Top > 第一巻 > 第一編 第四章

第一編 序説 東京専門学校創立前史

ページ画像

第四章 『葉隠』と早稲田大学

ページ画像

一 四隠士合作

ページ画像

 前章に述べた通りに、大隈重信は、自分の少年時代を顧みて、鍋島藩の二大教育方針を説くに、弘道館を先にし、『葉隠』を後にしているが、時代から言って『葉隠』の方が先だから、先ずこれから言及するのが、順序であり、便宜でもある。

 『大隈伯昔日譚』は『葉隠』を説いて、「今〔明治二十八年・一八九五〕より凡そ二百年前に作られたる、実に奇異なるもの」であると言っているが、その成立を究めてみよう。一口に『葉隠』と言っても、全部で「聞書第十一(篇)」に分れ、若干の長短ある挿話訓話が千三百四十三項目(本によって異同があるが)から成っている。

 巻頭に「夜隠の閑談」という一節が置いてあって、それで見ると、宝永七年(一七一〇)に、山本常朝と田代陣基の二隠士が会合して、世が泰平のあまり澆季に及んで倒巧者のみ重宝さるる風潮をお互いに慷慨し、それから自戒とも、世益とも、忘備ともつかず、その話を記録した。語るのは主として山本常朝の方で、筆録の任に当ったのは田代陣基である。山本は鍋島家二代の主光茂に仕え百十五石を受けていた。太平が打ち続くのだから、もう武功は立てられぬ世だが、藩主が隠居の後、『古今伝授』の書を見たがってやまぬので、公卿の三条西大納言実教に頼んで、それを借りて佐賀に持ち帰った誠実と粘りが高く評価せられ、切米十石の加増を受けた。光茂死去の時、追腹を切りたく思ったが、禁じられているため剃髪出家したのが元禄十三年五月、赤穂義挙のある二年前であった。

 田代陣基が初めて、高風を慕って、その隠栖を叩いたのは、この遁世からちょうど十年たった宝永七年三月であった。彼は元の藩主竜造寺家の一族の後裔で、母は鍋島主水の直参家来の出で、いわばちょっとした名家である。彼は文筆に長じて、数え十九歳で藩主鍋島綱茂の祐筆(秘書)となり、禄米十五石を領したが、二十二歳の時、役を免ぜられ、世を捨てた翌年、山本常朝を初訪問し、大いに意気投合して往訪甚だ繁く、途中からその談話を空しく消失させるのを惜しんで筆録して、前後七年を費やして、享保元年十月に終稿した。

 しかし『葉隠』の成立には、隠然として、なお二人の人物の協力が与っている。一人は石田一鼎で、二百五十石の家督を継ぐ中士であり、更に功によって七十五石を加増せられたが、二度目に仕えた藩主鍋島光茂の忌諱に触れて、貶謫せられ、幽居すること八年の後、許されたが再び仕えず、剃髪して宣之の名を一鼎と改めた。儒仏の学に通じ、経史に詳しく、郷土史に並々ならぬ造詣があり、佐賀第一の学者として著書も数種あり、来たり学ぶ者多く、山本常朝もその講筵に侍し、日常の談論を交した常連の随一であった。資性剛直、清風明月に嘯く高風があった。

 藩主鍋島勝茂に召されて、『大学』を御前講義した時、「与三其有二聚斂之臣へ寧有二盗臣一」の一句、すなわち政治には税金を厳しく取り立てるに熱心忠実なる者、或いはしきりに賄賂を取る家来がいるより、ぬすっとの家来のいる方がましなのだという意味の一句を説くに、色を正して「この座にいる相良某の如きがその聚斂の臣である。」と、侍座して傍聴を許されている家老を面罵したという有名な逸話によって、およその人となりが分ろう。そのくらい直言厲語して憚らぬ人だから、その話を聞く者を感化すること至大であったので、この『葉隠』の記事には石田一鼎の言説が少からず入っているに違いないと言われる。もとより今からでは、それを区別して拾い出すことのできないこと、およそプラトンの諸著書に投影しているソクラテスの思想が、推察判断以外に、分ちにくいのと同じである。

