Top > 別巻Ⅱ > 第一編 第六章

第一編 学部(続)

ページ画像

第六章 理工学部

ページ画像

一 理工学部通史(前編)

ページ画像

1 東京専門学校の開設と理学科

 明治十五年九月、大隈英麿の名で東京府知事芳川顕正に「私塾設置願」が提出されたのが、東京専門学校の出発であった。設置願には「本校ハ政治経済学科法律学科及ビ物理学科ヲ以テ目的ト為シ傍ラ英語学科ヲ設置ス。但シ物理学科々目ハ追テ認可ヲ経ル」と示されている。

 明治十五年九月二十二日の『郵便報知新聞附録』によると、物理科は理学科と改名され、理学科のみ修業年限四ヵ年で、他はすべて三ヵ年となっている。この広告には校長大隈英麿・議員鳩山和夫小野梓矢野文雄島田三郎・幹事秀島家良・講師岡山兼吉山田喜之助砂川雄峻高田早苗山田一郎天野為之・田中館愛橘・石川千代松田原栄の名が掲げられている。

 東京専門学校の入学試験は同年十一月十一日に行われ、入学者数は理学科の八名を含めて約八十名であった。開校式は十月二十一日に行われ、先ず校長としての英麿の簡単な開校の詞に続いて、天野の演説などがあり、最後に小野梓の歴史的名文といわれる、学校の理念を説いた「祝開校」と題する演説が行われた。

 次に、当初いかなる内容で理学科を開こうとしたかを具体的に知るため、届に添付された課程表、教科書を示しておおく(『東京専門学校校則・学科配当表』一二―一四頁)。

第一表 理学科設置願添付課程表ならびに教科書参考書表(明治十五―十六年度)

東京専門学校理学科課程表

教科書及参考書表(著訳者名は原文のまま)

理学科

 ともかく理学科は英麿と、広島から招かれた化学の田原栄の二人の専任教員と、生徒八人で私塾同然の形で開かれ、内部では理化学科とも呼ばれていた。

 当時政府の私学に対する圧迫もあり、東京大学教授の出講禁止などで大打撃を受け、田中館や石川が実際に授業を行ったか否かは不明であるが、両氏とも、その後「科外課」講師として科外講義を行っているところから見ると、その後も学校に協力してくれていたことと思われる。

 理学科の志望者の増加を如何にして計るかを考慮した結果、四年制の理学科に代る三年制の土木工学科を置くことにし、明治十七年に同科を設置したが、生徒数が三名に減少したので、理学科は遂に一人の卒業生も出さずに廃止となり、翌十八年の新学年以降は理学科の募集は中止された。

2 大隈重信と洋学

 大隈が東京専門学校を開こうとした動機が、英麿の才能を生かそうとしたことも事実であるが、他学科と異なり費用のかかる理学科の設置を決心したのは、彼の若い時からの科学的教養と、政治家としての経験から、科学技術の必要性を深く認識し、その基礎が理学にあるという深い信念を持っていたためでもある。

 例えば、明治二年頃イギリス公使パークスが鉄道敷設の必要性を政府に説いたが、政府として賛成したのは、殆ど彼一人であった。しかし、この困難を乗り越えて明治五年に新橋・横浜間の鉄道の開通に成功した。これらの問題を通して、大いに工学の必要性を感じ、またその基礎が理学にあると考えたわけである。このことは、よく引用される十五周年祝典での「理科・物理学はどうしても学問の土台となるものと考へたんだ」との彼の言からも明らかである。

 明治元年『窮理図解』を著した福沢諭吉でさえ、彼の慶応義塾に理科を置かなかった。廃止の運命は辿ったが、理学科を設置したことは大隈の一大炯眼であって、後に理工科の再建となって彼の信念が貫かれ、早稲田大学の将来に大きな影響を与えている。

 大隈重信は天保九年(一八三八)二月十六日、父信保・母三井子として佐賀の鍋島藩士の家に生れ、幼名を八太郎と言った。十三歳で父に死別した。当時佐賀藩には弘道館という学校があり、ここでの朱子学と、「葉隠」とが彼の幼少から青年時代に修得した教育の二大系統であった。

 一方嘉永六年(一八五三)、鍋島藩では医者の養成所の医学寮の中に蘭学寮を置き、国防上の砲術、築城、兵制などの攻究に志ある者がこの寮に入った。大隈は、『早稲田大学百年史』第一巻六五頁に書かれている弘道館に起った事件で退学となり、遂に同館には戻らず、十九歳の時蘭学寮に移った。外国の知識の重要性を深く感じたためである。

 大隈が蘭学寮で大きな影響を受けたのは、大庭雪斉と、彼の訳になる『訳和蘭文語』および『民間格致問答』であった。「格知」は朱子の説の「格物致知」の略語で、明治初年まで現在の物理学の意に用いられていた。

 この書には分子、引力、大気の圧力、電気、磁気などの項目が掲げられており、この書の感化が大きかったことは、晩年、大隈が「その原則を心得たのが政治論にも基礎となって後年中々役に立ったことである。」と述べていることからもわかる。

 安政七年正月に条約書交換のため三人の正使が米国に派遣されたが、その時佐賀藩から小川千之助が随行して万延元年に帰朝した。この小川との出会いが、大隈を蘭学から更に洋学へ転向させる動機となった。

 更にフルベッキとの出会いは、大隈に多大の影響を与えることになった。彼は安政六年(一八五九)に伝道の目的で長崎に上陸したが、彼は工学が専門で特に土木・建築に経験が深かった。

 大隈のフルベッキとの出会いは大隈の二十三歳の時であるが、その後大隈は英語学校を長崎に作ることを計画、副島次郎を学監とし、フルベッキを校長に戴き、慶応元年に致遠館を設立し経営の手腕を発揮した。彼の二十七歳の時である。大隈はフルベッキからの教えを受けながら、自身も講師として教育に当り、後にタカジアスターゼを作り、アドレナリンの発明などで有名な高峯譲吉も彼の教え子の一人である。

 すなわち大隈は東京専門学校を設立する約二十年前に学校経営の経験ももっていたのである。理学科の次に土木工学科設置を計画したのも、フルベッキとの出会いがあったためと思われる。

 ここで大隈英麿についても簡単にふれておこう。彼は盛岡の旧藩主南部利剛の次男として、安政三年(一八五六)三月九日に生れた。彼の姉が嫁した華頂宮博経親王に従い、明治三年八月、十五歳の時渡米した。米国の小学校・中学校を経てダートマス大学に入学し天文学を修め、更にプリンストン大学に移り数学を専修し、明治十一年六月同大学を卒業、バチェラー・オブ・サイエンスの学位を得て同年十二月に帰国した。大隈家との養子縁組は、その翌年、英麿の二十四歳の時であった。理学科で代数・幾何・微積分・星学などを講義する傍ら、英語科で英語の教育にも携わった。

 東京専門学校の理学科の講師となった田中館も、英麿と同年の安政三年に岩手県福岡町に生れ、彼は明治十年開成学校と医学校が合併されてできた東京大学理学部の第一回の卒業生である。

3 大学への道

 東京専門学校創立後、明治十七年に第一回の得業生十二人が卒業した。三年の課程を二年で終えたのは、創立当初二学級に進学した者で、翌年六十七人が正規の課程を終え卒業した。次に年代別に制度の改正を示そう。

明治十九年 学部を政・法・英(四年制)。

同二十一年 学部を政・法・行政・英。また学部を学科と改称、三年制に戻す。

同二十二年五月 大講堂竣成。

同二十三年 文学科創設。

二十六年 学科の上に二年制の研究科。

二十九年 早稲田尋常中学校創設。

三十一年十一月 社団法人。

三十四年 早稲田実業学校創設。

 このような変化を辿り、明治三十三年二月七日の臨時評議員会で、大学部を新設、専門部を併置、また研究科を設けることが決議された。専門部は直接中学と繫がり、一方学部へ進学のための修業年限一年半の高等予科を創立することを決議した。

 この翌年明治三十五年九月二日から、東京専門学校を「早稲田大学」と改称したが、当時私立大学の存在は認められていなかった。専門学校令による大学になったのは明治三十七年四月一日からである。三十五年七月に第一回の高等予科卒業生、三十七年四月に第一回の大学卒業生を出した。

 この大学開設には多大の基金を必要とするので学苑として最初の寄金募集を行うことになり、三十四年一月委員長に前島密、会計監督に市島謙吉が嘱任された。

 三十七年に大学に商科を増設、また高等師範部を新設することになり、その高等予科を三十六年四月に開校した。

 また三十二年以降、清国留学生を受け入れていたが、その後特設機関としての清国留学生部を設けた。四十一年には、その年限を延長して普通科と、その卒業生のための優級師範科を設け、その中に物理化学科を置いた。東京専門学校の理学科が廃止されて以来、最初の理科系の学科の設置で、理工科設置へ進む一つの糸口ともなっている。当時の講師の中に石原純の名も載っている。

 しかし清国留学生部も、普通科卒業生四十七人を最後に、四十三年九月に閉鎖された。後に述べる明治四十一年に始められた資金募集に対し、清国からの援助があったのは、前に述べたような関係があったからである。

4 理工科の開設

 明治四十年は学苑創立二十五周年に当るが、この年の四月四日の維持員会で、学苑組織上の大きな変更が決議された。すなわち社団法人を財団法人に変更(認可は四十一年五月九日)、また校長を廃して総長と学長を置くことになった。現在の教授会制度も、このときスタートしている。

 初代総長に大隈重信、学長に高田早苗が推され、四十年四月十七日に総長の推戴式が行われた。

 大隈が理学科廃止後も理工科の再興を願っていたことは、二十五周年の式典の折「早稲田大学はその第二期の発展をなすべき機運に達し、理工科若しくは其の他の学科を新設する時勢に達した」と述べていることからも窺える。

 この式典の折、第二期計画が発表され、基金募集の原案が作られ、その趣旨書が四十一年二月に公表された。これによると、理工科は専ら応用的な機械・鉱業・電気・土木・建築・製造化学などとし、更に医学科の設立についても述べられている。

 理工科再興は日露戦争以後、資本主義の上昇につれ工業界の進展も目覚しく、人材の要求が高まってきたためでもある。この第二期計画に対する募金は、理工科新設のため三十万円、医科および病院新設のための二十五万円を含めて、百五十万円と決定したが、折からの財界の逼迫もあり、計画の一部を変更し、医科は後日に期し、専ら理工科へ集中することになった。

 基金募集に対し四十一年五月五日、皇室から金三万円の下賜があり、一方鉱業界の重鎮竹内明太郎の人材提供その他の援助の申出、また渋沢栄一による多額の寄附などがあった。更に渋沢は基金管理委員長の役も引き受けた。

 この間の計画、その他のことを明治四十一年四月から詳しく起筆した市島春城の手記『背水録』が残っている。この『背水録』を川合幸晴が読み易いように書き直したが、更に高木純一が『早稲田大学史記要』第一一巻(昭和五十三年三月発行)に詳しく解説している。

 明治四十一年四月から新設理工科の予科の開始を決め、五月六日付の文部省からの認可により、直ちに予科の授業が開始された。

 同年九月、理工科商議員に手島精一阪田貞一、牧野啓吾、田原栄竹内明太郎を任じ、阪田を科長、牧野を教務主任に任命した。また、機械・電気・建築・土木・採鉱・応用化学の六科を置くこととし、先ず機械と電気の両科を設置し、その後漸次他科を設置することを決定した。

 四十二年九月十三日予定通り両科の授業が開始された。建築科の予科は同年四月に開校、翌四十三年九月に採鉱学科の設置と、建築科本科の授業が開始された。応用化学科は、それより遅れて大正五年に予科が設置され、翌年本科の授業が開始された。しかし土木科だけは開設されなかった。その理由は明らかではないが、教授陣を集めるのに困難があったことも理由の一つかと思われる。

 理工科開設当初の教授、講師の氏名は次の通りである(商議員の氏名は前掲)。

教授

岩井興助 西岡達郎 徳永重康 富田逸二郎 大場 昻 勝俣銓吉郎 金子善一

中村康之助 中川常蔵 梅若誠太郎 山岸光宣 牧野賢吾 牧野鑑造 藤山治一

小池佐太郎 阪田貞一 佐藤功一 佐野志郎 塩沢昌貞 本野英吉郎

講師

伊東忠太 石橋絢彦 丹羽重光 岡田信一郎 大畑源一郎 大屋 敦 田辺淳吉

武石敬三郎 武田脩三郎 田治多蔵 中沢重雄 内藤多仲 福原俊丸 藤并鹿三郎

遠藤政直 寺尾元彦 青柳豊三 斉藤三三 岸畑久吉 宮崎好文 広部徳三郎

本橋弥八 栖原豊太郎

明治四十二年九月 牧野の死去により中村康之助教務主任

明治四十三年一月 講師遠藤政直・牧野賢吾・中村康之助教授会議員

十二月 遠藤政直辞任

明治四十四年三月 講師徳永重康早稲田工手学校校長兼任

五月 高松豊吉理工科商議員

六月 岩井興助・西岡達郎・徳永重康・富田逸二郎・中川常蔵・小池佐太郎・佐藤功一・佐野志郎・本野英吉郎の九講師教授会議員

十一月 氏家謙曹教授会議員

十二月 中村康之助理工科経営主任、また各科に次の学科主任を置く

(機械)中川常蔵 (電気)牧野賢吾 (採鉱)小池佐太郎 (建築)佐藤功一

明治四十五年一月 岡田信一郎・内藤多仲・福原俊丸・広部徳三郎教授会議員

四月 各科に次の顧問を置く

(機械)阪田貞一 (電気)浅野応輔 (建築)辰野金吾 (採鉱)渡辺渡

大正元年九月 岩井興助辞任

同 山本忠興教授会議員

同 牧野に代り山本忠興学科主任

5 創立三十周年に向って

 理工科創設後、創立三十周年に進む期間中、理工学部としては恩賜記念館の完成を含む、その他の施設の拡充が行われた。なおこの間、高等師範部に数学科と理学科が設置され、また早稲田工手学校が開設された。

 先ず施設関係で特筆すべきことは、前述の明治四十一年に皇室からの三万円によって計画された恩賜記念館のことである。この恩典を如何に長く記念すべきかについて慎重審議を重ねたことは、市島の『背水録』に詳しく書かれている。これによると、最初物理実験室として計画されたが、実験室に恩賜記念館という名を冠することはという疑点、理工科だけではなく他学科にもその恩恵をという声、またそれには更に二万円程の経費が必要となり、三万円に二万円加えて恩賜記念館と呼ぶのは如何かというような意見が出された。これに対し、最後に「金貨を作るには純金だけでは出来ぬ銅の合金を要す」という渋沢栄一の言が書かれている。

 恩賜記念館は明治四十三年六月二十五日起工、工費四万七千円余で四十四年五月十二日に竣工した。設計は曾根達造と中条精一郎で、英国風の最新ゴシック式の赤煉瓦三階建、建坪一一一坪で、一階に玄関・階段室・暗室と研究室、三階は会議室と研究室となっている。政・法・文・商・高等師範各科の研究室としても使用された。館の玄関正面左側壁間に、坪内雄蔵撰の銘文が石に刻まれていた。

 この時のは片翼だけで、のち大正天皇即位の大典記念事業の一部として、佐藤功一が主任となり大正七年二月に左翼の増築が完成、心理学実験室などに当てられた。しかし昭和二十年五月十五日の空襲で全焼し、その跡に昭和二十六年社会科学系大学院校舎が建てられ現在に至っている。

その後理工科として次のような施設が増設された。

明治四十二年八月 理工科教室および機械科実習工場竣成

同四十三年八月 機械科・電気科実験工場および汽缶室竣成

同四十四年十月 採鉱科実験室竣成

同四十四年十一月 各科製図教室・電気科実験室・採鉱科標本室および建築科の教室竣成

同四十五年六月 機械科実験室増築、真鍮鋳物実習室竣成

 なお、四十三年九月から四十四年八月の間に構内全部の電灯を電気科で供給するため、蓄電池室の建設、また電気科で校内用電話を架設した。

 このように理工科の設備が着々整備され、明治四十五年七月に機械科と電気科の第一回の卒業生を出した。機械では金子従次(一回)、山内弘・新并忠吉(三回)、師岡秀麿・鈴木徳蔵(六回)、伊原貞敏(八回)、また電気では堤秀夫(二回)、坪内信(三回)、川原田政太郎(四回)、黒川兼三郎(五回)などが卒業し、教授陣に加わった。

 一方、これら諸設備を利用した夜間の付属工手学校が計画され、機械・電気・採鉱冶金・建築の四科が置かれ、初

第一図 理工科施設配置図(大正二年)

A 高等予科教室

B 採鉱学科実験室

C 恩賜記念館

D 製図教室

E 機械工学科・電気工学科実験室・汽缶室

F 機械工学科実習工場

G 蓄電池室

H 学生脱衣所・洗面所

I 機械工学科仮鋳物工場

J 物置

黒い部分は理工学部施設で、鎖線より西側の地域が拡張された校地である

代校長に徳永重康が就任して、四十四年五月五日開校し、以後理工科の一翼を担って多数の優れた人材を世に送り出すことになる。

 また、明治三十六年専門部より分離して新しく設置された高等師範部は、幾多の変遷を辿って、明治四十三年に新しい高等師範部が誕生、同年四月に第二部として数学科と理学科とが併置された。しかし、この第二部は大正六年三月に廃止され、このときの学生が大正八年三月に卒業したとき、第二部最後の卒業生となった。

 第一図は大正二年十月の『創立三十年紀念早稲田大学創業録』所載の、当時の学園の建物の様子を表している略図である。なお、天皇の崩御により三十周年祝典は大正二年十月十七日行われた。

6 理工科の拡充

 大正四年十一月六日大正天皇の即位の儀が行われ、その大典記念事業として、各科研究室の新設、研究機関の増設、図書館の建設などの計画を立て、市島を委員長として、その基金三十万円の募金を行うことになった。

 明治四十一年の理工科新設には製造化学科も含まれていたことは前に述べたが、多大の経費を要するので、その設置が見送られていた。しかし、時代の要求もあり応用化学科として開校することになり、大正五年四月に、この予科を募集することになった。初代の主任として河合勇が就任した。

 この科の創設費として、森村市左衛門が主宰する森村豊明会から、五万六千円の寄附があり、これを中心として建設に着手した応用化学実験室「豊明館」は大正七年に完成し、創立三十五周年祝典に際し、その開館式も併せ挙行された。

 このほか水力実験室、高圧実験室、建築研究室などが建設され、降って大正十四年十月、一一九五坪の近代様式の図書館の竣工を見ることになる。

 このようにして理工科は、最初に計画された土木科を除いて、機・電・採鉱・建・応化の五科となった。

 また、理工科長は大正五年九月阪田貞一に代って浅野応輔が就任した。かくして新大学令による大学への第一歩を進めた。

7 新大学令による理工学部

 従来の早稲田大学は、法制上は専門学校令による大学であった。大正七年十二月五日に新大学令が発せられ、官公立の大学とともに、私立大学の存在も承認されることになった。

 我が学苑でも、これによって、その真価を更に高めるため、翌大正八年一月十五日の維持員会で新令による機構の改正を議した。

 先ず、そのための資金募集が必要となった。新大学令によると、財団法人となる必要があり、供託金を必要とする。単科大学が五十万円、その上、一学部増すごとに十万円を加えることになっているから、理工を含めて五学科を持つ我が学苑としては、これだけでも九十万円が必要となる。その上、大学の予備門の高等学院新築に最低六十万円くらい必要なので、少くとも合計百五十万円が必要となる。

 田中穂積を中心に大正八年一月から募金に着手し、今回も渋沢栄一が基金管理委員長を引き受けてくれた。同年五月申込金が三十万円に達したので、同年六月十三日に大学令実施準備委員が任命された。

 このようにして、大正九年二月に大学令による大学として早稲田大学が出発した。学部は政治経済・法学・文学・商学および理工の五学部、また理工学部には機械工学・電気工学・採鉱冶金学・建築学および応用化学の五学科が置かれた。初代の理工学部長には浅野応輔が就任したが、大正十年九月の改選で山本忠興に代り、彼は昭和十九年三月まで、その要職に就いた。

 創立当初、専任教員として次の三十名が就任した。

浅野応輔 渡辺寅次郎 松本容吉 村田栄太郎 山内弘 師岡秀麿

鈴木徳蔵 山本忠興 甲斐秀雄 堤秀夫 上田大助 大隅菊次郎

山本五郎 川原田政太郎 坪内信 徳永重康 野村堅 小室静夫

藤并鹿三郎 三宅当時 北沢武男 佐藤功一 岡田信一郎 吉田享二

内藤多仲 徳永庸 今和次郎 小林久平 富井六造 井上誠一

 大学令では、高等学校令に準拠する大学予科を設けることが私立大学に要請されており、この目的で開設されたのが、次に述べる高等学院である。

 大正六年から高等予科の修業年限が一年半から二年に延長されており、大正七、八、九年に入学した高等予科生も、卒業を一年延期すれば大学令による大学卒業生とみなされることになった。

 大学令として出発した大正九年には、学院では一年生だけであるから、この年に学部の一年に入学したのは、大正七年に高等予科に入学した学生であった。同様に大正十年および十一年に学部の一年生に入学した学生は、それぞれ大正八年および九年に高等予科に入学した学生であった。従って高等学院の修了者が学部に初めて入学したのは大正十二年四月である。高等予科は大正十一年三月を以て廃止となった。

 例えば電気工学会の名簿によると、大正十一年三月および大正十二年三月の第十回卒業生と、大正十二年三月の第十一回卒業生としての名前が掲げられている。すなわち第十一回の電気科の卒業生が新大学令による第一回の卒業生となる。第一早稲田高等学院の修了者として最初に大学を卒業したのは大正十五年三月で、電気科としては第十四回の卒業生となっている。

 当時理工学部には研究組織というものがなかったので、黒川兼三郎は伊原貞敏と図って研究所の設置を計画した。しかし資金面などの関係で、中央研究所付属基礎工学実験室として、基礎工学実験室だけが大正十二年に恩賜記念館内に設置された。すなわち大正十二年に、大学令による第一回卒業生の広田友義、宮部宏が黒川のもとで準備に取り掛り、二年の準備期間を経て、三年目に大学一年生に対する実験が行われることになった。小泉四郎、岩片秀雄らが、その時の最初の学生であった。その間白川稔、中条徳三郎らが関係したが、その後宮部、小泉、中野稔の三氏が本属として実験室の運営に当り、また後に上田隆三、飯野理一が加わった。

8 第一早稲田高等学院

 高等学校令に準拠する大学予科として高等学院が創設され、大正九年四月十九日に授業が開始された。初代学院長には中島半次郎が嘱任された。修業年限は三カ年で、中学四年修了以上の者を収容、生徒数は毎学年、文科四百名、理科百六十名として計画された。

 校舎は、現在記念会堂のある約四千坪のところに建てられ、第一学年生を収容できる第一期工事が大正九年三月に竣工、また大正十年四月には第二期工事が完了して物理・化学・生物・地鉱の教室、実験室が完成した。

 なお、大正十年四月に、中学五年卒業生を収容する文科のみの二年制高等学院が併置され、大正十一年独立して第二早稲田高等学院と呼ばれ、三年制のを第一早稲田高等学院と呼ぶことになった。

 高等学院の学科課程は、高等学校令の規則に準拠はしているが、独自の教育方針を打ち立てるため、その名も高等学校とせず高等学院とした。事実、高等学院での教育は文科、理科を問わずきわめて優れたもので、若者の人格形成に大きな影響を与え、大学卒業後の学問的・社会的な活躍の基礎を作ったといっても過言ではない。

 高等学院開校当初の教授、講師の氏名を見ると、全国から優秀な人材を多数集めたことが分る。一方、これだけの人材を集め得たことは、文科系についてもいえるが、理科系については清国留学生部の中に物理化学科を設置したり、高等師範部内に理科系の学科を置いたことも貯金となっている。

 例えば藤野了祐(数)は明治三十八年、牧野鑑造(化)は明治四十年、富田逸二郎(数)は明治四十一年、氏家謙曹(物)と池田清(化)は明治四十四年から、それぞれの課目を担当してきた。また阿部良夫の名も見えている。

 藤野の講義は明解そのもの、きわめて真面目な秦孝道の独特の講義、氏家の丁寧な講義と実験指導など学生に大きな感銘を与えた。また民野雄平と崎田喜太郎の製図の厳しかったことや、鉱物の松島鉦四郎と物理の田幸彦太郎の講義の難しかったことも、修了生の思い出となっている。

9 創立四十周年に向って

 大正十一年一月十日大隈重信が他界し、その葬儀は「国民葬」として日比谷公園で行われた。同年三月彼を記念する大講堂建設のための二百万円の資金公募が計画され、途中関東大震災もあったが、昭和二年十月にその完成を見た。

 大正十一年四月機械工学科の研究室および水力実験室が竣工する。これは総延坪百七十四坪の二階建鉄筋コンクリート造りである。

 大正十二年四月には、前にもふれた中央研究所基礎工学実験室の第一期設備に着工している。

 大正十二年九月一日の関東大震災で、理工学部として最も大きな被害を受けたのは、応用化学科の豊明館の焼失であった。翌十三年には早くも再建の声が起り、再び森村豊明会からの三万円の寄附があり、同年八月に校舎が完成した。これは旧応用化学の教室の跡に建てられた仮校舎で、昭和十年に本建築ができるまで、その位置にあった。

 大正十三年九月、電気工学科の志望者が急増したため、これを第一分科(強電)、第二分科(弱電)に分けることにしたためいわゆる「電気科問題」が起った。当時我が国には通信を中心とする学校はなく、また卒業後の就職に不安があるために起った問題であった。しかし、この第二分科は後の電気通信学科の前身となり、また我が国の通信関係の教育のスタートを切った点で特筆すべきことであった。

 明治四十五年二月、逓信省電気試験所の鳥潟右一らによってTVK型無線電話装置が作られた。その当時の所長であった浅野応輔が大正五年九月に理工科科長に就任しており、また坪内信(大正三年電気科卒)が、大正七年頃から無線の研究を進めていたことなどが、第二分科設立の糸口になっていると思う。

 御大典記念事業としての新図書館は大正十四年十月に竣工、続いて新製図教室も竣工した。これは現在の政治経済学部の四号館のところである。

 大正十五年十月には電気・建築両科の実験室と研究室が竣工した。現在生協の使用している鉄筋コンクリートの建物で、既設の水力実験室に増設して建てられた。一階は電気高圧実験室・音響実験室・無線実験室・水力実験室・電気科各実験室、また二階東側は電気工学科、西側は機械工学科各研究室・図書室・事務所、三階は建築学科研究室・標本室・材料室・図書室・事務所となっていた。

 大隈の死後大正十二年五月五日の臨時維持員会で校規改正が行われ、これまで学長と称してきた大学の代表者を、爾後「早稲田大学総長」と称することになり、同年六月二日高田新総長の就任式が行われた。かくて昭和二年十月二十日創立四十周年記念祝典を迎えた。

10  昭和初期から戦争へ

 前述のように大正末期から鉄筋建築が行われるようになったが、昭和六年六月六日田中穂積が総長になると、一段と拍車がかけられた。田中は木造校舎の耐火・耐震に弱いことを震災で身を以て経験していたためである。

 昭和七年に創立五十周年を迎えるが、理工学部中央研究所の設立と、耐久年数の迫ってきた木造校舎の修理および、その鉄筋化が大きな課題となっていた。そこで五十周年を機に、昭和八年三月、五カ年計画で百万円の資金を集めることになった。事実、昭和七年から昭和十三年の間に、増改築を含め九件の大建築が完成されている。

 第二図と第三図は昭和十三年と同十八年の早稲田大学校舎の配置図である。

 次に、昭和の初めから太平洋戦争勃発前後までの理工学部に関係のある事項を列記してみよう。

昭和三年四月 早稲田高等工学校設置。土木・電気・機械・建築(修業年限二年)の四科を置き、初代校長に徳永重康就任。

昭和三年十月十四日 理工学部創立二十周年記念祭。

昭和七年四月 早稲田工手学校予科新設。

昭和七年十月十八日 早稲田大学創立五十周年記念祝典。

昭和八年四月 理工学部テレビジョン研究室竣工。

昭和十年四月 工業経営分科発足、初代科長に上田輝雄就任。当時欧州にもないとの理由で独立した科としては認められず、理工学部内の各科に分科として設置された。例えば各科の卒業生名簿を見ると、昭和十三年三月に工業経営分科の第一回卒業生の名が載っている。これが工業経営学科として独立したのは昭和十八年四月からであるが、他校に先駆けてこのような科を新設したことは特筆すべきことである。

第二図 早稲田大学校舎配置図(昭和十三年)

昭和十一年四月 機械・建築合同溶接研究実験室完成。

昭和十一年九月 応用化学科実験室竣工。森村豊明会の寄附によって大震災後建てられた仮建築に代って建設された。現国際部の大学レーンに直角な部分がそれで、戦後に北門から現十五号館に面している部分が更に追加され、新制の一般教育物理および化学実験室として使用された。現在は教育学部の物理および化学の実験室として使用されている。

昭和十二年九月 理工学部実験室竣成。前述の応用化学の実験室が竣工してから約二ヵ月後の十一月に、右の建物に接続する部分の大学レーンに沿って建築が着工された。この場所はもと、森村豊明会寄附による煉瓦造りの実験室が建っていた場所である。一階は理工学部の事務所としても使用され、採鉱冶金学科の研究室・実験室が、恩賜記念館からここへ移転した。

第三図 本部キャンパス校舎配置図(昭和十八年十月)

昭和十三年七月 鋳物研究室が創設され、初代所長に石川登喜治が就任した。この建物は大正九年に大学の所有となった本部キャンパスから離れている荒井山のところに建てられた。実業家各務幸一郎の喜寿を祝って寄附された三十万円による。

昭和十三年三月 理工系として牧野鑑造・秦孝道・伊東忠太・佐伯美津留の四名を含む全員十七名の、大学最初の定年者を迎えた。

昭和十三年四月 応用金属学科開設。初代科長に河合勇就任。

昭和十四年四月 専門部工科新設。初代校長として内藤多仲が就任。

昭和十五年四月 理工学部研究所を開設。初代所長に山本忠興が就任。早稲田大学創立五十周年記念事業の大きな柱の一つとして、昭和八年に理工学部中央研究所の設立が計画されたことは前にもふれた。記念事業の募金額百万円のうち、五十万円をこの資金に当てる計画であった。最初、鉄筋コンクリート造地下室ともに四層、延坪千五百坪の研究所を二十五万円で、また研究所設備に二十五万円を充てる予定であった。しかし所期の目的額には達せず、昭和十五年三月牛込区早稲田町所在のもとの旭ガラス研究所、その当時日本夜光塗料研究所であった建物を、土地とともに購入し、暫定的に中央研究所に当てることになった。名称を「理工学部研究所」とした。

昭和十七年四月 電気工学科の第二分科が独立して電気通信学科となり、初代科長に黒川兼三郎就任。

昭和十六年四月 専門部工科教室竣工。

昭和十六年十二月八日 対米・英宣戦布告。

昭和十六年十二月二十五日 繰り上げ卒業式挙行。これは同年十月十六日の、大学・専門学校在学年限短縮の通達による。

昭和十七年十月 応用化学科内に石油分科新設。

昭和十八年四月 理工学部長に内藤多仲就任。

昭和十八年九月 理工学部土木工学科創設、初代科長に草間偉就任。東京専門学校創設のとき土木科が設置され、また、その後理工科創設のとき土木科も計画されたが実現に至らなかった。専門部工科の土木科および高等学院の修了者計三十一人が入学した。

昭和十八年四月 理工学部工業経営学科が独立し、初代科長に上田輝雄就任。

昭和十八年四月 応用化学科内の石油分科が、石油工学科として独立し、初代科長に山本研一就任。

昭和十八年四月 理工学部研究所を理工学研究所と改称し、山本忠興所長に就任。

昭和十九年九月十六日 総長田中穂積死去(八月二十二日)により中野登美雄総長に就任。

昭和二十年五月二十二日 戦時教育令公布に基づき、全学校、職場に学徒隊結成。

昭和二十年五月二十五日 空襲により諸施設の三分の一、延約一万三千坪消失。

昭和二十年八月六日 広島に原子爆弾投下。

昭和二十年八月九日 長崎に原子爆弾投下。

昭和二十年八月十四日 ポツダム宣言受諾を回答。

かくして終戦を迎えることになった。

二 理工学部通史(後編)

ページ画像

1 終戦直後

 戦争中軍需工場などに動員されていた学生は終戦とともに続々と大学に帰ってきて、授業が再開されたのは昭和二十年九月八日であった。

 ところが戦時中、国の要請から短縮されていた学校の修業年限が、戦後旧に復したことから若干の異変が起った。三年制であった第一早稲田高等学院が二年制に短縮されていたため、旧に復した昭和二十一年四月は学部に進学して来る学院の修了者はいない年となり、当時の理工学部としては珍しくも入学試験を実施している。一方、昭和二十二年九月と昭和二十三年三月との一年間に二回、卒業生を送り出すことも起った。

 このような事情から昭和二十一年度の入学生は陸軍士官学校や海軍兵学校など、軍関係の学校から復員した学生が多数いて、前年度のクラスより平均年齢が高いという珍現象も生じた。戦時中これらの軍関係の学校には当時の青少年が競って入学を希望していたことも関係してか、このクラスの学生の印象は特に強い。なおこの年は食糧事情のために夏休が七月一日から三ヵ月間であった。

 戦後暫くの間、各学会とも財政事情が悪く、研究発表の機会も今からみるときわめて乏しかった。理工学部では、この時期理工学会主催の研究発表会を催して、若手研究者の研究意欲の向上に資した。

2 新制大学の発足

 戦後の最も大きな大学改革は言うまでもなく新制大学の発足である。敗戦を契機に我が国の教育制度は占領軍の指導のもとで、従来の六・五・三・三から六・三・三・四の新制度に移行することとなった。

 早稲田大学においては国立大学より二年早い昭和二十四年四月から各学部一斉に新制度へ切り換えることとなった。これを機会に理工学部は昼間授業を行う第一理工学部と呼称することとなり、更に勤労学徒への便も考えて夜間開講する第二理工学部を新設した。第一理工学部は勿論四年制であるが、夜間学部である第二理工学部も四年制で認可されたのは、夜間学部とはいえ午後四時から開講することと、夏期講座による集中講義で授業時間の不足を補うこととしたことによるものであった。

 旧制度から新制度への学生の移行は次の如くであった。

㈠ 昭和二十三年度第一早稲田高等学院理科の一、二、三年生は昭和二十四年度第一理工学部の一、二、三年生へ移行。

㈡ 昭和二十三年度専門部工科一年生は新制移行準備として学科別の専門科目は廃止し基礎共通科目のみを授業していて、昭和二十四年度第一理工学部一年生へ移行。

㈢ 昭和二十三年度専門部工科二、三年生は希望者を選考の上昭和二十四年度第一理工学部二、三年生へ移行。

㈣ 専門学校令によった夜間の早稲田高等工学校の昭和二十三年度二、三年生の希望者は選考の上昭和二十四年度第一・二理工学部二、三年生に編入。

 以上の移行に伴い、第一早稲田高等学院は廃止され、新制度の早稲田大学高等学院が誕生するとともに、専門部および早稲田高等工学校は編入しなかった学生の卒業を終えて廃止された。なお昭和二十四年度は第一理工学部は入学試験を行わず、第二理工学部は一年生の入学試験と二年生の編入試験を行った。

 新制大学の第一回卒業生は第一理工学部では昭和二十六年三月で旧制理工学部の最後の卒業生と同時となった。第二理工学部の第一回卒業生は勿論昭和二十七年三月であった。

 第一理工学部は旧制理工学部に設置されていた機械工学科、電気工学科、鉱山学科、建築学科、応用化学科、金属工学科、電気通信学科、工業経営学科および土木工学科の九学科に加えて、新たに応用物理学科および数学科の二学科が新設されて十一学科で構成された。第二理工学部には機械工学科、電気工学科、建築学科および土木工学科の四学科が設けられた。

 新制大学では学科目の履修にあたって単位制が採用された。その学科目は大別して、一般教育科目、外国語科目および専門科目とから成っている。国立大学の多くが外国語科目と一般教育科目を一、二年度に、専門科目を三、四年度に配したいわゆる横割式を採用しているのに反し、理工学部では入学者を科別に決定するとともに、一年生から専門科目を学科別に教育する一方、一般教育科目および外国語科目を三年まで配するという、いわゆる斜縦割方式を採用して教育効果を高めており、今後もこの方針は変らないものと思われる。

 専門科目を担当する専任教員は、旧制理工学部の頃と同様に各学科教室に属した。そして、新制理工学部となってから新任された一般教育科目および外国語科目を担当する専任教員は、両者を併せて一般教育教室を新設することとなった。

 また昭和三十二年度から理工学部では入学試験成績の公開を断行した。すなわち不合格となった者が次年度の入試の参考として受験成績を知りたい時には、本人の申し出により教える制度である。またこのことと関連して専任教職員に対して従来行われていた、いわゆる入試成績の内覧というしきたりも廃止した。これら一連のことは入試が厳正に行われていることを示すとともに、受験生に努力目標を与える便宜を計ったもので、学部のこの姿勢は社会から高く評価されてきている。

 一方我が学部が理工学部という名称を採用したのは、理学部と工学部とを並称したという解釈もありうるが、工学を修めるには理学によって基礎を十分修める必要があるという理念が創立当初から存在していたためとも言われている。その精神は脈々として受け継がれ、基礎理学の分野に対する専任教員の増強や、理学系学科の増設となって現れ、明日の近代工学発展に常に備えてきている。

3 新制大学院

 新制第一理工学部の第一回生が卒業した年、昭和二十六年四月、新制の大学院工学研究科の修士課程が、続いて昭和二十八年博士課程が設置された。最初は工学系五専攻で、修士課程または博士課程を修了し、論文の審査に合格し最終試験に合格した者には工学修士または工学博士の学位が授与されることとなった。その後理学系の専攻も設けられ、昭和三十六年四月より大学院理工学研究科と名称が変更され、専攻によっては理学修士および理学博士の学位も授与されることになった。

 更に昭和三十九年には学則の一部を改定し、助教授も主要科目を担当できるようにした。このことは大学院へ教員全員が参加することにより研究面での充実を図る構想を打ち出したものである。次いで昭和五十年には博士論文の合否判定に審査分科会方式を採用し、形式より実質を重んじ、且つ審査の渋滞を防止するように意図された。

 なお昭和五十一年四月には大学院学則が改定され、大学院理工学研究科は博士課程一本となり、前期課程二年と後期過程三年に区分され前期課程を修士課程として取り扱うこととなって今日に至っている。

4 ミシガン協定

 昭和三十年五月アメリカ国務省の役人が総長を訪れ、「アメリカ政府が海外援助計画の一環として自国の大学と他国の大学との交流を図ることによって、その国の発展に寄与することを計画しており、日本の場合には早稲田大学理工学部を中心に適用したい」との申し入れをした。総長は戦争開始以来暫くの間海外との学問の交流が不如意であった現状に鑑み、理工学部がこの計画によって交流を深めることを希望した。そしてアメリカ政府の指導によるジョージア工科大学を相手校として選び、協定を結むべきか否かについて検討を加えた。しかし理工学部内に、この協定による費用がアメリカの軍事費から支出されるので、アメリカおよびアメリカの大学の干渉を受けて、早稲田大学の自治が損われるのではないかという懸念が生じ、結局協定を締結しないことになった。

 昭和三十一年二月一日大学に生産研究所が設置され、この研究所が、大学の自治を保障するなどの同意の上でミシガン大学との協定を結んだ。協定は四年間継続し、当時としては他大学に羨まれるほど数多くの理工学部若手研究者がアメリカで研究に従事することができた。

5 創立八十周年記念事業と理工学部

 新制度が発足して十年ばかり経過した時代から、第二理工学部の性格が創設当時の考え方と大いに変化してきた。すなわち午後四時からの開講制の授業形態と入学試験競争の激化とから、勤労学徒は殆ど入学出来ず、第一理工学部の入学試験を失敗した者の再挑戦の学部と変ってしまった。この傾向は全学的なもので、第二学部生から単一学部問題が提起されてきていた。

 このような背景のもとに昭和三十四年十二月の評議員会で、昭和三十七年十月に迎える創立八十周年の記念事業として経営工学部(仮称)設置が答申された。昭和三十五年五月十六日付大学広報第一七五号によれぱ大浜総長は「創立八十周年記念事業について」と題して

