昭和二十二年十月十日、当時第二高等学院長であった竹野長次は、附属学校長側の委員の一人として教育制度改革委員会の委員を嘱任された。この委員会の設立目的は、昭和二十四年度から発足することを義務付けられた早稲田大学の、いわゆる六・三制への移行に関する具体的方策を検討することにあった。
翌二十三年二月五日、委員長大浜信泉の名をもって島田総長に提出された報告書「学制改革要綱(案)」の中に、(新制)早稲田高等学院の名が初めてその姿を表す。すなわち、
第八 高等学校
一、高等学校は一校を設置し、その定員は一八〇〇名とする。
二、高等学校は早稲田大学附属早稲田高等学院と称する。
三、高等学校は本大学の予科としての性格をもつものとする。(無試験にて学部に進学し得る)
第十一 新学制実施の時期
一、学部及び高等学校は昭和二十四年四月から開校する。
とある。が、しかし、このことはすんなりと決まったわけではないのである。
教育制度改革委員会の目的とするところは六・三制への移行措置にある。当時の学部、第一・第二高等学院、高等師範部、……等はすべて新制学部へ、工業学校は工業高等学校へと名称を変えればよい。この新制高等学院の設置は移行のためではなく、新設であって、委員会としては中心をなす議題ではなかったのである。
そこで、新制高等学院に関しては、これを作るか作らないかということから討議が行われた。作るとしたらその趣旨とするところのものは何か。定員を幾らにするのが適当か。これら根本的なことから始められた。
結局、作ることに決まったのであるが、これについて逸見広は次のように書いている。
……旧学院は早稲田大学の純然たる予備門で、学部進学者は殆んど全部学院修了生で占め、学院生も日本全国、というより支那大陸はむろんのこと、フィリピン、タイ、ビルマからさえ集っていたのである。しかし新制高校生の年齢の低下と、戦後の食糧事情、住宅の払底、経済的変動などのために、全国から集り来るであろう事は到底考えられず、新制学院から学部進学者の全部を送る構想を墨守すれば、将来の早稲田大学は京浜地区のいわゆる地方大学に転落する事が明らかに予想された。しかし新制学院を全然置かないとなると、子飼からの早稲田ッ子がなくなるわけで、それではというので、年間学部に採用する全学生数の約五分の一の定員と云う事で、新制学院の設立がまず決定された。そして新制学院設立の趣旨は、将来早稲田学園の中堅をなす学生を育成するという点にあった。
(「学院の話」『学院雑誌』第一号昭和二九年一月発行より)
学制改革要綱の建議に基づいて、四月二十三日高等学院設置委員会が組織された。委員長には竹野長次が、そしてその委員長の推薦のもとに、小林正之・稲垣達郎・小林正(以上は第一)、逸見広・樫山欽四郎・萩原恭平(以上第二)の六名の委員が、両高等学院から嘱任された。
委員長は設立完了後、初代の長たることが予定されていたが、ただしその任期は昭和二十四年九月末日までであった。
かくして新制高等学院の設立に関する計画は竹野長次の考えを中心にして進められ、逸見広は新学院の教頭に、旧第二学院の院長、教務主任、学生主任、事務主任の四役がそっくり新学院の同じポストに移行することになったのである。なお、学生主任なる役職名は、昭和二十四年十月より生徒主任という名称に改称された。
十月二十五日、大学は東京都に早稲田大学高等学院の設置を申請したが、都からは翌年二月十日付で認可の通達があった。
しかし、その認可も逸見広の次の言葉にもある通り、簡単に認可されたわけではなかったのである。
……ところで二十三年から開校した学校は、戦後間もなくでもあるし、移行と称して校舎関係その他も将来の条件だけで簡単に許可されたようであった。しかし学院は一年遅れたために新設という事になり、校舎、設備など、可なり詳細な検査を受けなければならなかった。当時はまだ戸山町には現在の木造校舎だけだったし、検査が通過したのは早稲田大学の信用の方が大きかったのではないかと思っている。一例を言えば、校舎と生徒数に対して、便所の数が足りない事を指摘されたほどであった。……
ところで、新制高等学院の設立目的は何であったか。それは、東京都に提出した申請書の中に明記されている通り、
本学院は、早稲田大学建学の精神に基づき、中学校における教育の基礎の上に高等普通教育を施し、一般的教養を高め、健全な批判力を養い、国家及び社会の形成者として有為な人材を養成するとともに、更に進んで深く専門の学芸を研究するに必要な資質を育成することを目的とする。
である。これは現在の早稲田大学高等学院(二十五年十二月二十日改称)の学則、第一章第一条でもある。そしてこれに加うるに、早稲田大学の中核体となるべき人物を養成するということにあったのである。
認可も下り、第一、二、三学年を同時に募集するという入学および編入試験が、三月から四月にかけて実施された。次にその時の入学・編入試験要項の抜粋を参考までに掲げる。
募集学年
第一、二、三の各学年を募集する。
受験資格(男子に限る)
1 第一学年
イ、中学校を卒業した者。
ロ、外国において学校教育における九年の課程を終了した者。
ハ、文部大臣により中学校を卒業した者と同等以上の学力があると認められた者。
2 第二学年
イ、新制高等学校第一学年を終了した者。
ロ、前項に準ずるもの。
3 第三学年
イ、新制高等学校第二学年を終了した者。
ロ、旧制中学校(五年制)を卒業した者。
ハ、専検合格者。
ニ、前項に準ずるもの。
募集人員
第一、二、三学年各約四八〇名。
出願期日
郵送受付 自三月一日(火) 至三月十日(木)
出頭受付 自三月八日(火) 至三月十九日(土)
出願手続
出願手続は左記のものを取揃え期日迄に本学院事務所に提出すること。
イ、入学志願票(本学院交付のものに記入)
ロ、出身学校の卒業又は在学証明書。猶一学年受験者は出身学校長の調査書を添へること。
ハ、専検合格者は合格成績証明書。
ニ、入学検定料 金一、〇〇〇円。
ホ、郵送によつて出願する者は願書受理の通知を受けるために住所氏名を明記した郵便葉書一枚。
試験科目)
入学後の外国語
第一外国語 英語 仏語 独語 露語
第二外国語 英語 仏語 独語 露語
第一、第二外国語のうちから一ヵ国語を選択し志願票に記入のこと。
試験施行及び合格発表日)
イ、第一次試験(学力検査)
ロ、第二次試験(面接及び身体検査)
入学手続
1 入学を許可された者は第二次合格発表の日から三日以内に入学手続を完了すること。
2 入学手続に要するもの左の通り。
イ、誓約書及び在学保証書(本学院交付のものに記入)
ロ、出身学校の卒業又は修了証明書、専検合格者は合格証明書。
ハ、授業料その他。
I 入学金 三、〇〇〇円
Ⅱ 授業料 年額八、五〇〇円の予定。但し三期分納。
Ⅲ 学友会費、自治会費等は追つて発表する。
早稲田大学附属早稲田高等学院学則(抜粋)
第一章 総則
第一条 本学院は、早稲田大学建学の精神に基き、中学校における教育の基礎の上に高等普通教育を施し、一般的教養を高め、健全な批判力を養い、国家及び社会の形成者として有為な人材を養成するとともに、更に進んで深く専門の学芸を研究するに必要な資質を育成することを目的とする。
第四条 本学院の生徒収容定員は千四百四十名とし、各学年四百八十名とする。
第五条 本学院を卒業した者は、早稲田大学の学部に入学することができる。但し志望学部によつては、特に銓衡することがある。
第十三条 生徒は、教科課程の定めるところに従い、各学年三十単位以上、三学年に亘り九十単位以上を取得しなければならない。
第十四条 各学年の教科課程及び毎週授業時数は、次の通りとする。但し都合により適宜変更することがある。
早稲田高等学院教科課程)
(筆者註)
一、学則は第八章第四十四条を以って終る。
二、一般の高校の卒業に必要な単位数は八十五である。本学院の第十三条の高い条件は第五条に関係がある。このため後に取得単位八十五以上九十未満の生徒に対し、本大学進学を放棄する場合に限り、高等学院の卒業を認めるという内規が適用されることになる。
三、他面には早稲田大学の概観が記載されている。
この時実施された第二、三学年の編入試験は、相当に決断を要することであって、いわば無謀とも言われるべきものであった。なぜならば新制高等学校の発足は、二十三年度からで、我が学院は一年遅れている。この時の編入試験は、食糧事情、住宅事情、進学率等すべて悪い時期に、一年先きに新制に移行した他の新制高校からその在校生を大量に引き抜いて二、三年を編成するということになるのである。
樫山欽四郎は言う。
学院の評判が悪くなったのは発足時に一年から三年まで新しい生徒を一度に採用したことに起因する。……普通、一年生だけが最初にいて、それが二年、三年と進級して行くまで二学年、三学年は無いというのが学校を創設する場合の常識だが……
(昭和五十一年六月二十日談話)
昭和二十四年度の志願者数は次の通りであった。
一年 一一八五名 二年 一三五九名 三年 二四一二名
その少なきを驚くことなかれ。それ程当時の新制高等学院は無名であった。それでも早稲田大学の知名度を背景として、これだけの志願者があったのである。
後に分ることであるが、三年の一組主任は次のように語った。
「僕は新制高校を卒業しているのです。そして早稲田大学を受験して失敗したのです。ところが学院で高校生を募集すると友達から聞いたので受験したのです。僕みたいなのは、この組にも随分と多いのではないですか」とある生徒がいっていました。また先日、学院生が角帽をかぶって困るという生徒主任の通達で、該当する生徒を呼び出したところ、「先生、僕は専門部から移ったので学院の外に第二学部にも籍があるのです。それで角帽をかぶっているのですけれど……」と弁解されましたよ。
と。
一、二、三、全学年を受験した生徒もいたという珍しい入学編入試験であった。
四月二十三日、大隈講堂において新入生一、二、三年および父兄来賓が多数出席する中、午後二時から第一回入学式が挙行された。
式は学院長竹野長次の式辞に始まった。竹野は文学的な美文調をもって次の主旨の所懐を述べた。
入学生諸君にお喜びを申し上げる。我が新制学院は学部と歩調を合わせて本年度より開校の運びに至った。本学院は早稲田大学の建学の精神にもとづき、中学校における教育を基礎として、高等普通教育の完成を果たすことを目的とするものであるが、学部への進学を目指す諸君はあくまでも早稲田大学の中核体たる人物となるべく努力してもらいたい。そのためには勉学に励み、生活に密着した学問を心掛け、豊かな人間性を培って欲しい。次に諸君は自主性と独創性を涵養し給え。自由の天地は自主性ある人間にのみ開かれる。自らの判断による行動は尊い。記憶だけの知識を排し、実生活や実際的な活動と遊離しない学問を修得するように心掛けたい。さらに早稲田大学附属早稲田高等学院の第一回入学生たる諸君は、新しい歴史を創る責任を自覚してもらいたい。
続いて樫山学生主任の挨拶があり、時岡事務主任の事務上の報告があってから、一同校歌を合唱し、三時半式は終了した。
この日は新制学院にとって永遠に記念されるべき日である。なぜならば、遠くは早稲田大学が開校された明治十五年十月二十一日に、近くは同名の(旧制)早稲田大学付属早稲田高等学院の開院式が行われた大正九年四月二十五日に相当しうる日であるからに外ならない。竹野院長の脳裏には、開院式において、緋のガウンを召され、次代の日本を担う若者に諄諄と説く大隈老侯の姿が思い浮かんでいたことであろう。
さてここに誕生した新制高等学院は、どのような特色を持ったものと考えればよいであろうか。設立に携わった委員の顔触れその他から、旧制第一学院を父親とし、旧制第二学院を母親とする家族の長子、そして特に母親に似た嫡子と考えることに異論は少ないのではなかろうか。事実「稲穂に高」の校章をつけ、丸帽を用い、両学院の校舎を継承しているのである。かくして多くの新制高校が、その前身を旧制中学校あるいは高等女学校とするのとは異なり、学院は旧制高等学校から移行した数少ない新制高等学校であると言える。
細部については、前掲の二十四年度の編入・入試要項を見て頂きたい。これには英語以外の外国語でもって受験することが許可されており、入学後は二つの外国語を必修とすることが義務付けられている。そしてその外国語も、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語のいずれをも選択することが可能である。且つ入学後いずれの外国語も第一語学とすることができることになっており、設立初期には英語以外の外国語を第一語学とするクラスも編成されていたのである。その他の科目についても、いろいろと特徴を備えていた。一例を挙げるならば、選択の「社会」は、哲学、社会学であった。そのため教員の採用規定も大学と同等の資格を要求されているのである。
この年、我が国の教育制度は、大学まで六・三制の実施が完了し、新たに民主主義を基とした教育に代るのであるが、具体的にどのようにすることが民主的であるのかとなると必ずしも明確ではなく、戸惑いながら手探りで進んでいったというのが日本国民全体の実情であり、また学院の実情でもあったのである。高等学院のある行事をとってみても、三十年の長きに亘って、新設され、改良され、更にまた改正されて紆余曲折の末、現在に至ったものも多い。その経過を年を追って述べていこう。
○昭和二十四年
授業開始の前に完了していなければならないのが教員人事であるが、その顔ぶれを見ると、この時約七十名いた教員の割合は、
旧第二高等学院関係者 三八パーセント
旧第一高等学院関係者 一二パーセント
旧高等師範部その他 一八パーセント
新任 三二パーセント
であった。そしてその身分関係はいろいろあって、教諭、講師、助手等さまざまであった。その教諭の中でも、学院だけ授業をもつ専任教諭もあれば、学部に本属があって学院は兼担であった者もいた。前者は新任教員であり、且つ前任学校における教歴の比較的長い者および旧第二学院から移籍されたやや年齢の若い者であり、後者は旧第一・第二学院その他に属していた年齢の高い者であった。また事務職員は、時岡事務主任以下すべて旧第二学院の人達がそのまま新制学院に移された。
こうして、取敢えず新制学院の門出を見たわけである。ところで学院運営に関する事項は、学部における教授会に相当する資格を備える必要から、役職者および各学科主任で構成された「学科主任会」がこれに当った。その学科主任は殆ど大学における経験者である兼担教諭がその任に当っていた。
更に学科担当者の顔触れからして、旧第二学院から移行された教員の専門は文科系であり、第一学院の教員は理科系が多い。
五月に学生係(生徒)主任は、樫山欽四郎から島村教次に交代したが、発足当初の役職者および学科主任は左記の人人であった。
学院長 竹野長次、教頭 逸見広
学生係主任 島村教次
同 副主任 小林昇・小路一光
学科主任(括弧内はその学科名)
川副国基(国語) 中西秀男(英語) 斎藤一寛(仏語) 岡田幸一(独語) 篠崎高之助(理科)
服部博(数学) 樫山欽四郎(社会) 松崎功(歴史) 川又昇(選択)
事務主任 時岡孝行
さて次に校舎のことについて一言しておこう。
一年は、久留米道場から移転した木造校舎一六号館(現在の文学部三三号館に改築)、二年は、開校のため急遽建築にかかり、やっと間に合せたモルタル校舎一七号館(現三四号館)を用いた(以上戸山町)。三年は、旧第二学院の校舎であった一四号館(現一四号館で社会科学部事務所)の二階と三階の一教室を用いた。
一、二学年はA組からJ組まで十クラスずつ、三学年はA組からL組までの十二クラスの編成であった(JからL組までは理科組、他は文科組)。
先に記載した入学・編入試験要項の学則第十四条・教科課程に準じて、四月二十八日に授業が開始された。
ともかく幕が上がった。しかし未解決の問題は山積みされていた。その中でも最大の、しかも二十四年度中に果さなければならなかったことは、三年生を戸山町に呼び寄せるための校舎の増築であった。それも増築資金がなかったのである。
