フルベッキにおいては英語教授とキリスト教の伝道とは、楯の両面である。ほんとうはキリスト教が主だが、それを露骨に表面に出すと、まだ旧来からの切支丹禁制の解けぬ時代だから、危ながって寄りつく者がなかろうから、英語という隠れ簑の影で、実は聖書を教えていたのだ。
大隈は、綾部・本野の主人なる村田若狭の紹介でフルベッキの許に近づいて行ったのだから、その事情は心得ている。しかし宗教的情操の稀薄な彼は、いつまでも聖書ばかり教えられるのに不満を洩らし、西洋の政治とか国家とかについての学問の教授が願えぬかと申し出た。蓋し彼は、既に蘭学寮で、その一臠は味わって心得ている。フルベッキはその要求を快諾し、そこでアメリカ憲法をテキストに用いることにした。フルベッキの伝にはアメリヵ憲法としか書いてないが、大隈自身はその談話で、アメリカの独立宣言を教わったことを語って憲法には言及していない。この二つは起草者も時も違うが、不離一体と言ってもいいものだから、フルベッキが憲法のみを挙げている内には独立宣言も含まれていると解することに異論はあるまい。
アメリカ国家として貴重な文書は多いとしても、初めにして独立宣言、後にしてリンカーンのゲティズバーグ演説を双璧として挙ぐべく、この二つの中では「人民の、人民による、人民のための政府」の民主主義の最も基礎的原理を宣明したゲティズバーグ演説より、独立宣言が遙かに重いであろう。
人は平等に生れ、生命と自由と幸福の追求は天与不抜の権利であるとの声明は、やがて大西洋を越えて飛火してフランス革命を爆発させ、自由・平等・博愛の三標語に要約される人権宣言も、アメリカ独立宣言の山彦に外ならず、この二大宣言によって世界史は一大回転をして、政治上の近代が夜明けしてくる。その原典と言うべき文書を、この時期の日本青年の教科書に選んだこと、フルベッキの見識真に仰ぐべく、まさに彼は宣教師・技術者たるのみでなく、広い文化の指導者たる資格を具えていた。大隈は、先輩で友人の副島種臣などとともにこの講筵に列しているので、恐らく日本人で、日本にいて、そしてアメリヵ人からじかにこの講義を聞いた者は、彼らが最初であろう。尤も、これに恐らくは少しく先んじ、福沢諭吉がこの文書の存在を探りあて、独学で矻々とこの勉強に取り組んでいたことを、見逃してはなるまい。
思うに我が国私学の双璧、慶応義塾と我が早稲田大学が、期せずして同じくアメリカの独立宣言書或いはその筆者ジェファソンに繋がりの深いことは、特筆大書してその意義を究めねばならぬ。
福沢は、独立宣言の挙げた項目のうち特に平等という面を幅広く受け入れた。慶応二年、『西洋事情』を著すに当り、「亜米利加合衆国」の「史記」の部ならびに「政治」の部において、独立宣言と憲法の全文を訳した。この文献の最初の、正しきに近い日本訳として珍重せられる。その中に、有名な"All men are created equal"を「天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて」と訳した。思うにまだ「平等」の語が定着していなかったのであろう。後、彼は明治五年に『学問のすすめ』を公にするに当り、これを「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と改作したところ、六年前には何の注意も惹かなかったこの一語は、忽ち時代人心の要求に反応して、一世を開導するの標語となって、今や日本人で何人もこの語を心得ぬ者はない。ただし福沢が深く心を動かされたのは平等の思想の方面で、独立宣言の筆者その人については多く顧慮するところなく、歴代大統領列伝の項に、「ゼッフェルソン」がルイジアナをナポレオンから購求して大アメリカの基礎を置いたのと、「盛大の政を施し、貿易を勉め外交を修め、合衆国の威名、欧羅巴諸国に轟くに至」ったとの二項に言及するのみで、独立宣言がフランス革命を通して世界を革新した大きな歴史的意味については、何も説いておらぬ。尤も、全体にこの早き頃のアメリカ史は、例えばパーリーの『万国史』でも、クワッケンボスの『アメリカ合衆国史』でも、言い合せたようにこの点には触れていないところを見ると、今日のように独立宣言の意義を認めだしたのは、少し後の時代のことかもしれぬ。
