今日の社会科学研究所は、昭和三十年四月に創設された「大隈記念社会科学研究所」が昭和三十八年に改組・再編されて成立したものである。その沿革を述べるについては、先ずその「前史」に触れておかなければならない。何となれば、この研究所が創設されるに際しては、それまでに置かれていた人文科学研究所と大隈研究室とがその母体となったという経緯があるからである。
先ず、人文科学研究所から述べていこう。
この研究所の出発点は、昭和十三年の「東亜経済資料室」であって、これが昭和十五年九月に「興亜経済研究所」へと発展し、人文科学研究所の前身がつくられた。この興亜研究所は、その「設立趣意書」によれば、「東亜新秩序並に世界新秩序の創設されんとする現下の歴史的重大時機」にあたって、「内は政治並に経済新体制に関して検討を行ひ、国策の樹立遂行に寄与すると共に、外は東亜広域経済圏の確立に関して攻究を試み、国運の発展飛躍に貢献」し、「日本民族の真価を宇内に顕揚するに足る権威ある新経済理論を把握確立する」ことを目的として設立されたという。
これでみるとこの研究所は、かなり時勢に便乗する研究所として位置づけられていたことがわかる。そしてこの研究所では、早稲田大学総長田中穂積みずから顧問となり(理事長は商学部教授北沢新次郎)、学内の政経・法・商三学部から選ばれた合計十七名の理事によって運営がなされ、事業としては「興亜経済に関する調査及び研究」が行われた。その成果は、『興亜政治経済研究』(第一―三輯)として昭和十六―十七年に千倉書房から刊行されている。そこでは、「東亜協同体の政治学的考察」とか「新経済秩序の世界史的解明」「大東亜共栄圏に於ける法系樹立の基本理念」といった研究が大半を占めている。また昭和十八年八月から機関誌『興亜経済研究所紀要』が発行され、将来『興亜研究叢書』の刊行も計画されたようであるが、戦局の悪化によって実現をみないで終った。
なお、同じ十五年に「世界政治研究所」がつくられ、また法学部に「東亜法制研究所」が置かれて、それぞれ調査、研究活動が進められていたが、これら三研究所が昭和十九年七月に発展的に解消して「興亜人文科学研究所」に統合されたのである。
「早稲田大学興亜人文科学研究所規程」によれば、ここでは所長に大学総長が就任し、理事・監事を置いて管理機構とし、その目的を「国家の進運に寄与するの目的を以て、大東亜の人文に関する科学上の綜合的調査及び研究を行ふ」ことにおいたという。また『早稲田学園彙報』創刊号(昭十九・十・二十五)にも、「政治・経済・法律・文学の凡ゆる諸学、部門を打って一丸とする東亜広域圏諸文化の綜合的研究を強力に推進する」ためにこの研究所が新設され、各学部・専門部などから六十六名の教授が所員を兼任して発足したことが報ぜられている。つまりこの研究所も、前身の「興亜経済研究所」を継承するものとして設立されたのである。しかしその社会的背景を考えると、この統合は戦局が困難になり、教職員・学生の殆どが戦争に動員され、研究所のスタッフも不足して、三研究所がそれぞれ独立して運営することが困難になったために、これを一つの研究所に統合し集約しようとした考えに基づいていたのではないかと思われる。だが、戦局の悪化とそれに続く敗戦のため、この研究所は、約二ヵ年間というもの、殆どみるべき活動を展開できずにいたようである。
敗戦からちょうど一年たった昭和二十一年九月、人文科学研究所は「興亜」の文字を削って「早稲田大学人文科学研究所」として再生した。そして目的も「民主的平和日本建設の一翼として人文科学の全部面に亘りて科学的解剖を試み、以て国民生活の安定及び発展に貢献し、延いては世界文運の昂揚に寄与」することを目指し、機関誌『人文科学研究』の刊行を開始した。また翌二十二年四月にはあらたに民主主義研究、アメリカ研究、新教育研究、社会保障研究、労働法研究など八つの研究委員会を設け、昭和二十四年七月に「早稲田大学人文科学研究所規程」を定めて、「人文に関する研究及び調査を行ひ、文化の進運に寄与する」ことを目的に明記し、評議員を新任して全体を運営することとした。
これ以後、機関誌も国際関係の研究を中心に特集を続けることとなった。その中には、「アメリカの資力と世界経済」(第九号)、「闘争と平和」(第一〇号)、「近代日本における政治と文学の交流」(第一一号)、「わが国における労働協約の実態」(第一三号)、「欧米諸国における政党制」(第一九号)などがある。これらの特集からも窺えるように、ここでの研究状況は、敗戦を契機に滔滔と流れ込んできたアメリカ流の民主主義を吸収し、それをいかに日本の土壌に移植するかに苦心していた様子が窺えるであろう。『人文科学研究』は、全部で一九号発行されている。
次に大隈研究室は、昭和二十五年四月に、「大隈重信文書」の調査・整理を目的として設立され、渡辺幾治郎・中村尚美両嘱託をスタッフとして出発した。この「大隈重信文書」は、大学の創立者大隈重信が所蔵していた文書で、官庁関係文書と内外の諸家から大隈に寄せられた書翰とから成り、全部で一万三千点にも達する膨大なものである。これを大隈家では大隈歿後の大正十一年四月と昭和二十五年六月の二回に分けて本大学に寄贈された。大学ではこの貴重な史料を図書館に収蔵し、順次に整理を進めていたが、昭和二十五年に至って大隈研究室を新設し、その本格的な調査、整理を行うこととしたのである。大隈研究室には、その後、数人のスタッフが加わって全面的な調査研究が進められ、昭和二十七年十月に至って本大学の創立七十周年を記念して『大隈文書目録』を編集し、本大学図書館の図書目録の一冊として刊行した。この目録発行ならびに文書の調査・整理は、やがて全面的に発展する日本近代史研究の重要な基礎作業の一つとして高く評価された。
また同研究室では、大隈重信の事蹟の研究と近代日本形成史の研究を目指して、昭和二十六年から機関誌『大隈研究』を発行して研究成果を発表し始めた。その中には特集として「人間大隈」(第一輯)、「大隈と外交」(第二輯)などがあった。また昭和二十七、二十八年に文部省科学研究費による機関研究「明治初期の外交および諸官制・諸施設の近代化に関する新研究」(委員長吉村正ほか研究員十五名)が進められ、その成果の一部が本誌の第四・五・六輯に発表され、光彩を添えた。『大隈研究』は全部で七号が発行されている。
こうして一九五〇年代に至り、敗戦後に発足した新制大学の体制も漸く整い、新たな研究・教育が進展してきたのに対応して、これら両研究機関を統合して全学的な研究所を作る気運が高まった。それはまた、学問研究における国際交流の進展や学問・研究の自由の発展、教育の大衆化と言われる情況にも対応しようとする動きであったといえよう。かくて昭和三十年四月、この両研究機関を発展的に解消して「大隈記念社会科学研究所」が新設されることとなったのである。
以上が、本研究所の前史である。
大隈記念社会科学研究所は、㈠大隈重信の事蹟の研究、㈡近代日本文化の総合的研究、㈢世界重要地区の地域的研究の三つを研究目的として設立され、初代所長に政経学部の吉村正教授が就任した。そして所長のもとに、各学部から入交好脩(商)、尾形裕康(教育)、武田良三(文)、中村吉三郎(法)、平田冨太郎(政経)、三宅太郎(社研)の諸教授が研究員として参加し、これらの研究員を中核として、各学部の兼任研究員による多方面に亘る社会科学の研究が進められた。それらは大別して、共同研究と個別研究とに分けられるが、共同研究としては、㈠日本における政党政治の分析、㈡官僚制度の研究、㈢大隈重信の事蹟の研究、㈣日本近代化の研究などが挙げられよう。その成果は機関誌『社会科学討究』にそれぞれまとめられているが、主なものを挙げれば、
㈠特集 投票行動の研究
A 昭和三十三年五月の総選挙の実態調査(第九・一〇合併号)
B 昭和三十五年十一月の総選挙の実態調査(第一六・一七合併号)
