニ就キ尚ホ深邃ナル研究ヲ為シ傍ラ広ク外国語ノ知識ヲ養ハントスル者ノ為メニ設ク」(第一条)(『早稲田商学』第二三四・二三五号合併号商学部史⑴ 資料六 一〇七・一二七頁)と規定され、試験により入学を許され、一年以上三年以内の範囲で勉学することになっている。現在の大学院に該当するものといえる。この研究科によって将来の教員・研究者の養成を企図したのである。大学部商科が開設された明治三十七年以降の明治期における在学生数(各科合計)は第百十四表のようであった。

b 留学生の派遣

 教員養成のための第二の手段として、研究科の設置とともに明治三十三年六月「同時ニ海外留学生派遣ノ事ヲ決シ」(同上商学部史⑴ 資料六 一〇七頁)実施に移ったのである。前述の『規則一覧』の記述によって商学部関係の留学生をみると、明治三十四年六月に田中穂積がアメリカのコロンビア大学に留学し、財政学を学んでイギリスを経由して同三十六年十二月帰国したのが最初であったようである。

 『早稲田大学第二十一回報告』(明治三十五年度)によると、「大学計画に欠くべからざる海外留学生派遣及図書購入の二事業は未だ基金の利子を以てする能はざるも経常収入を割き其費途に充て実行の端緒を開けり」(二頁)と述べているように積立てた基本金の果実で海外留学の費用に充てようとしていたのである。

 更に大学ではアメリカの次の諸大学と協定を結び、本学の卒業生はそれらの大学の大学院に入学できる資格が認められることになったのである。

大学名 協定の年次

コロンビア大学 明治三十三年

シカゴ大学 明治三十四年

ペンシルヴァニア大学 明治三十九年

プリンストン大学 明治四十一年

 こうして明治期に商科関係で大学から留学した関係教員は次の通りである。

第百十五表 早稲田大学派遣商科関係留学生表(明治三十八―四十年)

c 外国人教師の採用

 以上に述べてきたような教授陣整備のための諸施策とともに外国人の教師を嘱任してその充実に努めた。明治四十二年度の『早稲田大学報告』の商科の教授陣の中に次のような外国人講師がみられる。

英語 マスター・オブ・アーツ C・F・スチーブンス

 スチーブンスは高等予科でミセス・ケートとともに英会話を担当していた。

d 明治期における商科の教員とその担当科目

 これについては以下のように専門科目の科目分野別に一覧表によって示すことにする。これらの表を通じて、科目の改廃・新設がかなり頻繁になされたことが分る。

第百十六表 明治期商科科目・担当教員変遷表(明治三十七―四十五年度)

 明治四十三年度の『早稲田大学報告』に載っている大学部商科の教員構成は次の通りである(六頁)。

第百十七表 大学部商科科目・教員構成(明治四十三年度)

e 研究室の整備

 明治四十年の創立二十五周年を期してたてられた第二期拡張計画の発足に当って、明治四十一年五月金参万円の恩賜金が下賜されることになり、大学ではこの資金で煉瓦建三階の恩賜記念館を建設し、明治四十四年五月竣工した。この建物の中の三階に大学部各科ならびに高等師範部の研究室が設けられた。このように人的・物的の諸条件が着々と整えられていったのである。

3 科の運営

 明治三十九年大学では各機関の運営上、講師会を設けることとし、次の規定を設けた。

教授上の事項を評議するが為め今回次の規定を設け委員を嘱托せり。

講師会規定

第一条 講師会は教授上の事項を評議するが為に設く。

第二条 講師会は講師全体を以て組織し大学部及専門部、高等師範部、清国留学部、高等予科の四部に分ち大学部及専門部は更に各科に区分して之を設く。

第三条 講師会は毎学年末に開会するものとす。但し臨時開会することあるべし。

第四条 校長学監は必要に応じ各部科に就き教務委員数名を講師中より嘱托し部科長教務主任と協議し教務の整理を計らしむ但し其期限を三ヵ年とす。

(『早稲田学報』明治三十九年六月発行第一三四号「早稲田記事」五十四頁)

 この制度の発足に伴い、商科では「来学年の授業上の件に就き」協議するため明治三十九年六月十六日に講師会を開いている。また九月には新学年開始に先立って講師全員が大学によって招待されている。明治三十九年九月のこの会合の記事は次のようである。

例年の如く新学年開始に際し九月九日午後五時より芝山内三縁亭に於て講師招待会を開催せり来会者一五〇余名にて午後一時頃より同好者随意に囲碁、謡曲等各其嗜好に依り興を迎へ午後五時より余興として松林伯知一席の講談を為し終て食卓に就き鳩山校長より一場の挨拶あり頗る盛会……(後略)。(同誌明治三十九年十月発行第一四〇号「早稲田記事」五二頁)

 これによってみると、教員数の増大に伴い教育上の事柄を協議する場――現在の組織でいえば教授会に相当する――として、各機関の全講師で組織する講師会が設けられたのである。しかし当時は、定例の会は年一回開かれることと規定されていて、現在程頻繁に開かれることはなかった。

 こうして明治三十九年当時の各科の組織は、科長―教務主任―教務委員を中心として構成され、これに講師会が置かれていた。従って日常的な教務事務は科長―教務主任を軸として処理され、必要に応じ教務委員数名を講師中より選び補佐させていたのである。現在の学部組織とほぼ同じような機構ができていたのである。

 商科の科長は初代天野為之で発足したが、天野が明治四十四年理事に選任されたのに伴い、それまで教務主任として科長を補佐してきた田中穂積がその後任に嘱任された。

 明治四十年大学の法人組織の変更に伴い、新たに教授会――その組織と機能の面からみて現在の学部長会議に相当――を設けることになった。規定によると「学長ハ教授ノ方針教則ノ改正等教務ニ関スル重要ノ事項ニ付キ議案ヲ教授会ニ提出シ其審議ヲ求ム」(第四条)(『三十年紀念早稲田大学創業録』附録 一〇―一一頁)と定められてる。そして教授会を組織する者は、科長・部長・教務主任は職務上教授会議員を兼ねるものとし、講師の中から総長および学長が嘱任する教授会議員を「教授ト称ス」(第二条)ることになったのである(同上書 附録 一〇頁)。

 教授会は毎年一回召集されると定められたが臨時会を召集することもできた。また一科または一部に関する事項については個別に「教授部会」を開くことができるようになっていた(同上書 附録 一一頁)。そしてこの機構改革を機に講師中四十余名の者が教授会議員に嘱任された(同上書 附録 一一六頁)。

 明治四十年五月の第一回教授会開催の記事は次の通りである。

五月十六日午後四時三十分、大隈総長邸に於て、第一回教授会を開き、高田学長より本会設置の主旨を述られ、夫より正副議長の選挙を為し、議長に天野為之氏、副議長に小山温氏当選し、宗教学研究科設置其他の事項を議せり。

(前出商学部史⑶ 資料六一 一四〇頁)

 明治四十二年度(明治四十二年九月より同四十三年八月まで)における商科関係――兼担を含む――の教授会議員は次のようであった。

(明治四十二年度『早稲田大学報告』による)

 以上のように、大学の規模が大きくなるのにつれて、組織も拡充・整備されていったが、その反面各組織に属する教員相互の交流の機会が乏しくなっていったので明治四十五年二月に早稲田温交会という親睦組織が作られた。

本大学各部科の教職員年を逐ふて増加し三百余名の多きに達し其学科の異なる居室の同からざる一堂に会するの機会少く交誼を図る上に於て不便を感ずるに至りたるに依り、四十五年二月早稲田温交会なるものを設け大隈伯爵を会長に推戴し毎年四回宛園遊会、晩餐会等を催して会員相互の交誼を厚うし、時々朝野の名士を聘して有益なる講演を請ひ、又会員の送迎等を為すことゝし、同年四月小石川後楽園に於て第一回園遊会を開き爾後継続開会しつゝあり。

(『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号所収『早稲田大学第廿九回報告』 四頁)

 と報ぜられている。こうした行事は外国人講師についても行われ、その家族をも招いて茶話会がもたれた(前出、商学部史⑶ 資料六二 一五〇頁)。

 明治三十七年の大学部商科発足以来明治末までの商科に関する諸施策の中には次のようなものがあった。

 専用教室制――明治四十二年九月から始まる「次学年度より教室の配置を改むることゝし、……各分科専用の教室を定めたり」(『第廿七回早稲田大学報告』一頁)と述べられているように、各科別に教室の配分が決まり専用となった。

 第四高等予科(商科)に二部制を導入――明治四十三年九月の「本学年より学則を改め、第四高等予科(商科)に二部教授の制を設け、第一部には中学校卒業生を収容し、正科外に簿記、商業算術を教授し、第二部には商業学校卒業生を収容して同じく英語数学等に就き特別教授を施し、学力の統一を計りたるに其成績頗る見るべきものあり」(『早稲田大学第廿八回報告』三頁)と記されているように、中学校卒業生と商業学校卒業生の学力水準の統一を図るために、それぞれ二部に分って学力不足の教科の補強を図り、その結果が良好であったというのである。

 商業関係図書・資料、商品の蒐集――明治三十七年九月より大学部商科の開設に備えて参考図書・資料・商品見本の蒐集が進められた。商品見本に関しては商品陳列館の設立も計画された。「来る(明三十七年)九月より本校大学部に於て開始せらるべき商科の参考資料として過般全国の各商業会議所並各会社に宛て其案内書、報告書等印刷の都度本館へ寄贈を蒙り度き旨依頼せし処早速之に応ぜられ」(『早稲田商学』第二三四・二三五号 商学部史⑴資料二五 一八四頁)、各地の商業会議所や公共機関の「報告」「年報」「月報」調査資料の類、および各企業の「営業報告書」等が寄贈されてきた。

4 商品陳列館の設立

 「商品見本も前項(商科参考書―引用者注)の書類と同じく商科学生実地研究の資料として欠くべからざるものなるにより、本校は愈々図書館内に商品陳列館を設け、汎く商品を蒐集するに決し、休暇中より諸般の設備に着手したるが、昨今漸やく内部の準備も整ひたるにより、愈々蒐集に取掛りたり。扨て蒐集の方針は差当り全国の篤志工商諸家の寄附を募り、漸次資を投じて外国の参考品等をも集め、出来得る丈け善美の方法にて其完成を期し、行く〱は一大商品館となさん目的なり」(同上 商学部史⑴ 資料二五 一八六頁)と記されているように、並々ならない抱負をもって取り組んでいた。そのため商品事務協議会を設けてその目的の遂行に当ることになった。すなわち、「本校商科講師横井時冬、池本純吉、大坂栄の三氏本館長(図書館長―引用者注)並に商品主任小林堅三氏牛込明進軒に会合の上商品蒐集、陳列、容器、棚架、設計等の事に関し詳細なる打合を遂げ」(同上 商学部史⑴ 資料二五 一八九頁)つつ進めていったのである。その結果「昨年(明治三十七年―引用者注)十二月商品蒐集事務開始以来本年三月に到る迄の間に於ける成績を挙れば、寄贈者の数に於て五〇名、備付商品の数量は二六種 九九三点の多きに上り、尚ほ続々寄贈の申込あるは、本館の大に喜ぶ所なり」(同上 商学部史⑴ 資料二五 一九二頁)という好成績を収めていた。企業や篤志家の好意と協力の賜であった。そこで在来の鉱物標本室に商品陳列棚を据え付け「池本講師担任の下に整理しつつあれば、不日其縦覧を許し、商科生徒の参考に供するを得べし」(同上 一九二頁)というところまでにこぎつけた。

 明治三十九年、これまで図書館の一室に開設されていた商品陳列室は、図書館書庫の裏に新たに商品陳列館を新築し、明治四十年五月頃に開設された。その事情は次の『早稲田学報』(明治四十年四月発行第一四六号)の記事によって知ることができる。

一昨年(明治三十八年――引用者注)来本校に於て募集中なりし商品見本は、其数非常に増加し、到底図書館の一室にては、陳列観覧せしむる事態はざる様なりたるを以て、旧臘新に一館を書庫裏手へ築造し、目下、内部に於ける飾棚の据附中なり。多分、来る(明治四十年――引用者注)五月中旬までには、一切の設備終るべき予定なるを以て、然る上に直ちに開館一般学生の観覧を許すべし。尚ほ京都藤原忠一郎氏と上州桐生足利地方の有志者は、特に本館の為に、綿織物並に絹織物の標本を陳列し、其品質、染色、意匠等の研究に資すると共に、更に其季節に応じたる流行の品を、時々取り換へ観覧せしむるる事を承諾されたるを以て、今後は商科学生の為には一層大なる利便を与ふるに至らん歟 (六一頁)

 この商品陳列館は年次報告を刊行している。明治四十一年度の内容は次のようなものであった(本資料は商学部飯島義郎教授によって紹介されたものに依拠する。飯島義郎「商品学の系譜」『早稲田商学』第二五六号 商学部史⑷ 七六―七八頁)。

明治四十一年度商品陳列館報告

本年度ニ於ケル商品蒐集事業ハ之ヲ前年度ノ成績ニ比シ著シク佳良ナラズト雖モ内部ニ於ケル諸般ノ設備が漸次完成ニ近キタルタメ商品ノ蒐集ハ□(不明)新生面ヲ開キ本館ノ発展ニ資シタルモノアリ。今左ニ項ヲ分チテ其概要ヲ掲グ。

一、商品

本年度増加数 二四八種 五五六点

内訳 購入 一二二種 一九五点

寄贈 一二六種 三六一点

前年度ニ比較シ増加ノ表アリ(省略)

二、設備

(甲) 縦覧開始

本館内ノ設備ヤヤ備イタルヲ以テ本年度ノ始メヨリ観覧ヲ許可シタルニ頗ル好成績ニテ毎日平均二二五人ノ縦覧者アリ。タダ遺憾トスル処ハ観覧者ノ多数ガ本校ノ学生ノミニシテ、未ダ一般公衆ノ来観者少キコトナリ。然レドモ今後館内ノ設備完成シ備付商品ノ増加スルニ至ラバ時々陳列ノ方法ヲ改メ、或ハ標本ヲ変更スルコトヲ得ルヲ以テ□(不明)観覧者ノ数ヲ加フルニ到ラン乎。

(乙) 階下商品棚ノ調製

新企画ノ一トシテ階下陳列室ノ中央ニ配置スベキ陳列棚六箇ヲ限リ過般其調製ヲ命ジタルガ未ダ出来ノ運ニ至ラズ共、棚ノ丈ハ八尺五寸、長サ六尺、巾約三尺ノ四方硝子戸棚ニシテ、其下部約二尺五寸処マデハ上ケ蓋トナシ中ニ引出数箇ヲ設ケ商品ヲ蔵置スル様トナシタリ。専ラ便利ト□(不明)ヲ兼ネタル実用的ノモノナレド体裁悪シカラネバ、□(不明)ノ上ニ階下陳列室ノ面目ヲ改ムルノミナラズ商品ノ整理観覧ニ一層ノ利益ヲ与フルコトトナルベシ。

三、商品ノ購求ト寄贈勧誘(略)

四、商品顧問ノ嘱託

本校ニ於ル商品見本ノ陳列ガ常ニ商品学ノ授業ト始終シテ時々変更スルハ最モ必要ノコトナリトス。然レドモ従来兎角受持教師トノ間ニ其ノ連絡ヲ欠キタルタメ、長ク同一物ノ陳列トナリ、或ハ直接現下ノ授業ト関係ナキ他ノ参考品ヲ新着ノ故ヲ以テ陳列シタルガ如キ面白カラザル現象ヲ呈シタルニ、今般講師平沼淑郎氏新ニ顧問ヲ嘱託サレ今後商品ノ蒐集并ニ内部ノ設備等ニモ尽力サルル由ナレバ、本年度ヨリハ斯カル弊害ニ陥ルコトナクシテ十分講師学生ニ満足ヲ与へ得ラルベシト信ズ。

商品類別表 (略)

商品陳列館参観者人員調

自明治四〇年九月一二日至明治四一年六月二〇日

学生……計四九〇〇名

公衆……計三八八名

合 計五二八八名

開館日数……二三五日

一日平均……二二五名

寄贈商品目録

茶、小麦、大豆、石炭、ジャム、小麦粉、木材標本、椎茸、木臘、オパール、雲母、銅、安質母尼、錫、干鰯、偕老同穴、綿糸、羽織、夏服、冬服、生糸、硝子器、硫酸、晒粉、曹達灰、配合肥料、苛性曹達、湯呑、徳利、茶碗、盃、文鎮、盆(鎌倉彫)、花瓶、漆器、菓子器、莨入、(その他は略)

参考商品累計比較

明治三七年度 零

明治三八年度 一七三七点

明治三九年度 二一七六点

明治四〇年度 二五五八点

明治四一年度 三〇八一点

5 講義の内容

 教科の内容については既に明治四十年頃のカリキュラム表(一〇四四頁)と明治期における商科の教員とその担当科目の変遷を示す表を掲げてきた(一〇五六頁)。ここではその具体的な内容を紹介する必要があるが、そのために明治三十八年二月に『早稲田学報』臨時増刊第一一四号として発行された『早稲田商業講義之栞』によって各科目の内容を伝えることにしたい。本来ならば当時の講義内容を、その頃使われた講義録ないし教科書などによって紹介することが望ましいが、それらを網羅的に蒐集することは困難であるので、蒐集し得たものについては、のちに教員の紹介をする際にみることとして、正課の教科内容および担当教員とは若干異なるが、当時の講義内容がどのようなものであったかその概要を次の「早稲田商業講義」によって示すこととしたい。

早稲田商業講義

発行の趣旨

今や吾邦世界強国の班に列し、国民責任の重大なる遠く前日の比にあらず。六師外に在って頻に国威を宣揚しつつある間に、鋭意奮励、兵馬の後を承けて戦捷の結果を完ふする、固より吾人の本分なり。

思ふに、戦後の急務は一にして足らずと雖も、実業の発達によりて国力の充実を謀り、以て一時戦闘的捷利に次ぐべき永遠の平和的覇権を掌握するの基礎を築造するよりも急旦切なるはなし。然も今後に於ける大日本の実業は、健全にして斬新なる実業教育の素質に基かざるべからず。斯道に関する系統的知識を有せざるの徒、豈よく今後の世界的大商戦に連捷の名誉を博するを得んや。

我早稲田大学近年新に商科大学を設け、高等なる商業教育の授業を開始するや、忽ちにして来り学ぶ者二千有余名、其数決して尠しと為さず。然れども、既に来り学ぶ者を以て、之を来り学ばんと欲して其志を果す能はざる者に比すれば、蓋し万の一に過ぎざるべし。滔々たる世間、時勢の必要に鑑み、実業教育の素養を得んとする志望を懐抱する者、決して鮮少なりと謂ふべからず。我大学は学問普及の法を講じ、校外教育の途に尽すこと、従来必しも人後に落ちざるを信ず。通信教授の制の如き、夙に二十余年の実験に徴して、其効果の多大なるを知悉せり。因て玆に『早稲田商業講義』を発行し、時勢の要求を充さんと欲す。

而して又思うに、校外の教育は校内の教育と多少其趣を異にせざるべからず。通信教授は現場教育に比し、一層分解的にして旦咀嚼的ならんを要す。従て或程度までは通俗ならざる可からざるなり。是を以て這回発行せんとする『早稲田商業講義』は素より我大学商科の課程に基くと雖も、必しも其講義を筆記の儘に掲載するを以て能事となさず。特に講師諸氏に請ひ、其落筆に無限の用意を煩はし、平易多趣味の裡、高尚複雑なる深遠の学理を丁寧旦簡明に叙述し、普ねく社会一般の人士の為めに難解の恨なからしめんことを期す。且夫れ商業に関する学術は、実用的学問中最も実用的ならざるべからず。講義の方針をして成る可く実務的ならしむるは勿論、講義以外更に数種の特別科目を設け、努めて応用能力の発達を扶け、刻下我国民の希望に応へんとす。大方有為の諸士、奮ってここに学び、依って以て戦後大飛躍の素地を得られなば、独り本大学の悦のみにあらざるなり。

明治三十八年二月

第百十八表 『早稲田商業講義』内容(明治三十八年)

本講義録の特色

一 文章の平易 既に講義録という、誰にも解り易くと努むべきは素よりの事であるが、特に本講義録は此点を最大特色として居る旨を呼号するの理由がある。例へば文学・哲学などといふ高尚なる学問になると、いくら砕いても尚難解の辞句や思想が出て来るし、講師も多少文字の綾を附ける気味合もあらふ。読む人も専心研究という態度であるから、辞句文章の難易は左のみ心するにも当るまいが、此講義録は即ち卓上の空論を教へる主意ではなく、全く実用を専とする。活用家を作るのが唯一の目的である。随て辞句を飾て品位を粧ふたり、強て貫目を附ける如きを為さず、専ら意味が充分に徹底するをこれ努める。されば荀くも中学生、甲種商業学校の生徒、否小学校さへ卒業した人なら必ず解る位に、非常の苦心を以て書き砕く事に努める積り。但し平易なる文の短所として、散漫・平板・無趣味となるの虞があるが、それは勿論避け、簡潔なる上に趣味津々でありたいという理想で、要するに繁劇の業務に従事する傍らに少許の時間を割て斬新健全の智識を、苦労なしに得せしめたいと思ふ。

二 学科の撰択 前にも述べた主旨で活用の学問といふが主眼であるから、基礎となるべき数種の学科の外は、時務に応じない、迂遠なものは総て抜いて、目前要るもの、及び将来に緊切なもののみを精選した。尚正科以外実務に適切なる数種の特別課目及び必要なる講義を掲げて正科と相応じ以て大いに活用の才を啓発せしむるに努むる筈。尤も濫りに雑多の学科を列べて、一も取らず二も取らずに終ることは、予め編者の大に警むる所とて其虞は断じて無い積である。若し夫れ其詳細に至ては請ふ下の解説を見よ。

三 講師の撰択 文章の平易、学科の選択、これに奈何程力を注いでも、之が講述の任に当る講師其人にして撰択宣しきを得ずとすれば、折角の苦心も水泡に帰する訳である。本大学夙に東都碩学の林の如き中に就て、最も俊秀最も卓板、覇を一方に唱ふるの人、雄を一世に恣ままにするの士のみを請ふて、本大学の教務を托して居るので、今回また本講義録発行に当り更に其快諾を得て、親しく筆を採らるる事となったのは、最も本大学の悦びとする所である。

四 短日月の修了 人生五〇、老少病の間を除けば、活動飛躍の時期は実に心細い程短いものである。何ぞ徒らに迂遠の死学を講じて青春貴重の時―或は半生以上―を費し去るの愚を為すもの多き。今の時は最も敏速、快駿を要す。天下の形勢は一日を苟にするを許さぬ。乃ち本講義録は最も緊切なる学科のみを掲ぐると、最も時勢に適切なる点を詳説して迂遠の点を略するとにより、講了年限を二年間とした。記憶せよ、社会は戦争である。一刻の立遅れは百代の失敗を意味す。学科修了一年乃至二年を早うするの利、蓋多言を須ゐずして明かであろう。

五 系統的知識 世上物識りといふ人は少ない。けれどもいざいふ場合これぞといふ役に立たぬ。といふは抑も何故かといふに、畢竟系統的に智識が入れてないから、即ち一綱を挙ぐれば十目悉く張るといふの慨は、系統的知識あるものにして始めて之を望む事が出来る。斯の如くにして機に臨み変に処して、十二分に其知識を活用し、所謂雑駁なる物識り者流の到底企て及ぶ能はざる大事を成す事も出来、明快不動の判断を下す事も出来る。本講義録深く玆に意を注ぎ、学科学科は独立して居ながら、其間互に手と足、首と胴といふ様な整然たる関係を保たしめ、一学科個々の中にもまた秩序の整正して動かすべからず、一を知れば従て三五を推す事を得る様な巧妙精緻なる系統がある是れ実に学ぶ者をして労少うして無限の巧を収めしむるもの。

六 学問と実際 商業界の事は極めて複雑で、到底門外漢の端倪し得る所でない事が往々ある。そこで本講義録は系統的なる、斬新な、健全な智識を授けると同時に活きた商業界の迷路を辿る案内として、幾多実際を指示し、摘出し、剔抉するに努める。内外商店の内情、取引の具合、其秘訣なぞは素より、智識活用の途を開く為めとしては、新聞記事の説明、経済金融事情の講評、商人処世の訓戒、欧米商界の新習慣、新経営法などを始め実用的知識の養成には大に力を注ぐ考である。

本講義録掲載課目の解説

商業通論

商業通論は商業学に入るの門なり。経済方面より商業に関する各般の行為を研究し、経営の見地より商業全般に通じて緊切なる事項を考究するを以て目的と為す。本講義は煩雑を省き平易を旨とするにより、其最肝要なる諸点を選びて講説し、直に其精神に通暁せしむ。

商業各論

之を売買(売買の本義、売買の区別、目的物、準備、代価、荷物受渡等)鉄道(鉄道政策、鉄道経済、及実務等)倉庫(組織、目的、沿革、貨物の保管、倉荷証書の発行、代金取立等)銀行(預金、貸附、割引、為替、取立及実務等)保険(定義、利益及弊害、種類、海上保険、火災保険、生命保険、危険、契約の手続、証券の約款等)海運(起源、沿革、船舶、乗組員、運送及船舶賃貸借、船舶の経済、船舶と海軍、海運の過去現在及将来等)税関(組織、目的、貨物の輸出入、実務、手続、戻税、政策等)及取引所(組織、目的、種別、営業規則、取引の方法及実況等)の八門に分ち、其各に就きて理論を略説し、実務を詳述し、商務一般に亘る健全なる常識の涵養に努めんとす。計算、相場、及統計等の数字は之を最近の事実に採り、各種商業者の使用する書式類は、能ふ限り実際に近きものを例示し、活世界の時事に遠ざからざるを期す。

商品学

商品とは売買の目的を以て取扱はるる経済的貨物の総称にして、其の種類極めて多し。内外商品中最重要なるものを選び、農産品、繊維及繊維製品、鉱産品、水産品、其製作品等に分類し、更に細別して各種の物品に就き其産出、用途、種類、品位、鑑定、習慣及荷造法等に論及し、商業の一般的知識を与へ、実務上肝要の材能を涵養せしむ。

経済学

吾人が社会生活を営むに当って、先づ第一に攷究せざるべからざるは、人類の欲望は如何にして充実せらるるかに在り。所要貨財の生産消費は奈何。此両極点及経路を繹ね、労少巧大の法則に基く生活条件を分類し、又統括し、真理の所在を明にするは実に経済学の職分なりとす。

経済原理は生産、交換、分配及消費より説起し、又国民経済の発達する原因、邦国の情態により政策の異る所以を述ぶ。学説の争議は之を他に譲り、経済学の基礎たる原理の一般を説明せんとす。

貨幣学は、貨幣の性質、分量、流通の原理及貨幣制度の良否を比較論究し、銀行論に於ては、銀行業務の概要、性質、効用、管理、政策等を論じ、更に進んで外国貿易に入り、国際貸借、為替高低の原因結果、対外方針、対商政策等を議し、遂に金融に及ぶ。

蓋し吾人の経済的行為の存する処、貨幣の伴はざるなく、貨幣の循環する処は銀行の勢力範囲に属せざるはなし。外国貿易の消長は邦国の富強に関し、金融市場の健否は一国経済の浮沈に係る。此等諸学課相前後して経済学の講義を大成せんことを期す。

商業経済

本講義は商業通論並に各論に於て、商業の実務を説くものと関連して、商業を経済学上より攷究するを目的とし、第一学年に於ける経済原論を適用し、普通商業銀行業、保険業、交通業の本質、種類、組織、経営の原理を説き、併せて国家の是等各業に対する政策を講述せんとす。

商業地理

東洋は第二十世紀に於ける世界列強の競争場なり。武力競争の作戦に就ては別に専門家のあるあり。然れども平和的覇権を掌握すべき世界的商戦の参画に至りては、吾人其一端を担はざるべからず。商業地理は其競争すべき場所の選定、競争場の価値、競争の方法を論究するを以て目的となす。其説く所は日本、韓国、清国、印度支那各地、印度、マライ諸島及欧米の諸邦にして、殊に太平洋沿岸諸国に就て詳述す。而して地理諸項中、最も人文地理に重きを置き、国勢、産業、交通、貿易、経済上の関係等は特に意を用ゐ、我帝国を中心とせる今世紀の世界的商戦の活舞台を説明すべし。

商業史

近世世界商業の変遷、経済思想の推移、交通の発達と産業の盛衰及び貿易の消長等史的攷究をなし、又欧米諸邦に於ける対商主義に基く商界の反響を述べ、新に世界商業史上光彩を放つべき、我帝国将来の対商政策の一端に及ぶ。

法学

廿世紀の商界に馳騁せんとする者固より法律的思想無かる可からず。依て先づ法学通論を述べて法律学の概念、法律の種類、制定、解釈、制裁、権利義務の観念等を与へ、後直に民法に入り商業上最必要なる各編に就きて説明す。

又商法は全部に亘り簡明を旨とし、法理と実際とを并説し、特に実業界に身を委ぬるもの、又将来之に入らんと欲する士の為に、最良の方法を以て講述すべし。

実業活談

実業は猶兵を用ゆるが如く、機を捉ふる者は勝ち之を失ふものは敗る。成功と失敗の岐るる処は真に一髪の妙機に在って存す。動中不動を見、無中亦有あり。吾人が朝夕遭遇する百般の事物は、此等禍福の遠因を蔵せざるなし。講師多年実業界に在って、親しく此妙所を看破す。其説く処、実業全般に亘りて微大漏らさず。吾人が日常心得可き注意、箴言を初め、商業の実務に及び、有価証券の取扱及秘訣、銀行会社の経営等各種の営業に就き、公私両方面より学理と実際とを兼ね、諄々商業の秘訣を講ぜらる。辞句皆千金の値あり。

海外商店実務

英国は世界の公市場と称せられ、夙に商業に於て列邦を凌げり。商業の通則多くは此国より発達す。講師今井氏英京に客たること殆ど十年。躬ら商界に身を潜め、専心商業の枢機を攷察し、其機微に通じて帰来海外貿易に従事せり。英国商界に於ける慣習、原因、変遷、傾向及び其将来等を推究し、之を我実業界に適用移植せんと努む。今ここに商業文書の方式、巧拙の論評、応接の注意、室内の装置、商品貨物の配合等、文明的商売の必ず知らざるべからざる諸般の実務と経営の方法とを述ぶ。経験と実践とに由る商業活法とは即ち此謂なり。

商業経営法

商業の事は学理のみを以て律する事能はず。商業一般の経営、商店の処理等実地に臨んで何人も苦心惨憺を要する処なり。新に商界に入るものの為に、特に学理を少くして実務を説き、項目を分ちて商業経営上注意せざるべからざる事項を列挙し、可成教場教育の風を避け、個人対話の法により、業務の選択、営業地の選定、店舗の構造、開業の時機、店員の資格、営業の組織、営業と其表章、商店の管理、売買取引の心得、仕入の手段、売買の掛引及広告法等を説明す。学術以外商家の服膺すべき原則は挙げて此内に在り。

簿記

簿記は之を応用する事業の種類に依て、商業簿記、銀行簿記、会社簿記、工場簿記、官庁簿記、家計簿記、農業簿記等の諸種に区別せらるるも、是等会計整理の法則たる簿記原理に至りては、各種の簿記を通じて一也。故に或一種の簿記に付きて此原理を会得せば、他は唯其事業の会計整理に適切なる、勘定科目の組織及記入の方法等を研究する事により、容易に了解するを得べし。故に本講義に於ては、諸種の簿記中商界にて、最も適用の範囲広き商業簿記に付き、複式原理并に記帳整理の方法を説き、次に銀行簿記に移り、銀行会計整理の大様を説明すべし。紙数の許す限り実例を示し、記帳の実習に便ならしむ。

商業算術及実用速算法

商界に於て最も必要なる者を選出して詳細懇切に講述し、広くして浅からんよりも、寧狭くして深からんことを期す。例題の如きは種類の異りたる者各二三を挙げ、一々叮嚀に解釈し、商家の徒弟にても直に理解し得べからしむ。

又、実用速算法に於ては商業上各方面にあって日常手近の計算事務に就き、最も迅速且正確に通算するの技能を教ゆべし。暗算新法、簡略算法、珠算新法、利息算簡便法、度量衡算法、外国為替計算法、重要商品に関する各種の特別計算法等を述べ、各々講師独特の経験に基き妙技に依り、真実の速算法を授く、両者相俟ち商業算術の真髄を説明するに些の遺憾なきを信ず。

工業大意

凡そ商業千種万様なりと雖も、商品を外にして商業ある事を得ず。商品鑑別の能は実に商人資格の第一たり。商品一般の智識に関しては本講義録別に商品学の設あり。以て精細を悉する得べきも、特に製造品に至ては其研究を審にせざるべからず。製産費の多寡、製造法の巧拙、直ちに商利の大小と商業の盛衰とを意味す。豈深く顧慮する所なくして可ならんや。則ち特に本科を設け商工業の関係(一、商人自ら商品を製造す、二、商品を製造せしむ、三、製品を買受け販売する等各の場合、原料と製品等)、工場経営監督上特に最近欧米に於ける驚くべき新法、工場使用人の商工業的経営其他工場組織に関する一班を説明せんとす。

英語及清語

商業上欠く可からざる単語、術語を初め、商取引に於て日常商家の慣用する商品売買、交渉、挨拶等上品にして然も妥当なる英語商業会話を掲載す。初学者は之によりて商業会話の一般を知得すべく、熟達者は更に巧妙の辞句を得て機敏なる商材に一層利すること多からん。

商用作文は現今英語国の商業に使用せらるる書翰文を随意に認むるを得せしむるの目的を以て講述し、始は外国商用書翰に関して注意すべき有ゆる事項を説き、次で商業上慣用語を説明して一々之に例証を与へ、漸く進むに従って書翰、電信、契約書類等を掲げ、何れも和訳文を附し、難句には、註釈を加へて独習に便ならしめんとす。

又、清語は四声の発音より初め、普通会話に入り、以て清語一般の智識を会得せしめ、而して後時文を解釈し、且つ商用対話及商用書式を説明し、併して交際上清国人に対する注意の大様を附説す。

早稲田大学商科科外講義

早稲田大学商科科外講義は、毎月数回朝野の諸名家に依頼して講筵を開き、商業道徳、商業政策、内外工業の情態、製産物の現況、将来商業に関する論議等政治、経済、商工業各方面より論評画策するものにして、悉く時世に該切なる者、以て商業上時代思潮の発現を察知し得べく、又先覚者の警醒として肝銘すべきなり。順次紙上に其速記録を掲ぐ。読者は各地に居ながら此等経世家、巨商、文豪に咫尺して聴講するの感あらん。 (一―一五頁)

 以上に紹介した『早稲田商業講義』は毎月二回、一二〇頁以上の講義録が配本され、月謝は一ヵ月四十銭という後述の学費に比べるとかなりの低額であった。

6 修学の状況

 明治三十六年四月商科の高等予科を開設し、翌三十七年九月大学部商科が創設されて間もない明治三十八年二月の『早稲田学報』第一一四号にはさらに「商科大学の現況」と題する次のような記事が掲載されている。

○商科大学の現況

学理と実際の調和を図り、高等なる科学の研究と共に、商業に関する一般の智識を養ひ、直ちに実地に適応するを得せしむる目的を以て起りたる本校商科大学は、開設以来日猶浅きにも拘はらず、着々好成績を収め、世上の信用頗ぶる重きを加ふるに至れり。今、其の概況を記さんに、本科の開設は昨年三十七年九月にありて、学生は恰かも一昨三十六年四月本校高等予科に入り昨年七月の学年試験を終了したるもの殆んど其全部を占め、学生学力の程度も大凡一定し、従て授業上便宜尠からず。現在学生の数は第一年級のみにて既に五〇〇名以上に達し、之を四組に分ち授業をなす。本科の科長は法学博士天野為之氏之に当り、其の教務主任は高等予科長田原栄氏の兼任する所なり。其の他各科の担任講師は、何れも斯学の専門家にして、講師と学生間は至て親密に融合せり。本学年に於て学科は正科と科外に大別し、科外講義として土子金四郎氏の実業活談及び和田垣謙三氏の経済叢話あり。英語は正科に属し他に随意科として支邦、独逸、仏蘭西の三語中其の一を選択することとせしが、支那語を修むるもの最も多し。因みに記す、目下高等予科商科約一〇〇〇の学生は来七月学年試験を経て九月より本科一年級に進む筈なり。

○英語談話会 商科大学に於ける英語は専ら実用を旨とし、現に読方、会話の如きは外国人の担任するところなれども、猶ほ完全を期せんが為め、一月より英語談話会なるものを設け、一週三時間宛其の会合を為し、商業上各般の場合に応ずる実地の演習をなす。

○商業実践の新設 従来商業実践は商科大学二年以上に於て課することとなり居りしが、此の際実践的智識の一層緊要なるを感じ、進んで本学年より之を設け、其の指導講師には久しく英国にありて、同国人と共に事業を経営せし今井友次郎氏を聘し、諸般の取引事情を明かならしむ。 (二一頁)

 以上の記事にみられるように、大学部商科は「開設以来日猶浅きにも拘はらず、着々好成績を収め、世上の信用頗ぶる重きを加」え、次のように創設以来明治年間における学生数は増えていったが、卒業生(得業生)は必ずしもそれに比例して増えなかった。これはのちにみるように、当時の私立大学の学費は高く、地方から東京に下宿して勉学するには多大の費用を要したこと、および今日のアメリカの大学のように、入学は比較的容易であるが卒業は必ずしも容易でないという状況に類似していたことが要因としてあげられると考えられる。

 第百十九表によると、全学年が揃った明治三十九年以降四十五年までの間、大学部の中で占める商科学生の数はほぼ四〇パーセントから七〇パーセントというように、三十九年を除いて常に過半数を占めていた。従って卒業生数も同じ期間にほぼ五〇ないし七〇パーセントを占めるというように、大学部の中では学生数で重きをなしていたことが明らかである。

第百十九表 開設以来明治年間の大学部商科学生・卒業者数

(「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号 一五―一六頁の表より算出)

 次に同じ『報告』で、卒業生の出身地を多い順にみると第百二十表のようである。

 この表によれば、明治年間に大学部商科を卒業した者の出身地は東京府が千九百三名中三百名で一五・八パーセントを占めて第一位であり、以下五十名以上の出身者をもつ府県は新潟、愛知、静岡、兵庫、岡山、広島、千葉、大阪の八府県であった。ここでは新潟の二位が注目されるところである。因に、それからほぼ七十年後の昭和五十五年度における商学部入学者の出身高校所在地別の統計(昭和五十五年度『統計で見る早稲田大学』二一―二二頁)によると、入学者数の多い上位十府県は、東京(二七・二パーセント)、神奈川(一三・七パーセント)、埼玉(五・三パーセント)、千葉、福岡、愛知、長野、静岡、兵庫、大阪の順となっている。新潟は十二位である。こうした結果は、右の約七十年余の間に、人口や大学の分布の状況、あるいは就学の条件の変化に応じたものと考えることができるであろう。特に最近における首都圏内の出身者の増加が特徴的であるということができよう。

第百二十表 明治年間に大学部商科を卒業した者の出身地別内訳(明治40―45年)

 次に修学の費用について見てみよう。明治三十八年七月発行の『早稲田学報』第一二〇号には「本校ニ於ケル学生修学費」という記事がある。その内容は次のようである。

本校ニ於ケル学生修学費

遠ク学費ヲ齎ラシテ帝都ニ修学スルモノ其費ス所一ナラズ 或ハ毎月数十円ヲ費消シ為メニ父兄ノ所期ニ違フモノ尠カラズ依テ下ニ本校ニ勉学スル学生ノ一ヵ月分相当学資ヲ記シテ参考トナス

○本校寄宿舎及学寮ニ寄宿スル者ノ学資金大略下ノ如シ

一、食費 五円四十銭 物価ノ高低ニヨリ増減アリ

一、寮舎費 平均一円八十銭 室ノ広狭人ノ多少ニヨリ増減アリ

一、学費 二円八十銭 各学部ニヨリ相違アリ仮ニ高等予科生ノ学費ヲ掲グ

(大学部 三円六十銭、専門部 二円三十銭、高等師範部 二円八十銭)

一、書籍費 凡一円 一学年間ノ教科書代平均十二円ト計算ス 大学部ニアリテハ増加スベシ

一、諸雑費 凡二円五十銭筆墨紙、洗濯賃、湯銭、炭、小遣銭等学生普通ノ費額ヲ掲グ

合計毎月学費 金十三円余

○市内ノ下宿屋ニ在宿スル者ノ学資金大略下ノ如シ

一、食料通常六円

一、間代平均二円五十銭 一畳敷ニ付五十銭ヲ普通トス

其他ノ費用ハ寄宿舎ニ在ルト同一ナリ但シ下宿屋ニ在リテハ自然諸雑費ニ多額(通常四円)ヲ要ス

合計毎月学資金十六円余

尚本校ノ制服制帽ハ冬服八円乃至一五円夏服六円乃至十二円在学中各一着ニテ足レリ之レハ上学費ノ外トス (六頁)

 以上の記述に従って、地方から大学部に在学し、下宿する学生で、冬服十円、夏服八円程度として、これを三年分として、一年分の衣服費六円と算出し、更に書籍費も五割増として、一ヵ月の修学費用を計算し例示すると第百二十一表のようになる。

第百二十一表 明治38年当時地方出身の大学部学生の1ヵ月生活費

 すなわち一ヵ月約十八円程度を必要とすると考えられる。この金額は当時の経済状態からすると、これを負担する親の家計からの支出としては、かなり大きな比重を占めていたと考えられる。

 『長期経済統計6 個人消費支出』(東洋経済新報社、一九六七年刊)によって、明治三十八年の人口一人当り年間の消費支出をみると、当年価格で五十四円(同上統計、一二頁、表一―九)であったことが分る。これを一ヵ月当りに換算すると僅かに四円五十銭ということになる。また同じ時期の製造業の平均的賃金では、男子の場合で一ヵ月十円位であった(『長期経済統計8 物価』 一〇七頁 表九―四)。従って以上の数字を比較してみると、明治三十八年頃の早稲田大学の学生が地方から上京して学ぶ費用、一ヵ月約十八円という額は、同じ年の一人当りの一ヵ月当りの消費支出四円五十銭の四人分に当り、また製造業の従業者一ヵ月分の平均賃金の二倍程度という高額な費用であったことが分る。

 このようにみると、明治末に子弟を東京の私立大学で学ばせることは、当時の家計にとっていかに大きな経済的負担となっていたか理解することができよう。このことは別の面から言えば、かなりの裕福な家庭でないと子弟を学ばせることは困難であったということができるのである。

 なお右の修学費に関する記述の中に寄宿舎を利用する場合のことが書かれているが、早稲田大学には明治末の頃二棟の寄宿舎があり百六十名の学生を収容することができた。明治四十四年度の『早稲田大学第廿八回報告』には

衛生の方面は校医の注意益々行届き身体の健康と一般の清潔とに注意し、又従来唯一の戸外運動たりしテニスに本年度よりはベースボール団体を組織し室内運動としてはピンポンを採用し居ること旧の如く、精神修養及び弁舌諫磨の為には修養部の講演演説を奨励し時々修学的遠足を試み又一には名所古跡を訪ふことあり、其の他学生実習の為め舎生全般の便利の為めに昨年開始せる本舎消費組合の成績は益々良好なりとす。 (『早稲田学報』明治四十四年十月発行 第二〇〇号 二一頁)

と寄宿舎の状況を報じている。

 明治三十六年刊行の『早稲田学報』第八七号に所収の「早稲田大学規則一覧」の「早稲田大学紀要」の中に、「在学中品行方正ニシテ学業成績優等ナルモノハ其学費ヲ免除シ」とされており、「早稲田大学規則」第九章にその規定がある。この「特待生」は、一ヵ年間学費を免除されることになっている。明治三十九年から同四十二年までの特待生は次のようである。

明治三十九年 大学部商科一年 宮島綱男

〃 二年 斉藤朋之丞

〃 〃 蜂須賀武彦

高等予科(商科) 竹内徳太郎

明治四十年 大学部商科一年 杉浦義泰

〃 二年 浅川栄次郎

高等予科(商科) 原田竟祐

明治四十一年 大学部商科一年 高木文吾

〃 二年 原安三郎

高等予科(商科) 安東友戴

明治四十二年 大学部商科一年 鈴木佐平次

〃 二年 鈴木幹三

高等予科(商科) 山桝忠興

 明治三十八年一月元旦刊行の大阪朝日新聞は「二十世紀の日本商人の座右の銘」の懸賞募集を行ったところ、早稲田大学大学部商科一年に在学する生方貞一氏の作品が当選し、表彰された。この応募作品の撰者には当時の経済学・商学の分野で著名な学者である田口卯吉、矢野文雄、矢野次郎、小山健三、水島鉄也の五氏によって行われた。

 その当選作を次に掲げておこう。

二十世紀日本商人の座右の銘

早稲田大字大学部商科一年 生方貞一

正直なれ、着実なれ、勤勉なれ、時間を守れ、約束を破るな、信用と繁盛とは招かざるに得ん。

国家の為めには私事を顧るな。

目的と主義に従ひて猛進せよ。

失敗は成功の基、忍びて続け。

小康に安ずるな、油断は大敵。

世界の大勢を察し、時運に後るるな。

力めて常識を養ひ、偏狭に陥るな。

広く読み、広く聴き、広く視よ、敢て深きを要せず。

新聞雑誌は社会のパンなり、一日も欠くべからず。

労働を厭ふな。

品性の修養を怠るな。

大利を得んと欲せば小利をもすつるな。一文も富貴の一部なり。

投機を避けよ。

考ふるに長く時を費し、行ふに当りては猶予するな。

事を成さんには機智を要す、勇気を要す、克己を要す、熱心を要す。

富を善用せよ。 (『早稲田学報』明治三十八年二月発行第一一三号 四九―五〇頁)

7 課外活動

 正課の授業の他、商科大会の組織、科外講義、部活動などの課外活動も盛んに行われた。

a 商科大会

 明治三十八年四月発行の『早稲田学報』第一一六号には明治三十八年三月に発足した学生の交流と親睦の組織「商科大会」の発会式が催された時の記事が出ている。

商科大会発会式

講学修徳の傍同窓相互の親和と提携とを目的として本校商科学生諸氏の組織に係かる同会は三月四日、朝日俱楽部に於て挙行せられたり。当日は生憎の風雨なりしも、定刻には来会者百余名に達す。午後七時D組の伊藤氏発起人に代りて該会設立の必要を説き、熱心なる会員の来会を謝し、次で開期の評議ありて春秋二季に決す。委員の選挙あり、A組より頼、上遠野の二氏、B組より今橋、中村の二氏、C組より上田、黒川の二氏、D組より伊藤、中瀬の二氏当選せり。

右終るの頃高田学監、天野科長臨席せられ(田原講師は微恙あり欠席の旨報ぜらる)小憩の後、天野科長の演説あり、学生日常の礼容に就て懇々と説かれ、次に高田学監起て、諧謔一番、天野先生も諸君の如き学生時代にありては今日の言の如き要求をなすの資格ありしや頗る疑はしきものならん、而かも此先生の口よりして今日の言ある所以のものは実に諸君を念ふの情深きに由らずんばあらずとて、進んで実業家となるべき者の採るべき将来の方針に就て説き喝采の裡に降壇せらる。続いて余興に移り円左の落語あり、湯浅、福島二氏のヴァイオリン合奏あり、縹緲咽せぶが如き神韻の内、感ずべくして言ふ能はざる或趣を捉へ得たるの感あらしめき。次に福引あり、川久保氏の薩摩琵琶あり、終りて座談に移り各自歓を尽して散会せしは十一時を過ぐる頃なりき。 (C組、T・U記)

