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第二編 学校

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第一章 早稲田高等学院

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一 前史――大学部予備門としての高等予科――

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 大学令公布前明治維新の鴻業は、旧風を一洗し、開国進歩の国是を実施することになったが、旧来の陋習は文化諸般を覆うて払拭されず、わけても教育制度全般に渉っては、官学尊重の弊風が牢固として官僚の脳裡を占めていた。それにも拘らず私立学校は、着々実力を養い、有能な卒業生を世に送り、本邦の文化向上に貢献するところ多大であった。このため、明治三十五年二月八日の貴族院予算会議の席上、久保田譲が学制改革について、「私立学校で……例えば……慶応義塾、早稲田に在る所の専門学校、小石川に在る所の女子大学、其他二、三の法律学校は……大学の程度と認めて、大学に準じて特典を与へること」ができるであろうと演説するような情勢となり、遂に三十六年三月二十七日勅令第六一号を以て「専門学校令」が公布されることとなった。尤もこれには久保田の先の発言のように、私立学校の大学への昇格は認められてはいなかったが、我が学苑は既にして三十五年の秋、すなわち創立二十年祝典の時から早稲田大学を呼称し、これより二年後れた三十七年四月一日には、文部省告示第七八号により、「東京府豊多摩郡戸塚村ニ設置セル私立早稲田大学ヲ明治三十七年四月一日ヨリ専門学校令ニ依ルノ件認可セリ」とされ、仮令専門学校令によるとは言え、自他共に大学と称することを認められたのであった。

 ところでこれまで大学の予備教育機関とされていた高等学校を最高の普通教育機関に改める議が起り、第二次桂内閣の小松原英太郎文相が鋭意研究調査を進め、四十三年四月に従来の中学校五ヵ年、大学予科三ヵ年、通算八ヵ年の課程を、高等中学七ヵ年に改める案を立て、これを高等教育会議に提出した。当時我が学苑の学長であった高田早苗もその委員であったが、この修業年限一ヵ年短縮案は、委員中でも可、不可の二派に分裂し、久しい間論争の焦点になった。しかも早稲田大学の進歩発展を一途に冀求する大隈が、第二次大隈内閣を組閣すると最も熱心にこの問題に取り組み、一木喜徳郎文相を督励して立案に当らしめ、またこれに次いで大正四年八月文相に就任した高田早苗も鋭意研究調査に力を注いだが、在職十四ヵ月、その間に大正天皇即位大典の準備と執行のため京都へも出張したから、これに全力を傾倒する余裕は必ずしも十分になかったとも言えよう。彼は後に出版した『半峰昔ばなし』の中で次のように述懐している。

元来教育上の改革といふものは、元より軽率に行ふべきものでなく、深思熟慮は勿論、調査に月を重ね日を費して、而して更に教育調査会の如き機関の審議を経なければ、到底実行の場合に達すべきものでない。されば私として虚名をてらひ、成功を急ぐといふ考があつたならば、固より平生の抱負を行ふに躊躇すべきでないが、国策中の国策たる教育方針の改善を首として、重要なる改革を実行するには、少くともなほ一年や二年の歳月を要すると考へた。……文部省に入つたとしても、先づ其省務に通じ、部下の技倆を識別し、而して後に自家の所見を披瀝して之を調査せしめた上でなければ、猪牙かかりに重要な教育問題の解決に向つて進む事は、到底出来難たい事であつた。私をして遠慮なく言はしむれば、私がせめて大隈内閣の組織された当初から局に当る事が出来たのであつたならば、多少の仕事を為し得ない限りもなかつたと思ふが、併し之も畢竟自己弁護に過ぎない。文部大臣としての私は、常務以外の事に就ては、無能に始まつて無能に終つたと見るのが、蓋し適評であらうと自らも思ふのである。 (五九六―七頁)

 しかし矢は既に絃を放れていた。紆余曲折はあっても、大綱は既に定まっていた。かくて大正七年十二月六日、原内閣の文相中橋徳五郎の手で、勅令三八八号による「大学令」が公布され、およそ二十年に亘る学制改革問題に終止符を打ったのである。

 今、この「大学令」の主要な点を挙げると次の通りである。

第一条 大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ薀奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス

〔中略〕

第四条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得

〔中略〕

第六条 私立大学ハ財団法人タルコトヲ要ス但シ特別ノ必要ニ因リ学校経営ノミヲ目的トスル財団法人カ其ノ事業トシテ之ヲ設立スル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第七条 前条ノ財団法人ハ大学ニ必要ナル設備又ハ之ニ要スル資金及少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基本財産ヲ有スルコトヲ要ス

基本財産中前項ニ該当スルモノハ現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券トシ之ヲ供託スヘシ

〔中略〕

第十二条 大学ニハ特別ノ必要アル場合ニ於テ予科ヲ置クコトヲ得

大学予科ニ於テハ高等学校高等科ノ程度ニ依リ高等普通教育ヲ為スヘシ

 そこで我が学苑では、他の私立大学に率先して、新大学令実施に踏み切り、幹部の間で慎重に審議協議を重ねた。この中第一条および第四条は、当然循守すべきものであるが、第七条は我が学苑にとって容易に受け入れられるべきものではなかった。すなわち財団法人として国庫に供託すべき金額は単科大学が五十万円、一学部を加えるごとに十万円で、学苑としては九十万円の大金を供託する義務を負わされたことになる、しかし前々年末に大学令が公布された時、逸早く天下の後援者の同情に訴えて資金を募集する事業を始め、漸くおよそ九十万円近くを集め、新大学の開始期である大正九年四月には約百万円程度の金額を確保する見通しがついた。これに文部省の新たな予算が成立すると二十五万円の補助金を与えられることになるから、高等学院の建築並に設備費に約六〇万円を必要とするにしても、学苑にとって何とか目鼻をつける見通しが与えられるに至ったのである。

 すなわち、主として資金関係を担当した田中穂積は、大正九年二月の『早稲田学報』に意見を述べ、

我邦今日の私立大学の如く創立以来古きも四、五十年を出でざるものの如きは、大学としては尚ほ未だ周到なる保護提撕を要する幼年時代にあるものと云はねばならぬ。然るに此幼年時代にある私立大学に対し一挙幾十万円の巨資を供託せよと命ずるが如きは圧迫の甚しきものであって、孰れの国の大学に果して斯の如き先例があるか、我輩の寡聞なる未だこれを耳にしたことがない。即ち巨額の資金の国庫供託の如きは元来無理なる注文であるから、此無理なる注文を軽減せよと主張するのは極めて公明正大なる主張であって、文部省が二十五万円の補助金を無条件にて提供するならば、貰ふことを辞せぬと云ふのは畢竟此私学圧迫の重荷を軽減せよと云ふ公明の主張に外ならぬ。 (三―四頁)

と政府の暴挙を厳しく此判し、激しくこれを詰っているけれども、勅令で公布されたからには、事の如何に拘らずこれを行わなければならず、そこで資金の運営に絶大な妙を発揮する田中は、第七条第二項に定められた「国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券」の一項を援用シ、四分利付公債額面百円を時価約八十円、総額七二万円で買い取り、これを供託して当面の苦境を乗り切ったのであった。

