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第三編 東京専門学校時代後期

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第十七章 心のふるさと

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 今日、国内の大学、短期大学等で歌われている校歌の数はおよそ千にも上るが、歌詞流麗、曲想雄渾なるものとして、我が大学校歌(明治四十年制定)の右に出るものはなかろう。大学が指向する雄大な抱負は、第一、第二の両節に繰り返し歌われている「久遠の理想」の一句でいみじくも言い尽されているが、既に校門から去った者も、また今在る者も、こよなく愛着を覚えるものは、「心の故郷」という一句で象徴された我が学舎であり、思い出の庭である。

 作詞者相馬昌治(御風、三十九年文学科卒)は「校歌の由来」と題して、その思い出を次のように語っている。

大体出来上つた上で、島村先生に見ていただき、更にすつかり出来上つた上で、坪内先生に充分お筆を加へて頂きました。数ケ所なほして頂いたやうに記憶してゐます。その時坪内先生からも、又他の先生からも、三節目の「心の故郷」といふ言葉が非常にいいと褒めていただいた事を今でも忘れません。 (『早稲田学報』昭和三年一月発行第三九五号 二六頁)

御風もまた苦吟旬日にして、この一句を挿入した時の感激は、前掲の行間に躍動しているように思われる。作者既にしかりとすれば、これを歌う者もまた、「コ、コ、ロ、ノ」と断続するリズムにのって、歌い奏する時、血潮の高鳴るのを抑えることはできないだろう。そうしてここに学ぶ者、教える者はもとより、「ふるさとは遠くにありて思うもの」と歌われた如く、遠くにあればあるほど、心の故郷はなつかしきものと、郷愁に似たものさえ感ずるのである。『早稲田学報』は、大正十四年五月から昭和三年十二月まで、「趣味と回顧」「早稲田在学中に於ける忘れられぬ印象」「思ひ出の早稲田」等の題名で、一連の思い出を古老達に求めて連載した。回答には二、三行の簡潔なものもあれば、二、三頁に及ぶ長編のものもあり、或いは重複するような記事も見受けられるが、今それらを整理総合して、ありし日の「心の故郷」を描写してみよう。

一 景観

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 明治二十七年、島村抱月中島半次郎、後藤宙外らが編集委員になり、卒業を記念するため『同窓記念録』を出版した。その中に、島村抱月が「四季志」という題で学苑周辺の景観を名文を以て記述している文章が伝えられている。

東京専門学校の地位、背後は一層の高地にして半面に竹叢を負ひ、半面に茶園を控ふ。卯の花くだし降りしきる頃、茶摘女が雨に濡れつつ謡ふ鄙歌、時に取りて如何ばかりをかしかりしぞ。前には幾畝の稲田を隔てて、目白台白山台と相対す。春風〔駘〕蕩として田甫路に嫁菜土筆の萠ゆる頃、垂髫乙女の若菜摘む袖に、胡蝶の翻へる風情、今も目に観る心地す。夏は梧の葉越し希れに吹く清風に教室の窓の小さきを嘆きしこともあり。秋日課を終へて門を出れば、夕陽穴八幡の森に残りて、大隈邸外の白堊に茜を引く門の右手なる電柱に合ひ合ひ傘の落書、誰れも見忘れざるべく、冬は教室に暖炉なき不平の数々、さては課余講師席の火鉢に蝟集しての放談雑話、何れか永く追懐の料たらざらんや。嗚呼専門学校、願くは春秋と共に天地と共に悠久なれかし。 (『早稲田学報』昭和三年二月発行第三九六号 二六頁)

 この他、学生の筆になるもので、早稲田周辺の名所を記述したものが多く、二十五年頃の学生は、これを都心の雑踏と対比し、更にその地にある学生との勉学の優劣にまで及んでいるものがある。例えば『同攻会雑誌』第十一号(明治二十五年二月発行)所載の、田舎漢記「説早稲田地形与青年諸君」や、滄浪一漁夫生記「東京専門学校並に講師生徒の概評」などがその良き例で、殊に後者は美辞麗句を連ねて、本校学生の気概を窺い知るものがあるから、ここに摘記してみよう。

巍々として雲に入るの幾多の講堂には、七十余名の講師と、千余の学生と、席を連ねり。外は天然の大公園にして、桜花は歴爛として、李花は香しく、圃に黄なるは菜花にして、其紫なるは豆花なり。川に倚りて垂柳緑りに、堤に傍ふて白鷺眠る。黄鳥は花問に囀ずり、雲井遙かに啼き昇る雲雀は、天女の楽を奏するかと怪しまる。夕を告ぐる護国寺の鐘は、戸山に響く暮笳と混ぜり。況んや芭蕉庵の春霞、姿見橋の碧流、乃至其穴八幡水稲荷の月痕細雨に至ては、エデンの花園も、豈に此楽土にしかめやも。過去現在此の如し。未来永劫亦此の如くならんのみ。若し余の言を信ぜざる人あらば、珠かとまがふ朝露を拾はん為に、藍より青き碧流を掬はん為に、花影に戯る彩蛾を捕へん為に、まつた流るる如き月光に浴せん為に、三々五々逍遙する寄宿生諸君に問へ。

腰弁当的の俗吏、字書的の腐れ儒者を造り出すには、只教育如何にこそよるべけれ。社会を傾倒し、宇内を席捲する大政事家、大文学者、若くは大事業家を造り出さんとならば、教育法の外に、猶ほ学校の地位を選まざるべからず。……今此に事新しく論ずるに及ばざれど、試みに言へば、活潑の精神は健康の体に舎り、健康の体は勉めて新鮮の空気を呼吸し、適度の運動を試み、時に花かほる野辺に逍遙し、時に染まるが如き緑林に憩ひ、或は野外を濶歩し、或は清泉に漱ぎ、以て課業の疲労を医するにあり。是れ真誠の運動法、即ち精神をして活潑ならしむる最良法なり。果して然らば、我東京専門学校の如きは、最も適当なる位置と謂はざるべからず。彼の兵式体操の如き、元とより其効なしとせざるも、是れ肉体の運動にして、精神的運動法に及ぶべくもあらず。其証拠に我東京専門には、脚気患者、脳病患者、聞くも忌まはしき彼の肺病患者のいといと尠なきにあらずや。此点に関しては、独り我校の特質にして、本郷の高台に安置まします大学校の金ぼたん学生等の、夢にだに望むことを得ざる所なり。況んや神田街頭の市場的学校に出入する、浮萍的書生に於てをや。今仮りに、彼我の優劣を一言に評すれば、彼等は赤馬車の喇叭、若くは腕車の響に睡を覚し、我等は黄鳥の鳴く音、若くは蛙声の為に睡を覚す。彼等は舞ひ上る濁塵を吸ふて濶歩し、我等は立ちそむる霞に酔ふて歩行す。求めなば猶他にも種々あるべけれど、くどくどしければ此には省きつ。サハ言へ、早稲田の本郷、神田に対して、及ばざる所なきにあらず。地僻にして家少なきが為め、一夜の燈を得んが為めに、数町を歩せざるべからず。一浴を得んが為めに、幾歩の緑林を行かざるべからず。其の一鍋の肉、一椀の酒を買はんには、矢来の坂を上り、寺町の坂を下らざるべからず。況んや芳原の花、須崎の月を眺むるに於てをや。 (三七―三八頁)

ここに至っては、やや語るに落ちた観がないでもないが、以て当時の学生の気風を十分に察し得るだろう。森弁次郎(二十一年英学本科卒)は当時を回顧して次のように言う。

私が東京専門学校の英語本科に入学したのは明治二十年であつた。実はその前年の十九年に既に慶応義塾に入つてをつたのであるが、学生が下駄履の儘教室に入つたり、畳の上で万国史を教授されたりして、学校が一向整はないのが何うも私の意に満なかつた。ところが一方早稲田即ち東京専門学校の方は、ハイカラな洋館の教場(今では貧弱なものであるが当時はハイカラなものであつた)があるし、書物等も難しいものを使つてをつたので遙に慶応より進歩してゐると思つたので、二十年の春、第二学年へ編入試験を受けて入つたのである。 (『早稲田学報』昭和三年八月発行第四〇二号 二九頁)

 とにかく今から見れば貧弱な校舎であったものが、やがて大講堂の竣成を見、数棟が増築され、早稲田尋常中学校創立当時には、教室の一部を貸し与えるほどになり、創立二十周年記念式典の際には、講堂、教室、その他の付属建物を合せて十棟余を数えるに至った。

