鋳物研究所は昭和十三年十月二十一日に開設された。私立大学にこのような理工系の研究所が設置されたのは、我が国では初めてのことであり、早稲田大学の歴史を飾る意義深い日として、この日を銘記しておきたい。
この鋳物研究所がどのような経緯で設立されたのかを振返って見よう。これより先、日本郵船㈱、東邦電力㈱、富士紡績㈱など有力企業の経営に参画して功績のあった実業界の重鎮、各務幸一郎は、昭和十二年喜寿を迎えるに当って、記念の寄附を然るべき公共機関に申し入れたい意向を持っていた。その寄贈先を早稲田大学にと提言したのが幸一郎の養嗣子良幸である。各務良幸はその頃鉱山事業に手を染め、早稲田の採鉱冶金学科の諸教授と接触しており、早稲田大学に親近感を持っていたからである。
この寄附の使途については、初めは具体案はなかったが、やがて鋳物研究所の設置へと話は進展した。その推進役となったのは、当大学電気工学科出身で㈱小松製作所の監査役であった真野官一である。各務良幸は当時小松製作所の役員にも就任しており、真野と親交があった。父幸一郎も小松製作所の前身竹内鉱業の創立に関与した一人であり、各務父子と小松製作所とは緊密な間柄にあった。
小松製作所は当時、戦車、トラクター、プレス、穿岩機などを製造する有力企業であった。これら製品の主要部品には鋳鋼品が多く使われたので、小松の鋳鋼の技術水準はかなり高かった。しかし、この頃の我が国の鋳鋼技術は外国に比べて未熟の状態にあり、どこの工場でも完璧な鋳物を作るのに苦心惨憺していた。真野はこのような実状を目の当りにして、鋳物に関する研究体制を作る必要性を痛感していた。そこへ各務の寄附の話を聞いたのである。真野は、母校早稲田に鋳物研究所を設けるのが最適であるとして、理工学部長山本忠興にこの念願を披瀝した。
山本と真野はキリスト教信者として昵懇の間柄であった。山本は真野の進言を受け入れた。山本はかねてより理工学部に綜合的な研究所を作りたいという希望を持っており、この研究所がその呼び水的役割を果すであろうという期待を持ったようである。ともあれ山本の賛意が大きな推進力となって、大学当局は鋳物研究所を設立するという名目を掲げて各務の厚志を受け入れることになった。厚志の寄附額は三十万円であった。
この方針が決まると、直ちに研究所長の選考が行われたが、ここに石川登喜治という適任者がいた。石川を推薦したのは牟田易太郎である。牟田は東京五反田にあった牟田鋳工所の経営者であり、同じくキリスト教徒として山本、真野と親交を結んでいた。石川は海軍の技術将校として鋳造部門の要職を歴任し、数々の業績を挙げた鋳造界の第一人者であった。昭和五年に造機中将に栄進後、現役を退いていたが、当時は日本鋳物協会の会長として、学界業界の信望を一身に集めていた。また、住友金属工業㈱の顧問に迎えられていたが、比較的閑職にあった。牟田は鋳物協会の監事として、その運営に参画していた。このような繫がりがあって、石川を早稲田に迎えることは円滑に運んだ。
昭和十二年一月、石川は教授として早稲田に招聘された。石川は直ちに営繕課の協力を得て、研究所の設計に取り組んだ。場所は、荒井山と称せられていた戸塚一丁目所在の、面積四千三百平方メートルの校有地に定められ、昭和十二年十月に起工、翌十三年七月に竣工した。続いて諸研究設備が搬入され、所内の整備が一応完成したところで、前記の十月二十一日、早大創立記念日をトして開所式を取り行うに至ったのである。
開所式の式次第は次の通りであった。
一、工事報告 営繕課長 桐山均一
一、式辞 総長 田中穂積
一、挨拶 理工学部長山本忠興
一、研究設備報告 所長 石川登喜治
一、来賓祝辞 日本工学会理事長 俵国一
一、寄付者挨拶 各務幸一郎
田中総長はその式辞の中で、「早稲田大学はこれより三十年前、私学の乏しい財源を以て背水の陣を張って理工学部を創立し、成功した。しかし工業の進歩は日進月歩で止まるところを知らず、この趨勢に後れをとらないためには研究所を付設することが必要であると考えて、再び背水の陣を覚悟して、斯界の権威石川博士を招いて研究所の設立をお願いした。幸い各務幸一郎翁の御援助が得られ、その実現をみたことは喜びにたえない」と述べているが、大学当局が苦しい財政状態の中にあって、研究所新設という積極策をとった英断は、高く評価することができる。建物と当面の設備は寄附金で賄えたとしても、運営費は大学の負担となる。それを覚悟の上で、見切り発車のような形で鋳物研究所は発足したのである。
鋳物研究所の開設は、当時の国情に照らして時宜を得たものであった。国際情勢が緊迫し、軍需工業の拡張が急ピッチで進められていた時代であり、金属工業も繁忙を極めていた。その傘下にある鋳物工業も当然その生産の拡大を迫られていた。しかし我が国の鋳物工業の技術は、前章で述べたように未熟の状態にあり、一部の優良工場を除いては良品質の鋳物を作れなかった。需要の拡大とともにその弱点は一層はっきりと露呈されるに至り、重工業用機械の増産に対し、鋳物の供給が一番の隘路となっていた。石川の記録によれば、廃品率が三〇―五〇パーセントに及んだ鋳物がかなりあったとあるので、大変な無駄が罷り通っていたのである。
鋳物研究所がこのような情勢に対処して、日本の鋳物工業の技術向上を目指す研究に邁進することを第一の旗印としたことは言うまでもない。しかし石川は、より広い視野に立った構想を持っていた。金属製品には、鋳物のほかに鍛造、圧延などによる、いわゆる塑性加工品が大きな比率を占めている。これら製品の生れる元を正せば、やはり鋳造という工程を経ている。すなわち、精錬された溶融金属を金型(多くは鋳鉄製)に流し込んで固まらせた巨大な鋳塊(インゴット)がその素材であり、これを作る過程でなにがしかの欠陥が発生すれば、その後の加工技術がいかに優れていても、その欠陥は疵となって残存し、加工品の品質を損ずるのである。その意味で鋳造という工程は、すべての金属製品を作る根底をなすものとして重要視しなければならぬとした。すなわち石川は、鋳物研究所を我が国の金属工業全般の進歩に寄与する存在たらしめようと考えたのである。
このような構想の中で、石川が特に実現を期したいと念願していたことに、特殊金属材料の鋳造技術の確立があった。例えば、ステンレス鋼のような特殊鋼の鋳造技術は、当時外国に比べて著しく後れをとっていた。そのためにその多くを輸入に仰いでいた。これを普通鋼で代用して間に合わせの機械も作られていたが、その性能の劣ることは火を見るよりも明らかであった。当時の国情に照らし、座視するに忍びなかったのであろう。この難しい技術に挑戦することに石川は執念を燃やした。
更に石川は、新しい鋳物用金属材料の開発に取り組もうとした。しかもこれを構成する金属素材は、輸入に頼らぬという酷しい条件をつけた。この点では、石川には自己の実績に基づく自信があった。海軍在職時代、石川はシルジン青銅という、銅―亜鉛―珪素系の銅合金を発明し、輸入品の錫を含有する青銅に代替することに成功した。このような成果を踏まえて、新合金の開発にも大きな意欲を示した。
鋳物研究所は、以上のような石川の遠大な構想の実現を目指して華々しいスタートを切った。鋳物技術の重要性はまだ広く認識されておらず、この研究所の開設は鋳物周辺分野の人々の啓蒙に役立ち、開所後暫くの間は見学者の来訪が引きも切らなかった。
研究所は本館と実習場の二棟に分けて建造された。本館は三階建(地下一階)、床面積三千百四十五平方メートル、実習場は一階建(一部中二階)、床面積七百八十四平方メートルであった。
本館には金属研究のための諸施設が一通り備えられた。これらは当時としては最新のものであり、他に引けをとらぬと自負し得るものであった。
実習場には実際の鋳物の生産ができるような諸設備が整えられた。基礎研究の成果を工業化させるための試作研究の場として、この実習場が作られたのである。またここで常時鋳物の生産を行って、実地教育を施そうとする意図もあった。この実習場に足を踏み入れると、高い天井に跨っている三トンの走行クレーンにまず目を奪われる。鋳物砂を敷きつめた鋳型製作場が中央を占め、一隅にはキュポラ、るつぼ炉などの溶解設備と鋳型乾燥炉が配置されている。企業の鋳物工場とその佇まいは全く同じである。この実習場の存在が、研究所の特色として世の注目を集めた。
これらの施設購入のための財源は、各務の寄附金が建物の建築費に充てられたため、他にこれを求めなければならなかった。大学から醵出された分は五万円であって、これだけでは如何ともなし得なかったが、幸い石川の関係していた住友金属工業より十万円、また小松製作所よりも相当額の寄附を得て、漸く諸設備を整えることができた。更に、現物を無償または格安の価格で提供するという形で支援してくれた企業もあった。研究所の発足には、これら企業の好意も大きな支えとなったのである。
開所式における田中総長の式辞にあったように、早稲田大学は背水の陣を敷いてこの研究所をスタートさせた。総長のこの言は、研究所を独立した形で運営し得る経済的な見通しの立っていないことを仄めかしている。その端的な現れは、専任の研究員を嘱任することができなかったことである。その対応策として、大学は教育の場であるという建て前を活用する方法を採った。すなわち、理工学部に応用金属学科を新設して、石川を学科主任に嘱任し、兼務の形で研究所運営の責任者とするという処置を講じた。研究スタッフとなった所員も、すべて理工学部所属の教員が兼務した。発足当時の所員は、機械工学科山内弘教授、横田清義助教授、採鉱冶金学科塩沢正一教授、電気工学科大隅菊次郎教授、応用金属学科鹿島次郎助教授、加山延太郎教務補助(加山は所附)などであった。翌年四月には海軍技師田崎正浩が応用金属学科教授に迎えられ、所員を兼務、研究陣容の強化が計られた。
