明治十九年四月「勅令第十四号」を以て「小学校令」が公布され、小学校を分って尋常、高等の二等と定められたが、この頃、すなわち二十年には、尋常小学を四年で終了した者のうち、ごく少数の上級進学者(高等小学生)を除く一般家庭の子弟達はそのまま家事に従うか、それぞれの希望により他家に入って仕事を習ったものである。つまりこの世に生を享けて僅か十年間に、親達の庇護を受けながらも、将来に対処するための基礎教育を授けられたのである。俗諺に言う「這えば立て、立てば歩めの親心」の通り、親の慈愛の掌中に育てられているうちは大した障りはなかったが、自力で歩き出す時代に入ると、自らの不注意で脛や肱に傷をつけたり、思わぬ怪我をするものである。肉体的な損傷はあっても、精神的な苦痛はそれほどにも感じられないままに、独立後の十年、二十年には比べものにならないほど、楽しい夢のような非常に長い時間を過ごす。それが人生の幼年期というものである。
我が学苑の歴史の創成期も、大体はこの幼年期に似たものがある。大隈を父親とし、小野以下学苑創立に携わった人達の羽翼に温められていたからあまり怪我はしなかった。しかし外部から来る見えない圧力には、再三再四悩まされ続けて来た。或いはこのことが独特の早稲田精神、世に言う反骨精神を作り出す一因となっていたのかもしれない。根っからの強靱な魂がよく外圧に耐え、反発し、野性の声を上げながら闘い続けて来た。その意味では、長い長い十年の歩みであったとも言えよう。
それ故に、鳩山校長や高田早苗ら学苑関係者の感慨も一入深いものがあり、明治二十五年十月二十日、学苑創立十周年式典当日に行った式辞・報告・演説にも言外の意味が秘められ、会衆に強い感銘を与えるものがあった。第二次『中央学術雑誌』第七号(明治二十五年十一月十五日発行)の「東京専門学校記事」には、「東京専門学校創立十周年祝典」と題する小文があるに過ぎないが、同じ雑誌にこれを補う記事として各演説者の速記録がある。また十月二十七日号の『ジャパン・デイリー・メール』(Japan Daily Mail)紙にも同日の記事が掲載されているから、先ずその訳文を掲げておく。『メール』紙は明治二年十二月の創刊で、この種の新聞としては非常に歴史が古く、その後数回改題され、九年七月から本題の如くに定着した。報道、主張は公平穏健であるから記事は十分信用していい。
早稲田学校
本月二十、二十一日、専門学校で行われた同校創立十周年記念式典は、稀に見る規模のものだったという。開会は午後一時半と通知されていたが、その前に大学の同窓生、理事、評議員、学生―外部の客は招待されていなかった――一千名近くが、広い講堂に参集していた。同講堂は、昨年の初めに完成した新しい立派な建物の二階全体を占めているが、このような集会を開くことにより、その収容力が大いに立証された筈である。式典は鳩山博士の手によって開会された。博士は、大隈伯の子息、大隈氏が伯に代って司会する旨を述べた。大隈伯は度量の大きい同校の創設者であり、生みの親である。伯自身は、片足を爆破されて以来、階段の上がり下りが困難なため、残念ながら講堂で開かれるどんな集会にも出席できない。この点を別にしても、大隈二世は式の司会者として、特に適任者である。というのは、彼は一八八二年開校当時の校長だったからである。最初の演説者は、衆議院の著名な改進党議員、高田早苗氏であった。高田氏は専門学校の常任理事であり、かつて一年以上幹事を務めた。氏の素晴しい雄弁と立派な演説とは衆議院ではよく知られており、二十日に行った演説は聴衆に高く評価された。専門学校の卒業生から、日本帝国の首相か大審院長が出て欲しいものだと氏が言明した時、高い拍手が湧き起った。続いて氏は、これまでの成果から見て、専門学校は、編集者、弁護士、教師、哲学者、政治家、文学者として、国家の責任ある立場につく偉人達を作り出す場になりそうだと言明した。次に、校長の鳩山博士が愉快なユーモアに富んだ話をした。その後に田原教授が続いた。彼は過去十年間の統計を用いながら、有益な、よく筋の通った結論を下した。それから、第一期卒業生で『都新聞』の編集長、斎藤和太郎氏が巧妙且つ酒落気たっぷりな話をしたので、会場は絶えずどっという笑いと拍手で包まれた。学生代表、政治科の増子喜一郎氏が次の演説者だった。最適任者として選ばれたに違いないが、彼の滔々たる弁舌は、本人にとっても学校にとっても、大きな名誉となった。繁栄していく母校への愛校心が、演説の要旨となったのは当然である。専門学校が日本帝国の学校となり、卒業生が国家の指導者となって欲しいと彼が述べた時、明らかに聴衆も心の底から共感を示した。以上の演説が終った後、専門学校と大隈伯のために、心のこもった万歳が三唱された。中庭の見事な古木の下で供された野外の食事が、次の呼び物だった。それが終ると「理性の饗宴」が再開され、演説と朗読に移った。衆議院の改進党首脳、島田三郎氏も勿論姿を見せていた。