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第一編 学部(続)

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第八章 体育局

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 早稲田大学における体育・スポーツの生成発展は、「精神の独立は学問の独立による自由精神の育成にあり」と言う自主独立の建学理念に基づいて、自発性、自由性を基調とした体育・スポーツ活動を、大学が奨励援助し、一方、その活動を愛好して、自己の努力の対象として活躍した卒業生の業績によるものであることは、史実によって明らかである。

 本大学の体育・スポーツを、それぞれの時代の教育思潮や価値志向性の側面から見ると、「自由、楽しみ、懇親を基調とした遊戯性スポーツ志向」から「健康性、士気性、教育性、倫理性志向」へ拡充した。

 大正十年、体育会が発足しているが、この時期は、いわゆる大正デモクラシーという社会的背景によって、自発性、自由性によって成り立つスポーツが、質量ともに急速な普及発展がみられ、明治後期の早稲田大学野球部の渡米に始まり、国際オリンピック大会の参加や競技種目別国際大会参加など、スポーツの国際化が進展した。

 それに伴って、国内においても、各種のスポーツ選手権大会などが開催されるようになり、それらに参加するためには、必然的に技術や記録の高度化が要請されるようになって、スポーツにおける健康性、教育性、倫理性志向とともに「技術性、競技性志向」を急速に高め、スポーツ王国早稲田を築いた。

 昭和二十四年、学制改革によって、体育が必修となったが、それに対応する条件整備の立ち遅れ、特に体育施設や教員不足など苦難な道程であったが、一応、正課体育、運動部活動、同好会活動等、体育・スポーツの組織や活動内容の分化がみられるようになった。

 それに伴って、遊戯性、快適性、健康性、教育性、福祉性、技術性、競技性、タレント性など価値志向の多様化が現れているが、このことは、現代における人々の生活欲求や価値観の多様化を示すものと言えよう。

 歴史は、言うまでもなく人間が作ったものである。我々はその史料を媒介として、過去の歴史的事実を理解するために、その歴史的事実の背景となっている社会的諸条件などとの関連を辿りながら、本大学の体育・スポーツの流れを忠実に記述するよう努力した。

 そのために、可能な限りの資料を収集して整理と体系化を図ったが、紙数の関係で、年代を追って目ぼしい事項を記述することに留まった。

 なお、あるいは、重要事項の欠落があるかも知れないが、それは近い将来刊行予定の体育局史に入れることにしたい。

一 正課体育

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 本大学における今日の如き正課体育のための組織・運営の形式は、新制大学制度に基づいて昭和二十四年に設立した体育部時代から出発した。そして、昭和二十七年には正課・課外を含めて、全学的組織としての体育局に改組され、名実共に全学部学生を対象とした体育の中心的教育機関に発展してきたのである。従って、本大学での体育を語るには、発足時の体育部やそれを継承し発展させた体育局の歴史が基調となろう。事実、体育部・体育局が歩んできた歴史を見れば、他大学と異なった組織を持ち、且つその特徴を十分に生かした活動から明確にそれを摑むことができる。

 このような観点から本大学の正課体育の導入と発展を見ていくと、大学教育制度の改革に伴いそれに見事に適応した事実が高く評価されてこよう。しかし、このような評価もさることながら、根本的には、改革に応じられた早稲田大学の素地を見逃すことができないのではなかろうか。すなわち、東京専門学校創立から体育部設置時までの六十余年の歴史の中で培われてきた体育に関する理解や体育に関連する数々の実績が、新しい教育制度への変化の原動力となっていたと言っても決して過言ではなかろう。その原動力を示す一つの例を、我が国スポーツ界の先達としてあるいはまたスポーツ王国を誇る早稲田スポーツの姿に求めることができる。また、何によりもまして、健康を重視し学内スポーツ振興に理解を示し、積極的に支援した創始者大隈重信を始め歴代総長や大学関係者の功績を忘れてはならない。このようなことは、現在の正課体育とは直接的に結び付かないものであろうが、後述する如く体育部・体育局の組織あるいは実技の授業内容が主としてスポーツ種目を主教材として発足していることなどから、その関連性を無視できないのである。

 正課体育の歴史を知るために、今に残る学科配当表を辿ってみよう。学科配当の中に体育の授業が出現した最初は、明治二十年九月からの「課程表」である。すなわち、政学部・政学部高等科・法学部・法学部高等科の各学年に前後期週三時間の授業と記載されている。勿論、往時は体育なる言葉でなく「體操」となっていて明治二十七年まで毎年の課程表に見られる。この時期の「體操」科目が、週三時間もの時間を割いて、どのような内容の授業を実施したのか、非常に興味を引くのであるが、残念ながらそれを明らかに示す資料はない。更に担当教員名を知る資料もなく、課程表に授業が組み込まれていたことのみが残っている。以後の課程表には「體操」科目の中断もあり、以後、時代の反映を思わせる「兵式体操」なる科目があったり断続していく。

 前述した如く、本学における正課体育は、何といっても昭和二十四年以降の体育部・体育局時代が主流となっているため、本稿では、

1 体育部時代(昭和二十四年―二十六年)

2 体育局時代

a 創設・拡充期(昭和二十七年―三十六年)

b 充実期(昭和三十七年―四十五年)

c 現状と展望(昭和四十六年―)

に区切って、それぞれの時代の経過、実状、特徴などについて記述し、正課体育の沿革を知る資料に供したい(体育局時代のこの分け方は十年ごとおよび歴代体育局長の就任期間を区切りとしたものである)。

1 体育部時代

 昭和二十四年度から発足する新制大学制度による正課体育の実施に当り、昭和二十四年三月十六日体育部設置のための事務所が開設された。事務所といっても未だ部開設の準備段階なるため、当時の本部教務課の一隅でのことであった。松本厚志体育会主事が事務主任となり、他に職員として丸山勢津子、大蔵吉則(学年職員)の二名が配置された。同年四月一日に、体育部長事務取扱として佐々木八郎教授(教務部長兼任)、教務主任には伊藤道機教授が嘱任され、体育を正課として(講義二単位・実技二単位)導入するための教員の嘱任と学科配当表の作成にあたった。

 四月一日に三十八名(専任教員・兼担教員・非常勤講師を含み、講義関係十一名、実技関係二十七名)の教員が嘱任され、講義は五月二十三日、実技は二年生を対象として九月一日から年間実技の授業が開始された。これが本大学における正課体育のスタートである。

第四十四表 体育部発足時教員一覧表(昭和二十四年度)

 高等師範部体育科を除き、いわゆる体育専門の学部や学科を持たない当時の本大学において、短い準備期間でこれだけの陣容と学科目で正課の授業がスタートできたことは、まさに驚異的偉業と言わざるを得ない。このような内容での発足を可能とした背景に、本大学ならではの特筆すべきことがあった。それは、早稲田大学体育会(堤秀夫会長)の全面的なバックアップである。前掲の教員一覧表を見ても分るように、大学の要請に応じ各スポーツ界の一流人が講師として名を連ねているし、人材ばかりでなく九月から開講した実技の教場は、そのすべてが運動部の協力によって提供された施設が使用されている。

 昭和二十四年六月号の『早稲田学報』は、体育部新設を次のように報じている。

新制大学の学科目中新たに設けられた体育(講義・実技)はその運営が技術的に非常な困難を伴うので、各大学ともその対策に苦心しているが、我が学園では今度他校に卒先して体育部を新設し、スポーツの殿堂早稲田の伝統と施設の上に立って、新制大学の模範となるべき体育科目の授業を開始した。〔中略〕

斯界の大先輩を擁し、体育会二十八部の恵まれた諸施設を存分に活用しており、その成果は各方面から多大の関心を寄せられている。更に、体育部は運動王国としての輝かしい伝統を持つ体育会と表裏一体となりOBの有力な先輩諸兄の協力を得て各部施設を解放し、大いに正課としての体育の真価を発揮したいと思う。

との佐々木部長談が掲載されている。このように、本大学における正課体育は、学内外の絶大なる協力を得、そして多くの期待を持って出発したのである。

a 当初の体育授業

 体育の授業がスタートした当時の授業時間割は、次のようなものであった。講義の理論講座は五科目二十五組、保健講座では七科目二十五組が設置されていた(第四十五表参照)。

 実技の授業時間は、先に述べた運動部の施設を使用するために、午前八時―十時、十時―十二時の二時限で行っている。つまり、実技科目と重なっている運動部では、その施設を午前中は体育部の実技授業に、午後を各運動部の練#waseda_tblcap(1,002,第四十五表 体育部講義時間割(昭和二十四年度))

習に充てることとなった。

 年間実技は九月一日から開講となったが、その前の夏期休暇中にシーズン実技としてボート、山岳、ヨット、水泳の四科目の授業が行われた。このシーズン実技の実施結果が九月十七日の協議員会で「事故なく無事終了した」と報告されている。

第四十六表 シーズン実技実績(昭和二十四年度)

b 諸措置

 学生の単位取得については、次の措置がなされた。

一、現三年生は学科二単位・実技二単位共に修得したものと見做す。

二、一年生・二年生は、学科・実技それぞれ一単位を修得する。

三、学科を前後期に分け、今年度は二年生が前期、一年生が後期に受講する。ただし、事情によっては前期のものが後期にとっても差支えない。

四、高等師範部体育科を修了し第二学年に編入したものは、体育科目は免除し履修したものと見做す。

五、体育会各部部員は、応援部を除き実技は履修しなくてよい(部での活動情況が評価されて実技単位となる)。

六、身体疾患者(二年生の場合)は、校医の診断を得て、講義一単位を受講し、その単位を実技単位に振り替える。

 以上のような種々な措置は、第一項から第四項までは新制度導入に際してのいわゆる移行措置である。

 実技科目の中で特異な科目があった。それは第二学部学生を対象として行われた「ハイキング」である。この科目は、第二学部学生の特殊性を配慮して設置されたもので、当該学部長が採点責任者となり、各学部で実施したものである。しかし、このハイキング科目は、設置当初から年間実技などとの対比で、いろいろな問題点が指摘され、以後の協議員会・教員会等で何回も論議されている。第二学部学生の実技については、このハイキング科目以外に昭和二十五年度から「体育レクリエーション」(青木一三講師)という科目を設ける(月―土、四時―五時)などして修正が行われている。なお、ハイキング科目は昭和三十三年度に廃止されている。

c 初代体育部長

 昭和二十四年九月十五日に体育部規程が正式に制定された。これまでは漸定的なルールで運営されていたのが、この新しい規程に従って十月一日に理工学部師岡秀麿教授が初の選出体育部長に就任された。また、昭和二十六年九月の次回改選期にも師岡教授が再選され、伊藤道機教務主任とともに全体育部時代の役職を務め、本大学正課体育の誕生と育成という重要な時期に尽力された。

 実技においては、昭和二十五年度から体育レクリエーション(青木一三)、フェンシング(佐野雅之)、自動車(灘波正人)、シーズン実技で山麓生活(御殿場)、海浜生活(鴨川)の科目が新設され、二十六年度には柔道(富木謙治)が新設されている。

 正課体育開設時の選択者数あるいは履修者数については、前出の昭和二十四年度シーズン実技の履修者数を除いて正確な数の公式資料が未だ発見されていない。しかし、昭和二十五年度学科配当表作成に際して実技の対象学生数をおおよそ七千名と見て、各科目の定員を決定している資料がある。従って、当時の学生数から見ても選択者数は七千名弱であっただろう。

d 当初予算

 正課体育運営に関する予算は、初年度の二十四年分として設備費百万円、消耗費百万円合計二百万円を考えるという大学本部からの説明があった。二十五年度からは予算・決算が計上されているが、その最初の予算決算表を掲げる。

第四十七表 体育実習料決算および予算(昭和25・26年度)

 実技科目の運営は、理工系の実験実習科目と同様に消耗費を含めて費用がかかる。そこで二十四年度には消耗品の多い科目は五十円、他は三十円を実技消耗費として履修者から徴収し、二十五年度は実技費として一、二年生三百円、また二十六年度は二年生三百円、一年生からは五百円を納入させている。

e 大学体育研究会へ加盟

 昭和二十四年十月三日には「大学体育研究会への加盟」と「委員選出」が決定された。当時の新聞に次のような記事が見られる。「大学体育向上へ研究会生る」なる見出しに続いて

本年度から大学に体育が正科となったが今後大学教育の在り方は極めて重要視せねばならぬと総司令部民間情報局体育係主任ニューフェルド氏の肝入りで慶大体育科教授浅野均一博士ら、早、明、日、法、中、東の各総合大学体育教授が十三日午前九時から放送会館に参集、ニューフェルド氏を顧問、浅野博士を理事長として我が国初の体育研究会(仮称)を設立発足した。研究会は事業として施設用具、運動適性基準、教科プログラム採点基準、講義内容の五委員会を設け……〔以下略〕

とある。この大学体育研究会への本学からの委員に、森茂雄、村松林太郎、近藤天、岡田英男、松本厚志、伊藤道機、青木一三、安部民雄、鈴木慎次郎、杉浦巴、吉并篤雄、村田光敏の諸氏が選出された。

f 体育局設置の審議

 昭和二十六年五月十八日の体育部協議員会において本大学における体育行政の将来像を決める重要な事柄が議せられている。それは、早稲田大学体育審議会(仮称)設置の件である。議案内容は、体育部・体育会の機能・活動を万全ならしめるために部および会の合同になる体育審議会(仮称)設置を大学当局に建議することであった。この審議会は後に体育部・体育会組織委員会と正式に呼称され、大浜信泉教授が委員長となり、本大学の正課・課外の一体化を計ることを目的として体育局(仮称)なる組織の設置を審議し、体育局規則(案)の検討を行っている。体育局規則の原案は大浜委員長起草によるものであり、その骨子となる正課・課外の一体化は他大学にも見られない雄大な構想に基づくものであった。委員会での体育局規則の検討内容の詳細は省略せざるを得ないが、体育局という名称については相当論議された。学内の習慣からすれば、教育機関に「局」という名称自体が奇異に感じられたからであろう。さりとて適切な代案もなく、某委員から「使い出して何年かすれば、だんだん馴んできて不自然さを感じなくなるのではないか」という発言もあった。制定時の体育局規則を次に掲げる。

早稲田大学体育局規則(昭和二十七年五月二日教達第四号)

第一章 総則

(体育局の設置)

第一条 本大学に、体育局を置く。

(管掌事項)

第二条 体育局は、学生の体育に関する事項を管掌する。

(体育実技の二系統s)

第三条 体育の実技は、学則に基き学生の履修すべき正課として実施するものと、学生が運動競技の種目に従つて組織する体育各部において行うものとの二系統に分ける。

(各部の実技と正課との関係)

第四条 この規則に従い、協議員会が承認した部に入部し、継続してその部の行う運動競技に参加した者は、その種目につき、正課としての実技を履修したものとみなす。

(実技の管掌)

第五条 正課としての実技は、運動競技の種目に従つて編成実施するものとし、その種目につき、部の組織のあるものは当該部の部長、部の組織のないものは体育局長において管掌し、第二学部において、随時に学部別に編成実施するものは、当該学部の学部長がこれを管掌する。