これで研究スタッフの給与負担は免れたものの、十名を超える事務および技術職員の給与、施設の維持費など、研究所の活動に必要な経費は大学が賄った。やはり大学当局としては相当の負担が掛ったといえる。前述したように、実習場で鋳物の生産を行おうと計画したのは、その収入によって大学の負担をいくらかでも軽減しようという石川の配慮もあってのことである。
なお、職員の統轄と所内管理の責任者である初代の主事には、予備役海軍主計中佐曽根昌一が嘱任された。後述するように、研究所の運営上海軍との折衝が多くなることを慮っての人事であった。
研究費の調達は案ずるほどのことはなかった。研究所の旗印が時宜に適したことと、石川をはじめとする研究スタッフの実力が物をいって、官民から多くの研究依託が受けられた。
こうして研究所の活動は次第に活発となり、業務は繁忙を極めるようになった。これに伴って、研究スタッフの充足が急務となってきた。これは応用金属学科の教員の増強という形で進められた。前記した田崎の教授嘱任がその第一の現れである。しかし時局はしだいに急を告げ、既成の人材を招くことが困難となってきた。そこで若手の研究者を育成することとし、昭和十五年に葉山房夫(機械)、十七年に草川隆次(応金)、十八年に堤信久(応金)が教務補助として新任され、研究所に兼務配属された。また雄谷重夫(十七年応金)が十八年に特研生(大学院特別研究生)として研究所に残った。
こうして研究所の将来を担う若手の研究者は充足されていったが、まだ一人立ちするまでに至らず、また草川と堤は卒業後軍籍に入るなどのこともあって、苦しい時代が続いた。
石川の創意によって生れた実習場は、いろいろの面で有効に活用された。第一に挙げられるのは、ここを技能工養成の場としたことである。当時の鋳物の製造は、殆どが手作業で行われており、現場作業員の技能に負うところが大きかった。従って鋳物工は単なる労働者では役に立たず、頭と腕を兼ね備えていなければならなかった。しかしこのような人材の確保はますます困難となりつつあり、鋳物工業は入的な面からもその発展を阻害されていた。このとき研究所が技能工の養成を手がけたことは、時代の要請に応えるものとして高く評価された。
この事業が開始されたのは昭和十三年七月、すなわち研究所の建物竣工の時であって、十月の開所式には養成工が実際に作業している姿を来賓に披露することができた。
この養成工は見習生と称せられ、募集に応じて集まった高等小学校卒業の少年十数名である。その技術指導にはベテランの専門職員三名が当った。いずれも海軍工廠出身の初老の職長クラスであった人で、二人は鋳型製作、一人は溶解を専門とした。見習生の修業年限は三年とし、現場の実習は午後に行われ、午前中は学科が課せられた。学科は、数学、物理、化学などの基礎課目、金属系の幾つかの専門課目、更には修身、国語、英語などの教養課目の三系列で、将来の中堅技術者として必要な教養と専門知識を修得できるように配慮された。講師には所内の若手の研究者のほか、大学の理工系、文科系の若い先生方にお願いした。石川所長御大は修身を担当した。まことに豪華な顔触れの講師陣であったといえる。
昭和十四年度からは、実習生と称する若手の技術者の養成制度も実施された。この制度は、海軍工廠および民間企業より派遣された若干の経験を有する青年達の研修を目的としたもので、養成期間は一ヵ年を原則とした。そして彼らにも学課と実習を課し、実力の向上に力を貸した。
こうして実習場を稼動させる人員は整った。これに対して実習の教材が必要となる。これを海軍の横須賀工廠が提供してくれた。教材といっても単なる練習用のものではない。比較的やさしい鋳物部品を研究所に指定発注するという形で提供してくれたのである。形式的ではあるが、研究所は海軍の下請工場となって、鋳物の生産を行うこととなった。こうなるとうかうかしてはいられない。製品に不良があれば検査ではねられる。一同真剣になって作業に取り組んだ。軍需品を自らの手で作っているのだということが励みとなり、見習生の技術はみるみるうちに向上した。
見習生が三年生まで揃った昭和十六年から戦争の半ば頃までが、実習場が最も活況を呈した時であろうか。総数五十名程度となり、ちょっとした町工場なみの規模と実力を備えるまでに成長した。受注品は銅合金のバルブ、コック類が多かったが、後には鋳鉄部品、アルミ合金部品も手掛けた。そしてかなり難しい製品の注文にも応じられるようになった。石川の発明になるシルジン青銅で、百気圧の耐水圧を要する薄肉の空気枕状の魚雷部品を四百個完納した経験は、今でも強く印象に残っている。
大学という組織体の中で、このような生産活動のできたことは希有のことであったろう。その背景には時局の切迫という事情もあったが、海軍の鋳物研究所を支援しようという陰ながらの好意のあったことを見逃すことができない。石川の海軍における隠然たる勢力がこのような形で具現したといってよい。
実習場の生産活動は、見習生、実習生の啓発に役立つだけに止まらなかった。研究所を実験研究の場とした応用金属学科の学生にも大きな刺激を与えた。彼らもまたここで鋳造実習を行い、折にふれ実際の鋳物が作られる工程を目のあたりにした。彼らの多くは卒業後鋳物工業の担い手となって活躍したが、この時の体験が彼らの成長に大きく寄与した筈である。
更には所内の鋳物研究の推進にも貢献した。助教授鹿島は後年鋳型材料部門の第一人者として大成するに至るが、その研究の端緒となったのは、実習場で目撃した砂型の焼着現象だったのである。彼は後年この現象を理論的に解明して学位を得た。本文の筆者加山もこれに類する恩恵を受けた。所長石川は、工学に携わる研究者は現場を知っていなければならぬとして、未熟な筆者を実習場に配属し、鋳物生産の責任に当る機会を与えてくれた。そのお陰で、大学の教員としては異例ともいえる現場技術を身に付けることができたが、それにも増して有難かったのは、後年手掛けた幾つかの研究の種をこの時拾ったことである。その一つが実って学位論文となったが、ともかく鋳物の現場では、研究室に閉じこもっていては全く気付かぬ不可思議な現象が続出することを知り、鋳物の分野には未解決の課題が山積していることを実感したのである。
さて話を少し戻して、実習場活動の主役を演じた見習生、実習生諸君の卒業後の動静に触れておこう。やがて終戦を迎え、日本の工業は潰滅状態となったため、彼らの多くは転業を余儀なくされたようである。我々の努力が十分に結実しなかったことは残念であるが、至し方のない成行きである。しかし、鋳物工業に踏み止まって大成した人も幾人かいるし、転業組の中にも小学校の校長、工業高校の教諭となって活躍している者もいる。それなりの成果はあったことに満足せねばなるまい。彼らも今は齢五十の半ばを過ぎた初老の年頃である。若き日を鋳物研究所という特殊な環境の中で過ごし学んだことを懐かしんでいるであろう。
研究所は、前述した石川の遠大な構想の実現を目指して活動を開始した。しかし険悪化しつつあった国情がその達成を阻んだ。初めの二、三年はまだ世は安泰であったが、その頃は陣容の整備に追われていた。第二次世界大戦が勃発し、戦況が不利になるにつれて研究資材の入手は困難となり、若手の技術職員は召集を受けるなど、いずこも同じの苦況に陥り、研究体制の充実は遅々として進まなかった。
しかしその中にあっても、所員の研究意欲は旺盛であった。そして幾つかの研究業績を挙げることができた。研究所はこれらの業績を世に問うために、『早稲田大学鋳研報告』と称する報告書を発行した。この報告書は年一回発行の予定で、第一号は昭和十六年十二月に、第二号は翌十七年十二月に刊行されたが、以後は中断の止むなきに至った。この報告書に掲載された論文題目を次に列記しておく。
〔第一号〕
「特殊青銅の研究(第一報)」 石川・加山
「金属の摩擦の研究」 田崎
「鋳鉄の耐摩擦性及耐摩耗性の研究」 田崎
「代用耐摩擦性の材料に就て」 田崎
「硬質クロム鍍金の研究」 田崎
「アルミニウム合金の電気的並に機械的摩耗」 大隅
「鉄及鋼中マンガン定量分析法に関する実験」 鹿島・石原
〔第二号〕
「鋳巣の研究(第一報・粘土の結晶水による鋳巣)」 右川・加山
「銅―錫―アンチモン三元系の研究」 田崎
「塗型材の焼着機構に就て(第一報)」 鹿島
「鉄及鋼中硫黄迅速定量分析法」 鹿島・石原
右のうち、第一号に掲載された石川の「特殊青銅の研究」の内容に触れておきたい。これこそ石川の構想の中にあった、新しい鋳物用金属材料の開発を目指した研究の成果であった。その狙いは、安価で入手容易な金属素材を用いて、従来あるもの以上に強靱で耐食性の優れた銅合金を生み出そうというところにあった。それまでに実用されていた耐食強靱の銅合金に、主として船舶のプロペラに供されたマンガン青銅があったが、この新合金はマンガン青銅の構成成分の配合量を大幅に変えたものであった。すなわち、亜鉛二〇パーセント、アルミニウム六パーセント、マンガン六パーセント、鉄二パーセント、銅残部、程度の成分組成で、これまでプロペラの切損事故の原因になるとして制限されていたアルミニウムの量を思い切って六パーセントまで増加し、代って亜鉛の量を減らしたところに成分的な特徴があった。その引張強さは97Kg/mm2におよび、マンガン青銅の三割増しの強度が得られた。靱性も十分にあり、耐食性も遜色がなかった。
こうして石川の構想の一つは達成された。しかしこの新合金の研究は、実際の鋳物を作って実用化を確認するところまでに至らなかった。これを阻んだ世情が恨まれる。いま改めてこの合金の特性を検討したいものである。
研究所はさまざまな困難を乗り越え、ともかくも発展の道を歩み、世の期待に応えた。この経緯を見守っていた、研究所の生みの親とも言うべき各務良幸は、更に昭和十六年、三十万円の追加寄贈を申し入れ、研究所の一層の充実に援助の手を差し延べた。大学は各務の再度に亘る厚志を謝し、各務を校賓として遇した。