十五分間ばかり、氏の際立った雄弁の才が披露され、聴衆を楽しませた。フレデリック・J・スタンレー師の話もあった。明らかに聴衆がかなり長い英語の演説を、通訳を必要とせず、理解しながら聞くことができたということは、注目に価する。この演説者が、「独立と自由が教育・政治制度の根底となっているアメリカが発見されたのは、四百年前のことであり、合衆国では十月二十一日にその記念日を国全体で祝っているが、その日は日本にも関係が深い。すなわち大隈が独立と自由の主義に則り専門学校を創設した教育上の記念日となっている。」と、歴史上の喜ばしい偶然について語った時、強い熱狂の渦が湧き起った。実際、政治的な話はいつも学生達には受けがいい。というのは、彼らは自らの生涯と、教育の恩人である政治指導者の生涯とを、否応なく結びつけてしまうからである。学生による演説、芝居の朗読などが夜遅くまで続いた。二十一日は軽い演芸や娯楽に当てられた。幾つかの演説から、次のような興味ある事実が引き出されたことを記しておく。――一八八二年十月二十〔一〕日専門学校は開校した。当時は、一つの小家屋からなり、六十八名の学生と七名の教師とで始まった。一八九二年十月二十〔一〕日には、四つの広い建物(そのうち一つは煉瓦造りの大建築物)が、絵のような広々とした土地に建ち、七百五十六名の学生と八十名の教員がいた。教員のうち約二十名の講師は、特殊課目について科外講義をしている。これまで専門科からは八百十七名の卒業生が、普通科からは三百四十三名の卒業生が出ている。その他に約千名の学生が授業に出席してきた。開校以来の首脳陣は、大隈伯、前島、秀島、山田、高田、天野、田原、小川、鳩山の諸氏である。
この『メール』紙の記事は演説の内容にまで触れ、特に翌日の記念祭の模様にまで及んでいる。従って、これだけでも一応式典の模様が知られるが、「東京専門学校記事」と照合し、更に高田早苗と田原栄との演説の梗概を、その速記録から摘出しておくことにする。これら両記録により先ず第一に気付く点は、鳩山校長が司会を大隈英麿に譲っていることと、高田に最初の演説者の地位を与えたこととである。『中央学術雑誌』には、簡単な校長式辞の速記があるが、鳩山が初代校長大隈英麿の面目を立てるとともに、学事報告を兼ねた学苑十年の歩みの回顧を学苑創設功労者である高田早苗の手に委ねたのは、謙虚な心構えからばかりではなく、実は彼が校長に就任して僅かに二ヵ年、実質的には何ら学苑の経営に触れていないのだから、当然その任でないことを自覚していたからであろう。従って式辞もまた内容に乏しく、お座なりの域を脱しなかった。これに比べ、高田早苗の演説は詳細に亘って東京専門学校の発展を跡づけ、その所由を叙し、将来の抱負と希望とを語って余すところがなかった。
諸君、私は此予て定めたる順序に依りまして、本校の沿革に付て……一場の御話を仕様と考へる。諸君も御承知の如くに十年間と云ふ歳月は、人の一生に取りましては、中々長いことである。……併しながら之を一ツの人種、又は一ツの国民、又は一ツのインスチユチユーシヨンの生涯に取りますれば、十年は決して長い歳月とは言はれないのである。英吉利の詩人のテニソンと云ふ人が申したるが如く、(Individual perishes while race survives!)即ち一個人は始終死んで参りまする間に、一人種と云ふ者は始終栄へて往くと云ふ。……学校の如き一ツのインスチユチユーシヨンが十年既に永続したと云ふ事柄は、即ち其の基礎が一ト先固まつたと云ふ証拠である。随分此の日本に起る所の学校の内で、一、二月にして倒れるも御座りませう。又一、二年にして倒れるも御座りませうが、既に十年と云ふ歳月を……経過しますれば、其の余力で以て又後十年を経過するで御座りませう。既に二十年を経過しますれば、其余力で以て又後三十年を経過するで御座りませう。故に十年と云ふ歳月を経過したと云ふことは、東京専門学校の基礎が一ト先固まつたのであると私は信ずるのである。……さうして見れば、此の十年期を諸君と共に此の学校の為めに祝するのは、決して徒らでない。祝す可き理由があつて祝すことであらうと思ふ。(満場大喝采)学校の古いのを申しますると、西洋各国にも随分古い学校がある。抑学校の……大学校の先祖と申しまするは、……ボロナの大学で、巴里の大学は耶蘇紀元千年に出来たと云ふ学校である。又英吉利に於けるヲツクスホルド、ケンブリツチの大学も古い大学で、ヲツクスホルドはアルフレツド大王の時に出来、ケンブリツチは夫れに少し後れて出来たが、共に千年近い歴史を持て居る学校である。東京専門学校の如きは、夫れに比べて見ると云ふと、孫であるか曾孫であるか分らぬ若い学校であるが、どうか我々の前に繁昌した所の、又今繁昌しつつある所のヲツクスホルドの如く、又はケンブリツチの如く、此の学校の数千年永続することを諸君と共に祈らなければならん。(喝采)扨此の学校の沿革を述べると云ふことで御座りますが、……沿革を述ぶる一番簡単な仕方と云ふは、創立の当時如何であつたか、今日は如何であるかと云ふことを比較するのである。
