『葉隠』と朱子学とは、鍋島藩学の両翼をなすこと、前に『大隈伯昔日譚』を引用して説いた如くで、従って大隈が、幼少から青年時代に亘って厳課され、修得した教育の二大系流である。その中『葉隠』は、編者達が火中に付すべしと遺言したのが、その遺志に背いて残ったので、藩必須の教養とはいっても、秘本の性質を帯びるから、幾らか表向きにするのを憚るような風がなきにしもあらず、それでいながら、いつとなく、全藩子弟に浸透していた。例えば水戸家では、徳川御三家の一つ、いわゆる天下の副将軍の家柄でありながら、藩祖光圀の秘密の遺訓として、もし朝幕の反目抗争の場合が生じたら、朝廷に御味方なし奉るべしということが、不文の家訓として伝わること、後には他藩にまで知られていた。『葉隠』の性質には、幾分それと似通ったような趣がないでもない。
これに反し朱子学は、ただに藩学として公然と教えたばかりか、幕府がこれを正学とし、他を異学として全国に公布し、命令したのだから、幕府の御用学であり、そして天下御免の公学であった。今に類例をとれば国定教科書だったのである。しかし国定教科書には、サイド・リーディングズとして、まだ幾らか、他の読書の許される余地があるが、幕府の異学の禁止には、暴挙として反対の声も少からず上がったのを、弾圧し、追窮して余すところのなかったのは、寧ろ昭和になって一部の狂信的右翼が、天皇機関説学者を窮迫して、その主唱者を遂に刑余の人とならしめる極端に走り、矯激の左翼論者が、徒党を組み、苟も自派の所説に違うものは、余孽の存在の余地もなからしめようとした暴力ぶりに譬えたら、その様子が偲べよう。
この朱子学を教えた藩学校が弘道館であり、苟も藩の子弟たる者は、必ず就いて学ばねばならなかった点では、今日の義務教育と相通ずる点がある。
この弘道館は、八代の藩主鍋島治茂が、佐賀城下、松原小路の相良十郎大夫の屋敷跡に文武稽古場として建て、暫くこの名を付けた。弘道館と言えば水戸のが有名であるが、あれは徳川斉昭が建てたので、幕末の創刱である。鍋島家のは遙かにそれに先んじ天明元年(一七八一)の設立で、大隈重信の生れるより五十七年前のことであり、大隈が数え七歳にして入学した時(一八四四年)は、六十三年の校歴を経ていた。『弘道館記』(天明二年撰)を見ると、
我藩の若きは、梁廟の時に在って杏檀を西園・宝里の二区に築き、後世名教を重んじ、弦誦廃れず。然りと雖も、今に距っては、多く年所を歴、頽廃これに随い、且つ地の稍々僻なるを以て、士の焉こに朝夕する者、或は之れを〓む。(もと漢文)
とある。梁廟の時とは三代藩主鍋島綱茂の時代で、杏檀とは学問所のことであり、佐賀が教育施設に心を向けたのは、弘道館に始まらず、起源は早く、二代藩主光茂が二の丸に聖堂を設けたのは元禄四年(一六九一)で、三代綱茂が、元禄十年、諸人の就学の便を計って、これを二の丸から城外鬼丸の観頤荘に移した。『弘道館記』に言及するのはそのことである。しかし幾何もなくして廃学せられていた。
それが復活せられるに至ったのは、いわゆる「天明の治」と称せられた時勢に促され、まことの人材の登用が必要となってきたからである。いま佐賀県立図書館所蔵の『御仕組八箇条』なる文書を見ると、この事情がよく分る。その一節に、
専ら諸役人の人柄に依つて御政務之順不順、風俗の善悪、銀米御相続方之御損徳にて相懸り、彼是につき、文武の人材多く御取立置かれ候はで相叶わず (『佐賀県史』中巻 三九七頁)
とあり、その人材養成のところに付した注には、一に学校の建設にありとする。