二 交通

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 戦後の英語辞典に採録されている語彙の中には、日本語がそのまま英語として使用されているものが幾つも見出されるが、最も有名なものは、フジヤマ、ゲイシャ、リキシャ、ソウヒョウ、ゼンガクレン、コウガイの六語であるという。初めの二つはさておいて、リキシャすなわち人力車は、明治初期における偉大な発明の一つである。四民平等の世の中に、富める者の権力を誇示する有力な手段は、人が引く車の上で傲然と構えることであった。しかし相乗車はとにかくとして、人力車は一人が一人を運ぶ道具に過ぎなかった。多人数を一時に一定の方向に運ぶためには、もう少し大がかりなものが必要であった。この要求に応えて西欧より移植されたのが馬車であり、更に、軌道の上を走る鉄道馬車が出現した。明治十三年二月、東京馬車鉄道会社の設立が申請され、二年後の十五年六月二十五日に新橋・日本橋間にデビューした。都大路を颯爽と風を切って駆けて行く乗心地は無上で、好評を得たため更に路線を延長し、遂に浅草まで到達するようになった。しかも三十二年品川馬車鉄道会社合併後はまさに独走体制に入り、三十五年には、車両数三百台、馬二千頭、年収百四十万円という盛況ぶりであったという(渡辺伊之輔『東京の交通』一六|一九頁)。しかしこうした便利な交通機関も、その恩沢に浴したのは、都心の人々かお上りさんだけで、僻地早稲田に教える人、学ぶ者は少しも恩恵を受けなかった。江戸ッ子の高田でさえ、「当時の早稲田といふ処はひどい田舎で、早稲田なんぞといふ処へは嘗て一度も行つた事がなかつた」(『半峰昔ばなし』一〇三頁)と述懐しているほどで、就任当時の薄給では到底人力車を利用することができず、大隈夫人の好意にすがって、京橋から早稲田別邸の二階に引っ越したほどであった。梅若誠太郎が政学部講師に就任したのは三十年であったが、その当時でさえ、早朝根岸の自宅を発ち、「夜遅く小田原提灯をつけて、山吹町辺迄田畝であつた淋しい畦道をひろい乍ら帰つたものである」と述懐している(『早稲田学報』昭和三年四月発行第三九八号五三頁)。京橋の中橋徳五郎、芝の有賀長雄、下谷の磯部四郎、深川の朝倉外茂鉄などの諸講師が貰った月給は人力車代にも足りないほどだったとさえ言われているくらいだから、専任の教職員や学生達が泥土の道に足もとを取られながら往来した様子を想像することができる。

 一方背後の交通事情を見ると、今の国電品川・赤羽間が、日本鉄道会社によって開通したのが十八年三月一日のことであって、初期の中間駅は目黒、渋谷、新宿、目白、板橋であった。また中央線の新宿・立川間が甲武鉄道会社の手で開業したのが二十二年四月十一日のことであったから、この沿線からの通学者は、最寄の目白駅を利用すれば、案外都心から通う者より便利が良かったのである。高田馬場駅の営業開始は四十三年五月で、大学設立前後の早稲田界隈は依然としてこういう状態が続いていた。

 昭和三年五月発行『早稲田学報』第三百九十九号「思ひ出の早稲田」に、西武鉄道株式会社勤務の安蔵吉次郎(三十九年大学部法学科卒)が、「早稲田を続る交通界の今昔」という一文を投稿している。前述のところと重複し、若干記憶の誤りもあるが、早稲田大学の名告りを上げる直前の学苑周辺の事情を偲ぶことができるので、その前段の部分をここに掲げておく。

自分は明治三十五年四月に郷里の中学を卒業して遙々笈を東都に負ひ、先づ学ぶ可き場所として白羽の矢を立てたのは我が早稲田大学の前身東京専門学校であつた。尤も東京専門学校と呼んだのもホンの束の間で、同年十月には校名も早稲田大学と改称され、専門学校開校二十年祝典が頗る盛大に挙行されたのであるが、自分の後々携つて居る職業の関係から当時の交通機関が何うであつたかと云ふことを追想して見ると、転々感慨の深きを覚えざる訳には行かぬ。当時、市内の交通としては甲武線、即ち今の中央線が汽車で、新宿方面から飯田町まで通じて居たのと、山手線が遠く市街を離れて高田馬場駅を通過して居たばかり。従て四谷、小石川、本郷、下谷乃至は神田、麹町方面から通学するには何うしても親伝来の膝栗毛で歩行しなければならなかつた。殊に現在では早大付近唯一の繁栄境とまで誇つて居る鶴巻町通りでさへ、明治三十五年の古へに遡れば全く茗荷の畑の連続で、一般人の通行など思ひもよらなかつた。それでも開校二十年祝典までには是非共新道を造りたいとあつて、山吹町から早稲田まで一直線に道路面丈けを埋立て何うやら通学出来る様になつたが、雨降りの日でも続いたが最後、処々に地面陥落の危険があつて、遂に通行止めを喰つたなどのエピソードもある。自分が入学してからあとで、東京馬鉄と品川馬鉄とが合併したり、神田橋から日比谷辺まで電車が出来たと云ふので物珍らしげに出掛けた連中も多かつたなど、今になつて見ると全く可笑い位な話、従て牛込界隈に電車の出来たのはソレからズツト後の事であつた。 (二九頁)

 因に、この文の後段にいう市街電車は、東京市街鉄道株式会社が、明治三十六年九月、数寄屋橋・神田橋間に電車を走らせたことを指し、大曲・江戸川間に市街電車が開通したのは、既設の東京市街鉄道、東京電車鉄道、東京電気鉄道の三株式会社が合併して、新たに東京鉄道株式会社が設立された翌年の四十年十一月末のことであった。

三 教職員

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 『早稲田学報』掲載の三回顧録の投稿者四十八名中、教職員の氏名を挙げた者は三十名あり、その中には、特定人の印象を詳細に記述している者があるので、小野、高田、坪内、大西、高山、夏目ら、他の機会に詳述されている人人を除き、本編に関係ある何人かのプロフィルを、投稿者の筆を通して窺うことにする。

 既記の如く、創立十周年記念式の当日、歴史的な演説をして、会衆に深い感銘を与えた田原栄、F・スタンレーおよび今井鉄太郎、A・ロイドに対する思い出を市野弥三郎(三十四年文学科卒)は次の如く記している。

田原先生はユニオンの四を教へた。例の瀟酒たる貴公子風の先生が、リンとした発音でリーヂングをしては訳を付けていつた風貌が、長くわれ等の忘れ難き印象として残されてある。丁度先生は神戸(?)の方で漆器か何かの事業に失敗されて、早稲田へ戻つて来た当座だつた様なことを聞いた。同じ教室で、スタンレー先生がリーヂングを教へた。先生は瘠せぎすの日本人としての中背位だつた。非常に深切に教へてくれた。余り日本語は上手でなかつた様だつたが、満更知らぬでもないらしかつた。何時も出席を読み上げるに、平林といふ発音に苦んで、ミスター・シラベヤシとやるので、隅の方からくすくす笑声が洩れたもんだ。田原先生のユニオンはやがて止めになり、スタンレー先生は何かわけあつて米国へ帰られ、その後リーヂングの時間はなくなつた。先生は帰米して田園生活に余生を送られてゐると聞いたが、それも幾昔しかの久しいことだし、存命なら八十以上にもならうか。僅かの間の師弟関係にも、忘れることの出来ない感銘がある。……

それから書き洩してならないのは、今井(鉄太郎)さんと、アーサー・ロイド先生だ。今井さんは五分刈頭の円顔で元気が善い声で英作文を教へてゐた。先生は大学を中途退学したといふのが、われわれ仲間に大なるショツクを与へて、大学教授の講義なんか眼中になかつたといふことを裏書きするものと取れたから、何かひらの学士たちより、幼稚な考へから、えらい様に思へたのに無理はなかつたらう。それに先生は、「今西洋人と話しをして来た」(かういふことは、当時は一種のミラクルと考へられた)とか、「西洋人を頼む為にレターを書いた」とか言つて宣伝したから、一層えらい学者だと思はせた。とにかく才気の喚発した人で、経営の手腕もあつたらうが、早中〔早稲田中学校〕創立の際は、その幹部となつてゐた様だつた。併し私達は先生からいくらも教はらない。それはやがて和文英訳がアーサー・ロイドといふ英国の宣教師であとで文科大学の講師となられた人が代つたからである。ロイド先生は実に上品なジェントルマンであつて、英国人としても立派な方だつたらうと思ふ。生徒が日本魂を吹き立てると、何時も「日本に日本魂があり、英国に英国魂がある」といふことを言はれた。その熱心で、親切で、感じの善い、それで或る信念の下にシッカと動じない所のあるのは、人格の偉大さを思はせずには措かなかつた。私達には何も分らなかつたが、かういふ先生こそ、長く早稲田の宝玉として残しておきたいと思つたのであつたが、何ういふわけか長くは止まらなかつた。僕等のクラスでは、平易な面白い話しを英語で話して、二度目には多少アブリッヂして話したものを、銘々に筆記させるといふ遣方だつた。私は先生にペンマンシイップを書いて貰つたのが、フールス判で二帖ばかり記念に保存して置いたつたが、何時の間になくなしたか、残念でたまらない。書体は実に立派なものであつた。先生には謙信の夢(Kenshin's Vision)といふ長詩があつた筈だが、これは早稲田にゐた頃の創作で、先生はわれわれが英語がむつかしいといふと、「日本語はヴェリィヴェリィむつかしい」と言はれたが、早稲田にゐた頃にも日本語が巧みで、読書力も多少、手に入れてをられたやうだつた。併し今は冥界の人となられて、その面影もだんだん薄れゆくばかりだ。