この寄附金は新研究棟の増設に使われた。たまたま研究所の西隣に、敷地約一千五百平方メートルを有する私立日本美術学校があった。校舎は老朽化した木造建てで、芸術家受難の時代となっていたので、その経営は苦しかったようである。大学はこの土地を七万四千円で買収し、増築の場を確保した。
この時期、建築資材は払底し、鉄筋コンクリート建の建築は望むべくもなかったので、建物は木造建とせざるを得なかった。石川はここを、鍛造、圧延、プレス、押出しなど、塑性加工関係の実習場と研究室とし、研究分野の拡大を計ろうとした。
この実習場では、鋳物実習場と同様に工場と同じ規模の機械類を入れて、実用製品の生産を兼ねて試作研究が行えるように計画された。一隅は二階建とし、一階に研究室が三室、二階に講義室三室が設けられた。床面積は延九百四十平方メートルで、昭和十七年末にこの建物は竣工した。
この実習場には、先ず四百トン・プレスと三百トン押出機を設置する計画が立てられ、その設計に葉山が石川の補佐役として参画した。建物竣工後間もなく設計は完了し、その製作を、研究所と縁の深かった小松製作所に発注した。しかし時局は切迫の度を増してきたため、小松製作所の力をもってしてもこれを製作するだけの余裕はなくなり、待望の機械は入手できずに終ってしまった。残念な成行きと言わなければならない。
そこでこの実習場は鋳物生産の場に転用された。既に述べた通り、この頃鋳造の生産は繁忙を極めていたので、隣に実習場が増築されたことは、鋳物の側からは好都合であった。床に鋳物砂を敷くなどして、鋳型製作場に模様替えされ、湯(溶解した金属)は隣の実習場から蓮台で運ばれて鋳込みが行われた。こうしてこの新築の建物は、予期しなかったことであるが、鋳物の生産増強に役立つ存在となった。
戦争の末期、研究活動は逼塞を余儀なくされた中にあって、実習場の生産活動はなお続けられていた。しかし、官給以外の副資材の入手が次第に困難となり、思うような生産実績を挙げられなくなってきた。実習場の軍需工場としての価値を重視していた海軍は、この事態を憂慮し、実習場の活動をてこ入れするために、これを海軍直轄の分工場に組み入れることを計画し、研究所を海軍で借用したいと申し入れてきた。当方としてはこれを国の至上命令として受止め、また研究遂行の便宜も得られることを期待して、この申入れを受け入れることとした。
交渉は昭和十九年秋頃より始まり、細かい協定を結んで、二十年初頭より海軍との協力体制が実行に移された。研究所の管轄に当ったところは、横須賀にあった航空技術廠製鋼部である。その部長、石川薫海軍技術少将は、その昔所長石川の指導を受けたことのある人である。その好意がこういう形となって現れたのである。
鋳物研究所はこの空技廠の早稲田分室と名付けられ、その室長に技術中尉関平司が派遣されてきた。関は応用金属科昭和十八年の卒業生で、鋳研育ちである。この人事は部長石川の配慮によったことは言うまでもない。そのほか関を補佐する若干の職員と、現場作業員男子三名、女子十三名が配属された。研究所側からは実習場関係の技術職員が嘱託として協力し、また実習生、見習生の希望者十五名も軍属としてこの体制に組み入れられた。更に応用金属科の最高学年生の約半数二十名ほどが、学徒動員の形で海軍の指揮下に置かれた。こうして実習場は以前にも増して活気溢れ、軍需鋳物のフル生産に明け暮れた。その頃容量一トンのエルー式電弧炉も設置されていたので、これを使っての、機関銃部品などの鋳鋼品も作られた。
海軍は本館の研究施設も借り受けたが、これは軍の緊急の研究を強制するためのものではなく、我々所員の自由な研究を陰ながら援助するための形式的な措置であった。しかし、海軍にも我々の研究に物的人的援助の手を差し延べる余裕はなくなり、研究面では期待した実効を挙げることはできなかった。
昭和二十年五月二十四日夜、早稲田界隈は大空襲を受けたが、幸い研究所は被災を免れ、海軍の支配体制は終戦の日まで続けられた。八月十五日、全員本館の屋上に集合、厳粛な気持で敗戦の玉音放送に耳を傾けた。この時の、軍装に身を正した関中尉の号泣を今も忘れることはできない。
こうして鋳物研究所初期の波乱に富んだ時代は終った。戦争という非常事態は、創立時の石川の理想の達成を阻んだが、実習場が最後まで活動を続けられたことは幸いであった。これによって、研究所の名声は持続され、内にあっては多数の若人の育成と、次の時代の研究活動の基礎固めができた。この実習場を併設した石川の慧眼に改めて敬意を表したい。
敗戦のショックは大きかったが、立直りは早かった。これから平和の世となり、自由な研究のできることを確信して、我々は早速復興の準備に取り組んだ。
終戦の日から二―三日経った頃、軍は解体されるので、その研究施設は大学その他民間の研究機関に放出されるというニュースが飛び込んできた。我々もその恩恵にあずかろうと、トラックの手配をして八月二十日、鋳研と縁の深かった海軍の空技廠に乗り込んだ。行ってみると、既に目ぼしい機器類は他に持ち去られており、手遅れであった。トラックの手配に若干手間どったためであるが、世には機敏に立回る者もいるものだと感心させられた。それでも残り物を集めてトラックに積み込み、夜遅く雨に打たれて研究所に引き上げてきた。
こんなエピソードからも、研究再開への意欲旺盛であったことが窺えるであろう。ただ、この年の秋から冬にかけては世情混乱のため、低迷を余儀なくされた。
翌二十一年春頃から、卒論学生も配属されて研究体制は逸早く整った。所員は戦時中に暖めていた研究課題に取り組み始めた。早い復興と言えるが、これには研究所が戦災を免れたことも幸いした。
その最中に、大黒柱の石川の退陣という事態が起った。公職追放令が発動されたからである。石川は軍籍にあった関係から、当然この法令に抵触すると判断し、事前に辞任という形をとって、三月末日付で辞表を提出した。同じく軍籍にあった所員田崎も右に倣った。
このことはある程度予測されていたとはいえ、研究所にとって大きな打撃であった。二人の有力な指導者を失うことは、研究所の存亡に係わる大事である。大学当局はこれまでの研究所の業績を評価し、研究所を存続する方針を固めた。そして後任所長の選定を石川に託した。石川は、理化学研究所主任研究員飯高一郎を後任に推薦した。飯高は、石川が会長であった日本鋳物協会にあって創立以来理事として功績を挙げ、石川と親しい間柄にあった。また金属学の権威として世に認められており、石川の後事を託する適任者であった。なお鋳物協会においても、飯高は石川の跡を継いで会長に就任した。
飯高は同年六月に教授として迎えられ、十月に応用金属学科主任、翌二十二年二月に研究所所長に嘱任された。石川の退任からこの時に至る間は、総長島田孝一が所長兼務となったが、実質的な所長業務は、当時常務理事の職にあった理工学部教授伊原貞敏によって代行された。
なおこの頃の事務主任は宮川義治に代っており(十九年より)、混乱期の鋳研の維持に功績を残した。
飯高の前任していた理化学研究所は、所長大河内正敏の卓抜な着想に基づいて、研究者が自由奔放に振舞える体制を敷き、数々の輝かしい研究成果を挙げたところである。飯高は、私立大学の研究所が有効に機能するためにはこの理研方式の導入が好ましいと考え、研究の自由を標榜して陣頭指揮に当った。
この飯高の理念は、当時の『早稲田大学彙報』(第二巻第三号、昭和二十三年二月)に述べられているが、その眼目とも言えるところを抜粋しておこう。
旧日本の工業技術の進歩は、主として軍閥、財閥の力に依った。彼等は外国技術を導入し、又自らも研究に努力したのである。軍・財閥解体後の新日本に於ては、工学技術進歩の一半は大学附属研究所の創造に俟つ外なき状況にある。而して独立自主自由奔放の私立大学の研究所が、動もすれば形式的整備に走り潑刺生々の力乏しき嫌いある官立研究所に比して、民主日本の文化創造者として遥かに適格者である事は明らかである。
飯高は、昭和二年より三年に亘って英国に留学したが、その折ケンブリッジ大学およびオックスフォード大学を訪れ、その理化学の分野における素晴らしい研究成果に大きな刺激を受けたという。我が鋳物研究所もそういう立派な業績を挙げたいと決意した。前文ではこの点にも触れ、次のような所懐を述べている。
英国両私立大学の研究所は実に人類の最高文化を創造しつつあるのである。将来日本の剣・牛となるのは何大学であろうか。我早稲田大学は最有望の候補者であると私は信ずる。又其覚悟を堅持して進むのでなくては、学園創設以来の幾多先人の努力に対しても相済まぬ事と考える。
これまで早稲田とは無縁であった東大出身の飯高が、早稲田精神に共鳴し、逸早く早稲田人になり切ったことが右の文から窺える。事実、私学の乏しい財政事情から、研究所の運営には苦労を重ねたが、それを厭わず研究所の再建に全力を傾けた。早稲田精神の発露と言ってよいだろう。
飯高の研究の進め方は、研究の範囲を狭く絞って、それを深く掘り下げるというものであった。換言すれば、基礎研究を重視する考え方である。前所長石川は、どちらかと言えば応用研究を重視した。しかし、研究の自由を尊重するという考え方は共通していた。両所長の指導を受けた筆者は、いずれの理念も尤もであると素直に受け止め、鋳物工業に直結するテーマを拾って、これを飯高流の方式に従って深く掘り下げて体系づけるように努めた。両所長とも、こちらからの相談には有益な示唆を与えてくれたが、こうしろという強制はなかった。ともあれ自由に振舞える研究の場が与えられたことは有難かった。
