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第一編 学部(続)

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第九章 国際部

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はじめに

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 国際部は、制度上昭和三十八年四月一日に発足した。米国五大湖私立大学連盟(Great Lakes Colleges Association 略称GLCA)加盟のアーラム大学(Earlham College)およびアンティオック大学(Antioch College)の学生二十五名と個人応募学生二名を受け入れて、最初の学期が開始されたのは、同年九月である。その後、国際部は、昭和四十四年に早稲田大学が学生紛争によって一時授業実施不能状態に陥った際にも、大学外に教室を移動させて授業を実施し、活動を一度も中断させることなく現在に至っている。この間に、国際部が受け入れた留学生総数は、千六百三十八名に達し、国籍別では十九ヵ国に及んでいる(昭和五十七年九月現在)。

 かつて、大隈重信が、早稲田建学に当って「邦語をもって専門学科を教授」するところに「学問の独立」への道を模索したことは、周知のとおりである。この早稲田における「外国語による講義を行う特別の機構」としての国際部の創設は、いわば早稲田の「歴史的大転換」を意味した。けれども、今日の国際化時代の早稲田にとっては、寧ろこの「大転換」こそが、「東西文明の調和」という大隈の大理想に副うものであることは、殆ど疑うべくもない。東西文明の合流点としての国際部の創設以来の着実な発展は、早稲田におけるその「存在理由」の確かな証明と言うべきであろう。

一 創設の経緯

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 国際部は、事実上、米国大学が実施する「スタディ・アブロード・プログラム(学生海外研修計画)」の受け入れ機関として創設された。

 当時、我が国における米国の日本研究専攻学生の受け入れ機関として注目すべき活動を行っていたのは、東京大学、日本女子大学とともに早稲田大学も協力関係にあった東京スタンフォード・センターであった。しかし、同センターは、スタンフォード大学の責任の下に運営され、いわば同大学の東京分校とも言うべきものであった。この中で、直接的に日本の大学に米国の学生を送り込む方式の有効性が米国大学関係者の間で指摘されるようになり、特にこの方式に積極的な関心をもったアーラム大学(インディアナ州)は、日本史専攻のジャクソン・H・ベイリー(Jackson H.Bailey)同大助教授を通じて、早稲田大学に対してこの方式による学生交流計画に応じる用意の有無を打診してきた。昭和三十六年十二月のことである。

 続いて、昭和三十七年五月にワシントン大学の招聘教員として渡米中であった松宮一也講師(アーラム大学校友)を仲介者とする折衝が行われ、更にランドラム・R・ボーリング(Landrum R.Bolling)アーラム大学総長、ジャクソン・H・ベイリー助教授を含むアーラム大学、および同様の関心を持つアンティオク大学(オハイオ州)の両大学関係者が同年八月に来日した機会に、大浜信泉総長を代表とする早稲田側と米国両大学関係者の間で八月九日、十七日、二十七日の三回にわたって折衝が重ねられ、ついに両者間の合意が成立し、学生交流計画に関する協定文書草案が作成された。この協定文書が正式に交換されたのは、昭和三十七年十二月二日である。

 この間に、早稲田側では、昭和三十七年十一月二日の学部長会で協定文書草案について審議承認し、次いで翌三十八年二月一日の学部長会および二月十五日の評議員会で国際部の設置が承認され、同年四月一日に国際部の発足をみるに至ったのである。因に、国際部規則第四条「国際部に、部長一名をおく」、第八条「国際部に副部長一名をおくことができる」、第十五条「国際部に、運営委員若干名をおく」などに基づいて任命された国際部の初代部長、副部長、運営委員は、次の通りであった。

部長 小松芳喬(第一、第二政治経済学部教授)

副部長 鳥羽欽一郎(第一、第二商学部教授)

運営委員 柏崎利之輔(第一、第二政治経済学部助教授)、土井輝生(第一、第二法学部助教授)、相場均(第一、第二文学部助教授)、中尾清秋(教育学部助教授)、穂積信夫(第一、第二理工学部助教授)、時子山常三郎(教務担当常任理事)、古川晴風(教務部長)