創立の当時と今日の有様と、其の両方の極端が分りますれば、其間必ず発達したに相違ないと云ふことが自ら分るから、如何にして発達したかと云ふことを、此に究める必要はなかろう。〔と、此の間大隈伯が試みた学校設立の計画、これに携わつた教師の氏名、小野梓の建学精神の説明などを行い、次いで〕併しながら其御話を致しませぬでも、其の当時と比べて今日は如何であるかと云ふことを比較して見ましたならば、十年の間に此の専門学校が発達したと云ふことが分るのである。先づ学科は如何であるかと言へば、当時の学科は政法理の三ツであつたのが、今日は邦語に政治科あり、法律科あり、行政科あり、又英語にも政治科あり、法律科あり、行政科あり、而して特に文学科なる者あり、之に附属する英語専修科あり、其の課程の多きことは実に創立当時の比類でないのである。又教員の数を申しますれば、創立の当時は僅に七八人の人数であつたのが、今日は増して政治科の教授に従事せらるる方々が十九人、法律科の教授に従事せらるる方々が二十人、文学科の教授に従事せらるる方々が十五人、専修英語科の教授に従事せらるる方々が十人、其他参考科の教授を合せて八十人と云ふのである。而して創立の当時生徒の数は八十人であつたのが今日は殆んど千人に垂んとして居る。又教師の数は八人であつたのが、今日は八十人になりまして、丁度創立当時の生徒の数と同じであると云ふのは、なんと諸君此の学校が発達したと云ふ一ツの証拠ではありますまいか。(満場大喝采)……併ながら之を大体引括めて申せば、此の専門学校は必要の時世に起つて必要の事を為す者であるから、扨は今日の如き盛大を致したと云ふより外にないのである。(喝采)扨学校の今日は実に盛んで御座りまするが、又将来に対して一言の冀望を述べて、此壇を退かなければならぬ。将来に対する冀望と云ふのは何であるか、第一に学校の土台と云ふ者は講師である。今日は既に講師其人を得て居ることで御座りますが、……此の学校の講師が総理大臣となられても、司法大臣、大審院長、若くは大状師となられても、又は爵位あり名誉ある大文学者となられても、夫れと之と合せて、総理大臣兼東京専門学校の講師、大審院長兼東京専門学校の講師、大状師兼東京専門学校の講師、男爵文学博士兼東京専門学校の講師と云ふやうな風に、世間に於て如何なる栄誉を荷ひ、如何なる高名の人となられても、合せて此の専門学校の授業を怠らず、此の専門学校の講師となつて居らるると云ふことを、此の学校の将来の為めに望まなければならんのである。(満場大喝采)又今一ツは、此の学校を既に得業せられた所の諸君、及び是れより得業せらるる所の諸君が、世間に於て如何に発達せらるるか、如何に立身出世せられるかと云ふことである。日本は早晩政党内閣になるに相違ないが、其の政党内閣になつた時には、少なくとも其の内閣の半分は、東京専門学校の得業生が其の地位を占められなければならん。(喝采)又少なくとも日本の裁判所の判事、検事、若くは大状師の過半は、東京専門学校の得業生が其の地位を占められなければならん。(喝采)又日本の文学者として、名小説を著はす人、大歴史を著はす人は、是亦東京専門学校の得業生が其人とならなければならんと云ふことを私は諸君に申して置く。……之を要するに、専門学校と云ふ者は、此先長しなへに栄へ栄へて、嘗てメール新聞が此の学校を評して、既に已に帝国に於ける一大勢力なりと言ひましたが、既に已に一大勢力なるや否や知らぬが、将来に於ては実に一大勢力とならねばならぬ。唯一の勢力となることを私は冀望するのである。……我が東京専門学校は先きにも申す如く、千代に八千代にさざれ石の磐となりて苔の蒸すまでも繁昌しなければならん、永続しなければならんが、夫れと共に本校の創立者である所の大隈伯爵の栄誉を後世に伝へると云ふことを、諸君と我々とは心掛けなければならん。苟も専門学校の得業生たり学生たる者は、此の専門学校を忘る可らざるは勿論、此の専門学校を創立せられたるは大隈伯であると云ふことを、須臾も忘れてはならぬことであると斯様に考へるのである。(喝采)而して此の大隈伯に尽すの道は他なし。益々此の学校を盛んにして、国家有用の人物を造り出し、此の日本帝国の為めに十分力を尽すことを私は諸君と共に爰に誓ひたいと考へまする。(満場喝采) (第二次『中央学術雑誌』第七号 一六―二二頁)
これに続いて、『メール』紙が「よく筋の通った結論を下した」と賞讃している田原栄の次のような演説があった。