右人材御教育の儀は御国政第一の御仕組に候えば、四方より懸り能き場所御見立て文武修行之学校御建立御座あるべき事に候、勿論毎月御式日相立て、各様方始め、着座、惣侍以下之講習座扨又殿様御事も折節入らせられ候御座等、射場・馬場・槍劔術・柔・組打類之場所迄一境内に御纏営の事 (同書 三九九頁)
この文の如くこれは文武両道を教えたので、学問専一に講じたのでなく、その学問もどういう内容のものか、記録を欠くので分らない。蓋し徳川時代の学問極盛期には未だ達せず、特に何派の学を旗幟とするというところまでに至らなかったのであろう。寧ろ時勢はいわゆる田沼専制期に入り、上方文化が江戸に移って、経済的に伸長し、町人の社会勢力が増大した半面、江戸三百年、最も頽蕩淫靡の時代が現出し、田沼意次自身、積極的に学問を軽蔑しさえしたから、各藩においてもそれが振わなかったのは当然であったろう。
しかるに、徳川家斉が第十一代将軍として登場するに及び、天下衆怨の的であった田沼が老中から失脚し、賢臣、白河城主松平定信が老中に任ぜられるに及び、初政は大いに奮い、徳川の時勢に、記録さるべき繁栄を現出した。
定信の在任は六年に過ぎなかったが、田沼の重なる秕政を廃し、華奢を禁じて勤倹を奨め、財政を整え、風俗を正し、武芸を励ますに努力し、成果必ずしも十分に挙がらなかったとしても、その善意と温良は認めるに足り、傍ら、定信自身、歴代の老中のうち、最も学問を敬重し、且つ自らもいささか学者の資を具えていたので、この奨励のため、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲の諸学者を登用して、幕府唯一の最大官学所なる昌平黌を公開し、他方和学講談所を設けて、盲目の塙保己一を主裁として、国学を講ぜしめた。これによって各藩に学問が振興したが、鍋島藩は海に面し、港に恵まれ、交通に便なため、産業にも文化にも感応することきわめて鋭敏で、沈滞した弘道館も、自ずから革新が行われざるを得ぬ。殊に、後に寛政の三博士の一人と併称さるる古賀精里が、弘道館を主裁するに及んで、夙にその名声は江戸にまで達するに至った。
古賀精里は、寛延三年十月、佐賀郡古賀村に生れた。元の姓は劉、渡来人で先漢の高祖皇帝の裔孫の出と称され、先祖は初め甲斐に移住したが、数代にして筑後に移り、三潴郡古賀村に住んで古賀姓を名告り、また数代して、今の佐賀の古賀村に移ったのだという。幼にして学才抜群、しかも日夜をおかず勉強して、蘊蓄頗る深かった。最も王陽明を崇尊して、すなわち卓越した陽明学者であった。それが藩の抜擢を蒙って、京都に遊学し、更に大坂に移るに及んで、程朱の学の信奉者に変った。それは京坂に旺然と起っている新学説の洛閩学、すなわち広くは宋学、狭くは程朱の学という新気運の学説に化せられたのである。
学成りて藩に帰ると、藩主鍋島光茂は藩政の衰微、財政の窮乏について諮問した。精里は、藩主自ら美食を禁ずるの範を垂れること、大奥女中の濫費を差し止めること外十数件を具申し、藩主が直ちにこれを実行したところ、数ヵ月ならずして、効果が顕著に現れたので、古賀は大いに信任を博した。また弘道館を主裁せしめると、規則を改正し、方針を自ら京坂で修得してきた朱子学に一定して、学風大いに振うに至った。天明二年頃の弘道館の講義内容と時間表は次の通りである。
但、朔日相除く、翌二日相講じ候様
一、三、七論語
此内、一、三、朝六時(午前六時)
七 晩七時(午后四時)
九ノ日 大学
刻限 晩七時
右 長尾忠三郎
副島弥兵衛
但、十五日相除く、翌十六日相講じ候様
五ノ日 孟子
刻限 朝六時半(午前七時)
右 古賀弥助(精里)
(『佐賀県史』中巻 四〇七―四〇八頁)