 なお、国際部の目的や性格については、国際部規則が、国際部は、「外国学生を対象とし、学部とは別個に、外国語による講義を行う特別の機構」(第一条)であり、「講義は、日本語に関する講義を除き、英語による」(第三条)と定めているが、より直截的には、国際部は、日本の政治、経済、社会、歴史、文学、芸術その他のいわゆる「ジャパン・スタディ」関係科目を設置し、留学生の日本理解に資することを現実上の主目的として出発した。早稲田大学とアーラム、アンティオク両大学間の協定文書は、この点について次のように明示している。

この計画の目的は、アメリカの学生の一般的教養を高め、且つ爾後のより専門的な日本研究のための適当な基礎を作ることに特別の関心をもつ学生に資するための手段として、日本および他のアジア諸国の歴史、文化および現在の社会情勢に対する重要な入門を参加学生に提供することである。

二 発展と現状

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1 協定大学と受け入れ学生

 国際部が受け入れる外国学生は、「外国の大学に在学する学生であって所属の大学との協定に基づきその教育を委託された者」(国際部規則第二十五条一項)と「外国において通常の課程による十二年以上の学校教育を修了した者またはこれに準ずる者であって、選考の結果適当と認められた者」(第二十五条二項)の二種に分れる。

 既に触れたように、早稲田大学との協定によって、国際部第一年度の学生を送ってきたのは、五大湖私立大学連盟で、昭和三十八年九月からの秋学期に同連盟加盟のアーラム、アンティオク両大学から合計二十五名の学生が参加した。翌三十九年七月には、カリフォルニア州立大学連盟(California State Colleges略称CSC)が、早稲田大学と協定を結び、同年九月開始の国際部第二年度には、GLCAの二十名とCSCの十九名の学生が参加したのである。更に、昭和四十三年七月にオレゴン州立大学連盟(Oregon State System of Higher Education略称OSSHE)、昭和四十四年十二月にカリフォルニア私立大学連盟(California Private Universities and Colleges略称CALPUC)と中西部私立大学連盟(Associated Colleges of the Midwest略称ACM)が、早稲田大学とそれぞれ学生交流計画協定に調印し、OSSHEが昭和四十三―四十四年度から、CALPUCとACMが昭和四十五―四十六年度から、学生を送ってくるようになった。

 早稲田大学とこれらの大学連盟との協定は、いずれも現在(昭和五十七年)継続中である。ただし、GLCAとACMは、昭和五十年に合体して、五大湖・中西部私立大学連盟(GLCA/ACM)と改称し、またCSCは、昭和四十六年からCSUC(California State University and Colleges)に、更に昭和五十七年からCSU(California State University)に改称した。

 このほかに、昭和四十四年二月にミシシッピー渓谷私立大学連盟(Mississippi Valley Colleges Association略称MVCA)が、早稲田大学と学生交流計画協定を結び、昭和四十四―四十五年度に七名の加盟大学学生を送ってきたが、MVCAは、昭和四十五年二月に一年限りでプログラムの中止をきめ、協定廃棄となった。また、ベロイト大学(BeloitCollegeウィスコンシン州)とワシントン大学(Washington University ミズーリ州)が、準協定校扱いでそれぞれ単独で昭和四十二―四十三年度から学生を送ってくるようになったが、このうちベロイト大学は、ACMの加盟大学であるため、ACMと早稲田大学との間の交流協定成立に伴い、準協定校扱いを廃棄し、昭和四十五―四十六年度からACMを通じてプログラムに参加することになり、現在に至っている。

 このような経緯で、これらの協定によって国際部に送られてきた外国学生総数は、昭和五十七―五十八年度までで、GLCA/ACM五百五十七名、CSU二百九十八名、OSSHE二百八十二名、CALPUC三百五十三名である。 他方で、国際部規則第二十五条二項により、いわゆる個人応募学生として国際部が受け入れてきた外国学生総数は、昭和五十七―五十八年度までで百数十名であるが、これらの学生のアメリカでの在籍大学は、ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンズ大学、ジョージタウン大学、コーネル大学、ハワイ大学その他であり、アメリカ以外の国からの参加学生の在籍大学には、フィリピン大学(フィリピン)、リヨン商科大学(フランス)、ベルリン自由大学(西ドイツ)、トロント大学(カナダ)などが含まれる。

 因に、国際部学生数の推移は、第四十八表の通りである。

第四十八表 国際部学生数の推移*(所属連盟別)(昭和38―39―昭和57―58年度)