(『早稲田学報』大正十四年十月発行第三六八号 一八―一九頁)

今井鉄太郎は、十八年九月英学科の学科配当改正に当り、綴字、訳読等の講師として迎えられた人、また有名な博言博士アーサー・ロイドは、二十七年二月から一年足らず在職し、その後も科外講師として講壇に立ったが、日本贔屓のイギリス人で、学生間に人気のあった好紳士である。国木田独歩の短編集や徳富蘆花の『自然と人生』、有名小説の『金色夜叉』『不如帰』『良人の告白』等の英訳でも知られている。

 秀島家良もまた、本校創立当時の功労者の一人として忘れられない存在で、第二編に詳述されているから、ここではその経歴は省略するが、佐賀藩士の家に生を享け、剛毅果断の半面、明治四年早くもフランスに留学したほどであるから、物分りも良く、そういう性格を巧みに捉えたものに太神寿吉(十八年法律学科卒)の思い出話がある。それによると、

私は水郷の育ちで、小学児童の頃より一竿を携へ川に沼によく釣魚に出掛けました。早稲田在学中も江戸川に屢々参りましたが、或る夜窃かに校友某(鈴木熊太郎君と覚ゆ)氏と共に大隈邸の池沼に釣を垂れ、鰻二三尾を獲たることがあります。当時大隈侯は九段下の邸宅に在りて、早稲田の別邸には秀島家良氏と家僕二三氏の在留であつたが幸に見咎めも受けず、漁獲の鰻は賄方に託して調理し二三氏と賞味いたしました。其後幾月を経て別邸に秀島氏を訪ひ、雑談の際このことを謝罪せしに、秀島氏は自分も学生の頃三条公の愛犬を撲殺して之を食し、一問題を起したることすらありとて敢て叱責もなく、反て同氏が佐賀の藩塾又は仏国在学中の蛮勇振を拝聴したことがあります。(『早稲田学報』昭和三年十一月発行第四〇五号 三九頁)

 中村進午(教授)の回想は箇条書きになっているが、そのうちから二、三拾ってみると、

四、熱心、忍耐、誠実、勇気、達識の五つを具備せねば大なる仕事は成せぬものと思考仕り候。早稲田大学の創立者、其後の当局者には此の五つが具備せられたることを思へば。

五、教授、助教授の数の限定なく、天下の凡ゆる学者を網羅して学庭に集むること早稲田大学の如きは日本一、世界一と存候。此の寛容、此の大量を失ふことなくんば、大学の前途愈々益々刮目して見るべしと存候。

六、学生を包容する力の大なるにも感心仕候。学校の産児制限などには反対に候。 (同誌第三九八号 五四頁)

 この回想を更に敷衍して、教育に対する本校の抱負、ひいては教授陣の充実について、金子馬治が仔細に亘って述べている記録がある。学生として校友として、また本校に職を奉じて、文学部および本部の要職を歴任し、終生本校と運命を共にした人の目に映じた学苑のたたずまいは、一学者の視野に映じたものとか、単なる愛校心によるものとは言い切れないものがある。

我が本大学の前身東京専門学校に入学したのは明治二十二年頃であつたと思ふ。今から其当時を追憶すると、……四十年以前の東京専門学校がまだ甚だ単純幼稚なものであつたことに何の不思議も無い訳だと思ふ。それならば私などはどうして当時特にこの東京専門学校を選んで入学したか。慶応義塾をはじめ、神田辺にも沢山の私立学校が有つたのに、私たちがどうして特に此の学校を選んだか。四十年前に於ける此の学校に対する学生心理と言つたやうなものを、甚だおぼろげではあるが、此の機会に回想して見たいと思ふ。私は今でもはつきり記憶してゐるが、当時の東京専門学校は、一般学生社会に一種チャーミングな魔力、何となく学生を引きつけるやうな不思議な魔力をもつてゐた。神田、芝へんの私学に比較して、其の当時の東京専門学校が、まだ閑静な而して一種の詩趣をさへ具へてゐた青々した森の中に清楚な姿(今はもう古びてしまつた文科教室)で立つてゐたことからが、はじめての入学者に一種の好感を与へたことは言ふまでもないが、もつと精神的な意味で、其の当時の東京専門学校が、少くとも他の私学に較べて、特殊な引力―学生に取つての引力を具へてゐたことは争はれない。……東京専門学校が、最初から「自由の学園」として、当時の学生の心理に、一種名状しがたい魔力を具へてゐたことは、今日ありあり回想されるやうに思ふ。官学がすべて官権乃至権力の上に立つ学校であるに対して、此の学校が最初から自由を標榜して立つたことは、天下の学生に言ひがたい不思議な魔力をもつた所以であつたと思ふ。丁度その頃京都同志社の勢力が一部此の学校と結合したことなどが、最もよく此の事実を証明してゐる。同志社系の大西祝氏をはじめ、今日の浮田和民氏及び安部磯雄氏等が早稲田に来られたことや、同時に同志社の一部学生が一時ここに転学したことなど、すべて此の学校の自由と新精神との力に因つたものと解釈された。自由の学園、官権反対の学園、学問の独立を標榜する学園、自由な活気と勢力とに満ちた学園、何となく新しく活気ある学園――これが甚だ抽象的ではあつたが、何となく当時の学生に特殊な力を鼓吹する所以の本源であつた。官権の前に屈せず、学問にのみ無限の敬意を表するといふが、甚だ漠然ではあつたが、深く当時の学生の心に刻まれた印象であつた。神田へんの学校は、此の点から見ると、全く種類を異にしてゐた。大抵は職業本位の速成学校に外ならなかつた。早稲田は最初から力づよい建学の精神の上に立つてゐた。自由の学園と連関して、当時の東京専門学校は新進の学者や教師を包擁してゐるやうに考へられた。現総長高田氏がまだ新進気鋭な俊才として、又坪内氏が同じく文学の俊才として、天野、田原等の諸氏や、これに三宅雄二郎氏とか、有賀長雄氏とか、さながら天下の俊才を集めたかのやうに思はれたのが、当時の早稲田学園であつた。今日で言へば、まさしく専任教授に当たる人々であらう。学校もまだ小さかつたから、専任教授の数もまた甚だ少数であつたが、最初から早稲田が俊才ぞろひの専任講師をもつてゐたといふことは、当時の学生に深い印象を与へた所以であつたと思ふ。浮田和民氏、安部磯雄氏、大西祝氏―此等数氏は早稲田学園をいよいよ俊才の結合と感ぜしめる強い力であつた。今からふりかへつて見ると、新進の専任教授、而も時代の俊才を集めたやうな専任教授の包擁といふことは、創立以来の早稲田学園の伝統的努力であつたと思ふ。官立大学を除いては、当時の専門学校は、いつれもまだ専任講師制を取らず、官立大学の教授や官吏を片手間に雇つて、所謂学問の切売を行ふに過ぎなかつた。早稲田が最初から高田、坪内、浮田といふやうな専任教師、而も天下の俊才である専任教授を所有してゐたといふことは、建設の当初に於て、既に他の私学と異なる特徴を具へた所以であつたとも批評されよう。……四十年前の東京専門学校が、当時の学生に一種アットラクチヴな感じを与へたもう一の事情を考へると、それは普通の私学と違つて、如何にも学校らしい学校――不完全な学校を如何にもして完全なものに仕上げたいといふ努力が絶へず学校に存したことであつた。当時の私立専門学校といへば、大抵速成を主とする職業学校であつた。殊に法律学校がそれであつた。基礎教育や修養教育は、殆ど全く顧みられずしてただ速成的な職業教育のみが眼目とされた。然るに此の点に於ても早稲田は最初から他の私学とは出発点を異にしてゐた。……早稲田学園の発達は、外観余り急激であるやうに見へるため、どうも不自然な膨脹だなどと評する人も有るが、深く学園の事情を知つてゐる人から観れば、東京専門学校から早稲田大学への発達は、決して不自然でも急激でもなく、むしろ自然な又当然な結果であつたと言はなければならぬ。東京専門学校は最初からともかく学校らしい学校であつたのである。

(『早稲田学報』昭和三年六月発行第四〇〇号 三九―四一頁)

 この回顧談で特に注意すべきは、金子馬治が、学閥の如何に拘らず、英才偉才を学苑の講師陣に招聘した点に触れ、その一例として同志社との交流を挙げていることである。これは創立者大隈重信の意図に出たのはもとよりのことであるが、後継者がよくその志を守って来たからでもあった。大隈が生来体得していた豊かな包容力と、その鮮やかな外交的手腕とは、町人学者福沢諭吉と手を結び、参議時代には、その配下に多くの慶応義塾出身者を集め、或いは宗旨を異にするキリスト教教育者新島襄と堅く握手し、これを後援した。それ故東京専門学校創立当時から、東大出身の異端児をはじめ、他大学の逸材をも招いて教壇に立たしめた。大隈は自ら私学を起したばかりではなく、他の私学の育成にも情熱を傾けた。その例として日本女子大学校創立(明治三十四年)に当り、よき相談相手となった如きがあり、また、同志社に対する後援があり、この場合には教師の招聘のみか、学生の転入学さえ認めたのであった。