飯高は、自己の理研時代の業績を踏まえて、研究分野の拡大を計った。鋳物の研究に重点を置く方針は堅持したが、鋳物に関連する周辺の金属学の基礎的研究にも手を染めた。この頃若手の研究者も増え、育ちつつあったので、これらの人材を活用する意味でも、研究分野を拡げたことは適切な処置であった。後年研究所は更に規模を拡大するに至るが、その種はこの頃に芽生えたのである。
戦後の荒廃はむしろ研究所の復興を速めるのに幸いした。日本の工業は早急には立直れず、大学卒業生の就職は思うに任せなかった。鋳物研究所の活動再開は、前途に不安を抱く卒業生諸君に明るい希望を持たせ、研究所に籍を置いて勉学したいという志願者が多く現れた。研究所側も戦争以来人手不足に悩まされていた折であり、できるだけその希望を受け入れた。こうして研究所は俄かに活気を取り戻し、研究活動は早くも軌道に乗った。
終戦直後から昭和三十年頃までの間に、なんらかの資格で研究所に入所し、研究遂行の戦力となった人達の名を列記しておこう。
まずこの期間に、正規の教員に嘱任され、後に研究所の中核となった人達を挙げる(括弧内数字は卒業年)。
松浦佑次(昭十八) 上田重朋(昭二十) 中山忠行(昭二十二) 加藤栄一(昭二十二)
既述したが、雄谷重夫(昭十七)もこの時期に嘱任。また、草川隆次(昭十七)、堤信久(昭十八)も復員し、活動開始。
次に、研究所に在籍し、後に外部に転出して大成した人達は次の多数に及ぶ。
牧口利貞(昭十八) 牟田口元堂(昭十九) 石野亨(昭二十一) 村木庸益(昭二十一) 安田和夫(昭二十一) 犬養健(昭二十二)市田正一(昭二十二) 并口信洋(昭二十二)(現機械工学科教授) 宮坂寿雄(昭二十二) 阿部喜佐男(昭二十三) 師岡利政(昭二十五) 中村幸吉(昭二十六) 斎藤和夫(昭二十六)
早稲田大学在職者の身分は教員と職員の二つしかなく、これら若手研究者の処遇に窮したが、戦時中稼動していた実習場関係の職員の人達の席があいたのを利し、右の人達の多くは技手という身分の待遇を受けた。後に副手制度ができ、この職に就いた人もいる。また大学院生として残り、空席ができてこれに移行した人もいる。しかしこれらの人は実質的には研究者であり、外部に対する配慮から、所内だけの規定として、研究員、副研究員、研究助手の身分制度を設け、年功に応じてこれらの辞令が渡された。
また、正規の技術職員の中には研究業務に従事した人もいたので、右の身分制度に従って、江藤裕春、松坂伊智雄、中田重徳、板谷広子、主藤千枝子が研究助手に任ぜられた。
以上のほかに、大学院生として研究に専念し、あるいは自発的に無給で研究の手助けをしてくれた人もいる。仲田進一(昭二十)、中野南夫(昭二十一、大学院)、三木正光(昭二十二)、関口和彦(昭二十三)、本間梅夫(昭二十六)、鈴木弘茂(昭二十六、大学院)、菊地政郎(昭二十九、大学院)、飯泉充冊(物理大)、伊藤武男(日大)などの諸君である。
右にあげた若手研究者のうちで、後年学位を取得したものは、早大教員となった者全員と、外部に転出した者のうちの牧口、牟田口、中野、石野、村木、安田、阿部、師岡、本間、鈴木、菊地の多数に及ぶ。彼らの学位論文はいずれも研究所において手がけた研究を完成させたものであり、このことからも当時の研究陣容の充実振りを窺い知ることができる。
右のように研究陣容が充実し、その燃ゆるが如き研究意欲が実を結んで、この時期の研究所は真にその機能を果せるようになった。数々の研究業績が発表され、学界、業界における評価は高まり、第一級の研究所としての地歩を確保した。特に鋳物分野における活躍が目覚しく、業界から大きな期待が寄せられた。
この頃の主な研究業績を、便宜上研究室別にあげておこう。
飯高研究室――飯高の研究分野は、鋳鉄、金属の表面構造、腐食防食など多岐に亘った。鋳鉄の研究は鋳物に直結するものとして、最も力を注いだ。鋳鉄の黒鉛組織、弾性率、溶融時に吸収されるガスの挙動などがおもなテーマであった。また当時欧米より導入された球状黒鉛鋳鉄が、新しい強靱鋳鉄として重要な役割を果すことを見越して、学内学外の研究者、現場技術者を糾合して、この新しい鋳鉄に関する基礎的、また現場的研究結果をまとめた出版を行った。
飯高の鋳鉄関係の研究に加わり、その指導を受けた者は、加藤、大塚、関口、師岡、中村などである。このうち加藤は、質量分析による水素ガス分析法を確立し、後年独立して広く溶融金属中のガスの挙動に関する研究に多くの成果を挙げ、この方面の権威者として大成した。
金属の表面構造に関する研究は、飯高が理研在職時代に逸早く取入れた電子回折法を駆使して行われたものである。この研究には中山を充てて、これに専心させた。中山もやがて独立して、ステンレス鋼表面に形成される酸化物の構造を明らかにするなどの業績を挙げた。
腐食防食に関する研究は上田に託された。上田もやがて独立し、クロマイト法による防食技術を開発するなどの成果を挙げ、金属表面処理の分野で活躍するに至る。
山内研究室――山内は塑性加工の権威者として既に一家をなしていた。松浦を指導して、鋼の圧縮変形抵抗、引抜加工ダイス、衝撃押出、衝撃挫屈などの研究に主力を注いで成果を挙げた。松浦はやがて独立し、大成するに至る。また犬養もこの時期山内の研究を補佐した。
塩沢研究室――塩沢は鉄冶金の研究者として著名であったが、研究所においては研究室を持たず、本属の採鉱冶金学科において、中井弘(昭二十)を指導しながら研究を続けていた。この頃は鉄鋼の硫化腐食とその防止法を主たるテーマとしていたが、鋼塊の偏析現象、強靱鋼などの研究にも手を染めていた。
横田研究室――横田は溶接の専門家として既に名を挙げていたが、溶接のほかに、水銀をモデルとして溶金の流動性、鋼の急速加熱変態、鋼の表面硬化法、鋳鉄の電気抵抗など、多彩な研究を手掛けていた。横田の研究には、井口、江藤が補佐役として活躍した。
鹿島研究室――鹿島は、戦中より始めた鋳型関係の研究を結実させ、この時期にその驥足を大きく伸ばした。焼着現象を解明するための溶金と鋳型との界面反応、砂粒子の形状、粒度分布と鋳型の諸性質との関係、各種粘結剤の特性、石膏鋳型などが主要テーマであり、未開拓の分野を切り開いた。また鹿島は化学分析室を主管していた関係から、各種の化学分析法、特に分光分析法の開発研究に取り組んだ。別に、鋳ぐるみ法の理論的解析を目指して、溶金に接した固体金属の溶解挙動の解析を試みた。
鹿島研究室は、入れ替りはあったが、牧口、牟田口、飯泉、仲田、村木、安田、宮坂、三木など多数の若手が詰めかけ、所内で最も活況を呈していた。
加山研究室――加山は鋳鉄の溶解関係の研究に取り組んだ。かつての実習場の現場作業において、溶解法に起因する鋳造欠陥の発生をしばしば経験し、この現象を追求した研究がほかに見当らなかったので、これをテーマに採り上げた。追跡の結果、溶湯への酸素の過剰侵入がその原因であることを突き止め、この酸素と鋳造欠陥生成との結び付きを究明した。またこの結果に基づき、健全な鋳物を得るためのキュポラ操業の指標を提示した。ほかにダイカストにおける溶金の流動性に関する研究も手掛けたことがある。
加山の研究を補佐したのは、石野、市田、阿部、伊藤、斎藤の諸君である。
葉山研究室――葉山は卒業後理化学研究所大越研究室に派遣され、金属の摩耗をテーマとする道に進んだ。戦後理研時代の蓄積を活かして研究活動の輪を拡げていった。各種銅合金、球状黒鉛鋳鉄の摩耗現象の解明に力を注いだほか、金属の被削性、切削加工法の分野に手を伸ばし、鉛入黄銅の被削特性、アルミ合金鋳物の被削性の改善法、超仕上法などの研究に成果を挙げた。
草川研究室――草川は、はじめ鋳鉄溶解時の脱硫、脱ガス、電気炉による鋳鉄溶解法をその研究テーマとしたが、前述した球状黒鉛鋳鉄が日本に紹介されてからは、その研究に専念した。この鋳鉄の発明は画期的なものであったので、鋳鉄に関心を持っ世界中の学者、技術者が、黒鉛が球状化する機構の解明と、製法上の問題点の解決にこぞって取り組んだ。その中に伍して草川は数々の研究成果を挙げた。特に、特許となっていたマグネシウム添加法に代って、カルシウム添加によって黒鉛の球状化を成功させた業績は高く評価された。
雄谷研究室――雄谷は戦争末期の頃より、石川の指導の下に非鉄合金鋳物の研究を始め、この分野の専門家として名を挙げていった。初めに手掛けたのは、アルミニウム―珪素―亜鉛系の強力アルミニウム合金の研究で、石川の新合金開発の意図に沿ったものである。独立してからは、アルミ合金の溶解法の研究を主テーマとし、水素ガス吸収現象の解明とこれによる鋳造欠陥防止法の研究に意を注いだ。これに関連して真空鋳造法の研究も手掛けている。銅合金系の研究としては、アルミ青銅鋳物の摩耗に関するものがある。
雄谷の研究には本間が補佐役となっていた。
堤研究室――この頃の堤の研究対象は可鍛鋳鉄であった。可鍛鋳鉄とは、白銑鋳物を焼鈍して粒状の黒鉛を析出させ、靱性を持たせた鋳鉄のことである。なお製造の上で種々の問題点があり、堤はその解明に取り組んだ。焼鈍時間を短縮する方法、黒鉛化を阻害する諸要因の究明、脆性現象の解析、オーステナイト可鍛鋳鉄の開発などについて研究業績を挙げ、可鍛鋳鉄では堤、と言われるまでの実力者となった。
昭和二十五年、飯高所長の発案によって、研究成果を諸外国に紹介するために英文『鋳研報告』――Reports of the Castings Research Laboratory,Waseda University――が発行された。戦後五年を経たばかりの時に、こういう企画の実現をみたことからも、研究所の復興の目覚しかったことを窺い知ることができる。