 そもそも学苑においては、本巻第三編第八章で説述した如く、夙に明治三十二年、高等予科を設立して、四月より七月までに専ら英語を教授し、文学科、史学科、英語政治科入学志望者の便を計った。これは三十二、三十三の両年度に実施されたが、三十四年四月には、全く性格を異にする高等予科に脱皮し、三十五年九月開設予定の自称大学部予備門として、第一期(四月―七月)、第二期(九月―二月)、第三期(三月―七月)の三学期、計一ヵ年半を修業年期とする新機構が生誕した。その授業内容は、倫理、国語漢文、英語、歴史、地理、国法経済、簿記と定められたが、早くも三十六年には、第一高等予科(大学部政治経済学科入学予定者)、第二高等予科(同法学科入学予定者)、第三高等予科(同文学科入学予定者および第一期に限り高等師範部入学予定者)、第四高等予科(同商科入学予定者)の四種に分け、第四高等予科以外にあっては、外国語に英語の外、独逸語、仏蘭西語(第一・第三両予科のみ)、支那語(第一予科のみ)が配当され、また各科を通じて体操が課せられるという変化が見られ、更に明治四十一年以降は、大学部理工科入学予定者のために第五高等予科が設立され、他の四科には見ることのできない多くの時間を配当した数学をはじめ、力学、物理、化学、鉱物、地質、図画等特色のある授業が行われることになった。

 ところが、大正四年に学苑に設置された学制調査会は、高等予科を二年に延長することを報告し、翌年末右の実施が維持員会で決議された後、六年一月の臨時学制調査会ならびに臨時教授会により正式に決定された。当局としては、一年半制の予科に関して他の私立大学の先鞭をつけた学苑が、来るべき大学および高等学校に関する学制改革を前にして、二年制予科についても他大学に先んじて実績を残したいとの強い意欲があったものと推察されるが、その詳細については本巻第五編第五章を参照せられたい。その学内手続に関して、若手教員の間に天野学長に対して強い不満が懐かれ、それが「早稲田騒動」前奏曲の一斑を奏でるものであったが、いずれにせよ、大正六年四月入学生からは、大学予科二年、本科三年、計五年在学することとなり、専門部を別として、卒業は従来のように七月でなく、三月に改められた。

 従って、大正九年新学制への移行に際して、学苑としては、高等予科については一応の経験を保持していたのであるから、その年限を更に一年延長して内容を整備することは、いわば安易の途であったが、それを敢えて選ばず、処女地とも言うべき高等学校新設に踏み切ったのは、ややもすれば「早稲田騒動」により鼎の軽重を問わんとする者がある現実に鑑みて、あらん限り持てる力を新天地の開拓に投入して、学苑未だ健在なりとの認識を広く江湖に懐かしめようとしたものと言うべきであろう。同時にまた、学苑内部に対しても、一種のショック療法によって、騒動のためにややもすれば萎縮するかの嫌いが絶無とは言い難かった数年間の空気を、一新しようとの狙いが存在していたのである。

二 「大学令」に対応して高等学院を設置

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 そこで大正八年三月十日、臨時評議員会を恩賜館会議室に開き、平沼学長ならびに田中理事による経過報告の後、大隈総長もまた大学の採るべき方針を述べ、評議員の協力を依頼した。その結果出席者四十六名全員が委員となり、大学令による大学実現に努力することを誓約した。同年五月一日の理事会で、中島半次郎増子喜一郎の両名に大学予科設置に関する調査を嘱任し、越えて六月四日の定時維持員会では、左記の通り「新大学令実施準備委員」を嘱任して、本格的な実施にのり出した。

平沼淑郎 高田早苗 松平頼寿 浅野応輔 田中穂積 中村進午

金子馬治 中島半次郎 松平康国 内ヶ崎作三郎 増子喜一郎

 他方、これと併行して校舎の新築に着手し、牛込区下戸塚四十一番地、通称穴八幡宮下の大学所有地である運動場四千四十八坪二合六勺をこれに当て、八年八月整地を始め、十二月二十二日上棟式を挙げ、翌九年三月には、第一学年生を収容するに足る木造二階建本館及普通校舎各一棟、延九百三坪五合ならびに木造平家建雨天体操場一棟建坪二百坪および附属建物の竣工を見た。

 ところで本校が、新大学令に伴う高等学校令に準拠しながら、何故校と呼ばずに院と称したのであろうか。これについては平沼学長の次のような説明がある。

第一に、何故に高等学校といふ名称を下さなかつたのであるかといふ疑問が屢々起る。高等学院は大体に於いて高等学校令に準拠するものであることは勿論であります。しかし高等学院は早稲田大学の附属であつて、其予備教育を施すところである。ここに於いてか、我が早稲田大学に適応するために学科の配当その他に於いて、聊か斟酌を加ふるだけの権利を保留してゐるのであります。高等学校といふと全然高等学校令の命ずるところに従はなければならぬ。そこで校の一字を変へて院としたのであります。 (『早稲田学報』大正九年八月発行第三〇六号 六―七頁)

 高田早苗も、当時維持員の位置にあって大学令実施時の当局者でなかったが、

私は今でも記憶して居る。其当時学校の人が文部省へ行つて高等学院と名を付けると話した所が、文部省の当局者も中々分つたことを言つたそうである。それも宜からう。同じやうなものが幾つも出来るのは面白くない。矢張りいろいろ特色がなければならぬから高等学院極めて賛成である。 (『早稲田学報』大正十三年三月発行第三四九号 四頁)

と付言している。

 要するに、「学問の独立と学問の活用と模範国民の造就」とを建学の本旨とする我が学苑四十年の歴史に準拠し、学科の編制、教授時数の配当等に少からざる参酌を加え、自由・自治・協同・自学自習を重んぜんとする教育方針を採らんがため、他の官立高等学校と異った独自の学風を起さんことを期し、敢えて校名の一字を改めて院としたのであった。

 かくて大正八年九月十日付で、東京府庁を経て文部省に対し新大学令に依る大学設立認可申請手続きを採ったが、これに対し翌九年二月六日付官報二二五一号を以って設立認可が発表され、同月二十日文部大臣中橋徳五郎の名による当該認可書が東京府庁を経て下附された。そこで我が国有数の教育学者であり、先に本大学高等師範部長の要職にあった中島半次郎を新設の早稲田高等学院長の職に据え、またかねてから人選方をひそかに依頼していた元学苑の教授であり、当時教授として京都大学に在職していた藤井健治郎の推薦により、関西学院高等部長として令名の高かった野々村戒三を迎えて、教頭に任じた。またこれを助けるに定金右源二を事務主任、松永材を学生係主任とし、九年三月十日よりは大学本部内に事務室を設け、開設に関する事務に当らしめた。

 既にして高等予科廃止が予測されているので、新設高等学院での授業担任の希望が多く、自薦他薦の運動も激しかったが、適材適所の原則により、慎重に審議を進めた結果、五十嵐力以下三十七名の左記授業担任者が決定した。

修身 院長 中島半次郎

歴史 教頭 文学士 野々村戒三

国語 五十嵐力

同 文学士 吉川秀雄

同 山口剛

漢文 川合孝太郎

同 前橋孝義

同 牧野謙次郎

同 菊池三九郎

英語 文学士 石井信二

同 勝俣銓吉郎

同 マスタア・オブ・アーツ 高谷実太郎

同 中桐確太郎

同 文学士 梅若誠太郎

同 文学士 山崎貞

英語 学生係主任 文学士 松永材

同 会津常治

同 P.P.Ziemann

同 早稲田大学文学士 日高只一

数学 秦孝道

同 文学士理学士 本田親二

同 理学士 富田逸二郎

同 文学士理学士 梶島二郎

同 藤野了祐

同 崎田喜太郎

地理 文学士 中城陟

法制 法学士 中村万吉

経済 ドクトル・オヴ・フヰロソフイイ 北沢新次郎

地質鉱物 理学士 松島鉦四郎

動物植物 農学士 香川冬夫

図学 工学士 民野雄平

独逸語 文学士 山岸光宣

同 文学士 舟木重信

露語 早稲田大学文学士 片上伸

支那語 早稲田大学文学士 青柳篤恒

仏語 法学士 五来欣造

体操 歩兵大尉 南晴耕

 かくて三月二十日午後五時から丸の内永楽倶楽部教職員打合会を開き、学院側から三十教授、大学側から平沼・松平・浅野・塩沢・田中の五理事と、前田幹事・土屋副幹事・中村教務課主任・蠣崎庶務課主任、この外創立斡旋者として増子喜一郎松平康国が出席し、諸般の事務打合せを終り、懇親会に移って歓を共にして散会した。

