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第一編 学部

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第四章 教育学部

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一 高等師範部時代

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1 東京専門学校の文学科

 時代はまさに、日本近代のゆくえを決定づける情勢をつくりつつあった。明治十三年の「教育令」の改正は、敬神愛国・皇上奉戴を核とする皇道化政策をそのまま教育の場に持ち込むべく、徳育の強化を大きく打ち出していた。大隈を追放した十四年の政変が、薩長を中心とする藩閥体制を確立し、天皇絶対の君主政体を樹立する決定的な契機となったことは周知の通りである。そして、東京専門学校の歴史、すなわち早稲田大学の教育の歴史が、そのような状況下に始まったことの意義の大きさについても、あらためて贅言を要すまい。

 時間的に言えば、明治十五年の東京専門学校創設は、当時の青年の教育機関として先鞭をつけたというわけではなかった。既に同十三年から十四年にかけて、今日の法政大学、専修大学、明治大学などの前身と見られる学校が発足していた。西南の役が終結したことによって、時の政府にはもはや大規模な反政府的な内乱は起こるまいとの安泰感があったが、あたかも条約改正問題や北海道官有物払い下げ事件を当面の焦点に、民選議院の設立を求める自由民権運動は、必ずしも楽観を許さぬ政治情勢を醸していた。法律や政治についての知識を得たいとする青年が輩出し、これに応えるべく、例えば明治法律学校(明治大学の前身)のような学校が創設されていったのである。時を接しての東京専門学校の設立もまた、そうした時代の要請と無縁ではなかったのだが、同時にそれは、やはりかなり異色な、注目すべきことであった。

 野に下った大隈重信の去就が注視されていたのは当然だが、国民的な人気も高かったこの大物を頂点に、懐刀としての逸材小野梓があり、彼に心服する東京大学政治科出の俊秀を集めた教授陣が、なんとしても新鮮で目を惹いた。時代に適応した学科内容が魅力的だった。大隈の改進党に心を寄せる青年は無論のこと、笈を負うて地方から来り学ぶ者が次第に増えていった。苦難の中にも学校は着実に歩みを進め、明治十七年には初めて邦語政治科、邦語法律科の卒業生を送り出すことになった。大隈の期待する人材が世に出ていったわけだが、しかし彼らの前途は、必ずしも明るいものではなかった。

 当時、財界や経済界は、東京専門学校よりも二十年創立の早い慶応義塾の出身者が、がっちりと押えていた。また、せっかく政治や法律を学んでも役人になろうとすると、上層部はすべてエリートの東京大学出身者が占めている。国会開設を目前にした国運の上昇期で、各界に多数の人材が要求されていた時代だが、明治十九年には官立の学制が確立し、官尊民卑の風潮はいよいよ激しくなっていった。恐らく東京専門学校卒業生達の前途は、他の神田辺りの私立法律学校の卒業生達と同じく、苦難に満ちたものであったに違いない。

 こうした時代だったことを思い合わせると、明治二十三年、坪内逍遙が自ら主宰する形で東京専門学校に文学科を創設したことは、まことに先見であったと言える。ひたすら実業を尊しとし、虚業としての文学がまだそれほど重きをなして迎えられなかった時期だったことを考えると、殊更にその感が深い。文明開化の名の下の欧化万能主義に対する反動として、二十年代初頭には国粋主義的な運動が起ってきた。古典復興の一時期が現出するが、逍遙は「和漢洋三学の調和」を眼目として文学科を創設したのである。既に逍遙は、十八年から刊行した『小説神髄』のなかで、老幼婦女子の慰みものとしてしか見られなかった文学が、西洋では、独立した崇高な芸術の一分野であり、教養人・知識人が打ち込んで従事すべき価値高いものであることを、先覚的に啓蒙してきていた。文学は男子一生の仕事たるに価するものと考えたのである。しかも、文学の方面で身を立て名を挙げることについては、官学と私学の差別などなかった。この世界こそ、いわば私学出身者の前に開かれた洋々たる世界であった。

 明治二十四年十月には、文学科の機関誌として『早稲田文学』が創刊された。講義録としての性格を以て出発した雑誌だが、やがて、二十六年に第一回生として卒業した金子筑水・水谷不倒ら、つづいて第二回生として出た島村抱月・後藤宙外ら、そして第三回生の綱島梁川らの俊秀が、この雑誌を舞台に活躍し始める。早稲田派の文壇への進出ぶりに驚いた帝国大学が、あわてて『帝国文学』を創刊(二十八年一月)して対抗するというような状況になった。いわば、私学の早稲田が初めて官学をおびやかしたわけである。

 『早稲田文学』で育った金子・水谷・島村・後藤・綱島らの俊秀は、明治三十年頃には既に、学界や評壇・小説界に認められる存在だった。大学時代からの親友であり、また、ともに身を東京専門学校に投じた高田早苗坪内逍遙の間柄は、いぜん緊密であった。二十年代初め、『読売新聞』の主筆に迎えられた時、高田は逍遙と図って『読売』を文芸新聞として発展させることを考え、尾崎紅葉や幸田露伴らを大いに起用したのだが、そうした縁で、早稲田派はそこにも進出していった。三十年代に入って抱月が社会部長として迎えられ、のちの正宗白鳥や近松(当時は徳田姓)秋江が、そこから文壇に出ていったことが想起される。

 しかし、まだ当時は、今日と違って出版社・雑誌社・新聞社の数も少く、資本規模も小さくて、文学科の卒業生が十分に処を得るというわけにはいかなかった。『早稲田文学』の編集者、東京専門学校の科外講師、『早稲田学報』の編集者になれたりするのも、在学中の秀才達に限られていた。しかもその貴重な就職先であった『早稲田文学』も、三十一年十月には廃刊を余儀なくされていた。文学科の卒業生は、寧ろ政治科や法律科の卒業生以上に、一般には前途の開拓に苦しんだのであった。幸いに才能に恵まれ文士として名をなしたところで、その収入は一家を支えるにおよそ遠いものであった。抱月ほどの知名度を持った者でも、なお、有名な「文士無妻論」(明治三十三年)といった痛哭な文章を書かねばならなかったのである。そして官尊民卑、私学を軽んずる風潮が、追い打ちをかけていた。明治三十年には京都にも帝国大学が創設され、国立の高等学校や高等専門学校が増設されるにつれて、一般世間の評価は、いよいよ官学出身者に傾いていった。三十年代前半の『読売新聞』を開いてみると、そこには島村抱月をはじめ稲門文科の人と思われる者の、私学人よ誇りを持て、世間よ私学を軽んずるな、という趣旨の文章がしばしば出てくる。私学に対する無理解や不当な差別が、いかにつよいものであったかを、それは物語っている。一般に、文学科出身者が進出するのに最も適当な方面としては、先ず学校の教師があげられる。当時としては特にそうで、中学校や女学校(旧制)の先生になることが考えられたのである。ところが、それは決して世間一般に通用することではなかった。誰もが先ず考える道でありながら、その道は開かれていなかったのである。私学に対する偏見から、その卒業生には教員の免許状が与えられなかったのだ。今日からすれば信じ難いことなのだが、私学の卒業生は正式に中等学校の教員たる資格を認められなかったのである。

 文学科の卒業生にいかに適当な職がなかったかについて、歌人窪田空穂はある席でこう語っていた。空穂は明治二十八年に入学したのだが、曲折を経て三十七年に卒業している。

文学科を卒業したところで、わたしどもの行くところはどこにもなかったのだよ。財界は慶応がかためている。官界は東大出が占めている。そこでわたしどもは、水の低きにつくがごとく、抵抗のないところ、抵抗のないところ、風当りの強くないところを選んで身を落ち着けるしかなかったのだ。そういうところは、月給をくれるかくれないかわからないようなちっぽけな出版社や雑誌だった。官学出身が絶対に寄りつきもしないような職場だった。学校の教員にも正式にはなれなかった。こんにち、早稲田がジャーナリズムの世界で覇を唱えているということを諸君は安易に考えてはいけないよ。行きどころのない先輩たちがつらい思いの中でやっと築き上げた地盤なのだ。……

 一つの歴史を語る貴重な証言であり、深く銘記したい言葉である。

 閉ざされていた道が開けたのは、明治三十二年になってのことであった。漸く私学の卒業生でも一定の学科課程を終えた者であれば、免許状が下附されるということになったのである。それは、我が国の私学の教育水準の高まりを認めざるを得なくなったからに違いないが、銘記すべきは、常に私学の、そして「早稲田」の発展を念じていた高田早苗が、政府の要職を歴任している間に努力したことが大きかったであろうと思われる点である。このことについては、のちに教務主任や高等師範部長として貢献するところ大きかった中桐確太郎の貴重な証言がある。中桐の「高等師範部の今昔」と題する文より一部を以下に引いて、高田早苗の功績を顕彰しておきたい。

高等師範部につきての懐旧談でもとのことでありますが、私は本来ウツカリ者の健忘性ときてをりますから、何くれの面白き話は、他の適当な方々に譲り、極大体のことを申上げてみようと思ひます。

抑も中等学校教員たる資格を無試験にて得ることのできますのは、以前は官公立一部の学校卒業生にのみ限られてをつたのでありますが、此特典を私立学校の卒業者にまで拡張せしむるに至つたのは、高田総長の功績の一つであるとせられてをるのであります。即ち日本に於ける最初の政党内閣である所謂る隈板内閣が組織せられた当時、高田先生は自から望んで文部省の参与官となり、専門学務局長を兼ねられ、本邦教育改善の為に尽力せられた折の事であります。不幸にして此内閣は文部大臣であつた尾崎行雄氏の所謂る共和演説が機縁となりて、僅かに数ケ月にして分裂潰倒するに至つたので、それが法文となつてあらはれたのは、次ぎの内閣の時であつて、所謂る文部省令第廿五号なるものであります。此省令が明治三十二年四月五日を以て発布せらるるや我校にては早くも規則を改訂して其手続きを了し、その七月七日樺山文相の名を以て許可せらるるに至つたのである。但し此時この特典を得たものは、文学部の哲学及英文学科と国語漢文及英文学科と史学及英文学科との三科であつて、予科半年、本科三年の修業年限といふのでありました。(『早稲田学報』昭和二年十二月発行第三九四号 五〇頁)

 高田が、「自から望んで文部省の参与官とな」ったという事実に、既に色濃く国家主義的な教育の軌跡を残しつつあった日本近代の教育への、高田の姿勢が読みとれる。触れられている尾崎行雄の演説とともに記憶しておきたい。

 とにかく、学科の履修のしかたによって中等学校教員の資格が公に与えられるということは、文学科の学生にとっても、また文学科の卒業生の就職先の斡旋に悩む学校当局にも大きな朗報であった。東京専門学校は、明治三十五年に「早稲田大学」と改称するのだが、この機に、文学科の卒業生に中等学校の教員免状を取得させるために学科の改訂を行うことになった。そして、それが「高等師範部」の発祥につながるのである。

2 高等師範部の沿革

 坪内逍遙と言えば、既に、評論や実作の面で長く現役活動を続けてきている、まさに文壇の大御所だった。その逍遙が主宰する文学科だということで、将来文筆で身を立てようと考える文学好きな学生が多く集ってきたのだが、一方には、地味に、着実に文学の研究に従いたいとする学生も少くなかった。教授陣は充実していたし、そうした学生を対象に、実力のある中等教員を出す態勢は十分に整っていた。問題は、文学科の学科課程を教員免状を受けるに見合うものとして、文部省が指示するように改編すればよかったのである。

 校友会名簿を照合すると、高等師範部の第一回卒業生は明治三十八年に出ている。当時は三年制の学校であるから、創立は当然三十五年でなければならないが、大学の記録では三十六年になっている。

 大学史を検すると、明治三十五年に「専門部に政経科、法律科、国漢科、歴史地理科、法制経済科、英語科を置き、それぞれ各科は文部大臣により中等教員の無試験検定を得る」となっている。免許状は国漢科は国語・漢文、歴史地理科は歴史の地誌・地文、法制経済及英語科は法政・経済・英語が与えられることになっていた。入学資格は、国漢科、歴史地理科、法制経済及英語科は「中学校卒業生若しくは之と同等以上の学力を有し更に高等予科第一期終了の学力を有する者」となっており、国立の高等師範学校の入学資格と同等の資格を有する者となっている。募集人員は、国漢科、歴史地理科、法制経済及英語科とも各五十名以内となっており、「入学束脩一円、前期十五円、後期十二円五十銭」の学費であったことが記録されている。

 ところが翌三十六年になって、「学則の改正により従来専門部に属せし国語漢文科、歴史地理科、および従来一科たりし法制経済及英語科を法制経済科、英語科の二科に分ち、都合四科を以て高等師範部とする」ということになった。再び中桐の回想に借りれば次の如くである。

……卅五年九月、早稲田大学が開始せらるるに及びて学園は大学部と専門部とに別れることになり、専門部に政治経済科、法律科、国語漢文科、歴史地理科、法制経済及英語科を置くといふことになつたのであります。そして国漢科以下のものが中等教員の無試験検定を受くるを得といふことになつたのでありますから、即ち従来の特典科目は多少の改訂を加へられ、大学部と専門部とに二分した形ちになつたのでありますが、翌卅六年七月更に学則の改正があつて、大学部専門部の外に高等師範部を置き、従来専門部に含めてあつた国語漢文科、歴史地理科及びこれまで一科であつたものを二つに分ち、法制経済科、英語科となし都合四科を之に属せしむることとなつたのであります。是が高等師範部といふ名が学則上に現はれた始めであり、また実に私立学校における此名の始めでもあるといふことであります。 (前掲誌 同号 五〇―五一頁)

 このような経緯だったことから、三十五年に専門部に入学した者が三十六年に高等師範部の二年生に移行したものと考えられ、従って三十八年に第一回卒業生が出たことが事実であると思われる。すなわち、学生は専門部からの移行の学生をそのまま二年生として抱えこんでおりながら高等師範部の創立そのものは明治三十六年ということになるわけである。

 しかし大学の文学科と高等師範部の国漢科や英語科とが、当初、講座の上で截然と別のものであったとは思えない。共通の学科が多かった筈だし、同じ教室で同じ教師から同じ講義を聞くことがあったようである。明治四十二年、高等師範部の国語漢文科を卒業した詩人の有本芳水が、明治四十一年文学科卒業の歌人若山牧水と同じ講義を聞いたという回顧をしていたことがある。大衆作家の直木三十五は初め大学部文学科に在籍していたのだが貧乏で月謝に困り、途中で五十銭月謝の安い高等師範部の方に移籍したという話が伝わっている。大学部の文学科と高等師範部の国漢科と英語科とはもともと同根であり、地味で着実で将来の生活を考える学生が高等師範部に籍を置いて教員免状の取得を心掛けたというようなところがあったように思われる。

 高等師範部の初代部長は浮田和民であり、明治四十四年まで八年間、部長の職にあってこの部の基礎を固めた。浮田は同志社出身の敬虔なクリスチャンであり、政治学の方の専門学者であった。明治三十年から東京専門学校の教師となったが、視野は広く歴史学にも深い造詣があり、一方「道徳論」「新道徳論」「婦人論」などでキリスト教主義に立脚した平等主義をかたく把持した人であった。学者としても世に聞えた人でありその人柄から長く早稲田の中枢的存在であったが、まさに教員養成学部としての高等師範部の草創期を委ねるに最もふさわしい人であり、高等師範部のために幸いであった。東京専門学校は実は大いに同志社に感謝しなければならない歴史を持っている。はやく大西祝が文学科に哲学を講じており、学生は逍遙を母とし大西を父と慕ったというが、この大西が同志社出身であった。次いでこの浮田和民が早稲田の政治学を固め、やがて同じく浮田の後輩の安部磯雄が同志社から早稲田の人となっている。大正期には阿部賢一が早稲田の講壇に立った。大西・浮田・安部・阿部の四人は早稲田が同志社から輸血をしてもらったような優れた人材で、いずれもそれぞれの時期の早稲田をしっかり支えた人であった。

 浮田部長時代の八年間、これを補佐した教務主任には、初め実直な教育学者の中島半次郎が当った。中島は文学科の第二回生として明治二十七年に卒業しており、いわば早稲田最初の教育学者だったが、その信念は人格教育ということに置かれていた。のちに高等師範部長となり第一高等学院長をも務めている。中島のあとの教務主任に任じたのは確堂中桐確太郎であった。中桐は文学科の第一回卒業生として明治二十六年に学窓を出ているが、哲学・倫理学の人であり、国木田独歩と親しかったことで知られている。西田天香の「一燈園」の趣旨に哲学的理論づけをしたことでも有名であり、また自他一体の恋愛観の提唱でも知られた。中桐のあとには哲学の藤井健治郎が任に就いた。のちに京都帝国大学教授に転じた人である。

 この三人の、それぞれに個性的な優れた教務主任は、いずれもその後高等師範部の部長を務めている。この辺のところを見ると、当時の学校当局の人事はまことに見識をもって行われていたと言うことができる。三たび中桐の言に聞き、高等師範部を支えた理念を確認しておきたい。

一体、高等師範部は中等学校の教員となる人を養成する所であつて、中等学校は申すまでもなく国家教育機関中の本幹ともいふべき処、之に従事する人を養成する事は何れの点より見ても最も肝要なる事業でありますから、他学科の副業となし、片手間の経営に委ぬべきものでありません。是れ師範部の特設せられてをる所以でありませう。而してまた成立の本質の上より考へますれば、早稲田学園教育の精髄となるべき使命を有つてをるものと申してもよからうかと思ひます。

(前掲誌 同号 五一頁)

 「早稲田学園教育の精髄となるべき使命を有つ」との自負を記憶したいと思う。のちに掲げる高田早苗総長の言が思い合わされる。私学の、そして早稲田の教育を思う心に思いをいたすべきだろうと思う。教育は人である。そこで、次に歴代の高等師範部長の名を挙げながら、以後の高等師範部の歴史を通観しておくことにする。

a 明治三十六年―明治四十四年

部長 浮田和民

教務主任 中島半次郎(三十六年―四十年)

中桐確太郎(四十年―四十一年)

藤井健治郎(四十一年―四十四年)

明治三十七年 新校舎竣工。現在の大学本部一号館のところ。二階建木造。コテッジ風の校舎であった。

明治三十八年 第一回卒業生九十七名(国漢科三十八名、歴史地理科四十五名、英語科四十五名)。学生総数四百七名。

明治四十年 高等師範部を大学部に編入して師範科と改称、法制経済科を廃止。すなわち「国語漢文科」「歴史地理科」「英語科」の三科となる。

明治四十一年 学則改正により大学部師範科を廃止し文学科に編入。一カ年半の高等予科を置き、大学部文学科の学科を哲学・英文学・和漢文学・史学科の四科に分かつ。その英文学科は従来の大学部文学科を第一部と称し、高等師範部の英語科を編入したものを第二部と称した。すなわち、高等師範部の「英語科」は「英文学科第二部」となり、「国語漢文科」は「和漢文学科」へ、また「歴史地理科」は「史学科」へ吸収されたことになる。哲学・和漢文学・史学科の教務主任は金子馬治、英文学科の教務主任は島村滝太郎であった。

明治四十三年 大学部文学科のうち、和漢文学科・英文学科・史学科を廃合して再び高等師範部を置く。また理工科の整備を機として新しく数学科・理化学科を開設、これを二部と称した。なお二部には中等教員無試験検定の資格が与えられなかった(ために大正七年にはこの数学科・理化学科は廃止となった)。

明治四十三年 校外教育部創設。第一回講演会。

 こうして見ると浮田部長時代には、高等師範部そのものから、高等師範部内の各学科を含めてその改廃・統合・分離などがまことに目まぐるしく行われたことが分る。国語漢文科・歴史地理科・英語科と称しても、大学文学部の方にも同じような学科が置かれていることであり、両者並存ということが経済的な運営上、なかなか難しかったのであろうと推測される。大学文学科に統合された時期のあることから、先に述べたような、有本芳水と若山牧水との出合いや、また直木三十五の例がたしかにあったように考えられる。教員養成の学部だという理念に深く徹し得ない限り、高等師範部の独立は困難であったわけだ。無試験検定で中等教員の免状が取得できるようになったといっても、それは野放しであったわけではなく、一定の成績を在学中に挙げておかねばならない筈であった(昭和初期には平均点七五点以上が必要であった)。高等師範部の卒業生のすべてが安易に教員免状が取得できたのではなかった。免状を取得してもそれで直ちに就職が保証されるわけでは無論なかった。高等師範学校をはじめ国立の各学校の卒業生が優先して迎えられていた。特に師範学校では早稲田出身の教員を採用するということが長くきわめて稀れであった。

 なお校外教育部というのは民間の教育に大学を開放する早稲田大学の特色の一つであったが、これは大学全体の教師が当ることで高等師範部の教師だけが当ったわけではないが、教育部の性質上、高等師範部の教員がこれに当ることが多かったろうと思われる。

b 明治四十四年―大正二年

部長 藤井健治郎

明治四十五年 早稲田中等教育研究会が高田早苗学長の名によって組織される。

大正二年 高等師範部の第一部を「国語及漢文科」「英語科」とし、第二部(無試験検定なし)を「数学科」「理化学科」とする。

高等師範部二部第一回得業授与式、卒業生数学科九名、理化学科五名。

 学長の高田早苗が自ら立って「早稲田中等教育研究会」を発起しその設立趣旨を述べたということは特記すべきである。高田は瘦軀長身、鶴のごとき風貌の美男子で、逍遙の「当世書生気質」(明治十八年)の主要なモデルとされているが、のちに文部大臣になった大隈門下の逸材である。また細かな文学的感覚を持し美辞学の研究にも業績を残している。早稲田大学の育成と発展に第一級の功績を挙げた人だが、特に教育に対する真摯な熱情が記憶に留められる。「早稲田中等教育研究会」の発起はいわば高等師範部への挺入れと見ることができる。早稲田の卒業生が大いに中等教育界に進出することを励ましているのである。

 昭和二、三年頃、中桐確太郎が高等師範部長であり、明治四十二年高等師範部英語科卒業の上井磯吉が教務主任であったとき、時の総長であった高田早苗は、特に高等師範部の学生一同を完成間もない大隈講堂に集めて講演をしている。総長が一学部の学生だけを対象として講演をするというのは大学としてまことに異例のことであった。そのとき高田は、教育ということの重要性を説き、早稲田大学が教育界に負う責任の大きさを力説した。「教育界に優れた人材を送り出すことは、早稲田大学の使命のなかでももっとも大きなものだ。高等師範部はそのためにある。どんなに経営上苦しいことがあってもこの高等師範部だけは十分に発展させていくつもりである」と述べて、高等師範部の教員・学生を激励したのである。

 高等師範部長を二ヵ年務めた藤井健治郎は迎えられて京都大学へ去った。

c 大正二年―大正十三年

部長 中島半次郎

大正五年 国語漢文科および英語科の研究科開設。

大正七年 第二部数学科・理化学科廃止となる。

大正九年 高等師範部を専門部に移し高等師範科(国語漢文科・英語科)とする。

大正十年 三たび高等師範部と改称する。予科一年・本科三年の四年制となる。

 人格教育を主唱する中島半次郎は、教育者としても余人をもって代えがたい存在であった。この中島が長く高等師範部長を続けたことは、高等師範部にとってきわめて大きい意味を持っている。中島はまた大正九年から新設の早稲田高等学院(旧制の高等学校。のちの第一早稲田高等学院)の院長を兼任している。そして大正十三年には中桐確太郎が高等師範部長事務取扱になった。

 研究科というのは国立の高等師範学校の研究科を模したものであろうが、高等師範部の卒業生を収容した。更に高度の研究をするというよりも在学中に成績振わず、教員免許状を取得できなかった者の再教育の場であったようである。「国語漢文科」の卒業生の中には、「国語」の免状は取得できたが、「漢文」の方の免状を取得できなかったという者もあった。「国語」と「漢文」の免状は別々で、両者を取得した者が国語教員としては正当であった。ただし、この大正五年の研究科の開設はずっと常置されていたものではなかったらしい。その後も時々「研究科開設」の記録が出てくるので、時に応じて置かれたものと思われる。

d 大正十四年―昭和四年

部長 中桐確太郎

教務主任 上井磯吉

大正十五年 国語漢文科・英語科に研究科開設。

教授十四名、講師三十八名(大正十四年三月)

卒業生 国語漢文科七十三名、英語科八十五名

昭和二年 入学志願者 国語漢文科・英語科合せて八百三十五名、合格者百五十八名。学生数 予科二百八十二名、一年生百十九名、二年生百七十二名、三年生百六十五名

昭和三年 卒業生 国語漢文科七十八名、英語科六十八名

 中桐確太郎も中島半次郎も文部省の中等教員資格検定の委員をしていた。が、高等師範部では他校の教授で同じ検定委員をしている人を特に請うて講師に迎えていた。例えば教育学の大瀬甚太郎(東京高師)、国語学の保科孝一(東京高師)・国文学の尾上八郎(柴舟)(東京女高師)といった如くである。

e 昭和四年―昭和十二年

部長 牧野謙次郎

教務主任 原田実(昭和十年原田外国留学中は竹野長次が教務主任代理)

昭和五年 研究科開設。隔年毎に開設とする。

卒業生 国語漢文科百三名、英語科百一名

入学志願者 総数七百十八名、合格者二百四十七名。

昭和六年 入学志願者 合格者

国語漢文科三百三十七名 百二十五名

英語科二百三十八名 百二十五名

九月満洲事変。

昭和七年 卒業生 国語漢文科百三十九名、英語科八十七名

一月上海事変

昭和八年 入学志願者 合格者

国語漢文科百六十五名 六十三名

英語科百四十八名 六十六名

昭和九年 卒業生 国語漢文科九十七名、英語科百名

昭和十年 入学志願者 合格者

国語漢文科百二十九名 六十二名

英語科百二名 六十名

昭和十一年 卒業生 国語漢文科五十名、英語科五十二名

昭和十二年 七月日中戦争勃発

 早稲田の漢学は昔から定評があって、世間で「早稲田漢学」と呼ばれていた時期もある。この「早稲田漢学」が高等師範部の国語漢文科のなかの漢文学を支えていたのである。「早稲田漢学」を形成した人達には、東京専門学校に文学科が開設されたころからの教師である天行松平康国をはじめ、藻洲牧野謙次郎、晩香菊池三九郎、湖村桂五十郎らがあり、昭和五年からは雪山川田瑞穂も加わった。なかでも松平・牧野の如きは時の枢密院の漢学好きの古老達とも通じ、南北朝正閨問題や皇太子(昭和天皇)妃冊立の問題にも動いた国士型の風格を持っていた。普段は穏かであるがひとたび動けば万波を呼ぶので大学当局も高等師範部の教授会には一目置いていたような時期があった。筋金の通った教育者でもあり、これらの先生を仰いでできた学生のサークル「早稲田漢学会」は規律の厳正さと礼儀正しさとで有名であった。学生時代この「早稲田漢学会」で鍛えられた野中某が、終戦直後の頃大学の専門部工科の事務主任をしていたが、野中は病軀をおして務め、入試の事務万端が終わったところで急逝した。そのとき野中の父君は「うちの息子も早稲田漢学会で鍛えられていなかったらあんな無残な死にかたをしなかっただろう。滅私奉公の精神をたたきこんで下さった早稲田漢学会がいまはうらめしい」と歎いたという話がある。この「早稲田漢学」の中枢であった牧野が、事変下の高等師範部を背負っていたのだが、昭和八年頃から入学志願者が減少してきているのは事変の影響であろう。

f 昭和十二年―昭和十五年

部長 原田実

教務主任 増田綱

昭和十二年 卒業生 国語漢文科五十七名、英語科三十五名

昭和十三年 卒業生 国語漢文科四十六名、英語科三十五名

昭和十四年 卒業生 国語漢文科四十三名、英語科三十二名

昭和十五年 入学志願者 合格者

国語漢文科百八十一名 七十二名

英語科百十三名 六十七名

 原田実は中島半次郎門の教育学者であった。大正二年の大学部文学科の卒業生であるが、優れた文学的資質に恵まれ学生時代から石川啄木や若山牧水とも知り合っていた。牧水に原田を詠んだ短歌もある。はやくエレン・ケイに着目しその『恋愛と結婚』の翻訳者であり、いかにも早稲田にふさわしい自由主義的思想の教育学者であった。温厚篤実、柔軟な感受性があり、学生達に慕われた。教育行政家としての才能もあり、のち第一早稲田高等学院長、大学教務部長、大学図書館長などを歴任している。

 入学志願者の減少、特に英語科志望者の減少が目立つのは時局を反映したものであろう。教育のだんだん困難になってきたことが分る。

g 昭和十五年―昭和十八年

部長 勝俣銓吉郎

教務主任 上井磯吉(のち伊藤康安)

昭和十五年 入学志願者 合格者

国語漢文科百八十一名 七十二名

英語科百十三名 六十七名

卒業生 国語漢文科四十二名、英語科三十六名

昭和十六年 入学志願者 合格者

国語漢文科二百七十四名 五十二名

英語科百五十六名 五十三名

卒業生 国語漢文科三十六名、英語科二十四名

十二月太平洋戦争勃発

昭和十七年 四月新たに高等師範部に「国民体錬科」新設。従って高等師範部は国語漢文科、英語科、国民体錬科の三科となった。

入学志願者 合格者

国語漢文科三百六十五名 六十二名

英語科百三十七名 五十一名

国民体錬科百五十二名 六十四名

 英語科の方も、教師陣に碩学を擁していた。増田藤之助、宮井安吉、高杉竜蔵、武信由太郎、熊本謙二郎、勝俣銓吉郎、岸本能武太、増田綱といった、一世に聞えた英学者が教鞭を執っていた。『応用英文解釈法』の深沢由次郎、アメリカ文学の佐久間原もいた。いずれも優れた英語学者であり、それぞれ名声の高い辞書などの編集者でもあった。それは英語学者というよりも、日本文化にも通じた英学者と呼ぶべきであったろう。英語の教師になるためには英文学を知ることも大事だが、寧ろ英語学をみっちり身につけねばならないというところから、高等師範部の英語科は今日まで英語学に力を入れるという伝統を持ち続けてきている。それは国語漢文科の方が、訓詁註釈に力を注いで、この学科の中心であった東京専門学校文学科第一回卒業生の永井一孝のもとに竹野長次(大正三年卒業)、佐々木八郎(大正八年卒業)といった訓詁にも長じた学者が引続き教壇に立ち、さきの漢文の方の碩学とともに国文がよく読め漢文がよく読める学生を養成したように、英語科の方でも英語が本当によく読める学生の養成に心掛けたことになる。大学文学部とはそこに違う特色を持つようになってきたのであった。勝俣はまことに地味な、英語のことしか考えないような篤実な英語学者であった。その学識は名著との評価の高い大冊『英和辞典』(研究社)がよく示している。この勝俣が英語科教員として初めて高等師範部長になったわけだが、十八年三月、定年をもって退職した。

 時局の進展につれて、昭和十五年、大学に「学徒錬成部」が新設されたが、「国民体錬科」の新設もまた、そうした時局を反映するものであった。昭和十七年四月のことで、その設立要旨が、それを如実に物語っている。

