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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十七章 明治新政府出仕の十年間

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一 遍歴時代終る

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 長崎を永久に去るとともに、大隈のWanderjahreは終った。生地佐賀から僅か三十里離れた同じ肥前国内といっても、当時の交通事情とすればいささか覊旅の情があったのに、更に遠く兵庫に商用で航行したことは、時期が明確にできぬが数度に及んでいるようだし、策を中原に施そうとして江戸および京坂に上ったことは前後二度に及ぶ。してみれば形跡上の遍歴も少くないと言わねばならぬが、教養上では朱子学から諸子百家へ、その儒学から国学、次いで蘭学そして英学へ移り、オランダ国法、アメリヵ憲法の習得から、国際法、算数、聖書にまで及んでいるので、心内の遍歴は外的遍歴に相応し、或いはそれより遙かに多いのである。そして大隈が佐賀や長崎で修めた学問は、聖書ないしキリスト教を除くの外、隔世遺伝をして、みな早稲田大学の成立発展に放射的影響を及ぼしている。

 それが一たび晴れの中央政界に召されてからの言行は、早稲田大学の生長と殆ど関係はない。まことに明治元年から十年までは、上に維新三傑が健在だったとしても、それは冠冕で、実際の枢軸として政治を回転させたのは、大隈の働きが最も顕著である。八面六臂、事に当って成らざるなく、大隈八十五年の生涯のうち、最も光彩陸離として得意満面の時代であり、史家徳富蘇峰のいわゆる大隈が「やってやってやりまくった時代」である。しかしそれが後年、早稲田大学に反映したことは、絶無とは言えぬが、きわめて稀薄である。すなわち、もし大隈の一生を語るのであれば、その三十歳から四十歳までの間の十年間は、政治家として飛躍縦横、最も重要だが、教育家ないし早稲田大学設立者としての大隈にとっては、最も意義微少である。しかし全く削除するわけにもいかぬので、できるだけ簡単に説述しよう。

二 パークスとの論争

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 大隈が新政府の召命を受けて上洛したのは慶応四年三月だが、来てみると、未解決で心を残して去った切支丹教徒の問題は、外国公使によって長崎から中央政府への交渉に移され、新政府は外交に馴れず、キリスト教を知らず、いたずらに英・仏公使の糾問恫喝の前に、虎に狙われた羊の如く恐れ入って、その対応策のため、是非にと大隈を指名して、急々に呼んだことが分った。

 しかし長崎におけるフランス領事との交渉で、万国公法の理に違いさえしなければ、存外、外交交渉は恐るるに足らぬという自信をつけた大隈は、三条・岩倉・大久保・木戸その他の堂上と藩士上りの新政府首脳が、大丈夫かと心配するのを尻目にかけ、泣く子も黙るといって恐れられたイギリス公使のパークスを相手に、堂々と論争したのが、慶応四年閏四月三日、大坂東本願寺別院における会議である。

 先ず恫喝を浴びせて、相手の度胆を抜くのを常套手段とするパークスは、大隈の長崎における噂も既に知っており、その身分も心得ているので、苟も大英帝国女王陛下の代理者たる自分は、かくの如き無名下賤の者は相手にできぬと一喝を浴びせ、日本側から、この者は参与でこの局に当るので、その言議には政府が責任を持つと言って、漸く了解を得た。

 談判はパークスの、長崎で捕えられた切支丹教徒の即時釈放と、耶蘇教停止の解禁との要求に始まり、大隈はそれは日本国内の問題である、そのようなことの要求は、万国公法に禁ぜられた内政干渉だと突っぱねた。パークスは持前の癇癪を爆発させ、手を振り、卓を叩き、何という暴言か、宗教は、真理とともに宇内共通のものであり、文明国にしてこれを奉ぜぬはない。それを禁ずる日本は野蛮国で、それでは国運の行く末も知れていると蔑んで見せると、大隈は、ヨーロッパの歴史は戦争の歴史で、そしてキリスト教の歴史である。ローマ法王の専横、帝王神権を妄想する国王の暴虐、宗教戦争、宗教裁判、見来たればヨーロッパの歴史は血の連続で、漸く信教の自由が承認されて平和と安泰を得たのは近世のことではないかと、フルベッキのもとで研究したキリスト教史の知識を以て応酬して屈しなかった。

 そして日本には古来、神道・仏教の信仰が深く根を下ろし、今回の長崎切支丹の逮捕も彼ら信徒の告発によって、やむなく行ったことで、今一挙に切支丹信仰を解禁すれば、彼らの反対によって一大内乱になるだろうと言った。実は大隈は、この時勿論キリスト教徒を逮捕するの謂われなきことを内心では知っていたが、彼の政治家性質が、かく新政府の方針に同調する言葉を吐かしめたのである。パークスが、そんなことを言っていると日本は十九世紀文明に遅れて亡国の歎きを見るぞと言えば、大隈は、いな、外国の言うままに盲従して内政を行えば、その方が亡国を招くと突っぱね、昼飯も食わず、白熱の論争半日を超え、日本外交は初めて諸外国と対等に渡り合って遜色がなかった。

 これは大変有名な事件で、早くから評判になり、明治初期の通俗史書で流布され、後年に及んでも講談や小説に材料となっている。永井柳太郎の戯曲『大隈重信』(永井は案だけ立て実際に執筆したのは竹田敏彦だと伝えられる。沢田正二郎上演)や、大映の映画「巨人大隈重信」においても、ここは最上の見せ場になっているのだから、これ以上詳しくは述べない。後年大隈自身は語っている。

此日の談判には、初から御仕舞迄、此方は我輩一人其衝に当つたので、其他は唯傍聴人であつたが、三条、岩倉初め、特に木戸、大久保が一番我輩の才を少し変つた様に認めて、それから一層深く注目して呉れた様であつた。是が抑も薩長以外の出身の我輩が、突然中央に割込んで来て、兎に角一地歩を其後の廟堂に占めるに至つた所以であつた。

(『早稲田清話』 二六頁)

 大隈この時三十歳。パークスはこれ以来、非常に大隈を認め、彼を贔屓にし、援護した。

一説にパークス帰国に際し、氏〔大隈〕は之を送り、其肩を撫して曰く『好漢再び我国に来るの日、足下と干戈の間に相見えん』と。パークス後に人に謂て曰く『日本に一の大隈あり、未だ遽に図り易からず』と。果して此事ありしや否やを知らず。

(『大隈重信』民友社「今世人物評伝叢書」第二冊 一一頁)

 こういう噂の流れるまで、お互いに認め合ったということであろう。

三 苦心の金策

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 維新政府に召された大隈の初陣の功名は、先ず外交によって挙げられたが、次いで数々の成功を収めたのは、財政面・経済面、つまり金の遣り繰りであった。新政府が、馴れぬ外人との応対の外交よりも、もっと困ったのは金のひどく欠乏したことで、これは毎日のことであるだけに困惑の度もひどかった。そこへ、長崎で鍋島藩の代品方の通訳から、次第に深入りして儲け口の指導までして、内外商人の接触にも十分に馴れた大隈が来てくれたのは、救いの神が舞い込んだようなものであった。