 明治二十一年十一月、新島襄は、既述の如く、同志社大学設立のため、その旨意書を公表し基金を募集した。大隈はその年の初め伊藤内閣の外相に就任したが、たまたま所用のため入洛し、同志社英学校を訪問した。新島起草の「同志社大学設立の旨意」には、「親しく其学校の模様を閲覧せられ、大いに其成績を称賛せられ、従つて其位置を進めて専門科を設くる事に就ては、一層吾人が志を翼賛せられたり。」(『同志社五十年史』九一頁)と記されている。この時大隈は取敢えず基金として金千円を寄附したと報告されている。一方は大藩鍋島藩士、他方は小藩安中藩士、その生い立ち、気風は異るところ大なるものがあったろうが、気概の点ではどこかこの両者に相通ずるものがあったであろう。ともあれ、早稲田大学が同志社に負うところもまた大で、大西祝を筆頭に、岸本能武太、安部磯雄浮田和民ら、後年学苑の柱石となった講師達は何れも同志社より来た人々であった。

 このように学苑当局は、建学の大方針に沿って教育の徹底と、それに必要な講師の採用、補充をしたが、官憲の圧迫と経営困難のため、やむなく低額な給料を支給するより致し方がなかったので、時には東大在学生を採用して、穴埋めをすることもあった。しかしこのような事情に通暁しない学生は、学校当局やそういう弱輩講師をしばしば弾劾したようである。

 永井一孝(教授・二十六年文学科卒)は、それについてこう語っている。

東京専門学校も私共の居た時分には、今から考へるとなつてをらなかつた。……先生を弾劾して、或学生等は先生の所へ三下り半を持つて行つた事等もあつた。その頃は英書は訳読だけしてをつたが、その先生はミルトンのパラダイス・ロストを受持つて、コムポジーションに迄亘つて質問したから、学生の方が苦しくなつて来た。そこで大文豪の文芸作品を語学の用に供するのは怪しからんと、江戸の仇を長崎で打つ式の犬糞的仕返しをしたのだが、その時の幹事は剃刀幹事といはれたきれ手で、此事を耳にするや学生の分際で不都合である。一同を退学させると強硬に出たので、学生の方がヘコタレて終つた。然しその後も教を受けるのを心良しとしないで、クラスを幾組にも分け、順番を設けて、本の前の方で先生が忘れた様な所を質問して、先生を苦めにかかつた事等もあつた。 (『早稲田学報』第三九八号 五四―五五頁)

 後に第四代学長となり、移行期に短期間ではあるが総長にも就任した謹厳居士塩沢昌貞(二十四年英語政治科卒)でさえ、「良い先生を」運動の急先鋒として活躍したと、次のように述懐している。

先生は創立以来の人を除くと、皆帝大を出た許りの講師で掛持ちであつた。そこで学校の都合等は念頭にない吾々の間には、専任の良い学者を増して貰いたいという議が起つた。或時学校の評議員会のある前夜、学校改革案の提議書を携へて二人宛分担で、学校幹部の許に押掛けた事があつた。僕は他の一人と、当時浜町にをられた田原栄さんの所に夜遅くそれを持つて行つた。提議書には三、四ケ条主意が書いてあつたが、その中の一つは、専任教師を置く事といふのがあつたのを覚えてゐる。新らしく講師が来ると、吾々は試験をしたものだ。教科書にある題目の参考書を凡て研究して、教科書だけだと思つてゐる先生に、その問題に就いて誰々は何々と言つてゐるが先生は何う思ひます等と、質問の矢を放つて困らせたものだ。利巧な先生になると、君は何う思ふと反対に尋ねる。私はかう思ひます、と答へるとそれは大層いい考えだ等とお茶を濁してをつた。

(『早稲田学報』昭和三年三月発行第三九七号 三〇―三一頁)

 次に市島謙吉の『随筆早稲田』を通して当時の諸講師の講義の有様をもう少し窺ってみよう。この記録は断片的なものであり、或いは何らかの意味で特異な事象に限られているかもしれないが、当時の講師とその講義が醸成した教場の雰囲気の一端を垣間見ることができる。

 早稲田の早い頃に兄弟同士で教えに来ていた人が三組あった。天野兄弟(為之、喜之助)、有賀兄弟(長雄、長文)、そして三宅兄弟(恒徳、雄二郎)がそれである。この他、父子で本学苑に教鞭をとった者がある。信夫恕軒、淳平の二代、三島中洲、桂の二代などがそれである。

 さて、市島謙吉は東京大学在学中この信夫恕軒の講筵に列した一人であったが、彼の眼に映じた恕軒得意の『文章軌範』の講義は、「赤穂義士銘々伝を講談師風にやつてのける程の弁才があるから、文章軌範の講釈も学生に喜ばれた。いつも酒気を帯びて顔面に朱を灑ぎ、寒中でも跣足で、竹の皮草履を穿ち、悠然講壇に登り、酒気を吹いて、徐ろに説く其の講釈に抑揚があつて、満座をして耳を傾けしめた。往々詼謔を弄し、韓退之の文の終りに『愈再拝』とある『愈』は韓退之の名だ、『いよいよ』再拝と読んではならぬなど云うて笑はせ」たものであった。後二十三年、本学苑の講師に招聘されたが、「早稲田に来ても矢張り得意の文章軌範を講じた。併し当時の学生から聞いたのでは、先生酒気を帯ること帝大の時と同様であつたが、既に光彩ある説明はせず、文章の妙を知るは読破にありと云うて朗読するを常とした。」そして、講義の半ばは、当時離婚した淋しさを語ったり、樋口一葉を後妻に迎えたいなどと臆面もなく告げたりするなどの余談に費やし、「一時間一円の報酬では精講は出来ない。」と気炎を吐いたりしたというが、しかし「翁は特に漢文に志あるものには深切で、文章の斧正を請ふものがあると家に持ち帰つて案外丁寧に朱を入れられた。」と伝えられている(一四八―一四九頁)。

 二松学舎(二松学舎大学の前身)を創設した三島中洲は、二十三年文学科の講師に招かれ、翌年にはその子の桂が同じく文学科に教鞭をとることになり、父子二代に亘る講師の誕生となった。市島謙吉は、東京大学在学中に、この中洲にも教えを受けたことがあり、その『春秋左氏伝』の講義ぶりを回想して、「多分早稲田の講堂に於ける翁は帝大に於けると略々同じであつたと想像」できると言っている。すなわち、「左伝はなかなか解し難いもので、当時の吾吾が輪講するには、荷が重過た。それにも拘らず、誰れも彼れも下読をするでもなく、其席で自分の処へ回つて来る所を匆卒に調べるやうな始末だから、甘く輪講の出来やう筈はない。行を追うて義を説くことは出来ないから一頁二頁を総括して大要を言ふと、先生苦笑して、大要は其の通りだが、君等は漢学の力で解するのでなく、洋学の力で解するのだ。しかし大要の解せるのは感心だ。」などと皮肉を言い、また、「いざ試験となると、尤も難解の謎のやうな所を特に選んで、それに解を与へよと云はるるので、これには皆々閉口した。」という(一九八頁)。

 学生の磊落さについては別項で触れるが、講師達の中にもこれに劣らぬ磊落家を見出すことができる。例えば、風貌について言えば、文学部で『易経』と『荘子』を講じた根本通明は、束髪で、いつも木刀を手にしていたため、「其の風采に揮つて誰も近づいて談敵となるものがなかつた」と言われる(一四七―一四八頁)。教場における講師の態度について言えば、「教場に入ると靴のまま両足を机の上に載せて、シガーをパクパクふかすのが常であつた」長田忠一(秋濤)も、その特異な例として市島が挙げているところである(一八九頁)。また、弁護士で、本学苑の初期に法律科で教鞭をとった磯部四郎は、次のようなエピソードを残している。「或る朝教場へ這入ると学生に向ひ、君等の内、金を二円もつてゐるものがあれば貸して貰ひたいと云うて求めるので、或る学生はそれを弁じてやると、直ちに外へ出て間もなく帰つて来た。多分車代を払つたのであらうが、当時の車代としては二円はチト過ぎるので、口善悪なき連中は先生悪所から馬を引いて来たナと云うた。ある時先生の出席が遅いので、学生は退席せんとする折柄、先生やつて来て学生に詫びて云ふには、実は昨夜花を引て、夜深しをしたので、遅刻した、誠に済まんと挨拶の後は受持の治罪法は高閣に束ねて芳原辺の惚気話をして学生を烟に巻いた。しかし氏の無邪気の態度は却つて学生の喜ぶ所であつた」(一六五頁)。また、饗庭篁村は、「浴衣がけで団扇片手に、昼酒の一杯機嫌で近松物の講義」をしていたことがあったが、勿論、批判がなかったわけではない。同僚の今泉定介などは、「教室へあんな不礼な姿で入つて来る小説家などは人間でない」と憤慨した一人であった(『早稲田学報』昭和二十七年十月発行第六二四号八二頁)。さて、地理学を講じた志賀重昻は生来豪傑肌で、あるとき教場で、「学生中長髪の異風のものに注目して、君は豪傑風の男だが、どこの生れだと尋ねると、丹波出身との答を得て丹波には大江山の酒顚童子以上の豪傑は無いと、喝破した」ため、件の学生は慴服する他なかったという。ところが、この豪傑肌の重昻の講義は案外詩的で、その上ある種の弁舌を以て特に生彩を放っていたもので、地理学を講じながら「政治も法律も宗教もあらゆることが交り、それが滾々として口を衝て出るので学生に該博の知識を与へた」ものであった。重昻は大の旅行家で、講義中旅行談に及ぶと、その弁舌は一層躍動し、説明が困難な部分に至れば自ら作詩し、意のあるところを伝えようとした。インド洋を航海した時の説明に用いられた詩が伝えられているので、ここに引いておこう。「三帆孕風動晩涼、澳蘭南去望蒼茫。不知今夜何処泊、月高浪白赤道洋。」(『随筆早稲田』一五一―一五二頁)。