そしてここに現れている論語、孟子、大学以外に、小学、中庸、書経、易経、礼記、それから史類が講ぜられたという記録があり、若干は老荘も読まれたろうし、後に大隈は好んで諸子百家を渉猟したと語っているから、少くともそれらの書物は一通り、いつの程にか備えられるに至っていたのである。
また儒学以外、礼法指南懸令、算数指南方懸令、番学懸令など、いわゆる六芸に属する教師もいたことが記されているから、礼法、数学、書道も教授されたに違いない。尤も幕府ではそれらが廃止されているから、弘道館においても、大隈など就学の頃はそれに倣うてなくなっていたかもしれぬ。なお、ちょうどこの天明二年に、付属のようにして武道の稽古場ができ、若干の修練がなされた。
しかしそれを判釈する学派、学説は、まだ厳しい制限が置かれているようには見えないが、いわゆる寛政異学の禁が公布され、全国の学問が一様に、朱子学に限られることになると、もともと鍋島藩は、古賀精里が陽明学から発足し、京坂に学んで、宋学(朱子学はその中心)に洗脳してきて、藩の学風を一新した因縁経歴があるのだから、この異学の禁には、双手を挙げて賛成し、呼応し、最も有力な台風の目となった。
この天下に正学を拡げ、異学を禁ずる新運動の総帥となったのは柴野栗山で、天明八年正月十六日、官儒として中央に召し出され、翌寛政元年九月十日には岡田寒泉がまた招きを受け、そして翌寛政二年の五月二十四日には、疾風迅雷、耳を掩うの暇もなく、異学禁制の大号令が発布され、そして翌三年九月二十一日には尾藤二洲が徴を受けて、三人で、この異学の禁の施行と防衛を固めた。この異学の禁は、今の思想統制で、歴史上、真に注目すべき事実である。そして約五年間は、柴野、岡田、尾藤の三人が主となり、聖堂に、いわゆる正学を講じたが、岡田は代官となって転任するに及び、交替として指命されたのは、意外にもまた正当にも、古賀精里であったのだ。
意外というのは、柴野は阿波、尾藤は伊予、そして岡田は地元の江戸だが、古賀に至っては、江戸にも京都にも最も遠い田舎学者たるに過ぎぬ。それが、幕府の召を蒙り、江戸中央学界に華々しく打って出ることになるのだから、世の尋常のことでなく、一代の光栄であり、彼自身としては終生の誇りとするに足ることであった。
当然だというのは、柴野栗山は程朱の学を奉ずるといっても、洪量寛容の彼は、新井白石も、室鳩巣も、熊沢蕃山も、山崎闇斎も、伊藤仁斎・東涯も、中江藤樹も認め、幕府出仕の初め、松平定信に提出した『柴野彦助書』を見ると、「本道の御学問」といって正学から外れた他学の習得も有効として勧めている。ただ荻生徂徠の古文辞学派が、末輩は先師の真意を解せず、詩書礼楽を先にして、経世実用の学を軽んずる風潮だけは我慢がならず、従って程朱の学を正学として主張するのは消極的で、徂徠派の排撃に積極的だった趣がないでもない。林大学頭(信敬)に至っては凡庸児だから、身、宋学を教うる宗家に正嫡として生れながら、異学の禁の出た二年後には、その反対を上書して、定信から一顧も払われなかった。そこへいくと古賀精里は、醇にしてまた熱心なる朱子学の信奉者であること、幕府の文権掌握の実力者なる柴野栗山にも、形式上の学問宗家なる林大学頭にも、超えていた。
古賀精里の登用とともに、聖堂の活気は前古に比なく、江戸は未曾有の学問隆盛を来たしたので、世はその中心をなす栗山と二洲と精里を、寛政の三博士と敬称し、また栗山は彦輔、二洲は良佐、精里は弥助なので、正学の三助と親称した。尤もその前、岡田寒泉が清助だったので、岡田のいる時から三助の称は生じていた。学風の一世を傾けた盛観、推して想うべきである。
