早大系属早稲田実業学校高等部(商業科・普通科)、中学部創立八十年の歴史を繙いてみよう。明治十五年東京専門学校が早稲田に創立され十余年を経て早稲田中学校が開校した。更に数年たって、時代の要請によって日清役後の産業界の発展により、実業教育を期待する機運が次第に盛り上がり、大隈重信も学苑内にこれに応じた実業学校を設立することにし、明治三十四年三月早稲田実業中学設立に関する願書を東京府に提出した。その創立の主旨の中で「按ふに、国家の中堅は、其の社会の中流に位して諸種の業績に従事する、所謂中等国民に外ならず、国家の治乱盛衰の主として中流民衆の教育如何に繫ること古今東西の事実の明に証する所なり。是に於てか我が教育家中夙に現行中学教育制度の不具を憂へ、其の改善を唱ふる者あり、即ち二種の中学を設置し、一は以て高等諸学校に進むの階梯となし、一は以て専ら中等国民を教養するの用に供すべしと論ずるものあり、寔に是れ刻下最大の急務なり」と述べて、すなわち中等以上の業務に就く者を養成することを以て本校設立の目的としている。同四月、早稲田中学校校舎内に早稲田実業中学を開校した。早中校長大隈英麿が初代校長に、早中幹事増子喜一郎が幹事に就任した。教授陣は東京専門学校の高名なる先生方が多く担当されてすこぶる盛観であった。本校の設立願書は東京都公文書館に現在保存されており、各種学校として認可を受けた。それによると修業年限は三ヵ年で、入学資格は中学校三年修了またはこれと同等以上の学力を有する者とされている。三学期制を採り成績点は二十点満点法を採っている。本校入学者は初め十三名に過ぎなかったと言われている。
校是として、初め「去華務実」で、のちに「去華就実」となり、現在までこの方針は長く脈々と続いている。
翌明治三十五年四月早稲田実業学校と改称、予科一年、本科四年、専攻科二年と定めた。早稲田実業中学の生徒を試験の上、本校相当学年に編入させた。生徒数百八十名となる。同月生徒活動の組織として大成会が発足し、興風部・講話部・語学部・運動部・雑誌部・会計部の六部が設けられた。この活動は後述する。九月十二日校長大隈英麿は辞任、生家南部伯爵家に戻った。坪内雄蔵が早中校長に、十月天野為之が早実校長に就任、大隈伯は学校の経営を天野博士に一任した。同年十月に早稲田大学開設ならびに二十周年記念式典が行われ、早中・早実ともにこれに参加した。同年に発行された『早稲田実業学校生徒募集』に見える本校の科目は予科一ヵ年(倫理・国語漢文・英語・地理・歴史・数学・体操・理科)、本科四年(倫理・国語漢文・英語・地理・歴史・数学・簿記・経済学・財政学・法学・商業学・商業実践・体操)などがあった。当時のおもなる教員は男爵前島密、三枝守富、中野武営、法博田尻稲次郎、法博高田早苗、文博坪内雄蔵、文博横井時冬、法博天野為之、文学士土子金四郎、法学士鈴木喜三郎、文学士藤井健次郎、理学士池田清、今井鉄太郎、菊池三九郎、増子喜一郎、米人ハワード、法学士和仁貞吉ら堂々たるメンバーが揃っていた。明治三十六年早大構内に新築中であった早実独立校舎(木造二層二百二坪五勺)が落成、九月には学則変更があり、開校式が行われた。かくて早中校舎から移転した。明治三十二年実業学校令公布、三十六年三月専門学校令が出された。本校はこの公布によって学校組織を甲種商業程度にするか、あるいは専門学校令に基づく高等商業学校に昇格するかで議論を生じ大隈伯の意志を受けて天野博士らが高きを捨てて低きに決定し、六年制に決定した。しかし普通の中等学校は五年制であるから本校は一年それらより長いので、従って程度は高く、甲種商業学校でも専門学校程度とみて差支えないわけである。この年六月本校創立以来二代の校長を補佐してきた増子幹事が辞任し、牧野孫太郎が幹事となった。明治三十七年三月に第一回・第二回の卒業式が挙行された。第一回卒業生中に東則正がみえる。明治三十八年四月第三回卒業式が行われ、本科卒業生百十九名と第一回専攻科卒業二十名を世に送った。当時の在校生は八百七十七名、卒業生の中に竹久茂次郎(夢二)、上野小七(宇都宮市上野デパート社長)、徳島賢尚(清松・東京海運社長)らがいる。
明治三十九年五月牛込区早稲田鶴巻町十番地(現在・新宿区早稲田鶴巻町五一三番地)に新校舎起工式、翌年四月二十日落成し開校式を挙行した。木造二階建、ルネッサンス式の近代的西洋建築であり、昭和二十年第二次大戦の米軍空襲によって類焼した校舎である。この年の卒業生の中に実業家山名義高、のちの衆院議長・文相の松永東、伊藤英夫、野沢三喜造の名がみえる。明治四十一年四月から修業年限二年の予科設置・本科四年とした。従って修業年限は引続いて六ヵ年である。明治四十二年三月卒業生の中に、新制卒川瀬祐臣(日銀)、柳沢鉱一(横浜興信銀行頭取)、旧制卒で高瀬荘太郎(一橋大学長・文相・郵政相・通産相・参議院議員)がいる。明治四十三年五月十四日初代校長南部英麿が五十五歳で逝去した。この年天野校長は本校の校訓として、三敬主義を唱えた。最初は「他を敬し、己を敬い、業務を敬う以て処世の要訳なり」であった。のち、「他を敬し、己を敬し、事物を敬す。これを三敬主義という。これ諸子徳に入るの門なり、宜しく躬を以てこれを行うべし」となった。この三敬主義は「去華就実」とともに現在に至るまで本校の教職員・生徒・校友に強い影響を与えている。今後とも生き続けることと思われる。明治四十四年七月、校地に隣接した地所三百二十六坪五勺を買収し学校敷地を拡張した。十二月、総建坪八十坪の柔道場建築着工翌年春完工した。同月、山本幹事退任、栗山精一郎が幹事になった。この年の卒業生に菊地義郎(衆議院議員)、石村幸作(参議院議員)らがいる。明治四十五年三月卒業生に酒井億尋(荏原製作所会長)がいる。なお明治末には在校生八百八十六名が在学していた。創立以来明治末までの卒業生は九百八十五名に達し実業界で活躍している。同年四月に修業年限二年の夜間部が設立された。明治時代の本校入学生は東京は勿論全国各地から入学してきた。この傾向は大正時代も続いている。