(四二頁)

 明治四十二年の商科大会の記事。

四月一日商科大会を大隈総長邸内に開催した。此日は朝から花曇りに少し曇って、灰色の雲の間から時々鋭い太陽の光が射出して何となく苦聞と光明をシムボライズしたやうな日であった。午前九時頃から早稲田商科生等は制服制帽の若々しい姿を学校前又は総長邸の内外に出没さして居たが、十時頃には一同会場に集会して開会の時を待って居た。やがて居城新三郎君(三年)の開会の辞があって、続いて学生四十五人の五分演説あり、其れから商科主任田中穂積氏が春の木芽が青くなる頃は学生の顔も青くなるとて有益な訓諭的演説を試みられ、次ぎに太田黒重五郎氏は日本銀行業者の不道徳を慨し商業者と道徳の関係を痛論されて壇を下りられると間もなく、大隈総長登壇『今日は諸君に二つの議論する。初めは諸君を奨励し、其後で又戒める事にしやう』と言って先づ前漢の文帝の時代、帝も国民も大平を謳歌して居る時賈誼は一人其否を叫んで治安策を帝に奉つた。漢は今薪を積んで其上に寝て居るのだと嘆息したといふ古事を引照して『日本は今歴史あつて以来の隆盛の時であるが、我輩は賈誼の如く泣きもしない。然し我輩は大観する。勇者は敵に望んだ時は弱兵の野に顕はれるのを見れば失望すると云ふが今日吾人の周囲に迫つて居るのは大敵である。吾輩は今や剣を提げて初陣に立たんとして居るのではないか』と学生の注意を喚起して

『現在の日本では第一に国民の気力が足らぬ、次ぎに経験が足りぬ。又資本も足らぬ、更らに大なるは日本が今日債務国の位置にあると云ふ事だ』

と総長は我国は日清、日露両戦役及び其他の公債を合して十五億の外債を負ふて居る、これを一人前に平均して見れば三十円、又日本現在の戸数を一千万戸として一戸百五十円の割合で外国に借金して居る。我々は如何にして此外債を支払ふ積りかと憤慨され、更らに一転して経済問題が如何に国力の発展と国際的競争の要因をなして居るかを細論され、国際競争の下に優等の位置を占る為めには富の程度を高めなければならぬ、富の程度を高むる為めには国内の商業計りでは駄目であって広く国外に求めなければならない。

『合衆国の生産は非常なる速力を以つて進んで居る、此上国民も莫大なる無形の生産力を費消する事が出来ぬので他方外国の市場を求めるに至つた。合衆国が既にこれだ、日本の如きも必ず一方に市場を求める事になる』

と説いて、支那は世界で最も有望な市場である。世界の列強も既に其れを認めて此好市場を得やうとして居る。日本は此好市場に対して最も便利な地理的関係を持つて居る。

『支那は如何云ふ地位にあるかと云ふに我等に最も近い……其上同人種同文である故日本が支那の市場で競争するには非常の利益を得て居る』

と論結し更に一歩を進めてパナマ開通の結果日本の商品は世界の需要となる。然も日本人は労働に堪えて賃金が比較的安値で出来る。此点に於いても社会主義者の運動に依つて労働時間の制限されて居る諸外国に対しての一大利益である、諸君は此幸福なる時代に生れて最も有望なる商業に従事されるのだと終に臨んで総長は商業と道徳との関係を論じ太田黒氏の演説に対して軽い批評を加へ

『昔の道徳は全く空念仏で諸君が新しく道徳を組立てるのである。其新道徳を以て諸君は外に向つて大いに商業上の競争を試み金満家となつて学校の建築を盛んにせられるのを待つて居る』

と拍手と洪笑の間に総長自身も微笑しながら降壇、続いて天野博士登壇商科には擬国会などを開いて政治家の模擬もしない、文芸協会といつて役者の真似もしない。商科はやつぱり独立した商科の特色があると会衆を笑はして置いて太田黒氏及び総長の演説に関連し商業と道徳の関係を論じ『正直は最上商略なり』といふ事を正直にすれば金を得られると解するのは非常な誤解で正直は其れ自身で正しい。経済程此道徳と密接な関係を有つて居るものはない、経済思想の根本はやはり道徳であると論断された。

此講演の終ると共に一同撮影会員の薩摩琵琶数曲、狂言伯母が酒、会員の演奏等ありて閉会を告げたのは午後五時過ぎであつた。 (同誌明治四十二年五月発行第一七一号 一六―一七頁)

 明治四十三年の商科大会の記事。

四月二十四日十時より商科大会は例年の通り大隈総長邸に於て開催されたり。毎年此頃は空模様あやしく雨を恐れるを常とせるが此日は珍しき晴天にて会衆もまた千余名に達し田中講師の開会の辞につれて大隈総長の有益なる演説、来賓中野武営、浅羽靖、添田寿一の諸氏及天野講師の演説ありて撮影後再び団欒をなして薩摩琵琶数曲、落語、物真似等に身心を楽ましめ一日の清遊をなせり。 (同誌明治四十三年六月発行第一八四号 一八頁)

 明治四十四年の商科大会の記事。

四月二十九日本大学商科大会を大隈総長邸内に開催、会衆五百余名にして先づ学生の五分演説に続いて天野博士、田原科長の有益なる講演あり、最後に大隈総長は立つて本邦の世界的地位を論じ実業家の責任を説き降壇、それより余興に移り栗島狭衣一派の文士劇、薩摩琵琶、木崎一派の勇壮なる少年剣舞ありて会衆に十二分の満足を与へたり、当日の来賓は校友山田英太郎氏外数十名なりき。 (同誌明治四十四年六月発行第一九六号 一八頁)

 明治四十五年の商科大会の記事。

四月二十八日午前九時大隈総長邸に於いて開催せらる。来会者八百余名。会は委員長岡義雄君開会の辞によりて開かれ、数番の学生演説ありたる後、来賓勧業銀行総裁志村源太郎氏の人物論、実業家堀越善重郎氏及森村銀行頭取諸葛小弥太氏の経歴談等の有益なる演説ありたるに対し、田中科長の挨拶あり。次に高田学長は総合大学の利益に就き、大隈総長は日本人の特色に就き各々有益の警告を与へられたり、余興には筑前琵琶、講談、浪花節、剣舞等ありて、終て商科万歳、総長万歳を唱へて散会したるは午後五時半なりき。 (同誌明治四十五年五月発行第二〇七号 一九頁)

b 科外講義

 正課の授業と並んで学界・官界・実業界から講師を招き、学問や時事の問題について講演を願い学生に聴講させる「科外講義」が催された。明治期のものを『早稲田学報』に記載の記事から掲げると次のようである。

 明治三十七年

○十月八日午後一時本校に於て商科学生の為め「本邦糖業の将来」に就て台湾総督府糖務局技師兼東京工業学校教授下斗米半治氏、「聖路易博覧会」に就て法学士織田一氏の講話ありたり。 (同誌明治三十七年十一月発行第一〇八号 三三頁)

○十一月十九日午後二時より本校に於て商科学生の為め左の二氏を聘し開講せり。

東洋貿易に就て 大蔵省鑑定官 山岡次郎

海運の近況に就て 逓信省管船局長 内田嘉吉 (同誌明治三十七年十二月発行第一〇九号 四九頁)

 明治三十八年

○二月二十日午後二時本校大講堂に於て商科学生の為め左記の科外講演ありたり。

酒類醸造に就て 農学士 奥村順四郎

商品包装に就て 税関鑑定官 松倉順一 (同誌明治三十八年四月発行第一一六号 三五頁)

○五月六日午後二時より本校大講堂に於て大学部商科学生の為め下記の講演ありたり。

学生諸氏に望む 東京高等工業学校長 手島精一

内外鉱産物の比較 理学博士 巨智部忠承 (同誌明治三十八年六月発行第一一八号 四七頁)

○六月十日午後一時より政治経済科及商科々外講義を聞き、左記の講演ありたり。

戦時保険に付て 村瀬春雄

日本貨幣の沿革 福地源一郎 (同誌明治三十八年七月発行第一一九号 五〇頁)

○十月二十一日午後一時半より本校大講堂に於て開かれ、第一席高山圭三氏は「清国に於ける各国貿易の競争」と題し演了せられたるが、其中に左記の如き言ありたり。

最近の調査に拠れば、外国より直接に物品を支那に輸入する者の中其第一位を占むる者は日本にして、次は英国、次は独乙、仏蘭西、伊太利等を合して欧洲大陸と称する者、次は亜米利加也。此英国が第二位に在るは香港、印度等より輸入する物品は之を控除するが為め也。玆に奇異に感ぜらるゝは、東洋に於ける商権の獲得に最も鋭意熱心なる独乙が未だ独乙の名目すら之を有するに至らざることにして、瞥見すれば、事情此くの如くなる以上は、東洋の覇権を争ふ上に於て独乙は決して恐るゝに足らざるが如く感ぜらるれども実際は決して然らず。彼れは官民一致して支那の富源開拓に努め、其状他の諸国の容易に企及すべからざるものあり。即ち支那に在る独乙領事館が独乙人にして支那語を学ばんと欲する者あれば幾人にても無報酬にて之を教授すべしと新聞紙に広告したるが如き、支那語に通ぜざれば、支那人を相手とする商業は十分之を営み難きが為め、独乙領事が此くの如くにして支那語の練習を奨励するものと知られたり。又嘗つて張之洞の命を受け大冶鉄坑の発見に赴きし独逸人ライマンなる者が愈々其極めて有望なることを認め、早速之を張之洞には報告せずして、却て北京に在りし独逸公使に報告し、以て総理衛門に交渉して其採掘権を得せしめんとしたるが如き、独乙人が如何に支那利源の開拓に急なるかを知るに足る也。又独乙人は勉めて支那人の言語を学び支那人の習慣を諳んじ、其嗜好に投じて商業を営まんとするが故、他の外国人の如く支那人と取引するに、買辞なる者を使用することなく、又居留地に於ても他の外国人は大概三時若くは三時半となれば其店舗を仕舞うを常とすれども、独乙人だけは能く支那人の習慣に通じ夕刻まで其店舗を開き居る也。又独乙人は将来に於ける大なる冀望を有するが故、支那の方面に於ける航海業の如きも最も大仕掛にて、其船舶の屯数を言へば、英国と雖も遥かに其下位に在る也。なお彼れが近頃漢口に於て電話局を設置したるも、一に其将来に対する準備たるのみ。

第二席は「我国商工業現況一斑」てふ演題を掲げられたる商工局長森田茂吉氏なりしが、氏は各種の商工品を携帯し来りて演壇の前に於ける十数脚の机上に陳列し、一々現物によりて説明し、我国商工業の進歩発達に連れ物品は益々精巧ならざれば外国市場に信用と声価とを博すること能はざるにも拘らず、往々粗製濫造の弊あるは慨歎に勝へずと幾回か繰返へされたり。而して此時既に薄暮なりしかば、氏は十分其予定の趣旨を演了するに及ばずして降壇せられたり。是れ聴衆一同の大に遺憾とせし所なりき。 (同誌明治三十八年十一月発行第一二五号 六七頁)

 明治三十九年

○本校商科学生の為め二月二十日午後一時大講堂に於て次の講演を開けり。

独逸の山東経営を論じて長江に於ける列国の競争に及ぶ

漢口領事 法学士 水野幸吉

本邦の鉄道 北海道鉄道会社主事 黒川九馬 (同誌明治三十九年四月発行第一三二号 六四頁)

○高等予科・商科学生に対する土曜講話

六月十二日午前十時より同科講堂に於て次の講話ありたり。

商業倫理 文学士 平沼淑郎

商業雑話 東京株式取引所理事 渡辺亨 (同誌明治三十九年七月発行第一三五号 五六頁)

○十一月十七日大講堂に於て、商科々外講義ありたり、其の講義の大略を記さむに

殖民政策 貿易商 堀越善重郎君

氏は米国桑港に於て、絹物貿易に従事せるの人、又殖民、貿易に関しては、深く造詣する所有るが如し、明晰なる議論、該博なる引証、大に聴くに足るもの有り、「貿易政策なるものは、経済思想の変遷に伴ひ、政治上の干繫に少からざる影響を受け、十六世紀より十八世紀に掛け、欧州の歴史は、殆ど血を以て蔽はれ、白昼略奪の流行せる時、カント、モンテスキューの徒が人道を唱導したる結果、頓に自由思想の勃興を促し、貿易の発達に資する所多かりき、然るに一方には、之を防圧せんと企つるの徒出で、暴力を以て支配すべしと唱ふるの論、勢を得るに至り、反つて窮屈なる世の中とはなれり」と説き、次で独逸の貿易政策を論じ「商工業の発達は、寧ろ殖民地を等閑視するの傾向を生じたるに、今日に於ては全く之に反し、種々手段を講じて殖民地との連鎖を謀り、税率を低減してまで、殖民地貿易を奨励するに至りぬ」とて列国の殖民地経営に論及し「かくの如く、南米、アフリカ、支那皆彼等の争奪する所となるや、辛うじて独逸は、自由思想の夢より醒めて海外に発展するに至れり、然れども之れ過去の歴史のみ、少くとも今日の問題は支那に存すと謂はざるべからず」と喝破して「欧州の学者は言へり、殖民は国族に従ふと、然も国族は宣教師に伴ふを知らずや、フイジアイランド、安南、膠州湾の領有の如き其の好適例なるべし、蓋し布教は殖民の前提にして、国民同化の如何に影響の大なるかは、諸君の知る所也」とて独露のポーランドに対する政策を詳説し進んで「而して今や、列国虎視耽々、支那に向つて発展せんと意を須ひつゝあり、況んや吾国民にして支那に殖民をなすの急務なること、余の駄弁を要せざる所、欧州人が南米又はアフリカに向ひしが如く、吾が国民が広袤沃野の支那に向つて殖民を行ひ、工業に農業に、活動する所有らむか、将来吾が貿易の発展期して埃つべき也」と論を結びて、支那移住者に徴兵猶予の特典を与ふべきを説き「之を以て愛国心の欠如せるものと言うは、愚も亦甚し」と愛嬌一番、降壇せられたり。

次は

亜米利加に於ける日本学生 総領事 内田定槌君

「諸君の知る如く桑港に於て、日本学童放逐の事あり、之を以て真に日本人に対する米国の排斥運動の如くに謂うもの有るは、畢竟桑港を以て全米国と見做すの誤謬より来るもの也、由来日本労働者排斥の手段に訴へたり、之れ実に白人労働者の敗北を証するものに非ずや」とて排斥運動の真相を明かにし「一般の米人は寧ろ日本人を歓迎する方にして、スタンフォード大学の如き、殊にエール大学の如きは無試験にて日本人の入学を許しつゝあり。日本学生は渡航費のみを携へて渡米するもの多く、初め学僕、又は料理人となるを常とす、世人は容易に貯金し得るやうに考ゆれども、決して然らず、又朱に交れば赤くなり易く、次第に所謂下男根性に変じて、偶々大学に入りても台所の隅にて覚えたる言葉と、講堂の講義とは異り、言葉を解し得ざるが為めに、遂に再び学僕又は料理人となり、日本に至りて正直に学を修めむには、立派に一人前の人間となり得るものを、異郷に在りて反つて不幸に陥るもの少からず」と学資無くして渡米するの不得策なるを説き、続いて「限有る貿易に、限無き人が従事せんとするは、困難なる事なるが故に、若し米人を相手にすれば、人の為さゞる業に就くべく、例へば絹物屋、八百屋を開くも可也、始めは九尺間口の家を建つるとも、次第に大仕掛の取引をなすに至るべし。日本人が労働に就て、勝利を占めたるが如く、商業に於ても、大に米人と競争すべし、堀越君の如き実に其の成功者の一人也」と傍の堀越氏を顧みて、破顔一笑し「若し日本人が旅順を攻め、奉天を陥れたるが如き勇気を以て、商業に向はゞ、何すれぞ米人の後に瞠若ならんや」と結論して壇を降られたり。(中村生) (同誌明治三十九年十二月発行第一四二号 五五―五六頁)

 明治四十年

○二月二十六日(土) 午前十一時より、大講堂に於て商科学生の為め次の科外講義を開けり。

北清商業上に於ける天津の地位 東京建物会社天津支店支配人 小林林蔵

(同誌明治四十年四月発行第一四六号 五一頁)

○五月二十七日 午後一時高等予科教室に於て、同科商科第一期生の為め次の科外講義ありたり。

商人の敏捷 講師 今井友次郎 (同誌明治四十年七月発行第一四九号 五〇頁)

 明治四十一年

○十一月十四日 午後一時大講堂に於て次の二講師出席し科外講義を開けり。

独逸の高等商業教育 ドクトル・オブフィロソフィー 服部文四郎

米国人勤勉の理由 ドクトル・オブフィロソフィー 伊藤重治郎 (同誌明治四十一年十二月発行第一六六号 五五頁)

 明治四十二年

○米国ハーマン・ドック氏新発明瓦斯爆発器の講演 二月二日午後二時大講堂に於て瓦斯爆発器の説明を下さん為めハーマン・ドック社副社長タムソン氏は松木文条氏の通訳を以て精細なる講演を為せり。高田学長先づ同氏を紹介したる後同氏は其発明者たるハーマン・ドック氏が該器発明の動機より説き起し具さに試験を重ね終に完全なる本器を発明するに至りたる歴史を述べ、次に器材の構造に移り専門的説明を平易に解説せんと試み其動力、発光力の巨大なることを了解せしめたり。

当日は本校商科学生及高等工業学校機械科学生六十名並に帝大工科教諭新聞記者等の聴講ありたり。

序に記す 科学的説明に於て微妙なる数学、算式、動律等々を平易に理解せしめんとするは甚だ難事に属す之が為め本器の実験は大隈伯庭園の坤隅小丘の下に開かれたり数日来準備整頓を急ぎつつありし該器の据付終たるを以て朝野の名士を伯庭に招待し二月九日黄昏より右の実験に着手せり。伯爵門内両側の植込より全庭の樹枕築山の周辺はイルミネーションの光華燦然又爛然として万点の星宿、銀河の池滝に懸れるの観あり。皆是れ該器一基の発電力より出つ。己にして丘上の探海燈は瞳として巨光を吐き左転又右転照射を受くる所白昼の如し。唯遺憾なりしは該燈の形小なりし為其発電力の全量を示す能はざりしことこれなり。此日集まれる重なる人々次の如し。

岩崎久弥、森村市左衛門令息、荘田平五郎、渋沢栄一、鍋島侯爵並に夫人、鍋島直映並に夫人、近藤廉平、箕浦勝人、山崎鶴之助(海軍機関少将)、高松豊吉、下条海軍少将、砲工学校長、外 陸海武官紳縉約五百名。

(同誌明治四十二年三月発行第一六九号 八頁)

 明治四十四年

○十一月六日午後二時より大講堂に於て商科学生の為め田村新吉氏の「真の実業家」と題する有益にして且つ趣味ある講演ありたり。 (同誌明治四十四年十二月発行第二〇二号 五頁)

 明治四十五年

○二月七日午後三時半より大講堂に於いて商科学生の為に

一、クリーブラン号の世界観光談に就いて 教授 藤山治一

○二月十五日午後三時より大講堂に於いて政、商科学生の為に

一、清国革命党の人物 前本大学講師、外交時報清国特派員 原口新吉

(同誌明治四十五年三月発行第二〇五号 二頁)

○四月十三日午後一時より大講堂に於いて商科学生の為めに

一、我が海外貿易の将来 農商務省書記官 山脇春樹

一、火災保険事業に就いて 明治保険会社支配人 原錦吉

(同誌明治四十五年五月発行第二〇七号 六頁)

c 運動会

 運動会では各科別に色分けをし、商科の色は紫であった。また声援歌を歌って科別対抗試合の応援を行った。歌詞は学生の作で、当時の有名な歌「勇敢なる水兵」のメロディーに合せて歌われた。

明治三十八年商科声援歌

西水 作

茜の雲に先んづる

自然の栄を暁に

その誉ある曙の色

争覇の巷に今立てる

光の化神、我同伴者の

韋駄天おろか烈風も

自然の理 そがまゝに

今日をときめく優勝旗

かの紫の空を見よ

春の驕りと仰がる

希望の色を身にうけて

吾会の選手 あゝ偉なり

一度足を揚ぐるとき

唯後りへにぞ遥なる

紫光天地にあまねくて

商神守護して立ちませり

明治三十九年商科応援歌

西水 作

草は緑に萌ゆるとも

など犯す可き曙の

紫光一度漲りて

水陸未だ敗れざる

遮英我選手よ

示すは今ぞ優勝旗の

天地元よりわが幸ぞ

水陸永久に破れずと

花は紅白に乱るゝも

わが染めなせる春の幸

栄冠の春占めてより

名誉の史は我にあり

静かに秘めし信念を

燦たる光放て今

人の和玆に鯨波の声

不滅の史に証せよ

明治四十年商科応援歌

久保田俊 作

(一)

見よ暁の東天を 五彩たなびく其の中に

魁するは我旗の かの紫の光なり

(二)

その魁のいろをもて 春を飾れる我選手の

一度立たばたれか又 覇者の冠をささげざる

(三)

紫光一度空をかけ 光栄ある捷を占めてけり

水陸かつて破れざる 名誉の史は我にあり

(四)

歓呼はすでに天に充ち 輝く史は永久に

勝利の神と仰がれて 又もかゝげむ優勝旗

明治四十一年商科声援歌

東明 作

見よ紫の旗なびく

我等の前に敵もなう

夫れ起つところ天つ日の

光は空に渦巻けり

選手は立てり紫の

花ふる中の雄姿をば

仰げよ翼砂を捲き

勝は我等のたなごころ

歓呼はすでに天に充ち

はやも勝利は色めきて

早稲田が焦がす永久の

光輝く優勝旗

 明治四十年十一月十七日(日曜)午前十時より隅田川で第五回端艇競漕小会を開催した。その記事が『早稲田学報』第一五五号(明治四十一年一月発行)に載っているので紹介しておこう。

此の日は生憎朝から曇つて居て、今にも雨が降り出しそうなので、委員の心痛は一通りではない、若し出来るならば、長い棒でも持つて、下から此の襤褸綿を撒き散らした様な雨雪を搔き分けて、其処から暖い太陽の光線を漏らせてやりたかつたのである。

時計の移るに従い、出漕者は空を懸念しつゝも、追々と集つて来たので、玆に紫の大幕を引上げ、競漕を開始した。第一回は赤の勝、白を抜く事一艇身、第二回は白の勝、紫は第二着と数えてる中に、今迄考えてた雲は、風に誘われて、終にポツリポツリと雨を降らし、間もなくざつと一降りしたが、須臾にして歇んだ。丁度、親父から怒られた子供が、悲しさに耐えずして啜泣し、果てはわつと声上げて涙を流したように。

然しながら午後からは全く歇んで雲切れもし、再び降りそうにも見えなかつたので競漕を続け、混合レース五回を重ねた。次いで、政法文科混合来賓競漕を済し、最後に、商科選手競漕を行つた。結局半艇身の差を以て白の勝に帰した。此の選手競漕は、最初対級競漕にする筈であったが、人員の不足等より、斯くはミックスにしたのである。

斯くして競漕会は円満に、而も和気藹々たる中に閉会する事が出来たのは、何時もながら委員の労に帰せざるを得ない。回顧すれば、商科紫会の競漕会は、回を重ねる事爰に五回、而も毎秋の小会は、祝捷レースならざるはなく、只昨秋分科選手競漕を無勝負に終らせたるを以て、一の例外の存するのみ!

(一〇七頁)

d 見学会

 商科では教員引率の下に、工場などの見学を行って社会の実情について学び、正課の授業の理解に役立てた。

 明治四十五年に行われた見学会に関する『早稲田学報』の記事を引用しておこう。

交通研究会員の見学(石川島造船所と肥料商鈴鹿商店)

伊藤教授指導の下にある交通研究会は毎月一回会合し、会員研究の結果を報告し討議批評し来れるが、二月十日に伊藤教授引率の下に会員及び会員以外の有志者を加へ三十余名石川島造船所を参観せり。同所製作課長米国工学士泉氏は懇切に案内の労を採られ工程の順序により各部を縦覧せしめられたり。一行は之により鉄工業の一班、機械工場の組織、造船の実況、乾船渠の有様、職工生活の実状等に関する知識を得啓発する所少なからず、帰途東都肥料商中最も進歩的にして、斯業に関する遠大精確の知識を以て許さるゝ鈴鹿保家氏の商店を訪い、配合肥料調製の実況、貯蔵荷造積出等の実務の参観を申入れしに、快よく諾せられ叮寧に是等を示されたるのみならず、学生一同を商店階上に案内し、本邦輸入肥料の現状より将来に関し一場の講演を為し、且つ学生に対し訓誡を加え、終て銘々に肥料案内の冊子を配付し、且つ叮重なる茶菓の饗応を与えられたるが、鈴鹿氏の講演は手慣れたる演題にて大に学生に新知識を与えたるが、殊に同氏が赤手より起りて目のあたり宏壮なる折衷式の商店盛大なる商業の成功を事実的に見たる為め、学生は一同独立経営に非ざれば駄目なりと深く感じたるもの多かりき。これは当日意外の教訓にして、深く鈴鹿主人の好意を謝す。

郵便貯金局の参観

一月二十七日午後一時本大学商科三年級学生一同は早稲田実業学校四年級学生八十名と共に郵便貯金局を参観せり。一同到着するを見計い同局人事課長より全国に亙る貯金局支所等の配置帳簿形式等其他一般に関する説明あり。それより一同は各五十名計の七組に分れ、一々局員の案内により各部を参観したるが、組織の複雑なるにも拘らず執務の甚だ整頓せる全く驚くの外なく全局十三分課と別に二、三の特殊分課を通じて参観し了る迄には優に一時間を要したり。局員の過半は女子にして主として貯金受払票の整理計算に従事す。而して同課の統計の示す処に拠れば我邦現在貯金預人員千百万人にして基金高約二億万円なり。之を世界各国の状態に比すれば、人員に於ては第二位にあれども金額に於ては辛うじて第七位にあるなり。更に又国内職業別に依りて観るに農業者は貯金預人員に於ても亦その金高に於ても第一に位し、学校生徒は人員に於て商業者は金高に於て第二位に在り。

各分課の参観了つて一同の為め特に計算競技会を催せり。男子二人女子十八人都合二十人にて独算誦算暗算という順序に技を競う。而して女子の常に優勢なるには只管吾人の感興を喚び賞賛の叫びを禁ずる能はざりき。

(四月発行第二〇六号 二二―二三頁)

e サークル活動

 この他課外活動としていわゆるサークルの活動がある。明治末のサークル(当時学生研究会と呼ばれていた)で、商科学生に関係の深いものとしては次のようなものをあげることができる。

 商科大会(これについては既に述べた)、早稲田雄弁会、早稲田経済学会、英語会、独逸語会、仏蘭西語会、その他宗教・文化関係の諸学会がある。これらは「正科以外の研学に資し且師弟間の交誼を親密ならしむるを以て目的」とした(明治四十五年度「早稲田大学第二十九回報告」『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号 二六―二七頁所収)。

 これらの学生研究会の活動のうち、明治四十三年度における経済学会の活動に関する記事を次に掲げておこう。

本学年度に於ける早稲田経済学会は旧臘十二月四日第一回大会を開き、服部講師、塩沢博士、天野博士並に大隈総長の講演あり、其後毎月例会を開き時事に適切なる問題を捉へて学理的研究会を開き来りしが、五月七日経済学会本学年に於ける最終の大会を予科第十六教室に於て開会したり、当日は本大学より塩沢、服部、永井の三教授出席せられ、来賓には高等商業学校講師福田博士、農科大学教授矢作博士あり、学生出席者百余名にして定刻一時塩沢博士開会の辞を述べて、我国にもアカデミック・アトモスフェアを作るの必要を主張せられ、博士の紹介にて福田博士は「剰余価値と労働全収権の理論」なる演題を掲げて学者的態度を以て深遠なる学理を明瞭に解説して二時間余に亙る講演を試みられ、矢作博士は農学上の代表機関に就て例を独逸最近の実情に取り之れ又親切なる講演を試みられ、最後に服部講師登壇、来賓二博士に謝辞を述べ閉会の辞ありて散会、それより有志茶話会あり七時三十分無事終了したり、出席学生百余名に達し最も真摯なる態度を以て傾聴したるは近来稀に見る会合なりき。 (同誌明治四十四年六月発行第一九六号 一七頁)

 以上の記述にみられる通り、学生研究会の招請に応じて当時既に著名な学者であった東京高商の福田徳三博士や東京帝国大学農科大学の矢作栄蔵教授のような人々が学生に講演を行い、大学からも塩沢昌貞教授や服部文四郎博士が出席して礼を尽したことが知られ、学生に有益な知的刺戟を与えたであろうことが察せられる。

8 早稲田大学商学士の誕生

a 卒業試験と優等卒業生

 明治三十八年七月大学部では第一回の得業生(卒業生)を出した。これに伴い、「これら大学部得業生には規定に随ひ学士号を称ふるを得せしむ。即ち政治経済学科は早稲田大学政学士、法学科は同法学士、文学科は同文学士と称し二年後に卒業すべき商科得業生は早稲田大学商学士と称せしむ」(『第二十三回自明治三十七年九月至明治三十八年八月早稲田大学報告』一頁)ることとなった。

 このため「大学部卒業試験は口述及筆記の二種に分ち口述試験は三年間学修せる範囲より出題し講師の立会試問を行ひ、筆記試験は第三学年級に於て学得したる部分より担任講師出題するの制」(同『報告』二頁)を採り、卒業の条件を厳しくしたのであった。

 卒業試験は右に述べられているように、口述および筆記の二種類の試験が行われたが、このうち筆記試験については、次のような試験問題が出題されていた。

明治四十一年の試験問題

○商工政策

(一)農業国にして工業を振興する時は、工業国は遂に其工業品を輸出すること能はざるに至るべきや。

(二)我国の石油及びセル地の輸入税は其内国市価に如何なる影響を及ぼすべきや。

(三)工場工業は常に家内工業に比し経済的なりや。

○商法

(一)海上運送に於いて運送品の損失は運送賃支払義務に如何なる影響ありや。

(二)保険の目的たる家屋を他人に譲渡したる時は保険契約は消滅するや。

(三)既定の満期日を変更して手形の引受を為したる時は、其引受は有効なりや。

○取引

(一)取引所の内国物価に及ぼす影響を問ふ。

(二)我国定期取引の特質を略論せよ。

○保険

(一)保険と其類似行為との区別。

(二)海上保険塡補の種類を説明せよ。

(三)一部保険の場合に於ける支払保険金の算定方法を問ふ。

○財政

(一)輓近各国に於ける歳出増加の原因如何。

(二)次の術語を説明せよ。

課税物体。税源。転嫁及帰着。

(三)営業税の課税方法を説明せよ。 (『早稲田学報』明治四十一年七月発行第一六一号 二九―三〇頁)

明治四十二年の試験

○保険法 粟津講師出題

(一) 保険事業に必要なる科学的智識を挙げよ。

(二)英、米、独の生命保険事業の特色如何。

○財政 田中講師出題

(一)税源とは何ぞや。

(二)地租を賦課するに当り土地の売買価格を標準とするの可否。

(三)公債の経済上に及ぼす影響。

○商法 柳川講師

(一)仲立と取次との差異を問ふ。

(二)額面一、〇〇〇円満期日明治四十二年五月三十一日の為替手形に付支払人が「同年六月十五日に於て内金五〇〇円を支払ふべし」との趣旨の引受を為したるときは其引受け有効なりや。

○取引 河津講師

(一)株式相場の高低を生ずる原因を詳述せよ。

(二)我国取引制に於ける仲買人の位置を論評せよ。

(三)次の文字の意義を唱ふ

⑴格付 ⑵追証拠金 ⑶板寄 ⑷預金 (同誌明治四十二年七月発行第一七三号 一三頁)

 また各科卒業生(得業生)のうち、首席で卒業した者に対して、総長夫人より賞品が授与された。

 明治四十年から同四十二年までの首席卒業生は次のようである。

明治四十年 大学部商科(商業部) 斎藤朋之丞

明治四十一年 大学部商科(商業部) 浅川栄次郎

同 (外交部) 宮島綱男

明治四十二年 大学部商科 原安三郎

 なお斎藤朋之丞は卒業に当って賞品を授与されるとともに、優等生に与えられる特待研究生の栄誉を受け、研究科で更に学ぶこととなった。

 これらの栄誉に輝く人々のうち、宮島綱男・斎藤朋之丞(明治四十一年に商業通論担当の講師に嘱任されたが、のちに辞任し、名古屋商工会議所の職務に就任した)・浅川栄次郎の各氏はのちに商科の教員に嘱任され、草創期商科の発展に寄与したのであった。

b 商科第一回卒業式と卒業生

 明治四十年七月五日午後三時半より大講堂において第二十四回得業(=卒業)証書授与式が挙行された。

 この年に初めて大学部商科第一回の卒業生二百三十五名(内二百二十三名が商業部、十二名が外交部)を出した。

 これらの卒業生は、明治三十六年四月約八百名の入学者が高等予科商科に入学し、一年半の修学ののち、三十七年九月約七百名が大学部商科に進学したのである。従って高等予科一年半、大学部三年計四ヵ年半の課程において、入学者の約三割が卒業したに過ぎないことになる。これは四月中は中学卒業には無試験で高等予科への入学を許すこと(それ以外の場合は入試を行う)、しかし入学後の進級はかなり厳格な試験の成績の評価によって行われたこと、また既述のように修学費用の経済的負担が過重であったこと、あるいは「正当ノ理由ナクシテ一カ月以上欠席シタル者ハ退学ヲ命」ぜられること(「早稲田大学規則」第八章 教場規則)などによるものと考えられる。実際高田学長の言葉にも示されているように、「諸官立高等学校にありては、三年の予備教育を受け、而して専門に入るを、本校に於ては僅々一カ年半の短期に於て其の課程を修了し、直に専門に入ることとす。是れ頗る至難の業」であり、また「随分厳重なる試験を行」い、「各学部共それが為に本年は此式場に列することの出来ない不幸を見たものも居ります。殊に大学部の如きは筆記試験の外に、口述試験も行いまして、尚ほ卒業論文も課しましたから、大分苦しめました」ということであった。

 なお、この年度の大学部卒業生の総代は商科から出ており、それは斉藤朋之丞であった。同氏は入学以来成績優秀で特待生に選ばれ、また今回首席で卒業し、総長夫人より賞品を授与され、卒業と同時に特待研究生に選ばれ、明治四十一年から講師に嘱任され商業通論を担当することになった。

 卒業式の模様を『早稲田学報』第一五〇号(明治四十年八月発行)、明治四十年の記述から引用すると次のようである。

当日は朝来晴れ渡りて一点の雲なく、附近の町家は国旗を掲げて祝意を表せり。午後三時頃より来賓及父兄保証人等の来会するもの引き切らず、定刻に至り、奏楽と共に式を初め、高田学長より得業生八百十八名に得業証書を授与し、次に特待研究生及び各科特待生二十五名に特待生証書を授与し、又得業生中優等生十三名に大隈伯爵夫人の賞品を授与し、終りて

(三七頁)

 高田学長の学事報告と訓示があり、次いで大隈総長からも訓示があった。この後各学部得業生総代の答辞と校友総代植松考照氏の祝詞があり「以上終るや田中幹事散会の旨を告げ来賓及得業生一同は大隈総長邸園に於て立食の饗応あり父兄保証人には別席に於て茶菓を供」(四四頁)せられた。

 これより先、第一回卒業生は恩師に対する謝恩会を開いた。

本年第一回として卒業する商科三年学生は、試験最終日の翌六月四日午後五時を以て、牛込吉熊楼に於て謝恩懇親会を催せり。定刻に至り、上遠野幹事起ちて挨拶をなし、次でマックレガー、平沼、高杉、天野諸講師の有益なる演説あり、後宴に移り、十一時頃散会せり (六三頁)

と報じられている。

 第一回卒業生二百三十五名のうち、兵役に服して入隊した者を除き『早稲田学報』に記載されている就職先は次のような方面に亘っていた。

(一)金融機関

三井銀行 一名 三菱合資会社銀行部 一名 日本興業銀行 一名

明治銀行(名古屋) 三名 山口銀行(のちの三和銀行) 三名 住友銀行 五名

横浜正金銀行 二名 第一銀行 一名 計 十七名

(二)商事・保険会社

小林商会 一名 三菱合資会社 一名 明治屋 一名

高田商会 三名 高島屋 四名 テーラ商会(横浜) 一名

八木商店 二名 アップカー商会(横浜) 一名 横浜火災海上運送信用保険 一名

高島商店 一名 日本棉花 二名

三菱合資倉庫部 一名 三井物産 三名 計 二十二名

(三)製造・運輸・建設関係会社

日本石油 一名 富士紡績 一名 日本郵船 七名

古河鉱業 四名 藤田組 二名 大阪商船 五名

内国通運 一名 東京モスリン紡績 三名 三菱造船所(長崎) 一名

計 二十五名

(六五―六六頁)

 この他商事研究や実業に従事するため渡米した者四名、新聞記者、商業学校の教員になった者各一名が記されている。

 これによってみると、当時は都市の全国的に著名な企業に就職する者は卒業生の約三割程度で、他は出身地に戻って自家経営などに従事する者が多かったのかもしれない。先述のように、地方から東京へ出て私大で学ぶには多大の費用を要したので、地方出身者の出自は地主や地方的に有力な商・工業者の子弟が多かったと考えられ、彼等は大学卒業後地方に戻って家業を継ぐものも多かったであろうと推測されるのである。

c 商科校友会の開催

 かくして学窓を巣立った卒業生は各地に散じたが、その地において校友会を結成し、同窓のきずなを確かめることになった。その様子を『早稲田学報』記事に見ておこう。

○明治四十年十二月八日 午後三時より大阪市東区浪花橋畔浪花軒に参会する者左記十八名なりき

木下清二郎、安西蠖(以上日本綿花)

岩永祝三、那須正男、寺田英三、山田芳三郎、高橋鉦吾(以上住友銀行)

池田省三(藤田組)、土井和一(正金銀行)、遠藤麟太郎(大阪朝日新聞)、厚田忠雄(日本紡績)、須藤鋭一(三井物産)、高島盛(大阪電灯)以上大阪

中瀬精一、賀集弟男(日本郵船)、堀吉二郎(川崎造船所)、内田茂(大阪商船)、関谷芳太郎(東京倉庫)以上神戸

席定まるや那須氏の開会挨拶山田、寺田、中瀬諸氏の所感演説あり 酒間且談じ且興じて各自の焰当る可らず 更爛るを知ざりしが宴中那須氏の音頭にて大隈総長並早稲田大学商科の万歳 中瀬氏の音頭にて早稲田大学フレーを三唱して散会したり因に次回の幹事は寺田、高島、須藤、中瀬、内田の五氏と決定せり (S生報)

(明治四十一年一月発行第一五五号 九九頁)

○明治四十二年三月 早稲田大学商科出身在神同窓の懇親会を三月三日同地に開催したりしが公務上列席するを得ざりしもの三、四の外出席し席上母校第二期拡張基金寄贈の件を懇談したりしに満場一致振って寄贈する事に決定せり 尚ほ当日は母校の発展校勢普及等に関し各卓説雄弁を振ひ午後十時散会せり (明治四十二年四月発行第一七〇号 六頁)

○明治四十二年八月 八月十四日午後六時より、牛込吉熊に於て在京浜商科第二回卒業生同級会を開く、宮島綱男氏発起人を代表して開会の辞を述べ、田中穂積氏の骨相上より観たる人生運命論あり、終て宴に移り、各自一別以来の消息を伝えて談笑す、平沼淑郎氏席上一絶を賦して曰く

勝敗由来在勉不 天才何問劣兼優

諸生唯恐業成後 多与典書風馬牛

午後十時歓を尽くして散会せり (明治四十二年十月発行第一七五号 一六頁)

○明治四十三年六月二十六日 第三回横浜商科校友会 午後六時 神奈川神風楼に開催、会する者十七名、小栗半平氏開会の辞に次で田島好氏の真率なる挨拶、能島通明氏、石谷伝兵衛氏等所感を述べ、後茶話会に移り、淡茗を啜り、雑談数刻、感興湧くが如く尽くる処を知らず、次回の幹事を選び母校の万歳を高唱して十時散会。

(明治四十三年八月発行第一八六号 二一頁)

○明治四十四年四月二十四日 商科第一回同窓会 旗亭いけすに於て今回英国へ遊学せらるゝ伊知地純正君の送別を兼ね商科第一期卒業生の同窓会を開く。 (明治四十四年六月発行第一九六号 一五頁)

○同年十月七日 大阪紫会 午後六時より大阪紫会第四回例会を船場、丸水楼に開く。今春二月以来の事迚何れも期待の折柄なれば、新進気鋭なる商科の面々吾れ遅れじと馳せ集まるもの瞬く間に場に満つ 折しも十五夜の名月遥に東山より上りて吾人の前途を祝するに似たり 程なく土井幹事の開会の辞に亜ぎて新帰朝中なる寺田英三君の東洋漫遊談あり実地に苦心研究されし結果なれば聴者何れも多大の興味を以て之を迎う 酒宴に移りてより一座特に色づき校歌の合唱に旧会員を驚かすあり、歌舞に己れを忘るゝあり、Self Introductionに当り巧に己が商業を広告するあり、三々五々同窓相集りて古き学窓を語るもの面白かりし思出を偲ぶもの、神楽坂の月、目白の眺めを語るにも快心の気旺盛の勢自ら眉宇の間に表はれて痛快に耐へず、次会幹事の改選をなすに及び空いよ〱晴れて月愈清く紫会、母校、大隈伯の万歳を三唱し散会せしは十一時なりき。

(明治四十三年十二月発行第二〇二号 一四頁)

○明治四十五年二月十日 四十一年商科出身者会は二月十日午後五時より牛込神楽坂末吉亭に於て開かる。席上自今毎年春秋二回開催の事、及び次回幹事田村秀、柏木幹、高木弘、三氏を選任し、終て宴席に移り、酒間歓談縦横興の尽くるを知らざるの間に散会したり。 (明治四十五年四月発行第二〇六号 一四頁)

○四十年商科出身者会 長らく幹事として本会の為めに尽されたる上遠野孝君今回日本銀行名古屋支店に転任せらるることとなりたれば、五月十二日午後四時より芝浦いけすに於て盛大なる送別の宴を開きたり。

(明治四十五年六月発行第二〇八号 一八頁)

 以上に紹介してきたような出身年次別あるいは地域別の同窓会の他、会社別の職場稲門会が開かれた。例えば日本銀行に勤務の校友は明治三十五―六年頃から「有無会」という同窓会を組織していたし、また各保険会社に勤務する校友は「稲門保険会」を明治四十五年に組織し校友会活動を行った。

d 早稲田大学出身者の社会的評価

 明治四十年は早稲田大学創立二十五周年に当っており、『早稲田学報』ではその記念号を特集した。その中で古河鉱業の庶務課長であり弁護士の肩書きをもつ昆田文次郎氏が「実業界に於ける人材の要求」と題して実業界における早稲田出身者の活躍の様子を次のように記述している。

近時実業熱が旺盛になったので、天下の青年が蟻の甘きに集るが如く、我も我もと実業界に身を寄せるといふ傾向を生じて、在来は政治家とか、新聞記者とか、言論界の尤物を出していた早稲田の卒業生も今の所謂流行を追ふて、会社員とか、銀行員とか、商業実務家となって金もうけをしようとの希望者が多くなったようである。現に自分の従事している古川鉱業会社に這入って来る早稲田の卒業生が、此両三年来といふものは、甚だ多数を示すようになったのであるが、慨して好成績である。真面目で、勤勉で、仕事の整理がついて行くので、会社としては頗る満足を表しているのである。

早稲田の出身者として一番の特長は、品格の高尚な点であると世間で認めているようであるが、それは全く事実である。商業事務は熟練を要するのであるから、帳簿の整理と算盤玉の勘定が違はなければ、それで済むようなものゝ、学問と品格とを備へていなければ全体の統一が六ヶ敷、随って生命ある活動が出来ないのである。近来実業界の新傾向として高等教育を修めた事務員を歓迎することになったのは、全く此間の消息に着目したからである。鉱山事業の如きは技術的経営を要するので重に工学士とか、高等工業の卒業生を採用する訳だが、他の事務員に於てもデッチ小僧の成り上りのみでは実務的の才能は格別、学識品格の点に於て権衡は取れまい。又地方の商業学校若くは実業学校の課程を修めて来た事務員を指導し統率する上に於ても、高等普通の学問を修めた人才を登用せねばならぬのは目下の急務である。此点に於て早稲田大学の前途は極めて好望と言はねばならぬ。

唯聊か遺憾とするところは、高商や慶応義塾のそれに比して社会の信用の大ならざることである。それは別に非難攻撃を与ふべき欠点ありといふのではない、気位が高過ぎるとか、議論好きだとか、片っ苦しいとか云ふ至極漠然たる反感的非難の声に過ぎないので、寧ろこれ長所としての短所なれば、意に介するほどのこともないようなものゝ、そこは学校当事者たるものゝ反省を要する所で、生硬未熟の点あらば、勉めて之を補足し、学校の発達進歩をして円満健全の域に到達せしむるやう全力を挙げて貰いたいのである。 (明治四十年十一月発行第一五三号 二九―三〇頁)

e 校外教育

 明治十九年に創設された出版部は各学科の講義録を刊行して校外生の教育、すなわち、現在の通信教育に当った。商科では明治三十八年度(明治三十八年九月より同三十九年八月)より『早稲田商業講義』を創刊した。明治年間の校外生の数は次のようであった。

明治三十八年 五、三四三名 明治四十一年 八、六二六名 明治四十四年六、〇九四名

明治三十九年 八、〇七〇名 明治四十二年 七、九五一名 明治四十五年八、一〇二名

明治四十年 八、八〇九名  明治四十三年 五、四四九名 計 五八、四四四名

 明治期の商科の正規の卒業(=得業)生が千九百名余りであったのに対し、校外生はその三十倍以上という多数に上り、高等教育の普及に果した役割は大きいものがあったということができる。

9 横井時冬と早稲田大学商科

 商科創設の当初天野科長を助けて草創期の商科の発展のために尽力された横井時冬博士は、明治三十九年四月十九日に惜しまれつつ病のため逝去された。『早稲田学報』(五月発行第一三三号)はその訃報と追悼の記事を次のように掲げている。

本校講師文学博士横井時冬氏には病気の所薬石効なく遂に四月十九日牛込白銀町の自宅に於て逝去せり、氏は明治十九年東京専門学校法律科を卒業し、一度公証人試験に及第し、爾来商業教育の業に従い、日本商業発達の歴史を専攻し、日本商業史を著し、文学博士の学位を授けらる。曩に我早稲田大学商科を創設するに当り熱心業を輔け、今日の盛大を致せる君の力に負ふ所頗る大なり、悲哉君の病革り訃音に接す。然れども君が遺訓は永えに尽きず、君亦た以て瞑すべき欤、葬儀は二十二日午後一時自宅出棺谷中斉場に於て執行し、本校よりは高田学監本校を代表して会葬し次の弔詞を呈せられたり。

文学博士横井時冬君長逝ス悼惜何ゾ勝エン君勤勉ニシテ学ヲ好ミ夙ニ業ヲ早稲田ノ学苑ニ修メ後チ身ヲ教育著述ニ委ヌ 明治三十七年早稲田大学ニ商科ヲ開設スルニ及ビ又タ其教授ヲ担任シ令開盛誉校ノ内外ニ溢ル 然ルニ天君ニ才ヲ賦シテ年ヲ賦セズ今春端ナクニ監ノ犯ス所トナリ齢未ダ知命ニ達セズシテ不帰ノ客トナル洵ニ哀シムニ勝エタリ 思ウニ君ガ学界ニ致セル貢献ハ永エニ存スルヲ疑ハズト雖モ君ノ如キ適材ノ久シク斯界ノ為ニ尽ス能ハザリシハ真ニ一大恨事ト謂ウ可シ 今ヤ花落チ鵑哭スルノ時君ガ柩ヲ送リ感慨禁ジ難キモノアリ 玆ニ早稲田大学ヲ代表シ謹ンデ弔詞ヲ呈ス

