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第三編 付属機関

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第二章 演劇博物館

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一 開館式

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 演劇博物館は昭和三年十月、坪内逍遙の古稀と『シェークスピヤ全集』四十巻の完成を記念し、逍遙の永年に亘る国劇向上の功労を顕彰するため、学芸壇の有志、知人の協賛により早稲田大学構内に建設されたものである。正式には「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という。

 開館式は十月二十七日午後一時より、演劇博物館前庭において約六百名の参列者を迎えて盛大に行われたが、その日は前日まで覆っていたうっとうしい雲がうそのように吹き晴れて爽やかな秋空になっていた。

 式場は正面舞台に演壇を据え、その左右に植木鉢、舞台の屋根を支える柱には日英両国の国旗を掲げ、塔上には海老茶の旗が翻っていた。参列者はその前の広場に並べられた椅子に着席した。

 いま参列者の前にそびえるその建物は、規模といい、景観といい、一私立大学の特殊博物館としては当時驚異にちかい偉容であった。鉄筋コンクリート地下とも四層。建坪百二十一坪四合、地階百十三坪、一階は百二十一坪四合(図書閲覧室、事務室、舞台、書庫)、二階百八坪八合五勺(展列室、特別室、書庫)、三階百一坪六合一勺(展列室、休憩所)、塔屋七坪三合で総延坪は四百五十二坪一合六勺。意匠は逍遙の発案により、英国エリザベス朝時代の劇場フォーチュン座を象ったものである。そして舞台の広さは当時のものに近く、廊下・事務室・展示室を利用すれば、直ちに上舞台・奥舞台・楽屋・桟敷ともなって、すぐにでもシェイクスピア劇が上演できる機能を備えていた。

 開式の合図とともに、舞台上にまず早稲田大学総長高田早苗を先頭に逍遙・市島謙吉五十嵐力文学部長・来賓・発起人等が入場着席した。早大幹事難波理一郎の開式の辞につぎ、全員起立して国歌斉唱があり、式典に入った。

報告 実行委員長 市島謙吉

式辞 早稲田大学総長 高田早苗

祝辞 英国大使 サー・ジョン・テヰリー

祝辞 文学博士 上田万年

祝辞 中村歌右衛門(同福助代読)

祝辞 土方与志(小山内薫代理)

祝辞 長谷川誠也

謝辞 文学博士 坪内雄蔵

 このあと校歌斉唱があって閉式となり、式後隣接の製図教室で茶菓の接待があり、それぞれ館の設備や展示室を参観した。

 当日その式典に列席した人の追憶や記録によると、残念ながら式辞や来賓の祝辞はよく聞えなかったという。当時マイクはなく、野外のこと、これは当然のことだった。だが、最後に立った逍遙の謝辞だけは、さすが朗読で鍛えた音声で客席の隅々にまで通り、聴衆を感服させた。

 この謝辞演説は約一時間に及ぶもので、演劇博物館の設立の動機・意義・職能を説き、また逍遙自身の演劇論ともなっていた。逍遙はまず演劇の起源と世界の演劇の現状を概観し、今日ほど世界の演劇が行詰り、現代に相応した新舞台芸術が求められている時はないと述べ、旧い文化が行き詰るときはいつも「自然へ戻れ」Return to Natureと提唱されたが、演劇もこの際Return to the Originその根源に戻るべきだ。その由って来た所以の源泉に戻ってその源の流を酌むべきである。そのため劇の成立を、まず社会学的に、人類学的に深く遠く根本的に研究することが第一義とならざるを得ない。それには世界中の劇を古今を一貫して比較研究することが緊要である。そうした資料を一ヵ所に蒐めておく場所として演劇博物館が望まれる。設立の動機はここにある。玄関の正面に、シェイクスピア時代の地球座の看板の格言、Totus Mundus Agit Historionem「世界はすべて劇場なり」の文字を掲げさせたのもその意味から出たものである。従ってこの博物館の目的も博く大きく普遍的でありたく、集め収める所の材料や文献は一時代、一国に限らず、古今東西南北に亘ったものでありたい。いま如何にも内容が乏しく、甚だ空然たる一の倉庫、一の物容れたるに過ぎないが、大方の有力な援助を得て内容を充実し、将来我が国のために、また世界列国のために、新文化的要素を養い育てる揺籃たるの役目を務める日のあることを信ずるというものであった。

 以上が逍遙の演説の要旨だが、平易明快ときに手振りを交えた絶妙な話術に聴衆は等しく感動した。そしてこの長い演説が一度も草稿を見ることなく行われたのも一つの驚きであった。

 式典の後、『演芸画報』の記者だった安部豊がその速記の掲載を乞うたところ、逍遙は内ポケットから原稿用紙を取り出し、「これをお出し下さい。この通りしゃべったのですから」と言って渡したという。逍遙は講演の際いつも原稿を作るが、壇上ではその原稿は一切見ないのがそのやり方であった。しかし準備は慎重で、この日の挨拶の原稿も「逍遙日記」の十月二十五日の項を見ると、「午前、読書杯など、二十七日の挨拶の稿を作る。一時(註翌日午前)過より覚め原稿修正了」とあり、推敲を重ねたものであった。

 演劇博物館開館第一回の展示は「忠臣蔵」に関するものであった。第一陳列室は文化より明治三十年までの「仮名手本忠臣蔵」の錦絵、第二陳列室は安永から享和期の細絵・大錦「替り忠臣蔵」の錦絵、第三室は春章・春好・長喜・政演・写楽・春英・春亭・歌麿・北斎の作品など。第四室は道行浄瑠璃の錦絵と上方絵となっており、大半は早大図書館から移管した小林文七コレクションと逍遙寄贈のもので、歌麿・写楽・北斎等の作品は日比谷図書館と吉田暎二氏からの出品であった。第五室は文楽人形の、師直・判官・由良之助・おかる・平右衛門(大阪文楽座出品)、「忠臣蔵」小道具(藤浪与兵衛出品)、衣裳(三越衣裳部出品)。第六室は「忠臣蔵」の団扇絵、三階廊下には佐原包吉、伊藤晴雨の製作による「忠臣蔵」の模型舞台が並べられた。

 この「忠臣蔵」展の企画は逍遙を中心に立てられたもので、「逍遙日記」によると、八月二日(逍遙は熱海)の項に「河竹、大村(弘毅)、伊達(豊)来、演博第一次展覧打合せ、忠臣蔵本位と決定」とあり、この時から準備を重ねてきたものであった。「忠臣蔵」という企画はまだ演博が逍遙の言う「空然たる一つの倉庫」で、物品資料に乏しかったためでもあるが、逍遙の博物館創設の動機であった錦絵の学問的系統的活用、その代表としての「忠臣蔵」をというのが最大の理由であった。

 逍遙は十月十一日、一家を挙げて東京へ帰り、工事状況をたびたび視察すると同時に、記念品の色紙約百四十―五十枚の揮毫など多忙な日々を送った。この間、「忠臣蔵」展の指導に当り、展示衣裳のうち、義士討入の衣裳の白襟に、自ら筆をとって「赤穂浪人大星由良助良金」と記したりした。

 演劇博物館の開館は逍遙の永年の夢の実現であり、同時に早稲田大学の誇り、また日本演劇文化のシンボルでもあった。この日を迎えた逍遙は勿論関係者の感慨は一しおだったが、逍遙の日記には「快晴、午後一時より、演博開館式了」としか記されていないが、この日逍遙の甥で関西から駈けつけて式典に列席した坪内士行は「逍遙のあんな晴ればれとした顔は、かつてみたことがなかった」と語り、更にその演説についても後年「衷心から迸り出る謝辞の一言一言は、その吐露する抱負のすばらしさと相まって、実に傑出した出来栄えであった。私は思わず涙ぐんだ事を白状しなければならない」と記している。

二 創立まで

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1 錦絵の収集と演劇博物館の構想

 逍遙が演劇博物館という構想をはっきり抱いたのは大正五―六年頃である。この頃折にふれ思いつくままを書き留めた手控帖「其の折々」の「大正五年十二月末・大正六年一月」と記した冊子を見ると、なかに、「未来の仕事」と題する一文がある。

 それは十三項になっており、シェイクスピア翻訳の完成、明治初期の文壇の懐古、自叙伝や将来の著作の計画などとともに、「舞台画(劇画)論――演劇博物館設立案――浮世絵と劇画」と書かれている。

 この頃逍遙は五十八―九歳で、年齢的にも、仕事の上でも一つの転換期にあった。身辺では大正四年に早大教授たる地位を辞し、また自邸の土地建物を売却して、文芸協会の負債を皆済していた。大正六年三月に刊行した『役の行者』の序文で「日の暮れかけた今となつて、やつとの事で心任せになる閑暇を得たが、あゝもう大分雀色時になつてゐる! これから出かけるとして果してどこまで行かれるか? 併し、ともかくも予定の方角へ出かけて見よう。ともかくも、今踏み出す第一歩は、自分の旅の追分である」と書いたが、その予定の方向がこの「未来の仕事」だったとみてよい。

 これ以後逍遙はますます著述・研究の道にいそしみ、これらの項目を着々と実現してゆく。シェイクスピア翻訳、また自叙伝著作『少年時に観た歌舞伎の追憶』の発表というように、「演劇博物館の建設」は決して単なる思い付きではなかった。

 逍遙がその一大転機に当って志したものの一つは歌舞伎の史的研究であった。それは江戸時代に夥しく発行された芝居絵に注目し、これを資料として新しい観点から歌舞伎の歴史を考える、いわゆる画証的研究であった。折も折、逍遙は大正五年十二月、浮世絵収集家として著名だった小林文七が大量の歌舞伎台本番付と二万枚ほどの芝居絵を手放してもいいという話を耳にした。この時逍遙はこの資料をもとに、自分の資料を合せて、早稲田にドラマティツク・ミュージアムを作るという構想を持った。そして直ちに当時早大図書館長だった親友の市島謙吉に計り、また早稲田大学維持員会を説いて、そのすべてを図書館に購入してもらった。

 そこで逍遙は自らその整理分類に当るとともに自らも錦絵の収集に乗り出した。御成道や神田の浮世絵商の店頭や、各所の即売会や展覧会にしばしば逍遙の姿を見かけるようになったという。この頃は浮世絵の名品はともかく、芝居絵はそれも豊国以降のものはまだまだ市場価値も低かった。街頭の夜店でこの種のものが並べられていた時代であった。逍遙はこれらを買い漁ったのだが、そのためこれらの相場が跳ね上ったと伝えられる。