 学院新設の報が、全国に伝わったのは、期日としてはあまり早くはなかったが、それでも一般生徒の反応はきわめて強烈で、一万三千部の規則書は瞬く間に領布し尽くされ、追加増刷が必要となり、四月一日から三日間に亘る第一学年入学試験の受験者は、総数二二四八名、定員の約三・七倍に及ぶ盛況ぶりであった。

 大正九年四月十六日、新入学生六百名を迎えて、本学院講堂(学生控所)で入学式を挙げ、十九日の月曜日から授業を開始した。クラスは編成は、一学級四十名として、文科は政経、法、文、商の志望別で計十一学級、理科は四学級とした。なお念のため学則(抜粋)と初年度の学科配当を左に掲載しておく。

早稲田高等学院学則(抜粋)

第一章 総則

第一条 本学院ハ高等普通教育ヲ授クルヲ以テ目的トス

第二条 本学院ニ文科及理科ヲ置ク

第三条 文科ヲ終リタル者ハ早稲田大学政治経済学部、法学部、文学部及商学部ニ理科ヲ終リタル者ハ同大学理工学部ニ入学スルノ資格ヲ有ス

第二章 学科課程

第一条 各科ノ修業年限ハ之ヲ三学年トス

第二条 各科ノ学科課程ハ大正八年文部省令第八号高等学校高等科学科課程ニ拠ル

第三条 各科ノ授業科目及毎週授業時数左ノ如シ

第四章 入学、在学、退学及懲戒

第二条 左ノ各号ノ一ニ該当シ且体格検査ヲ受ケ之ニ合格シタルモノハ本学院ニ入学スルコトヲ得

一、中学校第四学年ヲ修了シタル者

二、高等学校尋常科ヲ修了シタル者

三、高等学校高等科入学資格試験ニ合格シタル者

七、甲種商業学校卒業者ニシテ早稲田大学商学部ニ又工業学校卒業者ニシテ同大学理工学部ニ進入ノ志望ヲ有スル者

第三条 入学志望者ノ数各科予定ノ人員ニ超過スル時ハ選抜試験ヲ行ヒ其成績優等ナル者ヨリ順次入学セシム

四、専門学校入学者検定規定ニ依リ試験検定ニ合格シタル者

五、高等学校高等科入学ニ関シ指定ヲ受ケタル者

六、文部大臣ニ於テ一般ノ専門学校ノ入学ニ関シ中学校卒業者ト同等以上ノ学力アリト指定シタル者

第八章 生徒心得

第一条 早稲田大学ノ教旨ヲ服膺シ堅ク院規ヲ遵守スヘシ

第二条 自敬其身ヲ修メ以テ品性ヲ陶冶シ徳器ヲ造就スヘシ

第三条 学業ハ自修ヲ主トシ務メテ実力ヲ涵養スヘシ

第四条 常ニ身体ヲ鍛錬シ剛健快活ノ気象ヲ養成スヘシ

第五条 共同ノ貴任ヲ重ンシ情義並ヒ尽シ以テ善美ナル学風ヲ発揮スヘシ

第五十二表 早稲田高等学院第一学年学科配当表(大正九年度)

高等学院第一学年 第二外国語 英語ヲ第二外国語トスルモノニハ其所属組ノ英語ヲ兼修セシム

 入学式が終り、授業開始後に、開院式を行うのは異例のことであるが、準備その他の都合上、授業が開始されてから一週間後の四月二十五日をトし、朝野の名士、校友等四百五十名余を集め、午後三時から、仮設式場屋内体育場で盛大な開院式が挙行された。主なる来賓は、文部省専門学務局長松浦鎮次郎、陸軍省田中経理局長、男爵後藤新平、陸軍大将井口省吾、千住製絨所長今井武雄、文学博士村川堅固、第一消防所長河内荘太郎、中華民国留日学生監督林鵾翔、陸軍少将菱刈隆、日本女子大学校長麻生正蔵で、中島院長の報告、平沼学長の式辞、大隈総長の式辞があり、最後に松浦の祝辞を以て式を閉じた。

中島学院長報告の要旨

早稲田高等学院は主として高等学校令に依りまして、高等普通教育を完成し、合せて国民道徳の充実を計りまするのは無論の事でありますが、同時に早稲田大学の各学部に進んで参りまする時の基礎教育を与へるといふことも考へなければならぬのであります。

欧米各国の何れの国に於きましても、夫々の国民養成、夫々の人格の養成を主としながら、一面には矢張り大学に行く準備教育をして居りまして、其の間に両者の懸隔する事はないのであります。此の二つを如何にして調和して行くかといふ事は、私共が余程努力しなければならぬ点であらうと考へて居ります。……

訓育に就きましては、総て学生の自治心に訴へまして、自律的に進んで行く様な立憲的の国民を養成したいと考へて居ります。……此の事に就きまして、本学院は教職員一致いたしまして何等か高等学校程度の訓育の上に成績を挙ぐるやうに致し度いと考へて居ります。体育に就きましても、唯今夫々其の設備に取掛つて居るやうな次第であります。……

大隈総長式辞の要旨

此の高等学院に於ては基礎教育を施すのであるが、人間の思想感情またあらゆる人間の行為の基礎となるべきものは何であるかといふと、即ち道徳である。これを極単純に説くときは、人間の良心である。良心から自由も独立も又犯すべからざる権利も生れて来るのである。

これを約めて見れば、人間の性は善なり、人間には良心ありといふことになり、之を研くのが即ち修養である。修養に由つて人格を鍛へ上げるのである。此の人格が集合して団体をなさば、是が国家となる。国家、共同生活、また社会共同生活の根本はこれから生れて来るのである。

此の学院の教科目に就いて、御参考までに愚見を申し述べて見たい。第一は語学のことである。語学は最も必要である。語学を修めない人は心が偏狭に陥つてしまふ。出来得る限り之を学ぶのは必要である。或科目、殊に科学を学ぶには、英語のみでは不十分である。法律に就いて見ても、アングロ・サクソンの国には法典がない。之に反して日本には法典があるから、法典を有つてゐる所の独逸とか仏蘭西とか、即ち大陸諸国の国語を学ばなければならぬ。斯ういふことにもなるから、一つではいけぬなら二つを勉強したら宜しからう。語学が十分出来ると、第一自己の知識が進むのみならず、偏狭な心が少くなつて来る。而して語学は若い若い時でなくては進まぬ。……此の頃は大学から出る学生も其の他の高等の学校から出る学生も、語学の力が余程不足の様である。

国民道徳は今日大いに向上した。それと同じく道徳的教育或は修養に依つて人間の心は向上する。長へに上つて行く。現在に満足することは出来ない。人間は将来を有つてゐる。将来の国民教育は将来を理想としなければならぬ。そこに高い理想を喚起する必要がある。即ち私が常に唱へる所の高遠の理想である。この高遠の理想が国家を盛んにするのである。高遠の理想とは何であるか。基くところは哲学である。政治も今にさうなるかも知れぬ。愚人では政治は出来ない。無学な人では政治は出来ない。利己的の人では政治は出来ない。さうすると所謂哲人政治となる。

如何なる職掌を有つてゐる者でも、国民として国家に対する所の共同の務といふものは同一である。……とにかく国民が協同して、公共の為に力を尽すといふ精神が全体の人類に普及したならば、今日の困難なる社会問題も労働問題も釈然として氷解するのである。

斯ういふことを漸く高等学院へ這入つたばかりの青年に言つても或は消化し切らぬかも知らぬが、これからは其の方面の修養を積んで行かなければならぬ。第一独立した人を作る。模範的の人格を作る。英人何者ぞ、亜米利加人何者ぞ。模範を欧米に示す。是の気象がなくてはならぬ。……