大隈は福沢に反し、独立宣言やアメリカ憲法の章句に感心している跡はきわめて薄い。しかしジェファソンの人物或いはその遺した文化的業績からは、多大に感化影響せられた。多面に亘るジェファソンの業績のうち、特に大隈の目に映じたのは、先ず片手に政治で、共和党(今日の民主党)は彼の創設・指導・統率になる。残る片手は教育または文化開発事業で、それが晩年に結晶したものがヴァージニア大学である。まだ壮年の意気盛んであった頃の大隈は、この二点に特に私淑し、自分も片手に改進党、片手に東京専門学校を興したので、この事情は早稲田大学史の発端をなし、今後本書に、時に応じて或いは詳記し、或いは略説するであろうから、ここには省略する。
そもそもアメリカでは、今日まで三十九代続く大統領のうち、初代ワシントンと、三代ジェファソンと、十六代リンカーンとが特に傑出して、三大大統領と重んぜられること、あたかも我が国で、西郷、大久保、木戸が維新三傑と呼ばれる如くである。ただし維新三傑が殆ど同時に輩出して、互いに比較の便があるのに対し、三大大統領は百年の間に飛石的に出て、背景の政治的・社会的諸事情を著しく異にして建てた業績だから、比較し、または優劣を論じて評価することは、非常に難しい。
ワシントンは典型的なイギリス紳士型と言われ、典雅な貴族趣味が強かった。アメリヵ創建初期は、独立の中心となった諸人物も、フランクリンを除けば皆祖国イギリスの貴族風に憧れること、ちょうど我が江戸初期が京の都風を取り入れることに忙しかったのと似た状態にあったので、典型的に洗練せられたジョンブルのワシントンが大統領として指名されるに最もふさわしかったのだ。しかしリンカーンとなると、時勢は変って、彼の父は渡り歩きの労働者、いわゆるwandering laborerであり、リンカーンの生れたのもイリノイの丸太小屋の中で、彼は学校の椅子や腰掛けよりも開拓地の木の切株に小さな尻を乗せて勉強した時間の方が多かった。それまで十五代の大統領は皆名族の出で、広く一般大衆に名を知られた有名人、少くともその宣伝の便ある人達であった。リンカーンに至って初めて西部(当時の)の草沢の間に育った貧乏人の子が候補者として指名せられたので、その名を見た時は、リンカーンもどこかに同名異人がいるのだろうと言って、自分であることを疑った。世に知られぬ素姓の低い田舎弁護士が当選の栄誉をかち得たのは、アメリカの大統領選挙史上初めてのことである。
ジェファソンは、ワシントンとリンカーンとの中間的位置の階級から出たと言える。彼が一七四三年(寛保三、徳川吉宗の時代)四月、ヴァージニア州に生れたのは、京都御所や或いは薩長を出生地としたというほど、出世街道を養進するに地の利を得ている。父は辺境開拓の測量師で、名家ではないが、彼が十四の時、五千エーカーの土地を遺産として遺して没したので、勉強には何の不自由もなく、良環境、良師、良友に囲まれて成長した。それに符節を合せる如く、大隈も数え十三歳の時砲台長の父と死別したが、遺禄によって富裕のうちに賢母に育てられて、自ら回顧するだに快適な青年時代を送ったのであるから、家格や境遇においてどこか似通っているようであった。
世に出でてジェファソンは、実は政治嫌いとして自ら任じている。だから自分で選んだ墓碑銘には、独立宣言の起草とヴァージニア大学の創立と二つだけを挙げ、大統領になったことやルイジアナを併合した功績その他には一言も触れていない。これに反し大隈はまた政治が飯よりも好きで、政界からは孤児の如く扱われ、憲政本党総理を辞任しなければならぬ情勢となり、僅かに早稲田大学総長に落ち着き場を求めた悲境時代でさえ、「吾輩は断じて政治はやめぬ」と声言して、陶淵明的淡白さは片鱗も示さなかった。