 この逍遙の演劇博物館構想を更に強固にさせたのは大正十二年の関東大震災であった。その日は逍遙は市島謙吉高田早苗とともに大隈会館で秋に予定されている演劇展覧会の相談を行っていた。ここで展示すべき資料を取調べ、翌日から収集に掛かることなどを取り決め、一同が昼の食卓についた時にあの激震であった。逍遙はここで早稲田大学の応用化学の教室が発火し、大講堂や会館の土蔵が崩れ落ちるのを目撃した。そして展覧会に出品を予定されている所蔵者の家は殆どが罹災し、そこに伝来した貴重な衣裳、鬘、絵画、台帳その他資料が跡形もなく焼失したのを知った。

大なゐゆり大き火もえて幾代々の、人の力の跡かたもなき

心はたありし浄裸にかへるべき 時は来にけり借着脱がんかな

 これは当時の逍遙の述懐だが、個人所蔵のむなしさを改めて痛感した逍遙はまだ余震の続いている九月五日、蔵書一切を早大図書館に寄贈してしまった。

 更に一つ、大正十四年二月の大患も、逍遙の決意を固めさせた要因でもあろうか。風邪がもとの肺炎で一時は危篤状態となる重患。四月末には回復したが、生死の境をさまよった逍遙として、事を急ぐ気持は更に高まったものと想像される。

2 『逍遙選集』の刊行

 大正十四年十二月、六十七歳の逍遙は創作、序文書き、雑誌新聞への寄稿を以後謝絶するといういわゆる三絶を披露して、「全力を傾けて完成したいと思う仕事」に邁進し始めた。その仕事は、第一に『シェークスピヤ全集』の完成、次に『逍遙選集』の刊行、それから演劇博物館の創建だった。

 大正七・八年以後世界大戦の好況の波に乗って、出版界は一種の全集ブームが起き、文学者の個人全集などがしきりと刊行されるなかで、いつも自分の全集を拒絶し続けていた逍遙が、大正十四年になって承諾したのは一つに演劇博物館の建設資金を得るためであった。逍遙は全集の跋のなかで、「之によって、宿志の演劇博物館建設の資金が幾らかは得られようかとも考えて」と記し、その目的を明瞭にするため、実際に大正十五年七月第一回配本と同時にその印税を大学に積立て始めた。「逍遙日記」の七月十日の項に「種村来、選集印税を早大にて取扱ふに就きて春陽堂と二ヶ条新契約をなす件」とあるが、そのため検印はすべて早稲田大学庶務課の印となった。逍遙の論ずれば行うという、まず自ら率先するという日頃の信念が、この行動となったものであった。

 これより先、大正十四年十二月の『早稲田学報』に市島謙吉の「早稲田大学図書館に一特色をもたせたい冀望 演劇図書館を開くの議」と題した一文が載った。その内容は関東大震災で多くの貴重な演劇資料が焼失したのにかんがみ、この際永久保存のための施設の必要を説き、逍遙の寄贈した演劇資料を中心に、また逍遙の劇界に対する功績を記念する意味からも、是非図書館の一隅に演劇図書館を設置したいというのが要旨であった。市島謙吉のこの論説は逍遙の気持を察してのものであったろうが、逍遙の構想とは大ぶん隔りがあった。また大正十五年五月六日、『朝日新聞』に「坪内博士の演劇図書館建設、早大へ寄贈した珍書類を基礎として門下生等の美しい企て」という見出しで、次のような要旨の記事が載った。それは、坪内博士が早稲田に寄贈した演劇資料は質量ともに貴重なもので、そこで門下生が集まって博士の図書を中心に演劇図書館期成同盟を作って劇や講演会等で建設資金を得ようという企てがあり博士も「それなら選集の収益を全部投じよう」となった、という趣旨のものであった。

 これも逍遙の構想とは基本的な相違があった。ふだん逍遙は自分の感情を日記には表さないが、この日ばかりは珍しく、「朝日夕刊・演劇図書館の件、門下生の美挙云々、あまりの間違ひ、例の事ながら不快」という文字を残している。

 こうした世間の受け取り方と誤解を経たのち、やがて演劇博物館の明確な構想が打ち出された。それは十一月十四日熱海で催された文科校友有志会で、金子馬治五十嵐力吉江喬松日高只一長谷川誠也・中村吉蔵・正宗白鳥小川未明・本間久雄・河竹繁俊等十数名が発起人となり、四十九名が参集。全員まず双柿舎を訪問して昼食ののち、水口園へ集まり、演劇博物館設立の協議が行われ、満場一致でこれを決議した。そしてその時期は二年後に迎える逍遙の古稀と完成が予定される『シェークスピヤ全集』の記念を併せて、昭和三年を目標とすることに取り決められた。

 同時に大学側でも真剣にこれを検討、そのための準備会が十一月二十四日には大隈会館で行われた。逍遙の日記に「午後出版部へ立寄り、大隈会館にて演劇博物館期成の相談、高田・市島・田中・林館長・金子・難波会合―準備委員選定交渉の件、博物館だけを会館区域に建築、予算十五万円」とある。この日は基本方針の懇談であったが、独立した博物館を建設という方向は、逍遙を大いに満足させたものに違いない。

 しかし、この案を大学側として検討してゆくと、大学の直接の事業としては成算の見込みが立ち難いということが明らかになった。それは当時早稲田大学では大隈老侯の記念事業が進行中で、大隈講堂や早大図書館の建設も途次にあった。募金の二百万円もまだ完結に至らない時に、この上更に十数万円の寄附金を募集することは、実際上は無理だということになった。そこで絶対確実な方法として、独立した建物は見合せ、逍遙とその親近者の寄附によって、図書館の上に一階だけ増築してこれに充てようという結論に達してしまった。

 逍遙はこのことを親友の市島春城から知らされたらしいが、その時の逍遙の失望は想像にあまりある。逍遙は即座に大学案の中止を申入れ、建設案はそのまま四ヵ月ほど停頓状態になってしまった。

 この逍遙の心情と大学側の意向を伝え聞いた文科校友の有志間では、たしかに大学当事者の立場は理解できるものの、しかし逍遙の記念事業の時期、すなわち、古稀と『シェークスピヤ全集』の完成という昭和三年の機会を見送ったら、当初の企図にもとるし、また図書館の一部を当てるのも悪くはないが、是非独立の建物にしたい、という空気が高まってきた。そして資金の調達方法も大隈老侯記念事業に支障をきたさないような、劇壇・文壇方面からの寄附を募り、全く別個の事業にしたらどうか、寧ろそのほうが逍遙の記念事業としては意義があろうということになった。そしてその具体案が練られた。

3 文科校友の活躍と工事の進行

 昭和二年も四月に入ると、文科有志の会合は頻繁になってゆく。四月五日には大隈会館で小委員会が開かれ、金子馬治五十嵐力・中村吉蔵・楠山正雄・島田賢平・池田大伍・本間久雄・大村弘毅・伊達豊・河竹繁俊が参集して、寄附金の根本予定案作成。次いで、十六日には熱海で小委員会の人々と逍遙との協議。十九日には大隈会館で前記の人々に吉江喬松長谷川誠也・森岡格雄・日高只一を加えて協議があった。募金は学芸界一般からの寄附事業とすることに決定したものの、やはり早稲田大学との関係について問題になったという。

 演劇博物館をどこへ建てるかという敷地問題は最初の重要な課題だった。そのため逍遙は自邸の余丁町を提供したいと申し出たこともある。しかし委員会としては、たしかに逍遙邸は由縁ある土地ではあるが、博物館には不適当であるので逍遙に撤回を願ったという。また日比谷や上野へ建設したらという案もあったが、それでは逍遙の記念にならないということでこれも解消した。

 そして結局は早稲田大学の構内が最適であるという結論に達し、五月六日には構内の西北隅(現在地)に確定した。

 また建築様式に就いては逍遙にははじめからシェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模した劇場兼用の建物をという腹案があった。これはよほど前からの着想であった。それは逍遙が児童劇運動を推進していた大正十二年頃、児童会館の建設を考えていたことがある。小規模な演劇博物館でここで帝劇の女優を指導して、理想的な児童劇上演をもくろんだ。逍遙の門弟で児童劇研究家の伊達豊は逍遙から直接この話を聞き、その模型を見せられた。その建物は画用紙ながら、まさにシェイクスピアのフォーチュン座で塔上にマッチ棒をポールとした三角の旗が翻っていたという。

 建物そのものをシェイクスピア演劇資料とし、同時に実演もできるという構想は永年逍遙の胸に温められていたものであった。このように、逍遙の日記によると五月十五日「演博の模型製作。沙翁劇場の舞台と楽屋にかたどりて」とあるが早速十七日にはこれを携えて上京、二十八日には、山田清作、大村・伊達・河竹を自邸に招いて演博の模型を見せて、更に五月三十日には恩賜館にて演博準備会が開かれ、逍遙は設計担当の佐藤功一博士と早大営繕課の桐山均一にその模型を見せて設計を注文している。この日は関係者一同が居並ぶなか、この建築のアイデアについて逍遙の滔滔たる説明が行われたものと思われる。

 設計は桐山均一と同じ営繕課の江口義雄が担当、九月末には逍遙を交えて演博建築設計図の打合せが行われ、十一月十七日には設計協議会が大隈会館で開かれた。この頃は設計も完了し桐山は外遊したので、今井兼次が代って江口とともに説明した。工費も予算十三万ということもこの時に聞かされた。

 一方募金計画も大いに進んだ。六月には募金事務所が大隈会館に置かれ、河竹繁俊が事務責任者となり、大村弘毅・伊達豊・錦織春雄・印南高一が勤務し、大学の記念事業部から片山利久・上村鉄雄が募金事務を助けた。そして正式に募金趣意書が作成され、諸方に発送された。その趣意書は次の通りである。