2 カリキュラム

 国際部のプログラムは、一年プログラムであり、学年度は九月に始まり、翌年六月に終る。昭和三十八―三十九年の第一年度は、秋学期(九月―十二月)と春学期(四月―六月)の二学期制であったが、第二年度からは、これに冬学期(一月―二月)が加えられ、三学期制になった。

 設置科目は、日本研究科目、同関連科目、および日本語で、講義は、日本語を除き、英語によって行われる。因に、第一年度秋学期に設置された科目は、「日本の視覚芸術Ⅰ」(佐々木剛三)、「現代日本政治制度史」(松本馨・内田満)、「東アジアの地理」(ジョセフ・ウィットニー)、「東アジアの宗教」(平并直房・田丸徳善)および「日本語」(原田謙一)で、同年度春学期に設置された科目は、「日本の視覚芸術Ⅱ」(佐々木剛三)、「近代日本史」(鳥羽欽一郎)、「現代日本の文化と社会」(相場均)、「現代日本文学」(中尾清秋)および「日本語」(原田謙一)であった。一般講義科目の講義は、九十分授業で週二回、十二週間(冬学期には、週四回、六週間)に亘って実施され、各学期ごとに完結するが、特筆すべきは、原則として講義の休講は不可とされ、病気その他のやむを得ない理由で休講する場合には、補講を行うか、運営委員会の議をへて代講者を立てることと定められたことである。

 その後、学生数の増加と国際部プログラムの充実の要請に照らして、カリキュラムへの増強が計られ、また昭和五十四―五十五年度からは、従来の九十分授業週二回(秋、春学期)、九十分授業週四回(冬学期)と併せて、九十分授業週一回(秋、春学期)、九十分授業週二回(冬学期)の科目が設置されることになった。更に、この間に、昭和三十九―四十年度から、冬、春学期を通じる十六週学内研究プロジェクトとしてインディペンデント・スタディが設けられ、学生の個別研究に応じることになったが、昭和四十七―四十八年度からは、学外の研究指導者の下で個別研究を行う学外インディペンデント・スタディが、次いで昭和五十一―五十二年度からは、春学期学内研究プロジェクトとしてのインディペンデント・スタディが、付加された。

 こうして、昭和五十六―五十七年度の設置科目数は、日本語とインディペンデント・スタディのほかに、秋学期十一、冬学期八、春学期十三であり、各学期ごとの設置科目、担当教員および単位数は、第四十九表の通りであった。

 なお、国際部規則第二十七条の定めによって、早稲田大学の学生の国際部設置科目の聴講も認められているが、従来これらの科目は、各学部で随意科目扱いになっていた。それが、昭和五十五年七月の学部長会の決定によって、同年九月から早稲田大学の学部学生が国際部で取得した単位は、各学部の正規単位に算入され得ることになった。

 そのほか、国際部は、外国学生の日本理解の増進に資するために、課外活動として、歌舞伎、文楽、能の観賞、関西旅行などを毎年実施している。

第四十九表 国際部学科目配当表(昭和56―57年度)

秋学期

冬学期

春学期

3 交換教員と交換留学生

 国際部が、米国大学のスタディ・アブロード・プログラムの受け入れ機関として発足したことは、既に指摘した通りである。しかし、その後の発展の中で、国際部は、実質的に「東西文明の合流点」としての性格をしだいに顕著にしてきた。

 一つは、教員レベルの交換プログラムの発展である。早稲田大学と協定を結んでいる米国大学連盟は、毎年レジデント・ディレクターを学生に同行させてくるが、これらのレジデント・ディレクターは、参与として国際部の運営に参画する(国際部規則第十二条および第十九条)とともに、国際部で講義を担当する慣例になっている。これらのレジデント・ディレクターの総数は、昭和五十七―五十八年度までで延べ七十三名に達した。