六月十八日、父兄会創立大会が挙行された。二百名を超える多数の父兄出席の下に、会長青木政最氏、副会長福井順一氏らの役員選出が行われた。そして早速会長の提案により、新校舎建設のための寄付金募集の件が採択された。目標金額は千八百万円(父兄一人当り一万円)ということであった。
九月二十日、任期満了に伴い学院長の選挙が行われ、有権者二十七名(内四名欠席、一名無効)のうち逸見票一を除き二十一票をもって竹野現院長が再選された。
竹野長次は「院長重任に際して」と題して『早大新聞学院版』(昭和二十四年十月一日発行)に次のように、その所信を述べている。
高等学院はこの四月開校したばかりでまだ十分に軌道に乗っていない。この新しく誕生した学院を整備充実する責任を私は痛感している。まず第一に実現しなくてはならないことは現在、二ヶ所に分かれている教場を戸山町校舎にひとまとめにすることである。そして独立した教育的環境の中で教師と生徒とが、融和したなごやかな気持で、たがいに勉強して行くことが必要である。そこで一番困っていることは校舎増設の資金の件である。幸い父兄会が寄附金のことに努力して呉れているが予定通りの成果が得られない。然し校舎の増築と独立した教育的環境をもつこととは、どうしてもなしとげなければならない。この点について生徒諸君も協力して貰い度いと思う。……生徒のための読書室も是非設けねばならないし、学友会の部室のようなものも緊急に欲しい。……
これに対して生徒側は反発し、「教育危機と一万円寄付」(前記早大新聞)と題して反対声明を発表している。
二学期は始まった。今学期こそ一生懸命に勉強しようと学園に帰ってきた我々の前に一万円の寄付と三千円の二期分授業料の納入が待ち受けていた。授業料は良いとしても一万円の寄付となると考えざるを得ない。学生々活の窮乏化はアルバイト難によって急に倍加され、底知れぬ金づまりはついにそれを救いえない状態につきおとした。
昭和二十四年度の授業料は年額八千五百円であることを考えれば如何に大金であったか、理解されるのであって、この反対意見は父兄の何割かの意見でもあり、また当然であったかも知れぬ。が、しかし増築は実行しなければならない。このような対立が生じたのは、敗戦後の日本の悲しい貧しさのためである。なお、学院では、これを手始めとして、施設増改築の度ごとに父兄に寄付をお願いすることになった。
募金はなかなか予定通りには行かなかった。しかし九月末、寄付金総額四百二十万円で、新校舎一八号館(現三二号館)三階鉄筋コンクリート建て、一・二階実験室の建築工事は開始されたのであった。工事と並行して募金も続けて行われた。
十月二十六日から二十八日まで午後、各学年ごとに父兄会を開催、更に十一月十九日(土)三年、二十日(日)一・二学年別に父兄会を開いて再三に亘って寄付金の件を要請したのであった。これら父兄会からの寄付金は、すべて復興会を通して本部に納入されたのである。
最後に二十四年中に行われた行事の中、次の事項を追加しておく。
六月一日、組主任会創設される。
七月九日、学友会(現生徒会)の創立総会が開催され、三十八部が発足した。
七月二十一日より十一日間、東京都主催の教職員再教育講習会が開かれ、初日に暁星学園講堂において戸川行男「特殊児童心理学」の講演を、逸見教頭以下受講した。
○昭和二十五年
二十五年二月十九日、学院委託の大学入学資格認定試験が施行された。
三月三日、学院最初の進学判定会が行われ、その時の判定基準は次の通りであった。
一、不可(五十点未満)二以内は通級、不可三以上は判定による。
二、欠席は授業日数の四分の一以内進級、ただし欠席理由明らかな場合は三分の一まで認める。
三月五日、入学試験第一次(学科)施行。試験科目は、国語・社会・数学・理科・英語の五科目で、このうち社会は一般社会、東洋史、西洋史のうち一科目選択であった。各科目とも十点満点の試験であった。因に志願者数は千三百六十九名(二十五年度より定員五百名となる)であった。
三月十二日には第二次試験(面接)が実施された。
三月二十五日、第一回の卒業式が大隈講堂で厳かに挙行された。卒業生約四百名が出席、父兄約二十名も列席する中で、午前十時時岡事務主任の司会で式が始まった。院長式辞、卒業生総代に卒業証書授与、在校生送辞、卒業生答辞、校歌斉唱の順で型通り滞りなく行われ、十一時に幕を閉じた。
この年の学部進学者の内訳は次の通りであった。
一政百八十 一法六十 一文三十九 一商百六十九 教育一 二政五 一理百三十八 二理一 二商二
また、二学年から三学年へ進級する生徒の中、理科志望者より百五十名を成績順に選抜して新三年の理科組とし、残りを文科組とする組分けを行った。
二十五年四月には、一八号館(現三二号館)が使用可能になり、全学年が戸山町に集合することができた。しかしまだ完成されたわけではなく、クラス編成として、一年は一六号館を、二年は一八号館を使用して十クラスずつ、三年は一七号館を使って九クラス(H・Iが理科組で定員百五十名であるため、一クラス約七十五名も収容した)の編成を余儀なくされた。
この年度の新入生から施設費として五千円(学部は三千円、二十六年度から学院も学部と同額となる)を徴収することになった。その後、一八号館の増築は継続され、各学年がすべて十一クラスとなるのは二十八年度からである。
これらの教室も学院単独の使用ではない。殆ど夜間の工業高等学校との共用であったから、夕方五時以降の使用は許されなかった。また一八号館には、物理・化学の実験室ができたが、これとても理工学部との同居であり、グラウンド(現在記念会堂が建立)には四百メートルトラックも完成し、高石記念プールも逐次改築されて使用可能になったが、学苑全体の共用であったので、放課後には大学生の練習を見守るだけであった。
四月五日、入学式、十一日始業式、十二日から授業開始と、軌道に乗ってくる。
五月二日、水稲荷の社務所(跡地九号館建設)において、折詰めと南京豆をつまみに酒酌み交した第一回の学院教員懇親会は思い出深い。
九月よりホームルームを開く。十六日・三十日の午後、不可のまま進級した生徒に対し追試験を実施する。
十月九日―十四日、校外教育週間と銘打って、前年度はクラス親睦旅行として僅かのクラスでしか実施されなかっ
第五十八表 高等学院クラス別修学旅行先および費用(昭和二十五年)
た修学旅行を、全クラスが参加し、組別の形で行った。
日帰りは一E・二A・三A・三F・三H、二泊は三B、他はすべて一泊であった。
かねてから規則その他、準備に多くの時間を費やした生徒会が、十一月十八日結成大会を開催し、その創立の運びとなった。
十二月二十日、校名を「早稲田大学高等学院」と改称す。
○昭和二十六年
二十六年三月一日、三年進学判定会が、そして同十六日には一、二年進級判定会が開かれたが、三年生の学科原級者十七名、出席日数不足による原級者七名、更に一年生原級者二十名、二年生同四十三名という数には、教員一同啞然としたのであった。
そうした反面、生徒の部活動は次第に活発化していったことも見逃せない。その中で長沢二郎(ドルフィンキックの創始者)、梶川孝義両名の日米水上大会における日本代表としての快挙は特記に値するものであった。なお両名は、第十五回ヘルシンキ・オリンピックに出場、水泳二百メートル平泳ぎに入賞(梶川五位、長沢六位)という栄誉に輝いた。
二十六年四月には衣料も求め易くなったので、生徒に対して制服制帽の着用を義務付けた。
五月、一年生を対象に英語の実力試験を行った。内容は簡単な英文和訳、英作文等の基礎的な問題であったが、結果は良くなかった。特に新制度の下に発足した区立中学校出身者に著しかった。それで父兄側の要望もあり、対策として七月十一日から三十一日まで夏期英語講習が行われた。毎日二時間、その後テスト・採点し、翌日生徒に返還するという強行軍であった。講習は二十八年度には数学も参加して二十九年度まで続くことになった。
九月には院長選挙が行われ、竹野院長が再選された。
十月八―十四日の校外教育週間には、修学旅行が行われた。三年は全クラス関西方面に向ったが、旅行社の不誠意のため大混乱となってしまった。
今まで「学友会」と呼ばれた文化・体育部門に自治部門を加え、三部門から構成された生徒会は、本年四月一日に発足したが、その生徒会の発表の場でもある第一回学院祭が十月二十日(土)より開催された。
初日の二十日には大隈講堂において文化祭が開催され、九時四十分生徒会幹事長の開会の辞で幕が切って落され、院長の挨拶に続き、音楽部の合唱、フランス語劇、ハーモニカ演奏、教員代表のクイズコンテスト、英語劇など盛りだくさんの出し物が演ぜられ、更に午後の部でも総長祝辞に続き、演劇部による山本有三作「盲目の弟」の劇、東京合唱団の合唱、柴田睦・川崎静子夫妻の独唱および二重唱などがあり、観衆大喝采の中、盛況を極めて五時過ぎ閉幕となった。
翌二十一日には展示会が挙行された。会場となる教室は、工業高校と共有しているため、生徒は一夜で飾りつけをして開場した。新聞部、歴史研究部、ユネスコ部等の苦心の作品が目立った。また理科部はポマード、石鹼の製造を実演していた。映画部は学院の一年間の記録をまとめ、タイトル「学院生活」と銘打って映写をした。なおこの日、赤木健介氏の文芸講演が行われた。
十一月一日(木)には、雨のため延期されていた体育祭が行われた。院長の挨拶により九時半に開始され、昨年度各種大会に優勝した四つの部に表彰状の授与があり、体育部員の部特有の服装をつけた入場式、続いて一年生の合同体操があり、愈々各種競技に移った。平日にも拘らず来賓・父兄の参観が多かった。
中村清氏から優勝杯が寄贈され、各学年千五百メートル競走でその中での最優秀者に贈られることになった。そしてそれは一年加藤正之助が獲得、彼はその後、二・三年と三ヵ年に亘り中村杯を連続獲得し、後年箱根駅伝その他に活躍するその片鱗を示したのであった。
教員のボール蹴りには竹野院長も出場、生徒の応援はグラウンド中に響き渡った。最後の出し物である各組有志による仮装行列は、「現代学生風俗史」「人生一代史」等々、それぞれ工夫をこらしたものが続出し、爆竹が轟きわたる中、爆笑と拍手に送られつつ、無事体育祭は三時半に終了したのであった。
この学院祭は、当時としては評判も良く成功であった。教師は参加するのみで、すべてを生徒が自主的に行った。体育祭も体育の濵部憲一のみが指導に当った。積極的である校風は、旧学院以来の良き伝統であろう。ただ文化祭に玄人の助けを借りたのは惜しまれるが、これとても三年後には、その代りを自分達の出し物で埋めるようになってゆくのであった。
この年度(一九五二年)ノルウェーのオスロにおいて開催された第六回冬期オリンピックに、三年生五味芳保は日本代表として参加した。スケート五千メートルに出場した彼は、タイム八分三十八秒六の記録で第十位の成績を収めた。なお五味と同クラスの谷䚮は、一九五六年の第十六回メルボルン・オリンピックに出場し、水泳百メートル自由形(六位)および八百メートルリレー(四位)にて堂々入賞を果したのである。
○昭和二十七年
二十七年四月に学科主任の交代が行われた。小路一光(国語)と清水徹(数学)がそれぞれ川副国基、服部博に代って新たにその任に就いた。
次いで五月には、生徒主任に小林昇、同副主任に三浦和雄が嘱任されることとなった。
十月に早稲田大学創立七十周年記念式典が挙行されるため、修学旅行は五月末に実施され、この年から一・二年の旅行は春に行われるようになった。
秋口には一八号館の増築工事も九分通り完成し、十一月からは図書室の使用も可能になった。
九月三十日大隈講堂にて開催された父兄会総会において、父兄会は新たに事業を行うことを議決、図書館を目標額二千万円で建設することを決定した。そして九月から生徒一人当り毎月百五十円を三ヵ年継続徴収するとの計画を発表した。これに対して生徒会を中心とした反対運動が起り、次の如き声明文が出された。
声明文
われわれ生徒会文化部門有志十一部は、父兄会総会において、新たに図書館を建設し、学院に寄贈する旨決定されたが、本学院には図書室が設置されており、大学にも図書館があり、新たな図書館の建設は現在のところ、不必要と認める。われわれ生徒の希望としては、緊急に要する設備、例えば部室、医務室等の設置を強く求めているのである。父兄会はこれら生徒の意向を全く介せず、一方的にこのような決定を行った。
われわれは、このような図書館の新築に反対し、他の必要なる設備を早急に完備することを父兄会に強く要求し、ここに声明するものである。
昭和二十七年十一月二十九日
早大学院生徒会文化部門有志十一部
早大学院父兄会会長 一乗道明殿
この声明文が口火となって、反対運動の火の手は更に勢いを増していった。学院新聞は、生徒会三部門による父兄会会長への申入れ、三年A組の反対声明「学院生諸君に」など、反対記事を連載、運動は明年度へと延々と続いて行った。
この冬、初めてストーブが設置された。設備費は全額学校負担であったが、石炭代として一人百円宛徴収することとなった。この徴収に対してもホームルームで議論百出し、そして馬小屋といわれた一六号館の火災予防に生徒主任の心配は増すばかりであった。
○昭和二十八年
二十八年度には、一八号館の増築が完了し、全学年十一クラスずつの編成が可能になった。これで三年理科組の一クラス七十五名収容といった過密状態は解消されたが、その他の施設は殆ど皆無に等しかった。
四月理工学部より新一年生全員に対して行った数学・英語実力考査の結果、学院からの進学者の成績が、他の高校の卒業生のそれより不良であるとの通告を受けた。当時の学院の知名度は低く、理工学部の志願者の倍率に比べて、学院志願者の倍率は数段低かった上に、激烈なる入学試験を経てきた学生より劣るのは当然なことであったかもしれない。しかしその対策として一部の進学者を学院で一学期間再教育するという不思議な現象が起った。
八月三十一日から九月五日まで第一回北海道旅行が実施された。三年生の旅行は、前年まで二ヵ年関西方面に出掛けていたが、近年中学校においても関西旅行が多く、生徒への魅力も薄れつつあったので、旅行費用もそれほど莫大ではないとのことから、北海道へと夢は一挙に拡大されたのである。
前年、慶応高校は北海道旅行を実施していたので、この年は早慶両校が同旅行を計画することになったのである。依頼した交通公社の案内所は神田であったが、慶応は有楽町案内所で、係りの人達も旅行の早慶戦と言って張切って新企画を立てる始末であった。第一回北海道旅行の団長は教頭の逸見広、学年主任・遠藤嘉徳、計画は大杉・三觜両教諭が当って万全を期した。旅行費用は慶応高校の一万円余りに対し、学院は五千円余、昼食弁当は梅干と少々のこうなごであったことを覚えている。
何しろ長いSL(汽車)道中だからというので、現在のような放送設備のない各車輛にスピーカーを取付けて伝達事項を徹底するように、また退屈した時にはレコード音楽も流せるようにとあれこれ気を配りもした。更に北海道では道内一周の間、特別の車掌さんに乗車してもらい、遊覧バスのガイド嬢よろしく観光案内をスピーカーを通して流してもらうといった具合であった。
湯の川、定山渓、登別、洞爺湖と、温泉地を泊り歩き、生徒は日頃学んだ歴史を、文学を、地学を自分の目で確かめたであろうし、教師には美しい自然が「国破れて山河あり」の言葉を思い起させたのであった。
十月三十一日、臨時組主任会において、進学基準が修正決議された。すなわち従来の三年間に九十単位以上修得の外、学年平均点六十以上、不可科目一つ以内の者という新基準が決定され、一・二年の進級基準もこれに準ずる旨決定されたのである。
十一月十四日には、第一回マラソン大会が行われた。コースは、学院―戸塚一丁目―学習院前―国立病院前―若松町―学院の一周五千メートルで、得点形式による組別対抗競走という形で勝敗を競うものであった。
○昭和二十九年
二十九年一月十一日には、学院雑誌創刊号が発行され、またこの年度の卒業生から、毎年卒業アルバムを作成するようになった。