拝啓 愈々御清穆之段慶賀致候 陳者早稲田大学名誉教授坪内雄蔵博士が我が国劇向上の殊勲者たりし事に関しては何人も異議なき所と存候が明年は同博士の古稀の賀に相当すると同時に其半生の研精に成れる沙翁全集四十巻の翻訳も完成せらるべき筈に御座候 就ては之を機会に博士の業績の記念として東洋未曾有の一演劇博物館を創建し以て前後四十有余年に亘れる博士が多方面の文勲を顕彰し兼ねて之を以て永く斯道の公益機関たらしめたく切望致候

演劇博物館の創建を以て博士を記念すべく思ひ立ち候は一にはそれが博士多年の宿願たりし故に候へども二つには此挙が諸外国に比して遥かに多く演劇図書資料及び記念品に富める我が国の現在に於てこそ最も適当なる又特に有意義なる計画と存じたる故に御座候

公私御多端の折柄御迷惑とは存候へども何卒前陳の趣旨御諒察成下され深厚なる御賛助を賜はりたく悃願致候 敬具

昭和二年六月

坪内博士記念 演劇博物館設立発企人

代表 子爵 渋沢栄一

市島謙吉 五十嵐力

池内信嘉 石渡敏一

侯爵 大隈信常 大谷竹次郎

川村徳太郎 金子馬治

幸田成行 上遠野富之助

高田早苗 田中穂積

中村歌右衛門 中村雁次郎

永富雄吉 上田万年

山崎覚次郎 山本久三郎

小林一三 安田善次郎

増田義一 福沢桃介

侯爵 小村欣一 三上参次

白井松次郎 平田譲衛

砂川雄峻

 そして添えられた説明書には演劇博物館の意義、由来、建築の構造、機能を説き、更に将来博物館の資料と予定さるべきものとして現在早大図書館で保管中の芝居絵三万枚(内逍遙寄贈一万)、演劇図書二千五百冊、歌舞伎台帳五百余部二千冊、役者評判記二百八十八冊、番付類約六千枚、逍遙寄贈の絵看板五十七枚、図書五千六百五十冊が記載されていた。

 同時にこの募金を支援すべく、校友による坪内博士記念演劇博物館設立期成会や早大文科校友期成会が組織され、更に七月十二日には合同して実行委員会と改称、委員長市島謙吉、会計監督田中穂積金子馬治、常任委員難波理一郎長谷川誠也河竹繁俊、委員として上記以外伊藤輔利・五十嵐力・池田銀次郎・飯塚友一郎・林癸未夫・西村眞次・本間久雄・大村弘毅・小川未明片上伸・片山利久・横山有策・吉江喬松・高須芳次郎・種村宗八・伊達豊・中村吉蔵・楠山正雄・桐山均一・宮田脩・島田賢平・日高只一・森岡格雄が並んだ。そして既に寄附は二百三十口、金額は七万円余と報告され、はっきり建設運動は軌道に乗った。

 また関西でも校友が中心になって設立関西期成会が結成された。石割松太郎・原田譲二・豊岡佐一郎・伊達俊光・坪内士行・土屋充が発起人の呼び掛けを行い、七月には発起人百二十四名、相談役九名、役員十六名で正式に発足した。この大阪の地には逍遙の甥の坪内士行が宝塚国民座を率いて新劇活動のさなかであり、関西の文科校友は士行への友情からも大いに気勢が上っていた。

 こうした関係者の努力にも拘らず、募金は必ずしも順調とは言えなかった。大隈侯百年事業という同じ早稲田を基盤としての寄附という障害もあったろうが、この頃昭和二、三年は非常な不景気で、財界は不況に喘ぎ、労働運動は渦巻いているといった、社会不安の影響もあった。そして口先や筆先だけは達者だが、金はないと陰口を叩かれた文学者の、たしかにその弱さを露呈した面もあったろう。しかし文学者、演劇関係者のみが可能なアイディアもあった。それは自らが舞台にたって演劇を興行しその収益を寄附するという方法である。

 先ず昭和二年十二月、水谷八重子が義兄の水谷竹紫の発案で、浅草公園劇場で「演劇博物館寄付興行」と銘打って公演。また関西では十二月二、三日大阪朝日会館で「父を尋ねるオウガスタス」ほかを興行している。越えて昭和三年三月には七世坂東三津五郎の舞踊会があった。次いで沢田正二郎の新国劇が大隈講堂で行ったものが最大の規模のものとなった。それは六月二十三日から五日間で、演目はエドモン・ロスタン原作、楠山正雄訳、額田六福補綴「白野弁十郎」および中村吉蔵作「大隈重信」で、「白野」は沢田正二郎の当り芸、「大隈重信」はこのための書下しの新作であった。非常な大盛況で、この時の報告書では総収入一万五千七百九十一円九十四銭、総支出八千六百六十二円五十六銭、差引七千百二十九円三十八銭が利益で、これが演博への寄附金となった。

 また上山草人が昭和三年二月アメリカのロサンゼルス市で行った寄附興行もある。草人は文芸協会の出身で、逍遙の弟子、近代劇協会などで新劇運動に活躍したが、この頃はハリウッドで映画俳優として「バグダットの盗賊」のモンゴール王子などで大当りをとり、非常な人気俳優だった。場所はロサンゼルス西本願寺ホールで、演目は谷崎潤一郎作「愛なき人々」、トルストイ原作、島村抱月訳「復活」の二本で出演者は山川浦路、伊藤貞子、鈴木鬼亭、酒井貢、小松良基ら。地元の在米邦人を対象に堂々と「坪内博士記念演劇博物館寄付興行」を銘打ったものだった。

 結果は地元のロサンゼルスの新聞によると、大盛況で利益金は六百二十九ドルに上り、これにジョーヂ・桑原、上山両人の寄附金を加えて千四百円送金したとある。

 この草人の興行は国内には美挙と伝えられ大きな反響を呼び、後の寄附興行に強い刺戟となったことは言うまでもない。以後寄附興行は演劇博物館が開館した後でも、演劇博物館後援会、国劇向上会などの主催で続いている。昭和四年五月宝塚国民座、十月水谷八重子・守田勘弥、また逍遙自身も東京・大阪・名古屋で脚本朗読会を開催している。

 こうした関係者の熱意と努力により、演劇博物館は開館に向って邁進、二月には建築工事は上遠野組の請負と定まり、正式に早稲田大学との契約が結ばれ、その二日地鎮祭と起工式が行われ建築が開始された。

 六月二十三日には発起人会が大隈会館で開催され、高田・市島・田中・五十嵐・大谷竹次郎・山本久三郎・池内・石渡敏一・難波・長谷川・河竹が集まり、演博竣工後は早稲田大学に寄附し将来の経営維持を託することに決定した。またこの時、逍遙は工費調達の関係から自分の邸宅と土地を早大に寄附したことも報告された。そして七月の早大維持員会でも「坪内博士記念演劇博物館及同博士所有ニ係ル牛込区余丁町一一四番地邸宅(宅地四百余坪・建物約九十坪)現型ノ儘寄付ヲ受ケルコト」と正式に記録されている。

 逍遙が演博の建設に当って自宅の提供は当初からの意志であった。これは当初演博の用地として提供を申し出たことでも明瞭だが、今回は工事費の調達に関連していた。この頃は寄附の申込みはほぼ予定通りに達していたが払込みは三回払いになっていたので、工事の進捗に応じて現金の支払が追いつかなくなっていた。逍遙はこれを知って、改めて大学へ邸宅寄附を申し出、大学は、これによって五万円の融資を得ることができたのであった。

 七月九日にはめでたく上棟式を迎え、演博の建設は大詰に近づいたが、あとは人事問題が残るのみとなった。館長には、はじめ市島は逍遙名誉館長という案を立てたが、これは逍遙が固辞して受けず、そのため金子馬治が館長に内定した。しかし竣工間際になって病気になり、開館式への出席が危ぶまれるようになった。そのため逍遙は高田総長と相談の結果、河竹繁俊を取敢えず副館長に任命し、開館式を乗り切ることとした。河竹ははじめ完成後は退身する決意だったというが、以後演劇博物館に専心し、のち館長となって永く館の発展に尽すことになる。

 職員は設立事務所で苦労をともにした大村・伊達・錦織が館員となり、また、部門も逍遙の案により図書部と博物部に分かち、博物館のなかに演劇図書室を併設することになった。

 なお、募金の状況は昭和二年六月、設立の趣旨発表以来、寄附申込みはそのつど『早稲田学報』に掲載し、また昭和三年十月開館に際して収支を報告した。のち開館五周年を期に昭和九年三月二十五日、設立実行委員長市島謙吉、演劇博物館長金子馬治の名で最終報告を行っている。左に記しておく。

会計報告(昭和九年三月十日現在)

寄付申込金額 二一六、二一九・〇四円

未払込金額 二二、四五四・八〇円

収入

寄付払込金額 一九三、七六四・二四円

預金利子 一、八九八・〇九円

合計 一九五、六六二・三三円

支出

演劇博物館建築及設備費 一八一、七六三・〇三円

資金募集費 一三、五五二・八四円

合計 一九五、三一五・八七円

差引手許在高(今後御払込の方と共に設備費に充当)

三四六・四六円

三 内容の充実をめざして

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1 演劇博物館後援会と国劇向上会

 演劇博物館はこうして完成し、大学が維持経営に当たることになったが、以後の博物館の目標は、資料の充実、且つ館そのものの存在と意義を世に訴えることであった。いくらでも必要とする収集費と施設費、これに対して大学の財政には限度がある。そこで博物館の育成は引続き設立関係者の大きな事業となった。

 昭和四年一月、演劇博物館後援会が発足。会長は市島謙吉、理事長に長谷川誠也、顧問には演劇博物館設立発起人の全部と早大理事が名を連ねたもので、会員は賛助会員年額五円、特別賛助年額十円または一時金百円以上を拠出することになっていた。

 目的は当然、演劇博物館の設備内容の充実を計ることにあったが、その事業として、先ず種々の講演会、図書雑誌の出版、次に演劇映画および演芸の寄附興行年二回となっていた。

 この事業のうち、出版物については、直ちに四年一月から『演劇博物館』(四六倍判十六頁)の刊行となり、演博の機関誌として昭和五年十二月まで存続した。そして寄附興行のほうは逍遙の脚本朗読がその最初の仕事となった。逍遙の朗読はかねてから定評のあるところで、これまでにも再三各方面から懇望されていたのだが、まだ一度も公開の席では演じたことはなかった。しかし、演博の後援の資金になることなら「勧進帳」を読み上げよう、しかし絶対の無報酬で、且つ独演会という条件で実現した。