 これに対して、早稲田大学の教員を国際部交換教員として米国大学に派遣するプログラムは、昭和三十九年八月に早稲田大学とGLCAの間で調印された交換教員協定によって開始され、第一回交換教員として、昭和三十九―四十年度に鹿野政直・文学部講師が、GLCA加盟のホープ大学(Hope Collegeミシガン州)へ、加藤俊一・語学教育研究所助手が、アーラム大学へそれぞれ派遣された。その後、毎年一名の交換教員が、GLCAあるいはACM(昭和五十二―五十三年度以降)加盟大学に派遣されている。この中で、昭和五十三―五十四年度から昭和五十五―五十六年度までの三年間は、日米友好基金の援助を受け、更にもう一名ずつの交換教員が、昭和五十三―五十四年度と昭和五十五―五十六年度には、CSUC加盟のサンフランシスコ州立大学(San Francisco State University)に、昭和五十四―五十五年度にはOSSHE加盟のポートランド州立大学(Portland State University)に派遣された。これらの国際部交換教員として米国大学に派遣されてきた早稲田大学教員の総数は、昭和五十七―五十八年度までで二十三名である。

 「東西文明の合流点」としての国際部の発展を示すもう一つの点は、交換留学生プログラムの発展にほかならない。早稲田大学からの国際部交換留学生の送り出しは、昭和四十一―四十二年度にGLCA加盟のアーラム、ホープ両大学から授業料奨学金の提供をうけて開始され、昭和四十三―四十四年度には、CSC加盟のサンノゼ州立大学(SanJose State University)へ二名の交換留学生が送り出された。このうち、サンノゼ州立大学は、一年限りで受け入れを中止したが、GLCAの交換留学生受け入れは、その後も継続的に行われ、昭和五十―五十一年度からは、GLCAとACMの合併により、受け入れ大学もGLCA加盟十二大学とACM加盟十三大学にまたがることになった。加えて、昭和四十三―四十四年度からはワシントン大学が毎年一名の交換留学生の受け入れを決定し、翌昭和四十四―四十五年度からは、OSSHEも、交換留学生を受け入れることになった。

 こうして、昭和五十七―五十八年度までの交換留学生総数は二百八十九名に上ったが、各年度別の留学生数は、第五十表の通りである。

 なお、これらの交換留学生が留学中に取得した単位については、昭和四十四年一月の学部長会で十二単位を限度として、早稲田大学の単位に算入され得るものと定められ、更に同年十二月の学部長会で付帯条件付きでこの枠が外された。しかし、その後各学部での取扱いが不統一であったため、昭和五十五年七月の学部長会で全学部統一的に「認定単位数の上限を三十単位とする」ことに改められた。

4 図書室と定期刊行物

 国際部の講義では、各学期ごとの中間試験および最終試験とともにターム・ペーパーの作成提出が求められるのが通例であり、しかも一年間という短期間に学習効果を挙げる必要上、学生の勉学にとって図書室の果す役割は特に大

第五十表 国際部派遣交換留学生数(派遣先別)

第五十一表 国際部図書室所蔵図書数の推移(昭和38―39―昭和57―58年度)

きい。この点に照らして、国際部は、発足当初から図書室の充実に意を用い、アジア財団やモービル石油株式会社の指定寄附による援助にも助けられて、第一年度に一千冊足らずであった蔵書数が、昭和五十六―五十七年度末には一万七千六百三十九冊に達した。これらの蔵書の大半は、日本の政治、経済、社会、歴史、文学、芸術、宗教その他についての英文図書であり、国際部図書室は、いまやジャパン・スタディの専門図書館として我が国有数のライブラリーに発展しているのである(第五十一表参照)。

 他方、国際部関係教員の日本・アジア研究の成果を発表するための英文研究誌として、昭和五十三年にWasedaJournal of Asian Studies(年一回刊)の刊行が決定され、翌五十四年三月に創刊号が発行された。また、国際部の部報としては、昭和五十一年から年二回刊で『国際部ニュース』が発刊され、特に国際部学生の民泊家庭との連絡に大きな役割を果している。

5 国際部スタッフおよび施設

 国際部の講義は、当初他学部・研究所教員の兼担および非常勤講師によって担当されていたが、昭和四十三年に池田百合子が、昭和四十六年に中原道子が、それぞれ専任講師として教員スタッフに加わった。両講師(池田百合子は昭和四十八年、中原道子は昭和五十一年に、それぞれ助教授に昇任)は、講義担当に加えてアカデミック・アドバイザーの役割を分担している。因に、昭和五十六―五十七年度の一般講義科目担当の教員内訳は、国際部本属教員二名、兼担教員九名、非常勤講師九名、レジデント・ディレクター四名であった。