佐賀弘道館の中心人物、古賀精里を中央の江戸に召され、後はどうなったであろうか。普通には藩学の精魂を抜き取られて、後はもぬけの殻にでもなったように想像せられがちだが、この場合は真反対で、後は精里の実子の古賀穀堂が継承し、彼自身その家学において、乃父を辱かしめぬ立派な朱子学者であり、殊に謹正の性格であったから、学生も尊敬して、学風大いに振い、他藩から留学生も来れば、藩学建設の参考または模範に、見学に来る向きもあった。
ここで一代の賢相松平定信が、何故、今で言う思想統制の由々しき危険まで冒して、朱子学を正学として天下に布き、他は異学として厳禁する策を採ったのか。時勢がそれを要求すること切なのであったということ以外、その功罪を問うことは、この大学史と関係がない。ただし、幕府によって何故朱子学が正学と認められたのか。一体朱子学とは何か。これを略叙しておくことは、或いは多少大学史の展開に便宜があるであろう。尤も学問的に正確を期して、詳説するのは必要がなく、若干の暗示に止めて十分であろう。
余談だが、ハルトマンの美学説を輸入し、本学の坪内逍遙の唱うるシェイクスピアの没理想論と衝突して、文壇空前の大論争を引き起した森鷗外は、ドイツ留学中、ハルトマンの哲学説が、汽車と並んで十九世紀の二大発明とまでの評判を呼ぶので一読すると、青年時代に読んだ朱子理気の説に似ているので理解し易かったという意味のことを書いている。
朱子学の近代的興味はこの挿話に尽きると言ってよい。しかし追加すれば、山路愛山は、朱子こそ、中国三千年の思想史の有する最高最大の哲学者で、最も巧みな理論の構成家であると、讃歎畏敬してやまない。その太極といい、無極というは絶対のことで、理は想、気は物質、そしてこれが個人の心に宿って道徳的観念になるのだと説明している。
常識的に言うと、朱子学は几帳面で、謹直で、なんとなく面白くないという印象を与える。朱子学者というのは、世のいわゆる道学先生型が多い。弘道館も、幕末になると、動揺し、衰微し、基本学の朱子説に反対する学生が輩出し、大隈はその発頭の一人である。従って、朱子学教育には反感と軽蔑を持ち、既述(二七頁)の如く、朱子学により二藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不覊の気象を亡失せしめたり。……豈に余多の俊英を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや。」(『大隈伯昔日譚』二―三頁)と記しているのを見れば、たとえ全藩の青年が朱子学教育から何らかの害を受けたとしても、大隈自身は少くとも、蛙の面に水式に、何の影響も蒙っていないかの如くに見える。
ところがここに不思議な現象が現れてきた。大隈は晩年、高齢に差し掛かると、往々にして彼自身、「余は孔子の徒である」と言いだした。金子馬治は、その頃殆ど毎週のように親しく大隈に近づいて、その著作に助力した哲学教授であるが、日常の談論から推し、「思想家としての大隈侯」(『大観』大正十一年二月発行第五巻第二号「大隈侯哀悼号」)を述ぶるにおいて、大隈の哲学の中核は孟子の性善説にありと結論している。更に後世の複雑になった解釈、小異を捨てて大同につけば、儒教の仁も、キリスト教の愛も、畢竟は同一範疇のものだと大隈は解していたように言っている。別に珍しい説ではないが、五十代半ばの壮年血気の風の失せぬ時代の著作なる『大隈伯昔日譚』において、儒教を弊履を捨てるように無視した彼の前歴からすると、いささか変説の痕のあるは免れない。