㈡特集 選挙と政党
政治学グループによる共同研究(第一四号)
㈢早大創立八十周年記念特集 日本近代化の諸問題
研究員による各専攻分野からの記念論文集(第二〇・二一合併号)
㈣特集 炭坑と地域社会――常磐炭坑における産業労働家族および地域社会の研究――
社会学グループによる実態調査・研究(第二二・二三合併号)
がある。
また、大隈重信の事蹟の研究としては、「大隈文書」の中から、各分野に亘って重要史料を選び、昭和三十二年から昭和三十六年にかけてこれを複刻編集して『大隈文書』(全五巻)として刊行されている。更にこれと関連して、本研究所所蔵の明治維新関係史料の調査・整理が進められ、のちに『中御門家文書』(上・下二巻、昭三十九―四十年)、『中御門家文書目録』(昭四十一)として刊行された。
次に個別研究は、主として研究員による専攻分野の研究が中心となっている。それについて詳しく述べる余裕はないので、詳細は機関誌『社会科学討究』とその『総目録』(昭五十四年)を参照されたい。
このように大隈記念社会科学研究所は、八カ年に亘って多彩な研究活動を展開し、かなりの成果を挙げてきた。だが一九六〇年代に至り諸科学の新しい研究がますます発展し、それにつれて研究所の学内一般への開放と研究活動のより一層の自由が強く要請されるようになった。特に昭和三十八年に至って、ややもすると特定の研究員だけが係わるようなそれまでの研究所のあり方が問題となり、本研究所の改革が内外から主張された。それはまた、本大学の研究が発展し、国際的にも一層の広がりを持ようになり、また学際的な研究の必要が叫ばれて、その新しい研究の機関として本研究所が特に注目されたという事情もあったと思われる。こうして本研究所は、昭和三十八年七月に大隈記念社会科学研究所を改組し、研究所規則を全面的に改めて「早稲田大学社会科学研究所」となり、新所長に法学部教授野村平爾を迎えて再出発することとなったのである。
新しい社会科学研究所は、その目的を㈠近代日本の社会科学的研究、㈡世界重要地区の地域的研究の二つに絞った。またその構成は、管理委員会で選出された所長のもとに、各系統学部から推薦された各二名の教授と教務担当理事、教務部長の合計十七名で管理委員会を構成して管理部門とし、研究を学内全体に公開し、研究テーマと研究員を広く募集して研究部会を作り、それぞれ自主的な研究を進めることとしたのである。いわばこれまでのやや閉鎖的な運営を改め、全学的に開かれた民主的研究所として大きく前進することとなったのである。
その第一次の研究部会としては、次のようなものが編成された。
近代日本におけるナショナリズムの生成に関する綜合的研究(主任・木村時夫ほか十二名)
わが国地域社会の権力構造(主任・三宅太郎ほか七名)
近代日本における議会政治の展開(主任・小林昭三ほか八名)
東アジアにおける社会主義の比較研究(主任・安藤彦太郎ほか四名)
日本社会の近代化とその現状(主任・町田徳之助ほか十七名)
諸外国との比較においてみた日本経済の近代化に関する諸問題(主任・正田健一郎ほか七名)
企業近代化の諸問題(主任・芳野武雄ほか九名)
以上の七部会に、合計七十二名の研究員が参加して研究活動を開始した。
この第一期の研究部会の活動は、本研究所が再編された昭和三十八年十月から開始して、昭和四十一年三月までの約二年半に亘って続けられ、一定の成果を挙げることができた。
しかしそれは、本研究所としても初めての試みであり、いわば試行錯誤的な性格を免れなかった。特にそこでは、研究所の研究目的のうち、近代日本の社会科学的研究の面に重点が偏り、地域的研究については本格的な研究に殆ど着手していないという欠陥があった。そこで、昭和四十年四月に管理委員会の中に小委員会を設け、新しい研究体制のあり方について検討することとした。この小委員会は約一年に亘って審議を重ねたが、基本方針としては、これまでの研究の公募方式を修正し、研究所の主体性をうち出して独自のプロジェクトによる研究体制を組織することとした。昭和四十一年四月に管理委員会で決定した研究体制の大綱は次のようなものである。
1 近代化研究
A 近代化に関する理論と政策の諸問題
⑴近代化論の日本における意味
⑵各国近代化の比較および諸外国における日本近代化の研究
B 日本近代化
⑴工業化過程と民主化過程の相関
⑵政治的近代化における議会と政党
⑶近代化における民衆とエリート
a 世論・コミュニケーション
b 社会思想・社会意識
c 社会組織・社会制度
d 社会運動・社会事業
e 生産・流通・消費
f 教育
⑷近代化における家族および親族組織の変容
⑸工業化および技術革新と経営制度
C わが国社会開発の現状と展望
2 地域研究
A 中国
B 朝鮮
C 東南アジア
D ソ連および東欧
E アメリカ
以上のプロジェクトのうち、近代化研究のAの⑴は、Bの各プロジェクト間における研究の総合の場とし、またAの⑵は、主として関係文献の収集、整理を内容とする、というように決められた。そしてこの新研究プロジェクトに従って合計十二の研究部会(近代化研究八、地域研究四)が編成された。それは次のようなものである。
工業化部会「わが国産業の近代化過程の研究」(主任・正田健一郎ほか九名)
政治部会「政治的近代化における議会および政党」(主任・小林昭三ほか八名)
プレ・ファシズム部会「プレ・ファシズム期における思想と行動」(主任・河原宏ほか六名)
労働問題部会「労働問題――法制度と近代化」(主任・佐藤昭夫ほか六名)
思想部会「昭和前期における社会思想の動向」(主任・木村時夫ほか七名)
家族部会「近代化における家族および親族組織の変容」(主任・喜多野清一ほか七名)
経営制度部会「工業化および技術革新と経営制度」(主任・鳥羽欽一郎ほか十名)
開発部会「わが国における社会開発の現状と課題」(主任・寿里茂ほか十名)
東アジア部会「東アジアにおける社会主義の形成」(主任・安藤彦太郎ほか六名)
東南アジア部会「東南アジアの経済発展に関する理論的諸研究」(主任・山岡喜久男ほか六名)
ソ連東欧部会「ソ連および東欧の研究」(主任・宇野政雄ほか八名)
アメリカ部会「ラテンアメリカ諸国の経済開発に関する諸法律の研究」(主任・宇野政雄ほか二名)
ここにおいて、本研究所の部会研究を中心とする研究体制が漸く整った。更にこの時期に、研究員の高木純一、武田良三らによって社会科学の方法論に自然科学的な手法を取り入れることが提唱され、「行動科学研究会」がつくられ、昭和四十一年から翌年にかけて連続研究会が開かれた。また、研究部会が専攻分野に限定されがちになるのを防ぎ、且つ研究所の研究活動を学内一般に公開する意味を持たせて、同じ四十一年から研究懇談会、所内研究会が開始されたことは、全体として研究所の本格的な研究体制が確立されたことを意味すると見ていいであろう。
しかしこうして作り出された研究体制も、一度で学内一般の要望に十分に答えることは困難で、やがて新たな間題が生じてくるのは免れがたい。特にその中で、研究員が固定化し研究の新鮮さに欠けるのではないかという批判が際立ってきた。そこで研究所では昭和四十五年の新部会編成に当って、管理委員会で検討した結果、次のような改革の基本線を定めた。
㈠研究員のローテーション等を考慮して、公募方式を採ること。
㈡研究課題は、研究所の設置目的である「近代日本の社会科学研究(現状分析を含む)」と「世界重要地区の地域的研究」とする。
㈢公募は原則として共同研究を建て前とするが、共同研究のグループ編成が困難な研究者もいることを考慮して、個人でも受け付けてグループに参加できるよう取り計らうこと。
㈣公募の手続きについては、小委員会を設けて検討すること。
この基本線に沿って「研究課題公募要領」を作成し、広く学内に呼び掛けて研究部会を募ることとした。この時に研究に応募して新部会を編成したのは、「明治末、大正期における工業化の進展と国民生活」(工業化部会、主任・正田健一郎)をはじめとする十一の部会であった。