九月十日の院長選挙において竹野長次が三選された。その後、竹野は教育学部長に選出されたため、十月二十二日に再度院長選挙が行われ、その結果樫山欽四郎が当選した。
続いて役職者の交代が行われ、教頭は逸見広から島村教次に、生徒主任は小林昇から高橋赳夫に、そして生徒副主任は高橋赳夫から三浦和雄に代った。
十一月五日、大隈講堂において教職員および生徒が全員参列し、新学院長の就任式が挙行された。式は時岡事務主任の司会で午後一時から始まった。樫山院長は、早稲田精神の根幹をなす自由の精神の、真の意義について説いた。次いで竹野前院長の退任の挨拶があって式は終了した。
竹野長次は、二十一年十二月に発足した教育制度研究委員会の委員を皮切りに、終始新制度移行に関する委員を歴任された唯一の人物であった。移行に際して、伝統ある旧制学院を不死鳥の如く新制学院として存続し得た功労者であって、その功績は学院にとって永遠に記録されるべきであろう。
時岡孝行は語る。
常に竹野さんが言っていたことは、やはり高等学校までは、そこの学校の長が、一つの教育理念を持って、自分の意思をなるべく徹底していきたいんだというようなことです。そこで、かなり無理もあったんじゃないかなという気は、後になると致しますが、そういったようなことがワンマンであったという印象を与えたのだと思いますよ。
しかし、とにかく大過はなかったと私は思うのです。一生懸命やられたことは確かだと思います。
(昭和五十四年十月四日 学院創立三十周年記念座談会)
如何せん、校舎および諸設備の復興が遅れており、年月も不足であってみれば、その理念を実現し得ぬまま、次期院長にその完成を委ねる結果になったのである。
十一月二十七日、学院教員懇親会は中央区浜町「御船」において院長歓送迎会を催し、新院長の誕生を祝うとともに、前院長の多年に亘る労に感謝の意を表したのであった。
越えて三十年二月、時岡孝行は就職課長として本部に転属となった。
○昭和三十年
発足当初、学部に本属があって、学院が兼担であった教員は、漸次兼担の職を退いていった。その欠は新任の教員が埋め、この頃には殆どの授業は専任の教員が担当するようになった。三十年四月、弘法春見(英語)および江袋辰男(数学)の両名がそれぞれ内山正平、清水徹に代って学科主任に新任した。
教員の整備に伴って、学科編成の改正が行われた。三十年度には、一年生に初めて音楽と美術が芸能科の中に加えられた。このことは学院にとって、部活動以外としては画期的なことであって、その成果は大いに期待されたのである。また一年生には生物と歴史の時間増が、二年生には漢文の時間減と体育の時間増が行われ、三年生では文科組の数学が選択から必修に変更された。
かねてから計画され、検討されてきたことであるが、五月特別考査の実施につき、次の如く発表された。
告
本年度より特に二、三年生諸君の学力の綜合的な向上と充実を期待して学期試験とは別に左の通り特別考査を行なう。
一、科目 二年 英語、数学、国語、物理、化学、第二外国語
三年文科組―英語、数学、国語、第二外国語
理科組―英語、数学、物理、化学
二、施行時期と回数
九月下旬及び明年一月下旬の二回
右考査の結果は従来の学期試験による全科目成績と併せて、三年生については学部各科進学を、又二年生については文理科組の別を決定するばかりでなく、更に二学年における特別考査の成績は次年度の学部進学決定に際してもさかのぼって参酌されるのであるから、諸君は平常の勉学態度でややもすればおちいりがちであった「その場的」な学習態度をすてて、それぞれの科目について一貫した実力を養うよう努力されたい。
五月 日
高等学院
かくして従来の学年末平均点を主とする進学志望別の決定に、同学年共通の尺度で計った点数が加味されるようになったのである。
九月十六日、十七日第一回水泳大会が開かれた。またこの月、「学院生の歌」第一回募集に一年生荒島恒雄の作品が佳作として当選した。これは去る四月、院長が「新学年にあたって」と題して生徒に呼び掛けたのに対して応えたものであった。
……校歌の中に心の故郷という有名な言葉がある。故郷をもつということに人間の一つの特徴がある。……その象徴の一つの「学院生の歌」が諸君自身の中から創られることを望んでやまない(『早大学院新聞』第二十六号。三十年四月十五日発行)。
その後、何年か続いて募集され、そして作曲もされたが、残念ながら今に歌い継がれるような歌は生れなかった。
九月二十二日、二十三日第一回特別考査が実施された。
十一月七日から一週間、第一回九州旅行が行われた。二十八年から実施された北海道旅行は評判も良く、翌年も続いて実施されたのであるが、その年九月二十六日、台風により青函連絡船洞爺丸が座礁転覆し、死者千七十八名、行方不明者八十三名という、世界第二、我が国最大の海難事故が発生し、次いで十月八日には相模湖における遊覧船の沈没、更に翌三十年五月一日宇高連絡船紫雲丸の横転沈没事故が起き、修学旅行中の生徒が多数死亡するという海難事故が続発した。それらのことから北海道旅行は中止せざるを得なくなり、これに代る計画として九州旅行が企画され、実現する運びとなったのである。
樫山院長を団長とし、十七名の教職員と三年生五百一名から成る一行は、元気一杯七日の午前十一時四十五分東京駅発の臨時列車で一路九州へと出発した。
この時の行程は、東京→(車中泊)→別府=地獄廻り=別府(泊)→宮崎=市内遊覧=宮崎(泊)=子供の国=青島=鵜戸神宮→林田温泉(泊)→鹿児島=磯公園=城山=鹿児島(泊)→坊中=阿蘇=内の牧温泉(泊)→博多(市内遊覧)→(車中泊)→東京、というものであった。
十四日午後六時半、生徒主任などの教職員および父兄ら多数の出迎える中、全員無事に帰京したのであった。
この第一回九州旅行は大成功であった。以後三年生の修学旅行は九州と固定するのであった。初期には別府まで二十八時間もかかり、列車の座席には余裕もなく、夜は座席に板を渡して小犬のように固まり寝て、またある者は床に寝たりするという有様であった。またガイド嬢のいうエクボの悪路を揺られてバスは走るのだが、観光ブーム以前のこととて、往く先々で歓迎され、宮崎では駅に着くとブラスバンドが校歌を演奏して迎えてくれた。早稲田大学の校友、しかもその都市の名士、議員の方々までも出迎えてくださって、花束を贈呈されたり、磯公園の島津邸では薩摩琵琶を演奏して、後輩に昔ながらの郷土芸能を披露してくださったりした。早稲田大学とはどのようなものか、先輩とは、伝統とは、と教室では学び得ない大きな成果をも残した旅行であった。
この年、樫山院長は「院長講話」を始めた。九月二十九日には三年、十月二十日には二年、そして十一月二十九日には一年に対して行った。また各科教員との懇談会も計画され、九月二十日に国語科、十月二十七日に数学科、十二月一日に社会科との懇談会が催された。
このようにして樫山院長は、生徒に自分の考えや、教育方針を伝えるとともに、教員や生徒との話合いの場を作り、理想実現に向って前進する基礎を築きつつあった。
○昭和三十一年
三十一年一月十六、七日の両日、この年度第二回の特別考査が実施された。
四月十三日の定例学科・組主任会において、この会の呼称を「教諭会」とすることが決議され、以後学院の議決機関は教諭会となった。この月、根津憲三(仏語)、田辺和雄(選択)の両名が、学科主任として新たに嘱任された。
以前から智山学園跡地に学院が移転するように大学から提案され、学院からもいろいろと条件を出し、交渉を重ねてきたところ、学院側の希望も容れられたので、この案を受諾し、三十年十一月十五日の評議員会において正式に移転が決定された。十一月二十九日には地鎮祭が行われ、元智山学園の校舎の改修が開始され、続いて鉄筋コンクリートの建築にも手がつけられ、三十一年四月には食堂および生徒会部室の工事も着工され、八月十五日には工事は一応完了した。敷地は九千二百五十七坪、総工費八千百四万円であった。
この時の校舎は、現在の七一号館であり、その西側に一、二階共に三教室ずつの木造二階建一棟と、更に鉤の手に曲がって南北方向に一、二階共に六教室ずつの木造二階建の建物が続いていた(これらの木造校舎はいずれも智山学園の校舎を改造したもの)。また現在の食堂の場所には、食堂と部室とが新しく建てられた。校地は現在の七〇号館と七二号館の間の通路北側の部分だけであった。この年教室不足のため、一年生は十クラス編成であった。
樫山院長は、「良き校風の先立に」と題して次のように語っている。
……諸君は出来上った学院の新校舎を見てどう思っただろうか。戸山町の校舎に比較してすべてがきれいになった。新校舎に入って何を感じたろうか。欲を言えばきりのないことだが、この校舎は高等学校のものとしては立派であるといえる。この校舎の物理化学教室は相当に立派なもの……次に生物と地学とが合同の特別教室を持つようになった。……新たに音楽と美術の教室もできたが、……父兄会の寄付を含めて建てられた生徒会の部室と食堂とは想像以上に立派なものができた。……先生方のよき指導を得てクラブ活動が盛んになることが望ましい。
(『早大学院新聞』第三十一号昭和三十一年九月十日発行)
当時は上石神井駅から北に向う道路は、学院の西門で行き止まりであり、学院の北には人家はなかった。新青梅街道もなく、大泉方面に通ずる道路もなくて武蔵野の面影を残す静かな環境に恵まれて居り、また戸山校舎の場合と違って、施設のすべてが学院専用で使用できるようになったことは大変に嬉しかった。
九月八日、落成および移転祝賀会が開催された。校庭を式場として生徒、父兄および来賓多数が列席する中、午後一時大塚庶務部長の司会で始まり、大浜総長、樫山院長の挨拶、磯部理事の工事報告、工事関係会社々長に感謝状の贈呈、練馬区長、父兄会長の祝辞等があり、校歌合唱を最後に式は終了した。その後食堂にて祝宴が催された。
九月七日に院長選挙が新装なった教員読書室で行われ、樫山院長が再選された。そして役職者も次の如く嘱任された。
教務主任(職名変更)・島村教次、同副主任・大杉徴、生徒主任・三浦和雄、同副主任・瀧澤武雄、生徒係・保昌正夫(教務副主任および生徒係は新設の役職名)。
十月二十一日から二十七日まで学院祭が例年通り開かれたが、文化祭は大隈講堂で行わざるを得なかった。
十二月十日、『学院研究年誌』創刊号が発行された。これは「学院の教員室に学問的雰囲気を」といわれた樫山院長の要望の具体化とも言うべきものであった。
○昭和三十二年
三十二年度の入学試験に異変が起った。すなわち第一、第二次試験も終り、例年通りの数の合格者を発表したところ、手続者が少く、第二次受験者全員を合格としてもなお定員を百名も割ってしまったのである。その対策として、第一次受験者から点数を下げて補欠とし、三月二十四日に再度二次試験を行い、合格者を発表したところ、今度は前回より手続者の率が非常に高く、定員を大幅に超過してしまった。結局、新一年生は一組増加して十一クラスとすることで解決したのであるが、このような異変の起った原因としては、上石神井に移転したこと以外には考えられなかった。(参考として、二十四年度より十年間の志願者数を表記して掲げることとする。)
三十二年四月、上石神井の新校舎に移転して初めての新学年を迎え、樫山院長は『学院新聞』を通して、自己の将来は自己の主体性によって決定すべきであり、どこまでも自己を見失わないでほしい。他人とは掛け替えのない自己の価値を、学問を通じて発見するように心掛けなければならないことを生徒に要望された。
新学年にあたって役職教員の交代が発表された。すなわち教務主任は島村教次に代って、加藤諄が、生徒主任は三浦和雄に代って遠藤嘉徳が就任、教務、生徒各副主任は変らず、生徒係は、保昌正夫に代って、田中福造、萩原一次が任命された。また、学科主任の名称が変更になり、社会科が第一社会科、歴史科が第二社会科、物理が第一理科、化学が第二理科に改称された。第一社会科主任高橋赳夫、第二社会科主任小林昇、第二理科主任田辺和雄は変らず、第一理科主任に三觜秀郎が新たに任命された。
五月十七日、十八日、一泊二日の予定で、一、二学年の修学旅行が次の通り実施された(三学年は平常授業)。これは三十年度から定例化されたのであるが、それ以前は、各学年ともそれぞれ生徒の希望を採り容れて、あるいは日帰り、あるいは二泊三日というように年度により必ずしも一定しなかった。
一学年は日本平、房総、銚子の三方面
二学年は富士五湖、伊豆の二方面
五月二十三日の臨時教諭会において、理工学部進学者割り当て人数の増員が発表され、生徒の理工科志望が多少なりともより多く満たされるようになった。しかし理工学部において、この増員が決定されるまでには、相当激しい賛否両論が交されたようである。なおこれより先、五月十六日、高木理工学部長以下役職教授達が学院の諸施設を参観され、また学院の教育の現状についての質疑応答が行われ、相互の理解が深められたことは、今度の増員に一役買ったものと思われる。
三十二年より、一理工百六十五名(十五名増)二理工三十五名の枠が決定された。
本年度の生徒会活動について一つの改革が実施された。それは生徒会の文化、体育両部門の統合が決定されたことである。このことは既に一昨年頃から部長会において提案され部長の中から七名の代表を選んで検討してきたが、本年一月十四日の教職員生徒協議会において一応の結論を得たものである。この統合案の根拠としては、
一、教育的見地から高校生の部活動として最も適当と思われるものを強化育成する態勢を作ること。
二、各部の十分な活動を期するため、より多くの予算の配分ができるようにすること。
三、部費の個人負担を極力少なくすること。
などの理由が挙げられている。部からクラブに格下げされたものは、生徒会予算の配分は受けられないが、学校としては臨時後援会費を適宜考慮することとし、廃止された部活動に代るものとして、新たにシーズン制の学校行事としてスキー・スケートなどを実施する。
七月十日より十七日まで七泊八日の日程で本年度より実施のシーズンスポーツ、水泳班が千葉県館山市の早大館山寮に合宿、水泳訓練を行った。参加人員五十名(定員)、主として水泳の初心者を参加させるようにした。
七月十六日より二十日まで四泊五日の日程で、シーズンスポーツ登山班が、白馬・黒部班と、尾瀬・奥日光班の二班に分れて合宿訓練を実施した。参加人員は各班二十五名であった。
十二月二十五日より三十日まで五泊六日の日程でシーズンスポーツ、スキーおよびスケート班が、それぞれ池の平でスキー、蓼科でスケートの合宿訓練を実施、参加人員は各班三十名、ただしスケートは結氷不良のため実施不能となり、スキーも積雪不足により実施途中で中止の止むなきに至った。なおこれら冬期シーズンスポーツは三十五年度に至って初めて実施可能となった。
○昭和三十三年
四月四日、三十三年度の入学式および始業式が、大隈講堂で行われ、翌五日には朝礼およびホームルームが第一時限に実施され、授業は七日から開始された。生徒人員一年生四百八十七、二年生六百十六、三年生五百十二、合計千六百十五名である。なお本年度から左記の通り随意科目が新設された。
音楽・美術(全学年)・英会話(二、三学年)・数学・物理・化学(三学年理科クラス)
四月一日付で学科主任の異動があり、仏語科主任根津憲三に代って斎藤一寛が就任し、また新たに体育科主任に河野宥が任命された。
五月二十九日、昨年秋頃から病気療養中の池城安祥(数学)は、肝臓炎のため他界された。享年六十三歳。惜しい人物を失った。
六月十九日、定例教諭会で、かねて検討中の進学・進級基準改定案が審議の末議決された。
一、成績平均六十点以上で不可科目(五十点未満)一科目以内、および平均六十五点以上で不可科目二科目以内は進級・進学。
二、年間欠席日数五十日以内、および欠課時数四十時間以内は進級・進学。
三、従来の不可科目に対する追試験は廃止する。
この進級・進学基準は、その後若干の補足事項が加えられたが、大綱はそのまま現在に及んでいる。