 いま一人は湛然和尚で、鍋島家菩提寺の高伝寺の住職であったが、藩主光茂に直訴したため死罪になった仲間の僧の命乞いをして拒絶せられたため、憤然、寺を去り、藩主の再三の呼び戻しも避けて、自ら好んで禁足蟄居すること十三年に及んだ。山本常朝はこれを敬慕し、彼によって自分も出家しようとして留められたくらいだから、この薫染もまた深かったと言わなくてはならない。

二 鍋島の死に気ちがい

ページ画像

 だから繰り返して細密に言えば、『葉隠』は石田一鼎、湛然和尚、山本常朝、田代陣基の四人の合作になると言うべきである。彼らの履歴は、前章の如く、ただ僅かに一筆書きにした例だけでも想像がつく通り、一癖も二癖もある面魂の持ち主の寄り合いだから、その著書も尋常一様ならぬ厳烈苛辣の調子を帯びている。

 「夜隠の閑談」は先ず「御家来としては、国学心掛くべきことなり」とある。この国学とは後世の本居宣長などの唱えた和学、日本史学のことではなくて、竜造寺、それを継承した鍋島家の治める佐賀だけの、後で言う藩に限られたことを指しているのである。そして先祖代々の武功を語って、よそ者の功績はどんなに偉大顕著であろうと、我が藩とは関係がない。「釈迦も、孔子も、楠木も、信玄も、終に竜造寺、鍋島に被官かけられ候儀、之れ無く候へば、当家の風には叶ひ申さず候。」という極端な排他的自藩主義は、今ならファナティックなナショナリズムに似ている。そういえば、この口吻にヒットラーの演説を思わせる癇高すぎる調子がある。そして次の文句で結んでいる。

我れ等が一流の誓願

一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事

一、主君の御用に立つべき事

一、親に孝行仕るべき事

一、大慈悲をおこし人の為になるべき事

とあり、これだけなら、格別、特異の点はないが、付注するが如くに、こう言っている。

武士道は、死狂ひなり。一人の殺害を、数十人して仕かぬるものと、直茂公も仰せられ候。本気にては、大業はならず。気違ひになつて、死狂ひするまでなり。……此の中に、忠孝は自らこもるものなり。 (『鍋島論語葉隠』 五四頁)

他藩の者が佐賀武士を見て、「死に気ちがい」と称したのも、こうした語句から出たのであろう。殊に山本常朝の赤穂義士復讐を評した言葉は、有名である。

浅野殿浪人夜討……主を討せて敵を討つ事延々也、若し其中に吉良殿病死の時は残念千万なり、上方衆は知恵かしこき故、褒めらるる仕様は上手なれ共、長崎喧嘩の様に無分別する事はならぬなり。 (同書 三六頁)

すなわち企画を嘲り、慎重を貶し、いわば無茶苦茶宣言たるに等しい。以上、たとえ片鱗でも、以て一班を推すべく、大隈の如き人がこれを閑却し、冷評し、反抗するは当然である。しかしながらこれが大隈の成長に全く無関係、無影響と考えたら、甚だしい速断である。

三 黒頭巾の批評

ページ画像

 明治・大正の有名な批評家に黒頭巾というのがある。文学士横山健堂のことで、長州に生れながら長州と競敵の薩摩の西郷兄弟を伝し、また長州と反目した佐賀にも興味を抱いて記した「葉隠集と大隈侯」の一文がある。

葉隠集には機軸あり、識見あり。信仰あり。絶大なる反抗の気力の高潮に達せるものあり。禅僧的の剣気あり。覚悟あり。而して民族的気焔あり。戦国策的の機略あり。此の書を見れば、侯大隈といふ異材を生じたる地味を知るを得る。