これ以後本研究所の研究部会は、二年ごとに学内から研究員とテーマを公募して研究部会を編成し、自主的な研究活動を続ける体制が定着したと言えよう。かくてこれまでに合計二百余部会に及ぶ研究部会が活動を展開した。そして現在(昭六十三年三月)の研究員は、専任が六名、兼任が百七十二名、特別が百五十三名に達し、研究協力者数名を加えて合計三百三十余名にも及ぶ大研究集団を結成している。その成果は、年三回発行の機関誌『社会科学討究』や随時発行の「研究シリーズ」に発表され、更に「研究叢書」「翻訳選書」として刊行されている。
このように本研究所は、社会科学系の研究所としては本大学において最も開かれた体制において、研究者の自主的な自由な研究の場を作り出しており、きわめて貴重な存在となっているということができる。そこで次に、本研究所の特色を幾つか拾ってみよう。
右に述べたように、本研究所は学内に広く開放され、研究部会を中軸として多方面に亘って自主的民主的な研究活動を展開していることが第一の特色であるが、更に本研究所は、学内に研究活動の場を提供するばかりでなく、学外の大学、研究機関とも連携して研究活動を展開している。その一例として、昭和四十二―三年度と昭和四十七―八年年度の二回に亘って文部省の科学研究費による特定研究に参加したことを挙げることができる。
第一回目の特定研究は、「明治・大正・昭和における近代化の研究」のテーマのもとに、東京大学社会科学研究所が事務局となって全国の多数の大学・研究機関によって編成された。その中に本研究所では管理委員の武田良三を代表者に、研究員の中村尚美を事務担当に選び、二十六名の研究員が加わって「日本資本主義とナショナリズム」という個別テーマのもとに参加した。その内容は、総説に「日本資本主義とナショナリズムの関係」「産業社会の展開とナショナリズム」をおき、第一部「近代日本におけるナショナリズムの土壌」で政治経済、社会体制、産業構造、労働問題などにおけるナショナリズムの基盤の分析を目指し、第二部「近代日本におけるナショナリズムの展開」では、政治・経済・外交・教育・産業におけるナショナリズムの展開、また天皇制や官僚制におけるその展開の理論と実証の研究を進めた。その成果は『社会科学討究』に特集「日本資本主義とナショナリズム」としてまとめられ(第四十三―四十四号、昭四十四―四十五)、更にその一部は高橋幸八郎編『日本近代化の研究』(上・下巻、昭四十七年、東京大学出版会)に収録されている。
次に第二回目の特定研究は、「産業構造の変革とそれに伴う諸問題」をテーマとして編成された。本研究所では、所長勝村茂が自ら代表者となり、政治学・経済学・社会学の研究者十五名を選んで、「戦後日本の地方都市における産業構造の変革と地域政治構造の再編過程――地方産業都市の実証的事例研究――」をテーマに参加した。そこでは、第一部として産業構造の変革にともなう都市問題・労働問題・地域開発問題などが扱われ、第二部として、産業構造の変革によって起る地域政治の再編問題、都市化問題、地方政治や地域リーダー問題、住民の政治参加問題などが個別テーマとして研究された。その成果は、順次に『社会科学討究』その他に発表された。
また昭和四十八―四十九両年度にかけて、研究員黒木三郎(法学部教授)を代表にして「経済開発の法的体制と地域社会の構造的変動――法社会学的アプローチによる総合的研究――」のテーマのもとに文部省の科学研究補助金(一般研究B)を獲得し、㈠総括、㈡経済政策の展望、㈢経済開発と地方自治、㈣開発行政と労働問題、を内容として研究を展開したことも逸することはできない。
更にもう一つ、昭和四十二年末の内閣によって公募された「二十一世紀の日本の国土と国民生活の未来像設計」に対し、管理委員吉阪隆正(理工学部教授)のまとめによって理工学部教授松井達夫を代表に選んで応募し採択されたことを挙げておこう。これは東大・京大・名古屋大など十グループの一つとして研究を分担したものであるが、本大学では四十余名がチームを編成し、本研究所が事務を担当して研究を進めた。その成果はのちに吉阪隆正・宇野政雄編『二十一世紀の日本』(上巻「アニマルから人間へ」、下巻「ピラミッドから網の目へ」)として昭和四十七年に紀伊国屋書店から刊行された。
本研究所の第三の特色は、国際的な研究交流を研究活動の重要な一環としていることである。既に述べた如く本研究所では「世界重要地区の地域的研究」を研究目標の一つに掲げ、それに対応して地域研究の研究部会を編成しているが、その部会研究を一層発展させるためには、現地において調査と資料収集を行うばかりでなく、広く海外の研究者と交流していくことが必要であることは言うまでもない。このため研究所では、研究員を中国、東南アジアをはじめ、アメリカ・西欧・ソ連東欧など各地に派遣して調査研究を進めるばかりでなく、各国からの研究者を招き、国際交流の緊密化を図ってきた。それは特に一九七〇年代に入って深まったと言えるであろう。その底流には、一九六〇年代の高度経済成長による日本の独占資本主義の発展と、それに伴うアジア、東南アジアへの新たな経済進出にたいする各国からの厳しい日本批判があった。そしてこれらの批判を社会科学の側面からも正しく受け止め、現代の国際社会の中で真に発展するにはいかにあるべきかという反省がなされた。そのためには、相互に友好関係をつくり文化的理解を深めていくこと、つまり学問研究の国際交流の必要が痛感されたからであった。この情勢に対して、本研究所が地域研究を研究目標の一つとしていたことは大いに幸いしたと言えよう。こうして、本大学のアジアをはじめとする世界各国との交流は、主として本研究所を拠点として進められることとなった。
その幾つかを挙げれば、国際交流基金の援助によって昭和四十九年三月に勝村茂(研究所長)と後藤乾一(社研教授)がインドネシアを訪問し、資料調査を行うとともに学術交流のルートを拡げ、帰国後の七月、前記基金をもとにインドネシア独立関係資料「西島コレクション」の一部の複製本など八十一冊をインドネシア独立記念館に寄贈し、更に本研究所と語学教育研究所と合同でインドネシア国立パジャジャラン大学文学部へ多数の図書を贈り、深く感謝された。
また、同じ四十九年十一月には、国交回復後初めて中国から北京大学社会科学友好代表団が本大学に来訪した。このとき本研究所では中国研究部会を案内役として研究懇談会を開き、本研究所から「日本における私立大学の歴史と現状」が、また中国代表側から「北京大学と教育革命」がそれぞれ報告され、八十余名の参加者を交えて活発な討論が展開された。中国研究部会では翌五十年七月、この代表団来学を記念して研究シリーズ『中国の社会と文化――北京大学代表団来学記念――』(第九号)を編集し、北京大学へも贈られた。
このほか、フィリピンのラサール大学とは研究者交換の協定を結んでおり、毎年一回各分野の研究者が本研究所へきて研究を進めている。更にイスラエルのハイファ大学、ソ連の国立モスクワ大学などとの関係も密接になってきている。今、それら外国人研究者の最近十三年間における本研究所での研究状況を示せば、次の如くである。
第七十五表 社会科学研究所受入外国人研究者一覧(昭和五十七年まで)
これら研究者の中には、アメリカのコロラド大学のリブラ教授の如く、かつて昭和三十二年に本研究所に留学し、「大隈重信文書」の研究をもとに『大隈重信伝』をまとめ、それによってのちに学位を獲得し、その後も第二次大戦中の日本の南方軍政と東南アジア、民族主義の研究を続けている人もいる。また、インドネシア大学のヌグロホ教授も、昭和五十一年に本研究所に留学したあと、その研究をまとめて、翌年『日本占領下におけるジャワ義勇軍の成立と展開』によってインドネシア大学から学位を得るというように、大きな研究成果を挙げたものが多い。