もしジェファソンが独立宣言を起草した功に類するものを大隈に探ると、明治十四年、天皇の求めによって有栖川左大臣の手を経て特に秘密の叡覧を願った憲法急速施行の上奏文であろう。ただ、ジェファソンの独立宣言は僅少の加朱で全審議員の容れるところとなったのに反し、大隈の上奏文は、かねて彼の失脚を狙っていた天皇側近派と、薩長連合の密謀と、伊藤・井上の寝返りによって(第二編第六章に詳述)、クーデターに訴えて廟堂を逐われる意外の結果を招いた。大隈の採った道は、策とし手段としては失敗であったが、しかしこのインパクトによって、遂に廟堂に大部分を占めた憲法反対の頑固な殻は破れざるを得ざるに至り、十年後を期して、憲法発布を約束する大詔が下った。この時の政敵伊藤博文も、その腹心金子堅太郎も、後に、大隈のこの上奏文こそ、我が国に立憲政治をもたらした暁の鐘の役を果したと、口を合せて明言している。とすれば、その挙げた効果に至っては、若干ジェファソンの独立宣言と似通うところがある。
アメリカ憲法発布の署名者三十六人のうちにジェファソンの名が見出せないのは、アメリヵ学童も不思議とし、或いは失望するところだというが、明治憲法の署名者に大隈の名はあっても、逸速く配下に私擬憲法を作らせて、斯道の知識においては太政官周辺並ぶ者のなかった大隈が、憲法起草の進行とは何らの関係も交渉も絶無だったのは、後の年少の明治史研究家が等しく怪訝とするところである。ジェファソンは任をフランス大使に受けて、その際アメリカ本国に不在だったのであり、大隈はクーデターで憲法作成には近寄ることもできず、たまたま薩長が条約改正の暗礁に乗り上げて彼の力を借りなければならなくなり、外務大臣として起用したので、辛うじて憲法発布署名人としての飛込みに間に合った次第である。
アメリカ歴代の大統領中、その博識においてはジェファソンに及ぶ者がないばかりか、寧ろ絶群で、追随し得る者さえ見当らない。彼は、二世紀前の碩学フランシス・ベーコンの生れ代りと言われるほど、広汎な知識を吸収し、科学者でもあれば、百科全書家でもあった。測量師、数学家、ヴァイオリン弾き、建築家、植物学者、地理学者、人種学者、星学者、アグノイオロジスト(無識論学者の意味で、人間は何事にも無識なのを研究する学問だった。今の普通の辞書にはこの字は見当らない)、花卉園芸家、法理学者、家具意匠家、発明家、機械技師。その残した二万通を超える筆まめな手紙を見ると、造園、砲術、米、オリーブ、築城、薬学、ガラス工場、ギリシア・ラテンの文法韻律学、度量衡、楽器、教育、塩水蒸溜法、インド語、宗教、養蚕、紡織機、蒸気機関、硫黄、潮流、葡萄栽培、速度計、羊、隕星、耕転、貨幣、運河、化学、暦法、水雷にまで、一家言を述べているのに驚かされる。彼はあらゆる事について何かを知っていた。何事かについては非常に詳細に渉っていた。
大隈は博識といっても、ジェファソンには比肩できないが、日本の総理大臣中では前後を通じて第一の物識りであり、大風呂敷の異名はそこから起った。そのうち財政と外交を最も得意としながら、父祖の家伝の砲術については専門的と言える修業をしたと自ら語り、キリスト教においても太政官唯一の通暁者であり、囲碁から、園芸論、薔薇やメロンの栽培法まで心得ていた。知っている事項については専門家的知識を持っていたジェファソンには及ばぬまでも、あらゆることについて何事かを知り、その関心が好事の品からゲテモノにまで及んでいた点は、ジェファソンと大いに似た風格がある。
大隈はもとより、ジェファソンの経歴について、持前の麁枝大葉から詳細に究めてはいなかった。しかし二人は、アメリカと日本との政治情勢において当然ひどく異っているべきなのに、不思議な似通りが見られる。先ず、通貨を十進法に改めたことなど、完全に同じである。その他、大隈の台湾征討に演じた役割は、ジェファソンのバーバリの海賊討伐の如く、新誕生国の対外的権威を高めた。大隈が伊藤博文の推薦によって第一次のいわゆる隈板内閣を成立せしめたのは、ジェファソンが政敵ハミルトンの援助によって大統領に当選したのを思い出させ、そのジェファソンがハミルトンの決闘における非業の死を聞いた衝撃と、大隈が伊藤のハルビン駅頭の暗殺の報に接して驚愕したのと、何れが大だったであろう。また、ジェファソンが棚からぼた餅式にナポレオンからルイジアナを入手し、爾後のアメリカの目覚しい発展の基礎を築いたのは、大隈が第二次内閣組閣早々、第一次世界大戦の勃発に当面し、濡れ手に粟式に、日本の経済力、ひいて総国力を急激に増大したのと、どちらも予期しなかった幸運という点で幾らか類似するところはないか。