明治三十九年四月二十二日

早稲田大学学監

法学博士 高田早苗

氏が関係せし諸学校の教職員、学生其他朝野の名士多数会葬したり。

(五四―五五頁)

三 商科より商学部へ

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1 商科大学設立の運動

 文部省編『学制百年史』(資料編・昭和四十七年)の年表によると、明治四十二年四月頃東京高等商業学校の商科大学への昇格運動が高揚していた頃、五月六日文部省は同校の専攻部(大学に相当)を廃止し、研究生の制度を置くことにした。このため五月十一日「東京高等商業学校生徒、商科大学設置問題に対する文部省の態度を不満として同盟退学を決議」(同上 七三頁)という記事がみえる。この同盟退学の動きは仲介者が調停して五月二十三日に決議を解いて解決したと出ている。この東京高商の願いにも拘らず、文部省は六月二十五日東京帝国大学法科大学に商業学科を置くことによって対応した。そして専攻部が復活したのは、明治四十五年三月になってである。この運動はこのような状況の中で展開したものである。

 次に明治四十二年四月東京高商同窓会より出された『商業大学に関する意見』の内容を紹介することにしたい。

 一、この運動は、現在の東京高商を廃止して商業大学を設立しようとするものではなく、東京高商の基礎の上に商業大学を併設し、高商は商業大学に付属させようとするものである。「商業大学の目的は商業界に於ける各種の企業を研究し経験の中より一定の原理、法則を発見し之を有為の青年に伝へて現今に於ける大規模且つ複雑なる世界的大企業を統轄経営するに足るべき智能を養成するにあり」(同上『意見』 二頁)

 二、天才と経験と僥倖によって産を成し、地位を得た実業家がたまたまあったからといって、商業に関する学問は学校において学ぶことができるものではないとするのは大変な誤りである。今日では実業界で成功する途は、「天才及び僥倖の力よりは寧ろ智識の力に俟つこと多きに至れるは当然の結果なり」(同上 四頁)。

 三、商業大学の設立に反対する議論の中に、商業に関する学問は、法科大学の政治および経済科の学科を除くと、「残る処は殆ど学として研究するの価値なし」(同上 四―五頁)とする者があるが、それは商業に関する研究が日進月歩で発展している現状を十分に理解していない結果である。経済科の科目の中には商科独自の科目と重複する企業、銀行、保険、交通等の講義が行われているが、それらは国民経済の観点からなされているもので、企業経営の観点から行われているものではない。更に商科独自の科目として経営学や会計学などの研究・教育が深く行われているので「商業学は学なりや否や」(同上 八頁)などという議論は空論に過ぎない。

 四、その他の反対論の中には、「今日主張せられつゝある商業大学の如き程度のものは未だ泰西諸国にも先例なきが故に之を設立せんとするは困難なり」(同上 八頁)という意見がある。これは一定の見識からする議論であるから、議論の余地がある。しかしそれも西欧の事例を知らないところからなされるものであって、事実は次のようである。

(アメリカ) ハーバード大学では明治四十一年ビジネス・スクールを新設し、M・B・A(マスター、イン、ビジネス、アドミニストレーション)を授与している。

(イギリス) バーミンガム大学商科は修業年限三年で、卒業試験に合格した者に商学士の称号を与え、大学であることに違いはない。ただケンブリッジやオックスフォードと異るのはラテン語やギリシャ語を必須としない点である。

(イタリー) ミラノ商業大学は修業年限四年で、卒業試験合格者に学士ローエラの称号を与えている。

(フランス) パリ商科大学も大学程度以上の教育機関である。

(ドイツ) ドイツの商業大学は、その性格上入学資格が一般の大学より広げられており、修業年限も短くなっているが、これによって商業大学が一般の大学より程度が低いというわけではない。

 このように欧米の商科大学の状況をみれば、「商業大学の設立が我国商業界に対して焦眉の急務なる所以」(同上 一二―一三頁)であることが解るであろう。

 そこで具体的な解決策を提案すると次のようになる。

 第一案 明治四十一年七月に帝国大学法科大学の中に設置された経済科に簿記その他二、三の科目を加えて、問題を解決しようとするものである。しかしこの案は、「吾人が主張し来れる商業大学の趣旨とは殆んど全然相異なる所の最も姑息なる方法たり」(同上 一三頁)とする。何故ならば「今や商業大学の教育方針は商業を中心とする専門的研究に依らざるべからずして所謂寄木細工的の教育は全然不適当なることを証明して余あ」(同上 一六頁)るからである。

 第二案 帝国大学の一分科として新たに商科を設立しようとするものである。しかしそれは実際問題として甚だ迂遠なる方法といわねばならない。何故ならば「即ち教授其他一般の設備を全然新に整ふるは長き時日と多くの経費とを徒費する」(同上 一七頁)だけであるからである。

 第三案 商業大学を帝国大学の外に単科大学として新設することである。この案は既に検討してきたところよりして、「職業的大学たる商業大学に就ては最も適切なる方法」(同上 一八頁)と考えられるからである。

 そして我々は言うまでもなく、この第三案の採用を望むのであるが、「万止むを得ずんば分科大学として一応之に甘んぜざるべからず、然れども夫が単独大学たると分科大学たるとに論なく其設立は必ずや我東京高等商業学校を以て之に充てざるべからず」(同上 一九頁)と主張するのである。

 この問題は明治三十三年東京高商の同窓会において、招かれて出席した渋沢栄一が初めて主張したものである。それより以前から東京高商は専攻部を置き、その卒業者に対して学士の称号を許すなど、高等商業教育機関として充実発展に努力してきたのである。その甲斐があって、「時勢の進歩と識者の同情は遂に天下の輿論を喚起し貴衆両院に於ても商科大学建議案を通過すること再三に及」(同上 二一頁)ぶ程になったのである。従って「商業大学問題は我校の問題にして其種を播ける吾人は当然其果実を得るの権利を有する」(同上 二一頁)のであって、もし文部省がこのことを考慮しないで、「吾人年来の主張と尽力とを無視し東京高等商業学校を度外して此問題を解決せんとするが如くんば天下何人か其没理に驚かさるものあらんや」(同上 二一―二二頁)と断言するのである。

 ところがこうした悲願も空しく、これに対する文部省の対応は、冒頭に述べたように、報復的とも思われるような措置を以て応えたのであった。

2 創立三十周年記念行事と商科展覧会

 明治天皇崩御による諒闇のため一年遅れた創立三十周年の記念式典は大正二年十月十七日に戸塚運動場(後の安部球場)において開催され、大隈総長より建学の本旨を定めた「早稲田大学教旨」が宣言された。またこの祝典の挙行に当って新たに校旗を定め、また教職員の式服が制定され教職員はこれを着用して式に臨んだ。

 次いで十月十八日より二十二日までの五日間に亘って、水・陸の大運動会、野球および庭球大会、英語会、音楽会、校外教育大講演会(市内六カ所)、功績者追悼会などの諸行事が行われ、更に各科主催の展覧会が挙行された。商科では広告に関する展覧会が開催された。

 明治四十四年頃の広告の媒体である新聞の東京における発行部数は、「報知」十五万、「国民」十三万、「東京朝日」十万、「東京日日」七万、「時事」七万であって、この五紙で五十二万部程度であった。そしてこれらの新聞社は明治三十九年における東京機械製作所による国産輪転機の生産開始による輪転機の普及によって発行部数の増大に対応することが可能になったのである。こうして日露戦争直後の一般紙の広告収入対販売収入の比率は四対六程度で、漸次広告収入の占める比率が増大の傾向にあった。

 日本電報通信社の広告統計によれば、大正二年の新聞紙における広告スペースの業種別順位は、化粧品(二一・二パーセント)、売薬(一九・一パーセント)、雑品(一七・六パーセント)、雑件(一一・三パーセント)、書籍(九・二パーセント)、会社(五・三パーセント)の順であった(内川芳美編『日本広告発達史』上、電通、昭和五十一年刊、九五、九八、一一〇頁)。

 その後広告の媒体は新聞以外に、雑誌、看板、ポスター、屋外広告(電柱・吊皮・楽隊・イルミネーション・気球・ショーウィンドウなど)に広がっていった(同上書 第Ⅱ期 第三章参照)。

 こうした状況の中で商科主催の広告展覧会が開かれたのである。

 大正二年十一月の『早稲田学報』第二二五号にその際の記事が載っているので次に紹介しよう。

広告展覧会 学問を実際に活用するといふ事は我が大学の教旨の一であるが、この商科の主催に掛った広告展覧会などは慥かにこの理想を実現したものであった。唯一時のお祭騒ぎ式の催しではなくて社会の進運に貢献したこと最も大なるものであったと言へやう。殊に此の催しは未だ世界に例のないことで、言はゞ早稲田大学の商科が新レコードを作ったのである。聞く所に依れば、この展覧会の為めに諸所に之に做った催しが起り、石川県立商業学校のそれには早稲田大学から材料を供給したといふ。兎に角凡ての意味に於いて商科の展覧会は大成功であった。

政治科や文科の展覧会を観て此処へ来ると、全く別世界の観がある。

先づ会場前に建てられたライオン歯磨本舗寄贈の黄菊で広告展覧会の文字の表はされた大門や幾十といふ彩旗が見る人の気持を一転させる。此処に来て博覧会の一部がデパートメント・ストーアに入ったやうな感じのしたのは吾々ばかりではあるまい。

殊に会場の内外に通じての排殊の妙、光彩陸離眼を眩ずるばかりの中に一脈の整然たる秩序があり、観客の眼を散逸させぬ周到な注意は全く学生の手際とは思はれなかった。

先づ第一室の実物応用広告は三年C組の催しで其の名の示す如く千種万別な商品、日用品を利用した広告の陳列であるが、その配置排列は真に巧妙を極めたものであった。天井には御園おしろい、白木屋、帝国鉱泉等の出品に掛(係)る二十余の瀟酒な岐阜提灯が点火され、天井の中央からは五色のモールが八方に曳き廻されて、それぞれの端が帝劇、大日本麦酒出品の扇子によって結ばれて居り、此の下に各商店の出品が目も彩に陳列されている。小西写真店の写真機を取付けた看板、神田ミモサ文房具店の焼絵、花王石鹼の三角硝子塔、伊藤胡蝶園の扇子、大日本麦酒会社の麦酒大瓶など美しいやら奇抜やらで眼を惹いたものである。

その隣りの第二室は新聞雑誌広告、二年C組の主宰である。世界各国の新聞雑誌(固より広告対照の為めに集めたのである)、欧米新聞の一頁乃至二頁大の広告、商店新聞広告の切抜、新聞に関する著書等手奇麗に排列されてある中に、日米新聞広告の比較、生方真一氏出品の「米国雑誌による広告の成功的なるもの」と題した雑誌類中、注意すべきものであったが、殊に明治五年発行美濃紙木版刷の東京日々新聞、明治初年発行郵便報知新聞第一号が今日のそれ等と比較対照して出されていたのには観る人何れも足を停めた様であった。就中最も巧な、然も興味ある出品は、報知新聞が、此度の三十年祝典記念号発行に関して使ったあらゆる材料、原稿、写真、広告の組入様、紙型版等を刷上まで順序を逐うて説明的に陳列し、尚編輯印刷の状を写真に撮って示したものであった。これなどは恐らく時節柄最も注意を蒐めたものであろう。

これから第三室へは階段を上る。中途の壁に伊藤胡蝶園出品の清忠画伯の肉筆画が掲げられていて、観る者を倦怠させない。第三室は主として呉服店の広告、精養軒出品の焼絵看板、明治屋のウィスキー看板等で、我野球団渡米の時の市中広告等は学生の喜びさうなものであった。

次に第四室はカタログ類で、三年A組の担当。燈台の火が大地を照す状を仕組むに悉く出品のカタログ類を以てしてあったのは美事な出品であった。三越、白木屋、帝国劇場、日本郵船、東洋汽船、帝国ホテル等の出品は中の逸品であるが、就中三越出品の欧米各国のデパートメント・ストーアのカタログ等は大に研究の価値あるものと思はれた。

その次の第五室は商科二年の広告文学。汎く徳川時代からの文学的価値や趣味を帯びた広告類を集めたもので、恐らく材料の価値から言ったら此の室が第一等であろう。殊に朝倉氏出品の数多き文久頃の興行物のビラ、明治初年和蘭陀芝居のビラ等中々珍らしいものであったが、紅葉や仮名垣魯文の執筆にかゝる待合、料理屋披露の広告等も得難い珍品であった。この他外国の広告書もあり、高島屋出品の雑誌表紙の屛風も変った趣向のものであった。

第六室は三年B組担当ポスター第二部として化粧品、売薬等の広告類を集めたものである。此の中では東洋汽船会社の大額、三越呉服店の外国製大絵ビラ、クラブ化粧水の美人絵ビラ等が代表的なものであった。之等内外の広告を比較し、日本のものだけでも前の徳川期から明治初年にかけての優暢な呑気な広告術と今日の強烈な刺激を目的とするそれ等とを比較して見る時は、如何に日本の文明が短日月の間に急速の進歩をしたかを思はずには居られない。

其他第七室二三年担当の海陸運広告(鉄道院出品)の中には外国旅行案内などが沢山陳列されていた。これも日本のそれと比べたら仲々興味あるものと思はれた。尚階上第十四教室では余興として活動写真があり、此処がまた連日満員の盛況であった。広告展覧会の成功は初めに述べた通りであるが、これによって吾々の特に深く感じたことは、斯うして内外の広告術を比較して見せられても、日本のものが決して侮るべきものではないといふことであった。尚委員諸君の尽力によりこの展覧会で蒐集し得た広告数は三千余に達したさうである。 (五一―五二頁)

 この各科主催による展覧会は大好評で、参観者の数は一日平均四万二千人に達したといわれるから現在行われている「早稲田祭」に比べて、遥かにこれを凌ぐ盛況であったと言っても過言ではないであろう。

3 早稲田大学広告研究会の創設と活動

 前述の展覧会の終了後、これに参加した学生・教員によって約三ヵ月間の準備過程を経て、大正三年一月十七日「早稲田大学広告研究会」が設立された。会長には商科長であった田中穂積、副会長には伊藤重治郎教授、顧問には平沼淑郎小林行昌の二教授が就任された。

 その目的は「広告界を正しく指導し、その赴く道を教へ、又一面に於て斯界に活躍すべき人材を養成する」ことであった。

 研究会活動の第一の分野は広告に関する学問的研究である。週一ないし四時間程度の講義が商科の教授などによって行われた。大正三年頃の科目としては、広告学原理、広告通論、広告史、広告心理学、原書講義が採り上げられた。こうした研究活動を通じて得られた成果は、研究発表会を通じて発表された。

 活動の第二の分野は研究成果の社会への普及であった。具体的には講演会や展覧会の開催である。その代表的なものは、大正六年八月十二日から十六日までの五日間に亘って開催された小樽での展覧会である。内外の広告資料を展示したところ、非常な好評を得、八千名の入場者があったという。

 第三には将来広告業界で活躍すべき人材の養成で、そのために業界の人々との懇談会、企業の見学、デパートなどでの実地研修などを行った。

 『早稲田学報』大正四年五月発行第二四三号には、「広告研究会消息」の記事が載っているので次にそれを紹介しておこう。

記念すべき本大学卅年祭に際して、開催せられたる我が広告展覧会は、本邦広告界に至大の刺激を与へ、之れを嚆矢として爾後三越、農商務省の三大広告展覧会が開かるゝに至ったが、該展覧会の承継者たる本会は大正三年一月を以て田中科長を会長とし伊藤、宮島両教授、其の他各教授の指導によりて専門的広告研究の目的を以て生れたのである。創立当時とて下村、久能木(庶務)、蜷川(会計)、命尾(外交)等其の他幹事の努力も思ひ遣られる。一月十七日正午より発会式を大講堂で開いた。当日会長田中博士は初めて斯かる特種研究会の起ったのは欣喜の至りであると述べ、次に和田垣博士の英仏に於いて目撃された優秀、奇抜なる広告の実例を趣味多き口調で話された。次に上野文学士は広告心理の実例に就て。堀内商学士は所感。其の他中尾先生及真野氏等の有益なる講話があった。

斯くて我研究会は成立し、次の週より中尾先生の『広告通論』、上野学士の『広告心理』、堀内商学士の『広告史』等の講義が一週一時間宛始まった。所が会員も溢るゝばかりの有様で三月迄続き、第一回講義を終り会員一同広告に対する一般的概念を与へられたのである。

次に本学年度の授業概況を述ぶれば、大正三年十月より十一月までは、毎週三時間の講義あり、科目は(一)広告心理学(上野文学士)(二)広告学原理(「実業界」主幹井関十二郎氏)(三)原書講義(伊藤教授)である。

上野学士の講義は、実に興味津々たるものがある。広告を学ばんと欲する者は、どうしても心理学から離れて立つ事が出来ぬ。此の意味に於て、学士の講義は本会教授科目中の骨子たるものであると云へやう。学士は実に我が国に於けるスコットであるやうに思はれる。

井関先生の講義は、広告は何処迄も技術的のものである。然かもサイエンスとしては未だ極めて幼稚なる域に在るものである。故に之を研究するに当っては、実地と密接な関係を保持して行かねばならぬと云ふので、材料も多く実地に現れたる広告を取って説明せらる。実地に経験のあらるゝ同氏の御言葉流石と伺はれる。

次に、伊藤教授は会員の為め、特に時間を割愛せられ、カルキンス、ホルデル共著モダーン・アドヴァータイジングを講義せらる。

大正四年二月から三月までは、毎週四時間の講義あり、科目前同様。但し伊藤教授に代って浅川教授講義せらる。総じて講義の進むに従ひ、益々佳境に入るを覚ゆ。尚ほ広告の実地見学として会員は報知新聞社を訪問し、広告が如何にして新聞紙上に現はれ来たるかを研究した。殊に新聞紙の発行部数は、広告者に取りて、尤も重要なる関係があるから其の統計をも得た。其他広告料金の割合等参考となるものが尠くなかった。

以上の外、会員親睦の目的を以て、数回茶話会を開き、ある時は三越呉服店広告部次長、松宮三郎氏を同席に招待し、同店の実際に行へる広告法に就き、詳細に渡って有益なる講演を聞く等、得る所が少くなかった。

以上は本会事業の概略なるが、斯くて吾人は広告に関する一般的知識を養ひ少くとも広告に関する趣味と批判とを向上せしむるを――得たと信ずる。一方現今の社会に於ては広告ほど応用の広いものはあるまい。殊に商業社会ではさうである。然るに動もすれば広告の威力を知らず、又之を閑却するものあるは、畢竟時世を知らざる者乎。今や広告せざる店舗、商品、及び人間は、凡て活社会から葬らるゝであろう。之れ時世であるから致方がない。既に広告が必要だとすれば、之を尤も経済的に、且つ有効に為さん事を研究するに至るは当然のことである。本会が時世の要求の為め、生まれた所以も亦此所にある。且つ、先進諸国の広告法をも研究し、深く広告に関する知識を養ひ、社会一般に向っても之が趣味を鼓吹するのは本会の目的である。玆に於てか本会は来るべき新学期開始と共に、再び授業を開始し、同時に一般有志者諸氏の入会を希望して止まないものである。(若水生報) (二三―二四頁)

 その後の広告研究会の消息が『早稲田学報』に載っているので、それらを順次紹介していこう。

 大正八年十一月発行の『早稲田学報』第二九七号には「近況」が報ぜられている。

盗難に遭ひし後の本会は頗る貧世帯に陥った。吾々の眼前には数限無い会務が横って居る。吾々は大活動を起して之を解決して行かねばならぬ。其第一歩として、本学期より新に本会講師として広告学を校友井関十二郎先生に、心理学を上野陽一先生にお願ひすることにし、又会則及び会員証等の大改正を行った。如上の他、見学としては十月十一日の報知社参観で、参会せるもの三十五名、同十八日は東京紙器株式会社の参観で、会するもの二十七名の多数に上った。尚又斯界名士の実際談や懇親会等が時々我々を喜ばせる。かくして本会は歩一歩光明に向って進みつつある。 (一二頁)

 大正九年一月発行の『早稲田学報』第二九九号には創立七週年の行事の記事が載っている。

創立七周年懇話会 前日の雨がやっと上った十一月十二日午後二時半から、江戸川カフェーパウリスタで創立七周年記念旁々会員の懇話会を開いた。幹事の報告を兼ねての開会の辞があって愈々懇談に移る。極東運輸社長で且心理学界の名士として知られている上野陽一氏が今日は打寛いでのお話『噂によりますと慶応にても広告研究会が設立されるさうであります。早大広告研究会は日本で最初に立てられたものですが、夫が新しく出来したものに圧倒されるといふことは。甚だ面目ないことでありますからお互に奮励努力して此の種の会の中で我会を最も偉大のものたらしめたいのであります』とのお話。終って本大学講義録に嘗て執筆せられた現三越呉服店広告部主任松宮三郎氏、白木屋呉服店大久保若雨氏、本会創立当時の幹事にして現化粧品問屋三原商店を経営せる命尾寿次氏のお話があり、それより広告研究会独特の自己紹介が一巡して終ると菓子の饗応があって、懇談の何時尽るかを知らなかったが、契約の時間が来たので校歌を高唱し本会の前途を祝して散会とした。

来賓としての小林先生、北沢先生及井関先生の御欠席は遺憾であった。出席会員は三十三名、中々の盛会であった。(一一、一四記)▼師走の声聞く去る三日、今年最終の講義を公開して以て我会の主旨を宣伝した。講師は上野・松宮両氏。(一二、四記) (一九頁)

 大正九年二月発行の『早稲田学報』第三〇〇号には会報が掲載されている。

「△旧幹事予餞会 本会の隆盛期から今日の中興期まで、本会の為め尽力せられた旧幹事諸兄が今春卒業せらるるに付て、過去の労を謝し併せて将来の助力を願はんと、会員一同去る三月十日万世橋ミカドで予餞会を挙行した。席上本会を思ふのは情厚き旧幹事諸兄には卒業の記念にとて連名で本会に寄附金を恵与せられた。依って有難受納して早速本会維持費に加へた。本年卒業の旧幹事諸兄は左の如くである。

野田大造君、佐山芳雄君、松崎兼松君、渡辺光司君

△心理学の実験 追々活動を盛んにして来た本会は、広告研究の根本となる心理学の実験を、今学期には恩賜館内の心理実験室で数回行った。指導は斯界の名士上野陽一氏であって、会員一同は氏に就いて深く研究した。

△石川島造船所見学 例によって二月七日此造船所を訪ふた。当日は八千噸の駆逐艦及び五千噸の商船が船台に置かれていた。△三越別館見学 二月十四日丸の内に訪ふた。労資協調、店員待遇といふやうな諸種の問題の喧しい時、デパートメントストーアのオーソリテーたる此の店員寄宿待遇法を見たので、大に得る所があった。

△新大学令に依って、本大学の選択課目として『広告』の一課が置かれたのを本会は喜ぶのである。本会は将来此課と共同して努力したいと思ふのである。(九・二・廿七、菊水) (一九頁)

 大正九年六月発行の『早稲田学報』第三〇四号には次のような近況が報ぜられている。

昨秋本会の一大改革を行て以来、我が研究会は益〻発展して目覚しき活動を続けて居る。去る三月より四月に亘る試験休み中、世人が花よ酒よと騒いでいる時、我が研究会では本会のプロパガンダを計画した。渡辺・岩橋の両幹事は東奔西走パンフレットの発行に努力した結果、数十頁に渉れる小冊子、数千冊の発行を見た大学附近の各商店は本会の企を聞いて広告を依頼して来たものも多く、洋服屋、文房具店さてはカフェー迄も……といふ有様であった。我が会は快く之を引受けて小冊子に載せたが、勿論図案も文案も皆本会の考案になった者である。効果は目に見えて広告を依頼した各商店は大喜び。本会も亦プロパガンダの効があって新入会員八十名の多きに達した。

本会の発展は此で已むことはなく毎週斯界の大家に就て指導を仰いで居る。

広告心理学 月曜日午後二―三時 文学士上野陽一。広告原理と其応用 火曜日午後二―三時 校友実業界主幹井関十二郎。実践広告 水曜日午後二―三時 校友三越広告部主任松宮三郎。以上の外実地研究の為め市内の有名な商品の窓飾及其の他一般広告に関しての相談相手ともなり、又実際に商店の依頼に依り窓飾及一般広告もしておる。又時々所々の見学にも行っている。

四月になってからは、水道局、電話交換局に行ったが、尚印刷局、王子製紙工場、ライオンハミガキ等に行く計画である。如上の有様で会員は極めて親しく互に助けつ助けられつ研究に励んでおる。

五月三十日には鎌倉江の島に懇親遠足を試みたが、来会者二十名、始終先づ眼に付くは広告物。此れに対して忌憚なき批評や議論を交へつゝ愉快に有益に一巡して帰った。(山田記) (一七頁)

 引き続き大正九年十一月発行の『早稲田学報』第三〇九号には、その後の半年間の活動状況を伝えている。

暫く我会は御無沙汰していた。其は内部的に画策する所があって、此に全力を集中して発表を止めたのであった。が、既に其は実行期に進んだので、玆にこれを報告する次第である。

一、日本電報通信社見学

本学期第一回の見学であって、我々には直接関係のある重要なる機関である。我々が先づ広告せんとするに当り、其の代理機関として無くてならぬ物は此の社である。然るに此社の如何なるものかを知らない者が多い。此所で本社長光永氏は熱心に懇切に説明の労をとられた。日本否恐らく世界諸新聞の品質は一目瞭然である。終に茶菓の饗応を受けた事を謝する。

二、半日遠足会

土曜の後半日、少し曇天であったけれども、数日前よりの計画止み難く、京王電車にて玉川原公園に向った。初秋風光は川原堤に豊であった。一茶亭に晩餐を喫して歓談を恣にし、帰路半月を仰ぎ、お祭騒などを見つつ帰へる。本日は本会講師井関先生も御同行ありたり。会員丁度一ダース。

三、東京日日新聞社見学

先の通信社に関聯して新聞社を見た。編輯より出版に至るまで明細に説明を受け、帰るさいに同社の絵葉書一組頂戴した。此も広告の一手段なのであろう。先年報知新聞社を見学した時の様に説明の明瞭でなかったのを憾む。

四、相談会

午後六時浅草大正俱楽部に於て本会の発展策に付き相談会を開いた。北沢先生、井関先生、上野先生、松宮先生、千早先生、久能木氏、命尾氏の御出席を仰いだ。本会員は渡辺、山田、菊水、岩橋の四名。決せる所は、第一に基本金を募集して研究ホールの建設。第二に更に研究を社会奉仕的、根本的たらしめる事。及び其の細項。

五、秀英舎第一工場見学

今までに数々印刷工場も見学したが、此所程に整理している所はなかった。特に写真制版、亜鉛製版、石版及オフセットは詳細に説明されて善く理解された。皆此方面に趣味を持っている者ばかりなので随分暇どった。略三時間位かゝった。

六、講師上野先生本校課外講義出講の為に余儀なく本会の授業時間を変更した。学校で課外に此の講座を開くに至ったのは、本会にとって誠に好都合である。完全な研究に耽る事が出来るからである。

七、研究発表

来年新学期より能ふ限り実力を投じ、心理的に統計を以て研究を具体化して発表することにした。現今我国には広告の根拠たる統計を持たない。本会は之を創製して社会奉仕の一端としようと思ふのである。

八、機関雑誌発行

講師及会員の研究を公開する手段として機関雑誌を発行することにした。今其の準備基礎たる雑誌を会員の研究を主として印刷中である。而し来春よりは権威ある研究雑誌を発行するつもりである。(岩橋) (一八頁)

 次いで翌月、大正九年十二月刊行の『早稲田学報』には、次のような報告が載っている。

本月中(十一月)の報告としては先左の如くである。

△日清印刷株式会社見学

十三日(土)例の如く午後零時半出発した。最初活字の部を見、次に印刷機械、紙型作成、写真版等を見た。終って製本部倉庫をも案内された。丁寧なる説明にて一同非常に益した。尚帰りには型録を戴いた。

△貴族院・衆議院見学

廿日(土)我会の見学は毎週大抵会室前に掲示するのみであるから、会員で気付かぬ方もあろう。この見学の時は控所へ出した為か多数あった。尚今度の見学に付き、御尽力された三木氏及び会員吉本君に御礼を申し上げます。

△朝日新聞社見学

廿五日(木)土曜日見学を本日に繰上げた。新築の同社の二階で新聞の出来上がるまでを秩序だって見る事が出来た。

△茶話会

十二日本学期の茶話会としてあっさり上野先生御講義終ってから行った。先第一に此機を利用して神戸市の広告の審査を我会に於ても行ひ又会員各自審査をなして他日発表する事にした。続いて茶菓と共に幹事山田君が会の抱負を述べた。かくして我会第九〔七の誤りと思われる〕週年の記念茶話会は終ったのである。

△授業

上野先生の商学部二年の科外講義は廿二日を以て終ったので、我会の講義は終りとすることにした。井関先生は高知地方御講演の為め止むなく休講された。本学期は井高〔関の誤りか〕先生のは十二月七日、松宮先生のは同八日を以て講義を終了することとす。(渡辺記) (一四頁)

 以上に紹介してきたように、大正三年に創設された「早稲田大学広告研究会」は、その後大正九年までの活動状況が『早稲田学報』に報じられていないので、不明であるが、大正九年に至ってその近況が載るようになってから、その活動の状況がよく解る。これをみると、学生の課外活動としては活発で充実したものとみることができよう。その記事の中で、広告に関する商学部の科外講義が大正九年以降設けられるようになったことは特筆すべき点であろう。その他機関誌の創刊の企画など注目すべき活動もみられる。

4 大正初年の商科の状況

 大正二年十月現在の商科関係の役職者および教員の名簿とその担当科目を『創立三十年記念早稲田大学創業録』によってみると、次の通りである。

 維持員は「校規」によると、十五名から成り、「大学設立ノ目的ニ必要ナル資産ノ管理使用及処分」(第五条)に関する件、総長・理事・監事を選任する件など「本大学ニ関スル重要ナル事件ヲ決定ス」(第十一条)る重要な機関である。

 この維持員会のメンバーとして、商科からは天野為之大隈信常田中穂積の三氏が重責を担っている。

 また二名の理事のうち、一名は天野為之である。

 大学部商科の科長は田中穂積であった。

 次に商科の教員とその担当科目を示すと左のようである。『創業録』の記述を系列別に担当科目を整理して示すことにする。

第百二十二表 商科科目担当表(大正二年)

5 天野為之の学長就任

 『早稲田大学第卅二回報告』には、「学年間の重要事項」の中で、「高田学長は大正四年五月九日を以て貴族院議員に勅選せられ、超へて同八月十日文部大臣に就任せらる」(『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号 二頁)と報じられ、「高田学長文部大臣就任の為め大正四年八月九日学長辞任に付、同月十四日理事天野為之氏に代り、九月二十日中央校庭に教職員学生一同を集め大隈総長臨場の上更迭式を挙げ、総長竝に新旧学長の新任、告別の挨拶ありたり」(同 二頁)と、天野為之の学長就任のことが記述されている。同時に、商科からは新たに田中穂積が理事に選任された。これに伴い、十月四日教授会が開かれ、これまで教授会議長であった天野為之が学長に就任したので、これを辞し、改選の結果浮田和民が多数をもって選出された。

 右の九月二十日の新旧学長の交代の式で、高田前学長は次のような挨拶をしている。

先づ諸君と共に、此早稲田大学が最も重望ある最も適任なる新学長を得たことを深く喜び、深く祝さなければならぬと斯う思うのであります。……(中略)……天野博士は申す迄もなく、此学校創立の当時よりして、坪内博士其他と共に、此早稲田に来つて教鞭を執られ、今日に至つた方であつて、我々と同心一体の一人であると云うことは、諸君の能く御承知のことである。此人、後任となつて此学園を支配されると云ふことは、私に於て此上もない満足、又諸君に於ても此上もない喜びであると云ふことは申す迄もないことと思ふ。……(中略)……聞く所に依れば、新学長は、此早稲田大学をして事実に於て有力なる大学とならしむるの準備として、将来益々諸君をして研究を遂げしめる其機関を整へる準備をされると云ふことである。……(中略)……それが為めには、早稲田大学の研究科の設備を整へなければならぬ。其設備を益々拡大し、益々整頓すると云ふことが、此新学長及び新理事の方針であると云ふことを窃かに聞いて居る訳であります。(以下略) (同 四頁)

 次いで大隈総長も次のように祝辞を述べた。

……前学長新学長是れは、早稲田大学の創立者で、三十三年此学園の為めに力を尽された御方である。……(中略)……天野先生は、此早稲田学園を導いて而して更に大なる力を以て此学校の隆盛を実現しようとし、……(中略)……。 (同 六頁)

 次いで天野新学長が挨拶に立ち、その中で

此機会を利用しまして一言玆に申述置きたいと思ひますことは、大学に於ける研究室と云ふものは、即ち是れ其の生命である。研究室のない大学は、大学にして大学でない。故に我々は、此事に関し、夙に高田旧学長等と共に語り合ひ、一日も早く安全なる立派なる研究室を早稲田大学に設けることを祈つて居た次第であります。 (同 一二頁)

と抱負を語った。先に皇室よりの御下賜金によって恩賜館を建て、研究室として使用していたが、まだ不完全であるので御大典記念事業として研究室の整備拡張、図書館の改増築を行おうという事業計画を述べたものである。研究室・図書館の整備は高等教育機関として必須の施設であるが、天野が研究室は「大学の生命である」と力説する所以は、一つは早稲田大学を大学令に基づく名実共に大学とすることと、立派な研究室を有する大学とすることによってこれまで帝国大学にのみ許されていた博士学位の審査権を得たいという願望に基づくものであった。その趣旨は天野学長の下に策定された「御即位大典記念事業計画趣旨」(『早稲田学報』大正四年十一月発行第二四九号 六頁)に詳しい。

6 セミナー活動

 『早稲田学報』第二四九号には「研究機関設備に対する学園意見の一般」の特集が組まれ、その中に、大学部商科の浅川栄次郎教授の「独逸諸大学の研究室」という一文が載っている。浅川教授はドイツでベルリンおよびハレーの両大学で学んだ。その時の見聞を次のように記している。

一体独乙の大学ではハレー大学のみならず何れの大学に於ても学生の自主的研究を主として居るので従って教授の講義などは其れ其れの学課に就て極く大体の事をやるに過ぎない。本当の研究は各学課の教授の監理するゼミナールに入って初めて存し得るのである。……(中略)……誰れでもゼミナールの会員となれば自由にゼミナールの研究室に入って備へ付けてある書籍雑誌類等を閲覧することが出来る。研究室には一通りの参考書は勿論その他かなり広い範囲の研究材料が備へ付けられてある。……(中略)……新刊の書籍類は大抵、一週間に一回書籍店より取り纏めて納められ研究室に一人のビブリオテーケリン(図書係女)が居って総べて新着物等を適当に分類し、研究者の閲覧に便ならしめて居る。斯う云ふ設備のある研究室利用の味を少し覚ると其処に行く度毎に自分等は日本の学校にも早く斯う云ふ物が出来て欲しいと云ふ感を禁じ得なかった。独乙ではあらゆる学課を通じて毎年多数の新研究が公にせられ世界の学術国として自らも誇って居るが斯う研究の大部分が国内の諸大学に在る研究室に於て成された者であることを思ふ時研究室の効果亦偉大なるを思はざるを得ない。 (二七頁)

 大学教育におけるゼミナールの重要性と常に文献・資料の充実を図って大学における研究の展開を支えている図書係と研究室の整備こそが秀れた成果を挙げるために不可欠であることを指摘している。

 こうした状況を日本でも実行する試みが早稲田大学でも実現した。それは明治四十三年七月に大学部商科を卒業し、アメリカのノースカロライナ大学でマスターコースを修了し、次いでジョンズ・ホプキンズ大学に学びPh・Dの学位を取得して大正三年十月帰国し、翌四年四月商科講師に嘱任されたばかりの北沢新次郎によってである(松原昭「北沢新次郎の社会主義・経済学」『早稲田商学』二五六号 四八―四九頁)。

 大正四年十月発足した「社会政策読書会」の成立を報じた記事を引用しよう。

セミナー教育の効果を挙げむとせば、先生と生徒の接近を計らねばならぬ。此意味で商科三年の社会政策科では種々の画策があった。其の一つが本会である。会の名称には種々説があったが、これは欧米の所謂リイデイングクラブの訳で、本邦に極めて稀な社会政策の原書を直接購入し、北沢先生宅を研究のヘッドクォターにあて一週一回会合し、会員相互原著者の意見の是非を討論し、先生を労して其決定を俣つ極めて学究的な実質に重きを置く会合である。

(『早稲田学報』大正四年十二月発行第二五〇号 二三頁)

 会員は十三名であった。この読書会は外国の文献を読み、内容についての討論を主眼としているが、第二回例会ではこの他に、「工場に婦女子を使用するの可否」という論題の下に討論を行っている(同頁)。また学校の休暇を利用して社会問題の実状を見聞・調査し、これを報告することも行っている。例えば、スラムの研究、函館ドックの労働状態、大阪鉄工所因島工場の視察などがそれである(同誌大正五年二月発行第二五二号 一八頁)。

 北沢新次郎は自発的なセミナーの読書会と併行してクラス会も催している。大正四年留学より「帰朝早々多忙な北沢先生は、学生に自発的に研究せしむるには、教育者及被教育者の親接を計るに在りとし、毎週一回十名宛を先生私宅に招待され、クラス全体四十七名が総て十月の中頃までに招待済となった訳で、此上は科全体一時に会合をなさむとて、十月某日矢来俱楽部に於て午後より会合す。集る者三十名。各自胸襟を開いて歓談し、余興数番、午後八時校歌合唱会を閉づ。此日より研究発表初る」(同誌第二五〇号 二四頁)と報じられている。前述のようにアメリカに留学しPh・Dを取得し、帰国早々母校の教員に嘱任されたばかりの二十八歳の新進気鋭の北沢新次郎は、このように自主的に学生のために読書会やクラス会をもって、勉学と人格形成のための努力を傾けられたのである。こうしたよい試みは他の科目にも及び、大正五年二月には商科三年セミナー交通経済学専攻(伊藤重治郎教授指導)でも親睦兼研究報告の会が定期的に催されるようになり、「伊藤教授の発議により、卒業後も継続し学術的研究会を組織し、各自結束して研究心の鼓舞に励まん事を議決せり」(同誌大正五年四月発行第二五四号 二二頁)と報じられている。伊藤もアメリカのペンシルヴァニア大学に学びPh・Dを取得して帰朝し、明治四十一年から交通関係科目や商業文を担当する教員として活躍した方である。特に後に総長になった島田孝一が次のように回顧していることは、こうした活動が学生に与える影響・感化の大きさを知ることができる。「ぼくは大学を出るまでに一番厳しい先生にたたかれなくちやだめだろうと思いまして、ぼくが見たところ伊藤先生が一番厳格だし口やかましい方ですよ、伊藤先生は。私はああいう先生のもとについて、大いにべんたつしていただいて、研究をやっていくことの方が、私のためになるのではないかという考えがあったものですから、交通経済学をやるということ」(「座談会島田孝一先生を囲んで」昭和五十一年十二月一日、『早稲田商学』二六三号 九〇頁)になったと述懐していることによって窺うことができる。

 こうした教育活動を背景として課外活動として商科に関連した学生の研究会が創立されるようになった。既に広告研究会の設立については述べたところである。これはセミナー中心の活動の限界を考慮し、より広汎な学生の参加を可能にするためであった。大正五年一月創設された「社会政策学会」の設立の趣旨は次のように、学生への熱烈な訴えかけを行っている。

仏国革命に伴へる自由平等の思想と十八世紀末葉に於ける英国の産業革命の潮とは社会の制度に急激なる変動を来さしめ、手工業は滅びて工場工業となり小規模生産は変じて、大規模生産となり其結果資本は一方に集中せられ、玆に貧富の懸隔甚しくなり資本家は益〻栄え労働者は日に衰ふ、富者は大廈高楼に春宵千金を傾け、貧者は其日のパンの為めに渇暗の辺土に廃残の骸を横へ生活難の声は今や世界到る所に聞かざるなく時に歓声の発露となり衰傷の気分となり両者の軋轢次第に劇甚を加へ資本家と労働者との離隔は遂に惨然たる階級争斗を現出し識者の考慮を煩はすこと日に切実の観あり、玆に於てか識者は是れ文明の歴史的必然の産物なりとし文明と幸福との一致せざるを呪ひ、不平等の鉄鎖に繫がれたる弱者の為めに現社会を根柢より破壊し彼等の理想とせる平等なる社会を実現せんとし或者は自由競争は文明進歩の母にして弱肉強食は是れ人間社会の鉄則なれば現社会を破壊せんとするが如きは原始時代を夢想する弱者の叫びに過ぎざるものとなし社会的不合理を否定す、然れども此等極端なる説は吾人の与すること能はざる所なり。

吾人は現在の経済組織の下に於て箇人活動の自由を認め国家の隆盛を希図せんが為めに学理によりて広く内外の事例に徴し之が研究の歩を進めんと欲す、血に沸く青春の諸士来りて吾人の切実なる心の叫を聞け

(『早稲田学報』大正五年七月発行第二五七号 二一頁)

 同年三月四日に開かれた第一回研究会では「貧民問題の研究」をテーマとして三人の学生の報告が行われたのち、田中穂積塩沢昌貞平沼淑郎の三教授から講評があり、終了後清風亭で懇親会が催された。四月の第二回例会では「唯物史観論」「日本に於ける労働問題」および「基督教社会主義論」の三つのテーマに関する報告があり、安部磯雄大山郁夫宮島綱男の三教授から講評があった。こうした学生のサークル活動に積極的に教員も参加し充実した課外活動が展開されていたことは高く評価されてよいことであろう。

 同じく大正五年三月、「商科中心の会を組織して将来の指南車とも云ふべき必須経済学の自由討究を目的として以て斯学のため貢献する所あらん」(同誌同号 二一頁)ことを期して経済学会が創立された。発会式および第一回例会は同年四月十五日に開催された。当日はあいにく小雨の降りしきる悪天候にも拘らず、三百名の学生が出席した。多忙の中を出席された天野学長は、挨拶の中で、経済学会設立の試みは十年程前にあったが実現されなかったが、「今回諸氏の尽力により此の企あるを聞き、寔に同慶に堪えず、就ては益々奮励、本会をして永遠の生命あらしめん事を望むと同時に、多年自分が宿案として抱き居りたる外国貿易調査の事業を研究課中の主目として周到なる研究を遂げられ、世界貿易の事は細大洩さず調査を遂げられんことを望む」(二二頁)と激励し、具体的な提言をされたのである。この例会では、田中穂積教授(本会会長)の出題の「在外正貨処分策」のテーマの下に四名の学生が報告を行った。これに対し、北沢新次郎講師、浅川栄次郎教授および田中穂積教授より講評が行われた。学生の報告者の中には、のちに民間の高名なエコノミストとして活躍した高橋亀吉の名が見える。同年の夏季休暇には会員に対し、浅川教授は「生産費と利潤の関係」、田中教授は「戦後の経済戦争に備ふるため関税引上の可否」という課題を与え、十月に第二回例会が行われた。この日浅川教授の課題をめぐって三名の学生が報告を行い、教授の講評と解説が行われ、終って懇親会に移り散会している。

 同じく、同年十月には北沢・平沼両教授の出席の下に工業政策のセミナーの研究会が開かれている。北沢教授の主宰下の読書会に関する記事の中で、「かく会を重ぬるに及び、益々親交を重ね吾等は本大学に入りて始めて、本大学生たるの気分に酔ひ、早稲田を味ふを得たるかの感あり」(同誌大正五年十二月発行第二六二号 一六―一七頁)と率直に感想を述べているが、こうした商科における充実した教育活動に接した学生が斉しく感得した思いではなかったかと想像される。

 以上に紹介してきたような教育の成果が得られた要因としては、その中で触れられたように、外国留学の豊かな体験をもつ教員の充実とその熱意、天野学長の下で策定され、実施された研究室・図書館の整備(大正五年九月第一期工事完成)によって研究と教育の基盤が形成されるに至ったことが指摘できるであろう。将に外へ向っての拡充ではなく、内に向っての充実が着々として実現されつつあったと見ることができる。前述のように、天野学長が研究室は「大学の生命である」という大学の理念が着実に前進を遂げていた証左でもあろう。

7 制度の改革への動き

 我が国で最初の教育に関する文部大臣の諮問機関が設置されたのは明治二十九年十二月に公布された勅令による高等教育会議であった。この機関は専門学校・高等中学校の新設など高等教育の改革に関する事項を答申し、あるいは建議してきた。次いで大正二年三月、貴族院における「教育調査機関設置の建議」に基づき、同年六月「教育調査会官制」が公布され、高等教育会議に代えて、新たに文部大臣の諮問機関として教育調査会が設置された(文部省『学制百年史』四二六―四二八頁)。この調査会は、教育制度、特に高等教育制度の根本的改革のための調査を行うことを目的とした。早稲田大学においてもこれに応じて大正四年十一月「学制調査会」を設置した。商科からは田中穂積が委員に選出された。

 大正六年二月十一日臨時維持委員会で高等予科の修業年限を半年延長し、二ヵ年とすることを決定した。これは大学教育の準備課程としての高等予科の教育の充実を期そうとするものであった。

 更に同年四月の維持員会では大学部商科の卒業の時期を四月に繰上げ、大正七年度より実施することになった。これは高等予科の修業年限の半年延長に伴うものと見ることができる。

 大正七年四月より高等予科への入学志望者に対し、内容の充実を期して、学力試験が実施されることになった。学力試験は二回行われた。第一回は志望者千八百九十一名に対し、合格者千百三十名で合格率はほぼ六〇パーセント、第二回は志望者五百六十七名に対し、合格者二百四十九名で合格率は約四四パーセントであった。天野学長は前年の八月二十五日に任期満了で退任したが、この入試に際し初の学力考査を課したことは、高等予科の修業年限の延長とともに天野学長が企図した大学の教育水準のレベルアップを目標とする重要な制度改革であった。

 大正八年六月十日の維持員会で新大学令実施準備委員会の発足が決められ、十四名の委員が嘱任されたが、商科の関係では平沼淑郎田中穂積の両名が選ばれた。

 この委員会は数回に亘り審議を重ねた結果成案を得て、同年九月文部省に対し新大学令による大学設立の認可申請を行ったところ、翌九年二月認可されることになった。これに伴い学則ならびに校規の改正も行われた。

 新大学令による大学の設立が認可されたのに伴い、大正九年四月より大学部商科は商学部として発足することになり、田中穂積が初代商学部長に嘱任された。また大学の予科として新高等学校令により高等学院が設立された。過渡的に従来の高等予科も存続し、商科予科は高等予科第四部と称し、その教務主任として商学部教授の小林行昌が嘱任された。更に商学部の発足とともに、大正九年四月より専門部商科が新設され小林行昌教授が兼任することとなった。

8 学生の修学状況

 大学部商科ではこれまで学年制度を採ってきたが、大正四年度より各学年共これを学期制度に改め、試験を一年に前期・後期に一回ずつ二回行うことになった。また高等予科は一学年二学期制となっているが、これを四学期制に改めた。これは一学年を通じて一度の試験よりは二回の方が教育効果が大きいという考えに基づいたものであろう。