㈠ 国から払下げをうけた戸山ヶ原に理工学部の工業経営学科を吸収して経営工学部(仮称)を設置

㈡ 理工学部および付属研究所の改革拡充と学生定員の大幅増員

などの計画を発表した。

 一方、昭和三十五年四月二十五日の理工学部教授会は、第一理工学部の入学定員を第一・第二理工学部の入学定員の合計である約千三百名とする条件のもとに第二理工学部の募集を停止することが可能か否かの協議を第一・第二理工学部合同主任会に委任している。そして同四月二十七日のこの主任会は、第一理工学部の入学定員を千二百名程度とし、多少の施設設備の充実とともに漸次千三百名程度とすることが可能であると結論し、その旨本部へ申し出ることを決定している。

 時あたかも高度成長期に向って科学技術の飛躍的進歩と産業の急速な膨脹に伴い技術者の大量養成の必要性が叫ばれている時期に当り、大学当局と理工学部との数次にわたる折衝の結果、昭和三十六年一月十三日付広報第二〇二号に示されているように、創立八十周年記念事業は「理工学部の改革と学生定員の大幅増員」を第一とすることに改められた。

 この線に沿って第二理工学部の募集を停止した場合の第一理工学部の入学定員を千二百五名とする改正が昭和三十五年九月二十七日の教授会で、また創立八十周年記念事業としての理工学部改革後の入学定員を千六百八十名とすることが同年十一月十九日の理工学部教授会で第二表の如く承認された。

第二表 理工学部入学定員の変化(昭和35―37年度)

 表中の学科名のうち、鉱山学科は昭和三十六年四月より資源工学科に、昭和四十七年四月より電気通信学科は電子通信学科と改称することとなった。更にこの定員は昭和三十七年十二月十四日の主任会において機械工学科四百四十名、土木工学科百名と修正されるとともに、学部長から、大学財政の立場から大幅の教員増は望めない実情にあるので、機械工学科および電気工学科の収容定員確保がうまく遂行できるように各科において精神的授助を与えて欲しい旨の要望があった。

 前述のように創立八十周年記念事業の目玉としての理工学部の拡充計画が承認された後、早稲田大学が国から払下げをうけた戸山ヶ原に理工学部の全施設を移転することが決定したのは昭和三十五年十二月二十一日の教授会においてであった。

 この間教育研究などソフトの面、特に教職員の大幅な増員なしに多人数教育を円滑に行うための種々の検討が併行してなされた。それらの主な項目を挙げれば次の如くである。

㈠ 多人数教育と視聴覚教育設備の導入

㈡ 多人数教育とT・A制度の導入

㈢ 共通科目の設置

㈣ 教育研究の近代化と合理的な実施を目的とした共通実験室制度の確立

㈤ 各科図書室の理工学部綜合図書室への統合

㈥ 学生読書室の設置

㈦ 各科事務所の連絡事務室化と綜合事務所の設置による事務の合理化

などである。かくて計画は着々と実現化し、建築学科教員の手で建物の設計が進められた。昭和三十五年四月、第二理工学部としては最後の入学生を迎えることとなり、制度上は昭和四十三年四月に第二理工学部は廃止され、第一理工学部は再び理工学部と名称を旧に復した。

 新キャンパスの建設は着々と進行し、昭和三十八年十月第一期工事として教室棟群が完成し、一般教育科目などから、順次新校舎で授業が行われることとなった。昭和四十年三月、第二期工事としての実験室棟群が完成し、引続いて霞ヶ関ビルが完成するまでの僅かな間ながら、日本一の高層建築であった高さ七十・四メートルの研究室棟ができ上がったのは、昭和四十二年三月であった。この完成によって、当初計画のうち講堂の建設は延期されたが、その他の全施設が完成をみて、同年四月の新学期からすべての教育・研究が戸山ヶ原、すなわち現在の大久保キャンパスにおいて行われるようになったのである。

 このような大改革は、教職員の大幅な増員なしに画期的な多人数教育を、その質を低下することなしに可能にした。そしてこのことは、社会の要望に応えるとともに大学経営にも寄与することができたと考えられるので、私学における理工学教育の難問に一つの解決策を与えた事実を見逃すことはできない。

 新制大学発足当初十一学科で構成されていた理工学部は、その後一般教育教室の理科系の担当教員が学部生の一般教育科目の教育に責任を持ちながら、各自の研究部門に関連する専門分野の教育をも実施したいとする強い希望に基づいて学科として独立することが検討された。その結果昭和四十年四月定員三十名の物理学科が開設された。昭和四十六年四月からは一般教育科目の数学担当教員が数学科と合体することとなり、更に昭和四十八年四月定員三十名の化学科が開設され、理工学部は十三の学科を持ち、入学定員千七百四十名の学部となったのである。

6 大学紛争

 昭和四十一年度生よりの学費値上げに端を発して大学は、第一次大学紛争に突入した。その結果昭和四十一年三月の卒業式は行われなかった。この時代の一部学生は、現在社会の矛盾と近代文明に対する行先の不安に対して、社会の将来あるべき希望の姿を描き得ぬままでも、先ず現存する社会を破壊すべきであるという闘争理論に基づいて、大学改革そして大学の自主管理を唱え、国公私立の大部分の大学でストライキに突入していた。国会はその現実に対して時限立法としての大学管理法を制定して対処した。しかし学生はこの大学管理法そのものに反対して、ストライキは更にエスカレートして第二次紛争に入った。昭和四十三年、学生は更に七十年安保条約の改正反対と学費値上げ反対を唱え、理工学部では軍事研究問題や産学協同の反対の声も加わり、昭和四十四年六月三十日の学生大会で無期限バリストを可決し直ちに五一号館の学部長室を含む二階全室および五六号館を封鎖した。しかしスポーツサークルの学生などを中心とする良識ある学生が夏休み中、葉書作戦で広く学生の関心を高め、夏休みあけに学生大会を開くことを企てた。昭和四十四年十月二十四日正午より安部球場で開催された理工学部学生大会は、バリストの解除を決議し、同年十一月四日より理工学部の授業は全面再開の運びとなった。

 その後も理工キャンパス内ではしばしば革マル、反帝などの派閥間の争いが生じ、昭和四十六年頃まで続いた。しかしながら理工キャンパスが他学部に比して早い時期に教育研究環境が平常に戻ったのは、学問の性質、学生の自覚、教職員が一体となって学生の指導に当ったこと、および本部キャンパスから距離的に離れていたことなどによるものと考えられる。

 戦後の学生運動としての学友会組織は昭和三十四年「学友会一理準備会」でスタートを切った。その後「仮学友会」として暫定的に理工学部学友会が活動していたが、仮学友会であったこととその会費の代行徴収を理工学部としては行っていなかったことが、学生運動の終息には効果があったものと思われる。第二次大学紛争の最中から仮学友会は事実上崩壊して現在に至っている。現在仮学友会に代る組織はないが、「理工学会学生部会」が早稲田祭期間中に行われる理工展を主催して学生同志の縦の繫がりを保っており、横の繫がりとしては、「サークル協議会」が理工スポーツ大会や新入生歓迎のパンフレット作りなどで学部と協力してよい成果を挙げている。

7 単位制と学科目

 大学設置基準によれば、卒業に必要な単位数は一二四単位と定められている。

 これに対して理工学部では、第一・第二理工学部共通の新制大学スタートの時期から、その必要単位数は上表の経過を辿って今日に至っている。

第三表 理工学部卒業必要単位数

 昭和二十九年の改正は、第一・第二外国語科目をともに増強することが目的であった。昭和三十八年の改正は理工学部の大久保キャンパス移転を契機に教育課程を検討した結果である。その主旨は理工学の基礎教育に重点をおくためであった。すべての学科の学生に、数学・物理・化学・物理実験および化学実験を基礎教育科目と称して必修科目としたことによる。

 昭和四十三年の改正の主旨には大学紛争による学部の反省も含まれている。すなわち学部の要望する理想に反して、学習する学生には消化不良を生じている者も少くないと考えられる傾向を学部は察知したためである。そこで学部としては、卒業に必要な単位数は下げて、能力ある学生には、その能力に応じて履修できるよう学科目を整理した。

 更に今一つの改革は一般教育科目に綜合科目を設置したことである。理工学部の学生にとって、新制大学として設置が義務づけられている一般教育科目中の人文・社会科学系の個々の講義科目は必ずしもなじみ深い科目ではなかた。この実情に対応するため、人文科学および社会科学にわたる現実の問題を捉えて、これを複数の教員が分担して色々の方向から分析し解説することによって、学生にその問題の理解を深めさせる目的で設置したものである。学生は更にその問題点の中の一つの方向を選択して深く学習する「特論」を併せ受講するよう義務づけられた。

 理工学部で始めたこの綜合科目は、その後他学部や他大学においても大きく開花して今日に至っている。

8 入学定員の削減と化学系新棟の建設

 理工学部が本部キャンパスから現在の大久保キャンパスに移転するとき、学部入学定員は大幅に増員され、昭和四十八年化学科が開設された時点では千七百四十名となった。ところが専任教員数は大学財政のため、さほど増員されなかった。大久保キャンパスに移転が決定した昭和三十五年の四月一日現在百九十五名であった専任教員は、移転が完了した昭和四十三年四月二百十九名に増員されたに過ぎない。その後大学紛争を経て理工学部の教員数は現状を上限とするということで二百二十名が一応の定員と定められるようになって現在に至っている。一方大久保キャンパス計画当時からみると、社会的要請もあって大学院進学者数が飛躍的に増加してきた。次表はその変遷の一部である。

 このことによって学部入学定員の特に多い機械工学科と電気工学科における教員の負担増は過大となってきたとの声が高くなってきていた。

 昭和五十三年度よりの学費改定に当り、理事会は、学生の量的拡大の時期はもう終った、今後は教育の質的向上を図らなければならない、との考え方から、政・法・商・理の四学部の入学定員を二年に亘って五十名づつ削減することを決定した。

第四表 大学院進学者数

 理工学部においてはこの削減を前述の理由から機械工学科と電気工学科に適用して、機械工学科については四百四十名を四百名、更に三百六十名へ、電気工学科については二百四十名を二百三十名、二百二十名へとその入学定員を二年に分けて削減することとした。僅かな削減であっても、これにより八十周年記念事業以後にできた「ひずみ」の是正に役立った。そして昭和五十四年から現在の千六百四十名が入学定員となっている。

 理工学部が大久保キャンパスに全面移転してこの十年余の間にできた今一つの「ひずみ」と考えられるものは、中高層な建物である五一号館の中階に化学薬品を多く使用している、応用化学科・化学科などの研究室や実験室が配置されていたことである。消防法の改正により、このような危険物取扱所の法規正が厳しくなってきたし、一方地震発生時の出火の可能性やそれに伴う二次災害の危険性を考える時、この危険物を取扱う諸施設を低層の建物にまとめることが緊急な課題となった。理事会は本部キャンパスに残っていた小倉記念館を収容することも含めてこの計画を実施することとした。

 建設場所はキャンパス全体の諸施設の綜合的配置計画や安全性の立場から種々論議の結果、建築基準法による日影規制などを踏まえて、五六号館東側、明治通り寄りに六五号館として建設されることとなった。工事は昭和五十三年四月に着工し約一ヶ年で完成した。この建物の大部分の研究室および実験室が小量危険物取扱所の規制にかなったものとされたことは論をまたない。

 この化学系新棟の建設に伴う跡地は、大久保キャンパス移転後に開設された学科の研究実験室や教員数、学部学生数および大学院学生数の変動に伴う各学科の専用面積の不均衡是正やゼミ室の増加に充当された。このことも理工学部内のこの十数年間の「ひずみ」是正に大いに役立った。

 更にこの化学系新棟の計画が進行中に下水道法が改正され、大学は実験および研究に伴って出る廃液を安全に処理してでなければ公共下水道へ放流することは不可能となってきた。そこで大学は環境保全センターを設け、その設置場所を最も多くの廃液を出す、理工学部構内に求めることを考えた。そしてその場所として、新棟に移転した化学工学実験室跡地、六〇号館一階の一部を充当することとし、学部、研究所および学院などから出る大学のすべての実験廃液を一括処理するセンターとして、昭和五十四年十二月一日発足した。

三 機械工学科

ページ画像

 明治四十年十月二十日の早稲田大学創立二十五周年式典において、大隈総長より理工科開設の構想が発表され、四十一年三月には理工科予科の学生が募集され、同年五月六日から予科の授業が開始された。この時開講されたのは機械科と電気科の二科で、入学生は両科を合せて約百名であった。

 そして明治四十二年九月十三日に理工科の始業式が挙行された。この時の理工科長は東京高等工業学校の現職教授であった阪田貞一、教務主任はやはり同校出身の牧野啓吾で、大部分講義は機械科と電気科と合同で行われた。機械科にはやはり東京高工出身でボストンで学んだ遠藤政直がいて応用力学、機械設計などを担当した。翌明治四十三年には東京高工を卒業後コーネル大学で学んだ中川常蔵が機械科の主任教授に就任し、他に西岡達郎、本橋弥八、田治多蔵が次々に就任したが、遠藤は間もなく辞任して九大へいった。

 なお、現在の商学部校舎の裏の方には、煉瓦造りの実験室もでき、今も残るバブコックボイラやコンパウンドエンジンが設置されて実験も開始された。

 明治四十五年二月に理工科に顧問制度ができて、阪田貞一は機械科の顧問に就任した。また同年五月には明治天皇の御下賜金による恩賜記念館が竣工し、ここに理工科の物理実験室、階段教室、研究室などが置かれた。恩賜記念館は後に左翼の増築工事が行われて、大正四年に完成した。

 明治四十五年七月に第一回の卒業式が行われた。機械科の卒業生の中には阪田貞一理工科長子息の阪田貞治、後に機械科の助教授となった金子従次、機械工学科後援会を作った桑田福太郎などもいたが、首席として答辞を読んだのは中国からの留学生の陳有豊であった。陳は帰国後は専門学校長、専門学務局長などの要職に就いたという。

 大正二年十月十七日早稲田大学創立三十周年記念式典が挙行され、これを機会に西岡達郎が創立委員となって、機械工学科の教職員、卒業生、在学生の親睦向上を目的とした「早稲田機友会」が作られ、機友会誌が発行されることになった。

 大正五年九月には阪田は辞任し、代って浅野応輔が理工科長に就任した。

 この頃の機械科には教授として中川常蔵、西岡達郎、竹中二郎、助教授として田治多蔵、金子従次(機械科一回)、土居寛通(三回)らがいたが、中川は大正六年三月に辞任し、代って福原俊丸が機械科主任に就任したが、福原は貴族院議員として政治的方面でも多忙であったため半年ほどで辞任し、松本容吉が機械科主任に就任した。

 そして、大正六年九月には師岡秀麿(六回)が助教授に、また大正七年十二月には渡部寅次郎が教授に就任した。

 大正九年二月六日に早稲田大学は新大学令による大学として認可されたので、大正九年四月一日より新大学令による大学として発足し、これに伴って従来の理工科を理工学部と改称することになった。理工学部長には浅野応輔が引続いて就任した。

 大正九年には伊原貞敏(八回)が助教授に就任し、また同年十一月には九州の明治専門学校の教授であった沖巌が機械工学科の主任教授として就任した。

 この頃になると理工学部の中に早大出身の教員の数も次第に増えてきたが、官立出身の教員との間に待遇上の差があるということが問題となり、その格差是正の運動などが行われたようである。

 大正十三年四月一日には白川稔(十三回)が教務補助に就任した。

 機械工学科には材料試験や熱機関の実験室および実習工場は創立当初より設けられていたが、水力に関する実験室はなかったので、大正の初期に御大典記念事業の一つとして水力実験室の建設が計画されたのであるが、関東大震災その他の事情で実現しなかった。しかし電力が次第に水力発電に移行する気運にあったことや、松本、伊原、沖など水力関係の教授を迎えたことなどから、水力実験室設置の希望が大きくなり、大正九年に桑田福太郎(一回)、石井定(五回)、篠原喬亮(八回)などによって創立された機械工学科後援会がこのことを憂慮して会員より資金を集め、また大学当局とも折衝し、大正十四年一月には大学からも必要な経費を支出することに決ったので、計画の実現に踏み出すこととなった。なおこのとき、電気・建築の両科にも研究室の増築の希望があったので、機械工学科の水力実験室の計画と合せて三階建とすることになり、大正十五年十月に第一期工事が完了した。そして、その後の第二期、第三期の工事を経て次第にその内容が充実されていったのである。この水力実験室の二階には機械工学科の教員研究室もでき上がり(後の一〇号館、現一三号館)、それまで各所に分散していた教員が一ヵ所に集まることができた。

 その当時の専任教員には沖巌、渡部寅次郎、松本容吉、民野雄平、山内弘(三回)、新井忠吉(三回)、師岡秀麿(六回)、鈴木徳蔵(六回)、村田栄太郎(七回)、伊原貞敏(八回)、白川稔(十三回)がいた。なお、昭和二年四月には新しく卒業した中野稔(十六回)が機械工学科の実験補助として、また中条徳三郎が基礎工学実験室に勤務することになった。

 昭和三年七月には早稲田機友会から従来刊行していた機友会誌に載せていた雑報欄を独立させて、WME誌が創刊されることになった。

 昭和四年になって中野稔は内務省土木試験所へ、中条徳三郎は荏原製作所へ、また昭和五年には松本容吉は東京工業大学へ移ったが、代って昭和四年四月には柴山信三(十八回)が教務補助に、また昭和五年四月には横田清義(十三回)が専任講師に就任した。

 昭和七年七月九日に学生による満洲親善飛行が立川飛行場を出発したが、操縦したのは往路は機械工学科三年の川上新太(後理工学部教授)、復路は同じく機械工学科二年の三好研吉(後理工学部講師)であった。使用機はFIAT ASI形八五馬力で、旦代一等飛行士が同乗指導し、日満親善に多大の貢献をすることができた。

 昭和七年十月十八日には早稲田大学創立五十周年記念式典が挙行され、この時の記念事業の一環として理工学部の中央研究所が計画されたが、これはすぐには実現することができなかった。

 昭和十年四月一日から理工学部各科に工業経営分科が置かれることになり、機械工学科の分科にも十一名の入学者があり、師岡がその世話係を務めた。

 なお、昭和十年六月以来病気療養に努めていた村田栄太郎が遂に九月に辞任したことは残念なことであった。昭和十年十一月には中野稔(十六回)が基礎工学実験室に助教授として帰任した。

 昭和十一年の春には機械・建築合同の溶接研究・実験室が完成した。これは内藤多仲の設計による全溶接鉄骨構造の建物で、溶接構造物の許されていない東京ではめずらしい試みであった。

 昭和十一年十二月八日には当時いずれも機械工学科の二年であった岡本昌一が作詞し、村田滋、土并守人、呉益太郎が作曲したWMEマーチで機械科音頭が完成披露された。これは現在でも毎年行われている鞴祭の時などにうたわれているものである。

 更に昭和十二年四月には柴山の尽力によって機械工学科のバッジが制定された。これは前記の呉益太郎の応募図案を基にして、衝撃試験片を図案化してこれにドイツ風のWMEの文字を配したもので、これもその後長い間機械工学科の学生服の襟を飾ったものであったが、最近は服装の変化とともに見られなくなったのは残念である。

 なお、この昭和十二年四月の機械工学科の入学者数は工業経営分科と合せて百二名に達したが、幸い機械工学科の新しい専用教室と演習室が武道館下に完成し(後の二二号館で、現在はない)、講義がやり易くなり、その上難波正人(二十六回)、村上正海(二十六回)の両名が四月から教務補助に就任し、陣容を整えることができた。

 ところが昭和十二年七月七日の蘆溝橋事件を契機として日本は重大時局に突入し、学苑もその渦中にもまれることとなり、同年八月二十六日には助教授柴山信三が工兵少尉として応召、北支、中支方面に出征した。そして昭和十五年には召集解除で一旦帰国したが、昭和十六年九月に再度応召、この時は南方戦線に行って大変苦労をした。そして昭和十八年五月二十一日やっと帰ることができた。また、助教授村上正海は昭和十七年八月に応召し、昭和十八年五月二十五日に日本を出発してタイ、仏印、ビルマ方面を転戦したが、惜しくも昭和十九年七月二十九日にビルマにおいて名誉の戦死をしたことは痛恨極まりないことであった。

 昭和十三年四月一日には理工学部に機械工学科に縁の深い応用金属科が新設され、また同年十月二十一日には鋳物研究所の開所式が挙行された。

 ところで、日支事変はますます拡大し長期化してきたため、生産増強が強く要望され、技術者の養成が急務となってきたので、早稲田大学もその施設を活用して工業立国に寄与するために、昭和十四年一月十四日の維持員会で専門部に工科を増設することを決定し、直ちに文部省に申請したところ、僅か十日後の一月二十四日には認可となったので、昭和十四年四月一日から専門部工科が機械、電気、建築、土木の四科で発足をした。工科長には内藤多仲、機械工学科主任には山内弘が就任し、また稲田重男(二十三回)が専任講師に就任した。なお専門部工科の新校舎は昭和十六年四月にグランド坂沿いのテニスコートのあったところに新築されたが、昭和二十年五月の空襲によって焼失し、その跡には後で理工学部の新校舎(後の一五号館)が建てられた。

 昭和十六年四月一日には森田鈞(三十回)が教務補助に就任した。

 昭和十六年十二月八日に日本は米英に対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入することになった。そして、各学部、専門部の卒業式は三ヵ月繰り上げられて十二月二十五日に挙行され、更に翌年からは半年繰り上げられて卒業式は九月に行われることとなり、昭和二十三年からやっと三月卒業に戻ることができた。昭和十六年十二月の卒業式は専門部工科としては第一回の卒業式であったが、この第一回生の中には和田稲苗(後機械工学科教授)、樋口健治(東京農工大教授)、松坂進(箱根松坂屋主人)などの多くの俊才がいたが、後に韓国の原子力研究所長、科学技術庁長官その他の要職に就いた崔亭燮や、台北市長、中華民国交通大臣などを歴任した高玉樹(病気のため一年遅れて卒業)なども異色の存在であった。

 昭和十八年八月一日には関敏郎(二十二回)が助教授に就任した。

 昭和十九年四月には沖巌が理工学部の機械工学科主任を退任したので、代って山内弘が主任に就任し、専門部工科の機械工学科主任には渡部寅次郎が就任した。

 この頃時局はますます重大化し、各種の物資の不足に伴い出版事情も悪化したため、早稲田機友会誌も発行困難となり、遂に昭和十九年三月に第三五号をもって廃刊としたが、一九年四月八日付で日本機械学会と覚書を交換し、日本機械学会誌に編数を限って早稲田機友会提出論文を日本機械学会論文と同一の取扱いで掲載できることにした。

 一方学生も戦時下に勉学にいそしむことができなくなってきた。昭和十八年十月二日の勅令で在学生の徴集延期制度が撤廃され、十月十五日には戸塚グランドにおいて学苑の学徒出陣壮行会が行われ、時の田中穂積総長は病をおして壇上に上がり激励の言葉を述べた。なお翌十月十六日には最後の早慶戦として学徒出陣壮行野球戦が同じ戸塚グラウンドで行われ、一〇―一で早大が勝つことができた。更に十月二十一日には秋雨に煙る明治神宮外苑において、全都大学合同学徒出陣壮行式が挙行された。しかし、理工系の学生は技術者確保の立場から徴兵猶予の措置が採られていたので、戦場に赴くことはなかったが、各所の軍需工場へ勤労動員として出動し、また家屋疎開の破壊作業、稲刈り作業などの勤労奉仕などにかり出され、更に学苑の校舎の一部も陸海軍に徴用され、また実習工場の工作機械類は宮城県多賀城の海軍工廠に供出するなどで、学業に専念できるような状態ではなくなってきていた。学部および専門部の機械工学科の学生が勤労動員として出動したのは日立製作所清水工場、名古屋の愛知航空機、群馬県の中島飛行機、取手の東晃精機、竜ケ崎の羽田精機などが主なところで、この勤労動員は終戦の時まで続けられた。

 また昭和十九年頃より敵機の帝都空襲も始まり、昭和二十年二月には学徒消防隊が結成されて帝都防衛にも当ることになったが、昭和二十年三月十日の帝都大空襲の折には、当時機械工学科の一年に在学していた并口信洋(後本学教授)、小泉睦男は新橋方面に出動して防火に活躍したのであるが、同時に深川方面に出動した青山三郎、朝熊英彦の両君が猛火の中に殉職したのは痛ましい限りであった。更に昭和二十年五月二十五日の山の手地区の空襲の時には学苑の三分の一が焼失し、この際には当時理工学研究所にいた大学院学生助川元治(三十五回)が大切な研究資料を身をもって守って殉職したことも痛ましいことであった。なお、この当時喜久井町に住んでいた溝口宗彦(二十一回、陸軍航空技研勤務)も理工学研究所構内において猛火の犠牲となったのである。

 この頃は教職員も昭和十九年八月十九日に教職員在郷軍人会が結成されるし、学生の勤労動員や勤労奉仕にも付いて行かねばならず、また陸海軍の委託研究以外の不急の研究は中止させられるし、それでなくても研究設備や資材は不自由で、研究に専念できる状態ではなかったが、それでも大学における研究者の温存のためには文部省では特別研究生制度を設け、この特研生には徴兵や動員を免除したので、少数の優秀な学生は辛うじて研究を続けることができた。現在の松浦佑次、斎藤孟、井口信洋、林郁彦らの教授はこの特研生となった人々である。

 昭和十九年四月一日には専門部工科に航空工学科(後の運輸機械科)が増設され、伊原貞敏が主任に就任した。

 昭和二十年六月二十七日に機械工学科の出身者にとって大変親しみ深い存在であった民野雄平が病気のため逝去した。

 かくして昭和二十年八月十五日の終戦を迎えることになった。そして昭和二十年九月八日から授業が再開され、この日中野登美雄総長より新時局に鑑みての訓示があり、やっとのことで荒廃した学苑に再び学問の灯がともされることになった。そして学生は喜びに胸をはずませて登校してきたが、専門部工科は教授陣があまりにも手薄であったので、昭和二十年十一月に機械工学科には川喜田隆(二十三回)、民野好一(三十一回)、上村外茂男(三十四回)、また航空工学科には奥村敦史(三十一回)、和田稲苗(専工一回)を迎えることになった。

 そして昭和二十一年二月十二日には校規改正案起草委員会が組織され、同年五月十五日より昭和四年以来の校規に代って民主主義に立脚した新校規が実施され、総長、学部長、付属機関長はすべて公選されることになった。

 それで、早速六月十日に総長選挙が行われ、津田左右吉元教授が当選したが固辞したため、六月二十九日に再選挙が行われて島田孝一が第五代総長に選任された。また同年九月には山本研一が理工学部長に、師岡秀麿が機械工学科主任に選任され、専門部工科では稲田重男が機械工学科主任に就任した。なお伊原貞敏が島田総長のもとで常務理事の要職につき、荒れ果てた学苑の再建に尽力し、今日の早稲田大学の礎を確立したことは忘れられないことである。

 そして、昭和二十一年十二月七日に教育制度研究委員会が設けられ、学制改革に関する具体的方策について討議研究が開始され、また翌二十二年七月には早稲田大学復興会が結成されて、復興費一億円の寄附募集運動を展開することになった。

 機械工学科では昭和二十二年十月一日に高橋利衛(二十九回)が助教授に就任した。

 昭和二十二年十月十日には教育制度改革委員会が設置され、また昭和二十三年一月十六日には移行研究委員会も組織されて、二十三年二月五日に学制改革要綱案が提出された。そしてこれに基づいて各学部その他で更に熱心な熟議が行われた結果、ここに早稲田大学設置要項が完成し、七月三十日に文部省に対して新制早稲田大学設置の認可申請書を提出したところ、翌昭和二十四年二月二十一日付をもって認可となり、昭和二十四年四月一日から新制早稲田大学が発足することになった。そして四月二十四日には戸塚グラウンドにおいて新制早稲田大学開設記念式典が挙行された。なお、これより先に大学教旨改訂委員会において慎重に審議を重ねて得た決議に従って、従来の教旨の中の「立憲帝国の忠良なる臣民として」の十四字を削除した新教旨が公表された。

 新制早稲田大学は昼間の六学部(第一学部)と夜間の五学部(第二学部)よりなり、旧制高等学院の学生は全員、専門部、高等師範部、専門学校で一年終了者は全員、二年以上は希望者のみ新制学部に移行し、希望しない者は旧制のまま卒業させることになった。

 第一理工学部の機械工学科主任には、旧制時の師岡秀麿が引続いて就任したが、第二理工学部の機械工学科主任には沖巌が就任した。そして当時専門部工科にいた稲田重男、奥村敦史、和田稲苗の三人は新制理工学部の機械工学科に、上村外茂男は一般教育の数学担当に、川喜田隆は工業高等学校に配属変更となり、民野好一は退職した。

 昭和二十四年六月二十八日に第二回目の総長公選が行われ、島田孝一総長が再選された。ついで、同年九月各学部長、機関長などの改選が行われ、第一理工学部では学部長には堤秀夫、機械工学科主任には伊原貞敏、第二理工学部では学部長に帆足竹治、機械工学科主任には沖巌が選任された。なお師岡秀麿は体育部長(現体育局長)に就任した。

 昭和二十六年三月一日には昭和二十五年三月十五日から実施された私立学校法による学校法人早稲田大学が発足し、改正校規および同付属規則が施行されることになった。そして、これに伴って同年九月に役員、各学部長、各機関長などの改選が行われ、第一理工学部では学部長に伊原貞敏、教務副主任に難波正人、機械工学科主任に渡部寅次郎、第二理工学部では学部長に帆足竹治(再任)、機械工学科主任に沖巌(再任)、体育部長に師岡秀麿(再任)が就任した。また九月二十二日には新校規によって理事長を兼ねる総長選挙が行われて島田孝一が三選され、伊原貞敏が再度理事に就任した。

 新制大学は昭和二十四年四月一日に発足してから、学生の移行も順調に行われ軌道に乗ったので、昭和二十四年十月八日には大学院制度研究委員会が、二十五年六月十日には大学院設置委員会が組織されて、新制大学院を開設するための諸準備を着々ととのえ、昭和二十六年四月一日にいよいよ新制の大学院修士課程が発足した。この時の工学研究科委員長には堤秀夫が就任し、機械工学専攻には流体機械(沖)、流体力学(伊原)、材料力学(山内)、内燃機関(渡部)、溶接学(横田)の五専修が置かれた。また昭和二十六年十月二十一日には近代様式の工科系大学院校舎(後の二〇号館、現一二号館)も完成された。そして昭和二十八年四月一日には新制大学院博士課程も発足して、ここに新制度の学部、大学院の一応の完成を見たのである。

 機械工学科の実験室としては水力実験室は幸い戦災を免れたが、材料実験室は焼失してしまったので、戦後は恩賜館跡のバラックや商学部校舎の地下室で残った機械を使用してどうにか実験を続けていたのであるが、工科系大学院校舎の一階に機械・建築の材料実験室が再建されて、学生実験や卒論研究に使用されることになったのはたいへん有難かった。しかし、熱実験室は依然として戦後のバラック建てのままで、西大久保校舎に移転するまで不自由をしのばねばならなかった。また実習工場も戦災のため建物は焼失したが、学生ホールに疎開してあったため焼失を免れた機械や、海軍工廠より返還された機械(創立以来のシンシナチ一番半フライス盤一台のみ)などをもって、戦後の一時期は当時の二号館(現一号館)の地下室で細々と実習を行っていたが、白川稔が金井健一とともに東奔西走非常な努力をして国有財産の貸与や払下げを受け、また多くの校友の援助によって次第に機械も整備され、昭和二十四年三月には焼残っていた当時の一三号館(現存せず)に手を加えてここに移転してどうやら形を整えることができた。

 昭和二十六年六月二十九日には昭和二十年五月二十五日の空襲において烏有に帰した由緒ある大隈会館が、機械工学科出身の前川喜作(九回、前川製作所社長、早大評議員)の再建費寄附によって復活することができたのは、学苑関係者の大きな喜びであった。

 このような学苑の復興、発展と併行して占領軍大学教育顧問W・C・イールズの声明に端を発して起った昭和二十五年九月二十八日のレッドパージ事件、皇居前広場のメーデー事件の容疑者捜査のために学苑内に私服警官が入ったことから警官隊と学生との間の乱闘となった昭和二十七年五月八日の早大五・八事件などもあったが、昭和二十七年十月二十一日には早稲田大学創立七十周年記念式典が挙行された。

 また、昭和二十七年十月には昭和十九年三月以来休刊となっていた早稲田機友会誌が八年ぶりに復活し、第三六号を発行することができた。なお、昭和二十八年四月より早稲田機友会の会則が変更されて、会員に第一、第二理工学部、大学院工学研究科機械工学専攻、専門部工科機械工学科、航空工学科、運輸機械科の在学生、卒業生を加えることになった。

 昭和二十八年三月三十一日には就任以来三十二年の長きに渡って機械工学科の教授を務めた沖巌が定年退職をした。そのため二理の機械工学科主任には山内弘が就任した。なお沖は同年五月に名誉教授に推挙された。

 昭和二十九年九月一日に早稲田大学校規の四回目の改正が行われ、総長、理事の任期は従来の三年から四年となり、また理事は二人増加して九人となった。そして、これに基づいて学部長その他の改選が行われ、学部長には一理では青木楠男、二理では木村幸一郎、工学研究科委員長には伊原貞敏が選任された。また機械工学科主任には一理では鈴木徳蔵、二理では師岡秀麿が選任された。次いで総長公選が行われ、大浜信泉が第六代総長に当選した。

 昭和三十一年二月一日には生産研究所が設立され、その研究目的達成の一助として、ミシガン大学と交流を行うことになり、同年四月五日に協定の調印がなされた。そして、その協定実施のための打合せならびに研究視察のために伊原貞敏が四月二十七日から十月二十三日までアメリカに出張をした。また、この協定に基づく派遣研究員として、昭和三十二年九月六日に田島清瀬が、昭和三十三年一月二十三日に和田稲苗が約一年の予定でミシガン大学へ出発した。

 昭和三十一年九月には理工学部長に一理では高木純一、二理では広田友義、機械工学科主任には一理では白川稔、二理では師岡秀麿(再選)が選任され、二理の教務主任に関敏郎が就任した。

 昭和三十二年十月二十一日には早稲田大学創立七十五周年記念式典が挙行され、越えて三十三年九月には理工学部の創立五十周年を迎えたが、特別の記念行事は行われなかった。

 昭和三十三年七月二十二日には沖巌と並んで機械工学科の長老教授として尊敬されていた渡部寅次郎が、定年を待たずに逝去したことは誠に残念なことであった。なお、機械工学科の学生の実験、実習の成田順蔵技師が昭和三十二年一月十四日に、金井四郎技師が昭和三十三年七月十一日に相次いで定年退職したことも淋しいことであった。

 昭和三十三年九月には大浜信泉総長が再選され、一・二理の学部長にも高木純一、広田友義が再選されたが、機械工学科主任には一理では難波正人、二理では稲田重男が選任された。

 ところで新制大学発足以来十年近い歳月を経過し、第一理工学部と第二理工学部とは同等であるという建前から、第二理工学部のある科の先生方は授業に、実験実習に、また卒業論文に昼夜二重の負担を強いられ、最初の間は奉仕的気持もあって熱心に勤めたが、次第にその負担が過重と感じられるようになってきた。また二理は勤労学徒の勉学の場として出発したのであるが、次第に勤労学生は減少し、一理の入学試験に不運にも失敗したものが滑り止めとして入学する傾向が増加し、一理に転部の機会を求める学生が多く、その上二理の卒業生は就職に当っても会社側からあまり歓迎されないなどのこともあって、二理廃止を求める声が次第に大きくなってきた。そこで機械工学科では一・二理の入学者の合計の百八十人程度を一理に収容して二理を廃止するという方針を固め、他の科にもこれに同調する者が多くなり、遂に昭和三十五年四月から第二理工学部は学生の募集を停止することになった。

 昭和三十四年三月三十一日には山内弘が定年退職したが、惜しくも翌三十五年一月二日に逝去した。また同年六月二十七日には新并忠吉が定年を間近にして逝去したのも惜しいことであった。

 昭和三十四年十一月二十日に早稲田大学創立八十周年記念事業委員会が開催され、記念事業の一つとして学部の新設が企画されていることが報告された。そして昭和三十五年三月二十一日には理工学部内に八十周年記念事業委員会が設立され、機械工学科からは難波、高橋が委員として出席した。なお大学本部においても記念事業計画が進行し、昭和三十五年五月十六日の評議員会で承認を受けて募金が開始された(募金額二十億円、自己資金十億円、合計三十億円で記念事業を行うことを目標とした)。

 昭和三十五年九月には理工学部長に一理では難波正人、二理では鶴田明が、工学研究科委員長に宮部宏が、また機械工学科主任に一理では稲田重男、二理では柴山信三が選任された。

 そして、昭和三十五年九月三十日の理工学部の主任会議において、八十周年記念事業として経営工学部、基礎工学部などのような理工学部に類似する新学部を創設することはやめ、現在の理工学部の組織、機構の改革を行い、また文部省の理工科学生増員計画も考慮して、理工学部の入学定員を大幅に増員して千七百名にすることとし、各科の意見を求めた。

 そこで機械工学科においても数回の臨時教室会議を開催して慎重に審議を重ねた結果、機械工学科に産業数学、機械設計、流体工学、熱工学、材料加工、機械工作、溶接工学、制御工学の八コースを設け、産業数学コースは三十名、その他の七コースは各六十名の合計四百五十名を入学定員とする案を立てて理工学部に答申をした。

 そして昭和三十五年十一月十九日の教授会において、機械工学科の案を含めて理工学部としての入学定員を千七百名とすることが承認され、理工学部の拡充計画を進めることになった。更に昭和三十五年十二月二十一日の教授会には大浜総長も出席して八十周年記念事業計画についての説明があり、全理工学部が戸山ヶ原地区に移転をして計画を実現することが承認された。

 昭和三十六年九月一日に山内弘先生記念事業会から、故山内弘の遺志に基づく山内奨学金が設定され、後進者の育成に寄与することになったことが発表された。

 昭和三十六年十二月には八十周年記念事業における機械工学科の構想を機械工学科白書の形として、理工学部の全教員に配布して参考に供すると同時に協力を依頼した。また、多数同時教育の実現についての資料を得るために、高橋利衛が中心となって、大隈講堂において各種の教育機材の利用、アサインメント方式の導入、ティーチングアシスタントによる指導などの実験教育を実施し、教育設備を整え、教育方法を工夫し、TAを活用するならば、いわゆるマスプロ教育に起りがちのレベルの低下を生じないで多数教育が可能であることの成算を得ることができた。しかし、入学から卒業まで四百五十人の集団のままでは十分な教育効果、特に教員と学生との間の人間的接触による教育に欠ける恐れがあるので、高学年においては前述のような八コースに分けて、ゼミナール、卒業論文などを通じて、大教室における講義では得られない教育効果と人間的感化を与えるように計画し、これを推進して行くことになった。

 昭和三十七年九月には大浜信泉総長が三選され、一理の難波正人学部長、二理の鶴田明学部長、一理の稲田重男機械工学科主任、二理の柴山信三機械工学科主任がいずれも再選となった。ただ理工学研究科委員長は難波正人一理学部長が兼任した。

 昭和三十七年十月二十一日早稲田大学創立八十周年記念式典が記念会堂において挙行された。また翌二十二日には同じく記念会堂において学生中心の記念式典が行われた。

 理工学部の教員数はそれまで約二百名であったが、難波学部長の努力によって一〇パーセント増の二百二十名とすることが認められていたので、昭和三十八年一月三十日の主任会議ではこれに基づいて理工学部各科の教員数が検討され、機械工学科の教員数もその時点での教員数十九名を二十六名とすることが承認された(理工学部の学生数はそれまでの入学定員千二百五名を千六百八十名および外国学生二十名で合計千七百名とすることになっていた)。

 そこで機械工学科ではこの教員数を達成するために昭和三十八年四月一日には中根金作、加藤一郎(早大電気昭二十五)、土屋喜一(新制二回)、池田貞雄を教室に迎えることになった。

 昭和三十八年六月二十日に早稲田機友会のWME誌が二十年ぶりに復刊された。なお、この年の九月十一日に沖巌名誉教授が逝去した。

 八十周年記念事業も着々と進行し、昭和三十八年十月には西大久保の旧戸山ヶ原に理工学部新校舎第一期工事の五二、五三、五四、五六、五七号館が完成し、一般教育関係の授業がここで行われることになった。

 また第二理工学部は昭和三十五年四月に募集を停止したので、大部分の学生は既に卒業し、残る学生も少なくなったので、鶴田明第二理工学部長、柴山信三二理機械工学科主任などは昭和三十九年三月三十一日をもって退任し、後は一理の学部長、各科主任が兼任することになった。

 昭和三十九年九月十五日難波正人は第一理工学部長に三選、また理工学研究科委員長にも再選された。そして機械工学科主任には松浦佑次が選任された。

 昭和四十年四月には西大久保校舎第二期工事の五八、五九、六〇、六一号館が落成し、機械工学科教室、研究室、実験室の移転を完了することができたが、同時に三月三十一日をもって師岡秀麿が定年退職したことは残念であった。代って中条徳三郎(十六回)が四月一日から客員教授に就任した。