しかしこのジェファソンと大隈重信との類似を興味を以て論じたのは日本人でなく、アメリカ人記者なのである。大正三年、第二次大隈内閣が成立すると、当時の有力紙ニューヨーク『サン』はこれを"Japan's Jeffersonian Prem-ier"と呼んで歓迎した。既に五十余年を経て、当時の他の多くのアメリカ諸新聞を参酌する由もないが、これから推して、他にも同じような記事を掲げた新聞は幾つか、或いは多くあったことであろう。雑誌では、週刊『リテラリィ・ダイジェスト』が社説中にこの『サン』の記事を転載した。これは今の『タイム』や『ニューズウィーク』的な時事週刊誌の元祖で、一時はアメリカは勿論、世界に行き亘った有力誌であり、大隈重信自ら毎週これを読み、当時の記者・評論家も読み、明治中期から昭和の初めにまでかけての政治論・文化論には、この雑誌からの翻訳紹介が非常に多かったものである。それには、こういう一節がある。
大隈重信の内閣組織は、アメリカとメキシコの間に暗雲低迷のおりから、我が国にとっても吃緊の重大事である。彼は日本の愛国心の権化とも言うべく、矜持たかく、元気よき自意識の人である。生れはサムライだが強く民主的で、その点で一般にひろく人気がある。彼の採る政策は進歩的で大胆で、同時に世界諸政策の深き知識をもって眼界の広濶な人である。日本は、実に早稲田大学の設立を彼に負うている。その事実は、彼のゆたかな人間的同情、彼の多面の業績、彼の農業と教育の奨励、そして彼の先覚としての世評とともに、その崇拝者達は、彼をトマス・ジェファソンに比較する原因になっている。ジェファソンこそ伯大隈の終生のインスピレーションであったのだ。 (The Literary Digest, May 2, 1914)
問題は、これらの記事の根拠ないし出典は、どこにあるかということである。大隈自ら『大隈伯昔日譚』の中に回顧して、蘭学塾当時のことに及び「余は北米合衆国が英に叛て独立したる往時の宣言文を読んで……窃かに之〔自由権利の思想〕を移植せんとの志望を懐きたり。」と言っているし、また英学の師フルベッキの伝に、
フルベッキが最も有望な生徒たち――その中には後に副島や大隈の如く天皇の内閣員になった者もいた――に、最も多くまた長期に亘って教えたのは、英語で表現された二つの大文献、新約聖書と合衆国憲法であった。
(Verbeck of Japan, pp. 124-125)
とある一節によって証明できること、既に前に述べた通りである。しかしアメリカのジャーナリズムがこれらの書物を知っていたことは覚束なく、況んやこれらの簡単な記事から、大隈に対し「ジェファソニアン」の評語を結論し出して来ることは先ずあり得ない。明治の後期以降、大隈は野にありながら、その言説は世界に向って日本を代表する概があり、有力誌が直接、寄稿を求めてくるのもあれば、来日の記者は競ってその門を叩いて談話を乞うて通信として送り、「世界の大道早稲田に通ず」という言葉までできたものだ。思うに日本人で、その言説が世界の新聞雑誌を賑わした頻度は、大隈が嶄然、他の人を抜いて多い。だから、彼をジェファソニアンと判断するような材料は、幾多のルートから伝わったと思うが、その明確な一つはブラウンロウ(Louis Brownlow)である。後にワシントン市長となり、行政知識交換所(Public Administration Clearing House)の設立者として聞えた彼は、若き日、新聞記者として日本に派遣せられた。そして主として中央政界の人について取材していると、当時は日本の代表新聞として世界に認められていた『時事新報』の記者(川面という名であったそうである)から、伊藤博文や伊東巳代治や金子堅太郎などばかり追いかけていても、日本のほんとうの声は聞けない、よろしく大隈重信に会見を申し込んでみよと教えられて、その手続をすると、快く引見せられ、親しく聞いた話の中に、次のような一節があったという。