 大隈の財政的業績をきわめて常識的に分りよく点描すると、先ず上野の彰義隊の討伐費は彼が賄ったのだという話を糸口にして考えるのがよい。大隈は四月になると命を受けて横浜と江戸へ出張することになった。用件の主たるものは、ナポレオン三世の対外的野心満々たるフランスが、借金の抵当になっている横須賀を差し押えてしまったので、これを払って解除させねばならぬ。もう一つは、日本がアメリカに注文した甲鉄艦ストーンウォール号が到着したが、注文主は幕府だったから、アメリヵは朝幕の抗争に局外中立を宣言して、朝廷政府にはそれを引き渡してくれぬ。当時、甲鉄艦は発明されて間がなくて、世界でも数が少く、榎本武揚の率いる幕府海軍に比して、ひどく劣勢の官軍海軍は、これを得て強化せねばならぬこと、焦眉の急だったのである。しかしそれを受け取る術がない。

 大久保利通の建言を見ても「甲鉄艦御入手のこと、最大急務と奉存候。早々夜を日に継ぎ御金策有之、談判の上是非御入手。」と迫っているが、いくら太政官に哀訴懇願しても、公卿内閣やその周囲の役人の手に合うことでない。ここにその衝に当り得る達者ものが一人いる。大隈だった。彼なら片手に金策、片手に局外中立打破の外交ができるかもしれぬ。大隈は外国事務局判事という役に就くことになったが、これに先立ち着手したのが金策である。

 大隈は長崎時代、商人と折衝して金を引き出した経験から、自分で大坂下りをしたが、しかしここは長崎と違いさすがの大隈も豪商と馴染がなく、手の出しようがない。幸い次役の外国事務局権判事・陸奥陽之助(宗光)が早くから大坂在勤で、この方に手蔓があり、後に剃刀大臣と言われるに至る辣腕を発揮したが、何しろ幕府時代から維新政府にかけたびたび搾っているので、五、六日かかって十万両しかできぬ。政府が当てにしていたのは五十万両の醵金であった。この時の醵金の内訳帳簿が残っているのを見ると、天下一の大富豪鴻池でもたった一万二千両、その他一万両以上は僅かに四筆しか見えない。期日を延ばしてその上も小金をかき集め、やっと二十五万両を拵えて、大隈は横浜に屯集する幕府軍艦の検問を虎の尾を踏む危険な思いで辛くも潜り抜けて、江戸に着いてみると、混乱状態のままで、全く安定がない。東征総督府に大村益次郎を訪ねて、処置の緩慢を責めたら、「金がなくて戦ができるか」と言う。大隈は、二十五万両ぽっちの金では、自分に振当てられた仕事にはひどく足りぬ。そこで、独断でこれを大村に提供し、なお横浜警固の任についている鍋島藩の兵千人内外にも上京を促して、上野戦争に参加させることに取り計らった。佐賀では閑叟が鋭意、新式銃砲を装備させていたので、その精鋭の威力は、上野から会津に亘って発揮され、つまりここで今まで手をこまぬいていたというより、薩長から冷眼視され、猜疑されさえしていた佐賀が、どうやら官軍の一翼となり得たのである。

四 円貨の制定

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 かくして大隈は彰義隊の掃蕩に、思いも掛けぬ台所口の役割は務めたが、主命たる横須賀の解除と甲鉄艦ストーンウォール号の受取の金は、今や半銭も残っておらぬのである。しかし苦しい時の神頼みで、天来の妙想というより、奇想が湧いてきた。イギリス銀行から借金しよう、それにはパークスに紹介を頼もうと思いついたのだ。このあいだ切支丹教徒問題で激しく論争して飛ばした唾もまだ乾かぬうちに、これを訪ねるのは、如何に大隈が物にこだわらぬ性質でも、内心大いに忸怩たるところがあったが、先輩たる薩摩の小松帯刀・寺島宗則を介添えに伴い、訪問すると、意外にもパークスは旧知のように快く迎え、とっくりと事情を聞いて、「成程これ迄の経歴に照すと、この際フランスが禍心を包蔵することがないとも限らぬ。若し果して左様であつて、横須賀を横領するやうな事が起つたら、由々しき大事である、貴国の危険言ふばかりない。速に金を支払ふのが上策である。私は外交官といふ職務からして、直接オリエンタル・バンクに勧諭する事は出来ぬけれども、自分一己の好意として紹介だけは致さう。しかしオリエンタル・バンクは貴下らの要求に応じて所要の金を貸すであらう。」(『大隈侯八十五年史』第一巻二〇二頁)と元気づけてくれた。貰った紹介状を持って、横浜のその銀行に行くと、支配人ロバートソンは、既にパークスからの連絡を受けていて、五十万ドルを快く貸してくれた。利子は一割五分で頗る高利だが、大坂で財界数十人を集め、説得し、哀訴し、威嚇し、恫喝し、日を費やし、あらゆる手段を用いても、所要の半分しか調達できなかったものが、口頭の交渉と一片の借用証書とで一瞬の間に手に入ったのだから、大隈は「神濶く、気揚り、快喜禁ずる能はざる程なりき」と言っている。これから縁が生じて、明治第一期十年の三大新規事業とも言うべき鉄道敷設・外債募集・造幣局創設が、みなオリエンタル・バンクの手を通すことになったのは、渠なりて水の通ずるが如きものである。

 しかも横須賀の回収は、フランスから精密なる計算書をとってみると三十万ドル内外で、それを皆済しても二十万ドル手許に残り、その上幕府の買い入れていた小銃・兵器がおまけのようにして付いていたので、これもすぐに東北で進行中の戦争に役立てることができた。ストーンウォール号も、上野の戦争の勝敗の判明するまで頑強だったアメリカが急に折れて、引き渡してくれて、東艦と改称して、函館戦争に参加するため北上を急いだ。これで大隈に課せられた使命は、一遍に、予期以上の素晴らしい成果を挙げて片づいた。幸運の星が彼の眉を照らしていたのだ。

 江戸城の無血授受で、後世の史家は、世界史に類例のない平和革命の一つのパターンができたと言うが、しかし浮浪は横行し、暗殺は行われ、良民は塗炭に苦しむその後の実状は、やはりフランス革命後のパリの有様が連想せられる。公卿で高い家柄の出で早くから最左翼の勤王倒幕運動に参加した経歴により、今や天下の重望を担える三条実美が東上して鎮将となり、維新三傑のうち最も辣腕家なる大久保利通がその参議であり、西郷と並んで東征総督府の参謀の大村益次郎が軍事を担任し、これが三本柱となって鎮将府を組織したので、京都とは、ほぼ独立したような政府ができたこと、昔の関東管領にいささか似た組織である。

 ただ困ったことに、金銀座は潰滅して職工が皆恐れをなして逃亡し、貨幣を鋳造する所がない。一分銀が不足して、貿易がひどく渋滞し、外国の公使・領事から、なんとか早く対策を講ぜよと矢の催促が来る。鎮将府は独断を以て、旧金銀座の職工を募集し、一分銀の鋳造を始めたところ、歓迎を受けること大干の急雨の如く、忽ちに価値が昻騰して、一ドルとの交換に一分以上の利益があるのだから、鎮将府は思いも掛けぬ大儲けをした。しかし幼稚な鋳貨技術を以て、日増しに近代化してゆく経済事情・貿易情勢の厖大なる需要には到底応じきれぬので、その意味では悲鳴をあげた。ここにおいて、新時代に応ずる造幣局を設立する案が起ってきたので、大隈は策を鎮将府に進言し、その許諾を得て、相談に行ったのは、例のオリエンタル・バンクの支配人ロバートソンの所であった。するとここでもまた、大隈の幸運を助けるような話が待っていた。