第二章 体育局の本属教員

(本属教員)

第六条 体育に関する科目(実技を含む)を担任させるために嘱任する教員は、体育局をその本属とする。

(教員の種別)

第七条 教員を分けて、教授、助教授及び講師の三種とする。

(嘱任及び解任)

第八条 教員の嘱任及び解任は、教員任免規則により、協議員会の議を経て、大学がこれを行う。

第三章 協議員会及び教員会

(協議員会の設置)

第九条 体育局に、協議員会を置く。

(協議員会の構成)

第十条 協議員会は、左に掲げる者をもつて組織する。

一 体育局長及び教務主任

二 体育局本属の教授

三 各学部の学部長

四 第二十九条の規定による体育各部の部長

2 体育局本属の助教授は、協議員会に出席して発言することができる。

(議決事項)

第十一条 協議員会は、体育に関する左の事項を議決する。

一 協議員会の運営に関する事項

二 研究及び教授に関する事項

三 学生の指導、訓練に関する事項

四 局長候補者の選挙に関する事項

五 教員の進退及び所属に関する事項

六 その他教務教則に関する事項

2 協議員会は、体育局の予算に関する事項を審議する。

(協議員会の招集)

第十二条 協議員会は、体育局長がこれを招集する。

(議事の整理)

第十三条 協議員会の議事は、体育局長がこれを整理する。

(定足数)

第十四条 協議員会は、協議員の三分の一以上の出席がなければ、開会することができない。但し、専任教員の嘱任について議する場合には三分の二以上の出席を要する。

(議決の方法)

第十五条 協議員会の議決は、出席協議員の過半数による。

(決議の承認)

第十六条 協議員会の決議は、大学の承認を要する。

(教員会)

第十七条 局長は、必要に応じ、協議員のほか助教授及び講師を加えて、教員会を開くことができる。

第四章 局長、教務主任及び事務主任

(局長、任期)

第十八条 体育局に一人の局長を置く。

2 局長の任期は三年とする。但し、任期中に改任があつたときは、後任者の任期は、前任者の残任期間とする。

(局長の職務)

第十九条 体育局長は、体育局の事務を統括し、局を代表する。

(局長の嘱任)

第二十条 体育局長は、協議員会において本大学の教授のうちから選挙した候補者につき、評議員会の同意を経て、大学がこれを嘱任する。

(兼務禁止)

第二十一条 体育局長は、学部長、高等学院長、工業高等学校長又は附属機関の長を兼ねることができない。

(選挙の定足数)

第二十二条 体育局長の候補者の選挙は、協議員の三分の二以上の出席がなければ、これを行うことができない。

(選挙の方法)

第二十三条 体育局長の候補者の選挙は、無記名投票により、出席協議員の投票の過半数を得た者を当選人とする。

2 過半数を得た者がないときは、二人の最高得票者について、得票数を同じくする最高得票者が数人あるときは、その全部について、再投票を行い、有効投票の多数を得た者を当選人とする。

3 前項の規定により当選人を定めるに当つて、得票数が同じであるときは、くじでこれを定める。

(教務主任)

第二十四条 体育局に、一人の教務主任を置く。その任期は、体育局長の任期に従う。

2 教務主任は、体育局長を補佐し、局長に事故があるときは、その職務を代行する。

(教務主任の嘱任)

第二十五条 教務主任は、本大学の教授のうちから、体育局長の推薦に基き、大学がこれを嘱任する。

(事務主任)

第二十六条 体育局に、一人の事務主任を置く。

2 事務主任は、体育局長の命を受け、局の事務を処理する。

第五章 助手及び副手

(助手副手)

第二十七条 体育局に、若干人の助手及び副手を置くことができる。

2 助手及び副手については、別にこれを定める。

第六章 体育各部

(部の承認と管掌)

第二十八条 運動競技の種目に従い、本大学学生の組織する団体であつて、教育上助成及び監督の必要があると認められるものは、協議員会の議を経て、体育に関する部として体育局の管掌下に置き、これに本章の規定を適用する。

(各部の部長)

第二十九条 前条の体育各部には、それぞれ一人の部長を置く。

(部長の嘱任)

第三十条 部長は、本大学教授のうちから当該部が推薦した候補者につき、協議員会の議を経て、大学がこれを嘱任する。

(兼務禁止)

第三十一条 部長は、他の部の部長を兼ねることができない。

(部長の職務)

第三十二条 部長は、この規則に別に定める場合のほか、当該部の運営を統括し、所属の部員を指導監督する。

(部長の任期)

第三十三条 部長の任期は三年とする。但し、任期中に改任があつたときは、後任者の任期は、前任者の残任期間とする。

(監督その他の技術指導員)

第三十四条 各部に、それぞれ若干人の監督その他の技術指導員を置くことができる。

2 監督その他の技術指導員は、所属の部員の運動競技の技術的指導及び心身の鍛錬に当るものとする。

3 監督その他の技術指導員は、当該部の部長がこれを嘱任する。

(学生委員)

第三十五条 各部に若干人の学生委員を置く。

2 学生委員は、部員の互選した者につき、部長が任命する。

3 学生委員は、部長の指揮に従い、部務を処理する。

(各部の経理)

第三十六条 各部の経理は、体育局長において総括し、特別会計としてこれを処理する。

(収支の予算)

第三十七条 体育局長は、会計年度ごとに、各部の収支の総合予算案を編成し、協議員会の議決を経なければならない。

2 体育局長は、前項の予算案を編成するに当り、各部に対して、その部の予算見積書の提出を求めることができる。

(各部の経費)

第三十八条 各部の経費は、大学からの交付金、寄附金、各部の競技入場料その他の収入をもつてこれに充てる。

2 各部が、試合その他の競技により収得する入場料は、体育局の特別会計の収入とする。

(指定寄附)

第三十九条 各部が、その部のために金品の指定寄附を受けたときは、当該部において使用することができる。但し、固定設備を取得したときは、大学の所有とする。

(入部金、部費)

第四十条 各部はその部の費用に充てるために、部員から入部金及び部費を徴収することができる。

(金銭の出納)

第四十一条 第三十六条の予算に基く金銭の出納は、大学の経理部を通じてこれを行う。

(収支の決算)

第四十二条 体育局長は、毎年六月末までに、前年度の各部の収支の総決算書を作成し、協議員会に提出して、その承認を経なければならない。

2 各部の部長は、前項の期間内に、その部の前年度の収支決算を体育局長に報告して、その承認を経なければならない。

(学外団体への参加)

第四十三条 各部が、体育又は運動競技に関する学外の組織に永続的に加盟しようとするとき、あらかじめ、協議員会の承認を経なければならない。

2 各部が学外の団体との試合又は大会に参加しようとするときは、その都度、体育局長の承認を経なけれぱならない。

(稲門体育会との連絡)

第四十四条 体育局長は、各部の出身者との連絡をはかり、又はその助力を求めるために、必要に応じて、稲門体育会との連絡会議を開くことができる。

第七章 雑則

(細則の制定)

第四十五条 体育局は、協議員会の議決により、この規則に抵触しない範囲内において、その所管事項につき、細則を定めることができる。

附則

1 この規則は、昭和二十七年四月二十二日から、これを施行する。

2 昭和二十四年九月十五日「早稲田大学体育部規則」及び昭和二十五年四月一日「早稲田大学体育会規程」は、この規則施行の日から、これを廃止する。

3 前条の体育部規則及び体育会規程により設置された事務所は、これを廃止し、この規則に基いて新たに事務局を設置する。

4 この規則に基いて、新たに体育局が発足するまでは、従前の体育部規則及び体育会規程により、正課としての体育は、体育部がこれを管掌し、体育各部において行う体育は、体育会がこれを管掌する。

5 この規則の施行前に、すでに体育会に編入されている体育各部は、この規則の第二十八条の規定により協議員会の議を経て、体育局の管掌下に編入されたものとみなす。

6 この規則施行の当時、助教授であつて体育会の部長に嘱任されている者は、この規則施行後三年間は第三十条の規定にかかわらず、これをその部の部長に嘱任することができる。

7 この規則の施行前に、体育会規程第十八条第一項の規定により学外の組織に加盟している体育各部は、この規則の第四十三条の適用に関しては、協議員会の承認を経たものとする。

8 この規則に基いて開かれる最初の協議員会は、第十二条の規定にかかわらず、総長がこれを招集する。

9 この規則施行の当時、体育会の部長に嘱任されている者並びに体育部の本属の教授に嘱任されている者は、この規則によつて、新たに、体育局の体育各部の部長並びに体育局の本属の教授に嘱任されたものとみなす。

 10この規則施行の当初における体育局長の候補者の選挙は、この規則の第十条第一項第二号から第四号までの協議員がこれを行う。

 11この規則施行の当初、嘱任された体育局長の任期は、この規則の第十八条第二項の規定にかかわらず、昭和二十九年九月三十日までとする。

 昭和二十七年四月、体育部と体育会はそれぞれ発展的に解消し、遂に本学に体育局の設置を見ることとなり、正課体育も体育局時代へと移って行った。

2 体育局時代

a 創設・拡充期(昭和二十七年―三十六年)

 本大学における体育行政をより充実させるという観点から、新しい構想として正課体育を担当する体育部と課外体育のうち主として運動各部を掌握していた体育会が統合一体化し、体育局が設立されることになった。このことは、早稲田大学が他大学に先鞭をつけたという意味で、文部省など関係方面から大いに期待されつつの発足であった(昭和二十七年四月二十二日)。

 初代局長に大浜信泉教授が就任され、教務主任に芳野武雄教授、事務主任に北島勝之輔主事がそれぞれ嘱任された。なお、事務所は旧二号館(現一号館)の二階と体育館に設けることになり、前者では正課体育、後者においては課外体育の事務を取り扱うことになった。

 体育局発足時の教員は、日影董教授と青木一三、木村覚、富木謙治、森茂雄の四専任講師、学内の兼担教員と非常勤講師とで議義関係十名、実技関係二十六名で編成されていた。更に、次年度の昭和二十八年度には、専任講師に市原康允、また体育局助手規程に基づき阿部馨、前田勝也、矢野正次の三名の助手を採用、昭和二十九年度にも大西鉄之祐専任講師を迎えるなどして陣容の強化が計られた。

 当時の資料によると、講義は体育部時代から引続きの「体育論」など約十―十二科目で五十八時限程度、実技は年間実技(軟式野球など二十五科目)、シーズン実技(水泳、スキーなど六科目)、夏期学期(卓球など四科目)で約一万一千名程度が履修している。なお、その他に講義・実技の未履修者のための四年度生以上特別講座や第二学部学生のためのハイキングが実施されている。昭和二十八年度を前年の昭和二十七年度との比較で見ると、講義の二科目増や実技で三科目二十四時限増など、専任教員増と相俟って科目数の増加による発展の方向へ一歩進んだものとみてよかろう。

ア 第一回協議員会開催

 体育局における最高決議機関の性格をもつ「体育局協議員会」の第一回が昭和二十七年五月二十八日午後三時から本部第一会議室において開催された。

出席者

大浜信泉局長・芳野武雄教務主任・日影董・外岡茂十郎斉藤金作・赤松保羅・村松林太郎・平田富太郎・小松芳喬・有倉遼吉・中村宗雄・酒井賢治・灘波正人・滝口宏・毛利亮・山内弘・伊藤道機・佐藤慶二・吉井篤雄各協議員

議題

一、各部の予算に関する件

二、部長嘱任の件

三、講師嘱任の件

四、応援部の取扱いについて

五、オリンピック・デ杯戦派遣役員選手の件

六、夏季実技海浜生活に関する件

七、その他

 (イ)屋内競技場設置の件

 (ロ)体育会誌

 (ハ)撓競技・バドミントン部認可願い

 (ニ)漕艇部艇庫建設の件

(報告事項 菅平の件)

 詳しい審議内容は省略するが、当時の体育局の発展に力を尽され今は故入となられた何人かの先生の名前や、議題の中に「撓競技」などの文字が見られ当時を偲ばせるものである。

イ 赤松保羅局長選出される

 体育に広い見識を持ち体育局の設置・発展に尽力された初代体育局長の大浜信泉教授が総長に就任することになり、昭和二十九年九月の選挙により、赤松保羅教授が次期局長に選出された。そして教務主任に富木謙治教授が嘱任された。

 赤松保羅局長は、前局長の方針を踏襲しつつ、更により良い教育内容とするために人的にも施設の面でも大いに発展させるとの所信を述べられた。施設の面では特に早稲田大学大体育館(現記念会堂)建設に関してきわめて精力的に実現のため努力された。そして大学の予算と稲門体育会の募金によっていよいよ実現が具体化していった。

ウ 大体育館(記念会堂)の設立

 大体育館の建設について大浜信泉総長は、

従来我が国の学生体育は選手制度を中心にして発展し、施設設備を専らこの構想の下に設けられて来た傾きがあります。スポーツの発達と普及、殊にその技術的水準の向上のためには、選手制度は必要欠くべからざるものであり、今後とも存続しなければならないと思いますが、体育が一部学生によって独占されたのでは、十全にその教育的効果を期待することはできません。この点に鑑み、新制大学において、体育実技を全学生の必修科とし、すべての学生がその撰択に従い、なんかの種目を履修しなけれぱならないように改められたことは、極めて有意義であり、我が国の教育史上画期的の改革と申すべきであります。

ところで体育に関する設備は、従来の一部学生を対象として来た関係上、全学生の体育の実技を実施するには不十分の憾みを禁じえません。

と述べ、大学の正課体育の重要性と関連させて大体育館建設の必要性を訴えている。また一方、河野一郎募金委員長は、

この度の大体育館の建設と更に進んで体育学部の新設は、この意味よりしましても、是非とも早急に実現すべき施設……。

と体育学部構想が前提にあったことにも触れている。

 いずれにしても、体育実技の施設面での苦悩は独り早稲田大学のみならず他大学共通のものであっただけに、建設時期とその規模に多くの注目が寄せられたものであった。昭和三十二年十二月完成に伴い、正課体育の教場としての有効な利用が可能となり、かねてから問題とされていた第二学部学生のハイキング科目廃止などによる体育実技の改善にもつながっていった。

エ 体育科目の増設と教員人事

 昭和二十九年度の講義関係は、体育理論講座七科目、保健衛生講座六科目の計十三科目であった。昭和三十二年度には十六科目、昭和三十四年度は十八科目と増設され、以後十七科目―十八科目となって昭和三十六年度に繫がる。創設当初から見ればほぼ倍の科目が設置されたことになり、時間数も徐々に増えていった。この背景には、専任講師として大西鉄之祐を迎え、前田勝也助手を講師に嘱任し、更に退任される講義担当講師から後任者として有力な講師の推薦を得たことも大きく影響していた。このような体制の中で、講義の陣容は深みと厚さを加え充実していった。