吾輩〔大隈〕は若い頃長崎に遊学して、そこで、オランダ人でアメリヵに帰化した宣教師のフルベッキ氏から、オランダ語と英語を教わった。そのときフルベッキ氏がテキストとして用いたのは聖書であった。そこで吾輩はぜひ政治に関することを書いたものを読みたいと思って懇請したところ、フルベッキ氏が新たにテキストとして用いたのは、トマス・ジェファソンの執筆になる合衆国の独立宣言であった。これを読んで吾輩は民主主義の思想を知り、それが基礎となって民主主義を信ずるようになったのである。ところがジェファソンはその後、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じて、ヴァージニア大学を創設された。そこで吾輩も、ジェファソンと同じ考えの下に、早稲田大学を創設したのである。
これは本学の元教授吉村正が、昭和二十六年、米国行政視察団の一人として渡米した際、七十五歳の老翁になっているブラウンロウから聞いた話で、吉村はこのことを『早稲田学報』(昭和二十六年四月発行第六一〇号)と『読売新聞』(昭和二十七年十月二十一日夕刊)などにも述べたくらいだから、よほど感銘の深かった話なのだ。ブラウンロウの日本訪問は一九〇七、八、九、連年に亘って三度続いた由で、ちょうど日露戦争大勝の後を承け、全国民の意気の大いに昻揚していた際だったのを背景に置くと、この回顧に託した大隈の教育的抱負をさながらに聞く思いがする。
いま一人、大隈をジェファソニアンとして広く紹介したのは、アメリカ言論界に匹敵する者なしと言われたブライアン(William J. Bryan)の雄弁だったであろうということが考えられる。彼も日露戦争を挾んで二度早稲田学苑を訪問していて、学生達をその大獅子吼によって酔わせ、大隈伯の「ランチョン」の客となって愉快な談話を交した。
ブライアンはアメリカ政界の麒麟児で、大統領以上の名声を持った政客、前にハミルトンあり、後にブライアンあり。ハミルトンの人間的欠陥を多くもって人に嫌われたのに比し、ブライアンは、天衣無縫の性格で、容貌温雅に、品行正しく、第二のリンカーンと言われた。民衆に圧倒的人気があり、戦わずして勝っているかに見えたが、選挙の蓋を開けて見ると、凡庸な退役少佐マッキンレーに敗れた。ブライアンこの時三十六歳、あまりに若い大統領候補だったのと、銀行家、工業家、保険業者などの大財閥を敵に回し、選挙資金が相手の十分の一もなかったのが敗因と言われる。しかしそれはアメリカ選挙史上、最大の輝ける敗北であった。早稲田学苑が迎えるのに、これほど適格の講演者はない。成功と幸運と得意の絶頂にある名士などは、およそ早稲田に招き、大隈の客とするに似合わしくない。
英文大隈伝によると、
会見の時ブライアンは、招き主〔大隈〕の生涯を、アメリヵ民主党の設立者トマス・ジェファソンの生涯に比較した。蓋し、大隈もその党を民主的の線に沿うて結成していたことを、既にブライアンは心得ていたからである。両者の類似をもっと濃厚にするものは、ジェファソンが教育に至大の注意を払ってヴァージニア大学を設立したのに対し、大隈は早稲田大学を興したことである。ブライアンが心からのジェファソン崇拝者なるは、世の広く知るところなので、彼がこの類似を語ったのは、すなわち取りも直さず、大隈に敬意を表したのに外ならないことは、言うを要しない。ブライアンは、アメリヵに帰ったらジェファソンの全集を贈ろうと申し出て、誠意を披瀝した。その約束をまもり、帰国すると、ジェファソン全集一揃いを贈ってきた。 (Sumimasa Idditti, The Life of Marguis Shigenobu Okuma, p. 340)
いま早稲田大学図書館に所蔵するのは、すなわち、この歴史因縁ある全集で、しかもこれはブライアン自ら校訂編集して刊行されたものである。ブライアンはパトリック・ヘンリー以来と言われた大雄弁家としてその名声が全米に轟いていたから、彼の口を通じて、大隈が日本のジェファソニアンであることが広く知らされたのは、或いは、ブラウンロウの新聞記事以上であったかもしれぬ。