 その脚本朗読会は昭和四年四月二十七日、大隈講堂で開催。逍遙は「桐一葉」二場、「役の行者」大詰一幕、「ヹニスの商人」一幕を朗読した。当日は定員二千名を百名超える超満員となって大成功を収め、更に五月八日大阪朝日講堂、五月十二日には名古屋県会議事堂でも開催し、この三都での収益は三千円に達し、後援会の基礎は一挙に固まったという。

 次いで五月三日から三日間は坪内士行の率いる宝塚国民座が東上して、大隈講堂で坪内士行の翻訳、演出、自演による「ハムレット」と逍遙作「役の行者」を上演した。これは寄附興行としての収益もさることながら、「役の行者」が非常な舞台成果を挙げた。先年この作が築地小劇場で初演されたときは、逍遙の意図とは程遠いものだっただけに、身内同然の森英治郎、古川利隆を迎えてのこの上演には、逍遙自身も大変な気の入れようで、連日稽古に立合い、せりふ回しから始めるという指導ぶりだった。結果は各新聞社の劇評もよく、逍遙も二日目の出来栄えは、おおよそ自分の考えたことに近いものだったと満足げだったという。

 そのほか昭和四年九月、沢田正二郎を失った新国劇が、若手の島田正吾を守り立てての公演で「シラノ・ド・ベルジュラック」その他の上演。十月には十二世守田勘弥の文芸座と水谷八重子の芸術座に加藤精一が加入して、逍遙作の舞踊劇「良寛と子守」のほか「大尉の娘」、「ファウスト」を上演した。また五年五月には「坪内博士家庭児童劇」や名作映画鑑賞会で「キートンの大学生」、「生ける屍」の上映などがあった。

 このような寄附興行は演博の資料の充実には大きな役割をもった。だが同時に単なる営利事業でなく、博物館の育成以外に国劇の向上を目的としているだけに、純粋な演劇活動の場となったことも指摘しておきたい。例えば、新国劇の公演は師沢田の母校で生死を賭けたもので、その好評により再起の切っ掛けがつかめたもの、逍遙の児童劇公演も、大正末期から一時中絶していた芸術運動の再興となっているからである。

 この演劇博物館後援会は二年間の活動の後、発展的解消を遂げて財団法人国劇向上会の設立となった。法人化は過去の実績を踏まえての逍遙の提案で、逍遙は全財産を挙げてこれに寄贈し、更に強固な基礎の上に演劇博物館の充実と国劇の向上を目指す事業を行うためであった。昭和五年九月五日に正式認可となり、十一月三日より市島謙吉会長のもと、長谷川誠也金子馬治田中穂積河竹繁俊が理事となり活動を開始した。

 事業としては引続き寄附興行も行われたが、その中には昭和七年早稲田大学創立五十周年に際し、向上会から大学への寄附として大隈講堂で、加藤精一、古川利隆、水谷八重子らの「ヹニスの商人」などを上演している。

 また出版事業も盛んになり、後援会時代の『演劇博物館』は月刊の芸術雑誌『芸術殿』(昭和六年五月―昭和十一年三月)に発展、また単行本『国劇要覧』の刊行も行われた。

 なお、この国劇向上会は昭和四十年三月、逍遙協会と改称し、演博の助成以外、逍遙の著作資料の整備、『坪内逍遙――研究と資料』『坪内逍遙事典』等を刊行している。

2 資料の収集と展覧会

 博物館における展示は最も重要な仕事だが、中でも時期を得た展覧会は資料の収集増加に繫がるものである。

 演劇博物館での最初の大きな展覧会は、昭和四年四月の「沢田正二郎遺品展」だった。沢田正二郎はその三月四日、中耳炎で急逝したが、当時随一の人気俳優で、間髪を入れず開催した追悼展は連日沢田を愛惜する人々で賑わった。その大部分は初めて演劇博物館を訪れる人ばかりで、企画は成功だった。

 以後俳優の追悼展は演博の恒例となり、「故守田勘弥展」(昭和七年七月)、「曾我廼家十郎遺品展」(昭和七年九月)、「十一世片岡仁左衛門・六世尾上梅幸追悼展」(昭和九年十一月)、「市川中車を偲ぶ展覧会」(昭和十一年十月)、「市川左団次を偲ぶ展覧会」(昭和十五年三月)、「中村歌右衛門丈を偲ぶ展覧会」(昭和十五年十月)などが次々開催された。このような追悼展は自然、遺族の方々との交流となり、出品された資料がそのまま寄贈となることが多かった。いま演劇博物館にこの種の資料が多いのはそのためである。

 昭和四年十月、開館一周年を記念して企画された「歌舞伎劇場図大展覧会」は草創期を飾る最も大規模な意義ある展覧会であった。肉筆の歌舞伎屛風二十三点を含む錦絵、図書等三百五十点で、これだけの資料が一堂に展観されたのは、初めてのことで、逍遙も自ら出品依頼書に自署するなど非常な熱の入れようだった。なおこの展覧会は翌年五月大阪朝日会館でも開催し、この時は逍遙も西下し、黒木勘蔵・吉田暎二とともに講演を行っている。

 また昭和七年十月、早稲田大学創立五十周年記念の「雅楽及び能楽に関する特別展」も画期的な展覧会で、宮内庁、諸家からの出品の面、装束、小道具、楽器等七百二十七点と、この種の展示では初めての試みであった。

有ちてありし物をだにさへ演博へ

贈りにしわれぞ物をし賜ぶな

われにたぶその代積みて演博の

後援会を助けたまわれ

やめてたべ手みやげふつにやめてたべ

気が済まぬなら演博へたべ

 この和歌は逍遙が当時の心境を託したものである。自身の所有の図書・資料のすべてを演博へ寄贈した逍遙はその後資料の収集には非常な熱意をもって事に当たった。従って、これに感動して、逍遙先生のお側にといって、演博に資料を寄贈する人々が多かった。

 開館当初から昭和十年前後まで、主なる寄贈品を挙げてみると――( )は寄贈者名――、田中良画「舞台装置図」三百枚(田中良)、岡本一平画「新水や空」(岡本一平)、福地桜痴自筆台本(福地信世)、洒落様会同人劇評漫画絵葉書四百六十枚(洒落様会)、長野県下伊那郡伍和村丸山の人形三十七点(同村)、役者評判記七百冊余(安田善次郎)、長野県下伊那郡山本村竹佐人形百六十四点(同村)、六世尾上梅幸使用「土蜘」「茨木」の衣裳(六世尾上梅幸)、うつし絵機並原画(結城孫三郎)、曾我廼家十郎遺品(大松真佐恵)、伊井蓉峰使用鬘(岡田米蔵)、一筆斎文調筆版画百三十点(前川道平)、小西種忠撮影歌舞伎舞台写真百三十枚(小西種忠)、欧州演劇図録「モヌメンタ・スツエーニカ」(国劇向上会)、芝居羽子板(倉橋よね)、富士田音蔵旧蔵歌舞伎下座付帳六百八十二冊(清水さわ)、文楽人形景清一式(桐竹門造)、台湾の人形劇布袋戯々台と人形(台北早大校友会)、三世鶴沢清六使用三味線(鶴沢重造)、三味線鳴神(陸奥家)、河原崎家伝来品(河原崎長十郎)、回り舞台模型(金井由太郎)、等、いずれも演劇資料として逸品揃い。今日演博の大きな資料だが、これらを寄贈した諸家の好意に接した逍遙の喜びはいかばかりだったか。逍遙の悲願によって建てられた演劇博物館は着々確実なる歩みを始めていた。

 その頃の演博で、今でも語り草になっているのは昭和八年三月のバーナード・ショーの来館である。当時七十五歳のショーは世界漫遊の旅に出て、中国を経て日本に立寄ったのだが、横浜入港後四日目に演博を訪れた。これにはショーの研究家木村毅、市川又彦らの尽力が大きかったのだが、気難しく、皮肉なショーがなぜ演博に足を向けたかというと、当時軍国主義に傾きつつある日本で、芝居だけのミュージアムが建てられたことに興味を覚えたというから、演博関係者にとってはなんとも嬉しい話だった。しかし、何しろこれほど著名な外国演劇人の来館は初めてのこと、演博はてんやわんやの大騒ぎ、急拠ショーに関する特別展示、歓迎会、そのアトラクションに八王子の車人形の実演など、歓迎にこれ努めた。ショーも非常なご機嫌で、陳列中の能面の般若を取り上げて自分の顔にあて、写真をとらせるなどユーモラスな光景もあったという。その後エルマー・ライス、梅蘭芳、ジャン・ルイ・バロー、ポール・グリーン、ボリショイ・バレエ団、モスクワ芸術座など著名な海外演劇人の来館は多くなったが、このショーほど演博を揺がせた人はない。

 昭和十年二月二十八日、逍遙が熱海の双柿舎で没した。七十七歳。全力を傾けた中央公論社の『新修シェークスピヤ全集』の刊行が最後の仕事となった。当然演劇博物館では謹んで哀悼の意を表し、館内では「坪内博士遺品・著書展覧会」を開催、また十一月には歌舞伎座内に逍遙の胸像が建てられたのを機に同劇場内での「坪内博士遺品展」に出品、翌年一月大阪三越で大規模な「坪内博士を偲ぶ展覧会」を開催して、逍遙の全貌を伝えた。

 なお人事面では創立当初館長に予定されていた金子馬治が病中であったため、河竹繁俊を副館長として発足したが、昭和四年四月金子馬治が正式に館長に就任。その後昭和九年十一月金子は退任し、河竹が館長に就任している。

四 戦時下の演博

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1 創立十周年

 昭和十三年十月、演劇博物館は創立十周年を迎えた。その記念に大隈老侯生誕百年祭を併せて「明治演劇特別展覧会」を開催、「大隈老侯と演劇」「坪内逍遙の業績」「早稲田学園関係者の業績」などをテーマに多彩な展示を行った。この頃館の収蔵図書は劇に関する書籍四万六千九百七十五冊、内、和書二万六千三百二十冊、洋書一万五千四百二十五冊、シェイクスピア文献五千二百三十冊、版画、番付、写真十五万一千二百点、物品資料五千三百八十点に達していた。博物館としてその資料の増加が、その館の発展を示す一つの基準とするならば、この十年演博はまずまずの順調な歩みであったと言える。