 その頃東洋に広く通用していたのはメキシコ・ドルである。日本では「メキシコ・ドルラル」と呼ばれ、横浜ではその変動相場を商売にしている、いわばドル仲買までできていた。この通貨がシンガポールを中心にイギリスの東洋諸属領から清国にまで拡がる勢力である。しかしメキシコ・ドルはいろいろ不備があるので、イギリスは香港に一大造幣局を造り、良貨を流布せしめて、弊害を一掃しようと企図した。しかしそれは「悪貨は良貨を駆逐す」のグレシャムの法則を無視したものである上に、清国人の旧弊と国際的経済慣行の不馴れとは容易に従来の通貨を見離さない。せっかくの計画も思わぬ見込み違いで、イギリスは大仕掛な香港の造幣機械を持て余している実状を、ロバートソンから聞かされ、渡りに舟とこれを買い受けて、太政官の所轄として大阪造幣局ができたのは明治二年である。

 新しい器械を用いるのだから、それに応じて貨幣の改善を如何にし、形態名称をどうすべきかの会合が開かれたのは、明治二年三月四日である。参与の大隈重信が最も根本的な改革意見を提出し、造幣判事の久世治作がこれに賛成し、並み居る議員の猛烈な改革反対論を一蹴した。

 この時既に述べた如く大隈は、先ず十進法の便利なのを主張した。従来は中国に倣って、両が基数で、その四分の一が分(または歩)、またその分の四分の一が朱で、端数を示すには、永何文と言ったのであるが、新貨幣では基数は両の代りに元と呼び、一元の十分の一は十銭、百分の一は一銭、一銭の十分の一は一厘とする新説を出し、これに多少の異論はあったが、たやすく採用と決まった。大きな抵抗があったのは、その形態で、四角説が強硬なのである。銭箱に入れ易く保存に都合がいいというのである。大隈は、それは従来の観念で金は貯蓄するものと考えているからのことであるが、しかし金は天下の回りもちで、流通に便利なるを要し、それは丸い方がよく、そしてまた磨損も少い。文明国の貨幣はみなそうであると反駁した。蓋し彼は長崎で代品方の通訳をした時代、欧米諸国の貨幣を手にして、実際を知っていたのである。議論は大いに沸騰したが、弁難攻撃は大隈の最も長ずるところだったので、とうとう多数の相手方を言い伏せた。中には硬貨の真ん中に穴を開け、紐を通す便を図るべきだとの案も出たが、これも貯蓄を念頭においた考えで問題にならぬ。

 その単位を、初め中国と同じく「元」と決めたのに、どうしていつの間に円に変ったのかは明らかでない。当時メキシコ・ドルを洋円と呼んでいる。これは漢文家が四角な二朱金を一方(方は四角の意味)と呼んでいる類で、勿論正規の名称でないが円の名称の現れた早い一例である。更に溯れば、万延元年に遣米使節となって、新見豊前守に随行した玉虫左太夫は、地球を一周して帰航の途に香港に立ち寄り、その日記に「金幣一円にして凡そ十セントに通用す。五円にして五十銭を減耗す。」とあるから、正規の貨名としてでなく、流俗には円と呼ばれていたことが分る。そこで、太政官が元と内定した翌三月発行の『六合新聞』第二号には、早くも「今般御製造に相成る貨幣之分量」と題した記事に、鋳造されるのは金貨十円、五円、二円半、銀貨一円、二分、銅貨「以百枚換一円」などと、ほぼ正しいことを報道している。

 越えて七月七日の日付で、会計官副知事大隈重信の名で、新貨幣の品質を各国公使に報告した書翰に「一円ヲ以テメキシコ洋銀一枚ニ比較シ」、十円、五円、二円半、一円、半円等の新貨幣の図を示している。これが公文書に「円」の貨名が用いられた最初だといわれる。旧藩以来の藩札の濫発その他の経済的大乱脈で、各国公使から手厳しい抗議が来ていたのだから、こうして先ず了解を得る必要があった。そして――

明治元戊辰の年より早くその功を起し莫大の経費を厭はす大阪において新に造幣寮を建置し壮大なる器械を備へ広く宇内各国貨幣の真理を察知し金銀の性質量目より割合の差等鋳造の方法に至るまて詳かに普通の制を比較商量し以て精密の通用貨幣を鋳造し在来の貨幣に加へて一般の流通を資けんとするの都合を謀り既に開寮の儀典を完了せり (『改正新貨条例』 諭告)

と言って、太政官が新しく円貨を出すまでに至ったのは、実に明治四年五月のことであった。

 「明治百年」の時、「金を円い形に決めたのは大隈さんだそうですね」との思い出が、何となく女子供にまで蘇って、その噂が巷に広く流れたのは、毎日必ず手にしないでは過ごされぬものに、便利な改革を加え、適切な貨名を定めた親しみによるものと思える。

五 鉄道敷設

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 この頃大隈は築地に大邸宅を構え、来る者は拒まぬ流儀だから、嵎を負う虎の如く、肚裏に欝勃の不平があって、機を捉えてはややもすれば天下に乱を構えんとするような、一癖も二癖もある物騒な連中が寄り集まってきた。百八豪傑の巣窟となった梁山泊に因んで、誰言うとなくこれを「築地梁山泊」と唱え、明治四年に日比谷へ移転しても、まだ梁山泊の遺風は暫く続いた。

築地は唯で貰つたのさ。我輩は明治の初に俄に公卿さんになつて江戸に上つて来たんだからな。其時分には御公卿さんには皆只で屋敷を呉れたもんさ。西本願寺の直隣で約五千坪も有つたらうて、仲々大きな物だつた。建坪も余程あつて立派なものだつたよ。 (『早稲田清話』 三五七頁)

 明治維新は裏を返せば王政復古で、一時は神祇省が諸省の上に立って、これを統べるという時代だから、明治二ー三年の『職員録』にある大隈は「従四位守民部大輔兼大蔵大輔菅原朝臣重信」で、伊藤博文は「従五位大蔵少輔兼民部少輔越智宿禰伊藤博文」であったのである。この大隈邸は旗本戸川捨二郎の旧宅で、現在は中央区築地四丁目六番地、新喜楽のある場所である。

 伊藤博文もすぐ隣の小邸宅に住み、井上馨は大隈邸にある小屋を借りていたので、大隈と三人、維新政府の進歩派、急進派として最も親交を結び、書生暮しの気軽な二人は、大隈邸の裏口から入ってきては、台所で勝手な物を作らせて、自由に食っては帰った。そして朝から晩まで、政治改革の議論に、口角泡を飛ばしているので、木戸孝允と大久保利通は、いつもにがい顔をしていた。

 この築地から日比谷の梁山泊にかけての出入りの者の名を大隈は少し漏らしている。薩摩出で、幕末に洋行して帰った新知識で、薩閥から弾き出された豪傑、後に鹿鳴館の命名者として有名な中井桜洲がいる。やはり薩摩出で、長崎で船の売買をしていた政商五代才助(友厚)がいる。五代は、天忠組の生き残りで後に大阪控訴院長、男爵となり晩年大和法隆寺に引退した北畠治房を引っ張ってきた。また大阪の富豪土居通夫は浪花芸者を伴い転げ込んで、何ヵ月も滞留していた。その他乱暴書生から、僧侶・神主、姿を乱してゴロ寝をしていて勝手に金を使い、借金までするが一向に払わない。中に渋沢栄一も出入りしているのは、乱暴叢中の礼一点、暴れ者の中のただ一人の君子である。しかしこの紛雑たる空気の中から、明治政府の革新政策の幾つかが生れ、鉄道はその最も著明なるものである。