 さて、能弁で学生を魅了した講師に森槐南があることを忘れてはならないであろう。槐南は、文学科の初期に三体詩や、杜甫や「桃花扇」などを講義したが、むくつけき学生達をして、その「講説中は陶酔するが如く、ノートも取り得ず、講義終つて茫然たるものがあつた。」と言わしめるほどであった。市島謙吉の経験したところでも、「両国の中村楼であつたか、星社の大会があつた時、君の一場の詩論を聞いたことがある。複雑論難の問題を或は分析し或は総括して巧妙に且つ平易に説かれたのには、流石は大家と歎服した。」という(二一七頁)。

 一方、学生受けの良い名物講師は、いつの時代にも見られるものであるが、経済学を講じた和田垣謙三もその一人であった。学生受けが良かったのは、例によって、「課業時間の一半は余談で、学生を烟に巻いた」ことも与っていたからであろうが、更に謡曲を学んでいたので、「それを時々講堂にうなり出して、仕舞とも踊りともつかぬことをやり出すことが珍らしく無つた」のも、名物講師の名を得た所以であったろう。また、文人趣味や素質に恵まれていた人で、その英語は「操縦に熟し、ウエツト」に豊んで、『フアウスト』の朗読を聴かされた市島は、「意訳が神速で巧妙で少しも淀みなくズンズン進み、男女それぞれの声色でやつてのける丈の余裕があつて、実に熟したものである」のに驚き、また「切れ目切れ目に一杯を傾け、退屈をさせないやうにと時にウエツトを弄するなども他人に出来ない」ことで、「早大には坪内博士以外コンナ芸当の出来る人は無い」と追想している(一五二ー一五三頁)。

 経済学を担当した土子金四郎は、真面目な人柄で、唐突に笑いもせずに発した酒落は、学生、教職員を抱腹させずにはおかなかった。市島の伝えるところでは、土子金四郎は、専門の経済学者としてよりもその著書である『洒落哲学』を以てよく知られていた(一五〇頁)。

 また、森鷗外も、本学苑の講師として忘れてはならない一人である。鴎外が東京専門学校に教鞭をとった期間は、正確には知ることができないが、『第五回報告校友会名簿』(明治二十三年十二月調)には、現職講師として初めて名が見え、『第七回報告校友会名簿』(明治二十五年十二月調)には旧職員の中に入れられている。そして、この間の資料が欠けているので、これを以て在職期間を推定する他はない。鴎外は、「長幹の人で、較々痩方で精悍の気が満ちて……如何にも負けぬ気の人であつた。」という印象を市島謙吉に与えたが、坪内逍遙が、鴎外の追悼文の中で、その人物観として、彼を大隈重信に比し、「征服せざれば已まぬ所に両者に一致点がある」と述べている点、両者の見方に相通ずるものが見られる(一七七頁)。

四 学生

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 一時代を画した逍遙の『当世書生気質』では、一般に学問を修得している者を書生と呼んでいる。しかし明治前期には、政客、富豪らの邸宅に寄宿し、傍ら勉強した者を書生といい、従って時には壮士と混同したこともあった。ところが書生でも専門学校に通っている者は学生である。ただし書生と言った方が、何か弊衣破帽、豪快無比の体を具えて親近感すら覚えるものがある。永井一孝は「学校に袴を穿いて来る者等はなかつた。」と言い(『早稲田学報』第三九八号五四頁)、瀬川光行(十九年政治学科卒)は「土佐の学生二人は、寒中に単衣を纏ふて平気で居た」と言うくらいであった(同誌大正十四年六月発行第三六四号一五頁)。従って「或る夏の事であつたが、学生の如きは先生の宅を訪ねるのに羽織がないといふので、浴衣の上に袷羽織をかけて出かけたものさへあつた。」(渡辺亨談、同誌大正十四年五月発行第三六三号三三頁)という。貧乏を装うのは一種の見栄かもしれないが、上遠野富之助(十九年政治学科卒)も在学当時は非常に貧乏で、「毎月の月謝及び寄宿費合計三円七十五銭を払ふのにも中々困難で、新聞に投書をして原稿料を貰つたり、講演の筆記をして謝礼を貰つたりして、所謂苦学をして居たが、当時苦学をしてゐる者は他にも相当あつた。登校前に牛乳を配達し、空罐を教室の入口に置いて授業を受けるといふやうな者もあつた。」と述べている(同誌昭和三年一月発行第三九五号二三頁)ように、青雲の志を抱き、笈を負うて上京する者、必ずしも裕福ではなかった。しかしこれらの書生仲間でも、たまには金持そこのけの豪奢な生活をしていた者もあったようで、後に徳島市長や衆議員議員になったこともある武市彰一(二十七年推選校友)の如きは、ただ一人喜久井町に薬店の奥座敷を借り、平生絹羽織を着て出歩いたので、孔雀のようだと喧がれ、ピーコックと綽名され、ある意味で羨望の的になってさえいた。これは全く特例で、一般学生のうちには、送金が中断されて退学する者さえあり、ドイツ大使として活躍したかの有名な本多熊太郎(四十二年推選校友)も、そうした苦汁を嘗めた一人であった。

 制服制帽が制定されたのが三十三年。それ以後でも和服で通学した者が多かったほどであるから、ましてそれ以前は色とりどりの風体で教室に臨んでいた。無帽が定式で、少し余裕のある者は鳥打帽か中折帽を冠っていた。和田厳(二十七年英語政治科卒)は九段に下宿していたが、早稲田に通うにはいつも草鞋がけであった。松山忠二郎(同)とは貧友で、いつも五十銭、一円と金の貸し借りをしていたという。また彼らと同期の某は慶応の友人に金を借りるため、テクテク歩いて往復にまる一日を費やし、しかも借りた金額が僅か五十銭か三十銭、時には二十銭という、日当にもならない程度であったという笑えぬ話もあった。また中には、少しでも経費を節約するため自炊生活に踏み切った者もいた。西川太次郎(二十一年政治科卒)は、同級の村松宗作、内田勉平、それに明治法律学校生の米田実(後に有名な外交記者となった)とともに、牛込藁店の北脇新次郎の二階を借りて自炊を始めた。その頃の下宿代は一ヵ月四円か四円五十銭であったので、各自毎月三円ずつを出し合い、炊事当番を定めて、その限度で切り盛りした。月額一円五十銭を浮かすため、これぐらい涙ぐましい努力を払ったのであった。

 ところで当時の学生の年齢は最低十四、五歳から、最高四十歳ぐらいの者もいた。何しろ地方の政界に活躍していた有名人が、新知識吸収の念やみ難く四十の手習いを始めたのであるから、少年、青年、壮年が一堂に会し、机を並べて勉強したわけである。しかし青年が大半を占めていたのは言うまでもない。食い盛りの年頃であるから、勿論量が多ければ多いほどいいのだが、月に一度は西洋料理を食ってみたいと思い、夢に見た者さえあるという。後に「名誉職の嘱託」として学苑の卒業生就職顧問になった坪谷善四郎(二十一年政治科卒)は、「早稲田の今昔」の中で、

同窓中に或る負惜みの強い一人〔黒川九馬?〕がゐて、或時神田辺に行つて何か食べ、酔ぱらつて寄宿舎に帰つて来た。そして「俺は今日西洋料理を食べて来た」と大いに気焔を挙げたものだ。そうする内に其男が反吐を戻した。それを見るとみんな蕎麦ばかりであつたので、先刻の怪気焔の化の皮が現れて了つた。処が何処迄も負惜みの強い男で「あの時あとで蕎麦を食なければよかつた」とやつたので大いに笑はれた事があつた。 (『早稲田学報』大正十四年七月発行第三六五号 一六頁)

と書いている。食べ物の話では、寄宿舎の食事がよく話題に上り、賄征伐なども行われているが、それは一〇一一頁の引用文に譲るとして、学生中にはなかなかの風流人もいたようで、落語の「目黒のさんま」ならぬ、筍飯をわざわざ目黒まで食いに出掛けた者などもいた。早稲田から目黒までは、片道およそ十キロはあろうか。それを柾下駄に金巾の兵児帯、小倉袴という出で立ちで、健脚に物を言わせ、一食十銭也の筍飯を食って満腹したのである。また時には往復十五キロ以上もの道を遠しとせず、吉原の夜桜見物をした御仁もあったとか。