諸君、本校創立の当時に於て大隈伯が講師に言はれましたのには、諸君は学問の独立と云ふことを実行せんが為めにこの学校に従事せらるるが、実に創立の際と云ひ今日の時勢にては之を実施すること極めて困難なことであらふ、前途容易なる尽力では其の目的を果すことは難からふが、去りながら諸君の功を積むこと十年に至らば其の成績を見て自ら慰むことがあるであらふ、と申されました。実に今日は此学校が十年を経過した佳辰で御座ります。其成績を見れば、果して伯爵の言の空しからざるを知ることで御座ります。今……其成績の一斑を読上げて見ませう。先づ各専門科得業生の総数が八百十七名、此他に普通英語科を卒業した者が三百七十三名、合計千百九十名の卒業生が御座ります。此他に文学科があつて、御承知の如く同科は一昨年の設立でありますから、今日は尚潜勢力の時期に属し、未だ得業生は出さぬであります。……尚又得業生の職業別〔の〕……取調に依れば、尤も之は二十四年の調査で、……新聞記者が八十七名、夫れから官吏公吏が五十七名、教員が三十九名、会社銀行員が五十八名、府県会議員が十六名、国会議員が一名、代言人が十四名、商業者が四十一名、農業者が十七名、工業者が六名、海外遊学者が五名、猶本校に在学せらるる者が二十四名で御座ります。……以上の職業上から推究しますれば、本校の得業生には三ツの特別なる性質があると思はれます。其れは着実と堅忍と統御とで、此三ツの事柄は本校得業生の特性として見るに足らふかと思はれます。……人と云ふ者は、他人を支配すると云ふ地位に至れば、格別第二流の地位にあつて徐々に取て代らふと云ふには、如何なる困難をも排除して其初志を遂ぐる迄は刻苦して進まなければ決して出来る者ではない。斯かる志気を有し、斯かる操行を顕はすは、則ち本校得業生の特色である独立の学問を修め得た結果に相違ありますまい。この志気と操行とを指して、私は早稲田志操と名を命して見たいと思ひます。(喝采)この早稲田志操なる者は、尋常一般の学校に出入すると云ふ丈けでは得られないのである。得業生が大に早稲田志操を世に及ぼさんには第二の故郷たる学校との連絡を結ばなければならんと云ふので、種々なる事業を残して去りました。……斯様に校友が学校と互に連絡を通して学校を思ふこと厚く、学校も亦其説を納れて進歩を謀ると云ふが如きは、皆彼の早稲田志操の発動と云ふの外はありますまい。(喝采)諸君、東京専門学校の得業生は、今や全国に徧く、地方到る所枢要の地位にあつて地方の思想を支配して居ります。既に地方の思想を支配して居る以上は、天下を支配して居ると言つて差支ないのである。(大喝采)……今後一年一年に学校の齢を重ねて、此先き二十周年の祝典を挙るの時になりましたならば、今日私が言ふ所の事実は益々著るしく、第一流の地位を占むる者が益益多くなつて、東京専門学校の得業生が社会の一大勢力となることであらふと思ひます。扨是より更らに学生諸君に付て一言致します。諸君は現に早稲田志操を涵養しつつある所の人々で、前途多望なることであります。本校には創立以来学生の習慣として幾多の学術研究会を設け、その会合の多きことは年中殆んど虚日なしと云ふ有様であります。斯く正科の傍ら演説会討論会を開いて自ら研究して居る学科の運用を講究するの便利、一学科の小区に制せられずして他学科を修めて居る人と一場に会して論議するが為め、一層智識を練磨するの便利、邦語専門科を修学する人も英語科を兼修するが故に泰西日新の学説を窺ふの便利等は、東京専門学校学生の特色を現はす原因であらふと思ひます。学生諸君、幸に此等の便利を活用して、他日大に早稲田志操を発揚せられんことを希望致します。
(第二次『中央学術雑誌』明治二十五年十二月二十日発行第八号 一九―二二頁)
なお、本校講師スタンレー(Frederick J. Stanley)の演説には、『メール』紙が紹介した点から更に進んで、我が寛仁なる君主と、盛運を誇る我が国の将来についてまで語られている。すなわちその「英語演説意訳」に、
諸君の為め更らに一言せんと欲するものあり。他なし。近来各国の趨勢を見るに、此の国を呼ぶに大日本の名称を以てせんとすること是れなり。ジャツパンと云へる名称は、三百年前葡国人が始めて此の国に到着せしとき日本の国名を聞き之を訛り伝へたるに過ぎず。今後はジャツパンと云へる葡人の訛称を取らず、大日本の美名を記されたし。大日本は実に東洋の、否世界の大(一番)日本たるを忘るべからず。 (同誌第七号 二三頁)
とあるのがそれである。この「日本」号呼称については、第二議会の時、浮田和民が高田早苗代議士の紹介により請願書を提出したことがあったが、学苑の同僚であり、しかも米国人であるスタンレーが同じ考えを披露したことは、大いに彼を勇気づけ、浮田をして次の「日本号に就て」という一文を寄書せしむるに至った。