 沖巌は昭和三十八年九月十一日に他界したのであるが、その一周忌に当り関係深かった校友有志多数が参集し、沖の業績をたたえ感謝の意を表すため、沖先生記念事業会を設けて、記念事業として沖記念奨学金を設定し、後進の援助育成を計ることに決まったが、昭和四十年十一月に募金目標が達成できたので、沖記念奨学金が発足することになった。

 学部長難波は理工学部の西大久保移転を機会に、それまで各科の所属であった実験室の中で共通的色彩の濃いものを理工学部の共通実験室とし、それ以外のものを特殊実験室とすることになった。従って従来機械工学科に所属していた材料、流体、熱関係の実験室と実習工場もそれぞれ共通実験室とし、五八号館の一階東側に流体共通実験室(千六十五平方メートル)、西側に一部制御工学実験室(特殊実験室)を含んで熱共通実験室(千六十五平方メートル)、五九号館東側一、二階に材料共通実験室、西側一・二階に試作工場を兼ねた工作共通実験室(いずれも一階千六十五平方メートル、二階九百平方メートル)が設けられた。勿論この改革は機械工学科だけではない。例えば電気の関係の学科においても電気及び電子実験室は第一および第二共通実験室として中央管理の形で運用されることとなった。難波は更に人員配置の合理化をも意図し、従来の各学科所属の事務室を廃して僅かに連絡員一名のみを残置し、新たに理工学事務所を拡充してこれらをすべて吸収する中央管理方式に改める等各科のセクショナリズム解消を唱え、教育と事務の大改革を計って今日に及んでいる。

 なお各共通実験室の建設並びに設備には校友その他の並並ならぬ支援があったが、特に流体共通実験室については荏原製作所の多大の援助があった。

 機械工学科の各教員の個室(九・六平方メートル)とそれを含んだ研究実験室(五十平方メートル)はすべてこの共通実験室の上の階に配置されたので、学生の実験、実習、卒論などの指導や学生との交流にたいへん具合のよいものとなったのは有難いことであった。

 ところが、大学の経済的事情から翌昭和四十一年四月の入学生の授業料を値上げせざるを得ないこととなったところ、学生の間に授業料値上げ反対の運動が激しくなり、これに第二学生会館管理運営の問題も加わって全学部のストライキにまで発展し、従来この種の紛争にあまり関係しなかった理工学部もバリストを行う騒ぎとなった。そのため遂に昭和四十一年三月の全学合同の卒業式は行うことができず、各学科で卒業証書を渡すだけという状態であった。

 そして、遂に昭和四十一年五月十日に大浜信泉総長は辞任し、阿部賢一が総長代行に就任し、やっとのことで学内も平静に向うことができた。

 昭和四十一年九月十五日難波正人は第一理工学部長に四選、岩片秀雄が理工学研究科委員長に選任、松浦佑次が機械工学科主任に再選され、昭和四十一年九月二十二日阿部賢一が第七代総長に選任された。

 昭和四十二年三月四日数学科に所属していた上村外茂男(三十四回)が逝去した。

 そして昭和四十二年三月三十一日には理事、学部長その他の要職を歴任し、早稲田大学の復興、理工学部の発展に多大の貢献をした伊原貞敏も遂に定年退職した。なお伊原は同年五月十五日に名誉教授に推薦された。

 また昭和四十二年三月三十一日には産業技術専修学校長の木村幸一郎も定年退職したので、四月一日よりは稲田重男が産専校長に就任した。

 機械工学科では昭和四十二年四月一日にそれまで非常勤として来ていた井口信洋(三十七回)および山根雅巳(新制三回)が助教授に、川瀬武彦(新制十二回)が専任講師に就任した。

 かねて西大久保に建設中であった理工学部校舎第三期工事としての十八階建の五一号館もこの年の三月に完成し、理工学部全部の移転が完了した。そして第四期工事に予定されていた五五号館だけが残ったが、これはいつ着工できるか未定の状態である。

 さて伊原貞敏は昭和四十二年三月を以て定年退職をしたが、伊原先生退職記念事業会において、伊原が機械工学科において青年学徒の育英に半生を捧げた意志を末長く何らかの形で保存したいと考えて、伊原奨学金の設定を計画したところ、多くの人々の賛同を得て基金を集めることができたので、昭和四十二年七月八日に伊原奨学金設定のことを発表して発足することとなった。

 昭和四十二年八月三十一日には四十年九月一日より休職中であった助教授池田貞雄が退職した。

 またこの年の四月半ば頃より病気のため静養中であった難波正人は十月十五日を以て第一理工学部長の職を退き、村井資長が第一理工学部長に選任された。

 なお昭和四十三年四月一日には第二理工学部は廃止となり、第一理工学部は理工学部と名称変更がなされた。

 機械工学科では昭和四十三年四月一日より広瀬正吉および大田英輔(新制十三回)を教室員に迎えることができた。

 昭和四十三年四月十五日の評議員会において阿部賢一総長は学苑も一応平常の姿を取り戻したことであるし、自分も老齢なので新進有為の新総長に後事を託したいとして辞意を表明し、評議員会もこれを了承した。その結果昭和四十三年六月二十日に総長選挙が行われ、時子山常三郎が第八代総長に選任された。

 昭和四十三年九月十六日に各学部長、機関長などの選挙の結果、村并資長理工学部長は再選、理工学研究科委員長には葉山房夫(二十九回、現金属工学科)が選任された。また松浦佑次は機械工学科主任に三選された。

 昭和四十三年十二月七日の機友会鞴祭において池田伸正(新制一回)作詞の新WMEマーチが発表された。

 昭和四十四年三月三十一日には横田清義が定年退職したが、同年五月十五日に名誉教授に推挙された。なお昭和四十四年四月一日には河合素直(新制十四回)が専任講師に就任した。

 ところが、昭和四十三年秋から始まった第二次早稲田紛争は、大学管理法反対、七十年安全保障条約反対などの目標をもって行われたのであるが、理工学部においては更に軍事研究問題および産学協同問題が大きく取り上げられ、村井学部長や葉山研究科委員長に対してしばしばいわゆる団体交渉が行われ、遂に五一号館二階の学部長室および教職員ロビーが占拠されるような事態となった。そして遂に昭和四十四年七月十一日に村井理工学部長は退任し、代って吉阪隆正が理工学部長に選任された。

 一方大学本部においては大隈講堂を占拠した革マル派の学生と、第二学生会館に侵入した全共闘系の学生との間に、道路をはさんで火焰びんを投げ合うなど激しい内ゲバが行われたりしたが、九月半ば頃より漸く長かった闘争も幾らか収まる兆しを見せた。そして十月十六日になって遂に大学は警察力の出動を要請して封鎖解除の措置を講じるとともに、十六日から二十三日までの一週間は整備のため全学立入禁止とした。

 理工学部では昭和四十四年十月二十四日に安部球場で学生大会が開催され、無期限ストライキ解除の決議が行われ、十一月四日よりやっと授業が再開されることになったが、講義の遅れを取り戻すために翌昭和四十五年には入学試験後の三月にも授業をせねばならなかった。

 昭和四十五年三月十二日には機械工学科の古い卒業生にはなじみ深かった実験室の元技師成田順蔵が逝去した。

 また昭和四十五年三月三十一日には白川稔が定年退職をしたが、白川は後に新宿区区会議員に当選し、区政のために活躍した。元教授鈴木徳蔵は病気のため療養に努めていたが、昭和四十五年四月十七日遂に逝去した。

 昭和四十五年九月十六日には吉阪隆正理工学部長および葉山房夫理工学研究科委員長はともに再選され、教務副主任には大田英輔が就任した。また機械工学科主任には和田稲苗が選任された。

 昭和四十五年十月四日には村井資長が第九代総長に選任された。なお大学院委員会委員であった清水司が理事に就任したため、代って斉藤孟が大学院委員会委員に選任された。

 昭和四十七年三月三十一日には中野稔および中条徳三郎が定年退職したが、四月一日には本村貢(新制十五回)が専任講師に就任した。

 昭和四十七年九月十六日には学部長、機関長の選挙が行われ、理工学部長には平嶋政治が、理工学研究科委員長には並木美喜雄が、大学院委員会委員には林郁彦が選任され、また機械工学科主任には和田稲苗が再選された。

 昭和四十八年四月一日には林洋次(新制十六回)が専任講師に就任した。また同年九月十七日には機械工学科主任には和田稲苗に代って斉藤孟が選任された。

 昭和四十九年四月一日には永田勝也(新制十七回)が専任講師に就任した。八十周年の記念事業として理工学部の西大久保移転その他理工学部の改革を行い、その発展に尽した難波正人は昭和四十九年十二月一日惜しくも逝去した。

 機械工学科の学生定員は昭和三十八年から四百四十名となっていたが、学生の質の向上と教員の負担の軽減をおもな目的としてこれを漸減することになり、昭和五十三年入学生は四百名、五十四年入学生からは三百六十名とする案を決定した。

 従来、本学においては拡張には積極的でも、このようにたとえ内容の充実とはいえ、一見縮小案と考えられる措置はとかく承認されぬきらいが多かったが、幸い学部長村上博智の理解と援助により実現の運びとなった。

 なお昭和五十年以後の役職は、昭和五十年九月十六日に井口信洋が機械工学科主任となり、五十一年九月十六日に村上博智が理工学部長に、斉藤孟が理工学研究科委員長に、加藤一郎が機械工学科主任に就任した。また五十三年九月十六日には理工学部長、理工学研究科委員長は再選され、河合素直が教務副主任に、田島清灝が機械工学科主任に就任した。五十三年十一月五日には清水司が第十代総長に選任され、五十四年九月十六日には林郁彦が機械工学科主任となった。更に五十五年九月十六日には加藤忠蔵が理工学部長に、加藤一郎が理工学研究科委員長に、川瀬武彦が教務副主任に就任した。

 また佐藤常三、柴山信三が昭和五十一年に、関敏郎が五十四年に、稲田重男が五十五年に定年退職した。そしていずれも名誉教授に推挙された。だがその中で佐藤常三は五十四年十一月九日に、関敏郎は五十四年十一月二十八日に逝去した(南極での航空機事故)。また元技師金井四郎は五十四年四月二十二日に逝去した。

 昭和五十年以後教員として新任されたのは五十年に中沢弘(新制十一回)、五十一年に山川宏(新制二十回)、山本勝弘(新制十七回)、五十三年に大聖泰弘(新制二十回)、五十四年に三輪敬之(新制二十一回)である。

 昭和五十五年十一月現在における機械工学科のコース名と所属教員名を次に示す。

産業数学 山本勝弘

機械設計 奥村敦史 和田稲苗 林郁彦 山根雅巳 林洋次 山川宏

流体工学 田島清灝 川瀬武彦 大田英輔

熱工学 斎藤孟 小泉睦男 永田勝也 大聖泰弘

材料加工 松浦佑次 広瀬正吉 本村貢

精密工学 森田鈞 中沢弘

溶接工学 中根金作 井口信洋 三輪敬之

制御工学 高橋利衛 加藤一郎 土屋喜一 河合素直

四 電気工学科

ページ画像

1 草創期

a 沿革

 電気工学科は早稲田大学創立二十五周年を記念して新設を発表された理工科(理工学部の前身)の第一期計画として機械科と同時に明治四十二年九月に発足した。

 当時は本学自体が名称こそ既に東京専門学校を改めて早稲田大学と呼称はしていたが、制度上の実態(入学資格および修業年限)は依然専門学校であったから、電気工学科も正しくは電気科といい、修業年限は予科一年半、本科三年の計四年半、入学資格を中学(旧制)卒とする制度であった。

 文部省令によれば当時大学とは修業年限五年の中学校に続く三年制高等学校卒業生を入学資格者とする三年制の最高教育機関であり、他に中学卒業生を入学資格者とする三年制の学校(専門学校と呼称)があった。従って早稲田大学は専門学校待遇ではあったが実際の教育内容は両者の何れにも属さぬ独自の形態と特異な理念を持つ教育機関であったと言える。これは大学首脳部が東京帝国大学(現東大)卒業生は理論に偏して実地に暗く、他方専門学校の場合はちょうどその逆である実情に鑑み、両者の長を採り短を補う教育システムが高等教育の理想であるとしたためである。時の学長高田早苗は東京高等工業学校(現東京工大)前校長手島精一を理工科創設の顧問として、教育内容ならびに教授陣構成を依頼したため当初は勢い高等工業関係者ないしその出身者を中心として教授陣が構成され、同時に教育内容もまた同校のそれに準ずるものとなった関係上、大学補強の主旨が却って専門学校の亜流に過ぎぬ結果に堕した憾みが強かった。しかしこれは先進欧米諸国に較べ特に理工系では歴史の極めて浅い我が国の場合教員として高度の理工学知識を持った学者、技術者の絶対数が少ない当時としては理想と現実との間に大きな懸隔が生じたこともまた止むを得ぬことであったろう。しかしこのような現実は開校後二年で早くも学生の不満となって表面化し、適切な措置なくしては学校運営上重大問題にまで発展しかねない兆が見えてきた。

b 竹内明夫郎、浅野応輔、山本忠興

 竹内は万延元年土佐の生れ、当時既に五十歳に近い鉱工業界の有数な実業家であったが、早くから新生日本の発展は工業こそその中心をなすべきものと確信した大先覚者であった。その具体策として彼はかねてから当時帝国大学工学部出身の青年を中心とする優秀な人材を選抜し、その全員を私財を抛って先進欧米諸国の一流大学あるいは大工業会社に留学せしめ、当時最高の理論、技術についての研鑚を積ませていた。竹内はこれらの人材が留学を終えた後、彼等を中心とする優れた工業教育機関の創設および近代重工業会社の設立を計画していたのであった。彼は早くから大隈と親交があったが、先に大隈の理工科創設の熱意を打ち明けられ、その計画する工業教育は単に一早稲田の発展を対象としたものではない全く憂国の大構想に基づくものであることを知った彼は既に着々として進行中だった彼自身の手による工業立国の計画を惜し気もなく一擲し、これらの人材と基金の一切を挙げて大隈の理工科開設への寄贈と、更に当分の間これら新任教員の給与までも負担するという援助を申し出たのである。かくして大隈の多年に亘る工業教育の夢が初めて実現され、当時としては一流の高等工学教育機関が早稲田という一私学に誕生する運びとなったのである。

 しかしこうした竹内の義挙によりスタートし得た我が理工科が早くも逢着したこの第一次難関に対し、大学は先に手島が推薦していた優れた人物、東大出身の当時東京高等工業教授の阪田貞一を理工科科長に任じて手島に代って実権を移し教育制度と人事の刷新を計らせ、他方竹内に再び難局打開の方途を求めた。それに応えて打った彼の最後の切札が山本忠興の招聘であった。

 山本忠興は竹内の妻の甥で同じく土佐の人。明治十四年山本忠彦(実業家、貴族院議員)の長男として生れ、第一高等学校を経て明治三十八年東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。直ちに芝浦製作所(現東芝)に入社し電機設計に従事する傍ら、母校東京帝大の講師を兼任する秀才であった。彼は伯父竹内の初期の構想と熱意に応じ三年余で同社を退職して(実際には同社の懇望により嘱託となる)竹内の計画に参加し、独逸ではカールスルーエ工業大学のアーノルド教授に電機設計を一年三ヵ月間、後米国に渡ってG・E社のスタイメッツ博士の許で研鑚すること一年半、計三年間を当時まさに世界を二分した斯界の両泰斗に親しく最前線の学術を学びつつあった竹内の最も期待する最新鋭最高レベルの少壮学究である。この山本を召還した竹内は早稲田に託した工業立国に対する大構想の危機を説き、山本の全面的参加を強く要請した。山本は伯父竹内の憂国の至情と青年への愛情に感動し、遂に東京帝大、芝浦等と潔く訣別して当時一私立専門学校に過ぎなかった早稲田大学電気科の専任教師に就任したのである。官尊民卑の弊甚だしい時代に敢えてこの茨の道を選んだ青年山本には竹内に劣らぬ強い決意を要したことであったろう。山本は性温厚、スポーツを愛好する敬虔なクリスチャンであり、学生に接するには常に微笑を以てし、一流の学殖をいささかでも誇るが如きことはかつてなく、爾来実にその優れた学者、教育者としての一生の殆どすべてを早大育成のために捧げて終生かわるところがなかった。教育機関においては創設当初における指導者の教育理念や人格は一つの学風を形成して永く学校の将来を性格付けるという。山本は忽ち学生敬慕の的となり、彼の知識と真摯な教育態度は彼を中心とする教授、学生に深い感化を与えた。早大電気科の卒業生が理論面では官学に譲らぬ実力を蓄えて学術・技術の開拓に独自の学風と優れた業績を挙げながら、常にヒューマニズムに立脚し名利を追わぬ清新の校風を築き工業界に不動の地位を確立した今日を思う時、山本の残した不滅の功績は竹内明太郎とともに永久に記念さるべきものであろう。因に戦後の傑物故吉田茂首相は竹内の末弟である。

 浅野応輔は明治十四年東大電気卒、東大教授、山本の師、電気試験所(現電子総研)所長で当時電気工学界の第一人者であった。理工科開設期より電気科顧問として尽力し、後第二代理工科長、初代理工学部長、理事を歴任した。彼は輩下の多くの俊秀をあるいは本学教授に、あるいは非常勤講師として協力せしめ、同時に本学卒業生に対する社会的評価の高揚に努める等、特に電気科にとっては同じく官界に在った電子通信科の恩人稲田三之助とともに忘れることのできない功労者である。

c 教育体制の整備

 山本は就任後一年で東京高等工業出身の牧野に代って早くも電気科主任教授に推され、浅野応輔の協力を仰いで鋭意電気科教育体制の充実に尽力した。すなわち浅野は広部徳三郎、密田良太郎等部下の東大出身の俊秀を、また山本は大学ないし留学時代の友人を説得して教授陣に参加せしめる等当時としては年こそ若けれ最高に近い潑剌としたメンバーを揃えて教育内容の改革を推進した。ここに当時の授業項目と担当教授を掲げて参考としよう。

阪田貞一(機械工学)、牧野賢吾(初代電気科主任、一年で山本と交代、電気理論、送配電)、佐野志郎(電気理論、機器設計)、広部徳三郎(電気機械)、山本忠興(応用数学、電気機械、電気鉄道、機器設計)、清水与七郎(電気計測、計測工学)、武田修三郎(電気化学)、大畑源一郎(電信電話工学)、大屋敦(電気化学)、青柳豊三・佐々木伸吉(実験・製図)。

d 学科の教育理念

 前述の教育改革を契期として爾後浅野、山本等の努力と教授陣の充実により理論面では帝国大学に劣らぬ内容を持ち、学生の不満も解消し山本を中心として頗る活発に動いた。元来本学はその名の示す如く工学を従来の単なる技芸的熟練者の養成を目指さず、科学、理学に基礎を置いた学術としての技術、広く旦つ深いサイエンスを背景とする工学をその教学の理念とした。同時に従来の博覧強記主義を排して自らを啓発する態度を重視し演習実験に重点を置くよう指導された。これこそ今日のいわゆるエンジニアリング・サイエンスの先駆をなすもので、その卓見は実に敬服に値すべきものである。

e 早稲田電気工学会

 明治四十五年七月には第一回卒業生二十一名を送り出した。草創期の在学生は山本を中心として大学との一体感が強く、大学卒業と同時に電気科同窓会が結成され、名を早稲田電気工学会として初代会長に浅野応輔を戴いた。会の構成は専任教員、卒業生および在学生より成るが、これは単なる親睦団体としてではなく、学術団体的色彩の強いものであり月刊『早稲田電気工学会会報』を発行した。内容は研究論文、新技術解説等を載せ、早稲田大学における学術機関誌の嚆矢を成すものである。会報は後に『早稲田電気工学会雑誌』と改称されて学術団体発行の学術誌に認定され、昭和四十八年その性格を改めるまでは内外諸大学、研究所等との学術交換誌として各方面の研究論文にもしばしば引用される等永く電気工学界に与えた貢献は我等の誇りとするところである。一方電気科は大正二年七月には第二回卒業生三十二名、第三回は六十名を出し、爾後大正十二年の大学昇格までは概ねこの数を持続し、電気科の教育は漸く順調な軌道に乗る状態となった。

f 研究陣の育成強化

 山本は教育体制の整備、実験室の充実に献身するとともに、将来真の大学に成長するためには研究陣の充実を最重要と考えた。すなわち専門的に未充足の部門は外部より帝大卒の若手研究者を迎え、他方後継者の養成には本学出身者中の卓越した者を選抜して逐次研究陣に参加せしめ電気科の将来を託した。すなわち大正二年には堤秀夫を本学出身者第一号として基礎理論のスタッフに、大正三年には三回生坪内信を、また翌四年には四回生黒川兼三郎をして回路理論、通信および音響工学開発の研究陣に、更に七年には当時最も華やかな分野、特に山本がその方面の第一人者であった電気機械分野に第四回卒の川原田政太郎、第六回の上田輝雄、同七回の大隅菊次郎等を用い強力な陣容を整えた。同時に山本は有線および無線通信工学の将来性を洞察し、浅野の協力の下、大正十四年当時逓信省の総帥稲田三之助を兼任教授に要請した。稲田は爾後彼自身をはじめ輩下の俊秀を非常勤講師として派遣し、あるいは卒業生を登用する等終始黒川兼三郎を援けて今日の輝ける通信科建設の礎石を築き上げた功績は永く忘れ難いものがある。この間山本は将来の鉄道が蒸気より電気に発展することを予見して大正六年鉄道省(現国鉄)より大学の後輩上田大助を専任教授に招聘し、電気機械、電気鉄道、電力応用等を担当せしめて教授陣を強化した。大正九年には九回生帆足竹治を採用して理論関係の充実を計り、同十一年には十一回卒の埴野一郎をして当時手薄であった電力工学の分野を専攻せしめ、電気機械、電力応用に併せていわゆる強電方面の充実に努力した。また大正十三年には八回生門倉則之を用いて照明工学を専攻せしめ電力応用を強化した。山本によるこれら研究陣営の人事はすべて大学昇格前の本学卒業生の登用であったが、何れもその負託に応えて後に当該方面の第一人者となり今日の大早稲田電気工学科の隆昌を築き上げたものである。

g 大学への昇格

 理工科は機械、電気両科開設に続いて採鉱冶金、建築および応用化学等の学科を新設し、年を逐って充実の度を加えていった。他方澎湃として興りつつあった日本近代化の趨勢に政府も大正七年遂に新大学令を発し、従来大学は国立に限定されていた制度を改めて他に私立大学の設立をも認めることとなった。このため早稲田大学も翌年昇格の準備会を設け、実に幾多の困難を克服して大正九年新大学令による大学への昇格が認可された。これにより高等予科を廃して新たに三年制の第一早稲田高等学院を設置して文理の両科を置き、理科修了生全員を大学理工各学科に進学し得る制度とした。同時に理工科を改めて理工学部に、電気科は電気工学科と改称して前述の新教育法をますます強化した。またこれにより従来本学卒業生は電気主任技術者三級資格該当だったものが、第一種主任技術者に昇格した。初代学部長は浅野応輔、電気工学科主任教授は山本忠興であった。

 ここで電気工学科に関連の深い基礎工学実験室の開設に触れておこう。理工科時代は物理学等の基礎学術は当然理工科に属し、本学の理念とした理工学の重要な部門を占めていたが、大学昇格とともにこれが高等学院理科物理学教室に移籍されたのである。この事実を重視した山本・黒川等はこれを契機に新たに理工学部直属の基礎工学実験室を開設せしめ、そこに一つの独立研究グループを新設して理工学研究の重要な拠点としたのである。電気科出身者からは宮部宏(十二回卒、力学・電気材料を専攻、後年大学院研究科委員長)、小泉四郎(十五回卒、応用数学・回路論専攻、後年理工学研究所所長)等を配置し、本学の標榜する理工学基礎分野の伸長を期した。事実両氏は基礎分野で独自の研究成果をあげ電気工学科を側面より援助した功績は顕著なものがあった。当時のスタッフこそ後に今日の応用物理学科教室陣の母体となった人々である。

2 充実期

a 電気工学科と社会の評価

 この間、時代は大正より昭和へ移行し日本の近代化、重工業化は年を逐って進んだ。電気工学科も大学昇格を機会とする山本の献身的奔走努力により卒業生の隠れた実力は名実相俟って社会の認めるところとなり、民間企業にとどまらず逐次官公庁方面にさえ伸長、発展を遂げていった。この間山本は大正十年理工学部長に、また同十三年には理事に就任する等極めて多忙な日常の裡にも専門分野の研究にも寧日なく、既に大正六年に工博、更に続々と優れた研究論文を発表し、大正十五年には川原田政太郎との誘導同期電動機の共同研究成功が世界に喧伝され、発明協会恩賜賞を受け、我が国十大発明家として天皇より賜餐の栄に浴した。またこれより先、川原田が大正十四年ヨーロッパより帰朝後山本と協同の独創的開発によるテレビジョン発明の成功は、昭和五年、皇族、閣僚等参観のもと、朝日講堂で実験公開されて天下の耳目を震憾し、翌年山本とともに朝日文化賞に輝いた。他方前述の早稲田電気工学会はかねてから会員有志が諮って毎年給与の一パーセントを醵金し、母校電気工学科実験室の充実に協力していたが、昭和の大典(天皇即位式)を記念して当時他に例を見ない三相五十ヘルツ、三百三十キロボルトの試験変圧器を寄贈するという快挙を敢行した。また昭和二年黒川兼三郎は、その端麗な姿と我が国初の優れた音響効果で名高い早稲田のシンボル大隈講堂の音響設計を指導した。次いで昭和六年には上田輝雄は安部球場に史上初の夜間照明設備を設計完成して天下のスポーツファンを驚かせた(現在いわゆるナイター設備の先駆である)。これらは市販の科学雑誌・新聞紙上等で喧伝され、世評は電気工学科教授陣の実力に驚嘆した結果、“早稲田の理工科!”“電気なら官立より早稲田!”の声が期せずして社会の隅々までも流布されるに至ったのである。勿論これは単なる世上の評価のみに止まるものではない。まさに研究陣全体に漲るアクチビティの露頭であって、事実純粋学術の各分野に亘ってもこの時代に多くの優れた研究論文が諸学会に発表され、青年期の電気工学科の充実を示す黄金時代の開幕となったのである。

b 電子通信科母体の生誕

 大正後半の世界は電気技術勃興の時であった。このような内外の時代的背景の下、高等学院理科、なかんずく電気工学科への進学希望者は逐年増加の一途を辿り、ついには大学当局もその処置に窮するまでに至った。このため山本は坪内、黒川等と計って新たに通信工学専攻分野の開設による電気工学科の学生定員三十名増を以てこの要望に応えることとした。すなわち通信工学研究の先駆者坪内、回路・音響のパイオニア黒川および愛弟子広田友義(十二回卒、電気回路、有線工学)を以て教室を構成し、産業界の将来を見越して大正十三年早くも他大学に魁けて通信工学教室を開設したのである。これに伴い電気工学科は内容を二分して従来の専攻を第一分科(六十名)、通信専攻を第二分科と称した。しかし不幸なことにはその中心人物坪内は十五年二月病により急逝する打撃を受けたが、黒川は当時既に自他ともに許す斯界の第一人者の地位を確立しており、更に昭和二年には岩片秀雄(十五回二分科卒、電磁界・無線工学専攻)、続いて昭和七年には田中末雄(二十回二分科卒、高周波回路・同測定)を加えることができ、彼等の努力によりその成長は実に目覚しいものがあった。事実この学術上の先見性と大学行政は見事に成功し、通信事業の世界的躍進と同期して開拓者精神に富む多くの優れた卒業生を輩出し、今日放送事業、通信事業および関連機器メーカーに早稲田通信科出身者の黄金時代を築き上げる礎石となったのである。

 山本は昭和七年には第一分科を二分して新たに電力応用専攻の第三分科定員三十名を設けた。ここにおいて電気工学科は完全に学術的内容を整備し、第一分科は川原田、大隅、上田輝雄(後年工業経営学科新設に伴いその初代主任に転出)および後に村山茂(七回卒、日立製作所より抜擢)、俵田竜夫(昭二卒、当初テレビジョン研究専従)の両氏を補塡して機器専攻教室とし、第三分科は上田大助を中心として門倉が電熱照明、埴野にはその指導下に在った荒畑誠二(昭三・一分科卒)を教室員に加えて電力工学研究を補佐担当せしめてその陣容を整えた。他に堤、帆足、後に野本尚志(昭十・二分科卒)を加え、その専攻上前記いずれの分科にも直属せぬ共通基礎部門を担当せしめ電気工学科の最も充実した時代を築き上げた。

3 拡張期と大戦時代

a 通信工学科の独立

 第二分科は内外の豊かな充実に鑑み機運熟して昭和十六年主任教授黒川、学生定員六十名を以て新たに電気通信学科として独立した。これに伴い第一・第三の残存両分科は再び合同して元の電気工学科に復し、第三分科は十年間で閉鎖した。しかしこの分科卒業生も電力方面では東京電力以下各社に、また交通機関では国鉄はじめ私鉄各社に、更に一般応用方面の大メーカー等をも含めて副社長、局長ないし常務クラス多数を輩出し、上田以下の努力は社会に十分に貢献することができた。その後は両分科教授陣も再び合同し更にその間工業界の躍進に伴い学生定員を九十名に増加した。なお昭和十五年には石塚喜雄(二十八回三分科卒)を第三分科教室陣に加え、電力回路を専攻せしめている。

b 理工研と専門部工科の創設

 大学はかねて創立五十周年紀念事業の一つとして中央研究所設立の構想を持ったが、昭和六年に始まった日支事変の発展に伴う国情の変化からその計画はやむなく延期縮小はしたものの、昭和十五年計画の一部として理工学部研究所(現理工学研究所)を漸く発足することができ、電気工学科からは埴野・石塚が兼任研究員として参加した。一方戦争の予想外の拡大とその長期化により軍需産業は年とともに興り、工学系高等技術者の需要は日本の近代化と相俟って増加の一途を辿った。大学は激増する理工学部志願者を吸収するため、かねがね専門部にも工科を新設して社会の要請に応える計画を持っていた関係上、昭和十四年電気科を含めて四科が同時に開設された。電気科科長は川原田政太郎の兼任、教室には山崎秀夫(昭十一・一分科卒、大学院・電気機器専攻)、三田洋二(同三分科卒、電気材料専攻、三菱電機より抜擢)および熊谷愿(昭十二・一分科卒、電気機器専攻、日立製作所より抜擢)等を以て専任とし、他は学部教員の兼任を以て開校した。更に十八年には第一高等学院物理教室より高木純一(昭六・一分科卒、電気理論・場理論)を基礎工学教室に迎えその陣容を大いに強化した。

c 大戦下の電気工学科

 泥沼化した日支事変は十六年遂に大東亜戦争に発展し、電気工学科も漸次その正常な研究活動、教育課程履行に支障を招く事態が到来した。すなわち文部省示達による報国隊の結成と勤労動員、大学による学徒練成の実施等、そして遂には異例の学年短縮措置が発令され同年十二月二十五日繰上げ卒業式が実施されるに至った。翌十七年には大学の短縮九月卒業が法制化され、高等学校(旧制)も同時に半年の繰上げ卒業措置が採られたため、電気工学科も十月に新入生を迎えることになり短縮制度は後更に強化され昭和二十年まで続いた。尤も勤労動員、学徒練成なども実際には年間旬日に満たず、直接講義、実習等に及ぼす影響は少なく、最終学年時の卒業論文研究に大きく皺寄せを受ける程度がその実情であった。しかし翌十八年には事情は一変した。ガダルカナル島攻略に挙った米国の反撃は急速に熾烈化し、戦局は悪化の一途を辿り研究、勉学および日常生活品にも極度の逼迫が加わった。そして四月には高等学校教育は更に短縮されて二ヵ年となり、十月には遂に在学生兵役徴集延期の特典が撤廃され、十一月にはいわゆる学徒出陣を迎えるに至った。尤も理工学部生は軍需生産要員として延期停止令からは除外され、強化された勤労動員要員として各種軍需工場等に派遣されることになった。電気工学科学生も軍防衛研究参加教授の研究助手ないしはレーダーおよび航空機工場関係に、また低学年生は空襲に備えての消防署補助要員等に交替動員され、専門部生は軍需工場あるいは地方の援農作業等に派遣された。これにより教室での授業は殆ど半減されたが、十九年には戦局はいよいよ不利となって軍需工場の空襲による損害は激化し遂には学生も通年動員となり正規の大学教育は事実上殆ど停止される状態に至った。しかし熱心な学生は勤労動員の交代期間を利用し、適宜教員による補講に励んだ真摯な態度が終戦に至るまで続行された事実は長く印象に残る思い出である。

 この間電気工学科の教授陣にも大きな変貌があった。電気工学科育成の最大功労者・理工学部長・理事、山本忠興が漸く人心刷新の声を感じ万感の思いを籠めて昭和十九年三月自ら大学を去ったのである。また同じく浅野・山本を扶けて多年電気工学科育成に貢献した上田大助は、今次大戦に批判的であったため戦禍を嫌って翌年遂に教室を去った。これにより電気工学科教室陣は本学出身者のみを以て構成される結果になり、歴史的に重大なエポックを画すことになった。一方門倉、俵田は軍需生産の第一線工業界に転出し、村山は病に倒れた。また多くの教授は陸軍ないし海軍技術研究所顧問あるいは嘱託として軍事研究に従事し、また専門部では学徒動員に専任教員が責任者として同行し、生徒とともに半労半学の生活を行った。

 翌二十年戦局はいよいよ最悪の段階に入り五月の東京大空襲で我が早稲田大学も遂に潰滅的打撃を受け、建造物はその三分の一を失った。特に木造建造物が大半を占めていた電気工学科の被害は甚だしく教室、第一および第二実験室のすべてを失い、僅かに高電圧実験室とテレビジョン研究棟を残すのみの廃墟と化し、大学の授業も遂に一年間の停止が決定された。そして八月、広島に落下した原爆に全国民呆然自失の裡に終戦を迎え、我が早稲田大学もその光輝ある歴史に終焉を告げるかと危ぶまれた。この間三月および五月の東京大空襲で理工学研究所その他の動員先で多くの公傷者を出したが、特に学徒消防隊として折柄江東地区消防署に配属されていた電気工学科一年生原田房承、二上惇一、星野和郎、茂本勝美、吉松信義の五君が五月十日の大空襲で公務に殉職したことは真に痛恨の極みであった。しかし電気工学科教授陣からは戦死傷を含め奇蹟的に一名の死傷もなく、これが戦後学苑の復興に大きな原動力となったことは実に不幸中の幸いであった。

 終戦宣言は幸いにして国民をさしたる混乱に陥れることもなく、平和は意外に早く回復した。そして学問に飢えた者達は廃墟の裡から不死鳥の如く立ち上がり、十九年、総長田中穂積逝去の後を襲った新総長中野登美雄は病軀に鞭打ち、全学生を集めて九月八日からの大学再開を宣言した。電気工学科においてもこれに力を得て再起し、地方に分散していた学生も競って学苑に戻り全員復興に努力した。しかし大学自体の損壊甚だしく、教室は僅かに焼失を免れた政経学部の建物を交代使用して十月一日より講義を、また実験はたまたまテレビジョン研究棟内にあって戦禍をのがれた機器を戦災を免れた高電圧実験室のみを頼りに万難を克服して一斉に再開することとなったのである。当時専門書はもとより、食料、交通機関、そして灯火さえ極度に窮乏した状況下にありながら学生は意外に明るく勉学に熱中し、卒業研究等にもきわめて意欲的であったことは、物資甚だ潤沢な今日の世情に較べ、実に印象的な思い出である。

4 新制早稲田大学時代

a 新制大学の誕生と電気工学科

 米国による我が国大学教育に関する占領政策は当初危惧したほど苛酷なもの、若しくは教育研究に圧迫を加えるものではなく、他方新生平和日本には大学教育の重要性が世上広く認識され、入学志願者数も敗戦後予想に反し少しも減少するようなことはなかった。他方終戦に伴う旧陸海軍の解体により軍の各研究所等にあった多量の機器が政府より諸大学に無償供与され、これが電気工学科の復興に大きく寄与したことは皮肉な事実であった。こうして大学復興の前途は意外に明るく進展して行った。終戦と同時に高等学校も修業年限を元に戻したため、昭和二十一年には高等学院卒業生はなく、従って電気工学科も新入生はすべて外部より募集し、入学者は殆ど軍関係の学生もしくは復員者(戦時中軍籍にあった者)のみであった。なおこの間高木純一を専門部工科より学部の電気工学科に迎えて理論分野を担当せしめた。

 一方この年、中野総長の病気辞任による林癸未夫総長代理の手により校規改正準備委員会が設けられた。これは米国占領政策による文教制度のアメリカ方式への転換指令と、新生民主主義日本の大学として、その校規、運営等に根本的改革を必要としたためであり、同年五月には早くも新校規が一部制定実施せられることとなった。これに基づきまず新校規下本大学初の公選総長として島田孝一が選出され、次いで新理工学部長には山本研一、電気工学科主任には帆足竹治が留任し、いよいよ新体制実施への準備が整えられた。新総長の下、前記学制改革は着々として進められ、多くの機構改革、学苑の民主化、並びに戦災復興会の設立等が急速且つ強力に進捗した。その結果昭和二十四年を期して新制大学への移行計画も決定され、二十二年に発布された我が国新憲法の施行と相俟って、ここに新制早稲田大学への力強い発足が開始せられ、電気工学科にも新たに主任に就任した埴野一郎の許、再建への強い意欲が盛り上がった。すなわち教室としては学制改革による専門部廃止に伴う人事として同部より山崎秀夫、三田洋二を共に助教授として電気工学科に迎え、それぞれ電気機器、電気材料担当とし、更に二十四年には文部省特研生(戦時中文部省が研究者確保のため大学卒業生中優秀な者を選抜して国費を給し、兵役、動員を免除して大学での研究に専従させた制度)であった門倉敏夫(昭二十一電卒)を、更に翌年には同じく木俣守彦(昭二十二同)を共に助手に採用してそれぞれ帆足および堤の各研究室に配属して後継者育成という再建への積極的意欲を見せ、折から二十三年新理工学部教室棟の竣工もあり、いよいよ力強い新制発足準備が推進された。そして二十四年予定通り移行態勢を完了したが、その時の教室陣容は埴野主任の他、堤秀夫川原田政太郎、大隅菊次郎、帆足竹治、荒畑漂二、高木純一、野本尚志、三田洋二、山崎秀夫、石塚喜雄等を専属教員として構成された。

 他方学生側の措置は先に正規の修業年限に復した高等学院理科卒業生を新制大学三年生に、同じく二年および一年修了生をそれぞれ大学二年および一年生とするいわゆる移行制度を採用したため、旧制度は新入生募集を停止し他方新制大学は三学年分を一挙にスタートすることとなった。なお本学専門部在学生は原則として一年修了者以外すべて旧制度のまま卒業させることを原則としたが、新制への移籍希望者には無条件でこれを認めて学院在籍と同じ取扱いとした。従って二十四年中は旧制度第二および第三学年生と、新制三年生以下の計五学年生が重複し、二十五年中は最高年度学生数は前年度の二倍以上に増加して教員は論文指導と就職斡旋に困憊し、学生もまたこの二年間は制度移行に伴う過渡期の被害者となった。次いで、二十六年四月からは新制大学院が開設され、理工系は堤秀夫を初代委員長とし、電気工学専攻では堤、帆足、大隅、埴野の四教授がそれぞれ電気物理、電気計測、電気機器および電力工学の四専修を担当し、各専修には荒畑、高木以下の全助教授、専任講師および助手が協力する体制を敷き、他方二十六年末には旧電気工学科教室跡地に六階建新制理工系大学院校舎が完成した。なお川原田は希望により客員教授待遇となり財団法人電磁研究所長として学外で活躍することとなった。

 他方、本学が戦前から付置していた夜間の各種付属専門学校も学制改革に伴って今回自然消滅となるため、大学は夜間高等教育の重要性に鑑み新たに新制夜間学部を創設して第二学部(従って昼間のそれを第一学部)と呼称した。すなわち第二理工学部には機械、建築、土木とともに電気工学科(通信分科を含む)を発足せしめ、初代学部長には堤秀夫(後に帆足竹治就任)、電気工学科主任には帆足竹治が選ばれた。また夜間教育のために電気工学科専任として既に廃止せられた専門部電気科より栗田忠四郎助教授(昭十・一分科卒)を任命した他はすべて第一学部教員をして兼担せしめた。このため第二学部生の専門課程進学に伴い、電気工学科教員の教育負担は著しく増加してきた。