 しかしこの年の前年昭和十二年には日中事変が勃発、戦火は南京、武漢三鎮の占領にまで拡大していた。国民の眼は当然中国に向き、文化・芸能研究家の間では中国や南方諸国の芸能調査研究が盛んになった。演劇博物館の資料収集や展覧会も、自然この方面が主となった。

 昭和十三年一月、主事印南高一が中国映画界の状況視察と資料収集のため上海方面に派遣され、帰国後の五月には「東洋南洋劇芸術特別展覧会」が開かれた。この時は各所蔵者の出品によるものが主ではあったが、全館を使用した大規模な、我が国初めての試みであった。

 更に六月には印南高一、小寺融吉、宮尾しげをの三名が外務省文化事業部と満鉄の後援を得て、芸能資料の収集と視察とに旅立った。その結果は九月の「北支満蒙演劇資料将来品展覧」となり、また館内の東洋演劇資料室の展示品となっていった。

 また物故した俳優や劇壇人を偲ぶ展覧会や講演会は相変らず続いた。「岡本綺堂を偲ぶ展覧会」(昭十四年三月)、「市川左団次丈(二世)を偲ぶ展覧」(昭十五年三月)、「中村歌右衛門丈(五世)を偲ぶ追憶展覧会」(昭十五年十月)、「故河合武雄氏を偲ぶ新派展」(昭十八年四月)、「清元延寿太夫追悼展」(昭十八年十月)。また「新派五十年の回顧展」(昭十二年二月)、「大東亜芸能文化展覧会」(昭十七年十一月)、「移動演劇展」(昭十八年十一月)などがあった。

 一方篤志家による寄贈品も多かった。その主なるものを挙げてみる。九世市川団十郎・梅蘭芳書画貼交衝立(入沢達吉)、伏木英秀画十五世市村羽左衛門舞台姿十二幅(十五世市村羽左衛門)、佐渡人形隆盛座人形一式(小泉菊太)、アーバン式映写機(鴻池幸武)、小泉八雲宛坪内逍遙英文書簡貼交屛風(小泉一雄)、朝鮮「鳳山タール」仮面(清水完治、藤本寛寧)、五世坂東彦三郎遺品(坂東薪水)、逍遙書入れ森鷗外自筆稿本「マクベス」(上山草人)、片岡仁左衛門資料(十二世片岡仁左衛門)、須田敦夫設計・金井由太郎製作歌舞伎劇場模型三種(金井由太郎)、六世尾上梅幸遺品(寺島富士子、尾上梅朝)、演劇関係図書(安田一)、映画フィルム「世界の心」「野鴨」ほか映画資料(駒田好洋未亡人まさ)、「中村歌右衛門遺品」(中村家)、初世・二世市川左団次鏡台(高橋とみ)、瓦版等刷物貼込み帖(安田一)、五世中村歌右衛門・十五世市村羽左衛門胸像原型(武石弘三郎)、河合武雄台本及遺品(河合栄次郎)、清元延寿太夫遺品(清元栄寿太夫)、川上音二郎台本(川上家)、関屋敏子遺品・衣裳(関屋祐之介)、などがあった。

 こうした資料の寄贈には必ずといっていいほど面白い、また心温まるエピソードがあるものだ。伏木英秀画による十五世市村羽左衛門の舞台姿の軸十二幅もその一つである。十五世羽左衛門は昭和二十年、七十歳で没した近代の歌舞伎の名優。さわやかな口跡と美貌とで天下の二枚目役者として、生涯に一度も老役は演じなかったという人だった。その羽左衛門が昭和十二年五月五日、当時劇評を書いていた本間久雄や安部豊の案内で、ふらりと演博を訪れた。館内を見て回るうち、かつて夫婦役者としてコンビだった六世尾上梅幸の遺品の鏡台や衣裳を見て、「ハハア、こういうものも役に立ちますかねえ。それじゃあ、あっしもよこしてえものがあります」といって画幅の寄贈となったという。伏木英秀画伯当時七十四翁。肖像画の大家で、ほかに梅幸、初世中村鴈治郎、六世尾上菊五郎を描き、俳優の姿を写しては第一人者だった。そして羽左衛門は画幅ができ上ると翌年四月早稲田の大隈会館へきて、伏木英秀や演博関係者の集まったなかで、その場で山岸荷葉に箱書をしてもらい自ら署名落款をした。いかにも江戸ッ子らしい、きびきびした贈呈ぶりだったという。

 また演劇博物館で貴重図書として異彩を放つものに安田文庫がある。役者評判記七百余冊、故六合新三郎旧蔵長唄正本九十二冊、演劇図書四千四百十一点、「元曲選」、江戸時代瓦版、古地図、風俗画五千点という膨大なものである。これらの寄贈は全く安田善次郎と坪内逍遙の交誼によるものであった。安田家の演劇関係コレクションは以前から著名で、逍遙をはじめ伊原青々園などの演劇史家は殆どその好意によって貴重な文献を借覧していた。そして資料を公共に役立てようという逍遙の精神に共鳴し、演劇博物館の設立の発起人となるとともに、昭和四年にまず「役者評判記」等を寄贈した。その後逍遙との間に演劇図書寄贈の約束があったが、実現を見ないうちに昭和十年逍遙が亡くなったので、子息一氏が一周忌の霊前に一部を自ら捧げ、昭和十五年、十六年の二年間に大量の寄贈となったものであった。父子二代に亘っての逍遙また演劇博物館への厚情は決して忘れることができないものがある。

2 疎開と戦災

 昭和十六年十二月に勃発した太平洋戦争は緒戦の戦果とはうらはらに次第に戦局は不利となり、三年目の昭和十九年には東京上空はアメリカ軍の空襲に脅える様相を呈した。関東大震災にあったような大量な貴重資料の焼失という危機が戦災という別の形で迫ってきた。演博としては篤志家の貴い好意で収集したこの資料を是非とも安全に守らねばならない。

 館ではまず十九年十一月、館への寄託品の処置について寄託者の意志を問合せた。結果は当然ながら館へ一任するという返答であった。そこで館蔵品と寄託品のすべて館内から空襲を避け得る疎開の処置がとられた。二十年四月、一つは長野県下伊那郡山本竹佐(現飯田市)の河竹繁俊館長の生家。これは新宿から貨車による輸送、一つは埼玉県大里郡八基村の農業今井清宅の土蔵であった。これは深谷在住の校友山口平八の紹介斡旋によるもので、その土蔵は畑の真中にぽつんと立って、疎開地として最適の場所だった。そこへ茶箱何十箱という資料をトラックに満載して運び込んだ。今日では考えられない当時の運送事情の困難さ、更に自身の生命すら危険だった空襲下にこうした疎開作業を遂行した関係者の苦労は察するにあまりある。

 だが、この疎開でちょっとしたエピソードがある。埼玉県大里村へ疎開のトラックに同乗した印南高一の手記によると、現地の土蔵には既に先客があり、その二階になんと幸田露伴の所蔵の諸文献が並んでいたというのだ。「逍鷗紅露」と称せられた明治文豪のうち二人の遺品が一つ屋根に同居する。不思議な巡り合わせであった。

 疎開を終えてほっとしたところへ早稲田大学はあの五月二十五日の東京大空襲に見舞われた。ここで大学も恩賜館その他を焼失したのだが、演博は宿直の警手山川義孝親子の機敏な処置により救われた。当時山川は妻子三人と館内に寝泊りしていたが、その夜周辺の民家の火災と構内に降り注ぐ焼夷弾に、退避しようとする寸前、もう一度館内を見廻り三階へ上った時、裏手の人家を焼いた火が三階の屋根裏にはい上ってゆくのを目撃した。彼は急いで息子とともに非常用水槽からバケツで水を運び、布に水を含ませては火の粉をはたき伏せた。更に書庫から鉄製の棚板を運んで塔と三階へ通ずる口にあて、延焼を防いだという。その活動により、館は三階の化粧屋根を焼いたのみで、全焼は免れた。

 疎開といい、戦災といい、本当に危機一髪の危い綱渡りであった。が、ともかくも貴重な資料はすべて無事であった。慶賀に堪えない次第であった。

五 演劇の復興とともに

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1 演劇博物館の新たな歩み

 昭和二十年八月敗戦、それに続く混迷と虚脱のなかで逸早く復興の萌しを見せたのは、演劇であった。九月には東京劇場で市川猿之助が「黒塚」と「弥次喜多」を上演しているし、六代目菊五郎も十月の帝国劇場で久保田万太郎の「銀座復興」で演劇復興の火蓋を切った。同時に新劇団も十二月には合同公演で「桜の園」を有楽座で上演した。

 演劇博物館では早くも九月には疎開資料を引き取った。そして翌年五月には逍遙祭記念講演会と脚本朗読の会を行い、十一月には初期歌舞伎屛風披露展と講演会、二十二年三月には大隈講堂で「豊竹山城少掾受領記念演奏会」を開催。そして十一月九日には開館以来初めての試みとして演博正面玄関のシェイクスピア舞台を使用して、前進座による「ヹニスの商人」が演ぜられた。この頃前進座は全国巡回公演を主なる仕事としていたが、十月から逍遙訳の「ヹニスの商人」をもって全国巡演に出るのを機にこの野外公演が実現したものだった。もともとこの演博の建物は逍遥の発案によりシェイクスピアを上演できるよう作られたものだ。事実、昭和六年四月には加藤長治の主宰する地球座がシェイクスピア劇を上演する企画があった。逍遙も大いに喜んで幾度か稽古に立ち会ったりしたのだが、突如警察から差止めをくってしまった。客席に便所の設備がないからと言うのがその理由だった。そのため遂に逍遙の在世中に実現しなかったのだが、その夢が今日実る。これも戦後という、社会の大きな変貌の結果だった。

 そのほかこの年の二月には、熱海での逍遙祭の記念文化祭を開催、演博のスタッフが中心となり、加藤精一、上山草人らによる逍遙作「熱海町のページェント」が行われている。終戦によって明るさと自由を得た劇界に呼応した新しい演博の活動であった。