矢を射るには月を目標とする覚悟あれ
たとえ当らずとも木の梢より高く飛ばん
これはフィリップ・シドニーの有名な詩。年少の日ジェファソンの仕事に私淑した大隈は、月に矢を射て、森の木木より高く飛ばし得た好例だ。
世に、都市の国際親善を図るため京都とパリ、東京とニューヨーク、或いは神戸とマルセイユなどが姉妹都市の縁を結んでいるが、学苑もこうした例に倣えば、早稲田の兄弟大学として選ぶべきは、当然ヴァージニア大学でなくてはならない。そこでこの早稲田大学百年史の編纂に着手するに当り、時の総長時子山常三郎は、ヴァージニア大学に対し、挨拶を述べて援助を乞い、先方からはそれに応じて返事が来た。左にその往復書翰を並べて掲げる。
ヴァージニア大学総長殿
親愛なる貴下。私が総長の栄を担っている早稲田大学は、日本において最古、最大、そして最高の名声を持つ大学の一つであり、その学問的水準は人後に落ちることなきを確信しております。アメリヵのエール、ハーヴァード、コロンビア、ダートマス、シカゴ等その他多くの高き水準の学問で聞えている諸大学とは、長き交歓の歴史を持っております。ただ不幸にして、これまで有名な貴大学とは親しき友好を結ぶ機会に恵まれませんでした。
しかし実はヴァージニア大学は我々の胸に特別の地位を占めております。我が早稲田大学はかつての日本の総理大臣であった大隈重信侯爵が一八八二年に設立したのですが、その時ひそかに貴大学が模範になったのであります。青年時代大隈は、当時日本在住のアメリカ宣教師から合衆国の独立宣言を習いました。それ以来、大隈はその起草者ジェファソンに終生の欣仰を捧げ、後に日本の首相に指名せられた時、アメリヵの新聞は彼を"Jeffersonian Premier"として紹介したほどであります。それ故に大隈が早稲田大学を創設するに当り、ヴァージニアの風に倣おうとしたのはきわめて自然であります。
我が大学は来たる一九八二年に百周年の祝典を行うことになり、我々はその記念のため、早稲田大学史の編集に掛かっております。この仕事の最も重要な参考資料の一つとして、我々は自校がもと模範とした貴大学の歴史を知りたく存じます。ヴァージニア大学史の記念版一部、御贈与願うわけに参りませんでしょうか。このような勝手をお願いするのは無躾と存じますが、この望みを叶えて頂けるならば、まことに幸甚と存じます。なおお手数を省くため、トマス・ジェファソン全集に見えるヴァージニア大学関係事項と書翰はすべて調査済みであることを、付け加えさせて頂きます。これは今世紀の初め、早稲田を訪問したウィリアム・ジェニングズ・ブライアン氏から寄贈を受けたものです。
終りに最高の尊敬と念願をこめて、貴大学の絶えざる発展をお祈り申し上げます。
一九七〇年十月二日 早稲田大学総長 時子山常三郎
親愛なる時子山総長殿
一九七〇年十月二日付貴翰は、早稲田大学とヴァージニア大学との背景、すなわちそれは共にトマス・ジェファソンの教育思想に由来するという嬉しい思い出の伝達でありました。早稲田大学が来たる一九八二年の創立百年に備え、記念の大学史編纂に着手されたとのお知らせに接し結構至極に存じます。この御努力に対し、同僚も私も何なりと能う限りの御助力ができれば幸いであります。
ヴァージニア大学初期の記事はフィリップ・A・ブルースが一九一九―二一年に刊行した五巻の公式百年史が最上のものであります。しかしこの大部の歴史は今や絶版となり、貴下に贈呈し得べき余冊が不幸にして当方にありません。もしこの一揃いの書冊が大学に見つかれば、勿論喜んで贈呈致します。最近の書物で、ともかくも大学の全歴史を取扱っているのは、一九六九年の百五十周年祝賀に関係してヴァージニア大学出版部で刊行した絵入り歴史です。