我国の称号には異名種々あれども、其普通には日本てふ称号なるは何人も異議を挾む所に非ず。之を以て列代の天皇常に日本の号を用ゐられ、累代の国民亦日本を以て我国の固有名詞とせり。日本号の起原詳かならずと雖も、地理学上より云はば、実に日本たるに恥ぢず。聞く太平洋の中央に於て両日を区分すと。然らば日々東天に上るの太陽は、先づ我国を照して漸次西方に及び、欧米諸国を過ぎて一日を終はるが故に、日々の太陽は我国の東天に発すると云ふも誣言に非ず。是れ地理学上我国の「日の本」なるに符合するが故に、日本の称号は天地の創造と共に享有するの美名なり。昔し推古天皇使を支那帝に賜はりて曰く、「日出づる処の天子書を日没する所の天子に致す云々。」豈優ならずや。我列代の天皇は、日本の皇帝を以て外に対し、我累代の人民は日本人民を以て自ら居る。然るに現時の事情如何。何故に現時内外国人洋語を以てすればジヤツパンと称するか。一説によれば、日本の字支那語にて日本と云ひ、和蘭人日本を其国字にてJapanと書し、英米人は読むでジヤツパンと称するに至りしと云ふ。英語はジヤツパンと云て、和蘭語はヤツパンと云ふ。去ればジヤツパンとは、支那語より和蘭語に転じ、又英語に転ずるの間に訛変したる者にして、日本人自らの承諾す可きことに非ず。ジヤツパンとは漆の義なり、我国漆を産出すよりジヤツパンと称すとの説あり。此れ非なり。然るに、日本人が之を知らず喜んでジヤツパンと称し、ジヤパニーズと唱ひ、憲法を始めとして諸種の法律を英訳する場合、及び諸種の外交文書中に於て、及び学者の著書、私人間の往復、商品記号、其他一切の事に関しJapanの文字を用ゐ、固有名称たる日本の称号を用ゐず。聞く、露国人は、支那人又は日本人が魯西亜と認めたる文書を受けず。曰く、魯は愚鈍の意味なり云々。去るを以て魯に代ゆるに露を以てす。ロシヤをロシヤと云ふさえに字の如何を問ふこと斯の如し。訛伝の虚号を以て自ら甘んずるものの思想、予輩之を驚かずんば非ず。況んや我国、漆を産出するが故にジヤツパンと称するなりと云ふが如き説に於てをや。実に慨歎の至りに耐へざるなり。ニツポンと云ひ、ジヤツパンと云ふ、実体上に利害なかる可しと雖も、古来我国の固有名詞として用ゐ来れる、殊に天地の創造と共に享有したるの名号を捨つ可き理由なければ、今日の如き名義混乱の有様を一定し、我国は日本なり、英文にしてはNipponなり、と宇内に号令し、政府も人民も此固有名詞を用ふるに非ざれば外人と接せず、洋語を読まずと云ふの勇気あらんことを望むなり。 (第二次『中央学術雑誌』第七号 四六―四七頁)
本学苑が創立第十五周年記念式を挙行した明治三十年七月は、本大学史に一時代を画した重要な時期であった。僅か十五年の短日月に、将来本邦有数の大学に発展する基盤を作る、その驚くべき成長は、これを護り育てて来た人々の努力もさることながら、あらゆる困難に耐え、これを乗り切って来た、その強靱な学苑の精神を見逃すわけにはいかない。大隈はもはや市井の揣摩臆測を危惧することなく、堂々と式典に臨席した。設備を見ても、次章に詳述するように、既に二十年には定員増加に伴い、寄宿舎の一部を改造して講堂に使用し、翌年七月には寄宿舎二棟を増築して、甲乙丙丁の四塾を造り、一応舎生収容の設備は完了している。更に翌二十二年五月には大隈の寄進により煉瓦造り二階建の大講堂が竣成している。また二十九年三月十二日に早稲田尋常中学校が創立されるや、同二十日より向う五十日間、大講堂をこれに貸与し、中学校の開校に便宜を与えている。更に三十年三月には寄宿舎の一部を修築するとともに、新たに二棟を加え、かつては茗荷畑にその名を留めた都の西北に今や不朽の殿堂を建立したのである。
さて、明治三十年七月二十日。
この日こそ創立第十五周年祝典を兼ねて第十四回得業証書授与式が行われた記念日であった。朝来微雨があって校庭の木々の緑を色濃く染めなしたが、幸いにして正午頃、雲間を破って漏れる陽光は、水田を渡り来る清風さえ伴って、一瞬来会者に暑熱を忘れさせる感があった。校門は緑の大アーチに飾られ、万国旗は会場を彩り、紅白の幔幕は目もあやに張り巡らされていた。図書館と閲覧室は来賓や得業生およびその父兄保証人達の休憩所に当てられ、周囲の丘を埋め尽す緑樹に囲まれた校庭には、式後開かれるであろう祝宴の準備万端が整えられていた。今を時めく大隈外相が設立した学校の記念式に参加しようとする高官・貴顕・紳士が蝟集し、彼らが便乗する馬車は陸続として校門をくぐり、その整理配置は接待員の頭を悩ませた。来賓達には本校十五周年記念のために作られた一覧表が頒布されたから、待つ間の一時それに目を通し、本校の悠遠な建学の精神、異彩を放つ発展、数多い有名講師の布陣を一瞥して、感慨を新たにする者さえあった。三時四十分、鐘声を合図に、来賓、得業生、父兄、保証人、学生らが襟を正し粛々として入場する。
式は得業証書および各科優等生への賞品授与に始まった。この晴れの祝典を目前に控えながら校長鳩山和夫は病床に呻吟していたので、市島謙吉幹事がすべてを代行し、また鳩山校長の「得業生諸君に告ぐ」の訓辞をも代読した。鳩山の式辞は簡にして要を得たものであるが、ここではその一部を摘出し、国家の将来を新得業生に期待すること切なるもののある点を記すに止めておく。