本大学は、新日本の歴史的使命に鑑み、他に率先して、昭和十五年九月、国体の本義に徹し、皇運扶翼の確固不抜なる精神を体得し、偉大なる国民の先達たるべき智徳体兼備の人材錬成を目的として学徒錬成部を創設したのであるが、昭和十七年四月には更に学徒錬成部創設の趣旨を拡充し、本大学高等師範部に国民体錬科を設置す。本国民体錬科は、広く国の内外に於て、躬を以て国民の身心錬成に当り、大東亜建設の推進力たるべき指導者を養成するを以て目的とす。

 指導者養成に力点が置かれているが、教育方針は次のように明示されていた。

本科設立の趣旨に基き、新時代の要望に応じて、卒業後各種の学校に於て(註、即ち学徒錬成)体錬を始め身心錬成の指導に当るは勿論なるも、又更に広く国の内外に於て(註、即ち国民錬成)、都市、農山漁村、会社、工場等の各地域、各職域に於て、幼、少、青、壮、老の男女各国民層の資質向上のため、身心錬成の指導者として挺身奉公するに必要なる教育を授く。

 これより早く同年一月の『早稲田学報』は以下のように伝えていた。

本国民体錬科は中等学校卒業者並に国民学校訓導を収容し、四箇年の専門教育を施し、卒業後は中等教員として修身科及体錬科の無試験検定資格を有し、学校教育以外にも広く会社、工場等の青少年を指導し、身心の錬成に当り得る人材を養成せんとするもので、従て其学科課程、学科担任者、並に其施設につき特に多大の顧慮を払つた。思想方面の学科としては日本国体論、現代政治地理、政治経済概説、東亜研究の如きものを加へ、体錬方面に於ては体育発達史、体育原論、体錬組織学、生化学、栄養学、予防医学、民族衛生学、音楽等の学科を課し、体錬、競技、作業、国防訓練等の実習を行はしめ、選択必須として、武道又は特殊競技を専修せしめ其方面の指導者たることを得る途をも開いた。即ち大東亜共栄圏に活躍すべき我が国青年の指導者たるに相応せる教養を与へ以て我が国現時の学校並に社会の要求を充たさんとするものである。

(第五六三号 一一頁)

 募集定員は六十名。第一期は百五十二名が応募し六十四名が合格入学、第二期が七十名、第三期が七十七名の学生を迎えている。

 開設時の学科目および担任者は次の通りであった。なお、教務主任は今田竹千代であった。

第八十一表 高等師範部国民体錬科学科目および担任者(昭和十七年)

h 昭和十八年―昭和二十年

部長 日高只一

教務主任 伊藤康安

昭和十八年 戦局の逼迫で学徒出陣があり徴兵年齢の一年引き下げなどで学園には学生の姿も少くなってきた。

昭和十九年 学徒動員令が下り、勤労動員が強化されて学園は学問をする場ではなくなってきた。

昭和二十年 三月十日の江東地区の大空襲以後五月までに東京の大部分が焦土となった。大学も諸施設の三分の一が戦火を蒙った。

 日高只一は文学部の英文科の教授で、当時文学部長であり高等師範部長を兼任したのであった。兵役に就かずに大学に残っていた学生もすべて勤労動員に出ていくので授業は殆ど行われなくなった。語学の先生などで辞めさせられる者も出てきた。英語は敵性語だというので白眼視され、英語の先生は実に肩身の狭い思いをしたのである。この頃、高等師範部はいまの八号館法学部の校舎を文学部と共用していた。独立校舎をなくして転々とするいわば間借り生活がなお続くのである。

i 昭和二十年―昭和二十四年

部長 赤松保羅

教務主任 佐々木八郎(のち大滝武)

昭和二十年 十月、「国民体錬科」を「体育科」と改称。

昭和二十一年 四月新しく社会教育科を新設。これで高等師範部は国語漢文科、英語科・社会教育科・体育科の四学科となった。

昭和二十二年 学費の改正で高等師範部の学費は年額二千円となった。

昭和二十三年 四月から体育科学生の募集を停止。

十一月に高等師範部創立四十五周年記念式典を行った。

 赤松保羅部長は文学部の心理学の教授で教育に熱心な人であった。高等師範部の国語漢文科の卒業生である竹野長次、同じく佐々木八郎の二人と力を合わせて高等師範部が新制教育学部へ昇格発展することに尽くした。新設の社会教育科というのは今日の社会科の前身になったようなところがある。高等師範部四十五周年記念式典は、当時教務主任をしていた佐々木八郎の発案であってその実行力の逞しさからできたことであった。その式典に思いがけない古い卒業生が集まった。いまの昭和女子大学の創立者の人見円吉(明治四年頃の英語科中退)、「人生創造」の石丸梧平(明治四十一年の歴史地理科卒業)、府立高等学校教授の菅沼太一郎(大正十二年英語科卒業)らの先輩だった。この記念式典は、高等師範部が新制学部へ昇格するについての強い発条となったように思う。その後教育学部になってからもこの種の式典はついぞ行われたことがない。

j 学科課程

 高等師範部の創設以来の学科課程はここに全部を掲げるわけにはいかないので、明治三十六年のもの、大正十一年のもの、昭和十七年のものの三つを挙げておくことにする。また一覧の便のため、別表として「高等師範部の推移」を本史第二巻(三八七頁)から転載しておく。

第八十二表 高等師範部科目および担当者(明治三十六年)

第八十三表 高等師範部学科配当表(大正十一年)

国語漢文科

英語科

第二外国語独語科

第二外国語仏語科

第八十四表 高等師範部科目および担当者(昭和十七年度)

国語漢文科

英語科

国民体錬科

第八十五表 高等師範部および同予科(付、大学部文学科)の推移(明治三十五―大正二年)

3 教壇に立った人々

 高等師範部が部として安定的な成長過程に入っていた時期の大正十四年三月の調べとして「教授十四名、講師三十八名」という記録がある。今日の早稲田大学では専任の教師はどこかの学部に本属を持つことになっているのだが、この大正十四年という時期の高等師範部の教授十四名というのは高等師範部本属ということではないと思う。大学が教授として認定している先生が高等師範部に十四名出講しているという意味ではないかと考える。国語漢文科・英語科の先生は文学部でも教え、第一高等学院や第二高等学院でも教えていた。担当時間の多い学部の事務所で俸給を貰っていたようで、どこが本属かと言えば俸給を渡してくれる事務所のある学部がいわば本属であったのであろう。そういう意味では、大正十四年頃の国語漢文科の国文の場合で言うと、高等師範部だけで多数の担当時間を持ち本属教授の形であったのは永井一孝だけであったと思う。教授と言われた先生でも高等師範部ではせいぜい三こまか、四こまぐらいの講義の担当であって、当時の早稲田大学ではそれくらいの担当では専任になれなかったのである。昭和五、六年頃の国文の山口剛は高等学院の教授もしていたが、一週二十数時間の授業を持っていたという噂であった。だから高等師範部の教壇に立った先生を高等師範部だけが占有していたというわけにはいかない。特に前に記したように大学文学科との統合があった時代のことを思えば、大学文学科の先生は即高等師範部の先生だったのである。

 高等師範部の先生は東京専門学校の文学科もしくは大学文学科を出た先生、あるいは高等師範部を出た先生、すなわち早稲田出身の者と、他の学校から講師として見えていた先生、それに在野の先生の三つの場合があったと思う。ながく高等師範部の基幹となってきた国語漢文科と英語科について教師陣を考えてみよう。

 国語漢文科では高等師範部の創設に当って以来、昭和十八年の定年退職までずっと科の事実上の主宰者であったことは勿論高等師範部の大目付役を務めた永井一孝がある。明治二十六年、金子筑水とともに東京専門学校の文学科第一回卒業生として出ているが、特に国文の訓詁註釈の方面に秀でていた。師の逍遙は永井の素質を見てその指導を訓詁に詳しい関根正直に委ねた。一方、三回卒業生の五十嵐力についてはその批評・鑑賞的資質を見抜いて自らその指導誘掖に当ったという。そこは逍遙の卓抜な子弟の指導ぶりである。ここに将来の早稲田の国文科を指導する二人の卒業生の、それぞれに違った学風が醸成されていくことになったのである。一般に永井一孝は訓詁学者と言われ、五十嵐力は批評・鑑賞家と言われた。そして明治三十六年高等師範部が創設されると、なによりも訓詁に長じた国語の教師を養成すべき国語漢文科に永井一孝が配置されて、地味着実な、実際に古典がよく読める学生の育成に努めることになった。この永井一孝の学風が国語漢文科の学風を決定したと言える。一方、五十嵐力は大学文学科の国文の中心となり、ながく文学部国文学科を主宰することになった。そういう意味で戦前まで高等師範部の国語漢文科と文学部の国文学科の学風は対照的であった。永井一孝には古典の註釈書が多いが、『国文学発達史』や『国文学書史』といった本があり、のちの東大教授池田亀鑑などは若い頃は永井一孝の著書で大いに発奮したことを語っていたことがある。

 学外からは東大系で上田万年・佐々政一・藤岡作太郎・金田一京助らが出講し、東京高師の保科孝一・松井簡治、東京女高師の尾上八郎なども出講している。ほかに安藤正次・岡田正美などの名前も見え、まさに第一級の教師陣であって学生達を満足させたであろうことが窺われる。

 近世文学の泰斗と仰がれた山口剛はこの国語漢文科の第一回生として明治三十八年に卒業、大正十三年から高等師範部および文学部の教授となった。温厚な篤学の士で昭和初期の我が国の近世文学研究は彼を中心に動いていた。早稲田が生んだ最も優れた国文学者であり、最近、没後四十年にして中央公論社から六巻の『山口剛著作集』が刊行された。続いて大正三年国語漢文科卒業の竹野長次が永井門下として平安朝文学の講義を担当するようになり、更に昭和五年からは大正八年の国語漢文科の卒業生である中世文学の佐々木八郎も教壇に立つようになった。佐々木はのち「平家物語の研究」で学位を得ている。国語国文学科はここに自らの学科の卒業生である優秀な学者を三人迎え入れていよいよ独自の特色を発揮することになるのである。特に佐々木は才気煥発、教育行政の手腕に秀で、教育学部への昇格など、のちに大いに力を尽くすことになった。昭和十八年からは、昭和五年の国語漢文科の卒業生である川副国基も教壇に立ち現代文学を講ずることになった。文学部の五十嵐力窪田空穂・岩本堅一・伊藤康安・岡一男・安藤常次郎・岩津資雄らもこの科の講義を担当した。

 漢文の方の先生については先にも述べるところがあった。青柳篤恒も来講しているが、中心は松平康国であった。明治二十四年から東京専門学校の文学科に講義を持っていた。アメリカのミシガン大学に学んで学位を得たという変った経歴を持っていたが、いつも羽織袴の毅然たる先生であった。漢詩文に巧みな国士型の愛国者であった。松平に聘されて国語漢文科に見えた牧野謙次郎は儒学の系統をひく漢学者であり、また桂五十郎は漢詩人として著名で、漢詩では森鷗外の師であった。その著『漢籍解題』は学界の重んずるところであった。明治二十五年の東京専門学校の専修英語科の卒業生である。晩香菊池三九郎の在職は明治三十年代から四十年頃までの僅かであったがやはり漢詩に秀でていた。昭和に入って説話文学者の川合孝太郎も見えたが、また川田瑞穂が見えた。我が国最後の漢詩人とも言うべき学者で、詩文をよくし、平沼麒一郎の無窮会の幹事であった。難解で有名な終戦の詔勅の草稿は川田の筆になったものと言われている。漢文学の先生は皆、国士型の愛国者であったが、教室で左翼学生の批判などしたことはなかった。気宇の大きな先生達で、漢文廃止論などがやかましくなってきても、なに枢密院がそんなことは認めないよと言って笑っていた。どこかで政界の保守的な上層部と繫がっていたようで、大学当局もこの先生達の扱いには腫れものに触れるような遠慮があったようだ。その意味である時期の高等師範部は大学でも一城一国をなしていた。東大系では塩谷温も講義を持っている。

 国語漢文科の卒業生では渡辺秀方(明治三十九年卒業)が「支那哲学史概論」を携えて教壇に立った。続いて近藤潤次郎(明治四十一年卒業)、本庄圭一(大正五年卒業)、横井鐐一(大正十年卒業)が講義を持ち、昭和十八年からは大矢根文次郎(昭和七年卒業)、大野実之助(昭和九年卒業)の二人が教壇に立った。大矢根は「陶淵明の研究」で大野は「李太白の研究」で、それぞれのち学位を受けた。漢文の方では上海本の訓点なしの白文がテキストであることが多く、随分勉強が苦しかった。しかし、こういう先生達の指導で学生達は国文でも漢文でも古典がよく読めるようになった。学内では、高等師範部の学生は頭が固い、地味着実だが人間が面白くないということだったが、気ままで野放図なところのある文学部の学生とは確かに対照的な風があった。

 英語科の方の長老としては、明治二十七年から東京専門学校の文学科に見えた増田藤之助であろう。早稲田の英文学を開いたのは言うまでもなく坪内逍遙であるが、東大の政治科出身でそもそもは英語・英文学の専門家ではなかった。自らの努力で勉強したのであった。勿論、逍遙も島村抱月もまた五十嵐力も英語科で英語英文学を講じていた。増田は『名著評釈』や『英和比較英語修辞講義』などの著で名があるが、この頃の英語学者は、日本文学、日本文化がよく分る人であって、増田にはグレーの挽歌の漢詩訳もあったと思う。英語に造詣が深いが、常にそれを日本文化を頭において考えるということのできる人であった。逍遙のいわゆる和漢洋の三文学の調和という理想にかなう研究家であったと言える。高等師範部が構想された年の明治三十五年には高杉滝蔵を迎えた。はやくノースウエスタン大学、デポウ大学に学んで、デポウ大学では助教授になった人だと言う。十七年間のアメリカの学生生活であったから英語には堪能であったであろう。早稲田出身者ではないのに性格はまことに早稲田的で、学生に慕われ四十数年間を早稲田で過ごし、英語科の中心的な教授の一人であった。安部磯雄のあとを受けて野球部長にもなっている。髪は黒黒といつまでも青年であった。明治三十六年には東大出身の宮井安吉が来講、やがてこの英語科の主任を務めた。剛毅廉直の士で責任感の強い人であり、学生には厳しく且つ暖かった。授業開始の三十分前に必ず出勤するという人であったが学生の面倒を見ることまことに懇切で、学生の就職についても実に熱心であった。先生の手を経て中学校に奉職し得た者の数は数えきれないと言われた。英語科発展の基盤を築いた人であった。

 高等師範部の英語科卒業生として初めて英語科の教壇に立ったのは上井磯吉であろう。明治四十二年の卒業である。自分の出身学部ということもあって高等師範部の発展のために尽くしたことは大変なものであり、教務主任も務めて学生の面倒をよく見た。はやくNHKでの英語教育の放送などもしている。戦後、同じ時期の英語科の中途退学者である人見円吉が経営する昭和女子大学へ移った。

 増田藤之助に語学力のすばらしさを認められてその養子となった増田綱は、文学部の教授からのち高等師範部の後身の教育学部に移り英語英文学科の主力になったが、高等師範部時代から講義を持っていた。『英語青年』の和文英訳を担当するくらいの英作文の練達の学者であった。温厚で篤実、よく養父藤之助の後を継いだものと言える。大正六年卒業の吉田周平も英文法の講義をながくしていた。大正の末年頃に、同十一年英語科卒業の萩原恭平が見えた。熱心な英語教育者で、中学校の英語教育についての第一人者となり、その編まれた英語の教科書は特に戦後の英語教育界を風靡した。先生を得て、高等師範部の英語科は中等学校の英語教育に重きをなすようになってきた。その高弟が昭和十二年の英語科卒業の五十嵐新次郎であった。発音のきれいな先生で、ブラウン管を通じて特異な発想とともにその見事な発音を聞かせたことも記憶に残る。

 先に述べたように、このほか、熊本謙二郎・武信由太郎・岸本能武太・勝俣銓吉郎というように欝然たる大家が英語科には教鞭を執っていた。高等師範部にはやく講義を持ったのは岸本・熊本の両先生であった。それぞれ一家の風格を持った先生達で、岸本は静座法の大家でもあった。大正六年卒業の藤田通成も中央大学の教授の傍ら英作文の指導に見えていた。また矢口達も風格のある先生であった。昭和初期からは勝俣が英語科の中心となり、やがてそれは英語科出身の萩原恭平中心の時期に移っていったように思う。

 逸してならないのは二人の外人教師である。一人はコクス・ヘンリー(日本名を古楠顕理と称した)であり、もう一人はトーマス・ライエルである。コクスはどこか風変りな面白い先生であったが、ライエルの方はいかにも生粋の英国人らしいところを見せていた。ライエルは学識深く、発音も純正なキングス・イングリッシュであった。お酒が好きで教員室でもウイスキーを嗜んでいた。戦後のこと、英本国へ帰っていたライエルから英語科の先生方へ、さぞ不自由をしているだろうということで靴下や手袋などが送られてきたことが美談となっている。

 歴史地理科は長くは存続しなかったが、その中心となったのは明治二十五年筆禍をもって東大教授を辞めて東京専門学校の文学科に迎えられた久米邦武と明治三十四年から東京専門学校に見えた吉田東伍の二人である。二人とも、まことに民間在野の学校である東京専門学校の教師にふさわしく、国家権力をも憚らず批判した学者であった。久米は民間からその学識の豊かさで東大教授になった人であって正規の学校の出身者ではなかったし、また吉田は全くの独学力行で該博な歴史・地理の知識の所有者であった。久米の筆禍事件とは、東大教授の職にありながら「神道は祭天の古俗なり」と喝破して皇室の護持者を以て任ずる神道者を怒らせたことであった。この学者的良心の強い久米を大隈重信は広く包容して早稲田へ迎えたのであった。『大日本地名辞書』や『倒叙日本史』などの名著で知られる吉田東伍もまた権威に屈しない戦闘的な学者であった。この二人の歴史学者の学者的信念はのちの津田左右吉に伝わったかと思われる。久米・吉田の研究は実に科学的であった。昭和三十三年三月の『図書』(岩波書店)に評論家の神崎清が「永井荷風と津田左右吉――大逆事件をめぐって――」という一文を寄せているが、その中に「早稲田の大学高等師範部の歴史地理科に、史学科がおかれ、国史担当の教授が、久米邦武吉田東伍であった」と記し、大逆事件の宮下太吉や森近運平が、この二人の史家の所説から天皇制批判を学んだことを指摘している。

 国語漢文科の漢文の先生達に国体護持の国粋主義的な一群があったことについては先に述べたが、同じ高等師範部の歴史地理科の中心は科学的・進歩的な先生達であった。どういうことだろうというふうに考えるのだが、そこが早稲田学苑の包容性の豊かなところであったと見るべきであろう。

4 高等師範部の業績

 高等師範部はもともと中等教員として実力を備えた人物を養成するところであった。高等師範部の業績ということは先ずいかにたくさんの有為の人材を教育界に送り込んだかということであろう。それは我が国中等教育界の地盤を考える優秀な教員を送り出すことではあったが、いわゆる有名人・知名人を育てるということではなかった。高等師範部出身者には文学部出身者のように、一夜にして目ざむれば芥川賞受賞の有名作家になっていたというようなことは滅多にあり得なかったのである。

 私立学校としての早稲田の卒業生にも中等教員の正式な資格が与えられることになったことは確かに画期的な朗報であったが、次の難関は、せっかく教員免状を手にしてもなかなか教員に就職することができなかったことである。官尊民卑の風潮の中で私学の出身者が教員として採用されることは困難であった。明治四十一年の歴史地理科の卒業生である思想家の石丸梧平は、昭和二十七年十月の『早稲田学報』の座談会の中で

高師部の卒業生では、私なんか一番の先輩であるらしい。同級前後は殆ど死んでいるか、生きても非常に無力ですね、教育畑に関係した者はね、実に無力です。早稲田とは限らず明治時代の学生の社会的・思想的背景を考えてみますとね。なんといっても官尊民卑の思想といいますか、官吏が無茶に威張っておって、特権階級の学校は言うまでもなく東大で、私大というものは、この明治の時代思潮のため、実に影が薄かった。……明治の早稲田は非常に微力な存在でしかなかった。微力というのは東大のみが大きかったからです。

と語っている。

 この私学を蔑視し軽視する官尊民卑の風は明治時代が最も強く、大正時代に入ってもなおそれは続き、昭和に入って幾らか薄れ、戦後に漸く払拭されかかってきたと言えるであろう。明治大正期では教員の就職先きがあってもそれは官学出身の絶対に赴任しないような辺鄙なところ僻陬の地でしかなかった。評判になった作家宮内寒弥の小説「七里ヶ浜」(『新潮』昭和52・9)に登場する作者の実父の池上己三郎という実名の人は、明治三十八年の高等師範部歴史地理科の第一回卒業生である。逗子の私立開成中学校の教師になったが、岡山の辺地へ転じ樺太の中学校の教諭で終わっている。この人は苛酷な運命に弄ばれた結果でもあるが、この頃の私学出身の教員の運命を象徴しているようだ。

 同じく明治三十八年の英語科の第一回卒業生である梁川良右衛門は、昭和の初め頃宮城県の東端の県立気仙沼中学校の校長になったが、当時、早稲田出身者として異数の栄進として受けとられていた。梁川のところへは早稲田出身の教員志望者の履歴書が殺到したということであった。また明治四年の大学文学部哲学科の出身である熊本捨治は、昭和の初め頃京都府立桃山中学校の校長になり、のち文部省の督学官となって大変な評判であったが、この熊本は早稲田卒業後また官学に入ってそこを卒業した人であることが分って学生たちを失望させたことがあった。

 しかし、昭和期に入るとよほど教育界の私学に対する認識が変わってきたようである。いま昭和五年の国語漢文科の卒業生について調査してみると卒業生百三名の中で、結局教職に就いた者が三十数名あった。「結局」というのは不況の始まった時期で卒業とともに公立の中等学校に就職できた者は二名しかなく、二、三年後あるいは三、四年後にどこかの学校に就職し得た者が合わせて三十数名ということである。この三十数名について戦後の昭和三十五年頃、すなわち卒業後三十年頃の状況を調べると、公私立の高等学校長が七名、公立の高等学校の教頭と公立の中学校長が八名あった。昭和六年、七年頃の国語漢文科の卒業生について考えてもほぼこれと同じである。明治・大正期に比べるとこれは非常な躍進ぶりである。昭和十年前後、五十嵐力が『純正国語読本』という教科書を編み、また牧野謙次郎が『漢文読本』という教科書を編んだことも、早稲田が中等教育界に力を見せてきたことを思わせる。昭和三十五年頃、全国の公私立高等学校の校長のうちで早稲田出身は百十数名であり、その大半は高等師範部の卒業生であった。

 今日、東京都内の都立高等学校に早稲田出身の教員は千名あり、中学校の教員は千数百名に及ぶと考えられるが、そのうち高等師範部または教育学部出身は半数以上を占めているであろう。全国では早稲田出身の教員(高校・中学)の数は、ほぼ一万人近くに達するであろう。高等師範部の卒業生はいちばん若くてももう五十歳半ばを過ぎており、それぞれその学校で重要な地位にあると推察される。今日、高等学校・中学校へ教員を送り出している数では、早稲田大学が各大学の中で最も多いのではなかろうか。毎年大学全体で二百名ぐらいが専任の教員に各地で採用されてきている。これはひとえに偏見のなかで苦難の道を切り開いてきた先輩校友のおかげである。

 高等師範部は教員の養成のためのものであって、学者・研究家・文学者を養成するところではなかったわけであるが、その資質に応じてこの方面に頭角を表わした人も少くはない。学者・研究家になった人達は大体母校の教壇に迎えられてきている。

 先ず国語漢文科では明治三十八年の第一回卒業生に近世文学の研究を初めて学問的に推進した山口剛がある。一人の津田左右吉を出したことで学界が改めて早稲田の学問に敬意を表したように、山口剛の出現で我が国の国文学界は早稲田の国文学研究に脱帽したのであった。昭和五、六年頃東大国文学科の主任教授で近世文学を講じていた藤村作は、講義が終わるとき「わたしの講義以上のことを知りたい人は早稲田へ行って山口君の講義を聞き給へ」と言ったという。学問は広く、日本文学全般にも亘ったが、また支那文学史についても精しかった。山口の急逝(昭和七年)後、文学部ではその後任に数人の専門学者を補充しなければならなかったほど、各分野についての専門的学識が深かった。国文学を思潮史的に考えるということはそれまで早稲田にはなかった学風で、恐らく山口剛は東大から見えていた講師の藤岡作太郎の新鮮な科学的方法を学生時代に学んだものではないかと思う。山口と同期には実業之日本社の雑誌編集者として鳴らした高信峡水(孝治)がいる。

 明治三十九年の第二回卒業生には詩人の平井晩村(駒次郎)がいるが、国文学者の朝倉無声(亀三)も同期である。その『日本小説年表』という名著が卒業と同時に刊行されているから驚く。地味な書誌的研究家で雑誌『江戸趣味』の編集に携わり帝国図書館に勤めていた。続いて明治四十一年には漢文学者の近藤潤次郎が出ている。温厚な学者であった。

 翌明治四十二年には人見東明とも仲のよかった歌人・詩人の有本芳水(歓之助)が卒業している。実業之日本社は校友の増田義一が創設した出版社で、そこから出ていた少年雑誌として広く読まれた『日本少年』の編集者をしていた。相馬御風・三木露風とも親しい詩人であったが、氏は我が国の少年の詩情を豊かにする少年詩の作者として有名である。その『芳水詩集』は驚くほど版を重ね全国の少年達に愛誦された。今日七十歳以上の教養人で少年時代、芳水詩の洗礼を受けなかったものはないといってよい。

 大正三年には平安朝文学の研究家である竹野長次や望月世教や河野通弥太が出ている。大正四年には近世文学の研究家で県立長崎女子短大の学長を戦後に務めた野崎辰巳が卒業している。大正五年卒業の漢文学者本庄主一、大正八年卒業の中世文学の佐々木八郎、大正十年卒業の漢文学者横井鐐一については既に記した。

 昭和二年卒業には作家の鹿島孝二があり、昭和四年卒業には近代文学の研究家で東京学芸大学の教授をした岩永胖がある。川柳研究家として有名な岡田甫(千葉治)も同期である。昭和に入って国語漢文学科にも創作したいという学生が少なくなかったが、永井一孝は「小説を書きたい者は文学部の方へ行きなさい」と厳しく叱咤した。学校に出席しないで下宿で小説ばかり書いているような者を学力をおろそかにするものとして忌避したのであった。そういう雰囲気の中でも玉木退三(ペンネーム近江帆三)や金谷完治など昭和四年卒業の人達は小説を書き多少認められた。玉木はユーモア小説に可能性を見せ、金谷は戦時下クアラルンプールのNHK放送局長で亡くなった。名著と評された『京都風土記』の著者の大塚五郎もこの期である。昭和五年の卒業には近代文学研究家の川副国基があるが、昭和七年の卒業には応援歌「紺碧の空」の作詩でその名をながく留める住治男が出ている。氏の在学時代昭和六年の作詩で作曲は当時まだ無名の古関裕而。母校の応援歌中出色のもので長く歌い続けられてきている。昭和七年卒業の漢文学者大矢根文次郎や同じく九年卒業の大野実之助については前に述べた。小路一光(昭和十年卒業)は国語科教育法を、三浦和雄(昭和十一年卒業)は国文法を戦後教育学部で担当している。その後には船津富彦(昭和十四年、中国文学、大正大学教授)、保昌正夫(昭和二十年、近代文学、相模女子大教授)、上坂信男(昭和二十二年、平安文学、文学部教授)、興津要(昭和二十二年文学部へ転科、近世文学、教育学部教授)がある。

 英語科では明治三十八年の第一回卒業生に旧制新潟高校の教授になった広政幸助がある。明治四十一年卒業の上井磯吉とその頃の中途退学者人見円吉のことについては先に述べたが、人見は号は東明、島村抱月の愛顧を在学中に深く受け、相馬御風・三木露風・服部嘉香の稲門詩人とともに自然主義の影響下に国語詩の運動に力をいたした。「早稲田詩社」「自由詩社」を結成してのその功績は大きい。詩集に『夜の舞踏』『恋ごころ』『愛のゆくへ』『東明詩集』などがあり、論文に晩年の力編「口語詩の成立とその過程」がある。初め抱月の推薦で読売新聞社社員となったが、やがて日本女子高等学院を創立して校長となり経営に専念し、戦後はその学校を発展させて昭和女子大学とした。詩人であったがまた優れた教育者であり学校運営者であった。出身学部である高等師範部のことを常に忘れず、その発展を見守っていた。国文の竹野長次と同期の大正三年の英語科からはまた異色の哲学者の松永材が出ている。カント哲学の研究家で、国学院大学の教授を務める一方、高等師範部でも長く哲学を講じた。才気煥発型の先生で日本主義を唱えた。昭和四、五年頃の高等師範部ではまた哲学でプラグマチズムの田中王堂の講義が異彩を放っていて、松永とよい対照であった。

 大正十一年卒業の萩原恭平によって英語科がその科出身の偉材を初めて持ち得たことについては既に述べたが、大正十四年には中西秀男が卒業している。国立の蔵前の高等工業学校の学生から転じて英語科に入学しており、文学的感覚が柔軟であった。よく英米の小説に通じており、語学力もすばらしかったが敢えてそれを外へ顕示しようとしないところがあった。青年時代、芥川龍之介の門を叩き親近したという文学青年の風貌をいつまでも失っていない。戦後初めて英語科の教壇に立ったが、先輩の萩原恭平を助けて新制教育学部の英語英文学科の基礎を固めた。同期には日大教授をした秦一郎がある。

 昭和六年の卒業生には一時戦後の英語英文学科の講師を務めた矢吹勝二や、法学部教授の石井保武があり、昭和七年には政経学部教授の山田良治が出ている。昭和十二年卒業の五十嵐新次郎と同期の新島通弘、昭和十三年卒業の長谷川信、昭和十六年卒業の本村潔らが、昭和二十四年卒業の星新蔵とともに戦後の教育学部の英語英文学科の教授になった。英語科の卒業生の進路は、国語漢文科とは違って幅が広く、その熟達した英語力をもって貿易会社その他の商社、実業界に挺身し、それぞれ一家を成した人も多いようであるが、それはいちいち記さないことにする。

 歴史地理科の明治三十八年第一回生には森鷗外の末弟潤三郎の名がある。鷗外は、弟の潤三郎は出来がよくないので早稲田の史学科に入れたなどと言っているが、この潤三郎には兄の伝記として最も信頼度の高い名著『鷗外森林太郎』(昭和九年)がある。図書館員として書誌学の方へ進んだ。明治四十一年の卒業生には前にも触れた石丸梧平(吾平)がある。個人雑誌『人生創造』を刊行し、一時教祖のような形で自らの宗教的人生哲学を唱道した。『創造学概論』以下五巻の選集があり、小説も戯曲もある。