 さて、商科では学生委員会が大正三年十一月より設置されることになった。この委員会は「学風の向上を期し且つ学生間の意思疏通を図らんが為め」(『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号「早稲田大学第卅二回報告」二頁)に設けられたものである。この委員は当該学年間を任期とし、各学年の各組(各学年三ないし四組)より候補者三名を選出し、学長がこれを任命する制度で、大正三年十一月二十八日商科科長・教職員参列のもとに任命式が行われた。その名簿を見ると、第二学年のA組では小林新、C組では高橋亀吉というような、後に大学に残り、あるいは社会でエコノミストとして活躍した人々が選ばれている。

 大正四年度(大正四年九月より五年八月まで)中の建築工事のうち、御大典記念事業第一期工事に関連して商品陳列館の移築が行われた。

 この「御大典記念事業に就いての資金は金額の多少よりは寧ろ成る可く多数人士の賛成を得る事の望ましき趣旨より一般学生に対しても資金寄附を勧誘する事となり、学生諸氏亦能く此の趣旨を了会する所あり、奮つて之れに賛同し、各部各級より各委員を選挙し勧誘募集の任に当る事と」(同誌第二四九号 一九頁)なった。その委員名の中には、商科一年では沖中恒幸、二年には島田孝一、三年には高橋亀吉、小林新らの名が見られる。

 しかし第一次世界大戦期になると物価の上昇は著しいものがあった。白米一升の小売価格は大正三年で約二十一銭であったのが、大戦後の大正八年には約五十五銭と二・六倍にも騰貴した(『長期経済統計8 物価』一五三頁)。大学では大正八年一月より学費を一割に当る五円値上げした。更に翌九年一月から二十円の値上げを実施した。前年の値上げ前の学費に比べて五割値上げしたことになる。前述の米の小売価格の騰貴率に比べるとその値上げ率は低位であったと言えよう。その一つの要因は年間学費が七十五円の水準に達したことが、当時の庶民の賃金や生活費に比べると、かなり割高であったという事情が指摘できよう。

 大正三年の製造業男子の賃金(総合)は日給で七十七銭、月二十五日働くとして、一ヵ月で約二十円である。これを年間賃金に直すと約二百四十円ということになる。学費は年間賃金の約二〇パーセントということになる。他方で大正八年になると前述の賃金は一円四十四銭と約二倍に上昇し、年間の賃金は四百三十二円になる(同上 二四三頁)。これは約一七・四パーセントということで、その比率は若干低下したことになる。しかしこれは学費を当時の製造業男子の年間賃金と比較したもので、これに学生の生活費を考慮に入れねばならない。

 大正三年の人口一人当りの消費支出は七十二円であり、大正八年には二百十四円と約三倍になっている(『長期経済統計6 個人消費支出』一二頁)。

 これによってみれば、もし地方の家庭が東京へ一人の子弟を早稲田大学へ学ばせるためには生活費と学費とを併せて、大正三年では百二十二円、大正八年には二百八十九円程度の出費が必要となる。前述の年間の製造業の男子の平均賃金のうち、大正三年では約五〇パーセント、大正八年では約六七パーセントの支出の負担をしなければならないことになる。これは現実には家計負担できないことを意味する。これからすると、大正期に子弟を私立大学に学ばすことができるのはもっと所得水準の高い富裕な階層でなければ困難であることが分るであろう。

 大正八年および同九年に実施された入試の状況は上表のようであった。

第百二十三表 入学試験結果(大正八・九年)

 次に、大正二年から大正九年までの大学部商科を卒業した学生数ならびに在学生数を挙げておこう。

第百二十四表 大学部商科卒業生数(大正二―九年)

第百二十五表 大学部商科在学生数(大正二―八年)

 右の表を見ても分るように、大学部に関して言えば、就学者の約半数が商科によって占められていたのである。

 大正九年から新設された専門部商科を含む専門部一年の各科別の学生数は次のようである。

第百二十六表 専門部各科在学生数と割合(大正九年)

 専門部についても一学年の学生総数の四〇パーセントは商科であった。こうしてみても大学財政の面からみて、商科が多大の寄与をしていたことは明らかである。

 この間、大正四年七月の得業証書授与式に際し、成績優秀者として次年度の学費を免除される特待生の名前が発表されており、この中には大学部商科第一学年島田孝一、同第二学年小林新、そして高等予科(商科)から中島伝吉が含まれている。また各科得業生のうち成績優秀者として大学部商科からは藤田平逸が大隈総長夫人から賞品を授与された。翌大正五年度には大学部商科第二学年島田孝一が引続き特待生に選ばれ、同第一学年からは市原俊雄、高等予科第四部(商科)からは長谷川安兵衛が選ばれた。また、成績優秀得業生として小林新が賞品を受領した。

9 大学改革運動(いわゆる「早稲田騒動」)と天野学長の辞任

 大正四年八月十四日高田学長の後を承けて学長に就任する人事を決定した維持員会においては、同時に重要な校規および職務規定の改正が行われた。

 『早稲田大学第三二回報告』の関連する記事には次のように記述されている。

大正四年八月十四日維持員会に於て本大学校規第七条中維持員の数を拾五名とあるを拾八名以内、其八名の任期とあるを其他の任期と改め、又同第十九条中理事二名又は三名とあるを理事四名以内と改むることに決し、同月二十八日付を以て文部大臣に出願し、翌九月十六日を以て認可せられたり、又同時に職務規定中一条に学長は本大学を代表し他の理事と共に『学務を監督し併せて常務を管理す』とあるを校務を管掌すと改め、新に第三条に毎週一回理事会を開き教務、庶務、会計、教職員の任免其他校務を決定し学長の名に於て之を行ふとの一条を加へ、第四条中本部に幹事数名とあるを本大学に幹事数名と改め、尚同条中庶務、会計、学生監督の文字の上に教務の二字を加へ、順次一条を繰下げ、又第十二条(主事、課長及事務員は学長之を任免するものとす)を削除せり。 (『早稲田学報』大正四年十月発行第二四八号 二頁)

 この改正は異例の措置と言えよう。高田早苗学長が文部大臣に就任するため八月九日辞任したのに伴い、天野為之が八月十四日の維持員会で学長に新任された人事と同時にこうした校規および職務規定の重要な改正がなされたのである。学長に新任されることになった天野がこのような改正を提起することはあり得ないから、八月九日の高田学長辞任から八月十四日の天野学長新任までの短い期間にこの件が立案せられたのであろう。しかも増員された理事三名には「何れも高田学長体制の支柱となっていた人々」(『早稲田大学百年史』第二巻 八二三頁)が選任されており、また同じく増員された維持員についても「その顔触れを見ると、……(中略)……殆どが後に言うところの高田派」(同上)で占められていたのである。

 その上、職務規定の改正箇所を見ると、明らかに学長の権限を縮小し、これまで学長の専権事項であったものを理事会の合議に委ね、職員の任免権も奪ったのである。

 このように見てくると、名目上はやむを得ず天野の学長就任を認めたが、人事の面からも制度の面からも実質的には旧来の高田体制を維持してゆこうという意図が明確に反映されているということができよう。

 それでは何故こうしてまで旧体制を維持する必要があったのであろうか。

 こうした異常な状況の下でスタートした天野が学長に就任して僅か一年二ヵ月後の大正五年十月大隈内閣は総辞職し、高田は文部大臣を辞任した。そして天野学長の任期は翌六年八月末までであった。

 こうして天野の任期切れをまって、その後任に再び高田の復帰を図ろうという動きが始まり、大正六年六月下旬頃よりいわゆる「早稲田騒動」勃発の萌しが現れたのである。この「騒動」については本史に詳細な記述があるので、ここではそれらの経過の叙述は省き、「騒動」の本質についての考察に止めておきたい。

 大正六年八月二十五日付の「東洋経済新報」の「社説」はこの「騒動」の原因について、次のように述べている。

早稲田大学近来の紛擾は決して一朝一夕に起つたものでない。多年同大学の教授又は講師、或は同大学内の事情に通ぜる一部の校友間に鬱積せる憤懣が、偶々学長問題を動機として爆発したに外ならない。而して斯くの如き憤懣を多数者に抱かせしめし原因は、一言にすれば、一部少数者が、早稲田大学を以て、恰かも自己の私有物の如く心得、会計の如きは殆ど他の何人も其の内容を知るを得ず、偶々教授又は校友中より学校を思う赤誠に出づる正当の意見を立つる者ある、之れを受付けず、甚しきに至つては、其の之れを立つる者を排斥するが如き、怪しかる事件の、たび重なつた為めである。

(『石橋湛山全集』第二巻 五一九頁)

 その要点は以下のようである。

一、高田とその周辺の者が永年に亘って培ってきた支配体制は強固なものとなり、広く教職員の意向を反映し、相互批判を可能とするような状況が閉塞され、特定の集団が大学行政を主導できるような状態が形成されていたこと。

二、その結果「校内の情弊の、殆ど言うに忍びざるものあるは、公知の事実である」(同上 五二三頁)と言われるように、淀みが生じ、好ましくない状況が生じていたこと。

三、このような状況を生起したのは、大学の制度がこうした事態を引き起す可能性を内包するような不備に起因していること。

 従ってこの「騒動」は、単なる学長の地位に誰が就くべきかの争いではなく、誰の手によって積年の情弊について「学内改革」を行うかという本質的な問題を提起していると受取るべきことなのである。

 終始高田の側にあった坪内逍遙も「早晩何等かの一刷新を校規や学則の上に行はねばならぬ有様となつてゐるといふことは、誰れの観る所も一致する」(『早稲田大学百年史』第二巻九〇一頁)ところであったと改革の必要性を認めている。それだけではなく、当の高田が「自分の在任中は専断を以て事に当りしも」(同上 九〇五―六頁)と述べて、大学行政が高田の時代は「専断」的運営であったことを自認していたのである。

 右に指摘した第二の点、「校内の情弊」については、「高田前学長時代事務一切の権を掌握し会計上に於ても少からざる不正の点あるや」(同上 九〇二頁)と疑惑をもたれていた職員である某理事は、「騒動」の過程で調停案の中に辞任すべきことの一項がある(同上 九三一頁)ことからみても、客観的にそうした事実が認められ、その責任を問われたことは明らかであろう。

 問題の核心は第三に指摘した点、すなわち、大学の機構についてである。

 当時の早稲田大学の運営の中心は維持員会にあった。そして「維持員ノ数ヲ十八名以内トシ其七名ノ任期ヲ終身トシ其他ノ任期ヲ五年トス」(校規第七条)と定められており、また第八条においては「終身維持員ノ補欠及有期維持員ノ改選補欠ハ維持員三分ノ二以上ノ同意ニヨリ之レヲ行フ」と規定されている。そして維持員会は大学の重要な案件を決定し、総長、学長、理事、会計監督の選任、校規の改正など重要な権能を有する中枢的機関なのであった。しかし維持員の選出は維持員自身が決定するという閉鎖的、独善的なもので、維持員の意向に副わなければ、この機関に加わることはできないのである。評議員会にしても評議員の過半は「総長及維持員会ノ推薦」(校規第三十条)によって決まるので維持員会に都合よくできているのである。教授会も「教務ニ関スル事項ヲ議定」(校規第二十六条)するだけで、教員の任免に関してすらその意向が反映できる保障がないのであった。

 こうした制度の下で、特定の集団の永年に亘る専制的な支配が行われれば、その結果幾多の弊害や不祥事が生じても不思議はないことになろう。大正六年七月十三日の紛争の最中に開かれた維持員会では、「維持員の数を四十名以内とすることが可決された」(『早稲田大学百年史』第二巻 九七九頁)のも当然であろう。尤も大正七年六月の維持員会の校規改正では維持員の数は二十五名に縮小し、後退している(同上 九八七頁)。

 また大正六年七月十六日の維持員会で、天野学長は「理事は学長の指名にしたい」と提議した(同上 九七九頁)と言われるが、これも当然のことであろう。

 大正六年八月三十一日天野為之は学長の任期が終了し辞任した。更に同年十二月二日には終身維持員も辞任した。

 天野が提起した大学改革運動の一環としての校規改正は、大正七年六月渋沢栄一を会長とする校規改定調査委員会によって行われた。

 維持員会の構成は、前述の如く当初の四十名への拡大案が最終的には二十五名に縮小されたが、その選任については改善が加えられ、二十五名中十四名は評議員の互選によることになった(校規第十条)上、その内の半数である七名については、教授会で教授より選出される評議員の中から選任されることになり、漸く教授会の意向が反映できる(校規第六十七条)ようになったのである。天野が目指した改革運動はこうして不十分ながら一定の成果を挙げ、この運動の方向は正しかったことが実証されているのである。

 しかし、このいわゆる「早稲田騒動」の本質である旧支配体制側の人が自らの誤りを認め、反省の実を挙げなかったばかりか、五人の教授を解職し、数名の教授・講師が辞任して早稲田を去るという事態を招いたのである。その損失は誠に大きかったと言わねばならない。

 制度の不備を前提にして、大学運営の責任を担ってきた人々が永年の「情弊」を一掃することに努めたとは言えないのである。

 このとき早稲田大学を去った哲学、就中宗教学の碩学波多野精一が次のように述懐している言葉を深く味わわねばならないのである。

今や精神的に全く死滅し残るは虚偽の魂あるのみに候。精神を新にして復活するに非ずば存在の意義なく否其の存在は却つて罪悪に候。 (同上 九六六頁)

 また同様に大学を去った天野為之はその翌年の大正七年心境を一篇の詩に託して表白している。その意訳は次のようである。

顧みて、やましくなければ何も悲しむ所はない。寧ろ心中自ら清らかにして静かである。従つて天地もまた楽しく美しい。

(浅川栄次郎・西田長寿『天野為之』二五八頁)

 大正七年九月かねてより申請中の校規の改定が認可されたのに伴い、各種機関の役員が選出された。商科の関係は次の通りである。

教授より選任される有期維持員 田中穂積

維持員会の推薦による有期維持員 平沼淑郎

維持員会の議決により理事に選任された者 平沼淑郎 田中穂積

維持員会で選任された学長 平沼淑郎

教授会の互選による候補者で維持員会で議決された商科科長 田中穂積

同じく高等予科々長に選任された者 平沼淑郎

10 商科教員の動向と担当科目

 大正九年の商学部発足までに新たに嘱任された教員名を掲げておく。

大正三年度講師嘱任 早稲田大学商学士 浅川栄次郎

早稲田大学商学士 伊地知純正

大正四年度講師嘱任 早稲田大学商学士 立川長宏

早稲田大学商学士 北沢新次郎

大正五年度教授会議員嘱任 講師 北沢新次郎

講師 原口竹次郎

大正五年度講師嘱任 関野九郎

百瀬計馬

大正七年度講師嘱任 法学博士 粟津清亮

大正八年度講師嘱任 商学士 玉水千市

商学士 上田貞次郎

商学士 児玉百合人

大正九年度講師嘱任 商学士 渡辺明

商学士 柳楽健治

商学士 藤本幸太郎

 また商学部関係の留学者は次のようであった。

大正四年度 吉田良三 会計学・簿記研究 米

大正八年度 伊地知純正 文明史・商業英語研究 英・米・仏

小林新 金融・保険研究 米(コロンビア大学)

島田孝一 経済政策研究 米(ペンシルヴァニア大学)

 大正二年度と大正八年度(大正九年は学制改革で商学部は第一学年の学生しかいない)の商科の教員とその担当科目ならびにその間の推移は次のようである。

第百二十七表 大学部商科学科配当表(大正二年度)

第百二十八表 大学部商科学科配当表(大正八年度)

第百二十九表 大正期商科科目・担当教員変遷表(大正二―八年)

 以上の表から、天野為之が学長代理を務めた大正三年四月から十一月の時期および学長に就任した大正四年八月以降大正六年八月までの時期のカリキュラムとその担当者は、その前後の時期に比べてかなり充実していたことが看て取れるであろう。既述のようにこの時期は研究の態勢が整備され、教育活動が盛り上った時期でもあった。入試の学力考査も初めて実施され、質的内容の向上が図られた時期にも相当している。ところが、大正七年以降、カリキュラムが著しく貧弱になっているのである。言うまでもなくこれは大正六年の大学改革運動(いわゆる「早稲田騒動」)の結果多くの教員が大学を去った結果に外ならない。大正三年八月には三十名いた商科の教授は、同八年八月には十四名と激減したのである。大学部商科は大きな損失と痛手を受けたのである。

四 新大学令施行以後の商学部

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1 大正期(大正十―十五年度)

大正十年度

 教員の新規嘱任――本年度に新たに商学部に太田哲三(貨幣及銀行)、筧正太郎(交通政策)、中田浩(セミナー及簿記)、佐野学(経済学及名著研究)が教員として嘱任された。

 教員の海外留学――中田浩が会計および簿記学研究のために米国に、末高信が保険学及経済史研究のために欧米に出発した。

 入学志願状況――本年度の専門部商科の志願者は千三百五十七名、合格者は五百八十一名であった。試験科目は国語漢文、英語、数学の三教科であったが、甲種商業学校卒業生に対しては代数の代りに簿記を課した。

 経済学会の活動――学生の課外活動としての経済学会はこの年会員数二百五十名に達し、活発な活動を行った。そのプログラムを見ると、小林行昌教授による連続講義「外国為替」をはじめとして、講演、会員研究発表、見学等が組まれ、実施されている。講演の演題と講師名を挙げると次の通りであった。

ギルドソシヤリズムの理論と実際 北沢新次郎

農奴時代のロシヤ経済史観 佐野学

経済思想上の上古、中世および近代 高橋誠一郎

功利主義哲学と正統派の経済学 田中王堂

経済の倫理と接触点 杉森孝次郎

国際金融と我が国策 服部文四郎

リカルドオ経済学説の発達 小泉信三

なお見学先は、森永製造工場、東京瓦斯電気工場、日清印刷会社、報知新聞社であった。

 広告研究会の活動――同じく学生の課外活動としての広告研究会も活発に活動し、上野陽一・井関十二郎(『実業界』主幹).松宮三郎(三越広告部主任)による定例の講義の他に、五月六日に清水正巳(『商店界』主幹)による講演を行った。また六月三十日には、ドイツ人で哲学博士の学位をもちコロンビア大学で四年間広告心理学を専攻したことがあるべルリーナ夫人による講演「広告のアトモスフヰヤに関する心理的研究」(英語による)が行われた。

大正十一年度

 学部長主任会の新設――大正十年十一月より現在の学部長会のような各機関の教務上の連絡・調整の機関として学部長主任会が新設された。構成員は学長、理事、幹事、本部教務主任および各学部長、教務主任ならびに学科主任等より成り、毎月一回開かれることになった。

 学費の値上げ――大正十年十二月、学費の値上げが決定され、大学部が年額百二十円、専門部が年額八十五円、高等学院が年額百円となった。

 海外留学――長谷川安兵衛が会計学研究のため欧米留学に出発した。

 教員嘱任――講師中田浩が教授に昇任し、新たに早稲田大学商学士小林新(銀行及貨幣、統計学)、商学士島田孝一(交通経済、商業経済)が講師に嘱任された。

大正十二年度

 教員嘱任――商学士原島茂(商業簿記)、前田貞之介(英語)、早稲田大学法学士二木千年(英語)が講師に嘱任された。

 選科規定審査委員会の設置――かねてより懸案の選科設置のため、その準備として選科規定に関する審査委員会を設けることになり、各学部より学部長および各二名宛の教授より成る委員が選出されることになり商学部よりは田中穂積(学部長)、北沢新次郎(商学部教務主任)、小林行昌(専門部商科教務主任)が選ばれた。

 商学部科外講義――次の如く行われた。

カントとアダム・スミス 石塚錬慧(十月十五日より三回)

商品学に就て 坂口武之助(十月十一日より三回)

経済学説の変遷 教授 北沢新次郎(九月三日より数回)

 広告学会の創設――創立三十周年に際し設けられた広告研究会は、その後の十数年間に五百名に達する卒業生を輩出し、社会の各方面で活躍しているが、相互に連絡する機関がなかったので、大正十二年三月「早稲田広告学会」を設立することになった。

大正十三年度

 附属早稲田専門学校の開設――近年入学志望者の増加が顕著で、中でも専門部への志望者が特に多いので、これに応じ切れないので夜間の専門学校を大正十三年四月から開設し、商科も置かれることになった。修学年限、入学期、入学資格及学科課程なども専門部商科に準じ、教員も共通に担当することとした。

 専門部商科の組織変更と実業教員無試験検定資格の許可――専門部商科は大正十二年度より第一部と第二部に分けられ、第一部には実業学校教員志望者を入学させ、第二部はそれ以外の者が入学することとなった。大正十三年二月、文部大臣より第一部卒業者に対し、商事要項、簿記、商業算術および商業英語の四教科の実業教員の無試験検定資格が与えられることとなった。

 商学部事務主事の設置――大正十三年の新学年度より商学部の教務・庶務を分掌させるために事務主事が置かれることになり、副主事丹尾磯之助が任命された。

 学生委員会規定の制定――大正十二年十一月より「大学及学生間の円満なる連絡を図り且学生に自治精神を養はしめんが為め全学部科に亙り委員公選をなす」こととして、学生委員会規定を制定・実施することとなった。

 役職者の異動・教員の嘱任――理事田中穂積は大正十二年五月十一日より常務理事に就任した。また、教授平沼淑郎は大正十二年十月一日、商学部長に嘱任され、同時に講師出井盛之が商学部教務主任に嘱任された。出井は大正十三年三月二十日教授に昇任した。更に、これまで理工学部だけに置かれていた助教授という地位が他の学部にも適用されることになり、商学部では長谷川安兵衛と末高信が大正十三年三月二十日助教授に嘱任された。また同時に簿記担当の講師として岡田弥一が新任された。

 商学部特別講義――次の如く行われた。

産業能率の原理と実際(連続四回) 能率研究所長 上野陽一

商工経営論(連続四回) 講師 岡田誠一

 教授訪問・小林新――『早稲田学報』大正十三年一月発行の第三四七号には小林新教授の研究室訪問の記事が載っている。それを紹介しよう。

教授は大正七年アメリカに留学し、ハーバード大学およびコロンビヤ大学に学び、特にアメリカ連邦準備委員会の調査局長を兼ねておられたウィリス教授の下で「国際物価指数」作成の作業の一端を担われて帰国されたのであった。教授によれば「米国のコロンビヤ大学やハーバード大学などでは、電気集計器を始め、計数上の加算器や乗法器から製図用器までも相当多数に備へられ、三十人からの学生が一時に之を使用し得る様になつて居り、統計上、数学上に必要なる、カールピアソンの表、チェンバーの表、ピーターの表其の他各国の主なる刊行書も集めてあるので、研究者は寔に便宜を得てしかも気持よくその志す所を探究し得る」とその施設の整備の良さを指摘されている。「米国は御承知の通り、実用哲学を主とし、学術と実際との密接なる交渉を旨とする所から、銀行論のセミナーを見ても、教授は組織的な講義もするが、学生には筆記試験よりも寧ろ或る特殊な問題を中心とし、実際家に就て得たる調査報告書を出させるといふ傾向が一般に強い。かくて直ちに実際界に活動し得るやうな人々を輩出することに努めている」と述べるとともに、「学者も実際的研究に深い興味をもつのみならず、政府の制度上の改革などには相当有力なる建言者として参加し、また必要に応じては実際界にも入り得る程に、その研究と実際との交渉が緊密になつている」との示唆に富む発言をされている。 (一九―二〇頁)

大正十四年度

 科外教育審議会の設立――本大学の各種学会、講演会その他学生の会に関する総長の諮問機関として大正十四年十二月、科外教育審議会が設けられ、商学部よりは出井盛之、小林行昌島田孝一の三名が総長より嘱任された。今後学内で学会を設立するときはこの審議会の決議を要することとなった。

 奨学金給与規則の制定――大正十四年四月一日より奨学金の制度が制定され、教授会または講師会の推薦で一定の条件を具備する学生に対し、年額百五十円以内の奨学金が給与されることになった。ただしその資金は篤志家の寄附金によっていた。この百五十円という奨学金は当時の学部学生の学費のうち最高の理工学部の学費を上限としたものである。

 陸軍現役将校の配属――この年より学部および高等学院に学生・生徒の教練のためにそれぞれ二名の陸軍現役将校が配属されることになった。

 学生健康相談所の新設――大正十四年四月二十七日より学生ホール内に健康相談所が開設された。

 商学部関係の教職員数――本年度は、商学部が教授二十名、講師十三名で、計三十三名、専門部商科が教授十六名、講師十三名で計二十九名、専門学校商科が講師二十名となっているが、この数は他学部等との兼任の者を含んでいる。また、商学部に配属の職員は、副主事、書記、書記補、給仕各一名の計四名であった。

 『早稲田商学』の創刊――大正十四年、商学部および専門部商科の教員および学生によって早稲田商学同攻会が組織され、その研究機関誌として『早稲田商学』が発刊されることになり、同年六月、創刊号が発行された。同号は菊版三八四頁で定価一円二十銭で発売された。同誌は年に二回、四月と十月に出される予定になっており、会費は年額二円となっていた。そして創刊記念の行事として講演会が六月十三日に開催され、午後一時より六時に及んだ。講演の演題と講師は次の通りであった。

証券市場より金融市場 帝大講師 河合良成

経済の学理と実際 法学博士 井上辰九郎

財政の現状に就て 経済学博士 太田正孝

工場経営の根本的改革 王子製紙会社社長 藤原銀次郎

国民の経済的訓練 日本興業銀行総裁 小野英二郎

(『早稲田学報』大正十四年七月発行第三六五号 七頁)

 大正十四年十二月十五日教授会――先に制定された奨学金のうち、日清生命の寄託による奨学生の選定が行われた。また「外国貿易」講座が新設された他、図書館の書籍の充実について協議が行われた。

 大正十五年二月十六日教授会――ここでは上坂酉蔵を商品学および外国貿易研究のため留学させること、助手制度に関する件などが協議された。

大正十五年度

 学監部の新設――学生の指導誘掖をはじめ、学生の各種会合、風紀、保健および宿舎等を管掌する部局として、大正十五年四月一日より学監部が新設されることになった。各学部、専門部各科、専門学校より各一名の参与を選出し、部長を補佐することになった。

 専門学校商科講師嘱任――末高信(保険学)、阪口武之助(商品学)が嘱任された。

 留学生派遣――五月の教授会で商学部教授出井盛之は工場経営研究のため欧米へ一ヵ年留学生として派遣されることになった。出発は七月。

 商学部関係卒業生の職業別分布――大正十五年六月の『早稲田学報』(第三七六号 三〇頁)に商学部関係卒業生の職業別一覧表が掲載されているので、第百三十表として転載する。

第百三十表 商科商学部卒業生職業別一覧(大正15年現在)

 商学部学生大会――五月二十五日正午より教員・学生の親睦交流の会ともいうべき商学部大会が大隈会館で開かれた。平沼学部長の挨拶、校友増田義一氏の講演ののち、各種の余興が行われ、午後五時頃閉会した。

 助手規則の制定――かねて検討中の助手規則が制定され、七月一日より施行されることになった。助手の定員は原則として一学部三名以内である。職務としては「学部長の指揮を受け教務を補助し且教員の指導の下に学術の研究に従事す」(第三条)ることであって、任期は一年で無給であった。ただし、大学院または研究科に在藉しているときは、その学費を支給される場合があった。

 学部役職者の選任――学部長および協議委員の任期満了に伴い、九月二十一日教授会を開催し、学部長に平沼淑郎、協議委員に島田孝一が選出された。

 教員異動――商学部講師柳楽健治が辞任し、これに伴い担当科目の後任として商学部は原島講師、専門部商科は長谷川教授が担当することとなった。

 助手任命――十一月五日付で大島三郎と吉田忠輔の二名が商学部助手に任命された。

 商学部科外講義――商学部では学生に工学的知識を与えるのを目的として大正十四年度からその方面の科外講義を開き、建築学の講義を行ったが、本年度は電気工学の分野の次の三講義が行われた。講義は二時間に亘った。

十一月五日 電気物質観 山本忠興教授

十一月十二日 電気の応用(第一部) 山本忠興教授

十一月十六日 電力問題の現在及将来 堤秀夫教授

 専門部商科学友会大会――創立以来三ヵ年を経過した専門部商科では第一回学友会大会を十一月二十日午前十時より大隈会館で催した。小林行昌科長をはじめ、高田総長、平沼商学部長等も出席し、講演ののち余興に興じ、午後四時に閉会した。参加学生は四百名の多数に上った。

 留学生の派遣――助手吉田忠輔は経済史研究のためドイツへ三ヵ年留学することになった。

 第四十四回卒業証書授与式――四月三日第四十四回卒業式が挙行され、商学部は二百三十名、専門部商科は第一部五十六名、第二部百八十二名、計二百三十八名が卒業した。更に専門学校商科の卒業生(第一回)は五十九名であった。

2 新大学令下の学科課程・担当者・学生数

 大正九年度と大正十五年度の学科課程とその担当者を次に掲げる。ただし、商学部は発足第一年度であるため第一学年のみ。なお旧課程の大学部商科に二年生と三年生が在籍しているので、その課程表も併せて掲げておく。

第百三十一表 大学令下の商学部・商科学科課程(大正九年度)

第百三十二表 商学部学科目(大正十五年度)

第百三十三表 大正期商科・商学部の在学生数と卒業生数(各年度3月末現在)

第百三十四表 大正後期商科科目・担当教員変遷表(大正九―十五年)

3 昭和期(戦前)

昭和二年

 商学部編入試験合格者――官立高校、各大学予科、他専門学校卒業者で商学部への編入試験受験者は六十五名で、五十三名が合格した。

 計理士法の施行――計理士法が五十二議会を通過して昭和二年九月十日から施行されることになった。長谷川安兵衛教授は「新に計理士たらんとする校友に」と題する一文を『早稲田学報』(昭和二年十月発行第三九二号 六―八頁)に寄せている。それによると、当時校友の会計士(それまではこう呼ばれていた)は僅かに十二名に過ぎなかった。しかし今回の計理士法によって、大学令に依る大学において会計学を修め学士と称する者および専門学校令に依る専門学校において会計学を修めこれを卒業した者には無試験有資格者の特典を与えられることになったので、商学部、専門部商科、および専門学校商科卒業生はそれに該当することになった。この時代の進展に応じて重要性を増してきたこの新しい職業に従事する者の増えることを望んでいるのである。

第百三十五表 商学部学科課程表(昭和2年度)

 専門部各科科長の新任――専門部では従来の教務主任の制を廃し、新たに科長を置くことになり、商科科長には小林行昌が新任された。

 商学部科外講義――ペンシルヴァニア大学教授ヒューブナー博士を招いて、次の科外講義が行われた。

十一月八日 人生の金銭的価値

十一月九日 米国の財産保険事業に於ける現下の問題

十一月十日 投機及証券市場を主とする米国経済界の新傾向

また東京朝日新聞社経済部長牧野輝智氏の科外講義が連続三回に亘って行われた。

十一月二十五日 本年の金融問題

十二月二日 我国の予算

十二月九日 貿易と為替

なお十一月十一日ヒューブナー博士の歓迎会が行われたが、同博士は日本における他大学での講演会に比べて本大学のそれは聴講者が頗る多数であったことを深く喜ばれたと報じられている(同誌 六七頁)。

昭和三年

 早稲田専門学校役職者の交替――昭和三年二月坂本専門学校長と高井教務主任が辞任し、校長には平沼淑郎教授が兼任し、商科教務主任には中田浩教授が嘱任された。この人事は前年の十二月中旬より専門学校の政治経済科および商科の一部学生が校名改称を求めて集会を開き、盟休するという事態に陥ったための責任を執ったものである。

 学科課程の改革――商学部では学科課程の改革を企図し、昭和二年十二月に文部大臣に認可申請を行っている。ここには改革の方向と内容が示されている。

商学部ニ於テハ全科目ヲ必修トセル関係上経済学及商業学ノ特殊学科ヲ十分研究セシムル能ハザルノ傾向アリ、是等ノ欠陥ヲ補ヒ時代ノ趨勢ニ応セシメンガ為、必修科目ノ外新ニ選択科目ヲ設ヶ之ヲ経済、貿易、金融、会計、保険及交通ノ六科ニ分チ、第二学年以上ノ学生ニ一科ヲ選択必修セシム。必修科目ニ於テハ経済学及商業学ノ基礎学科ノ研究、方法論、法学及語学ノ研究ヲ目的トシ選択科目ニ於テハ経済学及商業学ノ特殊学科ノ研究ヲ目的トス。而シテ選択科目ノ研究ガ専門ニ偏スルノ虞レアルヲ以テ各分科ニ共通科目ヲ配当シテ之ガ緩和ヲ計レリ。(『昭和二年二月起 学則認可関係書類』)

(『早稲田大学百年史』第三巻 六七二頁所収)

 教員の新任――商学部に新たに長満欽司(取引所論)、倉田庫太(海上保険)、寺島成信(海運経済)が講師として嘱任された。

 留学――商学部助手池田英次郎は取引所論・経営学研究のため四月二十八日出発した。

 商学部学生大会――六月九日十時より大隈小講堂で開催し、約二百名の学生が参加した。校友であり実業之日本社社長増田義一が「社会は如何なる人物を要するや」と題して講演した。その後余興などがあって午後五時半閉会した。

 教員嘱任――専門学校講師に、上坂酉蔵が嘱任され商業通論を担当することになった。

 専門部商科学友会講演会――六月十八日大隈小講堂で「現代の経済組織と其の歴史性」と題して帝国大学教授経済学博士土方成美による講演が行われた。

 商学部役職者の選出――九月十八日の教授会で学部長に平沼淑郎が、協議委員に島田孝一が選出された。

昭和四年

 交通政策学会の創立――昭和三年六月、島田孝一教授を会長として、交通の理論と実際を土台に交通政策一般を討究して社会に貢献しようという趣旨で設立された。講義としては島田教授が原書研究を、鉄道省調査課長瓜生卓爾が鉄道経済論を担当することとした。その他講演会や夏季休暇を利用しての実習も行った。機関誌『交通研究』を年三回刊行することにした(『早稲田学報』昭和四年一月発行第四〇七号 三九―四〇頁)。

 商学部の工業教育についての提言――理工学部助教授三宅当時は商学部の工業教育の必要性について『早稲田学報』(昭和四年二月発行第四〇八号)に一文を寄せている。三宅によれば、当時の教育制度の欠陥の一つは、商学部においては工業教育が無視され、理工学部では反対に経済的教育が軽視されていることであると指摘する。三宅はアメリカのリーハイおよびコロンビア両大学に学んだ経験をもとに、商学部に「商を主とし工を従とする」第二分科を設け、そのための学課配当の私案を提言しているのである(一〇―一二頁)。

 学生生計費調査――早稲田大学社会福利事業研究会では学生の生活状態の実態調査を行いその結果を発表している。その中から、商学部の学生の生活実態に関する部分を抜き出して紹介しよう。

第百三十六表 商学部学生の生活実態(昭和四年)

(『早稲田学報』昭和四年三月発行第四〇九号 三四頁、同誌同年四月発行第四一〇号 五九頁、同誌同年五月発行第四一一号 四一頁、同誌同年六月発行第四一二号 三二―三四頁より作成)

 これを見ると、昭和四年当時の商学部の学生の一ヵ月の学費は平均して四十一円程度であるが、この数字には自宅通学者も含まれているから、⑶の住居費を要する者五十五名を調査対象者のうちの自宅外通学者と看做すと、学資の多い順に累積していくと、三十一円以上の支出者が五十五名になるので、自宅外通学者の学資は、概ね月額三十円程度以上は要したのではないかと考えられる。大川一司他の『長期経済統計8 物価』によると、当時の製造業男子一人当りの賃金は日額二円五銭ないし二円十六銭である。平均二円十銭程度とみると一ヵ月二十七日労働するとして五十六円七十銭である。これは世帯を形成している者が多いと考えられるから、一ヵ月の学資平均四十一円は製造業男子の賃金に比べてかなり高額の出費とみられよう。しかも⑵の負担者別を見ると、これらの学資は父兄親族の全額負担が七四%を占め、一般的に言って当時の早大学生の父兄は比較的裕福な階層であったとみられよう。しかしその反面少数とはいえ一部自弁ないし他に依存する者が十一名(総数の一二%)もいることはかなり無理をして苦学している者がいたことも見逃せない点であろう。

 教員の辞任――出井盛之教授は昭和四年夏にジュネーブの国際連盟国際労働局に赴任されるため辞任された。

昭和五年

 教員の昇任――上坂酉蔵商学部助教授が教授に昇任した。

 留学生派遣――大正十五年商学部卒業の校友小島十吉が本大学留学生として財政学研究のため二ヵ年間欧米に派遣されることになった。

 留学生・海外視察派遣――大正十五年商学部卒業の校友中島正信が本大学留学生として商業英語研究のため二ヵ年欧米に派遣されることになった。また小林行昌教授が板谷奨学資金によって、約一ヵ年海外学事視察に派遣されることになった。

 武信由太郎教授の逝去――四月二十六日商学部武信由太郎教授が胃癌のため逝去された。門下生である伊地知純正によれば、「商学部の英語といふものは、今日迄先生一人で背負はれておったのである。だから今の商学部創立以来の商業英語といふものは、実に先生を以て始まって、逝くなられる今日迄、先生の力によったのである。……(中略)……我商学部の商業英語といふものが全く武信式、即ち実直、真面目で口先許りでない、ほんとうに底力のある教授法といふのが武信先生の性格によって現はされた、終始一貫のプリンシプルであった」(『早稲田学報』昭和五年五月発行第四二三号 五三頁)。武信は文久三(一八六三)年の生れ。札幌農学校を卒業、中学校教師、『ジャパン・メール』記者を経て明治三十年『ジャパン・タイムス』を創刊、翌年『英語青年』を創刊、明治三十八年早稲田大学に奉職。同年『ジャパン・イヤーブック』を創刊し、日本を海外に紹介することに努力した。そして独力で「当時ほとんど唯一の信頼できる」『武信和英大辞典』を大正七年に刊行し、英語学界に偉大な貢献をされたのである(伊東克巳「商学部の英語と三人の英作文家」『早稲田商学』第二四九号所収を参照されたい)。

 助手任命――本年度において八木常三郎、中島正信、青木岩男、佐藤孝一が任命された。

 中田浩教授の逝去――商学部中田浩教授は五月二日教授会を終え帰宅後苦痛を訴え、急性丹毒と診断され五月六日急逝された。四十歳であった。大正五年大学部商科を卒業し、十五銀行に就職したが、二年で退職し、校友昆田文次郎氏の好意で留学の機会を得、ハーバード大学で会計学をコール教授に学び、次いでダートマス大学に学び大正十年帰国して母校に奉職した。亡くなる前の三年間は早稲田専門学校の教務主任を務めた。著書『会計学原理』の出版準備中であった(田中穂積「中田浩教授を追憶す」『早稲田学報』昭和五年六月発行第四二四号 四六―四八頁)。

 教員嘱任――商学部講師として経営経済特殊研究担当に池田英次郎、近世経済史特殊研究担当に吉田忠輔、簿記・会計監査担当に岡田誠一、会計学担当に原島茂が嘱任された。

 吉田忠輔講師の逝去――商学部吉田忠輔講師は八月十四日急性腹膜炎で急逝した。氏は十三年商学部を卒業とともに助手に任命され、昭和二年私費でドイツへ留学、ベルリン大学で学び、ヨーロッパ経済史を専攻した。昭和五年六月帰国して講師となり、教壇に立って十数日で病を得て入院し急逝したのである。

昭和六年

 役職者新任――専門部商科教務主任に原島茂、専門学校商科教務主任に上坂酉蔵が就任した。

 教員嘱任――専門部商科教授に大久保常正、岡田誠一、前田定之助、上坂酉蔵の四氏が嘱任された。

 総長の交替――昭和六年七月高田総長は病気静養のため辞任し、後任に常務理事田中穂積が就任した。

 学位授与――昭和六年六月付を以て文部省より小林行昌「関税と物価」、北沢新次郎「産業組織論」に対し商学博士の学位授与の認可があった。

 科目担当者の交替――遊佐教授病気のため民法担当が商学部で中村万吉教授に、専門部商科で井野英一講師に交替した。

昭和七年

 稲門経済倶楽部の設立――昭和六年十二月五日経済学会創立満十五周年祝賀と会誌『稲門経済』第六号の出版を記念して集会が催された。会長平沼博士、副会長小林(行昌)博士を始め会友上坂教授以下多数の学会の先輩が参加した。その席上学会出身者相互の親睦と学会の後援を目的として「稲門経済倶楽部」の設立が決定した。

 海外視察への派遣――伊地知純正教授を約半ヵ年海外視察に派遣することを決定した。

 学制改革――かねてより調査研究を加えてきた学制改革案が成り、昭和七年四月より実施されることになった。田中穂積総長は『早稲田学報』(昭和七年四月発行第四四六号)に「我が学園の学制改革」という一文を寄せている。それによると、今回の学制改革の趣旨は「飽までも学生の自然的研究を本位として、教授は学生の研究を指導誘掖提撕して、学問討究の興味を刺戟作興しよう」(六頁)という点にあった。その具体策として大綱を記せば、第一に授業時間数を減らして、学生が自主的に研究できる時間を確保すること、第二に専門科目の必修すべき科目数を減らし、根幹となるべき学科目を系統的に学べるようにすること、第三に選択科目を設けて一定の制限の下に自由に学生の個性に応じて選択履修できるようにすること、第四に演習討論に重きを措き、学生同士の間に自由討究の学風を助長すること、第五に試験勉強の弊を改めて、できるだけ平常の成績で学力を評価すること、第六に講義は適当な教科書ないし講義の概要を記したプリントを配付して、筆記に精力を費すのをさけることが改革の要点であった。

第百三十七表 商学部学科課程表(昭和七年度)

 教員の嘱任――佐藤孝一、八木常三郎、中島正信が講師に嘱任され、佐藤は商学部の「名著研究」と専門部商科の「簿記」を、八木は商学部の「名著研究」、中島は商学部の「英語」をそれぞれ担当した。

昭和八年

 恩賜記念賞・優等賞の制度の新設――本年四月より学生の勉学奨励を目的として、その論文、著作、その他特殊の研究で成績卓絶なものに恩賜記念賞を、また各学部・付属学校の卒業生・修了生で学業成績優秀な者に対し、優等賞を授与することになった(『早稲田学報』昭和八年二月発行第四五六号 六頁)。

 優等賞の授与――昭和八年四月三日挙行の第五十回卒業証書授与式に際し、商学部からは鈴木栄吉、加藤登、斉藤達雄、専門部商科からは水民直、玉致材が優等賞を授与された。

 学位授与――四月六日文部省より末高信「社会保険の本質」に対し商学博士の学位授与に関する認可があった。

 教員の嘱任――商学部講師として北村正次(ドイツ語)が、専門部商科講師として神原甚造(民法)が嘱任された。

 平沼淑郎教授の古稀祝賀会――十月十六日平沼教授の古稀祝賀会が永楽倶楽部で開かれた。参会者は二百名を超える多数に上った。

昭和九年

 稲門計理士会の設立――昭和四年稲門出身の計理士によって稲門計理士懇話会が設立されていたが、計理士として登録された校友は数百に達したので、社交団体から研究団体に発展させるために稲門計理士会を設立するため昭和八年十二月九日設立発起人会が開かれた。次いで昭和九年四月二日芝浦「いけす」において創立総会が開催された。全国各地における校友計理士は六百六十二名に及び、全計理士数の一割以上を占めるに至った。大会では「会則」の制定、十九名の常任幹事が決まった。

 優等賞の授与――商学部からは高木勇二、東海林健吾、井口勝明に、また専門部商科からは村井安太郎、星原巌に優等賞が授与された。

 学位授与(四月一日付)――武田鼎一「全体観的社会経済学」に対し商学博士の学位が授与された。なお同氏は明治四十年大学部商科の出身で、実業界を経て昭和三年関西大学経済学部教授に就任している。

 教員の新任――講師に葛城照三が嘱任され、商業数学を担当することになった。

 大学院同攻会の設立――昭和八年六月総長を会長、林癸未夫教授を副会長に戴く大学院学生有志による「明志会」は昭和九年四月より「大学院同攻会」と改名し、会則も定めて再発足することになった。その目的とするところは「会員各自ノ学術的研究ノ発表ト其ノ相互批判」(第二条)をすることにあった。

 学位授与(六月二十六日付)――島田孝一「交通賃率の研究」に対し商学博士の学位が授与された。

 商学部大会――六月十六日正午より大隈講堂で開かれた。会長平沼学部長の挨拶、田中総長の祝辞(総長東北・北海道へ出張不在のため代読)ののち、理化学研究所々長大河内正敏博士の「農村の工業化」と題する講演が行われ、余興等があって午後六時三十分散会した。

 早稲田大学経済史学会の創設――昭和九年五月「経済史、社会史、法制史、政治史、思想史等ノ相互研究並ビニ其ノ発表トヲ目的」として、平沼淑郎博士を会長とし、大学院学生入交好脩を幹事として発足した。六月七日には滝川政次郎を招いて座談会を、同二十日には大隈講堂で東京帝大の土屋喬雄教授による「経済史的にみた明治維新」と題する科外講義を行うなど活発な活動を開始した。

 科外講義――正規の講座における講義を補完するために十一月十四日「新種保険の発生とその将来について」と題して損害保険事業研究所主事北沢宥勝よる科外講義が行われた。学生約百五十名が出席し、講義後講師を交えて晩餐を共にし談話を通じて啓発を受けた。

昭和十年

 大学院同攻会の第十五回研究会――十一月二十四日午後二時より図書館応接室において葛城照三が「損害保険会社の責任準備金」を、堀井実が「十六、七世紀に於ける物価の研究に就て」を報告した。また十二月二十二日(第十六回)には「文学に顕れたる幕末動乱期の一齣――島崎藤村作『夜明け前』(第一部)」を入交好脩が報告した。

 商学部校舎改築事業――昭和七年創立五十周年を迎えた早稲田大学は、学制改革を行う一方、旧校舎の改築を進め商学部を除く大部分が改築され、理工学部の改善充実に着手していた。従って「専ら理工学部の改造に努力し略〻一段落を告ぐるまで、商学部の改築を延期すると云ふことは実際余儀なき状態」(田中穂積「近来の快心事」『早稲田学報』昭和十年六月発行第四八四号 三頁)にあったのである。そこで昭和九年頃から商科出身者の集りにおいて、校友の寄附によって改築を進めようという議が起り、平沼学部長に相談のところ、学部長は「本企てに対し感激之が実現の速かならんことを冀望せられた」(同誌第四八〇号 三二頁)ので、大学部商科および商学部出身者を発起人とする「早稲田大学商学部校舎改築促進会」が結成されることになった。そして三月十四日発起人会、四月二十五日に実行委員会を開き、会長には平沼学部長が就任した。改築計画を見ると、鉄筋コンクリート四階建一部地下室付で、建坪二六七坪七合九勺、延坪一二〇五坪五勺となっている。配置は地階が学生部室、小使室、物置、一階が部長室、教務主任室、講師室、事務室、応接室、研究室、図書室、標本室、二階が教室(二十八坪)六室、三階が教室(二十八坪)六室、四階が指導室(十八坪)二室、大教室(八十二坪)二室である。予算概要を見ると建築費が十六万八千円、附帯設備費(電気、暖房、給水、便所)が三万六千円、研究設備費(図書室、標本室、研究室等)が五万円、器具費が三万円、事業費及予備費が一万六千円で、合計三十万円となっている。そこで募集金額を三十万円とし、一口金三十円五ヵ年賦年二回分納を最低とする方法で募集することになった。以上のような計画によって昭和十年五月一日募金を開始したのであったが、僅か一ヵ月で申込みは予定額の約三分の一である九万余円に達した。そして目標額の三十万円に達したのは昭和十二年二月頃で、最終的には募金予定額をはるかに超える三十五万余円に上ったのである。しかしそれは募金を開始してから三年五ヵ月後の昭和十三年十月のことであった。工事は昭和十二年九月二十日に起工し、同十三年十月八日に竣工し、同日新校舎四階の大教室において落成式が挙行された。商学部は大学に依存することなく独力で校舎の改築という大事業を成就したのである。(しかし誠に遺憾なのは、この大事業の完成をまたれることなく促進会会長であり学部長であった平沼淑郎先生が完工の二ヵ月前の八月十四日脳溢血のため急逝されたことである。大学はその功徳を記念するために彫刻界の泰斗である朝倉文夫氏に平沼先生の胸像の製作を依頼し、新校舎玄関ホールの正面に安置した)。