私に惟みるに、我日本帝国の盛名は東西列国に嘖々たりと雖も、我輩の平生憂ふる所は、徒らに虚名の高くして実行の之に副はざるにあり。今や我国は欧米先進国と対等の条約を締結して、内地雑居の期は目前に逼れり。此時に於て上下人民の準備充分ならず、異人外客の為に軽侮凌辱を招くが如きあらば、祖宗万年の業を廃して子孫百世の患を遺すものなり。而して之を未然に救ふは、実に現在国民の責任なりとす。而して諸君の学力と智識とは、此の責務を尽すに足れりと信ず。
(『早稲田学報』明治三十年七月発行第五号 一〇三頁)
これに対し得業生総代埴原正直が答辞を述べた。埴原は山梨県人で、後アメリカ大使となり、大正十三年、排日移民法が議会で討議された時「重大なる結果」(grave consequences)の一語で全米を聳動させた胆力ある人であったが、栴檀は双葉より芳しと言うか、この時既に英語政治科優等首席の栄誉をかち得て総代に抜擢されたのであった。しかし一般に式辞や答辞は紋切り形のものが多く、埴原の答辞もこの点では特に異色ありとは言い得なかった。要は講師諸氏の薫陶を謝し、現実の重大な時局を顧みて、建学の精神を将来に生かさんことを誓うのであった。
これに続いて市島幹事は例年の通り学事報告を行い、特に新旧両態勢を比較して感慨無量のものあることを吐露し、過去十五年間、敢えて都外の僻地に居を構え、俗人の非難と政府の圧力に耐え忍びながら、堅実な足取りを続けて来たその跡を顧みるに十分であった。彼は言う。
開校当初の学生の数は如何と云うに、僅かに八十名。然るに近く本年入学致しましたる学生の数は五百三十五名で、現在学生の総数は一千名に垂んとし、校外生は五千名近くもあります。講師の数の如きも、開校の頃は僅々七、八名位さえなかつたが、今や八十名計あり、此の外課外講師といふのが七十名計あります……。昨年までの得業生が一千六百三十三名今日得業証書を与へました分が百三十八名。之れを通計しますと、十七年以降の得業生総数は一千七百七十一名となります。……此得業生は如何なる職業にありつき居るかと云うに、……最も多いのが銀行会社員で百三十四人、其次が新聞記者で百二十五人、司法弁護士九十五名、行政官七十七名之れに次ぎ、教育家五十五名又之れに次ぐと云ふ次第で、一々は申しませんが此他には貴衆両院の議員、帝国大学外国大学の卒業も可なりありまする。 (同誌同号 一〇六―一〇七頁)
市島は更に言をついで、講義録、図書館、中学校の創設など、一連の関係事項について述べ、最後に一言、中学校と専門諸科との間に高等予備科を設ける必要があることを示唆し、専任講師をして学科担任、教務担任の教育改革を行わしめる用意があることを述べて、言を結んだ。
このあと校友会総代渡辺亨の簡単な祝辞があった後、いよいよ当日最高の貴賓、貴族院議長近衛篤麿公爵が大隈伯夫妻に一揖して登壇した。近衛は五摂家の筆頭として天皇の信頼最も厚かった人で、明治政界始まって以来の最大のホープであった。伊藤博文もまた早くから彼に属目し、彼がヨーロッパ留学から帰国すると、逸速く彼との提携を懇望した。しかし、彼はこれを振切って大隈陣営に接近していった。さて彼のこの日の演題は「方今の二大弊を説て卒業生諸君に告ぐ」とあるが如く、得業生に対する訓辞であって、式典の祝詞ではなかった。すなわち彼は冒頭において、「卒業生諸君に向つて私が御話を致したいと思ひますることは、今日の社会の情況に付て聊か私が慨嘆に堪へぬことがあります。さう云ふことを一つ二つ申したら、是から社会に現はれやうといふ諸君の万一の御参考にもならうかといふ〔老〕婆心であります。」と断っている。彼が説いたところを要約すると、一、徳義の頽廃、二、元気の阻喪という二点であった。前者については、当今の時代ほど徳義頽廃の甚だしきものがないとし、公吏が涜職し、議員が節を売り、ひいてはこの気風が一般社会にまで及び、「淫靡醜怪」の風聞を頻繁に耳にするという。また後者については、戦勝の夢漸く醒めたとはいえ、その余弊は産業界、金融界にまで及び、元気の阻喪は政界までも毒し、政論は等閑に付せられて、離間中傷の場に化してしまったと慨歎している。これがためには是非とも卒業生諸君が気力を奮い、この両者の弊害を打破してもらいたいと望み、最後に「此の如き妙な浮世話のやうなことを此祝すべき式場で述べるといふことは嫌ふべきでありますけれども、唯諸君が是から世に立つて仕事をせらるる場合に幾らかの御参考にもといふ考で此意見を述べた次第であります。」と所感を述べて、青年の奮起を促した(『早稲田学報』明治三十年八月発行第六号 一―六頁)。