六月二十八日午後二時より、学院対慶応日吉高校の第一回教員野球試合(軟式)が学院グラウンドで行われた。試合終了後食堂で晩餐会を開催し、相互の親睦を深めた。この野球試合は以後春秋二回、大学の早慶野球戦当日に行われ、優勝カップに勝利校の名を刻み込んで行くのであるが、現在(五十四年)まで既に三十四回行われており、両校の勝敗はほぼ伯仲している。
十月三十日、加藤教務主任が病気のために翌年三月まで休講、代って岡田幸一が教務主任となり、授業は国語科内で代講することが院長より発表された。最後に本年度中の生徒の校外活動中注目すべきものを次に記しておこう。
一、秩父宮賜杯第十一回全国高校陸上競技選手権大会(八月八日―十日、下関市営陸上競技場)において、林茂樹(二年生)が、槍投に優勝する。なお林は関東高校陸上大会でも優勝している。
二、国体都予選(八月三十日)でボート部が教育大付属高校を破って優勝、国体出場を決める。なお国体夏の大会(九月十四日、琵琶湖尾花川千メートルコース)では学院クルーは第一次予選で四位となり敗退した。
○昭和三十四年
一月八日、三十三年度第三学期の始業式において、樫山院長は、生徒に対し次のように訓示した。
真に国家社会を支えているのは、権力による支配者の力ではなくて、黙々とあらゆる困難に耐えて生きてゆく者、すなわち一般国民の力以外にはない。
式後共通教室講堂で南極探険隊の記録映画「第一次越冬隊」の映写会が開かれたが、それに先立って、当時の越冬隊員藤井恒男氏(校友)の南極での越冬体験談があった。
二月二十三日、三十四年度第一次入学試験。志願者四千九百四十二名(昨年より千四十名減)、受験者四千八百九十二名。三月五日第二次入学試験。本年度より作文と面接の二本立てとなった。ただし作文は必ずしも国語科で行う作文能力に評価の目標を置いたものではなかった。
三月二十二日、第九回卒業式(十時大隈講堂)院長の式辞の後、総長代理末高理事および父兄会会長平野太郎氏の祝辞、在校生代表の「送辞」、卒業生代表の「答辞」あり、十一時閉式。
卒業生の進学状況は次の通りである。
一政百五十(経百三十・政二十)、一法三十一、一商百三十、一文九、一理百六十五、二理十四、学外一、合計五百名。
四月八日、三十四年度授業開始。一学年五百四十八、二学年五百二十二、三学年五百七十三、合計千六百四十三名。学科主任の交代あり、仏語科主任斎藤一寛退任し、代って根津憲三が就任した。
十月十一日、学院祭当日、学生ホールで一期から九期までの卒業生十三名出席、第一回同窓会世話人会が開かれ、同窓会設置準備委員会が正式に発足した。次いで十一月十五日午後二時、学院食堂で第二回の準備委員会が開かれ、具体案が検討された。かくて翌三十五年四月に総会を開き正式に同窓会を発足させることに決定した。これは創立十周年記念事業の一環として計画されたものである。そして十月十八日、読書室において現・旧教職員による高等学院創立十周年記念祝賀会を開催した。
次に三十四年度における生徒の校外活動の主なるものを挙げておく。
一、東京都高校対抗陸上競技選手権大会(五月二十二日―二十四日)において、競走部総合三位。林茂樹(3D)、砲丸投、槍投、ハンマー投の三種目に優勝する(都高校新記録)。
二、第十二回秩父宮杯全国高校陸上競技選手権大会(八月七日―九日、国立競技場)において林茂樹は槍投で二位、砲丸投で三位に入賞する。
三、グランドホッケー国体都予選(八月二十八日―二十九日)で学習院および成城を破って七度目の国体出場を決める。
四、ボート国体都予選(九月六日、戸田コース)で、開成高を破って国体出場(三年連続、通算七度目)を決める。
五、フェンシング国体予選東京地区大会(九月六日、早大体育館)で、植竹清(3F)三勝無敗で国体出場を決める。
六、第十四回国民体育大会最終日(十月三十日)で、林茂樹は槍投で71メートル32の大会新記録で優勝。この記録は日本歴代三位に入る素晴らしいものであった。
七、十五号台風(伊勢湾台風)被災地に対する義援金を、生徒会の手で三万円を集める(十月七日)。
○昭和三十五年
昭和三十五年一月二十一日の定例教諭会において、講堂および視聴覚教室・美術教室等の特別教室の建設が本部の承認を得て着工される旨、発表があった。これらはかねて学院の施設にはなく、その建設が渇望されていたもので、新制高等学院発足十周年記念事業として、近々着工の運びとなったのである。計画規模一覧表は左の通りである。
講堂は座席数千五百八、舞台の広さ約四十坪、特別教室は、一階が製図・彫塑・絵画の三教室と同教員室よりなる美術教室と教室および標本室からなる地学教室、二階が準備室を挟んで二教室よりなる視聴覚教室の三ブロックで構成される計画になっていた。従来、学院の式典、催物等はすべて大隈講堂を借用することになっていて、不便であった。学院内に講堂が建設されれば不便は解消されることになる。学院新聞会が無作為に行った生徒へのアンケートでも、この計画に九八パーセントの賛成が得られたというから(『早大学院新聞』五六号)、講堂の建設は渇望されていたといえよう。十周年記念の事業としては、まことに時宜を得た計画であった。特別教室の建設も同様の趣旨によるもので、これらが完成の暁には、都内でも屈指の施設になると期待されていたのである。
昭和三十五年度は、四月に入ると早々にこの年度から、ホームルームが木曜日一時限目に時間が変更になり、更に教室内での行事のみに統一されることになった。今までは、土曜日の一時限目に行われており、時々は朝礼として校庭で院長の講話が行われることがあったのである。それが木曜日の一時限目に変り、更に朝礼を廃止することになった。その理由として次のようなことが考えられる。すなわち、木曜日は定例教諭会開催日のため、教員全員の出校日になっており、この日にホームルームが変更になれば全教員間の連絡も密に行えるし、誰が担任になっても研究日による担任不在による支障は起きないことになった。また生徒側からみれば、教室内でのホームルームになったので、クラス討議が集中して行え、伝達事項の徹底化が可能になり、更に生徒会の開催がより容易になることになった。ホームルームの質的向上を目指す生徒側からも歓迎された改正であった。
五月十五日、学院同窓会結成総会が大隈講堂で挙行された。「高等学院を卒業した私達の心の中に少しずつ培われてきた自分達の同窓会をという願いが大きく成長し、遂に見事な結実をみて」(『早稲田大学高等学院同窓会会員名簿』)、ここに総会が開催されたのであった。これも新制高等学院発足十年を経過した所産であり、この総会で左のような会則が制定され、発効した(長文に亘るが全文を掲載することにする)。
早稲田大学高等学院同窓会会則
第一章 総則
第一条 (名称) 本会は早稲田大学高等学院同窓会と称する。
第二条 (事務所) 本会は事務所を早稲田大学高等学院内に置く。
第三条 (目的) 本会は会員相互の親睦を図り母校の発展に寄与することを目的とする。
第二章 組織
第四条本会は左に掲げる会員で組織する。
早㈠稲田大学高等学院を卒業した者を一般会員とする。かつて在籍した者で入会を希望する者は会員の推選により入会することができる。
早㈡稲田大学高等学院現教職員及び旧教職員を特別会員とする。
第三章 役員
第五条 本会に左の役員を置く。
会㈠長一名 ㈡理事十五名 ㈢監事二名 ㈣評議員若干名。
第六条 ㈠会長は早稲田大学高等学院長がこれに当たる。
㈡会長は本会を代表し本会の事務を統理する。
第七条 ㈠理事は評議員会の推選により選出する。但し三名は特別会員とし会長がこれを任命する。
㈡理事の任期は二年とし、再任を妨げない。但し止むを得ぬ事情により、理事に欠員を生じた場合はこれを補う。
㈢理事は理事会を構成し、本会の事務の運営に当たる。
㈣理事会は互選により理事長一名を定める。
㈤理事会の定足数は定員の〓以上とし、その議決は出席者の過半数の同意を要する。
㈥理事は評議員を兼ねる。
㈦理事会の運営については別に規則を設ける。
第八条 ㈠監事は評議員の推選により選出する。但し理事との兼任は認めない。
㈡監事の任期は二年とする。但し再任を認めない。
㈢監事は本会の会計事務その他を監査する。その他必要に応じて、理事会に対して会計の帳簿、書類等の提出及び会計報告を求めることができる。
第九条 ㈠評議員は各卒業年度から若干名を選出する。
㈡評議員の任期は四年とする。但し再任を妨げない。
㈢評議員は評議員会を構成し、本会の運営について審議する。
㈣評議員会は互選により議長一名を定める。但し代表者は理事との兼任を認めない。
㈤議長は評議員会を招集する。
㈥評議員会は年二回開催し、その他必要に応じて臨時に開催することができる。
㈦評議員会の定足数及びその議決は第七条第五項を準用する。
第四章 総会
第十条 ㈠本会は毎年一回の総会を開く。但し必要に応じて臨時総会を開くことができる。
㈡総会は会長がこれを招集する。
第五章 会計
第十一条 本会の会計は会費、寄附金その他の収入を以って運用する。
第十二条 入会の際に一般会員は五百円、特別会員は三百円を納入するものとする。
第十三条 本会の会計年度は毎年四月一日に始まり、翌年三月三十一日に終る。
第十四条 本会の予算決算は評議員会の承認を必要とし、これを総会に報告しなければならない。
第十五条 本会の会計事務は理事がこれに当たる。
第六章 会則の変更
第十六条 会則の変更は会員が評議員会に附議し、その出席者の〓以上の同意を得て且つ総会の承認を得なければならない。
九月に入ると建設現場の整地作業でその着工が延引されていた講堂等の建設が開始された。
十月、この月は二年ごとに行われる学院長の任期切れの月に当り、院長樫山欽四郎が第二文学部長に選出されたのに伴い、後任として理工学部教授高木純一が新院長に任命された。また高木院長を補佐する役職教員が左の通り決められた。
教務主任 高橋赳夫、同副主任 瀧澤武雄
生徒主任 遠藤嘉徳、同副主任 榎本隆司
一方、十月を中心に、この年の学院祭は昭和二十六年の第一回からちょうど十回目に当り、それを記念して盛大に行われた。珍しいのは、今はない水泳大会(九月挙行)や弁論大会が行われたことであろうか。『早大学院新聞』六〇号に、「学院祭―その十年の歴史―」という特集記事がある。その中で、長島健(院長)、掛下栄一郎(社会科学部教授)の二人が、編集員の問いに答えて回顧談を述べている。それによると初めの頃の学院祭は外部からプロを招いて行われていたようで、今のように学院生の自作自演による自主的なものではなかったようである。第五回(昭和三十年)から第九回(昭和三十五年)までの学院祭の大概を参考までに、同新聞の記事から引用すると左のようになる。
第六回から一週間に
展示会、年ごとに発展
第五回(昭和三十年)
第五回学院祭の展示会は、全般に低調で、学院新聞のアンケートには展示会廃止の意見まで出ている文化祭は、今迄プロの出演者を招いて多額の金をつかっていたのをあらため、経費の節約と学院生のための文化祭ということを目的に行なわれた。この時から仏語劇の参加も決り、演劇部では他校女生徒を加えて熱演を見せた。
第六回(昭和三十一年)
移転後初の学院祭は移転記念としてはじめて現在のような一週間のものとなった。
文化祭には慶応高校のマンドリンクラブを迎えた以外は五回同様、学院生中心の文化祭を行った。
展示会はマンネリから抜けきれず盛りあがりをみせなかったようである。さらに体育祭も運営に不手際があり、仮装行列が終った頃には真暗になっていた。
第七回(昭和三十二年)
文化祭の招待番組には早大混声合唱団を、また英独語劇も自分達で訳した「秦の始皇帝」「屋上の狂人」を演じた。
展示会は例年の悪評を消しさるような進展を見せた。理科部では初めて物理・化学・生物・地学と四部門にわけてその活躍ぶりを見せていた。
また初のグループ参加「八分間世界一周」と銘打って、大きな地図での世界一周がたのしめた。体育祭の方にはそれほど大きな進歩は見られなかったが、第六回の失敗から、仮装行列には三時間もの時間をとったおかげで十分に演技を楽しむことができた。
又石神井学園の孤児を体育祭に招待するつもりで校内募金を行ったりして準備したが、都の運動会とぶつかりせっかくの計画も流れてしまった。
第八回(昭和三十三年)
毎年のことで、学院祭はとかく役員祭などといわれて来たが、今回からは出席を取るなど苦肉の策を行って、なんとか一般学院生の関心を引こうとの努力がなされた。文化祭の招待番組、慶応高校の奇術は内容、話術とも立派なものであった。
展示会は年を追って盛んになって行き、クラス参加も目立ち、充実した展示だった。休憩所が一つもなかったので不満の声も聞かれた。体育祭は雨で一日延びた。前年まで毎年希望があって実現されなかったフアイヤーストームが始めて実行された。
第九回(昭和三十四年)
新制十周年を迎えて第九回の学院祭が盛大にくり広げられた。文化祭の招待番組は共立の女声合唱、講演には石川達三氏、他はすべて学院生によるもの。展示会は各部はお茶のサービスをしたり、弓道部では一般の学院生に弓をひかせるなど、あの手この手で観覧者の注意をひいた。体育祭は、再び雨に降られて一日延期された。
この年も十一月五日から六大学野球秋季リーグ戦掉尾を飾る早慶戦が行われた。ところが、この戦が空前にして恐らく絶後、連日勝負が決しないまま十日、早稲田が二勝一負三分で勝点を挙げるまで実に六連戦という大熱戦になった。安藤元博投手の活躍が今でも目に浮かぶが、詳細は省略しよう。学院に則して言えば、早慶野球戦当日にのみ適用されている第一時限で授業を打ち切る慣行が連日続き、休校同然になった。このような状態は好ましくないとの判断から、これを契機にこの慣行は第三戦目までに適用することに決した。これは以後も厳守されて今日に至っている。
最後に社会面に目を転ずると、この年六月に国会周辺では毎日のように、「日米新安保条約」成立に反対する大規模なデモがかけられて、大きな政治問題を惹起した。すなわち、一九六〇年代の新しい日米関係樹立を計る、ときの岸内閣は、「日米安保条約」の改定を画策するに至った。この動きには勿論賛成する世論が一方にあり、他方この条約が改めて締結されれば、米国の東アジア戦略体制に日本が組み込まれることになるとして反対する輿論があって、国論が二分されて大きな対立が生じた。岸内閣はこの反対勢力の動きを無視して五月に衆議院で、「新条約」の成立を強引に可決・決定した。この議決に反対勢力のデモは六月に入ると日々大規模となってエスカレートした。結局、参議院での審議・議決は行われず、デモの盛んな中で自然成立をみるに至った。七月、条約成立を土産に岸内閣は総辞職した。以上が社会面でのこの年のトップ記事である。早大に関して言えば、このデモに参加した多数の教員の中から、新しい動きが生じ、翌三十六年七月に、「早大教員組合」の結成へ止揚して結実することになった。
昭和三十五年度は、前年の計画に引き続いて、新校舎の建設から始まって、新制十周年記念にふさわしいかずかずの行事が内と外とで、踵を接するように起ったと言ってよいであろう。この年度から第二理工学部が廃止になったのに伴い、従来同学部への進学者割当数三十五人が削られ、その分だけ第一理工学部に移行し、結果として第一理工学部進学者割当数百六十五人に加えられて二百名となった。また「第一」、「第二」の名称もなくなり、「理工学部」一本となって昼間学部のみとなった。
○昭和三十六年
昭和三十六年度は、四月から組主任が二人制になることからスタートした。一人制から二人制への変更は、教務主任高橋赳夫の意向を汲んだものである。すなわち、二人制の方が、生徒との接触がより密に行えるのではないかという配慮と、たまたま、専任教員数が全学年の組数の二倍に近かったから、組主任手当てを生活給の一部とみなすと二人制にした方が、平等に皆に行き渡るとの配慮が働いたものであった。こうして二人制がスタートすることになった。六月には、前年から開始された講堂等の建設が完了し、九月二日、「講堂落成祝賀会」が、二時から同講堂で盛大に行われた。十一月九日、生物担当の田辺和雄が早大アフリカ大陸縦断隊の隊長として踏査中、ケニアの首都ナイロビで、胃潰瘍のため急死した。享年六十一歳。学院新聞七〇号には、元気で出発する同氏の写真が掲載されている。早大関係者一同、その死を悼んだ。