第四の特色として、本研究所では研究を更に学内一般に広く開放し、全学的な研究の拡がりと結集を図ることに努めている。そうした取り組みの一つとして社研シンポジウムを挙げることができる。
このシンポジウムは、昭和四十年を皮切りにこれまで三回開かれているが、その開催年次とテーマは次のようなものであった。
第一回 一九六五年五月二十二、二十三日
テーマ 「明治期における近代化の展開過程とその問題点」
第二回 一九七四年十一月二十九、三十日
テーマ 「近代史における日本とアジア」
第三回 一九七八年十月三十日
テーマ 「戦後日本の変革とその評価」
これらの報告内容ならびに討論は、それぞれ『社会科学討究』の特集号としてまとめられている。
二つ目に、昭和四十二―四十三年から開始された公開講座が挙げられる。そのねらいは、本研究所が続けている専任および兼任の研究員による研究成果を講座方式によって学生に開放し、その勉学の機会を拡げようとするものである。この講座は昭和四十二年の開始当時は本研究所のみならず他の研究所にも呼び掛け、理工学研究所および生産研究所の応援を得てこれら三研究所の専任研究員により、年間を通して開講する方式を採った。第一年度目には、次のような講座が開かれた。
大隈研究特論(社研 中村尚美)
日本産業金融論(社研 間宮国夫)
日本近代農業史(社研 依田憙家)
地域経済構造論(社研 粟飯原稔)
インドネシア研究特論(社研 増田与)
地域災害と耐震設計(理工研 内藤多仲ほか六名)
行動科学・経営科学のための数学ゼミナール(生産研 松田正一ほか三名)
システム設計論(生産研 吉谷竜一)
次いで翌四十三年からは、専任研究員の年間を通じての公開講座(Ⅰ)に加えて、研究部会に結集する兼任研究員によるグループの公開講座(Ⅱ)が加わり、近代化研究と地域研究の両分野に亘って、全部で四十九講座が開かれ、数百人の聴講生を集めるという大きな成果を挙げた。これ以後、この公開講座は定例化され、今日に至っている。
以上、社会科学研究所の通史を、その「前史」を含めて述べてきた。次いで、研究所の現況について項を改めて述べていこう。
社会科学研究所は、はじめに述べたように、昭和三十八年七月に大隈記念社会科学研究所を改組・再編してつくられたものである。そして「近代日本の社会科学的研究および世界重要地区の地域的研究」を目的としており、その目的を達成するために、研究・調査を進め、そのための資料の収集・整理や研究会・講演会の開催、また研究の助成や成果の発表を行っている。
その組織は、所務を総括し研究所を代表するものとして、管理委員会で選出された所長を頂点とし、所長のもとに管理機構として管理委員会が置かれている。その構成は、教授および助教授である専任研究員(昭和五十七年現在六名)と各系統学部の教授・助教授の中から推薦された者各二名(合計十四名)、それに所長と教務部長とから成る。また、所長を補佐して研究所の主要な業務を進めるための企画・図書・編集の三つの専門委員会が置かれ、これらは専任研究員の三入の幹事をはじめ、専任・兼任の研究員がそれぞれ選ばれて担当している。そして以上のような管理機構のもとに、事務所(事務長ほか五名の事務員)、研究室(専任研究員六名)、研究部会(二十三部会)が置かれ、日常的に研究と教育活動を展開しているのである。今それを図示すれば、上掲のようになる。
社研の組織
昭和五十七年現在、所長には木村時夫(社会科学部教授、日本近代史)が就任しており、その下に六名の専任研究員がスタッフとして所属している。
その氏名、専攻分野は次の如くである。
粟飯原稔 (経済学、産業構造論、ソ連経済論)
後藤乾一 (政治学、インドネシア研究、日本・東南アジア関係史)
中村尚美 (歴史学、日本近代史、政治思想史)
増田与 (歴史学、インドネシア現代史、東南アジア研究)
間宮国夫 (経済史、金融史、経済団体史)
依田憙家 (歴史学、日本近代史、近代日中関係史)
これら六名は、いわば研究所の中軸であって、後に述べる部会研究活動や公開講座の中核となるばかりでなく、管理委員として研究所全体の管理運営に参加し、また専門委員として研究所の企画・図書運営・機関誌の編集にそれぞれ責任を持っている。これに更に、他学部や大学院、あるいは他大学において講義・演習を兼任するというように、きわめて多面的な業務を担当しているのである。
次に、研究所にとって最も中心的な活動である研究活動の現況について述べよう。これらは、大きく分けて、部会研究を第一に、文部省や大学からの科学研究費による研究、シンポジウム、公開講座などに分けられるであろう。
研究所を学内全体に広く開放し、研究を自主的民主的に進めていく建前を採っている本研究所としては、研究活動の最も重要な一つとして研究部会による研究を進めている。既にこの体制は、昭和三十八年の研究所の再編の時から開始されていたことであるが、更に前述の如く昭和四十一年と昭和四十五年に改正が施され、現在のような体制が固まった。それは、㈠研究員のローテーション等を考慮して徹底した公募方式を採り、㈡近代化研究と地域研究について共同研究グループの応募を建前とし、一つの研究期間を二ヵ年とする。㈢この公募をあらかじめ全学に公示して応募してもらい、研究所の企画委員会で調整し、管理委員会の承認を経て部会を編成するという方法である。
昭和五十七年四月に編成された研究部会の一覧を掲げる(括弧内は主任名と研究員数)。
これら二十三の研究部会には、その研究のために図書購入費など一定の研究活動費が保障されているが、それらを利用しながら、研究部会はそれぞれの課題に従って本研究所を拠点に連日のように研究会や調査を進めている。その成果は『社会科学討究』をはじめ、研究シリーズ、研究叢書、翻訳叢書としてまとめられ、発表されている。その詳細については後に述べる。
いまこれら二十三部会を見渡して見ると、中には部会研究が開始された当時から引続いて進められている長期的研究もあるが、また今日的な問題を解明するために、新たに設けられた課題も少くない。例えば、近代化研究のなかで地域福祉や居住環境の問題が採り上げられたのはかなり最近のことであり、これらは今日我が国で大きな社会問題となっている福祉問題、生活環境の悪化の問題を社会科学の立場から検討し、どうすればそれを解決することができるかを解明しようとするものである。更に地域研究で言えば、ユダヤ民族の問題や北欧諸国への新たな注目、またヨーロッパの地域的把握の問題などが新しく採り上げられている。こうした国内・国外への新たな状況への対応はきわめて重要であって、従来から取り組まれているものとともに本研究所の研究課題としてますます重みを増していくことであろう。
本研究所では、部会研究など研究所内における研究ばかりでなく、文部省や本大学の科学研究費による研究活動を併行して続けていることは、前項の「通史」で本研究所の一つの特色として挙げておいた。また、これら科学研究費による研究のうち、文部省の特定研究と科学研究(一般研究B)については前記の箇所で概略を述べておいたので、ここでは主として大学の指定課題研究費による研究について記しておこう。
本研究所ではこれまでに五回の指定課題研究費の交付を受け、研究を進めてきた。
その第一回は、昭和四十六―四十七年の二年度に亘って進めた「社会主義者書翰の文献学的研究」である。この書翰は、日本の社会主義運動が本格的に発展し始めた明治三十七―八年から大正一―二年にかけて、石川三四郎・福田英子あてに寄せられた幸徳秋水・堺利彦・大杉栄らの社会主義者や大井憲太郎・田中正造・宮崎滔天らの書翰集であって、一九五〇年代に本研究所の所蔵に帰したものである。これを本研究所で改ためて調査・整理し、一般の利用に便ならしめようとしたのである。研究課題と分担者は次の如くであった。