 体育科の方では昭和二十四年卒業の阿部馨が戦後教育学部の体育専修の教員になった。スポーツの方では相撲の豊平悠三(昭和六年、国語漢文科)、陸上の矢田喜美雄(昭和十二年、国語漢文科)がある。矢田はまた朝日新聞に入社、名ジャーナリストと謳われた。

 異色は昭和十八年国語漢文科卒業の利根山光人(光男)であろう。今日画壇の逸材と目されて評価が高い。卒業後、苦しい生活を続けながら好きな画に打ち込み、いかにも早稲田的な反画壇的精神を発揮してきている。尽きせぬ母校愛から長く奉仕的に『早稲田学報』誌の表紙絵を描き続けた。

5 高等師範部の雰囲気と行事その他

 述べてきたように、高等師範部はもと大学文学科と同根であり、制度の上では分れたと言っても、大学文学科と先生も同じ教室も同じといったことの多い時代が明治期には続いたようだ。学生の数も今日のマス・プロ教育と違って少く部全体がいわば一つの研究サークルのようなものであったらしい。

 文学科の学生とともに当時評判の高い逍遙のシェークスピアの講義を聞き、新鮮な抱月の文学論を聞いていた。文学好きな文学科の学生とともに創作の方面を主とする学生もあったし、両者の間に違和感などは全くなかったようである。大正の中期以後から高等師範部が教員養成の学部としての性格を強く出してくるようになって、どうやら高等師範部の学生気質というようなものができてきたようである。なにしろ無試験検定と言っても平均点七十五点以上を取らねばならないとなると勉強しないではいられない。授業もサボるわけにいかない。先生達にも厳格な人が多かった。地味で堅実で、下宿屋のおかみさんなどへは奔放不覊な文学部や専門部の学生より信用があったが、頭が堅くて面白くない学生が多いということになった。一般の入学者は旧制中等学校の卒業生であってこれを一種生と称したが、そういう経歴も有しないで入学を仮に許され在学中に入学資格を取る二種生という組の人もあり、そういう人達はまた殊に苦学力行型の真面目人間が多かった。

 教員としての力を学課外でつけるために国語漢文科には漢学会が、英語科には英語会や英会話会などのサークル活動も起り、早稲田教育会などといった、卒業した教員を含めての在学生の会なども発想されたり実行の緒についたりしたがうまく発展しなかった。長い間、中心となってくれるような中等学校の校長の数がきわめて少く、卒業したのち教職に就いた人も各地に散在していて連絡がとれなかった。広島高師の尚志会や東京高師の茗渓会のように卒業した教員の緊密な集結の形の会などは持ちようもなかったし、また早稲田出身の教員は、いずれも自主独立の一匹狼で、徒党を組むような印象を与える会の結成などには全く熱心でなかった。それでも昭和の初め頃からであったか、卒業生と在学生との会として「淡交会」というものが組織され、『淡交』という名の機関誌が刊行されて、ほそぼそと活動をした時期もあった。高等師範部に講義を担当していた先生達は全部が会の役員で部長が会長であった。学生達はまた部の援助で『われらの文学』という雑誌を出していたこともある。戦後、学制の改革で、高等師範部が教育学部に発展的解消を遂げようとする時期、すなわち、創立四十五周年記念式典を機として、部と卒業生との連絡結集が考えられたことがある。早稲田教育会という形のもので、これは佐々木八郎の熱心な企画と実行とによるものであった。校友も大いに支持してくれたのだが、これも大をなさないままに終った。人見円吉がその頃部のために多額の寄附をしてくれたことがある。その後三十年を経て、近年各地に教職稲門会が結成され、全国組織としての稲門教育会も組織されるに至った。これは、早稲田出身の教員と大学、特に新制大学学部としての教育学部が負っていた長い悲願の達成であって、この活動が今後、後退するようなことがあってはならないと思う。

 高等師範部の行事としては、国語漢文科、英語科でそれぞれ研修旅行が行われてきたということがある。今日のように教育実習というものが制度化されていない時期であったので、先生方が各科の学生を引率して各地の中等学校の授業参観をして歩く旅行であった。これも大正中期以後に始まったものであろうと考える。この慣習は、教育学部になった今日でも国語国文学科では文学史蹟の踏査研究という形、英語英文学科では地方高校の授業参観という形で踏襲されてきている。高等師範部時代は学生の数も少く、全員がよく参加し、普段は雲上人のように畏敬して近寄りがたい先生達と数日寝食を共にし、意外な効果があった。授業参観記などが、当時の『淡交』などに掲載されている。しかしこれは大体、卒業前の本科三年のときに行われるので、折角、親しくなった先生達とはすぐ別れてしまうという残念さがあったようだ。

 記しておかねばならないのは、新制学部になるまでは、高等師範部の教員達に研究室というものは全くなかったことである。教員室というのが一個所あって、そこへ専任も非常勤も授業の前後に見えるだけであった。偉い先生達の集まっている教員室へ入っていくというのは大変な勇気を必要とした。個人的に親しくしてもらうためには自宅へ伺うことのほかはなかったが、これは更に勇気のいることであった。田舎出の礼儀作法も心得ぬ学生にとっては気の重いことであった。個人的に先生達から手を引いていただく形で指導を受けるということは特別な場合を除いて考えられなかった。先生達に老大家が多かったせいもある。学生達も個人的な指導などは期待しないで自分で勉強をしていうに思う。それでも歌を詠みたいという学生などが窪田空穂の家を訪ね、『槻の木』という歌誌の同人になって活動たよをしたというようなことはあり、みんなを羨しがらせた。漢学会の会合には支那文学史も講じていた山口剛も見えていた。中華料理店で会合をして教室では得られないものを先生達の談話のなかから教えられた。この漢学会は川田瑞穂が教壇に見えてからは、先生が管理していた大久保の「無窮会」の古典などを観る機会を与えられ、漢学の方面に業績を挙げていった人達もあった。

 高等師範部が予科一年、本科三年の四年制を採ったのは、学生の学力充実のための英断であって、他の私学の高等師範部は三年制であった。国立の高等師範学校が早稲田の高等師範部の対抗目標であったので、国立の高等師範学校の四年制を採ったのであった。それだけ他の私大の高等師範部よりも学力がついたのであったが、高等師範学校の昇格運動が文理科大学という形を成したとき、当然ながら早稲田の高等師範部にも昇格運動が起り、昭和初期の先生達は相当応接に苦しんだようであった。

 昭和の初め頃には高等師範部に野球部ができて、大学の野球部の選手と同じワセダの校名入りのユニホームを着て戸塚球場で練習をして大いに得意であった。大塚の高等師範学校の野球部に挑戦して暫く対抗戦を続けたことがあったが、高等師範部のチームの方が強かったようである。

 早稲田の学生の軍事教練反対運動は学生運動史上有名であるが、大正十四年から軍事教練は大学でも実施された。兵役に特典が得られるというので希望者だけが訓練を受けていた時期があった。竣工したばかりの戸塚グランドで羽織袴の和服姿で教練を受けた学生もあったのだから、十年後の緊迫した世相からは考えられないことであった。和服の学生は右肩のところへ新聞紙を置いて、銃の油で着物が汚れるのを防いでいた。きちんとした将校が配属されてきてしだいに教練は厳しくなっていったが、大学の大隈講堂で文化講演があると欠かさずそれを聴講していた将校もあった。そういう教官は早稲田にいる間に幾らか考えが変っていったのではないかと思う。しかし、昭和二十年八月十五日の玉音放送のとき、直立不動の姿勢で聞き入っていた教官の一人が、「陛下、それは違います」と思わず昻奮の声を挙げたということもあった。

 戦後の食糧事情の困難な時期に、大隈侯邸(いまの大隈会館)の焼跡を掘り起して、そこで教職員達は一画の地を貸し与えられ、芋などを作ったものである。国民全体がつらい生活をした時期であるが、窮迫した私生活を凌いで荒廃した大学の再建のために尽くした先生達の労苦を忘れてはなるまいと思う。

二 教育学部時代

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1 教育学部の成立

a 新制度発足

 早稲田大学が、新制度を実施するには多くの困難な道程を経なければならなかった。この制度は、従来のものから単に年限等を変えるという形式上の移行ではなく、教育の基本理念上の改革とも言うべきものであって、いわば明治初年の学制改革にも比すべきほどの大変革であった。

 当時中央では、昭和二十一年十二月、教育刷新委員会(本大学からは島田孝一教授が委員として参加)が、その第十七回総会で、教育改革全般についての概括的結論を得、教育基本法、学校教育法、教育行政機構法等にかかる答申案を発表した。翌二十二年三月、議会の決定を経て、教育基本法、学校教育法が公布され、同四月一日の新学期から、いわゆる六・三制による小・中学校が義務教育として発足したのであった。

 これに応じて早稲田でも、二十一年十二月には教育制度研究委員会が発足、翌年九月答申案がまとめられ、続いて教育制度改革委員会が設置されて、二十三年二月五日には「学制改革要綱案」が提出された。その後、学内各機関での検討を経て、『早稲田大学設置要項』が完成、二十三年七月三十日、文部省に設置認可申請を行ったが、その詳細の経緯については本史を参照されたい。

 昭和二十四年四月一日、早稲田大学は(移行措置としての旧制は残置存続していたが)、根本的な改変によって、新制度により再発足した。そしてこのときに、我が「教育学部」が誕生したのである。この学部名は、私学としては唯一の名称であった。発足当時の教育学部には、教育学科、国語国文学科、英語英文学科、社会科の四学科が置かれ、定員は四ヵ年総数千二百名、一学年三百名であった。この学生数は、同時に開設した他の第一各学部に較べて最も少いものであった(政経二千八百、法二千、文千八百、商二千、理工二千。別に各学部に第一学部に相応する第二学部が置かれた)。

 教育学部四学科のうち、国・英二科は、高等師範部時代の国語漢文科、英語科の古い伝統を継承したものであるが、教育学科は、学部の名称に即して、学部の内容を確立するために新設されたものである(前述の文部省主管の教育刷新委員会の第十七回総会で「教員の養成は、総合大学及び単科大学において、教育学科を置いてこれを行うこと」とあるのに相応する。大学は、事実、教育学部に教職課程を併置して、全学の教員志望学生を扱うことにした)。

 また、社会科は、二十一年四月、社会教育科として発足したものを受けているが、新制度の中で「社会科」が一教科として成立し、従来の公民、歴史、地理等を包含していることに応じて設置されたものである。なお、昭和十七年四月、高等師範部に新設された国民体錬科は、二十一年四月に体育科に改称(従ってこの時期には、高等師範部には、国、英、体、社の四科があった)、二十三年三月を以て学生募集を停止した。このため新学部発足時には、体育に関する学科は継承されていなかった。

 新制度による「早稲田大学」は、周到な準備のもとに、昭和二十四年四月を以て発足した。その二十四日十時、旧戸塚運動場を改称した安部球場に教職員学生を集めて盛大に開設記念式典が挙行された。(旧戸塚運動場は一時戸塚道場と言われ、一般には戸塚球場または戸塚グランドと呼ばれていた。グランドという呼び名は、その後しばらくバス停の名として残っていた。ところで、この年の二月十日、安部磯雄が死去、その大学への貢献を永く記念するために、三月二十六日安部球場と改称されることになった)。

b 教育学部成立

 新制大学出発に伴う旧制からの移行措置の中で、学生については、新制度が小学校入学以後十二年間の教育を受けたことが条件になるため(小六、中三、高三計十二年)、旧制による高等師範部をはじめ専門部各科、専門学校、高等学院の各一年度修了生は全員新制大学学部一年に転入、二年以上は希望者のみそれぞれの系統の新制学部へ移行することになった(旧制希望者はそのまま旧制として継続する)。従って、各学部一年次への新入学希望者を受け入れる余地はあまり多くなかった。当時の要項(昭和二十四年度新制早稲田大学入学(第一年)編入(第二、三年)試験要項)によれば、第一学部六学部を通じて約四百名、第二学部五学部を通じて約五百名にすぎなかった。このとき同時日に、第二、三年次への編入試験も実施しているが、この方は、第一学部計約八百名、第二学部計約千二百名と示されている(ただし第一理工学部は編入を募集せず、第二理工学部は二年次生のみ募集した)。

 昭和二十四年四月二十一日付『早稲田大学新聞』によれば、新一年生の入試状況は、一政、志願者二千八十一名、合格者八八十七名。一法、志願者千五百二十名、合格者二百八十五名。一文、志願者千三百二十名、合格三百三十六名。教育、志願者六百七十二名、合格者二百名。一商、志願者千七百七十名、合格者九十一名。一理、志願者二百五名、合格者五十名とある。

第八十六表 教育学部教員志望者数(昭和二十六年三月卒業予定者)

 この年度の高等師範部からの移行学生、受験合格によって入学した第一年度生の数などについては的確なものが見当らないので残念であるが、新制大学として第一回の二十六年三月卒業予定者のうち、教員を希望した者の一覧表があり、出身校も記載されているので表示する。ただしこの年度の卒業生は、高等師範部三年修了から移行した者と、学部三年に編入生として入学した者とが含まれており、移行学生については高等師範部入学時の卒業中学校名が記入されている者が多いと思われるので、表は必ずしも全容を伝えるものではない。

 この表は、全卒業予定者の二分の一ほどの数であるが、大局を知ることはできるであろう。「高師部移行」のうち、教育学科へ移行の六名中五名と社会科への二名は高等師範部体育科からで、他の二名中教育学科への一名は国漢科、英語英文学科への一名は英語科からの移行である。

 また、各地の師範学校から入学した学生もあり、その学校名を次に記しておく。別に他大学からの移行者も数名あった。

東京師範二、東京第三師範二、群馬師範二、神奈川師範二、(以下一名宛)秋田師範、山形師範、福島師範、福島新京師範、茨城師範、長野師範、大阪第一師範、島根師範、香川師範

 戦後の学生層が多様であったことは言うまでもないが、教育学部第一回卒業生の履歴がこのように種々であることは、高師からの移行のほか編入生のあったことによるものであり、これらの卒業生諸君のその後の動静が明らかになれば更に参考になるものと思う。

 早稲田が教育学科を独立の形で置いたのは比較的新しいことであった。昭和十六年四月の改正で、文学部哲学科の中に教育学専攻を置き(同時に史学科に地理学専攻を置いた)学理の研究とその教育を期したことに始まる。

 大学が、従来の組織機構を改め新制度につくためには、多くの検討が重ねられてきたが、その中で、従来の学生をどのように取り扱うかが一つの課題になった。新学部を従来と同様にした場合、専門部、高等師範部、専門学校学生について、希望者をそれぞれ新制の各学部に移行させることは、決断すれば手続き上はさほどの困難はなかった。高等師範部にしても、国・英・社の三科であるからこれを解体して専攻の近いものを選び学生を移すことは必ずしも無理ではなかったであろう。しかし、長い伝統を有する教員養成を直接の目的とする高等師範部であるので、これを廃止することは簡単にはできなかった。

 新制度発足に当って、学内では種々の論議がなされ、日時の前後はあるが、文理学部、工業経営学部、女子学部などの設置要望もあった。こうした時機に、高等師範部出身の佐々木八郎が大学の教務部長に就任していたことは、局面を転換する上できわめて有効であった。高等師範部部長赤松保羅や竹野長次などの尽力があり、高等師範部は教育学部として新生することになり、赤松が「教育学部設置」委員長として準備を進め、やがて設置が確定したのである。ここに至るまでの佐々木八郎教務部長はじめ諸氏の努力にはまことに並々ならぬものがあった。将来に亘って記録しておかなければならない。

 高等師範部が「学部」への昇格を望んだ運動は、既に大正七年に起きている。この時は、新大学令が公布された年である。それまで大学の名はついていても、私立大学は専門学校令によっていたのであるが、新令により差別が撤廃されて官立大学(当時の帝国大学)と同格になったのであった。これを機に政経、法、文、商、理工の五学部に併せて高等師範部も一つの学部として昇格させようというのであった。関係者の熱烈な希望は悲願とさえ見られたのであったが、機は熟さず実現するまでには至らなかった。

 この新大学令の実施は、外部でも同類の事例をみた。当時、高専、医専の大学昇格が相次ぎ、教員養成校である東京高等師範学校でも、校長嘉納治五郎を中心に学生をも含めた昇格運動が起り、その勢いはまことに盛んなものがあった。文部当局は、初めこれを不届きなものとみていたが、やがて誠意に感じ、昇格を認める方向でこの運動に対処した。その成果は、昭和四年の文理科大学設置ということで終り、高等師範はその大学の併設校という形にとどめられて「師範大学」にはならなかった。教育者養成が新大学令にいう学問の蘊奥を極める研究者育成と直ちに結びつかない、というのが主な理由であって、教育が研究の下に置かれていたことを端的に物語るものである。

 尤も、師範大学構想は、官私の大学間でも不評であった。その理由は、教員養成と学術研究の二本の柱を建てれば、いずれも中途半端な形になるであろうということであって、この考えは、今日でも根強く残っている。これは、今後も日本の教員養成制度を考える際、常に表に出てくる問題であり、新制大学の運営に当って十分考慮されなければならない課題でもある。

c 学部の目標

 教育学部は、従来多数の勝れた教育者を輩出した高等師範部の伝統に基づき、中、高等学校教員および教育行政者の養成を主な目的として設置されたものである。しかし、その教育の語義を広く解釈し、学校教育の場に立つ教員を養成することを主とすることに変りはないが、同時に広く社会を対象としてその師表たるべき人物をも養成する、という方針を立てている。その意味は、教育学科内に教育学課程とともに教育行政課程、社会教育課程を置いたことにも現れている。また、「社会」とひとくくりにした免許状に対応して置いた社会科も昭和二十七年四月、地理歴史と社会科学の二課程に分けられており、この科でも、教員養成とともに卒業生を社会の各分野に送り出すことを考えていたと言ってよいであろう。

 学部が、昭和二十六年春、学生に配布した『教育学部案内』の冒頭に「早稲田大学と教育学部」と題して載せられているもののうち、「Ⅰ、教育学部の略史と特色」を次に転載しておく。

私学の雄として、長い伝統と歴史に輝く早稲田大学に於て、わが教育学部の占める地位は極めて意義深いものがある。発足した全国の新制大学中、私学に於ける唯一のものとしての教育学部の存在は、学問の独立と研究の自由を教旨としてきた早稲田大学が、教育最高の府としての本来のあり方を示す最も端的なあらわれであるとさえ言える。

敗戦を機として、未曾有の転換期を迎えた日本が、平和的文化国家の建設を中外に宣言した今日、「教育」のもつ使命の重大さについては、今更述べるまでもないことであるが、それ故にこそ、わが教育学部の存在意義が、より深く認識されなければならないのである。

明治三十年代の半ば、その前身高等師範部が創設されて以来、既に五十年の長きに亘り、教員養成という一貫した使命を担い続けてきた当学部に、今、自らの道を求めることとなったわれわれが、強く心すべきことは唯一つ――栄えある教育者として生きる身に課せられた使命の自覚と、それ故のきびしい闘いのための努力であり研鑽である。わが教育学部が、真に、教育への熱情に燃える真摯な学究徒のみを、敢て求める所以である。

このように、特殊な、しかも大いなる理念を掲げる当学部ではあるが、それは決して従来の師範教育に於けるが如き内容のものではなく、学問による人格陶冶という大学教育の目的は、夫々の専攻学科を通じて何よりも先ず立派に果されている。その充実した学科課程に明らかな通り、広い一般教養の涵養と、深い専門知識の修得とに於て、当学部の持つ性格の特色は、更に顕著に語られている。高等教員の育成を目指す当学部に於て、よき教育者たらんとする者は先ずよき学究の徒でなければならぬとは、創始以来、極めて地味な、しかも着実な学風の中に、大きな伝統の流れとして、続けられてきたところのものである。現有する教育学科、国語国文学科、英語英文学科、社会科の他に、嘗つては地歴科あり数学科あり、更に最近まで併置されていた体育科等に於て輩出した斯界のエキスパートを語るに、われわれは改めて多言の要を認めない。全国の教育界に真摯な活躍を続ける校友すでに数千、公立高等学校校長として教育の要衝に当るもの数十、中等学校校長に及んでは殆んど数うるにたえない程であるのみならず、その高い業績を認められて学界に名をとどめる学究徒としても亦わが教育学部の栄えある歴史を飾る先輩の多きをわれわれは知るのである。しかもこれらの人々は、すべて大いなる学究徒であると同時に、真に力ある教育者であった。その培われた深い学殖は、教育者としての高い人格へと統合され生きた教育実践の場は、常に学究徒としての偉大な業績によって支えられているのである。更に、広く人生の師として、詩人あり作家あり、われわれの辿るべき道のしるべとして、誇るべき先達の偉容を、われわれは極く身近に見出す事ができる。(以下略)

 この文は、教育学部(高等師範部)の歴史と抱負を簡潔に述べたもので、学部成立時の指導理念を読み取ることのできるものである。教育者養成という大筋をあくまで踏まえながら、それが単に技術伝習だけにならぬよう、学究者としての自覚を基礎に次代を担う若者達の教育に当り、その精神を若者に植えつけることを強調している。これは、ともすると教員が教壇での慣れのため新鮮さを失い、少年の心に活力を支えることが少くなることを戒めているとともに、少年に一生が学ぶことであるという教訓を身に付けさせるよう努めなければならぬことを示したものである。

 教育者がおのれの拠るべき専門を持つということは、当学部が期待する中・高等学校教員の資格の一要素であるとの考えが貫かれてきた。これは同種あるいは近縁の学科専攻を持つ学部が大学内にあるのに拘らず、当学部を独自のものと認めた理由でもある。また、大学の教旨にいう「学理を学理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講じ」に相当するものでもある。

 このことは、当学部の学生が各学科における最少必要単位を取って学士の称号を得たとしても、それだけで教員資格を充足するものではないとした基本姿勢にも現れている。教員資格取得には、卒業必要単位外に教職課程課目を履習することが要求される。これについて、学生の一部からは、教育学部であるのだから卒業必要単位の中に教職課目を含めるのが当然ではないかとの意見が何回かに亘って出たが、それは専門の学科を少くすることになり好ましくないので、現行を通すということにしてきたのである。

 尤も、これを裏から考えれば、教職課程課目を全く履習せず、教員を初めから希望していない学生が入学してくることにもなる。この傾向は各学科の学生にあるが、社会科に比較的多い。学科の性格によるのであろうが、広く教育に対する理解と情熱を持ち得て社会に出るのであれば学部としての一応の目的を達したものと考えていい。

 赤松保羅の、この頃を回想した文の中に次のようなものがある。

(前略)新制大学にきり替える時分は、私は高等師範部の部長であった。その前高等師範部は男女共学制に、また初めて「社会科」専攻を新設、もとの「体錬科」を「体育科」に変更等、制度、学科その他困難な革新の実現を、勿論同僚諸君のよき協力によってではあったが、私としてはよいことをしたと大いに自負していた。(中略)

高等師範部を「教育学部」として新制大学に切り替える時、文部省からの審査委員の主任として上原専禄氏(元一橋大学々長)が大学に来られた。上原氏は、早稲田大学には既に文学部があり、それと別個に新たに教育学部設置申請目的と意義について厳しい質問があった。既設の文学部と申請の教育学部とは、形式上でも学科編成、名称等においても殆ど変りなく、教育内容も殆ど同一のものと認められるというのが審査員の認識のようであった。私は高等師範部々長として、また大学理事の一人として、大学側の一委員として審査会場に出席していた。主として上原氏と私との問答となった。私は申請の教育学部は文学部とは専攻学科の名称等、形式的には同一の部分もあるが、内容においては教育理念、目的が全く相違することを説明した。討論の内容を詳しく説明することは紙面の都合で省略するが、要は教育学部の目的は広い意味で教育者の育成にあることを熱心に主張して、結局は審査員の諒解を得た。この間の事情については、当時大学本部の教務部長であった佐々木教授の多大の御援助を感謝して附言して置きたい(下略)(『教育学部報』№10昭和四十九年四月)。

 文中にある佐々木八郎は、次のように思い出を綴っている。

(前略)それが昭和二四年(一九四九)の春、終戦後の新学制によって新制大学が実施されるにあたって、早稲田では一つの問題として、高等師範部の改廃が論議されたのである。これを教員養成の新制学部として改組発展させるか、それともこの際廃校にするかということで熱心な研究と討議がかわされた結果「教育学部」として新発足をすることに決定した。当時の総長島田孝一氏司会のもとに開かれた部科長会議の場での、あの討論の状景は今に忘れることができない。(下略)(『教育学部報』№2、昭和四十四年一月)。

d 「師範」と教育学部

 日本の敗戦によりこの地に進駐した占領軍、ことにアメリカにとっての占領政策中「教育」は主要な課題の一つであった。敗戦の年九月二十日、文部省は、国民学校・中学校・青年学校での教科書の「墨塗り」を指示した。その措置は戦時中の教科書を当座使用しなければならなかったので止むを得なかったのであるが、児童生徒には異様な体験になったのに違いない。

 二十年十二月三十一日、GHQは修身・日本歴史および地理のすべての課程を直ちに中止し、教科書、教師用参考書を回収することを命じてきた。これは、その直前十二月十五日指令してきた国家神道禁止に関連した措置であり、この長文の指令には、日本人の一部の狂信的な国家観を西欧的発想で解釈し、日本人の思想に人類史的危険を痛感した錯覚が含まれていて興味深い。(修身に関しては、文部省はこれを廃し、翌秋、公民科を開設した。地理は、翌六月、GHQから、文部省によって編纂されGHQの承認を得た教科書のみ使用することで再開を許可された。日本歴史についても同様であったが、文部省は、国民学校初等科用新国史教科書として『国のあゆみ』を編み、GHQはこれを認可し、この書を使用することを条件に二十一年十月、授業再開を許可した)。

 この間、二十一年三月五日、GHQの招請により米教育使節団一行が来日、四月七日帰国に当って報告書を発表(三月三十一日付)している。大部のものであり、日本の教育改造に大きな役割を果したものである。日本の教育について詳細に論じ使節団の立場からの批判を行い、改革の要を説いているが、中で、教師の養成教育について述べている項が直接的に当学部に関係する。殊に、師範学校について授業視察などを含めた検討から導き出した勧告には見るべきものがある。また、この報告書の中で、「国語の改革」について言及していることは、それ自体の意義とその後の日本側の国語改造に強い基礎を与えたという両面から注目しなければならない。

 日本に対する占領側の学術・教育についての指示、勧告はその後も各様の形で行われてきた。これらに即応する形での日本側の施策も逐次とられてゆき、教育の新体制が確立しつつあったが、二十五年八月二十七日、第二次米教育使節団が来訪した。第一次は団員二十七人であったが、今回は第一次団員の中の五人が来日した。その報告書は九月二十二日付で発表された。この報告書は、第一次以降における占領政策に応じた日本側の施策の点検と評価、更に再勧告の意を持つものであった。

 この中にも、興味ある報告がなされている。その一つは、急速に増加する人口を適切に教育するために、各県に配置された教師養成機関としての新制大学(旧師範学校を改組したものを意味する)はまだ十分ではなく、教師、設備、計画などに欠けるところがある。また、主要な国立大学の教師養成の学部(教育学部)は、教育指導者を養成するために設置されたのであるが、その面での責任を十分に理解していない。これはやがては、大学院課程をもつ強力な学部に発展させなければならない。また、多くの卒業生を公立学校に送ってきた優秀な私立のカレッジ、大学があるが、その教師養成は引続き継続し向上させるよう奨励すべきである、と述べている。別に国語改革について第一次以上に強く具体的項目をあげて勧告していることが目をひく。

 我が国で、師範学校の名が使われた始まりは、明治五年五月十五日、文部省が、小学教師教導場について自今師範学校と称するよう定め、その月、東京師範学校を開設したことにある。

差向小学師範タルベキ人ヲ生ジ候儀、第一ノ急務ニ有之、旦外国ニ於テモ師範教育所ノ設有、……成業ノ上ハ免許ヲ与へ、速ニ之ヲ採用シ、四方ニ分派シテ小学生徒ノ教師トスベキ事

という趣旨である。

 元来、我が国には教員を養成するという形では見るべきものがなかったので、欧米の教員養成についての研究視察が進められ、それの結実した最初がこの師範学校であった。尤も名称は、初め師表学校と言われていたし、仮称的用語では、小学教師教導場でもあった。

 その後、中学師範学科(校)が生れ、やがて明治十九年、師範学校令の制定により、尋常師範と高等師範に分れたのである。ここで東京師範学校が全国最初の高等師範学校に昇格し、二十六年、嘉納治五郎が校長に就任して以後急速な展開をみせることになった。嘉納の理想は、東京高等師範学校を以て、帝国大学に優る大学として位置づけることにあった。

 しかし、先に述べた通り、現実には大学昇格運動は形を換えて実現することになった。文理科大学である。大正七年十二月に公布された新大学令により、従来専門学校令によって基礎づけられ名称のみ大学と称していた私立大学が、官立大学と同格同等に扱われることになった。早、慶はじめ有力私大でさえこの時を経て法制上は官立大学と同じになったのである。こうした中でも師範大学は実現できなかった。そして別個に昭和四年、東京文理科大学が成立し高師は併設の形を採ることになった。

 早稲田では、明治四十年、それまでに熟した教員養成を具現化するため、一月末日、高等師範科に関する協議会を開き、議決して、四月から大学文学科に高等師範科を置き、西洋史の浮田和民教授を科長に任じていた。

 敗戦後の教育をどのような形で進めるべきかについては、日本内部でも種々論議されたところである。しかし、被占領という絶対的のものに、日本人は、西欧に語り残されているような面従腹背の姿は殆ど見られず、きわめて良く順応した。「きわめて」という言葉は一般的にみて註釈をつけなければならないかも知れない。占領者は巧みに日本人自体の発想である形に導いていったと言い直すこともできよう。戦後の混乱の中で、新制度を発足させることが困難であることを承知しながら、小・中学校については協力良くその実をあげることができたことは教育革新の一つの成功例として世界史上に残るであろう。

 さて、早稲田の改造の中で、高等師範部は、外がそうであるように専門学校として存在していたので、論議が起るのが当然であった。上述の県単位に小学校教員を養成する師範学校も新制度の中で脱皮せざるを得なかった。「師範」という言葉が数十年の師範学校の世間に与えた印象により、既に新時代に適さないものになっていたので、教育、学芸などの名が用いられるようになるが、大本の東京では高等師範さえ文理大の併設校という取扱いである。唯一の拠りどころは、米教育使節団報告に表されている占領政策である。そこには、教育革新の中に、教員養成の緊要性が説かれ、それにふさわしい大学が設置されるべきであるとの勧告がある。新制大学施行に当って専門学校の多くが大学となったのに伴って、旧師範学校も大学になり、東京でも幾多の曲折を経て、教育大学が成立した。早稲田での教育学部の誕生にも多くの人の支援と善意があり、当事者の尽力が実り、私立としては唯一つの「教育」を冠する学部となり得たのである。