○昭和三十七年
翌昭和三十七年一月に行われたこの年度第二回目の特別考査から、休みあけ直後に行うことに日時が変更になった。従来第一回目(夏休みあけの九月に挙行)も第二回目(正月休みあけ一月に挙行)も、それぞれ、休みあけ一週間ほど間をおいて行われていたが、これでは、その一週間、生徒が特別考査に気をとられて勉強が手につかない弊害が起りやすかったので、休みあけ直後に行われるように変更になったのである。
昭和三十七年度、この年も他の年度と変りなく四月からつつがなく年度の行事を消化して行ったが、夏休み後、左に記すような学院にとって大きな問題が起った。それは学院長再任に関する事件であった。すなわち、前にも記したように学院長の任期は二年で、この秋がその時期に当っていたのである。現院長高木純一が再任されるであろうことは、誰の目にも明らかであった。ところが、結果は同氏の辞任で終った。今、この間の事情を学院教諭三觜秀郎の報告によって展開すると次のようになる(昭和五十四年五月二十三日に行われた早大教員組合・同職員組合共催による「第八回教育研究集会」の報告の中で、三觜は「高等学院―その成立と現実―」と題して分科会を担当した。以下「……」の部分はその時の同氏の報告書よりの引用である)。
「(前略)問題は三十七年の高木純一氏の再任期に起った。」「当時早大には教職員の組合が設立され、学内の状況は大きく変りつつあった。教職員の組合に誠意と理解を示された大浜総長は、激しい争いの結果吉村正氏をしのいで三期目の総長に就任されていた。その大浜氏が高木純一氏を高等学院長在職のまま大学理事に起用することとし、その人事を評議員会に提案したのである。当時高木氏は大浜氏の後継者として目されていた。学内人事決定権は評議員会にある。しかし理事会の提案した人事が評議員会に拒否された例はない。しかしこの人事に対し評議員は異議をとなえ、大浜氏はこれに従ったのである。これを知った高木氏は怒られ学院長への就任も強く拒否された。ここに学院長が宙に浮くというハプニングが起きたのである。」従って、「その職が一月以上も宙に浮いた」「連日、連夜くり返された教諭会での熱っぽい議論」は「二十年近くもなった今日でも報告者にとっては昨日のように鮮明」であるという。「結論をいえば、“こんなことになったのも任命制にしたためだ。もとの制度にもどしてもらいたい”。という趣旨を理事会に申し入れたところ、“次回から考える、今回は何とか任命したものを認めてもらいたい”という返事があって収拾されたのである。」こうしてハプニングは終り「高木氏の後は岡田幸一氏が任命され」た。十月十五日附のことである。岡田院長を補佐する役職教員は
教務主任 遠藤嘉徳、同副主任 瀧澤武雄
生徒主任 長島健、同副主任 榎本隆司
に決まった。岡田院長は以後、教諭会の意向、すなわち院長の任命制を従来の選挙制に戻すべく努力をした。その結果は、昭和三十九年七月に左のように大浜総長との間に書面による申合せを取り交すことで一応の決着をみることとなった。
高等学院長候補者の選考に関する申合せ
一、高等学院長候補者を定めるにあたつては、総長は、左記の者をもつてその都度組織する協議会に諮かるものとする。
⒈ 常任理事
⒉ 高等学院各学科主任 十名
⒊ 高等学院教諭会において互選された者 五名
二、前条の協議会は、当該候補者につき院長嘱任の同意を求むべき評議員会の会日十日以前二十日までの間に総長が招集し、その議長として議事を整理する。
三、協議会の構成員である者が院長候補者として提案されたときは、その者は会議に加わることができない。
昭和三十九年七月十六日
総長 大浜信泉
一方、この年は早稲田大学創立八十周年に当るので、大学キャンパスを中心に十月十九日より二十三日までかずかずの式典が挙行された。話が前後するが、この年七月二十五日新制高等学院初代院長竹野長次が亡くなった。戦後の混乱期に、旧制から新制への切り替え時期に努力された竹野の労を大いに多としなければならないであろう。
○昭和三十八年
四月九日、教務副主任が瀧澤武雄から飯島洋一に代った。八月一日から新校舎の建設が着工された。学院がこの上石神井の地に移ってから、校舎は前身「智山」の木造校舎と鉄筋コンクリートの校舎との混用で過ごしてきた。しかし、それではどうしても生徒の間に不平等の感が生じる。特に冬の暖房がどうしても木造校舎では不十分になるので、この不平等をなくそうということになり、また木造校舎の耐久年度も過ぎていたので、新しい校舎を木造校舎と取り替えることになったのである。しかし、何事をやるにも万事先立つものが必要であった。そこで初めて学校債を募ることが教員間の議題となった。賛成反対両論の間で結局募集することに決したのである。完成しても、結局自分たちは使えないことが判っているその時の三年生の父兄からも多額の募金が寄せられたことは当時の学校関係者の間で大いなる感激であったと、今でも物語られている。この校舎は七ヵ月後の翌年三月に完成する。学院生によると「外観は中野刑務所の如く、設備は東海道新幹線の如く(初期故障続出)、不満の声も多かった」(『早大学院新聞』八八号)というもの。
この年十一月一日社会科教諭宇佐美徳衛が永眠した。十月十三日学院祭の後片付けをして帰路についたが、午後十時頃中村橋附近で交通事故に遭い、外傷だけとの判断で帰宅した。しかし二十二日から病状が悪化、動脈瘤が発見され、慶応病院で胸部切開手術を受けたが薬石効なく他界したのである。享年四十二歳、働き盛りであった。
○昭和三十九年
この年から大学の要求に従って、また新校舎も完成したので、定員が六百名に増員された。戸川理事が説明のため来校、ベビーブームが去ったら減員するということであったが、今もって六百名の定員は守られている。
四月十六日附で生徒副主任が本庄昭三に代った。五月に入ると、十一日講堂において劇団「四季」によって「にんじん」が上演された。如何なることによるのか、この催物の開かれた理由は判らないが、今ではとても考えられない粋な取り計いではなかったか。十月十日、日本で初めてオリンピックが開催されたのに因み、学校が休みとなった。いわゆる「東京オリンピック」である。このオリンピックに合わせるように、国鉄が世界に、その技術を総結集させたと豪語した「東海道新幹線」が東京・新大阪間で営業運転を始めた。東京・新大阪間五百五十余キロメートルを僅か三時間十分で結んだのである。NHKも大々的に試乗放送をテレビで行った。『早大学院新聞』八七号に鉄道研究部員黒川良三が新大阪から東京まで試乗した体験を記事にしてある。左のようなものである。
新幹線初乗記
鉄研 黒川良三
一九六四年十月一日の新大阪駅は朝の五時だというのに大変な人出であった。中馬大阪市長、加藤新幹線支社長などが列席しセーラー服の女学生が八人、花束を持って一列に並び、関係者の間をぬって新聞記者、鉄道ファンがカメラを持って撮影場所を求めて右往左往していた。テレビのアナウンサーが実況放送を行ない、大鉄高のブラスバンドが「鉄道唱歌」「新幹線マーチ」等を演奏している。私も持参したテレコを廻して、その模様を録音することにした。
「まもなく四番線に“ひかり二号”が到着致します」というアナウンスがあると、急に囲りが静かになり、人々は東京方向をじっと見まもる。やや間をおいて「ひかり二号」が入線して来た。フラッシュがたかれ、私もどさくさにまぎれて新聞社のキャタツに昇ってフラッシュをたいた。興奮していたので入線時間も確かめるのも忘れてしまった。車内に乗り込んだ。ホームでは花束の贈呈、中馬大阪市長より東都知事あてのメッセージが車掌へ伝達依頼され、加藤新幹線支社長によってテープが切られたそうであるが実は車内にいたので見ることが出来なかった。正六時〇〇分。新幹線の上り一番列車「超特急ひかり二号」は新大阪駅を出発した。
この東海道新幹線は、全く新らしいタイプの高速鉄道である。つまり、一、高速運転の邪魔となる踏み切りをなくしできるだけ直線コースを選んだ。一、軌道は一四三五㍉とし安定性を良くした。またレールは継目なしで乗り心地を改善されている。
一、列車は車内信号によって自動的にブレーキのかかるA・T・Cによって制御され、又全線のポイント等のC・T・Cによって安全運転が保障されている。一、車輛は総て冷暖房つきで気密装置となっており、その他ビュッフェ・売店等いろいろサービスが行き届いている。
さて「ひかり二号」はグングン加速し、六時〇七分には三百キロの速度を出した。左手に新幹線の鳥飼基地を見たが、たちまち通り過ぎて、名神高速道路と並行する。並走する自動車がカタツムリの様に思えてしかたがなかった。山崎で名神高速道路とオーバークロスすると京都である。二分間の停車だった。大分乗客が増し車内はほぼ八十%の入りといった所。彦根インターチェンジをすぎた辺りで車内を一巡しに出かけた。キャブをのぞいたが報道・技術関係者で満員なので後部へと行く。九号車・五号車のビュッフェは満員で通過するのがやっと。鉄道友の会寄贈の新幹線型のケーキがバカに目立った。一等車は空席が目立ったが四号車・三号車・二号車・一号車はほぼ満員であった。
後部のキャブは誰もいずにガラガラだった。自分の席へ帰る途中に化粧室とtoiletに入って見た。両方とも仲々いいセンいっていたが男子用のトイレがちょっといただけなかった。化粧室は国鉄が自慢するだけあってデラックスそのものに出来ており、AC一〇〇Vのコンセント・三面鏡・ペーパータオルなどが設置され、洗面器等も今までの物よりもぐっと豪華になっている。サービス関係では気がついたことといえば、トイレに非常スイッチがついていることでした。もしもの事のあった際にはこれを押せば外にランプがついて乗客から乗務員と知らされて救助されるようになっています。関ケ原からタンボの真中にある岐阜羽島駅を通過し、予定より二分早く名古屋に到着した。ここでもメッセージ依頼があって、定刻出発しいよいよ最後の停車駅東京へ向って行った。豊橋付近で普通列車を軽く抜き去った。下り一番の「ひかり一号」とのすれ違いもアッケなく、七時十五分浜名湖付近で音もなくすれ違った。静岡をすぎ鴨宮からのモデル線区では二百十㌔を出した。横浜からはおかげで除行の連続でものたりない。多摩川を越え品川で東海道線をまたいで定刻より二分早く、九時五十八分無事に東京駅に到着した。
十月十五日で岡田院長が再任され、第二期目が出発した。これに伴って役職教員が次のように決まった。
教務主任 長島健、同副主任 飯島洋一
生徒主任 高橋裕一、同副主任 本庄昭三
また各科の学科主任が次の人々に代った。
独語科 岡田幸一退任、林文三郎就任
国語科 小路一光退任、浅見渕就任
第一社会科 高橋赳夫退任、掛下栄一郎就任
一方、この年六月から着工する予定になっていた新体育館の建設が敷地面積、設備などの点で大学との交渉が難航していた。これが十二月下旬から段々と具体化の運びとなり、翌四十年一月八日に工事地鎮祭を行うところまでこぎつけた。完成は昭和四十年度夏の頃という。決定した敷地面積は一一一三・七五平方メートル(三三六・九一坪)、バスケット・バレーコートが一面ずつとれるようになっている。更に内部に器具室、更衣室、水呑場、手洗場、教員控室兼教材室とシャワー室を備えることになった。
○昭和四十年―四十一年
昭和四十年度、この年から従来のように三年生に進級した生徒を文科組と理科組に分けて大学進学の便宜にしてきた組分けを廃止した。これは文科組に進んだ生徒がどうしてもとかく敗者のような感じをもって、三年生の一年間を無為に過ごす傾向が目につくようになってきたからであった。また特に文科と理科に分ける必然性が進学には関係がないという判断の結果でもあった。この組分けの廃止に伴って、カリキュラムの中に三年生の物理がなくなった。そのため随意科目を設けて、火・水・金曜日の七、八時限目に物理の授業を行うことになった。理工学部進学希望者は、右の三日のうちのいずれか一日の二時間授業を受けることになった。七月十五日、昨年度から着工していた新体育館が完成した。「智山」以来存続している木造の小体育館は引き続き残すこととなり、「旧体育館」と称して柔道、剣道等のクラブ活動に供されることになった。九月十一日、体育館の落成記念の祝賀会が一時から講堂で挙行された。この年度の後半に入って、本部が大幅な学費の改定を公表した。当然学生の反対運動が起った。学院でも四十一年一月二十日、生徒会の名で次のような声明が出された。
我々早稲田大学高等学院生徒会はこのたびの学費値上げに対し絶対反対を表明します。
この値上げは社会への悪影響もさることながら我々早稲田の一員として母校への悪影響を懸念するものであります。
「学費改訂について」という文書で在学中の学生にはこの値上げは関係ないと断言していますがそれを我々学院生は当面の問題として受け入れなければいけません。我々学院生は早稲田の在学生ではないのでありましょうか。我々は早稲田の一員であることにほこりをもち行動してきました。しかしこの値上げは我々の意識と相反するものであり更に加えて再び入学金を納めることは一層拍車をかけるものであります。
とにかく我々早稲田在学中に値上げされてはかないません。この純粋なそして切実な願いを学校当局に提出し是非この値上げを白紙にもどし話し合って下さる様切にお願いします。そして公開質問状にすみやかに御回答下さって説明会を開いて下さる様強く要求します。又一月三十一日までに出来る限り御報告下されば幸いであります。
誰が書いたものか、理をつくし、文言もきわめて穏当、切々とこう訴えられてはこれはもう答えようがなかったと思われる。大学でも四十一年の前半、大隈講堂を中心に附近の道路も埋めて、早稲田大学にこんなに学生がいたのかと思われる位大量動員のデモが連日かけられた。しかし、結局新年度の開始とともに反対運動も鎮静していった。新安保条約反対で外に目が向けられていた学生運動が、この学費改定を契機として内に向けられた。この反対運動が、のちに日大騒動、東大での学生運動へと波及して行くことになる。早稲田でのこの反対運動の鎮静に学院OBが大きな役割を果したといわれ、特に政経学部では、自主的に収拾した中心が学院出身者であり、理工学部では、学生の二〇パーセントが学院OBで、学部の性格を考慮したとしても、なお反対運動を未然に防いだのが学院OBだといわれた。ここにきて、改めて学院の存在の大きさが、本部関係者から評価されることになったのである。先に書いた「声明文」の内容と併せて考えれば、この活躍は皮肉な結果であったといえよう。因に改定前と後との比較を表にすると次のようなものであった。学院は文科系に該当し、学院から学部に進学する場合、入学金のみ半額となる恩典が適用された。かなり大幅な改定であったといってよいであろう。
早大学院新聞の九二号(昭和四十一年二月九日発行)に、二年F組の吉田雅美が病気入院したので、学院生にフレッシュなA型血液の献血を彼のためにしてくれるようにというキャンペーンが掲載された。吉田は白血病に犯されていたのである。病院入院のまま、次の年度となって三年に進級した。しかし白血病とは早く言えば、ガンである。級友はじめ、皆の献血も甲斐なく五月二十一日午前、入院先の慶応病院でなくなった。痛ましい出来事であった。彼が遺した詩が、前記新聞の九四号にある。今その最後の部分を紹介しよう。
終章
おわりだ
おわりに ひとこと
さよならを
さよならをしたひとがいるか
いや
これは悲しい
心のそこから さよならを
するようなそんなひとがいるか
いや
それを抱きしめたい
さよならはしまっておくものだ
これは苦しい
理解できるようでできなく、できないようでできる何とも不可思議な詩ではある。しかし、迫り来る死をジーッと見つめている青年の最後の告白が行間に滲みでているように思われて仕方がない。この年は六月十三日にも、三年D組の亀井敏が自宅において急性心臓マヒで他界した。
○昭和四十二年