 繰り返して言うが、学院建学の精神は、『生徒心得』にも示す通り、徳器の造就と、身体の鍛錬にあり、このため運動場の整備もまた緊急の課題であった。そこで、校舎に連なる南方の丘陵地(現文学部校舎所在地)の使用許可を、当時これを管理していた陸軍省に願い出で、九年七月七日に七百四十七坪の借地の件が認可された。よって直ちにこれを切り開き、十年にはトラックや、柔剣道場を新築した。

 ところで既設校舎は、第一学年生の定員に対応するものであり、十年度以後は、当然学生数も増加されて行くから、これを収容する校舎の増築が緊急に要請されたので、直ちに第二期校舎の建築が始まり、十年三月に、普通校舎木造二階建延建坪四百九十三・五坪、特別教室用校舎木造二階建延三百十八坪、他に同じ目的のための平家建校舎二棟計百八十九・五坪が完成し、また正門とこれに連なる外塀も竣成して一廓を限る威風を整えた。

三 第二高等学院の増設へ

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 かように年余にして内容・外観共に整備され新興早稲田の気運が都の西北に満ち満ちたが、学院開校の暮、突然として学院増設の風評がいずこからともなく起り、大きな希望に胸を膨らませた若き学徒の心をしきりに揺がせた。すなわち学苑の経済を潤沢にするために、新しく二部を設立せんとしたことがそれであった。耳総い政経志望組の生徒が逸早くこれを聞きつけ、最初の学生大会を本部楼上に開き、中島院長と常任理事田中穂積の説明を聞いた。当時学生であった後年の名誉教授酒枝義旗は、その著『早稲田の森』に数頁を割いてその顚末を述べているが、院長の説明はともかくとして、田中は懇切にその理由を述べ釈明を行った。その要点は左記学報の記事と同じく大体次の通りであった。

我が早稲田大学は従来とても大学部各科に年々一千二三百名乃至一千五百名の学生を収容したのであつて、夫れだけの教育設備があるに拘はらず、僅かに其三分の一に過ぎざる五百名位の少数の収容を以て満足することは何としても出来ない訳である。そこで其欠を補うが為めに企てた所のものが即ち這般の高等学院第二部の新設である。

新たに開設する高等学院第二部も亦た勿論徹頭徹尾新高等学校令に準拠し、一学級の生徒定員から、学科目、其程度、設備、編制、総て既設の第一部と異る所はないが、唯其相違する点は既設の高等学院第一部は中等四年の修了者若くは之と同等以上の学力あるものを収容して、其修業年限が三ケ年であるに対して、新たに開設せんとする学院の第二部は中学五年の卒業者若くは之れ以上の学力あるものゝみを収容して、其修業年限を二ケ年とした点である。そこで孰れが大学の基礎教育として其完全を望み得べきかと云ふことが自から眼頭に横はる重大問題となつて来るのであるが、修業年限は孰れにしても共に七ケ年であつて其間に長短の別はないのであるから、此問題は到底議論によつて其可否の決せらるべき筈なく、是非共実験に徴して其成績を見るより外に名案はないのである。而して之れを実験に徴して其優劣を判断すると云ふには、同一の学園に於て之れを試むるにあらざれば、実験の正確を期する所以でないことは素より論を俟たぬ。是れが即ち我が学園が此度び既設の高等学院第一部の外に、二ケ年制度の第二部を新設するに至つた所以であつて、依て以て一面に於ては大学各学部の学生数を増加し従来の教育設備を十分に活用すると同時に、他の一面に於ては庶幾くは以て我が教育界の大なる謎である此難問題を実験に徴して解決せんとする希望に外ならぬ。従て第一高等学院の外に別に第二高等学院としないで、故らに既設の分を高等学院第一部と称し新設の分を第二部と称し、此処数年間慎重なる比較研究を重ぬる積りであるが、愈々其実験に依つて優劣の明かになつた暁は、三ケ年制度か二ケ年制度か孰れが其一方に帰着するのであつて玆に初めて我が教育界も正確なる指針を得ることが出来るであらうと思ふ。 (『早稲田学報』大正十年二月発行 第三一二号 二頁)

 この騒ぎも田中の熱弁に圧されてこれ切りで終息し、予定の如く二年度から修業年限二ヵ年の二部が設けられて修業年限三ヵ年の一部と同一校舎を使用した。

 ところが、田中のこうした定員増加に関する計画には、実質的な経済上の減失があった。それは第一回入学生の中からかなり多数の脱落者が出たからである(九年六月末日の数字では、定員六百名に対し在学生五百八十五名であるが、実際通学していたのは、それをかなり下まわっていた)。そこで同年九月一日に第二学期編入試験を実施し、その結果文科五十四名、理科十九名合計七十三名の入学を許可した(十年六月末日の高等学院二年生総数は、これら編入生を加えても五百二十名に過ぎない)。入学率は文科五四パーセント、理科三一・六七パーセントであったが、翌年二部を開設してからは、両部合算すれば一応満足しうる数を維持しえたので、編入試験は最初の一回切りで廃止された。そして三年度には、学苑キャンパス内に校舎を新築し、これを第二高等学院と称し、杉山重義を院長に、定金右源二を教頭に任じた。

 因にこのとき新設された校舎は、鉄筋コンクリート造、地下一階、三階建、建坪一五七・五坪、延坪五〇三・五八坪であった。このとき教授・講師に任ぜられたのは左記の通りであった。因に○印は第一と兼任である。

第二高等学院長 杉山重義

教頭 定金右源二

国語学科主任 五十嵐力

早稲田大学文学士 飯田敏雄

○秦孝道

理学士 富田逸二郎

渡俊治

○勝俣詮吉郎

早稲田大学文学士マスター、オブ、アーツ 影山千万樹

早稲田大学文学士○片上伸

早稲田大学文学士○吉田源次郎

マスター、オブ、アーツ○高谷実太郎

工学士○民野雄平

中村仲

文学士 内ヶ崎作三郎

リオネル、ジヨージ、クロツカー

久松廉吾

文学士○山崎貞

早稲田大学文学士○矢口達

○前橋孝義

理学士○松島鉦四郎

○深沢由次郎

文学士○舟木重信

古楠顕理

理学士 阿部良夫

佐藤仁之助

早稲田大学文学士○西条八十

○菊池三九郎

文学士 清水泰次

ヘルマン、ジー、スペンサー

○繁野政瑠

早稲田大学文学十○日高只一

○鈴木貫一郎

文学士 石井信二

歩兵大尉 土橋仁之進

文学士 山本勇造

歩兵大尉 南晴耕

 爾来両学院は順当な歩みを続け、第一回の修了生も大学各学部を卒業して学士の肩書を得、社会に巣立った。ところが、ちょうどその大正十五年春、慈父の如く慕われていた中島第一高等学院長は、劇務のために倒れて退職し、ひたすら精養に努めたが、半年余の同年十二月二十日に逝去した。その遺徳を慕った第一回修了生有志は、胸像建立を思い立ち、急遽募金運動を起し、製作者松平栄之助の奉仕もあって、翌年本館玄関前に建立を終った。

 中島に次いで第二代学院長に就任したのは教頭から昇格した野々村戒三で、以後十六年間この職に在り、中島の遺志を継いで多くの子弟を薫育した。他方、好事魔多しというか、翌昭和二年一月二十四日杉山重義第二高等学院長が他界した。杉山は慶応義塾中退後渡米して神学を学んだが、河野広中らと盟約を結んで収監された程の熱血漢で、東京専門学校時代末期より英語ならびに倫理を学苑の高等予科や商科で講じたが、教育に注ぐ並々ならぬ情熱が学苑首脳部を動かし、抜擢されて第二高等学院長に就任したのであった。杉山の胸像が同三年十二月第二高等学院前庭で除幕されたのは、第一高等学院に対する対抗意識の所産では決してなかったのである。杉山の没後宇都宮鼎が第二高等学院長となったが、その在職期間は必ずしも長きに渉ったとは言えず、昭和九年四月十九日に永眠し、その跡を杉森孝次郎が継いで教育の衝に当った。