 教員嘱任――入交好脩が商学部講師に嘱任され、指導実習を担当した。

 学位授与(三月二十八日付)――長谷川安兵衛「原価会計学」に商学博士の学位が授与された。

 専門学校長の交替――早稲田専門学校長平沼淑郎が辞任し、後任として教授法学博士中村万吉が嘱任された。

 優等賞受賞者――四月三日の第五十二回卒業証書授与式に際し商学部からは林容吉、久山幸生、大月七郎に、専門部商科からは岡田祥二、大杉健一郎に優等賞が授与された。

 商学部大会――六月十五日大隈講堂で開催された。平沼学部長の挨拶ののち尾崎行雄の「前途の方針」と題する講演が行われた。講堂は学生で満ち、廊下にあふれた学生が六百名にも及んだと報じられている。その後種々の余興が行われて午後七時半閉会された。

 大学院同攻会――六月二十九日第二十三回研究会が行われ、「英国の新貿易政策」を北村正次が、「会計組織論の学的生成に就て」を佐藤孝一が報告した。また九月二十八日の第二十四回研究会では、「経営と景気変動」を池田英次郎が報告した。

昭和十一年

 学位授与(昭和十年十二月二十七日付)――上坂酉蔵「海上貿易に於ける売買慣習の商学的研究」に対し商学博士の学位が授与された。

 大学院同攻会――一月二十五日の第二十八回研究会で入交好脩が「徳川封建制の本質に就いて」を報告し、二月二十二日の第二十九回研究会では北村正次が「伊太利の貿易政策」を報告した。

 優等賞受賞者――商学部から屋井深造、滝上文男、杉本健が受賞し、専門部商科から大石茂が教職員賞を受賞した。

 原島茂教授の逝去――昭和十一年三月二十二日急性肺炎で逝去。教授は明治四十年東京高商を卒業、保険業界に携ったが大正十一年本学に奉職し、昭和六年以降亡くなるまで専門部商科の教務主任を務め、小林行昌科長を補佐した。専門は商業数学と会計学であった。

 教員の嘱任――専門部商科スタッフとして、田村秀文(英語)、村瀬玄(簿記・会計学)、野口勇(英語)、東海林健吾(簿記)が講師に嘱任され、林容吉が商学部との兼務で教務補助に嘱任された。また専門部商科教務主任に末高信が就任した。商学部講師に堀井実が嘱任され、田村、東海林も兼任することになった。

 留学生の派遣――商学部講師北村正次は経済政策研究のため欧米へ一ヵ年半留学することが決まった。

昭和十二年

 各種の賞の受賞者――昭和十二年四月卒業者の中で、優等賞を商学部からは二宮正明、竹ノ谷才次郎、狐塚泰明が、専門部商科からは斎藤英明、河田早苗が受賞し、恩賜記念賞を商学部の鵜野金弥が、教職員賞を商学部の本橋勉が受賞した。

 教員の辞任――商学部講師堀井実と同じく寺島成信の両氏は辞任することになった。

昭和十三年

 講師の嘱任――商学部講師に戸川政治が、商学部兼専門部商科講師に林容吉が、専門学校講師に池田英次郎が嘱任された。

 優等賞受賞者――昭和十三年四月卒業者の中から商学部からは青木茂男、平山俊一、大川亮太郎が、専門部商科からは滝本卓三、坪井英之助が、専門学校商科からは大久保武男が受賞した。

 天野為之博士の逝去――天野為之博士は昭和十三年三月二十六日逝去された。天野は明治十五年(一八八二)東京大学文学部政治理財科を卒業後、東京専門学校創立に参画し維持員兼講師となり、明治三十二年法学博士の学位を授けられ、明治三十七年商科の開設とともに科長に就任した。明治四十年には理事、大正三年(一九一四)学長代理、大正四年八月学長に就任し大正六年八月、いわゆる「早稲田騒動」に際し早稲田大学教授および学長を辞任した。この間、三十五年に亘って早稲田大学の発展に尽力し、学生の教育に精励した。大学部商科では開設以来大正初年まで経済原論・商工政策などの科目を講じた。この間、東京高等商業学校(現一橋大学)の講師も兼ね、明治後半期から昭和初年にかけて経済学界の権威となった福田徳三博士もその門下であった。天野は経済学者として傑出し、前述の福田によれば、福沢諭吉・田口卯吉とともに明治前期の三大経済学者の一人で、経済学界への功績としては「我が国における経済科学の創始者」であり、また西欧の経済学の翻訳などを通じて我が国への自由主義経済思想の普及に貢献したのであった。天野はまた経済評論の分野でも活躍した。早くから雑誌の編集、新聞への寄稿などを通じて経済・財政の問題を論じ、経済思想の啓蒙・普及に努めた。特に明治二十八年創刊の『東洋経済新報』の経営を明治三十年から十年間引き受け、自らも大いに論陣をはって、その筆力によって世論が喚起され改善の方向を見出し得た問題も枚挙にい

第百三十八表 商学部学科課程表(昭和12年度)

随意科目(昭和12年度)

とまのない程であった。天野はまた教育制度および教育政策に関する幾多の提言をするとともに自ら教育事業に献身した。特に帝国大学法科大学から経済科大学の独立、東京高等商業学校の商科大学への昇格など経済に関する高等教員機関の拡充、中等教育への職業教育の導入、他方で実業教育における一般教育の充実など重要な制度改革を提起しその実現に努めたのである。その構想は早稲田大学商科の創設、早稲田実業学校の開校(明治三十四年)となって結実した。早稲田実業学校の校長としては明治三十五年から大正四年までと、大正七年から昭和十三年逝去されるまで職責を果たした(市川孝正「天野為之」『早稲田フォーラム』第五七.五八号所収を参照)。

 教員の昇任および兼任――佐藤孝一が商学部助教授兼専門学校講師に嘱任された。

 小野梓賞の受賞――専門学校商科三年池田正勝、同吉田三次郎、商科二年上田一郎、同田中久孝が受賞した。

 講師人事――中村宗雄が商学部講師を兼担し、西宮藤朝が商学部講師を辞任した。また、入交好脩が専門部商科講師に嘱任された。

 平沼淑郎商学部長の逝去――八月十四日大学理事・商学部長平沼淑郎博士は脳溢血のため急逝された。享年七十五歳であった。八月十七日小石川の伝通院において寺尾法学部長が葬儀委員長となり葬儀が執り行われた。各方面の会葬者は二千名に及ぶ盛儀であった。夏季休暇中であったため、大半の学生は帰省中であったので、十月三日大隈講堂において商学部の追悼式が御遺族・教職員・商学部学生参列の上挙行された。平沼は元治元(一八六四)年美作国(岡山県)津山に生れ、明治十七年(一八八四)東京大学文学部政治学理財学科を卒業された。その後岡山県尋常師範学校教諭・教頭、第二高等中学校教授、市立大阪商業学校校長、大阪市助役、市立大阪高等商業学校校長を経て、明治三十七年早稲田大学講師として本学に招聘された。それはその前年より早稲田実業学校に出講しており、同校校長でもあった天野為之とは大学の二年後輩でもあって昵懇の間柄であったからである。明治四十四年教授、翌四十五年評議員(逝去まで重任)、大正四年早稲田中学校校長を兼任(大正六年まで)、大正六年維持員・理事(逝去まで重任)、大正七年より同十年まで学長、同七年法学博士、大正十二年商学部長(逝去まで重任)、昭和三年より同十年まで早稲田専門学校校長として要職を歴任した。大学では初め西洋商業史のちに商業史、経済史などの講義を担当した。博士は経済学・商業史・経済史・社会思想・経済問題など広い分野に亘る二十冊に及ぶ著訳書を刊行しているが、専攻の経済史の分野での研究の中心は「寺院門前町」の研究であって、これらの研究業績は門下の入交好脩によって昭和三十三年『近世寺院門前町の研究』として刊行された。平沼の業績は枚挙に遑はないが、その主なる功績の第一として、大正六年のいわゆる「早稲田騒動」の難局の収拾に際し、代表理事として、更に大正七年には学長として問題解決の焦点である校規の改正を成し遂げたこと、次いで大正九年の「新大学令」の施行に伴う専門学校から名実共に大学への移行を成就したことはその手腕と人柄に俟つところ大であった。その第二は、昭和五年社会経済史学の分野における全国的な組織「社会経済史学会」の創設に当って理事代表(会長)に選ばれ、逝去の日まで斯学の発展のために貢献したことである。第三には商学部の校舎の改築に当って、その促進会の会長として商学部校友の寄附金を集め、大学に依存することなく自力で改築を成し遂げるために力を注いだことである。第四には大学部商科の創設以来戦前の昭和期を通じて、天野為之田中穂積とともに商学部の充実・発展のために尽くした貢献は測り知れないものがある(入交好脩「早稲田大学における平沼淑郎博士」『経済史学』第十二輯所収参照)。

 商学部長の交替――八月十四日の商学部長平沼淑郎の急逝に伴い、十月一日付で北沢新次郎教授が後任として嘱任された。

 商学部校舎の落成――商学部校友の寄附金(三十五万余円)によって校舎の改築事業を進めてきたところ、昭和十二年九月着工した工事は昭和十三年十月竣工し、十月八日落成式を行い、新校舎は「母校へ贈呈され学園内に一偉観を添える」ことになった(『早稲田学報』昭和十一年十月発行第五二四号 二八頁)。田中穂積学長が落成式の式辞で「私寡聞ではありますが、之を世界の広きに求めて他に例のない美挙であらう」(同誌同号 二九頁)と称えたのはよく理解できるところであろう。

昭和十四年

 教員の逝去――昭和十四年一月九日商学部・法学部教授の柳川勝二氏が逝去された。享年七十二歳であった。氏は明治二十四年東京大学法科を卒業後大審院判事、宮城控訴院部長、大審院部長を歴任して、明治三十五年本学に奉職し、逝去に至るまで約四十年間教鞭を執った。商学部では明治三十八年以降昭和三年まで商法を担当した。

 女子入学の許可――四月より学則が改正されて商学部への女子の編入学が認められることになった。

 教員の異動――北村正次(商学部)、葛城照三(商学部・専門部商科)、田村秀文(専門部商科)、野口勇(専門部商科)が助教授に嘱任され、商学部講師に山本忠興、西宮藤朝、草野豹一郎、呉主恵が、専門部商科講師に高井忠夫、中村弥三次が嘱任された。また中村進午、牧野輝智、野村淳治が専門部商科講師を辞任した。

 優等賞受賞者――昭和十四年度四月卒業生の中で、商学部からは山田重郎、田原三武郎、池田友治郎が、専門部商科からは原秀雄、井上利貞が、専門学校商科からは吉田三次郎が優等賞を受賞した。

 教務主任人事――専門部商科教務主任が一名増員されたのに伴って中島正信が就任し、また専門学校教務主任には上坂酉蔵が就任した。

 大学役職者――選任された大学役職者のうち、商学部関係者からは、田中穂積が総長・理事・維持員・評議員を重任し、北沢新次郎が維持員および商学部長を重任した。更に小林行昌が維持員に、小林新、島田孝一高杉滝蔵長谷川安兵衛が評議員に就任した。

昭和十五年

 学位授与――昭和十四年十二月二十八日付で小林新「商業計算と対数」に商学博士の学位が授与された。

 教員の異動――入交好脩が助教授(商学部)に嘱任され、専門部商科講師に平竹伝三、安部民雄、大浜信泉服部嘉香、河辺㫖が嘱任された。また草野豹一郎が商学部講師を、寺尾元彦、杉山令吉が専門部商科講師を辞任した。

 優等賞受賞者――昭和十五年度四月卒業生の中で、商学部からは道辻峰雄、村田辰四郎、中村虎夫が、専門部商科からは村尾正之、日野鉄也が、専門学校商科からは上田一郎が優等賞を受賞した。

 理事就任――三月二十六日理事・文学部長吉江喬松の逝去により理事一名が欠員となったのに伴い、五月十五日付で商学部長北沢新次郎が理事に就任した。

 評議員嘱任――専門部商科選出評議員に末高信が嘱任された。

 役職者人事――商学部教務主任が一名増員となったのに伴い、小林新が嘱任され、また専門学校教頭に上坂酉蔵が嘱任された。

 興亜経済研究所の創設――商学部では昭和十五年の夏季休暇に入る直前に興亜経済研究所を学部内に設置した。しかしこうした機関は全学的な規模で施設すべきであるという意見が大勢を占め、北沢学部長と小林新教務主任にその取り扱い方を一任した。その結果両名は各方面に接渉し賛同を得たので、九月二十一日政治経済学部、法学部、商学部の諸教授による設立準備委員会が開催され、定款、役員、研究員、賛助員等が決まり、ここに研究所が創設されるに至った。この研究所の設立に当っては、校友板谷宮吉、石田武亥の二氏および早稲田大学出版部その他の方々の寄附によって事業資金として運用することが可能となったことが大きく寄与した。研究所の目的は「興亜経済ニ関スル調査及ビ研究ヲ行ヒ其ノ成果ノ活用ヲ図リ、国策ニ寄与スル」ことであった。組織と人事を見ると、理事長が北沢新次郎、常任理事が小林新、研究部第一部長(政治)中野登美雄、研究部第二部長(経済)久保田明光、研究部第三部長(法律)大浜信泉、資料部長時子山常三郎、編輯部長上坂酉蔵となっていた。昭和十六年一月十八日に役員会を開き、七つの共同研究会が組織され、四月には機関誌『興亜政治経済研究』第一輯を刊行した。なお商学部では昭和十五年の四月の新学期から「東亜経済論」という科目が新設され、嘉治隆一講師が担当することになった。

 専門部商科創立二十周年記念式――九月二十四日大隈講堂で創立二十周年の記念式典が挙行された。小林科長、田中総長の式辞、東京商科大学学長高瀬荘太郎、教授代表伊地知純正、卒業生総代小西彦太郎の祝辞があり、終って商科大会に移り、校友日清生命社長吉田秀人の講演が行われた。翌二十五日は明治神宮外苑運動場で体育大会が行われた。

昭和十六年

 戦争と学苑――昭和十六年の新春に当り田中穂積総長は『早稲田学報』(昭和十六年一月発行第五五一号)に「回顧と展望」という一文を寄せている。これを読んで痛ましく感じるのは、中日戦争以来早稲田大学の卒業生で応召を受けた者の数が昭和十六年の初頭の段階で五千七百名に上り、不幸にして戦没された方が二百七十六名の多数に上ったという事実である。この頃の『早稲田学報』には「戦線の華と散った校友の面影」という遺族からの文章や「戦地便り」という校友からの消息が掲載されている。そればかりではない。現実に時局の進展は、直接大学に及んできたのである。十月三日には戸塚運動場で、全教職員・学生が参集して、学苑関係戦没者慰霊祭が執り行われた。

 早稲田大学報国隊の編成――昭和十六年七月一日大学は全教職員および在京学生を集め、文部省の示達を伝えた。それは緊迫した情勢の下で必要なことは不足している労働力を調達することであり「文部省の本部から各学校に対して一定の期日迄に一定の場所に一定の人数が集合して勤労奉仕に服することを通牒した場合には、直ちに其要求に応ずる準備を整へて貰ひたい」(田中穂積「早稲田大学報国隊編成に就て」『早稲田学報』昭和十六年八月発行第五五八号 二頁)ということであった。編成は軍隊の組織に準じ、商学部の学生は第八部隊として編成されることになった。勤労の時間は毎日午前八時より午後四時もしくは五時までであって弁当を各自持参して集合するよう指示されている。こうして文部省より通知があれば、いつでも学業を中断して勤労奉仕に応じなければならないことになったのである。

 教員の逝去――商学部教授経済学博士牧野輝智は八月二十九日逝去された。博士は明治三十年東京専門学校を卒業後中学校で教員をしたのち、朝日新聞社に入社し経済方面を担当し、編輯局主幹経済部長を経て本学に奉職した。著書には『貨幣学の実証的研究』『為替問題十講』『金融論』『農業金融』などがあり、商学部では昭和九年から十六年まで財政学の講義を担当した。

昭和十七年

 繰上げ卒業――第五十九回卒業証書授与式は例年四月三日に行われていたのであるが、国家の要請により三ヵ月繰上げて太平洋戦争開戦後間もない昭和十六年十二月二十五日に挙行された。

 優等賞受賞者――昭和十六年十二月卒業生の中で、商学部からは小山田誠、平幡照保、錦織清隆が、専門部商科からは大沢博、宅間美治雄が、専門学校商科からは柴芳一が優等賞を受賞した。

 教員の異動――講師戸川政治(航空経済論)が教授に昇任し、また佐藤孝一が教授に、林容吉が助教授に嘱任され、専門部助教授に呉主恵、東海林健吾が嘱任された。商学部講師に江間道助(ドイツ語)、小林龍雄(フランス語)、松田治一郎(社会学)、上田輝雄(工業各論)、沖中恒幸(英書講読・指導演習)、平竹伝三(産業立地論)、大浜信泉が、専門部商科講師に植松考穆(国史)、大野巌(工業概論)、林信雄(法律通論・憲法)、山田和男(英語)が嘱任されている。役職者として専門学校商科教務主任に池田英次郎が就任した。なお樋口清策、遊佐慶夫、田中穂積がこの年商学部教授を辞任した。

 長谷川安兵衛教授の殉職――商学部教授長谷川安兵衛博士は昭和十七年六月陸軍より嘱託として南方方面へ出張を命ぜられ、四ヵ月に亘ってジャワ.セレベスをはじめ南方各地を巡歴し、主として南方経済開発上の会計制度・原価計算の実地指導に当った。用務を終え十月二十九日台北を出発、空路福岡へ向・たが、搭乗機の事故のため逝去されたのである。博士は大正八年大学部商科を卒業、直ちに増田貿易株式会社に入社したが二年程で退職し、大正十年母校留学生として欧米に派遣され、アメリカではペンシルヴァニア大学、イギリスではロンドン大学で会計学を研究し、大正十二年八月帰国して講師に嘱任され、同年末に助教授、同十四年には教授に昇進、昭和十年には商学博士の学位を授与された。長谷川は「早稲田の会計学の歴史に不滅の足跡を残した」(青木茂男・染谷恭次郎「会計学の科目と人の変遷」『早稲田商学』第二四一号 四頁)偉大な学者であった。昭和三年から同十六年の十数年の間に二十二冊の著書を刊行し、「著作の量において驚異的であったばかりでなく、質的にもまた予算統制、標準原価の研究は、わが国でのこの領域での最初の著であったり、また商学博士の学位論文とした原価会計学の力作があったり、統計的会計学によって今日の管理会計への端緒をひらいたり、株式会社会計の本格的研究があったりした」(同上 四三頁)のであって、我が国会計学の発展に尽した貢献ははかり知れない程大きなものであった。更に昭和十二年末に創立された日本会計研究学会の創立発起人の一人として、今日の学会発展の基礎をつくり、また昭和十年代に入ってからは学界・官界の各種委員会の委員として我が国会計学界を代表する学者の一人として、常にその中枢を占めて公的な活動にも献身したのであった。

 繰上げ卒業――在学年限臨時短縮令の適用によって、昭和十七年九月、六ヵ月繰上げて卒業証書授与式が行われた。

 優等賞受賞者――昭和十七年九月卒業生の中で、商学部からは川上政一、庄野正一、矢島保男が、専門部商科からは牛山実、荻野広が、専門学校商科からは牛島盛光が優等賞を受賞した。

昭和十八年

 在学年限短縮と大学院問題――戦時下のため大学教育の年限短縮という非常措置が採られたので学力の低下、優秀な研究者の確保の困難がさけられない事態を招来した。そこで政府は毎年全国官公私立大学の卒業者より五百名を文部省で選抜し、これを七つの帝国大学に配分して研究に従事させ、年額千円の奨学金を数年間支給し、同時に徴兵猶予の特典を与えようという計画が立てられていた。田中総長はこの計画は官学万能の旧態を復活し、我が国の文化の発展を阻害するものとして、慶応大学の小泉塾長と協力してその計画の実現に反対して所信を貫いた(田中穂積「学制改革と大学院問題」『早稲田学報』昭和十八年一月発行第五七五号 八―九頁、市川孝正「田中穂積、その人と業績」『早稲田商学』第二九四号 一二一―一二二頁)。

 定年制の実施――昭和十三年に教授定年制(七十歳定年)が施かれ、五年後の昭和十八年から実施されている。この年定年を迎えたのは商学部では、勝俣詮吉郎、高杉滝蔵の二教授と専門部商科では大束直太郎教授であって、昭和十七年十二月十一日帝国ホテルで他の十五名の方とともに大学主催の送別会が催された。また、両氏は名誉教授に推薦された。

 教員の異動――この年に教授に嘱任されたのは、葛城照三(商学部・専門部商科)、北村正次(商学部)、佐藤孝一(専門部商科)、田村秀文(専門部商科)、野口勇(専門部商科)である。また、専門部商科講師に沖中恒常、鈴木金太郎、寺田四郎、戸川政治、上井磯吉が嘱任され、時子山常三郎、北村正次、長場正利が同講師を辞任した。

 繰上げ卒業――本年も卒業が半年繰上げられて九月二十六日に卒業式が行われた。

 優等賞受賞者――昭和十八年九月卒業生の中で、商学部からは車戸実、山下勇三郎、原田俊夫が、専門部商科からは山田三郎、小野沢靖之が受賞した。

第百三十九表 商学部学科課程表(昭和十八年度)

 学徒出陣――昭和十八年十月十五日出陣学徒壮行会が戸塚道場で行われた。これは在学生の徴兵猶予の特典の停止に伴うものである。出陣する学徒は六千名、教職員ならびに二万の学生が参列した。

 名誉教授高杉滝蔵の逝去――昭和十八年十一月五日高杉名誉教授が逝去された。享年七十四歳であった。高杉は明治二十五年ノースウェスタン大学、同二十九年デポウ大学を卒え、明治三十一年母校デポウ大学の助教授になった。その間Ph・Dの学位を得ている。同三十五年から早稲田大学に迎えられ、大学部商科で英語・英会話などを担当し、昭和十年からは英書講読も担当していた。

昭和十九年

 学科課程の改組――昭和十九年度は戦争の激化に伴う学科課程の大幅な改組が行われた。

商学部刷新要綱(昭和十九年度)

一、商学部の改組

時局に鑑み商学部の内容に刷新を施す

二、教育目的

東亜共栄国確立に寄与するために的確に国家目的を把握し、且つ産業技術に関し造詣深き経営指導者を育成するを以て主眼とす

三、学科目決定方針

工業に関する学術修得に重点を置くことを以て特徴たらしむ

四、経過的規定

学生就学の状況を勘案して学科目の編制替を実施す

第百四十表 産業経営学部学科配当予定表(昭和十九年度)

1、外国語は華・独・仏・英の四国語となす。猶随意科目として華・独・仏・英の四国語を教授す。

2、本学科配当表には教練及び体錬の時間を掲載せず。

3、一時間授業の学科は前期後期に纏めてこれを行ふ。

 小林行昌教授の逝去――商学部教授小林行昌は昭和十九年六月二日逝去された。享年六十九歳。小林は明治三十三年東京高商専攻部を卒業し、早稲田大学大学部商科の開設に伴い講師として迎えられ、同四十四年教授、昭和六年には商学博士の学位を授与された。これより先、大正九年四月専門部商科の創設以来商科科長として尽力した。商科では商業売買論、倉庫論、税関論などの幅広い商業学関係の科目を担当し、「通説のうちに豊富な事例を織り交ぜた名講義であった。人柄また極めて円満で、わが今日の商学部を育てた人として記憶せらるべきである」とされている。著書だけでも商業英語・商業数学・商業売買・配給論・倉庫・税関・商業政策・外国為替などの分野に関する三十数冊におよび論文も多数に上り、我が国商業学の発達に多大の寄与をされたのであった(朝岡良平「商学部における貿易実務関係の科目の変遷」『早稲田商学』第二五六号所収の特に一〇三―一〇五頁を参照)。

 田中総長の逝去――昭和十九年八月二十二日総長田中穂積博士が逝去され、八月二十八日大学葬が大隈講堂で執り行われた。享年六十九歳。田中総長の事蹟については加藤中庸編『田中総長追想録』、『稿本早稲田大学百年史』第三巻下(第二分冊)「第六章七 田中総長の死」(八四一―八五二頁)、市川孝正「田中穂積、その人と業績」『早稲田商学』第二九四号(一〇三―一三八頁)に詳しいが、ここでは『早稲田学園彙報』(昭和十九年十月二十五日刊行)に掲載の大学葬における常務理事中野登美雄の捧げた祭詞を引用してその大学に尽くされた大きな功績を偲ぶことにする。

先生は本大学の前身東京専門学校政治科を卒業し操觚界に在ること数年選ばれて学園の留学生と為り遠く欧米諸国に遊び主として財政経済を研究し学成りて帰朝するや学園の講師に嘱任せられ教務主任と為り維持員と為り法学博士の学位を授けられ商科長より商学部長に陞り再び学園の命を受け海外を巡歴し教育制度を視察して帰り理事を経て常務理事と為り終始克く総長を輔佐し時ありて之を代理し専ら学務の監理に任ず経験已に深く学識益々長じ衆望の帰する所推されて高田先生の後を承け学園の総長に就任せらる。爾来茲に十有余年一意学園の完成に努力し拮据経営殆んど寝食を忘れ私学として運営尤も困難なる理工学部の拡張充実を図り学科の増設各種研究所の創立専門部工科の新設等躍新日本の学術並に技術教育の発達に貢献する所多く一面又学制改革を断行し教育界の通弊たる注入主義を矯めて学徒の自主的研究を誘導し或は恩賜記念賞の制を設けて優渥なる天恩を普く学徒に均霑せしめ以て其研究精神を作興し或は率先して一般女子の入学を許し又或は学徒錬成部を創設して大東亜指導の任務を担当すべき学徒の訓育に鋭意し近くは興亜人文科学研究所を開設して自ら其の所長に任ずる等国家要望の教育方針に順応すると共に各学部附属学校の校舎を改築して外観の美を整へ内容の充実と相俟ちて私立大学の権威を発揮し更に学園隣接地及郊外に数万坪の土地を購入して学園百年の大計を確立したり其功烏んぞ没すべけんや

昭和二十年

 商学部校舎の戦災――昭和二十二年四月二十五日発行の『早稲田大学彙報』には「再建後の学園の近況」として他の学部と共に商学部の状況が報じられている。その中で商学部の校舎が戦災を受けたことについて次のように記述されている。

本学部校舎は昭和二十年五月の戦災により西半分が火焰に包まれ大痛手を負ったが、昨今では殆んど授業に支障ない迄に復旧した。……(中略)……また、事務所備付書類は完全に焼失し、昭和四年以前と昭和十九年同二十年度の分の細かい事が判らない。

第百四十一表 昭和戦前期商学部科目・担当教員変遷表(昭和二―十八年)

第百四十二表 商科・商学部卒業生数(昭和2―19年)

4 戦後の旧制商学部

昭和二十一年

 戦後大学の民主化と新しい陣容の構成――敗戦の衝撃の中から戦後復興への途を歩み始めた大学が最初に着手したのは「教育民主化の輿論を具体化した本大学の劃期的なる発足」(『早稲田大学彙報』創刊号 三頁)とされる「校規改正」への取り組みである。大学の維持員会は昭和二十一年二月このことを決議し、教職員、校友二十八名から成る校規改正委員会を設け、三ヵ月に亘って十数回の審議を重ねた結果、五月十五日より新校規の実施をみるに至った。創刊された『早稲田大学彙報』は「改正された新校規はわが学園に取って、改正憲法の国家におけるが如き重要性を持つものである。新校規のうち最も重大なものゝ一つは総長の公選である」(同上)と述べている。こうして昭和二十一年六月十日、教職員六十名(うち職員は六名)、維持員十五名、評議員十五名から成る選挙人によってわが国最初の大学総長公選が行われた」結果、前教授津田左右吉博士が選出されたのであるが、「学園からは特使を遠く奥州平泉に派して再三懇請したが遂に博士の受諾を見ずこゝに再び総長公選は白紙にかへつた」(同上)のであった。そこで六月二十九日再び前述の選挙人によって選挙が行われ「息づまるような決戦投票の結果、商学部教授島田孝一氏が選出せられ、幸ひに其の受諾を得た。茲に於て、本大学は第五代総長として、衆望を担う初の当選者島田孝一氏を迎えて、革新への巨歩を踏み出した」(同上)のであった。次いで七月五日新校規に従って理事の改選が行われ、商学部からは上坂酉蔵教授が三人の常務理事のうちの一人として就任することになった。更に「総長理事の選出に次いで最も重要な学園民主化の課題は各学部長、科長、校長、院長等の公選」(同上)があって、学部長の選出は九月中旬に一斉に行われ、商学部長には伊知地純正教授が選ばれた。また専門部商科長には末高信教授が、人文科学研究所長には北沢新次郎教授がそれぞれ嘱任された。

昭和二十二年

 教員の嘱任――新年度を迎えて教員人事が行われ、専門学校教授に佐藤孝一、商学部兼担講師に野村平爾、専門部商科兼担講師に青木茂男、伊藤安二、原田俊夫、西尾孝、松下周太郎(非常勤)が嘱任された。また商学部・専門部商科教務補助に車戸実、専門部商科教務補助に宇野政雄、町田実が嘱任された。

 商学部学友会の行事――商学部学友会では五月十七日・十八日の両日記念祭を開いた。前記の『彙報』の「学園ニュース」の記事を引用すると、

第一日は映画祭で岩上順一氏の文芸批評、日響室内楽団の「最高峰を行く」、映画「うたかたの恋」を上映、第二日は芸術祭でオペラ独唱、ワルツ及名曲、長唄、貝谷八百子バレー団の発作発表等があり、終って直ちに教員、卒業生を囲む懇親会が行はれ、在学生に対して先輩から種々の経験談や希望が開陳されて、靄々のうちに散会した (第二号 三頁)

と紹介されている。

 専門部商科の近況――『早稲田大学彙報』第二号には「再建後の学園の近況」という記事が連載されているので、その記述を次に掲げよう。

終戦後直ちに戦時中の経営科なる名称を廃して従来の商科に復すると共に、新時代に即して学科編成を改め商業教育に必要な学科の充実を図ると同時に、例えば労働経済の如き時代の要求する科目を加え、専門学校の特色として学年制を全く廃止する事は困難であったが、出来る丈け選択科目を増加し二年に七科目、三年に八科目の選択科目を設けた。

更に本年は斯うした変動期にこそ経済原理の研究が必要であると考え、経済学説史の講座を選択科目に加え、理論的研究に便宜を与えた、英語は終戦後その必要を認めて従来の時間を増加したが、本年は学生の要望に答えて第二外国語として仏語、独語の二科目を置き学生の選択に任したが、成績がよければ将来露語、中国語の如きものも設ける予定である。

教授側の陣容は前年に於て島田教授の総長、上坂教授の常任理事就任に伴い、瓜生卓爾氏、今井田研二郎氏(交通論)を講師に迎え新進の宇野政雄氏に商品学を御願い致したのであるが、本年は更に新進の教授を加えて陣容の強化を図った。即ち会計学関係では戦時中応召の為休講されていた青木茂男講師の復帰があり、故稲毛教授の後任として心理学を学院教授の伊藤安二氏に、英語関係では米国に長く留学せられていた松下周太郎氏及び高等師範部の西尾孝氏を迎えたのである。新設の仏語は専門部商科出身の町田実氏に御担任を願い、其の他演習を原田俊夫氏車戸実氏等に御願いして陣容を新にして新学期を迎える事になり、末高科長始め諸教授は新時代に相応しい人材を社会に送る可く努力している。

尚一昨年は商科創立廿五年に当っていたが時局柄これを延期して昨年秋盛大な記念式典を挙行した。商科出身の校友の参会を熱望していたのであるが、住所不明の為充分連絡し得なかった事は残念であった。因みに、目下在学生は新入生共に約千五百名を数えている。 (四頁)

 教員人事――専門学校商科教務主任に佐藤孝一が就任した。

 学生自治会の成立――昭和二十一年六月以来、学生自治会において作成した自治会規程の原案を検討するために専門部工科教務主任中谷博を委員長とし、中島正信教授を副委員長とする委員十四名から成る「学生自治会規定起草委員会」が部科長会から依嘱されて審議を重ねてきた。一方学生側からは各部・各校からの代表者十五名、文化団体一、体育会一、共済会一、旧自治会委員長・副委員長各一の計二十名の代表者が審議に加わった。こうして昭和二十二年二月「自治会規程」の原案の最終的決定をみ、これに部科長会議で字句の修正を加えて成ったものである。この審議の過程で「教職員学生協議会規程」も作成され、両規程に従って大学の自治が進められることになった(『早稲田大学彙報』第四号 三頁)。

 卒業の時期の変更――戦時中の昭和十六年以降非常措置として行われていた繰上げ卒業に伴う毎年九月の卒業が、昭和二十二年の九月卒業を最後として旧に復し、昭和二十三年から三月卒業の制度に復することになった。

 商学部校舎戦災の復旧――全校舎・諸施設の三分の一、延坪にして九千坪、金額にして一億余円の戦災を被った大学では、昭和二十二年七月「早稲田大学復興会」を設立して募金事業に着手することになった。その計画によれば、応急必要なる資金として二千万円を二ヵ年間で募金することとし、第一期として一千万円を目標として募金を開始することになった。この復興計画の中に商学部校舎の改築も含められることになった(『早稲田大学彙報』第五号 二頁)。

 教員の人事――商学部講師に山本桂一が、専門部商科講師(兼担)に平田富太郎が嘱任された。

 商学部文化講座の開設――十月以降昭和二十三年三月までの間、次の文化講座を開設し、商学部および専門部商科の学生は自由に聴講できることにした。

水曜 午後二・〇〇―三・二〇 戦後経済と国民所得 林文彦

木曜 午後二・二〇―三・五〇 映画と映画音楽 松井翠声

金曜 午前八・〇〇―九・二〇 日本資本主義発達史 岸清一

 専門部商科大会の開催――十月三十日学友会では、豊島園で運動会を催すとともに、十一月八日大隈講堂で商科大会を開き、織田幹雄「世界スポーツに就いて」と題する講演の他、各種の余興が行われた。

 商学部学科目の増設――十一月七日に開かれた商学部教授会では、昭和二十三年度から次の学科目の増設をすることを決定した。

二学年 貿易経済論 上坂酉蔵教授

三学年 現代経済学説 久保田明光教授

同 貿易実務 上坂酉蔵教授

昭和二十三年

 新制大学への移行の準備――かねて教育制度改革委員会で検討中の「学制改革要綱(案)」が成り、昭和二十三年三月島田総長に答申された。これを承けて各「学部設置委員会」が設けられることになり、商学部の関係では、第一商学部設置委員会委員長に伊地知純正、委員に末高信、中島正信、池田英次郎、佐藤孝一、林容吉が就任し、第二商学部設置委員会委員長に末高信、委員に伊地知純正、池田英次郎、中島正信、林容吉、芳野武雄、佐藤孝一が就任した。更に「教養科目研究委員会」(商学部からは中島正信・逸見広が参加)と「教員詮衡委員会」(商学部からは伊地知純正.末高信が参加)が設けられ、準備が進められた。

 教員の人事――商学部助教授に矢島保男が嘱任され、商学部講師に久保田明光、大野実雄、専門部商科講師に有倉遼吉、逸見広が嘱任された。

 商学部の文化講座――本年度の文化講座の開催は五月二十四日から毎週水曜日と金曜日とし、次のような講座が開講された。

近代理論と経済分析 林文彦

封建制崩壊過程の研究 岸幸一

現代日本経済の諸問題 斎藤栄三郎

十一月十二日

日本資本主義の機構 平野義太郎

十一月三十日

マニュファクチャーをめぐる問題 信夫清三郎

また商学部自治会、学友会主催、商学同攻会後援による第一回科外講演会が九月三十日に開催され、「近代理論経済学の自己批判」と題して東京商科大学教授山田雄三によって行われた。

 入学試験――専門部商科の入試状況は入学定員三百名に対して志願者数三千七百三十五名で競争率一二・四五倍であった。

 専門部商科学友会の行事――学友会では六月十日―十二日の三日間に亘って群馬県桐生市の機業工場の見学旅行を実施した。

 学生運動と大学の対応――昭和二十三年六月ころ、官立諸大学における「教育復興問題」に関するストライキを受けて、私立大学でもこれに同調して同様の動きを示し、六月二十九日理工学部を除く学部等でストライキが行われた。ストライキに反対する学生五―六名ないし五―六十名は出席して授業が行われ、大学も告示を出して学生の自重を促した。一方、戦後の異常な物価の高騰は大学の経営を困難にして、しばしば授業料の値上げを余儀なくし、昭和二十二年四月に六百円であった学部授業料は、同年十月に二千百円、翌二十三年四月に二千八百円、同年十月には五千七百円にという急上昇ぶりであった。こうした状況について大学は「布告」を出して学生・父兄の理解を求めている。それによれば、昭和八年を基準とする当時(二十三年六月)の卸売物価の上昇率は百余倍であるのに対し、授業料は文科系で四十倍程度に止まっていること、教職員の待遇は官公吏並みのいわゆる三千七百円ベースを漸く維持しているに過ぎないこと、経営の源資を授業料だけに依存することのないように、国庫補助金の増額、私学に対する寄附金の免税、学校法人に対する特殊金融機関の創設などの措置の実現に向かって努力していること、他方で負担軽減の一助として育英資金制度の設置、学生厚生施設の改善、大学の責任において学生のアルバイトの斡旋などの施策を講ずることなどを説明している(『早稲田学報』昭和二十三年発行復刊第二巻 第一〇号 二頁)。こうした状況を反映して、七月には本大学で全学連結成準備会が開かれ、九月には全日本学生自治会総連合が結成された。十月になると教育復興運動と授業料値上げ反対の運動とが合流して、両学院および専門部の一部において試験ボイコットの動きがみられ、自治会による街頭デモも計画される事態に至った。大学では「告示」を出し、学生の自治活動の限界を示し、不当な決議の強行を戒めたのである。

 学位授与――昭和二十三年十二月十六日付で、葛城照三教授が慶応大学を通じて申請中の学位論文「英吉利海上保険法に於ける海上危険の研究」によって経済学博士の学位を授与された。

 学術会議会員選挙の当選者――十二月二十日最初の学術会議会員の選挙が行われ、本学関係者から十三名が当選し、その中に商学部関係者として、島田孝一教授、北沢新次郎教授、風早八十二講師が含まれていた。

五 新制商学部の歩み

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昭和二十四年

 新制大学の発足――昭和二十四年四月の新学期の開始とともに新制大学に移行し、十一学部および新制高等学院より成る新しい体系の学苑として発足することになり、四月二十四日その記念式典が安部球場で挙行され、その後全教職員による午餐会が催された。これによって商学部は一学年の定員四百名より成る四年制の第一商学部、第二商学部(夜間)として新発足し、従来の高等学院、専門部および専門学校の商科は廃止されることになった。旧制高等学院生は全員その系統の新制学部へ移行し、専門部・専門学校生は、一年修了者は全員、二年以上は希望者のみそれぞれの系統の学部へ移行し、希望しない者は旧制のまま卒業させることにした。旧制学部は本年四月入学の分から新規募集を中止し、現在学生は旧制のまま順次卒業させて昭和二十五年度を以て自然廃止とするが、新制学部への移行を希望する者については、旧制一年修了者は新制学部一年へ、旧制二年修了者は新制学部二年へ、旧制三年修了者(卒業者)は新制学部三年へという基準に従った。このほか、学外から編入試験を行って入学させることとし、次のように実施された。

第一商学部             第二商学部

学年 志願者   合格者 倍率   学年 志願者 合格者 倍率

一年 一、七七八 一〇八 一六・五 一年 九四一 二六〇 三・六

二年 三五四   九二  三・八  二年 一四九 六三 二・四

三年 四八一   一三六 三・五  三年 二四五 一二二 二・〇

新制大学への移行は高等教育の普及、教育の機会均等に寄与するとともに専門教育科目の学習を重視して、視野の広い豊かな教養を身に付けた人物の養成を目指し、学年制を単位制に変えて学生の自主的な学習態度の涵養に資することを期し、更に新制大学院を新設して高度の職業教育と研究者養成を行い、大学教員の資質の向上を図ることを課題としたものであった。

 授業料の改訂――新学期から授業料が文科系学部について在学生が七千五百円、新入生が八千五百円に改訂された。

 総長選挙と新理事の選任――六月二十八日第二回総長選挙が行われ、島田孝一博士が再選された。次いで七月五日維持員会が開かれて、七理事を選出し、商学部からは伊地知純正教授が就任した。

 夏期講座の開設――新制大学への移行に伴って単位制度の特徴を生かし、主として第二学部の学生を対象として夏季休暇の期間を利用して正規の授業として夏季学期が開設されることになった。授業は午後六時十分から八時五十分まで行われた。

 本部機構の改革と人事――七月に本部機構が改正され、新たに設けられた教育普及部長に中島正信教授が、また従来からあった渉外部長には伊地知理事が重任された。

 教授団の渡米――占領軍の好意で教員養成関係大学教授らの米国留学生詮衡試験が七月六日から三日間文部省で行われ、百六十七名の中から五十名が選ばれ、早稲田大学の教員では四名が決定した。商学部では大学院特別研究生の伊東克巳が一年間シンシナチ大学に留学することになった。

 学部長の改選と教務人事――改選の結果、十月一日付で第一商学部長に伊地知純正、同教務主任に池田英次郎、教務副主任に林容吉が、第二商学部長に末高信、同教務主任に中島正信、同教務副主任に毛利亮が発令された。

 北沢新次郎教授日本学士院会員に選定――日本学士院会員の欠員補充に、十月五日、日本学術会議で商学部教授北沢新次郎博士が選定され学士院会員に列することになった。

 学生読書室の新設――新制大学の特色の一つに単位制が挙げられるが、「一単位とは十五週間の一学期を通じて、ある一科目について学生が行う毎週三時間の学習活動をいうのである。普通の場合、この三時間のうち一時間が時間表に組まれた授業時間であって、あと二時間は学生がめいめい図書室や自宅でその学科の勉強に充てるのである」(林容吉「新制大学と単位制度」『早稲田学報』昭和二十四年四月発行復刊第四号 三頁)といわれているように、学部の学生読書室の整備は必須のことであり、二百人を収容できる学生読書室が本年十一月商学部校舎一階に新設された。

昭和二十五年

 授業料の改訂――新学期より授業料が文科系学部について、新制在学生は八千五百円、新制新入生は一万円、旧制在学生は七千五百円と改訂された。

 教員の人事――第一商学部教授に高見亘が、同助教授に林文彦、飯島義郎、渡部均が嘱任され、また、岡田誠一が定年退職となった。なお、講師の中村政信氏が六月十五日に逝去された。同氏は昭和二十一年東北大学理学部卒業の二十八歳という若さの新進数学者であった。

 入試状況――三月六日から実施された本年度の入学試験では、第一商学部への志願者は一年が一千二百七十三名、二年が二百二名、三年が四百十九名、第二商学部への志願者は、一年が五百二十八名、二年が百七十七名、三年が百五十八名で、一年の競争倍率を見ると、第一商学部は約三・二倍、第二商学部は一・三倍となった。

昭和二十六年

 米国留学生試験の合格者――昭和二十六年の米国留学生試験の合格者が文部省から発表され、大学の校友・学生から十九名が合格した。商学部関係では、校友を除いて、林容吉教授と学生紺家孝雄の二名が含まれていた。

 入試状況――三月八日から始まった本年度入試の志願状況は、昨年に比べて経済事情の好転が反映したのか、第一商学部では昨年の四・七倍の志願者があり、競争率は十九倍という難関で、試験場が全学部の校舎では不足して、穴八幡の学院校舎と早稲田高校を借用して充てた。志願者数は、第一商学部一年が七千五百八十一名、同二年が三百六十名、三年が一千三十八名、第二商学部一年が三千四百八名、同二年が二十四名、同三年が五百三十一名であった。

 教員人事――次のように行われた。

第一商学部講師嘱任 時田忠夫 グリッグス 高橋秀夫

第二商学部講師嘱任 松宮一也 長谷川忠一

第一・第二商学部講師嘱任 ハンセン 伊東克巳 田中喜助 烏羽欽一郎 永山武夫

小田泰市 増野肇 篠原新次郎 北通文 村尾力太郎

倉沢秀夫(五月十五日付)

第一・第二商学部助教授嘱任 神沢惣一郎 近藤等 佐口卓 染谷恭次郎 町田実

本属変更 一法から一商へ 渡辺栄太郎

なお、瓜生卓爾が定年退職となった。

 学位の授与――七月二十五日付で佐藤孝一「剰余金の研究」に対し商学博士の学位が授与された。

 学部長改選と役職者人事――九月十二日付で、第一商学部長に伊地知純正、教務主任に中島正信、同副主任に青木茂男、第二商学部長に上坂酉蔵、教務主任に毛利亮、同副主任に矢島保男が発令された。

 新制大学院の発足――四月一日から新制大学院が発足し、四月十八日から五日間各研究科の入学試験が行われ、五月十一日に入学式が挙行された。また建築中の法文系大学院校舎の落成をまって、十月二十一日に大学院開設式が挙行された。

昭和二十七年

 入試状況――商学部志願者数は九千八百四十一名で、競争倍率は前年度の十九倍を更に上回って二十四倍を超える高さに達した。

 教員の人事――四月一日の教員人事で、第一・第二商学部教授に北村正次、矢島保男、同助教授に坂本信太郎、鈴木英寿、同講師に日下部与市、小林太三郎、鈴木和一、杉野昌甫、平竹伝三が嘱任され、また非常勤講師として、島谷剛三(第一.第二商学部)、森建臣(第一商学部)、ジェイムス・A・サージャント(同)、中内正利(第二商学部)、ジョン・O・ガントレット(同)が嘱任された。

 教務の交替――十一月一日付で教務の交替が行われ、第一商学部教務主任に林容吉、同副主任に矢島保男、第二商学部教務主任に中島正信、同副主任に青木茂男が就任した。

昭和二十八年

 入試状況――第一商学部が募集人員四百名に対して志願者九千二百三十七名で倍率二三・二、第二商学部が募集人員四百名に対して志願者四千百十六名で、倍率は一〇・三であった。

 佐野学教授の逝去――三月九日、逝去。享年六十歳。佐野は大正六年東京大学法学部を卒業し、同十年本学講師。その後政治活動を行い本学を離れていたが、戦後昭和二十三年に復し、社会思想史を担当。同二十四年に商学部教授に就任、経済思想史を担当していた。経済史・社会史の分野で業績を挙げた。