昭和四十二年二月二十一日に施行した昭和四十二年度新入生の入学試験から内容が大幅に変更された。すなわち、従来入学試験は、英・数・国・社・理の五科目で行われていたが、都立高校の入試科目減少に従って、学院も英・数・国の三科目になり、この三科目と同時に作文(これは従来通り施行)を一次試験で行うことになった(作文は従来二次入試で施行)。従って、二次試験は廃止されることになり、面接もなくなった。この制度は、この四十二年度から四十四年度まで都合三年間施行された。科目数の軽減は採点上歓迎されたところであったが、反対に受験者全員の作文を読むことになって「大変」だった記憶が今蘇ってくる。ついでにその後のことまで記しておくと、昭和四十五年度から、再び面接が復活して、一次入試・二次入試となり、一次は英・数・国の三科目(学科試験)、二次は、作文と面接を行うことになり、このスタイルは今日に及んで守られている。何故面接が復活したのであろうか。面接を施行しなかった三年間に、いろいろと思いもかけない出来事があったからである。すなわち、その中でも一番大きくて大変だった出来事は血友病の子が入学してきたことであろう。血友病とは、すでに御案内の通り、万一には出血多量で死に至る危険な疾患である。たとえ面接をしていたとしても、このような疾患の子を発見できる保障はなにもない。たまたま成績の面だけで入学を許可した。一度許可した入学生を疾患なるが故に取り消すわけにはいかない。彼は希望に胸を膨らませて入ってきたが、彼と同級の生徒・担任教師、一同彼のために心を配ることの大変だったことを、今でも思い出す。血気盛んな暴れン坊の中で、万一この生徒がケガでもして出血したら、このことはたちまち彼の死を意味した。特別教室への移動の時など、級友が周りをガードして行動していた。このため、却ってクラスが一つにまとまって良かったとは、あとでの担任の述懐であった。このようにして思いもかけぬことが、面接をなくした結果起き、それが再び復活するに至ったのである。このような事由が面接復活に深く係わっていたが、一方にはこの復活に次のような話が一部教員の中で、囁かれもした。すなわち、宮川寅雄(和光大学教授・日中文化交流協会理事長)が、彼の随筆の中で、「自分が今こうやって中国の古美術に興味をもってあるのは、早稲田に入る時、面接してくれた会津八一と邂逅したからだ」と、師との出合いについて、大略このような意味のことを述べている。まさに面接の効用十分というところであろう。我々が、どうみても会津八一と比較できないのは十分承知していても、入学希望者と話し合うことの利点を考慮したからであった。ともかくこのようにして昭和四十五年度から再び面接が復活することになったのであった。
順序が逆になってしまったが、昭和四十一年十月から第三次岡田院長時代が開始され、次の人々が役職教員に就任した。
教務主任 飯島洋一、同副主任 大竹正次
生徒主任 濵部憲一、同副主任 小久江満
六月四日、一年H組島津透が山岳部のクラブ活動中、丹沢で急性心臓衰弱のため急死した。痛ましい出来事であった。学院当局としても、この事件のもたらす影響を重大視して、六月二十九日「部長・監督・コーチ懇談会」を学院食堂で開き、今後このような不祥事の起きないよう配慮してもらいたいとお願いをした。一方、同月学院で初めて春季の学院祭が挙行された。これは秋に比べて、きわめて規模の小さいもので、球技大会を中心に行われ、今日に至っている。
○昭和四十三年―四十四年
昭和四十三年、四月一日から学年早々、高等学院「奨学基金規程」が施行され、学院独自の奨学金制度が発足した。この実施の前提になったものは、最近頻々として学院生の中で「父の死」あるいは「父の経済的破綻」にあう者が起きたのが原因となった。「何とかしなければ」という学校側の配慮から、いろいろと考えた末に、修学旅行の積立金の利子をこれに充当できないかという妙案が浮かび、早速これを基金にこの奨学金制度が発足することになったのである。従来、この利子は卒業生が学院を去るに当って、植樹にあてるのが慣例になっていたものである。
七月四日、「入学試験に関する件」という議題で、教諭会が開かれた。結論から記すと、来年度、すなわち、昭和四十四年度の受験者から、前年度卒業生を含む、二学年の者のみに受験資格を与えることに変更された。つまり一浪者の受験のみを許可し、二浪以上は認めないということになった。これは言い換えれば従来は、何浪でもよかったということになる。この変更の発端になったのは、次に記すような事件が絡んでいるのである。すなわち、去年、秋田県のある高校三年生から問い合せがあって、「来年学院を受けたい」、「受験要項には受験資格者の制限は何も書いてないが」というものであった。改めて要項を読むと確かに何も書いてないので結局受験資格を与えなければならなかった。彼にとって、大学に入るのに何浪かすることを思えば、もう一度一年から学院に入る方が「急がば廻れ」の例えであるとの判断であった。彼は学院を受けた。しかし残念なことに不合格となって、この珍事は実現せずに終ったのである。こうして、この無制限の受験資格は前記のように改められたのであった。十月二十八日生徒副主任が伴一憲に代った。
この年度の末になって来年から組主任一組二人制が改められて、一部二人制に変更になる旨、大学当局から通達があった。理由は、組主任手当ての昇給に伴って、経費削減を企る必要があるという。一部二人制というのは教員によっては、全学年その組を担当し続けることのできない学科をもっている者がいるので、そのような教員は二人制にするということであった。この締めつけは、後年とうとう学科の種類を問わず一組一人制に移行して行く。
学年末になって「学院食堂」の提供品値上げが発表された。当時の値段を参考に示すと上のようである。たとえ値上げ後とはいえ、随分安いという感じを与えてくれる。
昭和四十四年度、この年一学期の末に、かねがね生徒の間で希望の出ていた「学帽」を被るか、被らないかについてのいわゆる「自由化」が、彼らの望み通り実現した。時代の変化がこのような形で具現化してきた証左であろうか。十月に入って、岡田院長が再選され、第四次岡田院長時代が開始された。
○昭和四十五年
昭和四十三年から四十四年にかけての全国的な大学紛争は、次第に高校にも波及してきた。そして昭和四十五年の一月十七日、学院でベトナム反戦ビラが撤かれた。従来学院では、この種の政治的活動は、高校生にふさわしくないとして禁止してきたものである。それから一週間後の一月二十四日の父兄会当日、来校した多数の父兄に対して、一部の生徒が、一時間に亘ってハンド・マイクでアジ演説を行った。政治活動禁止に抗議するという内容のものであった。翌々二十六日の昼休みには無届け集会を開き、全校集会を開催するよう要求してきた。学院側では、二十七日、臨時教諭会を開いて右の要求を検討した結果、これを拒否することにした。教諭会の拒否に反発した一部の生徒は、翌二十八日、放送室を占拠し、マイクを通じて全校生徒に呼び掛けた。しかし生徒主任らが説得に努め、占拠を解かせた。あくる二十九日、再度臨時教諭会が開かれ、全校集会を翌三十日に開催することに決定し、集会での院長談話の基本線について協議した。三十日に開かれた全校集会では、カリキュラムに生徒達の質問が集中した。これは、当時都立高校で頻発していた高校紛争と同じ傾向を持つものであった。集会終了後、引き続き臨時教諭会を開き、全校集会で生徒側から提起された諸問題を検討した結果、大学問題研究会にならって、学院問題審議会を設置することが提案された。この提案は、二月五日の教諭会で承認され、二月十九日、学院問題審議会が正式に発足した。この審議会は分科会組織をとり、専任教員は、原則として、全員がいずれかの分科会に所属することになった。学院問題審議会は、四つの分科会によって構成された。高橋赳夫を座長とする第一分科会(二十六名)、春木一を座長とする第二分科会(十一名)、江袋辰男を座長とする第三分科会(十二名)、三浦和雄を座長とする第四分科会(十二名)の四分科会である。各分科会は、それぞれ次のような問題を検討することになった。第一分科会は、学院の教育理念とカリキュラム、第二分科会は、学院の学則・規則、第三分科会は、進級基準、試験制度、修学旅行、第四分科会は、特別教育活動(生徒会、クラブ活動、ホームルーム)である。学院問題審議会発足一ヵ月後の三月二十日、各分科会正副座長が集まって運営委員会を開き、今後どのように審議を進めて行くかを協議した。また、審議の結果は、大学問題研究会第三分科会に報告されることとなった。こうして学院問題審議会の各分科会は、その後三年間に、通算数十回に及ぶ会合を持ったが、昭和四十八年には各分科会の答申が提出され、学院の改革に役立てられた。
このような対応により、紛争は一応鎮静化したかと思われたが、審議会発足四ヵ月後の六月十八日の生徒総会当日、またもや事件が突発したのである。この日、生徒総会の進行中、覆面黒ヘルの数名が、突然演壇に駆け上がり、壇上を占拠して、学院の教育体制を糾弾し、制服の廃止等を要求した。満場騒然、帰れ帰れの声が起り、総会続行不能の状況となったので、急遽討論集会に切り替えられた。翌十九日、臨時教諭会を開き、昨日の事態にどう対処すべきかを協議した。そして組主任が前面に出て生徒の説得に当り、一応事態の収拾に成功した。夏休み明けの九月三十日、臨時教諭会を開き、制服の問題について討議した。この問題は、更に翌四十六年に持ち越され、制服自由化――制服着用は各自の自由意志に任せる――ということで結着をみた。
昭和四十五年は、学内民主化という点でも、記憶されるべき年であった。学内民主化の学院における具体的な現れとしては、次の二つが挙げられる。第一に、総長選挙規則改正により、専任教諭全員に総長候補者選挙の選挙権が与えられ、決定選挙には、教諭全員(約七十五名)中から五十名が参加することになったこと、第二に、学院長の選任が、学院側の意向に沿った形で行われるようになったことである。
従来、学院においては、専任教諭嘱任後三ヵ年を経過しなくては、総長選挙権が与えられなかったが、選挙規則が改正(七月三十日、評議員会)された結果、右の資格制限が撤廃され、在任期間の如何に拘わらず、すべての専任教員に選挙権が与えられることになったのである。その新選挙規則に基づき、八月六日の臨時教諭会で、小野裕二郎が総長選挙管理委員に選出され、八月二十八日、総長候補者選挙が行われた。そして九月三日の教諭会で、専任教諭全員による総長選挙人選挙が行われ、十月四日の決定選挙で、村井資長が総長に当選した。
学院長の選任については、これまで、天下り人事であったが、学院内では、かねてから専任教員の意向尊重を要望する声が強かった。学院長岡田幸一の任期が満了したので、大学本部は、十一月十五日、教諭会の意向を受け入れた形で、学院教論の高橋赳夫を、新院長に任命した。その他の役職者も交代し、教務主任に高橋裕一、同副主任に河津哲也、生徒主任に長島健、同副主任に本庄昭三が就任した。
なお、前年までは卒業式で読み上げるのが仕来りであった在校生総代の送辞・卒業生総代の答辞が、この年三月二十二日の昭和四十四年度卒業式では廃止された。
また、この年を最後に、秋の体育祭(いわゆる運動会)が行われなくなった。
○昭和四十六年
昭和四十六年は、懸案になっていた施設改善の問題が具体化し、他方では、四十五年から持ち越した制服問題に一応の決着をみた年である。また学費改定問題も浮上してきた。
施設改善の問題は、この年の年頭から登場してきた。一月九日の臨時教諭会で、施設委員会の設置について協議し、同十四日、三浦和雄を委員長とする施設委員会が発足した。二月九日、村井総長は、増田・清水・木村各理事、堀家教務部長とともに来校し、施設改善の問題について学院側と懇談した。この問題は、昭和五十一年まで継続する。
四月一日、長島健が生徒主任を辞任し、同副主任の本庄昭三が昇任した。本庄の後任として、松井二郎が生徒副主任に就任した。
近来教育の国際化と経済事情の好転に伴って、学院からアメリカ等へ留学する生徒が次第に多くなってきた。しかし、彼らは単なる休学扱いで、その期間の学費免除規定は正式にはなかった。そこで、この年の四月一日から、「在学中に海外留学をする者の取扱いに関する規程」が、学院生に準用されることになった。これによって、学院生も、留学期間中の学費免除など、有利な扱いを受けられることになった。
十月四日の生徒総会を迎えて、制服自由化問題がにわかに再燃した。生徒総会は、遂に制服の自由化を決議した。この決議に対して、教諭会は、七日、十四日と、二度に亘り、かつ異例の長時間をかけて討議した結果、生徒の要求を認めることにしたが、その実施は、一ヵ月後の十一月十五日からということにした。そして十月十六日の第一時限に、全校生徒を講堂に集めて、高橋院長から訓話が行われた。制服の自由化は認めるが、あくまで学院生らしい良識ある服装をするよう、要望したものであった。
この年、各学部の学費値上げに伴って、学院の学費値上げ案も発表された。そして十月二十八日には、村井総長を迎えて臨時教諭会が開かれ、学費改定について説明が総長よりなされ、十二月四日には、清水・佐々木両理事が来校し、生徒・父兄に対し、学費改定の説明が行われた。
この年十一月上旬、例年の通り、六泊七日で九州方面(鹿児島、宮崎、瀬の本、島原に宿泊)への三年修学旅行が実施された。なお、六泊七日の九州旅行は、これが最後となった。
○昭和四十七年
昭和四十七年初頭、前年の学費値上げに反発した一部の生徒が、立看板を出した。一方、施設改善の準備が着々と進行する。修学旅行についての試行錯誤が、この年から始まる。
四十七年に入って早々の一月十七日、「学費値上げ闘争委員会」名で、学費値上げ反対を呼びかける立看板が出た。これは、大学の学生闘争の形式を学院に持ち込んできたもので、「闘争委員会」の背後関係が心配されたが、生徒係の懸命の説得によって、翌十八日、立看板は自発的に撤去された。同二十一日、この事態に関して生徒総会が開かれ、「闘争委員会」は、学費値上げ反対ストを提案したが、否決された。
施設委員会は、施設改善に当って、各教科の要望を取り入れるため、六月二十二日、各教科主任にアンケート用紙を配布した。アンケートの結果は、七月三日にまとまり、施設改善の資料として役立てられることになった。
三年生の修学旅行は、前年まで続けてきた全クラス揃っての九州旅行を、生徒の自主性尊重の線に沿って検討し直し、各クラスが、それぞれ別個の計画を立てて実施するということになった。日程は二日短縮されて四泊五日となった。趣旨は良かったのだが、実態は芳しいものではなく、修学旅行そのものを根本的に検討しなければならなくなった。各クラスの日程は、次の表の通りであった。
第六十三表 高等学院第三学年クラス別修学旅行日程表(昭和四十七年)
十一月十五日、高橋赳夫が学院長に再任された。同時に、教務主任以下の役職者が全員交代した。教務主任に小野裕二郎、同副主任に後藤良雄、生徒主任に米沢一郎、同副主任に都倉義孝が就任した。
○昭和四十八年
昭和四十八年は、施設改善、新学習指導要領実施などの新しい事態に対応してカリキュラムを検討し直すため、教育課程委員会を設置した年である。三年修学旅行は、前年の反省から、この年は中止することとなり、その代替行事として「校外活動」を実施した。
四月十二日、小路一光を委員長とする教育課程委員会が発足し、五月三十一日には、選択科目の設置等を骨子とする委員会答申がまとめられた。六月七日の教諭会において、この答申をカリキュラム改定の出発点とすることが決定された。
新美術教室を、四月から使用する予定でいたところ、各種の事情から、建設が大幅に遅れて、四月十二日に着工し、七月二日に完成した。
この年の四月十七日から、教諭会議事録と各種委員会議事録が、学院の教職員全員に配布され、教諭会の決定事項や各種委員会の進行状況などが、教員間に広く知られるようになった。
六月二十一日には、喜多見孟を委員長とする評価委員会が発足し、教育課程委員会の答申と指導要録の改訂に伴う処置の検討を進めた。この評価委員会は、十二月三日に指導要録の改訂案を答申し、その任務を終了した。