 回顧録によく出てくるものに、演説会、雄弁会、討論会がある。本校は世間の誤解を避けるため、敢えて東京政治専門学校とは名告らなかったが、創立当初から、政治経済学科、法律学科、理学科、英学科の四学科を置いている。当時法律学校と称した私学は数校存在したが、政治研究をあからさまに標榜した独立の学科を設けたものは、東京大学はじめその他どこにも見られなかった。本校は俗に大隈学校と呼ばれていたから、それだけでも政治色の濃い学校と考えられ、絶えず官憲の圧迫を受けた。しかも他に類のない政治経済学科を設けているのであるから、将来政客たらんとする者が来たり会するのは当然で、従ってまた演説、討論、激論が行われるのも必然の理であった。

後年の大政治家たるを夢想する生徒等は毎晩講堂に集まり演説をしたり、討論をしたり互に気焔を吐き合つた。此演説者中に九州人の某と云ふがあつて、お国自慢をしたのは好いが、他の国を侮辱したと云ふので猛烈組が痛く憤り、某の室に押寄せて鉄拳を加へて大騒ぎを起した。大隈別邸に寄寓して居た高田先生が駈け付けて来て、粗暴の行をしては折角の学問も抱負も水泡に帰する憂があると云つて、懇々訓誠された事もあつた。此等はツマリ客気の迸る処より激成したもので意気は壮とすべきであつた。 (『早稲田学報』昭和二年十月発行第三九二号 三八頁)

とは、平野高(十八年法律学科卒)が記すところで、血の気の多い連中が演じた劇中劇の一齣でもあった。しかもこれらの気運は溢れて校外にも流れ出し、後に越佐会の常置会場に当てられた牛込筑土八幡社前の貸席松風楼が演説練習所と化し、政治狂いの一般町民にも公開された。何しろ帝国議会が始まって間もない頃であったから、政談会、政治演説会と称するものは、市内の各所で頻繁に行われ、多くの早稲田学生もこれに出席し、名士の講演に聴き入った。これについて塩沢昌貞は、『早稲田学報』(昭和三年三月発行第三九七号)に、

全体として政治に興味を持つてをつたから、演説は盛んで学生中にも雄弁家が少なくなかつた。政談演説もよく聴きに行つたものである。当時学生の政談演説傍聴は法律で禁止されてをつたから、演説会に行く時は学校に退学届を出して行つた。そして帰つて来ると、その退学届を取戻したもので、僕等も二三度そんな事があつた。 (三一頁)

と、前掲(五〇六頁)の探聞書を裏書きする実話を寄せているが、斎藤隆夫によっても、この插話は伝えられている。融通無礙な学校当局の思いやりが窺われて、何かしらほのぼのと心の温まるものがある。

五 寄宿舎

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 創立当時の学苑周辺の事情から言って、何を差し置いても、地方から上京する者を収容する施設が必要であった。市島謙吉が「凡そ百人ばかりも這入れるやうになつてゐた」寄宿舎が創立時に建築落成していたと述べているのは、前述(四四七頁)した如くである。

 ではその寄宿舎に集まって来た学生達はどのような生活をしていたのであろうか。創立二十年記念大演説会の席上で、校友宮川鉄次郎(二十二年邦語行政科卒)が、「十三年前の寄宿生」と題して講演を行っているから、今その一節を摘記して、這般の状況を窺うことにする。

其時分の学生と云ふものは、今日の諸君に較べて見ますと、随分極端な事を好んだものである。例へば体育に熱心なる人はどうであるかと云ふと、殆んど体育気狂といつても宜い位で、碌々教場へも出ないで、毎日角力を取つたり撃剣をやつたりして、自分の居る部屋などは坐り角力、腕押、脛押と云ふやうな事の為に始終震動を受けて居つたのである。甚しきに至つては、此着て居りまする着物の如きも、寒空に向つて毛布一枚、袷衣一枚切りなどと云ふ有様、随分酷い始末であつた者で、中には寒さに堪へやらず、部屋の格子をへし折つてそれを燃いて夜あたつて居ると云ふやうな乱暴家も居つたのである。……さう云ふ体育の熱心家が居る其傍にはどうであるかと云ふと、非常な勉強家が居つた。即ち苦学をする人である。……さうかと思ふと非常な雄弁家が居つて、毎日毎日議論ばかりして居る。詰らない事を捉まへて来て所謂口角泡を飛し雄弁四筵を驚かすと云ふやうな人も随分居つたのである。……かと思ふと、或は耶蘇教家とか仏教家とか或はユニテリアンだとかいつて、宗教論が喧ましくなつて、毎日毎日此宗教の事に熱中して居つた人もある。是等は随分極端の例である。勿論其間には体育の事にも注意をするし、知育の事にも注意するし、殊に道徳堅固な人も沢山あつたのでありますが、兎も角もこう云ふ極端な人が其時代にあつたと云ふ事は、今日から見れば殆んど不思議な位であります。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三四七―三四八頁)

 また、寄宿舎での食事や寝心地については、坪谷善四郎が、前に引用した「早稲田の今昔」の中で、左の如く回想している。

私達は学校内の寄宿舎に居つたが、其頃の食事が一ケ月二円八十銭位、其換り食物も御粗末で朝は費の目豆腐の汁に漬物位、少し遅く行くと其豆腐がなくなつて了い汁許りであつた。又時に賄が悪いといふて、賄ひ征伐と称し、飯台等を引くり返して暴れたものである。寄宿舎には舎監があつたが、其舎監も時には学生と一緒になつて騒ぎ廻るといつた工合で、事実上舎監もなにもあつたものではない。それから暑くなると、寄宿舎に蚤が非常に多いので吾々は甚だ苦しめられる。そこで机を二つ並べ其上に雨戸を横たへ、其上に寝たもので今から考へると随分乱暴な話であつた。 (『早稲田学報』第三六五号 一六頁)

 舎監と言えば、壮士気取りの書生達を相手にするだけに、単に学識ある者、人格高尚なる人、経営の才ある者だけでは用が足りなかった。当初主として教職員中から選ばれてその任に当ったが、その中で異色ある舎監として、前編第十三章で触れるところのあった俣野時中の名を挙げることができる。

 俣野は山形県の出身、原敬や古賀廉造と同期の司法省法学校九年組で、フランス法学者として本校の法律学科で教え、のち舎監を兼任した。顔中髭だらけの偉丈夫で、撃剣をよくしたという。中村常一郎(二十年政学部卒)の語るところによると、次のような逸話の持主であった。彼の学生時代に、北村発四郎という舎生がいた。柔剣道が自慢で、常に仕込杖を携え、酒を飲むとこれを抜いて暴れ出すという大虎であった。ある日神楽坂辺りで大いにメートルをあげて帰校する途中、たまたま隣家の娘が提燈を持って来掛かるのに出会ったので、例の悪い癖が出て、いきなり提燈を叩き落し、その上娘を田圃の中に投げ込んで帰舎した。隣家ではかくと知って大騒ぎになり、早速馬場下の交番に訴えたので、間もなく一人の警官が寄宿舎の玄関に現れ、舎監に面会を求めた。この時の舎監が名にし負う俣野で、有名な酒豪であるばかりか、酒を飲むと気が荒くなり、木刀を振回して学生を追っかけるという奇人であったから、一警官くらいは物の数でもなかった。その上、事あれかしと待ちもうけている舎生達に囲続されて応接に当ったのだから、舎監たるものの威厳を示す好い機会でもあった。そのうち得意の治罪法を、東北なまりの訥弁で語り出したのである。警官もあきれ顔に、暫くはその講義をおとなしく聞いていたが、やがて衆寡敵せずと見るや、至極不得要領な言葉を残して立ち去った。北村は一同に混ってこの応対を他人ごとのように聞いていたが、俣野は一言も叱らなかったという。西川太次郎の話では、その後、夜の門限に遅れて帰って来た学生数名をぶん殴ったことから、舎監更迭論が起り、校長に陳情するなどと騒いだ者もあったが、綱紀粛正のためやられたのであるから、これに不平を唱える者こそ不純分子であるという正論派も起ったので、この更迭説はうやむやに終ってしまった。しかし、それからいくばくもなく、俣野は学苑を辞め、二十三年五月に『山形新報』主筆として故郷に帰って行った。往年の東京専門学校には、こういう異色の教師や学生が蝟集して、独得の校風を作り、これを守り続けたのであった。

 創立期の舎監、すなわち舎長について、もう少し述べておこう。既に『創立準備書類』によっても明らかな如く、一部市内在住者および市内に身寄りのある学生以外は寄宿舎に収容できるよう、十月二十一日の開校式に先立ち、その準備を完了した。上遠野富之助の「私の学生時代」という思い出話の一節に、その時分の舎監は門馬尚経という人で、東北の生れで相当政治的経歴のあった人のように聞いたと記している(『早稲田学報』第三九五号二三頁)が、『明治二十九年度東京専門学校年報』の旧職員欄によれば、初代の舎長は谷清瀬であり、十七年四月まで勤務している。しかし開舎当初の舎生の管理監督には、恐らく高田、天野などもこれに当っていたのであったろう。殊に高田や田原は大隈別荘内に仮寓していたから、寄宿舎とは指呼の間にあるのみか、幹部級の講師達は、講義の準備に、教務の処理に、それこそ寸時の暇もなく講師室に籠城していたろうから、宿舎の情勢は手に取るように感得されたことと思う。従って舎長ならずとも、十分監督できたのであった。