明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御。世は大正となった。八月二日明治天皇奉悼式が早大校庭で行われた。本校の御真影を奉安し、早大・早中・早実三校合同で厳粛に行われた。大正二年十二月、栗山幹事が脳溢血で急逝し、後任に前橋孝義が就任した。翌大正三年三月、第十二回卒業式が行われ、第一回夜間部の卒業式が同時に行われた。夜間部一回卒の中に後年大阪そごう常任監査役の浅山富雄を見出す。この月八十坪の普通教室が増築された。また、この年テナー藤原義江が本校に京北実業から編入してきたが家庭事情で一年たらずで中退している。大正四年、故ケネディ大統領と親しかった青山学院大教授、早大講師、日本国連協会理事、本校評議員でもあった細野軍治が卒業している。同年四月、本科四年生のストライキの責任をとって前橋幹事辞任、田中穂積(のちの早大総長)が幹事となったが六月辞任、鈴木浩之が後任となった。同年八月、早大学長高田早苗が大隈内閣に文相として入閣、そのため天野校長が早大学長に就任し、本校の名誉校長に推戴された。早実校長に杉山重義が第三代校長に就任した。この年大正天皇即位を記念して教員文庫から分離して学生文庫が設立された。明治末期に始まった本校野球部は三月関東中等学校野球争覇戦に優勝、八月には大阪豊中球場で行われた大阪朝日新聞社主催第一回全国中等学校優勝野球大会に出場、後年の輝やかしい活躍の第一歩を残した。大正五年四月二十日、創立十五周年式典が盛大に行われ、講演やスポーツ行事が行われた。天野早大学長の記念式辞の中で述べたように、七月学校組織を「財団法人」に改めるよう文部大臣に申請、九月二日付で許可を得、同月十六日登記を終えた。その結果終身維持員に高田早苗、大隈信常、三枝守富、天野為之、有期維持員に市島謙吉、田中穂積、塩沢昌貞、田中唯一郎、増子喜一郎、杉山重義、鈴木重義がなり、杉山校長は理事、三枝守富が監事となった。予科入学志願者の増大により、予科定員四百名のところ百名増を大正六年三月文部省に申請し、直ちに認可されて定員五百名となり、本科と併せて千三百名となった。
大隈内閣総辞職後、世にいう早稲田騒動が起り、高田・天野両博士の対立により、天野学長は辞職し、早大教授も辞任、以後歿するまで早大との関係を絶ったわけである。この余波を受けて早実内が混乱を呈し、大正六年十二月には教員ストライキにまで発展し、十七、八人の教員が辞職する事態に至った。同七年十二月、天野為之は校長に復帰、杉山重義校長兼理事、鈴木造之幹事共に辞任、天野校長は理事に、神長倉真民が幹事となり、校内の経営陣一新し、翌年二月には教員陣容も整い、維持員も整った。
はっきり制定された年代は分らないが、大正初年代に相馬御風作詩・永井建子作曲の早稲田実業学校校歌が作られた。歌詩は六番まであるが、一・二番だけ抜粋してみる。
一、都のいぬゐ早稲田なる
常磐の森のけだかさを
わが品性の姿とし
実る稲穂の帽章に
去華就実のこの校風を
高くぞ持するわが健児
二、国と国との隔てなき
民の利福を理想とし
世界を一に結ぶべき
大なる使命をになひたる
聖き活動我が商業の
未来の鍵はこゝにあり
一番で校訓「去華就実」を謳い、二番では世界各国の間の平等な共存共栄を謳い、時代を超越し、全世界の諸民族の平和の実現を理想としている。「我が商業」のところは系属後、普通科設置の新事態に当って「商業」の字句を削って「早実」の辞句を入れ代えて現在歌っている。この校歌は早大校歌とともに早実健児が声高らかに今後も歌い続けて行くことであろう。
大正十年には建坪百一坪の普通教室増築、同年十二月には校地に接する日本土地株式会社所有地三百二十四坪四合八勺を買収し校地が拡張された。
大正十一年一月十日、学苑創立者大隈重信が逝去。享年八十五歳。十七日、日比谷公園で国民葬が執り行われ天野校長をはじめ、教職員生徒多数が参列した。後を追うように四月二十八日大隈綾子夫人が歿した。夫人は幕臣三枝氏の出で生前、本校卒業式に際して優等生に記念の硯箱を授与するのが好例になっていた。同十二年三月神長倉幹事辞任、講師上野安紹が臨時幹事事務取扱を経て幹事に昇格、五月には弓道場が完成した。同九月一日午前十一時五十八分京浜地方を中心として関東一帯に大地震が発生し、幸い本校の被害は免れたが、校長・教職員の私宅が倒壊、焼失したのが若干見られた。本校校庭は一日夜から近隣居住民の避難所に充てられ、数百人の人々が天幕を張って野宿し、本校では山口直平講師以下一部の生徒有志が詰めきりで警備に当った。早実関係の罹災者は八講師と生徒四百九十名に及び、生徒の横死した者十名に上った。授業は九月二十七日から再開され、十一月二十七日校庭において関東大震災で横死した校友、生徒の慰霊祭がしめやかに行われた。翌年夏休みを利用して震災で被害を受けた校舎の大修理を行った。十月、書類倉庫を建築した。この倉庫は第二次大戦の戦災に焼残った鉄筋コンクリート造りの建物で、現在は戦後校舎復興の際取り壊して残っていないが、創立以来の学籍簿の殆どを守ることができた。大正十四年四月、予科を廃止し、第一学年から第六学年とする六年制に改めた。九月には教務課を改革し、小林愛雄講師が教務主事に就任、また各学年に担任講師を置いた。同年四月から軍事教練が実施され、九月一日付で松尾謙三陸軍歩兵大尉が配属将校として派遣され着任した。以後代は替ったが敗戦で軍がなくなるまで軍事教練を実施した。十二月二十五日付で夜間部学則を変更し、修業年限四年の甲種商業学校に昇格が決まった。入学資格は高等小学校卒業程度である。大正十五年三月十九日付で修業年限二年(入学資格尋常小学校卒程度)の早稲田商科学校が併設され、天野為之が校長を兼任、四月から開校した。四月二十日、創立二十五周年式典が教職員生徒を挙げて盛大に行われた。卒業生記念事業として創立二十五周年記念文庫に書棚二架と書籍九十冊が寄贈された。七月に大隈侯所有の本校敷地千三百六十四坪三合五勺を買収した。大正十二月二十五日、大正天皇崩御し、昭和と年号が変った。