 鉄道敷設の最初の案は、勿論大隈から出たとは言えない。既に紡績機械が、島津斉彬の遺志を継いだ忠義により慶応元年にマンチェスターのプラット会社に発注せられているのに比すれば、鉄道が明治のこの頃になって問題になるのは遅すぎる。ペリーの黒船がその模型を幕府に贈呈して実演して見せ、また幾人かの漂流者や、密航者や、留学生などの報告によってその便利は知られて、これが計画の声もぼつぼつ聞かれていた。イギリス公使パークスが、その敷設の急務を明治政府に建言するに及んで、初めてこれは現実の問題となってきたのである。今『パークス伝』に引用せられた諸書翰を見るに、彼が日本政府に鉄道敷設の必要を力説したのは早くも明治二年頃からのことである。横浜・東京間に電信を架設したのに次いで、次には是非、鉄道の開通を急げと勧告し、それに就いてはあらゆる援助を惜しまないと約束した。パークスが夫人の兄弟ロッカートに与えた手紙(一八七〇年)にこうある。

私はミカド政府に鉄道と電線の架設の必要なことを、しばしば力説してきた。今の新しき国家組織の下においては、行政の強力化、緊縮化が必要であると同時に、民間の商工業の利益の伸長のため、交通手段を完成することが必要である。日本には、清国とちがい、航行可能の大河がない。一日の旅行平均は二十マイルに過ぎず、四、五百マイルも離れた地方へ行こうと思えば一ヵ月仕事である。江戸と京都の両首都の間は、国中で最良の路が通じているのだが、半月はかかる。米を輸送するのに手間がかかり、国内の一方では豊作の産米のはけ口に困っているのに、他方では飢餓と困窮に瀕していることがよくある。去年の暮、政府から、いよいよ江戸と京都の間に鉄道を敷くことに決定したとの報告に接した。その難関は資金の欠乏にある。幸いH・N・レイ氏から引き受けようとの申し出があった。彼はもと清国におり、その当時日本に来ていて、鉄道の見込収入と関税歳入とを担保に、百万ポンド借款を、日本政府のために図るというのだ。政府はこれを受諾し、レイ氏は、その金額を調達し、必要の技師を契約するために、イギリスに帰った。

(F. V. Dickins & S. Lane-Poole, The Life of Sir Harry Parkes, Vol. II, p. 157)

 初め日本政府は、鉄道の話を聞いた時、大隈が先ず乗り気になり、伊藤が賛成したが、他の者はサーカスの話でも聞くような気持で、目下当面の国造りでは緊要の問題と認めなかった。たまたま明治二年の秋は、東北と九州は凶荒で米価が暴騰して、外国米を輸入して救済したのに、北陸その他は豊作で米が余っているのに運送の便が悪くて、それを回送する策がなかった。パークスがその点を指摘して、やっと鉄道敷設を日本政府に納得させたことを、上記に引用した彼の手紙は語っているのである。

 しかしこの敷設決定のことが知れ渡ると、政府部内に尚早論があり、無用論があり、外国に借財するのは国辱または売国奴となす者があり、反対論は紛々として国中を掩うた。政府は当時建白を許していたが、集まるものは皆反対論で、賛成はただ一人、谷陽卿という医師だけであったから、大隈は晩年までよくこの名を覚えていた。陸軍も反対で、高輪の測量を断じて許さぬので、大隈も負けておらず、海面を埋めて品川線を通じた。これこそ葉隠根性に基づくものだと言われたほど、壮年時代の大隈は俊爽として、しかも意地っぱりで、百万人といえども独往して屈しなかった。これは見方によっては、後に明治十四年の政変に、公卿と薩長藩閥が廟堂から追い出すなら、政党と学校を創って対抗してやると言って見せた意地っぱりと、よく似ている。早稲田大学は、品川線路の海岸埋立て地の別版と言える。

 中でも黒田清隆は、長崎から大隈を召し出すのに最も熱心な推挙者だったが、鉄道では大隈に真っ向から反対して、兵部大丞の地位にいて、持前の激情から、大隈を刺し殺すとまで放言していた。それが北海道開拓使次官となって米欧の文明を実見し、帰国してそれを太政官に報告するに先んじ、「待ってくれ、その先に大隈参議に詫びを言わねばならぬことがある。」と言って、鉄道に反対した不明を謝して、これからこの推進にはどんな後援でもすると約束してくれた。当時の黒田は二世西郷と言われて名声隆々、薩摩のホープとして注目されていた人物だけに、これは何より有力な味方だった。

 しかし、相棒の伊藤は、明知あまりありて胆力を欠き、世を挙げての非難に怖気づいて、いっそ鉄道案は延期にして、一時中止にしようかと弱音を吐くのを、大隈はたまたま、岩倉大使が条約改正準備の使節として渡航するに当り、これはもともと大隈の言いだしたことだったが、自分は随行を辞退し、伊藤をそれに付けて、いわば一時凌ぎに逃がしてやった。米欧を一巡して帰国してみると、鉄道は中止にもならず、品川・横浜間に開通したので、伊藤はすっかり兜を脱いだ形で「大隈の胆力と頑張りは、到底自分らの及ぶところでない。」と言った。

 後世、論ずる者は言う、伊藤は難関に差し掛かるといつも大隈を裏切って逃げて、自分一人はいい子になっている常習犯であったと。言或いは無遠慮であり、酷に過ぎるかもしれぬが、大いに当っている。こうして鉄道で大隈一人に火の粉を浴びせて逃げながら、その功は共に収めた伊藤は、明治十四年の政変では、大隈・伊藤・井上で議会を開くに莫逆の誓いを約しながら、薩長という中にも陸軍の反対が火の手を上げると、大隈一人を悪者にして、自分らは辛うじて安全地帯に逃避した。条約改正の時も、いわゆる大隈案を示され、是認し、後援を約しながら、ロンドン『タイムズ』に素っ破抜かれ、国論が沸騰すると、するりと転身して、反対側に回った。これに反し黒田清隆は飽くまで大隈を庇ったが、そこが長州人と薩摩人の相違であろう。最後は薩長藩閥内閣の行き詰まりに当面すると、投げ出してあっさり後継に大隈・板垣を奏薦し、政党内閣の端を開いたのは、伊藤が山県その他の如く根っからの藩閥根性でなく、どこやらに進歩的・民主的政治家の面影があったことを物語る。しかしそれならば、藩閥的背景を持たず、官僚組織網とは縁の皆無な大隈のために、細かく顧慮してやるべきだったのに、寧ろその無為無策にして施す術を知らぬのをいい気味に眺めて見殺しにするのを急いだ。この失敗で大隈は、廟堂政治家としては再び立つべきチャンスを失ってしまったほどの痛手を蒙った。

 しかし暫くたつと、大隈にすまない思いをして、十四年政変の償いには、黒田内閣の外務大臣に迎えることに了解を与えて尽力し、条約改正の爆弾で隻脚を飛ばされた後では、松方内閣に薦めて、世はこれを松隈内閣と称し、実権は大隈が握るほどの勢力を振うのを黙認し、第一次大隈内閣の後では、早稲田大学に三万円の御下賜金を明治天皇に奏請して、大隈を喜ばせている。大隈が学者として尊敬したのは福沢諭吉だったが、しかし喧嘩分れこそたびたびしたものの、ほんとうに馬が合って、心から打ち解け得た友は伊藤であった。

 鉄道は、初め伊藤とともに着手し、途中から一人で頑張って、万難を排し、とうとう開通にまで漕ぎつけたのは大隈の功だった。その点を強調しておけば、錦絵にもなって有名な天皇臨幸の開通式の事情など、ここに詳記する必要はない。