 教育学部開設の段階で考えなければならなかったのは、先ず学部の充実であった。国、英の二学科は高等師範部時代の長い伝統を承け継いでいるが、教、社は新設またはそれに近いものであったので、一層その緊急性が論ぜられた。当時の校舎は、旧文学部(現在法学部が使用する八号館)を文学部と併用していたのであるし、教員数も少かった。学内各学部の教員の応援を得、学外からの助力により漸く教科を充足することができていたのである。況んや、かつて存在していた数学、それを含めた理科、それに体育科などを復活し、拡充する、あるいは大学院課程、初等教育課程に相当するにはなお暫く時を待たねばならなかった。

学部創設の頃の教職員(役職・担当科目、○印は専任者))

(昭和二十五年版『早稲田大学一覧』)

2 学部創設時の内容

 学部は、学生、殊に新入学生の便を図って毎年新学期に『教育学部案内』(のち『要項』と改める)を作り、学部・学科の特色から講義要項、科目選択上の注意、卒業論文など教科に関する事項、教育会、学生会など学生に関連する事項、教員一覧などを載せてきた。

 以下、学部創設時の実態を、昭和三十年度までの『要項』を基にして略記しておきたい。

a 教育学科

 教育学科は、学部新設とともに誕生した。昭和二十六年三月発行の『教育学部案内』は、この新しい学科を次のように紹介している。

最も歴史の新しい教育学科は、新時代の教育のあるべき姿、辿るべき方向を具体的な諸問題に亘って研究するもので、教育基本法に明示された教育の根本精神に従いその指針たるべき原理の解明と実践を目標としている。

教育諸般の問題の究明を、所定の学科課程について修了した上、別冊「教職課程案内」に示す若干の科目を履修することによって、社会科の教員(中学校高等学校)への道が開かれているばかりでなく、広く教育行政面に進出する機会が与えられることになっている。

その学科内容にも明らかなように、極めて実際的な教育に関する問題について、積極的な意図の中に、当学部の着実な性格を裏づけて居り、教育学部を表象する一翼として、注目すべき重要な存在となっている。

歴史の新しい専攻科だけに、山積する問題への意慾は殊に烈しく、将来教育界に羽搏く未知数の俊才が、日々、篤実な研究に励んでいる。

 教育学科は、昭和二十七年四月、教育学・教育行政・社会教育の三つの課程に分れた。教育学課程は、教育学および教育史の学術的研究を主眼とし、教育行政課程は、将来教育行政に関する専門職を志すものに基礎的な学理と識見とを授けることを主眼とする。また社会教育課程については、名称上は、高等師範部時代に置かれた社会教育科に類するが、それは社会科の前身であって、ここでは当時急速にその重要性が認められてきた社会教育の各方面、つまり社会教育主事その他の職にあって一般青少年、成人教育を担当する者のための、必要な学理と技術を与えることを目標とした。

 これら三課程を通じ、卒業後の進路として、高等学校、中学校の社会科教員免許状を取得し得るようにし、また、中・高等学校の校長資格、教育長資格、指導主事資格、社会教育主事資格など、更に図書館司書の資格、博物館学芸員の資格などについても、それらに必要な単位の全部もしくは大部分を取得することができるように配慮した。

 教育学科は、小沢恒一教授を中心に原田実教授(兼任)、赤堀孝助教授、更に、本大学専属の教授陣に学外からも斯界の権威を招いて、学部の特異性を明確化する意欲をもって出発した。その一つのあらわれとして、教育史の尾形鶴吉が非常講師(のち教授)として迎えられている。

b 国語国文学科

 国語国文学科は、高等師範部の国漢科の長い伝統を承けて設置されており、既に教育界、学界に多くの俊才を送り出している。

 国語教育という明確な目標を掲げ、「単なる文学評論といった狭い範囲を超え着実な訓詁注釈を基盤に、的確な国語の認識把握と、国文学の正しい理解をモットーとしている」。とかく看過されがちな「正しい古典の読み方」を国文学研究の第一歩とみる伝統的学風によって、十分な実力を持つ学徒を、教壇に、あるいは学界に送り出してきたわけだが、これは、「国語に対する学術的認識なくして、国文学の正しい理解はあり得ない」という伝統的立場を堅持していることになる。この着実な基礎的教育を経て、更には、学生の素質や志向を生かして国語学、国文学のより高等な研究に進ませているが、一方で、新制中学や高等学校の言語、文学両面に亘る国語教育に十二分に対応できる教育者の育成を志すとともに、その基底には、「教育を離れた純然たる国語学研究又は国文学研究のためにも、語学・文学の二面に亘って偏向なき学的基盤を有することは、新時代における学術研究の正しい方向に外ならない」という学問的認識があった。

 「厳然たる風格」を保ってきた高等師範部時代からの優れた漢文の伝統は、いぜん主要な科目としての位置を占めていたが、同時に、厳しい占領軍の国語改革への指示に対抗するために、国語・国文学にかかる真摯な研究の推進が自覚されていた。「当学科の着実な学風の顕揚は正に必須の急務であり」と『学部案内』は言い、「新しい言語生活の正しいあり方に寄与すべく考慮されている国語学、言語学関係の課程が重視」されたことを伝えている。

 中・高等学校の教員養成を主たる目的としているということで、基礎的な古典や国語学の学習が重視されてきたが、時代の要求、学問の進運に呼応して、近代・現代文学への関心理解を深めるべく、この方面の学科目も十分に用意されていった。一般に低下しつつあった漢文の学力をつけるための配慮も厚くなされていた。

 学科配当において高等師範部時代と大きな相違が見られるのは、高等師範部時代が、例えば「源氏物語」「伊勢物語」(竹野長次)、「平家物語」「徒然草」(佐々木八郎)などの如く、個々の作品の訓詁注釈という、教育現場向きの実用的傾向が中心であったのに対して、教育学部になってからは、「古代文学」「中世文学」「近世文学」「近代文学」という学科項目でも明らかなように、文学史の流れの中で作品を把握するという学問的姿勢がより顕著になってきた。

 また、当学科では、比較的容易に、書道や図書館司書等の免許状も取れるようになっているので、卒業生の教育の分野への進出は増加の一途を辿っている。

 なお、卒業生は、教員のほか、新聞、放送、出版など、広く社会の各方面に亘って活躍している。

 教員スタッフとしては、専任教員として竹野長次(上代・中古文学)、佐々木八郎(中世文学)、安藤常次郎(近世文学)、川副国基(近代文学・国語科教育法)、近藤潤治郎(東洋文学)、横井鐐一(同)、湯沢幸吉郎(国語学)、大矢根文次郎(東洋文学)らがおり、文学部との兼担教授として伊藤康安、岩本堅一、稲垣達郎、窪田章一郎、暉峻康隆、福井康順、そして講師の青野季吉、池田亀鑑、岩淵悦太郎、小林英夫、服部嘉香、山本二郎らがこの科の基礎を固めた。

c 英語英文学科

 新しい文化の担い手の資格が語学力において優れたものでなければならないことは、言うまでもない。殊に英語は文化国家の育成に最も大きな役割をもつ。読んで理解し、書き話すことによってその理解の徹底を図る。英語を自由に駆使し、またそれを能率的に教授し得る人材に対する社会の需要はますます増大している。

 しかし、語学の能力が優れているというだけでは文化の創造者としては遙かに遠いものである。「当学科が、英語学・英文学の両面にわたる教材を豊富に用意し、実際的な語学的能力と並行し英米文化の理解を涵養せしめる所以はこの点に存する」。英語教育に専念しようとする者、更に深く英語学・英文学の研究を志す者、またこれを基礎にしてジャーナリズム・放送事業などに進出しようとする者などにも充実した基盤を与えることが当学部の目標である。

 高等師範部時代を継承して新発足した当初、この科の中心となったのは、増田綱、萩原恭平、中西秀男の三教授であった。

 増田綱は当時五十九歳、既に早稲田で三十年近い教員生活を経験していたが、『英語青年』の「高等科和文英訳練習」の担当者として全国的に知られた、「英作文」の権威だった。研究社の『新和英大辞典』(昭和二十九年。勝俣銓吉郎主幹、増田綱編集主任)などでも認められた、温厚篤実な学究者として、学部発足後は専ら英語学や和文英訳などの教育に打ち込み、武信由太郎・勝俣銓吉郎らの先人達によって打ち立てられたこの方面での学業を英語英文学科に伝えることに力を尽した。

 英語英文学科の草創期において、最も意欲的に学科のあるべき姿、ひいては日本での英語教育のあり方といったものを探ろうとしたのは萩原恭平であった。萩原は昭和初年から第二次大戦頃までは、主として『英語青年』などに英文学の研究成果を発表していたが、戦後はThe Current of the Worldの編集に携わる一方、英語教育史に一時期を画した、中学英語教科書Jack and Bettyを出版し、日本の英語教育界における第一人者となった。英語英文学科の初代の主任教授でもあった彼は、日本全国の中・高等学校を廻って「英語の教え方」の指導をし、そこでの体験で得たものを学部の学生に伝えようとした。従来の訳読偏重の英語学習ではなく、思想伝達の手段としての英語を身につけさせようというのがその狙いであり、そのためには先ず「英語を使うことのできる」教員をこの学科において養成しようとしたのであった。

 三人の教授の中で一番年下であった中西秀男は当時四十歳代の終わりで、先輩の二教授を助けて、新学科の運営に努力した。中西は主として文学方面の授業を担当したが、その研究の方法はテキストの正確で綿密な読みに基づいて、作品を批評、鑑賞しようとするもので、いたずらに高踏的言説に走ったり、抽象的理念に埋没することを戒めた。この点で英語英文学科における語学重視という学風は守られていた。教育・研究に加えて中西が果たさねばならなかったもう一つの面は、発足間もない学科の授業を円滑に行うため、カリキュラムの編成その他のルール作りと教授陣容の整備ということであった。この点に関しては実務的な点にはやや積極的でなかった他の二人の教授に代って、中西は学部の教務主任、二代目の学科主任および大学の理事などを歴任して、単に英語英文学科の発展だけでなく、教育学部の発展にも大いに貢献した。

 これらの三教授以外にも、高等師範部時代から引き続いて、英文学史を担当した大和資雄や詩劇研究の尾島庄太郎、文学論の青野季吉、言語学の小林英夫らが出講し、若手の専任教員としては文法・修辞の西尾孝、米語研究、音声学の五十嵐新次郎らがいた。また昭和二十六年には聖書研究の西江定が、翌年には英語学・英作文の新島通弘が専任として招かれた。二十八年にアメリカ文学の竜口直太郎、英作文の中尾清秋が専任となり、次いで矢島正治、本村潔らが加わり、学科創設当時の外国人講師トマス・ライエルの欠けたあとを戦後初の専任客員教授としてバートン・E・マーチンが迎えられ、初期の英語英文学科の教授陣はほぼ完成されたのであった。なお当時の助手に上田稔、副手に橋本宏(共に現教授)がいた。

d 社会科

 「経済学・社会学・地理学・歴史学等をそれぞれ独立した学科として習得するに止まらず、広く社会一般に亘る諸問題を研究して、実際の社会生活に役立つ総合的な能力を養成するのが社会科の理想である。」

 社会科は、中学校教員免許状「社会」に対応する名称であるが、学校教育のみならず対象を広くとり、実際的な社会教育の場に及ぶように配慮した。しかし「この理想はきわめて広汎な内容を含み、学生はややもすれば中心的方向を見失う虞れがある」ので、学生の卒業後の進路をも考慮して、昭和二十七年度から地理歴史課程と社会科学課程に分けた。前者は形の上では明治三十五年九月に専門部に歴史地理科が置かれたものに通ずるものであり、この設置は、翌三十六年度から組織改正によって、国語漢文科、法制経済科と並んで歴史地理科を加えた高等師範部が設置された時に継続された。なお、四科のうち法制経済科は高等師範部が大学部に編入され師範科と改称した明治四十年度に廃止された。更に翌四十一年の組織改正により大学部師範科を廃止して文学科に編入、その文学科に史学科、和漢文学科、英文学科(第一部・第二部)哲学科が置かれた。重ねて明治四十三年に組織改正があり、高等師範部第一・第二部が置かれ、その第一部に、国語漢文及歴史科、英語及歴史科が設置された。その内容は科名が示すように、それぞれの語学文学の背景を理解することを主とする意味が強く、やがて大正二年には、高等師範部第一部を国語漢文科、英語科の二科に改めている。

 新設の地理歴史課程では、両学科についての基礎的知識を修得しその上に専門の学を通じて「高等の世界観を涵養せしめる」よう配慮した。これは中・高等学校における社会科教育に適応する教員の養成を主な目標としたことに併せて、深く専門の学を専攻する学生についても基礎づけをするようにという措置である。

 社会科学課程では、政治学・経済学・法律学を中心に関連諸科目を配置し、社会科学を綜合的に修得せしめ、「社会」担当の教員としてばかりでなく、広く社会人としての高度の教養を得させることを図った。このためジャーナリズム、放送事業等に進む者の数も比較的多いという特色を示すようになっていった。

 学部全般を通じて言えることであるが、設置当初は少数の専任者であったので、学内各学部の教授の積極的支援を得て学科編成を行った。これは学部の性格上も止むを得ぬことであったし、殊に各教科の教員免許状を取得させるための教職課程を学部に併置することになっていたので、そのためにも学内外の支援のもとに学科編成をせざるを得なかったのである。

 これは、新設の社会科の場合、殊に著しいことであった。いわば社会科学系列諸学の専門学者の総掛によってこの科が成立していると言っても過言ではなかった。やがて国際関係論に法律学の石田英雄、経済学に山岡喜久男、新聞学に安井俊雄を専任として迎え、政治学専任の服部弁之助教授とともに社会科学系の中心として、また地理歴史系統では、地理学の竹内常行、歴史学の熊谷幸次郎を迎え、人類学の西村正衛の参加があって次の展開に向かって前進することになった。

 なお、旧制度として存続していた高等師範部は、昭和二十六年五月を以て廃校し、教育学科に置かれていた教育行政課程については、昭和三十一年度から学生募集を中止した。

 また、前述のように教員関係の諸資格のほか図書館司書、博物館学芸員の資格取得のための関係科目についても昭和二十八年、三十二年度にかけて充実し、視聴覚教室も昭和二十七年学部内に開設した。この教室では希望者を募集して実習を十一月から開始した。図書館司書および博物館学芸員の資格取得科目のそれぞれの関連科目は、二十四年度より開設されたが、司書については二十八年度より、学芸員については二十九年度より資格科目を設置した。それぞれの取得者を初めて出したのは、司書が三十二年三月、学芸員が三十三年三月である。

第八十七表 教育学部学科配当表(昭和二十六年度)

e 学部建物の変遷

 戦争末期、学苑内の事務を簡素化するために、各部科の事務所を集め旧文学部校舎(現八号館)内に統合事務所(主任、大塚芳忠)を開設した。この校舎は、昭和六年五月に落成したもので、文学部が主として使用していた。かつて大学が偉容を誇った建物群の一つである大講堂のあった場所であるが、関東大震災でその煉瓦造り二本煙筒の建物が無惨に崩壊したので、同じく被災し傾斜した上、外壁を大破した文学部教室をそのあとへ移築した。この創設時の木造二階建の文学部校舎は、のちの新校舎建築によって解体を余儀なくされるわけだが、由緒の深いものなのでその主要部分を東伏見運動場に移した。グリーンハウスと呼ばれて、今も古い早稲田の面影を伝えて保存されている。

 教育学部発足時まで、高等師範部は文学部校舎の二階にあったのだが、新発足を機に現一号館(当時二号館)に移り法学部と同居することになった。もともとこの建物の地は、旧高等師範部の木造二階建と専門部の木造三階建のあった場所で、昭和九年四月起工した現建物が十年六月完工し、高等師範部と専門部が使用していたものであった。移転に当って一・三階を法、二・四階を教、地階と屋根部屋を共用とした。

 正門の階段を登ってすぐ右側、当時学部校舎としては最大の建物であった現一号館での学部運営が十数年続いた。昭和三十七年四月、旧第一高等学院木造校舎群が第一陸軍病院に貸与したまま被災焼失した跡に造られた運動場を更に転用した文学部新校舎(戸山町校舎)が斬新な姿で完成し、移転したので、そのあとを単独使用することになった。

 その後、理工学部校舎の西大久保への新築移転に伴い、昭和四十一年、旧第二高等学院校舎(一四号館)のうしろを整理し、ここに第一六号館を建設することになった。この新館は一四号館と併せて教育学部と社会科学部の併用にするとの案が本部側にあったが、校舎について長い間不自由な思いを強いられていた教育学部の単独使用を学部側が強く申入れ、それが容れられて第一六号館は教育学部、第一四号館を社会科学部とし、一四号館の一部を教育学部で使用することに決定、両館の間に渡橋を新設置した。なお、一六号館隣り北門側の旧三神記念庭球コートに戦後の復興建物として造られた理工学部使用のモルタル塗三階建の校舎を取払った跡には第一五号館が建ち、その一部も教育学部が使用することになった。

 新校舎への移転は、四十二年二月に行われた。新館は二階に学部長室、各主任室、事務室、会議室、書道室などを置き、三階から五階までを教室、六階以上十階までを研究室とした。

3 学部設置時における学生の動向

a 学生会の誕生

 敗戦の秋、大学には、日を追って学生が帰ってきた。二十年九月八日、総長代行中野登美雄による全学生への訓話があって、大学の授業が再開された。高等師範部の学生が何人いたかの記録はない。大学にとっては建物の三分の一を失っており、教職員についても戦争末期職を辞した者、疎開して在京しない者などがあり、教育環境は不十分なものであった。学生も書籍、学用品の不足だけでなく、その日の食事、宿舎にも困難な状態であり、そこへ復員学生の帰還、他校からの転入などが加わり、すべてに困窮した時代であった。

 翌年春、高等師範部では、新事態に即応するため既述のように社会教育科を新設、各科を男女共学にした。大学の活動は、万事不足の中でも最大限の努力を尽くす覚悟で開始されていたし、学生もこれに応じ、例えば学生共済会の結成などで示された相互扶助の精神が各所に見られた。ある意味では人間性の最も良く発揮された時期でもあった。

 高等師範部には、以前から「学友会」の組織があった。これは教職員と学生全員に卒業生の希望者を含めた会で、親睦と研究を目的としていた。ただし全学生の自動的加入であるので、その運営には学生が当り、総務、刊行(『早稲田教育』等の刊行)、図書、研究(サークル活動)の諸部があった。

 一方、大学は、二十一年六月、学生自治会規定起草委員会を置いて慎重に審議し、翌二十二年三月、部科長会で規程を承認し、次いで教職員学生協議会規程を六月に施行した。この二つの規定による学生自治会は、各学部学生から選出された委員により中央委員会を組織し、更にその中から中央執行委員会を約三十名選び執行機関とするものであり、別に自治議会を持ち衆議するものであった。また学生自治は当然大学行政と関係するので、教職員と学生との共通の場を作り協議することにより意思の疎通を図り円滑な運営を期すために上述の協議員が置かれたのであった。

 復員学生を含め当時の学生層は多彩であったが、学生自治は活発な中にもルールを守ろうとする考えが強く、当初は、敗戦後の荒れ果てた学苑の復活を期す大学の姿勢に相応する姿勢があった。しかし、国立大学の授業料値上げに端を発した学費闘争が、教育復興闘争として全国的に拡大し、その波が本大学に及ぶに至って、自治議会の度重なる流会など次第に荒々しい様相を呈するようになってきた。自治会は苦悩しつつもストライキ闘争などを契機に次第に分裂状態を深め、これを離脱する学生も出てきた。こうした事態を見て大学は、新制学部学生については、従来の諸規程を適用せず、「早急に新旧の学生の代表を加えて適当な委員会を設け、起案の上新たにこれを制定する予定である」と告示した(昭和二十四年四月十五日)。

 高等師範部時代の自治会の混迷をそのまま抱え込む恰好になった教育学部では、学部発足により旧中央組織から離れて、新たに学部自治組織を編成するため、先ず各学科学年から二十五人に一人の割合で選出する暫定委員の選挙をした。この暫定委員会は同年五月二十日成立し、学部教員との間に教員学生懇談会を開き、意思の疎通を図ることになった。この協議会は何回かもたれ、学部長、教務主任、副主任のほか教員も何名かが出席し、学生側委員と協議を重ねた。そしてその間に、学生生活に密着して活動してきた学友会と合併しての学生会構想が生れた。こうして同年九月十二日に学生側による学生会規則起草委員会が暫定委員の互選により数名選出され、学友会側代表との約半年に及ぶ慎重な協議の結果、新たな学生会規則案が作成された。これは、翌二十五年六月二十七日の暫定委員会で採択され、学部教授会の賛同も得て、二十五年十二月七日成立した。

早稲田大学教育学部学生会規則

第一章 総則

一 本会は早稲田大学教育学部学生会と称する。

二 本会は会員の自主的な協同生活の充実、相互研究の助成を目的とする。

三 教育学部学生はすべて本会会員とし、その全員をもつて、本会を組織する。

四 本会に次の役員を置く。

① 学生委員

② 代議員

五 本会の事務所はこれを教育学部内に置く。

第二章 組織

六①  本会の決議機関として役員総会を置き学生委員、代議員をもつてこれを構成する。

② 役員総会は本会員の予算の審議、決算の承認、本規則の改正その他重要な事項について決議する。

七 役員総会は次の場合に事前に学部長の承認を得て学生委員会委員長が召集する。その議事と日時とは開会の四日前に公示することを原則とする。

① 学生委員会が要求したとき。

② 代議員総数の三分の一又は会員の五分の一以上が要求したとき、但し、同一の議題については一回に限る。

③ その他学部長が要求したとき。

八 役員総会の決議の執行に関しては学部長の承認を要する。

九 ① 役員総会の定足数は役員の過半数とし、その過半数をもつて決する。

② 前項の決議事項は必ずこれを公示する。

一〇 本会の常務機関として学生委員会を置き学生委員をもつて組織する。

一一 学生委員会は毎月一回委員長が召集する。但し、委員長の必要と認めたとき及び委員の五分の一以上の要求があるときは、臨時委員会を召集しなければならない。

一二 学生委員会の定足数は委員総数の三分の一以上とし、この規則に特別の定めのある場合のほかは、議事は過半数をもつて決する。

一三 学生委員会は本大学内の他学部の学生自治団体と連絡し、必要あるときは協議機関を設けることができる。

一四 本会の事業を行うために次の部を置く。各部は学生委員全員及び学生委員会で会員中から推薦したものをもつて構成する。

① 総務部

② 渉外部

③ 図書部

④ 刊行部

⑤ 研究部

⑥ 厚生部

⑦ 会計部

一五 前項各部の細則は別に定める。

第三章 役員

一六 特に定めるのほか本会役員の選挙は毎年度始めに行い、役員の任期は次年度の役員が選挙されるまでとする。

一七 役員は次の場合に資格を失う。

A 選挙人の過半数が不信任を表明したとき。

B 所属する機関の構成委員中、過半数が不信任を表明したとき。

C 選挙人及び所属機関がその辞任を認めたとき。

一八 学生委員は原則として各級において二十五名につき一名の割合をもつて選挙し、学生委員会を組織する。

一九 学生委員会は正副委員長を互選で学生委員から選挙する。

二〇 代議員は次の割合をもつて選挙する。

① 各級において会員二十五名につき一名。

② 研究部に所属する各研究会において学生委員以外のもの一名。

二一 第十四条に規定した各部(但し研究部を除く)における学生委員以外の各部二名以内に限り役員総会に出席し発言する事ができる。

二二 役員総会の議長は、その都度役員総会で選挙する。

第四章 会計

二三 本会の経常費は会費、寄附、学校からの補助金とする。次年度の会費は毎年度末の役員総会が決定する。

二四 学生委員会は毎会計年度末迄に、役員総会に予算を提出する。決算報告は次年度五月末日迄に役員総会に提出し承認を求める。

二五 会計年度は毎年四月一日に始まり翌年の三月三十一日に終る。

二六 会計は学生委員会会計部が管理し、学部長が監査する。

附則 本規則は昭和二十五年十二月七日から施行する。

 昭和二十五年十二月七日は、教育学部にとって記念すべき日になった。大隈講堂の入口には、「教育学部祭」という大きな看板が立った。学生会発会を記念して学生会が主催した催しだった。その内容は次の通り。

第一部(午前十時)

開会の辞 島田繁

経過報告 榎本隆司

挨拶 赤松学部長

挨拶 高橋碞

祝辞 総長

第二部(午前十一時)

講演

〝おんがく〟について 含宙軒夢声

放送春秋 和田信賢

 第三部は、学生による劇「初恋」(村山和義作)、早大混声合唱団による「合唱」に加えて、上田仁指揮による東宝交響楽団(バイオリン、小林健次)の「新世界より」その他の演奏を午後五時までの予定で組み、斎藤和哉の閉会の辞で散会した。

 準備委員長を務めた高橋碞(社会科)は、この日に寄せて「(前略)この日われわれは、わが早稲田の教育精神を省み、その光栄ある歴史と伝統に生きんことを、こころから誓ふものである」と記している。

 学生会は、旧自治会と学友会との合併によって成ったが、実際の情況からすると、行き詰った自治会が、学生生活の上に着実に立っていた学友会に合流を求めた観がある。そのことは、その発会を記念する教育学部祭が、学友会出身者の主導する形で進められている事実が立証している。初代の委員長には当時英語英文学科の三年で自治会の副委員長であった島田繁が選ばれているが、これは、総務を担当し学友会を代表して自治会側との交渉にも当ってきた国語国文学科四年の榎本隆司が、初め推されたのを卒業期の故を以て辞退した結果であった。

 ともあれ、それは、戦後の学生運動の一つの転換期だった。模索する学生運動の実態を、例えば島田繁は『早稲田教育』第四号(昭和二十五年十二月七日)に「学生会発会に際して」と題する中で、次のように伝えている。

我が教育学部が、全早大の自治会を離れて、単独の自治組織を作らねばならなかった主なる理由は次の二つである。その一つは、学生自治の限界と、学園の自由と、自治との問題であり、他の一つは本来の学生自治そのものの在り方ということに対する問題である。我々は、大学の自由、学問研究の自由を守り、且つ守りつゝ幾多の学生生活上の諸問題を処理して行くことが学生運動の本質だと考えている。従って学内に於ける学生運動は、他の如何なる者にも支配されぬ学生のみの全く自主的な活動でなければならぬ。特定政党の支配下にあって或る種の政治的目的を遂行せんとする為の運動は、明らかに学生運動の限界を超えている。それを排撃しつゝ正しき学生の総意の上に立って、健全なる諸般の自治活動を行う事が本来の学生運動でなければならないのである。(下略)

 また第二代の委員長を務めた岡田芳朗は、『教育学部報』№3に執筆の「教育学部学生会成立に至る経過」の中でこう述べている。

教育学部学生会結成に至った動機は、中央集権的独善的な早大学生自治会、なかんずく中央執行委員会の政治闘争中心主義への反省にあった。したがって、学生会の基本的性格は、教育学部学生に直接関係のある、自主的協同生活の充実と、相互研究の助成を目的とし、学部自治活動の独立性を維持することにあった。(中略)また委員の独善独断を防止するため広く代議員を公選して、両者あわせて最高議決機関である役員総会を構成するなど、真に民主的にして最高学府の学生自治会にふさわしい形態を備えたものであった。

本学生会の誕生に促がされて、政経、商両学部にもほぼ同形態の学生会の発足をみるに至った。

 注として、「学生大会を最高議決機関としなかったのは、ややもすると煽動的言説に動かれやすいことと(規定を作った場合)定足数を確保していくことが困難だからである」といった記述が見られるのは、いろいろ考えさせられるが、やはり当時の事情を伝えるものとして興味深い。

 遡って、この年(二十五年)五月十五日、教育学部学生自治会(学生会成立前の組織)は、次の声明を全学に向けて発表している。

一、教育学部学生自治会は、中央集権制度に依る全学自治会の組織より脱退する

二、本学部単独の自治会を組織する

三、全学共通の諸問題に関しては協議機関を設けて他学部と連絡する

(『早稲田教育』第四号 昭和二十五年十二月七日)

 この声明により、上述の経過を経て学部学生会が成立したのであるが、この間の経緯を多少補足説明する要があろう。

 昭和二十二年三月に部科長会(現在の学部長会に相当する)で承認された「学生自治会規定」は、この種の規定としては内外で評価を得たものであったが、実施してみると中央執行委員会(委員長、副委員長および中執委三十名で構成)の過半数を獲得する一つの派があれば全体を制することができるため問題を起すことになった。こうして自治議会は混迷し、ある時は議場から理工学部委員全員が退場し、また、ある時は一学部が当初から欠席戦術に出て流会になるなど審議ができない状態が続いた。一方中執委は尖鋭の度を増した。この頃教育復興闘争が学内に波及してきて、遂に二十三年六月二十九日には理工学部学生自治会を除いて(同自治会は不参加を決議)一日ストを実施するに至った。十月に入って一部試験ボイコットなどがあり学内は動揺した。

 こうした事態の打開のため、大学は新制学部開設とともに新制学部学生については、別個に審議決定する学生自治組織に所属させるよう決意し、上述の二十四年四月十五日付の告示になったのである。

 なお、この告示発表前、三月七日教職員代表と自治会学生代表で構成する改正小委員会に自治会中央委員会から提出された改正案が付議され若干の修正の上、三月九日の教職員学生協議会に提出された。ところが、この会議には、部科長会の議を経て提出された「学生自治組織研究委員会」についての報告が予定されており、この両者の先議について紛糾し、約一時間半後、議長平田富太郎教授の退席という事態に陥った。その後小憩を経て教職員側は事態収拾のため副議長逸見広教授を議長代行とすることを諮り一同了承の上再開することになった。しかし、自治会側は依然改正案先議を強調し、ために議長は、これを部科長会に報告することを約して夕方閉会した。

 続いて三月十二日、臨時部科長会が開かれ、上述の事項の報告の後、審議に入り、種々討議の上、自治会規程第三条「本会は、本大学学生全員をもってこれを組織する」に但し書を加え「但し、新制学部および附属学校に属する学生は省く」を付加することを了承したが、同十四日の自治会側代表と理事側との会見の結果、大学はこの但し書を規程中には明文化せず別の措置を採ることにした。四月七日の理事会、同九日の部科長会で、この趣旨を大学の方針として公示することになり、前記の「告示」が示されたのである。

 以上の経過により教育学部学生自治会の声明が発表されたのであるが、この間、学生運動は次第に過激化していった。教育復興闘争から私学法反対(これらについては大学も反対声明を出したが)を経てレッドパージ反対闘争へと推移した。殊にGHQ大学教育顧問イールズが来日するに及んで全学連は総力を挙げてレッドパージ問題に取組み尖鋭化した行動をとり続けた(イールズは本大学にも来校したがこの時は問題は起らなかった)。