四 昭和初期の社会と学院生

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 学苑の附属機関のうちでも、特殊な地位にある高等学院の歴史は、各時代ごとに注目に値する意義を持っていた。特に両学院二代目の院長が在職する昭和初期の十年は、善かれ悪しかれ多事な時代であった。年代は少し溯るが、高等学院創設の六年前、すなわち大正三年に第一次世界大戦が勃発し、列強がこれに参加して、全地球は動乱の坩堝に捲き込まれた。我が国もまたこれに参加し、極東の平和を守るため、当時東方に駐在のドイツ軍を駆逐する目的で、陸海両軍を動員したが、短時日の間に山東半島のドイツ租借地と南洋諸島とを占領したのみで、その後は列国の兵站部として兵器を各国に送り巨利を博した。戦乱が終結すると世界的不況が全世界を席巻したが、我が国は各国に遅れること数年、漸く昭和に入ってからその不況の波に曝されるようになった。「大学は出たけれど」との言は、偽りではなかった。学院生もまたこの苦汁を嘗めたのは言うまでもなかった。しかも不況の影響を深刻に受けたのは農村で、その口減しのため娘売りや嬰児殺しさえ頻々と行われ、あるいはまた徴募された農村の子弟から救済の途が閉ざされている現状を聞いて奮起した青年将校は、昭和七年の五・一五事件や、十一年の二・二六事件を惹起し、高官連殺害の暴挙さえ敢行した。これより先、大正六年にはロシアに革命が勃発し、ロマノフ王朝を打倒し、また翌七年ドイツでも王政廃止に伴い八年には共産党が誕生し、我が国でも左翼的社会主義が急激に活動を開始した。青年たちの間にも、先に述べた農村の疲弊救済を等閑にした政府の怠慢を憤る声が全国に瀰漫し、学苑も当然こうした影響から超然としてはいられなかった。なかんずく血の気の多い高等学院生について見れば、後に四回も閣僚に名を連らねた橋本登美三郎は、一年生時代赤い思想の洗礼を受け、路上で大山郁夫としばしば大声で激論していたし、後年の露文科教授小宮山明敏は、大正十二年五月の軍事研究団発会式に、堀内中将と渡り合って反軍国主義の尖兵となったりした。同じ十二年十二月難波大助が、当時の摂政宮裕仁親王殿下を虎の門で要撃したのも、その思想的背景が明らかではなく、出席不良で既に第一高等学院から退学処分に付せられていたとはいえ、この時代の一部の流れを示していたものであった。

 更に次のような事件もあった。すなわち昭和三年末の全日本学生聯盟社会科学聯合会主催の講演会に出席した高等学院生が、その帰途検束されたため、退学八名、停学五名の処分のやむなきに至つたので、両学院教授・講師は自粛を求める申合せを行った。それにも拘らず、六年末には学院生は学生大会を開き、常設代表委員制の設置等数項目の要求を当局に迫り、十五名の停学、三名の譴責と、程度は比較的軽かったにせよ、処罰されるという好ましからざる状況が見られた。尤も、右のような好ましからざる状態が常に存在したわけではなく、高等学院創立当初より教職員と学生との親睦融和を計り、人格の養成を願っていた。中島院長は大正十年には早くも学友会を設け、次のような会則を定め、四月からこれを実施した。

早稲田高等学院学友会会則(抜粋)

総則

第一条 本会ハ早稲田大学附属早稲田高等学院教職員・学生及ビ本学院ニ縁故アリテ会長ノ推薦ニ依ル者ヲ以テ組織ス

第二条 本会ハ会員ノ親睦ヲ厚ウシ完全ナル人格ヲ養成シ以テ善良ナル校風ヲ発揚スルヲ目的トス

第三条 本会ハ早稲田高等学院学友会ト称シ本学院内ニ置ク

第四条 会員ヲ分チテ左ノ三種トス

一 第一種会員 学生

一 第二種会員 教職員

一 賛助会員 本学院ニ縁故アリテ会長ノ推薦ニ依ルモノ

第五条 本会ニ左ノ諸部ヲ設ク

一 学芸部

編纂部・音楽部・弁論部・英語部・文芸部・科学部・美術部

一 運動部

剣道部・柔道部・野球部・庭球部・競技部・山岳部・水泳部・相撲部・端艇部・弓術部・蹴球部

第六条 第一種会員ハ少クトモ一部ヲ選択シテ修ムルコトヲ要ス

役員及ビ選挙

第八条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク

一 会長 一名 本学院院長ヲ推ス

会長ハ本会ヲ代表総理ス

一 副会長 一名 本学院教頭ヲ推ス

副会長ハ会長ヲ輔佐シ会長事故アルトキハ代理ス

一 部長 各部一名 第二種会員中ヨリ会長之ヲ嘱託ス

部長ハ各部ノ事務ヲ管理ス但シ部長ノ中ノ一名ハ会長ノ嘱託ニ依リ各部ノ連絡交渉等ヲ司ル

一 幹事 各部二名 委員ノ互選ニ依リ会長之ヲ嘱託ス

一 委員 各部若干名 各部々員ノ互選ニ依リ会長之ヲ嘱託ス但シ委員ハ二部以上ヲ兼ヌルコトヲ得ズ

委員ハ其ノ属スル所ノ部ノ事務ヲ司ル

一 事務員 二名 本学院事務員中ヨリ会長之ヲ嘱託ス

事務員ハ本会ノ庶務及ビ会計ヲ司ル

〔以下略〕

 このうち第五条に掲げられた編纂部で、最初から幹事として牛耳っていたのは、大阪高等商業学校の最上級でありながら退学して高等学院に入学した中谷博で、学友会雑誌をもって単なる各部の記録集に堕することを頑強に拒否し、小説、詩、和歌、俳句などに多くの頁を割く総合雑誌として創刊するよう努力した。また運動部の各部は、従来の予科生と同様に、大学部の学生とともに、早稲田大学の名の下に対抗競技に出ていたが、独り野球部だけは、他の高等学校からしばしば挑戦があったので、これに応ずるため、大学とは別個に独自の部を形成し、当時早大野球部の名監督であった飛田忠順と確執を生むという一幕もあった。杉山第二高等学院長も、

学生をして独り専門的学術の準備を為すに止まらずして、先づ第一に全体としての人生を味ひ且つこれと同時に立派な人格者として世に立ち得るやうな人たらしめることに心を用ふるのが緊要である。

(『早稲田学報』大正十三年九月発行 第三五五号 六頁)

との信念の保持者であったから、学友会活動を重要視したことは、中島に劣るものではなかった。従って、大正十一年、第二高等学院が独立するとともに第二高等学院学友会が誕生したのは当然であった。ただ、修業年限の一年の差は、第一高等学院学友会と比較して、第二高等学院学友会の活動が、世人の目にとまることを多少なりとも少くしたことは、やむを得なかったと言うべきであろう。

 今、昭和十一年における両学院の学友会に設けられた各部を列挙すると、第一高等学院学友会にあっては、

学芸部――編纂部・弁論部・英語部・文芸部・科学部・絵画部・写真部・史学部・独語部・仏語部

運動部――剣道部・柔道部・野球部・庭球部・競技部・山岳部・水泳部・相撲部・端艇部・弓術部・ア式蹴球部・ラグビー蹴球部・籠球部・スケートホッケー部・スキー部・卓球部・器械体操部・拳闘部・空手部

会館部 (第一高等学院生の会食・会合の場所として大正十五年四月新設)