 一方実技も、昭和二十九年度は年間実技二十六科目、シーズン実技は夏・冬・春・秋で八科目、夏季補講四科目、それにハイキングなどで、前年度よりは一歩数の上でも多くなっており、この傾向は今後も暫く進んでいく。

 昭和三十六年度までに、阿部馨・矢野正次助手を講師に嘱任、非常勤講師の野村尭・山本秀雄・西田太一・岡三郎・道明博・大島宏太郎を専任講師に、角田真一郎を同じく専任講師に迎えた。また、窪田登・池田武・伊藤順藏各助手が講師に嘱任され実技科目を担当した。同期間に助手として林敏弘・神田良生・佐藤千春・上田雅夫の四名が採用されている。

 専任教員の強化もさることながら、この期間後半の実技面での特徴は、前述した記念会堂完成による学科配当の修正であろう。記念会堂で行われるようになった年間実技の充実のみならず、夏期補講の科目数に、あるいは既設体育館の利用状況、総定員数などに改善が見られる。昭和三十三年度には、ハイキング科目の廃止のために約五千名分の学科配当が必要となり、夜間授業科目の設置や日曜実技が新設されることとなった。

 身体障害者・病弱者を対象とした健康生活指導が昭和三十二年度から実施されるようになった。

 この期間体育局長選挙が三十一年・三十三年・三十五年の九月にそれぞれ行われたが、いずれも赤松保羅教授が再選された。教務主任は三十一年から富木謙治教授が、三十五年からは安井俊雄教授が就任された。また、体育局にも教務副主任制度が昭和三十一年に加えられ、昭和三十二年から清原健司教授が就任、三十六年まで引続きその任に充てられた。昭和三十五年には事務主任の異動があり村田光敏主事が事務主任となった。

オ 新校舎への移転・日本体育学会開催

 昭和三十五年七月、記念会堂裏に体育局の新校舎の建設が着工された。四階建コンクリート造り、事務所・教室・研究室などを含む体育局単独の建物が完成を見たのは昭和三十六年春だった。記念会堂、その裏のグラウンドそして校舎と早稲田大学の中に体育局ゾーンが確立されていった。新校舎への移転は、昭和三十六年度の新学期に備えて事務所関係は三十六年三月末旧二号館から、研究室の方は四月初旬にやはり旧二号館地下からの移転であった。五月十日の体育祭当日三階の教室において関係者を招待、新校舎落成披露宴が盛大に行われた。

 早稲田大学で、日本体育学会第十一回大会が昭和三十五年十一月二十一日―二十三日に開催された。当時の理工学部校舎を中心に発表会場が設けられ、全国から体育の研究者が一堂に集い研究発表と討論がなされた。成功裡に終了できたことは、数少い体育局専任教員の準備期間を含めた二年間に亘る苦労の賜と言えよう。参加者の中には記念会堂を見学していく人も多かった。

b 充実期(昭和三十七年―四十五年)

 創設・拡充期に比較すれば、拡大化の方向とともに次第に質的向上をも計り内容の充実化が見られる時期と言えよう。勿論人的な面の強化を続けながら野外活動・理工学部特設講座を設けるなどの拡大化の一方、体育祭のあり方、保健体育運営委員会の発足、日曜実技の廃止、授業時限改正などの検討が加えられて、より積極的な時期でもあったと言える。なお、この時期の後半に大変不幸な出来事と言うか、学生運動によって種々な大学の教育計画が妨害を受けたり、これに対応した学内立入り禁止措置が採られるなど騒然とした時期が含まれている。

ア 講義および実技の充実

 昭和三十七年度は理論講座九科目、保健衛生講座が十科目であったのが、昭和四十二年度はそれぞれ十二科目となり、昭和四十五年度にはそれぞれ十科目と十九科目の合計二十九科目と増加している。時間数もそれに応じて増加されており、選択制度の基本方針に沿って学科配当の内容がより豊富となってきているものと言える。昭和三十九年度から理工学部一年度生の体育講義については、級別に設けられた時間に指定の講義科目を西大久保の理工学部校舎で履修する制度が採用された。なお、この制度は、昭和四十四年度まで継続されたが体育局における講義の授業時限の改訂を機に廃止された。

 講義関係の人事では、日影董教授の定年退職により新しく宮川彪教授を迎え、上田雅夫助手が専任講師に嘱任され、木村覚・西田太一・野村尭各助教授ならびに窪田講師が体育講義も担当し、更に織田幹雄・大西鉄之祐を教授として迎えている。このようにこの時期における講義担当のスタッフの強化から重厚さが加えられていったのである。

 一方実技の面でも同じようなことが言える。科目数で見ていくと五―六科目程度の増加にすぎないが、体育局校舎設立に伴い四階ホールでの卓球、レクリエーション、フェンシングが昭和三十七年度から、第二体育館設立に伴い卓球、菅平寮完成に伴い野外活動やスキーが増設されている。これらの施設の増加が、他のいろいろな面、例えば学生が選択し易い時間に多くの授業が編成できたり、教員の負担をある程度軽減できたなどの好影響を示す結果となっていった。人的な面からみれば、中村茂・船戸徳郎ならびに非常勤講師の大沢慶己を専任講師に迎え、林敏弘・佐藤千春・神田良生・西大立目永・安藤宏三・加藤清忠・木村好子・白鳥金丸の各助手が講師として嘱任され専任教員の層に一段と厚みを加えた。

 この期間に見谷昌禧・浜野吉生・小杉正太郎・関一誠・古市英の四名を助手に採用している。

 昭和三十四年来復活の四年度生以上を対象として三月に行ってきた実技補講を、昭和三十八年度から「特別講座」とし、正式に「体育履修要項」に記載するようになった。しかし、教育的効果に鑑み、昭和四十三年度から廃止、また長年行ってきた健康生活指導の科目も、医師の診断により実技履修不可能の場合は講義履修に振り替えるか、実技履修要注意患者は指定された年間実技を履修するなどの措置に切り替えられた。更に、学生が科目選択をする際、シーズン実技と年間実技、球技系と格技系、屋外科目と室内科目の如く異った系統の科目を選んで履修するよう指導したり、第二学部学生特設としての日曜実技を昭和四十一年度から廃止に踏み切った。

 体育の授業は当初から各学部とは別個の時間割が組まれているが、学生の履修の便を考えれば同一の時限が好ましいのは言までもない。従って、実技では学部の授業時限改正のつど百二十分授業から百分授業に、更に現在の九十分授業へと改めている。ただ、講義では単位数との関係で必ずしも同一の時限を設置できない問題があり、六十分授業、五十分授業、四十五分授業、そして現在の六十分授業と変化してきている。昭和五十五年度から、現学部授業時限と同様の九十分授業へ切り換えていくことになっている。

 今、授業時間のことで学部との関連が出てきたが、体育局は機関としては独立しているが、実際的な面では大学全体の方針や各学部の動向を無視することができないのは当然である。例えば、昭和三十八年の第二学部の募集停止や第一学部の募集人員の増加があったが、その時も予め十分検討をしそれに対応できる体育局としての体制を整えていた。このように体育局における制度の種々な改訂は、時代の流れや変化の現状に即して生れることが多い。

イ 保健体育運営委員会の発足

 体育局では、体育科目を系統別にまとめて、例えば科主任制度的組織を設け、学科配当やカリキュラムの検討などを行いたいという意向があった。それが昭和三十九年に体育局保健体育運営委員会(最初は正課体育運営委員会という名称であった)の発足で実現した。当時の委員会の組織は、以下の九分科会で構成されている。

理論講座分科会

保健講座分科会

第一格技分科会(柔道、剣道、弓道、合気道、空手)

第二格技分科会(ボクシング、フェンシング、レスリング)

第一球技分科会(軟式野球、ソフトボール)

第二球技分科会(バドミントン、庭球、軟式庭球、卓球、バレーボール)

第三球技分科会(バスケットボール、ハンドボール、サッカー)

基礎体育分科会(陸上競技、女子体育、レクリエーション、一般体育、ジムナステック、ウェイトトレーニング)

シーズン体育分科会(健康生活指導、馬術、スケート、スキー、ヨット、ボート、野外活動、山岳、水泳、自動車、ワンダーフォーゲル)

ウ 学内紛争による影響

 昭和四十年度後期講義試験は紛争のため四年度生以上のみを対象とし、十時の予定を十一時に繰り下げ試験を開始した。共闘会議の学生約二千名は朝八時三十分頃から体育局校舎を取り巻き試験ボイコットを叫び受験者に防害を企てたため、受験予定者四百五十名中六十七名のみの受験となってしまった。このため受験できなかった者はレポート提出に切り換え、三年度以下は無期延期とした。体育実技特別講座もこういう事情の中で行うため、十五日間を十三日間に短縮して行ったが、防害を受けることなく終ることができた。

 重ねて学費値上げ反対運動のため学内立入り禁止令が出されたのが昭和四十四年の四月であり、七月七日以降臨時休講の措置が採られた。なお、全共闘全国大会集会が記念会堂で開催と予定されたために一部の授業(夏期実技)は影響を受けたほかは体育局の授業はほぼ予定通り前期を終了することができた。この紛争はなお継続される形で、十月に入って不幸にも機動隊導入や学内立入禁止、学生証確認措置などの二度とあってはならない状況となってしまった。このような状況では、秋の恒例行事である体育祭は中止せざるを得なかった。体育局の授業は何とか実施できたとはいえ、我々の心に大きな傷跡を残して昭和四十四年度が過ぎていった。

エ 体育祭のあり方と移り変り

 昭和三十七年には、体育祭のあり方を従来の体育各部のデモンストレーション的なものから全学的な催しとしたいと言う安井俊雄局長の意向により、春は大隈講堂での体育表彰式午後の模範演技、秋には運動会を実施、昭和三十八年度は安部球場で実技履修学生を中心に全学学生を対象として午前と午後に分けて運動会を行った。昭和三十九年度には体育祭は大学行事の一つであるという考えから、大学が主催する形式を採り、実行面は体育局が担当して、初の国立競技場での体育祭が行われた。この体育祭は、学部対抗形式や教職員家族の参加などで約四万五千名の参加となり、盛大な催しとなった。

 以後大学各機関や各学部からの委員によって体育祭委員会が結成されるなど全学的な催しの性格を強めていった。昭和四十二年雨天中止、昭和四十四年学内異常事態による中止まで国立競技場使用による体育祭が続いた。

 しかし、昭和四十五年度以降は国立競技場使用不可能の状態となり、従来と同じ趣旨と組織をもって場所と方法を学内施設と競技会方式に切り換えて行うこととなった。この形式の体育祭が現在まで続いているが、近年は一般学生の参加も多く、種目によっては抽選の上での予選出場、そして体育祭で決勝戦を行うなどの者が出てくる程で、現行の方式も定着してきたと言える。

オ 安井俊雄教授局長に選出される

 この期間、局長選挙は昭和三十七年三月、三十七年九月、三十九年九月、四十一年九月、四十三年九月、四十五年九月に行われている。三十七年三月は赤松保羅局長が定年退職のため残存期間の九月までの局長選挙であったが、安井俊雄教授が選ばれ、以後六期にわたり局長の任に充てられた。

 また、教務主任および教務副主任には、町田実教授と清原健司教授が昭和四十一年九月まで、以後は町田実教務主任と木村覚教授が教務副主任を務めた。昭和四十二年四月からは、木村覚教授が教務主任、前田勝也助教授が教務副主任となり、昭和四十五年九月に伊藤順蔵助教授が教務副主任となった。

c 現状と展望(昭和四十六年―)

 昭和四十六年以降の正課体育を一言で言うならば、充実期からもう一歩内容的にきめ細かく掘り下げ、更に充実の度合いを深めていきつつある時期となろう。そして教員研究室が完成したり、研究機関誌としての『早稲田大学体育紀要』が続刊されているなど、正課体育の充実、発展とともに研究活動もより活発化したことも特筆されよう。

ア 講義および実技の現状

 昭和四十六年度の講義科目数は体育理論講座十一科目、保健衛生講座が十九科目、合計三十科目と大きく拡大され、昭和五十四年度も全くの同数である。実技も同様で、全体的にみて、数的にも時間的にも安定した形となっていると見てよいだろう。昭和四十六年度以降はシーズン実技系から一科目しか履修できない制度を加えるなどの細部にわたる検討が加えられていった。また、全く新しい科目として、合宿生活の利点と年間実技の形式をミックスした併合実技が考え出され、昭和四十七年から試行された。その結果、予測した教育効果が認められたため常設され現在まで漸増している。

イ 滝口宏教授局長に選出される

 昭和四十六年三月安并俊雄局長の定年退職による局長選挙によって、滝口宏教授が局長に就任し、その後四十七年九月、四十九年九月、五十一年九月、五十三年九月の選挙にいずれも滝口宏局長が再選されている。昭和四十六年度から、教務主任心得として伊藤順藏助教授、教務副主任として林敏弘助教授がその任に当っていたが、昭和五十三年四月教務副主任は上田雅夫教授へ、昭和五十四年四月以降教務主任に窪田登教授が就任して現在に至っている。またこの期間に、非常勤講師の三宅久子、矢島忠明、山崎勝男を専任講師に迎え、浜野吉生、小杉正太郎、関一誠、古市英、小野沢弘史、吉村正の各助手が講師に嘱任され、宮崎正己、葛西順一、加藤久の三名が助手に採用されている。体育局事務所では、昭和四十六年から原圭之助主事、昭和五十年から竹腰博二主事が事務長となっている。

ウ 体育局創立二十周年記念式典挙行

 体育局創立二十周年にあたる昭和四十七年四月二十二日、第二体育館において盛大に記念式典が挙行された。滝口宏局長の挨拶に始まり、村井資長総長・安井俊雄前局長の祝辞、更に永年体育局に務められた非常勤講師や監督などの表彰が行われた。また、日頃体育局の活動と深い縁のある学外関係者多数に感謝状と記念品を贈る心遣いは大変ユニークな配慮として好評を博した。

エ コンピューター・システムの導入

 昭和五十三年から実技科目登録にコンピューターによる登録が採用されるようになった。数年前から体育局では成績原簿、学部への成績送付、出席簿作成など段階的にコンピューター・システムに切り換えられていたが、いよいよ科目登録にコンピューターの登場である。遠い昔、昭和二十八年頃の実技科目の登録は、すべて先着順に受付けとなっていた。そこで希望者の多い科目は、登録を確実とするためについに徹夜で大隈講堂前に並ぶようになってしまった。この徹夜組を相手にラーメン屋や焼芋屋などが出没し、新学期の早稲田名物?となった。こんな騒動のあとは、ガラガラポンの抽選機が登場した。これにて徹夜は解消されたが、記念会堂前の広場での抽選風景も異様なもので、歳末の商店街景品所の如く幾つもの長い列が抽選機を廻している。およそ学問の府にそぐわないとの批判もあったが、二万人に及ぶ登録者を短期間に決定し、同時に本人の登録がその場で確認できるなどの利点があった。徹夜・抽選機のいずれにしてもその原因は体育部から基本方針である自由選択制にある。この制度を守っていく限りそのための登録事務は大変な作業である。コンピューター・システムになった現在は、学生が第五希望までカードにチェックして提出すれば後はコンピューターが抽選をして結果を出す仕組みである。登録方式の経過を知っている教職員にとっては夢のような時代である。