 寄附講座――新学期より商学部では科外講義(単位を与えない)として次の五科目が設置されることになった。

労務管理 前期 日本油脂取締役 江渡三郎

後期 十条製紙取締役勤労部長 田中慎一郎

事務管理 東京計器取締役 小野寛徳

工場管理 前期 東芝取締役 朝川乕三

後期 三菱電機取締役 加藤威夫

財務管理 前期 芝浦製作所専務取締役 西野嘉一郎

後期 十条製紙専務取締役 金子佐一郎

産業心理 労働科学研究所長 文学博士 桐原葆見

担当者を見ると、いずれも斯界の著名な方々である。講座の開設に必要な費用は日本経営者団体連盟の寄附に仰ぎ、運営の主体は大学である。聴講者は六百九十八名の多数に上り、この中には、学外から企業の課長以上経営者百六十一名が含まれていた。出席率は平均八五パーセントに達した。なお本講座は昭和三十一年度まで四ヵ年継続した。

 小林新教授の逝去――十月十二日、逝去。小林博士は大正五年本学大学部商科を首席で卒業し、同七年大学の留学生としてアメリカのコロンビア大学に学び、同年ヨーロッパを回って帰国し、同十一年講師、翌十二年教授に就任し、金融経済および統計学関係の科目を担当した。この両分野に亘って十冊近い著作を刊行し、斯界の発展に多大の寄与をされた。特に大正十四年に刊行された『経済統計の原理と応用』(上)は、「社会集団を数量的に観察、記述、分析する大量観察法中心から統計解析法を主軸とする統計学を日本で初めて樹立し、その画期的業績」(林文彦・新沢雄一「商学部史(統計学の系譜)」『早稲田商学』第二六三号 七六頁)として評価されるものであり、また昭和三年の「株価指数」の設計も実業界への大きな寄与で、博士の名声を高からしめるものであった(北沢新次郎「小林新教授の追慕」『早稲田学報』昭和二十八年十一月発行(通巻)第六三五号 三五頁、矢島保男「金融関係の科目と人の系譜」『早稲田商学』第二四九号参照)。

昭和二十九年

 海外留学者――本年度海外留学の教員として商学部からは葛城照三教授に決まり、約一年間イギリス・ロンドンにおいて「海上保険の法律と慣習」を研究することになった。

 入試状況――第一商学部が募集人員四百五十名に対して志願者一万一千二百二十四名で倍率二四・九、第二商学部が募集人員四百五十名に対して志願者四千八十二名で倍率九・一であった。

 教員の人事――四月一日付で教員人事が発令され、飯島義郎、渡辺均が教授(第一・第二商学部)に、小林太三郎が助教授に、有田潤、六角恒広、時田忠夫、工藤恭吉が専任講師に嘱任された。

 C・P・A(公認会計士)講座の開設――公認会計士第二次試験および税理士試験を受験する者のための準備講座の開設が各方面から要望されていた。これに応えるためにC・P・A研究会が組織され、大学院商学研究科の後援の下にC・P・A講座が設置された。顧問に北沢・上坂・中島の諸教授を戴き、佐藤・青木・染谷の三教授が中心になって運営され、設置科目は、簿記、財務諸表論、原価計算、会計監査、税務会計、経営学、商法、経済学で、午後六時から九時まで開講され、本年度の聴講者は二百九名に達した。

 助手候補者の決定――六月の教授会で先に行われた山川博慶の助手報告「経済的生産数量の理論」につき採択の結果、助手候補者とすることが決定された。

 学部長・役職者人事――学部長の改選と教務の人事が行われ、九月二十日付で、第一商学部長に中島正信、教務主任に林容吉、同副主任に宇野政雄、第二商学部長に上坂酉蔵、教務主任に青木茂男、同副主任に原田俊夫が就任した。

 学科目の新設――三十年度ないし三十一年度より新設する科目として、一般科目人文科学系列では「ドイツ思想」(のちに「ドイツ文学」と改称)、「フランス文学」、専門科目第二部に「国民所得論」「銀行論」「経営政策」「商業経営」「経営分析」が決定された。

昭和三十年

 学費の改訂――新学期より学費が文科系学部について授業料が二万二千円から二万四千円に、施設費が八千円から一万一千円に値上げされた。

 教員の人事――二月の教授会で、神沢惣一郎、近藤等、佐口卓、染谷恭次郎、町田実、林文彦が助教授から教授に、植田重雄、西宮輝明、日下部与市が専任講師から助教授に、内田伝一、平竹伝三が専任講師から教授に昇格させる人事を決定し、また三月の教授会で、小田泰市、筧太郎、国東文麿、篠原新次郎の四氏を専任講師として採用することが決まり、それぞれ本部に手続した。

 学位の授与――三月七日付で、池田英次郎「原価と操業度」に商学博士の学位が授与された。

 伊地知純正教授の定年退職――またこの月、伊地知純正教授が定年退職となった。伊地知は明治三十九年大学部商科の卒業、すなわち商科の第一回卒業生である。英語の達人で、英語教育や日本を海外に紹介することに大きな足跡を残し、秀れた和英辞典を独力で編纂された武信由太郎の門下であった。伊地知は中学の頃から「自分の意見は総て英文で発表する」と決意し、「日本文化を海外に輸出する野心」を以て「英文修業」に一生を捧げた。英文の著作を何冊も刊行し、特に昭和十五年に刊行されたLife of Marquis Shigenobu Okumaは「欧米における日本近代史研究者にとって必要欠くべからざる参考書」として名著の誉れ高い著作であった。戦後は商学部長・大学理事として困難な時期に大学と学部の発展に力を尽くされた。四月の商学部教授会は名誉教授の称号を贈ってその労に報いた(伊東克巳「商学部の英語と三人の英作文家」『早稲田商学』第二四九号に依拠した)。

 評議員の選出――伊地知教授の定年退職に伴い、商学部選出の評議員として四月の教授会での選挙の結果、島田孝一教授が選出された。

 助手候補者の決定――五月に開かれた全員委員会で助手報告「インフレーション下の生命保険」を行った本田守を助手候補者とすることが決定され、またアメリカ留学中であった助手候補者朝岡良平は八月に帰国したので、八月十九日付で助手に推薦することが決定された。更に十二月の教授会では、三橋昭三、西沢脩、小川洌、新沢雄一の四名を助手候補者として推薦することが決定された。

 教員の人事――右の人事とともに、新井清光、松原昭、望月昭一を専任講師に、小林路易、川口博、藤平春男、山田勇を兼坦または非常勤講師に嘱任するよう推薦することが決定された。

昭和三十一年

 生産研究所の設置――一月の定時評議員会で生産研究所の設置が決定され、「工業生産性の向上及びこれに関連する諸問題を工学、経営学、商学、経済学、法律学等の観点から綜合的に研究し、産業の発達に寄与する」ことを目的として、二月一日発足した。

 教員の人事――一月の教授会で鶴見勝男(演習―陸運問題の研究)、飯島衛(生物学)、峰島旭雄の三氏を非常勤講師に嘱任するよう推薦することで決定し、更に二月の教授会では、坂本信太郎、鈴木英寿、増野肇の助教授より教授への昇任、また有田潤、工藤恭吉、六角恒広の講師より助教授への昇任人事が決定された。

 特別講座の増設――科外講義に次の二科目が追加設置された。

販売管理 東芝商事取締役 今井孝

科学的管理と産業訓練 産業訓練協会事務局長 武井英夫

 フルブライト交換教授の特別講義――プラット教授が来日し、商学部が受け入れ、特別講義として、十月より二月までInternational Commerce,四月より六月までInternational Commerce Policyを担当することになった。

 派遣海外留学生――本学部入交好脩教授が五月に海外留学生として欧米へ出発した。また既に海外への出張を認められていた青木茂男教授はその後の事情変更によって改めて生産研究所から三十一年九月より三十二年三月までミシガン大学に留学し、その後ヨーロッパを三ヵ月間視察して帰国することになった。なお同じく生産研究所より矢島保男、原田俊夫、車戸実の三教授が九月より一ヵ年間ミシガン大学に留学することが承認された。ただし、矢島教授は後に留学を取り止めた。

 役職者の異動――九月に役職者の異動が行われ、第一商学部長に中島正信、教務主任に毛利亮、教務副主任に染谷恭次郎、第二商学部長に上坂酉蔵、教務主任に芳野武雄、教務副主任に日下部与市が就任した。

 オーストラリア政府給費交換留学生――この件につき、商学部の有田潤助教授が推薦されることになった。ただしその後取り止めになった。

 教育内容の充実化――教育内容の充実を図るために次の四つの措置が採られた。先ず、語学力の特に優秀な三年以上の学生のために語学特別クラスを設置した。二つめに、「学生に機械、電気、化学その他の理工学的知識を与え、広い教養を修めさせるための商学部課外講座として産業技術講座を設置」した。三つめに、昭和三十二年度より第二外国語に「スペイン語」が新設されることになり、これに伴い「貿易スペイン語」も設置されることになった。四つめに、翌年度より「西洋経済史」の科目を新設することとし、「商法」も「商法Ⅰ」「商法Ⅱ」に分けて強化するとともに、「保険論A」を「保険総論」に、「保険論B」を「海上保険論」と改め、内容を明示することにした。

 編入試験科目の変更――これまで一・二商の編入試験には「論文」が課されていたが、論文の採点に主観的要素が介入することが避け難いという理由で、三十二年度から廃止することになった。

 授業料の改訂――昭和三十二年度の新入生より文科系学部の授業料を現行の二万二千円より二万六千円に値上げすることが決まった。今回は新入生の授業料のみの値上げに限定された。

 ミシガン大学派遣留学生――新たに染谷恭次郎教授が明年度生産研究所ミシガン大学派遣教員に決定された。

 語学教育研究委員会の設置――全学的に外国語教育の改善を図るために、外国語の教授法、教材、施設、学級編成などについて研究する委員会が設置されることになり、商学部からは鈴木金太郎(英語)、山根行男(英語)、近藤等(仏語)、植田重雄(独語)の四教授が委員となった。

 助手候補者の推薦――助手研究報告が行われ、教授会では柳井哲男(世界経済専攻)、鈴木辰紀(火災保険専攻)を助手候補者として推薦することが決まった。また教員の人事として、小川洌、三橋昭三が助手から専任講師に昇任することになった。

 学科目の新設――明年度より専門科目第二部に、管理会計Ⅰ(青木茂男教授担当)、経営数理Ⅰ(高見亘教授担当)が新設されることになり、経営数理Ⅱは昭和三十三年度より設置することとした。

昭和三十二年

 寄附講座の廃止――昭和二十八年度から行われていた寄附講座としての科外講義は三十二年度より廃止されることになった。理由は目的を達成したことと、他の場所で日経連自体の手で行いたいとの意向によるものである。

 役職者の交替――染谷恭次郎教授のミシガン大学派遣に伴い、教務副主任(教務担当)の後任に佐口卓教授が就任した。

 北沢新次郎教授の定年退職――本年三月をもって北沢新次郎教授が定年退職し、四月の教授会で名誉教授の称号が贈られることとなった。北沢は明治四十三年七月早稲田大学大学部商科を卒業するとともにノースカロライナ大学大学院に留学、M・A学位を受け、次いでジョンズ・ホプキンズ大学に留学し、J. A. Hollander教授の指導の下にPh・D学位を取得して帰国、大正四年早稲田大学講師に嘱任された。翌五年に教授に、同六年に商学博士の学位を授与された。その後、商学部長、大学理事、人文科学研究所理事長、大学院商学研究科委員長を歴任し、定年退職後は東京経済大学学長に就任した。その間、日本学術会議会員、日本学士院会員に選ばれ、研究者として輝かしい途を歩むとともに、公的活動の面でも中央労働委員会委員、郵政審議会会長、公正取引委員会委員などの要職を務めた。著書は編著・共著を含め六十五冊に上り、論文も多数に上っている。著作活動は労働問題に関するものが多く、次いで経済原論・経済学史・経済史想史関係、産業組織・経済組織論・工業経済論関係、ギルド・ソシアリズム関係などの広範な分野に亘っている。北沢は自己の経済学の体系を形成する過程で、労働運動や学生・社会運動に参加して実践活動との係わりをもった経験を有し、それが血脈となって社会改良主義の立場がその学問的活動の中に貫かれたことが特徴となっている(「北沢新次郎先生年譜及び著作目録」『早稲田商学』第一二九号所収、永山武夫「『労働問題』関係の科目の変遷と担当教員の系譜および北沢新次郎の著作について」および松原昭「北沢新次郎の社会主義・経済学」『早稲田商学』第二五六号所収。北沢新次郎『歴史の歯車――回想八十年――』等参照)。

 評議員の選出――北沢新次郎教授定年退職に伴う学部選出の評議員改選の結果、末高信教授が選出された。

 ミシガン大学派遣研究員――商学部から朝岡良平助手、新沢雄一助手が推薦された。

 科目新設――専門科目第二部に「工業概論」を新設し、前半は機械・電気に関し、後半は建築・応用化学について講ずることになった。担当者は前期を理工学部の難波正人、岩片秀雄の両教授、後期を同じく木村幸一郎、宇野昌平の両教授に決定した。

 学費の改訂――昭和三十二年度の学費の改訂、文科系の施設費を一万円から一万五千円に、授業料を二万六千円から三万円に値上げされることになった。

 ミシガン大学派遣在外研究員の派遣の決定――昭和三十三年一月より一年の予定で伊東克己教授と小林太三郎教授が生産研究所から派遣されることになった。

 旧制度学位論文の授与――かねてより審査中の入交好脩教授、平竹伝三教授および芝浦製作所西野嘉一郎専務取締役の学位請求論文は旧制商学部教授会および大学本部理事会を通過し、文部省に学位授与の申請が行われた。

昭和三十三年

 教員の人事――鈴木和一が専任講師から教授に、新井清光、国東文麿、鈴木豊、松原昭、望月昭一が専任講師から助教授に、島谷剛三、蜷川親善が非常勤講師から専任講師に嘱任された。

 ハーバード・エンチン・インスティチュート招聘教員――鳥羽欽一郎教授に決定し、七月に出発となった。

 教員数の報告――四月現在の商学部教員数は、教授四十名、助教授十三名、専任講師十一名、計六十四名と報告された。

 新入生歓迎会――第一商学部では五月八日大隈講堂で正午より開催され、原安三郎の講演と音楽・演劇の余興が行われた。第二商学部ではこれに先立って四月二十三日夜に行われた。

 フルブライト派遣教員――昭和三十三―三十四年度にカーレン・ブロック氏を受け入れることとし、染谷教授が協力者となることが決まった。商学部では科目としてIntermediate Accountingの講義を行うことになった。

 学部長.学部選出評議員の改選および役職者人事――九月の改選で第一商学部長に中島正信教授、第二商学部長に池田英次郎教授、第一商学部選出評議員に島田孝一、第二商学部選出評議員に上坂酉蔵教授が決まり、これに伴って、第一商学部教務主任に車戸実教授、同副主任に神沢惣一郎教授、第二商学部教務主任に北村正次教授、同副主任に永山武夫教授が就任した。

 学部長の任期――今回の学部長改選に際し、教授会では学部長は今後一期(二年)毎に交替してゆくことが申し合わされた。

 学部出身理事――大浜総長の再選に伴い、学部より新たに末高信教授が理事に就任することになった。

 在外研究員・国内研究員――昭和三十四年については矢島保男教授を候補者とすることに決まった。国内研究員は芳野武雄教授が推薦された。

 教員の人事――来年度よりの教員人事に関して、助手から専任講師に朝岡良平、新沢雄一、西沢脩、山川博慶が、兼坦講師に安藤彦太郎、清水望(政治経済学部)、非常勤講師に花村哲夫(スペイン語・貿易スペイン語、東京外国語大学教授)、瓜谷良平(スペイン語、拓殖大学助教授)、木村時夫(歴史、高等学院教諭)、小島謙四郎(心理学、文学部講師)、岡田憲樹(商法、理工学部講師)が決まった。

 設備拡充と助手定員の増員の要望――商学部ではかねてから教員の増加に伴い、研究室の拡充と教員の陣容を充実させるため助手の定員を現行の十名以内であるのを十五名に増加する件について協議を重ねてきた結果、この件について大学本部へ要望書を提出することになった。

昭和三十四年

 助手候補者の決定――昭和三十四年四月採用の助手の募集を行い、九月に締め切ったところ十二名の応募があり、選考委員会に付託して審査を行った結果、三名の助手報告を全体委員会で行うことになり、二月に開催して、中西睦、市川孝正、二神恭一の三名を助手候補者に推薦することが決定した。

 教員人事特別委員会の設置――教員人事の在り方を改善するために、特別委員会を設け、教授より選出される十五名の委員と学部長・教務の六名を加えて構成することとなり、学部長の諮問機関として運営されることになった。昭和三十四年二月の教授会で十五名の委員が選出された。

 教員の人事――四月一日付の人事で、小林太三郎が助教授より教授へ、内田伝一、杉野昌甫が専任講師より教授へ、小川洌、三橋昭三が専任講師より助教授へ、寿里茂、田沼利男が非常勤講師より専任講師へそれぞれ昇任発令された。右のほか既述のように、助手から専任講師へ四名が昇任した。

 上坂酉蔵教授の定年退職――三月末日をもって上坂教授が定年退職となり、四月の教授会で名誉教授に推薦された。上坂は大正七年大学部商科を卒業後、増田貿易株式会社に入社、貿易実務に携わる一方で貿易に関する著作を発表していたが、同十二年の関東大震災に被災してのち、田中穂積の推挙によって同十四年早稲田大学講師に嘱任され、母校に戻った。講師嘱任後も一年間は会社を退職することを許されず兼務していたが、同十五年二年間ヨーロッパへ留学、国際貿易における売買慣習を研究して帰国。その後、助教授、教授となり、商品学・貿易実務・貿易政策などの科目を担当した。昭和十年商学博士の学位を授与された。その間、早稲田専門学校の教務主任・教頭・校長を歴任する傍ら、東京大学をはじめ日大・立大・中大・明大・上智大等の講師を兼ねた。戦後は大学の維持員・評議員・理事・第二商学部長・大学院商学研究科委員長等の重職を歴任した。学界では日本商品学会・国際経済学会・日本商業学会の創立に参画し、その後役員として学会の発展に寄与し、実務の分野でも関税・国際商事仲裁・日本標準商品分類など広範な分野で大きな足跡を残した。著作は五十冊に近く、論文も膨大な数に上り、「貿易研究では当代の第一人者であり、貿易実務といえば上坂酉蔵といわれるくらいに斯界における彼の令名は高」かったのである(朝岡良平「商学部における貿易実務関係の科目の変遷」『早稲田商学』第二五六号、「上坂酉蔵博士年譜」同上 一四〇・一四一合併号参照)。

 学部選出評議員――上坂酉蔵教授定年退職に伴う評議員の補欠選挙の結果、末高信教授が選出された。

 英語教育の改善に関する協議――英語担当教員懇談会が五月に開かれ、(1)授業に際し学生の席を指定すること、(2)成績評価に関しクラス毎に成績の分布の基準を設けること、(3)教科書について調整を行うこと、以上三点について申合せが行われた。

 クラス主任制度の設置――六月からクラス主任制度が設けられ、学生にガイダンスを行い種々の相談に応じられるようになった。そのためにクラス主任は面接日を設けることにした。

 在外.国内研究員――昭和三十五年度の在外研究員として宇野政雄教授が推薦された。また国内研究員に毛利亮教授が推薦された。

 専門科目の新設――「簿記」を「簿記Ⅰ」「簿記Ⅱ」に分けて新設、また「貿易スペイン語Ⅱ」を新年度より設置することになった。

昭和三十五年

 学位の授与――一月十八日、松尾静麿(日本航空株式会社副社長)「航空運送事業経営論」に商学博士の学位が授与された。また四月二十七日、商学部教授芳野武雄「企業資本調達の研究」ならびに商学部教授青木茂男「近代内部監査の研究」に商学博士の学位が授与された。

 私費による留学――鈴木豊助教授は科学技術庁施行の私費留学生試験に合格し、リヨン大学においてフランス古典劇研究のため四月より一ヵ年フランスに留学することになった。

 教員の人事――植田重雄、日下部与市、西宮輝明が助教授から教授に、桶田篤、鈴木辰紀、柳井哲男が助手から専任講師に、谷崎英男、中谷正利、峰島旭雄、渡部正雄が非常勤講師から専任講師に嘱任された。

 学部運営委員会委員――これまで教務の推薦によって決めていたが、本年度より投票によって選出することになり、四月の教授会で選出方法を変更の上九名選出された。

 学部長の任期に関する申合せの修正――商学部における学部長の任期は一期限りとする申合せが昭和三十三年九月の教授会でなされたが、本年五月の教授会で学部長からこれを再検討したいとの提案があった。このことに関し六月に二回に亘って臨時教授会が開かれ審議が重ねられた結果、九月になって、教授会の意向を汲んで、各人の良識をもって対処することとし、爾後二期までを原則とし、三期を限度として交替する、と変更された。

 学部長の改選――九月臨時教授会での投票の結果、第一商学部長に中島正信、第二商学部長に北村正次を選出し、これに伴い、教務の役職者として、第一商学部教務主任に林容吉、同副主任に神沢惣一郎、第二商学部教務主任に車戸実、同副主任に永山武夫が決まった。

 単一学部制への移行の問題――第二学部は志願者の減少、就職状況の厳しさなどの状況の変化に伴い、第一・第二学部を統合して単一の学部にする構想があり、学部では単一学部制研究委員会を設けて検討を重ねてきた。その結果、機が熟して十月の教授会でこの問題が審議され、近い将来――昭和三十七年度をめどに――第二商学部の学生募集を停止し、単一学部へ移行する方針が決まった。これに伴い、単一学部制準備委員会が設けられ、十五名の委員が指名された。

 産業特別講座の開催――学部主催による特別講座が次のように行われることになった。

十月二十六日 日本航空事業の現状と将来 日本航空副社長商学博士 松尾静麿

十一月十日 日本化学工業の現状と将来 日本化学工業協会会長 原安三郎

日時未定 鉄鋼業の現状と将来 八幡製鉄取締役 藤井丙午

 研究室校舎新築委員会の設置――これまで研究室充実のため研究室拡充委員会を中心として大学本部・理事会と折衝してきたが、研究室棟新築の計画が具体化してきたので、表記の委員会に編成替えして二十三名の委員が指名され、活動を進めてゆくこととなった。

 在外研究員・国内研究員――昭和三十六年度の在外研究員には佐口卓教授が推薦され、また国内研究員には鈴木金太郎教授、染谷恭次郎教授を推薦することに決まった。

昭和三十六年

 教員の人事――四月一日より非常勤講師として、飯野利夫(資産会計論)、荒木金男(商業数学)、横山宏(中国語)、J・O・ガントレット(英会話)、トミエ・サトウ(英会話)、寺沢芳隆(英語)、C・シモンズ(英会話)の諸氏が嘱任された。また、有田潤、工藤恭吉、六角恒弘が助教授から教授に、朝岡良平、新沢雄一、寿里茂、島谷剛三、西沢脩、蜷川親善、本田守、山川博慶が専任講師から助教授に昇任した。

 助手候補者の推薦――三十五年九月助手募集締切の結果、三名の応募者があったが、一名に絞られ、選考を進め、研究報告会を開いた結果、藤田幸男を助手候補者として推薦することになった。

 学生の海外留学――第一商学部二年度生小栗孝久は東京都・ニューヨーク姉妹都市交換留学生として三十六年七月より一年間ニューヨーク大学に留学することが承認された。

 在外研究員・国内研究員――昭和三十七年度大学派遣在外研究員について、長期(一年)については鈴木英寿教授、短期(半年以内)については芳野武雄教授が推薦されることになった。また国内研究員には、青木茂男教授、矢島保男教授を推薦することになった。

 海外出張の延長――助手中西睦はイギリスBBCの招きによって三十六年四月から出張中であったが、出張期間の一ヵ年延長を申し出て、承認された。

 英語授業方法変更――これまで英語の授業は二セメスターに分けて、セメスター毎に週二時間の授業を行っていたが、三十七年度より週一時間通年制とすることになり、セメスター制は廃止することになった。

 第二商学部学生募集停止計画の中止――昭和三十五年十月の教授会で昭和三十七年度からの募集停止、単一学部の実現を目指して準備を進めることが決定される一方、学部長会議、同懇談会でも審議されてきたが、十二月八日開催の学部長会議ではこの問題に関する特別委員会を設け、全学的な方針を検討することとし、第二商学部の三十七年度からの募集停止は実施されないことになった。この結果、中島・北村の両学部長は責任をとって学部長を辞任したい旨総長に申し出たのであったが、教授会では両学部長の辞任願の撤回を希望する決議が採択された。こうしてこの問題は、将来の課題として当面は現行のままで進むことになった。なお昭和三十七年度の両学部の入試募集人員(一年度生)は第一商学部約八百五十名、第二商学部約百五十名である。

 第二回パリ大学交換研究員の決定――近藤等教授が「フランス・ローマン派文学における自然感情としてその芸術的表現の研究および現代フランス語研究」のため一年間在外研究を行うことになった。

 学費の改訂――昭和三十七年度より文科系の学費について、授業料を三万六千円から五万円に、入学金を一万二千円から三万円に、施設費を二万円から三万円に改訂することになった。

昭和三十七年

 学科目の新設――新学年度より、一般科目として「美学」が、専門科目第二部として「広告論」「労働法」が、専門科目第三部として「スペイン語商業会話」が新設されることになった。

 助手候補者の決定――昨年九月応募者二名あった助手の選考は、審査委員会の審査、本年二月の研究報告会における研究報告を経て石塚博司が助手候補者として推薦されることになった。

 学位の授与――三月二十二日、染谷恭次郎「資金運用表の研究」に対して商学博士の学位が授与された。

 教員の人事――四月一日付で、市川孝正、二神恭一が助手から専任講師に、北通文、富永浩、横山宏が非常勤講師から専任講師に嘱任され、また非常勤講師に池田寿子、栗山昭一、D・グリフィス、土井智喜、ホセ・マタ・トラニ、三上源四郎が、兼坦講師に伊原貞敏、内田武吉、岡田俊一、金沢理、富田正利、中山和久が嘱任された。この人事に伴い、教授会のメンバーは、教授四十八名、助教授二十名となった。

 研究室棟建設用地に関する要望――これまで研究室棟の新築予定地は理工学部実験室校舎の跡地に予定されていたが、六月二十日開催の第一・第二商学部臨時合同教授会で水稲荷神社跡地に変更するよう決議を行い、要望書を大浜総長に提出した。

 在外研究員制度委員会の設置――在外研究員制度の運用を円滑・適正に執行するために選考委員会を新たに設けることになった。

 学部選出評議員の選挙――臨時教授会で選挙の結果、第一商学部選出は島田孝一教授、第二商学部選出は中島正信教授と決まった。

 学部長改選と役職者の就任――九月より第一商学部長に林容吉、同教務主任に車戸実、同教務副主任に神沢惣一郎、第二商学部長に北村正次、同教務主任に永山武夫、同教務副主任に望月昭一が就任した。

 派遣研究員の受入――次の如く受け入れることになった。

ゲルハルト・ハイマンス ボン大学経済地理研究所助手 協力員 毛利亮教授

エリーナ・M・ハードレイ フルブライト派遣 米国スミス・カレッジアソシエート・プロフェッサー 協力員 北村正次教授

ルイス・S・マルチネス 上智大学 協力員 小林太三郎教授

堀内義高講師

広谷善十郎 高知県立土佐清水高校教諭 協力員 入交好脩教授

 役職者の異動――第一商学部教務副主任神沢惣一郎教授は十月十五日付で学生部長に就任されたので、後任として坂本信太郎教授が就任した。

 国内研究員・在外研究員――昭和三十八年度の国内研究員には宇野正雄・渡辺栄太郎両教授を推薦することになった。在外研究員には永山武夫教授が決まった。

 海外よりの委託学生――我が国のインドネシアに対する賠償の一部として研修生の受入が決まっていたが、海外技術協力事業団を介して商学部委託学生としてスハルディ氏を受け入れることになった。聴講科目は、経済学、経済史、Business Management, Seminar in Business, Economic Geography, Business Englishとなっている。

昭和三十八年

 生産研究所長の人事――一月の学部長会議で中島正信教授が生産研究所長に嘱任されたことが報告された。なお中島教授はそれに先立ち昭和三十七年十月に大学理事に就任した。

 助手候補者の決定――昨年九月助手の募集を締め切ったところ二名の応募者があった。この二名について審査委員会・研究報告会で選考を進めていたが、塩原一郎・古田稔の両名を助手候補者として推薦することに決まった。

 在外研究員――昭和三十八年度の大学派遣在外研究員として鈴木金太郎教授が推薦された。

 学部役職者の異動――第二商学部教務主任永山武夫教授は三十八年の在外研究員であるため、三月末をもって辞任し、代わって伊東克巳教授が四月一日から就任することになった。

 派遣研究員の受入――ボン大学交換研究員として同大学植林学研究所長ヘルベルト・ヘスメル氏を四月から受け入れることになった。また、フルブライト派遣研究員としてアーマスト大学のジョン・テーラー教授を四月から四ヵ月鳥羽欽一郎教授の協力により受け入れることになった。

 教員の人事――新井清光、国東文麿、松原昭、望月昭一が助教授より教授に、峰島旭雄が講師より助教授に、中西睦が助手より専任講師に嘱任された。また非常勤講師には、大林多吉、川尻武、角本良平、崇谷嗣雄、浜谷源蔵、横田一太郎、武川忠一、渡辺幸吉が、兼坦講師には、今西基成、黒柳久弥、堤口康博、牧雅夫が嘱任された。

 入学試験方法の変更――これまで第一・第二商学部の社会・数学は六科目につきそれぞれ四問題ずつ計二十四問題を出題し、そのうちから任意の六問題を選択解答させていたが、三十九年度からは二十四問題の中から四問題を解答すればよいことに改められることになった。

 大学院商学研究科への推薦制度の新設――将来の優秀な研究者を養成し確保する目的でかねてより助手制度の改革を検討していたが、全学的な予算の面で困難が存在した。そこで商学部では可能な面から実施してゆくことになり、第一または第二商学部に三年以上在学し学士号取得のため必要とする残り単位が三十六単位以下の者で、前年度までのS・Aが二・〇〇以上である者を推薦入学させ、入学予定者に奨学金を優先的に与えるという方法が採られることになった。

 在外研究員の派遣計画の作成――これまで在外研究員派遣計画は一年程度前に決まり準備その他の期間が短いという問題があったので、今年度から三年程度以前に計画を立てることとなり、長期派遣としては昭和三十九年度が田中喜助教授、四十年度が日下部与市教授、四十一年度が西宮輝明教授、短期派遣としては昭和三十九年度が山根行雄教授、四十年度が飯島義郎教授、四十一年度が林文彦教授と計画が立てられた。

 派遣教員の受入――次の如く受け入れることになった。

高田清昭(北九州大学助教授) 管理会計論の研究 協力者 青木茂男教授

申鉉禎 (韓国・国際P・R研究所所長) 国際関係論研究 協力者 堀内義高講師

 インドネシア賠償研修生の受入――昨年度に引き続き本年度(昭和三十八年十一月より三十九年二月まで)も六名(貿易五名、商業一名)を受け入れることに決まり、更にその後二名の追加があった。

 学生健康保険制度の発足――学部・大学院全学生加入を前提とする学生健康保険制度が設けられ、昭和三十九年四月一日から学生健康保険組合が設立され、発足することになった。

 国内研究員――昭和三十九年度は鈴木和一教授と杉野昌甫教授を推薦することになった。

 授業時間の変更――これまで(昭和二十四年以来)一時限五十分単位の授業時間を百分授業に改め、できるだけ三十九年度から実施することになった。これに伴い授業開始は午前八時二十分、終了は午後九時十分となった。

 入学検定料の改訂――三十九年度より、学部の場合、現行四千円が五千円に改訂されることになった。

 早稲田実業学校よりの推薦入学者の受入――系属校となったのに伴い、昭和四十二年度以降の卒業予定者から在学中の成績上位の者からおよそ一割以内の範囲で各学部で推薦された生徒を受け入れることになった。

 学科目の改廃――新年度より一般科目社会科学系列の「社会学B」を廃止し、「社会学A」を「社会学」に改めることになった。

 英語科目セメスター制の復活――百分授業への変更に伴い英語科目にセメスター制を復活することになった。

昭和三十九年

 島田孝一教授の定年退職――島田孝一教授は三月末をもって定年退職となった。在職期間は四十六年の長きに亘り、学部では四月の教授会で名誉教授の称号を贈ることになった。島田は大正六年早稲田大学商科を卒業。同七年大学の留学生としてペンシルヴァニア大学大学院に学び、同九年M・Aの学位を得、引き続きヨーロッパを経て同十一年帰国とともに早稲田大学講師に、同十二年教授に嘱任された。昭和九年商学博士の学位を授けられた。昭和十五年から二十年まで商学部教務主任を務めた。昭和二十一年早稲田大学総長に選出され、同二十九年まで戦後の大学の復興、新制大学の発足・発展のために尽力し、昭和三十二年以降、大学院商学研究科委員長を務めた。他方で、日本学術会議会員、日本私立大学連盟会長、大学設置審議会会長、中央教育審議会委員、日本交通学会会長、交通基本問題調査会会長等の要職を歴任し、教育行政の充実、私学振興、交通政策の立案とその実現に多大の貢献をした。研究の面では、交通経済学の体系化、その理論と実証での発展とその政策への反映等斯学の発展への寄与は大なるものであった(中西睦「早稲田大学における交通論の発展と系譜」『早稲田商学』第二六三号所収、「島田孝一博士年譜・著作目録」『早稲田商学』第一六七・一六八合併号参照)。

 学部選出評議員の補欠選挙――島田孝一教授の定年退職に伴い、補欠選挙の結果、青木茂男教授が選出された。

 教員の人事――四月一日付で、小川洌、筧太郎、鈴木豊、三橋昭三が助教授より教授に、市川孝正、二神恭一が専任講師より助教授に、藤田幸男が助手より専任講師に、栗山昭一、近田武、横田一太郎が非常勤講師より専任講師に、高橋秀雄が非常勤講師より客員教授に、木戸啓嗣が非常勤講師に、安東勝男が兼坦講師にそれぞれ嘱任された。

 教員の海外留学――専任講師藤田幸男はイリノイ大学の奨学金とフルブライトの渡航費の助成を受けてアメリカ財務会計研究のため同大学大学院に留学することになった。

 第二商学部の学生募集停止の方針――七月六日臨時学部長会議が開催され、第二学部検討委員会の審議の結果の報告とそれをふまえての基本方針の提示があった。商学部では本件は永年に亘る懸案であり、右に示された基本方針に一致する方向で進められてきたのである。そこで七月十五日に臨時教授会を開き討議の結果、第二商学部の学生募集の停止の時期を昭和四十年度より実施する方針を定め本部に手続することになった。これを受けて七月二十日臨時学部長会議が開かれ、昭和四十年度より第二法学部および第二商学部が学生募集を停止する方針が確認された。

 学部長の改選と役職者の交替――九月四日の臨時教授会で学部長の改選と役職者の交替が行われ、第一商学部長に葛城照三、同教務主任に染谷恭次郎、同教務副主任に島谷剛三、第二商学部長に芳野武雄、同教務主任に鈴木英寿、同教務副主任に三橋昭三が決まった。

 国内研究員――昭和四十年度は村尾力太郎教授と渡辺均教授に決まった。

 平沼淑郎先生生誕百年祭――商学部・経済史学会の共催、大学協賛により十一月十四日に記念行事が催され、展墓・胸像献花・記念講演会・晩餐会が行われた。

 クラス指定制度の新設――昭和四十年度から第一・第二両学部の統合に伴い、第一年度生の学生数が増加するので、単位登録の混乱を避けるために特定の科目について指定クラス制度を実施することになった。

 日本経済新聞図書文化賞の受賞――西沢脩教授著『研究開発費会計』に対し、本年度の日本経済新聞図書文化賞が授与された。

 勲章および褒章の授与――名誉教授北沢新次郎に勲二等瑞宝章が、また名誉教授島田孝一に藍綬褒章が授与された。

 在外研究員――昭和四十二年度の長期在外研究員に工藤恭吉教授、短期在外研究員に神沢惣一郎教授が決まった。

昭和四十年

 学位の授与――矢島保男「消費者金融論」に対し商学博士の学位が授与された。

 ボン大学交換研究員――植田重雄教授が本年九月より約一ヵ年宗教哲学および宗教芸術研究のため在外研究することに決まった。

 助手候補者の決定――昨年九月助手募集に応募した一名につき、審査委員会・研究報告会の選考を経て、小林俊治が助手候補者に推薦されることになった。

 編入試験受験資格の変更――三年度生の編入試験について第二商学部の学生を除き他学部・他大学の学生の受験資格を認めないことになった。

 末高信教授の定年退職――四十四年間に亘って在職した末高信教授が三月三十一日付で定年退職となった。学部では四月の教授会で名誉教授に推薦し、その功績に報いた。末高は大正四年早稲田大学大学部商科を卒業し、日本郵船㈱に入社し、同九年まで在職の後、同十年母校に迎えられた。さっそく派遣留学生として保険学・経済学研究のためペンシルヴァニア大学大学院に学び、引き続きベルリン商科大学で社会保険の研究をして同十二年帰国し同年五月講師に嘱任され、同十二月に助教授、同十三年に教授となった。保険論・経済政策などの科目を担当し、昭和八年に商学博士、その後専門部商科の教務主任、第二商学部長、大学院商学研究科委員長、大学理事などを歴任し、教育と大学行政に大きな足跡を残した。著書は三十冊を超え、発表した論文は膨大な数に上っており、これらの著作を通じて生命保険経営学の展開に顕著な業績を上げ、今日の生命保険経営学、保険マーケティング研究の礎石を築いたのである。更に社会保険から広く未開拓の分野である社会保障の研究に先鞭をつけ、その体系化と深化に努めた。他方で「社会保険および社会福祉の成立と発展につねに関与され、社会保障制度審議会副会長、社会保険審議会会長、社会保険医療協議会会長として、またそのほか枚挙にいとまない多種多様の諮問機関の委員としての重職に就任され、国民生活の安定および福祉の増進のために文字通りの席の温まる暇もないご活躍を学外において続けられてきた。かくして先生は我が国社会保険および社会保障行政における多年の貢献を嘉賞され、昭和三十七年には藍綬褒章を授けられ、昭和四十年には勲二等に叙せられ瑞宝章を授けられたのである。まさしく末高の名を抜きにして、今日の我が国の社会保障制度の進展を語ることはできない」のである(本田守「保険論の科目と人の系譜」『早稲田商学』第二五六号所収、および「末高信博士年譜及び著作目録」同上第一七四・一七五合併号参照)。

 教員の人事――四月一日付で、中西睦が専任講師より助教授に、石塚博司が助手より専任講師に、村上アプタンが非常勤講師より専任講師に、井内雄四郎、岡沢宏、小林基、薄井歳和、D・オローク、長島健が非常勤講師に嘱任された。

 教務主任の増員――昭和四十年九月より第一学部に教務主任一名を増員し、「学生の訓育・指導・奨学生などに関する事項とその他教務一般に関して学部長を補佐する」ことになった。これに伴い、小林太三郎教授が教務主任に就任した。

 学位の授与――原田俊夫「マーケティングテクニクス」に商学博士の学位が授与された。

 国内研究員――昭和四十一年度の国内研究員に佐口卓教授と増野肇教授を推薦することになった。

 入学試験方法の改訂――これまで第一次試験(筆記)と第二次試験(面接)と二回に亘って入学試験を行ってきたが、昭和四十一年度からは第二次試験を廃止することになった。また第二商学部から第一商学部への二年編入試験も廃止することになった。

 指定クラス制度の実施――昭和四十一年度より専門科目第一部について第二年度生の登録する科目について指定クラス制度が導入されることになった。

 商学部専任教員の担当時間数についての申合せ――専任教員の担当時間数についてアンバランスがあるので、これをできるだけ是正するとともに、商学部の科目を優先的に担当することとし、当分の間専任教員は商学部で最低十二時間(六コマ)担当することを申し合わせた。助手から専任講師に嘱任された者については、初年度の担当は八時間(四コマ)として、負担の軽減を図ることにした。

 国内研究員――昭和四十二年度の国内研究員に林容吉教授と六角恒広教授に決まった。

昭和四十一年

 学費・学館問題と商学部――一月になって、第二学生会館の管理権および学費改訂をめぐって学生自治会の反対運動が起り、後期試験の実施を妨げる校舎封鎖の動きが始まった。学部では頻繁に臨時教授会を開き、打開の途を模索した。後期試験については、教場での試験が困難になったため、やむを得ず四年度生以上についてリポート(教場外試験)に切り替え、学士認定を行い、三月二十五日に商学部のみが全教職員の協力の下に大隈講堂で卒業式を挙行した。三年度生以下については後期試験を四月以降に延期することになった。四月二十五日に創刊された『商学部報』にはこの卒業式に列した一卒業生からの書簡が載っているので紹介する。

(前略)さて僕がこの手紙を書いた理由は、卒業式をやっていただいてほんとによかったという気持を先生に知っていただきたいためです。ほんとにありがとうございました。実は前日に先生のお宅にうかがった時は、卒業式なんかどうでもいいと思っていました。しかし卒業式も後半に入り佐藤先生のお話を聞き、校歌「都の西北」をうたっているうちに卒業式があってよかったと思いました。先生の御声も涙声でしたが、僕も「都の西北」を歌っている時に、この四年間のでき事が頭にうかび、涙がでてきて、歌詞のところどころしか歌えず、さいごのワセダワセダはどうしても歌うことができませんでした。「都の西北」は今まで数えきれないほど歌ってきました。春秋の早慶戦で、早稲田祭で、クラスコンパと……。しかし卒業式の「都の西北」ほど胸に迫った時はありませんでした。あの感激は一生忘れられないと思います。「都の西北」を聞くたびに卒業式のことが思い出されるでしょう。

この間、学部では困難な状況を打開するために、さまざまな措置を講じていった。まず、(1)クラス担任制度やセミナーを通じて、教員と学生の話し合いを精力的に進め、打開の途を求めた。(2)その結果、学生のセミナーを中心とする組織ができ、それらの学生は学生会を説得してストライキ状態を解除する学生投票を実施し(四月九・十一・十二日の三日間)、その結果ストライキを解除して後期試験が実施可能となった。(3)その過程で、学費問題に関連して商学部独自の奨学金制度の充実を目指して「商学部奨学基金」が設けられることになった。その趣旨には「この基金が存続する限りわれわれはこの紛争からの教訓を永遠に活かしてゆかねばならない」とうたわれている。基金には学生有志よりの拠金十五万円、教員の拠金八十万円、学外篤志家の寄附金八十万円、計百七十五万円の基金が設定され、基金を充実させるために募金することになった。このことが発表されると間もなく校友・父兄・学生から早速十八万円余が寄せられた。こうして昭和四十三年三月末には基金は二百二十五万円余に達し、昭和四十一年以降毎年十名の学生に各三万円を給付することができた。(4)学部・教員・学生間のよりよい意思疎通を図るために、学部の機関紙『商学部報』を年四回発行することになった。こうした試みは大学本部や他学部に先がけた新しい企画である。昭和四十一年四月二十五日第一号が発刊された。(5)学生との話し合いの過程で強い要望があったのはセミナーの拡充であった。学部はこうした要望に応じてセミナーの増設・増員を図ることになった。(6)また学部の充実のため「教育内容充実対策委員会」を設置し、検討して立案されたものから実施してゆくことになった。(7)学生会の規定に決められている決算報告書の提出、会計監査や決算公告の実行、学生委員の名簿の提出などが行われておらず、責任がもてないので、代行徴収をやめることにした(昭和四十三年一月に代行徴収を再開することになった)。

 学位の授与――鈴木英寿教授に商学博士の学位授与が決まった。

 専任教員の所属変更――昭和四十一年四月一日より社会科学部が新設され、商学部の芳野武雄教授が新学部の学部長に、新井清光教授が同じく教務主任に就任することになった。これに伴い、両教授の所属変更と、将来、役職を辞任された場合は直ちに商学部に復帰することも決まった。

 教員の人事――四月一日付で、朝岡良平、新沢雄一、寿里茂、島谷剛三、西沢脩、本田守、山川博慶が助教授から教授に、横田一太郎、小田泰市が講師から助教授に、塩原一郎、古田稔が助手から講師に嘱任された。なお三月三十一日をもって松下周太郎教授(財政学)が定年退職となった。

 在外研究員――昭和四十三年度の長期在外研究員に望月昭一教授、短期在外研究員には有田潤教授が決まった。

 柳井哲男助教授の逝去――大学が困難な状況におかれていたさなかの四月十三日柳井助教授が行方不明になった。学部では八方手を尽くして捜索に当たったのであるが、事故で亡くなられたことが確認された。学部では同助教授が今回の事態の中で解決に努力された労苦に報いるために、葛城学部長を葬儀委員長として、四月二十八日に葬儀が行われた。また二人の遺児のために育英資金を募集し、九月中旬には申込総額百六十六万円余に達した。

 セミナーの増設・増員――前述の通り学生の強い要望に応じて四月十五日の臨時教授会で決まったセミナーの増設・増員は直ちに着手され、一週間後の四月二十二日の教授会でセミナーの新設一(四十名募集)、増員は五セミナーで三十九名、計七十九名の増員が決まった。『商学部報』第三号(一頁)によると、四十一年度のセミナー登録学生数は申込数のほぼ八割に上っており、かなり充足されていた。

 異常事態の解決と授業日程の変更――商学部では他学部に先立って五月二十一日全学生の七五パーセントに当る四千八百八十三名が投票を行い、ストライキ反対が投票総数の九〇パーセントを占め、同日深夜バリケードが撤去された。そこで異常事態で生じた四週間の授業日程のずれを補正し、夏季および冬季の休業を短縮することになった。夏季学期を担当した教員は夏季休業は三週間程度であった。

 教員養成制度の充実化――かねてより将来の学部専任教員の陣容の充実を図るために委員会を設けて検討を重ねてきたが、ほぼ成案を得た。大要は次の通りである。(1)従来通り大学院商学研究科に在学し、博士候補者試験に合格し、学部卒業時の成績が一定水準以上の者について公募する。(2)これと併行して、商学部四年度生の中から三年度までの成績が上位十名以内の者について、学部が指定する専門分野を将来専攻する者を特別奨学生として大学院に推薦する。(3)語学については、語学助手の制度を新設し、公募して専門科目助手に準ずる取扱いをする。この方式による第一号として、六月の教授会で四年度生島村紘輝(近代経済学)が特別奨学生に推薦されることになった。

 休講の改善――休講の場合、事務所を通じて掲示し、できるだけ講義に代わる自習の課題を課し、補講期間を設けて補講を行うことなどが申し合わされた。このように、今回の大学紛争の起る前から学部では教育内容の改善・充実および教員陣容の充実のために努めてきた。紛争の過程でそれらはテンポを早め、いっそうの努力が傾注されてきたのである。

 学部長改選と役職者の異動――第一商学部長に青木茂男教授、同教務主任に鳥羽欽一郎教授と小川洌教授、同教務副主任に寿里茂、第二商学部長に矢島保男教授、同教務主任に日下部与市教授、同教務副主任に二神恭一教授が就任した。また第一商学部選出評議員に葛城照三教授、第二商学部選出評議員に佐藤孝一教授が選出された。

 専門科目第三部(セミナー)の増設――セミナーの充実は学部の課題の一つであるが、昭和四十二年度より学部専任教員が担当するセミナーが四科目、非常勤講師によるものが二科目、兼坦教員によるものが九科目、計十五科目のセミナーが増設されることになった。これによって、セミナーの総数は七十七、収容人員も四百八十人増加が可能となった。

 在外研究員(長期)――昭和四十四年度新井清光教授、四十五年度松原昭教授に決まった。

 特別講座の開設――学部では学生に正規の授業以外に幅の広い見識を身につけてもらいたいという趣旨で特別講座を随時もつことになった。その一つの試みとして「商学部特別講座・先輩シリーズ」として学部の先輩から各業界の展望と課題を後輩である学生に語ってもらい、要望や助言をしてもらうことになった。その第一回として、十一月二日、「事務機械業界の展望と課題」としてNCR取締役経理部長三富啓亘氏の講義が行われ、第二回は、「百貨店経営と業界の課題」として松坂屋百貨店常務取締役井沼清七氏の講義が行われた。