大并憲太郎書翰の研究 正田健一郎
大杉栄書翰の研究 洞富雄
粕谷義三書翰の研究 木村時夫
幸徳秋水書翰の研究 中村尚美
田中正造書翰の研究 間宮国夫
堺利彦書翰の研究 河原宏
片山潜書翰の研究 依田意家
山川均書翰の研究 浜口晴彦
右のような分担に従って、それぞれ担当の書翰の転写と解説をしながら整理を進め、全体をまとめて昭和四十九年七月に『社会主義者の書翰――石川三四郎・福田英子宛書翰集と解説――』(三百三十二頁)を編集して早大出版部から刊行した。
第二は、昭和四十八、四十九年に行われた「都市化による地域社会の変容と政治参加」で、政経学部の内田満が研究代表者となった。これは、戦後に拡大された我が国の都市化が一九六〇年代の高度経済成長によって一段と拍車がかかり、騒音や大気汚染などさまざまな矛盾が拡大するなかで住民の政治参加への姿勢も大きく変化した。そうした情況をここでは、政治学・社会学の両側面から実態調査を通して明らかにすることが目指された。その研究課題と分担者は次の如くであった。
政治意識と政治参加 内田満
地方行政過程と住民参加 浜地馨
都市化と社会経済・構造の変化 古賀比呂志
都市化と社会意識 相馬一郎
都市と住民組織 秋元律郎
地域社会における紛争と調停 寿里茂
この研究成果は、昭和五十年五月に研究シリーズ第八号『都市化と住民参加』にまとめられている。
次に、これと同じ年度に併行して進められたものに「日本・東南アジア関係史の視点から見た東南アジア流動化の方向」(研究代表者・山岡喜久男)がある。これは、日本の東南アジアに対する新たな政治的・経済的な進出によって高まった緊張状態を踏まえ、その関係史の視点から東南アジアの動向を展望しようとするものである。その分担課題と担当者は次の如くであった。
日本の東南アジア協力規準の研究 山岡喜久男
戦前日本資本主義と東南アジア 正田健一郎
大アジア主義と南進論 河原宏
東南アジアにおける日本軍政 増田與
戦後日本の東南アジア外交 大畑篤四郎
日本・東南アジアの宗教交流 峰島旭雄
戦前のマラヤと日本の関係史 中原道子
太平洋戦争中のインドネシア対日抵抗 後藤乾一
この研究成果も、研究シリーズ第一一号『新国際経済秩序研究序説』(昭五十四・三)にまとめられている。
第四に、昭和五十、五十一年に中村尚美が研究代表者になって「明治政治・経済史上における十四年政変」をテーマに研究を進めた。そのねらいは、明治史において大きな画期を成している十四年政変を、『大隈重信文書』や『佐々木高行日記』などを全面的に再検討して、この政変の政治・経済の両側面における歴史的意義を再評価することを目指すことにあった。その研究分担は次の如くであった。
明治史上における政変の意義 中村尚美
政変をめぐる宮廷派の動向 洞富雄
政変をめぐる藩閥の動向 上杉允彦
政変における福沢諭吉 木村時夫
政変と立憲改進党の成立 兼近輝雄
経済政策をめぐる政府内の動向 正田健一郎
中央銀行構想をめぐる大隈と松方 間宮国夫
政変における国際環境 依田憙家
政変をめぐる報道と世論 佐藤能丸
政変関係史料の収集・調査 石山昭次郎
この研究成果は、『社会科学討究』第六十四号ほかに発表された。
第五は、昭和五十一、五十二年に増田与の研究代表者で進められた「東南アジア民族主義と“大東亜戦争”」である。ここでは特に、第二次世界大戦時におけるインドネシア、フィリピン、マラヤなど東南アジアにおける民族主義の高揚の問題を明らかにすることが目指された。分担課題は次の如くである。
一九三〇年代の日本外交と東南アジア 大畑篤四郎
フィリピン民族主義と近代日本 河原宏
近代日本における北進論 木村時夫
戦前の日本資本主義と東南アジア 正田健一郎
「大東亜戦争」理念をめぐる諸問題 増田与
東南アジアにおける日本人宗教者の活動 峰島旭雄
一九三〇年代の米比関係と日本 和田禎一
戦前・中の日本インドネシア民衆交流 後藤乾一
戦前のマラヤ民族主義と日本 中原道子
この研究成果は、『インドネシア――その文化社会と日本――』(早大出版部、昭五十四)そのほかに発表されている。
第六は、昭和五十三、五十四年に中村尚美を研究代表者として進められた「石橋湛山とその時代」である。その目的は、ジャーナリストまた政治家として卓越した存在であった石橋湛山の思想と行動を、政治史・経済史・思想史の諸側面から解明することであった。分担課題は次の如くである。
明治大正期の政治外交と湛山 中村尚美
戦前・戦後の日本外交と湛山の外交論 大畑篤四郎
石橋湛山の政治思想 木村時夫
戦間期の世界資本主義と日本経済 正田健一郎
戦後の湛山の経済論 間宮国夫
石橋湛山のアジア認識 細野浩二
この研究成果は、『社会科学討究』そのほかに発表された。
以上、本研究所における科学研究費による研究について、大学の指定課題研究を中心に述べてきたが、この研究は当然のことながら前項の部会研究と有機的に関連し、相互に影響しあいながら研究が深められているのである。
シンポジウムは、前述の「通史」のなかで社研の特色の一つとして挙げ、「研究をさらに学内に広範に開放し、全学的な研究のひろがりと結集をはかる」ことを目指して始められたことを指摘しておいたものである。更にこのシンポジウムは、社研の研究活動を、広く学界の現状、国内・国外の社会状況に対応させて、そのあり方を考察する大事な機会とするという意味もある。昭和四十年を第一回に、これまで三回開かれたシンポジウムは、すべてそうした配慮から企画されたものであったと言っていい。
第一回は、本研究所の創立十周年を記念して昭和四十年五月に「明治期における近代化の展開過程とその問題点」をテーマに開かれた。そしてこの統一テーマのもとで、次のような問題提起と研究報告がなされた。
〈問題提起〉
⑴明治近代化における産業化と工業化の展開過程 中西睦
⑵明治前期経済における政府部門と民間部門 正田健一郎
⑶明治支配層のイデオロギー 石関敬二
⑷明治前期における議院内閣制観の錯綜 小林昭三
⑸日本の近代化と国家主義 木村時夫
〈研究発表〉
⑴近代化の概念とその再検討 秋元律郎
⑵中国における「近代化」 新島淳良
⑶東南アジア経済の近代化指標に関する一検討 山岡喜久男
ここではまず「近代化」研究の意義が問題とされ、また諸側面から提示された近代化の問題を全体としてどう有機的に関連づけて捉えるかといったことが討論され、私達の近代化研究について幾つかの課題が明らかにされることとなった。
この報告ならびに討論は、『社会科学討究』第三十号(昭四十年十二月)に特集されている。
第二回目は、前回からかなり時間がたった昭和四十九年十一月にテーマ「近代史における日本とアジア」として開かれ、次のように研究報告と問題提起がなされた。
第一部 研究報告
⑴中国人の日本観 藤井昇三
⑵日本人のアジア観 河原宏
⑶日本人のインドネシア観 後藤乾一
⑷インドネシア人の日本観 増田与
第二部 問題提起
⑴日本の近代化とアジア 中村尚美
⑵日本帝国主義とアジア 大畑篤四郎
⑶日本近代文学とアジア 紅野敏郎
ここでは何よりも、日本の近代化が東アジア、東南アジア諸民族に及ぼした影響とその反作用が、今日のアジア体制をつくる上で大きな意味をもったという前提に立ち、㈠その近代化を日本人自身はどう捉え、また中国やインドネシアではどう捉えたかを明らかにし、㈡また日本の近代化、帝国主義化が総体として世界史的にいかなる意義をもっているかを明らかにしようとしたものであった。本研究所の研究員をはじめ多数の参加者から出された問題のなかでは、今日の日本経済の高度な発展が周辺諸国に及ぼした影響に対する反省の上にたって、近代日本の歴史のあり方に対する謙虚な再検討と評価の必要が強調されたことが特徴であった。
この報告と討論内容は、『社会科学討究』第五十七・五十八合併号(昭五十年三月)に特集された。