オ 研究活動

 体育局教員の関係する学会は、日本体育学会、日本体力医学会、日本スポーツ心理学会、脳波筋電図学会などが主として挙げられ、それぞれの研究領域において活発に研究発表活動がされている。なお、前述(体育部時代参照)の大学体育のあり方についての協議機構、大学体育協議会(昭和四十八年以降は法人化され、大学体育連合となる)の会長に、昭和二十七年―三十一年の間当時の大浜信泉総長が、また昭和四十八年―五十三年までは、やはり当時の村井資長総長が会長として大学体育行政の中で中心的な位置付けを以て活躍されている。

 体育の研究誌『早稲田大学体育研究紀要』は、学内予算も整い年々充実し、昭和四十四年以来現在まで第十一号が発刊されている。なお、昭和三十五年当時予算面での苦労、工夫によって刊行されていた現紀要の前身『早稲田大学体育研究室紀要』第一号から第三号(昭和三十五年、三十六年、三十八年)がある。

 早稲田大学指定課題研究の第一回は、昭和三十一年、三十二年度に日影董教授を代表者として「体育指導管理のための体育測定法に関する研究」であった。この研究結果は、当時の体育書に引用されるなど多方面の資料となったことはよく知られている所である。その後も体育局教員を中心とした約二十件の指定課題研究が行われてきている。

 昭和三十三年ミシガン大学との研究員の交換制度による前田勝也講師の出張が、体育局の在外研究として初めてのことであった。その後、私学研修福祉会からの補助を受け、昭和四十四年度に矢野正次助教授がアメリカに、次いで四十六年に上田助教授が欧州に出張した。昭和四十六年に国内研究、四十七年からは在外研究制度が体育局に設けられるようになり、昭和五十四年度までに、在外研究員十一名、国内研究員九名がそれぞれ研究に従事した。

 体育局の特質でもあろうか、教員の海外交流はすこぶる頻繁である。オリンピックを初め各種競技会の国際的な催しに参加するための海外出張も多い。最も新しい技術、組織、競技運営など国際的な動向にふれ、それぞれの専門の研究、指導の面に反映させていることは有意義であろう。

カ 新学部構想

 創立百周年記念事業計画の中に新キャンパスと新学部等の設置が掲げられている。その中に、「体育、スポーツ科学系の学部」として「最近の体育、スポーツのおかれている重要な位置付けに応じて、健康、体力問題およびスポーツ科学に関する研究を行い、学校体育、職場体育、地域体育の指導者および体育行政、健康管理の専門家を養成し、主として身体機能の維持向上という側面から社会に貢献しようとするものである」と記されている。

 本大学で体育に関した新しい学部の設置を望むものは、百周年記念事業との関連で生れて来たのが初めてではない。古い時代から学内関係者や先輩の間で希望されていたと聞いているが、少くとも体育局が創立されてからでも、何回となく新学部設置の声が高まり、時にはその機運に支えられて新学部の組織や学科配当まで作成された試案、原案が提案されている。しかし残念ながらいずれも具体化されずに来てしまった。また、記念会堂の設立、体育局校舎の設立等に伴う新学部構想は、教育学部教育学科の体育学専修設置に留まってしまったことも記憶に新しい。新学部設置は、学内外をとわず体育関係者の悲願とも言うべきものである。

 体育に関した新学部の構想は、前述の如き言葉で表されるものが一応共通的理解ではなかろうか。勿論、表現の選択や、新学部の組織や内容を検討する時これらの内容をどのような比重で取り上げるかなどについては議論もあろう。しかし、いずれにしても本大学における二十一世紀に向けての人間教育の核心を新学部に期待する意義は大きい。早急に早稲田ならではの新学部設立を切に望むものである。

 正課体育が発足して三十余年、この間体育部、体育局を中心にした成長の姿を、それぞれの時代の特徴を捉えながら展開してきた。この歴史が語るように正課体育の発展は高く評価されるものであろう。しかしながら、このような発展の経過はすべてにおいて好条件のもとでのものではなく、寧ろ幾多の障害を乗り越えてきた苦難の歴史と言えるのではなかろうか。その一つに不十分な施設が挙げられる。正課体育の施設は前述したように、体育各部の施設との共用で出発している。その後ある程度、増築、改築などの手は加えられているが、現に正課体育専用施設は二、三を数えるのみである。このような状況の継続は、体育各部の活動を圧迫することのほかに、正課体育においてはクラス定員数の過大になって現れ、それが教員の負担につながってくる。また、現在はある程度改善されているが、履修者総数に対して教員数の不足からくる教員一人当りの持時間数が大変多かった時期も長く続いた。更に、教員の研究活動の基盤となる研究室、研究費あるいは在外・国内研修制度等々についても、他学部より非常に遅れた適用であった。このような事実を考え合わせれば分るように、正課体育の発展は、教員の負担によって支えられていたという側面も忘れてはならないであろう。

 体育局が抱えている課題の一つに定年制の問題がある。実技教員の定年は、昭和二十四年の体育部創設時には既に五十五歳と定められていた。しかし、他教員の定年七十歳との不合理な格差は、昭和四十一年の体育局協議員会でもその撤廃が満場一致で可決されており、長期間に亘って根気強く大学当局との交渉が重ねられてきた。その成果は満足できるものでなく、数度の改正を経て現在でも昭和五十四年に改正された六十五歳の定年である。三十年の歳月を費やして十年の延長というまさに苦難の道であった。定年制問題も、体育局の歴史の中で欠くことのできないものである。

 最後に、本稿の中にはあまりにも詳細な事項が記入されていて繁雑さを感じさせる部分があったかも知れないが、史実と記録という面から敢えて記述したものである。大方の御賢察を願う次第である。

二 課外体育

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1 早稲田スポーツ

 早稲田大学は百年の歴史を通じて、日本のスポーツの興隆・発展に多大の貢献をしてきた。

 東京専門学校として設立された直後から、学内におけるスポーツの普及、発展に力を入れて運動部の育成に努め、運動部もまた関係者の努力によって部を強化・拡充し、それぞれの競技種目における日本のリーダーとなって活躍した。選手として輝かしい成績を収めて競技種目のレベルアップに尽した者だけでなく、各種目の全国組織の結成、運営に携わってその普及に尽力した者、指導者として後輩の指導、育成にあたった者など、種々の面で多くの早稲田マンが日本のスポーツ界のために多大の貢献をして、日本のスポーツの発展に寄与したのである。

 早稲田スポーツの歴史は、輝かしく誇りに満ちた歴史であると言える。

2 明治期のスポーツ

a 沿革

 早稲田大学におけるスポーツ活動は、東京専門学校として誕生した明治十五年から始められている。

 開校時に既に撃剣道場(体操場)が設置されており、剣道、柔道が学生たちの間で相当盛大に行われていた。こうしたスポーツ活動は学生が自主的に行っていたものではあるが、その後も引き続いて行われており、運動部の創設へと引き継れて行くのであるから、学校創立当初からスポーツが愛好されていたと言える。

 運動会活動も活発であって、明治十六年に親睦会という名の運動会を催して以来、明治期を通じて陸上、水上(明治三十七年以降)の両運動会を実施しており、運動会は教職員と学生との懇親の実をあげるとともに、全学生をスポーツに親しませ、スポーツを実践させる場を与えたという点で有意義であった。

 スポーツ活動が本格化してくるのは、明治三十年三月に東京専門学校体育部規則が制定されてからである。同規則によって、学生が幾つかのスポーツ活動を行うことが可能となり、運動部組織ができる素地をつくった。

 競技スポーツを行う運動部が大学から公認されたのは明治三十五年、早稲田大学体育部規則の制定によって柔術、撃剣、弓術、野球、庭球、端艇の六部が公認された。このうち、柔術、撃剣、野球の三部は実質的にそれ以前から部活動を行っていたが、正式に公認されたのはこの年である。厳密に言えば、競技スポーツを行うようになったという意味での早稲田スポーツは明治三十五年にスタートしたことになるが、東京専門学校設立以来のスポーツ的活動が明治三十五年以降の運動部活動に結びつき、引き継がれているのであるから、明治十五年に早稲田スポーツがスタートしたと言ってよいであろう。

 明治期の早稲田スポーツは、草創期であり、後年日本スポーツ界のリーダーとなった時代の基礎をつくった時期でもあった。

b 東京専門学校時代

 東京専門学校においては、明治十五年の開校時からスポーツ活動が活発に行われていたが、運動部というような組織の中で行われていたのではなく、寄宿舎を中心にした柔道、剣道と運動会におけるレクリエーショナルスポーツ活動とが主流であった。

 柔道と剣道は学校創設時から多くの学生が行っており、特に剣道は早稲田クラブを中心に活発であった。明治二十八年に寄宿舎を中心にして組織された早稲田クラブは、「体育ヲ盛ニシ徳義ノ実践躬行ヲ重ンズ」ことを目的として撃剣、相撲、テニス、ベースボールを遊技種目として実行していた。この早稲田クラブでの活動はその後の体育部設置にも関連があり、早稲田スポーツを生み出す一つの原動力となったことは事実である。この当時の活動は運動部としての活動ではなかったにしても、その後の剣道部、柔道部に移行していったスポーツ活動であったのである。

 明治三十年三月に東京専門学校体育部規則が制定された。それまでは学生が自発的に行ってきたスポーツ活動が、この規則によって目的を持って、組織的に行われるようになった。同規則は次の通りである。

第一条 本校学生に完全なる身体の発育を得せしむるを目的とし体育部を置く。

第二条 体育の方法は凡て左の如し。

一、郊外運動

一、器械体操

一、撃剣

一、柔術

一、弓術

一、テニス

一、ベースボール

第三条 郊外運動は毎年春期一回之を行ひ諸般競争遊嬉を為さしめ優等者には賞を与ふ 撃剣・柔術は一定の日時に教師に就き伝習せしむ 其他は各部の委員の見込に依り適宜之を行ふ

第四条 本部に部長一名委員長一名及委員若干名を置き一切の事務を処理せしむ

部長は本校教職員中より推薦し事務を統轄し金銭の出納を監督せしむ

委員長は部長之を定め委員を統轄せしむ

委員は各学科学生中より三名を推挙せしめ各種の運動遊嬉を分掌せしむ

第五条 部長及委員長の任期は一ケ年、委員は半ケ年とし倶に再選することを得

第六条 本部に委員会を置き部長、委員長、委員を以て之を組織す

委員会は適宜之を開き、本部に関する一切の事項を評決し本校の同意を得て之を施行す

第七条 本校学生は総て体育費として毎月金五銭を納むべし 体育費の納付及怠納処分は月謝と同一なるべし

第八条 毎年春秋二回部長収支の報告をなすべし

 この中では撃剣、柔術の二種目に注目すべきである。器械体操、テニス、ベースボールの三種目は、この時点では学内で殆ど行われておらず、弓術も組織的にあるいは活発に行われていたと考えられないが、撃剣と柔術は既に組織的に活動を行っており、この規則によって正式に大学から活動が、それも一定のスケジュールに従って教師の指導を受ける種目としての活動が認められたわけである。少くとも剣道部、柔道部としての活動が明治三十年には実質的に始まったと言える。

 東京専門学校体育部規則は、実質的に剣道・柔道の二部の部活動を認め、弓術、野球、庭球等のスポーツも学校内で行いうる環境をつくったという点で意義があった。

 運動会もこの時期の大きなスポーツ的活動であった。運動会の二、三の実例をあげると、明治十八年十月十四日に飛鳥山で行われた秋期大運動会では百間競走、盲目五十間競走、縛足五十間競走、飛越五十間競走、走長飛、綱引、旗奪、相撲であり、明治二十七年四月十四日の向島墨田園での春期大運動会では、幼年レース百五十ヤード、二百ヤード、青年二百五十ヤード、八百ヤード、高飛、竿飛、サックレース、縄引、玉拾競争、障害物競走、提灯競争、来賓八百ヤード、講師校友二百五十ヤード、載袋撃剣の各種目が行われている。そしてこうした運動会は、明治三十年の春季大運動会を描写した『早稲田学報』の記事に「本校の春季大運動会は去十一日を以て向島隅田園に開かれたり(略)学生及外賓の来会するもの千有余名定刻に及び競走、高飛、角力、撃剣等諸種の運動あり」とあるように、在校生の殆ど全員(明治三十年三月二十八日現在の在校生千四十六名)が参加しての盛大なものであった。

 運動会は早稲田大学に改組されてからも引き続き続行されたが、運動部の組織ができていなかったし、日本においてスポーツがそれほど普及していなかった時代の東京専門学校においては、その活動は貴重であったと言える。運動会によって学生のスポーツへの関心が高まり、学生がスポーツ活動をする誘因になったことも事実であろう。

 東京専門学校時代のスポーツは、柔道・剣道など特殊の種目を除くと、レクリエーショナルスポーツ活動であったが、当時にあっては活発なスポーツ活動がなされていたと言ってよい。

c 体育部創設(明治三十五年)以降

 東京専門学校が早稲田大学に改組された明治三十五年に体育部も新たな規則を作り、競技スポーツを専門的に行う運動部がスタートした。

 早稲田大学体育部規則は次の通りである。

第一条 本部の目的は学生に健全なる身体と活発なる精神を養はしめ併せて修徳の実行を為さしむるに在り

第二条 当分本部を分ちて柔術、撃剣、弓術、野球、庭球、端艇の六部となす

第三条 学生は随意に其好む所の部を撰択することを得、又二つ以上の部を併せ撰ぶも妨なし

第四条 体育部員たらんとするものは其姓名及び其属すべき部名を記して各部の委員或は本校の事務所に申出づべし

第五条 撰手の撰定に関する規則及び其他詳細の規則は各部自ら之を定むものとす

第六条 各部の連合会を開く場合には一部毎に二人の代表者を出すべきものとす

第七条 本部は春期に水上大運動会、秋期に陸上大運動会を開く

第八条 春秋二期に於ける大運動会にては政治経済、法律、文学の分科競争を行ふものとす

第九条 本部の経常費として本校学生は何人たるに拘はらず会費として毎年金壱円弐拾銭を納むべし

但し其納期は九月より六月迄毎月金拾銭宛七月金弐拾銭学費と同時に本校会計課に分納すべし

第十条 各部にして臨時の費用を要する時は本部の経費中より支出すべしと雖も平時の出費は各部員更に醵金して之を弁ずべきものとす

 この規則によって、明治三十五年から運動部としての早稲田スポーツが行われるようになったのである。ただ、柔道、剣道の二部は少くとも三十年には部活動を開始していたと考えてよいし、野球部も三十四年に対外試合を行っていたと考えてよい。