 一方新制大学が漸く軌道に乗り始めた頃、朝鮮動乱に端を発した我が国工鉱業生産の復興は年を逐って目覚しくなり、なかんずく電気工業の発展はその最たるもので、このため電気工学科への入学志願者数は著しい上昇を示し、教室陣営を勇気づけた。これは独り理工学部のみではなかった。敗戦による国家権威の減殺が一流私立大学の評価を高めたことと相俟って入学志願者は年とともに全学部に渉って質・量共に異常の上昇を続けた。このため大学当局の前進意欲は旺盛となり、施設の復興はますます積極的に推進された。そして二十八年には新制大学院に博士課程が開設され電気工学科も漸く順風を受けて前進を続け始めた。三十一年には旧制度最終卒業生矢作吉之助(昭二十六卒)を教室構成員に加え絶縁材料を専攻せしめる等研究陣営の強化も促進された。

b 八十周年記念事業

 昭和二十九年には島田孝一に代って大浜信泉が総長に就任し、第一理工学部長には高木純一が選出された。この頃より日本の経済発展、高度成長は更に目覚しく、技術革新の波は世界に拡がり、我が国産業界もエネルギー革命をはじめ競って設備投資を活発化した。これに伴い新しい技術を修得した若い大学卒業生の需要は急ピッチで上昇し始めた。社会の動向を察知するに敏な総長大浜信泉はここで一挙に積極政策を採り、大学の研究・教育の大規模な飛躍を計画した。すなわち教員の研究環境の整備(不燃性高層建築の新設による全教員個人研究室の完備)と専任教授の充実増員、研究費の増額(国会を強力に動かして私大への初の助成金の獲得)、学内研究所の増設(教員の有機的共同研究の奨励、生産技研その他の新設)、研究の国際化等々を矢継ぎ早に計画し、これを学内外の識者、有力者を集めて検討を依頼し、案成れば実行委員会を構成して直ちに内外に公表し、その実践に着手するという果敢な方針を常套した。特にモスクワ、ボン、パリ等欧米著名大学との間に教授交換制度を設け、更に三十四年にはミシガン大学と特殊相互協定を結んで一挙に多数の若手教員を同大学に長期無償留学せしめ、主として当時日本が立ち遅れ状態にあった電子計算機、電子工学、制御工学、近代経営学等のイニシャチブ獲得に全力を傾倒した。電気工学科からも門倉、木俣、田村(昭二十八卒、電力工学)等が選ばれて米・欧諸国に留学し、帰朝後これら各方面の優れた開拓者として活躍するに至らしめる等その学術行政はまさに目を瞠らせるものがあった。事実これにより早稲田大学への入学志願者の学力も、旧帝大系大学の入試日統一制度と、我が国の文化大都市集中主義等と相俟って、七旧帝国大学の最上位ランクに位置し、電気工学科などはその最たるものであり、いわゆる学生の質の面ではその絶頂期にあったと言っても過言ではない。尤もこの膨大な急進策には研究教育の自由性や資金その他の面で危惧の念を持つ幹部もあったが、翌年決定した総長重任により理事・学部長等も漸次拡張派一色となり、大浜政策はますます積極的におし進められるに至った。すなわち三年後に迫った大学創立八十周年を記念して総長大浜は理工学部を中心とする大躍進事業を計画し、全理工学部を西大久保旧陸軍用地跡に移転して研究教育設備を一挙に更新し、同学部の残置建造物を利用して人文系学部の拡充を計り、更に文学部、法学部、教育学部等の研究棟、新教室棟等を新設ないし大拡張する等頗る大規模な構想を打ち出した。これに要する費用三十五億円のうち、理工系学生を大幅に増員して産業界の青年高級技術者充足の強い要望に応えることを以て二十億円は主として産業界からの無条件寄附を仰ぐこととし、他は私学振興会等より長期融資を受けて資金を運用する等によりいわゆる八十周年記念事業を大々的に開始せんとしたのである。

 ここで遡って前述の第二理工学部に言及する。当学部の存在はその初期においては旧制専門学校出身の現役中・高級技術者等を集め、生涯教育の先駆としても広く社会に貢献してきたが、数年後には早くもその種の入学者は跡を絶ち、合格者中激烈な第一理工学部の入試落伍者の占める比率が逐年激増し、第二理工学部存立の意義が希薄になってきた。しかも大部分の教員は第一学部教授の兼任であったためその教務負担は教員の研究活動を圧迫し、得るところ少く失う物を増す状況となってきた。このため理工学部としては慎重熟慮の末昭和三十五年を以て学生募集を停止し、勤務の関係上第一学部に転じ得る学生は移籍措置を講じて漸進的にこれを廃止する方針を決定し、他学部もまた漸次同一歩調をとるに至った。

 一方、八十周年計画に関し電気工学科も数次に亘る慎重な討議の結果、大人口・小資源に悩む我が国の発展は国民知性の向上と高度工業化以外になく、この社会的要望に応えるのもまた我々大学人の義務と考え、更に大隈の大学門戸解放主義の伝統を踏まえ、遂に総長案を積極的に受け入れることとしてその具体策を決定した。まず学生新定員は第二理工学部廃止を考慮して計画完成後は二百四十名を目標とし第四年度生には各三十名単位の基礎理論、電気材料、計測制御、電気計算、電力工学、電気機械、高電圧工学、電気応用の八コースを設け、学生をその何れかに所属せしめて少数教育の長所を併用する。各コース教員は原則として三名、他に産業界等から各専門ごとの非常勤講師計十名の派遣を要請しこれを配置する。低学年生には最近開発された多人数指導用教育機器を駆使して教育手段の近代化を計る一方、大学院生を中心とする多数の教育補助員を使用して演習・実習を強化してマスプロの譏りを受けぬよう密度の高い指導を行う。また教育理念は従来の専門別細目教育を排して最近米国工業教育協会の開発したエンジニアリング・サイエンスの思想を基調とし、基礎工学を中心とする啓発的教育方針への転換を決定した(『早稲田電気工学会雑誌』昭和四十三年二月号参照)。このように歴史の古い大学の、質・量両面に亘る大規模な改革の断行は、文教予算と牢固とした講座制下に在る国立大学では到底実行し難い革新として諸大学の深い関心と興味を呼び、彼等の注目の内に昭和三十八年、諸般の事情から電気工学科の漸進案にも拘らず、一挙に新体制をスタートすることになり、電気工学科も発祥の地、戸塚に決別して新校地西大久保校舎に金面移転を完了する運びとなった。

 この間に本学電気工学科出身の最長老教授として学の内外に幾多の重責を負って活躍した堤秀夫が全員哀惜の内に三十四年三月停年退職し、教室員はあらためて時の流れに深い感慨を覚えた。他方昭和三十七年十月には創立八十周年記念式典が総長大浜の手に成る一万二千余名を収容し得る新築大記念会堂において欧米諸大学の総長はじめ内外の名士を集めて華々しく挙行され、早稲田大学はまさに繁栄の絶頂にあるの感を与えた。

 しかし一方これを脅かす影は早くも背後から静かに忍び寄りつつあった。それは実に大学内部から起ったのである。総長大浜は上記教育研究の飛躍的大改革を断行する一方、従来長く劣悪だった教職員給与の急速な改善を計った。現代社会においては大事業は経済の大負担なくしては遂行し得ず、大学もまた、その例外たり得ない。彼の施策はその設備投資の面は殆ど外部資金に依存したが、その運営費は自力に頼らざるを得ず、これが折からの好景気による物価上昇と相俟って累乗高騰し、厳正な入学制度を厳守する本学では他に収入はなく当然その経費増は直接学生の負担増にはね返り、昭和四十一年一月、明年度新入生からの学費改訂の発展となって表れた。勿論その改訂案は大学の各種審議機関の議決を経た合法的なものであり、その額もまた他大学に比し必ずしも高額とは言えなかったが、従来諸大学中比較的低位にあった早大学費としては感覚的には反対者の言う“大幅値上げ”の表現に必ずしも誇張感を与えず、また一方政治経済機構を全く異にする共産圏諸国の例を引いた学費全額国庫負担という断片的理想を唱えての学費改訂反対の声は多数学生の共感を呼び、学費値上げ撤回の声は学内に充満した。しかも商業ジャーナリズムはこれを好箇の題材としあたかも大学の経理に不正ないしは杜撰なものあるかの如き記事を掲げ、他方反体制指導者達はこれを捉えて労働組合における労使対立もしくは階級闘争の思想を大学当局対学生の関係に導入してその対立を煽り、あるいはかねて抬頭してきた水銀鉱毒事件に端を発した公害問題を高度成長の必然的所産とし、産業界の寄附による理工学部の整備拡充と学生増員を計った大浜は正にその元兇なりとの飛躍的理論を掲げて大学を指弾する等、巧みに一般学生の純情を揺さぶった。このため理工学部も同年二月遂に大学院および学部四年生を除いて全学科無期限ストライキに突入した。この動きは政治闘争に耽溺する各学生派閥による反体制運動の好餌となり、彼等はこれを自派勢力の拡張に利用せんとし学内に警察力の及ばぬ事を巧みに逆用してその行動は遂には派閥間の暴力闘争にまで発展して学内無政府状態を招き初期の経済問題、教育論争は一転して、大学はいつ果てるとも知れぬ政治闘争、革命闘争の場にまで荒廃する状態に至った。

 一方政策の合法性、計画の最善、実行への超人的努力とその成果等を自負する総長大浜はいささかも妥協の意を示さず、他方学生共闘は連日に及ぶ教職員の説得を始め校友国会議員団の斡旋案等もすべて一蹴して紛争はいつしか泥沼的様相を帯び長期に亘って学業、教務・事務は停止し遂には研究の自由すら保障されない状況にまで悪化し、電気工学科もまたその例外ではなかった。ここに至って総長は遂に非合法活動の学生共闘委々員長その他数名を校規違反として処罰し、自分もまた行政上の責任を採り同年四月二十三日全教員を一堂に集めて総長辞任演説を行い、後事を託して遂に大学を去った。

 代った総長代行阿部賢一は高木純一を筆頭理事に懇請し、新たに力の政治を排して“徹底対話”を標榜して事態収拾に立ち向った。総長以下首脳部の献身、とりわけ高木理事の明快な論旨と派閥を問わぬ対話の態度、学生との共同体意識に基づく昼夜を分たぬ懸命の努力に、さしもの大紛擾も漸次沈静に向い、ついに学問を愛する正常な学生の蹶起を呼び、種々の奨学金制度を設ける等の措置を講じて闘争は再び純真な教育整備と経済問題に戻り、同年六月遂に終局を迎え再び学苑には平和が蘇るに至った。

 しかしこれを契機としてかつて東大をも凌駕せんとする大浜構想“大早稲田の建設”プランも、石油ショックによる日本高度成長の頓挫に先立って終止符を打たざるを得ぬ結果となり、電気工学科における研究陣客の強化、設備の改革更新等の計画遂行に濃い暗影を投ずる状況に立ち至った。

 一方昭和三十九年医学部運営に端を発した東大紛争は漸次悪化して遂には文部省の大学管理法案反対の政治闘争に発展し、折から四十年米国のベトナム爆撃に絡む日本の基地使用の問題、四十二年の教育大学筑波移転問題、三里塚(成田)空港建設反対闘争等々を契機とする政治批判、政治不信は管理者不信にまで発展し、奪権闘争の思想は全国的に拡大され、いわゆる学生の大学管理権問題にまで昇華して四十三年再び早稲田大学もその渦中に巻込まれるに至った。すなわち国立と異なり、創設期より独自の民主的自主管理下にあり大学管理法案とは全く無関係な本学にも拘らず、急進的体制破壊による国家改造を信奉する学生集団による主導権掌握の下、彼等は本問題と全く関係ない教授の軍事研究協力問題を捏造する等して本学をも強引に全国的紛擾の嵐に巻込んだ。そして自由な研究を生命とする大学内で平然と暴力に訴えて自己の思想を強行せんとするいわゆる過激派指導の下、旗幟不鮮明のまま四十四年四月本学は再び前回とは全く異質の、しかもこれを上回る規模の紛擾に巻き込まれ、全国的“大学管理法案反対”闘争の一大拠点となった。理工学部においてもまた一部革命狂信派学生による主導権掌握の下、学生大会の決議を採って全学年無期限ストライキを宣言し暴力による大学管理権封鎖を敢行し、教育研究活動は長期に亘って停滞するの止むなきに至った。しかし学問に無関係なしかも暴力を平然と行使する単なる政治闘争、奪権闘争の激化、長期化は大学にあっては正常な学生の離反を呼んだが、四十四年一月遂に火元の東大当局が機動隊の手により安田講堂奪還に成功して以来、今次大紛擾も漸く鎮静に向い始めた。本学においても漸次ストライキ指導層に対する批判が高まり、理工学部においては電気・機械両科有志を中心とする勇気ある学生の献身的奔走により同年十一月学生大会開催に成功し、自らの手によるストライキ中止を宣言してさしもの歴史的大紛争も旗幟不鮮明に始まり結論のないままに終るという無意味な学園紛争として終焉を告げるに至った。

 かつて大浜構想に讃同し、大学の充実と国民の繁栄に資すべく行った電気工学科の拡張政策も、再度に亘る学園紛擾と社会的環境の変化により頗る苦境に立つに至った。すなわち、世論は我が電気工学科の学生増員をいわゆる非良心的一部私立大学による経営本位の無責任マスプロ教育と混同した無差別批判を行い、大学側のPR不足も災いして本学科学生にも多数教育アレルギー症を起させ、あるいは入試競争率の低下により入学当初より懐く劣等感、自信喪失型学生の累増を見る等、勉学意欲を失った留年者漸増の傾向を見せ始め、教員側を困惑せしめた。しかしこの重大な事実は教育責任上看過すべきでなく、教室では補習授業等あらゆる手段を講じて鋭意その対策に腐心していた矢先、昭和四十八年十月、突如として起った石油ショックは我が国工業の高度成長に終止符を打ち、更にはドル市場の低下と相俟って我が国経済界を漸次低成長方向に追いやった。これは再度に渉る前記学苑紛争による経営悪化にも拍車をかけ、機械設備の不断の更新改善と優秀教員の充実を予定していた大浜構想による電気工学科の新教育方針に経済的暗影を投げ、更には教員間の内部意見の対立も激化して遂には拡張政策に修正を加えざるを得ぬ事態に逢着した。その結果四十九年四月より二百四十名学生定員の削減、多数学生同時教育方針の一擲を決定した。まず同年から電気工学科を八十名単位の分科制、すなわちエナジー工学、制御工学およびエレクトロニクス工学の三分科に分ち、全学生にそれぞれ独立の並列講義ないしは分離教育を施すこととし、更に五十三年度からは定員削減の第一段階としてまず学生数二十名を減員する事を決定して今日に及んでいる。

 因に現在(昭五十六年度)学部における当学科専門科目のみのカリキュラムを示せば別表の如くである。表中担当教員名の後の()内の数字は本学出身者の卒業年度を、また(非)とは外来講師であることを示した。なお、大学院の教科内容は頁数の関係で割愛した。

第五表 電気工学科学科配当表(昭和五十六年度)

5 歴史の回顧と未来への展望

 静かに本学科七十余年の歴史を回顧すれぱ、日本の将来を高度工業化に託した大政治家大隈のもと、竹内・山本の両傑が一切の個人的打算を忘れ、今日では想像さえ困難な没我的献身の上に当電気工学科が築き上げられた事実は何人もこれを疑わぬところであろう。偉業は常に独りでは成らない。学祖大隈をはじめこのような希に見る傑人の奇蹟的邂合が全くの偶然に基づくものか、あるいは偉人のもとには期せずして紏合するものか、とまれ本学こそこれら先哲の何よりも国を愛し、人を愛し、学を愛する崇高な精神が樹立した金字塔であり、永く継承さるべき学燈であろう。万一此の精神が時代の変遷により風化し、早稲田大学が単なる一教育企業体に堕すならば私学早稲田存立の意義はまさにその根底を失うであろう。

 電気工学科も創立七十有余年を迎え、当時の献身的育成者の殆どは既に亡い。戦前は必ずしも物に依存せずとも精神の紏合はしばしば大半を成就したが、実証を絶対とする科学、特に近代工学では物の裏付けのないところ、真の学術の発展はあり得ない。社会の動向が極端な個人主義、合理主義ないしは皮相的平等観の支配するところとなった今日、教学源資の不足に喘ぐ私立早稲田大学の未来に果して過去の栄光が永く期待し得るものか。今後の我が電気工学科は単に学費高額な第二東京大学を目指すのか、我々は国の直轄下にある国立大学には望み得ない斬新独自な教育機構と同志的結束により、学術と人間性の両面において独自の理想教育を行い受験生をして常に第一級国立大学との選択に迷わしめるに足る優れた大学を築き上げねばならない。

 しかし東大紛争に端を発した学生の大学管理権奪取思想の激化する今日、大学指導者の最善と考える方策も、果して今後学生との政治的妥協なき実施が保証されるであろうか。電気工学科教室員の血の純潔による同志的結束が誤って独善と安逸の道に陥る怖れはないか。教員が生活改善の厚待遇に馴れて不遇時代に先輩教授がかつて生活を忘れて学問と教育に最高の人生を感じた情熱と、学生と苦楽を共にする一体感の喪失は絶無か。往時官尊民卑、私学蔑視の不等な抑圧の下、僅かに活躍を許された純技術面にその鬱蹟した能力を発揮してその実力を怖れられながら、遂に恵まれぬままの地位に斃れ去った歴代卒業生の屍の上に、今日の大早稲田電気の殿堂が築かれた歴史を忘れ、今日の後輩、学生がこの繁栄を己の実力と誤認して高棲に坐し、その遺産に安逸を貪ぼり今日もなお根強く残存する官学偏重思想に再び敗退する怖れ無き哉。優秀私立大学が抱える多くの矛盾の下、思えばすべてこれ予断を許さぬ早稲田大学電気工学科の未来であろう。

 最後に紙面の関係上、当学科の揺籃期より不遇下に苦闘よく今日を築き上げ、今は既に大学を去った教授に限りその略歴を記して鎮魂の辞とし、百年誌電気工学科編の結びとしたい。

山本忠興・明三十八年東大卒、理工学部長、理事、電気学会々長、発明協会恩賜賞、朝日文化賞、名誉教援、工博、電気工学科建設の大恩人、昭二十六年没。

堤秀夫・大二年早大電卒、東北大理、スタンフォード大、イリノイ大留学、理工学部長、大学院委員長、理事、電気学会副会長、学術会議会員、名誉教授、工博、本学出身最長老、昭五十年没。

○坪内信・大三年早大電卒、電気通信工学研究の先駆者として活躍、大十五年急逝。

川原田政太郎・大五年早大電卒、グラスゴー大、ソルボンヌ大、G・E社留学、恩賜賞、朝日文化賞、特許三百件以上、国立科学博物館に大肖像写真と発明品展示、電気機械の権威、名誉教授、工博。

黒川兼三郎・大五年早大電卒、M・I・T留学、回路理論の権威、“回路の早大”樹立者、学術会議会員、通信学会々長、工博、昭二十三年急逝。

○上田大助・明四十四年東大電卒、電気鉄道工学の権威、電気科育成の恩人、工博、哲学関係の研究でも著名、昭五十五年没。

○上田輝雄・大六年早大電卒、電気機械設計の権威、工業経営学科初代主任、経営学会々長、工博、昭五十三年没。

○大隅菊次郎・大七年早大電卒、山本のもと、川原田、上田(輝)とともに斯界に君臨した“早稲田の電気機械”時代を築いた三羽烏の一人、工博、昭三十九年没。

○村山茂・大七年早大電卒、昭八年日立製作所より転出、電気機械設計、昭二十二年没。

○門倉則之・大正八年早大電卒、照明工学の権威、照明学会副会長、工博、昭十八年退職。

○帆足竹治・大九年早大電卒、東北大理留学、黒川と共に回路理論の双璧、帆足の定理で著名、第二理工学部長、理事、名誉教授、工博、昭五十年没。

○埴野一郎・大十一年早大電卒、電気学会々長、電力工学の権威、早大電力工学研究室育成の功労者、システム工学の先駆者、名誉教授、工博。

○荒畑誠二・昭三年早大電一卒、学究型、電力機器、名誉教授。

○高木純一・昭六年早大電一卒、第一理工学部長、理事、NHK放送文化賞、労働省顧問、理論分野の総帥、人間工学、社会工学の開発者、科学史技術史でも第一人者、名誉教授、工博。

○野本尚志・昭十年早大電二卒、電子工学、昭四十一年急逝(広田友義、岩片秀雄、田中末雄各教授は通信学科編参照)

 なお、勤続十年未満および現役教授以下の教室構成員の紹介および六十八回に渉る電気工学科卒業生諸氏が、学界・産業界・官公庁等において官学偏重、私学蔑視の長い暗黒時代を悪戦苦闘、正に瞠目の活躍により、学の内外・相俟って今日の大電気工学科建設を成し遂げた事実の紹介も、百年史としてきわめて重要なことではあるがその数余りに多く、止むを得ず一切割愛せざるを得なかった事を遺憾に思う次第である。

五 資源工学科

ページ画像

1 採鉱科時代

 明治四十二年、早稲田大学二十五周年記念事業として大学部理工科を創設し、同年九月機械科、電気科、翌四十三年九月採鉱学科を設置し、明治四十五年には大学部理工科採鉱学科一年、二年、三年の学生が充実した。創設時の明治四十三年、採鉱学科主任(当時は教務主任の名称であった)は徳永重康で、翌四十四年附属工手学校が開校され、その校長となり、小池佐太郎が採鉱学科主任となった。なお、工手学校には機械科、電工科、採鉱冶金科および建築科の四科があった。明治四十五年、各科に顧問制度ができ、採鉱学科では渡辺渡が顧問に就任し、大正八年六月死去まで在任し、その後この制度は廃止された。大正六年一月、教務主任は小池佐太郎より徳永重康に交替した。

 創設当時、小池佐太郎は、採鉱学、冶金学、選鉱学、地質鉱物実験および外国語まで一人で担任するほどで、土木工学(山田)の講義はあっても火薬学はなく、大正二年に火薬学(西松)、大正四年に化学分析(小室)、大正七年に鉱業衛生が開講され、外国語、卒業論文を含め学科目三十一科目にして、大正五年、採鉱学科一年生より採鉱冶金学科学生となった。

2 採鉱冶金科時代

 大正七年には、三年生まですべて採鉱冶金学科の名称の学生となった。当時の学科は三学年合計三十六科目にして、必修、随意科目などの名称はなかった。大正四年十一月、目黒恵比須ビール会社にて、卒業生の専門的知識技術の普及および親睦を図る目的で「早稲田採冶会」の創立総会が開かれ、小池佐太郎会長ほか、教員、学生三十三名が出席した。当時、工手学校には「採鉱冶金科」はあったが、大学部には「採鉱学科」だけで「採鉱冶金学科」はなかったのに「採冶会」の名称が先に生れたことになった。大正九年四月、新大学制度改革により大学部理工科は理工学部になり、採鉱冶金学科は採鉱部、冶金部の二部に分け、学科目を配当、必修、共通、随意科目にし、採鉱部必修科目十一、冶金部必修科目十二、両者共通として三十一科目、その他随意科目として外国語が三科目設けられた。大正九年、新制度発足後の十二月、能村干別が教務主任となり、徳永重康と交替した。大正十二年三月、能村干別は北海道鉱山調査中病死し、教務主任に徳永重康が再任された。従来、一年生から採鉱部、冶金部と分けて教育したものを、大正十四年四月からは、三年生になって採鉱専攻、冶金専攻とに分けた。一年、二年の履修科目はすべて共通必修の四十五科目にして、三年での採鉱、冶金両専攻必修は六科目、随意科目として外国語は各学年一、計三科目であった。昭和二年四月、教務主任徳永重康は吉川岩喜と交替し、昭和十三年十月、吉川は平壌高等工業学校校長として赴任するまで在任した。昭和九年には、三年学生が採鉱、冶金両専攻のための必修科目を履修する在来の方法をやめ、一年生から必修、選択および随意科目の三種目をとり、採鉱専攻でも冶金の講義を、冶金専攻でも採鉱の講義を受け易いように選択科目中よりの取得自由度を増した。

 大正九年、学制改革時に随意科目として「外国語」が認められ、昭和八年には「教練」が同じく随意科目として認められた。昭和十三年十月、吉川岩喜退職後、徳永重康は三度目の教務主任となり、翌十四年四月、米沢冶太郎と交替した。従来の「採鉱」「冶金」の考え方を三年生にのみ適用するのをやめ、以前の「採鉱部」「冶金部」のように、昭和十五年からの一年生のはじめから採鉱専攻、冶金専攻に分け、それぞれ第一分科、第二分科の名称を与えた。昭和十年四月、各科に付属して工業経営分科が設けられ、昭和十三年三月、採鉱冶金科工業経営分科第一回生を世に送った。昭和十五年に第一分科、第二分科に分かれたと同様に、工業経営分科としても二部に分かれ、つまり、第一分科、第二分科、工業経営分科第一部、および工業経営分科第二部の四つのグループに分かれていた。昭和八年から随意科目としての「教練」は、昭和十四年から必修科目となり、昭和十六年十二月、第二次大戦突入後の翌十七年には「造兵学」が選択科目として設置された。

 大正九年、学制改革の後、大正十一年「採鉱及冶金機械学」(青山)、大正十三年「物理的探鉱」(藤井)を翌十四年「物理探鉱」(藤井)に名称を変え、大正十一年「燃料」(吉原)、昭和二年「試金術」(野村)が設置されたが、「物理探鉱」「燃料」および「試金術」の名称で、いずれも「学」がついていなかった。昭和七年には鉱業概論的なものとして「鉱業工学」が設けられたが、翌八年には廃止になった。これとほぼ同じ内容の「鉱山工学」が、昭和三十年代に一時期開講された。鉱物利用の拡大と実用化とを主にした「鉱業材料学」(北沢)が昭和十五年に開講したが、戦乱の中で自然廃止になった。戦後、専門部工科鉱山地質科に「鉱業工学」(三宅)の講義が設けられたが、内容的には「鉱業材料学」と同じで、新制大学発足と同時に専門部工科は廃止になり、講義もなくなった。また、産業界では労働組合が認められ、専門部工科鉱山地質科では、いち早く、「労働法」の講義を設置し、新制度鉱山学科の科目にも組み入れられ、後には「鉱山保安法」の講義と替った。

3 専門部工科鉱山地質科の創立

 昭和十四年から専門部工科は設けられていたが、戦争が苛烈になるに従い、技術者の払底を来たし、求職は割当制になり、どこかに必ず就職しなければならない社会状態となり、終戦一年前の昭和十九年四月、専門部工科に鉱山地質科を設置した。それに先だち、三月六日、鉱山地質学科学生募集、入学試験を行った。受験科目は、「数学」「国語」「作文」および「物象」となっており、「英語」は敵性語との理由で省かれていた。定員百名を募集したが、授業もろくにできずじまいの内に終戦を迎えた。なお、この学科新設に当っては、校賓各務良幸の資金援助と中野実の努力によったものである。学科主任は野村堅が就任したが、秋田に疎開のため、藤并鹿三郎がその任に当った。

 専門部鉱山地質科学生は、希望および選考により、新制度の第一理工学部に移籍したが、主に鉱山学科、金属学科に、その他少数は他学科に移籍した。昭和二十五年、第四回卒業生をもって、鉱山地質科は完全になくなった。第一回生は、旧制の採鉱冶金科、昭和二十五年の卒業生と同じクラスに、第二回生は、旧制最後の二十六年卒、第三回生は新制鉱山科第一回生となり、同じく二十六年に卒業した。

4 鉱山学科時代

 昭和十四年四月から採鉱冶金学科主任は米沢冶太郎が、二十一年九月から二十四年三月まで塩沢正一が、それぞれ学科主任の職にあった。

 昭和二十四年四月、新制度大学令発足後、鉱山学科主任(旧制では教務主任)に米沢冶太郎が再任され、同年九月に中野実と交替した。昭和二十四年五月に早稲田大学教旨が改められ、理工学部は、第一、第二理工学部ができ、前者は昼間、後者は夜間授業を行い、鉱山学科は第一理工学部に設置された。この鉱山学科は、旧制度の採鉱冶金学科第一分科を分離独立し、また、専門部工科鉱山地質科を吸収合併したもので、学科の教育目標を「鉱業に必要な応用地質、探鉱、採鉱、採炭、採油、選鉱及び選炭等に関する技術者の養成」においた。

5 学科主任、教員の動き

 鉱山学科時代の学科主任および教員の異動は次の如くである。

 昭和二十五年四月、今并直哉は新潟大学に転任退職し、二十六年三月、米沢冶太郎は十二年間在職し定年退職した。昭和二十九年三月、北沢武男(選鉱、冶金)は、明治四十五年二月就任以来四十三年間の長期在職の後定年退職し、藤井鹿三郎も北沢同様、明治四十三年一月より昭和三十一年三月まで四十三年間在職、定年退職した。昭和二十九年四月青山秀三郎が就任、一年後の昭和三十年九月、防衛庁技術研究所長として転任のため、退職した。三浦勝(採鉱)は昭和十九年五月より昭和三十年三月までの十一年間在職し定年退職した。田辺武夫(地質、鉱物)は、昭和十七年四月より十八年間、昭和三十五年三月定年退職した。昭和二十八年四月、斎藤平吉(冶金、製錬)は十年在職し昭和三十八年三月定年退職した。中野実は、昭和二十四年九月より昭和三十九年八月末まで、十五年間学科主任を務めた。

 その間、昭和三十六年四月以降より鉱山学科は資源工学科と改名した。

6 実習、見学課目

 これより以前、終戦後は食糧、交通事情共に悪く、「調査報告」すなわち「現場実習報告」の提出もできかねる状態のため、昭和二十六年卒業生までは、「鉱山見学」で「調査報告」の課目に代用した時もあった。また、この年度卒業生以降は、「調査報告」を「実習報告」と名称を変え、「鉱山見学」とともに必修課目とした。昭和二十七年度から、学生の卒論作成専攻研究部門を「応用地質」「探鉱」「採炭」(保安および能率を含む)「選鉱及び選炭」の五部門に分けた。昭和三十年初頭に、国内石炭生産がピークになったと同時に、石油の進出が漸増し始め、昭和三十年代後半に炭鉱の閉山が多くなり、また、これに続いて金属鉱山は、外国鉱石輸入の増加に伴い、鉱山は採鉱より製錬加工が主体となり、採鉱所の縮小、閉山と、炭鉱同様の傾向にあり、必修課目としての「鉱山見学」を選択課目として改めた。

7 資源工学科時代

 戦後の鉱山学科では、時代の趨勢に従い、教室の主要研究目標を石炭の生産と保安に重点を置いてきたが、石油の需要が石炭の需要に取って代り、学科目によっては「必修」を「選択」にせざるを得ない等の諸状勢の変化により、広く地下資源の探査開発という本来の目標に向かうと同時に、未利用資源やエネルギーを含む技術的開発に重点をおく意味で、在来の鉱山学科を、昭和三十六年四月、種々紆余曲折の末、資源工学科と改名した。因に、その後、他大学の鉱山学科は、秋田大学を除きすべて、資源工学科または資源開発工学科と改名した。昭和三十七年三月、早瀬喜太郎はブラジル国硫黄鉱業開発のため退職、同年四月、今井直哉が再任された。

 学科主任は、資源工学科改名後も、引続き中野実が留任し、昭和三十九年九月、田中正男と交替し、昭和四十一年九月、井上勇に、昭和四十三年九月から四十九年九月までは伏見弘に、昭和五十一年九月までは萩原義一に、同五十三年九月までは森田豊夫に、五十五年九月までは房村信雄に、以後現在(五十五年十一月)山崎純夫がそれぞれ学科主任を務めている。その間、中野実が昭和二十九年十月から同三十三年四月まで、井上勇が同四十二年十月から四十七年九月まで、斎藤平吉は同三十五年十月から三十七年九月まで、理工学研究所長を務めた。なお、五十五年九月よりは今井直哉が理工学研究所長を務めている。

 理工学部長の補佐役としての教務主任に、田中正男は昭和三十七年九月より四十一年九月までの間、橋本文作は昭和四十七年九月から五十一年九月まで、それぞれ務めた。また、大学院理工学研究科委員長の補佐役としての教務委員を、原田種臣が昭和五十一年から昭和五十五年九月までの期間務めた。昭和四十四年三月に田中正男は五十歳の若さで死去した。昭和四十七年三月には直良信夫が定年退職し、昭和四十八年六月に中野実は当科のための数々の業績を残し、定年まであと一年の六十九歳にて世を去った。昭和四十九年十一月、井上勇が在職中死去した。

8 会誌、会報の発行

 大正四年十一月に早稲田採冶会が発足してより三年後の大正七年十二月に、早稲田採冶会会報第一号を創刊し、採冶会会長徳永重康の発刊の辞、祝発行の題字に、(法博)平沼淑郎、(工博)浅野応輔、(工博)渡辺渡、(法博)高田早苗、(工博)阪田貞一の名が記載され、論文報告数は、教員七名、学生十七名(報文二十)、二百余頁に達し、堂々創刊号を飾った。大正十五年、第六号にて廃刊になったが、その間、約七十の論文報文の記載がある。昭和十三年一月、早稲田採冶会通報を発刊、吉川岩喜会長の「発刊の辞」、徳永重康の「ソ連教育制度」、塩沢正一の「会員への希望の辞」、および採鉱冶金学科の新校舎紹介記事、学生の実習報告、校友消息、参考資料としての文献記事など、十六頁余あり、一月一日発行であるにも拘らず、年賀の辞が省かれ、「時局に鑑み年頭の御挨拶欠礼仕候」とあり、専任教員として、徳永重康、小室静夫、川合幸晴、北沢武男、中野実、吉川岩喜、野村堅、三宅当時、前田六郎、塩沢正一、藤井鹿三郎の名が載っている。

 昭和十五年二月、徳永重康が第六号に、同年三月、小室静夫が第七号にそれぞれ各人の追悼文を記載し、昭和十八年十二月、前田六郎は第八号をそれぞれ追悼号として記載し、廃刊となった。戦後、昭和二十三年六月、ガリ版刷りの早稲田採冶会通報(復刊第一号)、同年三月復刊第二号をもって廃刊になった。

 研究雑誌としては、昭和二十二年十二月、理工学部鉱山学研究報告第一号を発行、昭和二十六年、第四十九号まで継続発行した。昭和二十七年四月、創立七十周年に際して、鉱山学研究報告第二巻五十号を発行した。それ以前、日本鉱業会誌に発表した採鉱学研究報告第四十九号までの分を第一巻とした。戦後の物資不足により、学校での学会誌発行が困難となり、日本鉱業会誌に掲載された分を鉱山研究報告に代用した。このような措置は、他の学会でも行われていた。この会誌の創刊以来、発行に尽力した早瀬喜太郎は硫黄の研究に熱心で、昭和二十五年四月、昭和二十七年十月の二回、硫黄特集号を発行し、昭和三十四年七月まで続刊した。

 昭和四十二年十二月、資源工学会会報第一号を発行した。旧採冶会から脱皮して、採鉱関係卒業生の親睦連絡機関として、資源工学会の第一回総会を昭和四十一年七月に開き、第二回を四十二年十月二十八日に理工学部新校舎にて開催した。その後、毎年春に、資源工学総会を開き、年一回会報を発行している。

9 教室の動き

 昭和二十四年、鉱山学科になってからは、教室として炭鉱、鉱山の環境安全を重点的に取扱い、「鉱山保安学」を他大学に魁けて開講し、同時に鉱山保安研究室を開設した。翌、昭和二十五年には、「鉱山保安法」が公布された。昭和二十三年、中野実の「坑内浮游炭塵」、同二十九年、房村信雄「炭塵の爆発性」、昭和三十二年、田中正男の「石炭の自然発火」、同三十四年、萩原義一「さく岩粉塵の抑制」、山崎豊彦「本邦炭鉱における炭層ガスの研究」同三十五年、橋本文作「通気による坑内冷却」、等、炭鉱保安関係学位論文が作成された。これらの研究と相前後して、石炭増産、炭鉱爆発、石炭採掘による公害および炭鉱のスクラップアンドビルドの諸問題が、引き続き起きてきた。このように、時代に応じて学科目も変化せざるを得なかった。まず、鉱山科学生としては、せめて「鉱山見学」は必要であり、必修として設置した。

 中野実は、昭和三十一年四月より三十二年三月までと、昭和三十六年四月から三十七年三月までの二回、日本鉱業会副会長を務め、藤井鹿三郎は、大正十三年、「物理探鉱」の講義を始めたが、後年、助手を務めた遠藤源助は、戦後の昭和三十三年五月、物理探鉱技術協会の創設に参画し、昭和四十八年四月、副会長に就任した。房村信雄は、昭和四十七年五月、日本保安用品協会、中野実は昭和四十四年四月、萩原義一は同四十八年六月に骨材資源工学会に、今并直哉は昭和三十九年十一月に粘土学会に、大塚良平は昭和五十二年十月に日本熱測定学会等に、それぞれ会長を務めた。昭和八年、徳永重康は満蒙学術調査団長として活躍、直良信夫は調査に参加、報告書作成、編集に多大の努力をした。また、徳永は昭和十二年、第二回万国地質学会がモスクワにて開かれた折、日本地質学会会長として出席した。北沢武男は、大正中期より昭和初期にかけ、政党政友会の領袖であった森格代議士の技術顧問として、ミッションを作ることなく個人として、中国の華北、華中、満州(現在の東北)など大陸の資源調査を精力的に行ったが、残念なことには、それらの調査資料は戦災焼失した。昭和十五年、米沢冶太郎、中野実および山県倫彦は、「日満支石炭の地質学的物理的研究」にとり組み、同年二月、徳永重康死去後もこの研究を継続した。昭和十八年から二十年の終戦まで、中野実は、山県倫彦、森田豊夫を伴い、インドシナ、華南および華北地区の資源調査に従事し、特に二十年五月からは、天津地区を調査した。終戦の翌二十一年八月から約一ヵ月半、米沢冶太郎、中野実、田中正男、森田豊夫、今井直哉、房村信雄、山崎純夫他、先輩、学生計十五名の多勢にて、北海道朱鞠内地区の炭田調査に従事した。昭和二十三年には、炭鉱国家管理から石炭庁ができ、中野実は第一次調査団に参画、萩原義一は第二次調査団以降より参画した。同年九月初め、中野実は宇部沖ノ山炭鉱調査中、多量の坑内出水を見て、防水措置を採るよう、注意を喚起したが、その措置がとられぬ間に、九月十二日、海底から一九六メートルの坑道まで大崩落を起し水没し、死者は一名であったが、大被害が起きた。この災害事故により、法規の改正が行われ、当時副所長だった岩沢栄(昭和七年卒)は、これら事故解明と防止対策を論文にまとめ、昭和二十六年二月、本大学より学位を授与された。

10 学生の動静

 大正初期の学生の写真や話などからみると、下駄ばき袴をはき、腰に手拭をぶらさげるタイプと、制服制帽着用の者とあり、行動も、あまり学校に来ないで町中を游弋するのと、毎日勉強に通学する者、スポーツだけに登校する者など、種々あったようである。向学心に燃え、不勉強な教員には発破を掛ける程の者もおり、率先して見学旅行、研究発表を行い、早稲田採冶会の記事を見ても、如何に真摯に勉学や研究にいそしんだか如実に知ることができる。教員の中には、マイホーム主義を捨て、家庭を顧みることなく研究にいそしみ、情熱を込め、学生の指導に当った教員の名講義は、今だに語り伝えられている。大川英三(大正七年卒)によると、戦後、古河鉱業が足尾鉱山で自熔製煉に先鞭をつけたのは、学生時代受けた小室静夫の講義が原動力になった、と感謝している。