昭和二年一月八日、校庭で大正天皇大葬遙拝式を教職員生徒参集の上行い、天野校長が謹んで奉悼の辞を述べ、同日教職員生徒総代は二重橋前の広場で霊轜を奉送した。三月十日、青年訓練所の認定を府学務部長より受けた。二十一日、昼間部第二十五回、夜間部旧制度三年および商科学校第一回卒業式が行われた。四月、新学期に備え新たにタイプライティング教室が設けられ、資材を整え、また博物理化学教室に一八教室を充てることになり、内部を改造し、大卓流し、水道・ガスなどの新しい設備を整えた。九月、夜間部の校誌『主誠』第一号が創刊された。昭和三年、創立二十五周年記念行事として設立された学生文庫は、昭和二年度卒業生から大書棚二架と書籍の寄贈を受け千三百二十冊に達した。なお文庫の閲覧は放課後であった。九月に小林愛雄が幹事に、三雲貞次郎が主事兼会計監督に就任した。十一月二十六日、天野為之校長が、三十年以上教育に尽し、その功績顕著なる者として、全国教育者中から五人選ばれて宮中において賜饌の光栄を得、文部省から御大典記念の硯箱を贈られた。十二月二十七日、本校校則および学科課程を改正し、昼間部を早稲田実業学校第一本科、夜間部を第二本科と改称することが認可された。翌四年二月十日、本年七十の賀寿を迎えた天野校長頌徳古稀祝賀会を全校を挙げて盛大に行い祝意を表した。四月八日、本年度から担任講師制度を改正して各学年とも担任二名を配置することになり、新担任が発表され、第二本科も一学年一名宛の担任講師、商科学校にも一名を充てることになった。十二月二十五日、商科学校規則を改正し、修業年限二年を三年とし直ちに認可を受け、五年四月一日から実施された。昭和六年四月二十日、創立三十周年記念式典が行われた。昭和八年四月、第二本科の入学資格を尋常小学校卒業程度に改め、修業年限を五ヵ年とし、従来の四年制を旧制度、五年制度を新制度と称した。九年十月二十日、実業教育五十周年記念式典が行われ、二十五年以上実業教育に従事して特に功労ある者が表彰された。本校では校長天野為之および講師杉山令吉、小田堅立が表彰を受けた。二十七日、校庭で実業教育五十周年記念式を行い、校長代理小林幹事の訓話があった。十二月二十五日、『校友会報』第一号が発行された。昭和十一年、二・二六事件の勃発により本校は授業を休み、一部日程を変更して、三月三日卒業考査を終了した。五月十二日、防護団が編成された。以後、時には改編され、担当者に若干の異同はあったが、組織の大綱は変りはなかった。
昭和十二年九月十四日、早稲田実業学校防護団の組織が改編され、十八日に日支事変下防空演習を行った。十一月六日、府下中学校生徒の大分列式が挙行され、本校もこれに参加した。十二月十五日には南京陥落祝賀旗行列に参加した。昭和十三年一月元旦、全校教職員生徒一同、宮城前に参集して戦勝を祝し、聖寿万歳を祈願するため奉拝式を執行、以後毎年実施された。二月十一日、校庭で紀元節式典を行い、宮城の遙拝を行い、天野校長が全校生徒に行った訓話として生前最後のものとなった。式終了後、恒例の予餞会は非常時局のため校庭できわめて質素に行った。予餞会とは紀元節の日に新卒業生を送るために全校生徒参列して行ったものである。三月七日、天野校長は発病以来自宅療養中のところ腸チフスと決定、二十四日芝伝染病研究所に入院、薬石効なく二十六日午前三時四十五分歿した。享年七十九歳。二十八日、校葬を以て盛大なる葬儀を行った。式には朝野の名士多数が参列した。天野為之先生は早大創立以来、高田早苗、坪内雄次郎とともに大隈老侯を助け、早稲田大学の発展に偉大なる功績を挙げたが、不幸にも早稲田騒動の時以来、大学を去って多年力を尽してきた本校の校長に戻って、爾後二十余年全精力を傾けて本校の育成発展に偉大なる貢献を挙げられた。また明治時代我が国経済学の確立に先駆的な業績を挙げられていることは周知の通りである。三月三十日、中西四郎が校長事務取扱に就任したが、四月十七日、小林幹事が校長事務取扱に就任、更に四月二十九日、大隈信常侯が名誉校長に推戴された。大隈侯はこれで早大名誉総長、早中・早実の名誉校長になったことは早稲田学苑のあるべき姿になったわけである。
昭和十四年度から集団勤労作業が組織的に課せられることになり、関農場での農耕作業や、校外各所にて作業を行うことになった。七月十七日より従来の夏休みが夏期鍛練期と改められ、ひしひしと非常時の体制が強まってきたわけである。また本年度から十五歳以上の生徒に対して体力検定が行われ、本校は九月に実施、合格者は厚生省から合格徽章が授与されることになり、合格者は二百二十三名に達し、そのうち中級は十四名を数えた。軍事教練が行われて以来毎年、その訓練の成果を見るため軍より査閲官が来校し、査閲を受けていた。従来本校庭で実施されてきたが、同年十一月二十四日、同年度査閲は武蔵関グラウンドで初めて行われた。昭和十五年二月十八日、「学科考査を行わざる選抜方法」によって体格・体力検査と口頭試問(常識考査)を二日間で実施した。十月二日本校の特設防護団による防空演習を行った。