 二十四年秋になって、レッドパージ反対闘争は、学生自治会(旧制)中執委の指導で更に急速に過激化し、九月二十八日午後、大学の使用禁止の通告にも拘らず扉を押し開き、約二千五百名を講堂内に集め全学学生大会と称して集会を強行した。この中にはおよそ一千名の学外者が参加していたが他大学学生ばかりでなく相当の年配者が加わっていた。この日は、約六百名の警官隊が路上に集結し、やがて講堂内から出てデモに移った学生側との間に小ぜり合いを生じ、警官隊も学内に、大学への通告なしに侵入した。

 その後も学内や他大学での運動が続き、前期試験の妨害などの混乱があったが、十月十七日、外部者を多数交えた集会を大学中央校庭で開き、続いて大隈講堂に侵入、気勢をあげた後、構内に入り、そのうちの二百数十名が、折から本部会議室で開会中の学部長会に乱入した。大学はこれに対して警察に出動を要請した。学生達は折から取り壊し中の恩賜記念館の煉瓦片などを警官隊に向って投げたので、百四十三名(うち早大生は百三名)が検束され、学生、警官隊双方合せて数十名の重軽傷者を出すという不祥事になった。

 こうした学生自治会を中心とする学内の混迷の中で、教育学部での新自治組織結成への努力がなされていたのである。

b 学生会の活動

 昭和二十五年十二月七日大隈講堂で発会した学部学生会は、その翌年も同日、大講堂で第二回の「教育学部祭」を挙行している。今回は近衛秀麿指揮のシューベルトの「未完成」などが演奏された(第三回の学部祭は、大学七十周年を記念して翌年十二月四日、大講堂で開催、学生による英語劇(学部ESA)、合唱(混声合唱団)、学生劇(演劇研究会)その他が上演された)。

 学生会の活動は、成立前後きわめて活発に行われていた。殊に上述のような学内情勢の中で独自の自治組織を持ったのであるから委員諸君の意気込みにも自ずから盛んなものがあった。前後するが、その頃の日常を述懐した榎本隆司、岡田芳朗の文(『学部報』№10 昭和四十九年四月一日)に次のような部分がある。

教室には雨が降り込んできた。オーバーの襟を立てての受講である。石油不足なんてものではない。近在の級友が、五十本束の煙草を買って来る。たばこといったって何の葉だかわからない。とにかく、煙の出る草を巻いてあったことだけはたしかだった。酒造り屋の息子が持ち込んだ上澄みを喫茶店で飲んだりもした。クラス会は、さつまいもにお茶だった。(榎本)

食堂で飯を喰うには外食券が、パンやソバには麵類券が必要だった食糧難の時代だったから、当時イモだったか野菜だったか一面に植えてあった大隈庭園へ、持参した粗末な弁当や焼イモを食べに行った。

生活は苦しく、服装も惨めだった。なかにはぱりっとした学生服の者もいたが、よれよれの軍服姿もいたし、おやじの背広を仕立直したのだとか、何やら得体の知れぬものを着ている者もあった。僕自身革靴が買えなくて、四年間の大半を運動靴と下駄で通してしまった。(岡田)

 それでも学生達は精魂を尽くしたといってよい。学生委員会は、『学生会ニュース』を発行した。前身は『自治会ニュース』である。共に粗末な半紙半分にガリ版で印刷したものである。ニュース第一号に、岡田委員長の警告が載っている。それは、第九回学生委員会(昭和二十六年九月六日)で、代議員は委任状出席を認める旨を決議したのに対するもので、このようなことは教育学部学生の自治精神の欠如を内外に示すものであるから速やかに撤回されたい、というものである。代議員は学生委員と同様、各級二十五名について一名を選出し、それに各研究会から一名を加えた編成である。

 『学生会ニュース』第二号(昭和二十六年九月二十五日)は半紙一枚表裏を使ったガリ版刷りであるが、それによると、第一号で予告されていた学生役員総会(学生委員と代議員を合せたもの)が九月二十一日地下学生委員会室で開かれたが、出席者四十六名で定足数に達せず流会となり、十月三十日開催予定の学部祭が実施できぬほか幾つか予定した議事がすべて流れたことを報じている。二年前の学生会創設時の熱意が早くも失われ始めたことを物語っており、学生の自治への熱意を知る上で興味深いものがある。

 学生会の行事として定例の一つに新入生歓迎会がある。甘泉園を使ってガーデンパーティーの形で行うもので、教職員学生が晩春の一日を野外で共に語り共に歌う楽しいものであった。

 学生会には研究部があり、研究部の各会は、高等師範部時代から各学科に直結する課外活動であることを原則とする点で学部の特色を出している。それらの会について略記しておきたい。

教育学研究会

教育学科を背景にするが、教育の理念と実際に関する研究などについて国・英・社の学生に広く呼びかけている。

社会教育研究会

社会教育の分野は広いので、専攻学科との関連で毎週の研究会を進めている。殊に青年教育の問題、農村社会における教育問題などにつき討論を進めている。社会教育を現場で知るための合宿勉強会は、一週間の合宿で、面接調査、座談会、交歓会、子供会を通じ、殊に農村、工場の青年の考えを知ることに意義を感じた。

国文学会

上代班、平安班、……現代班など時代の特色により、また国語学班、芸能班など種別により併せて十数班をつくり、それぞれ先生方と一体となりゼミの形で幅広く研究を進めていた。

英米文学研究会

作家研究を主とするが、作品を通じて作家の思想、背景をもお互に話合い、本題を離れて人生論、社会論、恋愛論にまで及ぶのが常である。秋のハイキング、自分の研究のまとめなどをする。英米文学を通じて幅の広い人間に成長するのが一つの目標である。

ESA

英会話技術の習得を第一の目標とする。この国際語を通じて国際政治および経済の檜舞台で日本の真の独立と発展のために活躍しようという若人、自分の思想感情を自由に表現できる「話す英語――生きた英語」の必要を強く認識しその習得に努力する。

地理学研究会

地理一般の知識を修得するため、読書会、野外に出て直接土地に接する巡検、夏休みを利用する合宿による共同調査、年二回の研究発表会など多くの行事を持ち、自然地理、農業地理、経済地理、集落地理などの部会に分れる。しかし、勉強ばかりの会ではなく、共に音楽を聞き、映画を観、スポーツを楽しむ地理研である。

歴史学研究会

話合い討論し、さまざまな問題に共に対処しながら歴史を研究する。各時代、地域の歴史事象につき、資料を調べ、読書会を開く。共同研究のための校外調査も計画している。

社会科学研究会

政治、経済、ジャーナリズム、現代イデオロギーを正しく把握するための哲学部会など各分野に分れ、各人の研究から大々的なシンポジュームまで計画している。社会を正しく見つめ、自ら社会発展の一員となる一つの道、それがこの研究会の存在価値である。

なかま(演劇研究会)

演劇活動を通し大学生活をより有意義にし演劇を広く学生諸君に理解して貰おうという。春秋の公演を予定し、別に部員の親睦のため旅行登山などを計画している。

混声合唱団(教育学部音楽研究会)

戦後逸早く高等師範部の同好の者が集って創立した音楽団体である。学部としては音楽を持つことが必要でもあるが、機が熟さないので、教員学生の有志で開始した。混声は各大学を通じて数が少いので、他学部の入会希望も多く、全学的規模に発展しつつある。

 学友会が自治会と合流する直前、昭和二十五年の新学期四月十日『つくし』第一号が発行された。第二号は六月一日、第三号は十月一日刊行されている。この十二月に学友、自治両会が合併したので三号で終った。

 『つくし』は高橋碞の命名による。

雪が溶けて黒土が温味をもつようになると、つくしは地殻を破って、その可愛い頭をもたげはじめる。そしてうららかな春の日射しを天の乳房から吸って、すくすくと伸びて行く。

わが国教育界も、そう何時迄も混迷を続けておれない。そろそろ頭を出して、暖い春風に伸びてゆかねばならない。地味な、土臭い植物ではあるが、それでも〝つくし〟には、ほのぼのとした温い希望と歓喜とが満ちあふれている。(下略)

 第一号巻頭には、赤松学部長の発刊の辞「教育の獅子吼」、高瀬荘太郎文相の「教育を通じ偉業完成へ」そのほか、原田実、小沢恒一、萩原恭平、戸川行男、河竹繁俊ら諸教授の文が載せられている。

 半紙半截版横長にして縦組四段一〇―一二頁。編集に当った学生は楽しみ忙しくこの冊子を作ったのであろう。いずれにしても敗戦後の混迷の中の学生の一つの姿をこの小冊子に見ることができる。

学生会予決算

 昭和二十五年度決算と二十六年度予算を次に掲げておく。旧学生自治会会計を受け継いだので内容を整頓しにくか

第八十八表 教育学部学生会決算報告(昭和二十五年度)

第八十九表 教育学部学生会予算(昭和二十六年度)

第九十表 教育学部学生数(昭和二十六年度)

ったのであろう。二十六年度の学生数は表にあるように総員千五百二十七名、入会員二百円、会費五百円その他の収入をいれて歳入総額八十八万円ほどである。

4 整備と拡充

a 学科・課程(専修)の充実と増改廃

ア 教育学科教育行政課程

 昭和二十四年四月、国語国文学科・英語英文学科・社会科とともに、教育学部を構成する一科として発足した教育学科は、二十七年四月から、教育学課程・教育行政課程・社会教育課程の三課程に分化した。この時、特に教育行政課程が設置された理由は、次のようなものであったと考えられる。既に旧高等師範部時代から教育界に送り出された人材は数千の多きを数え、中・高等学校長をはじめ要職にあって各地教育界の推進力となっている先輩も少くない。官学支配の斯界にあってここまでになるのは並大抵の労苦ではなかった。それだけに、その後継者を育成することが喫緊事として求められているという認識に基づくものであったと思われる。

 昭和二十二年七月に指導主事が設置され、二十三年七月の教育委員会法によって教育長が置かれ、これに校長を加えた三種の免許制度がこれまであったが、教育行政の簡素化からこれが廃止され、やがて校長・教育長・指導主事は、二十九年六月に改正された教育公務員特例法の中で、任用資格として規定されることとなる。この動向を逸早く察知し、特に大学において直接養成できる教育長・指導主事は、文部省令の定める最低単位の履修に止まることなく、寧ろ積極的に課程を設けて教育行政担当者を養成すべきであるとの考えに立ったわけである。「将来教育行政に関する専門職たらんとする者に基礎的学理と識見とを授けることを主眼とする」との目的を掲げた所以である。

 こうして、二十七年四月の入学者は勿論、二・三年度生として在学する教育学科の学生は、その希望によって三課程のいずれかに属することになったが、当時、教育行政課程の責任的地位にあったのは小沢恒一教授であり、次いで長谷川亀太郎教授(前富山大学教育学部長)であった。非常勤講師としては、村上俊亮(東京学芸大学長・国立教育研究所長)らが招かれた。二十九年三月、最初の卒業生三十六名を送り出しているが、教育学と社会教育の両課程が八名と十五名であったことからしても、この課程に寄せる期待が大きかったことが窺われる。

 ところがその後、教育委員会法の全面改正があり、昭和三十一年六月に「地方教育行政の組織および運営に関する法律」が公布施行され、同時に再度・教育公務員特例法の改正があって、前述の校長・教育長・指導主事の資格制度も廃止されることになった。その結果、大学に特にこの課程を設ける意義も稀薄になった。そこで、三十一年度から学生募集を停止し、在学生の卒業を俟って廃止するとの断が下された。

 年度別卒業生数は第百二表(一〇一五頁)の通りで、計百四十六名を送り出しているが、この課程の歴史は前後七年の短い間で終った。形式的には教育学科は昭和三十二年度から教育学と社会教育の二課程で構成されることになった。教育行政課程のカリキュラム中、特に必修科目は次表の通りで、その廃止に至るまで基本的には殆ど変っていない。

第九十一表 教育学部教育学科教育行政課程専門科目(昭和二十七年度)

イ 教育学科社会教育課程

 教育学科に社会教育課程が置かれたのは、昭和二十七年四月のことであるが、その直接の契機となったのは、二十六年お茶の水女子大学で開かれたIFEL(Institute for Education Leadership)である。IFELは、占領軍によって、新しい教育政策の徹底を目的に、昭和二十三年から二十六年まで、日本の教育指導者を対象として行われた講習会である。

 主任講師はすべて米本土からきた大学の教授クラスであり、その補助としてCIE(Civil Information and Education)の係官、日本政府の係官、国立大学の教授が当り、全国から選ばれた教育指導者に対し六週間から十二週間の指導が行われた。かなり大がかりなもので、各セクションごとに関係図書二百冊くらいを持つというほどのものであった。第一回から四回までは、主として新教育制度に対する行政組織の整備を目的とした講習であり、第五回・第六回は教職員の養成に関することと再教育に関することが主であった。新教育の実施に当って欠くことのできない理論・資料と技術の修錬が中心で、それぞれ各分野における研究集会の形が採られた。

 例えば、成人教育コースは六週間で、昭和二十六年二月十九日から三月三十日まで行われた。たまたまこの年の二月一日に開かれた第十国会で、社会教育法の一部改正が行われたが、この改正で最も重要なものは社会教育主事に関する条項であった。社会教育主事制度は戦前にもあり、戦後、社会教育の復活と同時に、各都道府県は勿論、市町村にも置かれたが、いずれも一種の自由任用であり、その資格・職務内容も明確でなかった。このたびの改正は、社会教育主事の資格、任用、職務内容について規定したのであるが、従来からの社会教育主事に対し、新たに資格を付与するための講習をどうするか、将来、大学において養成する場合のカリキュラムをどうするか等の重要な問題は残されたままだった。そして、特に早急に実施しなければならない大学における社会教育主事養成講習会のカリキュラムを作成することが、実はこのコースの狙いだった。

 参加者は全国の大学側から十三名、都道府県から社会教育課長など十四名、社会教育連合会から滝口宏が参加し、計二十八名であった。早稲田大学からは、伊藤道機がメンバーとして加わっていた。

 IFELでの研究は、現に社会教育主事の職にある者に対する資格付与のための再教育と、新たに社会教育主事を養成するための大学におけるカリキュラム案の作成という、二つの作業が同時に進められた。このコースの主任講師はペンシルバニア大学教授のコロン博士であり、そのほか文部省から二人の視学官、一人の大学教授が補佐として討議に加わり、最後に現行の社会教育法で規定したものと殆ど同じような報告がまとめられた。すなわち、社会教育主事の資格は、一つは一定の資格、教員免許状を持つ者、社会教育関係事業に携っている者に対して、大学の養成講習会において所定の単位を取った者、もう一つは大学において六十二単位以上を修得し、且つ文部省令の定める社会教育に関する科目の単位を修得した者で一年以上社会教育主事補の職に在った者、この二つが大体の基礎資格となった。

 しかし問題は、大学専修課程として設置することは大変難しい、即ち文部省令で定める社会教育に関する科目を担当する教員組織であり、当時どの大学にも殆どその適格者がいなかったということである。文部省も法律に規定はしたものの、その実施へ向けて進めるためには、どこかの大学にモデル的なものを設け、他の大学に波及させる必要があった。そして、その白羽の矢が私学の雄である早稲田大学に向けられたのである。非公式ながら文部省社会教育局長から、当時の教育学部長佐々木八郎に何度か打診があったようである。佐々木学部長は文部省にある大学基準協会の委員でもあったので、話し合いが比較的スムーズに行われた。

 佐々木学部長は、仮に社会教育主事を大学で養成しても就職先がどの程度あるのか、文部省が十分保障できるかをただした。文部省では、取敢えず社会教育主事を全国の都道府県市町村に義務設置する予定であること、そのほか公民館主事もできる限り社会教育主事の資格を持つ者を採用する方針であることなど数字を示して、社会教育主事養成課程を設置して欲しいと要請した。この数字は勿論机上論であったが、たまたま慶応義塾大学が図書館司書の養成課程を設ける計画のあることを説明し、協力を求めたのである。

 大学の内部でどのような話が煮つめられたかは明らかでないが、佐々木学部長の胸中には設置の方向が次第に固まりつつあったのではないかと思われる。その年の六月頃、IFELの主任教授であったコロン教授が、文部省社会教育局長寺中作雄、二宮視学官を伴って早大に佐々木学部長を訪ね、重ねて要請した。当日は伊藤道機教授も同席し、ここで専修科設置が本決まりとなり、スタッフが内定した。伊藤教授が兼担で「社会教育概論」を担当し、非常勤講師に二宮徳馬と滝口宏が委嘱され、昭和二十七年四月から発足することになった。

 当初授業は二宮が特に「成人教育」「婦人教育」を、滝口が「公民館」「青年教育」「社会教育調査」を担当し、演習・卒論を受け持った。当時は三年から専修科に進める仕組みがあり、三年の社会教育専修は十三名であった。四年生に二名社会教育関係の卒論をとる学生がいて、授業は四年・三年合同で始まった。三年生は社会教育専修の第一期生であるが、正式には教育学部教育学科社会教育専修二十五期生と呼んでいた。

 第一期は十三名だが、まことに多士済々であった。新設された専修の性格を知るに便利だと思うので紹介しておくが、大部分三年編入で入ってきた学生は、例えば、旧制高等工業の出身で旧制中学の教師だった者で、新聞紙上で早稲田大学に社会教育専修科が置かれたことを知り応募したという。多くの者が、我が国最初の大学における専修科であるという記事を見てきたらしい。県の連合青年団長であり教育委員でもあった学生、満州国の大同学院を出て官吏であった者、郵政省に勤め労組の青年部長だという学生など、既に大学を出て立派に仕事を持ち活躍してきた者が多かった。いずれもジャンパーか背広姿で、学生服は一人もいなかった。

 演習での活発な討議は時間外に及び、早大社会教育研究会を生んだ。概説するだけでは駄目で、できるだけ現場に触れることによって理解を深め得るという考えから実態調査に力を入れた。二十七年の夏休み、三年生全員と二年生二名が群馬県利根郡新治村で行った調査は、まだ学生による実態調査が珍しかったこともあって、連日、大新聞が写真入りで報道するところとなり、『毎日新聞』は報告書の概要を学芸欄に掲げた。実態調査は以後三十七年まで場所と内容を変えて行われたが、新治村での報告書は、今日でも専門家から高く評価されている。新治村は前年、優良公民館として文部大臣の表彰を受けている。

 大学も積極的にこの調査活動を認めた。学部長が調査の現場を視察し、報告書の作成に補助金を出し、埼玉県秩父郡小鹿野田の調査の時は、併せて「山村における社会教育」の映画作りにも岡本正平非常勤講師、高橋勉・大川清の両副手が協力し、相当額の補助をした。毎年の調査団は、調査とは別に、時々人形劇を持っていったり、青年団体との交流、座談会やスポーツを通じて地域社会の各階層との接触を図るなど努めた。学生にとってもまたとない勉強の機会になった。

 社会教育の重要性が高まるにつけ、社会教育専修課程の希望者も増加していった。教授の陣容も整い、現在では全国の国公私立を通じて最も完備した社会教育専修課程になっていると言って間違いない。卒業生は、文部省、都道府県、市町村の社会教育関係の仕事に多く従事し、日本の社会教育の発展に大きく貢献している。

ウ 教育学科教育学専修

 昭和三十七年四月、教育学科はこれまでの二課程編成から三専修制に変った。従来の教育学、社会教育の二課程を専修と改め、新たに教育心理学専修を創設したのである。この結果、教育学専修は、「教育の原理方法及び教育史の研究を主眼とし、主として教育行政並びに一般教育活動に従事する者の養成を目的とする」と、教育学科・教育学課程時代からの主目標である、学問研究者の養成を主軸とする考え方を確認しつつ、新たな時代に入ることになった。

 しかし、卒業生の進む方向は必ずしもその狙い通りになっていない。学生数の増加や進学の難しさ、あるいは社会的・経済的状況などの影響で、最初から一般社会での教育活動もしくはその他の職場に出ていこうとする者が多かったからである。

 教育学科の卒業生は十月卒業者をも含めて、昭和二十六年の二十三名に始まり、三十年の二名が一応最後という形になるが、変って二十九年から専修別の数字が出てくる。第百二表(一〇一五―一六頁)を参照されたい。

 卒業生は、国公私立の中・高等学校、もしくは大学の教員として、また教育委員会をはじめ教育行政関係者として、あるいは国家公務員(文部省・法務省など)、マスコミ関係その他広く社会の各職場に道を求めて活躍している。

 カリキュラムを必修科目で見ると、教育学科創設時のそれが、現在の教育学専修の原型をなしている観がある。教育学課程時代、教育学専修発足時と対比してみると次のようになる。

第九十二表 教育学部教育学科・教育学課程・教育学専修必修科目(昭和二十四―五十七年度)

 以上、必修科目についてみても、教育内容の整備が漸次行われてきたが、まだ十全とは言えない。昭和五十二年度より段階的にカリキュラムの改訂に着手し、現在はその過渡期にある。急激に変化しつつある社会状況や学生の志向、学問の加速度的な展開過程と教育界の実状に鑑みて、教育学を専攻する学生に、より整合する基礎的・科学的な教育のシステム化を目指して、改革が進められている。

 教授陣容と在学生 学科設立当初は、赤松保羅学科主任を初め、小沢恒一(昭和二十四年四月―二十九年三月)、田制佐重(昭和二十四年四月―二十九年三月)、尾形裕康(鶴吉、昭和二十四年五月―四十二年三月)、大滝武(昭和二十四年四月―五十二年三月)、赤堀孝(昭和二十四年四月―五十二年三月)の教授・助教授を軸に、気鋭の専任教員を擁し、別に上村福幸(東大教授)、小林澄兄(慶大教授)、清水義弘(東大助教授)、太田堯(東大助教授)らの諸氏を講師に招いていた。とりわけ若手教員の育成と、大学院文学研究科教育学専攻の創設および運営に尽力したのは、学科主任を永年勤めた尾形裕康教授である。

 昭和五十二年三月を境に当該専修の教員構成は、児玉三夫(昭和五十四年三月退職、現明星大学長)・山下武(文博・教育史学)・長田三男(現代教育学)・鈴木慎一(イギリス教育学)・市村尚久(アメリカ教育学)・石堂常代(哲博・フランス教育学)となり、四十歳代を中核として新しい時代を迎えた。一世代を超えた当該学科、ひいては学部の将来を占う意味においても、教育学専修の進展は識者注視の的であり、教員に寄せられる期待も大きい。教員配備の適正化および専修内部の充実と結束、ならびに学科目編成の構造化・最適化を、理念と実践の両面に亘り、新たな総合科学的視点から把え直すことが急務となってきている。

エ 教育学科教育心理学専修

 教育心理学専修は、昭和三十六年暮に文部省の認可を取り、三十七年四月に第一回生を迎えた。新設された各国立大学にいずれもこの専修が置かれるような教育研究の趨勢と、人間教育の問題の心理学的解決を究極の目的とする心理学の本旨に鑑みて、この専修を持たない教育学部では不十分であるという教育学科教員の一致した意見が、この機運を促した。創設は、旧制帝国大学系の新制大学の教育心理学専攻より約十年遅れることになったが、そのことによって逆に十分な時間的余裕を得、教育心理学専修のあるべき理念と性格を慎重に摸索する機会を持つとともに、先発の他大学における教育心理学専攻の実情を徹底的に検討することができた。その上で早稲田大学独自の教育心理学の理念と性格を形成するに至ったことは幸いと言わねばなるまい。

 すなわち教育心理学専修においては教育を単に人間存在にとっての社会的必然として社会科学の立場からのみ捉えるのではなく、人間形成としての教育は人間生成の現実と可能性に基づくものである限り、そこに当然物理・生物・人文の各科学の認識方法をも総合しない限り完全なものとは言えないことになる。人間教育の問題はかかるあらゆる科学の認識を総合したところの人間科学としての心理学の立場から追求されるべきものである、という独自な視点をとることとした。

 このような独自な基本的理念に基づき、早稲田大学に既設の文学部心理学専修とも、また他大学の教育心理学専攻とも異なった、今日いわゆる早稲田方式と呼ばれる独自の専修を目指すことになった。すなわち、ここでは人間生成過程にみられるあらゆる人間行動に対する物理科学的、生物科学的認識に基づく、より原理的、理論的な研究分野と、人間形成過程に関しては社会科学的、人文科学的認識方法を中心とした実践的、臨床的な研究分野に分け、これらを四ヵ年の前半においては主として前者を、後半では後者を中心とするように学科配当をした。こうすることによって総合的に人間科学としての教育研究の素地を身につけることを目指した。本計画を実現するためにはそこに基本的な文献・資料と実験器材の整備、実験室、演習室が当然不可欠であるが、これらは四ヵ年計画として逐年ごとに充実することを企図した。

 これらのことは発足の年が定年となった赤松保羅教授のあとを受け、三島二郎教授が責任者となって推進された。理工学部から移籍してきた服部清助教授、富田達彦助手がこれを援け、昭和三十七年三月の最初の入試で三百六十五名の受験者から二十七名を第一回生として迎えることになったわけである。発足時の研究設備は研究室二室、実験室二室、実験用動物飼育室一室と小じんまりしたもので、現在、法学部となっている八号館一階の図書館側に研究室と実験室とが並んでいた。

 昭和四十一年三月に第一回生が卒業するまでの間を創設時と呼び、この創設時のカリキュラムを必修科目、専門選択科目に大別し、その当時の担任者を列記してみると次のようになる。

①必修科目

一年度生 教育学原論(赤堀孝)、児童心理学(服部清)。

二年度生 教育史(尾形裕康・山田栄)、社会心理学(伊藤安二)、心理・教育統計法(浅井邦二)、教育心理学実験演習Ⅰ(服部清・富田達彦・橋本仁司、平井久)。

三年度生 教育心理学原論(三島二郎)、教科心理学(服部清)、教育評価測定(牧野達郎)、教育心理学実験演習Ⅱ(牧野達郎・小嶋謙四郎・富田達彦・森川靖夫)、教育心理学演習Ⅰ(服部清・牧野達郎・橋本仁司)。

四年度生 発達心理学(三島二郎)、臨床心理学(戸川行男)、特殊教育論(小林提樹)、教育心理学演習Ⅱ(三島二郎・本明寛)。②専門選択科目

心理学概論(三島二郎)、教育心理学及実験(三島二郎)、社会心理学概論(伊藤安二)、職業指導(浅井邦二)、精神身体学(伊藤秀三郎)、精神医学(加藤正明)、学習心理学(相場均)、集団力学(橋本仁司)、心理学史(結城綿一)、産業心理学(兼子宙)、精神分析学(土居健郎)、異常児教育実習(三島二郎)。

 このようにカリキュラムは基礎的・実践的心理学を中核として構成されており、それを直接に関連する諸領域が専門選択科目として設置された。また、担任者についてみると本学の専任教員のみならず、多くの非常勤講師の協力を得ている。なかでも、特殊教育論担任の小林提樹講師(元島田療育園園長)は重症心身障害児の研究で、精神医学担任の加藤正明講師(国立精神衛生研究所所長)は精神障害の研究で、精神分析学担任の土居健郎(東大教授)は『甘えの構造』で、それぞれ高く評価されていた。

 教育心理学専修カリキュラムの特色の第一点は、人間科学としての心理学という立場から、教育学原論と日本教育史、西洋教育史教科の心理学を履習することにより、社会科学としての教育学の一般的知見を獲得することを企図したことにある。第二点は、物理科学・生物科学的認識に立つ心理学研究の基礎を確立することを目指して、教育心理学実験演習Ⅰ・Ⅱを行い、実験計画・実験方法・データ分析などの実習をして、その結果を科学報告の形式としてまとめ得る能力を訓練すること。第三点は、心理・教育統計法と教育評価測定を学習することによって、実験計画法や統計処理の技法に習熟することを意図したことにある。第四点は、児童心理学に始まり、社会心理学、教育心理学原論、発達心理学、臨床心理学を必修として、ここでは社会科学・人文科学の認識を中心としての人間の発達と教育を訓練することを目指していることである。

 更に、教員免許に関することであるが、文部省から養護学校教諭免許の取得が認可されているのは、早稲田大学では教育心理学専修のみである。この免許を得るには、必修科目の児童心理学、特殊教育論、臨床心理学の三科目に加えて、専門選択科目の精神身体学、精神医学、障害児教育実習を履習しなければならない。これによって心身障害児(者)の教育や指導に携わろうとする学生の養成を目指している。ほかに職業指導・社会科教諭の免許も第一回生より取得することを企図し実現された。

 昭和四十一年四月に第五回生が入学してから以後、現在(昭和五十六年二月)に至るまでの期間は教育心理学専修の展開期と言える。この十五年間のカリキュラムについてみると、必修科目においては大きな変化は認められない。昭和四十六年度より心理学の内容充実のため、教育史に代って心理学概論(三島二郎)が置かれたり、教育評価測定が昭和四十二年から心理学的測定法に名称を変更したくらいである。これに比べると専門選択科目はかなり多彩になってきた。創設時の十二科目のうちから心理学概論が消え、四十一年度には人格心理学(相場均)、四十二年度には教育評価概論(浅井邦二)、四十三年度には実験心理学(牧野達郎)、四十九年度には生理心理学(酒井誠)などが開講され、充実してきている。

 専任教員は、発足時には三島二郎、服部清の二名がいたに過ぎなかったが、現在は七名を擁するに至っている。すなわち、昭和三十八年に牧野達郎、富田達彦、三十九年に橋本仁司、四十年に森川靖夫、四十三年に東清和が迎えられたのである。

 無論このスタッフだけでは不十分なため、早稲田大学文学部心理学専修および体育局の専任教員に兼担してもらうとともに、十七名に及ぶ非常勤講師を擁しており、我が国有数の教育心理学教室に成長してきている。卒業生数は第百二表に示す通りである。

オ 国語国文学科

 昭和二十六年に第一回の卒業生五十五名を出した国語国文学科は、高等師範部時代からの優れた伝統を生かしながら、新しい研究・教育の動向をも十分見据える立場で、科の充実を意欲的に図ってきた。二十八年の卒業生は二クラス八十六名になっているが、学生数の増加、カリキュラムの整備に伴って新しい教員が相次いで迎えられた。先ず三十一年に今井卓爾(中古文学)、興津要(近世文学)が迎えられた。次いで三十三年には紅野敏郎(国語科教育法・近代文学)、桜井光昭(国語学)、三十四年に戸谷高明(上代文学)、三十五年に鳥越信(児童文学)、三十六年に梶原正昭(中世文学)、三十八年に白石大二(国語科教育法・国語学)、四十年に榎本隆司(近代文学・国語科教育法)、中野幸一(中古文学)が加わっている。いずれもそれぞれの専門研究を通じてこの科の発展に力を尽くしてゆくわけだが、更には、岩淵匡(国語学)、松枝茂夫(中国文学)、小林保治(中世文学・国語科教育法)、柳瀬喜代志(中国文学)、津本信博(中古文学)、駒田信二(中国文学)、杉野要吉(近代文学・国語科教育法)、堀切実(近世文学)、桒山俊彦(国語学)へと及んで、充実した陣容が整えられている。世代交代がなされつつも、この専任スタッフは、全国的にも少いこの科の専門性の高さを十二分に立証している。