 しかし、十四、五歳の少年から、三十の峠を越えた、いわゆる壮士連を包括する学寮では、詩歌放吟はもとよりのこと、時に抗論放談に喧噪を極めたのもやむを得なかった。そこで専任舎長制を採用し、これに気骨ある勇士を配して、学生の指導育成はもとよりのこと、時には調停、慰撫、叱責、諭告等の処置を採らしめていたのだが、舎長の交替は頻々として行われ、後には副舎長またはそれに相当するものを設けて、これを補佐せしめ、或いは予科新設に際しては、少年を分離して特定の宿舎を定め、少年舎長を置く等の処置を講じなければならなかったのである。東京専門学校時代二十年間において、舎長就任者総数は、第十六表に見られるように十七名、その中で全期間併任者二名を除けば、在職期間は、川上淳一郎の二ヵ月を最短とし、田中唯一郎の通算五年九ヵ月(ただし、うち二年二ヵ月は併任)を最長とし、平均一年三ヵ月余りであった。

 三十三年の「職務章程」では、その第三章に、寄宿舎長について左の如く定められている。

第一条 本校に寄宿舎長一名を置き、校長の指揮に従ひ舎生を管理せしむ。

第二条 舎長は、校長之を任命す。

但し、特に講師中より嘱託することあるべし。

第三条 舎長の任期は三ケ年とす。

但し、任期中と雖も、校長之を解任することあるべし。

第四条 副舎長一名を置き、舎長之を推薦し、校長の認諾を経るものとす。

第五条 副舎長は、舎長を補佐するものとす。

第六条 寄宿舎に関する一切の事務は、舎長之を専掌す。

第七条、第八条(略)

第九条 本校体育長は、寄宿舎長兼任するものとす。

第十条、第十一条(略)

第十二条 寄宿舎商議員若干名を嘱託し、舎長の協議に与らしむ。

(『早稲田学報』明治三十三年二月発行第三六号「早稲田記事」 六七|六八頁)

第十六表 東京専門学校寄宿舎舎長等一覧

舎長

副舎長

少年舎長

六 早稲田倶楽部

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 明治十六年五月二十七日、講師教員学生合同懇親会が飛鳥山で挙行され、参加者二百名、「或投玉、或奪旒。」(『留客斎日記』)と記録されているが、翌年には春季大運動会に発展した。部名や会名を持つ運動団体が起ったのは日清戦争後のことであるけれども、その先駆をなした運動団体早稲田倶楽部の創設は、寄宿生活と密接な関係があり、当時の学生の気風を反映したものであった。

 柏原文太郎(二十六年英語政治科卒)の回顧録によると、「当時学生の中には以前県会議員をやつて来た者等もあり、東京に遊びに来てゐるといふ風があつて、一度校門を出ると紳士だか学生だか解らない風体をして歩いてをつた。一方似非豪傑が跋扈して乱暴を働き、寄宿舎の学生等も風規が余りよくなかつた。そこで私は之等の風習を撓すには撃剣、柔道その他の運動を盛んにするに限ると考へたので、寄宿舎を中心として早稲田倶楽部といふ一つの運動の団体を作つた。」という(『早稲田学報』第三九九号三一頁)。

 体育・徳育を主目的とする新倶楽部結成の発議は、二十八年三月二十四日の寄宿舎会議でなされたものであり、それを承けて、四月二十日には、「寄宿舎生文武兼修ノ主旨ヲ履修スルヲ目的トシ、早稲田倶楽部ヲ組織シ、大隈英麿ヲ部長トシ、此日発会式ヲ挙」げた旨、『早稲田大学沿革略』第一の同日の項に記載されている。この日午後一時より校内で挙行された早稲田倶楽部発会式については、同年五月発行の『中央時論』第十二号「早稲田記事」中の「早稲田倶楽部生る」と題する一文に詳細が記録されている。すなわち、これを言い出したのは寄宿舎生一同で、都下数万の学生の気風が頽廃しているのを慨歎し、体育を盛んにし、併せて士気を鼓舞しようとするものであった。従って、本校寄宿舎の風紀刷新のみではなく、それ以上に大きな目的があったのである。発会式の設立趣旨説明にも勿論このことを謳い、「文武兼備の必要、体育の忽にすべからざる事、講師、学生の交誼を厚うすべき事」等を挙げ、それを実践するため、「遊技種目」として、撃剣、相撲、テニス、ベースボールを列挙し、毎日昼食夕食後、日曜日、土曜日の午後等を遊技時間として、各自好みの種目を選んで運動を試み、また部員全体で遠足を行い、毎月茶話会を開いて部員の親睦を図ることにしている。これに続いて次のような規約案の説明があって、原案通り決議し、同時に部長その他の委員も提案通り承認された。

早稲田倶楽部規約

名称

本部ヲ名ケテ早稲田倶楽部ト云フ。

組織

部員ヲ分ツテ普通部員及特別賛成部員トス。

普通部員ハ東京専門学校寄宿舎生ヲ以テ組織ス。

特別賛成部員ハ本校ニ縁故アル士ヲ以テ組織ス。

本部ニ部長一名、委員長一名、委員八名ヲ置ク。

目的

体育ヲ盛ニシ徳義ノ実践躬行ヲ重ンズ。

決議事項

一、会費トシテ毎月金五銭部員ヨリ徴収ス。

一、遊技具ハ、寄付金ヲ以テ之ヲ購フ。

一、本校寄宿生トナルモノハ、当然部員トナルノ権利義務ヲ有ス。

一、倶楽部ノ活動ハ、委員ニ於テ取扱フモノトス。

部長委員

部長 大隈英麿 委員長 田中唯一郎

委員 渡辺久太郎 桑門典 遠藤隆夫 渋谷桃治

並木幾弥 松沢知司 関戸寅松 桑田豊蔵

特別賛成部員(此他漸次入部するもの多し)

鳩山和夫 高田早苗 天野為之 坪内雄蔵 井上辰九郎 大西祝

織田万 高根義人 今井鉄太郎 尾崎行雄 犬養毅 小山愛治

(六〇―六一頁)

 こうして議事が終了すると、特別賛成部員に名を列ねた尾崎行雄が「健全なる心身」という演題で一時間有余の講演を行い、その後、部員自らが土を担いで築き上げた土俵上で、相撲に勝負を競い、またテニス、撃剣、ベースボール等の競技を楽しみ、終ってのち、来賓と部員が茶菓を共にして散会した。この日の来賓は、大隈英麿をはじめ尾崎行雄、高根義人、大西祝、小山愛治、田中唯一郎塩沢昌貞、細野繁荘、山下覚次郎、増田義一、谷和一郎、その他十数名であった。翌年の『明治二十九年度東京専門学校年報』には、「昨年四月ヨリ舎生ノ体育徳行ヲ進捗セシムル機関トシテ早稲田倶楽部ヲ設ケ、或ハ遠足会ヲ催フシ或ハ茶話会ヲ開キ、講師校友常二之レニ臨ムデ有益ノ談論ヲナシ、其効果月ヲ経ルニ従ヒ益々顕著ナルニ至レリ。」(二六頁)とあり、逐次発展を遂げていった。

 その後に、道場建設に対して進言し、建築資金調達のため名士を訪問し、整備拡充に尽力したのが柏原であり、前掲の回顧録に彼は言う。

兎に角かうした運動団体が出来たので、私は学校当局に不取敢剣道柔道の道場を造つて貰ひ度いと提言したが、学校ではさなきだに乱暴書生に、此上道場等を建て、武術を仕込まれた日にはとてもかなはないといふて私の言を取上げて呉れない。然し今の学生の風習を矯正するには運動に限るといふ事を極力説いて、終いには学校で金を出して呉れないでもいいから学校内に道場だけを建てさせて貰ふといふ許しを得た。此処に於て私は犬養毅、牟田口元学、中野武営その他四名だつたか、七名だつたか明瞭り覚えてゐないが、諸名士から寄附金を得て震災で崩れた旧大講堂のあつた所に道場が出来て、犬養さんが七徳堂と名けて呉れた。此道場は七百円許りで出来たのだが、何んでも寄附金を集めた時二百円程不足だつたので、再度犬養さんの所に頼みに行つてその不足を補つて貰つた。 (『早稲田学報』第三九九号 三二頁)

と。この時、多くの人々が道場建設に賛成し進んで寄附した。『早稲田大学沿革略』第一ならびに『早稲田学報』第二号(明治三十年四月発行一二二―一二三頁)の記録を通じて、道場設立の年表を作ってみると、次の通りである。