日露戦争後、大隈は中央政界から遠ざかると、以前、大学内には遠慮して殆ど足踏みしなかった時代と違い、入学式、卒業式、或いは憲法発布の記念祝典などの式典の日から、学生の小さな会合にまで気軽に出席し、よく定評の長広舌を揮ったが、しばしば繰り返すのは、ギリシア思想のうちでも第一がプラトン、続いてソクラテス、近代ではカントで、中国の思想家の名などは口に出したこともなく、東洋入でよく語ったといえば、盟友の福沢諭吉への追慕で、「福沢先生が……福沢先生が……」といつも敬称していた。
ところが七十六歳を過ぎて第二次内閣を組織し、第一次大戦という大難局に直面しながら、内閣の末期に近づくと不思議にも彼は、多年の懸案であったらしい『東西文明之調和』という大規模な著述を思い立ち、根本の企案は彼が立て、西洋思想は金子馬治、中国思想は漢学専攻の牧野謙次郎を、その例示資料の調査役、不明な問題の諮問役として、殆ど毎週のように自邸に迎え、かくすること五年余に及んだ。大体を完了したところで死去したので、これは二人の編纂、主として金子の執筆により、遺稿として出版せられた。大隈が少年時代、弘道館で受けた教養は、この時、学説の検討というよりも、一種の郷愁を帯びて甦っているのであるが、その孔孟を回顧したのも、子供の時に叩き込まれた朱子説、朱子の解釈が主となっている。
朱子学は言うまでもなく、宋時代に起った新しい学問のムーヴメントなる宋学を集大成したものなので、大隈は邵子、周子、張子諸家の説を、層々累々と系統的に解説し、朱子については、こう言っている。
若し夫れ朱子に至つては、此の種の宇宙観及び人生観を総合統一した者で、警へばギリシヤ思想史上に於けるアリストテレースに似寄つた点がある。「天下未だ理無きの気あらず、又未だ気無きの理あらず。理別に一物を為すに非ず、是気の中に存す。是気なければ是理も亦掛塔するに処なければ也」と。即ち太極の中におのづから陰陽動静有り、陰陽動静は即ち太極の理の顕現に外ならない。故に「気とは則ち金木火水たり、理とは則ち仁義礼智たり、陰陽五行互に複雑に交感して万物生ず」と。是が朱子に依つて行はれた宋儒宇宙観の大成であつた。 (『東西文明之調和』 四三一―四三二頁)
すなわち大隈も森鷗外の如く、いわゆる朱子理気の説を解しているが、鷗外がこれを足場にハルトマン哲学に取りついているのに比し、大隈は政治家で、学者でないから、左のきわめて一般常識論に落ち着いたのは、やむを得ないが当然である。
但し茲に附記すべきは、宋儒の宇宙論又は人生論は要するに陰陽剛柔の原則を様々想像的に運用したもので、此等を純粋科学の立脚地から観れば、そは尚ほ頗る単純なものであつたと言はなければならぬ。陰陽の原理は頗る深奥なものであるに関らず、其の宇宙現象の説明は今人の目から観れば頗る想像的に又頗る擬人的であつて、直に発達した科学思想であるとは言はれない。今日の科学思想に依つて、支那固有の此の原則が将来如何様に発達するかは別問題として、宋儒が残した宇宙又は人生論が科学的には尚ほ未熟なものであることは拒まれない。 (同書 四三二頁)
しかし弘道館も、時勢とともに一張一弛の盛衰はあり、朱子一辺倒の表看板は不変としても内容は動揺のあるを免れなかったのは当然である。佐賀城十代の主として、鍋島直正が襲封したのは天保元年で、大隈の生れるより八年前である。藩主となった時、まだ十六歳の少年でありながら賢君の兆は早くから現れ、財政、武備、人事各般に亘って、着々と改革の手をつけたが、遂に学制に目を向け、天保十一年(一八四〇)には弘道館を移転拡充して、藩中の学齢子弟はすべて館内に居住させた。これは、藩内の少年にも学問を軽んじて就学せぬ者のあるのを防ぐためである。