 近代経済学クラスの増設――学生の要望を入れて、四十二年度から近代経済学を内容とする「経済原論」のクラスを増設し、一橋大学の篠原三代平教授に担当していただくことになった。

 外国語助手の採用――先に英語に関する外国語助手を公募のところ、十六名の応募者があり、学科・面接の試験を施行し、審査会で審議の結果、木村富久子、神保尚武の二名が教授会に推薦され、教授会で協議の上、採用することに決定した。

 国内研究員――昭和四十三年度の国内研究員に町田実教授、飯島義郎教授が決まった。

 商学部への留学生の状況――『商学部報』によると昭和四十一年七月現在で外国からの留学生は百一名で、その国籍は、台湾四十九名、韓国十八名、香港十三名、インドネシア八名、中国六名、アメリカ三名、タイ三名、ポルトガル一名となっている。

昭和四十二年

 芳野武雄教授の急逝――商学部より社会科学部創設に伴い同学部長として活躍中であった芳野武雄教授が三月十日急逝した。葬儀は商学部・社会科学部の合同葬として執り行われた。芳野は昭和二年商学部卒業とともに早稲田専門学校講師に嘱任され、同十三年専門部商科に移り、同十九年教授、同二十四年商学部教授に就任後第二商学部長、社会科学部長として永年に亘り夜間に学ぶ勤労青年の教育に尽くした。昭和三十五年には商学博士の学位を授与され、証券論の分野の研究に業績を残した。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、桶田篤、鈴木辰紀、谷崎英男が教授に、石塚博司、近田武、田沼利男が助教授に、藤田赤二が専任講師に嘱任された。

 特別奨学生――本年度より始まった特別奨学生の推薦制度により昭和四十三年度特別奨学生として中村清(地域開発・産業構造論)、横田信武(財政学)の二名が推薦された。

 商学部学術研究会の開催――教員の研究の充実・相互の切磋琢磨を目指して、六月三十日商学部学術研究会が開かれ、石塚博司助教授、横田一太郎助教授の研究報告が行われた。

 セミナー募集定員――九月の教授会で学生のセミナー履修の希望になるべく応じられるように、一セミナーにつき三年と四年で各十五名計三十名を原則として受け入れ、採用人員がこれに満たない場合、第二次募集を行って充足することが申し合わされた。

 二〇号館(現一二号館)改修工事の完了――これまで施設の不足に悩んできた商学部は、理工学部研究室の西大久保移転に伴い、二〇号館の改修計画を進めてきたが、十月中旬から使用できるようになった。この建物には、三、四階に学生読書室、一、二、四階にセミナー専用の九教室、スライド等の使用できる二教室、一階に学生談話室と複写室等を設けて、教育内容の充実に見合う施設の改善が進められたわけである。

 学生の学習意欲の増進策――これまで見てきたように、学部では学生の学習意欲の増進のためゼミの増設・増員、ゼミ用施設の充実を図ってきたが、更にその質的な向上を目指して早稲田商学同攻会による「学生懸賞論文」の募集、「セミナー研究発表」の開催などを行うことになった。

 学位の授与――日下部与市「財務諸表監査の基礎理論」、田中喜助「国際収支論―景気変動と国際収支―」に商学博士の学位が授与された。

 国内研究員――昭和四十四年度の国内研究員に国東文麿教授、蜷川親善教授が決まった。

 在外研究員――寿里茂教授がパリ大学での在外研究員に推薦された。

 第二商学部廃止――昭和四十三年三月末日をもって第二商学部が廃止されることになった。

 助手候補者の決定――助手募集に応募した二名について審査委員会で審査を進め、全員委員会で研究報告が行われた結果、大谷孝一、亀井昭宏を助手候補者として推薦することが決まった。

昭和四十三年

 学位の授与――西宮輝明「職務給・考え方・進め方」、小林太三郎「広告コミュニケーションの管理」、新井清光「会計公準論の研究」、西沢脩「研究開発費管理の研究」に対し、商学博士の学位が授与されることになった。

 GLCA(Great Lakes Colleges Association)交換留学生の合格者――国際部の選考試験に合格して、一九六六―六九年度交換留学生として商学部の二年度生一名、三年度生三名、計四名が決まり、表記GLCAの各大学へ留学することになった。

 客員教授の退職――高橋秀雄客員教授は四月から流通経済大学への本属変更のため三月末日を以て退職することになった。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、峰島旭雄が助教授より教授に、藤田幸男、塩原一郎、古田稔が講師より助教授に、本間忠彦が非常勤講師より教授に、小林基が非常勤講師より専任講師に、小林俊治が助手より専任講師にそれぞれ嘱任された。

 カリキュラムの大幅改訂――学部では数年前から教育内容を充実し、より時代に即した教育を推進するため、教授会で論議を重ね、特に昭和四十一年四月の臨時教授会で教育内容充実対策委員会の設置が決まり、既に述べてきたように、直ちに着手できることは実施してきたが、本年度新学期よりカリキュラムの大幅な改訂が行われることになった。今回の改訂の基本方針は「第一に、専門科目教育の内容をレベルアップし教育密度を高めること、第二に、商学部を卒業するのに必要な最低の専門科目履修範囲を強化すること、第三に、数理系統の科目を増強して、計数的知識を拡充すること、第四に、セミナー制度の強化により教員=学生の人間的接触を強め、自主的な研究・学習態度を養成すること」(鳥羽欽一郎「新しいカリキェラムについて」『商学部報』第一二号)であった。改訂された内容は以下の如くであった。(1)選択必修制の採用。第百四十三表のように、商学の基礎科目を八系列に分け、各系列より少なくとも一科目を選択必修とすることにより、幅広く基礎科目を習得し、広い視野をもつことができるように配慮した。(2)「専門科目演習」の強化。セミナー制度を重視し、他学部に比べて充実しているのが商学部の専門科目の特徴である。本年度も二つのセミナーが増設された。昭和四十五年におけるセミナーの設置状況を掲げると第百四十四表の通りとなる。

第百四十三表 商学部八系列の選択必修科目(昭和四十三年度)

第百四十四表 商学部専門科目演習一覧(昭和四十五年度)

セミナーの総数は八十に上っている。クラス数が一つのセミナーは三・四年合同、二つのものは三・四年が別々のクラスで講成されており、合同の場合は定員三十名、個別のものは各十五名を定員の標準とすることにしている。またセミナー履修者が卒業時に演習論文を提出した場合には、従来の演習四単位に、演習論文に対する四単位が加えられ、合計八単位が与えられることになった。(3)「一般演習科目」の新設。「プロ・セミナー」と呼ばれているこの演習は、小クラス制による学習効果の向上、教員・学生の人間的接触の増大ばかりでなく、一般科目および語学担当の教員によるその専門分野に関する高度な学習を望む学生の要望に応えようとするもので、二年度生を対象とするものである。昭和四十五年度の一般科目演習(二十七科目)の設置状況は第百四十三表の通りである。

第百四十五表 商学部一般科目演習一覧(昭和四十五年度)

(4)「英書原書講読」の新設。この科目を設置した目的は、一つには英語の読解力の増強という面もあるが、他方には初学年の間に、経済学の名著を原典で読む機会をもち、経済学への理解と真にアカデミックな学問の香気を味わせたいというところにある。二年度生を対象にする。(5)第二外国語、経済学Ⅱの必修制を選択制に変更。従来四年度生に必修科目として課していたこの科目は四年度生にセミナーや専門科目の学習に専念させる面からその教育効果との関連で選択制の方が好ましいという判断によるものである。(6)数理系科目の新設と強化。商学部で学習する科目には数学とその応用を必要とする分野が多くなってきているので、数理系科目の充実が課題となっている。そこで数学の強化、数理統計学の新設が図られたのである。以上が改訂の概要であるが、体系的なカリキュラムの編成、時代の進展に即応した分野の充実、少人数教育の重視などの観点が込められた大幅な改訂であった。昭和四十四年度の専門科目の年次別学科配当表を掲げてその体系を示しておこう。

第百四十六表 商学部専門教育科目配当(昭和四十四年度)

 特別講座――本年の商学部特別講座は次の通りに行われた。

五月十六日 経営学の課題 一橋大学教授 山城章

五月二十三日 世界の中期循環と日本経済 一橋大学教授 篠原三代平

五月二十七日 経営革新と学生への助言 東芝専務取締役 名取政造

六月七日 乳業界並当社の現状と将来 雪印乳業社長 瀬尾俊二

The Rich and The Poor 早稲田奉仕園クリスチャン・センター C・A・ロバートソン

六月十二日 財界随想 日本化薬社長 原安三郎

六月十四日 A Case Study of a Less Developped Country 早稲田奉仕園クリスチャン・センター C・A・ロバートソン

 商学部特別奨学生――会計学専攻の学部四年度生大沢章および事務管理専攻予定の辻正雄が推薦された。

 本部役職者への就任――総長選挙の結果、政治経済学部時子山教授が選出され、これに伴い六月三十日商学部の葛城教授が常任理事に、また七月五日付で染谷教授が教務部長に、七月十九日付で市川助教授が学生部副部長に就任した。

 学部長の選出と役職者の異動――九月の臨時教授会で商学部長候補者の選挙が行われ、矢島保男教授が選出された。これに伴い、教務担当教務主任に西宮輝明教授、同教務副主任に近田武助教授、学生担当教務主任に本田守教授、同教務副主任に峰島旭雄教授が決まった。今回より副主任が一名増員した。

 学科目の新設――本年度より専門科目第二部に「電子計算」「火災保険論」の二科目と演習四科目が新設された。

 助手候補者の決定――三名の応募があった助手の選考は審査委員会、助手研究報告会の審査を経て、大塚宗春、片山覚、宮下史明が候補者として推薦されることになった。

 外国人客員教授の招聘――昭和四十四年四月より七月までペンシルヴァニア大学マッツ教授を客員教授として受け入れ、学部生に英語でCost Accounting and Controlを講義することになった。

 国内研究員――昭和四十五年度の国内研究員に渡部正雄講師が決まった。

昭和四十四年

 池田英次郎教授の逝去――二月七日池田英次郎教授が逝去された。池田は大正十五年商学部を卒業し、昭和二年助手、翌年ドイツへ留学、五年帰国して講師に嘱任されてから翌六年助教授、同十年には教授に昇進した。他方で商議員・評議員として、更には戦後は第二商学部教務主任、第二商学部長として大学行政に寄与している。研究の分野では学位論文「原価と操業度」は未開拓の研究分野の名著として注目されるとともに、経験科学としての経営経済学の体系化に努め、既に戦前からアメリカ経営学の発展に注目して「市場分析」という分野の開拓的研究や経営と景気変動との関連について研究を深めた。経営学会の理事として斯学の発展に大きな足跡を残した(鈴木英寿「商学部における経営学の系譜」『早稲田商学』第二六三号所収参照)。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、教授に岡田憲樹が、専任講師に篠田義明、広田典夫が、客員教授に稲川龍雄が新規嘱任され、市川孝正、二神恭一、中西睦が助教授から教授に、横山宏、渡部正雄が専任講師から助教授に昇任となった。

 法商研究棟の完成――念願であった研究室棟が完成し、四月中に部屋割りを決定して、六月から新研究室への移動が行われた。これによって大学院商学研究科の教室等の諸施設と学部の研究室・会議室・教員図書室等が整備され、研究条件が飛躍的に整えられることになった。

 学部選出評議員・学生部長――佐藤孝一教授が健康上の理由で評議員を辞任したので、後任について投票の結果、入交好脩教授が選出された。また六月十三日付で市川孝正教授が学生部長に嘱任された。

 商学部特別奨学生の推薦――昭和四十五年度の奨学生として原田一郎(四年度生)が推薦された。

 学部長の辞任と新しい陣容――矢島学部長はあと一年間の任期を残して健康上の理由で辞任し、後任には宇野政雄教授が選出され、これに伴い教務主任(教務担当)に鳥羽欽一郎教授、教務主任(学生担当)に中西睦教授、教務副主任(教務担当)に藤田幸男助教授、教務副主任(学生担当)に横山宏助教授が就任した。

 「大学立法」をめぐる動きと学生の要望――「大学運営に関する臨時措置法(案)」(いわゆる「大学立法」)の国会への提案・審議をめぐって大学では激しい学生運動が展開された。七月十一日の学生大会でこの法案に反対する意思を表示するためと称して「無期限バリケード・ストライキ、九月学生大会開催」の決議が可決されたと学生会常任委員会は発表して、実力行使に入った。商学部では右の決議に従い、十月十五日に安部球場に二千数百の学生が集まり、投票により「バリケード・ストライキ」解除の決議が行われ、異常事態は学生の手で収拾された。大学全体(理工学部は除いて)としては十月十六日警察力を導入して異常事態の収拾が図られた。十日の整備期間を経て授業が再開された。ところで、十月十五日の集会に際し、学生より六項目の要望書が提出された。それは、(一)一般教育の充実、(二)カリキュラムの改編と充実、(三)学期始めのオリエンテーションの復活、(四)他学部聴講制限の緩和、(五)教員資質の向上、(六)学生を含む学部改革協議会の設置、というものであった。学部ではこれを承けて、十一月七日再び安部球場で集会を開いた。ここで右の六項目の要望事項について学部の考え方・方針を示し、改善できるものから直ちに実施に移すとともに、十二月八日から十三日にかけて「商学部改善に関するアンケート調査」を実施した。全学生の六五パーセントに及ぶ四千余名からアンケートへの回答を得ることができた。また常時、学生の意見が反映できるようにカウンセリング室や「投書箱」も設けられた。こうした経緯の中で、新入生に対し箱根に宿泊してオリエンテーションを実施し、在学生に対しても新学期当初、オリエンテーションの期間を設けて要請に応じた。この他、大教室での出欠調査に代えて随時リポートを課し、コメントを付して返すこと、専門科目第一部(英語経済学、貿易英語など)のクラスを指定制から自由選択制にすること、語学・一般教育(プロゼミ)を一年度生からも履修できるように拡大すること、要望の多い科目のクラスの増設やカリキュラム充実のための科目の新設、商学部デーを設けて各種の行事ができる機会を設けること(六月二十五―二十七日の三日間に実施)、科目登録の方法の改善など素早い対応がなされたのである。特に教員の充実には数年前から努力を注いでおり、近い将来着実にその成果が期待される状況であった。教員の授業に対する姿勢や内容について学生の不満や批判も寄せられたが、同時に人格・内容について多くの学生から支持の強かった科目も多数あったことも事実で、勇気づけられるものであった。

 林容吉教授の逝去――十二月二十六日林容吉教授が急逝した。享年五十七歳。林教授は昭和二十四年新制大学が発足する際、教務副主任として新しい大学の理念と制度の導入・定着に大きな役割を果たし、また教務主任・学部長として尽力された。また児童文学にも造詣が深かった。

昭和四十五年

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、小林俊治、小林基が専任講師から助教授に昇格した。

 外国人教授の招聘――イギリスのリヴァヒューム財団の費用でシドニー大学チェンバーズ教授(会計学)を昭和四十六年四月から七月まで客員教授として受け入れ、学部学生への講義を担当することになった。

 韓国韓陽大学校と講師派遣の協定――同大学校が年二回開催する経営セミナーに早稲田大学が講師を派遣する協定が締結された。

 商学部校舎の改修――六月下旬から九月上旬にかけて商学部校舎内部の大改修工事が行われ、面目を一新した。

 商学部ビジョン研究会の設置――商学部の改善・内容の充実を期して、商学部ビジョン研究会を設け、五月より活動を開始し、第一部会「商学部の基本理念」、第二部会「商学部の教育・研究体制および運営」、第三部会「商学部の管理運営とその組織機構」の三つの部会を設けて研究を進めてゆくことになった。

 学部長・学部役職者・選出評議員――九月十五日で任期満了となるため学部長候補者の選挙が行われ、原田俊夫教授が選出された。教務主任(教務担当)には、朝岡良平教授、教務主任(学生担当)には中西睦教授、教務副主任(教務担当)には石塚博司助教授、教務副主任(学生担当)には横山宏助教授が決まり、同時に第一・第二商学部選出の評議員として入交好脩教授と葛城照三教授が決まった。

 LL教室の開設――夏期休業期間中に一二号館二階にLL教室が設置された。LL教室運営委員会を設けて有効な利用を図ってゆくことになった。

 カリキュラム検討委員会の設置――夏期休業中も精力的に活動してきたビジョン委員会の答申を承けて、カリキュラムを全面的に検討し直すためのカリキュラム検討委員会が設けられた。

 在外研究員・国内研究員――昭和四十六年度の在外研究員に小川洌教授と本田守教授、国内研究員に中西睦教授が決まった。なおボン大学交換研究員として谷崎英男教授が派遣されることになった。

 学部関係本部役職者――総長改選に伴い、学生担当常任理事として神沢惣一郎教授が嘱任された。

 学位の授与――鳥羽欽一郎教授に商学博士の学位授与が決まった。

 韓国韓陽大学校への講師派遣――先の協定に基づき、秋季セミナーに「海外マーケティング」に関し伊東克巳教授が講師として派遣されることになった。

 リヴァヒューム・フェローシップによる交換研究員――宮下史明助手に決定し、オーストラリア国立大学で約一年間経済地理の研究を行うことになった。

 専門科目演習の新設――本年度より二科目の演習が新設されることになった。

昭和四十六年

 助手候補者の推薦――助手の募集に応募した三名につき審査委員会および助手研究報告会での選考の結果、石井和彦、杉山雅洋、原輝史の三名を助手候補者として推薦することになった。

 教員の人事――四月一日付で教員人事が発令され、横田一太郎が助教授から教授に、篠田義明、広田典夫が講師から助教授に、大谷孝一、亀井昭宏が助手から講師に嘱任された。

 マラヤ大学日本研究講座への教員派遣――日本政府は東南アジア五ヵ国に日本研究講座を設けることになり、マラヤ大学に設置される同講座の担当者として文部省の依頼を受けて鳥羽欽一郎教授が派遣されることになった。

 平竹伝三教授の定年退職――永年に亘りロシア語、ロシア語経済学、ソ連経済論等を担当してこられた平竹伝三教授は定年により三月末日をもって退職されることになった。

 学部役職者の移動――四月十五日付で教務主任(学生担当)に西沢脩教授、教務副主任(学生担当)に古田稔助教授が就任した。

 新入生オリエンテーションと特別講演――四月五日から七日にかけて新入生一千三百八十八名の出席の下に、箱根湯本でオリエンテーションを行い、また四月十日には新入生のための特別講演として、名誉教授島田孝一が「戦前から戦後にかけての商学部」を、名誉教授上坂酉蔵が「商学部に学ぶ者の考え方・あり方」を語った。

 ハワイ大学交換研究員の派遣――ハワイ大学イースト・ウェスト・センターの交換研究員として助手椿弘次が推薦された。

 海外留学――小林俊治助教授はシェル石油奨学金によりアメリカ・インディアナ大学経営大学院へ、また小林富久子助手も同大学院英語学科へ何れも二ヵ年間留学することになったが、その後アイオワ大学に変更になった。

 高見亘教授の逝去――六月二十三日、療養中であった高見亘教授が逝去された。享年五十九歳。高見は昭和二十四年の新制大学発足以来商学部の専任教員として、数学、自然科学の講義や経営数理のセミナーを担当し、謹厳な中にも温容をもって学生の教育・指導に当ってきた。

 研究資料整備委員会の発足――学部の研究に必要な図書・資料等を整備し充実させるために委員会を設けて積極的に検討を進めてゆくことになった。

 本部役職への就任――九月一日付で藤田幸男助教授が国際部副部長に就任した。

 公認会計士試験合格者――昭和四十六年度公認会計士試験の合格者が発表され、全国の合格者総数二百九十四名中本学部CPA研究講座受講者で合格した者は四十二名(全合格者の約一四パーセント)の多数に上った。

 在外研究員・国内研究員――昭和四十八年度長期在外研究員に鈴木辰紀教授、昭和四十九年度長期在外研究員に桶田篤教授、昭和四十七年度国内研究員に望月昭一教授がそれぞれ決まった。

 助手候補者の決定――本年度は助手の公募はしないで、特別奨学生について論文と研究報告会での審査によって選考をすることになり、「システムズアナリシスによる問題解決の方向」の辻正雄、「地域経済研究における産業立地分析の体系とその一展開」の中村清、「経済成長と財政政策」の横田信武の三名が助手候補者として推薦された。

 産業経営研究センター設立の方針――先に設置された研究資料整備委員会は、検討を重ねてきた結果、「商学部の研究体制を飛躍的に拡充する」ためには、「産業経営研究センター」(仮称)を設立する必要があるとの結論に達し、十月の教授会に諮ったところ全員の賛同を得た。そこで委員会は予算案の作成等設立に向けての準備に入った。昭和四十七年四月には運営委員二十二名を選出し、五月にはセンターの委員長に染谷恭次郎教授を選び、更に資料整備小委員会(世話役町田実教授)、制度小委員会(永山武夫教授)、事業計画委員会(市川孝正教授)を設けて、実現に向けての活動を進めた。

昭和四十七年

 定年退職教員――三月末日をもって、中島正信教授、村尾力太郎教授(英語)、杉野昌甫教授(ドイツ語)、北通文専任講師(ドイツ語)が定年退職となった。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、石塚博司、田沼利男、近田武、藤田幸男、渡部正雄が助教授から教授に昇格し、岡田純一が教授に、我妻和男、高瀬礼文が助教授に、片山覚、神保尚武、堀越知己、宮下史明が専任講師に、田中泰三、八杉龍一が客員教授にそれぞれ新規嘱任された。

 レジォン・ドヌール勲章受賞――近藤等教授は多年に亘る日仏文化の交流と親善に貢献された功績により昨年末レジォン・ドヌール勲章を授与されることになり、本年二月フランス政府スポーツ大臣の来日の際、授与された。

 新入生のための特別講演――四月十日から十四日までの五日間に亘ってそれぞれ二つの演題について十一名の商学部の教員・前教員によって特別講演が行われた。

 学部名称の変更――昭和四十六年三月末をもってすべての第二商学部の学生が卒業したので、同学部を廃止し、第一商学部の名称を「早稲田大学商学部」と変更することになった。

 在外研究員・国内研究員――在外研究員(長期)に、昭和四十八年度は二神恭一教授、昭和四十九年度は市川孝正教授が決定し、四十八年度国内研究員には新沢雄一教授が、四十九年度国内研究員には小田泰一助教授が決まった。

 名誉教授の推薦――本年三月末日をもって定年退職となった中島正信元教授に名誉教授の称号を贈呈することが決定した。中島は大正十五年商学部を卒業、昭和五年四月商学部助手に嘱任され、同年七月から七年までアメリカ・コロンビア大学に留学、帰国後専任講師、十一年助教授、十六年商学部教授に嘱任された。その後教務主任、第一商学部長を歴任、同三十七年から四十一年にかけて大学理事、生産研究所所長などを務めた。商業英語、国際経済論を専攻し、その方面の著書・論文・訳書が多数ある。新制大学の発展に多大の寄与をするとともに、オートメーションや経済統合などに関し先見性と洞察力のある所論を展開し、談論風発として独特の風格を持った教授として親しまれた。

 助手の海外留学――フランス政府給費生として「フランス近代経済史研究」のためパリ大学へ原輝史が、フルブライト奨学金により「理論経済学および計量経済学研究」のため島村紘輝がミネソタ大学へ留学した。

 入学試験科目の変更――昭和四十八年度から入試科目のうち、「数学ⅡB」を廃止し、「数学Ⅰ」のみとすることにした。

 英語セメスター制の変更――昭和四十八年度入学の一年度生からセメスター制を通年制に変更することになった。

 学部長の改選と学部役職人事――九月十五日で任期満了となる学部長の候補者の選出が行われた結果、染谷恭次郎教授が選出された。これに伴い、教授担当教務主任に望月昭一教授、学生担当教務主任に桶田篤教授、教務副主任には教務担当が古田稔助教授、学生担当が篠田義明助教授と決まった。

 学位の授与――二神恭一教授に商学博士の学位を授与することになった。

 産業経営研究センターの人事異動――センターの染谷委員長の学部長就任に伴い、後任の所長には原田俊夫教授、同幹事には市川孝正教授と永山武夫教授が決まった。

 国東教授の本属変更――昭和四十八年四月より文学部からの希望申し出によって国東文麿教授が文学部に本属変更することが承認された。

昭和四十八年

 助手候補者の決定――昭和四十七年度の助手募集は、特別奨学生から応募することを認めた者一名(会計学)と経営学または金融論を専攻する者一名について一般公募したところ、金融論について一名の応募者があった。この二名について審査委員会に付し、研究報告会を行い、審議の結果、大沢章と昼間文彦の二名が助手候補者として推薦されることに決まった。

 早稲田実業学校よりの推薦入学者――昭和四十二年度に始まった早稲田実業学校からの推薦入学は既に六年間経過し、入学後の学業成績も良好で、受入数も徐々に増やしており、その状況は、昭和四十二年度、四十三年度が各八名、昭和四十四年度が十名、昭和四十五年度、四十六年度が各十一名、昭和四十七年度が十二名、昭和四十八年度が十四名となっている。

 外国人講師の受入――国際交流を進め、学生に将来ますます拡大する国際化に対応できるように外国語による授業を行う科目を設ける方針が認められた。これに伴い、新学期よりハワイ大学のピーター・G・ブラホースを迎え、半年間週二回四時間(四単位)でEconomic Principlesを担当してもらうことになった。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、塩原一郎、古田稔が助教授から教授に、八杉龍一が客員教授から教授に、大谷孝一、亀井昭宏が専任講師より助教授に昇任となり、また、大塚宗春、椿弘次、山本定祐が専任講師に、高橋幸八郎が客員教授に新規嘱任された。

 教務副主任の交替――教務担当教務副主任の古田教授が退任し、後任に大谷孝一助教授が就任した。

 鈴木金太郎教授の逝去――五月二日逝去。享年六十七歳。昭和十六年に早稲田大学専門部商科の講師に嘱任され、昭和二十四年の新制大学発足以降商学部教授として英語・貿易英語を三十有余年に亘り担当してきた。

 特別奨学生制度の廃止――特別奨学生制度は昭和四十八年度から停止し、従来の助手制度の運用によって教員を養成していくことになった。

 商学部研究基金の設定――早稲田商学同攻会からの拠出金約三百七十万円と故伊地知教授ご遺族からの寄附金等と併せて三百九十万円の「商学部研究基金」が設定されることになった。この基金の運用によって得られる資金は学部の研究活動に役立てることになった。

 入試募集定員の変更と推薦入学制度の導入――かねてより教育の質的向上と語学一クラス定員の縮小等を図るために入学定員の縮小が必要であるという一致した認識があった。これを具体化するために七月学部長会議に染谷学部長から、昭和四十九年度より募集定員を一千四百名から一千二百名に改めること、ならびにこの募集定員のほかに推薦入学制度を採用することの二点が提案され、承認された。

 教員人事昇進基準の制定――教員人事委員会で検討・審議して成案を得た「教員人事昇進基準」について教授会で審議の結果、商学部の内規とすることが承認され、昭和四十九年度から適用されることになった。

 中島名誉教授・近田教授の逝去――七月二十五日中島正信名誉教授が逝去され、八月三日大隈講堂で葬儀が執り行われた。また九月十九日、近田武教授はプロゼミの授業中倒れ、翌二十日急逝された。授業中の殉職であったので準学部葬として同月二十二日葬儀が執り行われた。また教授の二人の遺児のために育英資金の募集が行われた。

 在外研究員・国内研究員――昭和四十八年度特別短期在外研究員に葛城照三教授と青木茂男教授が決まった。また昭和四十九年度国内研究員に鈴木豊教授と本田守教授が決まった。

 GLCA交換教員の派遣――本大学国際部に、近い将来「日本の経済地理」という講義科目を設置する予定であるので、この科目に関係する英語で教授する教員の派遣を希望されているので、宮下史明講師を昭和四十九年秋から一ヵ年派遣することになった。

 推薦入学候補者の選抜――本年度より始まる推薦入学制度は、推薦依頼の基準が決定したので、それに基づいて百三十校に推薦依頼のところ、百校より推薦されてきたが、基準に照らして七十八校よりの推薦者を適格と認定し、面接試験の結果、七十八名(内女子九名)を入学候補者に決定した。

 科目新設――本年度より語学力を強化するため、外国語Ⅰ・Ⅱの成績優秀な学生に対し、会話を主な内容とする外国語Ⅲ(英・独・仏・西・中・露の六ヵ国語)の科目を新設することになった。

昭和四十九年

 入試科目の一部変更――文部省学術局長の通達ならびに全国商業高校校長協会からの陳情に基づいて検討を加えた結果、昭和五十一年度からの入試科目の「社会・数学」の中に、商業高校出身者のために「商業一般」を加えることになった。

 商学部創立七十周年・新制大学移行後二十五周年記念事業計画――商学部創立七十周年・新制大学移行後二十五周年に当たっているので、記念事業を行うことになり、次のように企画が立てられ実施されることになった。

(一)先輩の話を伺う会および記念パーティ。名誉教授北沢新次郎島田孝一上坂酉蔵・末高信の諸先生を四月十四日に迎えて商学部の現・元教職員が参集してお話を伺い、会終了後、記念パーティを開く。

(二)記念講演会の開催(五月九日より三十日まで毎週二回)。

(三)『早稲田商学』の記念特輯号を刊行。

(四)学部・大学院在学生およびその出身者で大学に勤務する助手以上の者を対象とする懸賞論文を募集して、優秀作品は『早稲田商学』または『商学部報』に掲載する。

(五)『商学部報』記念特集号を刊行し、学部出身の校友にも執筆を依頼する。

(六)商学部に現在ある二つの基金「早稲田商学研究基金」および「商学部奨学基金」を充実させるための募金事業を行う。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、横山宏が助教授から教授に、神保尚武、宮下史明が専任講師から助教授に昇任となり、新たに、坂本圭右、千葉順が助教授に、石井和彦、杉山雅洋が専任講師に嘱任された。なお我妻和男助教授は筑波大学に転属するため退職された(三月三十一日付)。

 定年退職――三月末日をもって、毛利亮教授(経済地理学)、筧太郎教授(英語)、横田一太郎數授(スペイン語)が定年により退職された。

 助手の海外留学――辻正雄は「事務管理・経営科学の研究」のためイースト・ウェスト・センター奨学金によりハワイ大学大学院に留学することになっていたが、その後、留学先をカリフォルニア大学に変更した。また横田信武は「財政学の研究」のためフルブライト留学生としてコロンビア大学大学院に留学した。

 学部選出評議員――教員会(講師以上)で投票の結果、葛城照三教授と入交好脩教授が選出された。

 商学部研究基金による海外研究員――昭和四十九年度商学部研究基金による海外研究員に当初中西睦教授が決定したが、その後同教授病気入院のため寿里茂教授に交替した。

 在外研究員――昭和五十年度特別短期在外研究員に入交好脩教授と渡部栄太郎教授が決まった。

 産業経営研究所の設置と同所規則の制定――これまでの産業経営研究センターは商学部内の機関であったが、七月の学部長会で正式に大学の機関として設置されることになり、七月十五日をもって発足した。

 学部長改選と学部役職者の決定――学部長任期満了に伴い、投票の結果、鈴木英寿教授に決まった。鈴木学部長の就任に伴い、教務担当教務主任に藤田幸男教授、学生担当教務主任に鈴木辰紀教授、教務担当教務副主任に亀井昭宏助教授、学生担当教務副主任に広田典夫助教授が決まった。

 国内研究員――昭和五十年度国内研究員は植田重雄、田中喜助、西宮輝明、松原昭、昭和五十一年度は車戸実、近藤等、望月昭一、昭和五十二年度は新井清光、工藤恭吉、鈴木辰紀の諸教授に決まった。

 在外研究員――昭和五十年度長期派遣在外研究員に石塚博司教授、同年度短期派遣在外研究員に神沢惣一郎教授と本間忠彦教授が決まった。

 推薦入学候補者の決定――本年は百六十六校に推薦依頼したところ、百二十二校より推薦があり、審査ならびに面接の結果、全員を推薦入学候補者とすることになった。

 日本学術会議会員選挙――七月の教授会で学術会議会員候補者として推薦した青木茂男教授、葛城照三教授、高橋幸八郎客員教授は十一月二十五日に行われた選挙の結果、全員が当選した。

昭和五十年

 日下部与市教授の逝去――昭和四十九年秋以来病気療養中であった日下部与市教授は昭和五十年一月二十六日、四十六歳の若さで急逝された。教授は昭和二十七年以来商学部の専任教員として会計学、特に監査論の研究に心血を注ぎ、前述の如く昭和四十二年に商学博士の学位を授与され、短い生涯であったが著書九冊、論文百余編と多大の業績を残した。また学部内の公認会計士講座の責任者として公認会計士の育成のため尽力した。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、小林俊治、小林基、高瀬礼文が助教授から教授に、大塚宗春、片山覚、小林富久子、椿弘次、堀越知己、山本定祐が専任講師から助教授に昇任となり、また新たに中村清、原輝史が専任講師に嘱任された。

 シェル興産㈱奨学金留学生――昭和五十一年度留学生として中村清講師、昭和五十二年度留学生として椿弘次助教授に内定した。

 ボン大学交換研究員(昭和五十二年度)――高瀬礼文教授に決定した。

 「池田英次郎文庫」の設置――故池田教授ご遺族より寄贈を受けた図書一千二百九冊を整理分類して「池田英次郎文庫」を創設することになった。

 早稲田商学研究基金による研究員――昭和五十年度は岡田純一教授に決定した。

 昭和五十三年度国内研究員――坂本信太郎教授、有田潤教授、小川洌教授に決定した。

 学部運営委員会の規定の改正――商学部ビジョン研究会の答申に基づき、学部運営委員会に助教授三名を加えることになり、その旨規定の改正が行われた。

 佐藤孝一教授の逝去――十月十八日心不全のため逝去された。学部では十一月二十二日追悼式を執り行った。教授は昭和五年商学部を卒業し、昭和七年に専任講師に嘱任され、助教授を経て昭和十七年に教授となり、会計学関係の科目を担当した。昭和二十六年には「剰余金の研究」で商学博士の学位を授与された。その後、大学院商学研究科委員長を務め、多くの会計学研究者を養成した。また企業会計審議会委員をはじめとする政府関係機関の公職に参画し、戦後日本の会計制度の改革・発展に尽力するとともに、七十冊近い著書と五百篇に及ぶ論文を通じて会計学の発展に多大の貢献をしたのである。

 在外研究員――昭和五十一年度の長期在外研究員に古田稔教授、短期在外研究員に岡田憲樹教授が決まった。

 カリキュラム検討委員会――小委員会、全体委員会で九回に亘って審議してきた結果ついて、青木委員長から学部長に報告書が提出された。この報告書に基づき、昭和五十一年度から、カリキュラムについて、(一)これまでの専門科目第二部必修科目区分の八区分を、経営、会計、商学Ⅰ、商学Ⅱ、経済の五区分に改める、(二)新しい五区分にそれぞれ「総論」科目を置き、一年度生の必修科目とする、(三)商学Ⅰには商業・貿易を包括し、商学Ⅱには金融.交通・保険を包括する、(四)経済学総論の新設に伴い、一般教育科目の経済学は廃止することとし、履修方法に関しては、卒業に必要な単位数を昭和五十一年度入学者より四単位増やして百四十四単位とすることにした。なお、これとは別に、単位・試験・評価制度検討委員会を五回に亘って開き、検討した結果を矢島委員長より学部長に中間報告書として提出した。

 助手候補者の決定――本年度より助手選考に関する「審査実施要領」が決まり、これに従って選考が進められた。それによると、選考は二段階に亘って行われる。「第一次審査」は提出された学業成績および修士論文の審査と二ヵ国語の試験を行い、合否の判定をする。合格者に対し助手論文の提出を求め、「第二次審査」を行い、審査に合格した者を助手候補者とし、研究報告会(同時に全員委員会)を開き、採否を決定するという手順である。本年度は「経済学(経済学説史)」について募集したところ一名の応募者があり、右の実施要領により選考を進めた結果、大森郁夫を助手候補者として推薦することになった。

昭和五十一年

 一般教育演習の新設――来年度より人文科学系列三科目、社会科学系列一科目の演習が新設されることになった。

 「佐藤文庫」の設置――故佐藤孝一教授のご遺族により図書六百十一冊の寄贈があり、「佐藤文庫」として閲覧に供されることになった。

 教員の人事――四月一日付で人事の発令があり、篠田義明、広田典夫が助教授より教授に、石井和彦、杉山雅洋が専任講師から助教授に昇任となり、大沢章、島村紘輝、昼間文彦が専任講師に新規嘱任された。

 葛城照三教授の定年退職――葛城照三教授(海上保険学)は三月末をもって定年退職となり、五月の教授会で名誉教授に推薦された。葛城は昭和五年に商学部を卒業後、安田保善社に入社し、東京火災保険会社に配属され、保険業の実務に携わったが、昭和九年商学部助手として母校に呼び戻され、昭和二十三年に「英法における海上保険の研究」で経済学博士の学位を授与され、昭和十八年に教授に嘱任された。戦前は商業数学、海上保険のセミナー、戦後は海上保険論の科目を担当した。その後、第一商学部長、早稲田大学常任理事として大学行政の充実・発展に尽力するとともに、慶応義塾大学、明治大学、福岡大学、北海道大学等の講師、また損害保険事業所研究員として学の内外で海上保険学の教育.指導に当った。特に海上保険学の権威として著書二十四冊、翻訳書十八冊、百篇を超える論文を通じて学界・実務界に裨益するところはきわめて大きいものがあった。昭和五十年には日本学術会議の会員に推挙された。昭和四十一年の学部長の時期、同四十四年の常任理事の時期には、これまで経験したことのないような学園紛争で大変な苦労をしたが、その強靱な意志と信念・指導力によってこれを克服し、大学.学部の一層の発展に尽くした功績は大きい。

 早稲田実業学校長の交替――三月三十一日付で青木茂男教授が校長に就任した。

 ハワイ大学よりの教員招聘――本年度後期よりトーマス・H・イゲ教授による講義Macro Economicsが週二回行われることになった(四単位)。

 特別奨学生の採用――経営学を専攻する商学部四年度生について、基準に従い選老の結果、坂野友昭を特別奨学生として推薦することに決まった。

 国内研究員・在外研究員の決定――昭和五十四年度の国内研究員に山根行雄、三橋昭三、永山武夫が決まり、昭和五十四年度長期在外研究員に石井和彦、昭和五十三年度短期在外研究員に篠田義明、広田典夫、昭和五十四年度短期在外研究員に堀越知己が決まった。なお商学研究基金による昭和五十一年度在外研究員に、篠田義明、島村紘輝が決まった。

 学部長改選と役職者交替――投票の結果、学部長に鳥羽欽一郎教授が選出され、これに伴い、教務主任には西宮輝明教授(教務担当)と新沢雄一教授(学生担当)、教務副主任には坂本圭右助教授(教務担当)と大塚宗春助教授(学生担当)が決まった。

 入学試験の一部機械採点の導入――昭和五十二年度入試より機械採点の方法を導入し、英語から実施してゆくことが決まった。

 学位授与――朝岡良平教授、市川孝正教授、松原昭教授、永山武夫教授に商学博士の、また植田重雄に文学博士の学位授与が決まった。

 新設科目――昭和五十二年度よりの新設科目として一般科目演習一科目が設けられ、専門科目第二部として経営学原理、経営管理論、財務会計論、簿記、マーケティング論が設けられ、専門科目第三部として西洋資本主義発達史が設けられた。これに伴い、科目の廃止および名称の変更があり、その結果、年度別学科配当は次のようになった。

第百四十七表 商学部専門教育科目配当(昭和五十二年度)

 在外研究員――昭和五十二年度特別短期在外研究員に有田潤教授と渡部均教授が決まった。

 助手定員の増加――学部長会議で明年度より助手定員を現行の十名より十二名に増員することが決まった。

 長期計画学部委員会の設置――百周年を迎えるに当って大学では記念事業計画の検討が始まり、これに対応して学部での意見を反映させてゆくために長期計画学部委員会の設置が決まり、十一月から活動が開始された。

 助手候補者の決定――本年度は「経済統計」について助手を募集した。一名の応募があり、第一次、第二次の審査に合格し、研究報告をした森田誠を全員委員会で助手候補者として推薦することに決まった。

 外国人講師――フルブライト派遣教員として、オレゴン州立大学M・ウルフソン教授による講義科目Lecture of Economic Theory(週二回・四単位)が、またハワイ大学教授ロバート・H・ケスナー教授による講義科目Marketing and Industrial Relations(週二回・四単位)が設けられた。これらの講義には、一回は商学部専任教員が同席し、他の一回は同席した商学部専任教員の講義の解説と関連事項についての説明がなされる方式で進められることになった。

昭和五十二年

 教務補助内規と割当基準の制定――昭和四十九年三月に副手制度が廃止され、翌四月から教務補助(T・A)制に変ったが、この制度は必ずしも十分に活用されてこなかった。そこで二月の教授会に内規と割当基準が諮られ、原案通り決定し、四月一日から施行され、この制度を活用することになった。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、原輝史が専任講師より助教授に昇任となり、新規嘱任として栗山昭一が社会科学部より転属となり、角本良平が客員教授に、横田信武が専任講師に嘱任された。

 定年退職――三月末日をもって増野肇教授(英語)、北村正次教授(経済学)、今野源八郎教授(交通経済学)が定年退職となった。

 ベトナム留学生の学費免除――ベトナムからの留学生は母国の状況から学費の負担が困難となっているので、先に延納の措置を講じていたが、四月の学部長会議で免除することを決定した。

 入試採点方法の変更――昭和五十三年度英語についてマークシート方式を導入したが、来年度から国語についてもこれを実施することになった。

 名誉教授の推薦――本年三月をもって定年退職となった北村正次教授を名誉教授に推薦することになった。

 早稲田商学研究基金による在外研究――昭和五十二年度は二神恭一教授が「西ドイツ・ユーゴスラヴィアにおける経営参加制度の研究・調査」に出発することになった。

 学位の授与――望月昭一教授及び町田實教授に商学博士の学位を授与することになった。

 早稲田高等学校の系属校化――早稲田高等学校も早稲田実業学校と同様、大学の系属となり、商学部も推薦入学を受け入れることになった。

 シエル興産㈱奨学金留学生――昭和五十四年度は大森郁夫助手に決まった。

 国内研究員――昭和五十五年度国内研究員に朝岡良平數授、有田潤教授、烏谷剛三教授が決まった。

 学科目の新設――昭和五十三年度より専門科目二部に「経営組織論」「財務管理論」を設けることになった。

 金曜講座の開設――十月から十一月にかけて六回に亘り、学外から講師を招き、産業経営研究所との共催で公開講座を開設することになった。

昭和五十三年

 学位の授与――佐口卓教授及び鈴木辰紀教授に商学博士の学位が授与された。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、大谷孝一、亀井昭宏が助教授より教授に、島村紘輝が専任講師より助教授に昇任となった。また、辻正雄、都倉義孝、野村圭介が専任講師に新規嘱任された。

 定年退職――三月末日をもって小田泰市助教授(人文地理学)が定年退職となった。

 学部長選出――任期満了に伴う学部長候補者の選挙の結果、田中喜助數授が選出された。また教務担当教務主任に小林太三郎教授、学生担当教務主任に塩原一郎教授、教務担当教務副主任に小林基教授、学生担当教務副主任に島村紘輝助教授が決まった。

 早稲田商学研究基金による在外研究員――昭和五十三年度は青木茂男教授、辻正雄専任講師に決まった。

 入学試験の方法と科目の変更――昭和五十五年度から「社会・商業・数学」七科目のうち、「政治・経済」「倫理社会」「商業一般」の三科目を除外し、残る四科目から出題し、同時にマークシート方式を導入することになった。

 本部関係役職への就任――十一月八日付で、宇野正雄教授が理事に、十一月十六日付で原田俊夫教授がシステム科学研究所長に就任した。

 国内研究員・在外研究員――昭和五十六年度国内研究員に桶田篤教授、原田俊夫教授、矢島保男教授が決まった。また昭和五十五年度短期在外研究員に佐口卓教授、昭和五十六年度長期分割在外研究員に伊東克巳教授、西宮輝明教授、短期在外研究員に植田重雄教授、藤田幸男教授、特別短期在外研究員に林文彦教授が決まった。更に、私学振興財団による在外研究員に片山覚助教授が決まった。

 特別奨学生の推薦――本年度の特別奨学生として学部四年度生山崎秀彦を推薦することになった。

昭和五十四年

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、坂本圭右、神保尚武、宮下史明が助教授から教授に、大沢章、鈴木洋、中村清、横田信武、渡辺洋一が専任講師から助教授に昇任となり、客員教授(専任)に石崎四郎が、専任講師に大森郁夫が新規嘱任された。

 定年退職と名誉教授推薦――三月末日をもって入交好脩教授(経済史学)が定年退職となり、これに伴い同教授を名誉教授に推薦することが決まった。入交は昭和七年商学部を卒業すると、直ちに助手に嘱任され、昭和十年専任講師に嘱任されてから助教授を経て、昭和十九年教授、昭和三十九年大学院商学研究科委員、同四十一年研究科委員長、同四十三年以降五十三年(定年)まで早稲田大学評議員の要職を歴任した。その間、東京大学、高知大学、駒沢大学、聖心女子大学等の講師も兼ね、経済史・日本経済史等の科目を担当して多数の学生を訓育し感化を与え、特に社会経済史の分野で多くの研究者の育成に尽力した。昭和三十二年、「徳川幕藩制の構造と解体」で商学博士の学位を授与された。永年に亘って社会経済史学会の理事として斯学の発展に寄与するとともに、著書・編著等は三十数冊、論文百篇に及び、学問の発展に多大の寄与を行った。特に毎日学術奨励金受賞の対象となった『西南雄藩の研究』、あるいは農書の研究、産業史・比較経済史の分野で顕著な業績を残している。

 フィリピン・ラサール大学への交換教員――夏期休業期間中、「日本事情」について講義をするために小林俊治教授が推薦された。

 早稲田商学研究基金による在外研究員――大谷孝一教授、藤田幸男教授に決まった。

 国内研究員――昭和五十七年度国内研究員候補者に市川孝正教授、鳥羽欽一郎教授、山川博慶教授が決定し、更に峰島旭雄教授も候補者に加えられた。

 在外研究員――「在外研究員等規則施行規定」の一部が変更されたのに伴い、昭和五十三年十一月の教授会決定を、長期は小林太三郎教授、長期分割は佐口卓教授および町田実教授、パリ大学が新沢雄一教授と改められ、五十六年以降も改めて決定されることになった。

昭和五十五年

 助手候補者の推薦――本年度特別奨学生一名が選老の対象となり、規程に従い第二次審査から始め、研究報告会・全員委員会での審査の結果、坂野友昭を助手候補者に決定した。

 科目の新設――来年度より専門科目第三部(演習)に「コーポレート・モデルの研究」「意思決定と情報システムの研究」の二科目を新設し、前者をシステム科学研究所の前田幸雄教授が、後者を辻正雄助教授が担当することになった。

 学位の授与――新沢雄一「一般化された再生産様式」に商学博士号が授与された。

 学部長の選出と学部役職者の交替――三月十五日の教授会で田中学部長より辞意の表明があり、同十七日の臨時教授会で後任に朝岡良平教授が選出された。これに伴い、学部役職者として教務担当教務主任に二神恭一教授、学生担当教務主任に坂本圭右教授、教務担当教務副主任に片山覚助教授、学生担当教務副主任に宮下史明教授が決まった。