第三回のシンポジウムは、昭和五十三年十月三十日に開かれた。テーマは「戦後日本の変革とその評価」であった。このテーマが選ばれた理由はこうである。周知の如く、昭和四十八年秋の石油ショック以来、日本経済は構造的不況に落ち込み、最近はまた異常な円高も加わって深刻さを増している。更にこれと関連して公共料金の大幅値上げや増税は国民生活を圧迫し、不況による失業者の増加・財政窮迫による福祉の後退など、社会全体が危機的状況に置かれている。こうした情況が今日なぜ現象してくるのであろうかと考えたとき、日本の戦後三十余年の歩みを改ためて振り返り、特に戦後の日本をその根底において規定したいわゆる「戦後改革期」に注目し、そのあり方を再検討してみることによって今日の情況を歴史的に認識したいと考えたのである。そのため報告では、資本・農業・労働・社会の四つの分野について問題を提起するが、その前提として、戦後日本の全体的な歩みを展望するものを「基調報告」としてあらかじめ提出しておくという構成を採った。そのテーマと分担は次の如くであった。
〈基調報告〉
戦後日本の歩み――時期区分による概観―― 中村尚美
〈問題提起〉
資本問題=戦後日本経済回復期の再検討 大西健夫
農業問題=民主化政策としての農地改革 小林茂
労働問題=労使関係にみる戦後改革とその変容 中山和久
社会問題=民主主義科学者協会と戦後十年 浜口晴彦
ここでの討論は、予想された通り敗戦の仕方と日本国民の対応の問題、また日本国憲法の制定を中心とする民主化運動と戦後改革がどのように係わったか、更に戦後の日本をめぐる国際関係の変化の問題などに集中され、さまざまな問題点が明らかにされた。なお、この報告は『社会科学討究』第七十一号(昭五四・六)に収録されている。
このようにシンポジウムは、社研がその大事な特色の一つとしている研究の公開性と広範な意見の結集を図る場としてきわめて大事な部門である。その意味からいっても、隔年ないし三年に一度程度の間隔でこれが開かれ、広く研究者を交流させることが望まれているのである。
この公開講座も、前項のシンポジウムと同様に社研の特色の一つとして挙げておいたものであるが、その目的は、社研が日常的に展開しているさまざまな研究の成果を講座方式によって一般学生に公開し、彼らに勉学の機会を提供しようとするものである。この講座は昭和四十二年から開始され、初年度は本研究所の専任研究員を中心に、他の研究所の応援を得て八講座を開講し、年間を通じて多数の聴講生を集めて講義が進められた。次いで昭和四十三年度からは、専任による年間を通して開講するものと兼任研究員による個別的講座とに分け、後者は更に近代化研究と地域研究とに整理して開講することとした。こうしたさまざまな試みを経て、昭和四十六年度に至って漸く今日みるような体制、すなわち、専任研究員による社研公開講座Ⅰと研究部会を単位としてグループで開講する社研公開講座Ⅱとに固まったのである。
いま昭和五十七年度の両講座を示せば、次のようなものである。
社研公開講座Ⅰ
Ⅰ 社会科学研究コース
1 日本近代史研究 中村尚美
2 日本近代経済史研究 間宮国夫
3 戦後史の研究 依田憙家
4 社会科学文献研究 依田憙家
5 資本主義発達史文献研究 依田憙家
6 現代日本経済構造の研究 粟飯原稔
7 現代ソ連経済理論研究A 粟飯原稔
8 現代ソ連経済理論研究B 粟飯原稔
Ⅱ 地域研究コース
1 東南アジア研究一般 増田与
2 東南アジア現代史研究 後藤乾一
3 インドネシア現代史演習 後藤乾一・増田与
4 インドネシア語原書講読 後藤乾一
社研公開講座Ⅱ
Ⅰ 明治憲法体制の成立(近代史部会)
1 松方財政下の政商資本の動向 竹田務
2 明治期における地方経済的支配階級の動向 竹内壮一
3 日本の民主主義運動―自由民権一〇〇年によせて― 中村尚美
4 明治憲法体制と森有礼 松村憲一
5 「華夷秩序」と日本外交 大畑篤四郎
6 明治期における対外思想と植民地金融論 波形昭一
Ⅱ 近代日本における政治と宗教(日本近代思想部会)
1 島地黙雷における国家と宗教 村田安穂
2 中村敬宇における政治と道徳・宗教 荻原隆
3 明治社会主義の宗教批判―幸徳秋水の場合― 山泉進
4 内山愚童における仏教と社会主義 芹川博通
5 大隈重信における政治と宗教 出口栄二
1 小野梓の国家構想―国憲論を中心として― 中村尚美
2 「明治十四年政変」と小野梓 大日方純夫
3 小野梓の経済思想 間宮国夫
4 民権派ジャーナリストとしての小野梓 佐藤能丸
Ⅳ インドネシア―その全体像の検証―(インドネシア部会)
1 インドネシアの美術史 伊東照司
2 日中戦争と東南アジア華人社会 明石陽至
3 太平洋戦争とインドネシア―南方占領地施策との関連で― 大畑篤四郎
4 インドネシアの政治と軍部 後藤乾一
5 インドネシアとフィリピンの親族構造の比較 菊地靖
6 東南アジアと開発経済学 近藤正臣
7 インドネシアの都市と農村 村并吉敬
8 太平洋共同体とインドネシア 増田与
V 東欧社会の現代化と社会化(ソ連東欧部会)
1 現代ソ連の経済政策と生活様式 松原昭
2 八一年七月ポーランド党大会について 井内敏夫
3 ユーゴスラヴィアにおける近代化と民族問題 柴宜弘
4 ソ連企業における人員削減をめぐる諸問題 染谷武彦
5 ポーランド史とロシア 山本俊朗
6 ルーマニア社会主義の展望―都市化を手がかりに― 浜口晴彦
7 東欧社会の現代化と転換期の世界経済 松本新樹
8 ハプスブルク帝国解体と少数民族問題 稲野強
Ⅵ ユダヤ問題の種々相(ユダヤ民族部会)
1 ポーランドのユダヤ人問題 井内敏夫
2 イスラエルの総選挙 近藤申一
3 アメリカにおけるユダヤ系作家の活動 橋本宏
4 ユダヤ思想とギリシア思想の融合 小山宙丸
5 啓蒙主義とユダヤ人問題 安斎和雄
6 テオドール・フリッチの反ユダヤ論 大内宏一
7 あるユダヤ研究者の昔話(その三) 小林正之
ここで、最近数年間における幾つかの行事について述べておこう。
一つは、昭和五十五年に社研が創立四十周年を迎えたのを機会に、同年十月十三日から十七日にかけて社研創立四十周年記念行事を催したことである。その㈠は展示会で、社研所蔵の明治前期の政治史料、社会主義者の書簡、日本・インドネシア関係史料の三種を、期間中、七号館大隈記念室を借りて展示した。また十六日には小野講堂においてヌグロホ・ノトスサント博士(インドネシア大学歴史学教授)を招いて「西太平洋における日本とインドネシアの関係」と題する記念講演を行い、多数の聴衆を集めて大きな感銘を与えた。更に同日夜、大隈会館において記念祝賀会が開かれた。
次に、昭和五十七年に早稲田大学が創立百周年を迎えたのに対応して、五月十二日から五回に亘って特別公開講座を開いたことである。そのテーマと講師は次の如くであった。
第一回(五月十二日)
早稲田百年の足跡 小松芳喬(本学名誉教授)
慶応から見た早稲田 高村象平(慶応大学名誉教授)
第二回(五月十七日)
大隈重信の人間像 正田健一郎(本学教授)
私の学生生活 篠田正浩(映画監督)
第三回(五月二十七日)
小野梓と学問の独立 中村尚美(本学教授)
野球王国の栄光を担った人々 越智正典(野球評論家)
第四回(六月一日)
日本近代文学と早稲田 榎本隆司(本学教授)
女性・大学・職業 金平輝子(東京都福祉局長)
第五回(六月十一日)
坪内逍遙とシェイクスピア 野中涼(本学教授)
石橋湛山と早稲田の師友 石橋湛一(立正大学理事)
この大学創立百周年にふさわしいテーマと苦心の人選は、授業との関係で必らずしも多数の学生を集めることはできなかったが、それぞれ集った聴講者に大きな感銘を与えた。