二十九年七月九日 早稲田倶楽部送別会の席上、評議員犬養毅の勧告により道場建設資金募集の件決定、監督を犬養に一任し、直ちに募金に着手。

二十九年十二月二日 道場落成式挙行。

三十年二月三日 体育部規定制定、三月一日より実施。

東京専門学校体育部規則

第一条 本校学生に完全なる身体の発育を得せしむるを目的とし、体育部を置く。

第二条 体育の方法は凡て左の如し。

一 郊外運動 一 器械体操 一 撃剣 一 柔術 一 弓術 一 テニス 一 ベース、ボール

第三条 郊外運動は、毎年春期一回之を行ひ、諸般競争遊嬉を為さしめ、優等者には賞を与ふ。撃剣、柔術は、一定の日時に教師に就き練習せしむ。其他は各部の委員の見込に依り適宜之を行ふ。

第四条 本部に部長一名、委員長一名及び委員若干名を置き、一切の事務を処理せしむ。部長は本校教職員中より推薦し、事務を総轄し、金銭の出納を監督せしむ。委員長は、部長之を定め、委員を統轄せしむ。委員は、各学科学生中より三名を選挙せしめ、各種の運動遊嬉を分掌せしむ。

第五条 部長及委員長の任期は一ケ年、委員は半ケ年とし、倶に再選することを得。

第六条 本部に委員会を置き、部長、委員長、及委員を以て之を組織す。委員会は、適宜之を開き、本部に関する一切の事項を評決し、本校の同意を得て之を施行す。

第七条 本校学生は総て体育費として毎月金五銭を納むべし。体育費の納付及怠納処分は、月謝と同一なるべし。

第八条 毎年春秋二回、部長収支の報告をなすべし。

付則

一 本規則は三月一日より実施す。

三十年二月二十五日 部長には市島謙吉、委員長には柏原文太郎其任に当り、学生中より秋山正一(邦政三)、長田瑛(英政二)、苅田喜一郎(行政三)、田端春造(文三)、鈴鹿直弥(訳読)、小山田淑助(英法三)、伊藤富蔵(邦政二)、山岸与四郎(法律二)、森了一(行政二)、秋山芳治(英語三)、大関誠一郎(行政一)、広田季吉(法律一)、菅井武雄(文一)を委員に選定。

三十年三月 体育部教師として、矢部寛恒(抜刀)、横山作次郎(柔術)、内藤高治(撃剣)を嘱任。

三十年三月十五日 道場「七徳館」開館。

三十年四月五日 道場規則を制定。

道場規則

第一条、武道の要は練心養気を専一と為すものなれば礼儀を正し修業すべし。 第二条、入場の際は必ず着袴すべし。 第三条、道場内に在りては静粛を旨とし、稽古の妨害となる挙動あるべからず。 第四条、稽古上法式其他凡て教師の命を守り専心に修業すべし。 第五条、稽古の終始は必ず礼を為すべし。 第六条、道具は凡て稽古前に能く破損の点を調べ使用すべし。 第七条、道具は凡て丁寧に用ゐ、使用後は取纏め元の如く始末すべし。但し、道具を破損したるときは場合に依りて弁償せしむることあるべし。 第八条、稽古中は稽古服を着用すべし。但し稽古着の下の「シャツ」又は袴の下「ズボン」及足袋を使用すべからず。 第九条、食事後一時間を経過せざれば稽古すべからず。 第十条、酒気を帯びて稽古すべからず。 第十一条、稽古其他に付質問等ある者は凡て委員に申出ずべし。

 道場の規模は、木造平屋建四間に七間の結構を有し、折半して撃剣、柔術の練習に当てられた。道場を「七徳館」と名付けたのは、柏原が記述しているように犬養毅で、「夫武禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和衆、豊財、云々、武有七徳」(『春秋左氏伝』宣公十二年楚注)によったものであろう。

 同年四月二十四日、倶楽部の茶話会が牛込清風亭で開かれた。また武術大会は十月二十一日午前八時から七徳館で開かれ、市島部長の開会の辞に引続き数番の柔道試合があった後、来賓として出席した高等師範学校長嘉納治五郎が特別講演を行った。その要旨は、「柔道は武術として研究する利益の外に、体育・知育の上に大きな利益を与えるから、処世上欠くべからざるものである。」と、その歴史を述べ、法則に照らして実演し、堂々一時間余に亘る長広舌を揮った。午餐後午後一時から試合を再開し、撃剣試合十数番を完了して午後三時過ぎ散会した(『早稲田学報』明治三十年十一月発行第九号六九頁)。

 倶楽部の趣旨の一つに、部員の親善を図るため遠足を行うことが盛られているが、これが実行された最初のものは、記録では三十一年十一月十二日、鎌倉へ一泊旅行を試みている。遠足が主たる目的であったから、鉄路の便を借りず、軽衣草鞋に身を固め、午前四時校門前を出発、一行五十人、健脚を利し九段、京橋を経て霊岸島に向う。ここから舟便によって浦賀に渡り、北上して横須賀を過ぎ、午後六時鎌倉八幡宮前の対鶴楼に旅装を解く。翌日直ちに江の島に赴く筈であったが、天皇陛下が西下される由を聞き、急遽予定を変更して鉄路大船に向い、奉送せんとした。しかし時既に遅く、既に発輦を見、「吾人が誠意は水泡に帰し終りぬ。」と痛歎せしめた。そこで歩を転じて江の島に遊び、終日風光釣魚を楽しみ、午後五時藤沢駅を発って品川経由新宿駅に下車して帰校した(『早稲田学報』明治三十一年十一月発行第二一号「早稲田記事」一四―一五頁)。

 以上は「早稲田倶楽部」創立後、二、三年間における活動状況を、その設立趣旨に従って概述したのであるが、これによって見ても、同倶楽部がその後において、分化し、組織化し、体系化された体育関係各部の成立を促したところのいわば母体となったことが明らかである。しかしこれらは学生各自の趣味や希望によって成り立ったもので、これに対し全校挙げて参加したものに運動会がある。全講師・全学生が、その技能の巧拙に拘らず青天の下に相集まり、技を競い、余興に趣向を凝らし、終日和気藹々と、互いに歓を共にした有様は、まさに眼前に髣髴たるものがある。この交歓は猫額の校庭で行われたのではなく、或いは飛鳥山の桜吹雪の下で、或いは江東墨陀園の緑風の下で、更に長駆しては、小金原(現在松戸と柏の中間、通称葛飾野)までも遠征した。運動会は、開校後二年目の春、飛鳥山に出掛けて行ったものがその始めであるというから、非常に古い歴史を持っていることになる。この時のことを第一回得業生山沢俊夫は、次のように書き留めている。

白い襯衣に色インキで種々に彩色をして着たのがあり、「阿世の徒を筆誅する筆」というて三問もある筆を担いだのがあり、「天下を蹂躙する鞋」といふ小旗を立てて五尺もある大鞋を背負ふたのもあり、賄夫までも大はずみで二丈もある熊手を拵へた。是れは如何なる訳かと聞くと、「大隈出」といふ意味だというて居つた。其の他大旗小旗幾旒となく連なり、其の旗面には慷慨悲憤の文字が記されてあつた。実に百鬼夜行、否昼行の有様であつた。斯様に甚しかつたので、やがて警察が干渉して以来不穏な扮装や不穏な旗章は差止める、又運動会には必ず学校当局者が生徒を引率せねばならぬといふ様な警察令を出した。

(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三三一頁)

 年に一回の、それも校外の大運動会に出掛けるのであるから、学生の間にもこれを機会に大いにデモってやろうという気持が、多分にあったことと思う。しかし何かにつけて本学苑を白眼視する官憲は、この行列さえ一種の政治運動と看做したのであろう。しかるに、実際行われた運動会は随分たわいのないもので、旗取、綱引、相撲、盲競走など、今日の幼稚園や小学校でやる種目を、大の男がワイワイ騒いで行ったものであった。勝者には出入りの書店や出版部から寄贈された賞品が与えられ、二、三回も一等を取った者は、重い書籍を何冊も抱えて帰るのに困ったという。余興には劇が上演されたこともあり、三十年頃、墨陀園の一隅に舞台を仮設し、少年坪内士行が剣舞を舞い、文科の学生が「ヴェニスの商人」を演じて喝采を博した。寄宿舎の賄に作らせた折詰を開き、一升瓶の栓を開けて盃をくみ交し、帰路は千鳥足の上機嫌で、稚気まさに愛すべきものがあったのだから、その筋はそう神経質に考える必要はなかったのだ。尤も酔った揚句に蛮勇を振うものもあったが、一般学生達の自覚と時代の潮流は野蛮な行為を置き去りにして、正常な方向に進んでいった。三十四年三月高等予科の授業が開始され、中学出のスポーツマンの入学者が多くなると、運動会改革の声が高まって来た。そこでこのため学生達の間に委員会が設けられ、穴八幡前の校地(現在の記念会堂所在地)で競技本位の運動会を開くことを提唱し、「そうなれば来観者もあって学校の宣伝にもなる。」として、高田学監に交渉したところ、「学校は運動会によって広告してもらわなくてよい。」と逆鱗に触れて引き下がる一幕もあった。しかし安部磯雄は学生の要望に応えて熱心に支持し、当局にたゆみなく交渉を続けたため、遂に三十五年の春、これが実現し、運動会の体質を変え、その品位を向上せしめるのに貢献するところ多大であった。