同月三十日、小林愛雄校長事務取扱が文部大臣より永年勤続により表彰された。十二月二日、教職員・生徒が校庭に集合し祝賀式を行い、記念品を贈呈し、山口直平講師が教職員を代表し祝辞を述べた。同年度から国民体力法が制定され、同年は十七―二十歳の男子に対し体力検査が実施された。同月九日文部省実業学務局長名で「実業学校卒業者の上級進学に関する件」という通牒が出され、父兄生徒の不安が高まり、小林校長事務取扱は翌年一月八日の始業式で経過を説明、本校に影響のないことを述べた。しかし翌年度の入学志願者が減り、質の低下をきたし、また在学生の他中学校に転校する傾向が強まった。昭和十六年四月から、⑴従来のA・B・C・Dという組の名を今後は忠・孝・信・義と改め、⑵生徒に努力賞制定、⑶昨年度の最高学年に工業演習科を置いたのに加えて興亜科を設け、中国大陸、南洋方面の知識を授けることにした。四月二十日、四十周年記念式典を校庭で行い、同時に勤続二十年以上の教員の表彰式が行われた。五月二十一日、従来の大成会を「早稲田実業学校報国団」と改組し、同時に「部」という名称を「班」と変更した。九月十日、小林校長事務取扱は校長に昇格就任、山口直平講師は教務主任に、訓育主任に坂本義男講師が同時に委嘱された。九月十二日、「学校報国隊」の結成式が行われた。十一月二十二日、国民勤労報国協力令が公布され、勤労奉仕の義務が法制化された。緊迫の度を加えていた日米関係も遂に破局へと進み、十二月八日、米英に対する宣戦の詔勅が出され、戦争へと突入した。浅川栄次郎理事長は教職員・生徒を校庭に集め、時局の重大さを説き銃後国民の責務について訓示した。昭和十七年二月十三日、小林校長は多年実業教育に従事し功労顕著なりとして実業教育振興中央会長文部大臣から表彰され、東京府で表彰状と記念品が伝達された。
同年四月一日小林愛雄校長辞任、理事長浅川栄次郎が第六代校長に就任、同月十六日早実報国隊六年、四年全生徒東京府知事から出動令書が通達され小金井の大緑地建設作業に従事することになった。同十八日(土)放課後、米艦ホーネット号より発進したドウリットル指揮の米機本土初空襲があり、本校にも焼夷弾数個が投下されたが機敏なる処置により火災にいたらず軽微なる損害にとどまったことは不幸中の幸いであった。五月一日から一週間全国で健民強調週間が始まった。六日午後、報国団各班の鍛錬競技を行い、更に十六日には徒歩訓練を各学年実施、特に五・六年生は新宿―多摩御陵間四十二キロの長距離を約十時間半、一名の落伍者もなく行軍した。夏休みに入ってから全学年種々の鍛錬を行った。戦局は次第に変転をみせ始めてきた。昭和十八年一月、第一本科、第二本科ともに修業年限を一年短縮、四月から実施、三月戦時的色彩の濃い教育課程の大改訂が行われ、国民科・実業科・理数科・体錬科・芸能科に大別し、更に特別教育活動として修練が設けられた。また戦力増強を体育の至上目標とした「戦時学徒体育訓練実施要綱」が通達された。十月、「教育に関する戦時非常措置方策」が発令された。これは男子商業は工業・農業および女子商業学校へ転換するか、または整理縮小しなければならなくなった。従って翌十九年三月、当局の要請により「早実工業学校」を創立し、機械科・電気科・建築科の三科を設置、内藤多仲博士が顧問になった。同時に実業学校の生徒募集を中止し、商科学校を廃止することになった。早実工業学校設立時の成績通知票を見ると、その教育課程は「修身・国語・作文・漢文・習字・英語・数学・珠算・生物・物象・物理化学・地理・歴史・電気・機械・実習・経済・商業・体操・作業」より成っている。なお工業学校となったがその施設は殆ど不備貧弱であった。同月「決戦非常措置要綱」に基づき「学徒動員実施要綱」が閣議決定、中学校以上は通年動員を実施することになり、学校報国隊の組織について「学徒動員令」が公布されるに至った。本校では一・二年は午前中授業、しかし警戒警報が発令とともに下校させた。三年以上は普通授業をやめて、三年は中島飛行機武蔵野製作所、四年は日本通運(飯田町・中野・立川・渋谷各支店に分散)、五年は中島飛行機小金井工場に出動し、軍需物資の生産、運輸に従事した。中島工場の爆撃後、工場分散により高尾山麓の洞窟工場、仏子、熊川などに移動することになった。作業は昼夜交替で徹夜で生徒は頑張った。戦争が苛烈になってきて都市民の地方疎開などが始まり、生徒の家庭で地方疎開しそのために退学する者も出てきたし、教師の中でも退職する者が出始め、学校で低学年の授業を終ってから工場へ監督に出かけるということも行われだした。十九年末から本土空襲が烈しくなり、昭和二十年三月、東京大空襲により東京は大打撃を被った。五月二十二日、戦時教育令が発令され、学校の授業は停止し、学徒を本土防衛と生産増進に挺身することになった。五月末、各講師は動員工場に監督に出動して、学校には用務員もいなく、夜は講師が動員先より交代で一人だけ学校で宿直した。空襲が連夜続いたので校舎は窓に暗幕をたれ、黒一色、サーチライトの交錯する中で無気味な夜を過した。校庭は防空壕が掘られた。教員室の教育備品、貴重図書、教材は疎開させてなかった。同月二十五日、未明の空襲により通用門方面より火は本校を襲い、大金庫と小倉庫を残して、あとは灰燼に帰してしまった。余熱を避け一ヵ月後に開庫した結果、創立以来の学籍簿が無事であったことは不幸中の幸いであった。八月十五日敗戦。
一時は廃校との気配がみえたが、校長・教職員一致して早実復興に立ち上がった。先ず教職員生徒が力を合せて焼跡の整理に入り、九月には青空教室を開き、塀や号令台のところに黒板を立て掛け、焼け石に生徒は腰掛けて教科書、教育資材も殆どないまま授業を再開した。また焼けた木材を柱とし、焼けトタンを集めて十五坪の掘立小屋を作り、そこが学校本部たる校長室、教員室を兼ねたものであって、雨が降ると雨水が流れるという始末であった。夜は裸電球をともして第二本科の教室とした。間もなく、早中の戦災校舎の一部を借りてそこで授業が行われた。