 早稲田大学体育部規則によって選手制度を採ることが認められ、各部とも選手を選んで競技スポーツへの道を進んでいくのであるが、一般学生のスポーツ活動も奨励しており、各部に入部して活動したり、陸上・水上の両運動会に参加しての活動をする学生も多かった。運動会も規則に明記されて盛大に行われているが、明治三十七年以降は水上運動会も行われるようになり、この水上運動会は端艇部活動に密接に関連していて、端艇部活動の重要な場になって端艇部の発展を促したことは、早稲田スポーツへの大きな貢献であった。

 明治期の運動部の活動状況はそれぞれの部によって異なるが、柔術・撃剣・弓術・端艇の四部が校内での活動を主としていたのに対し、野球・庭球の両部は対外試合を数多く行って活躍をしており、特に野球部は明治三十八年に米国遠征を行うなどの壮挙をなし遂げている。この米国遠征は、大学の運動部として日本最初の外国遠征であり、日本のスポーツ界に大きな刺激を与え、野球の普及、発展に多大な貢献をした。遠征を計画し、実現した安部磯雄と、これを認めた大隈重信以下の大学当局者のスポーツに対する理解と先見性が賞讃される。

d 各部の活動状況

ア 柔道(術)部

 柔道部は、東京専門学校当時から活発に活動をしているが、特に講道館との結び付きが深く、講道館高段者の指導を受ている。明治三十年には組織的に練習を行っており、学校当局もその点を十分に認識していたのであるから、規則上運動部として認められたのは明治三十五年であっても、明治三十年には実質的な部活動をしていたと考えるのが妥当であろう。

 明治期の柔道部は、剣道部とともに、最も早くから活発な部活動を行っていて運動部の中心的存在であったが、他大学との対抗試合などは行わず、早稲田大学はじめ他大学の学内柔道大会、講道館での有段者大会などがその活躍の場であった。

イ 剣道(撃剣)部

 剣道部の活躍は運動部の中でも最も早くから活発で、学生個々の活躍は東京専門学校創立の明治十五年にまで溯ることができる。東京専門学校時代も早稲田倶楽部を中心としてきわめて活発に剣道を行っている。剣道部がいつ頃から組織的に練習をし活動するようになったかの判断は難しいが、実質的な部活動を開始したのは、明治三十年と考えるのが適当であろう。

 対外試合としては、明治三十八年以降の数年間東京高等師範学校と対抗戦を行った以外はほとんど行っておらず、早大の剣道大会や他大学の大会に選手を派遣しあって紅白試合を行っていた。

 学内での活動は活発で、部員四百名を超すというような時期もあって学生の人気の高い部であった。

ウ 弓道(術)部

 弓道部は同じ武道系であっても柔道や剣道のように早い時期から活発な部活動は行っておらず、明治三十五年の規則で部に公認されて以来の活動が主なもので、特に明治三十七年に矢場が建設されて以降本格的に活動をしている。

 弓道部は、明治三十七年以後、東京帝大、慶応大学、明治大学、美術学校等と対抗試合を行う一方、部の弓術大会や遠的大会も盛んであって、他大学の選手も含め多数の選手が参加して行われている。

 弓道部は、学内活動の他に対外試合も行うという独自の部活動をしていた。

エ 野球部

 明治期の運動部の中で対外試合で最も華々しい活躍をしたのが野球部である。

 早稲田の野球は明治三十四年から本格的に部活動を始めたのであるが、短時日のうちに充実し、明治三十六年十一月二十日に第一回の早慶戦を行っており、これが全スポーツを通じての最初の早慶戦である。そして明治三十七年には慶応、一高、学習院、横浜外人を破って全勝するまでに成長している。明治三十八年には日本のスポーツ史上に特筆される快挙である第一回米国遠征を行っている。この米国遠征によって得た成果が、早稲田のみならず日本の野球を進歩させたのである。

 野球部は、安部磯雄という優れた指導者を得たこともあって、短期間のうちに日本の野球界のリーダーとなって対外試合で早稲田スポーツの名を高めた。

オ 庭球部

 野球部とともに対外試合で活躍したのが庭球部である。

 庭球部の本格的活動は明治三十六年からであって、この年東京高師と、三十七年に慶応大学および東京高商と対抗戦を行っている。三十七年以降は、高師、高商、慶応とともに四大雄鎮と呼ばれ、いろいろな面でテニスの進歩に貢献している。明治三十九年春、秋の対抗戦に全勝して王座に就き、関西遠征を行って日本のテニス界に刺激を与え、テニスの普及、発展に寄与した。

カ 漕艇(端艇)部

 東京専門学校時代には学校としての活動は行っておらず、明治三十五年に部として認められてから「時雨」「青葉」「常盤」の三艇が新造されて部活動が始まった。更に三十七年には艇も増えて本格的活動に入った。

 明治三十八年に隅田川で第一回早慶戦を行ったが、対校競漕は殆ど行わず、大学内の競漕や水上運動会が主たる活躍の場であった。水上運動会は学生の関心も高く、毎回盛況であった。

キ 水泳(遊泳)部

 体育部の規則の上でも公認された(第二条条一部改正)のは明治四十三年であるが、大学から部として公認されたのは明治三十八年と推測できる。このことは『早稲田大学創業録』、『早稲田学報』等の記事からも明らかである。

 明治期の水泳部はプールでの活動を行っていたのではなく、夏休み中に合宿して海で行う練習だけの活動であった。従って、その内容も競泳ではなく、日本泳法の練習が主体であった。

3 大正期のスポーツ

a 沿革

 日本のスポーツは、武道等を除いて、明治時代に日本に紹介された外来スポーツを吸収して普及・発展していったのであり、明治時代にはその種類も少く、レベルも普及度も低いものであったが、しだいに多くの外来スポーツを摂取して普及していった。質と量の両面でスポーツの普及が進むにつれて技術も進歩し、国際スポーツ界にも進出するようになって、明治四十五年にはストックホルムでの第五回オリンピックに参加するまでになった。

 こうした日本国内での競技スポーツの普及、進歩を背景として、早稲田スポーツもしだいに拡充されていった。明治三十五年に本格的にスタートした運動部は、選手制度がしだいに徹底するようになり、競技スポーツとして高度の技術を追求できるようになった。明治時代に公認された部は、練習によって高度の技術を得てそれぞれの種目のリーダーの地位を固め、引き続いて学内活動、対抗試合で活躍をした。

 一方、明治時代以降日本国内に普及していった外来スポーツは、早稲田においても有志学生の間で愛好されるようになっていった。愛好者が増加するとチームができる。こうしてできたチームはやがてクラブや同好会に発展していく。スポーツが好きな若い学生が同好会を作れば、技術的にも高度のものを求めて努力し練習を続けるし、他大学の運動部や同好会、市民のクラブなどとも交流が深まっていく。このようにして同好会活動を何年か続けて実績を挙げたものは体育会公認の部へと発展していった。

 かくして大正時代には、既存の部に加えて八部が新たに公認された。これらの部は、明治三十五年に体育部規則ができてからスタートした幾つかの部とは異なって、公認の時点で既に相当高度の技術を持ち、更に相当の期間組織的に練習を続けてきたグループであったし、なかにはその種目の日本でのパイオニア的役割を果した部もあったわけである。

 国内的には、主として大正中期以降に開始されてくる全日本選手権大会等の全国大会での活躍、新しい技術、高度の技術の工夫、マスター、それぞれの種目での指導者としての活躍、全国組織(それぞれの種目の協会や連盟など)の設立やその後の普及活動など、広い分野で早稲田関係者の活躍が見られる。国際的にも、オリンピックへの参加などで活躍する選手も出てきた。

 大正十年に早稲田大学体育会が発足して、それまで体育部に属していた運動部は体育会所属となった。

 体育会の規則は次の通りである。

第一条 本会ヲ早稲田大学体育会ト稱ス

第二条 本会ハ本大学学生ノ体力ヲ完全ニ発達セシムルト同時ニ品性ノ陶冶ヲ計ルヲ以テ目的トス

第三条 本会ハ本大学教職員、校友及学生ヲ以テ組織ス

第四条 会員ヲ分テ通常会員及特別会員トス

第五条 本大学学生ヲ以テ通常会員トス、

本大学学生トハ大学各学部、高等師範部、専門部各部、高等学院及高等予科学生ヲ言フ

第六条 本大学教職員及校友ヲ以テ特別会員トス

本大学教職員中ニハ工手学校以外ノ附属学校教職員ヲ含ム

第七条 本会ハ運動ノ種類ニヨリテ部属ニ区分ス

第八条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク

会長 壱名

幹事 壱名

会計主任 壱名

部長 各部一名

代表委員 各部弐名

第九条 会長ハ本大学学長之ニ任ス

第十条 会長ハ本会ヲ代表シ会務ヲ綜理ス

第十一条 幹事ハ本大学幹事之ニ任ス

第十二条 幹事ハ本会一般ノ事務ヲ管理ス

第十三条 会長事故アルトキハ幹事之ヲ代理ス

第十四条 会計主任ハ本大学会計主任之ニ任ス

第十五条 会計主任ハ会計事務ヲ管理ス

第十六条 部長ハ各部ニ於テ本大学教職員中ヨリ推薦シ会長之ヲ嘱任ス

第十七条 部長ハ其部ノ部員ヲ統率ス

第十八条 部長事故アルトキ之ヲ代理スルカ為メ副部長壱名ヲ置クコトヲ得

第十九条 副部長ノ選任ハ第十六条ノ規定ヲ準用ス

第二十条 代表委員ハ各部二於テ其部員中ヨリ選出ス

第二十一条 代表委員ハ専ラ其部ノ常務ヲ擔任ス

第二十二条 代表委員ノ任期ハ之ヲ一ヶ年トシ毎年二月ヲ以テ改選ス

第二十三条 集会ヲ分テ総会及部会トス

第二十四条 総会ハ役員全部ヲ以テ組織ス

第二十五条 総会ハ本会ニ関スル重要ナル事項ヲ議決ス

第二十六条 定期総会ハ毎年春秋二回会長之ヲ召集ス

第二十七条 臨時総会ハ会長必要アリト認メタルトキ又ハ役員三分ノ一以上ノ要求アリタルトキ之ヲ召集ス

第二十八条 総会ハ役員三分ノ一以上ノ出席アルニアラサレハ開始スルコトヲ得ス

第二十九条 本会規則ノ改正既設ノ部ノ廃止又ハ新二部ヲ設置セントスルトキハ特ニ役員三分ノ二ノ出席ヲ要ス

第三十条 総会ノ議決ハ出席役員ノ過半数ニ依ル

第二十九条ノ場合ニアリテハ出席役員ノ三分ノ二以上ノ多数ニヨリテ決ス

第三十一条 部会ハ各部ニ関スル事項ヲ決定スルカ為メ各部長随時之ヲ召集ス

第三十二条 本会ノ会計年度ハ本大学ノ会計年度ニ依ル

第三十三条 通常会員ノ会費ヲ年額金参円トス特別会員ハ会費ヲ要セス

第三十四条 各部長ハ毎年二月マテニ其部ノ経費ヲ算定シ予定経費要求書ヲ会計主任ニ提出スヘシ

第三十五条 幹事ハ毎年三月マテニ予算ヲ編成シ之ヲ定期総会ニ提出シ其決議ヲ経ルヲ要ス

第三十六条 予算成立二至ラサルトキハ前年度ノ予算ヲ襲踏ス

第三十七条 特別ノ事情アルトキハ総会ノ決議ヲ経テ高等学院ノ為メニ特別ノ会計ヲ設定スルコトアルヘシ

 大正期の早稲田スポーツは、明治期以来の部が充実して活躍するとともに、新しく認可されて活躍する部が加わり、OBも交えて大いに充実、発展した時期である。

b 各部の活動状況

 それぞれの種目によって活動状況が異なっている。外来スポーツの場合は、新たに認められた部も含めて対外試合が多く、水泳、陸上競技等の場合には国際大会にも出場する選手が出てくる。これに対して武道種目の場合などではスポーツ的な対外試合の形式は少く、独特の部活動を行うようになる。

 野球部・庭球部は相変らず対外試合において大活躍しており、それぞれ学生の王座の地位を占ているほか、OBが選手や指導者として活躍するようになってくる。庭球部は創部以来軟式テニスだけを行ってきたが、大正九年に国際的に活動するために硬式テニスに転向した。以後庭球部は硬式のみを行い、軟式テニスを行う学生は昭和二十二年に軟式庭球部が公認されるまで同好会活動を続けるようになる。

 柔道部・剣道部・弓道部はこの時期も学内活動が活発であって、対外活動も外来スポーツ種目とは異なった形式の大学内大会や他校の選手を招待した紅白試合等が主体であった。しかしこうした武道種目でも、しだいに対抗試合などが行われるようになってきている。

 漕艇部・水泳部はしだいに競技的要素を採り入れることが多くなってきた。漕艇部は各大学の大会にチームを派遣して他校と競漕を行う回数が多くなってきたし、対外競漕試合も行うようになったが、大正九年の第一回全日本選手権競漕大会に参加し、十一年には優勝をしている。水泳部も日本泳法での活躍の時代から国際スポーツとしての競泳を採用するようになり、プールにおける練習へと変ってくる。そして大正十年の第一回インターカレッジに参加している。しだいに優秀な選手が集まってきて競泳会で活躍するが、大正十三年には高石勝男が日本代表選手としてパリのオリンピック大会に参加し、早稲田マンとして初めて百メートルおよび千五百メートル自由形に五位入賞をしている。

競走部

 大正三年に公認された。競走部の活動は、運動会活動を母体として、既に明治時代から行われており、明治四十二、三年頃には有志学生による同好会グループが組織的に活動をしている。

 部公認後は、各種競技大会に数多く参加しており、国際スポーツの主流という競技の性格もあって、ある意味では体育会の中心的存在になる部であった。国際的にも大正九年のアントワープ大会の陸上競技のマラソンに三浦弥平が出場しているが、三浦が早稲田からのオリンピック初参加であった。

相撲部

 大正六年公認。相撲部は明治時代の一時期(三十六年頃から四十三年頃)に大学からその部活動を認められていた記録がある。出羽海部屋の力士の指導を受けて活動していたのである。その後部活動が中断されていたが、大正六年に公認されている。

 全国相撲大会等に出場して活躍する一方、大正六年以降早大角力大会を開くなど百名前後もいた多数の部員が大いに活躍した。

ラ式蹴球部

 大正七年公認。大正時代におけるラ式蹴球部は、後年の早稲田ラグビーを確立するための基礎固めの時期で、数々の対抗戦を行って年ごとに実力をつけて好成績を収めているが、まだ優勝をするまでには至っていない。

山岳部

 大正九年公認。公認された時は山岳スキー部としてであって、登山活動とスキー練習とを行っていた。スキー部はその後独立したので、山岳活動のみに変ったが、最初はワンダラー的活動であったものがしだいにスポーツとしての登山活動へと変っていった。

スキー部

 大正十一年公認。山岳スキー部として大正九年に部活動を開始したが、スキー部として独立して競技スキーを中心に活動するようになった。公認後短時日で力をつけて活躍しており、大正時代の基礎づくりが結実して昭和三年のオリンピック出場となっている。