侯大隈は、口を開けば閑叟公を語る。閑叟公を語るは葉隠集を語る所以なり。先年、伯副島も屢葉隠集を口にせり。此の二人者は、全然、反対の色彩を鮮かに映発せる人格を具す。然れども此の二人者は、維新以来、佐賀人物の巨擘たる者なり。而して葉隠集は、佐賀の人物を陶冶し鋳出せる坩堝ならずんばあらず。

葉隠集を読めば、忽然として侯大隈を憶ふ。彼は、恐らくは佐賀人の最大なるもの也。而して彼は、必ずしも葉隠集の全豹を得たるものには非ず。彼よりも、より多く、葉隠集の面目を伝へたる者は、尚ほ他に有るやも知れず。然れども其の葉隠集と共鳴する部分を尤も鮮やかに発揮しつつあるものは則ち彼を推さずんばあらず。

五百羅漢を精見すれば、父祖の面貌、皆、其の中に在りといへり。葉隠集を読めば、侯大隈の人格風貌、一々其の中に指点する事を得可し。吾輩は謂ふ、侯大隈の人物を闡明せんとする者は、必ずや葉隠集を見ざる可らず。未だ彼を識らざる者も、葉隠集を読めば、則ち彼の人物を想像するを得可し。

世間、有用の書にして多く識られざるもの少からず。葉隠集の如きは其の一也。此書は、啻に佐賀と侯大隈を説明す可きのみならず。また以て、吾が武士道に於ける一大傑作として推称す可きなり。 (『鍋島論語葉隠』附録 五四五―五四六頁)

 もし大隈重信の最も著しき特色を言えば、七転八倒しても決して挫折せぬことである。薩長の藩閥的背景に恵まれぬ彼は、蹉跌して逆境に沈淪したること数度に及び、普通の者なら再起は困難な場合も、彼は前に倍した力を以て盛り返してくる。『葉隠』に「蝮蛇は七度焼きても本体に返る」の語があるが、陽気な性格で、天空海濶の風ある大隈の性格は毒悪な腹蛇的な性格には最も遠いが、叩いても、焼いても、死なぬ執着は頗る似ている。

 これを明治政治史の実績に徴すると、初め盟友の伊藤と組みて、鉄道敷設に着手し、英国に国債を募ったのを国辱と言って国論が沸騰すると、伊藤は巧みに逃げて、岩倉具視の条約改正使節に従って米欧に巡遊し、大隈一人が、貧乏籤を引いて、満身に世の非難を浴びながら、遂に初志を貫いて完成に持ち込んだのが、明治五年の我が国最初の鉄道開通式である。更に自由民権運動の勃興に面しては、同じく伊藤博文、井上馨に、福沢諭吉を加え、四人で血を啜るばかりに盟約して、憲法政治の確立を誓うたが、薩長藩閥の圧力が加わると、伊藤・井上はそれに恐怖して逃避し、大隈一人を犠牲にして、一種のクーデターを以て彼を廟堂から追放した。しかし大隈は野に投げ出され、両翼をもがれた鳥のようになっても、なお鷙鳥の如く対捍の気を捨てず、改進党を起して、優に政府の一敵国をなした。

 既にして、新内閣制度を独占した薩長政府は、条約改正で二進も三進もゆかぬ難局に面し、大隈の起用以外に策なきを知って、彼を外務大臣に迎えて、その衝に当らせた。そうしてできた大隈の案は、従来の藩閥案を基礎として、これに数歩を進め、殊に伊藤・井上には十分の了解を得て、その支持の約を取りつけてあったのだが、たまたま一時の便法として外国人を帰化させて裁判官に据えるという一条が、ロンドン『タイムズ』のスクープを通じて巷間に洩れると、激しい民論の反撃に会い、これに狼狽した伊藤・井上は、忽ち大隈に背を向けて反対側に回って、激しい非難を浴びせかけ、大隈は遂に爆弾を投ぜられて隻脚を失うの奇禍さえ生じた。