 大川は、陸上競技、剣道および相撲などスポーツに万能で、特に相撲部創設に尽力し、仲間とともに相撲道場を設営した。当時から、東大採鉱冶金科の学生とともに、東大の神保小虎教授引率の下、秩父地方の地質旅行など、東大との交流があった。昭和十年代には、東大採鉱冶金科と交歓野球試合を、戦後は、野球以外に水泳、サッカーなど、時にはダンスパーティーなどを開いた。戦後の食糧不足時には、大学の久留米錬成道場の畑でとれた芋をリヤカーで本郷や戸塚に運び、交歓会用に供した。昭和二十四年、新制大学となり、東大と早大との学生数がアンバランスになり、交歓会は自然消滅した。昭和十四年春、理工学部三年学生(有志)は、現在の皇居前広場に「勤労奉仕」の名のもとに、リヤカー、モッコ担ぎなど、砂利、砂運びが行われたが、これが学生の勤労奉仕の最初かと思われる。開戦の昭和十六年は皇紀二千六百年に当り、皇居前広場の整備作業は、学生の勤労奉仕が盛んになったが、昭和十九年一月―三月の間、第一分科(採鉱専攻)学生は、三菱鉱業尾去沢鉱山(秋田県)に勤労動員し、昭和十九年十一月―二十年八月の終戦まで、二、三年学生は、軍需省兵器総局の仕事として国内資源調査に従事した。当時、学生だった今井直哉、房村信雄、山崎純夫らの収集作成した貴重な報告書は、終戦と同時に破棄した。第二分科(冶金専攻)学生は、陸軍第四・第八技術研究所、海軍航空技術廠追浜支廠、中島飛行機武蔵野製作所の各所に動員された。昭和十九年十月、一年学生は学徒消防特攻隊を組織し、東京都の米軍機爆撃による火災消防のため、三日置きに消防署に勤務し、中の二日間は登校、授業を受けた。当時、採鉱冶金学科一年宮輝雄(昭和二十二年卒)は、荒川消防署に勤務したが、他科学生は深川消防署に勤務。罹災、死傷した者もあり、学友同志で葬儀を行った。消防署勤務は、昭和二十年三月十日(ちょうど、この日は陸軍記念日に当る)未明、東京大空襲を受けた日まで続けられ、その後、軍需省よりの動員によって、新潟、秋田および山形の各県油田地帯の調査に従事、大部分の学生は、昭和二十年八月十五日の終戦を山形県酒田で迎えた。昭和十九年後半に、宮輝雄は、早大理工学部学生報国隊隊長として戸塚警察署に交渉し、雑炊食堂での食券発行権の許可を受けた。宮の印鑑のある食券を雑炊食堂に持って行けば学生は雑炊にありつけたわけである。昭和二十一年春頃、当時三年学生だった滝本文男(昭和二十二年卒)等は、長門美保を招き、歌劇「蝶々夫人」を大隈講堂で公演し、切符売上代金によって、早稲田採冶会会員名簿を作った。当時、紙の不自由にも拘らず、立派な六十頁の活版刷りができたのは、この歌劇に人気があり、売上金も多かったと思われたが、後の話によると、長門美保は、歌劇の普及と、学生がアルバイトをして生活するのを見て同情し、切符売上金を私することなく、全部寄附した形で、今でいうチャリティーショーであったとのことである。宮はまた、終戦後は理工学部学生自治会初代会長となり、学生自治活動を始め、自治会室として採鉱冶金科の事務所の半分を割愛して利用することを認められ、後に早稲田大学学生自治会として発展した。仕事としては、内藤多仲学部長、各学科主任と各科学生自治委員との意志疎通の会を開いたくらいであり、大きく全学的問題としては、早慶戦野球切符割当に不明瞭なことによって、野球ボイコット事件に活躍した程度であったが、後には、法文系自治会委員の運動が漸次過激になり、理工学部自治会は、自治会を脱会した。敗戦に終った後は、一般社会全体が目標や目的を失い、虚脱状態に陥り、大学でも多分に洩れず、採鉱冶金科の教員の中には、大学生よりもっと若い中学生に情熱を注ぎ込むべきだとして、潔く(?)中学校の教員になった者や、自力で商業を営むべきだとして、教職を抛った者などあった。しかし、学生の中には着々目標を決め、勉学に励み、教員側の腑甲斐なさを見て、早く虚脱状態を脱却するように申入れをする者や、自ら採炭夫と同様、苛酷な条件で坑内実習を行い、卒業後は、基幹産業の炭鉱に自ら飛込んでいった者もいた。教員側の研究分野の関係から、戦後の卒業生は石炭会社に多く行き、次いで、金属関係鉱山その他になっているが、特に注目すべきは、早瀬喜太郎が硫黄の研究を精力的に行い、前述の如く「硫黄特集号」を発刊し、硫黄鉱業界に大きな評価を得、それに関連して、殆どの硫黄鉱山に一時期、当科卒業生が行き渡った。

 昭和二十三年夏、郷原清(昭和二十四年、専門部鉱山地質科卒)ら学生七―八名は、宮城県鳴子町の依頼にて、温泉ボーリングを二ヵ所掘り当て、「稲門湯」、「早稲田湯」と命名、町より感謝された。硫黄鉱山は、脱硫研究が進み、昭和三十年代後半から硫黄鉱山の閉山が続き、四十年代前半には殆ど閉山の状態になり、金属鉱山、石炭鉱山と同様、漸減の傾向になり、石灰石鉱山は、セメントの需要と共に命脈を保ち、石炭会社はセメント事業に力を入れ、卒業生も炭鉱よりはセメント関係に配置転換される例が多く、昭和三十年代初めより商社関係に行く者が、鉱山関係に行く者と、とって代った。石炭鉱山の斜陽化とともに、昭和三十四年頃より石油会社への就職も次第に多くなり、昭和五十一年度卒業で石油会社に入社した者は、修士を含めて十三名、同年度全国大学資源関係卒業生で石油会社入社人数の半数近くは当科の卒業生で占められた。山崎豊彦は、石油の技術教育、研究指導により「石油技術協会賞」を五十一年度に受賞した。昭和四十年代には、列島改造論が起り、新産業都市開発等に伴い、砕石事業が活発になり、その方面にも新しく進出し始めた。

 昭和四十一年三月には、理工学部大久保校舎は未完成で、本部旧校舎と大久保新校舎の一部とを併用していた。当時、「授業料値上反対」「学生会館自主管理」問題が紛糾し、学内で恒例の日本鉱業会春期大会の本部旧校舎での開催が不可能になり、急遽、当時理工学部教務主任をしていた田中正男は、バリスト学生側と折衝し、大久保新校舎四号館で開催することができた。教室や廊下に、机や椅子で天井近くまでバリケードを作り、大会参加者は、それに従って入場する形となったために、参加者から、坑道を通っている気分になると皮肉られた。また、バリスト学生側の要請により、入場者は、受付にて名札を胸につけることになり、この大会以降から、参加者は名札をつける習慣ができた。昭和三十四年三月の卒業式に、フィリッピンからの当科の留学生フィリップ・ガロ君のことが大きくニュースにとりあげられた。マニラから式に出席した両親を前に、大浜総長は式辞の中で感想と激励を述べた。戦争中、フィリッピンで銅鉱山を稼行していた三井金属鉱山㈱の尾本常務は、現地において、ガロの父親が勤務し、終戦近く物資食糧不足による不満などがあり、現地従業員側と会社側との協力体制に努力して終戦になり、その後消息不明になっていたが、数年後、連絡がとれた時は、ガロ君の父親家族は貧窮にあることが分り、尾本常務は昔の恩義を感じ、令息を早大資源工学科に留学させ、一人前の鉱山技術者として勉学の機会を与え、見事、蛍雪の功なって卒業という次第となった。当時の新聞、ラジオ、テレビは、日比友好の礎として大きく報道した。昭和三十七年十一月三日、神奈川県油壺からのヨットレースに参加した四年学生、小島信浩君は、暴風雨のため行方不明になり、同級生が手分けして房総半島、三浦半島の東京湾沿岸を幾度も捜索したが、何の手掛りもなかった。本人は成績も良く、就職先も殆ど決まっていて、卒業論文も友人と共に作成最中であったが、彼なきあと、友人らによって完成し、昭和三十八年三月には見事卒業ということで、母親は同級生と一緒に卒業証書を感激と涙とで受領し、クラス一同、悄然とした。昭和三十八年十一月九日、三并三池炭鉱で、死者四百五十八名、重軽傷者七百九十二名の空前の大爆発事故が起り、中野実と房村信雄は、早速、政府調査団委員として原因調査に派遣された。当時、北九州市戸畑の北九州工業大学で、日本鉱業会秋期大会が開催中で、資源工学科教員の殆どはこの学会に出席していた。幸か不幸か、この大惨事には、当科卒業生には罹災者はいなかった。しかし、同日、国鉄鶴見駅にて電車の追突大事故があり、二年学生、稲葉浩三君は被災死亡した。

11 海外実習、研修、交流

 昭和四十三年には、早稲田大学イアエステ委員会が、難波正人学部長、田中正男教務主任の協力によって発足、工科学生の海外研修機関ができた。昭和四十三年七月より三ヵ月間、四年学生、泉川千秋は、西ドイツ・ライン石炭工業の研修に、翌四十四年七月には、同じく四年学生、片山実は、スウェーデンの鉱山に約三ヵ月実習した。昭和四十四年五月、モスクワ大学ユーリ・オシポフ(地質学)現教授は、六ヵ月間、研修来校した。昭和四十九年八月中旬より九月上旬にかけ約二十日間、三年学生十四名は、伏見弘、森田豊夫両教授引率の下に、タイ、マレーシア、インドネシア、ブルネイおよび台湾の鉱山、炭鉱および資源関発大学、研究所を見学した。四年青木和弘は、昭和五十年九月より一ヵ年、ウースター大学留学、八月、米国鉱業会大会に出席、昭和五十一年八月、三年学生、倉科昭彦外三名は、カナダ・シェル石油カナダ支社にて実習、昭和五十三年九月より二ヵ月、修士一年、神谷夏実は、フランス原子力庁サクレー原子力研究所にイアエステ研修員として実習した。同年十一月末より約一ヵ月半、大学院学生、原田道昭は、第二十次南極観測隊員として参加した。その他、文部省奨学金留学生として、昭和五十三年十一月、韓国の崔善奎(高麗大学、地質学)が研修来校、また、同年十一月より五十四年二月末まで、ペルー鉱業技術研究所研究員ハビエル・がリー、同五十四年一月より二月末まで、ペルー中央鉱山技師ヴィクター・R・エスピノザが研修のため来校した。

12 施設、標本

 大正五年第四回卒業生、塩沢正一(現名誉教授)の話によれば、実験室の設備として、試金室に坩堝一基、マッフル炉二基、化学分析室に実験器具が少数、選鉱実験室には、ブレーキ破鉱機、ロール破砕機、テーブル分級器があり、何れも鉱山の古物で大きすぎて実験用にはならなかった。大正十一年四月、助教授になった時は、能村干別が主任で、専任教員は、徳永重康(地質、鉱物)、藤井鹿三郎(測量)、北沢武男(冶金、選鉱)、小室静夫(冶金)、野村堅(試金)、三宅当時(冶金)、野村松三(採鉱)で、教授陣は強化されたが、実験設備は相変らず貧弱で、三十坪のバラックにジロー電気炉一基があったが、変圧器の容量が少ないので実用にならなかった。他に、化学天秤一台と分析装置などであったとのことである。戦前、恩賜館にあった教員室、実験室等は、昭和十二年九月、現在の本部六号館と七号館に移転した。六号館は、地下一階、地上四階と屋上および恩賜館一部とで、総面積三二七七・七三八平方メートルで。以前の九一五・〇九平方メートルに比べ、約三・六倍の広さになった。地階には、冶金、試金、金属加工、採鉱、選鉱各実験室と模型坑道があり、この坑道は、吉川岩喜の設計によるもので、断面五尺×六尺、直線部四十三尺と屈曲部とがあり、坑道の中心よりの距離二尺で、松材の三方枠の支柱を組んである。この枠組は、足尾鉱山のベテラン支柱夫によって作られ、通気測定用坑道として、末端部は地上、六号館角に出ており、現在は四角の鉄蓋で覆ってある。蓋をはずして四階まで風管を作り、立坑通気実験の予定だったが、この立風管は未完成のままになってしまっている。一階は事務所、図書室、会議室、研究室があり、二、三、四階は、実験室、研究室および教室、屋上は屋根裏を利用して、大広間に、鉱物、岩石、化石標本室として使用され、選鉱実験室は、地下実験室と恩賜館の一部を使用し、スタンプミル、テーブルなどが設置されていた。しかし、この選鉱実験室および屋上標本陳列室は、昭和二十年五月の空襲で焼失し、そのため、四階実験室や教室まで天井から雨漏りがあり、廊下に水溜りができ、板切れを置き、その上を歩く状態であった。電気、ガスも途絶えがちで、特に、ガスが止まり、熱源は電熱を利用する有様となった。六号館地下工事中、湧水があり、その処置として、地下採鉱実験室のフロアーに一×一×一・三メートルの立穴を掘り、ここに湧いた水を集め、排水するように作られ、その故、地下実験室は他の地下実験室に比し良く乾燥してある。中野実は、理工学研究所に研究室を持ち、石炭の爆発機構を研究しており、六号館屋上標本室に陳列できない本邦、満州および台湾、樺太の石炭標本を所蔵していたが、本部校舎が被災した同じ日の五月二十五日の空襲で、実験設備などとともに焼失した。昭和二十一年頃、鉱物収集家、桜井欽一より鉱物標本の売却の話があり、早瀬喜太郎の尽力により、石井英二(昭和二十六年卒)ら学生二―三名がリヤカーにて学校搬入した。戦中、興亜工学院に採鉱学科ができ、集めた鉱物標本は、戦後、工学院の採鉱科の廃止とともに、鉱物標本の一部もまた当科に搬入した。徳永重康の助手だった直良信夫には、焼け残った鉱物岩石および自分で集めた約千点の貴重な動物化石が、奇蹟的に残った。残った若干の岩石の中には、明治四十五年、大隈重信が後援して南極探検に行った白瀬矗中尉が記念に持ち帰ったものである岩石が、六十六年後の昭和五十四年冬、南極越冬隊に参加した大学院学生が持ち帰った岩石とともに、収蔵してある。採鉱冶金科から鉱山学科、資源工学科と変って、昭和四十二年三月、大久保新校舎に全面移転した。当時、資源工学科各研究室は五一号館十二、十三階にあり、鉱物岩石、選鉱、開発、原料等、各実験室は六一号館地下室に、山崎豊彦の研究室は火熱系のため、昭和五十四年九月新研究棟に移った。資源工学科専有総面積は一三三四・五平方メートルとなり、旧採鉱冶金科時代の約半分の面積である。

13 学生数

 大正二年、採鉱科第一回生より昭和五十四年三月、資源工学科まで、大学院および専門部工科鉱山地質科の一部を含めて確認できたもの約二千五百四十四名の卒業生を世に送ったことになる。

 新制大学になってからの教員と学生数は、次の如くである。

第六表 資源工学科教員・学生数(昭和二十六―五十四年度)

14 大学院

 大正九年、大学令に則った大学ができたと同時に、大学院制度も始まったと思われるが、採鉱冶金学科関係の大学院在学者数の状況は不明である。

 大正十三年九月に、吉川岩喜は「朝鮮平壌炭の研究」で、早大で初めての第一号学位を取得した。翌十四年三月、日下部義太郎は第二号を、昭和三年二月、徳永重康は第八号のそれぞれ工学博士の学位を得た。以下、鉱山関係で学位を得た者は二十名である。

 昭和十八年十月、第二次大戦中、技術者、研究者不足を補充する意味で、文部省大学院特別研究生制度ができ、給与は大学出初任給と大体同額の七十円で、第一回生として森田豊夫、第二回生、清水植美、第三回生、中并弘、第四回、山崎純夫、葛生秀、第五回、余田陽一、六、七回はなく、第八回、原田種臣で、第八回半ばまでは文部省より奨学金が給付されていたが、日本育英会制度ができてから、それにとって代った。昭和二十四年四月、新制大学発足に伴い、昭和二十六年四月に新制大学院(修士課程)に六研究科の中の一つとして、「鉱山及び金属工学科」の専攻を設け、昭和二十八年に博士課程を設けた。鉱山学科を資源工学科と改名後は、「資源及び金属工学科」とした。その目的とするところは、「近代産業の成立に不可欠な原材料資源、エネルギー資源の自然界における存在状態の把握、その開発および有効利用、資源の開発に関連する作業の安全および公害の防止等、広範囲の学問技術に関する研究」を行うところにある。研究指導部門の担当教員は、次の通りである。

資源科学部門 今井直哉 大塚良平 山崎純夫

探査開発部門 萩原義一 橋本文作

石油工学部門 山崎豊彦

原料工学部門 伏見弘 原田種臣

安全工学部門 森田豊夫 房村信雄 岩崎孝

15 学科目の変遷

一、大学部理工科採鉱学科時代(明治四十三――年大正六年)

明治四十三年、理工科採鉱学科創設時の第一学年の学科目は左の如く、僅か十五科目にすぎなかった。

第七表 大学部理工科採鉱学科課程表(明治四十三年)

採鉱学科第一学年

二、大学部理工科採鉱冶金学科時代(大正七年―大正九年)

三、理工学部採鉱冶金学科時代(大正九年―昭和二十四年)

 ⑴大正九年当時は採鉱部と冶金部とに分れていた。

第八表 理工学部採鉱冶金学科課程表(大正九年)

⑵ 昭和十九年、二十年度の学科目表は不明のため、十九年卒の学生(工業経営分科)の履修表を引用した。

第九表 理工学部採鉱冶金学科工業経営分科学修表(第一部、昭和十九年)

四、第一理工学部鉱山学科時代(昭和二十四年――昭和三十六年)

 昭和二十七年度の鉱山学科の学科目担当教員は次表の通りである。

第十表 鉱山学科課程表(昭和二十七年)

五、理工学部資源工学科時代(昭和三十六年――現在)

 昭和五十五年度までの学科目は次表の通りである。

第十一表 資源工学科専門教育科目学科配当表(昭和三十六―五十五年)

(Ⅰ) 専門必修科目

(Ⅱ) 1類2類共通専門選択科目

(ⅢA) 1類専門選択科目

(ⅢB) 2類専門選択科目

六 建築学科

ページ画像

1 建築学科開設の経緯

 明治四十三年九月に建築学科本科第一回生(二十二名)の授業が開始された。建築学科の誕生である。最初に、ここに至るまでの建築学科前史を簡単に振り返っておく必要があろう。

 早稲田大学における理科教育の開始は、厳密には明治十五年の東京専門学校創立時にまで遡る。創立時の専攻学科として、政治経済、法律、英語の各学科とともに理科が設置されていた。アメリカで天文学を専攻して帰朝した大隈重信の養子英麿が理科教育を推進しようとしたのである。理科のカリキュラムは理学一般を対象としたものであったが、その中に自在画法、幾何画法、測量技術などの科目が含まれていたことが注目される。

 明治前期の殖産興業政策は、あらゆる面で政府主導の性格が強固であり、技術者といえども官僚として存在せざるを得なかったこと、また私学として社会的経済的基盤が未成熟であったことの帰結として、十七年に費用のかかる理科は経営不振のため廃止されてしまったのであるが、このことは、私学における理科教育の先駆として銘記されるだけでなく、理工科の設置を大学あげての懸案として生き続けさせたといえよう。

 明治四十年の創立二十五周年を契機に具体化された理工科開設計画が、明治後期の漸く発達の気運にあった日本資本主義経済の要求に敏感に反応したものであったことは、次の計画趣旨からも窺うことができる。

理工科中、蓋し純正理学に関する学科は官立諸大学に於て既に完全なる設備あり、社会の需要を充たすに足るを以て吾大学に置く理工科は専ら応用的諸学科たらざるを得ず、即ち機械、鉱業、電気、土木、建築、製造化学等の諸学科是れなり。

 しかし、実験設備に多額の費用を要することや優秀な教授陣を揃えることの困難さのために、依然として私学による理工科経営は至難とされていた。それだけに早稲田の理工科開設は大きな社会的反響を呼ぶことになった。

 明治四十二年機械、電気、次いで四十三年採鉱、建築の順に設立されている。前者三学科については竹内明太郎氏との関係が大であったことが他でも触れられているが、建築学科が逸早く開始されたのはどのような理由によるのであろうか。他に比べてあまり設備費を必要としないことが考えられる。当時建築学科設立のために用意された設備は、ギリシャ・ローマの建築様式石膏模型二百六十四種、建築材料および器具標本類四百七十種のみであったという。他の積極的な理由と意義を考えるとすれば、当時の建築界の動向を見る必要があろう。この時期全国で建築学科が存在したのは、大学では東京帝国大学、専門学校では名古屋(明治三十八年)と東京(明治四十年)の各高等工業学校だけの状態であった。

 明治六年工学寮工学校に造家学科が設立され、後に工部大学校(明治十年)、帝国大学工科大学と改組されながら、国家による唯一の近代建築教育、研究機関として、少数エリートの人材育成が行われてきた。ここで明治十年から二十年まで在職したJ・コンドルの果した役割を想起すべきであろう。彼は少壮ながら、英国王立建築家協会の正規の資格を持つ正統的な建築家であり、日本の建築教育に、十九世紀ヨーロッパ流の重厚で、自由な職能としての建築家の理念をもたらした重要な人物であった。しかし彼は、二十年より終生、自ら建築設計事務所を開いて活動したように、明治の建築界で東京帝大建築学科の果すべき役割は、第一に国家社会体制の枢軸を固めることであり、コンドル流の理念は、必ずしもそこで十全な展開が行い得たとは言ないのである。東大建築学科の中でも課題として潜在していたといえよう。

 また、明治後期は近代工業の発達、社会の相対的膨脹によって、建設業界そのものも近代化が求められつつある状勢であった。

 早大建築学科創設の準備段階から実質的な顧問として尽力されたのは、明治十二年第一回帝大卒業生であり、二十六年から三十五年まで帝大教授、当時大御所的建築家であった辰野金吾博士であった。彼は大隈伯と同郷(佐賀)でもあったが、早稲田のために大変な熱意を傾注された。その後のやはり帝大教授であった塚本靖、伊東忠太等の尽力とともに、彼等の並々ならぬ援助の背景には、新たに早大建築学科が担うべき役割への無言の期待を拝察することができるのである。

 明治四十二年四月、佐藤功一建築学科主任教授に就任。佐藤は三十六年帝大卒業、弱冠二十九歳であった。一年間の欧米視察を了え、四十三年八月に帰朝、文字通り新進気鋭として登壇したのであった。

2 創設期の建築学科

 佐藤功一主任教授が当時の学長高田早苗と初対面の際「建築科のことは一切おまかせする。ただ本学は応用大学だから、これを心得て誰にも遠慮なく手腕をふるわれたい」と挨拶されたと伝えられている。佐藤は終生早大建築学科の発展に尽したが、特に創設期の努力、活躍は、まさに早大建築学科の開祖と呼ぶにふさわしい。担任教授の招聘、教材の準備、教育方針の確立、主任業務、卒業生就職の斡旋、学苑施設計画(大学営繕課長兼務)、そして多くの講義と製図、科外実習に献身されたが、この情熱の中に、早稲田が担うべき日本の建築教育・研究の第二期の理想がこめられていたといえよう。

 明治四十一年四月より理工科予科の授業が始まり、順次四科合併で行われていた。四十三年九月本科建築学科の授業開始に先だって発表された教授および教科目は次の通りである。

建築科顧問 工学博士辰野金吾

主任教授 工学士佐藤功一 西洋建築史、日本建築史、建築構造、建築製図

教務主任 中村康之助

講師 工学博士伊東忠太 東洋建築史

講師 岸畑久吉 絵画

講師 藤并鹿三郎 測量

 佐藤の授業は一学年の最初から始まり、後期には帝大卒業直後の内藤多仲が参加する。構造学、建築材料、パースペクティブが担当であった。当時既に大家として声望の高かった伊東の講義は、建築学科のみならず、文科の学生にも大きな期待をもって迎えられたが、東洋建築史は二学年から始まった。同じく二学年に、岡田信一郎の意匠学、建築学、英語、田辺淳吉講師(清水組技師長)の施工法が開始され、三学年には、材料学に吉田享二、衛生工学に森井健介(当時神木姓)が迎えられている。また絵画、自在画は予科より引続いて岸畑が担当していたが、美大より迎えられた今和次郎に代った。他に武石弘三郎の彫塑などを見ることができる。

 この頃の授業時間は午前中が講義で、各二時間ずつ二科目、午後はすべて製図に当られていた。当初から製図が重視されていたことが判る。製図の内容は一年がクラシック・オーダーなどのコピーで、東大から借りた学生作品が参考図として掲示されていたという。二年生は、二週間を期限としてコッテージ、レストラン、銀行、学校、裁判所、ホテル、病院などの課題が出された。佐藤、岡田、内藤先生たちの講評の厳しさや、学生も終日製図室に閉じ籠もって努力した様子が語り継がれている。三年は卒業計画が中心であった。

 講義では、佐藤功一の西洋建築史の講義にフレッチャーの建築史が教科書として使われた他には教科書はなく、大正六年内藤多仲の『建築構造学』の初版が出ると、これが使われた程度である。大正初期の建築学科図書室が所有していた日本語の参考書は、田中豊太郎『仕様積算』、三橋四郎『和洋大建築学』、中村達太郎『日本建築語彙』および斎藤の『規矩、和様建築図集』の四種のみであったという。他はすべてイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの原図で、これが設計上の参考に使われていた。

 実習は夏休みに行われ、一年生が日光東照宮、二年以上は関西、朝鮮、満洲などの見学旅行にでかけた。これは必修というより、原則として参加程度であったが、ほとんど全員が参加したようである。さまざまな武勇伝も伝えられている。

 第二回生が三年に進学した時、一、二年生に掛り切りになった佐藤功一の授業がなくなったことを不満としてストライキを行ったという逸話は、ほほえましくも当時の学苑の雰囲気を物語るものであろう。しかし一方では、早大建築学科の基礎を作るべき優秀な卒業生を送り出すために厳しい教育が行われたのであり、二十二名の入学者のうち大正二年の第一回卒業生は十一名であった。佐藤功一は機会あるごとに建築家としての修養を学生に説いていたようである。

 当時の学生は大隈老侯を“おやじ”と呼んで親しむ一方、その高遠な演説を一言も洩さず傾聴するような尊崇の中で育っており、全学的な早稲田精神の伝統と、総合的な建築家教育があいまって、早稲田建築独自の骨格が形成され始めたといえよう。

 とはいえ官立に互して道を切り拓くことは容易ではなく、建築学会正会員になれるよう、第一回卒業生三人(徳永、北村、間瀬)の卒業計画を学会役員に見せて、帝大と遜色がないことを説得したり、卒業生の給与も帝大と専門学校の中間になるよう佐藤主任等が奔走されたことなどが伝えられている。

 明治四十四年三月、附属早稲田工手学校創立(建築を含め四科、修業年限二年半、夜間授業)。これは中等技術者の養成を目的としたものであるが、新設の契機は、製図教室で夜遅くまで指導するための電気設備の拡充や先生方の給料の改善のために佐藤主任が提案したことであったという。

 同年四月には、理工他学科と同時に、建築学科各教室の建築が始まり、十一月に完成した。それまでは商科教室の一隅を使用していたのである。

 四十五年二月には学科顧問制が採用され、辰野金吾が建築学科顧問に嘱託された。

 同年六月に理工科業務部が創設されている。建築学科に属する業務取扱事項として次のような項目が上げられている。

一、和洋建築物の鑑定

一、和洋建築物及庭園の意匠設計並に工事監督

一、室内装飾の意匠設計製図並に工事監督

一、劇場背景の意匠設計製図並に工事監督

一、建築材料の材力及其の他試験並に敷地測量

 第一回から第十回までの卒業生百九十五名の生存者九十三名のうち、施工会社、設計事務所勤務または施工会社自営が三十八名、設計事務所自営が十九名を数えた(昭和三十八年現在の人数)。既に草創期の当初から、卒業生は施工会社と設計事務所への進出が目覚しかったのである。

 第一回の卒業生を送り出した大正二年を過ぎると、教授陣も一応揃い、カリキュラムも安定し始めたといえる。大正二年から八年までの学科配当はほぼ第十二表の如くである。

第十二表 理工学部建築学科学科配当表(大正二―八年)

 教科内容は、歴史・意匠・構造・材料・施工・設備・法規という分野を一応網羅し、従来の家屋構造・沿革・衛生工学・力学がそれぞれ住宅建築・建築様式・衛生設備・建築構造学と変わり、呼称が整理されたほか、美学・地質学・経済学などが廃止され、工事実施法・機械工学および電気工学などの科目が新設されている。このカリキュラムは翌大正三年卒業計画を加えて一応安定し、大正九年までほぼこの形で行われた。

3 新大学令と学制およびカリキュラムの改革

 大正七年に新大学令が発布され、官公立の大学とともに私立大学の存在が公に認められることになり、さまざまな機構改革が計画された。九年一月にその認可がおりると大学は学部編成となり、理工学部建築学科となった。これに伴ってカリキュラムの改革が行われ、教科内容の充実が計られた。また従来の九月始業が四月に改められたため、大正九、十年は変則的なカリキュラムとなり、旧制度の在学者は卒業まで旧カリキュラム、新年度の入学者から新カリキュラムを採用するという二本立が実施された。この時の新カリキュラムの大きな特徴は次の三点に要約することができよう。

 一、各分野の科目が細分化されたこと。特に構造および設備関係科目の充実が注目される。これはこの分野の学問研究が目覚しく進展したことを物語っていよう。

 二、これまで沿革、あるいは建築様式などと呼ばれてきた建築史に、初めて歴史という呼称が与えられた。この背景には次のような経緯もあったであろう。つまり、製図の課題には、当初は様式の指定があったが、学生の間からこの様式指定に反発する声が起り、教授側にはかなりの抵抗があったようであるが、大正九年ごろには様式指定は廃止され自由となったことである。建築学における建築史の機能が変わりつつあったことを推察させる。

 三、造庭学・都市計画その他の特別科目が新設された。

 この新カリキュラムは大正十一年より正規に施行され、多少の更改を伴いながらも昭和三年まで継続された(第十三表参照)。

第十三表 理工学部建築学科学科配当表(大正十一―昭和三年)

 昭和四年度より三年生に限って甲乙の選択制が行われるようになった。甲(装飾画・彫塑)と乙(建築構造学および演習)のいずれかを選択させるもので、意匠と構造に分けて、学生に特殊性を持たせようとするコース制のようなものであった。大正末頃の卒業生の話によれば、この頃既に学生の間で自主的に、構造研究会、意匠研究会が運営されており、特別に先生の指導を受けていたようであるが、このような要求は大震災と切り離して考えることはできないであろう。

 大正十二年九月一日、関東大震災で被害を受ける。震災復興活動のため建築相談部を組織している(大学部および工手学校建築科の教授と講師による)が、大震災以後構造重視の傾向が生れ、これが更に建築内部での専門分化の方向に拍車をかけることになった。この時の選択制はこのような傾向に対応する措置であった。

 昭和六年総長高田早苗が職を辞し、後任に田中穂積が選ばれた。田中は拡大に拡大を重ねてきた学苑が、その外延的拡張の結果、学苑の空気が形式化し、硬直化してきたことを憂慮し、六項目の改革要旨を掲げて学制の改革を断行した。その意図は詰込教育をやめ、学生自身に考えさせて自発的に研究させ、生き生きとした教育を行うということであり、そのために授業時間数を減じ、必修科目を減らして選択科目を置き、演習などに重点を置くというものである。この学制改革綱領は、各科教授会の討論に付され、各科教務主任・専門教授に委嘱して新学科課程が編成されることになった。この結果、全学各学部各学科の教育課程は大幅に改造された。建築学科の教科内容は、必修と選択がほぼ半々となり、同時に甲(装飾画・彫塑)、乙(建築構造学および演習)のコース別選択があらためて採用されている。この改革は昭和七年度新入生より、二期制、単位制とともに実施された。しかし、この昭和七年実施の新カリキュラムは、主要科目の殆どを必修とするもので、選択は三科目を選択必修とするという軽いものであった。

 次いで昭和九年度の変更においては更に徹底したものとなり、必修科目は僅かに設計製図・意匠および装飾演習・ABC(A設計演習、B構造演習、C設備演習)の中の一科目選択・卒業計画・卒業論文の五科目二十六単位となり、他は四十単位以上を任意に選択するという方式に変った。これは僅か一年間実施されたのみで、翌十年には、また各分野の主要科目六十九単位を必修とし、四十単位を選択する方式に戻った。したがって昭和四年から九年の間は毎年のように変更が行われたカリキュラムの激動期といえよう。しかし昭和十年以後は戦前を通じて大勢は変っていない(第十四表参照)。

第十四表 理工学部建築学科学科配当表(昭和十―十七年)

 このカリキュラム激動期を経た過程での特徴は、構造関係科目が一層細分化され、且つ同時に必修化されたことと、設備専攻コースが生れたこと、および建築史が昭和八年の変更を期に必修の地位から完全に降ろされてしまったことであろう。

 設備専攻コースに関しては、大正十二年春アメリカ留学から帰朝した大沢一郎(第二回卒)が着々と準備を進め、昭和九年に至って、設計・構造とならんで設備コースを確立したもので、他学に先駆けた先見的な改革であり、早稲田の特殊性として誇られたものであった。

 また、この改革を早稲田全学の中で見ると、理工学部各科の中では建築学科のものがいちばん徹底しており、文科系諸学科のものに近く、理工他学科では二、三の選択科目を置いたのみで大きな変革は遂げていなかったのである。

 時期は前後するが、この期間の建築学科に関連する事柄として次のようである。

大正十三年 早稲田専門学校開校

昭和二年十月 大隈記念大講堂落成

昭和三年四月 早稲田高等工学校開校(夜間工業専門学校、建築を含む四科)

昭和六年四月 附属早稲田工手学校に予科を設置(尋常小学校卒業生を収容、二年半を五期に分ける)

昭和十四年一月 新設専門部工科(建築を含む四学科、修業年限三年)科長に内藤多仲教授嘱任

同年四月 新学年より女子の入学を認む

昭和十五年四月 理工学部研究所設置

昭和十六年四月 専門部工科校舎新築(木造二階建四百坪)

4 教授陣の変遷と第二世代の活躍

 建築学科開設当時の教授陣は前述の通りである。当然のことながらその多くを帝大出身者に依存していたのであるが、大正二年第一回卒業生を送り出すや、従来の教授陣の質的向上が計られるとともに、順次学苑出身の中から次代の教授を育成しようとする方針が採られ、大正六年内藤多仲、大正九年大沢一郎(第二回、大正三年卒)、同十年吉田享二の欧米留学の後、同十五年今井兼次(第七回、大正八年卒)、昭和七年徳永庸(第一回、大正二年卒)らが相次いで欧米留学に旅立っていった。

 昭和初期に入ると、漸く学苑出身者が各分野において成長し、若手の助教授として活躍するようになった。昭和七年の学制改革の時点でこれを拾ってみると、佐藤功一、吉田享二、内藤多仲、伊東忠太、今和次郎という教授陣を中心に、徳永庸、大沢一郎、そして今井兼次、十代田三郎、木村幸一郎(ともに大正八年卒)、佐藤武夫、田辺泰(ともに大正十三年卒)らが助教授として活躍している。更に昭和十一年には鶴田明が助教授に加わっている。

 大正十二年内藤多仲は帝大に論文を提出、学位を授与されたが、昭和七年吉田享二は早稲田大学において学位を授与された。そして同十年には佐藤武夫が「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により学位を授与されたが、これは早大建築学科出身者として初めての記録であった。

 昭和十年代に入ると、先の若手が次々と教授に昇格した。昭和六年退職され翌年急逝された岡田信一郎教授をはじめ、昭和十六年には長年建築学科の発展に尽力された佐藤功一教授が逝去され、翌年には伊東忠太教授が退職されるなど、新旧の世代が交替した。教授陣はほぼ、第二世代とも言うべき学苑出身者によって占められ、戦前・戦後を通じて、早大建築学科の発展と充実に活躍するのである。

七 応用化学科

ページ画像

1 応用化学科の誕生と本部キャンパス時代

 日本の近代産業が確立期にはいった大正五年四月、早稲田大学理工科高等予科に応用化学科が誕生、入学志願者は定員の数倍に達した。そして翌六年九月、本科三年の授業が始まった。応用化学科創立はこの本科発足の時とされ、昭和四十二年十一月には、創設五十周年記念式典と記念パーティーが東京目白・椿山荘で開かれ、卒業生百六十名が集まった。

 早稲田大学に理工科が設置されたのは、明治四十一年なので、応用化学科の開設はこれより九年遅れ、機械、電気、採鉱、建築の各科に続く五番目の学科である。

 当時、応用化学科を設けていたのは東京では東京帝国大学と蔵前高工(現東京工業大学)だけであった。

 学長天野為之は『早稲田学報』大正六年二月号に応用化学科について「早稲田大学が化学研究の必要を認め、その研究機関を設ける計画をたてたのはかなり古いことだが、種々の事情のためこれを実現することができなかった。ところが時勢の進展は設置延期を許さなくなった」と述べている。

 また、応用化学科開設実務の中心であった理事田中唯一郎は『早稲田学報』大正五年四月号に開設当時の事情を詳しく次のように解説している。

応用化学科は最近思いついたものではない。文部省の認可も得ていたが、多額の経費がいるので見合わせていた。しかし、第一次世界大戦の影響から化学研究が叫ばれるようになり、既設の電気学、冶金学でも化学の教育が必要になったので、有力者の援助を受けて開設することになった。

 大隈侯の相談相手に東大教授高松豊吉博士がいた。後に東大名誉教授になり、東京瓦斯の名誉社長、東京工業試験所の初代所長などをした人である。もともと大隈侯は高峰譲吉や桜井譲二(東大教授)を招いて化学や化学工業についての講演を聞くなど、化学について関心は深かったが、高松博士の「応用化学は国家にとって必要なものである」との勧めに応用化学科開設に踏み切ったという。

 応用化学科の実験室は、当時の財界の長老森村市左衛門翁の主宰する森村豊明会の寄附により、現在の演劇博物館の左に赤煉瓦造り延べ三百三坪の規模で作られた。

 早稲田大学創立三十五周年式典は大正七年十月に、応用化学実験室の開館式も兼ねて行われたが、席上大隈総長は「ここに忘れるべからざる人はこの大学に応用化学の実験室をこしらえて下さった森村男爵である。役人から寄附を申し込まれてもすぐはねつけてしまうが、この学校やその他の教育慈善団体から申し込まれると相当な金を出す。こういう人がふえると実業社会も品が良くなる」と謝辞を述べている。

 応用化学科実験室は豊明館と名付けられ、応用化学科の教員室、教室も設けられた。この建物はその後関東大震災で焼けたが、「バラック時代」「九号館時代」「大久保キャンパス五一号館時代」を経て現在に至る応用化学科の歴史はこのようにして始まった。

 応用化学科の創設後間もない大正九年、早稲田大学は学制改革により、専門学校令による大学から新大学令による大学に昇格した。就学年限も延長されたので、在学生の多くは新制度で卒業した。このため大正十二年三月には二、三回が同時に卒業、一回が卒業した大正九年七月との間に一年八ヵ月の差がある。専門学校時代の卒業生は早稲田工学士を称していた。

 創立当時は河合勇、富并六造だけが教授で、ほかは全部外来講師であった。大正七年十一月、河合は辞任、河合と東大で同級の小林久平が学科主任になった。小林はその後、昭和十二年まで主任を務め、応用化学科に大きな足跡を残した。

 大正九年七月、武富昇、山口栄一(一回)が助教授に任ぜられた。

 大正十年四月、松井元太郎を教授に迎え、同十一年、山内真三雄、同十二年四月、山本研一(二回)が助教授に、また五月、小栗捨蔵を講師に迎えるなど応用化学科のメンバーも次第に充実した。大正十三年十月当時、これらの専任教員に加え、東大から西松唯一(火薬学)、永井彰一郎(芳香油)、牧鋭夫(染料)、亀山直人(電気化学)、更に鉄道省大臣官房研究所長長屋修吉(実業)、東京高等工芸鎌田弥寿治(写真)、水産講習所松尾霊彦(皮革)、大日本人造肥料庄司務(肥料)などの諸氏も非常勤講師として加わった。

 小栗講師は昭和二年教授に任ぜられた。同三年八月松井教授は東京工業大学に移り辞任、講師になった。武富助教授は昭和五年六月教授に昇格、宇野昌平(九回)、秋山桂一(九回)は昭和四年卒業とともに助教授になり、その後、石川平七(十回)、村并資長(十三回)両助教授が加わるなど陣容は一層強化された。

 創立当時の建物は大正十二年の関東大震災の折、薬品室から発火して一時間で焼け落ちた。当時の学科主任小林久平は理工学部長山本忠興に次のような報告書を提出している。

大正十二年九月一日、私は山本研一助教授と実験後、昼食中だった。地震で発火したのを見て消火しようとしたが、しばらくは水がなく、消防隊到着後延焼は食いとめた。しかし重要書類、試験器具は大部分を取り出せなかった。なかでも富井教授がドイツから送ってきた本二行李、私が取り寄せた供試フロリダアース、テレー産原油の焼失は残念だった。

 関東大震災による実験室の焼失後は、採鉱冶金学科の木造実験室や第一高等学院の実験室を借りるなどしたが、大正十三年、旧実験室の南側に鉄骨コンクリートの仮実験室が完成した。五年後には本建築をすることになっていたが、昭和十一年まで仮り教室住まいが続いた。

 この仮教室は二階建で、延べ二百二十六坪、一階に二実験室と四研究室、二階に四実験室と三研究室があった。初めは講義室もあったが、学生数が増えるにつれ、実験室に変更、講義は商学部の二教室を借り、また物理実験、製図は理工学部所属の各室で行われた。