最後に登壇した大隈の演説は、さすがに弁論の雄と自他共に許すほど、一きわ光彩を放つものがあった。壇上の背後に、近衛貴族院議長、蜂須賀茂韶文相、浜尾新帝大総長、武富・尾崎両参事官、箕浦・高田両局長、その他貴衆両院議員、有名財界人が綺羅星の如く着席する中を、隻脚に松葉杖の助けを借りて講壇に歩みよる大隈の足取りは心なしか痛ましい感じはあったが、今を時めく外務大臣の満堂を圧する貫禄は十分であった。「東京専門学校十五周年祝典に於て」という演題の下になされた大隈の演説は、卒業生に向って十五周年祝典についてその心情を吐露したものである。ところで演説中にも述べられているように、大隈は本校創立以来初めてその講壇に立ったのである。大隈は芯の強さを持っていたから、寸尺の間に校門を眺め続けた十五年間はそれほど長かったとは思えないが、それでも相当の忍耐を必要としたことであろう。
大隈の卒業生に対する訓辞は数分で済んだが、爾後の祝辞は延々時余に及んだ。大隈としては、この際思いの丈を十分に言い尽したかったのであろう。この演説は実に歴史的名演説であるが、特に重要な条々だけを摘記しておく。>それから専門学校の十五年の祝典といふことに付て少しく既往に遡つて申します。是は今ま市島君から大略の報告がありましたけれども、未だ尽さぬ所があるに依つて、且つ幸ひ爰には文部大臣、或は近衛公爵、其他大学の校長、教育家、文学家、宗教家或は政治家、どうも見渡すと、先づ凡そ社会に於てアラユル勢力のある御方が御集まりになつたといふことは、容易にないことでありますからして、又学生諸君も十五年前のことは御存知ないこともあるかも知れませぬに依つて、此学校の創立に付ての私の理想を御話致し、さうして此学校が如何なる勢力を社会に持つたか、又其間如何なる境遇を経て来たか、而して今日に於て将来に対する如何なる希望を持つて居るかといふことを極く手短に御話しやうと思ふ。
(『早稲田学報』第五号 二―三頁)
と述べた大隈は次に開国後の西洋文明の輸入を語り、一転してロシアではその国語を以て国民を教育している現状を述べ、更に一転して国内における国語改良論に及んだ。
それ故に私は、決して今日の如何なる高尚の学問も日本の文字と言葉で言直すことが出来ぬ道理はないと思ふ。それ故に、十分に学者達がそこに力を致したならば、必らず日本の学問は、アラユル教科書、皆日本の文字で、而して日本語で講義をすることが出来る。それから進んで著述をし、或は又無いと云ふものは翻訳をすれば必らず出来ることと考へたから、乃ち私は、学問の独立といふことを大胆にも唱へたのである。……それならば何ぜ英語を教へるかといふ論があるかも知れぬが、是は今日でも亦将来にも、此英語其他の学問を多少やるのは必要である。彼の欧羅巴人でも希臘、羅甸をやるのが必要であると同じく、学問の研究の為めには随分此外国の言葉を学ぶといふ必要は、今日でも又将来でもある。学問の充分にし、独立した上にもある。それから其時の考には、此理科といふものを入れた。是も理科、物理学は、私はどうしても学問の土台となるものと考へたんだ。所が、此私立学校で就中此理科にはどうも余まり社会が注意して呉れぬ。さうして中々理科は金が要る。入費が要る。どうも貧乏なる学校では続かぬ。それから教師が宜う来て呉れぬ。そこで此理科は、先刻御話する通り初陣に失敗をしたのだ。此理科の失敗は千歳の遺憾である。理科所ではない。それから工科も矢張りやられなかつた。即ち此の邦語でやるといふ大胆な企は、先づ始めは政治法律、それと理科といふものを置いた。中々工科とか其他のものへ及ぶ所ではない。先づさう云ふ目的で之れが始まつたのである。……其為めに学問の独立、偶然にも小野梓君といふ豪い熱心な人、其他の諸君が賛成されたから、それで以て此学校が出来たのであります。それを世間はどう云ふ誤解をしたか、私は政治上に関係があるから、政治上の目的を以て政治上に使用しやうといふが如き誤解だ。……私は、学校に就ては一点の私心はない。御覧なさい、学校の諸君の顔を皆知らない。私に陰謀があるなら諸君の所へ来て話をするなり演説をするなりするが、実は私は五月蠅いから学校へ来て構はない。私は余程奮発して之を造つたのであるが、今日始めて此講堂へ参つた位である。実に私は淡泊な考、何故に来ないかといふに、世間で疑惑を致さぬやうに遠かつて居るのだ。世間で云ふアレは大隈の学校だ、大隈はひどい奴だ、陰険な奴だといふやうなことを言ふ。甚だ迷惑千万。……そこで一時は教員の不足に余程困つた。決して私はさう云ふ考はございませぬが、何でも此創立以来熱心なる諸君の尽力に依つて今日に至つたが、今日では稍々此誤解は解けて来たやうに見へる。