 それでも懲りず、伊藤が藩閥政府の限界を知って、将来は政党政治の必至を認め、大隈・板垣を後継内閣に推薦すると、官僚の陰謀怠業その他で成功せぬことは予想できぬではないのに、大隈がまた、のこのこと出掛けてこれを受けたのは、人が好いのか、失敗に不感症なのか、政治が好きなのか、一ぺん総理大臣になってみたかったのか、いろいろな事情が錯綜するであろうが、やはり『葉隠』にいう「蝮蛇は七度焼きても本体に返る」の執念の顕現で、十四年政変に失脚の原因となった薩長藩閥政府の裏切り、疎外、迫害、反撃などあらゆる抵抗を排して、何度も同じことを繰り返すのは、『葉隠』に「七度浪人せざれば、真の奉公人にては無し。七顚八起といふ事あれば、よしや一度二度の浪人に、君を恨み、他を狭むる可らず。」とあるのに応ずるものである。

四 早稲田の学校タイプ

ページ画像

 華々しくもあるが、悲劇的でもある大隈の政治的生涯に、『葉隠』精神の隠約として纏綿すること、以上の如くだが、然らば彼の偉大な生涯の、政治以外の他の反面、教育の上には、これがどういう関係を持っているであろうか。

 教育は、その最も原始的な形態としては、アメリカ開拓の際の如く、まだ校舎もなく、設備もなく、樹陰に教授一人、生徒一人、或いは数人で、学問が授受された姿であろう。そのようなのが今日のハーヴァード大学以下の初期設立の数大学の基礎をなしたと言われる。我が国に例をとれば、一蘭学書生の福沢諭吉が、江戸水辺の鉄砲洲に設けた小さな私塾が、その先見と、明識と、熱誠とによって、次第に今日の慶応義塾に発展し、日本の新学問の鼻祖をなした形に似ている。

 もう一つの型は、薩摩の私学校で、筆頭参議・陸軍大将で、位人臣を極めた西郷隆盛が、一朝征韓論に破れると、故山に帰臥し、彼を崇拝する青年子弟が初めから集団的に集まって、特殊な学園が開けた。薩摩故老の語り伝えるところによれば、その私学校では、非凡の英才が入ってきて学識ややもすれば教師を凌ぐと、「あれはできすぎる」と称して試験の採点を減じたということである。学問より人間を重しとする朴訥の風がほほ笑ましい。

 早稲田大学は慶応義塾の盟校だが、発生の形は、西郷と同じく筆頭参議の地位にあった大隈が、一朝、貶斥せられて野に下り、その上で江湖に広く学生を募集して始めた仕事で、どちらかと言うと、西郷私学校型である。中央政府は好んで、第二の西郷私学校と宣伝し、世間の不安と憎悪と警戒をここに集めようと策謀した。しかもその効果がないと知ると、校内に学生としてスパイを入れ、教授の出入りに制限を加え、銀行に手を回して金融の路をとざし、法科をむしり取って、学校の潰滅を策するなど、あらゆる奸計と策略を用いたこと後述の如くである。しかし大隈は如何なる悲境に追い込まれても、決して弱音を吐かず、滅入らず、悄気ず、絶望せず、泰然自若として再起の機を窺い、またいつの場合も、間隔の長短はあれ、再起に成功し、殊に数え七十六歳にして第二次内閣を組織し、有終の美を飾るに近かったのは、本人自ら意識するとしないに拘らず、『葉隠』精神の顕揚した趣がある(この学校設立に関係した委曲の事情は、本史の次編以下が語るであろう)。