スケート部

 大正十三年スケートホッケー部として公認。スピードスケートとアイスホッケーの両競技で活動をしている。

バスケットボール部

 大正十三年公認。大正十年頃から有志学生のグループで活動を始めており、大正十一年には日本選手権大会ジュニアの部に出場している。

ア式蹴球部

 大正十三年公認。

4 昭和前期のスポーツ

a 沿革

 日本のスポーツは、昭和になると益々普及し発展してくる。数多くの種類のスポーツが国内で行われるようになり、競技人口も増加してくる。各競技団体の国内組織は拡大整備されて、普及・指導の体制が整ってくる。全日本選手権大会やインターカレッジなどの全国大会が盛大になってくる。国際的にもオリンピック大会や世界選手権等への参加が積極的になってくる。

 本大学においても、多くの部が公認されて体育会に加盟してくる。新加盟の部は、大正期の場合以上に同好会活動の期間を長く経験してから認められて部に昇格してくるものが多くなってきて、体育会に加盟するとすぐにインターカレッジなどで活躍できるような競技面の実力をもったグループが多かった。種目によっては、体育会に加盟する以前から全国大会に出場している者もあり、全国大会での活躍を認められて体育会に加盟することを許可されるような部も出てくる。体育会加盟ということが、予算の配分との関連もあって、厳しくチェックされるようになってくる。それだけ体育会加盟の部の質が高くなってきたわけでもある。

 昭和前期の早稲田スポーツは、隆盛の時期を迎えた。体育会が解散する昭和十七年までの時期は、早稲田スポーツの黄金期とも言うべき時代であって、学生界のチャンピオンであるに留まらず、日本の覇者となり、日本の代表としてオリンピックなどの国際大会に出場する部や選手が多数出てくる。体育会加盟のほとんどすべての部がインターカレッジで優勝した年がある、というように充実した時期であった。

 昭和二年から、大学が主催して五月に体育デーを実施しているが、体育デーは、体育会加盟の各部の選手がパレードをした後、総長、体育会長、部のOB代表などの訓話がある催しで、大学をあげて早稲田スポーツを盛り上げる行事が行われていたのである。昭和四年の第三回体育デーからは、前年度優勝の部に対して名誉旗が授与されるようになったが、名誉賞の授与は現在まで続いている。昭和五年に、運動部OB有志によって稲門体育クラブが発足したが、現在の稲門体育会の前身となった。

 昭和前期は、早稲田スポーツにとって最も華やかな、最も目覚ましい活躍をした時期であった。

b 各部の活動状況

 昭和前期の体育会加盟の各部は、新しく公認された部も含めて、いずれも学生スポーツ界最高の力を持っており、部としてあるいは個人として学生チャンピオン、日本チャンピオンになった者が多数であった。

 体育会に加盟を認められた部を年代ごとに列挙すると、昭和二年、馬術部、三年、卓球部、四年、ボクシング部、九年、バレーボール部・レスリング部・体操部・自動車部・空手部、十三年、米式蹴球部、十四年、ヨット部、十七年、ハンドボール部であった。

 各部活動状況の二、三の例をあげると、昭和三年には、体育会加盟部十八部のうち全国優勝を遂げて第三回体育デーで初の名誉旗を授与された部は、剣道、弓道、漕艇、水泳、競走、スケー下ホッケー、ア式蹴球、バスケットボール、馬術、卓球の十部であったし、昭和十一年の名誉旗授与部は二十三部のうち、競走、剣道、馬術、スケートホッケー、卓球、ボクシング、庭球、野球、弓道、漕艇、バレーボール、ア式蹴球、レスリング、水泳、バレーボールの十五部である。競技会を行わなかった部もあるので、昭和十年度には三分の二以上の部が全国優勝を遂げていることになる。

 なお、昭和四年から十五年の十二年間に体育デーにおいて名誉旗を授与された各部別の数は次の通りである。

剣道8 柔道2 野球3 庭球5 漕艇3 弓道6 水泳8 競走6 相撲3 ラ式蹴球3 山岳1 スキー5 スケートホッケー7 ア式蹴球5 バスケットボール4 馬術3 卓球8 ボクシング2 バレーボール4 レスリング2 体操1 自動車1

 国際スポーツで活躍した者としては、昭和三年サンモリッツで行われた第二回冬季オリンピック大会に日本からスキー選手六名が派遣されたが、早稲田大学学生が三名、OBが二名であった。同年七月のアムステルダムの第九回オリンピック大会には、陸上競技九名、水泳五名、漕艇一名の合計十五名が参加し、陸上競技の三段跳で織田幹雄が優勝した。日本が得たオリンピック初の金メダルであった。また南部忠平が三段跳四位、木村一夫が走高跳六位、高石勝男が水泳百メートル自由形三位に入賞した。

 昭和七年二月の第三回冬季オリンピックには、スキー四名、スケート一名の早稲田関係者が参加した。

 昭和七年七月からの第十回ロサンゼルス・オリンピック大会には、役員として九名、陸上競技七名、体操一名、漕艇十一名、レスリング二名、水泳四名、水球六名、ホッケー四名の合計四十四名の早稲田関係者が出場し、OBの南部忠平は三段跳で優勝、走幅跳三位入賞という偉業を達成した。入賞者は、西田修平が棒高跳で二位、木村一夫が走高跳六位、水泳で入江稔夫が百メートル背泳二位、高橋成夫が百メートル自由形五位、横山隆志が四百メートル自由形四位であった。

 昭和十一年ガルミッシュパルテンキルヘンでの第四回冬季オリンピックには、早稲田勢はスキー四名、スケート四名、アイスホッケー二名の参加であったが、スケートの五百メートルで石原省三が四位に入賞した。冬季オリンピックにおける日本人の初入賞であった。

 昭和十一年八月のベルリン第十一回オリンピック大会の早稲田勢は六十五名もの多数が参加し、日本選手団の中心として活躍した。種目別の参加者数は、役員十五名、陸上競技十名、水泳十五名、サッカー十名、漕艇七名、バスケッ下ボール二名、ヨット一名、レスリング三名、ホッケー二名であった。成績は西田修平が棒高跳二位、矢田喜美雄が走高跳五位、安達清が棒高跳六位、牧野正蔵が水泳四百メートル自由形三位、吉田喜一が百メートル背泳五位入賞であった。

 またこの時期には、野球部のアメリカ、ラ式蹴球部のオーストラリア、バスケットボールのアメリカ、競走部のヨーロッパなどの海外遠征が行われている。

c 体育会解散当時の状況

 第二次大戦への突入が近づいてくるのにつれて、スポーツへのいろいろな面での干渉が増してきて、体育会の活動もやりにくくなって来た。

 昭和十五年秋に早稲田大学学徒錬成部が創設され、体力錬磨を一つの目的とし、錬成道場、体錬道場が設けられた。

 昭和十七年十月に、体育会は学徒錬成部に吸収されることになり、十月二十二日に大隈講堂において解散式を行った。明治以来五十年もの活動を続けて来た体育会も、一時衣更えのやむなきに至った。

 昭和十八年に学生スポーツ大会が禁止され、早稲田スポーツも活動を中止した。

5 昭和後期のスポーツ

a 沿革

 第二次大戦の終結とともに、スポーツも復活してきた。日本におけるスポーツは、新しい感覚で国民に理解され、支持を受けるようになり、多くの人々がスポーツを楽しむようになった。

 早稲田大学においても、昭和二十年末頃から体育会を復活させようとする動きが起こり、昭和二十一年四月に正式に復活した。それぞれの部では、部員が大学に戻るにつれて、OBの協力を得て活動を再開した。再開当時は、食料事情も悪く、グラウンドや用具も不足するなど種々の悪条件下であったが、スポーツへの情熱を燃やす人々が、悪条件を克服して早稲田スポーツを復活させた。

 第二次大戦後の日本におけるスポーツの普及・興隆は目覚しいものがあり、多種類のスポーツが多くの人々によって愛好されているが、早稲田スポーツにも新しい種目が次々と公認されて、三十九部の多きに達した。

 新たに公認された部を年代順に記すと次の通りである。昭和二十一年、ホッケー部・フェンシング部・応援部、二十二年、軟式庭球部・軟式野球部、二十六年、柔道部(武道中止によって一時活動を停止していたものが再加盟した)、二十七、年弓道部(再加盟)・自転車部・剣道部(撓競技の名で再加盟、後に剣道部にもどる)・バドミントン部・航空部、二十八年、ワンダーフォーゲル部、三十一年、ゴルフ部・ウェイトリフティング部、三十二年、射撃部、三十三年、合気道部である。

 昭和二十四年に正課体育が発足して体育部が生れた。

 昭和二十七年、体育会と体育部とが合併して体育局が生れた。これ以後、運動部は体育局所属の体育各部として活動をするようになった。

 体育会復活後苦難のスタートをきった早稲田スポーツも急速に再建され、大学スポーツ界において以前と同じように活躍するようになる。部や選手が競技面で活躍するだけでなく、かつて早稲田スポーツの中心となって活躍した人人が、OBとなってからは指導者や競技団体の役員として尽力するようになった。昭和四十年代前半頃までは、競技、指導、行政の各面で早稲田スポーツが学生スポーツ、日本のスポーツをリードしてきたのであるが、四十年代後半以降は競技面がやや低滞気味であって、スポーツ界における新興勢力に押され気味である。かつての輝かしい歴史と伝統にふさわしい活躍がなされることが望まれる。

b 活動状況

 昭和後期においては、各部とも種々の競技会への参加がきわめて活発である。武道種目も完全にスポーツ化されて、各種目とも全日本学生選手権大会を中心として、全日本選手権等の全国大会、早慶戦をはじめとする各種の対抗試合がきわめて多数行われるようになった。こうした大会での成績、特に全日本学生選手権等の学生スポーツにおいて、昭和四十年代前半までの時期においては大いに活躍しており、特に三十年代までは学生スポーツの王座にいたが、近年はやや不振の部が多くなった。現在に至るまで引き続いて活躍してトップの座を守っている幾つかの部がある反面、多くの部は、部員数の減少などもあって、好成績を挙げているとは言えない状況である。

 昭和三十四年度以降、優秀な成績を収めた団体、個人に対して大学から小野梓記念スポーツ賞が授与されるようになった。授賞対象基準は次の通りである。

小野梓記念スポーツ賞選考基準

一、無条件授賞

1 世界記録の樹立

2 オリンピック入賞(一位―六位)

3 ユニバーシアード一位―三位

4 世界選手権一位―三位(トーナメントの場合四位まで)

5 全日本選手権団体優勝(厳密に社会人(チーム)を含む真の全日本であること)

二、審査対象とし、内容検討のうえ授賞することができる。

1 ユニバーシアード四位―六位

2 世界選手権四位―六位

3 アジア大会入賞(一位―六位)

4 全日本選手権個人優勝

5 全日本学生選手権団体二年連続優勝

6 全日本学生選手権個人二年連続優勝

7 日本新記録樹立(世界記録に近い場合)

8 年度世界最高記録および史上最高位記録

9 学外選手との混合チームの一員として上記各項目該当者

 現在までに受賞した者は次のとおりである。

昭和三十四年度 山中毅(水泳部)

三十五年度 大崎剛彦(水泳部)

見谷昌禧(スキー部)

伊藤靖偉(ボクシング部)

三十六年度 吉無田春男(水泳部)

松并孝(スキー部)

三木孝志(競走部)

中川清(水泳部)

木村興治(卓球部)

新保茂(相撲部)

石幡忠雄(スケート部)

三十七年度 梅本利三(水泳部)

松本健次郎(水泳部)

益田弘二(ボクシング部)

三十八年度 黒松和子(庭球部)

岡部幸明(水泳部)

土佐忠雄(水泳部)

福原美和(スケート部)

柄沢正夫(ボクシング部)

ア式蹴球部

三十九年度 渡辺功(庭球部)

藤沢隆(スキー部)

白鳥金丸(ボクシング部)

池田健二(剣道部)

岩崎邦宏(水泳部)

飯島秀雄(競走部)

四十年度 ラ式蹴球部

四十一年度 鯨井芳江(庭球部)

北村淳子(庭球部)

ア式蹴球部

四十三年度 小塚嗣彦(スケート部)

中川良夫(柔道部)

四十四年度 坂井利郎(庭球部)

田坂登紀夫(卓球部)

四十五年度 ラ式蹴球部

有働徹(水泳部)

高田康雄(水泳部)

四十六年度 ラ式蹴球部

沢正治郎(水泳部)

小沢由紀子(漕艇部)

中野秀樹(スキー部)

長谷川恒夫(レスリング部)

四十七年度 張晴玲(庭球部)

磯貝頼秀(レスリング部)

四十八年度 ラ式蹴球部

ア式蹴球部

太田武男(自転車部)

四十九年度 野球部

ラ式蹴球部

ア式蹴球部

鶴原茂徳(漕艇部)

田中正男(漕艇部)

小杉浩一郎(漕艇部)

石沢隆夫(競走部)

五十年度 待鳥明史(庭球部)

大塚猛(弓道部)

合気道部

五十一年度 西尾茂之(庭球部)

卓球部

鳥羽博司(理工ボート部)

五十三年度 柳館毅(水泳部)

原秀章(水泳部)

瀬古利彦(競走部)

 昭和二十二年度から五十三年度までの体育名誉賞受賞数の各部ごとの内訳は次の通りである。

野球部十六回 庭球部八回 漕艇部八回 水泳部十二回 競走部四回 相撲部一回 ラグビー蹴球部十五回 山岳部四回 スキー部九回 スケート部八回 ア式蹴球部十八回 バスケットボール部一回 馬術部六回 卓球部十二回 ボクシング部二回 バレーボール部三回 レスリング部一回 体操部一回 自転車部十四回 空手部二回 ヨット部三回 ハンドボール部三回 ホッケー部八回 フェンシング部六回 軟式庭球部七回 軟式野球部十六回 柔道部一回 弓道部十四回 剣道部二回 バドミントン部一回 ワンダーフォーゲル部三回 合気道部六回

三 体育・スポーツ施設年表

ページ画像

 次の年表は、『早稲田大学史記要』九、十、十一、十二巻記載の「早稲田大学建物の変遷」を基礎資料とし、当該運動部史、先輩および管財課、施設課の協力を得て作成した。作成の段階で年代のずれ、規模の相違が多少あったが、年代については、部史および先輩の助言を採り入れ、規模については両方記載した。面積は坪、平方メートルの二通りで記載し、本来なれば当然坪で表現すべき年代であっても、現在の資料が平方メートルになっている場合はこれに従った。

体育・スポーツ施設年表

明治一五・九 撃剣道場(体操場)

東京専門学校創立時、建物の総坪数は四百六十坪であり、明治十九年三月同二十年六月の校舎配置図から判断して敷地内、西北隅に記されている平家十五坪の道場は当初から存在したと言える。

二九・一二 七徳堂(館)