この種の報告書は、金属関係の学会その他の機関ではまだ発行されておらず、先駆的な役割を果した。特に鋳物の分野では、これが日本を代表する唯一の論文集として高く評価された。二十年代の終り頃より、多くの人が外国へ渡航するようになったが、その人達から、訪問先でこの報告書を見せて貰ったという話をよく聞いた。我々もまた同じ経験をし、鼻を高くした覚えがある。この企画は大成功であったと自賛することができる。
この報告書は年一回の割で発行された。第一号は、収められた論文数は六編で、貧弱の感を免れなかったが、第二号は十一編、第三号は二十編というように、内容は充実していった。現在もこの発行は続いていることは言うまでもない。
戦時中に活躍した実習場は、戦後別の形で生産活動を再開した。すなわち戦争末期海軍の管轄下にあった時、海軍におられた米谷克が川口市の東京可鍛鋳鉄(株)におられ、同社の分工場として借り受けたいと願い出てきた。所長石川のまだ在職していた頃である。石川はこれを了承したが、早大を去ったため、交渉は少し延びて飯高所長の時代になって成立し、二十二年五月より鋳物の生産が始められた。その後間もなく海軍から鋳物研究所に派遣されていた関平司が来られることになった。大学の力では実習場を稼動させることは不可能の時代となっており、こういう形で生産設備の活用を計ることは、経済的に潤うばかりでなく、研究推進の上でも便宜が得られるとしたのが当方の判断である。先方には、背景に鋳研のあることが、技術面での信頼を高める上にプラスした筈である。
二十二年十月にこの分工場は独立し、社長に政治評論家として著名な御手洗辰雄を迎え、東京鋳造(株)として発足した。重役には米谷克、関平司および主たる出資者であった奥田友三郎が就任した。現場技術者には、元海軍空技廠にいた若手の岩淵、大橋が加わり、ほかに応用金属卒の蟹江正博(昭二十二)もこの社に新しく採用され、中堅技術者として力をつけていった。従業員は約三十名おり、日本の工業も胎動し始めた時運に乗って、同社は順調に成長した。製品は鋳鉄品が多く、ポンプ類など耐圧鋳物を生産し、実績を挙げた。ほかに可鍛鋳鉄品も作られ、そのための焼鈍炉も設置された。
東京鋳造の業務は繁忙の度を増し、作業の場は狭隘を告げるようになった。またこのように実力をつけてくると、企業として生産の場を他に借用しているという形態に満足できなくなった。そこで昭和二十七年七月、本拠を王子に求めて鋳研を去るに至る。同社の繁栄のもたらした結果であり、喜ばしい結末であったといえる。同社はその後ますます発展を続け、有力鋳物企業としての地歩を確保した。そして鋳研との交流は永く続き、相互啓発は頻繁に行われた。
東京鋳造が現場を動かしてくれていたことは、我々研究者にも戦時中と同じような利便が得られた。湯を貰って試験片を作ったり、鋳型のテストをしたりしたことはしばしばであった。筆者も、現場で発生した不良品を見て、自己の研究を進める上で有効なヒントを得たことがある。また草川は、同社が王子へ移ってからのことであるが、既述したカルシウム球状黒鉛鋳鉄を開発するための共同研究を行い、その工業化に成功した。
東京鋳造が去ってからの実習場は、無用な存在となることはなかった。コンクリート造りの第一実習場は、主として溶解実験の場に供された。ただ、生産用として設置されていた溶解量毎時二トンのキュポラ、コークス焚きの非鉄合金用るつぼ炉、鋳型乾燥炉などは大き過ぎて実験用には向かないので、後年に至って撤去され、代って小型キュポラ、非鉄合金用ガス炉、容量百キロの高周波電気炉、小型ジロー式電弧炉、真空溶解鋳造炉などが順次設置され、各種金属の溶解実験の行える設備が完備された。
木造の第二実習場は、一時期機械工学科および金属工学科学生の鋳造実習の場に供されたことがある。また、各研究室の狭隘を補うため、ここに機材を持ち込んでの実験もよく行われていた。
飯高所長時代の研究所の発展を物語る事業として、静岡指導員常駐所の開設を挙げておかなければならない。昭和二十六年九月、静岡県銑鉄鋳物工業協同組合は、静岡県知事ならびに静岡市長の副申書を添えて、静岡県下の鋳物工業の技術向上に資するため、研究所より常駐指導員の派遣方を申請してきた。同組合の理事長で、静岡市所在の相川鋳造鉄工所社長相川繁吉の強い要望に基づくものであった。相川は、鋳物研究所が開所以来現場技術の向上に貢献した業績を高く評価し、その指導を受けたいと念願していたのである。
研究所側は協議の結果、この事業はあくまでも公共性を持たせることを条件として、この要望を受け入れることを決定し、大学の承認を得た。翌二十七年一月に協定がまとまり、指導の場は静岡指導員常駐所と名付けられて開設の準備が開始された。この常駐所は相川鋳造鉄工所の敷地内に設けられ、ここに各種材料試験設備、化学分析設備、金属顕微鏡、工作機械などが揃えられた。建物の面積は百四十平方メートルで、小型の試験場という感じであった。
これらの設備費はすべて相川の負担によって賄われた。
業務は五月に開始され、研究所からは研究助手の阿部喜佐男と中田重徳の二名が指導員として派遣された。阿部は材料試験ほか機械的な業務を、中田は化学分析関係の業務を担当した。
ここの定常的な業務は、中小企業の欲していた鋳物試料の材料試験、顕微鏡組織撮影、化学分析などの依頼に応ずることであったが、鋳物の技術指導も行った。若い派遣員の手に負えない時は、本拠の鋳研に持ち込まれ、専門の研究員が派遣されて相談に応じたこともある。また研究会、講習会などもしばしば企画され、この地区の業界の啓蒙に寄与した。これらの催しには主として研究所の研究員が参加したが、内容によっては所外の専門家に講演を依頼した。商学部の林文彦教授を煩わして、企業経営のあり方について有益な講演をお願いしたことも記憶に残っている。
派遣員は初めは早大に籍を置いていたが、一年後には依頼試験の収入も見込まれることから、早大を離職する形をとり、給与は先方より支給された。なお阿部はやがて他に就職のため辞任し、後任に応用金属科新卒の当麻幸次が採用され、その当麻も後年同じく新卒の高木喜久雄に代るなどの人事異動があった。
この常駐所は、次期所長塩沢正一の時代までその活動を続けたが、数年の経過で所期の目的は達成されたことに鑑み、また鋳研が一地区の業界と密着するのはいかがかとの意見もあって、昭和三十四年九月に相方合意の上で廃止された。心残りではあったが、止むを得ぬ成行きと言うべきであろう。この間における相川の、常駐所維持のために示した熱意に改めて敬意を表したい。相川はその後も鋳研の歩みを暖かい目で見守り、数々の好意を寄せてくれた。
昭和二十八年は研究所が創立されてから十五年を経た年である。研究所の名声も高まり、世情も安定したので、創立十五周年の記念事業を行うこととなり、前年の秋頃よりその準備が進められた。
記念行事としては、式典、午餐会、記念講演会が企画され、創立記念日の十月二十一日にこれが取り行われた。講演会には前所長石川も招かれて一席述べ、続いて飯高所長以下研究員十二名の講演が行われた。石川の講演は「鋳造技術回顧五十年」と題するもので、豊富な体験を盛り込んだ内容は深い感銘を与えた。飯高は「革新途上の鋳物工学」と題して当時の内外の鋳物に関する研究と技術の粋を概説し、聴講者の士気を鼓舞した。研究員の講演は、各自の研究成果をまとめたものであって、研究所の発展ぶりがここに凝集されていた。これら講演の内容は、記念講演集として翌年出版され、いまも保存されている。
次にこの創立十五周年を期して、鋳物研究奨学金制度が企画された。前述したように、研究所には新しい卒業生がいろいろの身分で研究補助者として入所し、研究業績を挙げることに貢献してくれたが、彼らの中には無給のものもかなりおり、気の毒な思いをさせていた。また入所を希望しても、経済的な理由でそれを果せないものもいた。これら前途ある若人を育成するために、奨学金制度を設けることは、将来鋳物業界に有能な人材を送り込むことも期待できるので、意義ある企画としてその実行に取り掛かった。
奨学金の給付は、研究所に縁のある会社からの寄附金を基金とし、その果実によって賄うこととした。二十八年七月に募金趣意書が発送されたが、約一年を経て応募会社二十七社、寄附金額二百四十五万円に達し、所期の目的は達成された。特に前記した相川繁吉ほか、日本高級金属㈱社長西武雄、太洋鋳機㈱社長米北鹿八からは、それぞれ六十万円という多額の寄附があり、その厚志は感謝に堪えぬところであった。
奨学金の給付は翌二十九年度より始められ、その額は月額五千円と定められた。第一回の奨学生には師岡利政(昭二十五)、本間梅夫(昭二十六)、若林洋一(昭二十九)の三名が選ばれた。この選考は毎年度の初めに行われ、同一人には二ヵ年まで受給できるように定められたが、一年ごとに研究報告書を提出することが義務づけられた。
後年に至って受給資格者は減少傾向を辿り、基金の果実は余り気味となったので、余剰金は逐次基金に組み入れられ、昭和四十六年には四百万円に達した。一方物価の上昇に対処して、支給額も三十七年度より月額七千円、三十九年度より一万円に増額された。
奨学生の逓減は、その後急速に数を増した大学院生にはその資格なしとしたためである。それだけに、厳選された奨学生には大きな励みを与え、この制度の意義は今日も変ることなく、研究所発展のための陰の支えとなっている。
研究所は業界の技術向上に寄与することをその使命としている。戦後十年を経た頃は、研究所の業績も挙がり、業界の期待に応えられる自信もついたので、この使命を果すための事業として、鋳物技術講習会を開講することになった。第一回の講習会は昭和三十年七月四、五、六の三日間に亘って開催された。初めの二日は講義、三日目は工場見学が行われた。講義のテーマは「鋳物不良対策の基礎知識」であって、現場技術者の関心を呼ぶ題材であった。所内の主な研究員が講師となったことは言うまでもないが、特別に機械工学科の渡部寅次郎教授および日本高級金属㈱西武雄社長にも講師をお願いした。渡部の題目は「ディゼル機関シリンダ・ライナの摩耗とその対策」、西の題目は「鋳物工場の経営と科学的研究」と言うものであった。