が数えられ、第二高等学院学友会においては、

学芸部――雑誌部・英語部・弁論部・文芸部・学術部・独逸語部・仏蘭西語部

体育部――剣道部・柔道部・野球部・庭球部・競技部・ア式蹴球部・ラグビー蹴球部・山岳部・端艇部・弓術部・スケート・ホッケー部・籠球部・相撲部・水泳部・スキー部

が含まれている。なお、両学友会とも学生会費は年八円、教職員会費は毎月月俸の二百分の一である。因に当時の学費は年百四十円であった。

 さて此の辺で、昭和四年五月の『早稲田大学学生生計調査』を一瞥して見よう。この調査は早大社会福利事業研究会が約半年の日子を費して早大各部科の学生の生活を調査研究した結果を、およそ十七表にまとめたものである。回答の能・不能により不同があって一定しないが、高等学院では、二百名以上が調査の対象になっている。ところで第二表の収入学資金額統計では、最低二円から最高百三十円に及び、平均額も三十六―三十九円を示しているが、当時は物価の水準も低く、三十―四十円もあれば生活ができた時代であったから、本表の主要部分を占める下宿生活者でも、親元から支給されるこの程度の額で一応賄って行けた。しかし三十円以下となると、他から補給しなければ、自宅通学者でない限り生活の目途が立たなかった。そこでこれを補うため、進んで労働に従事した学生も僅少ではなかった。これを苦学生と言う。彼らは人力車を引いたり、新聞輸送の大八車を引いたりなどをした。単なる新聞配達などの軽労働では、十分な賃金を得ることができなかったからである。今日で言うアルバイトに準ずるものでは、資産家とか政治家などの住宅に寄寓して雑用を賄い、あるいはその子弟の学業を助けて通学する者は、高級なものであった。

 右の他、昭和四年の学苑学生生計調査の中で、高等学院学生について知り得られるものの若干を摘記すれば、室料は両高等学院生平均九・九九円で、全学平均一〇・二一円を多少下まわり、食費は三食二円が両学院を通じて最高で全学の数字と等しく、一五円がそれに次ぐのは、「附近ノ三食賄屋ニテ食事スルモノナルベク」(『早稲田学報』昭和四年

第五十三表 早稲田高等学院生収入学資金額(昭和四年)

第五十四表 早稲田高等学院生学資金支給者(昭和四年)

五月発行第四一一号四一頁)と説明が施されている。研究費(教科書以外の図書・雑誌・新聞・学会費等)については二円ないし五円が多数を占め、平均四・八四円は全学平均五・一四に劣り、交際費についてはこれまた二円ないし五円が多数を占め、平均三・七二円は全学生平均四・一九円よりもやや低く、また娯楽費については二円が最高で三円がこれに次ぎ平均三・五五円と、これも全学平均三・八〇円に及ばないが、恐らく高等学院生の年齢が低いことが原因であろう。次に文房具費は両学院平均一・六三円であるが、中で第一学院理科は一・八五円と高いけれども、大学部平均二・四四円、殊に理工学部三・六四円には遥かに及ばない。最後に、乗車賃(主として通学に必要とするもので、帰省・旅行等を含まない)は、最低五十銭から最高十五円までの幅があるが、一円が最も多く、二円、五円、三円の順で、平均三・〇三円は全学平均二・五八円をかなり上回っているが、恐らく大学部や専門部生の方が学苑周辺の下宿屋を利用することが多かったのが原因であろう。尤も、十円以上の乗車賃を必要とした者が両学院を通じて四名、全学では十四名も数えられたのは、当時の物価と比較していささか多きに失すると思われないこともない。

 この他、第一高等学院の学生自身が自発的に学友たちの便宜を計って起した一連の施設があった。会館部と称し、その事業として、「同じ釜の飯を食う」ことで親密な交友が生ずるという素朴な意味から、先ず食堂の経営に乗り出した。次に売店では靴屋を開いて足に奉仕し、同時に学院規定の原稿用紙を製作して手の動作を助けた。また僅かばかりの本を資本に、図書室を設け、他に集会所や休憩所を設けて、休息や懇談、討論の用に供した。時折レコード・コンサートを催して情操教育に資したのも、遠く故郷を離れて遊学する学生と、その両親との間に親しい交流を保たしめるために、通信事務の仲介の労をとったのも、会館部の大切な仕事であった。これは日中戦争の拡大に伴い、父母と子弟との連絡が、ともすれば途絶え勝ちになる時には、一層必要とされ、活用されたのであった。

 学友会と言えば、運動部の活躍は学芸部以上に江湖の注目するところとなった。すなわち、高石勝男は大正十三年茨木中学から第一高等学院に入り、水泳界の明星として、入学早々のパリ・オリンピックに百メートルならびに千五百メートル自由形に五位を占め、また八百メートル・リレーに四位を記録した一員として全国民にその名を記憶せられるに至った。次に昭和三年のアムステルダム・オリンピックでは、商学部に進学した高石勝男が百メートル自由形に三位に入賞したほか、第一高等学院二年生米山弘は、高石とともに八百メートル・リレーに二位の栄誉に輝いたチームの一員であった。また三段跳に日本人として最初の金メダルを獲得した織田幹雄が、第一高等学院修了生であったのも特筆されなければならない。更に昭和七年のロサンゼルス・オリンピックでは、第一高等学院二年生の横山隆志が水泳四百メートル自由型で四位を占め、更に八百メートル・リレーに第一位となったチームの第三泳者であり、第二高等学院二年生の阪上安太郎が水球選手として参加したほか、棒高跳二位の西田修平、走高跳六位の木村一夫などいずれも第一高等学院修了者であった。第二次世界大戦前の最後のオリンピックとなった昭和十一年ベルリン大会では、第一高等学院在学生として、理科三年の不破整がア式蹴球、文科三年の宗像卯一が籠球、第二高等学院二年の小柳富夫が水泳飛込に参加したほか、棒高跳二位の西田修平、水泳四百メートル自由形三位の牧野正蔵をはじめとして、多数の選手や役員の中に高等学院修了生が数えられた。また同年のガルミッシュ冬季大会に派遣されたスケート陣の中には第二高等学院二年生南洞邦夫が発見されるのであった。

五 創立十周年・二十周年記念式典

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 これより先、昭和五年六月一日に、第一早稲田高等学院創立第十周年記念式が、大隈講堂で行われた。

式次第は、

一、国歌合唱

一、学院長式辞 野々村戒三

一、記念歌合唱

一、総長祝辞 田中穂積

一、文部大臣祝辞 田中隆三

一、第二学院長祝辞 宇都宮鼎

一、教授講師代表祝辞 松島鉦四郎

一、修了生総代祝辞 百瀬一

一、在学生総代祝辞 高見新二(文科三年)

一、校歌合唱

であり、十周年記念式歌は稲森宗太郎作詞・小松清作曲の「緑の丘の葉がくれに 自由の鐘の鳴るところ 若き心に集ひては 友よ 面に微笑あり」を一番とし、四番の「そよげ緑の森の葉よ 響け朗の鐘の音 黒き腕をいざ組みて友よ 謳はん母校の名」に至るものであった(『創立十周年記念誌』による。『創立二十周年記念誌』には「山田耕作作曲」と記されている)。なおこれに伴う式典行事としては、一日には学生一同招魂殿に参拝し、一日より三日間は学芸大会を、最終日の三日には学院のトラックで体育大会を催し、一般に公開した。

 第二高等学院においても、翌昭和六年十月大隈講堂において創立十周年記念式を挙行、第一高等学院の場合のような記念式歌の披露はなかったが、ほぼ類似の式次第で進められ、午後には招魂殿での永眠教職員の慰霊祭が虔修された。更に翌二日は戸塚運動場にて学友会主催の体育大会、三日には大隈講堂において同会主催の学芸大会が開催せられた。