 それとこの時期、大きな出来事は早稲田大学文学部に、河竹繁俊を主任として芸術科(のち演劇科)が開設され、演劇博物館がよきその温床、拠点となったことである。芸術科の構想は遠く文芸協会の演劇研究所にもみられ、また大正四年文学部内に設置された逍遙を中心とする文化事業研究会にもその方向がみられた。いわば芸術科は逍遙の一つの夢の実現であった。主任教授が演劇博物館の館長であれば両者には当然密接な提携が生れる。戦災によって教室の不足をかこっていた時代とて、演博の閲覧室は芸術科の教室に充てられた。そのためこれまで館内はスリッパだったのが、土足自由と改められた。廊下は学生の溜り場になり、女子学生を交えての賑やかな笑い声が絶えなかった。戦前の静かな佇まいとはがらっと変った雰囲気となった。収蔵図書なども学生によって十分活用されるようになり、また学生も演博の催しには積極的に参加した。そして入学早々の昭和二十一年五月の逍遙祭には、大隈講堂で芸術科学生の「桐一葉」「ヹニスの商人」の朗読が行われている。のち昭和二十五年、芸術科出身者で実演活動を目指す人々が演博の主事加藤長治を指導者として「近代劇場」という劇団を結成し、シェイクスピア劇一筋に公演活動を続けたが、この劇団などは演博と密接な関係を保ち、館の創立記念劇や大学の記念劇にも積極的に協力している。これらも芸術科と演博との提携の成果の一つであった。

 昭和二十三年十月二十七日、演劇博物館の創立二十周年記念式典が盛大に挙行された。十周年の際は日中戦争勃発直後だったため、華々しい式典は自粛したのだったが、今回は違う、予算も少なく物資もまだ欠乏してはいたが、それを補って余りある自由と明るさに輝いていた。勿論、式場は演博前庭の舞台が充てられ、河竹繁俊館長の挨拶に続いて島田孝一早大総長、久保田万太郎、大谷竹次郎、山本久三郎、市川猿之助、水谷八重子の祝辞が述べられ、式後館内で関係物故者の慰霊祭と祝賀晩餐会が開かれた。その他記念行事として文化講座、現代演劇綜合展、シェイクスピア講座等があり、また十月十四日には記念演劇として前進座による「ヹニスの商人」の上演があった。今回は法廷の場だけだったが、河原崎長十郎のシャイロック、河原崎しづ江のポーシャ、橘小三郎のアントーニオー、瀬川菊之丞のバッサーニオーという配役。前年に引続いての手馴れ切った上演だった。

 以後、演劇博物館は五年目ごとに創立記念式典と記念演劇を上演することになる。二十五周年記念では、式典に英国大使、秋田雨雀、大谷竹次郎、久保田万太郎、高橋誠一郎、日高只一正宗白鳥、水谷八重子諸氏の祝辞があり、記念演劇として前庭の舞台を利用して近代劇場が「じゃじゃ馬馴らし」を上演した。また三十周年の際には式典に続いて、やはり近代劇場が「冬の夜ばなし」を上演した。

2 展覧会と収蔵品

 また展示活動は戦後は当然盛んになったが、ここで目立った現象は、デパートにおける展覧会への大量出品である。勿論戦前とても、出品協力はあったのだが、デパート自体が大規模な展覧会を企画し、展示計画の段階から演博と共同作業を行うのは新しい傾向であった。館としても展示室の狭小を託ち始めた折とて、積極的に協力した。「六代目菊五郎追憶展」(昭二十四年十月、日本橋三越)、「坪内逍遙文化切手発行記念・坪内逍遙回顧展(昭二十五年五月、日本橋三越)、「九世市川団十郎文化切手発行記念・九代目団十郎展」(昭二十五年九月、日本橋三越)、「シェイクスピア展」(昭二十七年五月、銀座三越)、「沢村宗十郎襲名披露特別展」(昭二十八年九月)、「歌舞伎展」(昭二十八年十一月、仙台三越)、「演博創立二十五周年記念・日本演劇史展」(昭二十九年一月、大阪三越、銀座松屋)、「六世菊五郎、六世坂東彦三郎追憶展」(昭三十年四月、銀座松坂屋)、そのほか小規模な展覧会や地方デパートでの開催、芸能資料の出品提供は枚挙に暇がない。たしかに戦後十数年はデパート展は演劇ブームであった。

 そしてこれらの展覧会の特徴は、歌舞伎故名優の追悼をテーマとしたものが多かった。博物館としては、こうした時期から、ご遺族から遺品の数々の寄贈、寄託を受けている。初世中村吉右衛門、七世沢村宗十郎、喜多村緑郎、富崎春昇等の遺品の寄贈、六世尾上菊五郎遺品の寄託などがその大なるものである。

 そのほか寄贈品の主なものは、九世市川団十郎筆俳句歌留多(金子孚水)、故松田青風筆「鬘スケッチブック」(松田真子)、若松武蔵大掾遺愛三味線(松崎武治)、太田雅光画「冥府苞苴劇容彩」(太田雅光)、古靱太夫櫓看板・山城少掾櫓看板、見台および井上馨宛三遊亭円朝ほか書簡(井上三郎)、市村座場内図屛風(和達清夫)、四世鶴沢清六三味線(佐藤静)、伝清長筆「潤色八百屋お七」絵看板(金子孚水)、松王丸・梅王丸・桜丸の鬘(竹前甚弥)、山車人形「関羽」(谷中和光会)、天狗久作人形首「若狭助」(横山春陽)、模型小形能狂言面(渋沢秀雄)、九世市川団十郎勧進帳ほか貼交屛風(伊原栄)、并上正夫鬘三種(田島宇太郎)、上山草人の「バグダットの盗賊」油絵(三田英五郎)、引幕図案(広瀬寿々)、京劇衣裳および楽器(訪日京劇代表団)、太棹三味線および見台(小野誠一)、鶯亭金升日記(鶯亭金升遺族)、藤間政弥使用「山姥」衣裳(吾妻徳穂)、阿波人形「時姫」(武原はん)、絵本筋書・図書・番付(武智鉄二)、四世竹本大隅大夫見台(永田三郎)、田中良画「歌舞伎定式舞台図集原画」(田中良)、水谷八重子使用鏡台(水谷八重子)、長谷川栄作作「双柿舎における逍遙」および逍遙他筆「双柿舎四季書画貼交屛風」(梅沢慎六)、二世中村鴈治郎画幅等十幅(玉木長之輔)等があった。

 こうした収蔵品の増加、館内外における活動の増大、それに伴う学芸員の増員等により、これまで館一階両翼の部屋を事務室と整理研究室に利用できたのが手狭になった。それと地下の収蔵庫が全くのパンク寸前となった。もともとこの収蔵庫は半地下構造で天井も低く湿気が多く、通風も悪く、博物館の倉庫として不適格であった。館としては悩みの種だったが、やっと昭和二十六年その拡張が実現した。館に向かって右側にあった旧高等工学校の校舎の二階が事務所と収蔵庫に与えられた。この建物も非常に老朽化はしていたが、それでも執務の不便さからは救われ、収蔵庫も湿気と狭隘さからは解放された。ここで十七年ほどこの建物で過すことになる。

3 海外演劇人との交流

 かつてバーナード・ショーの来館で、滑稽なほどの緊張と歓喜を感じた演劇博物館だったが、戦後は急速に外国人の来館が多くなって演博の国際化、国際演劇サロンなどという言葉を見かけるようになったのもこの頃である。アメリカ劇作家ポール・グリーン(昭二十六年)、フランス舞踊家セルジュ・リファール(昭二十七年)、アメリヵのロックフェラー財団のロックフェラー三世(昭二十七年)、フランス文豪ジョルジュ・デュアメル(昭二十七年)、中国京劇団の梅蘭芳と欧陽予倩(昭三十一年)、ボリショイ・バレエ団(昭三十二年)、世界銀行総裁ユージーン・ブラック(昭三十二年)、モスクワ芸術座(昭三十二年)等々、来日する海外演劇人は殆どが演劇博物館を訪れた。そして早稲田大学を訪ねる海外の大学の関係者も早稲田の名物として必ず参観、視祭の中に含まれていた。

 そのなかで昭和二十六年十月、米劇作家ポール・グリーンの来日は、まだまだ物資も人員も不足の時代で、海外演劇交流の戦後における最初の人だっただけに演劇博物館として鮮明に記憶に残る事柄だった。ポール・グリーン夫妻は早稲田大学と演劇博物館との招聘によりロックフェラー財団の財政的援助によって実現したもので、その滞在中、公開講演会、日本演劇人達との座談会、早大大学院での講演、早大芸術科学生による歓迎劇「白い晴着」の見学と公開講演会などを行った。この劇はグリーンの代表作の一つで、白人社会の抑圧の中の黒人の哀愁を描いたもので、倉橋健が翻訳し、演劇博物館主事の加藤長治が演出した。グリーンも稽古にも立ち会い、出演者にも指導と励ましの言葉を送り、大隈講堂での上演の際も一緒に記念撮影するなど終始満足の様子であった。

六 新しき活動

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1 海外展と出版

 昭和三十五年三月、館長河竹繁俊は定年により退職し、代って文学部教授飯島小平が館長に就任した。新館長は英米演劇、シェイクスピアの専攻であった。当然資料の収集にも外国演劇資料の充実にウェイトをかけ、演博の国際交流に積極性を示した。

 折も折、突如昭和四十四年六月から六ヵ月間、演劇博物館として初めての海外演劇展「日本、生きている千年の演劇」展が実現した。会場はスイス・ヌーシャテル市の人類学博物館であった。ヌーシャテル市はヌーシャテル湖畔にある人口三万五千という小さな学芸都市である。ここの人類学博物館長ガビユは本来民俗学者で、その博物館では常に外国に関する特別展を開催していたが、昭和四十三年九月世界人類学会が日本で開催されたのを機会に日本に関する展覧会を求めて来日した。その滞在中、スイス出身の日本演劇の研究家で上智大学教授インモースの話から日本の古典演劇に民俗学的興味を覚え、日本演劇史展を思い立った。そしてインモースが演劇博物館の学芸員菊池明を知っていたところから、インモースを紹介者として直ちに博物館を訪れ展覧会への出品を要請し、同時にスイス大使館を通じて外務省文化事業部、国際文化振興会(現在国際交流基金)に働きかけその具体化を計った。演博側でもこれに応じ、早速展示構成、資料の解説、カタログの編集に取り掛った。この時の基本的構想は、一、日本演劇を発生順のジャンル別に展示、二、各ジャンルを「芸能」と「歴史的展開」の二つに分け、「芸能」ではその構成要素である面・衣裳・小道具・舞台装置・劇場模型・台本・写真などを中心とし、「歴史的展開」には絵画・写真を主として解説を付す、三、錦絵は歌舞伎のセクションの第二部として独立させ、美術展示と同時に当時の歌舞伎の様相を描出する、四、現代演劇はすべて写真構成として日本の演劇の現状を伝える等であった。そして外国人の特別の興味に迎合することなく、学問的に正しい、日本演劇としてバランスのとれた展示を基本方針とした。出品物は総数五百十五点、無論、殆ど演博の所蔵品だが、なかには東京国立博物館からの埴輪「鼓を打つ男」や日光輪王寺、中宮寺の古面など貴重資料も含まれていた。そしてその展示には菊池明とインモースが当った。