これより前、清の道光年間の初め、多くの著書の蒐集家として聞えた両広総督の阮元が、所蔵書の中から百八十余種を選択し、『皇清経解』と名付けて、道光九年(文政十二・一八二九)に出版完了した。実に大隈の藩主となった鍋島直正が、初めて入国した前年である。この書は天保七年、長崎に舶載せられ、鍋島直正は珍重して一部を購入した。当時、侍講であり、弘道館を統率した古賀穀堂が欣喜して措かず、その日記にこう書いている。
五月三日、晩敬徳堂諸会、観皇清経解、此新渡奇書、六十套・四百八十冊、皆考証家之著述也。于時閣下議論英発、慷慨時事、可慶喜。
ただしこのいわゆる「新渡奇書」は秘書として内庫に珍蔵せられ、弘道館の生徒もたやすくは閲覧を禁ぜられていたが、その弘道館の授業を卒業すると、独看といって今日の大学院生のように、自由研究が許されるに至る。彼らは、競ってこの『皇清経解』を渉猟し、その結果これは考証趣味をにわかに喚起し、歴史学の勃興を促し、これまでの朱子一辺倒の弘道館学風に一大動揺を与える端緒となった。殊に弘道館から出でて江戸の聖堂教授となった古賀精里の末子侗庵は、父の業を継いで幕府の儒員に列する磧儒であったが、父が朱子に全面的に傾倒しているのに反し、『皇清経解』の該博を喜び、且つそれが朱子の注を正しているのを敬重しているので、そのことが佐賀にも伝わって、これに賛する学徒も少くなかった。大隈も、早くより朱子の几帳面で窮屈なのに反感を持ち、好んで諸子百家を渉猟したと言っているのは、この風潮に促された点が多大であろう。
諸子百家とは『漢書』芸文志に「諸子百六十九家」とあり、百家とは定まった数でなく、多数という意味である。諸子を具体的に例示すれば第一は六経(易、書、詩、春秋、礼、楽。ただし楽経は秦火に焼失して現存するのは五経のみである)に立脚した孔子の教えの立場を採る書物で、つまり儒家のこと。第二は老子・荘子・列子などの道家、墨子の墨家、管仲や韓非子の法家、孫子・呉子などの兵家、正名弁義を旨とする名家(これは一種の論理学派である)、陰陽五行の動きを主とする陰陽家、外交政略を講ずる縦横家、農業農政を講ずる農家など。第三は一括して雑家といい、折衷家と称してよいのである。
横着な大隈のことだから、これらを皆は勿論、大半も渉猟していないかもしれぬが、手当り次第に読み散らして、中には実際に役に立ったのもある。
大隈が後に明治新政府に召されて、先ず目覚しい手腕を発揮したのは外交で、次いでは財政である。先輩達から、大隈こそは「五両の金を十両に見せかけ、実際には百両に使える手腕を持つ者」と驚歎せられた。大隈は太政官に出仕して、自ら進んで財政を担当する積極的意欲を大いに示して、乗り出したことはない。ただし誘いがあれば、如何なる難場でも、たじろがずに引き受ける興味と勇気があった。井上馨、渋沢栄一の財政専門家がその地位を去って以来、その難場の貧乏財政を引っ背負って、大隈は参議を以て正式に大蔵卿に就任(明治六年十月二十五日)し、紛糾を処理して以来、七年間その地位にいて台湾征討、佐賀・萩の乱、西南戦争と、内乱の非常時財政を処理したので、俗にいう無い袖の振り続けだから、勢いインフレーションとならずにはおらず、彼も内心その抑止と健全化を念としながら、事、志に背いた点も少くない。しかし財政の基本的性格として、大隈の施策が積極的であり、いわゆる融通無礙に行おうとする態があるのに対し、その後を継いだ松方財政が緊縮政策、いわゆる「尻拭い」的傾向を帯びたのは、顕著な対照である。