……さう云ふ訳だから、此学校は決して一人のものではない。国のものである。社会のものである。所が、それならば何ぜ文部省がしないかといふに、茲に文部大臣も御出だが、文部省でさう何から何まで出来るものではない。それで時々国家も病気してどうかすると一方に走る。それで何でも私立で権力の下に支配されずして、さうして独立して意の向ふ所に赴くが必要。元来、私立学校から大政治家、大国法家又は大宗教家も起る。そこで此私立は矢張り必要である。決して是は大隈のものではない。併乍ら、勿論私も是迄幾らか学校の為め力を尽したに違ひない。学校は寺みたいなものだ。私は檀家だ。檀家として大きな檀家であつたに相違ない。貧乏寺の檀家に過ぎない。……此学校のやうな貧乏な御寺は、沢山檀家を拵へることが必要だ。是迄は大隈の寺であると言はれて居つたが、決してさうではない。そこで此学校といふものは、一体生産的のものではない。金を使ひ潰す所であるから、檀家を沢山拵へてそこから養銭をドンドン寄進しなければならぬのである。どうか其点を十分会得して御貰らい申して、私の従来の希望は少し大胆な企てのやうであるが、どうも此学問の独立を見たいといふことである。之が聊かでも其効が現はれたなれば、国家に対して我々は甚だ喜ぶ所である。それからどうも是が一歩進んで大学とまでならずとも、大学に近い、……或は大学となるか知らぬが、学科を段々殖やして往くといふことの出来るやうになつたならば、私の充分満足する所、又社会に対しても非常の面目、又此学校の校友或は学生諸君に於ても甚だ栄誉とする所である。どうか然かることを望むのである。 (『早稲田学報』第五号 六―一一頁)
説き来たり説き去る大隈の言葉はその片言隻語さえ、あたかも慈父が我が子に教えを垂れる如く、或いは東西文明の交流を語るかと見れば、翻って明治初世の文化の様相を述べ、身を草莽の間において寧日がなかった時代を回顧して学問の必要を説き、体験を通じて感得した建学の精神を基とし、生れるべくして生れた専門学校草創時代の苦難を噛みしめながらも、将来に対する大きな希望を宣明している。諧謔を交え、会衆をして失笑爆笑のうちに巻き込むことがあったとしても、大隈の胸中を去来したものは、恐らく涙を秘めた幾つかの思い出であったろう。だが大隈の希望は大きかった。創立当時、理学科の設置とその発展は実現しなかったが、決して諦めなかった。漸く壮年に達した明治の文化は、更に開発されなければならない分野が待ち設けていた。それには是非とも理工学の力を借りなければならない。そのためにも学苑諸施設の増強が要望された。大学への昇格という彼の構想は後章において詳述するが、この演説の締めくくりの中にその片鱗が示されている。しかもそれは私立大学としてである。官製大学のなし得ないことを実現しようとするのである。大隈外相がその専門とする外交以外に、松方内閣の各閣僚を説得し、この雄大な文化政策を打ち出すように所期したのは、ただにこの式典に列席した学生、卒業生、校友達のみではなかったろう。
大隈が意外にも本校創立以来十五年にして初めて登校し演壇に立ったこと、そうして学苑の近き将来を示唆した点、これだけでも、この祝典は大きな成果を挙げたと言っても過言ではなかろう。
大隈の演説を最後として証書授与式および十五周年祝典は終り、卒業生の父兄保証人および学生一同は、校内に設けられた宴席に列し、茶菓酒肴の饗応を受けた。また来賓および得業生達は、広大な大隈邸庭園の緑樹の陰に三々五五相集い立食の饗応に打ち興じ、大隈もまたその間を縫って賓客と歓語、談笑を重ねた。創立者の一人として学苑開設当時辛酸を共にし、この頃は『静岡民友新聞』で健筆を呵し、正論の雄として天下に重きをなしていた山田一郎は、往年の苦衷を述べて祝辞としたが、その一節で、
時運駸々天人の与みする所、以て能く我東京専門学校をして完全なる私立大学校たらしめ、而して能く老朽腐敗世を誤り、人を傷ふの教育機関を矯正打破するの大任を完ふされんことを。 (『早稲田学報』第五号 一一四頁)
と切望した。山田もまたいつの日にか、本校が一大私立大学として、曲学阿世の徒を駆逐することを期待していた。「東京専門学校記事」は、その記事を閉じるに当って、至極ユーモラスな、しかし傾聴に値する一文を草している。
山田氏の朗読僅かに終はるや、見上ぐる如き大坊主の大隈伯指して進む者あり。是京童に外山の天狗と謡はるる文学博士外山正一氏なり。氏は伯に近づくやダミ声高く呼て曰く、専門学校もナカナカ盛になりました。此勢では大学になるも遠くはありますまいと。伯は破顔一笑声に応じて答へて曰く、左ればなり。京都に京都帝国大学が出来て官立の大学が日本に二つ出来た。慶応義塾が私立大学じやと申すことだから、専門学校も近々私立大学と為つて私立大学も二つに為るがよいと。善哉伯の言や。予輩は、慶応義塾が果して完全なる大学組織を成せるや否を知らずと雖も、我校にして苟くも私立大学と為らんと欲せば、必ず其組織を完全にして名実共に日本の一大私立大学と為し、以て学問の独立を保ち、真正の学者人材を出だして国家に補益する所あらんこと、予輩の切望して止まざる所なり。 (同誌同号 一一四|一一五頁)
盛夏の日ざしがたとえ長かろうとも、四時の開式からはかなりの時間が経過し、青田に遊ぶ蛙の声に誘われて、薄暮まさに至らんとする頃になったので、名残りを惜しみながらも漸く帰路を急ぐ者の数が増していった。因にこの日、記帳を済ませた来賓は、旧講師および現講師を含めて二百七十九名に達し、得業生百三十八名、これに父兄保証人ならびに在校生を加算すると、盛典に参加した者は千名を超えたかもしれないのである。