 学部の性格からして、一方の柱である国語教育が重視されているが、その大事な要としての国語科教育法は、はやく川副国基が担い、既に示した如く、やがて紅野敏郎、白石大二、榎本隆司、小林保治、杉野要吉らの専任が、また講師として、小路一光、久米稔、奥津春雄、岡本卓治、金子大麓、橋本喜典、菊野和夫ら、学識・現場経験豊かなメンバーが、これを受け継いでいる。教員採用に当っては、それぞれの専門性の高さに加え、国語教育への関心・理解度の深さが大きく考慮されるが、そこにこの国語国文学科のユニークな存在理由が認められる。

 このほか、専門選択科目には、ながく岩淵悦太郎が、またこの間、石田吉貞、矢野禾積、小場瀬卓三、福田陸太郎、高田瑞穂、中村完、竹西寛子、東郷克美らが迎えられ、共通選択科目を通じて、青野季吉、森銑三、本田安次、阿部知二らの多彩な講師が学生の指導に当ってきている。この科の充実した幅広い学科構成を窺わせるものである。そこに学んだ多くが、教育界、学界、ジャーナリズムその他、広く各界に亘って大きな業績を挙げているが、この間の卒業生数は第九十七表の通りである。

 中・高等学校の現場に立つ国語科教師として、国語国文学科卒業生の力は高く評価されてきているが、その現場の教師達の勉強の場として、あるいはまた、優れた教師を育てるための研鑽の場として、同時にまた、志を同じうする者の強い連帯の場として、早稲田大学国語教育学会が、大きな役割を果している。教師として何を考え、身につけねばならないか。それは中・高等学校の教師も、大学に在る者も、等しく、常に心しなければならないことである。そうした心から、この会を紹介しておく。

早稲田大学国語教育学会

創立 昭和三十八年一月。

会長 時枝誠記、川副国基、山本二郎、白石大二を経て、昭和五十七年から代表委員制となり、榎本隆司が就任。

会員 五百三十名

 本会は、専門的な学門研究と教育実践を合わせ踏まえ、その接点に立って、国語教育万般に亘る問題を研究追尋してきており、ユニークな存在である。昭和五十七年十一月現在で、大会、例会とも都合百二十四回の研究集会を持っている。

 会員は、公、私立の中学・高校・大学の教員が主であるが、公開されており、学生や一般の参加も多い。

 年一回の大会は、内外から講師を招き、国語教育を超えて広く話題を追い、別に、随時、講演会が織り込まれている。例会では、教材研究発表、作品研究や実践報告などを中心に、それぞれが抱え込んでいる問題を提起し、学問的理解を深めるとともに、指導方法の開発研究、更には、教育界における重大な関心事に向けて、熱心な討議が交わされる。その成果は会報に発表され、貴重な研究資料として配布されてきたが、新たに『早稲田大学国語教育研究』という誌名の研究機関誌を発行して、その充実が図られつつある。機関誌の登録番号はISSN 0287-1009である。

カ 英語英文学科

 英語を教える者は先ず自身が「英語を使える者」にならねばならない。それを目標として、地道な語学の学習に基盤を置くという学科創設時からの学風を守りながら、英語英文学科は順調に発展してきた。そしてまた、この三十年間には、中・高等学校の教員をはじめ、各方面に優れた人材を送り出してきた。昭和三十三年には、国語国文学科とともに専攻科も設置し、学部を出て更に勉強したい者、あるいは、既に中・高等学校の現場で経験を積んできている教員の研究意欲に、積極的に応えてきた。更にその延長線上で英語英文学科は、近年の教育界の趨勢を踏まえつつ、英語教育を研究対象とする大学院の設置について、きわめて意欲的に努めてきている。私学で唯一の教育学部を創設し、日本の教育界に大きな影響を与えてきた早稲田大学が、一日も早く、教育を中心とする大学院を設置し、その中で、これまでの伝統の上に更に発展する場を得ることを、英語英文科は切望しているのである。

 学科名が明示しているように、英語英文学科は、特に語学面での研究・教育にきわやかな特色と実績を見せている。以下に示す、昭和五十七年度現在の教員スタッフが、それを端的に物語っている。

 出口保夫(英文学)、Edward Foy(英文学)、長谷川信(英語教授法・英語学)、橋本宏(米文学・英文学)、星新蔵(地域研究)、石原明(英語学・音声学)、小林堅太郎(英文学)、小島義郎(英語学)、松坂ヒロシ(英語学・音声学)、中尾清秋(英語学)、新島道弘(英語学)、Albert Peterson(英語学)、鈴木道雄(米文学)、鈴木周二(米演劇)、鈴木知行(英文学)、高田邦男(米文学)、田辺洋二(英語学・音声学)、東後勝明(英語学・音声学)、上田稔(英語学・言語学)、矢野安剛(英語学・言語学)、矢島正治(英文学)

 卒業生数は、第百二表に見る通りである。

早稲田大学英語英文学会

創立 昭和三十八年十一月。

会長 萩原恭平、中西秀男、竜口直太郎、新島通弘を経て、現在は中尾清秋。

会員 二百名余。

 戦後、連合軍の進駐であおられた「英語熱」への反省は、英語教授法改革への声を呼んだ。中・高校の現場に在る者を中心として、大学と連携を保ちながら英語教育について研究する場を持ちたいという願いが高まり、やがて結実して本会の創設となった。

 機関誌『英語英文学叢誌』は、昭和三十九年十二月に創刊され、ほぼ年刊の形で十一号に及んだ。学会活動は、年二回の研究発表を含む例会、総会を通じて着実に進められてきており、会員の研究・親睦の実は大いにあがっているのだが、経済的な理由から、機関誌が昭和五十二年以来休刊状態にあるのは残念である。

キ 理学科および教育学科体育学専修の設置

 教育学部発足直後は、新制度移行に伴う多少の混乱――例えば教育学科学生の教員免許状の問題、履習単位内に教職課程の単位を含めるべきであるという学生の要望その他の問題――もあったが、次第に新制度についての理解が深まり、中・高等学校教員養成の実も急速にあがってきた。

 その頃、中・高等学校教員の絶対数の不足、殊に理科(自然科学)系教員の不足が明らかになってきた。昭和三十五、六年頃には、公私の学校長・教頭の職にある校友から、母校出身の理科系教員を採用したいとの要望が強く寄せられるようにもなり、大学としても何らかの方策を立てざるを得ない状態になってきた。

 理科系教員については理工学部卒業者で教員免許状を取得する者もいるが、当時の社会情勢は、理工学部卒業生に対する企業側の求人が多く、就職の条件もよかったため、教職に就く者の数は微々たるものであった。

 このような社会事情と校友の要望を併せ考え、教育学部に理科系教員養成のための学科を設置することが急務であるとの意見が学部内に高まってきた。そして昭和三十七年十月の定例教授会(大滝学部長)に初めて「学部拡充委員会の件」が上程され、理科系学科の新設とともに既設学科の拡充を検討する方向が打ち出された。次いで十一月の教授会では各学科懇談会の同意により「学部拡充基本方針の件」が議せられ、正式に「学部拡充委員会」が発足することになった。

 しかし、私立大学で理科系教員の養成を専門に行うのは、初めてのことであった。規模、教員内容(学科目配当、実験設備等)、施設、経費等について既設の国立東京教育大学、お茶の水女子大学、広島大学等に問い合わせるとともに意見を聞き、その資料を集めるなどしながら、次第に具体化が図られた。一方、文部省の意見を求めたところ、「早稲田大学で理科系教員養成をすることは賛成であるが、簡便な教員内容では困る。教育学部の中に設置するのであるから理学科となるのであろうが、国立大学の理学部並の規模にすること」との釘をさされた。学内でも大浜総長以下理事に内意を打診して大体の諒承を得たのだが、その折、総長から別に「理科を新設する機に体育に関する部門も同時に設置するように」との要望が出された。これは学部としては「寝耳に水」だったが、直ちに学部拡充委員会に図った結果、早稲田大学スポーツの振興と体育教員養成を目的として体育部門も併せて設置することにし、委員会も「学部組織研究委員会」という名称に改めた。

 委員会においては、これらの新設学科を昭和三十九年四月一日より発足させるべく、急ぎ組織、教員内容等の検討を始めた。そして三十八年四月には取敢えず「数学科、理科(物理、化学、生物、地学)及び体育厚生学科増設に関する学部長試案」を作成して本部に提出するとともに、同年五月の教授会でこの試案提出について諒承を得た。次いで六月の教授会では学部組織研究委員会の中間報告の形で、既設の学科のうち社会科社会科学専修が二十名増員し、新設としては教育学科に体育学専修を、理学科には数学、物理学、化学、生物学、地学の五専修を置き、一学年の学生定員数を三百三十名とし、従来の学部入学定員四百五十名と併わせて合計八百名とすることにつき諒承を得た。

 更に七月の教授会では最終的に「教育学部教育学科体育学専修設置要項(案)」および「教育学部理学科設置要項(案)」(目的、性格、名称、入学定員、履修方法、教員組織等については後述)を審議し原案通り可決するとともに、増設に伴う専門委員会を作り、更に施設、実験器具機材等につき検討することにした。

 このあとちょうど夏休みに入ったが専門委員会は夏休みを返上して数回の委員会を開いた。学科・専修の増設ということになると、当時四号館(現八号館)の教育学部はいよいよ狭隘になるということで、新たに学部全体の移転が問題になってきた。たまたま理工学部の大久保(現理工学部キャンパス)への移転が決まった。その結果、それまで使用していた九号館(現六号館)と一四号館が空くので、その跡へ教育学部が移ることにして各学科・専修の研究室、講義室、新設の実験室等の部屋割を図面の上で検討し夏休みあけ早々の九月の教授会に提出して諒承を得た。

 昭和三十九年四月のスタートに向けて、学部では新設学科・専修の教員人事も教授会にかけて準備を進めていたが、突然本部から新設の理学科五専修のうち物理学専修と化学専修は見送り、数学・生物学・地学の三専修でスタートするようにとの指示があった。三十九年度より出発するためには、三十八年九月中に文部省に新設の申請書を出さねばならない。是非なく、本部の意向に従って九月三十日付の申請ということになった。

 何故にこの二専修が見送りになったかの理由についてははっきりと納得できるものではなかったが、「理工学部には既に応用物理学科・応用化学科があり、実験設備等も完備しているのに同じ大学内で別にこれらを設けることは二重の負担になること(設備、経費、人員の面で)、ただし数学は理工学部にもあるが実験室等の負担もないので併設も差支えないし、生物学と地学は理工学部にはないので競合しない」というのがその理由であったようである。

 ともあれ、こうしてやや変則的ではあるが新しい理科系の学科と体育のコースが昭和三十九年四月から発足することになった。

 その後、見送りになっていた物理学専修と化学専修については、種々論議するところがあったが、昭和四十年十二月になり、当時の常任理事時子山常三郎教授を委員長とする「教育学部理学科物理学専修・化学専修開設準備委員会」が大学本部に設置された。十二月三日に本部会議室で第一回の委員会が開かれたが、特別な進展もなく、第二回委員会を十二月八日に行うという開催通知があったのみで、いつの間にか立ち消えとなってしまった。その間どのような経緯があったかは不明であるが、その後数年を経ないで理工学部に物理学科、化学科が新設されており、教育学部理学科は発足当時の三専修のみで今日に至っている。

申請書の添付書類

一、学科・専修増設の事由

教育学部は高等学校教員の養成を主目的としているが、従来は文科系の学科に限られていた。理科系学科の設置は発足当初よりの念願であったが、種々の都合により遺憾ながら未だその実現をみるに至らなかった。

然るに周知の如く自然科学方面増強の国家的要請はますます強まり、これに伴って高等学校、中学校における理科教育充実の必要性が急速に増大したにも拘らず、一方産業方面の技術要員増大のために理科系教員の必要数を確保することが各校ともますます困難となり、多くの校長より理学科増設の希望を強く訴えられるに至った。万難を排して理学科増設という初志の実現を図った所以である。

同様に体育担当の教員も不足しており、又言うまでもなく知育、徳育、体育の三者の調和を待って始めて教育が完成されるので、この点における従来の欠を補うために教育学科に体育学専修の増設を計画した次第である。

二、学科増設の時期(三十九年四月一日)

ク 教育学科体育学専修

 戦時中の国民体錬科から体育科と改称して新しい時代の指導者養成が進められていたが、新制大学として発足するに当ってこの体育科は引き継がれなかった。昭和二十三年四月から学生募集を停止し、二十五年三月を以て廃止されたのである。

 ところで、新制大学には正課体育があった。これを実施するために大学は昭和二十四年、新たに体育部を設置した。全学部学生の体育理論・保健衛生の講義と体育実技を担当することになったわけだが、この実技指導の内容は、早稲田で長い伝統を持つ体育各部の活動に基礎を置いていた。そうした事情から、この体育各部で作る早稲田大学体育会と、正課体育の体育部を一本化することによって、大学の体育をより充実発展させるべきだとの意見が出てきた。名称などで多少の曲折はあったが、これがまとまって、昭和二十七年四月の体育局の誕生となった。

 正課体育の実施は新制大学の大きな特色の一つだったが、しかし早稲田には、全学生の体育実技を賄うに足る施設設備がなかった。このままで推移したのでは、せっかくの特色が生きないことになるというところから、大体育館建設の計画が持ち上がる。昭和三十一年、大浜信泉総長時代のことである。この計画は、やがて創立七十五周年「記念会堂」として実現するのだが、この実現には、稲門体育会が大きく尽力している。この時の趣意書には、会長の河野一郎の一文が載っているが、そこで河野は、「大体育館の建設と更に進んで体育学部の新設」ということの実現に、稲門体育会が一致して努力を誓っていると述べていた。施設とともに学部の新設を強く望んでいるわけだが、同じ趣意書に、これに応える形で大浜総長が、稲門体育会が、大体育館建設という「母校のこの計画に共鳴し、更に優秀な体育指導者の養成を目的とする学部の新設を熱望し、その実現について大学と協力する計画を立て、広く篤志家の御支援を仰ぐことになりました。」と言っていることが記憶に留められる。別に稲門体育会からは、当時、具体的な構想を盛り込んだ「体育学部の設置についての要望」が出された。

体育学部の設置についての要望

稲門体育会

明治以来、しばしば教育家の間に、青少年の教育における体育の重要性が叫ばれてきた。けれども、一般世人の体育についての考え方は、知育に従属する体育、すなわち健康の保持増進のみを目的とした消極的意義のものであった。たまたま、体育の積極的重要性を唱えるものがあっても、多くは戦力の要素としての体力と精神力との育成を目的とした甚だ偏したものであった。終戦を画期として、新しく発足したわが国の教育は、体育部門においても、新段階に入ったのである。

そもそも、人間生活における「身体活動」の重要性を、その生産行動の面や防衛行動の面から意識して、これを教育的に処理してきたことは歴史的に古い。けれども、これを科学的に把握して、教育的意義を解明するようになったのは、近世諸科学の発達の結果である。ところが最近の科学の飛躍的発達は、人間生活の様式の上に大変革をもたらし、ひとり青少年ばかりでなく、国民全般の「身体活動」に大きな影響を及ぼすようになった。したがって、これに即応する体育もまたますます重要になってきた。

人間生活における「身体活動」を学問の対象としてとりあげるとき、いわゆるスポーツ・体操、ダンスなどはもとより、生産活動としての労働作業、さらに日常の消費的生活行動をも問題とする。このような広汎な問題を究明して、その在り方を正し、人類の生活向上に資するためには、他の政治、経済、法律、文学などの知的部門とならんで、一つの部門としての体育学の建設が要望されるのである。

早稲田大学は、創立以来七十余年、多くのスポーツの先達的人材を輩出して、世界のスポーツ界に貢献してきた。いま体育の新段階に際して、新しい学問の建設とその指導的人材の養成が急務とされるのであるが、これは、早稲田の如き伝統と綜合大学としての背景において、初めてよくなしえられるのである。

幸いにも、早稲田大学に体育学部設置のことが発議されてから、学内外の関係者の間に大きな反響と賛同とをえている。とくに学内関係教職員や稲門体育会所属者はもとより、旧高等師範部体育科出身者、このたびの記念会堂(大体育館)建設募金や体育学部設置募金に応じられた多くの校友など、さらに広くわが国実業界や体育界の有職者の間にも非常な期待が寄せられている。

これらの人々の要望に応え、新しい体育の考え方を基盤とし、技術面と理論面において、正しい方向への指導的役割をはたすことは、本大学に課せられた社会的使命であると信ずるのである。次に本学部の特性と組織との概要を述べてみたい。

(一) 特性について

1 選手の養成機関ではないこと

一般的教養を身につけ、その上に体育に関する広い知識と経験とをもたせ、併せて可能な限り専門的教育を行うのであるが、単なる選手養成を目的としてはならない。

2 社会体育、産業体育の視野をもつこと

従来の大学における体育専攻者は、主として学校体育の分野に向けられ、その面では大いに進展を見ているが、将来の社会体育や産業体育の分野においては、まだその萠芽を見るにすぎない。本学は綜合大学としての背景を活用して、これらの分野の開拓に任じなければならない。本学部において、体育学科および健康教育学科の他に、とくに厚生体育学科を設置した理由がここにある。

3 専門的健康指導者を養成すること

疾病を対象とする諸学、とくに医学は、格別に進歩した専門科学である。これに反して、積極的な生活力発展の面における諸学、とくに体育科学や厚生福祉の科学は、むしろおくれている現状である。生活上の消極面と積極面との両面は、互いに関連をもちながら、しかも相異る方向をもつ。したがって、その対策の重点を異にする。ここに健康指導者の領域がある。

4 綜合性と独自性のある教育及び研究を行うこと

厚生、福祉の面に関する諸学は、これをその基幹である独立科学の系統のみで扱うことは不充分であり、むしろその関連の面において綜合的に扱う必要がある。本学の体育理念は、この綜合の上に体育の独自性をうち立てたい。

以上の諸特性を本学部の教育及び研究の根本目標として要約するならば次のようになる。

一、広い教養を身につけ、健康で実行力を有する人物を理想とする人格教育及び研究

二、「体育・厚生」に関する諸科学の知識と技能の専門的教育及び研究

(二) 組織について

1 教育組織として次の三学科を置くことが望ましい。

A 体育(教養)学科

一般教育の基礎の上に体育の教養に関する知識と技術の経験を深めることを目的とする。特殊研究コースとして、将来体育技術専門家として必要な科目を附加する。

B 健康教育学科

一般教育の基礎の上に健康教育の知識と技術の専門的教育を行うことを目的とする。特殊研究コースとして将来衛生管理者として必要な科目を附加する。

C 厚生(体育)学科

一般教育の基礎の上に体育を通じての生活厚生、人間関係改善の知識と技術の教育を行う。特殊研究コースとして、将来労務管理、安全管理の担当者として必要な科目を附加する。

2 研究組織として次の研究室を置く

教育学系統の研究室、実験室、実習室、

社会学系統の研究室、実験室、実習室、

心理学系統の研究室、実験室、実習室、

医学系統の研究室、実験室、実習室、

工学系統の研究室、実験室、実習室、

実技系統の研究室、実験室、実習室、

3 収容定員(一学年三百名の場合の比率)

体育学科 一二〇名

厚生学科 一二〇名

健康教育学科 六〇名

 大学の中に、体育の重要性と早稲田スポーツの伝統、またそれに寄せるOBはじめ多くの人々の誠実に応えるために、体育系の学部ないし学科の設置を考える気運が高まりつつあった。昭和三十七年暮には、教育学部内に「学部拡充委員会」が設けられた。この段階で総長からは、「理科を新設する機会に体育に関する部門も同時に設置するように」との要望があった。これを受けた「学部拡充委員会」の了承の下に、体育学専修設置のための試案が作成された。

 体育学専修の目的・性格は、「高等学校・中学校の保健体育科の教員として、青少年の体育指導者を養成するのみでなく、近時、会社工場等産業関係の部門で強く要請されている従業員の健康管理・体育指導・労務管理等実社会における有能な指導者として活躍できる人物を養成する」ことにあった。学部の他学科専修と同様、教員免許状を取得することができるように図られていた。入学定員は百二十名(文部省定員八十名)であった。

 専修の性格から、入学試験には「体力テスト」が課された。昭和三十八年十二月、大滝武学部長の依頼で阿部馨(体育局)が都内の体育系大学・学部におけるテスト内容を調査し報告したが、初年度は既に入試要項が完成していたため、この年に限って学科試験終了後に実施し、従って合否には直接関係しなかった。テストは記念会堂で二日間、走(五百米走)、跳(立幅跳)、投(ハンドボール投)、筋力(懸垂)の四種目必修で行われた。こうして昭和三十九年四月、最初の学生を迎え入れたのである。学科配当および担当教員は次表の通りであった。

第九十三表 教育学部教育学科体育学専修専門科目および担当教員(昭和三十九―四十二年度)

 創設時の専任教員は、富木謙治、上野徳太郎、伊藤秀三郎の三名で、四十年四月に阿部馨、梅沢宣雄、四十一年に塚脇伸作が迎えられ、更にその後、体育局から織田幹雄、市原允、浜野吉生らが移籍された。昭和五十七年の専任スタッフは次の通りである。

阿部馨(陸上競技、レクリエーション原理)、梅沢宣雄(バレーボール、体育管理・スポーツ経営学)、塚脇伸作(体操競技、運動学)、浜野吉生(登山、スポーツ法学)、宮内孝知(硬式野球、体育社会学)、村岡功(陸上競技、運動生理学)、岸野雄三(客員教授。体操競技、体育史)

 この専修は、昭和四十三年に第一回の卒業生を出し、これまで、新時代の体育指導者養成にふさわしいカリキュラムの改正・充実を図ってきているが、更に新たな飛躍・発展への形を模索しつつある。昭和五十七年には、一定の学力、実技能力を持つ高校生の自薦に基づくユニークな特別選抜方式を導入、大学におけるスポーツ選手の位置づけ等に係わって注目を集めている。

 なお、ついでながらここで早稲田大学教育学会について触れておく。

 早稲田大学教育学会は、昭和四十三年五月一日を以て発足した。設立総会において「早稲田大学教育学会々則」が承認され、教育学部教育学科主任大滝武が初代会長に就任し、大槻宏樹が事務局を主宰することになった。総会に引続き第一回発表大会が開催された。山下武「近世日本の文教政策に関する一考察」と題する研究発表が行われ、盛会裡に閉会した。爾来、昭和五十六年三月までに四十六回の発表会を重ねてきている。

 本会会則にもある通り、各専修に照応して教育学部会、社会教育部会、教育心理学部会、体育学部会が設けられたが、現在では総合的な発表大会の形式で活動していることが多くなってきた。

 現在、二代会長三島二郎(事務局・山下武)のもと、頻繁に発表会が開催されるようになり、今後の発展が期待されている。発足後十余年を経た今日、ある意味で節目にあると考えられる本会の将来への展望としては、時勢の進展に照応した学会の在り方を模索しながら、現実的には会則を含めて、運営、構成・組織の強化、その他の再検討を進めていくことが、将来の大いなる発展に寄与するものと考えられる。従ってその方向で目下、改革の準備が進められている段階である。

ケ 理学科

 前述のように理学科は数学、生物学、地学の三専修で昭和三十九年四月一日発足した。

 当時の学部要項に理学科の紹介として「各専修は理学部の各学科に相当する教授陣と施設・器材をもって、高度の学識と教養を身につけた高等学校・中学校の数学・理科教員および社会的にも理科教育の指導的位置を占める者の養成を目的とする」と記してある。このように創設当初から近年の目覚しい自然科学の発展に対応できる優れた自然科学観と高度の基礎学力、理解力、創造力、基礎実験技術を身につけた人材の養成こそが、理学科の教育にとって重要であるとの基本認識に立ち、教育・研究の構想が作られた。

 創設時のカリキュラムはこのような観点から作られ、各分野の学問の進展に対応して年々改められ、現在に至っている。また専任教員は第一線で活躍している優れた研究者で自然科学教育に熱意のある者でなければ、前記のような人材の養成はできないとの判断から選考され、このことが学生の教育に大きな力となっている。また、現在の自然科学の進展に対応できる施設・図書・器材の充実にも創設時から積極的に取り組み、効率的に整備が進められ、特に昭和四十三年四月、一六号館完成後はその充実は目覚しいものがあり、現在では他大学に比し遜色のないものになっている。

 創設後十八年過ぎた現在、理学科の各専修は内容も施設・器材も飛躍的に充実し、研究面でも国内外に高く評価される業績が多く出されるようになり、全国の国公私立大学に比べ施設内容とも遜色のないものになっていることは間違いない。各専修の入学希望者も年々急速に増え、優秀な学生が集まり、卒業生も公私立高校・中学の教員をはじめ、国公私立の大学・研究所・民間の研究機関の研究者として、また、出版、放送、企業の中堅、新進として、広く活躍しており、各専修の専門分野の発展に多大の貢献をしている。

 このように創設当初の構想は花開き、理学科も第二期に入ろうとしている。新たなビジョンとこれを実現する努力によって、次の二十年の発展を期したい。

 なお、発足時からの教授陣の動きを以下に示しておく。

第九十四表 教育学部理学科教員および担当科目の動向(昭和三十九―五十六年度)

 なお理学科各専修の創設時(完成年度)と昭和五十七年度のカリキュラムを対照すると、次のようになる(カッコ内の数字は単位数)。

第九十五表 教育学部理学科専門科目(昭和四十二・五十七年度)

〈数学専修〉

〈生物学専修〉

〈地学専修〉

コ 外国語教育

 学部には、英語英文学科を置いているので、外国語教育についての研究は早くから進められていたが、英語以外の外国語については、昭和二十四年の学部発足時、ドイツ語、フランス語、中国語の三ヵ国語の履修ができるようになっていた。その後、

昭和三十七年 他学部聴講(法学部)の形でロシア語を置く

昭和三十九年 学部内にロシア語を置く

昭和四十六年 語学教育研究所のスペイン語講座を他学部聴講の形で加える

昭和五十七年 学部内にスペイン語を置く

 という経緯で、五ヵ国語になった。

 学生の第二外国語の履修方法は、昭和二十年代は、一年度に二単位、二年度に二単位の選択必修とし、三、四年度については専門選択講座に、例えばドイツ文化研究Ⅰ、同Ⅱという形で希望する外国語を含めて聴講できるようにしていた。

 しかし、週一回の授業を二年間続けて新しい外国語の初級・中級の実力をつけるということはきわめて困難で、他学部に比べ時間数の不足は明らかであった。それを改善するために、昭和三十年代になって、一年度四単位、二年度二単位とし、別に随意科目として二単位を置くことにした。

 ただしこの改善では、第二外国語の学習に熱心な学生、大学院進学希望者には、まだ十分とは言えないので、昭和四十年代になって大胆なカリキュラムの変更を実施した。それは、従来の第一外国語は英語、他は第二外国語という考え方に代って、すべての外国語を英語と同列に置き、第一、第二という呼称を廃したことである。その結果、大部分の学科では一つ以上の外国語を選択履修することとなり、最低八単位が必修となった。また、それによって生じた時間のゆとりを一、二年度用の強化クラスの設置とか、従来の文化研究から語学研究へと名称を変更した三、四年度用の語学講座に加えて、三、四年度用の語学クラスの設置に廻すことにした。

 このカリキュラムは、これを積極的に利用すれば、例えばドイツ語とフランス語を、あるいは中国語と英語を履修するというように、きわめて弾力性のある利点がある。しかし反対に消極的にこれを利用すると、外国語の履修は一つでもよいということにもなり、既習の外国語つまり英語のみを選択し、大学で新しい外国語を学習しないということにもなる。

 つまり、このカリキュラムは、語学の学習に熱心な学生には有効であるが、不熱心な学生には有効とは言えなかった。その結果、英語以外の外国語を選択する学生の漸減や、すべてが国際化しつつある社会情勢の中で、大学における外国語の学習を一つの外国語で可とする考え方の是非などが検討され、昭和五十年代になって再び、第一外国語の履修八単位(四コマ)、第二外国語の履修六単位(三コマ)と改められた。どの外国語を第一外国語とするかは履修者本人の選択にまかされた。

b 専攻科

 現場の教員により高い専門の基礎と技能を与えるために学部の上に専門課程を設けるとの意見は早くから教育学部内にあった。この考えは教員養成大学院構想であり、学外でも広く論ぜられてきたものである。本大学では直ちにそれの実現を求めるまでに機が熟さないので、それとは別に「専攻科」を設置することになった。

 昭和三十二年十一月「教員養成を主目的とする教育学部の基礎の上に更に精深なる程度において、特別な専門課程による教授を行い、その研究を指導し、専門技能者を養成する」ことを目的とする教育学部専攻科の設置申請を行った。その内容は、国語国文学専攻科と英語英文学専攻科であった。

 これに対して、文部省は、大学設置審議会の議を経て、昭和三十三年三月三十一日に、次のように修正の上、認可する旨を申し送ってきた。それは「早稲田大学教育学部専攻科」の名称を「早稲田大学専攻科」に改めるということで、専攻二学科、修業年限(一年)などは申請のままとし、開設を昭和三十三年度とした。高等学校教諭一級普通免許状授与の認定の時期は三十三年四月一日となり、正式許可は三十三年九月十八日であった。

 元来、専攻科は、本大学卒業生で現職教員として教壇に立っている校友達からの切実な要望に応えることも主な理由で、教育学部が主体になって設置したのであった。しかし、せっかくの開設であるならば、他大学卒業の教員にも広く開放して貰いたいという要望を受けて、三十三年度創設時に既に両専攻計七名の他大学卒業生の入学を許可している。その後、年を経るに従って他大学からの入学希望者が増加している。なお、本大学教育学部・文学部の卒業生に対しては特別推薦入学制度を採用しているが、適用は昭和三十九年度からである。次に学科配当表と、創設時からの修了者数を掲げておく。

第九十六表 専攻科学科配当表(昭和三十三・五十七年度)

〈国語国文学専攻科〉

〈英語英文学専攻科〉

第九十七表 教育学部専攻科修了者数(昭和33―56年度)

c 教職課程

 教育の新制度の施行に対応して昭和二十四年五月、教育職員免許法が公布され、同年九月から施行された。これは、教育の専門性の原理を制度的に確認したもので、教員はすべて各相当の免許状を持たなければならず、その担当科目は免許状に示す免許科目の教科に限られると定めている。また、免許状取得については、検定による道は残しているが、原則として教員養成機関を特定せず、その養成を広く大学卒業の者としている。これらの者は、一般教育、各専門に関する、所定の単位を修得し、加えて教職に関する科目を履修することが要求されるわけだが、これは、教育の専門性を明瞭にするとともに、教員が広い視野と教育実践に耐え得る知識を具備していることを求め、同時に教育の現場に、これらの基礎を持たぬ者の安易な介入を許さぬということでもある。

 早稲田大学では、この制度の実施に対応するため、大学本部を中心に協議し、教育職員免許法の別表第一に示す所要資格の専門科目にある「教科に関するもの」については、各学部に配置してある専門科目により、またそれが不足の場合は他学部にある科目を履修することにより充足することができると判断した。「教職に関するもの」は主として全学一本の組織によって、これを処理することにした(「教科に関するもの」をこの組織で扱うことをしないのではなく、学生の履修上各学部設置の科目と不足分は他学部聴講で補うことが略一帯にまとまっている早稲田の実情に合うからである)。