 開会式は六月十四日、大使や各国外交官をはじめ、この国の文化関係者、日本大使や各国外交官、また地元の有力者など九百名を越える人々が参集して挙行。この日は晴天に恵まれ、美しい庭園を利用しての野外パーティも華やかで、観覧者からも盛んに賞讃の声が浴せられ、展覧会の当事者を喜ばせた。展覧会は十二月三十一日終了したが、好評によって、翌四十五年一月三十日から三月二十八日まで、ベルギーのブリュッセル市のパラ・デ・ボザールで開催、更に十月三十一日から翌年一月三十一日まで、パリのミューゼ・ド・ロームでも行われた。この展示には菊池明・林京平が当り渡欧した。

 この足かけ三年に及ぶ海外演劇展は国の内外で大きな反響を呼んだ。日本演劇の正しい姿を海外に紹介するとともに演劇博物館の存在とこれを持つ早稲田大学の名を大いに高からしめた。その結果、以後演劇博物館と国際交流基金による海外演劇展が相次いだ。

 昭和四十七年九月にはイタリヤのベネチアで演劇ビエンナーレが開催され、日本演劇の特集が組まれ、日本から能・狂言・歌舞伎・新劇が参加したが、同時に「日本演劇史」展が企画された。この展示は九月二十日から十月十日までベネチアのフェニーチェ劇場で開催、以後そのままの編成で、十月二十六日から十一月十六日までローマの日本文化会館で、翌年四十八年一月二十六日から二月十六日までドイツのケルン市の日本文化会館で、それぞれ開催した。

 また昭和五十一年一月十九日から四十日間の会期で、オーストラリア・シドニー市のオペラ・ハウスでの「歌舞伎展」が実現した。これはシドニー市のシンボルと言うべきオペラ・ハウス内のエキジビジョン・ホールのこけら落しとしての特別展として開催されたものであった。そのきっかけは在シドニーの日本総領事の吉田長雄氏が、かつてスイスの大使館の参事官の時、スイスのヌーシャテルの「日本演劇史展」を見、その成功を覚えていて当局に提案したものであった。演博としてなんとも嬉しい話であった。この展覧会は歌舞伎をまだ見たことのないオーストラリア人に対してその面白さや美しさを理解させようとするもの。そのため展示には錦絵やカラー写真を最大限に利用して、平易で親切な構成を採ったのが特色であった。この展覧会は終了後引続いて、メルボルン市のマイヤー百貨店のミューラル・ホールでも開催した。

 更に昭和五十三年には四度目の海外展が開かれた。今度はオーストリアのウィーンで、十一月二十八日から一月三十一日まで、会場はウィーン演劇博物館であった。この企画は、これまでたびたび来日し、演劇博物館も熟知しているウィーン大学のハインツ・キンダーマン教授の働きかけによるもので、その実現には早稲田大学教授で河竹繁俊の令息登志夫氏の大きな努力があった。同氏は会期中ウィーン大学の客員教授としてウィーンにあり、展示その他に協力を惜しまなかった。

2 出版活動

 博物館として資料の収集、展示とともに大きな仕事は、その資料と機能を十二分に活用した研究活動であり、出版事業である。昭和三年開館以来、博物館の館報として『演劇博物館』(演劇博物館後援会発行、昭四年一月―昭五年九月)、『季刊演劇博物館』(昭十一年七月―昭十六年十二月)、『復刊演劇博物館』(昭二十五年・十二月―現在続刊中)があり、そのつど新収品紹介、展覧会催物の案内や報告、目録、時報を記載していた。また雑誌『芸術殿』(国劇向上会刊、昭六年五月―昭十一年三月)も、逍遙を中心とした高度な芸能雑誌であり演劇博物館の機関誌の性格をもっていた。

 単行本では昭和七年五月、演劇博物館編として梓書房から刊行した『国劇要覧』が最初だった。日本演劇の歴史的、種別的概説書で、日本の演劇の源流である民俗芸能や神楽・舞楽・田楽・能・能狂言・人形劇・歌舞伎・新演劇・巷間演芸・東洋芸能・映画までを含んでおり、一種の演劇百科辞典的な性格をもっていた。いかにも演劇博物館らしい仕事であったが、これを更に一歩進め、新しい学問的な観点から『芸能辞典』(昭和二十八年三月、東京堂刊)が編纂された。この書は日本芸能を対象に約二千二百項目に亘って収録したもので、やはり原始芸能から現代劇までを用語・種類・人名・作品・文献など広範囲に亘り、更に付録として伝統芸能の流派や系譜、曲目一覧などを付して、B6判、七九四頁のハンディな書であった。

 これらの二書を一種の足馴らしとして、昭和三十三年から数年間博物館が総力を挙げて編纂したのが『演劇百科大事典』全六巻(昭三十五年―三十七年、平凡社刊)である。この『演劇百科』の企画は元来坪内逍遙の遺志に基づいたもので、最初このことが発表されたのは昭和十四年十二月、原田積善会の出版助成金を得て、「皇紀二千六百年」(昭和十五年)の記念事業としてであった。河竹繁俊館長を中心に楠山正雄、池田大伍、坪内士行、本間久雄を顧問とし、全三巻、各巻挿絵入り千頁の予定。早速編集室が演博内に開設され、小寺融吉を主任として項目カードの作成に着手、昭和十九年には約一万三千項目の選定が完了した。そして原稿もぼつぼつ集まり始めたが、不幸にして太平洋戦争が次第に激化、編集も渋滞、そして小寺も昭和二十年三月病没して中絶せざるを得なくなった。

 その後昭和二十二年に編集の再興が試みられたが、経済的事情から出版のめどが立たずまたもや頓挫してしまった。そして三度、演劇博物館が創立三十周年を迎えた昭和三十三年から、河竹館長の異常な熱意のもと、山本二郎を主任に林京平を副主任に編集事務が再開した。当時はまだ平凡社という出版社も決まっていなかったが、寧ろ先に原稿を作成し、進行させた方が自主性が保たれると判断したからであった。

 昭和三十五年三月、待望の第一巻が遂に完成したが、この時河竹館長は定年を迎え演博を退いたが、事典の監修者として編集室に常に姿を現わし、一巻三千枚の原稿をすべて眼を通すなど精力的な活躍をみせた。その後作業は順調に進行し、三十七年五月に第六巻が刊行して完結した。

 この事典は日本演劇を中心に、西洋演劇・東洋演劇・映画・ラジオ・テレビ・大衆芸能など、古今東西の芸能のすべてを包含して千四百項目を収録したもので、B5判四段組全六巻、通算三千五百頁に及ぶ。これに豊富な挿図を加え、更に第六巻には世界演劇年表、古典芸能系譜、県別民俗芸能など参考資料を付してある。日本では最初の、世界でも有数の綜合的演劇事典の一つであり、その評価はこの完成を機に演劇博物館が昭和三十六年度の芸術選奨を与えられたことによっても位置づけられる。

 この昭和三十年代後半から四十年代にかけて、演劇博物館からはこの『百科事典』に次いで各種の刊行物が相次いだ。演博史に特記すべき時期である。その一つに昭和四十一年から刊行され、現在継続中の『演劇年報』がある。一種の年鑑だが、そうした資料以外、その年間の是非とも後世に残しておきたい演劇事象を重点的に選択して記録することを主眼におくものであった。

 こうした演劇の動向、時事、上演目録等を記載した刊行物は、かつて演博編として『演劇年鑑一九四七年版』(昭二十二年、北光書房)、『演劇年鑑一九四八・四九年版』(昭二十三年北光書房)が刊行され、また以後日本演劇学会の学会誌の付録として昭和二十六年まで、劇界時事と主要興行年表を掲載したが、惜しくも中絶していた。『演劇年報』はこれを継承し、演博として恒久的な刊行物としたいとする飯島館長の強い決意のもとに発刊されたものである。現在も刊行中である。

 そのほか演劇博物館の紀要『演劇研究』も昭和四十年創刊、また『演劇博物館所蔵シェイクスピア図書目録』(昭四十一年二月刊)、『演劇博物館所蔵浄瑠璃本目録』(昭四十三年九月刊)も刊行した。

 昭和四十五年十一月には飯島小平館長が定年退任し、新たに倉橋健文学部教授が四代目館長として就任したが、この研究的刊行物への意欲は更に強く、前記刊行物の充実を計るとともに、新たなる刊行物にも積極的であった。従って博物館では以後『演劇博物館図録・第一集』(昭四十八年)、『同二集』(昭五十三年)、また演劇資料選書『花鏡・謡秘伝鈔』(昭五十年)などを発行している。

 以上三十五年からの十数年は、海外展といい、出版活動といい、演博として新しい動きが目立った。しかし、この間にも資料の収集や展覧会は着実に、いや以前にも増して活発化していた。そこでその主なるものを幾つか書き留めておきたい。