五 大隈の『葉隠』観の変遷

ページ画像

 『葉隠』は元来、筆記者の田代陣基が「咄しの儘に書き付け候へば、他見の末にては意恨悪事にも可成候間、堅く火中仕るべくと返す返す申し候也。」と巻頭に記しているのに随っていれば、烏有書となって伝わっておらぬのが建て前である。しかし一寸の虫にも五分の魂の精神は断じて死滅せず、佐賀藩を代表する本書は、焚滅されずに筆写で伝わった。浩翰の著作だから、各筆者、最も心を打たるる章節を抽出し、それは多く共通するので、いつの間にか『葉隠』精神と称する星雲状態の思想が固まってきて、久しく鍋島藩の士風を培うてきた。

 しかし幕末、急進の洋学青年の大隈、副島、江藤(新平)などがこぞってこれを無視し、反対し、しかもこの徒が中央政府に勢力を占めて、いわゆる薩長土肥の形成を致すと、旧藩学精神の『葉隠』については、またこれを口にする者なく、天下久しく知らないままに過ぎた。たまたま日露戦争の大勝に応じ、武士道の勃興とともに、漸くこれに着目する者を生じ、不完全なる抄出本が現れた。これは明治天皇の天覧をかたじけのうし、乃木大将の感読を得たものの、而も未だ大いに天下一般の認識を受けるに至るには、蓋しまだ遠かった。幸いにして福本日南の披読するとこうとなり、『中央公論』(明治四十年十月発行第二二年一〇号)に「葉隠」と題した記事が現れると、その発表舞台が最高級の総合雑誌であり、殊に筆者は流暢の名文と高達の批評で聞えている文人なので、忽ち天下に広く喧伝して、諸方面に多大の感動を与えた。『葉隠』を日本的に読書階級をして注目せしめたもの、或いはこの日南の一文だったと断じてよかろう。そして次第に機運が向いて、大正五年には『鍋島論語葉隠』が刊行せられ、これには大隈重信も援助を惜しまず、長序を与えて、この書のなる由来を叙し、その結論においてこう言った。

佐賀は五島二州の大守と迄発展し、其時収容した人物を以て闔藩を結合して其封境を鎖し、極端なる保守主義を取つたが、是は外来の惰風を排拒して内に発達力の充実を謀る為であつた。此の如きは頗る不自然の政略で、其効果の如何は我輩の疑問とする所であつたが、近時陸軍徴兵の実験に依るに紀律を守るに強いのは佐賀兵の異彩とされて居るといふ。之を真なりとすれば其等が全く鎖封の遺物とも見るべきであらう。兎もあれ此の如き鎖封の事情の為に著述が無い。有るも上木を嫌つたが為に次第に湮滅に帰したが、幸に此葉隠十一巻を存して居る、此度其湮滅を憂ひて全部の印行を企て、我輩に序文を求められたが、一隅に鎖固した葉隠を、今や世界に向つて発展しつつある日本に弘めんとするは時代後れの感あるやも知らぬけれども、それは皮相の見に過ぎぬ、精神上の学問に時代は無い。況んや本著の要諦は国民性を経とし外来文明を緯として其同化を勉むるに在るに於てをや、然らば此葉隠の齎す教訓は之を現代に施して顕著なる効化の有る可きを確信する、外国の遊惰なる風を排拒して内国の発達力を充実するの必要は古今を徹して一揆なる事を述べて此に掲ぐる。

 壮歳、意気盛んなる時、『葉隠』を偏狭奇怪なる藩教として、一概に軽蔑擯斥し去ったのに比すると、口吻のいささか変化しているのに驚くが、これ或いは「四十歳までの内はなるべく引取候て、……五十歳過ぎ候はでは、分別も落ちつき申すまじく候。」とある『葉隠』の中の談者山本常朝の「奉行根本」の一句に相当する心境の変化もあるだろう。しかし実際は、一部郷党が宝典として重んずる藩教の覆刻書に乞われた序だから、直言をほしいままにしこれを貶斥することを慎んだ点も大いにあるだろう。