本研究所の研究活動は、前記の如く部会研究、文部省科研費による研究、大学の指定課題研究など、かなり多岐に亘って展開されているが、その研究成果は機関誌『社会科学討究』に順次発表されるほか、随時に発行される「研究シリーズ」や研究叢書、翻訳叢書にまとめられている。また研究所の所蔵する重要な研究文献や史料はそれぞれ調査、整理が進められ、史料集、文献目録として印刷刊行されてきた。それらの各々について見ておこう。
まず機関誌の『社会科学討究』は、年間三回発行(九月、十二月、翌年三月)を目指して昭和三十一年一月に創刊された。それ以来、二、三度の合併号はあるが、ほぼ定期的に刊行されている。
このうち、旧社会科学研究所時代については既に触れたので省くとして、新しい研究所についてみると、特に目立ったものとしては、前項で述べた三回に亘る研究所のシンポジウムにおける報告と討論内容をそれぞれ特集号として編集しているのを挙げることができよう。本誌第三十号「明治期における近代化の展開過程とその問題点」(昭四十年十二月)、第五十七、五十八合併号「近代史における日本とアジア」(昭五十年三月)、第七十一号「戦後日本の変革とその評価」(昭五十四年六月)がそれである。更に、これも前項で触れたことであるが、文部省の科学研究費による特定研究に参加して進めた研究成果を特集したことである。その一つは、昭和四十四年四月の第四十三号に特集「日本資本主義とナショナリズム」(一部を四十四号にも掲載)としてまとめられた。
次に、研究所の体制が漸く整い研究部会による研究が軌道に乗り始めた昭和四十五年頃から、各研究部会の研究成果が「部会報告」ないしは「研究部会特集」として機関誌に載ることとなった。それらは、昭和四十五年の経営制度部会報告「日本的経営の特色」(第四十五号)、昭和四十六年の中国部会報告「現代中国の社会と思想」(第四十七号)、同じく四十六年のソ連・東欧部会報告(第四十八号)と近代史部会報告「日本軍国主義の形成とその基盤」(第四十九号)、四十九年の政治部会報告(第五十四号)、五十一年のファシズム部会特集(第六十号)とインドネシア部会特集(第六十一号)などである。また、社会科学の全般が大いに発展をみた昭和四十一年から四十六年にかけて、第三十三号から数号に亘って論文のほかに書評が掲載されたことも特色として挙げることができよう。
次に「研究シリーズ」は、昭和四十三年七月に創刊され、今日まで十三号が発行されている。これが作られた動機は、部会研究、共同研究が着々と進んでその研究成果がまとめられるに至り、量的にもその内容からも『社会科学討究』の一冊分に盛り込めきれなくなったので、これらの成果を機関誌の別冊としてまとめることとし、「研究シリーズ」として随時発行することとしたのである。それは『社会科学討究』における研究部会の報告特集号と同様に、部会研究を一冊にまとめるという意味をもっているのである。左に成果を掲げる。
(一)『アジア経済分析の方法序説』 東南アジア部会 昭四十三・七・一
(二)『社会主義工業経済論』 ソ連・東欧部会 昭四十三・七・三十
(三)『現代国家の経済と法』 経済政策部会 昭四十六・十二・十
(四)『東南アジアの近代化と日本』 東南アジア部会 昭四十八・八・三十
(五)『地域社会と住民参加』 政治行動部会 昭四十九・三・三十一
(六)『「家」と親族組織』 家族部会 昭五十・二・十五
(七)『津軽地域の農村集落整備に関する調査研究』 都市問題部会 昭五十・三・三十一
(八)『都市化と住民参加』 政治行動部会 昭五十・三・三十一
(九)『中国の社会と文化――北京大学代表団来学記念――』中国部会 昭五十・七・三十一
(十)『都市問題への新しい視点』 都市問題部会 昭五十二・六・三十
(十一)『新国際経済秩序研究序説』 東南アジア部会 昭五十四・三・三十一
(十二)『近代化とその諸局面』 比較近代史部会 昭五十五・三・三一
(十三)『ユダヤ世界と非ユダヤ世界』 ユダヤ民族部会 昭五十六・五・三一
更に、本研究所の成果発表の方法として研究叢書と翻訳叢書とがある。このうち研究叢書は、部会研究によってまとめられた成果を出版社と契約して出版して市販するものであり、翻訳叢書は社会科学の研究にとって重要な外国文献を翻訳し、出版社と契約して出版するもので、この双方に対して若干の経費の援助を本研究所で行っている。
このほか、前記のように所蔵史料の刊行や文献目録の編集・刊行がこれに加わるのである。
以上の本研究所の刊行については、煩を避けるために次に出版一覧を掲げておくこととしよう。
社会科学研究所出版一覧(年代順)
1 『近代日本の社会科学と早稲田大学』昭三十二・十(早大七十五周年を記念して編集)
2 『大隈文書』(第一―五巻)昭三十三―三十七(早大図書館所蔵の「大隈文書」の一部を編集)
3 『インドネシアにおける日本軍政の研究』昭三十四・五、紀伊国屋書店
4 『社会科学研究所所蔵図書目録』〈和書洋書)昭三十六―三十七
5 『日本近代化の諸問題』昭三十七・十二(早大八十周年を記念し『社会科学討究』の記念号として編集)
6 The Problems of the Modernization in Japan(The Waseda Bulletin of Social Sciences),1962
7 『中御門家文書』(上・下巻)昭三十九―四十
8 『中御門家文書目録』昭四十一―四十二
9 W・バウアー、山岡喜久男等訳『低開発国援助論争』昭四十三・四、多磨書店(社研翻訳叢書)
10 マーシャル、鳥羽欽一郎訳『日本資本主義とナショナリズム』昭四十三・九、ダイヤモンド社(社研翻訳叢書)
11 安藤彦太郎編『文化大革命の研究』昭四十三・十一、亜紀書房
12 ソ連東欧部会編『ソ連東欧社会の展開』昭四十五・二、亜紀書房(社研研究叢書)
13 『日本資本主義とナショナリズム』昭四十五・四(文部省科研費の特定研究の成果を『社会科学討究』の別冊として編集)
14 プレ・ファシズム部会編『日本のファシズム――形成期の研究』昭四十五・十二、早大出版部(社研研究叢書)
15 R・キャメロン、正田健一郎訳『産業革命と銀行業』昭四十八・一、日本評論社(社研翻訳叢書)
16 『蔵書目録――東南アジア関係の部』昭四十八・九
17 The Nishijima Collection,1973(社研所蔵の西島文書の目録)
18 『明治維新関係文書目録』昭四十九・五(社研所蔵の明治維新関係文書の目録)
19 『社会主義者の書翰――石川三四郎・福田英子宛書翰集と解説――』昭四十九・七、早大出版部(早大指定課題研究の成果)
20 ファシズム部会編『日本のファシズムⅡ――戦争と国民――』昭四十九・十、早大出版部(社研研究叢書)
21 後藤乾一訳『インドネシア民族主義の源流――イワ・クスマ・スマントリ自伝――』昭五十・九、早大出版部(社研翻訳叢書)
22 『社研所蔵図書目録 中国・朝鮮関係の部』昭五十・十二
23 Special Issue on Philippine Studies (The Waseda Bulletin of Social Sciences),1976
24 S・カナヘレ、後藤乾一等訳『日本軍政とインドネシア独立』昭五十二・一、鳳出版(社研翻訳叢書)
25 ファシズム部会編『日本のファシズムⅢ――崩壊期の研究』昭五十三・七、早大出版部(社研研究叢書)
26 インドネシア部会編『インドネシア――その文化社会と日本――』昭五十四・四、早大出版部(社研研究叢書)
27 ジ。イス・リブラ著、正田健一郎訳『大隈重信――その生涯と人間像――』昭五十五、早大出版部(社研翻訳叢書)
28 ジェラルド・M・メーヤー著、大畑弥七訳『新しい国際開発政策』昭五十七、早大出版部(社研翻訳叢書)
29 日本近代思想部会編『近代日本と早稲田の思想群像』(全三巻)昭五十六、早大出版部(社研研究叢書)
30 北欧部会編『北欧デモクラシー』昭五十七、早大出版部(社研研究叢書)