ここには別便にてT・P・アバーネシィ教授の当大学史概要と、百五十年祭の始めに私の行った講演、同じく百五十年祭の最終の大学集会でフィリップ・ハンドラー博士の行った講演を共々にお送り致します。私はまた評議員会(大学の管理局)の事務長に評議員会の便覧を一部お贈りするように申しておきました。この書は特に御興味あることと存じます。と申しますのは、トマス・ジェファソンの筆になる付属文書は、時に「ロックフィッシュ・ギャップ・リポート」と呼ばれ、当大学の基礎憲章をなすもので、兼ねて貴大学の偉大なる設立者の教育理想に合致するかと思われるからであります。
貴下ならびに貴大学の諸教授御一同に我が同僚および私個人の御挨拶を送ります。
一九七〇年十月六日 総長 エドガー・F・シャノン
アメリカ建国の柱石、ヨーロッパ啓蒙期思想の最後の締め括りとも言うべき偉人ジェファソンが、自分で準備から教授の招致、校舎の建設、カリキュラム作成と、親しく手を下して建設したヴァージニア大学と、そのジェファソンの遙かなる影響が芽生えをなした早稲田大学との、両総長の間に取り交されたこの両書翰は、両半球学界交驩の佳話として、ここに永久に留めておくに値するであろう。
いま贈られてきた冊子類を検すると、『ヴァージニア大学史概要』の初ページにはこういう一句がある。
ジェファソンは信じていた。教育は民主主義生活に直結しなくてはならない。それを受ける心的資格ある者すべてが参加できなくてはならない。そして学生は精神的に自由で自制力がなくてはならないと。
(T. P. Abernethy, Historical Sketch of the University of Virginia, p. 1)
またヴァージニア大学百五十年祭の記念講演『過渡期の世界における大学』の扉ページにはこうある。
「人間精神の無限の自由」に捧げて、百五十年前トマス・ジェファソンは大学を創設した。啓蒙の時代児なる彼のこの遺業は、人間の理性と、人間の権威と、自由の未来の中に、その時代の無限の自信を反映した。
(Philip Handler, The University in a World in Transition, p.2)
然らば早稲田大学の建学的基本精神なる「学問の独立」に当るのは、ヴァージニア大学においては「人間精神の無限の自由」なのである。
トマス・ジェファソンに、もし一つの称号を与えるとすれば何だろう。百科全書的知識の具有者であったから、それは難しいが、しかし結局は政治家としなければならないであろう。彼自身、政治はあまり好きでなく、既述の如く、自ら選んだ墓碑銘にも政治的なことは一言も書いていないが、しかし我々がその名を聞いて第一に思い浮かぶイメージは、アメリヵ第三代の大統領である。然らばヴァージニア大学は政治家の建てた大学だ。この点が、それまでのアメリカにおける大学が大抵宗教家によって建てられたのと、著しく面目を異にする。
大隈はジェファソンに反し、政治が何より好きであった。内閣制度成立以後、廟堂に立つことは短く、野に虎嘯する期間が多かったとしても、彼の本領は政治家であったとすることに何人も異論がない。従って早稲田大学もまた政治家によって興された大学である。明治四十二年二月十一日、憲法発布二十周年記念講演会が本大学で開催せられた時、天野為之は「憲法と早稲田大学」と題して、こういう演説をしている。
そこで此早稲田大学に於て、どういふ関係を此憲法に持つて居るかといふと、早稲田大学の創立者といふものは、皆憲法の制定を促したものである、憲法の制定に向つて非常に活動したものである、日本にも種々な学校がありますけれども、早稲田大学の如く、政治家に依つて作られた学校は他に何処にも無い、(拍手)即ち大隈伯始め、或は小野梓君なり、或は中途に於て此処を去りましたけれども、岡山兼吉君なり、砂川雄峻君なり、其他末輩の吾々の如きに至るまで、此政治に関係して居る所の者が、即ち此学校を建てたのである、明治大学にしても政治に直接関係した所の人が建てたのではない。或は和仏法律学校なり、其他慶応義塾なり、如何なる学校にしても、政治に関係した所の者が其教員となり、創立者となり評議員となつて居るといふ学校は他に無い、早稲田大学の外他に一つも無いのである、早稲田大学の特色は即ち此処に在るのであります。(拍手)
(『憲法紀念早稲田講演』一八―一九頁)