この講習会はこれを皮切りに、毎年一回開催され、今日に至っている。暫くの間は一日目が講演会、二日目が工場見学会という形が採られ、工場見学ができることも魅力となっていた。ある年は二日目を実習に当て、顕微鏡組織の見方、材料試験法などの手ほどきをしたこともある。講師には一、二名の外部の権威者を加えることが通例であった。
戦後研究所の運営制度は民主化の線に沿って改められ、次第に整備されていった。その現れとして第一に採り上げるべきは、所長が選挙によって選出されるようになったことである。選出の母体は協議員と所員である。その任期は二年と定められたが、重任を妨げるものではなかった。これに伴って、所員も二年ごとに改任され直すようになった。なお所員の名称はこの時より研究員と改められた。
協議員制度は既に昭和十八年度より制定され、理工学部の重鎮教授ら数名が嘱任されていたが、この時よりその権限は強化され、運営の中枢を司るに至る。またこの新制度発足を期に協議員の任期も二年と定められた。協議員は、所長、第一理工学部長、第二理工学部長、理工学部選出の教授五名ならびに校賓の各務良幸によって構成された。後に大学院理工研委員長もこれに加わった。
第一回の所長選挙は二十四年九月に行われ、飯高が当選した。この期は例外的に三ヵ年であったが、以後二十七年秋、二十九年秋というように改選が行われ、飯高の再選が続いた。三十一年の秋には塩沢正一が新しく当選し、ここに飯高所長の時代は終った。
なお、前所長石川は、公職追放令解除とともに二十九年の期より協議員に推薦された。後年石川と各務は協議員から離れ、功労者として遇されるに至る。また後年、協議員は管理委員と名称が変更され、所内の教授の資格を持つ研究員は自動的に管理委員に組み入れられて今日に至っている。
飯高時代の事務主任は、前記した宮川(昭二十三年五月まで)から、渡部州朗(昭二十五年三月まで)、清水清(昭三十一年一月まで)、原圭之助(昭三十一年七月まで)、椎根春治へと引継がれた。
本節では塩沢の所長就任以後現在に至るまでの研究所の歩みをまとめる。この間二十年以上の歳月を経たが、既に運営と研究推進の体制は整い、大きな変革は起らなかったので、概略の変遷を回顧するに止めたい。ただ、特記すべき事柄も幾つかあるので、次項以下にこれを抽出して補足する。
まずこの期間に所長に選出されて、研究所の発展に貢献した研究員とその就任期間を列挙しておく。
塩沢正一 昭三十一年十月――昭三十七年九月 三期
葉山房夫 昭三十七年十月――昭四十三年九月 三期
雄谷重夫 昭四十三年十月――昭五十一年九月 四期
草川隆次 昭五十一年十月――昭五十五年九月 二期
上田重朋 昭五十五年十月――昭五十七年九月
事務主任は、椎根春治(昭三十五年九月まで)、北島勝之輔(昭三十五年十二月まで)、田中武治(昭三十七年十二月まで)、大見川敏夫(昭四十年十二月まで)、田村昇(昭五十一年五月まで)、橋口泰(昭五十四年五月まで)、落合敏夫(昭五十五年十一月まで)、塩見之一(現在)と続いた。
研究組織の体系化は次第に整い、戦後の復興期にみられたような、正規の教員以外の者を研究員、副研究員、研究助手などに嘱任する制度は廃止された。ただし副手制度は暫く存続された。これらの職にあった人は転出して要職につき、後続の希望者も現れなくなって、自然消滅の形となったとみてもよい。そして研究員の補佐は、卒論で配属される学部四年生、大学院修士課程および博士課程の学生が主体となった。四十年代に入るとこれらの学生数は急増し、研究推進のための大きな戦力となった。
研究を補佐する者は学生のみではなかった。自発的に個人助手として、あるいは会社の依託によって入所した者もかなりいた。また後述するが、公募して集めた研修生もこれに加わった。
四十年代に至って特別研究員制度が新しく設けられた。特別研究員は、客員研究員と特定研究員に分けられ、前者は公共の研究機関、後者は企業に籍を置く学識豊かな人を有資格者とした。現在十名の特定研究員が依嘱されており、研究体制の補強に寄与している。
研究費は、本部より直接交付される教育研究費と、学生指導の見返りとして理工学部より各研究員に支給される研究費が定常的なものであるが、それだけでは賄い切れず、時に応じて文部省の科学研究費、公共機関あるいは企業からの依託研究費、研修生の指導料などを受けてやりくりしてきた。研究所の実力がものをいって、これら外部からの依託研究は年を追って増加し、現在では研究費の心配はほぼ解消されたといってよい。
研究設備も充実してきた。科学技術の進歩に伴い、新しい有力な研究用機器類が続々と開発され、これを設備しなければ後れをとるような事態となったが、文部省から補助金が得られるようになって、逐次充足されていった。走査型電子顕微鏡、X線マイクロアナライザー、強力自記X線回折装置、微小部イオン分析装置、原子吸光分光光度計、画像解析装置、電子管式万能材料試験機などをその代表例として挙げることができる。そのほか塑性加工用の諸機械、粉末冶金用諸設備、特殊溶解炉、熱処理装置など、これまでに入手した新しい機器、設備類は枚挙に暇がない。また民間企業からの寄贈によるものも数多くある。
こうして人的物的体制は強化の一途を辿り、研究所の地歩は揺ぎないものとなって今日に及んでいる。
以上、研究活動進展の跡を概述した。次にその他の事業として、記録に止めておきたいことを列記しておく。
『鋳研報告』(邦文)の復刊。鋳研報告は石川所長の時代に第二号まで発行され、以後途絶えていた。戦後の研究業績を世に問うものとして、既に英文の報告書が発行され、好評を得ていたが、これと併行して邦文の報告書の刊行を望む声が高まってきたので、昭和三十三年に昔の鋳研報告の復刊という形で、第三号を世に送ることとなった。たまたまこの年は早大創立七十五周年に当ったので、これを記念する意味も込めて内容充実に意を注いだ。この号に収録された論文数は二十編の多きに達している。
この報告書は初めの頃は年二回発行されたが、後に年一回に改められた。研究員の研究成果は学会誌に発表され、その数は膨大なものとなる。そこでこの報告書では、例えば一研究員の長年に亘る研究の集大成を載せるとか、共同研究の成果だけを集めるというようにし、学会発表論文の二番煎じは避けるようにした。
喜寿記念石川登喜治博士論文集の刊行。初代所長石川は昭和三十三年喜寿を迎えた。研究所はこれを記念して、表記の論文集を刊行し、その功績に報いた。論文数二十七編におよび、石川の研究業績の真髄を網羅しており、関係者必読の価値ある好著である。また、業界指導のための講演、あるいは回顧談も集録されている。明治時代からの鋳物技術の歴史を探る上でも貴重な文献である。
創立二十五周年記念行事。創立二十五周年を迎えた昭和三十八年、これを記念する行事が十月二十六日(土)、および二十八日(月)の二日に亘って催された。第一日には各方面の招待者多数列席のもとに、式典、所内展示、祝賀会が盛大に行われた。第二日には、大学の教職員、一般学生に所内を公開した。
またこの年発行の『鋳研報告』第十六号は、創立二十五周年特集号として編集された。これには共同研究による論文七編が掲載され、記念行事に花を添えた。
研究会の開催。所内研究員相互の啓発のため、研究会が随時開かれるようになった。初めの頃は、自己の研究過程を述べ、他の批判、助言を得るという形のものであったが、近年は学外の第一線の専門家を招いて、その研究成果を聴き、討論するという様式の会合も頻繁に行われている。
奨学基金の拡充。昭和二十九年に開始された奨学金制度は、今日まで有効に活用されてきたが、最近二件の高額の寄附があり、その基金は著しく増額された。一つは前述した相川繁吉による追加寄附であり、五十四年に八百万円が贈られた。いま一つは鹿島次郎先生退職記念事業会からのものであり、鹿島の意志に従い、募金の大半を占める約五百万円が五十五年に寄贈された。
近年奨学金の受給者は、主として大学院博士課程終了者となった。これら奨学生有資格者はかなりの数に達しており、これまでの基金五百万円程度では十分な処遇もできず、また選に漏れる者も多くなってきた。今このような高額の基金を得たことは、干天に慈雨の感があり、有難いことであった。
鋳物研究所の研究分野は飯高所長の時代に次第に拡大していったことは既に述べたが、塩沢所長の時代に至り、更に拡大強化が計られた。金属工業では、鋳物ばかりでなくその他の加工技術の進歩も著しく、これに即応する体制を採ることが、研究所の発展にも繫がると考えられたからである。この頃からの研究所は、金属加工技術とその基礎に関する研究の場としての性格が強められたが、鋳物研究所という名称は、創立の経緯を慮り、またこの名が世に知れ渡ったこともあって、そのまま存続することとした。
このように研究分野は拡大されたとは言っても、研究員が十数名の規模では金属工業のすべての分野を網羅するまでには至らず、今日も同じである。無理に分野の枠を拡げて研究員を分散して配属することは、形の上での体制は整っても、実効の伴わぬことは明白であり、研究員が自由に自己の専門に専念する方針は堅持された。一方、専門の異なる研究者の集まっている利点を生かし、共同研究をより活発に行うことが取り決められた。
塩沢所長の頃から昭和五十四年度までの間における研究分野と担当研究員を表にまとめておく。
第七十八表 鋳物研究所の研究分野と担当研究員(昭和三十一―五十四年度)
研究分野の拡大に伴う人員充足のため、また長老の定年などによって、この二十数年の間に次のような研究員の人事異動があった。