 この狭い粗末なバラックが、英国のシェイクスピア時代のフォーチュン劇場を模して作られた瀟酒な演劇博物館の真横にあって奇妙な対照をなしていた。

 この建物で学んだ学生は十四回までは毎年二十名前後であったのに、十五、十六回は三十名前後、十七回は一挙に四十名台になったため建物の収容能力は一杯で、教室はまさにパンク寸前であった。

 こうしたことも、新築を促したのであろうか、昭和十年九月、応用化学教室の本建築が始まった。鉄筋コンクリート造り、地上四階地下一階延べ千十七坪の規模である。地下にマイナス20°Cの大型低温恒温槽、屋上に臭ガス室、X線室、分光器室、元素分析室等を置いたのは当時としては最新の考え方であった。

建築費の一部は仮建築、本建築と再度豊明会の寄附を受けた。

 昭和十一年十一月一日に竣工披露の会を開いた。午前中は校賓、午後は化学工業に関係のある学者、実業家を招いた。校舎の明るいこと、室内の整然として統一されていること、排気、換気の行きとどいていること、特殊研究室の多いことなどが特に好評であった。

 夜は教室一同、来観の卒業生、学生が内幸町大阪ビル内レインボー・グリルで祝賀懇談会を開いた。卒業生の出席が多数あり、総出席者数百五十五名、応用化学科の万歳を高唱して散会した。

 また十一月三日には校友会秋期大会が大隈会館庭園で開かれたのを機会に新築教室を公開したが、参観者数は累計三百人を数え教室一同を面くらわせた。

 この建物は独得なアカデミックな雰囲気をかもし出し、新入生にはいよいよ大学へきたという緊張感を抱かせた。長い間応用化学教室として愛されてきたが、昭和四十二年理工学部移転に伴って内部は改造され、現在は国際部として外国人留学生が使用している。

2 小林教授の二十年

 応用化学科の歴史の中で忘れることのできないのは大正七年から昭和十二年の初めまで足掛け二十年、学科主任を務めた小林久平である。主任就任後、間もなく早稲田大学は新大学令による大学に昇格、在学年限も国立、公立と同じになった。また、在任期間中に関東大震災による応用化学科実験室の焼失と仮実験室の建設、昭和十二年の本建築完成など研究・教育の区切りとなる重要課題があった。小林はこれらを、同僚、卒業生、学生などの協力を得ながら解決、その間、早稲田応用化学会を発足させるなど、応用化学科発展の基礎を築いた。

 小林は明治三十三年東大応化を卒業、大学院に数年残ったが、その後幾つかの会社を経て早大応化の主任に就任、主任辞任後も応用化学科の発展に尽くされた。戦時中までの卒業生は、早稲田応用化学というと、すぐ度の強い眼鏡をかけた小林久平教授の姿が目に浮かぶのである。

 研究は四十年近くにわたり酸性白土、石油、草炭に終始し、何でも酸性白土と関係をつけたとその熱心さが今も語り草になっている。

 山本研一名誉教授は月刊雑誌『化学』の「日本の化学を築いた人々」のなかで次のように紹介している。

小林先生の人となりを一言で云えば、先生こそいわゆる根性の人であったと思う。先生は四十代の中ごろから学問、研究を再開されて、多くの学術論文や著作を発表された。先生はお子様にも恵まれず、趣味、娯楽というほどのものもなく、その生涯を研究と教育と学会活動にその情熱をかけられた。先生の研究は郷土、越後の関係で資源に乏しいわが国に天産する酸性白土と石油に、戦時中は草炭(泥炭)の基礎と応用の研究に、またその工業化にまで打ち込まれた。そして研究成果の発表に止まらず、同学者の文献も丹念に紹介した「酸性白土」「石油およびその工業」「人造石油」「草炭」などを出版された。晩年に至って失明に近い視力で、なお瘦軀に鞭うたれて、つぎつぎに改版、校正に励まれた先生の姿には今なお心打たれるものがある。

 昭和二十九年二月七日、小林名誉教授は逝去された。ご遺族は香典四十万円を教室へ寄附されたので、その後の校友の寄附も合せて小林記念基金を作り、教室の研究費の補助として、現在も大きな役割を果している。

3 燃料化学科の九年

 昭和十二年に始まった日華事変は長期戦となり、戦略物資としての石油の重要性は急激に高まった。更に太平洋戦争の勃発で石油の重要性は一層強まり、早稲田大学は昭和十七年十月、応用化学科内に石油分科(十八年四月石油工学科と改称)を設けた。戦時体制下、大学の卒業期は九月末になっていた。

 石油工学科は当時の日本石油社長、小倉房蔵の熱心な働きかけと、当時の金で百万円という巨額の寄附により創設された。小倉は明治四十一年本学商科を卒業、その後ロンドン、ベルリンで学んだが、帰国後家業の石油精製業に従事した。戦時中小倉石油は日本石油に合併され、同氏は副社長に就任、やがて社長になられた。そして石油に対する情熱と母校愛から石油工学科の創設を建築科の内藤多仲を通じて小栗主任教授に申し出られたのである。その頃小林はすでに退任されていた。

 石油工学科の創設は小林名誉教授を顧問格に山本、村井が企画し、創設と同時に大坪義雄(十二回)、森田義郎(二十四回)が加わった。応用化学科の方は吉田忠(十五回)、篠原功(十八回)が補強された。

 石油工学科の設置場所は穴八幡裏手のバプチスト派宣教団の土地で建物(スコットホール)とともに購入し、更に百五十坪の実験室を作り、石油工学科を発足した。

 しかし、通常の授業が続いたのは昭和十九年一杯までであった。二十年五月二十五日の空襲により学生実験室は焼失した。研究室などは教師、職員、学生の懸命の消火作業により焼失を免れ、戦後の研究をスタートすることができた。

 終戦後、我が国の石油産業は一時その存在すら危ぶまれた。一方、戦後の物資不足から固体燃料もその地位が向上してきた。そこで石油工学科は二十一年四月から燃料化学科に改称した。

 しかし、新制大学では専門学科を小さく分けない方針を採ったので、新制大学の発足を機に燃料化学科は応用化学科と合併、大学院制度の中で燃料化学専修になった。かくして燃料化学科は石油工学科としてスタートしてから九年間に合計七回、百四十六名の卒業生を送って幕を閉じたが、応用化学科からは毎年石油業界に多数の人材を送り込むなどその伝統を残している。また加藤忠蔵(燃一回)、長谷川肇(燃一回)、故藤井修治(燃二回)を応用化学科に、高宮信夫(燃四回)を化学科に迎えている。

 小倉の寄附された旧燃料化学科の校舎は戦後教団に返還、小倉記念館が旧応用化学科の続きに昭和二十九年再建され、理工学部の新校舎移転後も、ここで燃料関係の研究が続いていた。しかし昭和五十四年、化学系研究室が新築されたのを機に、本部キャンパスに残っていた小倉記念館も移転、合併した。

 小倉房蔵は小倉記念館の設置を目前にした昭和二十七年七月十七日、永眠された。

 大隈庭園内にある「完之荘」はもと飛驒の白川村から小倉邸に移築されていたものを、小倉が移築費とともに寄贈され、ここに移したものである。

4 戦中・戦後時代

 応用化学科に石油分科が発足した昭和十七年、戦時体制は更に強化され、翌年勅令で学生に対する在学徴集延期制が撤廃された。当時特別研究生制度が設けられ、これに該当する者は徴兵と動員を免除され、大学の研究室に残り研究を続けた。城塚正(二十五回)、加藤忠蔵、鈴木晴男(二十七回)、宮崎智雄(二十七回)はこの特別研究生であった。

 理科系の学生には徴兵猶予の特典があったが、勤労動員は回数を増し、長期にわたり、学業は殆ど放棄されることになった。応用化学科を昭和二十年に卒業したクラス(二十六回)は大日本製鉄(広畑)、日曹へ動員のあと海軍技術研究所へ回された。二十七回は日本水素、旭電化、日清製油などへ分散動員された。

 燃料二回は日本石油下松製油所で松根油の航空燃料化の実験を手伝った。燃料三回は福島県西白河郡西郷村へ動員され、付近に産する草炭を乾留、草炭タールを収集した。

 二十年二月には学徒消防隊が結成され、帝都防衛の役割も分担し、犠牲者も出た。

 こうした状況の中で昭和二十年九月卒の卒業論文の成績は動員先の仕事で代えられた。しかし二十一年卒の卒論は早くも戦前同様に審査された。

 戦後復帰した学生は、間もなく陸海軍の特殊物件の処理に狩り出された。新しい物が購入できなかった折から、集めてきたものは各研究室でそれぞれ役に立った。

 早稲田大学では昭和二十一年五月、総長以下をすべて公選とする新校規を実施し、山本研一が理工学部長に当選した。任期中新制学部設置の準備が進み、各委員会での検討結果を総合した設置要綱ができ上り、二十四年四月、新たな構想による早稲田大学が発足、山本は新制第一理工学部長に就任した。

5 新制大学、大学院の発足

 新制応用化学科へは高等学院一―三年生のほか専門部から二年生に若干名、一年生に約半数が加わった。

 新制大学とともに新制大学院も設置され、修士課程は二十六年、博士課程は二十八年発足した。教授佐藤匡はこの新制移行時に応用化学科を卒業し、東京工業大学で博士課程を終了している。

 理工学部では工学研究科として五専攻がまず置かれた。応用化学専攻は当初高分子化学(小栗)、電気化学(富井)、燃料化学(山本)、醱酵化学(武富)の四専修が置かれた。

 新制大学発足当時、殆ど旧制のままであったカリキュラムはその後何回か改訂され、基礎科目を重視し、無機化学、有機化学、物理化学などの講義時間が大幅に増加している。

 この考え方は研究面にも反映し、その現れとして大学院の専修も三十三年、無機化学、化学工学更に有機合成化学(四十二年)、物理化学(四十四年)、有機化学(四十八年)の各専修が増設され、また食品醱酵は応用生物化学(四十八年)、電気化学は工業物理化学(五十四年)に名称が変更された。工学研究科は理工学研究科、専修は部門に改称された。

 基礎科目の重視は長年の願望であった化学科の発足(四十八年四月)に繫がった。大学院専攻は化学科と共通である。

 大学院は三十七年度から実施された入学推薦制度により、優秀な学生の大学院進学希望を盛り上げることになり、学部卒業生のうち約五十名が推薦あるいは入試により大学院前期課程へ進学することになった。また博士課程への進学者も増え、毎年数名の課程による博士の誕生をみるなど大学院制度も次第に軌道に乗ってきている。

 現在応用化学科で中心となって活躍している宇佐美昭次、平田彰、土田英俊、豊倉賢、菊地英一、酒井清孝の諸教授は博士課程の出身である。

 理工学部では大学紛争の始まった四十三年卒業に必要な単位数をそれまでの一六〇から一四六に切り下げた。もっと自由な時間を与えて勉強させるべきだとの意見からである。

 応用化学科のカリキュラムの大規模な改訂は四十五年に行われた。その主な内容は、⑴基礎科目を重視し、古くからあった工業化学の講義を極端に減らした。⑵学生の選択の幅を広げるため必須科目を減らした。⑶多人数教育の弊害を除くため、低学年に小人数のクラスを設けた。具体的には二年生を十―十二人のクラスに分け、各教員が分担した演習科目を課している。またこの時間を利用して業界、学界の卒業生などによる特別講義を年三回行っている。

6 化学工学コースの創設

 応用化学科では基礎面を重視する一方、化学工業の大型化が化学工学系の技術者を多数要求する状勢に対応するべく努力している。

 早稲田大学応用化学科では大正、昭和初期、他大学に先がけ小林が化学工学の講義をされており、小林は化学機械協会(現化学工学協会)の初代会長を昭和十一年から十三年までされ、工業化学と化学工学との調和のとれた体系は創設期からの応用化学科の特長の一つであった。

 三十三年には石川を中心に大学院に化学工学専修を設置し、更に三十六年度入学の学部生から高度の専門技術者養成のために工業化学コース、化学工学コースを設け、より充実した教育体系を整えた。これより低学年では、無機化学、有機化学、物理化学に加えて化学工学等の基礎科目またそれらと密接な関連のある基礎専門科目を修得し、高学年では工業化学コースと化学工学コースに分かれてそれぞれ専門科目を十分に修得できるようにした。応用化学科定員百四十名のうち工化コース百名、化工コース四十名である。

 早稲田大学創立八十周年記念事業の趣意書にも化学工学分野の充実が唱われ、大久保キャンパスへは化学工学コースが工業化学コースより早く四十年四月に移転した。更に五十四年化学系新棟に移転したが、この間、大型研究実験装置を設置し、時代にふさわしい研究・教育を進めている。スタッフは石川から引き継いだ城塚を中心とする平田、豊倉、酒井の四教授である。

7 化学系新棟

 化学系新棟の建設は、化学系研究室が高層建築の五一号館の中程(八階―十一階)にあることは災害面から重大であるとの理工学部将来計画小委員会の答申に基づいている。

 五十二年春以来ワーキンググループが組織され、建設場所、規模等について検討が重ねられた。このグループには化学系を代表して加藤忠蔵が参加した。理工学部長室、教授会の理解と本部キャンパスの小倉記念館(運営委員長森田義郎)の移設に関して当時の村井総長をはじめ理事側の配慮により五十四年に完成した。

 場所は仮設グランド北側(五六号館東側)で地上五階、一部二階建で、延べ五五七九・六八平方メートルである。一階は化学工学系研究室、実験室、学生実験室および理工学部学生サークル部室、二階は工業化学系、化学工学系、他学科化学系研究室および小倉記念館記念室、実験室、会議室、三階は工業化学系研究室、実験室、四階は工業化学系研究室、実験室および化学科、応用化学科連絡事務室、五階は化学科研究室、実験室、会議室である。

 この新棟で応用化学科は早稲田大学創立百周年を迎えることになった。新しい建物には優秀な若い力を注入することが必要であるが、応用化学科は四十九年三月博士課程を修了し、米国ジョージタウン大学へ留学した逢坂哲弥専任講師、五十年三月博士課程を修了し、フンボルト研究員としてベルリン自由大学へ留学した西出宏之専任講師、五十四年三月博士課程を修了し、英国アバディーン大学へ留学中の黒田一幸助手を迎え、更に飛躍を期している。次に大学院専修別教員構成、応用化学科年譜、昭和五十五年度カリキュラムを示す。

第十五表 大学院応用化学科部門別教員構成(昭和五十五年三月)

第十六表 応用化学科年譜

第十七表 応用化学科専門教育科目学科配当表(昭和五十五年)

(Ⅰ) 専門必修科目

(Ⅱ) 専門選択科目(基礎・演習科目)

学生は、演習科目の内より一単位、基礎専門科目の内より六単位を取得しなければならない。

なお、上記以外に基礎専門科目の内より、更に二単位以上を選択して修得することが望ましい。

(Ⅲ) 専門必修科目(コース別)

学生は所属するコースの全科目を修得しなければならない。

なお、上記以外に他のコースの講義科目の内より、更に四単位以上を選択して履修することが望ましい。

(Ⅳ) 専門選択科目(コース別)

学生は所属するコースの科目の内より八単位を取得しなければならない。

なお、上記以外に全科目の内より、更に四単位以上を選択して修得することが望ましい。

(V) 専門選択科目(各コース共通)

学生は下記科目の内より六単位以上を選択して修得することが望ましい。

(Ⅵ) 専門随意科目

八 金属工学科

ページ画像

1 応用金属学科

 現在の金属工学科の前身の一つである応用金属学科は昭和十三年四月に創設された。この学科の誕生は鋳物研究所の開設と密接な関係がある。鋳物研究所長として石川登喜治(元海軍造機中将)を招聘した大学当局は、併せて石川に教育の面での尽力を要請し、ここにこの学科の創設が実現した。

 応用金属学科はその名の示す通り、金属の応用分野を専攻する学科である。具体的には鋳造、塑性加工、溶接、表面処理など、金属製品を作る過程を専攻の対象とする。従来この分野の教育研究は、機械工学科ならびに採鉱冶金学科で行われていたが、両科の境界に位していたため、内容は希薄なものであった。たまたま軍需工業興隆の時期で、この分野の専門知識を修得した学生を要望する声が高く、この学科の設立は時宜に適したものであった。

 教科は、金属材料の性質と加工法の講述ならびに実験研究を主体としたことは言うまでもないが、機械、冶金、電気など関連の深い分野の知識も修得できるように配慮され、基礎科目には数学、力学、理論化学などが置かれた。実験研究は主として鋳物研究所で行われた。研究所の新しい施設が教育の面でも役に立った。

第十八表 応用金属学科創設当時の学科配当表(昭和十五年度)

 創設当初の教員スタッフは、私学の経営事情から十分とは言えなかった。専任は、教授学科主任石川登喜治、助教授鹿島次郎、教務補助加山延太郎の三名であった。その代りに、鋳物研究所の所員として研究所の運営と研究活動に参画した機械工学科教授山内弘、同助教授横田清義、採鉱冶金学科教授塩沢正一が主要科目を受け持ち、この学科の成長を支えた。翌昭和十四年、海軍技師田崎正浩が招聘されて専任の教授に就任し、教授陣は一応強化された。以後時局は急を告げ、外部より人材を求めることが難しくなったので、若手の教員を育てる方針のもとに教務補助の増員が計られた。すなわち、十五年に葉山房夫、十七年に草川隆次、十八年に堤信久がそれぞれ教務補助に嘱任された。終戦まではこのような陣容であったが、教務補助は制度上講義が受け持てず、この間機械、採冶、応化、電気の教授陣の支援を得て苦境を切り抜けた。

 このような苦しい情勢下にあったにも拘らず、学科主任石川はその卓抜な指導力を発揮してこの科を発展に導いた。石川は鋳造の分野では第一人者としての実力の持主であった。その豊富な体験から滲み出る人間的な魅力は深く学生の心を捕えた。能弁であった石川の人生訓を織り込んだ名講義は、いまでも当時の卒業生の語り草となっている。そして学生諸君は鋳物研究所の実習工場で、大学としては類のない現場作業を常に目の当りにする機会に恵まれた。そのために卒業生の多くは鋳物の分野に進出した。それが実を結んで、日本の鋳物工業における早稲田の勢力は絶大なものとなった。

 さて時代は戦後に移る。教授石川と田崎は軍籍にあった関係から追放の悲運に会い、早稲田を去るに至る。首脳教授を失った打撃は大きかったが、昭和二十二年飯高一郎が教授として迎えられ、鋳物研究所長と応用金属学科主任に嘱任されて、安泰を取り戻した。この頃は教務補助陣も年次順に助教授に昇格し、主要講義を分担し始めた。また新しく、二十二年に上田重朋が教務補助に嘱任された。その他特別研究生の雄谷重夫、中山忠行、加藤栄一も陣容に加わり、この科の教育研究体勢は急速に充実した。

 飯高は理化学研究所の金属部門の主任研究員であった。金属全般にわたって造詣が深く、鋳造に偏寄した感のあるこの科の分野の幅を拡げることに貢献した。創立に際して掲げた当科の目標は、飯高の時代において達成されたと言ってよい。

 新制大学に移行するまで、応用金属学科の卒業生は十二期、約三百八十名に及んでいる。古い卒業生は既に第一線を退くほどに歳月は過ぎ去ってしまったが、立派な業績を挙げて社会に貢献した者は数多い。この科の存在価値は高く評価されてよい。いま全国大学の金属系の学科の教科には金属加工の分野が幅広く組み込まれている。早稲田の応用金属学科がいち早くその先鞭をつけたことを思い起すと、当時の大学当局の英断と、その期待に応えた初代主任教授石川の功績に、改めて敬意を表したい。

2 金属工学科

 終戦後、数年を経ていわゆる六三三制の教育改革が行われ、理工学部の学科配置にも種々の変改が加えられた。すなわち、その一環として、昭和二十四年四月一日を以て新制早稲田大学が発足するに当り、「なるべく広く、円満な学識を備える人物の養成」を主眼とする新制大学の目的にかんがみ、採鉱冶金学科第二分科と応用金属学科とを統合して第一理工学部金属工学科を設けることが決定した。この統合は新制大学の理念に基づくものではあったが、一面当時、我が国の金属工業の将来が危ぶまれていたことも否めない理由の一つであった。とまれ、この体制は直ちに施行され、旧制理工学部採鉱冶金、ならびに応用金属の両学科は昭和二十六年三月の卒業生をもって解消した。

 この発足時の教室は、学科主任・塩沢正一、教授・飯高一郎、助教授・若林章治、鹿島次郎、川合幸晴、加山延太郎、葉山房夫、長谷川正義、専任講師・雄谷重夫、草川隆次、堤信久、藤瀬直正、上田重朋で、その他に文部省特別研究生・中井弘、中山忠行、加藤栄一が控える若さあふれる布陣であったが、統合による教員数の膨脹、年齢構成のかたより等が後々まで教室の人事計画に悪影響を及ぼし、その後三十年間人事問題で教室に大きな負担を負わせた。

 なお新制度による学科のカリキュラムは旧制両学科の特色を折衷した形で、他大学のそれに遜色のない編成が計られていた。また学生定員も両学科の定員を合計した形の四十名で、敗戦の傷手から漸く立ち上ろうとしていた金属工業界にとって適正な人数であった(第十九表参照)。

第十九表 金属工学科発足時の学科配当表(昭和二十四年度)

 更に昭和二十六年に至って新制大学院の修士課程が設置された。当初、金属工学分野からは工学研究科の鉱山および金属工学専攻に鉄冶金学研究(塩沢)、金属学研究(飯島)の二専修のみが置れた。その後両専修に博士課程も設けられたが、学生数は修士課程三―四名、博士課程一―二名の少人数で、この態勢が昭和三十六年まで推移した。

 その後、学科主任塩沢の人徳にもより学科の統合による軋轢もなく経過し、昭和二十八年に中山、昭和二十九年に中井、昭和三十一年に加藤がそれぞれ相次いで専任講師となり、教授陣はますます厚みを増してきた。

 昭和三十年になると、朝鮮戦争の終結による不況を脱出して金属工業界も明るさを増してきたので、学生にできるだけ多くの学科目を学ばせて外に送り出そうということになり、カリキュラムの改訂が行われ、専門必修科目が大幅に拡充された。しかし、この改訂も学生の多様化を求める風潮とともに、昭和三十五年には再び選択科目を増強する編成に変えられた。

 またこの昭和三十五年には、第二理工学部が廃止され、金属工学科もその定員の一部を引受けざるを得なくなり、定員百名という大世帯となった。この学生数の急膨脹には教室および実験室への影響もさることながら、就職へのそれが最も大きく懸念されたが、次第に工業界が活況を呈してくるのに支えられ何とか苦境を脱することができた。

 その間、大学院の拡充も計られ、昭和三十六年には前の二専修に加えて粉末冶金学研究(若林、葉山)、鋳造工学研究(鹿島、加山)の二専修が設けられた。

 それより数年遡るが、早稲田大学とミシガン大学との協定により昭和三十一年に葉山が、その後続いて長谷川、加藤がそれぞれミシガン大学に留学した。これは戦後の金属工学科教授陣の最初の海外留学で、後年続々海外出張する先駆けでもあった。

 また、金属工学科には科の性質上、東南アジア方面からの留学生はかなり前からあったが、台湾や韓国からの者以外は殆どなかった。ところが昭和三十六年になって、インドネシアからのいわゆる「賠償留学生」が毎年一―二名在籍するようになった。この留学生制度はその後数年間継続したが、現在彼らは母国で枢要な地位にあって活躍している。

 昭和三十八年には永らく後輩の育成に務め、学内では教務主任、鋳物研究所長を、学外では日本鉄鋼協会長などの要職を務めた塩沢が、昭和三十九年には同じく鋳物研究所長、日本鋳物協会長を務めた飯高が相次いで定年退職した。

 この昭和三十八年には、早稲田大学八十周年を期しての理工学部の大改革が行われ、大久保新校舎への移転計画とともに、いわゆる「基礎専門科目」の導入によるカリキュラムの大幅な変革も試みられた。そして科の学生定員も九十名に変化した。

 大学院も昭和三十九年に教員全員参加の形を採ることになり、金属製錬研究(川合、草川、藤瀬、加藤)、鋳造学研究(鹿島、加山、堤)、金属材料学研究(長谷川、雄谷、中井、中山)、金属加工学研究(若林、葉山、上田、渡辺)の四専修の区分となった。

 昭和四十年代に入ると、発足当初は若々しい陣容を誇った教室もほとんどの教員が教授に昇格し、ようやく老齢化の徴候が現れてきた。そして昭和四十一年に至って、教室が待望久しかった新任人事がこの老齢化をくい止める一策として認められ、中田栄一が専任講師として登場した。また、その間の昭和三十六年には鋳物研究所本属の渡辺侊尚が兼担として教室に加わっており、更に昭和四十五年には、昭和四十年から金属物理学を非常勤講師として担当していた東北大学名誉教授幸田成康が、客員教授として大学院の指導をも受け持つことになった。

 昭和三十年代後半までは、金属工業は神武景気の波に乗って好況を続けていたが、昭和四十年代に入ると次第に伸び悩み、それにつれて卒業生の就職も悪化してきた。昭和四十一年には求人件数が急激に落ちこみ、これがきっかけとなって大学院進学者が急増することとなった。すなわち、この年の大学院進学者はそれまで漸増の傾向はあったものの三十三名という大幅な増員となり、その後の大学院入学者が学部卒業生の四〇―五〇%となる緒を開いた。

 その間、学費値上げ、軍事研究、大学管理法案などに反対する学園紛争の嵐が学内外に吹き荒れた時期があったが、金属工学科もその影響をまともに受けたため、教室の全員が紛争の鎮静に奔走しなければならなかった。特に当時、学内の役職者であった川合(総長室長、学生相談室長)、葉山(大学院委員、大学院委員長)、加藤(教務主任)はそれまでに経験したことのない辛酸をなめた。

 大学紛争の頃は世の中も騒然とした時代であったが、次第に落着きをとり戻し、高度成長の時流に乗って学生の就職も活況を呈して来、この好況が石油ショックの時まで続いた。この昭和四十九年に、我が国の粉末冶金の草分けである若林が定年退職した。

 その前年の昭和四十八年には大学院の充実が計られ、専修が細分されて六専修となったが、更に昭和五十一年に、教員各自が一研究をもって独立することになり現在に至っている。また、学部のカリキュラムの方も昭和五十年に大改革が行われた。すなわち、必修科目は金属工学の基礎理論と実験のみとして最小限に止め、その他の科目はすべて選択として、学生の多様な要望にこたえ且つ学生の負担を軽減するように配慮された。勿論その際、従来の主要科目は選択必修とも言うべき限定選択科目とするなど、科目選択の指導を強化するよう努めた(第二十、二十一表参照)。

第二十表 金属工学専門分野における研究指導および担当教員(昭和五十五年度)

第二十一表 金属工学科学科配当表(昭和五十五年度)

 昭和五十年代に入ると、教室の老齢化は更に進み、将来の発展が危ぶまれる状態に陥ってきた。昭和五十一年七月二十八日、その警鐘とも言うべき事態が発生した。それまで病気一つしたこともなく、精力的に金属表面の分野で学会活動を続けていた中山が病に倒れ急逝した。しかし幸いにも、中山の愛弟子である大坂敏明を工業技術院無機材質研究所から迎えることができた。続いて一度あることは二度あると言うが、二年後の昭和五十三年十月二十八日、健康そのもので、博識であり学生相談センターの創設者であった川合が奇しくも中山と同じ病気で急逝した。その間の昭和五十二年には金属物理学界の長老である幸田が定年退職し、その後任として金属材料研究所の吉田進が客員教授として迎えられた。更に川合の急逝後二年を経て昭和五十五年には、日本鋳物協会長を務め我が国の鋳造材料学の先達者であった鹿島が定年退職し、これら二教授の抜けた穴を埋るために、三菱金属㈱より若手の不破章雄が教室に加わった。

 最後になるが、卒業生と在学生とで組織される同窓会には、旧制度では早稲田採冶会と早稲田応金会とがあって、会員相互の親睦を計っていたが、新制大学発足と同時に解散し、早稲田金属工学会が新たに創設された。しかし、その実質的な活動は昭和三十年の評議員会からで、現在、会員名簿の作製、会報の発行、懇親会などの開催を細々と続けており、活発には活動していない。既に会員は新制度による卒業生のみで二千名を超え、金属工業のみならずその関連産業の分野で広く活躍している。

九 電子通信学科

ページ画像

 大正十三年に始まった電気工学科の第二分科は共通必修科目(電気事業主任技術者第一種の資格取得に必要な科目)の他に分科必修として電気通信関係の多くの学科目が配置され、俗に通信科と言われる程であった。その後電気通信の学問的・技術的進歩に伴い、これを専攻する学科の開設に対する要望が高まり電気工学科内でも教授黒川兼三郎を中心として第二分科を改組して独立した学科とする案が検討された。

 まず第一段階として、昭和十五年三月に施行された電気通信技術者資格検定規則による第一級検定資格取得を理由にして従来の第二分科の学科目のうち動力関係科目を削減、電気通信関係科目を拡充して電気通信学を専攻するよう電気工学科の学科課程を改正する学則変更の認可申請が行われ(昭和十六年三月)、これが認可されて昭和十六年四月、第一学年より実施された。これより一年の準備期間を経て昭和十七年二月にこの電気工学科第二分科を電気通信学科と改称し独立した学科とする学則変更を申請、これが認可されて昭和十七年四月初めて電気通信学科が誕生した。これは電気通信関係の学科としては我が国では東北大学に次いで第二番目に当る。電気通信学科の学科課程は第二分科のものを踏襲、教室・実験室とも第二分科のものをそのまま引き継ぎ、実験設備の拡充を行うというごく実際的な形で発足を見た。

 学科開設当時の専任教員は学科主任教授黒川兼三郎をはじめ、教授広田友義、助教授岩片秀雄、助教授田中末雄の四名であった。

 第二十二表は学科発足二年目の昭和十八年度の学科配当であるが(第三学年は未開設のため電気工学科第二分科のものを掲載)、各科目の授業時間数は同年十月よりほぼ半減して実施された。

第二十二表 理工学部電気通信学科学科配当表(昭和十八年)

 この当時専任教員の個室は二ないし三名の相部屋で、教員の研究実験は学生実験室の一隅を借りて行っていたが、研究は活発に行われ、教授黒川兼三郎は電気回路理論、電磁波理論とその応用などの研究を行い、またMKS単位系の普及に努めた。教授広田友義は真空管回路・多線条線路などの研究を、助教授岩片秀雄はアンテナ・導波管などの研究を行い昭和十七年より十八年にかけて相次いで工学博士の学位を取得し、岩片秀雄は昭和十八年九月教授に就任した。また助教授田中末雄は整流回路・高周波測定などの研究を行った。昭和十八年頃より学内に陸海軍の技術研究所の分室などもでき、通信科専任教員の研究は基礎研究の他は依託された戦時研究に向けられ、勤労動員された学生とともにその研究に従事した。

 昭和十九年五月専門部工科に電気通信科が開設され、同年九月には学部電気通信学科の第一回卒業生が出ているが、現教授の平山博、香西寛はこの回の卒業生である。

 昭和十九年後半になると本土空襲が激しくなり、疎開のため通信実験室のあった木造三階建校舎が取り壊された。そのため研究実験には製図教室の一、二階を使用し、学生実験は専門部工科用に建てられた二階建鉄骨造実験室の二階を使用した。

 昭和二十年四月、ますます空襲が熾烈となったため、重要な測定器・実験器具等を山梨県西八代郡栄村内船の国民学校に疎開し、学校における学生実験は必要最低限の機械器具で行った。昭和二十年五月一日付『早稲田学園彙報』によると「勤労動員=卒業期を間近に控えた理工系学部の勤労動員は六月末までで、七月から九月に至る間、最後的研学の機会を得て授業が行われる。因に専門部工科三年の学部進学期は明年四月である。防空動員=空襲の熾烈化に伴い、理工学部一年全員、専門部工科一年の大多数は校外防空要員として、三日に一日二十四時間勤務で十数個所の消防署に宿泊する。これにより授業の三分の一は停止される云々」などとあり、実質的授業時間はきわめて少なかった。

 昭和二十年五月二十四日から二十五日の空襲にて煉瓦造・鉄骨木造の実験室はすべて焼失し、通信科教員の研究実験室もあった理工学研究所も焼け落ちた。同年八月十五日終戦。同年九月、伊藤毅教務補助に就任した。

 昭和二十一年には疎開から戻った機械器具・測定器を中心とした設備で学生実験室を政経学部一階教室を借用して再開、同年五月には教授黒川兼三郎が電気通信学会会長に選出された。同年九月教授広田友義学科主任に就任。昭和十九年以降中止していた卒業論文は二十二年九月卒業の第四回生よりこれを復活した。昭和二十二年から毎年十一月に理工学部主催の学術講演会が開かれ、専任教員の研究成果を発表したが、次表はその中の通信関係の抜粋である。

理工学部主催学術講演会(通信関係)

黒川兼三郎 衝流回路(昭二二)

広田友義 点源からの綜合幅射に就いて(昭二二)

六端子回路の一種に就いて(昭二四)

岩片秀雄 蚕繭の超短波乾燥に関する研究(昭二二)

立体回路と高周波加熱(昭二四)

導波管と共振同軸管との結合の実験、他(昭二四)

田中末雄 整流回路に就いて(昭二二)

真空管電圧計の入力インピーダンス(昭二三)

ブラウン管の偏向感度(昭二三)

伊藤毅 微小インダクタンス測定(昭二二)

原音再生を目的とする音楽演奏用電気蓄音器の試作に就いて(昭二二)

導電性媒質の表面に沿って伝播する電磁波の一解析(昭二三)他

平山博 指数媒質による電磁波の反射防止(昭二二)

同軸円筒濾波器(昭二四)

RC帯域濾波器(昭二四)

伊藤糾次 輻射係数の測定に就いて(昭二二)

タンク回路に関する一考察(昭二四)

副島光積 簡単な幾何的形状を成せる山又は山脈による電磁波の廻折に就いて(昭二四)

円壔形導体で同心的に囲まれるHelixに沿う電磁波の伝播に就いて(昭二四)

清水司 高周波電界における誘電体内の温度分布に就いて(昭二四)

 昭和二十三年五月一日、電気工学・電気通信学に多大の功績を残した教授黒川兼三郎病気のため逝去。

 昭和二十四年一月、木造建一五号館が完成し、東側の一階および地階に通信の事務室・研究実験室(百七・五坪)学生実験室(九十七坪)が設けられ、漸く通信の本拠が定まる。

 昭和二十四年四月、新制の第一理工学部電気通信学科(定員六十名)が発足し、同年には新制の三年と旧制の二、三年が併置された。同月教授岩片秀雄、学科主任に就任。教務補助伊藤毅は助教授に就任した。昭和二十五年四月、教務補助平山博は助教授に就任。助教授田中末雄は教授に就任、電子工学・電子回路・電気計測を専攻した。また助教授河村秀平、専任講師香西寛は専門部工科より電気通信学科の専任に移った。昭和二十七年四月伊藤糾次、副島光積は助教授に就任した。

 昭和二十六年四月、新制大学院の修士課程が発足し、電気工学専攻の電気通信分野として通信機器研究(指導教授広田友義)、電波工学研究(指導教授岩片秀雄)が設けられ、その研究実験室が現在の一四号館三階(各十八坪)に割当られた。二十八年四月には博士課程が発足した。三十三年三月には堀内和夫がこの課程を終え、工学博士(早大)となり、四月専任講師に就任した。

 昭和三十年四月、電子工学研究(指導教授・田中末雄)が開設。同年六月教授田中末雄工学博士となる。昭和三十一年四月、助教授河村秀平教授に就任。同年九月、教授田中末雄学科主任に就任。三十二年四月、清水司助教授に就任。三十三年九月教授岩片秀雄学科主任に就任。昭和三十四年四月には助教授伊藤毅、教授に就任、音響工学を専攻した。

 昭和三十三年四月、第二理工学部電気工学科を電気工学専修と電気通信学専修(定員各五十五名)に分設し、電気通信学専修には電気通信学科と同じ専門科目が設置され、専任教員はこれを兼坦した。この電気通信学専修は三十五年三月第一回卒業生を出し、三十九年第五回の卒業生までで終っている。

 新制大学院博士課程が発足したのに伴い、旧制学位請求論文の受理は昭和三十四年六月を期限とすると限られたので、これに応じて論文の整理を急ぎ論文を提出した人が多く、昭和三十三年以降において、電気通信学の分野で旧制教授会における論文の審査を経て旧制の学位を得た人々は、学外では木村六郎(昭三三・六)、田中平次郎(昭三三・六)、田中周三(昭三三・一二)、見目正道(昭三四・二)、蠣崎賢治(昭三四・二)、吉田信一郎(昭三四・一一)、山崎勝一(昭三四)、矢崎銀作(昭三四・六)、松丸勝(昭三四・一〇)、学内においては教授伊藤毅(昭三四・一一)、助教授平山博(昭三四・一二)、助教授伊藤糾次(昭三五・一)、助教授副島光積(昭三五・一)、助教授清水司(昭三五・三)であって、いずれも工学博士の学位を得た。

 新制の学部・大学院の発足に伴い、かねてより通信科の研究実験室の拡充を申請していたところ、一四号館四階増設工事完了によって一四号館の三、四階への割当を得て、昭和三十四年当初、ここへ通信事務所、研究実験室(約二百六坪)の移転が行われた。このようにして、ここで音研(伊藤毅)、アンテナ研(副島)、回路研(平山)、高周波研(岩片)、マイクロ研(香西)、材料研①(伊藤(糾))、材料研②(清水)、電磁界研(堀内)、電子回路研(広田)、電子計測研(田中)、小原研などの研究実験室(河村研は一四号館の一階)が整備された。

 昭和三十四年四月、電気通信学科に通信工学課程と電子工学課程を設け、課程必修科目を定め、履修科目選択の指針を与えた。

 昭和三十五年九月、教授伊藤毅は学科主任に就任。三十六年四月、大学院に音響工学研究(指導教授、伊藤毅・河村秀平)開設。同月、助教授平山博は教授に就任。回路理論、電子回路、電子計算機を専攻した。

 昭和三十六年三月、専任講師小原啓義は工学博士(早大)となり、四月、助教授に就任した。

 昭和三十七年四月、助教授香西寛は教授に就任。マイクロ波回路を専攻した。同月、助教授伊藤糾次は教授に就任、電子物性、電子装置を専攻した。同月、助教授副島光積は教授に就任、アンテナ・マイクロ波工学を専攻した。同月、内山明彦、中沢康克は専任講師に就任した。

 昭和四十年四月、助教授清水司は教授に就任、電子材料・電波物性工学を専攻した。

 昭和四十年三月、通信科は本部校舎一四号館から西大久保新校舎一一号館(現在の六一号館)の四、五階に移った。坪数は専任教員一人当り個室四坪、研究実験室十五坪、コース別実験室学生定員の一人当り一坪(通信は定員百二十名)の基準で割当られた。こうして一一号館の四、五階に回路工学研究室(平山・香西)、通信工学研究室(広田・副島・堀内)、電波工学研究室(岩片・清水・小原)、電子工学研究室(田中・伊藤(糾))、音響工学研究室(伊藤(毅)・河村)が完成し(専任講師の中沢、内山研究室は十号館)、活発な教育研究が行われた。

 電気通信学科の学生実験室は共通実験室に変更になり、四十年二月、西大久保新校舎の現在の六一号館四階に第二電気実験室(六四五平方メートル収容人員百二十名。昭和四十二年十一月から電子通信実験室と改称)として独立、通信科学生実験室の機械器具、実験機器を移管し、理工学部各科の電子通信関係の学生実験を行うこととなった。実験室の運営は理工学部各科から選出された委員から成る運営委員会(委員長教授田中末雄、昭和五十五年四月より教授伊藤毅)によって行われ、実験室の管理・運用は技師塩見之一、加藤久男、石并武至をはじめ実験室技術職員によって行われた。

 昭和四十年四月、大学院に回路工学研究(指導教授平山博、香西寛)開設。四十一年九月、教授香西寛は学科主任に就任。四十二年四月、専任講師内山明彦、中沢康克は助教授に就任。

 昭和四十三年四月、助教授小原啓義は教授に就任、情報処理・電子計算機を専攻した。四十四年四月、助教授堀内和夫は教授に就任、情報理論、制御理論、電磁波論を専攻した。

 昭和四十五年六月十一日、教授岩片秀雄が病気のため逝去。四十六年五月、電子計測を専攻した助教授中沢康克が病気のため逝去。

 昭和四十六年三月、教授広田友義は在職四十八年にて定年退職。同年五月名誉教授となる。同年九月、教授平山博は学科主任に就任した。

 昭和四十七年四月、電気通信学科の名称を電子通信学科に改めた。同年三月、大泊巌は課程を終え工学博士(早大)となり、四月、専任講師に就任した。同月、教授伊藤糾次は学科主任に就任した。同月富永英義は助教授に新任。同月、大学院に通信工学研究に代り、情報工学研究(指導教授小原啓義・堀内和夫)設置。同年九月、教授小原啓義は学科主任に就任した。