 次に、この「教職課程」担当個所についてであるが、将来を考えた場合、独立した組織として配置することが適当であるとの意見もあったが、教育学部に置くこととなった。

 教育学部では、赤松保羅学部長のもとで小沢恒一教授を中心に実施案を練り、昭和二十四年度教職課程学科目を次のように決定した。

第九十八表 教職課程学科目(昭和二十四年度)

 この開講第一年度に多くのことが基礎づけられたが、翌年度開講に当り科目の増改廃を実施することになり、殊に教科教育法を各科開講した。一方、教職課程全般について、殊に免許状取得のために履修すべき科目等を詳細に記した冊子を作成、希望学生に配布し万全を期した。次に、昭和二十五年度と五十七年度の学科配当を対照しておく。因に、二十五年度は、同一内容のものが昼夜に分けて掲げられていた。

第九十九表 教職課程学科配当表(昭和25・57年度)

 この間の学科配当の変遷について個々の資料の掲載は省くが、主な点は次の通りである。

1 昭和二十九年度に科目の改変を行い、教科教育法を三年次必修、教育実習を四年次必修とし、これらを含め全体で二十単位以上履修することにした。

2 三十五年度には、学則に従い五科目十六単位以上履修とした。この骨子が現在につながっている。

3 三十九年度には、教科教育法各科に、保健体育、書道、職業を加えた。

4 四十一年度より、教科教育法がそれぞれ四単位になり、「教育実習」を「教育実習基礎演習」と改称し従来の三単位を二単位に算定した(五科目、十六単位の原則には変更はない)。

5 四十六年度には「教育実習基礎演習」を「オリエンテーション」と改称した。

6 五十年度からは、従来二年次より履修することになっていた科目を一年次より履修できるようにした。ただし、一年次は一科目とし、二年次以降三科目とする。

7 五十四年度から五科目十六単位の必修のほかに「自由選択科目」を増加し、法規、教育史、学校外教育、障害児教育など六科目を置いた。学生の実力養成の機会を多くすることを意図したものであり、従って、免許状取得のための必要単位数には入れなかった。

 教職課程受講者数は、年毎に増加している。科目で例を挙げれば、社会科教育法は開始時の昭和二十五年には昼夜(後期のみ)各一名であったものが昭和三十年代には六クラス(一クラス平均百七名)、四十年代には十四クラス(平均六十七名)、五十年代にはクラス数は十四であるが各クラス平均八十名となり、昭和五十五年度登録数は十四クラス計千六十三名になっている。各学部別、学年別の五十七年度の登録者数を掲げると第百表の通りである。

第百表 教職課程各学部・学年別登録者数一覧(昭和57年度)

教職課程委員会

 「教職課程」の管理運営に当って、当初、教育学部長、同教務正副主任および教育学部と文学部の教育学関係教授若干名で委員会を構成した。この委員会は教育学部教授会の諮問機関として位置づけられ、この性格は今日に及んでいる。会議は、学部長または教務主任が座長となり、主として教職課程主任が提案者となって、教職課程科目、人事その他教職関係事項について審議の上、教育学部教授会に提案、議決を経て実施する、という過程を採っていた。

 その後、委員に各学部の教務主任を加えた。これは全学的組織という建て前と、各学部への連絡事項の了承を得るためであった(更に、教育学部の各学科主任を委員に加えたこともある)。

 昭和三十六年にはこれらを規定化し、委員会要項が定まった(後掲)。しかし、四十年代後半に至ると、教職課程が教育学部に置かれた意味の理解の不徹底さなどが原因し、各学部からの積極的な参加が得られなくなった。一般に教職課程を教育学部の一付属物の如く考える向きがあり、また、教授会および執行部にも学部と教職課程の関係についての誤解や認識不足があったように思われる。その結果、昭和五十年以降、教職課程委員会は規定通りには行われず、数名の教育学部教育学科の教授・助教授と、同学部の教科教育法担当者で各科から推薦された者若干名を以て構成され、運営されていった。

 各学部との連絡については、別に連絡協議会(仮称)を持つ予定であったが、結局は、必要事項を文書で通知する形が採られることになった。

 時代の推移とともに、教職を希望する学生が増加し、教員養成問題が重大視される趨勢を迎えて、教職課程の在り方が大きな課題になっていった。その重要性に鑑み、運営の実際をめぐってあらためて委員会についての検討が進められた。昭和五十年には正式に教職課程主任を、五十七年には副主任を置いて組織の強化を図るとともに委員会での討議を重ね、その結果、五十七年六月、新しい規定が誕生した。当初の委員会要項と対照すると次のようになる。

教職課程委員会要項

(昭三六・一〇・一七)

改正 昭三九・一二・一、昭四六・四・二〇

一 学則第十九条にもとづき、教育学部に教職課程委員会をおく。教職課程委員会は、教育学部教授会の諮問機関とする。

二 教職課程委員会は、次の委員をもって構成する。

a 教職課程科目を担当する専任教員。

b 各学部の教務主任(教務担当)。

c 教職課程主任。

三 教職課程委員会に委員長一人をおき、教職課程主任をこれにあてる。

四 教職課程委員会は、委員長がこれを招集し、議事を整理する。

五 教職課程委員会は、次の事項を審議する。

a 教職課程担当教員に関する事項。

b 「教職に関する専門科目」に関する事項。

c 「教科に関する専門科目」の認定および勧告に関する事項。

d 教育実習に関する事項。

教職課程規約

(昭五七・六・八)

第一条 学則第十九条に基づき、学則第二十条に示された科目の運営にあたる常設の機関として教育学部に教職課程をおく。

第二条 教職課程に主任一人をおく。

2 主任は、教育学部本属の教授の中から、教育学部長の推薦により大学が嘱任する。

3 主任の任期は二年として教育学部長の任期に従う。ただし再任を妨げない。

第三条 教職課程主任は、教育学部長の助言のもとに教職課程の運営のための諸業務を統括する。

第四条 教職課程に副主任一人をおき、主任を補佐せしめることができる。

2 副主任は、教育学部本属の教授又は助教授の中から、学部長の推薦により大学が嘱任する。

3 副主任の任期は主任の任期に従う。

第五条 教職課程の適切な運営をはかるための諸事項を審議する機関として教職課程委員会をおく。

第六条 教職課程委員会は次の委員によつて構成されるもの

e その他、教職課程実施上に必要な事項。

六 教職課程委員会は、必要に応じて専門委員会をおくことができる。

七 専門委員会は、教職課程委員会委員の中から委嘱されたものおよび教職課程委員会が、必要と認めて委嘱したものをもって構成する。

八 専門委員会は、第五項にかかる専門事項および委員会が付議した事項を審議する。

とする。

一 教職課程主任および副主任。

二 教育学部教務担当教務主任。

三 外国語科を含む各学科の推薦による専任教員それぞれ一名。

四 オリエンテーション担当者。

2 教職課程委員会委員の任期は二年とする。ただし再任を妨げない。

第七条 教職課程委員会は教職課程主任がこれを招集し、その議事を整理する。

第八条 教職課程委員会は次の事項を審議する。

一 教職課程担当教員に関する事項。

二 「教職に関する専門科目」の設置および運営に関する事項。

三 教育実習に関する事項。

四 その他教職課程の運営上必要とされる事項。

第九条 教職課程委員会において審議された事項は、教育学部教授会の承認を必要とする。

第十条 教職課程委員会は必要に応じて専門委員会をおくことができる。

2 専門委員会は第八条に示された事項について意見を述べることができる。

第十一条 教職課程の運営に関する事務は、教育学部事務長がこれを統括する。

付則

この規約は昭和五十七年六月八日より施行する。

d 付置の教室・読書室

視聴覚教室

 戦後の教育改造の中で、視聴覚教育は逸早く採り上げられたものの一つである。既に新制度発足前、アメリカ教育界の現状が紹介され、視聴覚教育に対する期待と早急の実施が一部では渇望されていた。勿論、はやく昭和初期には実物幻灯機からムービーまで使われていたので、新しく視聴覚教育の組織と実際について戸惑うほどのものではなく、またその利点についての認識は皆が感じていたものである。

 ただ、現実には教室の改造とか器械器具の購入に隘路があったのと技術を伴うものについての取扱いに不慣れな点があった。しかし、大学はこの新方式に逸早く取組み、先ず大学教務部直轄の教室を造り、教育効果をより高くするために業者側と提携して器材器具の改造新造を要望したのであった。

 教育学部が教室を持つことのできたのは、昭和二十七年十一月であった。助手時代からこの道に専念した高橋勉教授は、この設置の意図について次の諸点をあげている。

 先ず第一に、第二次大戦後の日本の教育全般に、視聴覚教育の推進が必要であったこと。第二に、講義を視聴覚の教具や資料を生かした立体的でしかも効果的なものにし、特色をもたせること、第三に、教育学部は、中・高等学校の教員を養成することを主な目的にしているのであるから、視聴覚的方法を駆使したユニークな授業に学生を参加させることにより、やがて教壇に立ったとき、単なる教科書の解読や、ただ言語的な講義に終始することのないように、現代的な教授理念と科学的な教授法とを体得させるようにすること。

 以上の諸目的を達成するために、二十七年四月から「視聴覚教育(四単位)」が開講され、これと並行して、教具・教材の操作法や資科自作のための科外実習が開始された。

 これらは、学部が現在の一号館で法学部と同居をしていた時代のことであるが、現八号館に移り更に新設の一六号館に移転して、一四号館三階に、新構想による視聴覚教室が開設された。これによって、より改善された設備と機能的な教室配置が充足され、教員養成学部にふさわしい研究と実践のできる教育の場ができ上がったのである。

 現在、視聴覚教育に関連する教科目として、視聴覚教育(二単位、社会教育専修)、教授工学および実習(四単位、同専修)のほか、教育学専修、体育学専修、地歴専修の専門選択科目として「視聴覚教育及び実習(二単位)」、文学部ならびに他学部学生のための博物館学芸員、図書館司書資格取得者に随意科目「視聴覚教育及び実習(二単位)」が設置されている。

学生読書室

 学部学生読書室は、旧制度下で復活した学生図書室を発展させ、新制度に応じた「学生読書室」として構想を新たに昭和二十四年に発足した。その管理運営は、学部学友会図書部に委託する形が採られたが、現一号館二階に設けられた書庫には、当初、ただ書棚が並んでいるだけという状態だった。部員が、それぞれの本を供出し、夏休みに神田の古本街に出向いて行って、少しずつ買い集めてくるという苦労の中で、徐々に形を成して行った。

 昭和二十五年十二月、学友会と自治会の合体によって学生会が生まれたのを機に、改称された学生会図書部がその任を引き継ぐことになった。その後、学生運動の転変の中で、自治会図書部と称した時期もあるが、昭和三十八年の自治会の分裂崩壊によって、組織的な母体を持たない教育学部学生読書室図書部となって、今日に至っている。

 図書部員は学生一般から公募されている。日常業務の多くが彼らに委ねられているが、教授会の指名による教員委員と部員代表数名とが委員会を構成し、責任ある運営を行っている。昭和五十七年度の予算は約六百九十四万円、蔵書数は約三万四千冊を超えている。

 なおカウンター業務には学生職員が配置されており、午前九時から午後四時の間が二名、それ以後午後五時四十五分までは一名が勤務している。

5 将来への構想

 昭和二十四年、新制大学として再出発した早稲田大学に我が国最初の教育学部が創設されてから、既に三十年余の春秋を経た。その間、鋭意学部の内容充実に努めた結果、今日の教育学部は五学科十一専修を擁する一大学部となり、毎年、三万を超える受験生を迎え、同時に、各界へ向けて優れた卒業生を送り出すに至っている。特に学部の主たる目的である教員養成における成果は目覚ましく、中・高等学校の教育界の一大勢力となりつつある。

 このような情況において多年に亘って希求されてきた懸案に、⑴教育研究所の設立、⑵初等教育課程の設置、⑶教育系大学院の新設がある。これらについては、学部内でしばしば論ぜられたばかりでなく、本部に上申もし、その機を熟させる努力を続けているので、教育学部史の締くくりとしてそれらの概要を留めておきたい。

a 教育研究所構想

 上述のような学内外の情況下において、殊に教育現場よりする今後の複雑多岐に亘る問題の解決は、最早個々の専門分野のみの研究では十分応えられない。専門分野の協同、統合という研究体制をとる公的研究の場を持つことが必要な所以である。そのことにより各専門分野の研究を高めることは疑い得ない。

 教育研究所を大学が持つことは、分散的に行われてきた大学全体に係わる教育研究を統一的・効率的に果し得ることから、大学への寄与には量り知れないものがある。更にその研究成果の公開は直ちに学生の学習意欲を喚起するだけでなく、卒業生ないし現職者の再教育の場ともなって、有効に機能することが十分に考えられる。

 以上の意味において、教育研究所の設立は、大学にとっては今後百年の早稲田大学独自の教育のあり方を模索してゆくのに不可欠な場を得ることとして、また教育学部にとっては、学部の性格・使命を自らにおいて再確認するとともに、その実質を世に問うてゆくことによって、広く日本の、あるいは世界の教育界に大きく貢献する機縁を持つこととして、喫緊事なのである。

 教育研究所設立へ向けての動きは、先ず昭和五十二年十一月十一日付で大杉徴学部長から総長宛請願という形で具体化している。学部長の私的諮問に応えて出された「教育学等研究所(人間科学研究所)試案」が添えられているが、この動きは、大学の創立百周年記念事業との見合いで設置された教育学部長期計画委員会(委員長榎本隆司)での話題が直接の契機となっている。以後長期計画委員会は、初等教育課程や大学院の新設問題等を併せて論議を重ねているが、昭和五十五年七月十五日の委員会で、桜井光昭学部長の諮問を受ける形であらためて榎本委員長から設立の必要性が提起されて大きく前へ出ることになった。同年十月十八日の委員会には、「教育研究所設立へ向けて」という委員長の叩き台が提示され、委員会の議を経て次のようにまとめられた。

教育研究所設立へ向けて

教育の荒廃が叫ばれてすでに久しい。高等教育の大衆化に伴う問題や生涯教育の問題、そして教師養成にかかる制度改革への動き等々、教育の場に提起されている問題は、きわめて多様でありかつ重要である。そこに思いをいたす時、教育学部はいま、将来いかにあるべきかについて緊要な課題を負い、それへの早急な対応を求められていると考えざるを得ない。

すでに折々に考えられてきたことであるが、このような状況下においてあらためて要請されるのは、まず、教育学部とは何なのかを問い直し、確認することである。そして、それを実質化し拡充していくための具体的施策を積極的に考えなければならないということである。教育研究所の設立は、その基本的なひとつである。

昭和二十四年に創設された早稲田大学教育学部は、教員養成を主とし、ひろく各界に教育者たるの人材を送り出すことを目的として、三十年にわたるすぐれた実績を挙げてきている。その特質は、高度な専門性を持っているところにある。別に言えば、個別の専門諸科学と教育にかかる諸科学との有機的な結合深化を志向しているところに、固有の存在理由があった。誇るべき特色であると言って過言ではない。むろんそれは、教員養成課程を含めてのことである。しかも、現在学部が担っているところの緊要な課題とは、まさにこのことのより充実した具体化実質化であり、それを基底にした将来への展望拡充である。

大学は研究と教育の場である。総合大学の中の各学部は、それぞれの性格・目的に従って専門とする学問の研究を進めると同時に、その成果を学生に教育する任務を負っている。各学部は、個々に目標を掲げ計画を立てて、負っている教育の任を果たしているわけであるが、つねに教育とは何かというその本質を問い、教育のあるべき姿を追っている教育学部、もしくはそれを直接研究対象とし課題としている研究者集団は、各学部あるいは学内の研究・行政の諸機関と十分連繫を保ちながら、総合大学全体の教育の問題を積極的に考えるべき立場にいる。そのような役割を担うに足る内実をもつことによって、教育学部は総合大学の中での重要な位置を占めることになる。

教育は、人間の限りない成長の可能性を認めるところに成り立っている。教育という名の学問、言えば教育科学もまた、当然こうした人間認識を前提としている。よりよい教育とは、よりよい個および集団としての人間を育むことである。そしてそこでの価値観は、人間にかかわるあらゆる学問を踏まえたところで規定される。教育科学が、哲学、心理学、医学、生物学、文学、歴史学、人類学、地理学、経済学、法学、社会学、情報科学、身体運動学等あらゆる個別の学問を包摂した総合科学としてとらえられるゆえんである。

早稲田大学教育学部は、総合科学としての教育科学の研究を基軸にすると同時に、個別の学問研究を深め、両者の有機的な結合深化をはかることによってすぐれた教育者を各界に送り出すことを目的としている。そのためにまず求められるのは、それぞれの専門領域で研究を深めている教員が、そこでの成果をいかに教育科学に結合させていくかということである。すくなくとも、そうした姿勢をつねに積極的に打ち出していく必要があるが、それを具現する場、もしくは組織としての教育研究所の設置が、その意味において不可欠なのである。

教育研究所は、共同研究あるいはプロジェクトチームを組織しての研究の場として有効である。そして教育学部の教員は、学部の目的達成のために、一定の責務を負う立場で共同研究の担い手たることを求められている。個々の教員の努力研鑽によって支えられてきた学部の声価は、新たに共同研究による、より充実した内実を得て、あるべき教育学部としての真価をかち得ることになると考えられる。

初等教育課程の設置とか大学院問題など、学部が継続的に抱えてきている課題への積極的な対応が望まれる。全学の教職課程を担当している立場で考えるべき問題も少なくない。付属・系属校問題を含めて大学が担っている高等学校教育についても重大な関心が寄せられなければならない。現職教員の再教育についても合わせ考えるべき時がきている。山積している当面の問題の、個別的、総合的な研究や処理のためにだけでも、教育研究所の設立は喫緊事である。

長期的には、教育諸科学の開発研究のため、あるいは国際的視野に立っての教育問題の総合的検討、したがって、国内外の研究者、研究諸機関との交流を深めていくためにも、そして将来、日本あるいは世界の教育界に指導的な役割を果たすに足る内実を培っていくためにも、すぐれた教育研究所の早期設立が望まれる。

教育とはつねに現実のものである。動いている実態に即して研究は要請される。基礎研究のためのそれはともかくとして、教育学研究が、単にその歴史や既成の理論の研究にとどまるものでないことは周知のごとくである。さまざまな問題が提起されている時代の中で、早稲田大学が教育界に負っている責務は大きい。教育研究所の設立は、その現実的課題を果たすべき将来への道の一里塚である。

 昭和五十六年一月十三日、長期計画委員会から「教育研究所設立に関する答申」が学部長宛に出されたが、直ちに教授会の承認を得て、一月二十七日には「早稲田大学教育研究所(仮称)設立準備委員会」が発足し、三島二郎委員長の下で精力的な作業が展開されることになった。研究所は「早稲田大学教育総合研究所」(The Synthetic Institute for Education in Waseda University)として構想され、同年秋には施設・設備に関する精細なプランや管理・運営等にかかる研究所規則の素案もでき上がった。その骨子は、あたかも総長から求められた「教育研究条件の改善に関する要望」の一として提出されたが、更にその後の具体的な検討を経て、次のような成案を得た。

教育総合研究所の組織と施設・設備等に関する試案

当該研究所においては、その設立趣意並びに機構、研究課題等に鑑み、所期の目的を達成するため、下記の組織と施設・設備を備える必要があるものと思料する。

Ⅰ、組織

1 所長 一名

2 研究員

ⓐ 専任研究員 十五―六名

ⓑ 一般研究員(教育学部専任教員全員) 百十名

ⓒ 特別研究員(学内・国内外) 若干名

ⓓ 助手(専任) 若干名

ⓔ 嘱託 若干名

3 事務長(専任) 一名

4 職員(専任) 五名

Ⅱ、施設・設備

A、施設

1 実践研究部門

㋑ 研究室 十六室(専用)

㋺ 討議室 十室(専用)

2 研修普及部門

㋑ 研修室 十室(専用)

㋺ 相談室(カウンセリング室) 三室(専用)

3 基礎研究部門

㋑ 研究室 五室(専用)

㋺ 特別研究室 八室(専用)

4 その他

㋑ 実験実習室 十五室

㋺ 実験実習準備室 八室

㋩ 図書室 二室

㋥ 倉庫 二室

㋭ 視聴覚教室・準備室 三室

㋬ LL教室・準備室 二室

㋣ 講師室 二室

㋠ 会議室 二室

㋷ 事務室 一室

㋦ 管理室 一室

B、設 備

1 図書 三千万円

2 実験器具 三千万円

Ⅲ、その他

A 運営 教育総合研究所の運営は、運営委員会を構成し、その議決によるものとする。

B 経費 教育総合研究所の経費は、大学からの交付金、寄付金、研究補助金および研究・調査等の委託手数料その他の収入をもってこれにあてる。

早稲田大学教育総合研究所規則

第一章 総則

(名称)

第一条 本大学に、早稲田大学教育総合研究所(以下「研究所」という)をおく。

(目的)

第二条 この研究所は、人間および人間の形成に関連する基礎的・実践的研究、現代日本および国際社会における教育文化の進展に寄与するための総合的研究を行うことを目的とする。

(事業)

第三条 この研究所は、前条の目的を達成するために、次の事業を行う。

一、研究および調査

二、研究および調査の成果の発表

三、研究および調査の指導および助成

四、研究および調査の受託

五、研究資料の収集整理および保管、借出

六、研究会、講演会および各種講座、講習会等の開催

七、その他、この研究所の目的達成に必要な事項

第二章 所長

(所長)

第四条 この研究所に所長一人をおく。

(所長の職務)

第五条 所長は、所務を総括し、研究所を代表する。

2 所長が欠けたとき、または所長に事故があるときは、総長または総長の指名する理事が、その職務を行う。

(事業計画および経過の報告)

第六条 所長は、毎年度の終りに、当該年度の事業の経過および次年度の事業計画を運営委員会の議を経て、大学に報告し、その承認を得なければならない。

2 事業計画を変更したときも同様とする。

(所長の嘱任)

第七条所長は、専任および一般研究員のうちから運営委員会が選挙した候補者につき、評議員会の同意を経て、大学が嘱任する。

(所長候補者の選挙)

第八条 所長候補者の選挙は無記名投票により、出席者の投票の過半数を得た者を当選人とする。

2 出席者の投票の過半数を得た者がないときは、得票数の一位、二位の者について再投票を行い、有効投票の過半数を得た者を当選人とする。

ただし、一位が複数ある場合は一位の者全員について、二位が複数ある場合は一位の者と二位の者全員について再投票を行い、有効投票の過半数を得た者を当選人とする。

(所長の任期および後任者の任期)

第九条 所長の任期は二年とする。

2 任期の満了前に所長が欠けたときは、その後任者の任期は、前任者の任期の残任期間とする。

(所長の再々任禁止)

第十条 所長は、再々任されることができない。

ただし、前条第二項により所長に就任した者については、この限りではない。

(所長の兼任禁止)

第十一条 所長は、学部、大学院研究科、体育局、学校または付属機関の長を兼ねることができない。

第三章 研究員および研究員会

(研究員およびその種類)

第十二条 この研究所に研究員若干人をおく。

研究員とは、専任研究員、一般研究員、特別研究員をいう。

(研究員の身分)

第十三条 研究員の身分は、教授、助教授、講師の三種とする。

(専任研究員およびその任免)

第十四条 専任研究員とは、当研究所を本属とする者をいう。

2 専任研究員の嘱任および解任は、運営委員会の議を経て大学が行う。

3 専任研究員については、早稲田大学教員任免規則(昭和二十四年十月十五日)を準用する。

(一般研究員およびその任期)

第十五条 一般研究員とは、教育学部を本属とする教員をいう。

2 一般研究員の任期は二年とする。ただし再任を妨げない。

(特別研究員およびその嘱任、任期)

第十六条 事業計画の実施上必要と認められるときは、特別研究員をおき、研究調査等に参加させることができる。

2 特別研究員は当該研究部会の推薦に基づき、運営委員会の議を経て大学が嘱任する。

3 特別研究員の任期は一年とする。

(研究員の任務)

第十七条 研究員は研究所の計画に基づき、研究、調査、その他この研究所の事業に従事する。

2 所長は、必要あると認めるときは、研究員に対し、研究に関する報告を求めることができる。

(研究部会)

第十八条 研究所は、事業計画に従い、運営委員会の議を経て、研究部会、研修普及部会を設けることができる。

2 研究部会は研究員をもって組織し、主任者一人をおく。

3 主任者はそれぞれの研究部会の推薦に基づき、運営委員会の議を経て、所長が指名する。

4 主任者は、付託された研究事項につき、その進行状況を所長に報告するものとし、必要に応じて意見を具申することができる。

(研究員会、招集およびその権限)

第十九条 研究員は、研究員会を組織する。

2 研究員会は、必要に応じて所長が招集し、その議事を整理する。

3 所長は、研究および調査に関する重要事項について、研究員会の意見を聴かなければならない。

4 研究員会は、研究所の管理および運営に関する重要事項について、所長の諮問に応じ、必要によって所長に建議することができる。

第四章 幹事

(幹事)

第二十条 この研究所に、幹事三人以内をおく。

(幹事の職務)

第二十一条 幹事は所長を補佐し、所務を分掌する。

(幹事の嘱任)

第二十二条 幹事は、運営委員のうちから運営委員会の議を経て、大学が嘱任する。

(幹事の任期)

第二十三条 幹事の任期については、第九条(所長の任期および後任者の任期)および第十条(所長の再々任禁止)の規定を準用する。

第五章 運営委員および運営委員会

(運営委員)

第二十四条 この研究所に、運営委員若干人をおく。

(運営委員の嘱任およびその区分)

第二十五条 運営委員は、次の区分により大学が嘱任する。

一、教育学部長

二、教授、助教授である専任研究員

三、教授、助教授である一般研究員のうちから互選された者若干人

四、運営委員会が推薦する者若干人

(運営委員の任期)

第二十六条 前条第三号および第四号の規定による運営委員の任期は二年とする。ただし、再任を妨げない。

(運営委員会およびその権限)

第二十七条 運営委員は運営委員会を組織し、次の事項を議決する。

一、事業計画ならびに研究員の研究および調査に関する事項

二、研究部会等の設置および廃止に関する事項

三、基金の開設に関する事項

四、研究所の管理および運営に関する事項

五、研究所の予算および決算に関する事項

六、所長候補者の選挙に関する事項

七、研究員、助手および嘱託の任免に関する事項

八、その他この研究所に関する重要事項

2 運営委員会は、必要に応じて研究員に対し、運営委員会に出席して発言を求めることができる。

3 運営委員会の議決は、出席運営委員の過半数による。

4 運営委員会の議決は、大学の承認を経て、その効力を生ずる。

(運営委員会の招集およびその定足数)

第二十八条 運営委員会は所長が招集し、その議事を整理する。

2 運営委員会は、運営委員の三分の一以上の出席がなければ開会することができない。ただし、前条第一項第二号および第三号の議案について議する場合には、運営委員三分の二以上の出席を要する。この場合の定足数の算定にあたっては、外国に出張中の者、休職中の者および病気、その他の理由により引続き二ヵ月以上欠勤中の者は、運営委員の数に算入しない。

第六章 助手および嘱託

(助手)

第二十九条 この研究所に助手若干人をおくことができる。

2 助手は、所長の命を受けて研究員を補佐し、研究、調査、その他この研究所の業務に従事する。

3 助手は、運営委員会の推薦に基づき、大学が嘱任する。

4 助手については、別に規程をもって定める。

(嘱託)

第三十条 事業計画の実施上必要があると認めるときは、臨時に嘱託をおき、研究、調査等に参加させることができる。

2 嘱託の任期は、その都度定める。

3 嘱託は、運営委員会の推薦に基づき、大学が嘱任する。

(委託研修者の受入れ)

第三十一条 この研究所において委託研修者とは、この研究所が第三者の委託に基づいて。教育研究、調査等の指導および訓練を引き受けた者をいう。

2 前項の委託研修者の受け入れに関する事項は、運営委員会がこれを定める。

第七章 事務長および職員

(事務長および職員)

第三十二条 この研究所に事務長一人および職員若干人をおく。

2 事務長は、所長の命を受けて、この研究所の事務を処理する。

3 職員は、事務長を補佐する。

第八章 基金

(基金の開設およびその運用)

第三十三条 この研究所は、所定の手続を経て基金を開設することができる。

2 基金開設の手続、運用等については管理委員会が別に定める。

第九章 経理

(会計年度)

第三十四条 この研究所の会計年度は、毎年四月一日に始まり、翌年三月三十一日をもって終る。

(経費)

第三十五条 この研究所の経費は、大学からの交付金、寄付金、研究補助金および研究、調査等の委託手数料、その他の収入をもってこれにあてる。

(収支の予算)

第三十六条 所長は、毎年度の終りに次年度の収支の予算案を作成し、運営委員会の議を経て、大学の承認を得なければならない。

(収支の決算)

第三十七条 所長は、毎年五月末日までに前年度収支の決算書を作成し、運営委員会の議を経て、大学の承認を得なければならない。

第十章 発明または著作等に関する権利

(発明または著作等に関する権利)

第三十八条 この研究所における研究、調査に基づく発明または著作等に関する権利の帰属あるいは利用については、別に定める。

付則

(施行期日)

この規則は、昭和 年四月一日から施行する。

 実現のためには、現在の大学内の諸条件を考えるとこのままの形では無理であろう。克服しなければならない条件は多い。いまは小さな設立準備室があるだけだが、どんな形ででも先ず一歩前へ出ることである。掲げられた理想の灯の揺らぐようなことがあってはならない。

b 初等教育課程構想

 教育学部内に初等教育課程を設置しようという議が起ったのは古いが、昭和四十年代に入ってそれが強く論ぜられるようになった。その経緯については、学部内に設置された「初等教育課程検討委員会」の昭和五十年十月二十八日の報告に詳しいので次に掲載する。

一 初等教育課程設置の可否

(イ) 設置し、できるだけ早く実現させる努力が望ましい。

(ロ) 現状では本部キャンパス内に学科及び附属施設を作ることは実現し難いと思われる。本庄校地を利用しても差支えない。

(ハ) 現在ある学科、専修の充実が先ではないかとの意見もあったが、この問題もこの学科を新設することによって改善への一つの契機となりうる可能性があり、同時に検討できる問題と考える。

(ニ) 既に、初等教員養成については四十五年(山岡学部長)に村井総長及び増田理事、浜田理事、堀家教務部長に口頭で説明し、教授会の了解の上で初等教育課程の計画について文書が提出されていること。学生問題等で中断されたが、川副学部長を経て現在に至るまで、この計画を教育学部では放棄していないこと、村井総長は、たびたび公の席で初等教員養成等に関した発言を行っていることなども考えて理事者も真剣に検討すべきであると思われる。

二 初等教育課程設置の趣旨(理由)