 本田守教授の逝去――三月十五日に本田守教授(生命保険論)が逝去された。享年五十五歳。

 教員の人事――四月一日付で人事が発令され、大塚宗春、小林富久子、山本定祐が助教授から教授に、辻正雄、都倉義孝、野村圭介が専任講師より助教授に資格変更となり、リチャード・B・マート、森田誠が専任講師に新規嘱任された。

 定年退職――渡辺均教授(英語)が三月末日をもって定年退職となった。

 在外研究員の変更――西宮輝明教授が理事に就任されたのに伴い昭和五十六年度在外研究員を辞退する申し出があったので、代わりに鈴木豊教授を候補者とすることに決まった。

 早稲田商学研究基金による在外研究員――昭和五十五年度について、市川孝正教授と鈴木豊教授に決まった。

 南カリフォルニア大学への派遣交換研究員――昭和五十六年四月より一年間大塚宗春教授が南カリフォルニア大学へ交換研究員として派遣されることに決まった。

 故北沢新次郎先生追悼集の刊行――昭和五十五年一月三日逝去された北沢新次郎名誉教授の追悼集が十月に刊行され、関係者に配布された。

昭和五十六年

 科目の新設――来年度の専門科目第三部(演習)に「フランス会計研究」(大沢章助教授)と「経済思想史」(大森郁夫助教授)の二科目が新設されることになった。

 教育システム検討委員会の答申――昭和五十五年五月の教授会で設置が決まった「教育システム検討委員会」は本年二月まで十六回に亘って検討してきた結果をまとめ、答申書を学部長に提出した。答申は「商学部における教育の基本目標と教育システムのあり方」「カリキュラム」「教育制度」「教育設備と教授法」「教育システムの自己評価」から成り、本文三十二頁と学生・教員からの意見を聴取するためのアンケートのサンプルが付けられている。

 ハーバード大学エンチン研究所への留学――昭和五十六―五十七年度の客員研究員として同研究所へ大森郁夫が留学することが承認された。

 定年退職――藤田赤二講師(ドイツ語)は三月末日をもって定年退職となった。

 教員の入事――四月付で人事が発令され、杉山雅洋、千葉順が助教授から教授に、大森郁夫、村上アプタンが専任講師から助教授に昇任となった。

 早稲田商学研究基金による研究補助金――本年度は篠田義明教授と辻正雄助教授に研究補助金が与えられることになった。

 商学部商学基金の改訂――これまで奨学金の額は一人につき年額三万円となっていたのを「一人につき年額七万円とする」と改めることになった。

 帰国子女の受入――保護者の海外在住の結果、外国の中等教育機関に三年以上継続して在学し帰国した子女を一般入試と別に選抜して入学を認める制度を導入し、昭和五十七年度から実施することになった。

 教員育成.採用制度検討委員会の中間答申――昭和五十五年度六月から本年五月までの約一年間に約八回の委員会を開き検討した結果、中間答申をまとめ学部長に提出された。この答申では特別奨学生制度と現行の助手制度の問題点や提案が含まれている。

 学部役職者の異動――教務副主任の片山覚助教授が長期在外研究員として出発するため辞任したのに伴い、宮下副主任が教務担当となり、代って学生担当教務副主任に原輝史助教授が就任した。

 国内研究員――昭和五十八年度国内研究員に広田典夫教授が候補者として決まった。

 富永講師の受賞――富永浩専任講師はスペイン文化紹介の功労者としてスペイン政府より「賢王アルフォンソ勲章」を受賞した。

 国内研究員――昭和五十九年度の国内研究員に車戸実教授、篠田義明教授、染谷恭次郎教授を候補者に決定した。

 助手定員の増員――現行の十二名を十五名に増員することになった。

 教育研究条件の改善の要望――昨年来各種の委員会を設けて検討を重ねてきた結果、各委員会より答申が出され、それらをまとめて「商学部の教育研究条件の改善について」という文書にして本部に提出した。同文書では、学部の学生数、教室・図書室の増設と改善、コンピュータ施設の新設、学生用施設の拡充等について具体案を提示して、その改善を要請している。

昭和五十七年

 科目増設――専門科目第三部(演習)で、「貨幣理論の研究」(昼間文彦助教授)と「現代経済統計論」(森田誠助教授)の二科目の新設が決まった。

 百周年総合計画審議会委員の選挙――商学部からの委員選挙の結果、矢島保男・市川孝正・小川洌・藤田幸男・望月昭一の五名が選出された。

 定年退職――三月末日をもって八杉龍一教授(生物学)と田中泰三客員教授(ドイツ語)が定年退職となった。

 教員の人事――四月一日付をもって人事が発令され、椿弘次、原輝史が助教授から教授に、昼間文彦、リチャード・B・マート、森田誠が専任講師から助數授に昇任となった。

六 大学院商学研究科の設置と展開

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1 創建期の商学研究科

a 修士課程の発足

 昭和二十四年四月に、国公私立の各大学を会員とする大学基準協会によって大学院基準が制定された。早稲田大学ではそれをふまえて同年十月に「大学院制度研究委員会」を設置し、「大学院設置準備委員会」「同設置委員会」と逐次より具体的な名称をもつ委員会に改めつつ問題の検討を重ね、翌二十五年十一月に文部省に対して認可を申請した。その結果、旧恩賜館跡地の建物(現七号館)の完成を条件として認可を得、昭和二十六年四月から大学院各研究科をスタートさせた。

 この年の四月十日、島田孝一総長は初の商学研究科委員会を召集した。構成メンバーは左記の教授十三名であった。

池田英次郎 入交好脩 葛城照三 北沢新次郎 小林新 上坂酉蔵 佐藤孝一

佐野学 島田孝一 末高信 中島正信 松下周太郎 河辺㫖

 この委員会においては、先ず初代の委員長・委員として末高・池田両教授がそれぞれ選出され、そのほか池田・中島両教授が「事務一切の処理」に当る幹事となった。そして第一回の入学試験期日を四月二十二日と決定した。

 入試実施後、同月二十八日に面接試験と身体検査が行われ、八十八名の合格者が翌々三十日に発表された。入学式は五月十一日午前十時から現一一号館四〇二教室で挙行され、十四日から授業が開始された。

 当然のことながら昭和二十六・二十七年度は修士課程だけ開設されたのであるが、商学研究科は経営学専攻(三専修)と商学専攻(五専修)の専門課程に分けられ、学科配当と担当者は次表の通りであった。商研は、文研とともに講義・演習・文献研究の三本立てで出発しており、政研・経研・法研における講義と演習による二本立てとは異っていた。

第百四十八表 商学研究科学科配当表(昭和二十六年度)

 商研修士課程においては二ヵ年以上在学して「四十単位に相当する科目を優良な成績で修得し」なければならず、その内容は次のように規定された。見られる如く、まだ昭和二十六・二十七年の段階では、商学部における「専門科目第三部」に依存する部分があった。

第百四十九表 商学研究科修士課程取得単位数内訳

 さて発足後半年を経た昭和二十六年十月の商研委員会において、新たな委員長・委員として上坂酉蔵中島正信両教授が選出された。そして翌二十七年九月の同委員会において、上坂委員長は、昭和二十八年度からは新たに博士課程が開設される段階にあり、第二商学部長と兼任では十分にその職責を果しがたいとの理由から、委員長を辞任したいという申し出を行った。この申し出が承認されたため、翌十月の委員会で北沢新次郎教授が次の委員長に選ばれ、中島教授はそのまま委員として留まった。

b 博士課程の発足

 早稲田大学は昭和二十七年に「大学院博士課程設置研究委員会」を組織した。同年五月の商学研究科委員会は、満場一致で上坂酉蔵教授をこの委員会の委員として推薦した。そして翌二十八年三月、早稲田大学は文部大臣から設置の認可を得、四月から各研究科に博士課程を開設するにいたった。

 商学研究科ではここで、二分されていた専門課程を商学専攻一本に改め、経営学専攻として在学していた者をそこに移した。そして修士課程において修得すべき単位をそれまでの四十単位から五十二単位に改め、博士課程のそれは二十八単位(五年以上在学して八〇単位)とし、学科配当とその担当者を次表のように定めた。修士課程の五十二単位は他の研究科に比べて多くなっていた。

第百五十表 商学研究科学科配当表(昭和二十八年度)

*印は二単位の科目であって、一セメスター毎に完結し、年に二回繰返される。

 そして修士・博士両課程で修得すべき単位には次のような枠組みが与えられた。ここで漸く商学部の「専門科目第三部」への依存から脱却するのである。

第百五十一表 修士・博士課程取得単位数の枠組み

 この年早稲田大学では「大学院学則」を改訂し、「外国語に関する検定」を設置した。これは、修士論文または博士論文を提出するに先立ってこの検定に合格しなければならないという、他の大学にその例をみない独特なもので、商学研究科の中島正信教授の発案が採りいれられたものであった。中島教授は新制大学院の発足に際してユニークな構想をもって臨み、発足前にはやくも「早稲田大学商学部大学院」に関する「中島草案」なるものを示し、また昭和二十八年一月には、教務課から「新制大学院の構想」と題する文献を発行するなどして啓蒙に努めた。

c 創建期の動向

 草創期の商学研究科は教職員・学生の総力を傾けて建設に取組んだ。昭和二十六年といえば朝鮮戦争のさなかであり、第二次大戦後における我が国の政治・経済の再建も未だ軌道に乗ってない時期であった。そうした困難な情況下に、未経験の新制商学研究科を創設するのであるから、その労苦はなみなみならぬものがあった。

 甍のない現七号館は文科系大学院の建物であったが、各研究科委員の研究室の割当てと冬期の暖房の問題、商研学生のラウンジや学生会(商学研究科学生会は昭和二十七年六月に発足)の問題、委託学生(官公庁.外国政府.学校.研究機関.民間団体等の委託に基づいて修学を許可された学生)や特殊学生(一科目または数科目の修学を許可された学生)や聴講生の取扱いの問題、読書室の図書整備の問題、あるいは後述する学科目の編成ばかりでなく、その名称を改めて内容をよりよく示すようにする問題等々、なかには些細のように見えるものもあるが、それらに地道に取組むことを怠っては一歩も前に進み得ない大切なことがらがこの七号館に山積され逐一処理されていったのである。

 そのようななかで、商学研究科では昭和二十七年以降、大学院の聴講を希望する商学部の「適格学生」に対しては、委員会に諮ったうえ、講義に限りこれを許可したことは新しい試みであった。また昭和二十七年六月の委員会では「今年度提出の修士論文は本大学院最初のものとして世間注視の的となるので」立派な論文を作成するように周到な指導を行い、審査・採決に当ってはとりわけ慎重を期すべき旨申し合わされた。そこには、たんに組織や理念ばかりではなしに、実質的内容を高めようとする緊張感がみなぎっていた。

 なお、昭和二十八年から国立大学では十一月に大学院の入試を実施するようになったが、商学研究科はそれに同調せず、入試期を従来通りとして今日に至っている。

 ここで、最近までの歴代の商学研究科委員長と委員(昭和五十一年以降「教務委員」と改称)の氏名を一括して掲げれば、次の通りである。

第百五十二表 歴代商学研究科委員長および委員

2 その後の動向と学科配当の推移

a その後の商研の動向

 商学研究科の組織と内容の整備・充実は、時として試行錯誤の様相を呈しつつも、その後着実に進められた。ここでは、昭和四十年代に向ってどのような足跡を印してきたかを、残された記録を手がかりとして探ってみよう。

 先ず制度上の問題としては、旧制学位令に依る論文博士に関する一切の手続き完了の時期が昭和三十五年三月三十一日とされたこと、昭和三十九年度から商学部学生の推薦入学制度が開始されて、この年志願者五名全員に入学許可が与えられたことなどが挙げられる。また昭和二十九年度に公認会計士志望者のための科外講座が開設された。これは前年度の商研委員会において提案され、全員の賛成を得て実施に移されたものであったが、諸般の事情によってその後停止された。そしてこの方針はのちに『商学部要項』に示されている「CPA研究講座」(のちに「公認会計士講座」と改称)となって継承・発展させられている。

 大学院生の研究活動も活発であった。昭和二十八年十二月八日、院生による第一回の研究発表会が現七号館二階の講堂で開催された。「日本経済の現状」という共通論題の下に各専攻から一名ずつの報告者を選出しあって、研究報告と討論が行われた。これが恒例となり、翌々年の第三回には十二月十四・十五日と二日間に亘る研究発表会となった。

 また昭和三十二年十二月十一日には学生会主催の「経済問題講演会」が開催された。

石油と経済 東京大学教授 脇村義太郎

日本経済の予測 ダイヤモンド社主幹 鵜殿茂樹

アジア経済に関する若干の問題 日銀アジア調査室長 家田茂一

 その後こうした院生の旺盛な研究意欲の高まりは、初めは数名の学生有志により、次いでその翌年より学生会による『商経論集』の刊行に発展して行くのである。その創刊号は昭和三十二年三月に発行されたが、当時の商研委員長北沢新次郎教授は、次のような巻頭の辞を贈っている。

ここに創刊される『商経論集』は、早稲田大学大学院商学研究科の学生諸君が、自らの計画にもとづき、自ら基金をたくわえ、自らの労作をもちより、しかも自らの編集によって誕生した研究発表誌である。私はまず、本誌の発行を一教授者の立場から、また所属機関を代表して、心からの敬意を表して祝福し、今後一層の発展を期待する。

いったい、学問といい、また科学といっても、その目標は人間の福祉にある。つまり、学問とはただ知識を集合することではないし、さらに科学はたんに技術の発展を目的とすべきでもない。殊に社会科学は、人間社会の進歩を目標とするのであって、その研究者は自らの努力によって得られた真実ないし見解を世に問い、社会に提示しなければならない。ここに発表機関誌の意義がある。この意味において、社会科学を学ぶ若い学徒が、自らその発表誌を創設し、自らの労作を世に問う態度は、全く正しい。私はこれらの偉大なエネルギーが、必ず日本の社会科学を前進させ、わが国の社会秩序を進歩する方向への貴重なる貢献となることを確信している。

ところで、現代社会の特徴は、産業革命以来しだいに加速化してきた科学技術の発展が、人間社会の制度ないし秩序の進歩と矛盾し、それの拡大による危機に到来しているように思われる。したがってこの現代社会の危機を打開することは、人間社会の諸関係を研究するところの社会科学の急務であり、その使命であると考えねばならない。しかるに、最近わが国を訪れたウイスコンシン大学のブロンフェンブレナーは、日本の社会科学にはまだこの国の自然科学の領域における野口英世や湯川秀樹の存在がみあたらないと述べている。この評言は正しいかもしれない。しかし私は、現在日本の社会科学の若い世代の研究者に大きな期待を寄せている。本誌の発展を祈り、われわれの若い研究者諸君の労作に要望する所以もここにある。

 そしてこの創刊号には十一編の優れた論稿が収録され、巻末には「昭和二十八・二十九両年度修士論文題目一覧」が付されている。この『商経論集』は以後連綿と続刊して今日に至っているが、現在では大学当局からの財政支出を得て年二冊を刊行している。

 次に『ヴィクトリア女王記念英国州別史』The Victoria History of the Counties of England入手のことに触れなければならない。これは入交好脩數授の尽力によるところが大きく、昭和三十二年度の文部省「私立大学研究基礎設備助成補助金」の交付を得て実現されたものである。この『州別史』は一九〇〇年に出版を開始しながらいまだに完結をみない膨大なものである。入手しえたのは計百三十三冊で、当時既に刊行されたもののうち三冊(Buckinghamshire Vol. 1, Worcestershire Vol. 3, Yorkshire Vol. 3)を欠くのみであり、我が国における最も完璧に近い蔵本となっている。この『州別史』はその後昭和五十六年までに二十九冊を追加購入している。なお昭和三十二年度の文部省「助成補助金」の交付を得て同時に入手したものに、伝統を誇るイギリスのEconomic History societyの機関誌Economic History Reviewのバックナンバー二十冊があり、これも引続き定期購入されている。

b 学科配当の推移

 昭和二十八年度の学科配当は前章でも表示した通り、「セミナー」十一科目、「講義一部」四十三科目、「講義二部」十一科目、および「講義三部」四科目であり(当該年度の休講を除く――本節については以下同じ)、そのうち従来から商学部・商研に本属の教員が担当するのは「セミナー」と「講義二部」の全体、「講義一部」の三十四科目(七九パーセント)、それに「講義三部」の三科目であった。

 その後の学科編成上の変更の画期は昭和三十二年、同四十二年、同四十七年および同五十年などに認められる。尤もこの変更は商学研究科そのものの変革と深く係わり、特に昭和五十年度のそれは制度的改革の一所産とみなされるべきでもあろうが、ともあれ本節では昭和四十二年までの推移を追及することとする。

 先ず昭和三十二年度における編成替えを見ると、「セミナー」二十六のほかは、主として商研委員が担当する「特修科目一部」二十五、「同二部」五十一、「同三部」(これまでの「講義二部」に相当)二十三、「同四部」(同じく「講義三部」

第百五十三表 商学研究科学科編成の推移(昭和二十八―四十二年度)

(1) 当該年度休講の科目は除外した。

(2) 便宜上四単位を一科目として計算した。

(3) 昭和四十二年度における博士課程の単位数(*印)は、昭和四十四年度には72となる。

に相当)八、それに「英語経済論」を内容とする「特設科目」三クラスとなった。昭和二十八年度と同じように、従来から商学部・商研に本属の教員が担当する科目を数えるならば、「セミナー」二十三、「特修科目一部」二十二、「同二部」二十八(五五パーセント)、「同三部」十八(七八パーセント)、「同四部」七、および「特設科目」二クラスとなっている。昭和二十八年度に比べれば、ここでは商研委員数の増加とともに「セミナー」と「特修科目」数が増え、新たに「特設科目」が設置された点が目立つ。「特設科目」は、昭和二十九年度から「講義一部」のなかに「英語の読解力」を強化するために加えられた「英語経済論」という科目が分離独立したものであった。「特修科目二部」においては、他学部・他研究科の教員が商研委員として加えられ、あるいは非常勤講師を多数むかえ入れて、講義内容を多面的に拡充した点に昭和三十二年度の特徴があった。

 いま仮に昭和三十二年度の「特修科目二部」の科目数(それ以後の「特修科目二・三部」の科目数)と、そのうち、従来から商学部・商研本属の教員による担当科目数の占める割合をカッコ内に記して隔年ごとに示せば、昭和三十二年度五十一科目(五五パーセント)、同三十四年度七十二科目(四六パーセント)、同三十六年度七十四科目(四七パーセント)、同四十年度六十二科目(五四パーセント)となり、既に昭和四十二年度の体制を指向していたと思われる同四十年度を別とすれば、ここでは科目数の増大とカッコ内比率の縮少傾向を看取することができよう。この間、「セミナー」数はもとより、昭和三十三年度以降にいう「特修科目四・五部」の科目数も増加しているのであり、この趨勢は、次章に表示されたこの時期の入学者数(従って在学者数)の増加、あるいは博士課程における修得単位数の八十から九十二への増加などにも照応するものであった。

 さて、昭和四十二年度になって如上の学科配当に軌道修正が加えられた。当該年度は三十四の「セミナー」、「主要科目」三十三、「特修科目」二十一、「文献研究一部」二十六、「同二部」十および「特設科目」三クラスと改められた。それまでの「特修科目一部」、「同二部」、各専修の英書研究を内容とした「特修科目四部」、第二外国語の文献研究を内容とした「特修科目五部」および「特設科目」を以上のような名称に改めつつ整理し、「特修科目三部」を廃止したものとすることができる。尤も前年(昭和四十一年)度の学科配当を見ると、三十四の「セミナー」、「特修科目一部」三十、「同二部」二十一、「同三部」は廃止、「同四部」二十八、「同五部」十および「特設科目」三クラスとなっており、名称こそ異なれ、この年既に実質的には昭和四十二年度と大差のない状態に到達していたといえよう。

 ともあれ「セミナー」と「特設科目」を除いた各種科目数の合計は、昭和三十六年度の百四十三、同三十八年度の百四十八・五、同四十年度の百三十四から、同四十二年度の九十(同四十一年も八十九)に整理されたことは、商学研究科にとって大きな改革であり、同四十六年度までこの体制が維持されたのである。そしてこの事態もまた次章に表示されたこの時期以降にみられる修士課程の入学者数(在学者数)の急激な減少と、修士課程において修得すべき単位数の五十二から四十四への減少(二年後には博士課程も九十二から七十二に減少)とに照応するものと考えられる。

注⑴ 昭和三十二年度の「特修科目二部」は、翌三十三年度以降「特修科目二部」と「同三部」とに二分され、三十二年度の「特修科目三部」以下はそれぞれ「同四部」「同五部」となった。

⑵ 便宜上二単位科目のものを〇・五科目として計算した(本節に関する限り以下同断)。

⑶ 昭和三十九年六月の商研委員会において、「ここ数年の間実質的な活動がなかった」運営委員会を復活・機能させるため、改めて十一名の運営委員を決め、これに委員長・委員が加わった。そして差し当って⑴学科目・学科配当に関する件と⑵博士学位授与に関する件とが検討されることとなった。

3 昭和四十年代の商学研究科

a 自立基盤の確立

 昭和四十年代に入ると商学研究科は、発足以来既に十五周年を迎えその基礎を不動のものとしただけでなく、それ独自の基礎のうえに新たな発展段階へ移行する。昭和四十一年度には、新設の五セミナーを加えて商学研究科のセミナー数は三十九となったが、これは昭和二十六年度の創設時におけるセミナー数八に対して約五倍となっている。しかも、その新設セミナーのうちの三セミナーの担当教員は、商学研究科へ昭和二十六年度に入学したいわゆる第一期生達であった。つまり、この十五年間に商学研究科の育成した教員・研究者が、商学研究科それ自体のセミナーを担当して新しく教育研究を指導しうるようになったわけである。従って、以後昭和四十年代における商学研究科の研究指導には、商学研究科で再生産された商研出身の新世代が次々とセミナーをはじめとする学科目の新しい担当者の主流となっていく。そこで商学研究科のセミナー数は、昭和四十七年度の四十四がこれまでのピークを形成するのであるが、この年度にはそのうちの十一セミナーつまり二五パーセントが商学研究科出身の教員によって担当されるまでに成長している。

 しかも、この昭和四十一年四月に開催された第一回商研委員会では、既に印刷を終えた商学研究科の欧文学術雑誌名がWAsEDA BUsINEss & ECONOMIC sTUDIEsに決定したと報告されている。勿論、この学術雑誌の発行は、その前年昭和四十年六月の商研委員会で決定され、佐藤孝一委員長、入交好脩委員のほか五名の雑誌委員を選任して創刊の準備が進められてきたものであったが、ここに商学部の機関誌『早稲田商学』に対応して大学院商学研究科では欧文による学術雑誌が創立十五周年を記念する時期に創刊されることになった。このことも、商学研究科の基礎が確立し、その本格的な発展を特徴づけるものといいうる。

 特に、この昭和四十一年度の早稲田大学は、昭和四十年末に発表された学費の値上げに対して四十一年一月以降激しい学生の反対運動が展開され、入学試験を前に大量の学生検挙者を出して、学内紛争は続き新学年度のスタートが遅れて遂に大浜信泉総長が退陣を余儀なくされたときであった。そのような学内の混乱の中で、商学研究科では正常に三月末に修士課程修了者七十六名を送り出し、四月初めの新学年には修士課程に外国学生十五名を含む百十五名、博士課程に十名の入学者を迎えて、新たな拡充と発展の方向に進むことになった。

 商学研究科におけるこれまでの修士(前期)課程終了者数と博士(後期)課程進学者数の推移は別表の通りであるが、昭和四十年代に入ると修士課程修了者数は、昭和四十年度の五十六名から昭和四十一年度の七十六名、四十二年度八

第百五十四表 修士(前期)課程入学者と修了者および博士(後期)課程進学者の推移(昭和26―57年)

十九名、更に四十三年度九十五名と増大の傾向を示している。従って、昭和三十年代後半には修士課程修了者が合計三百五十四名だったのに対して、昭和四十年代前半には合計四百十四名に増加している。ただ、この修士課程修了者について見ると、その前の昭和三十年代前半には合計で四百五十八名に上っており、寧ろ数量的には創設期の昭和二十年代後半から昭和三十年代前半にかけて急成長を遂げており、単年度では昭和三十二年度の修士課程修了者百九名が現在までの歴史的なピークを記録している。そして、このような傾向は、博士課程進学者の数字にも明示されている。つまり、博士(後期)課程進学者のピークは昭和三十三年度の二十九名であり、昭和三十年代前半の合計が百十八名であったのに対して、三十年代後半が八十一名に落ち、四十年代前半には百一名となっている。しかも、商学研究科のセミナー数の推移が表現しているように、昭和四十年代には四十を超えるセミナーの拡充のもとで研究指導が具体化されるわけである。

 なお、商学研究科ではこれまでの三十年間を通じて修士(前期)課程修了者のうち博士(後期)課程に進学した者の割合は全体として二五パーセント程度となっており、近年は前期課程修了者の減少につれて後期課程進学者の割合が幾分増加の傾向を見せているのを除いては、この博士(後期)課程進学者の割合がほぼコンスタントに修士(前期)課程修了者の四分の一程度となってきた。このことは、戦後における大学院の教育目的に基づいている。商学研究科では教育研究者の養成とならんで高度の専門職業教育をも目的としてきたのではあるが、どうしても大学院に入学してきた学生は、殆どが研究者・学者を目指し、商学研究科の場合でも修士課程を通って博士課程への進学を希望する者が圧倒的に多い状態が続いてきた。そこで、昭和四十年代の初め頃までは、博士課程進学者は勿論のこと、修士課程修了者のなかでもかなりの者が大学、短期大学その他の研究機関に進出することができた。そして、これには早稲田大学の大学院に独特なものであった候補者試験制度つまり外国語についてのキャンディデイト試験の実施が他大学の出身者との競争で有効に作用した側面も見落すことができない。

 もっとも、商学研究科の出身者の多くが、全国の大学その他の研究機関で活躍しうるようになったことの歴史的かつ社会的背景としては、六十年代をピークとした我が国の高度経済成長が存在した。高度経済成長期に入って戦後の新制大学は本格的な発展期を迎えている。経済成長政策は、大学への進学率を急速に拡大させた。成長部門の大企業が新規学卒者を大量に需要するようになったために、特に私立大学の拡充がブームとなったからである。ただ、国庫補助の少なかった私立大学では、その経営規模を拡大する資金を学費の値上げに求めざるを得なかった。文部省の『文部統計要覧』によれば、国立大学に対する私立大学の学費は、昭和三十五年に授業料で三・五倍、初年度納入金で七・一倍であったのが、昭和四十五年には前者で七・一倍、後者では一七・七倍にもなっている。昭和四十年代に入って私立大学では学費値上げに反対する学生運動が擡頭して社会問題化した原因がここにある。そこで、全国的にみて大学教員の増加は、昭和四十五年以降それ以前にくらべて半数程度に減少するようになり、博士課程出身者で「就職の意志をもちながら未就職の状態にある」オーバー・ドクターが増加する傾向になってくる。

b 内部改革の具体化

 昭和四十四年から四十五年にかけてのいわゆる大学紛争が発生したのは、まさに大学院にとっての転換期でもあった。商学研究科についてみても昭和四十四年度以降、修士(前期)課程修了者数は勿論のこと博士(後期)課程進学者数も明白に減少の傾向をたどる結果となっている。そこでこの大学紛争は、全早稲田を巻き込むものとなって、昭和四十一年度の場合のように大学院商学研究科が除外されるというようなことでは済まされないものとなった。

 大学紛争の激動した昭和四十四年度には、ちょうど商学研究科の事務所や教室が新築の商法研究棟に移転したが、六月二十日の第四回商研委員会では、商学研究科学生(院生)自治会(昭和四十一年に従来の商学研究科学生会は商学研究科院生自治会に改称された)からの要請を容れて、以後定期的に商研学生代表との会見を実施することを決定した。しかも、この商研委員会では、法研学生自治会などとともに商研学生自治会も構成団体となっている早稲田大学大学院生協議会が結成されて、既に数回に亘る総長や理事などとの会談がもたれている旨の報告があった。学生側の主張は、早稲田大学の大学院制度に独自の候補者資格検定試験やそれまでの単位制度が、大学院本来の教育・研究指導や自主的な論文の作成を妨げているとする不満に基づくものであったが、商学研究科では、これらの諸問題に関して既に昭和四十二年度の修士課程入学者から修士課程の所定単位数を四十四単位として従来の五十二単位より八単位減少させ、博士課程についても二十八単位以上として従来の四十単位よりも十二単位の縮小を実施していた。

 更に、昭和四十四年五月十六日の商研委員会では、修士・博士候補者検定試験についても従来の一般英語、専門英語および選択外国語の三科目のうち、一般英語については入試の合格基準を厳守することで、それを廃止する決定を行っている。早稲田大学全体としても、十一月十四日の大学院委員会でこの候補者資格検定試験の制度を次年度以降については再検討することとなったが、商学研究科では十一月二十一日に教員学生懇談会を実施して、ねばり強く学生に対する説得を試みた。しかし、説得のなかでの改善は次年度に継続される。昭和四十五年五月の第二回商研委員会では、商学研究科としての候補者資格検定試験についての改善案を、商研学生自治会の要望を容れて、六月五日に開催する再度の教員学生懇談会を経て、次回の商研委員会で決定することとした。六月五日の商研教員学生懇談会には、教員三十一名、学生は約六十名が参加してこのいわゆるキャンディデイト試験の改善をめぐっての話合いが行われた。このあと商学研究科は、六月の商研委員会で候補者資格検定試験の実施方法を、⑴博士課程については従来通りの科目で実施するが、可能な限り出題方法を改善し、⑵修士課程については外国語一種類についてのみ実施することに変更して、特に学生に対する説得の文書まで決めている。にも拘らず、六月二十九日に実施したキャンディデイト試験は、妨害のために修士課程の方を一次延期する結果になった。

 そこで翌昭和四十六年度に商学研究科では、この候補者資格検定試験をはじめカリキュラムや入試制度、更に学位論文審査制度などの諸制度を基本的に再検討するため、商研委員長の諮問機関として委員二十一名からなる臨時商研制度検討委員会の設置を決定して新しい事態に対応する商研の制度改革に取り組むこととなる。この臨時商研制度検討委員会は、矢島保男教授を座長にして意欲的な改善プランの立案を進めることになる。そして昭和四十六年十月の商研委員会では、先ず⑴昭和四十七年度の入学試験について、それまで外国語は志願者の出身大学における第一外国語とされていたものを、共通に英語一科目だけで実施することに変更し、⑵カリキュラムについて、講義科目は従来の主要科目と特修科目の区別を廃止し、全講義科目を経営、会計、商業および経済の四系列に大別し、更に商業と経済はそれぞれを四系列に細分する体系化を行い、文献研究は第一部(英書)をそれまでの十二クラスから五クラスに統合し、テキストをあらかじめ要項に明示することとし、しかも取得単位数を文献研究第一部、第二部(選択外国語)とも従来は二科目八単位ずつとされていたものをそれぞれ一科目四単位ずつに改正した。しかも、⑶修士候補者資格検定試験については、それまで年三回実施してきた筆記試験を廃止して、文献研究第一部または第二部いずれか四単位を取得することにより修士候補者資格を得たものとすることに改善された。更に翌十一月の商研委員会では、修士論文の評価方法がⒶとA、B、Cの四段階で評価されることとなり、博士課程進学の条件としてはⒶおよびAであることに改正が行われた。

 なお、この昭和四十六年は商学研究科の創設二十周年に当った。そこで十月一日から五回に亘って計十名の商研委員の教授が「商学・経済学の回顧と展望」を統一論題として、小野講堂で記念講演を実施しており、それらの講演要旨は『早稲田商学』二二七号(昭和四十七年三月発行)に記念特集号として収録された。

 その後、商学研究科では昭和四十八年度四月の第一回商研委員会で再び臨時商研制度検討委員会の設置を決め、十系列から各一名ずつの委員に矢島保男委員長と鈴木英寿委員が加わった構成で座長には田中喜助教授を選出して、今度は商研のセミナー制度や博士候補者資格検定制度、入学試験制度とともに、当時大学設置審議会で審議されていた「大学院および学位制度の改善」に関して商学研究科としての対応を検討することになる。大学院の新しい制度改革では、博士課程大学院の前期と後期に名称が変えられることとなるが、専攻分野における研究能力の養成に重点が置かれることになり、そのため特に後期課程では修得単位がゼロとなり、研究論文の作成指導が中心となっていく。従って、商学研究科では昭和四十九年四月の商研委員会で、学生に研究発表の場を与えるとともに、他専修との研究交流や相互理解を深めるために商学研究科学生研究発表会を実施することに決定し、その第一回を同年七月四日に実施している。しかも、そこで研究発表を行った学生達がまとめた論文を校閲し掲載した『商学研究科紀要』が昭和四十九年十二月に創刊されることとなった。商学研究科の学生には、既に商研院生自治会が編集している『商経論集』があったが、それに加えて新たに『商学研究科紀要』にも論文発表のチャンスが増大することになった。昭和五十一年度からは学生研究発表会が年間二回ずつ実施され、『紀要』は毎年二号ずつ発行されて現在に至っている。

4 昭和四十年代後半および五十年代の商学研究科

a 大学院制度の改革

 戦後新学制の一環として旧制度を改めて発足した大学院および学位制度も、昭和四十年代の後半になると、学術研究の進歩や社会環境の変化に対応した新しい制度に生れ変わるべく、胎動を始めている。大学設置審議会は、昭和四十六年一月から四十七年三月にかけて、大学基準分科会に「大学院及び学位制度に関する専門委員会」を設けて、その問題点を検討している。また四十七年三月には、文部大臣より「大学院及び学位制度の改善について」諮問を受け、大学基準分科会に設けた「大学院及び学位制度に関する特別委員会」によって、改善策の審議を始めている。そして四十八年四月に「大学院及び学位制度の改善について(中間報告)」を公表し、広く各方面の意見を求め、更に検討を加えて、四十九年三月に「大学院及び単位制度について」答申を行っている。早稲田大学も、こうした動きに対応し、大学院制度検討委員会を設置して問題点の検討を行い、四十八年六月には大学設置審議会の中間報告に対して積極的に意見書を提出している。

 商学研究科に臨時商研制度委員会が設置されたのは、こうした時期であった。商学研究科委員会は、四十八年四月に、セミナー制度、博士候補者資格検定制度、入学試験制度、学位制度などについて問題点を検討し改善案を作成するため、期間一ヵ年の臨時商研制度検討委員会を設けることを決定し、矢島保男商研委員長を含む十二名の委員を選出した。臨時商研制度検討委員会は、座長および同代理として田中喜助、日下部与市の両教授を選び、精力的に審議を重ねた。そして博士候補者資格検定試験制度と入学試験制度に関する改善案は、商研委員会に諮り、実行に移された。しかし、セミナー制度や学位制度の問題はなお審議が残されており、臨時商研制度検討委員会の活動は四十九年度にも継続された。

 四十九年三月に大学設置審議会から「大学院及び学位制度の改善について(答申)」を受けた文部大臣は、六月に「大学院設置基準」(文部省令第二十八号)と「学位規則の一部を改正する省令」(文部省令第二十九号)を定めた。これらの省令は五十年四月一日から施行された。こうして新しい大学院および学位制度が誕生した。これに伴い、早稲田大学は、五十一年四月一日に「大学院学則」を全面的に改めるとともに、これまで学則のなかに含められていた学位に関する規定を独立させ、新たに「学位規則」を制定した。省令による「大学院設置基準」の制定は、これまで実施されてきた新制の大学院制度の建前を再確認し、課程制大学院を制度的に確立するとともに、学術研究の進歩、社会の発展等に柔軟に対応できるよう、大学院の独自性を強化することを、二つの柱としていた。これは、従来の大学院制度を根本的に改正するといった性格のものではなかったが、大学院制度の運営においてこれまでよりも柔軟かつ多様な制度の導入を可能にするものであった。それだけに、これに対応して行われた大学院学則の改正と学位規則の制定は、必要最少限の改正に留めたとはいえ、商学研究科にきわめて重大な変革をもたらした。

 この時期に、商学研究科と商学部との関係は組織的に大きく変っている。大学院設置の目的は、旧学則では、「本大学院は、学部の教育の基礎の上に、高度にして専門的な学術の理論および応用を研究、教授し、その深奥を究めて、文化の創造、発展と人類の福祉に寄与することを目的とする」(第一条)と定められていたが、改正学則ではこのうち「学部の教育の基礎の上に」の字句を削除した。また各研究科の運営に当る研究科委員会は、旧学則では、「当該研究科の基礎となっている学部所属の教授であって、その研究科の科目を担任するもので組織する」(第三十五条)ことになっていた。これが、改正学則では、①当該研究科の研究指導を担当する本大学の教授および助教授、②当該研究科の授業科目を担当する本大学の教授および助教授のうち研究科委員会が選任する者、③当該研究科の研究科の研究指導を担当する本大学の専任講師のうち研究科委員会が選任する者をもって組織すると変った。この結果、改正学則では、研究科委員会の議決事項に教員の嘱任および解任に関する事項が加えられた。

 これまで商学研究科は、商学部を卒業した者が「高度にして専門的な学術の理論および応用」を学ぶ場として位置づけられ、しばしば商学研究科と商学部のカリキュラムの一体化が図られてきた。また商学研究科における研究指導や授業科目は殆ど商学部本属の教授によって担当されてきた。昭和五十年度までの「商学部要項」は、商学部要項と商学研究科要項の二部から構成され、その前文には、商学部と商学研究科の関係が次のように述べられていた。

早稲田大学商学部は、組織上、商学部および大学院商学研究科から成るが、……学部と大学院との間には、おのずから、教育の目的および方式が異ならざるをえない。(中略)大学院商学研究科の教育は、商学部からさらに進んだものであるが、単なる連続した過程ではない。学部における幅のある教育によって育てられた、よき社会人、よき職業人としての無限の可能性をもつ者に対し、その総合的能力を土台として、商業、経営、経済などに関する高度の専門的教育をほどこすことを目的としている。

 改正学則は、こうした商学研究科の伝統を直ちに否定したものではなかったが、組織上大学院を学部から独立した機関として認定している。商学研究科において改正学則は先ずその自主性を確立するという方向で働いた。これまで教員の嘱任や解任は、その教員が商学研究科における研究指導や授業科目のみを担当する場合であっても、すべて商学部教授会の議決を必要としていた。学則改正によって、こうした人事は商学部教授会の手を離れ、商学研究科委員会の議決だけですむことになった。またきわめて形式的なことであるが、五十一年度から「商学研究科要項」は「商学部要項」から独立して作成されることになった。

 しかしながら、商学研究科において、改正学則が最も顕著な変革をもたらしたのは、大学院の課程を博士課程に限定したことであった。これまで、各研究科には修士課程と博士課程が置かれ、修士課程を修了した者が博士課程に進学するという、いわゆる積み上げ方式が採られてきた。改正学則でも、博士課程は前期二年、後期三年の課程に区分され、前期二年の課程を修士課程として取扱うものとしている(第二条第二項)。従って、形のうえでは、大きな変化はないように見える。確かに、改正学則(第三条)には、「前期課程は、広い視野に立って、精密な学識を授け、専攻分野における研究能力を養うものとする。ただし、高度の専門性を要する職業等に必要な教育を行うことができる」と、前期課程の趣旨が示されている。「商学研究科要項」もこれを受けて、その前文で、「……前期課程は修士課程としての役割をはたし、広い視野に立って精深な学識を授け、経営学、会計学、商学及び経済学の四系列の専門分野における研究能力を養うことのほか、高度の専門性を要する職業等に必要な教育を行う。……したがって、修士学位の取得をもって大学院を修了する学生も、産業及び政府機関等において指導的な役割をはたす上で必要な、また公認会計士、税理士、中小企業診断士等の専門職業に従事するために必要な専門職業教育を受けることができる」と、述べている。しかしながら、高度の専門性を要する職業等に必要な高度の能力を養うことと、専攻分野における研究能力を養うこととは、必ずしも両立するものではない。

第百五十五表 商学研究科在籍者数の推移(昭和50―56年度)

 商学研究科の場合、高度の専門職業教育や社会人に対する高度の教育を行うことは重要である。しかし、博士課程の前期という場合、その課程修了者が後期課程に進学することを原則としなければならないから、専攻分野における研究能力の養成にその重点がおかれることになる。そのため、五十一年度から、商学修士の学位を取得するために必要な授業科目の単位数は三十二単位とされた。これは、五十年度の四十単位、四十九年度以前の四十四単位と比較すると大幅に軽減されており、それだけ研究指導を受け修士論文を作成することに多くの時間を割くことができるようになったことを意味している。それは、明らかに専攻分野における研究能力の養成を意図した変革であった。こうした変革は自ずから前期課程の学生数に重大な影響を及ぼしている。第百五十五表に見られる通り、五十一年度以降前期課程の在籍者数は急激に減少している。

b 学位制度の改革

 更に、改正学則が課程制大学院における博士学位の意義を明らかにし、その到達水準を示したことは、その及ぼす影響が深刻であるだけに、商学研究科においてもこれに急速に対応することが必要であった。博士課程について、改正学則は、「専攻分野について研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力およびその基礎となる豊かな学識を養うものとする」(第三条第一項)と、定めている。これは、旧学則が「独創的研究によって従来の学術水準に新しい知見を加え、文化の進展に寄与するとともに、専攻分野に関し研究を指導する能力を養うものとする」と定めていたのに比べると、大きな違いがある。研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力およびその基礎となる豊かな学識を有することは、研究者としてスタート台に立つための要件である。他方、独創的研究によって従来の学術水準に新しい知見を加え、専攻分野に関し研究を指導する能力を持つということは、研究目標の達成である。こうした博士課程の到達水準の変革は、戦後課程制の大学院が設立されたときに予定されていたものであったが、この時点で正式に学則のなかに受入れられた。

 新しい博士課程の到達水準が確認された結果として、大学院の在学年数などに重要な変化が生じている。旧学則では、修士課程についてこそ二年以上五年以内という在学年数を定めていたが、博士課程については全く修業年限を定めることがなかった。旧学則の博士課程の到達水準からいけば、在学年数を定めることはナンセンスであった。一旦入学を許可されれば、特別な理由がない限り、博士の学位を取得するまで在学することになる。これに対し、改正学則は、博士課程の標準修業年数を五年と定め、これを前期二年と後期三年に区分した。そしてその在学年数は前期については四年、後期については六年を超えることができないとした(三十三条)。更に博士論文を提出しないで退学した者のうち、後期課程に三年以上在学し、且つ必要な研究指導を受けた者については、三年以内に限って、研究科委員会の許可を得て、博士論文を提出し、最終試験を受けることができると定めた。こうして後期課程に入学後最大限九年間のうちに博士論文を提出することが義務づけられた。

 その反面、改正学則において授業科目の単位取得は後期課程では全く要求されず、優れた研究業績を上げた者については、当該研究科委員会が認めるならば、後期課程の在学期間は一年でも足りることとなった。

 商学研究科の場合、これまで、博士課程において授業科目の単位数は、修士課程において取得した単位数を含め、五十年度までは六十四単位、四十一年度以前には九十二単位と定められていたから、博士課程に入学後も授業科目についてかなりの単位数の取得が必要であった。しかし、五十一年度から、改正学則の趣旨に従い、商学研究科も後期課程において授業科目の単位数の取得を全く不要とした。前期課程において授業科目の取得単位数が大幅に軽減されたこと、そしてまた後期課程において授業科目の単位取得を全く不要としたということは、大学院の教育において、学位論文の作成等に対する研究指導が中心となることを意味している。しかしながら、こうした教育方法は、これまで初・中・高等教育を通じて学生が経験してきた授業科目による学び方と、根本的に異っている。学生は自らそれぞれの専攻分野において解明しなければならない問題を見出し、これに対して積極的に取組んで行かねばならない。それは単に与えられたものを吸収するという学び方ではない。

 しかしながら、取得単位によって拘束されないということは、研究に専念する十分な時間を生むことになるが、反面においてそうした研究時間を無為に過し、却って研究を遅滞させるおそれがないわけでない。このため、たえず研究を刺戟し促進する環境をつくることも必要である。商学研究科は、五十一年三月に研究科委員会において、五十一年度から始まる新しい制度に対応して、差し当り、研究指導体制の整備、授業科目の隔年開講制の採用、後期学生のための研究室の整備、年二回開催する研究発表会の充実などの措置を採ることとした。そして優れた研究成果や博士論文の審査要旨を『商学研究科紀要』に掲載するため、五十一年四月には「雑誌編集・発行等に関する内規」を定めている。またこれに先立って、五十年六月には、研究発表会や雑誌発行に多額の経費のかかることを予想して、その経費の一部に充てる目的を以て、石黒和平氏らから寄せられた寄附金を以て、「商学研究科研究基金」が設定された。

 学則の改正は、旧学則のもとで博士課程に在学し、現在は退学して学位論文の作成に従っている人々に対しても、重大な影響を与える。改正学則は、五十一年度に前期課程または後期課程に入学した者から適用され、五十年度以前に修士課程または博士課程に入学した者の取扱いは従前の例によることになっているが、五十一年二月に大学院委員長会は次のような申合せを行っている。

博士課程学年延長者および退学者(大学院学位論文未提出者の学籍の取扱い細則による)の取扱いは従前の例によるが、その適用期間については、改正学則施行日から五ヶ年間に限る。ただし、学位論文の提出については、さらに三ヶ年間延長することができる。

 この申合せによって、学年延長者と退学者に対し、旧学則の適用期間は五年間延長され、五十六年三月三十一日までとなったほか、退学者について学位論文の提出期限は更に三ヵ年延長し、五十九年三月三十一日とされた。従って、五十九年四月一日以降にこれらの人々が学位論文を提出する場合には、「課程によらない」扱いとなる。

 商学研究科における商学博士学位取得者数は、第百五十四表の通りである。五十年度までの「課程による」博士学位取得者は僅か四名に過ぎない。商学研究科において、博士候補者の学位論文の提出を促がすことは、急務であった。四十九年六月に「大学院設置基準」と「学位規則の一部改正」という二省令が定められたときから、学位論文の提出期限が設けられることは予想できた。このため、商学研究科は、博士候補者に対して、五十年六月に「学位論文の主題等の届出」を行うよう指示したのを皮切りに、五十一年一月には改正学則の概要を、また同年二月には学則改正に伴う経過措置を通知するとともに、研究指導教員が定年等により在職されていない場合にはその変更届を提示するよう指示した。こうして、五十一年五月二十日現在で「学位論文主題等一覧」が完成した。これには百九十六名の博士候補者が作成中の学位論文の主題が記載されている。

第百五十六表 商学博士学位取得者数(昭和37―56年度)

 また学位論文の提出を促すためには、論文提出や審査の諸手続を明確にしておくことが必要であった。商研委員会は、五十年六月に、取敢えず旧学則のもとで、学位論文の提出と審査の手引きとして、①課程による学位の請求および審査について、②課程によらない学位の請求および審査について、③課程によらない学位請求者に対する博士候補者資格検定についての手続を定めた。また同年七月には、課程による学位論文の提出期限を毎年五月と十一月と定め、それぞれ九月と翌年二月の商研委員会で合否を決定することを申合せた。更に五十一年二月には「博士学位請求論文の体裁・公表等について(要望)」を発表した。「学位規則」が制定されたあと、「学位規則」が研究科委員会の決定に委ねている事項について、商研委員会は五十一年五月に「商学研究科における博士課程によらない学位申請者の審査について」を定めた。また同年七月には、これまでの手続書に、関連条文の修正など必要な改正を加えて、「博士課程による学位の申請および審査について」「博士課程によらない学位の申請および審査について」「課程によらない学位申請者に対する学識の確認について」を発表している。