退任研究員――山内弘(昭三十四年三月定年) 塩沢正一(昭三十八年三月定年) 飯高一郎(昭三十九年三月定年) 横田清義(昭四十三年三月定年) 若林章治(昭四十三年十月) 中山忠行(昭五十一年八月死去) 鹿島次郎(昭五十五年三月定年)
新任研究員――若林章治(昭三十五年四月) 渡辺侊尚(昭三十六年四月) 藤森直往(昭四十年四月) 広瀬正吉(昭四十五年四月) 中田栄一(昭四十五年四月) 本村貢(昭四十九年十二月) 大坂敏明(昭五十二年六月)
若林の新任は、粉末冶金を新しい研究分野に加える方針の現れであり、若林は金属工学科においてこの方面の権威者として名をなしていた。渡辺はその後継者として迎えられ、専任研究員となった。渡辺は応用金属科を卒業(昭二十四年)後、名古屋工業試験所において粉末冶金を専攻、中堅の研究者として業績を挙げつつあった。広瀬は表面加工(ショットピーニング)を専門とする権威者であり、機械工学科より兼任として迎えられた。これも研究分野拡大のために採られた人事である。中田は大学院において草川の指導のもとに学位を取得後金属工学科教員に嘱任されたが、その専門とする材料強度学の分野を補強するために、同じく兼任として迎えられた。
塑性加工の分野では、山内の退任に代って藤森、本村の両新鋭が加わり、一層の増強が計られた。藤森は専任研究員として処遇された。塩沢の専攻した鉄冶金は草川に引継がれ、草川は鋳物と合せて二つの分野で活躍するようになった。大坂は、不幸にして病歿した中山の後継者として、無機材質研究所より迎えられた。大坂は大学院時代中山の指導によって学位を取得した者で、中山の後継者としての役割を立派に果しつつある。
研究所の陣容の充実とともに、その名声はますます高まっていったことは言うまでもない。各研究員はその研究成果を学会に続々と発表し、また学会の役員に選ばれるなどして、対外的にも目覚しい活躍をした。発表論文は膨大な数に達し、ここにそれを披露する余裕はないので、ここでは研究員の主な対外活動を取り上げ、これを研究所発展の証左として紹介しておこう。以下に研究員の年齢順にこれを列記するが、長老の古い業績は省略した。
山内弘――日本機械学会理事、同会長。日本塑性加工学会理事、同会長。
塩沢正一――日本鉄鋼協会理事、同会長、同名誉会員。
飯高一郎――日本鋳物協会名誉会員。日本金属学会監事、同名誉会員。理化学研究所名誉研究員。大河内記念会大河内賞審査委員長、同常務理事、同顧問。著書四編。
横田清義――日本溶接協会理事。欧洲出張一回。このとき国際溶接会議に出席、第八部日本代表。
若林章治――粉体粉末冶金協会理事、同会長。日本粉末冶金工業会顧問。
鹿島次郎――日本鋳物協会特殊鋳型部会長、同理事、同会長、同名誉会員。日本分析化学会理事、同副会長。大河内記念会大河内賞副審査委員長、同名誉役員。日本学術振興会二十四委員会(鋳物)委員長。日本鋳物協会より久保田鉄工賞ほか受賞四件。欧洲出張二回、うち一回は国際鋳物会議において代表論文発表。韓国、台湾よりの招聘各一回。
加山延太郎――日本鋳物協会編集委員長、同鋳鉄溶解部会長、同関東支部長、同理事、同副会長、同会長。大河内記念会大河内賞審査委員。鋳物協会より論文賞ほか受賞七件。欧米出張四回、うち三回は国際鋳物会議、日本代表一回、代表論文発表一編。デルフト工業大学国際シンポジウムにおいて論文発表。台湾、韓国よりの招聘計三回。労働省、通産省及び鋳物業界団体の事業に協力。著書二編。
葉山房夫――精機学会理事、同副会長、同監事、同名誉会員。粉体粉末冶金協会理事、同監事、同副会長。金属表面技術協会理事、同監事、同副会長、同会長。日本鋳物協会評議員。精機学会論文賞および粉体粉末冶金協会功績賞受賞。欧米出張二回。著書二編。
雄谷重夫――日本鋳物協会編集委員長、同軽合金部会長、同関東支部長、同理事。軽合金学会常任理事。鋳物協会より久保田鉄工賞ほか受賞七件。伸銅協会より論文賞受賞二件。通産省および鋳物業界団体の事業に協力。
広瀬正吉――日本塑性加工学会理事。日本機械学会塑性加工部門委員会委員長。ばね技術研究会小物ばねショットピーニング委員会委員長、同理事。欧州出張一回、国際溶射国際会議において論文発表。著書二編。
草川隆次――日本鋳物協会編集委員長、同研究委員会委員長、同関東支部長、同理事。日本鉄鋼協会理事。日本金属学会関東支部長。日本材料科学会理事。大河内記念会大河内賞審査委員。鋳物協会より論文賞ほか受賞五件。金属学会より谷川ハリス賞受賞。欧米出張四回、鋳物ならびに鉄鋼国際会議に論文発表四編。韓国、台湾、中国、マレーシアよりの招聘計七回。通産省、文部省及び鋳物業界団体の事業に協力。著書三編。
松浦佑次――日本塑性加工学会理事(編集、庶務)、同副会長、同会長。日本機械学会塑性加工部門委員会委員長、同金属加工委員会委員長、同第三企画部会部会長。塑性加工学会より学会賞受賞二件。通産省及び鍛造業界の事業に協力。著書二編。
堤信久――日本鋳物協会編集委員長、同可鍛鋳鉄部会長、同理事。同協会より論文賞ほか受賞四件。日本金属学会より金属組織写真賞受賞。日刊工業新聞社より日本産業技術大賞(総理大臣賞)受賞。欧州出張二回、国際鋳物会議日本代表および副代表。韓国よりの招聘一回。通産省および鋳物業界団体の事業に協力。著書三編。
上田重朋――金属表面技術協会表面硬化部会代表幹事、同関東支部長、同理事。腐食防食協会理事。日本学術会議研究連絡委員会幹事。金属表面技術国際会議実行委員長(昭55於日本)。金属表面技術協会より協会賞受賞。仏国鉄鋼研究所客員研究員。このとき硬質クロムメッキ国際会議に出席。海外に論文発表四編。通産省および科学技術庁の事業に協力。著書四編。
中山忠行――日本鉄鋼協会評議員。日本金属学会評議員。腐食防食協会理事。金属学会よりジェフリース賞受賞。海外出張二回。一つは国際不働態シンポジウム(カナダ)日本代表。いま一つは豪洲ニューサウスウェールズ大学客員教授として。
加藤栄一――日本分析化学会理事。日本鉄鋼協会理事。日本鋳物協会評議員。鉄鋼協会より西山記念賞および俵論文賞受賞。鋳物協会より飯高賞ほか受賞四件。英、米、カナダ、豪洲へ出張五回、国際会議、シンポジウムなどに発表論文六編、豪洲ニューサウスウェールズ大学客員研究員。中国視察一回。
渡辺侊尚――粉末粉体冶金協会理事。同協会より研究功績賞受賞。欧米出張二回。海外における発表論文三編。著書二編。
藤森直往――日本非破壊検査協会編集委員。国際レオロジー会議において論文発表。
中田栄一――日本塑性加工学会理事。日本複合材料学会評議員。日本鋳物協会評議員。松永記念科学振興財団より松永賞受賞。鋳物協会より論文賞受賞。欧米出張二回。コンピューターシミュレーション国際会議に論文発表。中国視察一回。
本村貢――軽金属学会評議員、同金属加工部会長。日本塑性加工学会企画幹事、同編委幹事。塑性加工学会より論文賞ほか受賞二件。英国バーミンガム大学客員教授。
大坂敏明――日本表面科学会編集幹事。腐食防食協会編集幹事。海外投稿論文十編。
研究所は業界に奉仕する事業の一環として、昭和三十年代に研修制度を開設した。創立の折に見習生、実習生制度を設けたが、その伝統が形を変えて復活したと見てよい。
この制度は、受託研修者制度と受託研究者制度の二つに分けられた。前者に該当する入所資格者は高等学校卒業以上の学歴を有する者とし、研修期間は二年とした。この研修者には、週二日間金属工学全般に亘る講義を課し、授業以外の日には希望する研究室において実験研究を行わせた。講義は全研究員が担当した。折から日本の経済成長期に当り、理工系大学卒業生の採用が望めぬ企業からの申込みが多く、将来中堅技術者となるべき人材の養成に貢献した。また中小鋳物企業社長の御曹子の入所もかなりあり、後継者としての技術的素養を身につけるのに役立った。この制度は昭和三十五年四月に始まり、今日に至っているが、修了者数は約八十名に及んでいる。
受託研究者制度はこれより二年後れて始められた。その入所資格者は理工系大学卒業者またはこれに準ずる学力を有する者とし、入所期間は一年以上とされた。受託研究者は希望する研究室に配属されて、定められた研究テーマを完成することを義務づけられた。入所者は年に二、三名程度であったが、いずれも実力をつけて会社に戻り、大成している。
以上とは別に、壮年の実力ある研究者を依託によって受入れたことがままある。韓国、ポーランドなど外国の研究者を世話したこともあった。このようにして、研究所は研究指導業務の面でも内外の期待に応えてきた。
研究陣容の強化と配属学生数の増加に伴って、研究室は狭隘を告げるに至り、増築の必要性が強く感じられるようになった。増築計画は既に塩沢所長の時代からしばしば採り上げられてはいたが、資金調達の目安がつかぬまま時が過ぎた。雄谷所長の時代に至り、雄谷の勇断が実を結んで、ここに新しい研究実験棟の増築が実現した。
この計画は四十七年秋頃より立てられた。雄谷は、翌四十八年が創立三十五周年に当るので、その記念事業としてぜひともこの増築を行いたいとの強い決意を披瀝し、研究員の協力を要請した。一同これに賛意を表し、大学当局の同意も得られたので、早速その準備が始められた。準備委員長には葉山前所長が選ばれ、また研究所運営の幹事役を勤めていた上田、渡辺の両研究員もその補佐役となった。
増築の資金は、研究所に縁の深い企業から寄附を仰いで調達しようとした。創立以来三十五年に亘って培われた研究所の実力がものをいって、この資金調達は成功すると信じて募金活動は開始された。各研究員は自己と親しい企業に働きかけるなどして募金に協力したが、責任者雄谷の寝食を忘れての活動ぶりは凄まじいばかりであった。当時の村并総長もこの計画を讃え、募金に支援の手を差し延べた。
募金の目標額は、初めは一億円であったが、約二年に及ぶ募金期間に百三十二社からの好意ある支援が得られて、最終的にその額は二億八千万円に達した。