 国際部統括の任に当る国際部長は、初代小松芳喬(昭和三十八・四・一―三十九・九・十五)から、川本茂雄(三十九・十・一―四十二・三・三十一)、名取順一(四十二・四・一―四十六・三・三十一)、柏崎利之輔(四十六・四・一―四十九・十一・十五)、穂積信夫(四十九・十一・十六―五十三・八・三十一)、内田満(五十三・九・一―)と引き継がれ、この間に、副部長は、鳥羽欽一郎(三十八・四・一―四十一・九・十五)、柏崎利之輔(四十一・九・十六―四十二・七・八)、穂積信夫(四十二・七・九―四十四・六・三十)、柏崎利之輔(四十四・七・一―四十六・三・三十一)、岡田宏明(四十六・四・一―八・三―一)、藤田幸男(四十六・九・一―四十九・九・十五)、田辺洋二(四十九・九・十六―五十四・八・二十四)、小黒昌一(五十六・四・一―)と交代してきた。

 事務所組織は、当初教務部所管の下に置かれ、坂并秀春、大見川敏夫、大月喜三郎が、外事課長として国際部の事務処理に当っていたが、昭和四十四年六月一日から独立の組織となり、専任事務長に大月喜三郎が任ぜられた。以後事務長には、花崎久信(四十六・十・八―五十二・十一・三十)、高橋邦博(五十二・十二・一―五十五・六・三十)、郡司直智(五十五・七・一ー)が就任した。昭和五十七年九月現在の事務所スタッフは、事務長以下専任職員六名(内一名欠員)、学生職員三名である。

 また、国際部は、第一年度および第二年度冬学期までは、西大久保理工学部新校舎四号館(現五四号館)で授業を実施したが、昭和四十年三月三十日に本部構内九号館(現六号館)へ移転し、ここに教室のほか事務所、部長室、会議室、図書室、研究室、学生談話室、協定大学連盟事務室などを設けて現在に至っている。なお、この間、昭和四十四年に本部構内が学生紛争によって一時閉鎖状態に陥った際には、国際部の授業は、市ヶ谷東京学生センター(四十四・四・三十―五・九)、市ヶ谷東京ルーテルセンター(四十四・八・二十九―十二・十七)などに臨時教室を設けて実施された。

三 課題と展望

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 国際部は、昭和五十六年十月に「国際部施設整備拡充計画」を清水司総長あてに提出した。昭和五十七年に創立二十周年を迎える国際部の、図書室、研究室、教室などに関する施設上の充実を期するためである。このうち、図書室および研究室の拡充に関しては、現キャンパス総合整備計画委員会の了解の下に、大学理事者側と協議の結果、早大生協移転あとの一三号館一階に専任教員研究室二室および参与合同研究室一室を設けることが決まり、改装を経て昭和五十七年九月からこれらの研究室の使用が開始となり、また、それに伴って従来専任教員合同研究室として使用されていた六号館一階図書室隣接室は、図書室の拡張のために使用されることになった。

 国際部が将来目標として設定しているのは、国際学部への発展であるが、当面の課題は、学内的には各学部・大学院との有機的関係の強化である。この関連で、昭和五十五年九月から国際部での取得単位が各学部の単位に算入されることになったことの意味は大きい。この学部長会決定により、帰国子女学生および各学部在籍の外国学生が、英語による日本に関する講義を正規科目として国際部で聴講する道が開けたのであり、この点における国際部の寄与は、今後ますます大となるであろう。

 対外的には、国際部の「国際化」のいっそうの発展が課題である。昭和五十七―五十八年度までの国際部学生千六百三十八名の国籍は、十九ヵ国に亘るが、そのうち九割強は米国国籍の学生であり、その他の国籍の学生の大部分も、米国大学への留学生として国際部プログラムに参加してきた。この中で、昭和三十九―四十年度にフィリピンから参加したセシリア・パバラン(Cecilia Pabalan)、昭和五十六―五十七年度にフランスから参加したソフィー・L・シズーンなどは、寧ろ例外的なケースであったのである。国際部プログラムの発展にとって、まずもってヨーロッパ諸国および東南アジア諸国などからの留学生の受け入れのための努力が、喫緊事とされる所以にほかならない。

(執筆者 内田満・池田百合子・中原道子)