十月、「男子中等学校より転換せる学校の取扱に関する件」の通牒によって戦時中に転換していた「早実工業学校」は本年度で廃止し、本来の早稲田実業学校に戻ることになった。早実工業学校に転換すると間もなく学徒動員により高学年は動員され、正規の授業は中止となり、引続き戦災により校舎全焼により、実際には名前だけの存在であった。
占領軍下の状況にあって教育の自由主義化が指令され、特に修身・日本歴史・地理の授業は差し止められるようになったが、暫定措置として教科書の不適当な個所を削除したり、墨で塗りつぶして授業が行われ、また教科書も不綴の分冊で配本される期間もあった。生徒も戦争末期には一千名を割り七百余名に減少していたが、疎開先から復校する者も多く、また他校から本校へ転入する者もあり、次第に増加していった。
戦後無から発足した早実は、先ず校舎の復興が緊急の要務であった。昭和二十一年三月、復興後援会がスタートし、建設寄附金を募って校舎復興を図ることになり、爾後、全校を挙げて多大の辛苦を重ねて復興に邁進した。四月には早中校舎から引き揚げ、校庭での青空授業。六月にバラック平屋建校舎五教室、翌年バラック平屋建三教室、武蔵関の農業用倉庫改造による代用一教室を作り、第三学年を分離授業。昭和二十三年に学校・校友会・父母の会合同の早実復興委員会を結成、校舎本建築五ヵ年計画決定。同年末第一期工事着手。翌二十四年第二期工事着手。二十五年第三期工事着手。二十六年第三期工事完成。二十八年二号館鉄筋校舎着手。翌年五月二号館(鉄筋三階建二百三坪)完成し、三十二年四号館工事着工。三十三年同工事竣工(鉄筋三階建五百六十一坪)。三十四年三号館建築着手。翌年九月鉄筋四階建七百二十九坪落成。三十六年体育館竣工し、浅川校長十数年に亘る早実校舎復興の難事業が完成した。
昭和二十一年より修業年限を一年延長し五年制とした。昭和二十二年一月十一日、大隈信常名誉校長が長逝し、早大・早中・早実三校合同で大隈講堂において葬儀が行われた。この年、占領軍の指令により六・三・三制が実施された。本校も早実中学校を設立し、都より認可された。新二・三年生は中学校生徒に移行し、中一が生徒募集により入学した。昭和二十三年四月、新制高等学校が発足し、これにより本校では高等部の設置認可を受けた。五年生は旧制度で卒業するか新制高校三年として一ヵ年残留するかどちらかを撰択する必要を生じた。九十九名の生徒は旧制度の最後の卒業生となり、残り三十六名が新制高校の第一回卒業となり新学制となった。中・高の新学制に伴い教育課程も新しくなった。また早実中学校の校名を昭和二十三年四月から「早稲田実業学校中学部」と改称し、第一本科は中学部と高等部の六年制となり、旧制早稲田実業学校は廃止された。第二本科は四年制の第二高等部と改め、新制高校として新発足した。同年四月から「先生と父母の会(PTA)」が結成され井上多一が会長となり、学校行事に協力することになった。これが早実父母の会の前身である。また復興祭、予餞会、体育祭、修学旅行も相次いで復活した。昭和二十五年四月二十八日、創立五十周年式典が大隈講堂において校友高瀬荘太郎通産大臣をはじめ、安井誠一郎東京都知事、島田孝一早大総長、石橋湛山ら多数の来賓を迎えて盛大に行われ、同日から三日間に亘り数々の祝賀の催しが行われた。九月、新教育法に基づいて従来の優・良・可・不可の成績表示でなく五段階の成績評価法を採用した。教育職員の新免許法に基づいて全教員が新免許状の出願手続を行い九月一日付で新免許状が交付された。
大正五年以来本校は財団法人組織であったが、昭和二十四年十二月私立学校法の公布によって学校設置者に新たに規定された「学校法人」に組織を変更しなければならなくなり、新法規に基づいた新寄附行為を定め学校法人早稲田実業学校に改組する申請手続を二十五年十二月二十五日都知事に提出し、翌二十六年二月一日認可された。設立当初の役員は次の通りである。
理事長(校長) 浅川栄次郎
理事 森伝・中西四郎・竹内清三郎・徳島清松・山口直平・坂本義男
監事 渡辺清・寺山仙太郎
評議員 柳沢鉱一・細野軍治・志水一郎・内田純一・大隈信幸・天野滋・三木春雄・田中孝一郎・山口直平・坂本義男・竹内清三郎・森伝・中西四郎(二十六年七月歿。山名義高が理事就任)
新法人の認可によって維持員の名称は理事となり、また新たに現教職員の互選により羽山力、石沢誠一の両教諭が評議員となった。
昭和二十八年成績評価は五段階法から十点満点制に戻り、学年成績で八・五点以上の者を優等生に、五・四点以下の者を不良成績者として職員会議の及落判定会議で審議されるようになった。三十一年一月本校顧問石橋湛山代議士の通産大臣就任と校友松永東代議士の衆議院議長就任を祝うレセプションが、学校・父母・校友の共催で生徒代表も加わり盛大に行われ、四月には創立五十五周年記念式が戦災復興をかねて大隈講堂で行われた。同月に二・四代校長天野為之胸像除幕式が行われ、三敬主義碑文がはめられた。三十六年四月二十三日、戦後の復興なり意気上がるこの日、創立六十周年記念式典が挙げられ、その他種々の記念祝賀行事が催された。