七月十日、施設改善問題に関連して、教務担当の増田理事が来校し、学院側の施設委員らと懇談した。施設委員会は、夏休み中に更に検討を進め、二学期に入って十月四日には、教諭会に建設計画を提案することができた。この計画では、全体を二分し、第一期工事として、普通教室、L・L教室、生徒読書室、生徒会部室、食堂および事務所、院長室等の建設を、第二期工事として、第二体育館を中心とする体育施設等の建設を予定していた。この提案は、教諭会の承認を得て本部に提出された。これに対して、大学本部は、第一期計画分として、六億五千万円の予算を組み、学院の諒解を求めてきた。これについて、十月二十五日、臨時教諭会を開き、討議の結果、これを承認した。以上の経過があって、十一月十六日には、村井総長が、増田・清水両理事、正田教務部長とともに来校し、施設改善の件および新入生への学債募集などについて懇談し、ここに施設改善は具体化の日程を歩み始めた。
前年度、生徒の自主性を尊重して計画・実施した三年修学旅行の成果については、教育的見地からみて、必ずしも期待に添うものではなかったために、今年度の修学旅行については批判的な空気が強く、六月二十八日の教諭会で、本年度は中止し、その代りに、旅行という形式を採らないクラス活動として、二日間の「校外活動」を行うということになった。この「校外活動」という形は、四十六年に学院祭行事の一環として行った「野外活動」を参考にして立案された。「校外活動」の内容については、以後、学年で検討することになった。十月三十一日と十一月一日の二日間、三年校外活動が行われた。その内容は、左の表のようなものであった。
第六十四表 高等学院第三学年クラス別校外活動内容(昭和四十八年)
この校外活動は、高等学校三年生の教育活動に値するか否か疑問が多く、その運営の仕方、行事の意味について、再検討しなくてはならなくなった。この事情は、十二月三日の校外活動委員会の答申に反映され、教諭会でも、長期の旅行等の計画は否定される方向に向っていった。
○昭和四十九年
昭和四十九年、校規改正により、学院から評議員一名を選出することになった。施設については、設計者と学院側との具体的な打合せが始った。三年修学旅行が、縮小した形で復活した。秋には、学院長に新たに長島健が選任された。
二月一日、校規が改正され、学院から評議員一名を選出することになった。従来は、学院長だけが評議員であったから、学院からの評議員が、二名に増えることになった。六月十三日、評議員に長島健を選出した。
施設改善問題は、いよいよ設計の段階に入った。二月二日、友成理事が、設計担当の安東勝男を伴い来校、改善の趣旨など基本点について、第一回の打合せが行われた。打合せは同八日にも重ねて行われ、三月十一日には、安東試案が提出された。この安東試案は、学院の玄関とも言うべき正門通りにあるテニス・コートに生徒会部室を建設しようとするもので、あまりにも学院の意向とかけ離れた案であったために、設計は一時暗礁に乗り上げてしまった。設計者にも再考を強くお願いし、学院内でも検討した結果、両者の歩み寄りが可能となり、十二月十二日には最終案の提示が得られた。
四月十六日、生徒会が新入生に対してガイダンスを行った。これは、五十二年まで四年間継続する。
一昨年のクラス別修学旅行の反省に基づいて行われた昨秋の三年生の「校外活動」については、昨年末の校外活動委員会でも評価されず、一月二十四日の教諭会で廃止と決定した。その代りに、三年生の修学旅行を復活させることになった。ただし、規模を縮小し、一泊二日ということにした。また、時期を、秋から春へ移した。これまで、毎年五月に、一、二年生の一泊旅行を実施してきていた。それに、三年生の修学旅行を合流させて、春の一泊ということにしたのである。こうして、一、二、三の全学年が、同じ日に、一泊二日の修学旅行を実施することになった。従来、春の一、二年生の旅行の際には三年生に対して、また、秋の三年生の旅行の際には一、二年生に対して、不自由な臨#waseda_tblcap(1,008,第六十五表 高等学院第三学年クラス別修学旅行コース(昭和四十九年))
時時間割による授業が行われてきた。生徒引率のため、相当数の教員が修学旅行に同行し、学校が手薄になるためである。今回、一、二年生の旅行と三年生のそれとをまとめて一本化したことで、臨時時間割による授業のロスをも併せて避けられることになった。新しい試みは五月三十、三十一の両日実施され、一年生は、日光・中禅寺に二クラス、伊豆に三クラス、磐梯高原に三クラス、志賀高原に三クラスが行き、二年生は、蓼科高原に二クラス、精進湖・昇仙峡に三クラス、軽井沢・浅間に三クラス、芦の牧・磐梯高原に三クラスが行った。三年生の行先は、右の表の通りであった。修学旅行は、この形がこの年から始まって、昭和五十二年まで四年間継続した。
高橋院長の任期満了のため、大学本部と学院側との間で協議が行われ、本部は、学院側の意向を汲んで、十一月十五日、学院教諭の長島健を新院長に任命した。その他の役職者も交代し、教務主任に濵部憲一、同副主任に大竹正次、生徒主任に佐藤清、同副主任に浅沼正明が就任した。
十二月二十一日、清水・佐々木の両理事が来校し、父兄に対して、学費改定についての説明を行った。
○昭和五十年
五十年二月八日、新校舎建設の打合せのため、設計担当の理工学部建築学科教授の安藤勝男、施設部長の青木安正、建設課長の川嶋栄喜、同課加藤喜一が来校し、学院側と懇談して最終的合意に達した。
四月一日より新教育課程を実施した。それは、一・二学年は基本的な変更はなかったが、三学年において新たに選択科目を設置したこと、また英語の一クラス二分割授業を採用したことに大きな特徴があった。前者は、多くの科目を設けて生徒自身興味を持つものを主体的に選択し、できれば小人数で点数にとらわれることなく深く勉強することを目標とし、後者は、一組五十五人の過密な授業を解消して効率を高め、語学力をつけさせることを目的とするものであった。
五月になって理事会は、春闘第一次回答の中で突如として教諭給の設置を提案してきた。この教諭給は三級線とも言うべき性格のものであって、かねてから一、二級線格差撤廃を強く要求してきた学院教員の希望を裏切るものであった。この問題はその後、理事会が提案を撤回し、解決した。
八月八日、施設改善第一期工事(センター棟)の起工式が行われ、同十八日から工事に入った。
九月十八日の教諭会で、政治経済学部への進学者定員が九十名から百名へ増員されたことが報告された。
また、十二月四日の教諭会で、懸案の傷害保険に関して五十一年度より学校安全会への加入を決定した。これは近年授業中、および部活動中における生徒の負傷が激増し、一日も早く傷害保険の加入が望まれていたのであるが、種種の事情から見送られてきたものであった。
○昭和五十一年
五十一年一月二十八日、学則変更が行われ、従来の教務主任、生徒主任、教務副主任、生徒副主任の名称が、学部と同じくそれぞれ、教務担当教務主任、生徒担当教務主任、教務担当教務副主任、生徒担当教務副主任となり、四月一日より施行された。
四月八日、例年通り大隈講堂で入学式を行ったが、今回は更に翌九日に一年生に対するガイダンスと父兄会が行われた。
前年八月から始まった新校舎建設は、八月には部室・食堂を除いてほぼ完成し、設備移転の準備をはじめ、教員室は八月二十日から九月八日にかけて引越しをした。それまで教員室は七一号館と七二号館に分れていたため不自由をしていたが、これによって各科(理科と体育科を除く)は広い教員室に一緒に入ることができ、打合せなどの勤務上において、非常に能率的となった。一方生徒側も九月九日の新学期から教室が変更され、三年生は新校舎(センター棟七〇号館)三階に、一・二年生は七二号館に移動した。これによって使用済みとなった七一号館一階の旧教員室は生徒読書室に、旧生徒読書室と一年生の教室は大教室・各科資料室・研究室・特別教室等に、保健室は体育教員室に、七二号館の旧教員室は保健室に、当初の計画通り改装することになった。
十月十四日、院長候補者選考協議会委員として、濵部憲一、飯島洋一、河野宥、本庄昭三、小野裕二郎の五人を選出した。この委員選出は四十五年十月、初めて学院内部から高橋赳夫を院長として選出して以来、改選期ごとに行うことになった。同協議会は同月二十五日に第二回打合せ会を行い、引続き行われた二十八日の第三回打合せ会で前院長長島健を、院長候補者として決定した。そしてこの学院教諭会の意向は理事会によって承認され、長島院長は二期目に入り、役職者人事を、教務担当教務主任に本庄昭三、生徒担当教務主任に矢野好弘、教務担当教務副主任に内藤磐、生徒担当教務副主任に福島正秀と決めた。
なお、これに先立つ十月二十九日、ラグビー部でクラブ活動中の三年E組の阿部伸郎が頸髄損傷等の負傷をした。それまでこのような大きな負傷がなかっただけに教職員のショックは深刻で、直ちにその対策に取りかかった。
十二月八日に、建設中の部室と食堂が完成し、改装中の七一号館内の図書室、研究資料室、特別教室等も一部を除いてほぼ完成したため、二十二日に第一期建設工事の竣工式と披露宴を行った。起工式より一年三ヵ月余経過している。なお、プールは場所や構造等を検討の上、引き続き建設されることになった。
○昭和五十二年
五十二年一月二十七日、教諭会で「傷害見舞基金規程」を承認、二月二十五日から施行した。これによって既に加入している安全会を更に補う制度ができた。
四月八日、十時から大隈講堂において新入生の入学式が行われた。そのあと式後の新入生ガイダンスの中で行われた生徒会中央幹事長の歓迎の辞は好評であった。ところが後日の生徒総会における幹事長の言動が不穏当とのことでリコール運動が起り、四月二十七日の生徒総会で幹事長、副幹事長がリコールされた。そのため再選挙を行ったところ、リコールされた幹事長が再選されるという珍事が起った。
五月二十六・二十七日に全学年一斉に修学旅行が行われたが、一部の二、三年生の行動に著しく常軌を逸していた
第六十六表 高等学院第二・第三学年クラス別修学旅行コース(昭和五十二年)
ことが問題となり、取敢えず来年度の修学旅行は中止し、根本から検討することになった。
五月十二日、早稲田大学創立百周年記念事業計画委員として、小野裕二郎を選出した。
六月三十日の教諭会において、政治経済学部への進学者定員が今年も十名増員され、百十名になったことが報告された。
○昭和五十三年
五十三年正月にラグビー部は東京都代表として全国大会に出場し、報徳学園高校と対戦した。敢闘したが同点で試合終了し、惜しくも抽選で敗れた。
五月二十六日から「早稲田大学高等学院交通遺児等の授業料減免規程」および「同施行細則」が施行され、生徒に対する保証制度も次第に整えられてきた。
六月八日、評議員および総長選挙管理委員選挙が行われ、両者とも濵部憲一が選出された。
八月は生徒の海外留学新年度に当るが、この年はAFS二名、IFS九名、YFU四名、太平洋二名の十七名にのぼり、留学熱の高まりをみせた。
この年は院長選挙年に当るので、院長候補者選考協議会委員選出を十月五日に行い、飯島洋一、小路一光、河野宥、濵部憲一、本庄昭三の五人を選出、また同十九日、同代表世話人として、黒崎千晴、濵部憲一の二名を選出した。そして十一月一日の院長候補者選考協議会で、院長候補者を長島健と決定したが、理事会も長島院長の留任を求めた。
十一月十五日、長島院長は新たに役職者を決定し、教務担当教務主任に本庄昭三、生徒担当教務主任に河津哲也、教務担当教務副主任に岡本卓治、生徒担当教務副主任に大井恒昭がそれぞれ任命された。
○昭和五十四年
五十四年二月八日、百周年記念事業に基づく高等学校設置検討委員として小野裕二郎、濵部憲一の二名を選出、また学院設立三十周年記念行事として、十一月一日に記念式典を行い、記念誌を発行する件を決定した。
七月十七日、臨時教諭会において、本庄校地に新設予定の「高等学校設置要綱」を討議したが、具体的なプランは示されなかったので、突っこんだ討論はできなかった。
十一月一日、十時より新制学院設立三十周年記念式典を、学院講堂において行った。出席者は清水司総長をはじめ、理事、学部長、地元名士など多数で、長島院長の式辞、清水総長の祝辞があった。式終了後、新制高等学院第六回卒業生の衆議院議員河野洋平の記念講演が行われた。このあと五時三十分より大隈会館において祝賀会が盛大に催された。
○昭和五十五年
五十五年一月十九日(土)に生徒会主催による自主講座が開かれた。演題は「近代文学における自我と恋愛」、講師は教育学部教授・紅野敏郎であった。学院主催の科外講義は毎年行われているが、このように生徒が中心となって行うことは珍しいことであった。
この年三月の入学手続者総数は五百九十名で、学債六百三十二口、六千三百二十万円であった。
東京都の私立学校経常費補助があり、人数割分の学校運営費化に伴う措置として、各学年授業料を三万円ずつ減額することを五月二日の学部長会で了承し、続いて五月三十日の評議員会で学院授業料を各学年三万円減額を承認し、六月五日(木)のホームルームで、保護者への通知を配布した。
五月二十日から恒例の春季学院祭が行われたが、今回は前日の放課後に映画祭を行うことになった。
六月三十日(月)にプールが完成して、引渡しを受けた。そして七月十七日(木)十時三十分より竣工式・プール開きが行われた。これは新校舎の建設で取り壊したプールを旧体育館脇に新設したもので、早速二十三日に公開、生徒・教職員に開放するとともに、九月の二学期より体育の授業で使用を開始した。これによって一応、大学当局の計画する施設の増改築は終了したが、学院における新体育館建設等の希望は叶えられていなかった。
この夏休み中の生徒の活動では、サッカー部が東京都大会出場するのをはじめ、ボート部の谷村大輔(3J)がシングルスカルで国体に出場して、二位となった。そのほかグランドホッケー部と、馬術部がインターハイに出場し、囲碁部の及川洋(2J)は高校囲碁大会に都代表で出場、全国優勝して、日中高校囲碁大会(軽井沢)に出場、またフェンシング部の安東宏徳(3J)は都代表となり、秋の国体に出場予定という好成績を挙げた。
七月二十八日、元英語科主任の春木一が死去した。
七月三十日、五十四年二月に『高等学院三十周年記念会誌』作成を決定したが、それが完成したので配布した。
八月一日付で本庄高等学院開設準備委員会の準備室副室長に小野裕二郎、八月八日付で本庄高等学院開設準備委員会委員に高橋裕一が嘱任された。
十月、長島院長任期満了のため、学院は前回同様選考協議会委員を選び、浜部憲一を院長候補者として選出した。そして大学本部と学院側との間で協議が行われ、本部は学院教諭会の意向を汲んで十一月十六日、高等学院教諭・浜部憲一を新院長に任命した。その他の役職も交代し、教務担当教務主任に佐藤清、副主任に山岡幹男、生徒担当教務主任に浅沼正明、副主任に相原隆夫が就任した。それとともに学科主任も第二理科・松尾毅、数学科・小久江満、国語科・岡本卓治が嘱任された。
○昭和五十六年
五十六年一月二十四日―三十日に行われた国体冬季大会出場東京都高校選抜チームに、山中雅雄、安藤勝が選ばれた。
五十五年度学部進学状況は次の通りであった。
進学者数 政経 一一〇
法 一三〇
文 二八
教 五
商 八二
理工 二〇八
五六三
理工割当 五十三年度 三四八
五十四年度 三四八
五十五年度 三三八
四月十三日(月)―十四日(火)に、初めて学外の河口湖で新入生オリエンテーションを行った。これは新入生の今後の学院生活の指導とともに、生徒間の親睦を計るためでもあった。宿泊施設は学院では初めて民宿を使用して分宿したところ、極端な格差が出るという問題を生じた。そのうえ親睦を深めたのは良いが、一年生にしては授業中騒々しくなったという批判がでた。
四月十六日(木)ホームルームで国立劇場歌舞伎教室観劇者の募集を行ったが、担当者が徹夜で並んで切符を確保するにも拘わらず、実際は生徒の利用というよりは、殆ど家族の利用であるということが分かった。そのためその後募集を中止することになる。