 また昭和十五年六月九日には大隈講堂において第一高等学院創立二十周年記念式が挙行され、同月六日より十日まで、在学生主催記念式、学芸大会、体育大会、記念晩餐会等、多彩な行事が行われた。また二年N組羽塚績作詩・三年I組小林秀樹作曲の「肇国二千六百年 春乾坤に 廻り来て 瑞雲映ゆる この朝 健児二千の 意気高し」を一番として、三番に及ぶ二十周年記念歌も発表された。

 第二高等学院でも昭和十六年十一月五日創立二十周年記念式典が挙行されたが、午前八時に開始したとはいえ、大隈老侯墓前参拝、杉山・宇都宮前院長墓前参拝、記念式典、創立以来勤続教職員表彰式、物故教職員慰霊祭、記念講演会、記念晩餐会のすべてを一日で終了するよう配慮しなければならなくなったのは、対米英開戦を一ヵ月後にひかえた時局の緊張を反映するものであった。

 第一高等学院においては、右の創立二十周年記念式典を前にして、主事が失態のため地位を失うという事件が発生したため、その責を負って、院長ならびに教務主任が辞表を提出していたが、七月十五日の維持員会において野々村院長の辞任に伴う後任として第三代院長原田実の嘱任が議決せられた。また第二高等学院では九年四月に宇都宮鼎院長の没後、杉森孝次郎が院長に就任した。

六 戦争と学院の「新体制」

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 かように学内でも、首脳部が更迭して再整備に忙しかった時、昭和六年に発生した満州事変は止め処もなく拡大し、上海事変から支那事変と、名称が変るとともに、戦域も殆ど無限に拡張して行った。しかもこうした事態の進展に対して、アメリカ、イギリスをはじめとする西洋諸国は黙視することなく、我が国に対して干渉を強めたからこれらの国々とも干戈を交えなければならないとの強硬論が次第に大勢を制するに至り、一触即発の空気が濃厚となって行った。学苑もこうした客観的情勢に超然としていることが不可能となり、十五年九月十四日の夏季休暇明けに田中総長は「学園新体制ヲ……宣言スル」(理事会要録)ため教職員八百名を大隈講堂に集め、「教職員各位に訴ふ」と題して左の如く演説した。

此難局は如何にしても一年や二年で突破出来るものではな〔く、〕……次の時代を荷うて起つ現在の青年学徒に俟つ所寧ろ多きに居ることは明白であります。……今にして青年学徒が旧套を脱して心的革命を起し、正確に時局を認識して、自己修養の為めに敢然として覚醒するにあらざれば国の前途危しと私は憂ふるのであります……先づ我学園が他に率先して翻然旧套を蟬脱し、教育革新の烽火を挙ぐるならば、必ず他の学園も風を望んで追随すると私は確信するのでありまして、私は我が学園こそ正に陳勝呉広を以て任すべき時機であると思ふのであります。……我々は先づ他に率先して、時勢に適切なる方策を講じて、青年学徒をして此時難に処して立派に其使命を果し得る資格を養成して行かなければならぬ。……今日我邦の青年学徒……最大の弱点が体力の孱弱にあると云ふことは明白である。そこで体位の向上を通じて明朗濶達、剛健質実、堅忍持久、勇往敢為の精神を昴揚し、天晴れ世界を股にかけて活動し得る有為の人材を造り上げなければならぬ。

(『早稲田学報』昭和十五年九月発行 第五四七号八―一四頁)

 田中総長は以後学苑が進むべき「体育中心の新方針」を宣言したが、この新方針は学徒錬成部設置という形で具体化され、総長自らこの部長となり、第二高等学院教務主任杉山謙治を副部長に、同学生係主任今田竹千代を主事に、三橋体育研究所所長三橋喜久雄を専任教授に当てるなど、最善の陣容を整え、十五年十月十五日を期し、「国是即応」、「体力錬磨」、「集団訓練」を綱領に掲げて発足した。

 学徒錬成部による錬成は、両高等学院、専門部各科、高等師範部各一学年生につき、年間一週間の久留米錬成道場における合宿訓練を以て昭和十六年より開始せられた。年間僅かに一週間の錬成で事足れりと考えられていたとすれば、楽観にすぎるとの批判は当然であるが、当時の学苑の現実を以てしては、それ以上を望むことは不可能と言うべきであろう。しかし、錬成部は、両学院・専門部各科・高等師範部で従来体操と称せられている科目をこの年より体錬と改称して同部で担当、更に十七年よりは体育会を吸収して同部の特修体練(国防訓練部、武道部、競技部)への組み入れを断行したから、両高等学院の学生訓育に占める錬成部の比重は増大の一途を辿った。

 錬成部が学苑の非常時局教育の表看板として発足した翌年の夏、文部省は官・公・私立各大学および専門学校等の長七十名を集め、報国隊の編成を「示達」したので、田中総長は、夏季休暇中にも拘らず、十六年八月一日、大隈講堂に全教職員および在京学生三千数百名を集めて訓示を行い、左の如く学生の奮起を促した。

若し愈々敵の航空機が帝都に襲来すると云ふやうな非常の事態になれば、無論戒厳令が布かるることでありませうが、戒厳令下にあつては普通の労力以外に、或は消防の為め、或は警備の為め、或は救護の為め、或は運輸・通信等の為めに、自動車の運転、乗馬等の特殊技能が要求せらるるのでありますが……第一に身体が特に強健であることを必要条件とし、又第二には元気旺盛にして非常の忍耐力を有することを必要条件とするのであります。……即ち高等教育を受けつつある青年学徒こそ、今此の非常時に際会し挺身蹶起すべきことは、当然の義務でありますが、就中我が早稲田学園の健児は責任の重大なることを痛感し、天晴れ青年学徒の模範たる覚悟を以て、一億国民の先駆となつて最善の努力を傾倒することを希望するのであります。

(『早稲田学報』昭和十六年八月発行 第五五七号 三―六頁)

 この日に発表された編隊組織によれば、総長自ら早稲田大学報国隊の隊長として責任の衝に当ることとし、十二部隊に分けられた中の第十一部隊が第一学院、第十二部隊が第二学院、それぞれの学院長が部隊長に委嘱せられた。例えば第一学院については、早くも同月、「陸軍兵器補給廠(十条)へ勤労奉仕隊十日間出動、この種作業として最初のこと、教職員を含め延二千六百四十八名、謝礼金単価一円二十銭、総計三千百七十七円六十銭也」(『学友会雑誌』解散記念号昭和二十四年二月発行一〇四頁)との記録が残されている。

 他方十六年以降、「緊迫セル時局」を反映して、在学・修業年限の短縮が政府の決定するところとなるに伴い、二年制の第二高等学院にあっては特に学力不足が懸念された結果、従来の二年制を三年制に改正する必要が痛感され、十七年度新入生については旧二年制と新三年制とを半数ずつとしたが、十八年度からは第二高等学院も修業年限については全員三年制に改め、第一高等学院と差が見られないような措置を講じた。また、十六年度からは、両学院とも、特修科を新設し、教員がそれぞれの専攻分野について設けた特定課題の中から、三科目以内を学生に選択受講させるという新機軸を実践して、学生の学習欲の沈滞を防止するよう努めた。しかし、対米英開戦後半年余の十七年八月になると、政府は高等学校高等科および大学予科の修業年限はすべて二年に短縮すると発表するに至った。