学生の体育を図り精神を鍛練する目的をもって新たに撃剣・柔術を鼓舞する道場、平家二十八坪が建設された。後年(三十七年)建設の道場脇に引かれ銃器庫として使用される。

明治三五・七 大学キャンパスの西北、民家を隔てたところ、福田某所有の土地五千余坪を借り受け運動場を設ける。内三千坪を野球に、他をテニス競技場として使用した。

九 隅田河岸に艇庫新設(向島寺島町)。

三六・五 運動場内に相撲土俵を新設。現在の体育館北側

三七・四 運動場に弓術部矢場を新設。現在体育館のある所で相撲場の東南に位置する。

八 従来の運動場に二千余坪を加う。現在の安部球場とグランド坂を含め今の北門辺から一五、一六号館辺りにまでおよんだ。

三七・九 運動場の一隅に新道場成る。従来仮道場であった柔、剣術道場を、七月頃から着工し完成した。道場建設費は二千二百七十五円余で総坪数約七十坪、木造瓦葺で左右に入口があり中を半分に仕切って一方を剣術、他方を柔術の道場にあてた。現在の一五号館の辺りである。

四一・二 牛込下戸塚穴八幡下の土地四千余坪を購入(大学自ら所有の土地はこれをもって初めとす)。現在の記念会堂の敷地。

四四・一二 従来福田芳之助、他二名の所有で借地であった運動場の大部分五千四百一坪を購入。

大正四・六 本大学敷地および運動場の間にある大隈家、麴町銀行、鈴木三吉所有の土地三千三百余坪を購入。

九 麴町区内幸町一に校友倶楽部用家屋を九千円にて購入、早稲田倶楽部発会(登記料周旋料等を除く)。

五・四 本大学敷地および運動場間にある土地二千七百十三坪を購入、また運動場整理のため相馬永胤所有の土地九百坪と大学所有の土地九百坪を交換。運動場西隅にあった弓術場、平家建二十九坪を穴八幡下、本大学敷地内に移転(学報にはこうあるが大正十三年の校舎配置図には従来の弓術場も存在している)。

七・一 早稲田倶楽部を永楽倶楽部と改称し、丸ノ内永楽町に集会場新築。

四 激浪に流された艇庫を従前の敷地に拡張して新築、建坪は九十六坪。六月二十三日落成式を挙行。

八 軽井沢野球運動場開場式。

大阪の鴻池、原田の両氏より軽并沢の土地二千坪を寄附され、その一部に運動場および寄宿舎が建設された。運動場の費用約七百円は、長野県に関係ある人々の寄附を仰ぎ、建設費用は、野球部先輩より約八百円、部員より千百円、竹内明太郎増田義一両氏より千円、在ハワイ日本人有志家より三百円(九年前)、以上の寄附金でまかなわれた。

大正八・三 明治四十四年大学が買入れた運動場敷地の南に百四十三坪余の町有地道路があったが、戸塚町長より二十八日払下げを受ける。

九・ 大正八年から九年初頭にかけての高等学院(第一)第一期工事によって、雨天体操場一棟、木造平家建二百坪が建設された。現在の記念会堂前広場辺り。

高等学院が建設された用地は、明治四十一年に大学が所有したもので、現在、記念会堂が建っている場所である。これに隣接する場所は当時陸軍省の管轄地で、大学の用地とするには絶好であった。この用地利用を関係者に呼びかけた結果、大正八年十二月二十六日に陸軍省より貸下の許しを得た。大正九年一月十五日の維持員会議事録によると、四千四十八・二六坪と記録されている。その後もこの地の拡張をはかるべく運動を続け七月八日の維持員会記録によると、更に七百四十七坪余を借り受けている。しかし陸軍省より借り受けた所は運動に関するもの、学生集会に関するもののみを建築することという条件付きであった。現在の文学部校舎の敷地である。

借り受け地が大学用地に繰り入れられたのは大正十四年のことで九月十日、大学は大蔵省に十八万三千三百六十五円の代金を支払っている。総坪数は実測四千九百五十九坪で、陸軍用地が一切の制限なく大学が使用できるようになったのは、これ以後のことである。

九・九 運動場周辺の鉄筋コンクリート塀完成。現在の安部球場の塀がそれである。

一一 大学構内および運動場内における戸塚町有地(道路敷地)六百五十二・九五坪を購入。大学用地内の公道を大学用地とした記録で、球場には、約七十坪ほどの道路が通っていた。

一〇・二 高等学院運動場内に九百坪のランニングトラックの建設決まる。現在の文学部校舎がある所である。

四 大学は大正九年の秋、硬球テニスを採用した。それに伴うテニスコート新設には、本大学の先輩で、日本最初の硬式テニスプレーヤーとして知られた三神八四郎氏(大正八年没)の遣産が令兄を通じて寄附され、大方の援助を加えて三面のコートが完成した。運動場南縁に設けられ周囲を金網で囲った。現在のグランド坂に面した一六号館北側辺りである。

五 千葉県北条海岸町有地に水泳部寄宿舎建設工事に着手。平家建七十三坪。七月十二日完成、開舎式を行う。現在の館山寮近くと思われる。

運動場西南の高地、弓術道場前に相撲道場建設に着手、木造櫓造り延二十五坪。学報の記録ではこうあるが大正十年七月八日維持員会の記録では建物約四十五坪とある。工費は寄附金により十月に完成。現在の道場よりやや南側に位置した。

九 第一高等学院体育場落成。主に柔道場として平家建一棟八十四・五坪。ランニングトラック東南隅、現在の文学部校舎三四号館辺り。明確でないが校図によると、隣接して弓術場が設けられていた。

大正一二・ 端艇部、隣接せる学習院艇庫延五十坪購入。

一〇 千葉県北条町の水泳部宿舎倒壊の報告が維持員会の席上にてあり、関東大震災による。

一三・一一 焼失せる永楽倶楽部の新築成る。同時に開館式挙行。

一四・五 大学運動場内に木造スタンドを建設の議維持員会で可決。その資金五万円について野球部は、新(荒)井山所在の野球部合宿所(安部寮)敷地および建物約百坪を担保に、大学が資金調達の保証をした。

六 新野球場起工

球場延坪数 四千二百八十六坪

スタンド観覧席 九百坪

スロープ観覧席 二百五十坪

フィールド 三千百三十六坪

収容人員 二万三千人

構造 鉄筋構造および鉄筋コンクリートブロック構造とする。

場内設備 スタンド前面には金網をめぐらし選手控所をコンクリートで作る。

スタンドの最高は三十七段、腰掛は長さ六尺の五人掛、腰掛と腰掛との間は幅一尺の通路を設け、各腰掛には番号が付された。

八 新野球場竣工。現在の安部球場。

第一高等学院に新プール起工。このプールは早稲田の生んだ名選手高石勝男氏を記念して水泳部によって設けられたもので、学生および大勢の篤志家達に基金の募集を行った(建設基金二万円とある)。

坪数 四百坪。更衣室および付属建物を含む

構造 水槽は鉄筋コンクリート造り幅十三メートル、長さ二十五メートル。コース六を有し水深は東端で五尺、西端で七尺、西端から二メートルの最深部は十一尺、周壁は水面上一尺五寸の高さを有し上縁および外囲傾斜面共人造石洗い仕上げで水面下一尺五寸通りタイルを張り付けた。

設備 水槽北側に深さ二百三十八尺の掘抜并を設け、モーターポンプをもって給水する。飛込台は、一メートルと三メートルの二個を設く。更衣場は木造平家建でシャワー等の施設をつけた。水槽の南側にはコンクリート造り長さ四十九尺、高さ五段のスタンドを設した。

九 第一高等学院トラっク四千九百五十九坪を大蔵省から払い下げを受け、代金を納付する。現在文学部校舎となっている所。

西武鉄道株式会社から東京府下多摩郡保谷村所在の土地約二万五千坪の寄附申込受入のこと維持員会にて決議。

一〇 西武鉄道株式会社から寄附の土地受入に関し覚書交換、現在東伏見の諸施設のある所(ラグビー場、サッカー場、ハンドボール場、ホッケー場、馬場、米式蹴球場、軟式野球場、陸上競技場、プール、射撃場など)。

新プール完成。十月三十一日高石勝男記念プールとしてプール開き挙行。現在の高石記念プールの前身。

一五・春 六間幅のグランド坂、府道路完成。

昭和二・九 西武鉄道株式会社から寄贈された上保谷の地にラグビー専用のグランド二面を設ける。現在の東伏見ラグビー場で、西側にも一面あった。

三・二 本大学と西武鉄道株式会社と土地交換に関し契約改締の件維持員会にて決議す。西武から寄附として坪数二万七千三百二十五坪一合、本大学から提供する坪数三百坪。

第二高等学院運動部部室が同学院校舎前に設けられる。木造二階建、建坪三十一・五坪、延坪六十三坪、現在の六号館辺りである。

三 山梨県南都留郡大石村(富士山麓)所在村有地二万坪を買い入れ、五年賦にて支払うこと維持員会にて決議。

昭和四・一〇 本大学保谷運動場に接続する土地約七百七十坪を西武鉄道株式会社から購入のこと維持員会で決議。

五・二 山梨県都留郡大石村に総合大運動場の起工式を行う(二十三日)。

五 上保谷の地にサッカー専用グランドを設ける、現在東伏見サッカー場。

六 東伏見運動部合宿木造二階建、建坪七十五・七五坪、延坪百五十一・五坪成る。

八 河口湖畔(富士吉田市河口湖町)に設けられた運動場開場式挙行(十日)。

バスケットコート設ける。極東大会で使用した特設コートの払い下げを受け、バスケットコートを作った。

五・八 現在の大隈講堂裏で弓道場、車庫のある辺りである。

六・五 旧文学部校舎を東伏見運動場内に合宿およびクラブ用に移築の議維持員会にて決る。現在のグリーンハウスである。

九 本大学山岳部山小舎が起工。長野県北安曇郡中土村信州白馬山麓で建坪は十八坪であった。山岸市太郎請負、建築家助手小沢省三氏設計による。収容人員四十三名、建設費三千五百円。十一月二十三日竣工。

七・一二 レスリング道場完成。十九日道場開き。

大隈講堂裏にレスリング部員佐藤竹二氏の寄贈による平家建三十坪の道場が設けられた。現在の弓道場、車庫の辺りである。

八・一 本大学戸塚運動場に夜間照明設備を設けることを決定した。

弓道場および相撲場のある場所に新武道館建設することを決定。一階柔道場、二階剣道場、三階弓道場、二月一日工事入札清水組に決定。二月十一日地鎮祭、五月二十七日上棟式が挙行された。

二 大隈会館裏の本大学敷地内に、体育会ボクシング練習所建設の許可が降りる。現在大隈講堂の裏手で、大学の車庫および弓道場のある辺りである。

八・四 戸塚運動場の夜間照明設備の工事に着手する。これは、我が国における嚆矢とも言われるもので、本大学の試みた画期的施設である(工費五万一千円)。同年の七月十日完成、午後六時より、夜間運動場の開場式が挙行される。

昭和八・五 新武道館の建設のため、弓道部道場を取り壊すことに決定する(木造葺平家建七十八坪、小便室平家建十九坪五合を、第二高等学院学友会に無償譲渡する)。

八・一一 新武道館落成

位置 本大学西北すみの最高部分に南面する

構造 鉄骨・鉄筋コンクリート造

規模 道場三階建、付属屋(道場の後部)六階建

間口 二十メートル

八・二 奥行 四十二メートル三〇

高さ 直面十五メートル六五、後面十八メートル一七

総床面積 二千三百三十二・五九平方メートル(七百五・六坪)

内訳

地階 百二十六・六二平方メートル 二階 八百二十二・六九平方メートル

一階 八百三十八・八平方メートル 中三階 八十八・一二平方メートル

中二階 九十二・七二平方メートル 三階 三百六十四・三六平方メートル

各道場概要

柔道場 畳を百九十六帖敷きにして特殊のもの、床下にはスプリングを取り付け瓶十八ケを置く。また、天并小梁の間を格天井とする。

剣道場 床板には杉(長さ六間、厚さ一寸五分、巾六寸)のものを、百四十六枚敷きにして、床下には特殊考案によるスプリングを取り付ける。なお天井大梁の間を格天井とする。

弓道場 矢道は十五間とする。また、操に、的十個を並べることを得る。

設備

電燈、電鈴、電気時計、避雷針、瓦斯、温水給水、排水、汚水浄化設備等完備。

同年、十一月五日、開場式が取り行われる。現代文化と非常に良くマッチした、我が国初の立体的な総合道場である(工費十万四千三百円)。現在では、一階は柔道、合気道、二階は剣道、空手、三階は体操の教場、および練習場として使用されている。

旧柔剣道々場を、取り壊すことに決定する。

昭和九・一 旧柔剣道々場(木造平家建七十四坪)を、また、蹴球部の更衣室を政法教室の移転に伴い取り壊す。

九・ 卓球専用練習場が商学部裏の木造倉庫を半分に仕切って設けられる。現在の二二号館の辺り。昭和十三年四月、商学部の改築に辺り大隈会館の裏に移転(建物面積五十五坪)。

九・二 新相撲道場が、新武道館の北隣に竣工される(木造平家建四十五・六五坪)。

九・十二 野球部の安部寮、および更衣室が設けられる(東京都新宿区西早稲田二―八―三十四、野球部合宿所敷地内、面積七百八十四平方メートル)

一〇・三 野球部合宿所(木造三階建四十坪、延百四十三・五六坪)が、荒井山に竣工される。

三 西武鉄道、東伏見駅前広場(凡そ二千坪)に、体育会プールを建設することに決定。同年の四月九日起工。

米式蹴球グランドが東伏見運動場に設けられる。

五 本大学運動場用地(山梨県大石村所在)を、隣接する県道を拡張するために、同県に五十六坪を寄附することに決定。

一一・七 東伏見プール竣工

東伏見プール概要

○競泳用プール

規模 長さ五十メートル、幅二十メートル、九コース

深さ 両端一メートル五〇、両端より十メートルの所一メートル八〇、中央二メートル

構造 鉄筋コンクリート造

○飛込用プール

規模 長さ二十五メートル、幅十五メートル

深さ 飛込台下四メートル五〇、最深部五メートル、他端四メートル

構造 鉄筋コンクリート造

○飛込台

高さ 十メートル、七メートル五〇、五メートル、三メートル、一メートル

構造 鉄骨、鉄筋コンクリート造

○ポンプ室

構造 鉄筋コンクリート造

内分 上部を水槽、周囲をシャワーとして使用

昭和一一・七 給水 深さ三百尺の井戸を掘り、二十馬力の電動機により揚水する

十二・五 商学部教室(木造二階建、四百十九坪二十五勺)を、一半を早稲田国際学院に無償譲渡、一半を東伏見運動場に移転する。

十二・ 水泳部の合宿所が東伏見グランド敷地内に完成する。

十三・五 ハンドボール場が、東伏見運動場内に設けられる(面積千六百九十平方メートル)。

七 西武鉄道株式会社所有、東伏見プール所在地(府下下保谷村大字上保谷字柳沢六三九)二千坪、本来は借地であったものを買収することに決定する。

十四・二 大隈庭園北側道路寄りに、本大学の運動部々室(平家建百四十四坪)が設けられる。空手、レスリング、ボクシングの練習場となり、その南側には、バスケットコート、西側には、バレーボールコートが設けられた。