建物の設計は施設部と緊密な連絡をとって進められた。初めは、本館左手奥の平屋建てとなっている工作実験室の上を高層化する計画であったが、近年の建築規準法に従うと、この増築のために本館そのものにも大きな手入れが必要となり、無駄な出費を余儀なくされることが判明したので、木造の第二実習場を取り壊して、ここに新しい建物を建てることに計画は変更された。第二実習場は老朽化し、火災の心配もあったので、この方針は好ましいものであった。予期以上の寄附が得られたことが、この新計画の実現を可能にした。
建設は四十九年十月十七日着工され、翌五十年六月三十日に竣工した。建物は四階建て、一部張出しの平屋建てとなっている。延面積は約二千四百平方メートル、旧木造の建物の約二・五倍の広さである。四階建ての部分は、各研究員の居室と実験室に充てられ、平屋部は天井を高くして、ここに各種の塑性加工機械、熱処理炉などが設置された。外装、内装とも白色を基調とし、窓枠の一部、廊下などに赤色を配した近代的な建物で、実験もやりやすく設計されている。玄関を入った右側の壁面に、寄附会社名を鋳出した青銅製の名盤が飾られ、その厚志を後世に伝えるようにしてある。
この建物には半数強の研究員が移り、竣工直後の夏休みに引越をすませて秋より研究活動を開始した。
新館披露の祝典は、翌五十一年三月二十六日新研究棟二階の一室で催された。寄附会社を主たる来賓とし、一同祝杯を挙げて完成を喜び合った。このとき校賓の各務良幸、初代所長石川の嗣子正治を特別に招待し、昔の恩恵に改めて謝意を表した。
この新研究実験棟の完成は、鋳物研究所発展の象徴と見ることができる。その実現に渾身の力を傾けた所長雄谷の功績は特筆に値すると言わなければならない。
近年に至り、研究所の発展に貢献した研究員七名が物故した。人の寿命に限りがあるとはいえ、悲しみに堪えぬところである。以下に物故の順にその氏名を列記し、哀悼の意を表する。
山内弘 昭和三十五年一月二日歿・享年七十歳
石川登喜治 昭和三十九年六月二十三日歿・享年八十四歳
横田清義 昭和五十年六月二十日歿・享年七十六歳
田崎正浩 昭和五十年十月三十日歿・享年八十歳
中山忠行 昭和五十一年八月二十八日歿・享年五十三歳
飯高一郎 昭和五十五年一月十二日歿・享年八十六歳
塩沢正一 昭和五十五年十一月二十七日歿・享年八十八歳
特に中山が現職中の働き盛りの年齢で病歿したことは、惜しんでも余りあるものであった。
終りに前所長の石川、飯高、塩沢の葬儀の模様を付記しておく。
石川の葬儀は三十九年六月二十七日、鋳物研究所と日本鋳物協会の合同葬として、研究所第一実習場で取行われた。当時の所長葉山が葬儀委員長、鋳物協会長九大名誉教授谷村凞が副委員長となり、葬儀を取り仕切った。広い実習場に溢れるばかりの弔問客が詰めかけ、石川の遺徳の偉大さが偲ばれた。
なお、研究所は石川の遺影を永く伝えるため、翌年鋳金工芸家三輪一巴に依頼して石川のレリーフを作り、これを玄関左手の壁面に飾った。
飯高の葬儀は五十五年一月二十九日、駒込吉祥寺において盛大に挙行された。葬儀委員長には、たまたま日本鋳物協会長の職にあった加山が、また副委員長には早大出身の門下生で近畿大学教授の中村幸吉が当り、その責を果した。
飯高は短歌をよくし、歌集数編を世に送った。その辞世の作を添えておく。
研究の六十年はすぎし夢
生々の力いまはかそけく
塩沢の葬儀は五十五年十二月七日、中野宝仙寺においてこれまた盛大に取り行われた。塩沢は早大定年後国士館大学に招かれ、永らく初代工学部長として同学部の発展充実のために貢献した。晩年は学部長の職を退いたが、物故の日まで現役教授の職にあった。そのような関係で、葬儀は、国士館大工学部、早大理工学部金属工学科、鋳物研究所、資源工学科、国士館大電子計算機センターの五者による合同葬の形を採り、葬儀委員長には国士館大工学部長康原章弘が当った。当研究所からは上田所長が弔辞を捧げた。
塩沢の鋳研所長在任時代は、研究分野の一層の拡充強化が計られた時であったが、その推進役となったのが塩沢である。その功績を改めて讃えたい。
鋳物研究所が、歴代所長をはじめとする研究員のたゆまぬ努力と学外からの強力な支援によって、今日の隆盛をみるに至ったことは、前章までに述べた通りである。その実体を明らかにする意味で、現在(昭和五十四年度)における研究所の具体的な規模を示すことにする。
先ず人的構成をみてみると、次のようである。
教職員――管理委員・二十一名。研究員・十五名(専任二名、兼任十三名)。賛助員・一名。特別研究員・十名(客員七名、特定三名)。職員・十六名(事務職七名、技術職九名)。受託研究者・五名。受託研修者・五名。研究助手・九名。個人助手・九名。
学生――大学院後期課程(博士課程)・五名。前期課程(修士課程)・六十名。学部四年生・百十九名。計百八十四名。
右のうち、研究助手と博士課程学生が、実質的には各研究室の研究推進の中核となっている。研究助手は、既に学位を取得した者あるいは課程終了後学位論文作成中の者である(この研究助手は戦後の一時期制定されたそれとは異なる性格のものである)。以下修士課程および学部在学中の学生、受託研究・研修者、個人助手などが手足となって活動している。二百名を超えるこれらの補助者のいることが、研究所の強みであると同時に、彼らに対する教育機関としての役割を果している。
次に経費の面をみてみる。これは、大学より研究所に一括交付される諸経費と、研究員個人が受ける研究費に大別される。昭和五十四年度における大学よりの交付金は一億六千万円強であって、その内訳を次表に示す。
この表における各科目の内容は次のようである。
補助金収入――文部省より大学への補助金を研究所の分として割振ったもの。
寄附金収入――私学振興財団よりの学術研究振興資金。五十四年度より開始された研究所指定の寄附金。
事業収入――企業よりの依託研究費、受託研究者・研修者の研修料など。この収入と前項の寄附金は研究所の実績によるもので、これだけ大学の負担を軽減していることに注目しておきたい。
人件費支出――専任研究員(二名)および職員(十六名)の給与。
教育研究経費――研究用消耗品費、光熱水費、修繕費、鋳研報告印刷費、その他研究所維持のための諸経費。
設備関係支出――教育研究用機器備品および図書購入費。
研究員個人の研究費として第一に挙げられるのは、兼任研究員が教員の資格で理工学部を通じて交付される実験実習費、機械器具費、個人研究費などで、総額三千万円程度である。次に文部省の科学研究費がある。この研究費は個人が申請し、審査をパスしたテーマに交付されるが、研究員の実力がものをいって合格率が高く、採択数は十件近くに及んでいる。交付金の総額は年によってばらつくが、平均して約三千万円というところであろうか。そのほかに、大学の指定課題研究費、公共機関からの依託研究費などが若干ある。
以上を合せると、研究所は年間二億三千万円程度の経費で賄われている勘定となる。ただしこれには兼任研究員十三名の給与は含まれていない。これを含めれば三億数千万円となろうが、いずれにしても、その研究業績に照らし、効率のよい運営がなされているといえよう。
以上鋳物研究所の四十年余りの変遷について述べた。締め括りとして研究所の将来を展望してみよう。
研究所の将来は、その研究の対象となる金属工業の消長に係わる。金属は機械その他の工業製品の構成材として重要な役割を果し、その需要量も莫大である。そして金属工業はより優れた品質の製品を安価に供給すべく、数々の技術革新を行ってきた。その裏に官民の研究機関の貢献のあったことは言うまでもなく、我が鋳物研究所もその一翼を担ってきた。
金属工業の進歩はこれで終ったわけではない。より優れた製品開発への意欲は旺盛であり、そのための研究課題は山積している。このような背景から、当研究所の存在価値は将来高まりこそすれ、衰退することはあり得ない。我々は今後も数々の業績を挙げ、世の期待に応えるべく、努力を傾けるつもりでいる。
さて所内の現状を検討してみると、そこに一抹の不安がなきにしもあらずである。それは若い後継者の補充がうまく進んでいないことである。研究所の中核となって業績を挙げてきた研究員の多くが六十歳前後の高齢となり、しかも年齢の接近していることが後継者を補充しにくくしている。また兼任者が多く、その人事は本属の理工学部の方針に支配される。研究所が理工学部の力を借りて安上りに運営されていることは大きな強みであるが、反面においてこのような制約を受けざるを得ないのが辛いところである。
問題解決に一歩近づく方法として提起したいのは、現在二名の専任研究員の枠を少しでも増やしてほしいことである。理想をいえば研究所は専任研究員のみで構成されるべきであるが、私立大学にそれを望むことは無理であり、研究所を教育の場として活用しながら、研究所の名目を保つという妥協的な方針を堅持することに異論はない。しかしこれまでの研究所の対外活動の成果が評価されるならば、その運営にもう少し主体性を持たせてほしいと思うのである。近年は国家からの私大への財政援助もかなりの額に達し、附置研究所の育成にも関心が払われていると聞く。研究所の主体性拡大の基盤は醸成されつつあると言える。研究所がその方向に前進できるよう、大学当局の善処を望むものである。もし近い将来、人事の面で研究活動が鈍るような事態が起ったとすれば、世の期待を裏切ることになり、また創立以来各務をはじめとする数々の支援者にも申開きができない。ともあれ当面する困難を回避し、有能な後継者の活躍によってこの研究所を更に発展に導きたいというのが、筆者の切なる念願である。
参考資料・石川登喜治「鋳物研究所の使命」(『早稲田学報』昭和十三年五月発行第五一九号 二―七頁)