鉄道創建ノ始物議紛転ヲ不顧定見ヲ確守シ終ニ今日ノ成功ニ及ヒ候段睿感不浅候依之為其賞目録之通下賜候事

御剣一口 金六百両

壬申〔明治五年〕十月二十五日

の御沙汰書が大隈・伊藤の二人に同じく下された。井上勝の「鉄道誌」(『開国五十年史』上巻所収)にも隈藤両公の功と書いてある。しかしその差別は上記の通りであった。ただし大隈家にはその御剣は残っていない。廃刀令も行われる矢先に、刀など作らず、その金は大隈のことだから他に生かして使ったのだろうと信ぜられている。

六 財政報告の嚆矢

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 鉄道開通の翌明治六年、大隈重信は大蔵省事務総裁になった。大蔵省は今日でも最も有力な省だが、当時にあっては「内務省・農商務省・逓信省・会計検査院等の事務を包含し、且つ明治の人材は多く大蔵省に集りしを以て其権力頗る盛大にして、太政官と雖も之を制するに苦むの勢あり。」(『明治政史』第六篇旧版『明治文化全集』第二巻所収一七六―一七七頁)と記されている通り、各省の鬼門とされていた。そこは井上馨が明治四年から大蔵大輔(今日の次官に当る)として三年に亘り地盤を固めていたのに、政府と議が合わず、気短かの彼は向っ腹を立て、大蔵省三等出仕の渋沢栄一を道連れにして辞職したから、既述(五三―五四頁)の如く、大隈が臨時にそれに代ったのである。

 その直接の理由となったのは、井上が各省、特に大木喬任の文部省と江藤新平の司法省の予算を大幅に削減したことにあった。文部省は小・中学校新設のため二百万円、司法省は裁判所設置のため九十六万円を要求したのを、全く認めない。当時大蔵卿の大久保は岩倉大使についてヨーロッパにあり、留守は井上が代理を任せられているのだから、この留守の大久保を笠にきていやが上にも勢力を振い、特に大木・江藤とも、いわば新政府には成上り者の佐賀人だから、他藩人への疎外感が手伝って、情け容赦をしない。しかし江藤は俊敏の頭脳を以て特に弁難攻撃に長じ、大久保・井上を苛めるために生れてきたのではないかと言われるほど二人には苦手であるとともに、江藤はその職掌がら、配下の探偵を使って、井上に後暗いところのある私行を摘発して、窮地に陥れ、双方の関係は爆発寸前まで来た。

 三条が心配し、当時大隈は燈台視察のため関西から長崎方面へ巡回中であったが、急電を発して、それを呼び戻した。電信も大隈が苦労して架設したのだが、それが利用されたのを、この時ほど恨めしく思ったことはないと嗟歎したというのは、有名な挿話である。帰来した大隈の顔を見ると、西郷・板垣の両先輩参議が、君は井上と親しいし、財政の分るのは君だけだから、井上を説いて金を出させうと言い、井上はまた、君は大木・江藤とは同藩で子供の時からの友達だから、その要求を抑えろと言う。大隈は板挾みになった形となり、ここで決断して、大蔵省の予算は果して井上の言う通り、そんなに窮屈なものかどうか、自分で調査に当ったが、大隈のはじいた算盤には、綽々たる余裕が出たのである。

 これは計算の仕方ひとつで、どうとも言えるので、当時は地租が主たる財源で、米で納めるのだから、その米を貨幣に換算する場合、少し高く見積るのと、低く見積るのとでも、非常な差がつく。正税千三百万石を井上大蔵卿代理と、大蔵少輔の渋沢栄一は、一石を二円七十五銭と見積ったのだが、これは安きに失するので、もう五十銭を一石に加算していいと計算し、この単価の差で、直ちに六百五十万円が浮いてくる。そこで梁山泊の一味なる井上・渋沢に言うに忍びぬ思いをしながら、しかし大隈は面を冒して、司法・文部両省の要求の財源なしというのは誤りであると直言し、その一方で二人の顔も立てて文部省は百三十六万円、司法省は六十三万円のほぼ要求の半額で折合うことを提案し、話は決まったかに見えたが、井上・渋沢が承知せず、建議をつけて辞表を出して去ったのである。

 この建議が、イギリス人ブラックの出していた『日新真事誌』に公表され、何しろ政府部内のことが公に洩らされたのは前例のないことだから、中外朝野ともに大いに議論が沸騰し、新政府はそれほど金に欠乏しているのかと、不安感を生ぜしめた。そこで大蔵省事務総裁に新任した大隈重信が、その建議書をしりぞけて、六月九日「歳入出見込会計表」を公布した。民間はまた前と反対に、これを見て政府会計の裕福なのに驚いた。その後は毎年、この表を公布する習慣となり、遂に変遷して、真正の予算を形作って公表するに至ったのである。

大隈の取調が井上渋沢のとは正反対に可なり楽観的のものであつたことは、その作成の目的から云つても怪むに足らない。併し内容そのものは別として、之より年々「歳出入見込会計表」公表の慣例を作りしは特筆大書に価するものでなくてはならぬ。〔明治〕十二年二月には八年度の決算報告が発表された。斯くして我国初期の財政は、まだ不規則の難は免れ得ざりしも、事前に予算の公表あり事後に決算の報告あるの端を開いたのだが、是れ皆大隈在職中の功績として今に記憶にとどめられて居る。

(吉野作造「大隈君財政要覧解題」旧版『明治文化全集』第九巻 二五―二六頁)

この在職中とあるのは、明治六年十月、すなわち大隈が参議にして大蔵卿を兼ねることになり、十四年の政変の前年まで七年の長きに亘ってこの職に留まった時期を指し、西南戦争を中心に起った大小戦乱その他の困難な財政を切り盛りした。これを今日の史家は大隈財政と言い、いろいろと批判を試み、否認する者が多く、その当時においても、大隈を更迭せよと迫る声はあった。しかし三条・岩倉の太政官首脳が、「大隈は、五円の金を十円に見せかけ、百円に使う手腕を持っている。この真似は誰にもできない。」と言って、耳を貸さなかったという話が伝わっているのは、前にも書いておいた。最近の経済史の研究はまた大いに、いわゆる大隈財政の果した歴史的役割を高く再評価する風潮に向いてきている。

七 佐賀の新政府進出

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 政治家としての大隈は、主として外交と財政の両刀使いに手腕を現し、その最も主なるものを以上のように挙げて彼の面目を伝えようとしたのだが、彼が早稲田学苑創立に至るまでに新興日本のために致した貢献は、広汎に亘って数が多い。すなわち明治政府に出仕して以来の官歴とその間に起った大事件とを綯いまぜて、表示的に略叙しよう。