尤も、多くの類似点を有し、いわば兄事すべき地位に仰いでいるとは言っても、我が早稲田大学がヴァージニア大学に及ばざること遠いのは言うまでもない。渡米のみぎり、ジェファソンと大隈の関係を、一一九頁に既述の如く、ブラウンロウから聞いた吉村正は、その足でわざわざヴァージニア大学を訪問した。その時の見聞に次の如き談話がある。
ジェファソンの建てたヴァージニア大学は非常に特異な大学で、中央図書館を中心にその前方左右に三つずつの大きな建物が並び、その一つの建物が一学部を構成し、学部長、教授、学生が皆その建物内に生活して、その建物内で勉学をしたとのことであった。その後、学生が増えてきて、旧い建物では手狭となってきたので、大学はそれからあまり遠くない所に新しい敷地を求めて移転し、従って現在のヴァージニア大学は昔のものとすっかりちがっている。しかし私はブラウンロウから、如上の話を聞いて、その折特に現在のヴァージニア大学を見学してみた。そして痛く感心したことが一つあった。
それは私達が、学生の生活を見るため、学生食堂に入って学生と一緒に食事をしようとしたときである。学生食堂はセルフサービスなのだが、私達は、パスポートその他の大事な書類を入れたカバンとカメラを手に手に持っていたので、これらのカバンやヵメラをどこに置いたらよいかを、案内の学生に尋ねた。ところが学生の言うには、校庭のあちこちに置いてあるロハ台か石の上にでも置いて、食堂の内に入ったらよいだろうとのことであった。そこで私は思わず、そんなところに置いて、なくなることはないかと尋ねた。ところが案内の学生が胸を張りぎみに答えるには、絶対になくならない、一日中はおろか、一週間置いても、十日置いても、絶対になくなることはないという。そこで私たちは、また驚いて、それはどうしてかと尋ねてみた。件の学生の言うには、この大学では在学生全体が団結して、一切不正を行わないという申合せをしているのです。そして万一にも不正をした者があったときは、学生自治の裁判にかけて、自治的にその者を処罰してゆくのです。従って試験などでも、監督を特につけないが、不正を行う者は一人もないとのことであった。
私はこれを聞いて実は愕然としたのであった。そしてなんとか、我が国でも学生に不正はしないという訓練をしなければならないと痛感したことであった。そこで島田総長の下で私が常任理事として企画を担当し、新制大学を発足せしめるに当って、私はアメリヵの諸大学には学部ごとにリーディング・ルームというのがあって、そこには諸教授の挙げられる参考書類が数十部ずつ置いてあり、また雑誌なども並べてあって、学生はいわゆる自由接架で、それらの文献を自由に利用し得ることになっていることを思い出し、各学部ごとにリーディング・ルームをつくり、その管理は学生の自治に任せ、自由接架にすべきことを提案した。リーディング・ルームをつくることは、皆さんの賛成を得られたけれども、自由接架の方は賛成を得ることができず、そんなことをしたら、本はみななくなってしまうだろうとのことであった。そこで私は少しはなくなるかもしれぬが、それは覚悟の上で学生の自治と自由接架の訓練をやってみたらどうか、一冊でもなくなれば学生自身が困ることになるから、互いに諌め合うことになるであろう。そうして少しでも不正をやることが少くなれば、本の少しばかり失うことなど、なんでもない大きな利益ではないか。日本人が不正をやらんということを学校特に大学で訓練せずして、どこで訓練するのであるか。大きな理想を以てリーディング・ルームをつくるべきだと、大いに力説してみたが、力及ばず、私の主張は通らなかったが、しかしリーディング・ルームを他の諸大学に率先して、恐らく我が国では初めてと思うが、各学部ごとにつくったのは、私がヴァージニア大学を見学したことに起因し、また私がヴァージニア大学を見学したのは、ブラウンロウ氏から、大隈侯のお話を聞いたことに因るのである。
学風の高雅真に欣慕すべく、我が早稲田大学はもとより、全ヨーロッパの総体を合せたよりも多いと言われる数の日本の大学の、どれ一つでも、このヴァージニア大学の裳の塵を払う程度にでも達するのは、いつの日のことであろう。