ところで大隈財政、大隈経済学の由って来たる典拠なり、淵源なりは何か。明治政府の前半期に三岡(由利公正)財政、井上財政、大隈財政、松方財政などと併称せられるほど鮮やかな足跡を残しているのだから、これは問題となる。長崎の代品方に活躍した実際経験は範囲が小さく、これを用いて国家の台所を切り回そうとするのは、飯粒で鮒が釣れたからといって、これを餌にして鯨も釣れると思う愚に等しい。フルベッキから初等算数を学び、まだ人の心得ておらぬ知識だったとは言っているが、経済政策を学んだ痕はない。神田孝平訳の『経済小学』をはじめ『生産道しるべ』などの訳本は出ていても、きわめて簡略なもので実際に応用するには足らず、一番詳密なウェ一ーランドの『経済学』は福沢およびその門下によって慶応義塾で講義せられても、僅かに一商社丸善の株式組織に生かされた程度で、政治家がこれを自家薬籠中のものとして、国家財政の処理に当るなどということは夢想も及ばない。従ってその拠り所があるとすれば、東洋すなわち和漢何れかの経済説にあるに違いないとは、たやすく予想のつくところでありながら、久しく解明の手掛りを得なかった。本学の柳田泉の「楊炎と大隈」(『早稲田大学史記要』第一巻第三号所載)なる一論文が現れるに及んで、この方面の研究の曙光が得られたが、彼は文学博士で経済学には全く無縁の人なるに拘らず、その淵博なる漢学力を駆使して、図らずもこの貴重な鍵を摑み得るに至った。この知識は、大隈がまだ短袴をつけて弘道館に諸子百家を渉猟した時代に獲得せられたのだから、この章に記述しておくのが便宜である。
大隈財政の鋒鋩を現した最初の事件とも言うべきは、井上大蔵大輔との衝突である。もし岩倉、大久保、木戸などの米欧巡廻中の留守内閣において生じた最大の分裂を征韓論とするならば、その前の小亀裂がこの事件である。廃藩後の大切な内政改革として、文部卿の大木喬任は学制の設定、司法卿の江藤新平は裁判の独立を企て、全国各所に学校と裁判所を設ける予算を作った。大蔵大輔だが、大久保大蔵卿の留守中その代理を務めていたのが井上馨である。大蔵省は今も昔も変らず、財布を握って最大の権力を振う所で、井上はにべも容赦もなくその予算を削除した。大木も江藤も佐賀出で、維新に寸功なき成上り者ではないかと軽蔑し、反感を持つ気が、井上にはある。これに対抗して江藤は司法権を用い、井上の非行を遠慮なく摘発して、西郷・板垣を両長老と戴く内閣は危うく瓦解の危機に瀕した。大隈は大木・江藤と佐賀の郷友で、井上とは築地梁山泊で同じ釜の飯を食い、両方に親しいので調停を頼まれ、自分で調査してみると、大蔵省の主張なり、削減なりは極端なので、大隈は裁判所や学校設立の費用も半ばは認める自分独自の予算を編成して井上の同意を求めたところ、自分の友人であり、大蔵省の仕事の分る君まで、そんなことを言うかと立腹し、憤懣やる方なく、イギリス人ブラックの発行している『日新真事誌』という雑誌に、日本財政が如何に窮迫状態にあるかを数字的に示す投書をした。それによると、歳出五千万円、歳入四千万円で一千万円の不足、それに政府の各種の負債を加えると少くとも一億四千万円あって償却の方法が立っていないというのである。大蔵当局から財政を民間に公表したのはこれが最初だったが、それがこの通りだから、人心は動揺し、政府の信用は地に失墜し、財政の危機が叫ばれたので、明治六年五月十四日井上は免官となった。
大隈としては、この危機を救わねばならぬ。井上との交友を破るに忍びなかったが、急場の策として大蔵省事務総裁という職に就き(五ヵ月後に大蔵卿となる)、井上の面目を丸潰しにして気の毒と思いながら、彼の発表を反駁し、その国帑窮乏説を粉砕するために「歳入出見込会計表」を政府の名で発表した。それによると歳入は四千八百七十万円余、歳出は四千六百六十万円弱で二百十万円余の余裕があり、政府負債は、内債二千五百七十万円余、外債五百五十万円余で合せて三千百二十万円余に過ぎぬというのである。当時のことだから、どちらの計算も正確とは言えぬだろうが、井上より大隈の方が緻密な数字にできているので、国民はこの方を信用し、民心の安定を取り戻した。これが政府予算公表の端緒を作ったので、画期的な出来事であった。