 慶応四年、大隈数え三十一歳。三月徴士参与職、外国事務局判事となり、切支丹処分問題に当る。四月にかけて佐賀の四傑、副島種臣・大木喬任・江藤新平・大隈重信相次いで中央政府に召さる。大隈の役名は猫の目玉のように推移する政治方針を反映して、数回変っているが、一先ず外国官副知事と呼ばれ、参与を兼任す。明治二年、当官を以て会計官出任の命を受け、新たに置かれた造幣局に関係す。島津・毛利・山内・鍋島のいわゆる薩長土肥、版籍奉還を申し出るとともに、七月八日、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を置き、その上に神祇省を据えてこれを最高としたのは、王政維新でなく王政復古の露骨な反映である。政治組織は右大臣三条実美を最上とし、大納言は岩倉具視と徳大寺実則の二人、参議が副島種臣と前原一誠の二人。神祇官は明治天皇の生母中山慶子元典侍の実父中山忠能、兵部卿嘉彰親王、外務卿沢宣嘉、刑部卿正親町三条実愛、宮内卿万里小路博房である。副島は皇漢学の淵博なること、もと岩倉の知嚢として王政復古の全構想を立てたと言われる玉松操の脱けた跡をよく埋めるに足り、王佐の見識に富み、フルベッキについて海外事情にも心得があったから、先ず薩長以外から抜擢を受けたと思われる。ところでこの時大蔵卿が空席になっているのは、公卿にも薩長にも適任者がなかったのであろう。そして「大蔵大輔」が代理することになっているが、その大輔こそ大隈重信なので、この書生上りは早くも大蔵大臣代理の地位に上った。

 明治四年は、廃藩置県の大変改に備えて、政府の更迭があり、三条は太政大臣、岩倉は右大臣に上り、参議は四人で薩長土肥から一人ずつ出すことになり、西郷隆盛(薩)、木戸孝允(長)、板垣退助(土)、大隈重信(肥)で、漸く大隈が頭角を抜いてくるのが目立つ。廃藩置県にも大隈は地位相当の貢献をし、差別的称号の廃止や四民平等には、もともとその性癖の人物だから、力を尽したが、しかし彼が主動者ではない。なおこの年六月から七月にかけ、三週間ばかり大隈は参議の職を辞したことがあるが、それ以外、明治十四年の政変で廟堂を逐われるまで、その地位を保ち続けたのは、彼がどんなに政府に欠くべからざる人物であったかの一証であろう。

 明治五年の内閣は、参議が西郷・木戸・板垣・大隈の四人で、年少しかも維新前に寸功なき大隈が一躍して薩長土の大先輩と肩を並べていることは変らず、更に後世の大臣に当る卿には、外務が副島種臣、文部が大木喬任、司法が江藤新平。すなわち卿の椅子は佐賀で独占に近い形で、その四傑揃って光彩を放って眩耀まさに天下を瞠目させた。当時、大蔵卿の大久保は外遊中、同じく外遊中の伊藤博文は大蔵少輔にして特命全権副使、山県有朋は陸軍大輔(次官)だったが山城屋和助汚職事件の関係者で、共に参議たる資格がなかった。大隈は、これより先明治二年、恩師フルベッキを長崎から呼んで、大学南校の教師とならしめ、教育改革のこと一切を委任した形だったので、後に東京専門学校を設立して、政治家としては寧ろ失敗の人で、教育家としてより多く成功するに至るのを思えば、ここで文部卿になるのを望みそうなものだが、参議時代には彼は教育に意なき者の如くであった。この年大隈の仕事として最も記憶せられるのは、翌明治六年オーストリアで開かれる万国博覧会に参加するため、総裁となったことで、明治政府の万博に出品することこれを以て初めとし、出張者は多大の技術を学んできて、我が産業史に画期的な貢献をした。如何にも大隈にふさわしい仕事であった。

 そのうち、卿が参議でない場合には、政治に支障が生じかねないという理由で、明治六年、全卿が参議に列することになり、江藤・大木は土佐の左院議長の後藤象次郎とともに、皆参議に昇格した。大久保・木戸は外遊しておらず、留守政府は参議が薩は西郷一人、長は全く不在、土は板垣と後藤、あとの四人は肥で占めて、つまり佐賀内閣が誕生したような異観を呈した。しかし往年の弘道館の四傑が、互いに協力して、功なり、名とげ参議として列なったのは、きわめて僅かの間で、大隈・江藤の両親友が征韓論で袂を分つに及んで、さしも全盛を極めた佐賀勢力は分断され、早くから根を張る薩長藩閥勢力に、抵抗のできぬ弱体となったのは、是非もない。

 岩倉遣外大使の留守中に征韓論が起ると、西郷・板垣・副島・江藤は直ちに賛成し、独り大隈は、岩倉の帰国まで待つと言って、賛否を保留した。明治天皇にはこの征韓論に御裁可があり、それにしてもやはり遣外使一行帰国の上で、更に議を尽せとの内勅が下った。しかしながら海外使節は、在外中は一緒に行動せず、ばらばらに帰国したほど不和でありながら、一度帰ると一致して、征韓論を挾んで遣外派と留守派の正面衝突となった。

 遣外派は、使命の条約改正下踏みの手掛りだに得られず、百人を超える大一座が、半年に亘って米欧を豪華旅行して、外人の目を驚かし、中には費用を節約してロンドンの銀行に貯蓄する者もあり、百万円という当時としては目の眩むような巨額な国帑を費やしながら、得るところ一物もなく、一行の中にさえ、「条約は結びそこない金は捨て、世間へ対し(大使)なんと岩倉」の狂句を作る者が出るほど、散々の態たらくであったが、その期間に留守政府は、鉄道を敷き、学制を公布し、暦法を改め、徴兵令を制定し、着々と政治の成果を挙げて、つまり遣外派が自分達がいなくては政治は行えまいと自負した予想を裏切り、彼らの存在は全く必要のないことを、実績によって示したので、その失地挽回に遣外派が必死と縋りついた砦が征韓論への反対で、明治天皇の内勅を体して更に議を尽すことなく、遮二無二叩き潰しに狂奔した。

留守派が概ね努力し、新経営に着手せるが上、其の頭領なる西郷の提議せし所の行はれ、兵を海外に動かさんか、大使一行百余人が巨万の金を費し、空しく欧米に花月を賞して帰りしと知られ、一行の首脳が政治的致命傷を被るを免れず。木戸及び大久保は、遣韓大使の是非を問はず、政治的生命を維持するが為めに留守居に一大勢力を示さざるべからず。西郷の成功は木戸及び大久保の失敗を意味し、後者の失敗を抹殺するに前者の成功を抹殺するを要す。岩倉大使の洋行派に於ける、猶ほ三条相国の留守派に於ける関係にして、責任は下僚が負ふべきも、岩倉は三条の如く名義にて安んぜず、木戸及び大久保の成敗の直ちに自分の成敗たるを思ひ、留守派と勝敗を決し、自ら使命を辱めざるを明かにせんとす。

(三宅雪嶺『同時代史』第一巻 三四二頁)

これが征韓論の必ずしも戦争を意味せぬ真相を尋ねて、話し合おうともせず、宮内卿に連絡して西郷の上奏の路を封じ、三条太政大臣が事態の重大に心痛して昏倒したのに乗じ、その代理として、岩倉はゴリ押しに反対派の手を封じた最大理由である。ここにおいて、西郷・後藤・板垣・江藤・副島など、留守派は連袂して職を辞したのだ。

 この時江藤は大隈を誘ったが、大隈は元来、西郷が旧人にして武弁に過ぎず、政治的能力のないのを軽視して、早くから大久保に傾倒したのだから、留守派ながら大木とともに非征韓派に与して、政府に残った。後世の史家が一時は「佐賀内閣の出現」とまで呼んだ「肥」の勢力がここに両分し、大隈が終生心ひそかに抱いた薩長藩閥打倒の夢は、永久に封ぜられたと言わなくてはならない。大隈は、大蔵大輔時代に大久保の不信を買って、厳しい目を向けられていたことがあり、ただ敏腕にして役に立つので大久保は伊藤をより多く信愛しながら、大隈も捨て難くて重宝したが、次第に大隈は信用を回復し、遂に伊藤とともに大久保の関羽・張飛の役を務めるに至った。