戦災による校舎復興はほぼ完成したが、この間教職員の生活は中々苦しく、既に昭和二十四年に第一次教職員組合が結成されたがこれは長続きせず、間もなく廃止したが、三十五年に再び組合結成の機運が起り、十月十三日早稲田実業学校教職員組合が結成され、学園民主化が図られた。組合の運用をめぐって組合内部で意見が分れ、一部教職員による親和組合(第二組合)が結成された。以来三年間学校理事者は利害の異なる二組合とそれぞれ団交を持つという煩瑣な行為を繰返していた。三十六年四月「学校運営組織規定」が理事者の同意を得て実施された。これによって教務・総務・事務の三部が置かれ、その下に教務・学習指導・生活指導・総務・庶務・経理の六課、課の下に二十一の係が設けられ、教職員はなんらかの校務に携わることになった。また、教員会議が、教員会議運営規則に則って教員互選の議長団によって運用が図られることになった。同月には他校より遅れたがやっと高等部の生徒会が発足し、会長には福田勝彦が選出された。なお中学部生徒会は四十一年四月に高等部とは別に成立し、小林長(中二A)が初代会長に選出された。生徒会第一回の総会で従来坊主頭であったのを長髪にしてもらいたいとの件が採り上げられ、学校の許可を得た。現在の長髪とは異なり、坊主頭に対して髪を伸ばす程度であった。
第二高等部は明治末に発足し、幾多の人材を世に送り、盛時には約五百名を超す時もあった。戦災後は次第に生徒が減少していったが、廃止する前数年間は財政的にも不調となり、昭和三十八年三月の卒業式で二十一名を世に送ったのを最後に廃校した。三年以下の在校生は都定時制高校や他校に転校した。
昭和三十六年十一月、早大主催により天野為之生誕百年祭が盛大に行われ、先生と大学との多年のわだかまりが解てきたことは喜ばしいことであった。この頃より浅川校長は早実の将来を考えて、すなわち設備投資のための多額な出費、それに伴う借入金の返済、また年ごとに増大する教職員の人件費やその他の経費、更に労使関係の調整など、厳しい情勢にあった。また大学進学者の増大という社会一般の現象から、一般的に職業高校の生徒数の減少傾向が現れてきたので時勢に応ずる早実のあり方を求めて、ここに本来の姿であるべき早大への復帰が検討されたのであった。
本校創立の由来からみて早大との関係は親しくあるべきであるが、天野博士が早大を去ってから四十数年間は遠い関係にあった両者間も漸く修復の機運が芽生えてきた。かくて三十八年八月十三日、ついに両者の併合に関する合意が成立し、早大大浜信泉総長と早実校長浅川栄次郎との間に覚書が交されるに至った。左に原文を掲げる。
覚書
近き将来において学校法人早稲田大学(以下甲と称す)が学校法人早稲田実業学校(以下乙と称す)を併合することを前提として甲と乙は双方同数の理事をもって構成する併合委員会を速やかに設け、併合方式その他併合に関する具体案について協議を進めるものとする。
昭和三十八年八月十三日 早稲田大学総長 大浜信泉㊞
早稲田実業学校校長 浅川栄次郎㊞
覚書に従い、早速早大と早実双方の同数理事からなる併合委員会において具体的協議が行われ、差し当って、十二月十七日本校は早大系列下に編入することが決まり、編入に関する合意書および実施事項の覚書が調印された。ここに「早大系属」が実現した。「系属」という字句は大浜総長により考えられ、早大と同じ組織下にある高等学院は付属であるが、本校はこれと異り、早大の系列下に入り、早大の理事会の方針のもとに早実は早大の支配下に入り今後の発展を期することになった。これによって三十九年四月に本来の商業科の他に、普通科が設置され、同科第一回生が二百六十六名で構成された。合意書第二学校に関する事項三項に記されているように早大学生の教員志望者のための教育実習校となった。爾来、昭和五十五年まで三十八回千八百八十五名(他大学生を含む)の学生が本校にて教育実習を受講している。普通科の教育課程を左表の如く決定し実施された(なお、商業科の教育課程も参考まであげておく)。
また昭和三十六年より実施してきた「学校運営組織についての規定」は系属化に伴い廃止し、新たに「早稲田実業学校規則」が四十年六月から実施することになり、これによって従来の教員会議が教諭会となったが、四十六年四月専任教員会と改めた。翌四十一年四月「早稲田実業学校教職員就業規則」が施行され、教職員の服務規律および労働条件について、労働協約を基調に定められた。同月三学期制を廃して二学期制を施行、前期は四月一日―九月三十日、後期を十月一日―翌年三月三十一日としたが、四十四年度からは前期を夏季休業まで、後期は九月から翌年三月末日と変更し現在に至っている。
系属化に伴い上層部の人事異動が行われた。昭和三十九年三月浅川栄次郎理事長辞任、時子山常三郎早大常任理事が本校理事長に就任、四十一年一月退任、文学部教授渡鶴一早大常任理事が新任、四十三年九月早大常任理事岩片秀雄教授が就任、四十四年四月早大常任理事広田嘉雄教授が就任、四十五年十二月早大常任理事増田冨壽教授、五十一年九月早大常任理事吉村健蔵教授が就任、五十三年十一月早大常任理事正田健一郎教授が就任、五十五年三月辞任、同四月早大常任理事戸谷高明教授が就任、今日に至っている。三十九年浅川校長辞任し、名誉校長の礼遇を受けることになった。四十二年八月二十二日歿した。八十一歳。山口直平教頭が校長代理となり、十月九日第七代校長に昇任した。坂本義男教諭が教頭昇格、四十一年四月病気辞任、早大から坂井秀春総長室調査役が教頭として来任し、系属後の過渡期の困難な時に運営組織の改廃、二期制実施、一号館建設(三十九年六月完成)等に力を尽され、四十二年十一月退任し、平俊文教育学部教授が十二月就任。以後歴代教頭は早大から就任、すなわち四十六年九月戸谷高明教授、四十九年十月小島義郎教授、五十一年十月中島峰広教授、五十四年四月岩淵匡教授が就任、現在に至っている。教頭はいずれも教育学部より来任している。