 昭和四十八年三月、加藤勇は課程を終え工学博士(早大)となり、四月、専任講師に就任した。同月、助教授内山明彦は教授に就任。電子装置、医用電子を専攻した。同年十二月、教授内山明彦、助教授富永英義は共に論文を提出して工学博士(早大)となる。

 昭和四十九年四月、専任講師大泊巌は助教授に就任。五十年四月、専任講師加藤勇は助教授に就任、量子エレクトロニクス、電波物性工学を専攻した。五十一年四月、助教授富永英義は教授に就任、データ通信システム、記憶装置、交換方式を専攻した。同年九月、教授堀内和夫は学科主任に就任した。

 昭和五十二年度においてカリキュラムの大幅な改訂を行い、情報工学関連の学科目を増強し、電子工学、通信工学、情報工学の三コースを設置して、時代に即応する態勢が整えられた。一方、大学院の電子通信学専門分野は回路工学部門(平山、富永)、情報工学部門(小原、堀内)、電波工学部門(香西、副島、清水)、電子工学部門(田中、伊藤(糾)、内山、大泊)、音響工学部門(伊藤(毅)、河村)の形となった。

 昭和五十四年四月、助教授大泊巌は教授に就任。電子物理、電子材料を専攻した。

 昭和五十五年三月、教授河村秀平は在職三十八年にて定年退職、同月、教授田中末雄は在職四十八年にて定年退職、四月名誉教授となる。

 昭和五十五年四月、大附辰夫は教授に新任。同年九月、教授副島光積は学科主任に就任した。

十 工業経営学科

ページ画像

1 工業経営学科設立の経過

 本学科設置の発案と設置に努力をした人は当時理工学部長であった山本忠興教授(電気工学科)であった。

 山本学部長は当時アメリカで新しい学問技術としてマサチューセッツ工科大学でインダストリアル・マネージメント(Industrial Management)学科が、またエール大学ではインダストリアル・エンジニアリング(Industrial Engineering)学科が工学部に設置され、製造企業の管理および経営技術の教育研究を行い、アメリカ産業の発展と企業の近代化に貢献していることを調査した。

 そして時の総長田中穂積と相談し、日本で最初の工業経営学科を、既設の機械工学、電気工学、建築学、応用化学および採鉱冶金学等の固有技術で着々と日本産業界に地歩を築いてきていた本学の理工学部に、創立五十周年記念事業の一つとして、マサチューセッツ工科大学やエール大学に倣って創設し、従来の固有技術に新しい経営管理技術を加えることによって、日本産業のより一層の発展と近代化に役立たせることを決定した。

 そして昭和七年に文部省に日本で初めての工業経営学科の設置を申請した。しかし当時の日本の文部省の目はヨーロッパに向いていたので、この新学科設置認可が得られなかった。しかし山本学部長および大学当局の熱心な文部省への働きかけにより、昭和八年に、独立の学科としては認められないが、従来の各学科に工業経営分科を置くという形で認可され、昭和八年から附属第一高等学院理科に工業経営学科に進学する学生を募集し、大学としては、実質的に工業経営科を独立した学科として取扱うことになった。

 昭和十年四月に工業経営学科の第一回生が学部に入学し、昭和十三年三月に第一回卒業生が巣立った。

 現在日本の大学工学部に工業経営学科(または経営工学科)を設置している大学は四十二校に上っているが、殆どが昭和二十四年以降であり、本学科は日本で最も長い歴史と伝統があるばかりでなく、世界でも第八番目の歴史の古さを持っている。

2 創設期

 当科は設置当時は既設の各学科の分科として設置されたが、各学科では新設の当分科のためにわざわざ学習指導や相談に乗って頂く担当の先生を決めて頂くなど親切な御協力を頂いた。

 当科は分科ではあったが、他の学科と同様に学科主任を置くことになり、電気工学科の上田輝雄教授が初代の学科主任として開設準備と創設期の運営に当った。

 その際電気工学科の石光正臣教務補助が工業経営学科に移り、上田教授を助けて創設の仕事に当った。学科目の編成に当っては、日本最初の学科であったため、外国の大学を参考にすることになり、波多野貞夫に専門科目と講師陣容の編成を依頼した。波多野は当時の学術振興会の理事長、日本能率連合会の理事長であり、日本産業の近代化に強い関心を持ち、また世界各国の経営管理技術についても深い調査をしており、早くから日本の工学部教育課程に経営管理技術を盛り込むよう建議していた人であった。

 波多野は工業経営学科の講師に就任すると同時に上野陽一、荒木東一郎の両氏を講師に招聘し、学科課程を作成した。当時の学科課程は第二十三表の通りである。

第二十三表 工業経営学科開設期の教員と担当科目(昭和十年)

 上野陽一は日本最初の経営コンサルタントでギルブレス夫妻と親交があり、戦後人事院初代人事官になり、後に産業能率短期大学を設置した。

 荒木東一郎は、日本で最初のIEに関する修士号を米国アクロン大学で取得した後帰国、IEコンサルタントのパイオニアであった。

 昭和十八年四月に文部省の方針により、従来の工業経営分科が独立した工業経営学科として認可された。その中に機械、電気、化学および建築の四分科(コース)を設置した。形式は変ったが内容には変化はなかった。

3 学制改革以降

 昭和二十四年新制大学への切替に伴って従来あった五分科を廃止した。ただし技術的基礎として機械、電気および化学についての実験を選択必修として課すことにした。この時の学科目および教員陣容は第二十四表の通りである。

第二十四表 新制工業経営学科設立時の教員と担当科目(昭和二十四年)

 昭和二十六年四月に新制大学院制度が発足し、工業経営学は機械専攻の中に含め生産管理学専修が設けられ上田輝雄教授が担当することになった。

 その後教授陣容の整備とともに工業経営学の分野の各種専修も増加した。

4 創立八十周年以降

 八十周年を迎え幾つかの記念行事が計画された。その中に理工学部を現在の大久保校舎に移転新築することになった。当時日本産業は高度成長の徴を見せていたので、移転を機会に募集人員を大幅に増加することになり、工業経営学科の学生の定員も、百五十名に増員された。

 また同時に膨脹する理工学部再編成案が本部および理工学部の一部で検討された。その中に工業経営学科を学部として理工学部より分離独立させる案があった。工業経営学科として慎重に検討した結果、拡大されることは良いが、日本産業の将来、学科目の内容、教員陣容などから、いたずらに膨脹することよりも質的充実を計ることが重要である、との結論になり、経営工学部独立の案は取り止めとなった。

5 まとめ

 工業経営学科の創設当初より今日まで、外来および他学部他学科より多くの先生に御協力を頂いてきた。

 現在(昭和五十四年)の学部および大学院の授業科目と担当の教員は第二十五、二十六表の通りである。

第二十五表 工業経営学科学部授業科目(昭和五十四年度)

(Ⅰ) 専門必修科目

(Ⅱ) 専門選択科目

(Ⅲ) 専門随意科目

第二十六表 工業経営学科大学院授業科目(昭和五十四年)

第二十七表 工業経営学科年表

早稲田工業経営学会(WIA)

 昭和十二年工業経営学科に教室、卒業生および在学生相互の研究と親睦のために早稲田工業経営学会(略称WIA)が創設され、研究業績に関しては、『早稲田工業経営学会誌』に、懇親連絡のために『WIA誌』が発行された。

 また、WIAの中に学生の研究会を設置し、学生が自主的に運営することになった。

 現在、活動している研究会は、下記の通りである。

OR研究会 環境工学研究会 管理工学研究会 行動科学研究会

生産技術研究会 レイアウト研究会 自動操作研究会(WAO)

十一 土木工学科

ページ画像

1 土木工学科創設の経緯

 早大における土木工学科設置の次第について見ると、早大前身の東京専門学校の創設当時に設置された四年制の理学科に代って明治十七年一月、三年制の土木工学科を置く開申書が提出されている。しかし生徒数が極めて少ないことから結局実現には至らなかった。何故土木科を考えたかの理由については、第一節の「1東京専門学校の開設と理学科」および「2大隈重信と洋学」の中に詳しく述べられている。それから二十数年の後、明治四十四年に大学付属工手学校(後に工業高等学校となる)が開設されると同時に同校に土木科が設置された。昭和三年には大学付属高等工学校(昭和二十六年廃校)が土木科を置き、昭和十四年には専門部工科の創設とともにその中に土木科が設置された。

 専門部工科の土木の卒業生の中には理工学部への進学を希望する者も多かったが、理工学部に土木工学科がなかったため進学者は他系列の学科に入らざるを得なかった。こうした状勢から理工学部に土木工学科を置きたいという気運が高まり、一方当時の政府の理工系学校増設の方針とも一致したためここに実現の運びとなった。大学当局からこの件について諮問を受けた教授内藤多仲(建築学科)は、教授吉田享二(建築学科)や田中豊(東大教授工学部土木工学科)らと相談し、教員の人選その他設立の具体的準備を行った。その結果決定した設立当初の専任教員は次の通りである。

学科主任 教授 草間偉(東大教授を定年退官、東大第二工学部の設置に功績あり)

教授 広瀬一郎(早大専門部工科教授と兼任)

助教授 佐島秀夫(東大工学部土木工学科卒、大阪市勤務)

助教授 後藤正司(早大理工学部建築学科卒、早大専門部工科専任講師)

以上四名のほか終戦頃までの短期間、助教授入江但、講師春日屋伸昌が専任として在任した。非常勤講師には本間仁、岡本舜三、渡辺義勝らを外部から招き、土木の基礎的な講義を依頼し、一方機械・電気・化学などの概論や実験科目については理工学部内の各分野から応援を得ることとし、第一学年の設置科目と担当教員が決定された。昭和十八年九月に学生三十一名が入学、授業が開始されたが、それらの学生は早大専門部工科の土木科を卒業した者と早大高等学院からの志望者とから成っていた。また当初の教員研究室は本部構内の北門を入って西側の木造建で、大部屋を本箱で仕切ったものであった。

2 拡張整備期、旧制時代

 昭和十九年には教授兵藤直吉(東大卒、内務省勤務)が着任し、戦局の悪化および高齢のため疎開した草間に代り学科主任代理に就任した。また非常勤講師として新たに青木楠男、吉田徳次郎、内海清温、佐橋信一らを依頼、第二学年の設置科目および担当教員を決定した。この年十月学院と専門部の双方から新入生五十名が入学。

 昭和二十年四月、高等学院は制度改定により二年に短縮されたためそれに伴い新入生が入学、やがて米元卓介(東大工学部土木工学科卒、内務省勤務)が助教授として着任した。十月に在学生のうち二学年生および旧一学年生をそれぞれ三年生および旧二年生に進級させ、ここに初めて三学年のクラス編成が完成。

 昭和二十一年四月、初めて学生を一般募集し四十五名が入学、これは戦時中の修業年限短縮処置が終戦により元に復したため高等学院、専門部の新卒業生が出ないための処置であった。この年草間偉退職、代って青木楠男(東大工学部土木工学科卒、内務省土木試験所長)が教授として着任し学科主任に就任、また講師米屋秀三(東大工学部土木工学科卒、台北帝大教授)が専任教授として着任した。九月には第一回卒業生二十二名を送り出すことになった。また土木の事務室に書記松本克巳が着任した。

 創設から三年を経たこの頃の学科配当表は次の如くである。

第二十八表 土木工学科学科配当表(昭和二十一年五月)(括弧内は担当教員)

 これをみると実験設備の乏しい中で計画演習によって基礎学力の充実を計った苦心の跡が見られる。

 昭和二十二年九月、第二回卒業生四十二名を出し、その年十一月、木造バラクながら土木工学科の本拠となる建物が昔の採鉱実験室の焼跡の二階に完成し、間借していた政経学部校舎から移転、教員研究室、会議室、事務室および図書室として昭和二十六年まで使用した。

 昭和二十三年三月、第三回卒業生三十四名を出し、この年度から三月卒業の常態になった。十月には技師金児武が専門部から移籍し土木工学科の事務主任となり、測量実習も担当した。

 昭和二十四年四月、新制大学の発足に伴い、第一・第二理工学部が開設、両学部に土木工学科を設置した。一理では教授青木楠男、二理では教授兵藤直吉がそれぞれ土木工学科の学科主任に就任。旧制の学生募集の停止により高等学院および専門部卒業生中の希望者は一理の三年に入学、高等学院の三年生および二年生の進級者は一理の二年および一年に入学、専門部の三年および二年生進級者のうち進学希望者は一理の二年および一年に入学、二理には当面一学年と二学年を置き、学生は一般募集した。一方、専門部は学生募集を停止し、多くの在学生が新制大学に移籍した。また、教授広瀬一郎は専門部の兼任を解かれ理工学部本属となり、専門部残留者の教務は学部で代行することになった。この年、村上博智(早大理工学部建築学科卒、早大専門部工科専任講師)、平嶋政治(早大理工学部土木工学科第一回生、大学院特別研究生)が専任講師に就任した。五月に中村昭が測量実習室に技手として就任した。また秋には柄沢郡治(建設省土木研究所勤務)が水工実験室の担当技師として着任した。

 昭和二十五年一月、土木工学科の実験室第一号として水工実験室が完成、鉄骨スレート張り平屋建て二十五坪、開水路二本を備えていた。また四月にはコンクリート実験室と土質実験室が演劇博物館横の八号館地階に設置され、両実験室が同居となった。この年、窪田吾郎(国鉄技研勤務)が専任講師に就任。

 昭和二十六年三月、旧制の第六回卒業生七十五名と新制一理の第一回卒業生七十名とが同時に卒業。四月に新制大学院工学研究科修士課程が設置され、その中の建設工学専攻に建築、土木の両分野が包含され、土木としては構造工学(青木楠男担当)および交通工学(兵藤直吉担当)の二専修を置くことになった。

 十月に土木工学科の教員研究室、事務室などが理工系大学院の新築の建物の五階に移転、エレベーターのシャフトはあったが、エレベーターは遂に設備されなかった。この年、神山一(早大理工学部土木工学科第三回卒)が専任講師に、石川栄耀(東大卒、東京都建設局長、早大非常勤講師)が教授に就任。

3 大久保に移転まで

 昭和二十七年三月、旧制最後の卒業生七名を出し、同時に第二理工学部土木工学科の第一回卒業生三十八名を出す。四月、大学院建設工学専攻に都市工学専修(石川栄耀担当)を置く。五月、喜久并町に理工学研究所が再建され、土木関係では振動実験室と光弾性実験室が設置された。

 昭和二十八年三月、大学院建設工学専攻構造工学専修から修士第一号を出す。四月に大学院に博士課程設置、十一月に土木工学科創立十周年記念行事挙行、この機会に稲土会を設立。稲土会の構成は土木工学科教職員と卒業生からなり、学生部会も持って、本部は土木事務室。

 昭和二十九年九月、青木楠男が第一理工学部長に選任され、米元卓介が一理教務副主任に就任。学科主任には一理が兵藤直吉、二理には米屋秀三が就任した。この年五月、青木は土木学会会長に選任された。

 昭和三十年四月、森麟(早大理工学部土木工学科第四回卒、大学院特研生)が専任講師に、六月に沼田政矩(東大教授定年退職)が教授として就任。九月には教授石川栄耀が急逝した。

 昭和三十一年三月、広瀬一郎定年により退職、四月に堀井健一郎(早大理工学部土木工学科第五回卒、神奈川県技師、早大助手)が専任講師に就任。九月、青木楠男が一理学部長を退任し、大学院工学研究科委員長に選任。助教授平嶋政治は広田友義二理学部長のもとで二理教務副主任に就任した。また一理では米屋が、二理では米元がそれぞれ土木工学科の主任に就任した。

 昭和三十二年一月、稲土会と専門部工科の土木科卒業生の会である礎(いしづえ)会とが合併した。三月に水工実験室に高水頭実験室を併設、四月に大学院建設工学専攻に水工学専修(担当教授米屋秀三、同米元卓介)を設置。また、原喜伴(早大二理土木工学科卒)が技術職員技師として土木工学科に着任、土質実験室担当になった。九月、助教授神山一、高木純一学部長のもとで一理教務副主任に就任、十月に松井達夫(東大卒、内務省、首都建設委員会、科学技術庁、早大非常勤講師)が教授として着任した。

 昭和三十三年九月、青木楠男大学院工学研究科委員長を退任。一理では佐島秀夫、二理では後藤正司がそれぞれ土木工学科の学科主任に就任した。

 昭和三十四年七月、書記松本克巳が第二政経事務所に転出、後任に書記松本新太郎が着任した。

 昭和三十五年九月、一理では米元卓介が学科主任に就任、二理では後藤正司が留任となった。この年二理廃止の件が具体的に論議され、翌年度から二理の学生募集停止が決まり、昭和三十六年度は一理のみで土木工学科の入学定員百名が決定された。五月、教授沼田政矩土木学会会長に選任。

 昭和三十六年四月、一理のみ新入生募集。大学院の専修、講義科目が大幅に拡充された。

 昭和三十七年九月、一理では松井達夫が学科主任に、二理では後藤正司が二理廃止まで留任することになった。十二月、技師金児武が土木工学科の事務主任から一理事務主任に転出した。

4 大久保へ移転前後から現在まで

 昭和三十八年四月、早大創立八十周年記念計画に基づく新構想のカリキュラムによって新入生入学。九月には大久保の新校舎で講義の一部開始、十月に土木工学科創立二十周年記念行事挙行。四月に技手中村昭が応用物理学科事務室に転出。十二月に技師柄沢郡治は理工学部事務所副事務長に就任した。

 昭和三十九年三月、教授青木楠男、兵藤直吉が定年退職、青木楠男は名誉教授に推挙された。九月、一理の土木工学科学科主任に後藤正司が就任。

 昭和四十年三月、二理土木工学科の最後の学生が卒業、四月に遠藤郁夫(東北大学工学部土木工学科卒、同大学院博士課程修了)が専任講師に就任、また宮原玄(早大二理土木工学科卒、同大学院博士課程退学)が助手から専任講師に昇格した。この年三月、大久保新校舎では第二期工事の実験室棟が完成し、土木工学科の一部教員はそこに移転した。

 昭和四十一年九月、一理土木工学科学科主任には村上博智が就任。この年、学費値上げ問題から始まった大学紛争は、大学管理法に対する反対で拡大し軍事研究問題などを含めて第二次紛争へと繫り、四十四年十月まで学内は荒れた。

 昭和四十二年三月、大久保新校舎第三期工事の管理研究棟が完成し、四月に全面移転完了。土木工学科は主として五一号館十六階に研究室を持ち一部教員は五八号館、五九号館、六一号館および喜久井町の理工研に研究室あるいは実験室を持つ。各学科の事務所は廃止され、五一号館十六階に土木工学科の連絡事務室が置かれることになり、四十二年五月に書記松本新太郎が理工学部事務所に転出した。この年カリキュラムの再検討を行い、四十三年度からは新構想のものに移行した。すなわち十分な基礎学力の上に視野の広い応用能力を持たせようという理念から実験科目の充実を計り、専門選択科目を四系列に分け全系列から選択させることにより土木全体に亘って平均に学力をつけるようにした。

 昭和四十三年四月、二理の廃止により、一理の名称も解消、理工学部と改称された。九月、学科主任に平嶋政治就任、神山一は村井資長理工学部長のもとで理工学部教務主任(学生担当)に就任した。

 昭和四十五年四月、米屋秀三逝去。九月、学科主任に神山一が就任、また理工学部教務主任(教務担当)に村上博智が就任。

 昭和四十六年四月、鮏川登(東大工学部土木工学科卒、同大学院博士課程修了)が助教授として着任した。

 昭和四十七年九月、平嶋政治理工学部長に選任され、土木工学科主任に教授森麟が就任。

 昭和四十八年五月、土木工学科創立三十周年記念行事挙行。

 昭和四十九年五月、後藤正司、土質工学会会長に就任。九月、平嶋政治理工学部長に再選、堀并健一郎が土木工学科主任に就任した。

 昭和五十年三月、教授松井達夫は定年により退職。四月に大塚全一(東大工学部土木工学科卒、建設省中国地建局長、都道路監、営団地下鉄理事)が教授として着任した。

 昭和五十一年九月、村上博智、理工学部長に選任。遠藤郁夫が土木工学科主任に就任。十二月、教授神山一逝去。

 昭和五十三年三月、米元卓介定年により退職、名誉教授に推挙。四月に関博(早大一理、土木工学科卒、運輸省港湾技術研究所勤務)が助教授として着任、コンクリート工学を担当。九月、村上博智理工学部長に再選。土木工学科主任に教授大塚全一が就任。教授鮏川登は教務副主任(教務担当)に就任した。

 昭和五十四年四月、吉川秀夫(東大工学部土木工学科卒、東工大教授)が教授として着任、河川工学、水理学を担当。

 昭和五十五年三月、佐島秀夫、定年により退職、名誉教授に推挙。四月、依田照彦(早大理工土木工学科卒、同大学院博士課程修了)が専任講師として就任、測量学、基礎工学実験など担当。四月、村上博智は大学理事に就任、九月、同教授は理工学部長を退任、大学常任理事に就任。また土木工学科主任には教授森麟が再び就任した。

5 むすび

 創設以来三十七年を経過した現在土木工学科の卒業生は三千五百三十六名に達しており、それぞれ学界に建設業界にあるいは官界など各分野で活躍しているが、中には若くして衆議員議員に当選した者もおり多彩である。また卒業生中、工博の学位取得者は二十六名で、この内二名のPh・Dが含まれている。建設事業のうちでも土木関係は本来官業的色合いが強いから私学出身者は果してどうかという問題はあるが、公団、地方庁などを含めると官公庁側の分布は総卒業生数の中の約一八パーセントになっている。

 一方教室の教員の定員は十二名で、これは昭和四十年頃、当時の理工学部長難波正人の各科に対する定員割当案が現在も生きていることによる。この十二名で学部と大学院の双方の教育と研究指導を受け持っているが、因に専任教員の氏名と学部および大学院で担当の主な科目を示すと次の如くである。括弧内の上は学部の、下は大学院での担当を示す(氏名は五十音順)。

教授 遠藤郁夫(上下水道、汚濁制御工学研究)

教授 大塚全一(都市計画、都市計画研究)

教授 吉川秀夫(河川工学、河川工学研究)

教授 後藤正司(土質工学、土質力学研究)

教授 鮏川登(応用水理学、応用水理学研究)

助教授 関博(コンクリート工学、コンクリート工学研究)

教授 平嶋政治(応用数学、構造解析研究)

教授 堀并健一郎(橋梁工学、構造設計研究)

教授 宮原玄(材料力学、構造解析研究)

教授 村上博智(応用力学、構造設計研究)

教授 森麟(道路工学、土質及び道路工学研究)

講師 依田照彦(測量学)

 なお、技師原喜伴は土質実験室の管理を担当し共通実験室第一課に属している。

 研究室は五一号館の十六階の全面を中心として、六一号館の地階に土質実験室と構造実験室があり、五九号館の三階にコンクリート研究室、共通実験室としての材料実験室内にコンクリートの実験室が含まれている。五八号館の二階に水理学研究室、流体共通実験室の中に土木水工学実験設備があり、更に屋外に傾斜水路実験の設備と波起し装置を持つ水槽がある。また水質に関する実験室は五一号館の研究室に含まれており、これらは土木専用の実験設備であるが、測量実習、基礎工学実験、材料実験、物理および化学の実験などについては理工学部の共通実験室を使用している。戦時中に実験設備ゼロの状態から出発したことを思えば隔世の感がある。しかし、土木技術の進歩からみて、また他大学の設備と比較してみれば決して十分とは言えないのであって、近く四十周年を迎える土木工学科の未来に希望をかける次第である。

十二 応用物理学科

ページ画像

 応用物理学科は理工学部基礎工学実験室(大正十二年創立)を母体として、昭和二十四年大学の新制移行の時機に発足した。そこで応用物理学科の前身であったとともに、理工学部で特殊な位置を占めていた基礎工学実験室の回顧から始めよう。

1 基礎工学実験室

 後年電気通信学科の創立者となった黒川兼三郎は、当時何らの研究組織を持たなかった理工学部に、総合的な研究所を設置する必要を外遊経験から痛感し、共鳴者伊原貞敏とともに、大学当局に対してその実現を強力に働きかけた。しかし、大学は新大学令による総合大学に移行するのに際して、義務づけられた多額の供託金の調達に苦闘し、やっと大正九年の発足に間に合ったという状況にあった。そこで多額の資金を要する研究所の設立は当分不可能ということで、大幅に規模を縮小して、中央研究所附属基礎工学実験室として、本体の研究所はないまま、標準測定設備の充実を目的として恩賜館の一階を設置場所に、大正十二年に発足した。大正十二年七月の『早稲田学報』の記事。

理工学部中央研究所 大正十二年度より開始 従来理工学部においては、工学の基礎たるべき標準測定の設備を欠如したりしが、同部各学科において研究の結果を確実化し、かつ最近大学の進運に適応するため、同部に中央研究所を設くるに決し、先づ恩賜館物理教室を基礎工学実験室にあて、これを理工学部中央研究所基礎工学実験室として、根底ある工学の攻究を進めることとなりたり。

 基礎工学実験室の実際の活動は、専属教員の基礎科学部門での研究活動ならびに基礎研究に寄与しうる実験設備および文献の充実とそれらの共同利用の管理運営、各学科の低学年学生を対象とする物理実験の指導、数学や力学等の基礎科目の各科への出張講義等であった。

 基礎工学実験室が、旧制時代の理工学部の中での理学的色彩をもつ唯一の存在として独自の役割を演じ、理学系学科設立の母体となったこと、また研究設備の共同利用体制作りの魁となったこと等、研究面で理工学部の近代化に果した意義は大きい。また、基礎工実験を通じて各科学生に共通の基礎知識を植えつけようとした考え方は今も物理基礎実験、工学基礎実験に継承されている。

 さて、基礎工学実験室は黒川教授が電気科本属のまま主任となり、新大学令による電気工学科第一回卒業生広田友義、宮部宏両教務補助の三名で出発し、伊原教授(機械科)は外から支援する形をとった。その後、電気科出の小泉四郎が昭和四年、機械科出の白川稔(大正十四年)、中条徳三郎(昭和三年)、中野稔(昭和十年)が順次迎えられたが、広田、白川、中条は短期間の在任で他に転出し、上田隆三(昭和十七年)、飯野理一(昭和二十一年)を加えても僅か五名の小所帯であった。本来の中央研究所が黒川等の永年に亘る努力の結果として、昭和十五年理工学研究所の名称で実現したに過ぎないことからも、基礎工学実験室が小組織のまま経過したのもやむを得まい。

 基礎工学実験室はこのように小組織ではあったが、前記の実験指導、出張講義の他に電気科や機械科等の卒業論文の指導を行い、工業材料の研究(宮部)、回路網理論と演算子法の研究(小泉)に代表されるように、研究面でも活発な活動を行った。一方、各科の予算では賄えない高価且つ高精度の機器や標準計器を多数購入整備し、また図書では、ハンドブーフ・デル・フィジーク等の大物ハンドブックやテーブル類、シュプリンガーの数学叢書等の理学系叢書類、フィロソフィカル・マガジン、コント・ランデュウ等定評ある基礎科学の雑誌を含む約五十種に及ぶ欧文学術雑誌を備えて共同利用に供した。

 基礎工学実験室は昭和十九年頃までは恩賜館で平穏な経過を辿ったが、戦時末期からは移転の繰返しを強いられた。すなわち、昭和十九年空襲の危険を感じて煉瓦建の恩賜館を出て学徒出陣等で空室のできた政経学部の建物に移り、二十年早々、宮部等は実験装置や雑誌類を守って新潟県松ノ山に、小泉は図書類とともに長野県小海に疎開した。敗戦後再び政経の建物に戻ったが、梱包資材の入手難等の事情から、実験装置や図書類の大部分は二十一年五月まで疎開地に放置せざるを得なかった。ところが、文科系学部の復興に伴い、政経の建物から退去をすることとなり、二十二年四月から、宮部等と図書室は応用化学科の九号館(現六号館)の四階に、基礎工学実験室は同館屋上の仮設建物に、小泉は燃料化学科(穴八幡裏のスコットホール)の一室に、次いで二十三年に応化の一階の受付部屋に引越しを余儀なくされた。このような状態は基礎工学実験室解散まで続いた。解散時の陣容は教授二名、助教授二名、教務補助一名、文部省特別研究生二名(並木美喜雄、矢野泰)、技師補一名(鈴木留之助)他職員二名であった。

2 応用物理学科の創立の経緯

 明治十五年東京専門学校は政治科および法律科と並んで、物理、化学、生物、天文、地質等を含む理学科を設置したことからも窺えるように、創立者は理学に相当の熱意を持っていたものと思われる。不幸にして、理学科は二年で閉鎖されてしまったが、その後の理工科の開設、大学令による理工学部へと発展して行くなかで、工学の基礎の充実を唱えて作られた基礎工学実験室に理学志向が僅かに見られる程度で、旧制時代には理工の理は工学の修辞句に過ぎなかった。ところで基礎科学の研究の傍ら他学科の学生の教育と研究指導という縁の下の力もち的仕事に終始していた基礎工学実験室専属の者達は、理学系の新学科を作り、自らの学生を指導して、研究者と新しい型の技術者の養成をしたいという強烈な意欲を予々懐いていたので、新制大学移行の時機に新学科を発足させることを決意して、二十二年頃から具体的な検討に入った。

 目標としたのは物理学科の設立であったが、当時の基礎工学実験室の陣容と、工学一色の学部内で抵抗少く承認されるという条件から、一挙に物理学科を作ることを避けて、物理学と工学の中間領域を目指すことを表看板にして、学科名は応用物理、内容は極力物理学科に近いもの、特に理論物理学と物性物理学を中心にすることとした。発足当初のカリキュラム(括弧内は単位)は、数学(四)、物理数学(十)、力学(四)、理論物理学(八)、原子物理学(四)、応用物理学(八)、化学物理(四)、物性論(八)、図学及製図(二)、演習(六)、物理実験(二)、化学実験(二)、化学物理実験(二)、応用物理学実験(四)、卒業論文(十)(以上専門必修)、物理数学特論(二)、電磁気学特論(二)、量子論(二)、連続体の力学(二)、、振動特論(二)、光学特論(二)、分子構造論(二)、放射線学(二)、応用物理学特論(二)、真空技術(二)、高圧技術(二)、写真技術(二)、自然科学史(二)(以上専門選択)、これらの他にいわゆる教養科目が共通に課せられているわけであるが、全般的に理学系の科目に重点が置かれており、物理科志向が強く現れている。

 当時応用物理学科は国内には殆ど存在しなかったが、その後間もなく各大学に設置された応用物理科が工学中心に編成されたものばかりの中にあって、当応物科は新鮮且つ独特のものであった。しかし、経済高度成長期に続々誕生した応用物理学科では物性に重点を置くものが相当多数あったところを見れぱ、当応用物理学科の設立は先見性のあった企画と言える。

 さて、基礎工学実験室を基盤とする応用物理学科の創設には次の二点を主なものとして反対があった。第一は理工学部全体のためにという形で基礎工学実験室に備えられた実験機器および膨大な量の図書、雑誌をそっくり応用物理学科が引き継ぐことに対するもの。他の一つは各科学生の共通実験としての基礎工実験の手抜きの必然性に関するものであった。基礎工学実験室設立の趣旨や歴史的経過から見れば当然とも言える反対理由であった。しかし、宮部、小泉等の懸命の説得努力と新制度に一斉移行の好機も幸して、教授会の了解を取り付けた。

3 学科発足と大学院設置

 教授二名、専門部工科から広田晴男を迎えて助教授三名、専任講師一名、特研生二名、技術職員二名、事務職員二名の陣容、研究室、図書室および事務室は応用化学科の建物に間借、学生実験室(一年生用)は採鉱冶金科の屋上の仮設建物を使うこととし、初代学科主任宮部宏の応用物理学科は入学定員三十名で昭和二十四年四月に発足した。

 入学生の大部分は旧制高等学院の一年修了者であったが、専門部工科や学士入学者、学院二年、三年からの物理好きの学生が多く、初年度から各種セミナーが活発に行われるなど、教員の増員が急がれた。そこで物性系の人事を優先することにして、二十六年、二十七年小林理研から時田昇、斎藤信彦がそれぞれ専任講師、助教授として迎えられた。

 ところで、学科発足早々から、研究室、図書室および事務室の明け渡しを請求されていたが、漸く二十五年、煤だらけの旧第二高等学院の建物(一四号館)に、研究室の大部分と図書室、事務室、二年生用の化学物理実験室、次いで三年生用の応用物理実験室が割当てられ、一回生の進級にどうやら間に合う程度に応用物理学科専用の学生実験室が確保された。一方、研究用の装置も、共同利用の形で電子顕微鏡が応用物理学科の研究室に隣接して設置され、更にX線装置、核磁気共鳴装置、赤外線分光装置等が入り、二十七年度からの卒業研究の実施に支障をきたさない程度の体制となった。

 物理学科に近い応用物理学科という特異な性格に加えて、応用物理学そのものが知名度の甚だ低い時代であったので、就職問題は学科設立の責任にも係わる重要事項であったが、学生定員が少く、その質も良好であったことと朝鮮特需という時代背景も味方して、比較的順調であった。

 大学院応用物理専攻修士課程は二十八年発足を目標とした。当時主要科目の担当者は教授に限られていたので、教授二名の応用物理学科単独では専攻を持てないので、同様な状況にあった数学科と共同で専攻を持つことにした。この議は二十七年の工学研究科委員会では承認されたが、理事会の承認が得られず、一年待たされて、二十九年に開設された。この結果、半数以上の大学院進学希望者のいた第一回生は大学院進学を断念したり、機械・電気等の他の専攻に、あるいは他大学の大学院に進学したり、一年後に応用物理学専攻に舞戻る等気の毒な事態となった。発足時の主要科目は数理物理学(小泉)、材料物理学(宮部)、連続体力学(佐藤(数学科))、応用解析(西垣(数学科))の四科目、他に物性論、量子力学が講義科目として置かれ、学位は工学修士であった。二十九年から学生定員は四十名となった。当時の応用物理学科の陣容は教授(宮部、小泉)、助教授(広田、上田、斎藤、飯野)、専任講師(時田、並木)、助手(矢野、市ノ川竹男)、副手(岡本重晴、小林諶三)であり、中野は前年機械科に移籍している。

4 計測コースと大学院博士課程の開設

 上述のように、物理学科に近い内容の教育体制であったが、年毎に計測工学等の技術者を目指す学生の比率が増える一方、工業界では自動化が急速に進み、三十年頃からは計測器メーカーおよびユーザーからの求人が多く、卒業生の半数近くが計測関係の仕事に従事する状況となった。そこで、理論物理学や物性物理学を中心とする在来の分野(後に物理コースとなる)の外に、物性工学とシステム・エンジニアリングを柱とする部門を新設することになり、この部門の核となる教員を、理工学部で最初の公募で求めることとなった。公募に対する主任会の強い批判を受けながらも、実行してその結果三十年十二月大照完が助教授として迎えられた。

 大照の着任によって、計測コース設立が具体化し、総予算七百万円、四年計画の計測コース設立が認められ、三十三年四月同コースが発足した。計測実験室(一四号館四階)の新設とともに、計測系の新任人事三名の枠も承認された。

 新任人事は個別の交渉と公募の二本建で進められ、三十四年八月中村堅一、三十五年五月小林寛がそれぞれ助教授、専任講師として迎えられた。公募の方は、国内各所はもとより、米国の十指に余る有名大学の関係学部長宛に人材の推薦を依頼するという大規模のものであったが、この公募では適任者が得られず不首尾に終った。特徴ある応用物理科の建設を目指して意気軒昻、従来の理工学部の慣習に囚われず、新機軸の提案をしては学部に物議をかもすことの多い草創期らしい時期であった。計測課程に対して、従来のものを物理課程とし、カリキュラムは講義科目に両課程に共通なものも多いが、学生実験は二年生以後別々に行う等、両課程の融合と独自性に十分配慮したものであった。

 計測コースの充実とともに、学科の研究、教育体制が大学院博士課程の設立に十分の状態となったので、三十六年応物専攻博士課程が発足し、数学専攻が分離独立した。工学研究科は理工学研究科と名称変更された。応用物理学専攻は修士、博士ともに理学、工学の学位を授与できることになった。この制度も正にユニークな特権といえる。主要科目は数理物理学、材料工学、統計力学(斎藤)、固体物理(上田)、応用光学(広田)で、他に講義科目として、原子核物理学、原子力工学、計測工学等が置かれた。

 この当時の応物の陣容は教授五名、助教授八名(岡本、大照、飯野、並木、中村、市ノ川、小林(諶)、小林(寛))、専任講師二名(加藤鞆一、大頭仁)、助手三名(久村富持、山田昌、和田伸彦)、実験職員六名、事務職員二名で、年齢分布、人数の点から教室の構成上最も充実した時であった。なお、矢野、時田はそれぞれ三十一年、三十五年に退職している。また、当時宮部は大学院委員長として、助教授の主要科目参加の道を開いた。学部の入学定員は三十六年から七十名となった。

5 八十周年体制以降

 いわゆる八十周年体制の影響で、三十八年から応用物理学科の入学定員は九十名となった。一方共通実験室群の構想の具体化によって、三十八年基礎物理実験室は西大久保校舎の工学基礎実験室に吸収され、三十九年には残りの三つの学生実験室が実験関係の全職員とともに各共通実験室に移り、また計測コースも解消することになった。結局、後に設立された物理学科とともに、卒業研究や大学院の教育・研究に全く無縁な低学年用実験室の世話役を引き受けることになった。

 三十八年頃からの教養科目は西大久保校舎、専門科目や卒業研究は本部校舎でという目まぐるしい過渡期を経て、第三期工事完了の四十二年、応用物理学科は西大久保校舎に移った。

 一方、理工学部一般教育の物理グループの陣容の強化が着々進み、応用物理学教室や理工学研究所核物理部門との協力体制の下で、四十年念願の物理学科が発足し、物理学科創立に指導的役割を果した並木は物理学科に移籍した。

 応用物理学科設立の趣旨や物理科成立の経緯からも、両科の緊密な関係はごく自然な形で、教育、研究、教室会の共同運営に及び、両学科間の障壁は全く存在しない。

 この年からのカリキュラムはコース別の解消と物理学科の発足によりかなり整理されたものになっている。

〈応用物理学科〉

応用物理学科では、基礎物理学、主要な現代物理学を基礎として物性工学および計測工学の学問を身につけ、将来技術者または研究者として、その習得した基礎的な理論および技術を応用し物性工学、計測工学およびそれらに関連のある分野に活躍できる人材を育成することを目的としている。

応用物理学科における学習は、物理学系統の学科目と計測工学系統の学科目とが合せて設置されているので学生はそれらを適当に組み合せて選択し履修することができる。また物理学科とは密接な関連があって教育と研究の面で交流がある。なお学科配当は次の通りである。

第二十九表 応用物理学科専門科目配当表(昭和四十年度)

(Ⅰ) 専門必修科目

(Ⅱ) 専門選択科目

 大学院応用物理学専攻は博士課程設立後から四十年代に質、量ともに大きく飛躍した。すなわち、理工研の核物理、核工学グループおよび教育学部の生物学専修グループの参加によって、理工学研究科最大の研究分野となった。そこで四十八年名称を物理学及応用物理学専攻と改め、名実ともに理学と工学およびその境界領域を研究対象とする体制が一応の整備を見たといえよう。この年度の大学院の主旨と配当表を掲げておく。

〈大学院物理学及応用物理学専攻〉

物理学及応用物理学専攻は現代物理学の諸分野の学習と研究を行なうと共に、新しい物理学に基づいた工学的応用をも研究するのが目的である。専攻分野は数理物理学、理論核物理学、実験核物理学、物性基礎論、物性物理学、生物物理学、高分子物理学、応用光学、計測制御工学、固体物理学にわかれている。当専攻を希望するものは学部の応用物理学科、物理学科卒業程度の学識を身につけることが必要であるが、他の学科の出身者は、必要に応じて、学部の講義をきくことがのぞましい。また使用外国語は英、露、独、仏が主なものである。英語以外は、必要に応じ適宜学習することがのぞまれる。

第三十表 大学院物理学および応用物理学専攻科目配当表(昭和四十八年度)

(Ⅰ) 主要科目

 昭和二十四年学科発足以来三十余年、その間の卒業生は約二千名、修士課程修了者約六百名、また四十一年課程による理学博士号取得者第一号が出てから、理学または工学の博士号取得者は数十名に達し、学会および実業界で早大応用物理学科の存在意義はかなり大きなものがある。