八 台湾征討と西南戦争

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 明治七年一月、有名な民選議院設立建白出でて、明治の政局も社会的事態も一新紀元を画することになる。下野した旧参議の諸同僚、西郷を除く外は悉く名を連ね、殊に副島・江藤の同郷人がその同志に加わっているのを見ては、もともと民主的傾向の性癖を有し、アメリカ憲法やキリスト教の習得によって、副島・江藤の両郷友よりも遙かにその方面の教養を積んでいるとの自信ある大隈は、相手に一歩を先んぜられた感を免れなかったであろう。二月、意外にも早く、従って無準備で、江藤が反したというより、寧ろ大久保の誘導に引っ掛かった形で、佐賀の乱が起った。大勢の赴くところ、大隈の隻手を以ては如何とも救い難かったのは諒とできるが、少年時代からの親友を斬罪梟首の極刑から免れしむるに、一指も貸し得なかったのは、痛恨の極みであったろう。これから明治二十九年春まで、大隈は十余年の長きに亘って足一度も郷国を踏まなかった。五月、台湾征討が現実化する。征韓論を、内治を先にし、外征を後にする建前から圧えた大久保がこの外征を決行するのは甚だしい矛盾と言われたが、豊臣秀吉の慶長の役から二百九十年来の外征として、国民の士気大いに上がり、この役の成功によって、外国も心許ながって見ていた新政府の力を認め、イギリスが駐兵を撤退したのは、意外のもうけものであった。また清国は琉球人虐殺のため、償金を日本に払ったので、これまで日清両属の形だった琉球が、大体明らかに日本の封土と決まったわけである。この征台役に当り、大隈は台湾蕃地事務局長官を命ぜられた関係から、その南のフィリピン群島の存在に注目し、その外交を考慮に置かねばならなくなった。これが日本の南洋向け外交の開ける端緒となったと言われる。このこと、従来の大隈の伝記では解明せられず、フィリピン史家の攻究によって、これを明確にすることができる(フィリピン大学の史学教授ホセファ・サニエルの博士論文『一八六八年―一八九八年の日比関係』Josefa M. Saniel, Japan and the Philippines 1868-1898, 1963を見よ)。

 明治八年、九年、大隈について特に言うべきことなく、明治十年は、征韓論の結論とも言うべき西南戦争が遂に勃発した。大隈は大蔵卿にして、征討費総理事務局長官を命ぜられたが、戦争の起る一月前に減租の詔勅が下ったばかりの状態で、国家の窮乏いうばかりなく、戦時増税など行える状態でない。ここにおいて、世に評された如く、「無い袖を振り」また「無より有を生ず」る独特の大隈的財政手腕が発揮せられることになる。まことに西南戦争は、「糞鎮」と称せられた百姓鎮台兵も、近代装備と近代訓練と兵数に優れば士族の壮兵に勝ち得ることを立証した徴兵制の勝利として歴史づけられている。とともに、ナポレオンが戦に勝つの方法を聞かれて第一も金、第二も金、第三、第四、第五から第十五まで金ばかりを繰り返すので、質問者があきれて、聞くのをやめたという逸話の通り、「金がなくては戦ができぬ」を有力に実証し、大隈の才能が西南戦争勝利の一大原動力であることは、さすがに薩長政府も認めないわけにゆかず、勲一等旭日大綬章を贈って、功に報いた。

 大隈は西郷の声望と誠実は認めぬわけでないが、その政治的能力の欠乏からこれを軽んじ、大隈ほど西郷を低評価している元勲はない。しかし公平に見れば、西郷と大隈は人物の規格が大で、どこやらに英雄的風貌を帯びること、西郷には及ばぬとしても大隈も幾分これを有して、共通点があり、大隈は西郷を好んでおらぬが、世上の大久保より西郷を敬愛する者には、伊藤より大隈を好む者が多い。

 そして大隈が、図らずも明治十四年政変で廟堂を逐われるのは、西郷が征韓論に破れて下野するのに、何となく似ており、西郷は私学校を作ったが、大隈の方でも早稲田学苑を建設し、藩閥からは「第二の西郷私学校」と警戒せられたのは、これを大隈は当然としたか、意外としたか。そして西郷は、その私学校生に擁せられて、不本意の時機に反乱に立ち上がって、遂に故山に秋風屍を吹く悲劇の英雄となり、大隈は反対に早稲田学苑の学生達に囲繞せられて、名を千載に残す。人物比較をすれば、大隈より西郷を遙かに偉大とするのが常識だが、批評家(横山健堂)は言う。西郷、大隈が黄泉に再会した時、西郷が大隈に対し、この一点は我れ遂に君に及ばずと兜を脱ぐのは早稲田大学の大成であろうと。

九 福沢諭吉との初会合

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 明治元年から十年までの一昔の間の大隈の経歴は、生涯の最も光彩陸離たるものだが、それは政治上のことで、後の早稲田に関係することは、絶無でなしとするも、甚だ稀薄なことは前に書いた。しかし実はただ一事だけ、早稲田大学と直接間接の関係の至大な出来事がある。それは天下の公事でなく、実は福沢諭吉との最初の交わりがこの期間中に開かれたことだ。そして遂に終生の恩友として、その影響は、枝吉神陽、大庭雪斎、フルベッキの地位に置いて考えるべき重大な意義を持つ。大隈は日露戦争が過ぎる頃から、気軽に大学内に姿を現し、学生達に演説するたびに「福沢先生が……」と敬愛の情をこめて説くのが常だった。大隈にこういう追憶談がある。

明治六年の初対面までは、トント先生に会ったことがなかった。会ったことがないだけではない。いわば食わずぎらいで、気にくわぬやつ、生意気なやつと、腹に思うばかりでなく、口に出しても云ったものだ。向うが云えばこっちも云う。勢い衝突する。その頃わが輩は、いささか権力のふるえる役人で、その上書生気風がぬけていなかったから、図太いことをいうと、福沢もまた偉そうなことを云って役人をくさす。両方で小しゃくにさわっていた。こんな犬猿の間柄で、一方は民間学者のあばれ者、もう一方は役人のあばれ者、これをかみあわせたらさぞ面白かろうと、いたずらどもが考えた。上野天王寺のある薩摩人の宅で、芝居でも見るような調子でわれわれを引きあわせた。それを知らずわが輩が出かけ、先生もまた出かけて来たらしい。そのとき、わが輩は三十五六、先生は四十になるかならぬかだ。お互いに、これは福沢だ、これは大隈だと引きあわされて、名のりあった。不思議なところで初対面がすんだが、だんだん話しこんでみると、元来傾向が同じであったから、犬猿どころか話があう。けんかはよそう。むしろ一緒にやろうじゃないかということになって、それから大分心やすくなった。義塾の矢野文雄、故藤田茂吉、犬養毅、箕浦勝人、加藤政之助、森下岩楠などという連中が、それからわが輩の宅に来るようになり、とうとういつの間にかわが輩の乾児になってしまった。 (『大隈重信は語る』 二〇―二一頁)

 これに同じく福沢門下でありながら、別な筋から大隈の輩下に加わり、犬養と並んで「吾輩の関羽と張飛である」と大隈が愛重した尾崎行雄を加えておかねばならない。

十 福沢門下の暴れ者

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 大隈・福沢の回り合いは、明治六年と大隈が語り、時には四年、五年とも言っているが、征韓論以前であることは大体間違いはないとし、今試みに書信で調べてみると、福沢が大隈に送った手紙のうち、最も古いのが明治十一年二月二十日で、それ以前の書信が一通も残っていない(『福沢諭吉全集』第一八・一九巻参照)のは、手紙の往復までには至らない疎遠な関係であったか、或いは書いても、それを保存すべき価値も親しみも認めなかった程度の友交だったのであろう。