 寄贈品として永井荷風自筆稿本「停電の夜の出来事」(仲沢清太郎)、永田錦心使用琵琶二面及錦心画「野武士」「仏敵」(永田雅子)、近松門左衛門筆「妹背海苔の消息」(谷崎潤一郎)、七世松本幸四郎使用「勧進帳」の弁慶の衣裳(八世松本幸四郎)、初世杵屋三太郎使用六折れ三味線(中村けふ子)、喜多村緑郎使用鏡台等四十点(喜多村九寿子)、三世中村時蔵使用鏡台(小川ひな)、鍋并克之画「二世実川延若の楼門五三桐の五右衛門」(鍋井克之)、坪内逍遙筆「良寛弄球並讃」他(五十嵐幾見)、中村吉右衛門画「山村図」他(杉本あさ)、井上演劇道場看板(蜂野豊夫)、岡本綺堂日記(岡本経一)、能装束(藤井てつ)、小山内薫旧蔵玩具等(小山内登女)、三世竹本相生大夫使用見台(相生大夫)、花柳章太郎使用鏡台(青山勝子)、西村愿定画水谷八重子の「お蝶夫人」(水谷八重子)、竹本素女使用三味線(正并佳子)、七世市川団蔵遺愛煙管他(八世市川団蔵)、一竜斎貞山使用怪談噺用釈台及小道具一式(一竜斎貞山)、幽霊芝居絵百五十点(金子孚水)、桂文楽像(桂文楽)、豊竹団司使用見台(豊竹団司)、三世中村雀右衛門使用鏡台(四世中村雀右衛門)、吉田難波掾使用舞台用小袖及裃(河村とめ)、二世桐竹紋十郎使用文楽人形阿古屋の衣裳(藤間紋寿郎)、二世中村梅玉使用鏡台(笹木笑子)、グローブ座模型(大塚高信)。

 展覧会としては「演劇博物館創立三十五周年記念展」(昭三十八年十月)、「花柳章太郎展」(昭四十年十月)、「幽霊芝居絵展」(昭四十三年七月)等の企画展があったが、同時にこの時期も各地のデパートでの演劇展への大量出品が多かった。

 またこの時期に、博物館としての記録すべき事柄を二、三書き留めておく。その一つは昭和四十二年十一月、博物館の事務室、博物収蔵庫、研究室が八号館(現在の四号館)から九号館の一、二階に移転したことである。勿論、これまでの収蔵庫が資料の増加に伴い収納能力が限度に達したためで、新収蔵庫は一、二階に設置、また防火壁なども完備された。これで二度に亘って収蔵庫の拡張を行ったわけで、開館当初逍遙が、今は空然たる倉庫にすぎないが、将来その内容が充実し得たならば必ずこの博物館が新文化の揺籃となり世界的文化のため、大きな貢献をしたと認識することであろうと語ったが、この移転拡充はまさに逍遙の夢の一つの実現であった。

 この移転作業中の十一月十五日、前館長河竹繁俊が亡くなった。享年七十八歳。博物館の創設に全力を傾倒し、以後館長として発展に努力すること三十余年。生涯を博物館とともに過した大きな功労者であった。

 この博物館の拡張は昭和四十五年も行われ、一月、九号館三、四階に書庫、特別書庫、洋書、特別閲覧室が増設され、また四月には演劇博物館専用のレクチュアルームが新設された。そしてこの施設を利用して、この年から館員を中心とする演劇講座や芸能鑑賞会が開かれ現在続行中である。

 また忌わしい出来事もあった。それは昭和四十年から次第にエスカレートしてきた学園紛争で、四十四年にはその頂点に達し、学生による大学施設の占拠が行われた。博物館は幸い学生の侵入は免かれたが、万全を期して資料の大部分を三菱倉庫や熱海双柿舎に疎開した。当然博物館としては休館が相次ぎ、一時は太平洋戦争中のように活動を休止せざるを得なかった。

3 創立五十周年を越えて

 昭和五十三年十月、演劇博物館は創立五十周年を迎えた。これまでもその節目節目の年には創立行事をたびたび行い、博物館の成長を喜びあい、将来の発展を祈念したものだったが、五十年となると感慨は一しおだった。しかも昭和四十三年の創立四十周年は学園の状況から記念行事を見送り、四十五周年は特別展と講演会によってそれに代えた経過から見て、五十年は花も実も具わったスケジュールを考えざるを得ない。

 その一つに博物館の建物の補修があった。たしかに五十年という歳月は建物自体にとっても大きな曲り角であった。あちらこちらに傷みが目立ち、館内の床板のきしみ、外壁のハーフティムバーの化粧板がところどころ剝落した。そこで大学も思い切った予算処置を採り、五十年、五十二年のふた夏をかけて徹底的な改修工事を行った。コンクリートは塗り直され、化粧板、床板はすべて張り替られた。今後数十年は保とうという入念な工事であった。

 次いで『演劇博物館五十年――昭和の演劇とともに』と『収蔵品図録第二集』の刊行があった。「演劇博物館史」はこの五十年がちょうど昭和の演劇の歩みと一致し、その苦しみも喜びもともにした点に注目し、昭和演劇史の役目ももたせた編集だった。まず一面見開き十二枚の写真構成とし、芸能事象の写真七百六十九枚を使用して、眼でみる演劇史としたこと。記事としては、演博史や寄贈者名簿以外、コレクションの項で収蔵品の解説紹介を行い、年表では博物館の活動の記録とともに演劇年表を併せたものであった。『図録』は先の四十八年に刊行した「第一集」に次いでの刊行だったが、カラー写真も豊富に内容も体裁も、はるかに充実していた。

 そのほか記念行事として五月三日、国立大劇場で「逍遙選集刊行記念」と併せて「現代」邦楽研究会が逍遙作詞の曲を演奏。九月二十九日は記念講演と鑑賞の会を大隈講堂で開催、木村毅の講演「早稲田の博物館と坪内逍遙とバーナード・ショウ」、加藤道子による脚本朗読「桐一葉」「現代」邦楽研究会による逍遙作品の演奏等が行われた。

 また展示関係では、館内の展覧会として、「館蔵名品展」(十月一日―十二月二十八日)、「芸能人筆蹟展」(十月一日―十二月二十八日)、「五十周年記念絵画展」(十月二十八日―十二月二十八日)等。うち芸能人の筆蹟はこの五十周年のために特に揮毫を乞うた色紙。また記念絵画も現在画壇の第一線で活躍中の谷本重義、浅生田光司、藤林叡三、小寺明子、高野春人、深見実郎、岡田菊恵、清野恒、山本貞、藪野正雄、松井豊、小畑勉の方々から五十周年を祝って提供された絵画の展示であった。館外の展覧会として、「一筆斎文調展」(十月十四日―十一月十二日、於リッカー美術館)で、文調の作品百三十六点のすべてを二回に分けて公開。また「芝居と役者展」(十月二十四日―二十九日於銀座三越)では、これまで各方面から寄贈された名優の遺品を中心に、華やかで興味深い展示を行った。そのほか芸能界や出版界からも大きな祝意が寄せられ、国立劇場では十二月の歌舞伎公演に演博創立五十周年記念と銘うって、坪内逍遙作「桐一葉」(中村歌右衛門、市村羽左衛門、実川延若、中村芝翫等出演)の上演があり、大学構内の小野記念講堂での演劇講座でも、尾崎宏次、飯沢匡、木下順二、安部公房、東野英治郎、本田光洋、河原崎国太郎、森繁久弥らが順次演壇に立ち、音楽教養講座ミュージカルとして、淀かおる、友竹正則、島田祐子らが大隈講堂の舞台に立った。

 こうした多彩な記念行事のさなか、創立五十周年の記念式典は十月二十八日一時より、演劇博物館の前庭舞台で挙行された。加藤道子の司会のもと館長倉橋健の式辞、早稲田大学総長村井資長の挨拶に次いで、英国大使サー・マイケル・ウイルド、文化庁長官犬丸直、日本俳優協会会長中村歌右衛門、逍遙協会理事長本間久雄、坪内士行の祝辞があり、このあと博物館のシェイクスピア舞台を利用して記念演劇が上演された。「ヴェニスの商人―法廷の場」(劇団四季・日下武史ほか)、「ロミオとジュリエット――バルコニーシーン」(樫山文枝ほか)、「ハムレット」その他からソリロキー(滝沢修)が演ぜられた。そしてすべての終了後博物館の展示室を会場に記念パーティが行われた。

 目まぐるしいような多彩な行事をもって演劇博物館はこうして五十年の節目を越えた。そしてまた翌年からは本来の着実な歩みに戻った。博物館の仕事は資料の収集、整理、保管、展示、調査、研究、催物、出版など多様を極める。しかも演劇の博物館として現在この早稲田の博物館が唯一の存在ともなれば、その責任も重い。更に大きな発展と充実が望まれる。だが、それは一つ一つ積み重ねてゆくものだ。まことに地味な作業である。その後の博物館の活動の一端は次の如くである。

 五十四年度に展覧会では「新収品展」(四月二日―七月三十一日)、「沢田正二郎と新国劇展」(八月一日―十一月)、「三味線名品展」(十一月二十日―一月三十一日)、五十五年に「新収品展」(四月一日―七月三十一日)、「南九州の仮面展」(十月六日―十一月二十九日)、五十六年に「芸と人、井上正夫」(六月十五日―七月三十一日)、五十七年は「早稲田大学創立百周年記念、演劇資料展」(五月一日―七月二十日)、「秋田雨雀展」、「三好十郎展」(六月十四日―七月三十一日)、「越路吹雪を偲ぶ」展(十一月十五日―十二月二十四日)など、収集品もこの数年間の主なるものとして、サーカス小屋模型、大相撲興行場模型(小石一郎)、文楽三和会資料(中西敬二郎)、花柳章太郎使用衣裳ほか(青山勝子・久仁子)、花柳章太郎使用衣裳(山田五十鈴)、久松喜世子使用鬘、胸像(岩本桃代)、古三味線「郭公」(三世吉住小三蔵)、羽子板「大谷鬼次の奴江戸兵衛」ほか(高瀬弘巳・直巳)、須田晃山作壁掛(須賀長市)、シェイクスピア舞台装置図(遠山静雄)、文楽絵画「変身」(角尾蕗子)、吉住慈恭手製見台、稽古本(五世吉住小三郎)、花柳章太郎、井上正夫書簡ほか(高橋歳雄)、竹本相玉使用義太夫見台(古田重郎)、効果用具(中村兵蔵)、岡本綺堂自筆原稿(中嶋末治)、越路吹雪衣裳、鏡台その他(内藤法美)、三好十郎資料(三好マリ・きく江)、等々がある〔( )内は寄贈者名〕。

 昭和五十七年度における博物館所蔵品は図書十一万三千七百五十八冊、博物館資料四万一千百六十三点、芝居錦絵二万四千七百三十九点、写真二十一万五千五百二十八枚に達している。 (菊池 明)