四十年十二月教員の研修発表誌として『研究紀要』第一号が発刊され、各教科の教員がそれぞれ研究を発表され、現在十四号に達している。系列下編入合意書第三項により早大学部進学ができることになり、三十九年四月高等部入学生が四十二年三月卒業の時初めて実施された。四月一日早大各学部に第八十二表のように計七十名が推薦入学を許可され進学した。五十六年三月卒まで十五回、毎年入学許可が増加し、総計二千四百四十七名に達している。昭和四十三年三月三十一日山口直平校長が退任。先生は大正七年講師就任以来五十年終始一貫本校に尽され、多大の功績を残された。多くの子弟を育成し永く師表として仰がれた。その後名誉校長となり、四十九年一月十八日急逝された。七十九歳。二月十日盛大に校葬が行われた。
第八代校長として早大滝口宏教授が昭和四十三年四月一日就任した。四十五年定年制が敷かれ、多年本校教育に尽された先生方が定年退職された。四十六年四月二十日、系属後初めて創立七十周年記念式典が体育館で早大関係者はじめ父兄校友教職員らが参列して盛大に挙行、永年勤続教員として羽山・石沢両教諭が表彰された。記念事業として校史の刊行が計画され、七教諭が編纂委員を委嘱され発足、五十一年三月完成した。滝口時代に入って、大学の教旨を教育の基本とし、更に三敬主義とともに教育の一層の充実を目標とした。校外教育については一大改革を行った。本校創立の頃箱根方面に遠足した記録が見出されるが、昭和初年には六年生は関西方面が固定し、他学年は行先が毎年変更し一―四泊で、一年は日帰りが多い。時局が変化し始めた昭和十三年は費用節約と体位の向上を目的とし日帰り、上級生は富士裾野と代り、十五年には春に五年生以下集団徒歩訓練となり、五月一日には集団徒歩訓練で学年による八―十二キロを徒歩、十七年五月には六年生は新宿―多摩御陵間四十二キロの徒歩訓練をはじめとし低学年もそれぞれに応じて行軍を行ったのを最後とし、戦後二十三年頃より各学年修学旅行が復活し、高三は関西旅行を再開した。また戦後夏季休暇中に林間、臨海学校が暫く開かれていたが今回それらをすべて廃止して、高三を除き各学年に地域の総合学習を踏まえて全員参加の特別教育活動を実施し始めた。すなわち中一は高萩教室を毎年夏、茨城県高萩市大心苑に宿泊させ六泊七日に亘って心身の鍛練を集団で行った。中二は高原教室を長野県駒ヶ根市で実施、駒ヶ岳登山、山麓の農家に宿泊させて農山村の生活を直に体験学習を行うとともに伊那谷の歴史・地理・民俗・産業について綜合的な地域学習実施。中三は古京教室を毎年秋に大和地方で生徒の研究発表を主体に飛鳥・奈良・吉野の遺跡を訪ねて研修させる。高一は奥只見教室を毎年夏、学年全員を二班に分けて前後して奥只見を中心に新潟県下で自然に親しみ地域の総合学習を実施。高二は京都教室を全体学習および主題別学習を通して日本文化の基礎を成す京都文化の理解を目標に、四泊五日の実地研修を行う。以上は学年全員参加であるが、別に希望者を募って毎年ではないが沖縄・ハワイ(昭和五十五年アメリカ教室へと発展)研修を実施している。また大成会新聞部が早実新聞を昭和二十四年以来毎年数回発刊しているが、滝口校長の発案により学校行事を家庭に連絡し学校と生徒父兄との間の関係を密接にして教育効果を挙げる目的で四十六年『早実通信』を創刊し年三回発行、現在三十七号に達した。早実新聞は現在新聞部の編集で百五十四号に達している。四十七年十一月木造二階校舎が漏電と思われる事故で全焼した。翌年体育施設整備のため学債を募ることになった。木造校舎の跡地に新たに柔・剣道場と生徒部室の建設と温水プール(実現せず)を新設して体育施設の整備・拡充を図る計画であった。翌四十九年七月第二体育館が起工され、五十年一月完成。鉄筋コンクリート二階建、一階に武道場、ブラスバンド部室、シャワー室、ホール、ボイラー室、二階に競技室、体育科教員室、部室、ホールが備えてある。また四十六年六月、駒ヶ根市所有のグラウンド用地四万五百三十八平方メートルを購入、四十九年末駒ヶ根グラウンド竣工に続いて駒ヶ根校舎が落成した。校舎は二階建、資材は明治四十三年建造の旧赤穂小学校の木材を利用させて頂いたもので、宿泊室、指導室、講堂、実習室、厨房などよりなっている。本校校外教育に一威力を加えたものと言えよう。山口校長の時第一回早大推薦入学者が七十名、次いで滝口校長代になって逐年増え、四十五年には百名を超え、歴代校長、教頭をはじめとして全校教職員の教育の努力によって第八十三表のように五十一年三月には二百二十七名と増加してきた。創立七十五周年記念行事として二号館の改築工事が計画され五十年十月改築工事起工式が行われた。また校史も編纂委員の手により原稿がなり、羽山・松下両教諭らによる編集が着々と進み完成の域に近づいてきた。また同年一月第二体育館および第一体育館敷地の一部が借地であったため借地分千九百十九・四三平方メートルを地主天祖神社より購入した。現在校地はすべて借地ではなくなったわけである。