 ところが、西南戦争の終結を経て、いわゆる戦後景気で国政が膨張し、維新三傑唯一の生き残りの大久保に勢力が集中するとともに、その最大信頼を博せる大隈の身辺は繁忙を極め、いわゆる猫の手も欲しいほど人材を要する。まだ東京大学は卒業生を出さず、ただ慶応は、三田に移って十年の教育整備の功漸く現れ、多くの新人材が社会の各方面に進出するのが目覚しかった。そこで大隈が働き手の推薦を福沢に頼み、その返事(彼の大隈宛の書翰約四十通あり、その中の第三番目に古いもの)で明治十一年三月十九日付にこうある。

益御清安被成御座奉拝賀。陳ば先日御内話サイコロペヂヤ編輯の人物、様々思案いたし候処、漸く爰に一人あり。即ち矢野文雄と申者なり。この者は多年弊塾寄宿、原書は十分に読み、漢書の力に乏しからず、当時蔭ながら新聞紙抔書き、世上の様子を窺居候処なり。この人ならば御注文の仕事も出来可申哉に存じ、先日一寸当人の意を探候処、何か一課の事に掛り、其傍に省中の事情を察して漸次に編輯に及候様いたし度、事を為す位ならば生涯の力を尽して省の務に従事致度との願に有之、就ては当分御雇抔ならば止めにいたし、矢張新聞を書き可申、弥用るならば可然地位を占め存分に働く積りと申大意に御座候。何れ望む所は四、五等ならんと被思候。随分人物は通俗にて役には立可申、若し思召も御座候はば誠に一応御逢被下度、当人より直に御話仕候方早分りと存候。右要用のみ申上度、早々頓首。 (『福沢諭吉全集』第一七巻 二三三頁)

 大隈がこの書信を受け取った直後に大久保利通の暗殺があり、この進行は多少の屈折があったが、矢野の政府出仕は決まった。実に得易からざる人材で、忽ち大隈の知嚢となり、股肱となり、楯の裏面となった。尾崎行雄は新潟の田舎で新聞記者をしていたのを、矢野に招かれて中央政府に出仕したのであるが、当時の思い出をこう語っている。

太政官の中に新たに設けられた統計院の書記官になつた。此の統計院は、当時は各省の上に立つ重要な役所であつた。……この時、大隈侯が此の統計院総裁であつた。現在は各省と内閣とが一つで、各省大臣が即ち内閣大臣でありますが、その頃は内閣と各省とが分離してゐて、内閣には極く少数の参議を置いて、一人の参議が各々二つか三つの省を監督してゐた。大隈参議は大蔵省、農商務省、司法省を監督して居つた。且又表向きではないけれども、内々は外務省も矢張り監督して居つたらしい。即ち四省を監督する上に、統計院といふ各省の上に立つ新設官署の総裁であつたのですから非常な勢の時でありました。

(『近代快傑録』 二七―二八頁)

また、こうも語っている。

大隈伯は大変な評判であるけれども、其の下に矢野といふ偉い人があるから、偉らさうに見えるのだと思つてゐた。矢野君は其の前、報知新聞記者をしてゐる時分から、名声嘖々たるもので、西南戦争の際には、大本営付通信員といふ意味で、西京へ行つた事もあり、其の後、太政官に入つてからは大隈伯の知嚢と呼ばれ、参謀といはれた人である。私は大隈伯が傀儡で、傀儡師は矢野君であるといふ世間の評判を、丸呑みに信じておつた。実は矢野君が先生で、大隈伯は教へられてる学生である。

(『近代快傑録』 二七五―二七六頁)

 ところが、実際、中に入ると、それは逆で、いつも滔々と講釈しているのは大隈で、「いろいろなことを知っている点で世間また大隈伯に及ぶ者はない」ということが分ったと尾崎は言っている。各高官、すなわち同郷出で大蔵卿の佐野常民でも、農商務卿の河野敏鎌でも、司法大輔の山田顕義でも、片っ端から叱りとばす勢いであった。実状はそうでありながら、世間には、いや尾崎の如き有識者にさえ、矢野文雄が大隈を操っていると見えたというのだから、この人の才幹もまた偉なりと言わねばならぬ。この矢野が、慶応の官途開拓者、大隈輩下へ人材送り込みの先駆者たる役を務め、それから福沢門下の英才が大挙して、その後に従う道が開けた。しかし隈門に走ったのは、福沢が巣立てさせた学生の全部でなく、大部分でもなく、きわめて一部分である。

 福沢は世に聞えた政治嫌いである。しかし慶応義塾に入ってくる学生は、身なりがキチンとして、角帯を締めても似合いそうなのばかりはおらず、中には蓬頭垢面、眉を上げ、卓を叩き、唾を飛ばして、天下国家を論ずるのに、日も足らないような学生がおり、それがまたなかなかの秀才が多い。福沢は渋い顔をしながらも、それらを見捨てず面倒をみている矢先に大隈と知り合い、少々手にあまる暴れ者は、みんな政治家なる大隈の許へ送り込むと、大隈はまた、どちらかというとそういう傾向の青年の方を好み、喜んで引き受けた中の、代表的なのが前記に名前の挙がっている数者である。

 福沢からは敬して遠ざけられ気味の、こうした猛者達を役所で使ってみているうちに、朦朧とではあるが、いつの間にか大隈の心に沈澱して来たのは、彼らに類する後進少年を収容すべき教育機関も必要だという考えだったに違いない。やがて大隈は東京専門学校を設立することになるのだが、その時、一番に顧慮したのは、福沢のことだったであろう。日本の教育はいよいよ拡大し、開発されねばならぬのだから、新しく学校を起すことに福沢の反対する理由はないが、しかしやり方を誤れば、慶応義塾の発展の邪魔になって、福沢の不興を買う。それは避けねばならぬという遠慮は大隈にもあったのだ。

 繰り返して言えば、早稲田は三田からはみ出す暴れ者を引き受ける恰好で発足したようなものだ。これが自ずから日本を代表する両私立大学の校風の差を作った。明治の中期、「三田の生徒さん、早稲田の書生さん」と言って、下宿の主婦などが多少の区別をしたのが、どこやら、両大学の特色を巧まずして言い当てている。そして東京帝国大学に対しては「本郷の学生さん」と言った。

 後から生れた東京専門学校は、勿論、大先輩の慶応義塾の成長発展の経過を見て、多くのものを学び、貴重な参考資料を得たこと、言うを要せぬ。例えば、慶応の標語の「独立自尊」と、早稲田の標語の「学問の独立」とは、もとより早稲田が慶応を模倣したのではないが、識閾下においては、全く無関係とは言えないことは、夙に批評家の指摘する通りである。もとより「独立自尊」に他校の模倣を許さぬ孤高の誇りがある如く、「学問の独立」も独特の抱負で、決して慶応の下風に立つものではない。が、そこには有無相通ずる関係がある。

 大隈・福沢両者の友交において、こと少くとも文化方面に関しては、大隈が福沢に与えたものはより少く、福沢が大隈に与えたものは遙かに多いであろう。福沢は自分自身で大隈に寄与したのみならず、多くの門下を送って大隈陣営を固め、それを賑やかにし、豊富にした。この意味の交渉の開けてきたのが明治十一年なので、この年は大隈の生涯においてまた一線を画すると言うべきであろう。