 十八年七月、登校時のゲートル着用が決定されて、学苑の戦時体制はますます濃厚を極めたが、十二月一日には「在学徴集延期停止」の結果、「学徒出陣」により、学苑キャンパスに残留した学生数は激減し、両学院文科生中翌年九月修了見込者中希望者に対する理工学部転学措置が開始した。しかし、学苑に残留するよう決定した学生に関しても、十九年度からは学徒勤労動員が通年実施となったので、両高等学院とも、教室において学生を訓育する機会の発見は困難となり、出動先の職場で、休憩時間などを割いて、哲学、経国、古典などを引率教員が講義するのが精一杯となった。十九年七月三十一日に作成された記録では、第一高等学院では、東京都計画局、東京護謨株式会社、日本鋼管浅野船渠、日本特殊鋼管大森工場、東京都防衛局、陸軍航空本部、群馬県尾島町その他へ、第二高等学院では、東京都計画局、鍾淵ディーゼル工業城東工場、日本鋼管川崎製鉄所、東京都防衛局、汽車製造会社東京工場、神奈川県相模水力建設部、池貝鉄工所、群馬県生品村などへ、同日前後に出動している。従って昭和二十年、終戦を前にして、学徒の利用が困難になった錬成施設の軍命令による強制借り上げにより、学徒練成部がその歴史を閉じるの余儀なきに至っても、終戦が実現するまでは、両学院とも教育機能の大半は麻痺のまま推移したのであった。

 学徒錬成部の廃止が決議されたのは昭和二十年四月二十七日の理事会であったが、その前年六月には第一高等学院校舎は東京師団経理部に転用され、第一高等学院は第二高等学院北半部に移動せしめられた。昭和二十年度にあっては、志望者を東京に集めて入学試験を実施することが不可能なため、両学院とも調査書を主たる資科として入学者を選抜したが、第一高等学院では理科の志願者が文科の九倍を越すというかつてない現象が現出した。また、新入生は六月末まで勤労動員先で作業を継続するよう決定されたので、入学式は七月まで延引せられたが、入学式挙行に先んじて、空襲対策のため第二高等学院の木造校舎は残留学生により除去せられて全く姿を消し、更に戸山町の第一高等学院木造校舎は、五月二十五日深更、焼夷弾に見舞われ烏有に帰せしめられて終戦を迎えることとなった。

七 終戦と授業再開

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 これより前、第二高等学院の第三代院長杉森孝次郎は、田中総長の病状が前途容易でないことが明らかとなった昭和十九年六月辞任し、第四代院長に赤松保羅が就任していたが、終戦を迎えると、授業は両高等学院とも本部キャンパス内の旧第二高等学院校舎を使用して昭和二十年九月に再開された。尤も、再開されたと言っても名ばかりで、二部授業採用のやむなきに至った教室事情に加うるに、極端に逼迫した食料事情により、教職員の出勤も学生の出席も不規則がちにならざるを得なかったから、戦時体制の残滓を完全に払拭するには時日を必要としたのであった。十月になると、原田第一学院長は教務部長に転じ、岡村千曳が疎開先より迎えられて第四代学院長に任ぜられ、第二高等学院長をも兼ねることとなった。教育の戦時体制より平時体制への転換は、復員学生受入れの臨時措置をはじめ、理科学生の文科転入の大幅な許容その他、種々の過渡的異常事態を生み出したが、昭和二十一年度よりは、高等学院高等科および大学予科の戦時に短縮された修業年限が三年に復旧するよう決定されたので、学苑にあっても両学院とも、十九年四月入学者以降すべての高等学院生が修了までに三年を必要とするように改められた。また昭和二十一年には学苑に新校規が実施され、高等学院に関しても院長公選制度に切り替えられたので、同年十月一日渡鶴一が第一高等学院長に、竹野長次が第二高等学院長に嘱任せられるに至った。

 二十二年十月には、戸山町旧グラウンドにバラック建六教室が建築され、第一高等学院の授業の一部が移り、また二十三年四月には更に六教室が加えられて、第一高等学院の授業の半数が第二高等学院の仮寓から解放され、日曜日授業というような変則教育を解消することができた。そもそも両学院開校時にあっては、第一高等学院は三ヵ年の日子を活用して旧大学予科とは全く面目を一新した理想的高等学校教育の実を挙げようとの理想に燃えていたのに対し、第二高等学院は大学学部との関連を密接に保持することにより、第一高等学院で授ける三年分の知識を第一高等学院よりも一年短い期間に吸収させる速成教育を目標に掲げるものであった。それが、戦時に修業年限を同一に改め、戦後もその改正を踏襲して両高等学院とも修業年限を三年とし、しかも何ヵ月にも亘り同一校舎の共同使用を余儀なくされたのであるから、第一、第二と区別する理由は那辺に存するのであろうかと首を傾げるものが学苑外に見られても不思議ではなかった。

八 学制改革と旧制学院の廃止

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 さてこの間にあって、占領軍は対日政策の重要なる基本方針として教育の自由化を指令し、範をアメリカに採って、民主的学制改革の実現を迫った。当時理事・法学部長であった後年の総長大浜信泉は、昭和二十二年七月、「新学制と早稲田学園」と題して、左の如く記している。

早稲田学園は、五学部の外に、二つの高等学院、専門部四科、高等師範部、専門学校その他いくつかの程度のちがつた学校をふくんだ一つの学校集団である。この複雑な構造をもつた学園を、いつ、どうして六・三・三・四の新しい体制にのりかえるか。まず、下の六・三制は問題外として、四年制の新制大学は、むろん、これを設置せねばならない。また、これこそが、早稲田大学の中核でなければならない。また、制度的に見ても、現在の三年制に一年つぎ足しさえすれば、問題は簡単に解決できる。しかし、学部の種類は、綜合大学という観点からも、また財政上の理由からも、現在の五学部で満足すべきではなかろう、例えば、理学部、医学部、農学部等の要望の声は年久しいものがある。綜合大学としては、たしかに本質的な問題だが、今のところ、急に実現は望めそうもない。学園は、現在、二万余の学生を収容している。むろん、数それ自体は、誇るには足りないが、しかし、財政的には、この数の上に立つている現実を無視するわけにはゆかない。ところで、一学部の収容能力にも、おのずから一定の限度があるのであるから、どうしても間口をひろげることを考えねばならないであろう。

新制の高等学校の設置についても異論はないであろう。ところで全国に無数の高等学校が出来ること、学生の年齢が十六、七歳に低下することを考えあわせると、早稲田の高等学校は、その規模を余り大きくすることは、得策ではないであろう。それは、一面、全国の高等学校から秀才を集めるためと、他面、早稲田大学を単に京浜地区の地方的大学になり下させないためにである。 (『早稲田大学彙報』昭和二十二年七月二十日発行 第四号 一頁)

 学苑における「新制の高等学校」は、旧制の高等学院と同じく「高等学院」の名称を採用することになるのであるが、正確には「早稲田大学附属早稲田高等学院」が「早稲田大学高等学院」に名称を変更するとともに、いずれも「高等普通教育」を授けるのを目的とするとは言いながら、新高等学院は義務教育である三年制の中学校卒業者を入学させるものであるから、義務教育である小学校の上に四年または五年間旧制中学校で学んだ者を入学させた旧高等学院と同日に談ずるのは誤りであり、昭和二十四年四月、新高等学院が誕生したのは、旧高等学院の歴史の終焉であって、旧高等学院よりの移行と見るべきではないのである。新高等学院の設立に関しては、別章に譲ることとするが、新高等学院の生誕の主力となったのは第二高等学院のスタッフであり、第一高等学院にあっては、そのスタッフを中心として人文学部を設立しようとの計画を進めたが、不幸にして学苑当局の容れるところとならなかったという事実をここに記しておこう。こうした動きをもって、大正中期より戦時まではっきりと見られた両学院の特質が、戦後に至ってもなお消失することがなかった証左であると見るのは、強弁にすぎるであろうか。

 最後に旧制両高等学院最終年度の学科配当表と、両高等学院の入学志願者および入学者の一覧表とを掲げておく。なお後者は、各種資料に見られる数字に若干の差異が存在するので、大学史編集所嘱託中西敬二郎が適当と思われるものを採って作成したものであるのを申し添えておきたい。

第五十五表 第一早稲田高等学院学科配当表(昭和二十三年度)

文科

理科

第五十六表 第二早稲田高等学院学科配当表(昭和二十三年度)

文科

第五十七表 早稲田高等学院の入学志願者および入学者