既に執行部より出されていたハワイ夏期セミナー参加者募集の案については、改めて審議することになっていたが、五月七日の教諭会で審議した結果、本年度は行わないことに決定した。その理由は、希望者だけの参加ということと、費用が掛かりすぎるという点で、学校行事として不適当であるとの意見が強かったためである。一方、修学旅行は、校外活動委員会と学年主任会を中心に組主任会で検討することになった。ハワイ夏期セミナーにしろ、修学旅行再開問題にしろ、どのように新しい形で修学旅行を再開するか検討してきた結果であるが、中止に至った原因は少しも改善されておらず、現状の生徒の思考や行動を考えてみると、実行するには徹底的な管理指導をしなければ無理であることがはっきりと解ってきた。そのため検討を続けてきた修学旅行の実施についても、検討委員会より不可能であるとの答申が出、七月二日の教諭会においても修学旅行は実施に踏み切ることは困難であることを確認し、修学旅行実施案も否決されたのである。
六月十一日、五十七年度教材費八千円を一万円に、合宿費上限三万円を五万円に、同窓会費千二百円を二千円に(但し八百円は基金として積立)値上げすることを決定した。また五十七年度学債募集は今年度も十万円(一口)で募集することになった。
九月十七日、五十七年度オリエンテーションは四月十日―十一日に実施することを決定した。また同日小野裕二郎を本庄学院開設準備のため、授業担任を免除することになった。
本部から「百周年記念事業計画立案の参考として、教育研究条件の改善に関する長期計画、乃至要望を提出せよ」との依頼があったので、十月十五日討論した結果、「学院は百周年事業計画にたいして反対するものではないが、事業計画によって現在の施設改善計画がなおざりにされないよう要望する。」として、学院における要望をまとめて十月三十一日付で提出した。すなわち、
「教育研究条件の改善に関する学内各箇所の長期計画、乃至要望の提出依頼について」(回答)
1、新体育館の建設 2、七一号館を取り払い、特別教室・図書室・書庫・資料室に建かえ 3、理科実験室の改修
4、LL教室をフルラボに改修 5、放送施設の改修 6、生徒面接室を改修 7、教育研究条件として六百名を、五百名にする
このほか行事では(一)研究年誌百周年記年号を刊行すること、(二)生徒を対象とした学術講演を行うことを計画した。
施設の面では、体育館は既設のものは設備が既に老朽化しているうえ、現状では不足であり、もう一棟ないと円滑な授業の運営ができない。これは体育の授業だけではなく、時間割の作成にも深刻な影響を与えている。七一号館は半分が旧智山中学から受け継いだ老朽校舎で、地盤沈下で校舎が傾き、雨漏りが起きるだけでなく、使用しにくい構造である。特に図書室は書庫がないので頻度数の少ない本はかなり重要なものでも段ボール箱に入れて積み上げるという状態になり、近い将来、処分せざるを得なくなっている。最近のような本の洪水には現状の図書室ではとても対応できない。理科実験教室は、昭和三十一年上石神井に移転してきた当時と基本的には殆ど同じ古い設備で早急な改善が望まれる。LL教室は一応校舎は新しいものの、ラボ施設が不完全の上、エアコンの設備すらないので、外部からの騒音にも全く無防備である。もっと大きな問題としては、元来一学年五百人として計画された高等学院がベビーブームで六百人に増員したものを、現在もそのままで継続している。そのため五百名収容として設計された講堂では、補助椅子を置いても全員が座れない。そればかりか、一組五十五―五十六人という過剰人数さえも解消されていないので、一・二年の教室でもそうだが、特に三年生の教室では左右の最前列は黒板が全く見えない。華やかな百周年記念事業の陰で、既設の学校が取り残されるのでは記念事業の名にふさわしくない。
十一月五日、五十七年度オリエンテーションの日程を四月十二日―十三日に変更することになったが、これは(土・日)で申し込んだので、宿泊施設が取れなかったためで、(月・火)に変更することによって解決したのであった。
教務事務の電算機化が行われることになり、委員として教務主任の佐藤清を選出した。電算化時代の波は学院にも及び、近い将来は成績処理もすべて機械に任せることになろう。
早大勤続三十年の教職員として早稲田大学は石丸久、飯島洋一を表彰した。
○昭和五十七年
五十七年一月二十一日、元高等学院教諭河野宥から「生徒の体育奨励のために」として高等学院指定寄附があったので、「河野スポーツ賞」として勉学とスポーツに目覚しい成果を挙げたものを表彰することにした。
百周年記念事業で要望した施設のうち、次の施設が改善された。
1 面接室の拡張 2 一部面接室を放送室に改造 3 印刷室の移転
傷害見舞金の募集は来年度も引き続き実施することになった。
百周年総合計画審議会設置(院長より目的・性格・構成などについて報告)があった。百周年記念事業はいよいよ本格化する。
国内研修員・在外研究員推薦条件について委員会より新しい案を提出し、承認した。これは基準を緩くして新任教員もできるだけ早く資格が与えられるように変更したものである。
二月四日、十月十九日(火)―二十三日(土)を百周年記念行事期間のため休講と決定した。
三月十七日、百周年記念事業委員会教職員委員・小野裕二郎退任により、高橋裕一を選出したが、そのほか新たに二名選出することになり、本庄昭三、飯島洋一を選出した。
入学最終手続者数 五九三名
五七年度オリエンテーションは、予定通り四月十二日(月)―十三日(火)に掛川市「つま恋」で行われたが、今回は宿泊施設もよく、天候にも恵まれて無事終了した。
五月十七日―十九日、学院祭を実施。
六月二十四日 総長決定選挙人五十人を選出。
十一月十五日、濵部憲一が院長に就任し、それに伴い役職も交代した。教務担当・教務主任に小久江満、副主任に山岡道男、生徒担当・教務主任に杉山信、副主任に谷中信一を委嘱した。
十一月十八日付けで理工学部教授会は高等学院の生徒受け入れを昭和六十一年度受け入れ分より、理工学部募集人員の約一五パーセント(二百四十九名)とすると決定した。
年末の十二月二十五日(土)―三十日(木)にシーズン・スポーツ(スキー班)を発哺で行った。シーズンスポーツはこのほか水泳班、山岳班があったが、海の汚れとか生徒が集まらないとかで中止となり、現在はスキー班のみとなった。これは教職員側から見ると、年末の多忙な時に一週間近く家を開けるので、なかなか大変な仕事であるが、スキー・ブームの時代の上、初心者には基礎的な練習を習熟させるので、生徒に大好評である。
○昭和五十八年
五十八年一月八日(土)、始業式のあと学院講堂で創立百周年記念映画を上映した。
一月二十日、同窓会総会は当分の間、四月二十九日(天皇誕生日)に開催することを決定した。また小久江満が教務主任に委嘱されたため、数学科主任に異動があり、本庄昭三が主任となった。
二月十日(木)「河野宥・記念スポーツ賞規程」を一部修正し「早稲田大学高等学院スポーツ賞内規」を制定し五十七年四月一日より施行することになった。
二月十六日、五十七年度 学部学科割当数決定
政経 法 理工
五十五年度 一一〇 一三〇 三三八
五十六年度 一一〇 一三〇 三二八
五十七年度 一一〇 一三〇 三二八
三月十七日、スポーツ賞受賞候補者として3A小松達司が選ばれた。
早稲田百年の中にあって高等学院は旧制以来六十年の歴史をもっている。三十年はちょうど半ばである。旧制高等学院の色合いを色濃く残しながら発足した新制高等学院ではあったが、その旧制高等学院と同じ年齢に達した。戦後の教育改革においては、旧制から新制への切り換え、新制の発足は外的な力によるものであった。従って本意ではなかったとも言えるであろう。この故に巷間には、旧制高校へのノスタルジーがなお存在している。旧制高等学校が社会的にいかなる存在であったか。何故にその制度が否定されたかを問うことなく、その遺風を偲ぶことは危険であろう。
三十年は人生にとっては而立の年である。我々の高等学院もまた而立しなければならない。発展しなければならない。旧制を含めて六十年の歴史を、単なる積年の歴史としてはならない。言うまでもなくあらゆる人間的営為の中にあって、人間を人間たらしめるための根幹的営為は教育であり、学校教育はその組織体であるから、学校の歴史から読みとらなければならないものは、個々別々の事蹟ではなく、当時の教員の姿、生徒の動き、そしてそれらの背景にある社会情勢との関連であろう。
新制高等学院三十年の最近の十年は一九七〇年代に相当する。この七〇年代は近代文明に対して画期的な年代であった。国家間の紛争の解決に対して、科学技術力とそれを支える経済力が決定的要因となり得ないことが立証された年代であった。教育にとってこの事実は極めて由々しいことであった。近代文明とは何か、何のための学問か、科学技術は全能か、など近代公教育が依拠してきたものを学園紛争は激しく糾弾し続けた。
一方、高学歴社会の到来は、学校教育に露骨な競争を持ち込み、家庭教育の荒廃とともに、児童生徒の教育への批判が厳しくなって、遂に国は異常な短期間で学習指導要領の改訂を行うに至った。今回の改訂は、かつての改訂にみられなかった質的改訂を含んでいる。それは学校採量の余地の大幅な拡大である。学校の主体性の尊重である。真実のところは現存する学校格差の追認であるにしても。
しかし、大学受験体制にある高校には、その主体性発揮の余地はない。画一化を強要されつつある。それは昨春に始まった共通テストの圧力である。大学受験生にとっては、高校教育とは何か、を再び問わなければならない状況が迫ってきている。
共通テストのインパクトは、私立大学にとっても強烈である。画一化された高校教育では、個性的学生の育成が難しく、私立大学は、国公立大学の補充機関の意味しか持てなくなる恐れがあるからである。
私学教育の独自性をいかにして発揮するか。この課題は、一早稲田大学だけの課題ではない。全私学の課題でもある。
大学への全入制を前提とする附属高校の存在理由は、かくして極めて明白となる。高等学院のこれからの教育はこの課題への挑戦である。
早稲田大学は、昭和三十八年の早稲田実業高校の系属校化を皮切りにして、大学入試によらない「推薦入学制」の枠の拡大を試みてきた。すなわち、昭和四十八年には第一文学部、翌四十九年には商学部が「推薦入学制」を採用し、来たる五十七年には早稲田高校からの「推薦入学」が決定している。更に、埼玉県本庄市には全入制附属高等学院の開設が予定されている。かくして、唯一の附属校として独自の校風を誇ってきた高等学院は、これからの系属、附属のリーダーとして、大学入試なき高校教育の理想実現を目指す重大な責務を負うことになってきている。
高等学院教育の最近の変貌は、まことに著しく、当否は別として学院への批判はまことに厳しいものがある。私学教育を含めて学校教育の価値が問われている現在、過去三十年の歩みを謙虚に振り返るとともに、その歩みが新たな出発の原点になることを願うものである。
大学百年史の一環としての高等学院史を編集するようにと、当時の院長高橋さんから編集委員の一人に指名されたのは、思い起こせば今から六年前の昭和四十九年の四月のことであった。早速編集委員会を開き、編集方法などを話しあったが、何分原稿締切りが、五、六年先のことなので、具体的に実行に移るというまでには至らなかった。そんな雰囲気のまま委員会を繰り返すうちに、一年、二年とまたたく間に時は過ぎて行き、編集委員にも変動があり、また四十九年十一月十五日には、高橋院長も長島院長に交代したりして、本格的に編集の仕事を具体的に実行に移したのは、昨五十四年の四月からであった。もっとそれまでに何もしなかったわけではなかった。資料収集の第一段階として、発足当初の学院の事情に精しいと思われる人たちの話を聞くことにした。まず発足当時教務部長であった佐々木八郎氏からは、新制学院発足前後の事情や、上石神井への移転の経緯などを伺うことができた。その外、発足当初から四年間事務主任であった時岡孝行、元学院長の樫山欽四郎・岡田幸一の諸氏をも訪ねて、その回顧談をテープに収めたり、あるいは小路日記の中から学院関係の記事を抜き出したりして、少しずつではあるが記事の材料を集めていたのである。時恰も昭和五十四年は新制高等学院発足三十周年に当たり、その記念行事の一環として、「学院三十周年記念誌」を編集するよう長島院長からの提案があり、懸案の学院史と並行してその編集作業にとり組むこととなったのである。
こうして五十四年四月、従来の編集委員を中心とした三十周年記念誌編集委員が新たに任命され、以後二つの編集委員の合同会議が開かれるようになった。そして、その合同委員会の協議の結果、まず「三十周年記念誌」の編集に着手することとなった。何分こうした仕事には素人のわれわれにとっては、編集会議を開いても、何から手をつけ、どのように作業を進めればよいのか、雲をつかむような心もとない状況であった。しかし何回か話し合いを重ねるうちに不思議に話しは具体化の方向に向かって行き、まず三十年の学院歴史年表を作製することに意見は一致した。そして三十周年記念誌編集委員がそれぞれ分担して執筆に当たることとなった。即ち昭和二十四年の発足の年から三十四年までは、江袋、小路、四十四年までの十年間は飯島、小久江、五十四年までの十年間は小野(裕)、後藤の諸君が割り当てられた。年表作製の締切りは夏休み明けであったが、休暇中に作製するためには、休暇に入るまでにあらゆる資料を収集しなければならなかった。ところが発足当初から昭和三十年ごろまでの記録は、上石神井移転の混雑にまぎれて散逸したらしく、学校記録としてはわずかに生徒主任室の守田富士子書記の簡単なメモ帳だけという有様であった。幸いに「学院新聞」が大部分図書室に保存されてあったのは、当時の学院の情況を知る上に非常にありがたいことであった。しかし主として初期の資料収集に当たった江袋君の苦心は並々ならぬものがあったであろうことはいうまでもない。
こうして、ともかくも九月には三十年間の学院歴史年表の作製が完了し、十月半ばごろには、三十周年記念誌の仕事も辛うじて一段落を告げることができた。そこでいよいよ学院史編集の作業に移ることになったわけである。すでに記事の根幹となるべき歴史年表がまとめられているので、学院史の原稿作製はそれ程困難な作業ではない。ただ歴史の記述形式をどうするかが、編集会議の問題点となったが、結局平凡ではあるが最も着実な方法である年代順記述ということにきまり、その執筆分担はさきの歴史年表の場合と同様十年ごとに分けて当たることにした。即ち最初の十年間を、江袋、水野、小路、次の十年間を浅沼、遠藤、松井、最後の十年間を後藤、佐藤(陸)の諸君が分担したのである。
かくして、さきの歴史年表の記事の中から各年度ごとに重要事項を取り上げ、それに適宜肉付けするという方法で筆を進め、十二月初めにひとまず成稿を見るに至ったわけである。そのでき上がった原稿を読み通してみると、その記述の内容や方法にやはりそれなりの不統一な点が見受けられ、分担執筆という欠陥が指摘されることは、やむを得ぬこととはいえ、執筆過程において十分な打ち合わせをする余裕のなかったことが悔やまれるのである。しかしその反面、一人の手によってまとめられた、首尾一貫した記述形式よりも、それぞれの主観によってその記述内容に変化のあるものの方が却って興味を感じさせられる場合もあろうかと私かに自身を慰めてみたりもした。しかしいずれにしても、歴史の中心となるべき人間の記述が極めて少なく、単なる表面的な事実の列挙に記述の大部分を費やしてしまったことは、全体の紙数に制限があったためとはいえ何としても不満を拭い去ることのできない思いがする次第である。しかし今はただ、前後六年間の長い間の心の重荷となっていたものから解放された安らぎと満足感をゆっくりかみしめ味わいたい思いである。(小路記)
昭和五十五年一月八日
編集委員 浅沼正明 江袋辰男 遠藤嘉徳 後藤良雄 小路一光 佐藤陸 松井二郎 水野紀一(五十音順)