右については後に再説する(二一八―二二一頁)が、この時、井上の下に大蔵少輔(大輔に次ぐ役)の職を執っていて、一緒に殉じて辞職した渋沢栄一が、当時のことをこう述懐している。
其頃では廃藩の跡始末も次第に整理の緒につき、精密とは言はれぬけれども全国の歳入額も四千万円余といふ統計も出来たから、是非とも政府に上申して彼の「量入為出」の原則によつて各省の政費を節約し、一方に於いては剰余金を作つて紙幣兌換の制をも設けたいといふ精神を以て、私共は熱心に其局に当つてゐた…… (『青淵回顧録』上巻 二八八頁)
この「量入主義」の向うを張って対置的な中国古代の経済説がすなわち「量出主義」で、唐の徳宗(我が桓武天皇の頃)に仕えた楊炎の唱えたところである。この点に着目した柳田泉は、前述の「楊炎と大隈」においてこう述べている。
井上、渋沢の量入主義云々を押し立てているのを見るやいなや、これを破るには量出主義によるべきである、量出によるとせば、楊炎の行き方を一応使うべきものということが、大隈が事務総裁になってすぐ、その頭に浮んだところであろう。なぜなれば、量出を主とする限り、楊炎の財政法は、東洋では画期的なものであり、これほどはっきり革命的なものがなかったからで、大隈は、その愛読の歴史によって、よく彼の名と量出主義のことを心得ていたものと見てよい。彼は『唐書』は読んだかどうか、『資治通鑑』はよく読んだ。袁氏の『歴史綱鑑補』もよく読んだ。そうして楊炎の名とその財政法はよく記憶していたものである。『唐書』は読まなくても、『通鑑』巻二百二十六、唐紀四十二徳宗紀(一)の左の一節はもちろん読んでいたにちがいない。
……是に至って、炎建議し、両税法を作る。先ず州県毎歳応ずる所の費用、及び上供の数を計りて、人に賦し、出るを量って以て入るを制す。 (『早稲田大学史記要』昭和四十一年九月発行 第一巻第三号 二一―二二頁)
大隈がよく読んだ『資治通鑑』は司馬光の作、何しろ本文が九十四巻ある大部のものだから、全部読み通す者は少く、青年頼山陽でさえ柴野栗山に初めて会った時「通鑑は読んだか」と問われて「ひと通り目を通して大意に通ずるに過ぎませぬ」と言ったら、栗山は「可なり」と点頭したと言われている書である。しかし大隈より一歳年下の久米邦武の話によると、彼が『通鑑綱目』という抄本の好注釈を読んで、全文が見たくなり、藩で校訂開板した新版本を借覧しようとしたら、それを止めて大隈は言った。「通鑑なら胡三省の校訂のあるのがよい。圏点、重圏、或いは先着、急着、または着眼、主眼など傍書してあり、歴史をみて批評するに大いに益を得られる。」と。これは大隈が早くから、書物に通じていたことを証するもので、久米は後に歴史の専門学者となったが、大隈はそれに対し「久米に歴史を私が教えてやったものだ」と言っていた。これに限らず、大隈は好著があると後進に教えた。大隈は自ら通鑑ないし『通鑑綱目』を読んだとは一言も語っていないが、藩校の仲間で、今の小中学同窓生の間柄にある久米邦武のこの思い出話は十分に信用するに足る。
ところで『通鑑綱目』が良書であるのは、その大部の『資治通鑑』の要点を採択したものであるからで、実に朱子の手になり、通鑑に入る前にこれを通読せぬ者はないから、大隈もこの点においても朱子からの恩恵を受けている。早稲田大学では、更に縮約した『通鑑擥要抄』という一冊本を、高等予科で漢文に必修の教科書として用いること久しかった。