十五・七 大正十年に造られたテニスコートを廃して、大隈会館の裏に移転して、更に四面を新設することとなる。現在(昭和五十五年)は、六面となっている。

艇庫用地の買収が決定する。(埼玉県北足郡戸田村大字下戸田二百一―十一、戸田土地整理組合所有、実測地積七百二十坪)

十六・二 久留米道場の地鎮祭が取り行われる。

四 学苑当局、大島副幹事談の形式で、甘泉園とグラウンドに亘る土地一帯の買収終了を発表する。今回の買収六千百坪、および前回の買収の甘泉園が約九千坪で、併せてグラウンド一帯の土地は一万五千坪となる。その中に、軟式テニスコート、二面のバレーコート、他の運動施設が設けられた。

学徒錬成部管下錬成道場を夫々左の通りとする。

小平錬成道場→東久留米道場

東伏見体錬道場→東伏見道場

戸塚グラウンド→戸塚道場

第一学院運動場→戸山道場

甘泉園内広場→甘泉園道場

昭和一六・四 第一高等学院雨天体操場→体育館

錬成部久留米道場勤労工作用地として、畑地約一町歩を買収のこと。

五 久留米錬成道場の一部が竣工する。

同月十九日、第一回の開所式が取り行われる。

七 久留米錬成道場の開場式が挙行される。

同年九月竣工(総坪九千坪、建坪四百二十六坪、府下北多摩郡久留米村大字泉久保所在)

一七・五 金属類特別回収の国策に応じて、戸塚運動場のスタンド、および照明塔の取り壊し、献納を決定する。

九 久留米道場隣接地、一万三千三十一坪の買収が決定する。

山梨県河口湖畔所在の夏期運動場一万三千三百十四坪を、同県浅間村の青年道場に売却することが決定する。

一八・二 第一高等学院雨天体操場を、室内体錬道場に改築、および竣工。室内体錬道場の開場式も同時挙行される。

五 戸塚バレーコート(東京都新宿区西早稲田三―十七―六)が設けられる(面積四千三百六十六平方メートル、峯島茂兵衛氏より買収する)。後に、西早稲田バレーコート(二千八百五十八平方メートル)と名称が変更され、現在、バレーコートは四面である。

戸塚運動場の照明塔の献納式を挙行する。又同時に、送別野球試合も挙行される。

昭和一九・九 戸塚運動場のスタンド照明の一部供出。

一〇 東伏見道場を、中島飛行機株式会社に貸与することを決定する。

大隈会館内体育道場は、近く、木材工業科実習所として日本航空機工業会社の作業場としたいので、軍需省より申し入れがあったことを協議する。

一一 向島艇庫を、陸軍獣医資材本廠監督工場吉岡製作所と賃貸契約のこと可決する。

甘泉園の一部を、陸軍航空本部に於いて軍事施設のために転用を承認すること可決。

中島飛行機制作所より、東伏見更地の申し込みに関することを、即刻交渉を進めることを協議する。

二〇・一 戸塚運動場のスタンドの鉄骨を、海軍航空技術廠に供出することを決定する。

三 東久留米錬成道場の一部を、軍部に貸与することに決定する。

二〇・三 甘泉園の一部土地を、陸軍航空本部経理部、東部出張所に賃貸契約することを可決する。

一〇 昭和十九年十月、東伏見運動場を中島飛行機株式会社に貸与したる際の、損害保険料を受け取り、一応解決する。

二一・一〇 久留米道場建物を甘泉園に移築する計画に関することが、理事会の議題に上った。

二二・三 第一高等学院の再築について、久留米道場を移築して、竣工期を五月末日と予定して入札に付すこと。

二三・四 軟式野球場が東伏見運動場内に設けられる(面積九千三百平方メートル)。

六 体育会(東伏見)の水泳部々室の改修工事を、清水建設株式会社と契約する。

二四・二 戸山町第一高等学院運動場(現在の記念会堂、および裏グラウンドのある所)のトラック工事を、株式会社大同工作所と契約する。

東伏見の土地の一部を譲渡する件、可決する。

戸塚球場の名称を、本大学初代野球部長の安部磯雄先生の逝去のあと、遺徳を偲んで「安部球場」と変更する。

概要

グラウンドおよびコート面積 一万平方メートル

部室および合宿所面積 四千七百七十二平方メートル

昭和二六・一〇 水泳部合宿所が既設の合宿所に隣接して設けられる(面積三百五十四平方メートル)。

二七・六 東伏見グランド敷地内にホッケー部合宿所が設けられる(建物面積百二十四平方メートル)。

二八・六 戸塚バレーコート内に実技用更衣室(面積二十四・七二平方メートル)、および管理人住宅(面積四十四・七八平方メートル)が設けられる。

二九・五 サッカー部合宿所が設けられる(面積百五十四平方メートル)。

甘泉園内に弓道部道場が完成する。昭和三十七年秋に、現在ある大隈講堂の裏に移転された。

三〇・ 館山に、体育局の合宿所、厚生施設建設のため二千八百五十坪の土地、および四百三十坪の建物を買収する。

約百名を収容でき、正課体育、課外部活動の合宿などに利用される。

三〇・五 館山寮が完成する(土地面積九千五百七十平方メートル、建物面積千四百五十九平方メートル、工費四百五十四万二千円)。

三一・九 大学創立七十五周年を記念して、記念会堂の起工式を挙行する。

三二・四 記念会堂の上棟式が取り行われる。

一〇 記念会堂の御祓儀、並び落成式の挙行。

記念会堂概要

高さ 二十一メートル

構造 鉄筋コンクリート造

収容人員 約一万名(一階の椅子席六千名、二階スタンド二千名)

付設ステージ 幅四〇メートル、奥行六・四メートル

競技場 バスケットボール、バレーボール、バドミントンのコートがそれぞれ三面、テニスコートも二面置くことも可能である。百三十三メートルのトラックを設けることもできる。

現在では、バスケットボールコート二面、バレーボールコート三面、バドミントンコート六面の設置が可能である。バドミントンは、部創立当時、練習場としては体育館の三階を使用していた。その他、トランポリン、卓球などの教場、および練習場として使用される。

記念会堂裏グラウンド

記念会堂の建設に伴い設けられた。面積はおよそ三千二百平方メートルで、一般体育、ソフトボール、サカーッ、ハンドボール、バスケットボール、ホッケー、陸上、バレーボールなどの教場、および練習場として多種目にわたり活用されている。

大学創立七十五周年記念事業の一つとして、旧高等学院戸山グラウンド跡地、約五千坪に建設される。およそ一万名収容することが可能であり、音響、照明共に特に留意されている(敷地五千百六十坪、延坪千七百四十坪、建坪千二百二十坪)。

昭和三三・一一 馬術部の馬場、および廐舎が、東伏見グランドの一隅に設けられる(面積・五千五百六十七平方メートル)。

三五・七 体育局の新校舎三五号館の建設に着工する。今まで法学部の二階に体育事務局があった。新校舎は、戸山町三五・七 記念会堂わきにあり、総坪・四百七十一坪、総工費・四千百万円、高さはおよそ二十メートルである。工費の大半は、稲門体育会の寄付によるものであり、施設部により設計された明るく、近代的な建物である。三十六年三月竣工。

一階 事務局長室、室、教務主任室、指導室、講師室など

二階 教室、研究室(現在は図書室兼会議室)

三階 教室、稲門会室

四階 卓球室(現在では、ボクシング、フェンシング、ダンスなどの教場および練習場として使用されている)

地下 教室、器材器具室、更衣室、シャワー室

三五・八 東伏見グランド敷地内に、競走部の合宿所が設けられる(建物面積三百五平方メートル)。

三六・一 ウェイトリフテイング場、および各更衣室が文学部キャンパスの中に設置される。(昭和三十一年、部創立当時は甘泉園の屋外を練習場としていた)

建物面積 四一・八平方メートル

延床面積 百二十一・五平方メートル

軽井沢運動場が完成する。また、高等学院の運動場も完成する。

菅平グランド(長野県小県郡真田町字菅平)が設けられる。これには三十五年以来、三回にわたり買収したものである。面積五万六千三百九十五平方メートル。

一二 東伏見グランド敷地内に、スキー部合宿所が設けられる(建物面積百七十一平方メートル)。

昭和三七・一 理工学部校舎わきに、体育実技用のグランドが設けられる。

弓道場が設立される。(昭和二十九年、甘泉園内に建築したものであるが、現在の場所へ移築される)

菅平合宿所が設けられる(建物面積五百八十平方メートル、工費およそ千百八十三万円)。なお新合宿所は、昭和四十六年十月に建てられる(建物面積三百三十平方メートル、工費およそ二千七十九万円)。また、便所は昭和五十二年八月に設けられる。

九 自動車部部室および車庫が西大久保に設けられる(部室面積七十四・五平方メートル、車庫百六十二平方メートル)。

三八・六 軟式庭球場が設立される(東京都新宿区西大久保理工学部内)。大蔵省との土地の交換により実現する。翌年九月、庭球部部室、および物置が建てられる。更衣室は昭和二十七年に設けられている(建物面積七十四平方メートル、物置十四平方メートル)。更に、昭和四十六年四月、稲門軟式庭球クラブから部室が寄贈される。

一〇 軽井沢合宿所(池之端合宿所)が設けられる(建物面積百八十九平方メートル、軽并沢離山下所有地面積六万六千十三平方メートル。セキスイハウスは、去る三十六年八月建設される。面積は三十九平方メートル)。

菅平寮が設けられ、ラグビー、サッカー、体育実技の教場、及び練習場として使用される(建物面積旧五百八十平方メートル、新三百三十平方メートル)。

一一 妙高ワンダーフォーゲル部山小屋が設けられた(建物面積百六平方メートル、土地面積六百六十一平方メートル、同月の三十日、体育局から大学へ寄贈される。工費二十一万五千円)。

山岳部山小屋は、昭和四十一年五月、早稲田大学山岳部から寄贈される(土地面積三百三十一平方メートル、建物面積百七平方メートル、工費二百万円)。

三九・九 レスリング部合宿所(建物面積百八十四平方メートル、八田一郎氏から寄贈される)、および管理人住宅(建物面積三十九平方メートル)が設けられる。費用三百八十五万円。

稲西寮が設けられる(東京都東伏見二―六三四九、建物面積六百十二平方メートル、早稲田高等学院の二号館を移築したもの)。

昭和四〇・九 高石記念プールを屋内プールに改装(鉄筋コンクリート造、総工費千二百十九万円、建物面積八百二十三平方メートル)。一二 甘泉寮が設けられ、運動部の合宿などに利用されている(国鉄より買収したものであり、建物面積二百五十三平方メートル)。

四一・五 戸田ボート部艇庫、合宿所が完成する(埼玉県戸田公園二四二九―一、敷地面積二千二百九十一平方メートル、建物面積千二百五十・五八平方メートル。鉄筋コンクリート三階建。二階までは合宿所として使用され、三階はトレーニングに使用される。工費二百七十四万円)。

長野県白馬山麓の山岳部山小屋、山岳部指定寄附、寄贈者、学園山岳部代表者、近藤等部長

四二・六 東伏見グランド敷地内に、ハンドボール部合宿所が設けられる(建物面積・百九十四平方メートル、中島弘典氏から寄贈される)。

四二・六 ラグビー部合宿所が設けられる(建物面積六百五十四平方メートル、資料室兼会議室は昭和五十二年九月、指定寄附により設けられる)。

七 剣道部合宿所が東伏見グランド敷地内に設けられる(建物面積二百五十九平方メートル、費用八百万円)。

八 白馬山小屋(理工学部)が設けられる(建物面積八十七平方メートル、大学構内第一四、五号館にあったものを移動、増築したものである)。

一〇 記念会堂に隣接して建設された第二体育館、および二六号館の落成式が挙行される。竣工は同月二十四日(第二体育館は、卓球、バドミントンの実技研修に使用される。三六号館は、およそ二十五・八平方メートルで、一階はレスリング練習場、およびフェンシング、ボクシング、レスリング、バドミントン、応援部の各部室、二階は、心理学実験室、研究室、および体育測定室となっている。建物面積九十九・五九平方メートル、延床面積百二十一・八五平方メートルである。現在では、第二体育館の方は卓球のみに使用されている)。

昭和四三・ 旧軽井沢運動場(旧来、野球、自動車の練習場として使用されていたもの)の代替地としていた追分の土地の農地転用を申請していたのを、四月十五日付けで転用許可が降りる。

四四・ 射撃場、および付属設備が東伏見グランド敷地内に設けられる(射撃場面積三百二十五平方メートル、建物面積四十八平方メートル)。

四七・六 水泳部脱衣所が設けられる(建物面積百七十八平方メートル、西武鉄道株式会社の小島正治郎氏から寄贈される)。

九 スケート部合宿所が東伏見グランド敷地内に設けられる(建物面積二百六十五平方メートル、稲門スケートクラブの指定寄附によるもの)。

九 体育局研究室が、三六号館の三階増築分として設けられる。事務室、十三の研究室、シャワー室などが置かれている。

四八・一〇 東伏見、ア式蹴球部の旧合宿所を取り壊し、新合宿所が建設された(二階建合宿棟および食堂棟、計百六十六・七平方メートル)。この時、旧合宿所の一部(三十七・二平方メートル)は改築して残った。

なお、この合宿所および四十九年に造られた寮母棟を併せ、五十年五月、早稲田大学WMWクラブから大学に寄附の手続きがとられた。

五〇・五 馬術部の総合棟(建物面積百八十三平方メートル、工費七百三十四万円)、および廐舎(建物面積百二十六平方メートル)が東伏見グランド敷地内に設けられる。共に、稲門乗馬会から寄贈されたものである。

五〇・七 バレーボール部記念館が西早稲田コート内に設けられる(建物面積百八平方メートル)。稲門バレーボールクラブから寄付。

五一・六 山岳部合宿所が東伏見グランド敷地内に設けられる(建物面積九十平方メートル)。

五二・二 東伏見グラウンドの軟式野球、ホッケー、フットボール、馬術のそれぞれの部のために、散水装置が設けられる。

一一 追分校地内に、運動場、野球場、テニスコート、バレーコートおよび雨天体操場兼集会場が設けられる(建物面積百六十九平方メートル、工費およそ千三百万円)。また、昭和五十三年六月には、スコアボードが設置された。

五三・一 競走部全天候型走路の舗装が行われる(面積四百五十平方メートル、舗装用材料寄付者・カネボウNSC株式会社、舗装工事寄附者・弥生興業株式会社)。

後記

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この小史を編集するに当っては、次のように分担して執筆した。

第一節 正課体育前田勝也、森武

第二節 課外体育林敏弘、関一

第三節 体育・スポーツ施設年表 矢野正次、矢島忠明