五十一年三月、系属後本校の発展に一大寄与をなした滝口校長は満期退任され大学に戻り、四月一日から商学部教授青木茂男が第九代校長に就任した。五月三十日、創立七十五周年記念式典が午後一時から大隈講堂で阿部・時子山両元早大総長、大隈信幸名誉校長、滝口前校長、青木校長、保泉校友会長らが壇上に列席し、一、二階には約二千に及ぶ新旧学校関係者や近隣の住民の方々がかたずを飲んで席を埋めていた。先ず青木校長の式辞が始まり、今日に至るまでのご協力と本日の参列を感謝するとともに松永東元衆院議長や高瀬荘太郎元文相など多くの人材を輩出したことを述べ、今後更により一層の発展を期したい旨の挨拶があり、吉村理事長から「本校七十五年の歴史は学校関係者一同の一致協力のおかげである。今後もこの態勢を固め、また早大との一層密接なる関係のもとに教育の実をあげたい」と式辞ののち、滝口前校長が「明治維新後十数年を経て、大隈重信下野して今の早大前身たる東京専門学校をおこし、明治三十四年実業教育の必要から本校を創立した。その時の校是として“モットモ倫理二重キヲオキ”とあり、これが本校の校風を語る「去華就実」となり「三敬主義」の伝統ある校風として今日に至っている。この意を体し、いやが上にも立派な『早実』を築かれんことを希望する」旨の祝辞があり、次いで二十五年以上の永年勤続教職員たる羽山、石沢、小堺、芹川、奥津、小林、芦沢、久保、田中各教諭と高橋理子職員に対する表彰を行い、席を替えて復元記念門落成式に移り、大隈名誉校長によって除幕式が行われ、次いで校庭にて祝賀パーティが賑やかに行われ、完成した『早実七十五年誌』を配布した。昨十月着工した二号館の改築工事も完成し、六月二十日早大村井総長代理清水常任理事(のち総長)の出席を得て多数関係者列席のもと厳粛に落成式が行われた。
滝口校長時代にその路線が引かれていた教員の教育知識の向上を念じての早実教員海外留学制度についての内規が五十二年一月発表された。長期海外留学(六ヵ月毎年三人)と短期海外留学(一ヵ月毎年二名)の二つに分れ、毎年度初め希望者を公募し校長が委嘱し、この内規によって五十二年度から実施することになり、各教科のうち希望する者からこれを実施し、多大の効果を挙げ現在に及んでいる。
昭和五十三年一月二十二日、本校昭和三十五年卒業の王貞治(巨人軍)が本塁打七百五十六号を昨年九月三日放ち、米国のハンク・アーロンの記録を抜いた。また第一回国民栄誉賞を授与されたのを祝して本校、校友会、野球部OB会、父母の会合同共催にてホテル・ニューオータニで盛大な祝賀会が九百名に上る多数の参列者列席の中で行われた。王より学校に記念碑の目録が贈られた。二十七日には王を迎えて記念碑の除幕式が行われた。五十三年七月海外帰国子弟受入れについて青木校長より提案された。海外帰国子弟受入制度の校長提案は十一月の理事会で五十四年度から発足することになった。その概要は、中・高それぞれ定員のうち中学男子五名、高校十名以内、出願資格は日本国籍を有する者、海外在学期間二年以上で、帰国後六ヵ月以内または帰国予定の者、中学部志願者は、海外小学校を五十三年九月以降に卒業または五十四年三月までに予定の者、高等部志願者は海外中学校を五十三年九月以降に卒業または五十四年三月までに卒業予定の者とした。中高とも入試で一般者と同じく受験させて合否を決定し、入学後は一般入学者と同じく取り扱うが、本人の過去のカリキュラム等を見た上で一年間必要と認める特別の学習指導を行うと定め、五十四年の入試から実施し、中学部三名、高等部普通科五名の合格者が出た。
昭和五十五年三月早実奨学基金規定を制定した。従来日本育英会奨学生、東京都育英奨学金を受けている生徒がいるが、本校の奨学金を貸与された者は高等部で八人、給付は高等部六人が受けている。日本育英会一般は一人、都育英奨学金の一般貸与者は一人である。
昭和五十五年五月、駒ヶ根教室三号館増築が承認され直ちに着工し、十月下旬完工、十一月九日現地で青木校長、牛島事務長、地元関係者ら出席のもとに落成式が賑やかに行われた。三号館は二号館に接して建られ鉄骨二階建で生徒収容人員百二十人可能である。従来の一号館五十人、二十号館百人と併せて、二百七十人の生徒が収容可能となり、一学年を収容して夏期授業(高原教室・駒ヶ根教室・各部夏期合宿など)を行うことができることとなった。駒ヶ根校舎落成式に出席した牛島芳事務長は帰京するや間もなく急病に倒れ、療養に努められていたが、十一月二十四日五十歳の若さで急逝された。揖斐前事務長のあとを受けて就任、在任期間は短かったが青木校長を助けて着々と積極的に功績#waseda_tblcap(1,005,第九十三表 早大推薦入学者数(昭和56年3月))
を挙げられた。なおかの有名なる「コンバット・マーチ」の編曲者としても世に知られている。後任は大学より総長室調査役宮内安信が十二月一日から就任した。
昭和五十六年は創立八十周年に達する。その記念事業として『七十五年誌』の追補を編集する。もう一つは昭和三十三年に建られた四号館も年数も経ち傷みも見えてきたので、校舎条件の改善のために従来の三階建を地下一階、地上四階へと増改築することになった。
新四号館の建設工事の概要は次の如くである。工期は昭和五十六年三月中旬から五十七年一月下旬完工の予定で地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート建築である。地下は集会室や生徒ラウンジ、体育施設などに充てる。二―四階はそれぞれ普通教室六教室で計十八教室とベランダ、一階は普通教室六教室とトップライト・アクルドームを設ける。
青木校長就任以来、系属後十余年を経て改革も軌道に乗り、教職員、生徒一丸となり建学の理想に向かって前進を続けている。現在における本校の現況を述べてみると、高等部は一学年普通科七クラス三百五十名、商業科二クラス百名、中学部二百名、この内、早大推薦入学者は昭和五十六年三月には三百十四名となり、卒業生の七割になっている。また本校は文武兼備を理想として掲げている。本校の学力は年々向上しているが、スポーツの面においても硬式野球部は五十年に二十回の甲子園出場を遂げてから、以後春の選抜大会、夏の甲子園大会を通して七回に亘って出場を遂げ、五十二年の国体青森大会の優勝、五十五年夏の甲子園大会では決勝に進出したほか、軟式野球部、バスケット部、バレー部等の全国大会出場、水泳部の飛込全国優勝、硬式テニス部の全国制覇、剣道部の活躍などが注目される。 (執筆者 石沢誠一)