本研究所は、通史で述べたように、昭和十五年(一九四〇)の興亜経済研究所から出発して、人文科学研究所・大隈研究室・大隈記念社会科学研究所を経て今日に至っている。右のような過程の箇所・時期によって多少の違いはあるが、本研究所は一貫して社会科学・人文科学の研究を目的に掲げて今日に至っている。従ってここで収集した文献・史料も、全体として社会科学に関するもので占められている。特に新しい社会科学研究所になってから、その研究目的を「近代日本の社会科学的研究」と「世界重要地区の地域的研究」に絞り、部会研究と対応させてその関係の文献・史料を収集してきた。その詳細は前掲の『社会科学研究所所蔵目録』などを見ていただきたいが、一般的な所蔵図書の数量はおよそ、和漢書三万九千冊、洋書一万六千冊、雑誌・紀要は、和雑誌五百五十種、洋雑誌百八十四種、計七百三十四種に達している。このほか特殊なものとしては、アメリカ国会図書館所蔵の日米外交関係史料や官庁所蔵文書のマイクロフイルム二千六百八十二巻、明治維新関係の古文書、日本=インドネシア関係資料としての西島コレクションなどがある。
これらの文献・史料のうち、本研究所の研究活動に特に関係の深い三つの特殊な史料について触れておこう。
本研究所が、旧大隈研究室以来、寄託・購入等により収集した文書で、㈠堀文書、㈡九鬼文書、㈢西南戦争関係文書、㈣雲井文書、㈤伊藤文書、㈥寺西文書、㈦中井文書、㈧諸家文書、㈨稿本伊藤文書、㈩稿本岩倉文書の十種類の文書約三百五十点が含まれる。
これら収蔵の文書については、調査・整理のうえ、既に前掲の『明治維新関係文書目録』が作成されており、内容についてはこれに譲りたい。これらの文書は、収集の段階での事情により必ずしも系統性を持つものではないが、時期的には幕末・明治前期に集中しており、㈢、㈤、㈦、㈧、㈨、㈩のなかには明治政治史の研究にとって貴重な内容を持つものが多数含まれている。
本研究所の前身である興亜経済研究所の時代には、それが当時の国策機関であったこともあって、旧南満州鉄道株式会社をはじめ多くの機関から資料が寄贈され、また特に植民地関係の資料・文献が多く集められていた。
日本の敗戦直後の昭和二十一年に、占領軍によってアジア研究が禁止されたため、これらの文献は一時封印・保管されることになった。しかし、昭和二十七年四月の講和条約の発効後、アジア研究は一応解除され、またこれらの文献が近代日本の研究、特に植民地関係の研究のためのきわめて重要な資料を多く含んでいることが注目されるようになり、その整理と公開が年とともに内外から要望されるようになった。
本研究所では、これらの図書の整理のための予算処置を得て昭和四十六年六月より整理を開始し、中国・朝鮮関係図書は昭和五十年十二月に『蔵書目録――中国・朝鮮の部』の発行により、一応整理を完了した。整理開始当時の冊数は約四千冊であったが、その後の収集を加え、現在では約五千五百冊を数える。
内容は、旧満鉄、東洋拓殖、華北開発、関東州庁、台湾総督府、朝鮮総督府、「満州国」など植民地・占領地区の資料を中心に、今日では殆どその入手が困難であると思われるものが多く含まれている。
本研究所の東南アジア部会、インドネシア部会を中心に収集された資料で、近・現代の日本・インドネシア関係史の研究に不可欠の次のような資料が収蔵されている。
1 The Nishijima Colleetion(インドネシアにおける日本軍政関係の一次資料、文献、マイクロフィルム等約六百点)
2 The Subardjo Collection(インドネシア共和国初代外務大臣スバルジョ氏より寄贈をうけたインドネシア外交関係資料、約五百点)
3 桝コレクション(戦前の日本・インドネシア民衆交流に関する一次資料約百五十点)
4 横森コレクション(戦前・中・後の日本インドネシア関係についての一次資料約五百点)
以上のほか、鄒梓模・町田敬二氏等から寄贈を受けた貴重な諸資史料、写真等も逐次、整理を進めている。
以上、社会科学研究所の現況についてそのおおよそを述べてきたが、この現況は当然のことながら前項の「通史」とも密接に関連しており、また他の学部・研究所とも関連している。従って本研究所の状況についても、そうした全学的な関連の中で読まれることを期待したい。
大学は言うまでもなく学問研究と教育の場である。その附属機関としての本研究所は、その大学の一機関として、特にその学問研究の一環を担うものとして大きな意義を有している。
特に本研究所は、本大学の中において全学的に最も開かれた研究所と言ってもいいものである。それはここでの研究が、前述のように二年の周期をもって全学から、自主的民主的に研究課題と研究者を募集し、研究部会を編成して自由な研究活動を進めるという方法を採っていることに端的に現れている。現在、研究部会は全部で二十七を数え、研究員は特別研究員、研究協力者を含めると合計三百三十余名の多数に達している。そしてこのグループ研究・共同研究によって個人個人がそれぞれ進めている研究を相互に検討する機会を持つこととなり、学問研究の深化とその教育の場への効果的な連携が一層発展することとなる。またこうした研究によってこそ、他分野との交流も図られ、今日問題とされている学際的な領域の研究も大いに深められるであろう。それはまた、単に学内における研究・教育に限られることなく、他大学・諸機関との交流、更に国際的な交流に対してもきわめて大きな役割を担うことになる。その結果が前述の如く、対外的な研究活動において大きな成果を挙げ、また多数の外国留学者を受け入れて国際交流の面でも大きな発展を示すこととなったわけである。
更に、このように部会研究・共同研究を全学的な規模において展開することは、単に研究・教育の側面において効果的であるばかりでなく、この研究活動を通して学部・諸機関の教員相互の精神的交流が図られ、大学の運営に対しても有効である点を挙げることができよう。つまり、こうした活動を通じて相互に交流が深まることによって教員間の信頼関係も深まり、各学部・各機関における研究教育活動にもより好ましい状況が発展するであろう。
これはいわば本研究所の特色であり伝統とも言うべきものであるが、これを今後ますます発展させることによって大学における研究・教育の一翼としての本研究所の意義を一層高めていかなければならないであろう。
しかし、こうした重要な意義を持っている本研究所にあっても、抱えている問題はきわめて多い。
既に早くから、研究活動の側面において研究メンバーの固定化傾向や研究領域の狭さが指摘されている。たしかにこれをどう解決するかは、学問研究の新たな発展にとって不可欠のことであるが、これはいわば大学における学問のあり方、我が国における学問状況とも関連することであって、ここでは全面的に論ずる余裕がないので指摘だけに留めざるを得ない。
更に、物的な側面で解決しなければならない課題も多い。その最大のものは研究所の狭隘さの問題である。
言うまでもなく研究の活発化・研究領域の拡大には、研究史料・文献の増加を図らなければならないが、それらを収蔵する本研究所の書庫・資料室は既に収容限度を超え、これ以上の収集は困難になっている。これと関連して会議室、研究会室も少く、会議や研究会の開催に一定の制約を付けなければならないというのが現状である。この研究所の狭さは、これから本研究所の存在がますます重要となり、研究活動を活発化しようとしている時、大きな障害となっている。
では、これをどう解決するか、きわめて困難な問題であるが、ここで我々は本大学の百周年を契機とする研究・教育状況の全面的な改革に注目したい。すなわちこの改革の中で、本研究所がその本来の目的を達成し更に一段と発展を目指し得るような体制が講ぜられることを心から期待したい。それはまた本大学が全体として現代的な研究・教育の課題に真に対応し得る体制を整えることとも通ずることなのである。