 最後に応用物理学教室の現状は、多数の学部と大学院学生を抱えて、研究・教育の両面で活発な活動状態にあるが、研究室はまさに過密、特に実験系では危機的様相にある。一方、スタッフは四十五年一月岡本は急逝し、さらに、創立者宮部、小泉が四十五年、四十八年に、ついで五十四年広田が定年退職し、新しいスタッフとして、四十六年千葉明夫、五十年堤正義、五十三年小松進一が迎えられ、世代の交代が行われた。しかし、百周年時点では、三十代二名、四十代二名、五十歳以上十名といった極端な高齢化状態となり、真に憂慮すべき状態になる、抜本的対策が望まれる。

十三 数学科

ページ画像

1 主な出来事

 数学科は昭和二十四年四月に、早稲田大学が新制に移行する際に次のメンバーで発足した。

教授 窪田忠彦 助教授 西垣久実

助教授 小林正 講師 田中忠二

講師 川上新太

なお、新制移行に伴い、一般教育科目が設置され、数学関係は

教授 前原重秋 助教授 福并常孝

第二理工学部の一般教育の数学関係で

助教授 上村外茂男

という陣容であった。

 当時の数学科の学生定員は四十名であり、これは昭和三十六年四月に七十名に増員するまで続き、以後定員七十名で現在に至っている。既設の学科では昭和二十四年度は、高等学院(旧制)、専門部等の学生を移すことにより充当したが、新設の数学科だけ全員を外部から募集した。志願者は約百五十名、そのうち六十名を合格にし、更に三年になる時、いわゆる“白線浪人”を補欠募集して定員を確保するというような苦難の発足であった。

 創立当時のカリキュラムは次の通り。

第三十一表 数学科学科配当表(昭和二十四年度)

その後学年の進むにつれて、中島、杉山、野口、洲之内が講師として新任されるとともにカリキュラムも近代化し、更に昭和二十八年八月に佐藤常三が教授に就任するとともに、応用方面の充実が計られ、そのカリキュラムは昭和四十三年まで続いた。

 カリキュラムの変遷については別に述べることにして、主な出来事を年代順に列挙してみよう。

 昭和二十九年四月、「応用物理学専攻」として数学科と応用物理学科を主体とする大学院修士課程が創設された。西垣、佐藤、小泉、宮部教授の四専修で、田中助教授の「ラプラス変換論」が共通講義として開設されるのが精一杯という状態であった。

 昭和三十七年の八十周年記念事業として、理工学部の大久保キャンパスへの移転が決まるとともに理工学部の拡充が始まり、昭和三十六年から数学科の学生定員が七十名になったが、教員の定員はそのままであった。

 昭和三十六年四月、大学院の「応用物理学専攻」が発展的に、「数学専攻」と「応用物理学専攻」に分離、同時に博士課程が新設された。これに伴い、理学博士が出せるように「工学研究科」が「理工学研究科」に改称された。

 昭和三十七年九月、難波学部長再選とともに、新体制運動が始まり、「数学系教員懇談会」が、数学科、一般教育数学系、応用物理学科等の数学に関連する教員により作られ、人事、カリキュラム、大学院問題等いろいろなことがそこで議論されるようになり、紆余曲折を経ながら、昭和四十六年四月の、一般教育の数学系教員との合併まで続く。この「懇談会」の一つの成果として、一年生の一般教育の数学が基礎教育科目として拡充され、また二年生の数学として各科に分散していたものが共通専門科目として統一され、その結果数学系教員の「暫定定員」が二十名に決まったのもこの頃である。

 一方、新体制運動とともに、一般教育理科系の教員から一般教育とともにそれぞれの専門分野の学生に教育を行いたいという希望があり、昭和四十年には物理学科が開設された。このような動きにつれて「数学系教員懇談会」でも一般教育の数学系教員の学科新設か数学科との合併かで揺れ動いたが、結局、昭和四十五年九月に合併に踏みきり、半年の猶予期間の後に正式に合併した。

 その後数年にして定員二十名を充足し、助手一名の所帯で大学院および数学科学生(一学年七十名)の教育と、一般教育および共通専門科目としての一、二年生の数学の教育に当っている。

 この間、大学院の方も、教員の定員の充足、教育学部の数学科教員の参加などで充実をし、数学関係で理学博士を二十名近く出している。

2 数学科カリキdラムの変遷

 昭和二十四年創設当時のカリキュラムは前に挙げておいたが、戦後の急速な時代の変化、若手教員や佐藤常三の新任などとともに、カリキュラムは近代化され、応用方面の充実が計られて、昭和三十年頃までには面目を一新した。このカリキdラムはいくらかの手直しを加えながら昭和四十三年まで続く。

 次に昭和三十二年のものを例示しておこう。

数学科では、将来、主として統計事業方面、技術関係、教育関係方面に進もうとする者の養成を考えている。学科目は純粋数学を建前としているが、なお応用数学をも重要視している。学習のコースを大別して、代数学系統、幾何学系統、解析学系統、応用数学系統の四つとした。

第三十二表 数学科学科配当表(昭和三十二年度)

 数学科の教育の方針も世の中の動きとともに変っていったことは『学習指導要項』における数学科のガイダンスの前文でもよく分る。

 昭和三十三年には、

今日、数学の諸分科で直接応用に関連しないものはない。純粋数学と言っていたものも悉く社会の各方面に応用され滲透している。

数学科では将来計算を主とした技術方面に向うもの、統計事業方面に進む者の養成を考えている。学科目は純粋数学を根底として、その上に物理学等を介して計算に関係した技術方面の科目、数理統計学、保険数学方面の諸科目に及ぶ。

として、確率統計、電子計算、空気力学等の応用方面の講義が増強されている。

 昭和三十八年には更に、

今日の社会においては科学、技術の発達にともない、特に電子工学の発展によって数学専攻者の活動範囲は広まり、需要は益益多くなって来ている。

数学科では将来、純粋数学の研究ならびに教育に向うものはもちろんであるが、技術方面に向うものや、オペレーションズ・リサーチの方面にたずさわるものの養成にも、特に力をいれている……

として、数値計算法、数値解析、応用統計学、OR、マセマティカル・マシン等の講義が新設されている。このカリキュラムは昭和四十三年の改正まで続き、その後、昭和四十六年の合併時の大改正で、更に近代化されたものになったが、これは省略しよう。

3 一般教育科目の数学のカリキュラムの変遷

 新制大学発足以来、一般教育科目としての数学は、自然科学系列、数学、物理学、化学、地学、生物学、気象学のうちの一つとして位置づけられていたが、実際には殆ど必修のようになっていた。『学習要項』によると、次のようになっている。

00-21 数学(選) 4単位

一般教育としての数学は数学的な観念がひろく教養として生きることを念頭におくが当学部においては理工科に進む学生の便宜を考慮して、講義の素材としては多く理工科系の学問に役立つものを選んでいる。しかしながら一般教育の面を生かすため、歴史的な考察その他理工科以外の面との関連についても充分考慮を払っている。

毎週の講義時間は四時間で次のように(Ⅰ)と、(Ⅱ)の二つに分けて講義をする。

数学(Ⅰ)(毎週二時間)

行列式、複素数、方程式、平面及び立体解析幾何、行列及び二次形式

数学(Ⅱ)(毎週二時間)

函数の極限値、微分法及びその応用、偏微分法及びその応用、不定積分とその応用、定積分とその応用

 この状態が長く続いたが、前述の「数学系教員懇談会」の成果の一つとして、理工学部の数学教育の拡充と現代化を計ることになり、昭和三十八年度から、一年生の数学を二時間増し、単位数も四単位から十二単位に引き上げ、基礎教育科目として取り扱い、必修とした。その内容は

数学A(週二時間) 方程式論の基本的な部分と、線型代数学の初歩、並びに平面立体解析幾何学が含まれる。

数学B(週四時間) いわゆる微分積分学。

 このため「線型代数学入門」、「解析学入門」の教科書を作り、日本の大学の教養課程の数学教育の近代化に貢献した。

 二年生には、それまで各学科ごとに設置されていた数学関連の科目内容をまとめて、次の三科目とし、共通専門科目として、数学系の教員が担当することになった。

数学C(週二時間) 関数論、特殊関数とフーリェの方法

数学D(週二時間) 行列論、連立線形常微分方程式論、フーリェ解析と二階偏微分方程式、演算子法

数学E(週二時間) 確率・統計

特に数学C、Dは、「物理数学的な解析を必要とする学科の学生を対象とし、解析学の基礎知識を与えると同時に、また近代解析のセンスを養うことを目的とする」と『学習要項』にあるように格調高いものである。

 その後、数学Eは統計学の特殊性から必要な学科に委せられ、現在では、数学Eは数学CとDを加えて半分にした軽い数学コースとなっている。

 なお、この基礎科目、共通専門科目の数学は、数学科教員の仕事となっている。

十四 物理学科

ページ画像

1 開設に至るまで

 昭和二十四年、新制大学の出発に際し、応用物理学科が設けられたが、これは内容的に物理学科に近いものであった。また、昭和三十三年には原子力研究の必要性に基づき、理工学研究所にまず原子核物理部門が置かれ三名の研究員が任に就いた。この二つのことは本大学の物理学研究に多くの寄与をし、物理学科が生れる重要な素地となった。

 一方、理工学部の全学科に及ぶ物理学の教育は一般教育課程として始められ、当初、田幸彦太郎、松原普、植松健一、小野英二らが担当し、一般教育教室に属した。他に専門課程の物理学の講義が四つの学科にあった。第一早稲田高等学院理科の時代以来、永く一般物理の教育の中心となった田幸が昭和三十一年に亡くなり、翌年、その後に木名瀬亘が着任、続いて昭和三十三年富山小太郎の就任をみた。富山はそれまで前記の専門課程の物理学の非常勤であったが、その教授実現は当時の高木純一第一理工学部長による理工学部の体質改善の発想に基づいており、所属を「共通専門」とした。以後、富山は学部の物理教育の在り方について議論を起すことになる。それは、一般教育と専門の物理学を理工学部における基礎の教育として一貫した枠組にしよう、またその担当者は研究の面で伸びるようにしよう、そうでなければ優秀な若い人を迎えることはできない、と言うものであった。

 昭和三十五年九月以降、創立八十周年記念事業計画が始まるに及び、富山の起した議論は、一般教育の数学や化学の担当者にも伝播した。この頃から物理学の教育について、応用物理学科と一般教育物理の両教員間に、意見交換と協議の場ができ、これがやがて物理系教員懇談会(座長宮部宏)へと成長した。記念事業の大問題は、校舎移転拡大計画と学生定員大幅増であった。この大幅増員は物理系教員にとって容易に受け入られるものではなかったが、学部の大勢はその方に向かった。ところで、学部長室は同時に基礎教育の重視をも指向した。技術革新の時代には基礎教育が大切であるとの考えによるものであり、当時の一つの風潮であった。その結果、共通専門をも含む数学、物理、化学各科目の必修単位数増がまとまった。学生定員増の線も定まったので、時間数、学生数の両面からする対策が必要となり、多人数教育方法、非常勤講師増などが考えられたが、基本的対応として、数学、物理、化学には専任教員の増加が認められるに至った。これらの人事を進めるに当り、一般教育の理科系各グループと関連専門学科との間で、十分協議がされるよう、難波正人学部長から要請された。かくして、昭和三十八年大井喜久夫(物性実験)、その翌年鈴木英雄(生物物理理論)の一般教育物理着任をみた。これらに対し物理系教員懇談会が機能したのである。

2 開設

 昭和三十八年秋に大久保校舎への一部移転が開始されたが、それ以後、急速に物理学科開設の動きが表面化した。前記懇談会(理工学研究所の物理系教員も加わるようになっていた)の結束によるものである。特に学部長室に対しその衝に当ったのは富山小太郎、斎藤信彦(応用物理学科主任)、並木美喜雄らであった。昭和三十九年六月には次のような要旨の設置計画案が主任会に提出された。

1 設置を要望する理由

⑴ 基礎科学と工学との結びつきが極めて密接になりつつあること。

⑵ 国内の各大学が物理学科の増設強化を始めたこと。

⑶ 本理工学部では基礎科学の比重が過少であること。物理学関係に限っても応用物理学科に収めえない新しい物理学の教育および研究の中心として物理学科の設置が望まれる。

⑷ 本理工学部で、八十周年記念事業の計画実施にともない、大規模な物理学教育の実施が開設されたこと。この多数の教育実施に不足している教員を求めるさい、物理学科の存在は極めて有利な条件になる。

⑸ 本学内に原子力関係の研究機関の設置が要望されていること。これに関し物理学科の果たす役割は大きい。

2 物理学科の性質

⑴ 基本的性格、物理学科(理学士)は原子核物理と物性物理、応用物理学科(工学士)は物性工学と計測工学。

⑵ 理工学部の一般教育、共通専門の物理学および物理実験を物理学科が主として担当し、応用物理学科が協力する。

⑶ 大学院、物理学専攻、応用物理学専攻(注、実施は両者一本となる)。

⑷ 物理学科と応用物理学科は、両教室合同の教室会議において人事、予算、教育および研究計画を審議する。

⑸ 学生定員は三十名とする。

⑹ カリキュラム(後記)。

3 設置の時期、昭和四十年四月。

4 研究計画、原子核物理、物性物理(略)

5 人事計画(略)。

6 所要面積、設立費用(略)。

 ついで九月七日の教授会に以上の計画案が提出され、翌昭和四十年四月開設が承認された。物理系教員の一致した熱意が学部に受け入れられたといえよう。ほぼ計画案に従って開設が実現した。

 当初のカリキュラムは次表の通りである。

〈物理学科〉

物理学科では科学技術発展の基礎になっている現代物理学、とくに原子核物理および物性物理の基礎についての学習を主とする。原子核物理では、理論および実験の両面で、今後の発展に備えた新鮮な内容をもたせ、物性物理では固体物理ばかりでなく現在発展中の領域、たとえば生物物理なども含ませてある。

なお物理学科は応用物理学科と教育、研究の両面にわたり密接な関連がある。

教員免許に関しては教職課程の項を参照のこと。

第三十三表 物理学科専門科目配当表(昭和四十四年度)

(Ⅰ) 専門必修科目

(Ⅱ) 専門選択科目

 開設時の構成は、富山小太郎(理論物理)、並木美喜雄(素粒子物理、応用物理学科より)、松原普、小野英二、植松健一、大井喜久夫(以上物性実験)、木名瀬亘(物性理論)、鈴木英雄(生物物理理論)、大西勁(生物物理実験、新任)の九名。

3 物理学科の歩み

 まず人事の出来事を記しておく。

 昭和四十二年十一月大西勁辞任、翌月浅井博(生物物理実験)新任。小野英二死去、五十一歳。四十三年四月大槻義彦(物性理論、粒子線)新任。四十四年四月近桂一郎(物性実験)新任。四十五年四月大場一郎(素粒子物理)助手より昇格。四十七年八月富山小太郎死去、六十九歳。四十九年四月上江洲由晃(結晶光学)助手より昇格。五十三年三月松原普定年退職、五月名誉教授。五十四年四月石渡信一(生物物理実験)新任。

 昭和五十五年度現在、専任教員十一名(教授九、助教授一、講師一)であり、他に中村純助手が在職している。また応用物理学科の専任教員は十四名、両学科の合計は二十五名で、これは昭和三十八年、八十周年計画時の予定人員に等しく、物理学科ができたことによる人員増は得られていない。物理学科の教員構成の特徴は若い人が比較的多く、また早稲田大学以外の出身者が多い(四つの大学から七名)ことである。なお十五年前の開設時からの在職者は五名に過ぎない。こうした点が生かされてか、自由な雰囲気で教室作りにそれぞれが役割を果している。

 物理学科設立により、それだけ意識した物理志向の学生が多く入ってくるようになり養成のために良い。志望する学生にはどちらかと言えば物理の基礎理論、例えば素粒子物理に対する夢を持つ者が多い。二年、三年ときつい勉強を積み上げていくうちに、現実的になり、また物理のいろいろの面に眼が開かれてくる。このような学生に対する初学年からの教育指導は引き続いての課題である。なお、四年で就職するのは十名程で、あとの二十名程は大学院志望、他大学へ行く者もいる。就職面は応用物理学科の長年の実績に負うところ大であるが、産業界からは創造的思考への期待がある。

 物理学科ができたことにより、他大学物理学科との交流や学界での地歩ができ、研究上の利点は大きい。この学科の教育分担の特質は学部のための物理教育を担当していることであるが、一般教育物理から共通専門物理にかけての把握ができており、また研究心のある若い力による講義内容や実験指導についての向上、改善が得られ、学部を益していると考えられる。しかし、担当者にとっては初学年から大学院に至るまでの学生に接することになる。このような負担を応用物理学科のスタッフも加わりほぼ全員が分かち合ってこなしているのが現状である。ほかに他学部の授業担当もある。以上のための研究時間制約は少くない。

 なお、学生、卒業生組織としては、早稲田物理会ができていて、早稲田応用物理会との協力のもとにある。

4 物理学及応用物理学専攻(大学院)

 この専攻は現在、応用物理学科と物理学科とに基づく一つの組織として置かれている。当初とその後の発展は、本巻応用物理学科史に詳しく述べられているが、最近の状態については便宜上ここに述べることとした。なお、若干の事項についてその経過をも略記しておく。

 四十年頃には二十一名の主要科目担当者となった。この中には理工学研究所の藤本陽一、山田勝美、小林激郎の他、富山小太郎、木名瀬亘、蒲生格(化学)などもいた。四十四年、専修として「生物物理研究」(斎藤信彦、鈴木英雄、浅井博)ができ、四十七年までの間に教育学部生物学教室より安増郁夫、大島康行、平俊文、石居進らがこれに加わった。これに伴い教育学部からの学生にも専攻の入試受験と推薦入学制が設けられた。ここに表れた他組織との協力の精神は、物理系教員懇談会発足以来の、教育と研究の進展のためには無用の壁を取り払おうという積極的な意識に基づくものである。四十八年、物理学及応用物理学専攻に名称変更、主要科目担当者三十三名。五十年、並木研究科委員長のもと博士論文合否判定に審査分科会制加わる。五十一年、学制一部改正、「前期」「後期」各課程の名称できる。五十三年現在の研究指導(主要科目改称)は次表の通りである(担当者三十五名、表中の担当教員欄の無印は応用物理学科、○印は物理学科、●印は理工学研究所、△印は教育学部生物学教室それぞれの所属を示す)。

第三十四表 大学院物理学および応用物理学専攻研究指導(昭和五十三年度)

 これら各部門の研究の業績は顕著であり、国際的な学会で注目されているものが多い。あるいは専門国際会議を組織して交流しているグループもある。大学院学生の理学博士、工学博士の学位取得者も多く、これらの数は日本の諸大学の同じ分野に比べ上位に属する。しかし、一指導教授当りの大学院生数は、国公立の三倍以上になるようである。しかも助手は一学科一人である。

 研究部門は物理学の基礎から応用物理の計測制御まで拡がっている。これらが大学院の研究で一つの専攻となっている例は、我が国では稀であろう。これらの研究者が学位の審査を通じ評価を分つこと、研究協力の機会を身近に持つこと、一つの組織の運営にあずかっていることなどは特徴と言わなければならない。

5 理工学部の物理教育

 昭和二十四年以後の学部全体の物理教育(主として一般教育物理・基礎科目)を概観しておこう。一般教育の自然科学系科目は、当初、数学、物理学、化学、地学、生物学、気象学(各四単位)でこのうち三科目を選択すればよかった。従って物理学を履修することなく理工学部を卒業することもできた。なお、物理学と化学には隔週の実験が付属していた。毎週二時間の講義ではあまりにも不十分ということで、単位はそのままで隔週三時間増となったのは、昭和二十九年からである。この頃から物理学、化学に対しては、学科により選択を義務づけた。昭和三十八年からは、基礎教育重視の線から、一般教育の物理学は毎週四時間、同実験は毎週三時間、計十単位、化学も同様な形となり、全学科必修となった。また共通専門の物理学ⅡⅢなどが整備され、学科により必修または選択とした。以上全般について物理系教員懇談会が計画と実施にあずかった。しかし、昭和四十三年からは、授業過密に対する反省から学部の必修単位削減が行われ、物理学と化学は毎週二時間の講義(実験は二単位のまま)に戻り、また二年以上では物理学BCDなどとなり、学科によっては共通専門の物理学を必修から選択に変え、現在に至っている。一般教育の物理学は力学だけであり、二年以上で物理学を全く履修しない学科が三つある。理工系学部の物理教育としては問題であろう。

十五 化学科

ページ画像

 同じような条件にあった物理学科の開設が昭和四十年であったのに、化学科が誕生したのは、それから八年後の昭和四十八年であった。理工学部に現在設置されている十三学科の中で最も新しい学科である。

 元来一般教育科目にあって、基礎科目としての講義科目、すなわち「化学A」「化学B」、実験科目の「基礎化学実験」を担当していた教員が、数学、物理学と同じ環境にあった人々と理科系学科の新設の必要性を痛感した。

 明治時代に誕生した早稲田の理工科であるが、その後四十年に亘って、工科に属する学科だけが設置されて、理科の学科は設置されなかった。後に理工科は理工学部と改称されるが、内容はそのまま工学部であった。

 産業革命以来、工業の面で圧倒的な発展の途を歩んだ欧米の諸国に比し、アジアの国々は大きな遅れをとるのであるが、日本とて例外ではなく、文明開化の明治の世を迎えて、先ずこの遅れを取り戻す必要があった。それには大学の工科で学んだ学生を大量に社会に送り出すことが、手っとり早い方策であった。

 第二次大戦までに、日本の工業が各方面で目覚しい発展を遂げ、欧米先進国に肉薄していった姿は忘れ得ない事実である。

 化学工業だけに関しても、特に昭和に入ってからの進展ぶりは目覚しいものがあった。日本の応用化学界の示した役割の大きさを物語っている。しかし翻ってその内容を見ると、その大半は外国の技術の輸入であって、日本で独自に開発されたものは殆どないという有様であった。その姿で第二次大戦に突入した。

 敗北の破壊は却って最新の装置を設備するには好都合であった。一九六〇年代に至って日本の工業は先進国の仲間入りをしたことは世界周知の出来事である。

 発展途上国には現在も工科の学問が大切であることには変りはない。日本のように工業先進国となった現在、大学理工系の学科が、工科から理科へと次第に重点が移行することは、極めて当然の成行と言うべきであろう。

 こういう共通理解の下に、我が早稲田大学理工学部にあっても、殆ど工科系の学科であったのを、修正していく時期ではないかと考えたのである。

 化学および化学工業の世界に関連してみても応用化学科だけの存在は、明らかに跛行的な姿といわねばならない。「化学」はそれ自身内容をすっかり変えていた。

 物理学と化学とは二十世紀初頭までは、まだ別々の学問であった。元来化学の理論は、物理学の熱力学を基礎においた「物理化学」(physical chemistry)であった。巨視的な見方であるから、電子の動きのような微視的な点は論じることができなかった。物理学者は化学反応を理解し得ないといわれた時代である。化学はまだ「バケ学」であった。

 一九三〇年代に入ると、量子力学が化学の世界に入ってくる。電子のような微粒子の挙動が記述できる力学であるから、化学は量子力学を逃れては存在し得なくなった。量子力学が化学の世界に入ってきてから新しく組み立てられた化学理論が化学物理学(Chemical physics)といわれるものである。

 ここで初めて化学と物理学との間に太い関係が生じてくる。電子の挙動などというそれまでにはまったく考えられなかったことが、次第に理解されるようになり、化学反応等に対しても、その反応機構まで考察し得るようになってきた。化学における「バケる」度合は急激に減少した。

 理工学部一年生に必修として課する「化学A」という科目がある。一般教育科目の一つであるが、その内容も、第二次大戦以後急速な変化を見せ始めた。基礎となる考え方が根本的に変ったからである。

 第二次大戦前の化学は、「なぜ」そうなるのかとか、どうしてこういう性質を示すのかという問に対しては殆ど答えられなかった。最近は、分子の形にしても、化学反応の機構にしても、物質が示す性質にしても、その「なぜ」に答えられる分野が拡まってきた。量子力学の出現によって、顕微鏡では見ることのできない電子の状態がある程度描けるようになってきたからである。

 化学はすっかり姿を変えて、新しく生れ変ったといっても決して言いすぎではない。これに対処して行かねばならぬことは分っていたのである。五十年の歴史を持ち、昭和の初頭から多くの卒業生を日本の化学工業界に送り出していた応用化学科の業績は大きなものであった。その上、早稲田大学には新しい化学を学んだ教員は極めて少かった。

 これが物理学科の誕生から八年の時間を費やした一つの原因であったと考えられる。

 昭和四十三年北海道大学を退職した東健一を教授に招聘し、新しい学科の設立について検討を始めた。東は日本の新しい化学を創り出した先学の一人で、双極子能率の測定、それからの分子構造論への展開へと、大きな業績を残した。実験と理論の両方面の開拓者である。

 化学科が設立されても、一年生全員、千七百名が必修とする講義「化学A」および実験「化学基礎実験」を担当するのは化学科教員の義務とすると、専門の研究の他に大きい負担と考えられるところが、若い研究者には一つの障碍と思われたのかもしれない。東健一の就任から、化学科が教授会の承認の基に設立されるまでには、なお五年の歳月を要した。

 昭和四十八年四月、化学科開設時の教員は次の通りである。

教授 并口馨、伊藤礼吉、関根吉郎、高橋博彰、高宮信夫、東健一

助教授 蒲生格、多田愈以上八名

昭和四十八年十月 助教授蒲生格死去

昭和四十九年四月 新田信専任講師就任

昭和五十年三月 東健一教授停年

昭和五十年四月 伊藤紘一専任講師就任

 現在(昭和五十五年)化学科専任教員とその担当科目は次の通りである

教授 并口馨 大学院 量子化学特論A

学部 化学A、化学D、物理学G、量子化学A、工学基礎実験

同 伊藤礼吉 大学院 量子化学特論B

学部 量子化学B、工学基礎実験

同 関根吉郎 大学院 高分子構造

学部 化学A、無機高分子化学、化学Ⅰ(教育学部)無機分析化学

同 高橋博彰 大学院 構造化学特論A

学部 化学A、構造化学B、配位化合物化学、物理化学実験

同 高宮信夫 大学院 有機分析化学特論

学部 化学A、機器分析、無機分析化学、機器分析化学

同 多田愈 大学院 有機化学特論A

学部 化学A、有機化学B、有機反応機講演習、有機化学実験

助教授 伊藤紘一 大学院 構造化学特論B

学部 化学A、構造化学A、物理化学実験、機器分析

同 新田信 大学院 有機化学特論C

学部 化学A、化学C、有機化学A、有機化学実験、機器分析

学生の状況

 昭和四十八年四月開設の折から、物理学科にならって定員は三十名とした。入学志願者の変遷は次に記す通りである。初めの六年間は志願者は年を追って増加したが、昭和五十三年から五十四年にかけて急激に九十名の減少をみた。早稲田大学高等学院からの推薦入学者も著しく減少している。日本の化学および化学工業の将来に対する、高校生の受け取り方であろうか。

昭和四十八年 三百一名

四十九年 三百四十六名

五十年 四百十五名

五十一年 四百五十六名

昭和五十二年 四百七十九名

五十三年 五百四十二名

五十四年 四百五十名

就職および大学院進学の状況

 化学科の卒業生は本来、教育機関あるいは研究部門への就職を希望する者が多いのであるが、昭和五十四年の現況では、かかる部門の門戸は極めて狭い状態である。医薬関係への就職者が比較的多い。学部卒の七〇パーセント以上は大学院に進学し、五十四年度第一期生が初めて、大学院後期に進学した。

十六 一般教育

ページ画像

1 一般教育科目の設置

 我が国の大学に一般教育科目が設置された経緯を述べるに当っては、戦後数年間の我が国の社会風潮に触れないわけにはゆかない。当時、我が国はアメリカ連合軍の占領下にあり、我が国の内政も占領軍の「慫慂」を受け、その結果、事実上の「承認」を要した。一般教育科目の設置も、占領軍の慫慂により立案され、そして承認されたものである。

 大戦に勝利を収めたとはいえ、日本国民の気骨を十分に承知させられた米軍は、第一次大戦後のドイツの例もあるので、我が国の軍事力の復活を最も警戒しなければならなかった。そこで米軍は、我が国の軍隊を完全に解体し、軍事力に繫がるあらゆるものを排除しようとした。近代兵器の開発と生産に直接利用される我が国の理工学と、その温床と考えられた大学理工系学部がまず改革の対象となった。この際、米軍の抱いたイメージは当然、自国の教育制度である。このような事情から米軍の慫慂を受けて我が国の政府が打ち出したのが、大学における一般教育科目の設置である。

 未曾有の大戦の後に与えられたものが飢餓と混乱であることを知った国民が、従来の制度を改変することに消極的である筈はない。このような風潮に乗って文部省は、一般教育の重要性を次のような理念のもとに国民に説いたものであった。すなわち、旧制大学の教育が専門的、職業的に過ぎたために、専門知識には優れていても、ややもすると視野が限られ、人生一般、社会一般についての認識と自主的批判力に欠けた卒業生が送り出され、そのために理工学の専門家が時の誤った国家方針に利用せられ、結果的には我が国の理工学が軍国主義の重要なる一端を担うこととなってしまった。このような苦い経験を再び繰り返すことのないよう、専門家たる前に、先ず自主性を備え、広い視野を持つ人間でなければならない――と。

 戦後三十数年を経、国際情勢も変り、我が国も完全な独立国となったばかりか、世界の大国の一つになった今日から見れば、この学制改革は、長い歴史過程の現象として見なけれぱならないのであって、情勢の全く変った現在の視点からのみ批判するのは当を得たことではないであろう。早稲田大学が新制大学に移行したのは昭和二十四年であり、この時、理工学部に一般教育科目が誕生したのである。

 他学部においては、学問の性質上、一般教育的内容の科目が旧制度のカリキュラムに相当折り込まれていたので、この科目の設置は、さほど大きな変革とは感ぜられなかったが、理工学部においては、これは少なからざる衝撃であった。社会科学系学部、人文科学系学部とは異って、直接人間を研究の対象にしない理工学に、常に人間が介在する科目が割り込んで来たのであるから、衝撃を受けたのも無理からぬことであった。

 日進月歩の理工学界においては、新しい学問領域が次々と開拓せられ、好むと好まざるとに拘わらず、これらの新領域を教育としても研究としても扱わないわけにゆかない。そこで新しい科目の増設を余儀なくされる。しかも、四年間という修業年限は動かすわけにゆかない。一般教育科目の必要性は否定できないとしても、あくまで直接的必要性が感ぜられず、また、それが時間的に専門科目を圧迫するとあっては、有形無形の反発現象が見られたのは当然のことである。しかし、米軍占領下における全国的な学制の改革であったので、一般教育科目設置を受け入れないわけにはゆかなかった。

 そこで次には、一般教育科目と外国語科目と専門科目とを、どのように組み合わせるかということが大問題になってきた。この組み合わせには、横割式と縦割式と斜縦割式の三方式が考えられた。横割式とは、一、二年度に一般教育科目と外国語科目を、三、四年度に専門科目を履修せしめる方式であり、縦割式とは一年度から四年度に亘り一般教育科目と外国語科目と専門科目とを並行して履修せしめる方式を言い、斜縦割式とは両者の折衷として、一年度から僅かながら専門科目を配し、二年度三年度と科目数を増加させ、一般教育科目および外国語科目は一年度から三年度まで配分するという方式である。国立大学の多くは横割式を採用したのに対して、我が理工学部は入学時に既に所属学科を決定し、斜縦割式を採ることとなった。

 この制度を学生の立場から考察すると、横割式には次のような不満が考えられる。つまり、新入生が受けてきた高校教育はいわゆる一般教育であって、生涯の進路を定めて入学した大学において、程度段階を異にするとはいえ、同種の一般教育を二年も履修しなければならないというのは、堪えられないということにもなりかねない。更に縦割式によれば、大学卒業まで一般教育がついて廻り、自ら選んだ専門に没頭できないという欠点がある。斜縦割式は両者の長を採り短を捨てた折衷案で、理工学部が論議を尽した末、斜縦割式に従ったのは実に賢明な決定であったと思われる。

 そもそも、新学制は根本においてアメリカの教育制度に準じたものであることは否定すべきもないので、日米の国情の相違から生ずる種々な困難を抱えたのは当然のことである。アメリカの大学は、大学院で本格的な専門教育が行われており、学部において専門教育の完成をするという組織にはなっていない。しかるに我が国では、当時、国民の経済力においてアメリカのように大学院に多数の学生を吸収することができなかった。そこで学部四年間で最大限の専門教育をしなければならなかった。そこに一般教育科目が闖入したのであるから、多少の軋轢が生じたのは止むを得ないことであった。

 一般教育科目設置以来三十数年を経た今日では、産業と環境の問題やら、理工学国際交流の躍進やらで、一般教育の必要性が専門家の間に次第に自覚され、現在では異物排除の情勢は殆ど影をひそめた。

2 「一般教育」の変遷

 文科系学部においては学問の性質上、専門科目と一般教育科目との関連が密接であるが、理工学部においては、自然科学系一般教育科目を除いては、両者全く独立しているので、一般教育科目担当教員の集団を制度上、如何に位置づけるかは問題になるところである。専門学科と異なり所属学生を持たないのであるから、学科とすることはできない。そこで理工学部では、「学科」の文字をつけず、「一般教育」として、すべてに学科並みとすることとなった。一般教育創設当初は、「学科」でないために著しく不利な立場に置かれたこともあり、時には熱い軋轢もあったが、今ではそれも懐かしい想い出となり、今日では全く学科並みの扱いとなり、他専門学科と相組んで学部の向上発展に努力しているという現状である。

 一般教育は人文科学、社会科学系列と自然科学系列(基礎科目を含む)に分けられているが、自然科学系列担当の教員は、昭和四十年四月物理学科、昭和四十八年四月化学科創設と同時に、それぞれ専門学科に移籍し、一般教育科目としての数学と専門科目としての数学の両者を担当してきた一般教育所属の教員も昭和四十六年四月数学科に移籍し、一般教育は、昭和五十五年現在、外国語科目担当教員を含む人文・社会科学系教員のみとなっている。法規上、外国語は一般教育と並立するものであるが、当学部では便宜上、「一般教育」の名称のもとに外国語科目をも含めており、研究室も他の一般教育研究室と一団をなしている。(以後、一般教育は一般教育科目および外国語科目を意味するものとする。)

 一般教育の歴史において特筆すべきものがあるとすれば、ロシヤ語科目の設置、特殊外国語履修制度、綜合科目の設置、EEコースの設置であろう。

a ロシヤ語科目の設置

 新制大学発足以来、理工学部における外国語は英語、独語、仏語であったが、ロシヤ語の必要性を感ずる傾向が次第に増大し、それまで教授佐藤常三が、教員を含む希望学生を対象に自分の研究室でプライベイトにロシヤ語を教えていたが、昭和三十二年、これが随意科目として正式にカリキュラムに編入されることになった。更に昭和三十六年、「ロシヤ語Ⅰ」「ロシヤ語Ⅱ」が設けられ、選択必修となった。今日でも理工学部でロシヤ語を正規の科目として設置しているところは、我が国においては一、二を数えるだけであろうが、昭和三十六年にロシヤ語を選択必修科目とし、専任教員を持つ理工学部は当学部をもって嚆矢とするのではないか。

b 特種外国語の履修

 卒業生の活躍領域が海を超えるにつれて、英独仏露以外の外国語学習希望者が少数ながら出てくるのは当然である。当学部は、それらの学生のために昭和四十七年には、イタリヤ語、デンマーク語、ポルトガル語をも第二外国語として履修できるよう配慮した。更に昭和四十八年、スペイン語、中国語をも加え、昭和五十年には朝鮮語も第二外国語として履修できることになった。これら特殊外国語の授業は、大学附属の語学教育研究所に委託してある。

c 綜合科目の設置

 昭和四十五年、綜合科目講座なるものが設置された。このような講座が本格的に理工学部に設けられたのは、我が国においては、当学部が最初のものであったので、当時は全国的な注目の的となった。設置の主旨については異議を挟む余地はないとしても、その運営については一般教育部内でも必ずしも楽観的ではなかった。しかし提唱者教授勝村茂の献身的な努力によって、以後益々充実発展してきている。

 この講座の主旨は、「現代社会における特定の重要課題を、複数の教員により、さまざまな学問領域から多角的に究明することによって、異った学問領域相互の関連性を理解させ、現象の綜合的把握の能力を養うとともに、創造的思考の養成に役立てようとするものである。」(『学習要項』による。)

 この綜合科目には、「特論」としてゼミナール形式の小クラス講座が付置されていて、あるテーマを多角的に検討する綜合科目に対して、その中の特定な一領域を対象とするものである。学生は選択した綜合科目と、それに付置されている「特論」とを合わせて履修するようになっている。因に昭和五十三年綜合科目の題名を挙げれば、「アジアの中の日本」「変革期としての現代」「日本経済の現状と課題」「言語と文化」「日本文化論」である。

d EEコースの設置

 EEコースとはEnglish Through English Courseの謂で、従来最も一般的に行われてきた翻訳による英語教授に対し、原則として翻訳を排し、英語を通じて英語を教授することを目的としている。現代は多様性の時代といわれているが、英語教授の方法も翻訳一辺倒から多様な教授法に移りつつある。EEコースも、多様な英語教授法の一つとして設置せられたもので、reading以外にspeaking, hearing, writingにも習熟しようという学生の選択にまかせてある。このコースは日本人教員の担当ではあるが、この授業の行われるクラスを、英語を母国語とする外人教員も同時に担当することになっている。従ってEEコースを受ける学生は、日本人教員と外国人教員の双方から英語による英語の授業を受けることになる。日本人教員と外国人教員との長短を互いに補い合う狙いである。英語以外の外国語と異って、英語の場合は、殆どすべての学生にとっては既習の外国語であるので、大学での英語の授業に新鮮さを覚えない憾みがあり、往時、学苑紛争の際には、英語の授業に対する不満が学生の挙げた抗議項目の一つとなっていたが、EEコースに限っては、高校の授業とあまりにも異るので、ある者は当惑し、ある者は改めて意欲を燃やしているというのが現実である。ただし、EEコース担当教員の数から、希望学生全部に受講させ得ないのは遺憾なことである。

後記

ページ画像

当理工学部史は初代委員長故川合幸晴教授が、各科より委員を通して全く無条件で集収した資料を基にして、委員長自身が総合的形式で執筆する構想を持った模様で、その編集方針も委員長のみの脳裏に在り、各科委員は全く関与せぬまま数年を経過した。これはコンピュータの異名を持つ同委員長にして初めて可能なこととは考えられるが、昭和五十三年末、不幸にも同教授は急逝した。従って完成された原稿はもとより理工学部史の構想、編集方針ないしは集収資料の整理結果など本史に対する一切の資料は懸命の捜索にも拘らず、すべて不明のまま、原稿提出期限切迫という事態を迎えた。

二代目委員長稲田重男教授はこの事態に鑑み、新にその構成を理工学部通史と各科篇とにわけ、各学科に対してはその創設の古さに従って頁数を割り当て、先に提出された資料を基にして各科委員による原稿の作成を求めるという方針を採らざるを得なかった。しかし同教授もまた二、三の学科よりの原稿未定出のまま、完成を見ずに停年退職を迎えた。

既に百年史編纂室への正規の原稿提出期限後就任した三代目委員長、教授石塚善雄はこの時点、この経緯の下ではもはや総合的理工学部史の編纂は不可能と判断して稲田案を踏襲することとしたが、その後各学科より提出された原稿はその執筆方針が各科あまりにも個性的にすぎ理工学部史としての体裁に欠ける憾があった。そのため全委員協議会にその形式と頁数だけは規制した原稿に更新するよう提案したところ全員の協力合意が得られ漸く五十四年九月を期限とする最終原稿作製の段階に入ることができた。かくして漸く出揃った通史以下各学科原稿を通読したところ、その内容においては、歴史に対する観点、判断にかなりの相違が見られ、更に多くの重複性が看取された。しかしこれは稲田形式に拠る以上当然予期されたところであって既に日時切迫した今日、史眼、思想の統一は望むべくもない。石塚案では統一されない史眼こそ却って真の歴史であり、同一事件に関しても各科それぞれの立場且つ、価値観と、認識の焦点が相違することを鮮明に打ち出すことが却って歴史の真実に近づくことであると考え、一切の思想統一を排してそのまま上梓することとした。なお通史をはじめ各学科割当頁数も今にして思えばあまりに少なく、特に波乱に富む八十年を通史として執筆を依頼した村上博智(当時学部長)、松原晋(名誉教授)両氏にはまことに慙愧に耐えぬものがある。このため両教授の了解のもと、提出原稿に多少の追加修正を乞うた他、創設最古の機械、電気両科においてその一部を分担補塡する形式も併用せざるを得なかった。従って読者は通史に関しては両学科分を併読されたく、また各学科執筆分に対しても上述の経緯と編集理念を諒とされるよう懇請したい。