〔Ⅰ〕 教育学部の系譜から考えられる趣旨

昭和二十四年以来、全国各地に設置された新制大学は、公私を通じてその数はおびただしいが、私学において教育学部が設けられたのは、わが早稲田大学が最初であった。この事実は文化国家の建設における「教育」の使命に対する早稲田大学の熱意と認識を示すと同時に、内外の教育界における本大学教育学部の地位をあきらかにするものである。

教育学部は昭和二十四年、早稲田大学が新制大学として再編成されたとき、旧高等師範部を母体として創設されたものである。高等師範部が創設されたのは、明治三十六年であって、それより約半世紀の間に高等師範部は全国教育界に数千の人材を送り出し、大学・高等学校・中学校そのほか小学校社会教育の各分野に重大な貢献をなしてきた。現在、高等学校長・小中学校長、教育長その他の要職にあって、全国各地教育界の推進力となっている先輩は、枚挙にいとまないほどである。

教育学部の目的とするところは、その伝統に立って、高等学校・中学校における教育者を養成することにあるが、同時に種々の社会教育機関ならびに、ひろく実社会のいろいろの分野において高い教養と教育理念を基調として活躍できる人材の養成である。

当学部は新制大学の一学部としての歴史はまだ浅いが、旧高等師範部以来の光輝ある伝統は既に半世紀を越え、早稲田大学建学の精神を基調とし、同時に時代の要請に即応する教育理念の確立と実践においては、着々とその歩みを進めてきた。

このことは又同時に教育学部のあり方と方向に新しい問題を課しているともいえる。

次代を担う国民の教育の重要性の認識から大隈老侯が高等師範部を創設したのであるが、初等教育に無関心であったわけではなかった。当時は小学校の教員は所謂官公立の「師範学校」で養成され、私学では如何ともするすべがなかったのである。

われわれは、官立の養成機関で劃一的な方向で義務教育の教員が養成された結果については、改めて述べるまでもなくよく知っている。

戦後、制度が改められたため私学の中に次第に初等教育教員を養成する大学も増えてきた。しかし多くは単に免許状を取得させるにとどまっている。初等教員に対する一部蔑視の思想の存在、又教員の不足等の事情などもあって我国においては最も重要視しなければならない初等教育が戦後三十年の経過にかかわらず、一向に進歩改善されていない。

教員の養成が少くとも「官立」のみで行われてはならないし、又文部省のみが義務教育に関して主導権をもつことも望ましくない。こうした傾向を打破するためにも、伝統のある私立大学は、真剣に初等教育の研究と教員の養成を考えるべき社会的義務があると考える。

この点から考えて、すぐれた資質のある学生と、それらを育てる優れた校風と教員をもつ早稲田大学で初等教育を研究し教員を養成する部門をもつことは当然であろう。

〔Ⅱ〕 教育学部に初等教育課程を設置する直接的理由

(イ) 教員養成を基本目標とする教育学部がその名称にふさわしい特色を明確化することが他学部との関係においても必要であり、その一翼として初等教育教員の免許状まで含むすべてのレベルの免許状を取得できる教員養成組織を完備したいこと。

(ロ) 現在全国的に初等教育教員の需要が多いが一国の将来にかかわる教員養成の基本課題を、幅広い人材育成の伝統と経験をもつ、一流私立大学が担うことが各方面から期待されていること。

(ハ) 本学部の学生で将来、初等教育教員たらんとし、また初等教育研究を希望する者の数が増加しているにも拘らず免許状を取得する方法がないためその志望への途がとざされているので、この志望を充足させてやることが望ましいこと。

(ニ) これに関連するが、教育学科においては、止むなく、社会科中・高免許状を取得せしめているが、教育学科で、社会科免許状を取得しても、あまり、採用校がないという実情もこのコース設置要因である。

(ホ) 全国的に初等教育教員の需要が多いために、本学の卒業生も、他大学や通信教育などの方法で免許状を取得している状況であるため、教育学部自体で、初等教育教員免許状が付与されるコースが設置されることが望ましいこと。

なお、全国的に需給ギャップが大きく、中・高免許取得者を臨時免許状で採用し、都道府県の教育委員会の講習など行って本免に切り替えているが、初等教育教員の質の向上がこの面からも要求されている。

三 理想的なものか、最も簡単(最低限の資格取得にするか)なものにするか。

 二に述べた趣旨から考えても理想的なものとすべきである。理想的なという意味は少くとも官公立大学の初等教員養成課程に匹敵するものということである。

 そのためには実験学校(幼稚園、小学校、中学校)等の施設をもつこと、教員数の確保、カリキュラム等を慎重に計画することが必要である。

 単なる免許状をあたえる課程などは、むしろ設置しない方がよいとの意見もあったくらいである。

四 教育学部における位置づけ

⑴ 学科にするか ⑵ 教育学科中の一専修とするか ⑶ 教職課程中の一つとするか。

学科とするのがよいと思われる。

(イ) 名称「児童教育学科」とする。別に初等教育学科、第二教育学科、学芸学科、児童学科の案もあった。

(ロ) 幼稚園教諭一級および小学校一級の免許状が取得できる学科であること。

(ハ) 学科は「広い意味で児童の教育に関する研究及び実践活動を行おうとする学生に基礎的な知識技能をさずける」ことを目的とする。

(ニ) 学部としては、別に検討されている「大学院構想」と関連させて位置づけること。

五 従来置かれている中・高免許状取得との関係

⑴ 独立したものとするか ⑵ 併願(第二免許式)にするか

優れた知識能力を持った教員を養成することに主力を置き免許の種類を多くすることは考えない。幼・小一級免許の取得に主力をおく。

なお、中・高免許取得、既存学科の学生の初等教員免許の取得については、改めて別途検討すべきものと考える。

六 組織

⑴ カリキュラム

免許取得に必要な科目を卒業単位の中に算入することとし、専門科目は群制度とし、従来教育学部において実績のある講義科目を参考にして選択群を編成する。例えば先ず国語(言語)群、社会群、理数群、保健体育群より出発し、次第に拡大していくものとする。卒業に必要な総単位数及び群についての問題も改めて検討したいが、一案は卒業単位数を百五十とする。

一般教育(必) 三十六単位

保健体育(必) 四〃

外国語(必) 八〃

教職専門(必) 三十八〃

専門選択 六十四〃 (教科に関する専門科目必修二十二単位を含む)

計 百五十単位

⑵ 人事

専任教員十名(最低規準八名)をもって出発する。

⑶ 施設

(イ) 体育関係施設

(ロ) 教室(別表参照)

(ハ) 附属校(実地教育研究に必要な実験校)

幼稚園 二十名×三クラス×三年=百八十名

小学校 三十名×四クラス×六年=七百二十名

中学校 四十名×五クラス×三年=六百名

以上の規模に必要な施設、機械器具等(高校については、教育学部全体の問題として別に考えるものとする。)

(ニ) 以上の施設については、四ヵ年計画位で完成することも考えられる。

四 機械器具、図書

学科として必要なものの他に、教科書、模型教具、フィルム、レコード等初等教育に関連した資料を収集し、又、それを保管する教育図書館なども必要かと考えられる。

七 経費

⑴ 新設経費 ⑵ 通常経費

学科及び附属校を一体として考え、施設、機械、器具、特別教室、体育施設等も共同使用できるものは共同使用し、又、可能な程度に教員の交流を行い附属校と経費を一本化して考えれば、通常経費は当然収支が相償うものと考えられる。

八 実習校

附属校及び実習協力校を用いる。埼玉県に協力依頼する。

九 設置場所 十 設置 十一 定員

初等教育免許状を付与するコースの開設時期。見とおしによると、早期開設が望ましいと思われる状況にあるが(本部の本庄校地整備計画)、昭和五十二年四月が手続から考えて最も早い時期である。本庄の場合は、教員の宿泊施設、交通等を考えることが必要となろう。

学部定員との関係については改めて検討することが望ましいが、当初は百名(一学年)前後から出発するのがよいと思われる。

別表 小学校課程必要施設(100名予定数))

 この構想は実現へ向けて大学本部へも進達されたが、その後、時間が経緯するなかであらためて検討すべきだとの声も出、長期計画委員会にかけられた。基本的な考え方としては、学部の性格からしても設置されることが望まれるが、さまざまな問題を併せ考慮すると、暫く様子を見た方がよいとの意見が支配的となり、現在のところ具体的な動きはなされていない。

c 教育系大学院構想

 教育学部に直結する教育系大学院を作ろうという動きが具体化してきたのは昭和四十六年からである。その動機は、この頃より年々大学院進学希望者が増え始め、特に教育学部では教職を目指す大学院進学希望者が著しく増加し、既存の大学院ではカリキュラムの点でも、収容人員の点でも間に合わなくなってきたことである。

 右のような事情は単に本大学のみならず、社会一般の傾向であり、東京学芸大学に教育系大学院が開設されたのを契機として当時教育界に教育系大学院を望む気運が高まりつつあった。

 教育学部の大学院進学希望者の中で、例えば英語英文学科を例にとると、当時既に毎年十ないし二十名(学科定員百六十名の中)の希望者がおり、その中で文学研究科に進学可能な人数は最大限三名程度であった。残りの者は早稲田で勉学を続けたいという意志に反して、東大、東京外語大、国際キリスト教大、青山学院大、明治学院大など他大学の大学院を受験せざるを得なかった。しかも、これらの者の半数は教職に直接必要な英語学、応用言語学を専攻したいという希望者で、たとえ文学研究科の収容人員を拡大したとしても、英文学中心のカリキュラムでは、ずれを生じるおそれのある学生であった。

 右のような事態を憂慮した英語英文学科の教員の間から教育系大学院の設置を早急に検討すべきであるとの意見が出、昭和四十六年度の英語英文学科教員会の議題としてこの問題が再三採り上げられた。同年夏季休暇中に、当時の学科主任竜口直太郎教授を中心として数名の有志教員で大学院問題が具体化した場合を想定してカリキュラム試案を作成し、これを同年九月十四日の英語英文学科教員会で研究材料として討議し検討する段階にまで至っている。

 以上は一例に過ぎないが、教育系大学院設置を検討しようという気運が学部内に高まってきていたことを表している。この問題はやはり当時関心を集めていた初等教育課程開設の問題とともに教授会においても意見が述べられ、教育系大学院を設置すべきや否やを検討するための「大学院問題検討委員会」が学部特別委員会の一つとして、昭和四十七年度より設けられることになった。

 当時の教育学部におけるこの問題をめぐっての状況を理解するために多少補足するならば、当然賛否両論があり、しかもかなり強い反対意見や時期尚早論もあった。反対意見の中で最も多かったのは、既存の大学院各研究科との競合、重複を憂えるもので、次いで人事面で現在のスタッフの労働過重と人員増の困難から当面の設置は不可能とするものであった。当時教育系大学院は東京学芸大学、広島大学などごく少数しか存在せず、しかもいずれも早稲田大学とは環境、条件において異っていたために、教育系大学院の実態が把握できなかったことも反対意見の一因になったと思われる。その後の大学院問題検討の進捗状況を二つの時期に分けて示しておこう。

第一期(昭和四十七年度から昭和四十九年度まで)

 大学院問題検討委員会(以下検討委員会と略す)は、委員長竜口直太郎教授のもとで討議を重ね、昭和四十九年二月五日付で学部長宛に、次のような「大学院教育学研究科設置趣意書案」および「大学院設置に関する具体案」を委員会の記録とともに提出した。この趣意書を中心に、同年六月の教授会で意見の交換・討議が行われた。

大学院教育学研究科設置趣意書案

早稲田大学教育学部大学院問題検討委員会

早稲田大学教育学部は、大学高等師範部として創立以来七十有余年の歴史を有する学部である。この間、わが教育界はもちろん、学界その他各方面に、幾多の優れた人材を送り出して来たことは、内外の等しく認めるところである。

戦後の学制改革にともない、旧制高等師範部を母体として、新制教育学部となったのであるが、この学部は、旧制中等教員養成課程が単一学部として設置された特長ある歴史を有する学部なのである。すなわち、従来の中等教員養成はすべて新しい総合大学の学部に移行されることになったが、わが早稲田大学のみが、新制度のもとに中学・高校教員養成の専門学部を持ったのである。

このようにして教育学部は、大学の教育機関としては、独自の背景と伝統を有するのであるが、研究機関としては十分の機能を持ち得ないまま今日に至っている。初代赤松学部長は、早くから教育研究所の開設を提唱されたが、諸般の情勢からその実現には至らなかった。

しかしながら、これまで完成教育と見做されてきた教員養成学部は、近年国立の教育系大学にその例を見るように、教員の質的向上が社会的に強く要望されるところとなり、わが教育学部においても、高度の教育をほどこす大学院の設置が、いまや時代的要請と見做されるに至ったのである。

本学部に設置されることが望まれる大学院の性格は、専門的に高度な職業人の養成と、教育にたずさわる者の質の向上をめざすものである。わが教育学部は、教員志望者の質的向上や、年々増加する大学院志望者ならびに教職希望者の要望に応えるために、学部の輝かしい独自の教育理念と歴史性にもとづき、特質のある中学・高校等の教員養成と、専門的職業人の養成をめざす研究機関として、教職大学院の設置をここに強く要望する次第である。

大学院設置に関する具体案

一、本学部に設けられる大学院は、教育学研究科(修士課程)であって、学校教育に関するものの資質の向上をはかることを目的として設けられるものである。しかし、この目的にかなった研究者の養成をはばむものではない。

二、この大学院教育研究科に、当初設置の望まれる専攻と講座名は次のとおりである。

学校教育=教育学、教育史、教育心理学

体育学(教育)=体育学、体育教育学

国語国文学(教育)=国語学、国文学、国語教育等

英語英文学(教育)=英語学、英米文学、英語教育等

三、将来設置の望まれる専攻は、次のとおりである。

社会科(教育)

理科(教育)

数学(教育)

今後の大学院問題検討試案

一、設置趣旨の検討

イ、高度の専門性を有する職業等に必要な高度の能力を養うこと。(高度の資格取得のため)

ロ、将来は博士課程も設置したいが、とりあえず修士課程とする。

二、名 称

(仮称) 教育研究科、教職教育研究科、学術研究科等が考えられる。

三、修士課程の修業年限

二年

四、専攻

将来高度の専門性を要する教職員(一級教員免許状)を養成するとともに、図書館司書、図書館司書教諭、および博物館学芸員の資格取得に必要な専攻を設置する。

(仮称)

イ、国語科教育専攻

ロ、英語科教育専攻

ハ、社会科教育専攻

ニ、体育科教育専攻

ホ、数学科教育専攻

へ、理科教育専攻

ト、図書館学専攻(図書館教育専攻又は図書館司書教育専攻)

チ、博物館(学芸員)教育専攻

などが考えられる。

(注) イ~へについては高等学校、中学校の設置教科と一致させることが望ましい。

各専攻は、それぞれの専門分野により専修に分かれる。例えば理科教育専攻には、物理専修、化学専修、生物専修、地学専修等。

五、教員組織

大学院担当新規採用教員は最少限にとどめ、教育研究に支障のない限り、学部、研究所等の教員が兼任。

六、教育方法

現職の中、高教員が現職のまま、あるいは地方に在職する教員が、国内留学により研修を行うことのできるようにする。

イ、午後四時以降の授業演習とする。

ロ、第一年度は授業・演習等。

第二年度は現場実習を主とし、現場実習を通して修士論文を作成、夏休み、冬休みあるいは月一回ぐらいのゼミ又はスクーリングを行う。

七、卒業後の称号

文学修士、理学修士等の名称でなく、この研究科の卒業生は、すべて「学術修士」としたらどうか。

八、施設および設備その他

すべて大学院設置基準によるものとする。

九、その他

イ、当初からすべての専攻をおくことなく、準備(施設、設備および教員組織)のでき次第、専攻を増加する。

ロ、現に設置されている文学研究科、理工学研究科等の科目と併置される科目は、その科目を聴講することにより、無駄を排除する。

ハ、文学研究科に設置されている「教育学専攻」はそのままとする。

ニ、この研究科は、「教育学部の上に」ということでなく、その目的から全学部の上にとの考え方をはっきりさせる。しかし趣旨から教育学部(特に教職課程)が中心にならざるを得ない。

ホ、理想的に考えるならば、この研究科と同時に、教育研究所(又は「学校教育研究所」)を併置することが望ましい。

へ、現在教育学部に設けられている学部段階の教職課程のとりあつかいについて再考の余地がある。

 以上で教育学部における教育系大学院設置についての検討の第一段階が終了したと見ることができる。続いて、翌昭和五十年度からは、明らかに設置が望ましいという方向でより具体的な検討の時期を迎えることになるのである。

第二期(昭和五十年度から昭和五十二年度まで)

 検討委員会は昭和四十九年度には、教授会での討議以後は十二月に一回開かれたのみで、この席上、大杉学部長より、大学当局から積極的な回答が得られたので設置に向けて検討を進めて欲しい旨の発言があり、先ず第一に各学科専修内での意見をまとめ、いかなるカリキュラムを組むべきかの具体案を作成し、検討を加えることで合意した。

 昭和五十年度の検討委員会は、新たに浮き彫りにされた疑問点や困難を前に、あらためて振り出しに戻るような討論になったことが特徴的だった。そして昭和五十一年には、学部執行部から新たに設立の是非、性格、専攻分野についての確認もしくは決定を求められることになり、小島義郎委員長の下で昭和五十三年開設をめどに具体案が錬られた。その結果、昭和五十二年一月十一日付で、学部長宛の答申がまとめられることになった。

大学院問題検討委員会答申

教育系大学院を新設する件につき検討した結果、本委員会として、次のような結論に達したので答申する。

一、教育系大学院を設置することが望ましいと判断される。これはすでに昭和四十六年二月五日の大学院問題検討委員会報告にも述べられていることであり、その理由は同報告に添付された「大学院教育学研究科設置趣意書」に記されていることと大綱に於て同じであるが、概括すれば次のとおりである。

(イ) 大学院進学希望者が年毎に増加し、またその希望する専攻科目も多様化しつつあるが、本学の既設の大学院にないコース、とくに教職を中心とする高度の専門教育をめざす大学院の新設の必要性が痛感される。

(ロ) すでに社会にある人々の再教育と、教員の資質向上をめざす大学院の新設が必要と考えられる。

二、各学科専修に依頼して意見をまとめていただいたところ、現在次の八学科専修で大学院の開設当初より参加したいという結論が得られた。

教育学科

教育学専修(学校教育専攻)

社会教育専修

体育学専修

教育心理学専修(障害児教育専攻)

国語国文学科

英語英文学科

理学科

生物学専修

地学専修

右以外の学科は開設当初よりの参加は不可能であるが、大学院の開設には原則として賛成であるとの結論が得られている。

三、前項にあげた学科専修のうち、大部分の学科専修より非公式な参考資料として、新設大学院のカリキュラムの素案が提出され、検討した結果、スタッフの増員その他いくつかの検討すべき問題は残されるものの、開設の可能性は十分にあると判断された。

四、新大学院の開設にあたって、かりに専攻科を発展解消する方法がとられるならば、可能性はきわめて大であるとの意見が大多数をしめた。しかし、専攻科の存廃は専攻科が決定すべきものであるし、またこの件はとくに慎重に考慮して欲しいとの意見もあった。

五、開設の時期については、なるべく早い方が望ましく、一応昭和五十三年度より学生募集を開始することを目標としたい。

六、新設大学院の規模については、当初修士課程(大学院前期)二年のみとし、将来その充実の度合に従って博士課程の開設をも計画の中に含める。

七、もし、この答申の如く、新大学院の開設の方向に教授会決定がなされ、大学当局の決裁が得られれば、本委員会はその任務を終了し、直ちに新たに「大学院設置準備委員会(仮称)」を設置すべきである。

以上

昭和五十二年一月十一日

大学院問題検討委員会

委員長 小島義郎

教育学部長殿

 ところが、この答申にも拘らず、その後事態はあまり進展を見ていない。しかし、この間の経緯の中で教育系大学院を設置する問題について討論すべき問題は、一応討論されたと言っていい。そしてこれを踏まえ、長期計画委員会等でも話題が引き継がれていたが、昭和五十五年六月、桜井光昭学部長から新たな諮問があり、長期計画委員会で検討された。しかしこの時点では、総合的判断の結果、先ず教育研究所問題を優先すべきだということになり、先に掲げたような委員会報告があり、教授会の了承を得ている。

 そして、事態はまた新しい局面を迎えつつある。早稲田大学創立百周年記念事業と関連して検討されつつある現キャンパス再整備計画の動きや学内の声などを受けた桜井学部長が、大学院設置の緊急性との絡みで、教育研究所を最優先とするという教授会決定について、必ずしもこれに囚われないという緩和策の承認をあらためて求めたことによる。時代の要請に応えるその具体化も遠いことではないと思われる。

d 稲門教育会

 日本における中学・高等学校の教師は、戦前から東は東京教育大の茗渓会、西は広島大の尚志会が、それぞれ日本を二分していたと言われる。しかし東京教育大の消滅、筑波大の新設により、東京教育大のOBは今後生れてこなくなった。一方、我が早稲田大学出身の教師は数万に及び、校長・教頭などの管理職も増え、全国三十万校友の中にあって、独自の地位を確保している。

 経済の高度成長につれ、教員の経済的地位も向上し、近年は教員志望者が激増し、このため、教育実習校数とその受入者数は志願者の需要を満たすことができない状態が続いている。教員志願者数は、昭和四十八年以降特に多く、一般大学としての早稲田大学においては、教員養成専門大学のそれに比しても劣らない数字を示し続けている。そして、こうしたことから、教育実習校の確保と教員の就職問題は、教員養成の質的向上の必要性とともに、緊急、且つ、重要な課題となったのである。

 ところで、早大出身の教員は全国各地で活躍し、それぞれ地域ごとに教職稲門会を結成しており、三十万校友で組織している「早稲田大学校友会」とは別に、独自の立場から地域の連繫と親睦を図ってきている。これら地域の教職稲門会が全国的規模で統合されることにより、茗渓会のような強力なものに発展して行くならば、早稲田にとっても、また、日本の教育界にとっても益するところ大なりと考えられる。

 川副国基教授は、かねてから稲門の教育界における発展に意を注ぎ、教員就職の面では殊のほか尽力をしてきた。しかし、一個人の力を以てするよりも寧ろ組織による努力のほうが遙かに効率的であるので、何とか全国組織を結成すべきであるということになり、関係者の意見の一致をみた。

 以前から東京には、東京都の公立高校の早大出身教職員および東京都教育委員会関係職員を以て組織する「稲教会」ならびに東京都の公立中学の早大出身教職員のうち管理職および市区教育委員会関係職員を以て組織する「稲風会」があるが、当時、このほかに二十県近くに同様の組織があった。そこで大学当局の理解も得、取敢えず現在結成されている各県単位の教職稲門会を基盤にして、昭和五十一年七月十五日、大隈会館に東京、近県の関係者の参集を求めることになった。大杉徴学部長が世話人代表となり、三木一郎教育学部事務長が川副国基教授を司会者として会を進めることを宣し、川副教授司会する中で「稲門教育会」は誕生したのである。小山田三郎元稲風会会長の音頭で乾杯が行われた。病気のため欠席した村井総長の代理清水司常任理事は、「この会と大学とが更に交流し、相互に理解が深まるよう期待している。大学も六年後には百年祭を迎えることになるが、こうした会ができたことはまことに喜ばしい」と述べ、中島保俊成女学園校長は、「早大は現場と大きなつながりをもつべきであり、教育理念が私学から具体的に生み出されていない現在、中等教育に対する教育指導理念が、現場を通じ、更に稲門教育会を通じて生み出されることを希望する。」と述べた。

 また、西郷光雄川村女学園副校長は、「現場以外で早稲田精神を教わったが、今の学生は自主性に欠ける面がある。また、教員として必要なことは、勉強だけでなく、雑用の中にも意義があることを知るべきだ。この会を通じて、実習生にも話してほしい」と希望し、これを受けて、滝口宏教育学部教授(前早稲田実業校長)が、「『雑用の中に教育がある』という言葉に感銘した。よい学生をつくりあげて出しますから、現場で更に良い教師に仕上げていただきたい。」と応えるなど、貴重な意見が交わされる中で、記念すべきスタートが切られたのである。

 稲門教育会は、その後、昭和五十三年一月二十四日第一回総会、五十四年一月二十六日第二回、五十五年一月二十九日第三回、五十六年一月三十日第四回、五七年一月二十九日第五回が開かれているが、昭和五十四年暮、榎本隆司学部長時代に、組織の強化充実を図るべく規約化の作業が進められた。翌一月の総会に素案の形で提示し、一年置いて五十六年一月の総会でその成立を見た。重要なことは、総長を会長とすると規定したことで、これは、この会の重い位置づけを意味するものであった。規約ならびにこれに従って選出された役員は以下の通りである。

稲門教育会会則

第一章 総則

第一条 本会を稲門教育会と称する。

第二条 本会は、早稲田大学出身の教育関係者およびこの会の目的に賛同する校友をもって組織する。

第三条 本会は、事務局を早稲田大学教育学部内におく。

第二章 目的および事業

第四条 本会は、全国各地の早稲田大学出身の教育関係者を横につなぎ、相互の連絡と親睦をはかり、後輩の指導にあたる。

第五条 本会の事業として、次の事項を行う。

⑴ 全国各地の教育関係者およびその団体の連絡発展をはかる。

⑵ 研修会の開催等教育の振興に関すること。

⑶ 講師の派遣および斡旋。

⑷ 会員名簿の刊行。

⑸ 刊行物の刊行。

⑹ 後進の指導。

⑺ その他この会の目的達成に必要な事項。

第三章 役員

第六条 本会に次の役員をおく。

1 会長(総長) 2 副会長三名 3 事務局長一名 4 常任幹事若干名 5 幹事若干名

第七条 役員の選出と任務は次のとおりとする。

⑴ 会長には、早稲田大学総長を推す。会長はこの会を代表する。

⑵ 副会長は、幹事会で推薦し総会で選出する。

副会長は会長を補佐する。

⑶ 事務局長は幹事会で推薦し、総会で選出する。

事務局長は事務局を代表し、会務を執行する。

⑷ 幹事および常任幹事は会員からの推薦にもとづき、総会で選出する。

幹事および常任幹事は幹事会および常任幹事会を構成し、この会の運営事項の審議および執行にあたる。

第八条 役員の任期は二ヶ年とする。ただし重任することができる。

役員に欠員が生じたときは、幹事会において選出する。

第四章 事務局およびその任務

第九条 本会に事務局をおく。

事務局の任務は次のとおりとする。

1 本会の目的達成のための事業を企画、運営する。

2 会員組織の拡充整備にあたる。

3 本会の経理事務にあたる。

第五章 会議

第十条 総会は原則として毎年一月に開くものとする。

臨時に総会を開く必要があるときは、会長がこれを招集する。総会の議決は出席者の過半数の同意によるものとする。

第十一条 幹事会および常任幹事会は、会長の招集により開かれる。

第十二条 緊急にしてやむおえない場合は、会長は常任幹事会に計り、総会の決定に代えることができる。

第六章 運営

第十三条 本会の経費は、会員の醵出金および寄付金などによる。

第十四条 本会の事業年度は毎年一月一日に始まり十二月三十一日に終る。

第十五条 本会の事業内容は、総会に報告する。

第七章 附則

第十六条 会則の変更は総会の承認を得るものとする。

第十七条 この会則について、不備な点または疑義あるときは、幹事会において審議決定するものとする。

役員

会長

清水司 早稲田大学総長

副会長

榎本隆司 早稲田大学教育学部教授

小林素三郎 愛知淑徳学園理事長

安田俊雄 群馬県立高崎女子高校長

常任幹事

飯島武 洗足学園大附属第一高校長

漆光 品川高校長

小山田三郎 麴町学園常務理事

大杉徴 元早稲田大学教育学部教授

大槻宏樹 早稲田大学教育学部教授

金子大麓 早稲田大学教育学部嘱託

菊野和夫 東京都立向ヶ丘高校長

北村明 神奈川県立旭高校長

桜井光昭 早稲田大学教育学部長

鈴木勲二 埼玉県立南稜高校長

辻村敏樹 早稲田大学第一・第二文学部教授

中島保俊 成女学園理事長

長田和雄 中野区立中央中学校長

長谷川信 早稲田大学教育学部教授

深町良世 大田区立大森第三中学校長

松平頼明 本郷高校長

宮本文彦 私立千葉敬愛短大教授

守屋富生 早稲田大学第一・第二文学部教授

山下武 早稲田大学教育学部教授

吉野正太郎 東京都立東村山高校長

事務局長

花崎久信 早稲田大学教育学部事務長

「稲門教育会」 事務所

〒一六〇 東京都新宿区西早稲田一―六―一

電話 (〇三)二〇三―四一四一 (内)三八二三

早稲田大学教育学部内

 総会を通じての交流とは別に、各地区での集まりに大学側から積極的に出向いてゆくことにより、双方のパイプが強められている。榎本副会長、桜井学部長、花崎事務局長ほか、できるかぎり招きに応じ、大学の近況や他府県の動き等々の紹介役や、また教員養成そのほか大学に対する注文や苦情の承り役をつとめてきている。そうした連繫を保つ中で、この間、更に設立を見た地区があり、五十七年九月現在での結成状況は次に掲げる通りである。

第百一表 稲門教育会地区別一覧(昭和五十七年九月現在)

第百二表 教育学部卒業者数(昭和二十六―五十七年)

第百二表(続き))

第百三表 教育学部歴代役付教員一覧(昭和二十四―五十七年)

第百四表 教育学部専任教員一覧(昭和五十七年度)

第百五表 教育学部兼担教員一覧(昭和五十七年度)

後記

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 『早稲田大学百年史』に組み込まれる学部史を成すに当って、学部内に教育学部史編纂委員会が設けられたのは、昭和四十九年のことである。爾来十年になろうとするこの間、委員として名を連ねた者は三十名を超える。既に大学を退かれた方も十指に及び、まことに残念なことに、他界された執筆者を数えるにさえ至った。この学部史づくりそのものが、一つの歴史を刻むことになった。

 各委員、各科各専修とも、それぞれの立場から参劃協力し、いわばその総力によって本稿は成ったのであるが、曲折を経て思わぬ年月を費すことになった。はやく、亡き川副国基教授が第一部の稿をまとめ、第二部は滝口宏教授の構想と執筆を補って各科各専修が素稿を教授に委ねた。委員会は、この川副・滝口稿の検討を重ね、補正をし、最終稿の整理を榎本隆司に託した。

 榎本は数次に亘って、各科各専修の閲を経た原稿の整序に努めたが、当然のことながらできるだけ稿者の筆意を尊重し、原型を活かすことに留意した。従って、第一・二部の構成をはじめ、第二部の各科各専修に亘る叙述については、あえて統一的な整理をしなかった。ただ紙幅の都合からの削除や、均衡を保つうえでの補筆や、最低の文辞の整理は行った。削除した部分については、多く、別に予定されている『教育学部史』(外史)に活かされるはずである。

 教育学部史編纂委員会設置以来、本稿成るの日まで、委員として名を連ねた者は以下の通りである。

教育学部史編纂委員会